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越生町

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《 黒岩町囃子連 》

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天王様の様子
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黒岩町の囃子
TOP 囃子の流派は小田原囃子若狭流。明治25年に飯能市原町囃子連より伝承。 町内有志が飯能市原町まで出向き養蚕の手伝いをしながら伝授されたらしい。
 演目は、にんば、屋台、鎌倉、昇殿、四丁目、チャチャリコなどがあり、最近になり、 神田丸、しゃぎり、カンカン、昇殿くずしも加わったとされる。屋台は更に5つの曲で構成される。 「地」、「打ち込み」、「ナカアゲ」、「キザミ」、「オイキザミ」の5曲。この5曲を笛の合図によって 次々と切り替えていく。ひっかわせの時には「地」、「打ち込み」、「ナカアゲ」の3曲で構成するという。
 「キザミ」、「オイキザミ」は小さく刻むように叩く為、音量で他町区に負けてしまうという。 演奏自体も難しいため、ベテランでないと他町区の囃子に引き込まれやすいという。笛方が太鼓のメンバーを見て、 このメンバーなら大丈夫というとき以外は「キザミ」、「オイキザミ」は演奏しないとのこと。 小さく刻むのが「キザミ」、小さく刻みながら途中で打つのを止め、また刻むという変則的なのが 「オイキザミ」という曲である。「トーヒィーヤ」と掛け声をかけるのが「打ち込み」(この曲名は黒岩で名づけた物で その前は「チーヒャーチーヒャー」と呼んでいた)、 「地」は言わずもなが曲のベースとなる部分。それ以外が「ナカアゲ」という曲となる。
 昭和9年には同じ越生町の河原町に伝授(河原町に書類現存)。 昭和23年に坂戸市二丁目屋台囃子保存会に伝授した。

黒岩町の山車
山車前 山車後ろ
山車の詳細はコチラ
天井絵  山車は二重鉾、三つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台。前輪に舵が付く。 明治42年7月に熊谷市鎌倉町より当時の金額で125円にて購入。このときの感謝状も残されており、 それには八坂神社を越生神社と改称合祀したため祭典の附け祭りとして山車が必要になったとある。 越生町黒岩で購入されたのは明治42年となるが、製作されたのは明治27年と推定される。
 囃子台の天井絵に「明治閼逢敦?歳〜」とあり、太歳紀年法によって記された年号のため分かり辛いが、 閼逢(アッポウ)=甲、敦?(トンショウ)=午となり、明治甲午年のこととなる。 これは明治27年にあたる(以下文面は続くが現在調査中)。このことから明治27年に製作されたと推定されている。 この年に鎌倉町の山車として新調されたといわれているが。新調ではなく他から買い入れたという説もあるので 正確なところは不明。
車輪  各所の金具に「鎌」「宮本」の文字が見られ、前輪には「熊谷かじ■(■は解読不明、 左写真参照)」との刻印がある。恐らく熊谷の鍛冶屋、或いは棒屋の名称と思われる。そこで、この写真を手に 現地熊谷にて聞き込みを行った。運良く鎌倉区の山車の車輪を担当された棒屋さんに出会うことが出来た。 昭和30年頃まで棒屋を営まれ、鎌倉区の屋台の後輪の片側(3輪を3つ棒屋で分業した)を担当された 「熊昌」さんにお話を伺えたが、残念ながら見たことのない屋号とのこと。「熊昌」さんの先代が 明治28年のお生まれとのことなので、先代ならば何かご存知だったかもしれない(この件は今後も取材を 進めていくことに)。他にも大きく「宮本」の文字をあしらった後幕も残されていることなどから 熊谷の鎌倉町で新調された可能性が高そうだ。
 驚くべきは当時の前輪が、そのまま使用されている事だ(前の車輪部分のみ、前輪の取り付け部分、 後輪は後に新調されたものとのこと)。後輪は吉野鉄工にも勤めていた棒屋の棒銀さんに作り直してもらったという。 年代は不詳だが、昭和27年の川越まつり参加後と思われる。その他の外観も、ほぼ当時のままとの事。 改造しようかとの話もあったが先人が残してきた物だからと、現状のまま今に至っているとの事だった。 但し、それは外観のみで内部の骨組みは昭和22年に作り直したものだ。
 昭和20年頃に山車の骨組みの入っていた蔵(消防小屋の裏の火の見の倉庫)が火事で焼けてしまった。 不幸中の幸いで彫刻や幕、人形の頭、手足、車台の入っていた蔵は焼けなかったため、骨組みを復元新調する ことになった。作業にあったのは4代前が宮大工の奥富清太郎氏とご子息、奥富政雄氏の2名。 当然設計図など無かったので残された彫刻や幕等の寸法からサイズを割り出し、製作された。 部材の組み方なども記憶を頼りにほぼ同様に組み上げられた。材料は全て檜で、五大尊の御神木を切って 材料にした。このときの年代が囃子台と下鉾との境の梁に「昭和22年改造」と入れられている。また、 人形の胴体は焼けてしまったため、残った衣装から寸法を割り出し、上町の籠屋さんの長谷氏に修理を頼んだ。 長谷氏によれば、山車の人形は軽くするため、骨組みを木で作り、竹を割いたヒゴで肉付けを行ったという。 最初に作った物は少し大きくて山車に入らず、作り直したという。因みにポーズは変えていないとのことである。
木鼻  いつごろかは不詳だが、祭礼の際、曳き回し前に山車を会所前に飾り置きして置いた。当時は車通りがほとんど無く、 道にはみ出す形で置かれていた。そこへ地元の方、運転のトラックがバックしてきてぶつかってしまった。 ぶつかったのは2本出ている木鼻の右側(大太鼓側)で、頭が欠けてしまった。この部分も前述の奥富氏が 接木をして修理した。この木鼻の素材は米松の芯去り材で明治当時は橋の材料として多く輸入されていたものだという。
 昭和40〜50年代には地元、建具店で脇障子、火灯口が製作され、山車に追加される。 下高欄の腰折れ雪洞も地元建具店の製作。従来の雪洞が痛んできたので新調の話がでていた。 新聞に出ていた秩父夜祭の屋台の雪洞を見て「これだ」と思い、新聞の写真を参考に製作。下高欄まわりに設置された。 中高欄、上高欄は従来の雪洞の痛みの少ない物を選び、設置した。
 転倒防止策として山車後部腰幕裏に石の重しが載せられている。「明治45年」の年代が彫られたこの石材は、 現在の春日橋が昭和45年3月に新調されたとき、以前の橋の欄干に使われていたものが不要となり、 それを重石として載せられたもので明治45年は以前の春日橋の新調年代である。
 越生町では三つ車、二重鉾の山車は、この黒岩の山車しかない。ただし、電線や歩道橋などの関係で、 現在上段の鉾はいっぱいまで迫り上げていない。当然、川越の山車のように、いっぱいまで迫り上げられるように なっていたが、現在では途中までしか上げていない。上鉾を上下するオダマキなどの上下機構がないため、 鉾の上下に時間が掛かるため、曳きまわし中は電線、歩道橋を通過できる、現在の位置で固定される。 上鉾の幕もそのサイズに合わせた長さになっている。今は上鉾の幕は迫り上げた高さに合わせたサイズになっているが、 昔の幕は上鉾をいっぱいまで上げた高さに合わせたサイズだったので、途中までしか上げないようになってからは 上鉾の幕はたるんだまま使用されていた。それでも雪洞を外さないと歩道橋下は通過できないとの事。
前輪  また、三つ車は、川越などで多く見られる山車前部に大きく張り出した木鼻(轅)に後輪と ほぼ同等の前輪が装着される三つ車とは趣が異なり、囃子台の直下に後輪より小さな車輪がついている。 川越では方向を左右に向ける際には前輪を持ち上げ(または、引き摺り)左右にずらして方向を変えるのであるが、 この前輪は小さいため梶を切ることができる構造になっている。90度、真横に向けることも可能であり、 これにより廻り舞台ではない構造でありながら「ひっかわせ」の際には自由に方向を変えることができる。 思えば購入先である熊谷の現在の山車も三つ車で90度方向転換できる小さな前輪であった (但し、熊谷では囃子台より前に設置され、梶方がそこに座り三輪車の要領で方向を変えるという違いはあるが)。 とするとこの黒岩の山車の前輪は現在の熊谷の山車の前輪の方式の原型であったのであろうか?とも考えられる。 前輪とは切り離された形となった木鼻であるが、大きく前方に張り出し、独特の反りを持った形状をしている。 ここに前輪が付いていたとも考えられるが、反り具合からすると少々無理があるかと思える。
 山車後方へ目を向けると車体下部のやや後ろに楽屋への出入り口がある。下側から潜り込む形で楽屋へ出入りする。 この楽屋が特徴的で、通常、囃子台と楽屋は平らであるか、楽屋側が一段上がっていたりするが、 この黒岩の山車では楽屋側が囃子台より下に下がっている。歌舞伎などの奈落のような感じだ。踊り手が楽屋に戻る時、 誤って落ちそうで怖いが、実は大きな利点がある。人形を配する鉾型の山車の多くは楽屋内(下の鉾の中)に 人形を(二重鉾の場合、上の鉾も一緒に)納めることになり、楽屋内が非常に狭くなってしまう。 その点、黒岩の山車は上の高欄を下げ、人形を鉾内に納めても、楽屋が下に下がっているため、まだ人がいるスペースを 確保できるのだ。居住性(?)は極めて高いといえる。

素戔鳴尊(スサノオノミコト)の人形
素戔鳴尊 素戔鳴尊
人形の詳細はコチラ
 人形は素戔鳴尊(スサノオノミコト)で、身の丈が2.15mある。この人形は長い間、会所に飾り置きであったが、 昭和59年に修復し、山車に飾るようになった。最上段の高欄には 人形にちなんだヤマタノオロチ退治の彫刻(左右に4つずつ、計8つのヤマタノオロチを酔わせた 酒の入った壷の彫刻など)が見ることができる。
 また、地元の方の話によると、紀元2600年の祝いだったか、八高線開通の祝いだったか定かではないが、 その頃に人形を乗せたことがあったという。クランクを回してセビ(滑車)を使って人形を上下させる機構だった との話が伺えた。昭和22年の改造にあたった、奥富政雄氏によると、昭和20年代のこととの事。 昭和27年の写真では現在と同じくらいの高さになり、人形も見当たらないので、昭和27年以前か。 昭和22年から27年の間の記念行事ということから昭和25年の越生線電化記念が有力と思われる。
昭和22年の改造直後には、上鉾をいっぱいまであげ、上鉾の枠組みの下、四隅につっかえ棒を差し込み、 上鉾を固定し、その上に人力で人形を上げ、飾っていた。ところが、その方式では、力が必要で大変だということになり、 その際、セビ(滑車)を使って人形を上下させる機構を試しにつけてみたという。 これは地元大工さんの手によるものでオダマキのような方式で、1本の棒の両側に棒が×印に 差し込まれたクランクを廻すと人形が上下するような機構であったといわれる。 現在も山車の高欄に当時のものと思われる滑車が残されている。これならラクだろうと考案したが、 人形を上げるため綱を巻き上げている時に綱が外れて、オダマキが勢いよく回転して棒が 人に当たりそうになり危険であるため、その機構も外されてしまい、上鉾も電信線(電話線)に掛からない高さまで しか上がらないぐらいのつっかえ棒の長さになった。
 この話に関連するのだが、人形を収める、下鉾の直下の力桁に丸い穴があけられている。 位置からすると人形か高欄を上げ下げするオダマキの軸が通っていた可能性があるが、 ここに何があったか現在では知る人は残っておらず、謎のままである。

昭和26年の上野松坂屋での演奏
上野松坂屋  昭和26年には上野松坂屋にて囃子を演奏した。これは確か鉄道関係(恐らくは東武鉄道)からの依頼で 行われたことだという。松坂屋の屋上に設置された舞台にて森永製菓のコーラスの方々と交互に舞台に立ったという。 1日だけの出演であったが3〜4回演奏したとの事(越生の他町内もこの松坂屋に行ったといわれるが、 この日は黒岩のみであったというが、他町の話では仲町は囃子連としての組織ではなかったので不参加、 本町、上町、新宿の新囃子が人数も多かったので囃子を担当、黒岩、河原の旧囃子が踊りを担当したという話もある)。
※地元の方所有の写真をご提供いただきました。ご協力ありがとうございました。

昭和27年の市制記念川越まつりに参加
古写真  翌年の昭和27年10月15日に川越市の市制施行30周年記念行事に馬に山車を引かせ運び、 小仙波町の山車として祭りに参加したという。(この行事には近隣の町から山車が集まったらしい。 このときには15台の山車が出たとされているらしいので、その中の1台であったのであろうか。 川越では近隣から山車を借り、自町の山車として曳き回すことがある。)荷馬車で使われていた馬が、地元にいたので、 山車の木鼻にロープを掛けて馬に曳かせ、1日かけて曳いていった。山車は裸のままで飾りつけはせず、 幕や提灯などはトラックに載せて運んでいったという。この片道1日がかりで曳いていったため、 車軸が焼けてしまい数年後に交換することになってしまった。ベアリングが付いているわけではなかったので 長距離を曳いて焼けてしまった。すぐに交換する予算はなかったので数年後に地元の棒屋、棒銀で後輪と車軸を交換した。
 曳き回しでは小仙波町の頭(カシラ)が、「これは、いい山車だ。」ということで、 いままで通らない「ナンチ(南地?)」の芸者街の坂へ引っ張り込んだ。坂なので太鼓を叩くのに前のめりになって 叩いた。丁度、2階が山車の舞台ぐらいの高さになったので2階の芸者たちから手を振られたり拍手をされたので 踊り手は調子に乗って踊っていたら意気込み過ぎて舞台から落ちてしまった。 皆、心配したが、当の本人は山車の後ろから乗り込んできて、すぐに踊りだした。怪我はなく皆ほっとした。
※写真は昭和27年7月の天王様でのもの。ほぼこのままの状態で川越でも曳きまわされたようだ。 人形無しだったため、川越では「三輪の屋台だった」との認識であった。 この写真は地元の方所有の写真をご提供いただきました。ご協力ありがとうございました。

山車の前輪の心棒が折れた
前輪スリ板  黒岩の山車は前輪はスリ板が2枚合わさり、その中心に鉄製の心棒が入っており、これを中心に舵が切れるように なっている。昔はジャリ道だったので、差し込まれているだけの心棒や合わさっているだけのスリ板がパカパカと 隙間を空けたり閉じたりしながら曳いていた。ある時(まだ県道が舗装されていない頃の話というから昭和30年頃と いうが、)地元の太田屋の前で、前輪に大きめの石が挟まりひっかった。そのまま引っ張られたため、 いよいよスリ板が開いてきて「止めろ!」といったが間に合わず、心棒が折れ、前輪が外れ、前のめりになってしまった。 幸い黒岩の山車には大きな木鼻が付いていたので、そこが着地して横転はしなかった(上の木鼻の下側写真には当時、 着地した為についたと思われる「ささくれ」が残っている)。 けが人が出たが軽傷で済んだとの事である。これから曳いていこうという時だったので 地元棒屋の棒銀さんが吉野加治屋(吉野鉄工)まで心棒を持っていき、丁度、同じ太さの鉄棒があったので長さを調節し、 すぐ持っていって折れた心棒の変わりに差し込んだ。 その日はそのまま曳きまわしが続けられた。後日、前輪を支える部分の修理新調を行ったとされる、 心棒は現在も、その時の急造した心棒のまま使用されているという。

屋根方の転落
 年代は不明だが、上鉾の電線除けの係が電線除けの道具の下側にひっかってしまい上鉾が傾く くらい引っ張られてしまった。道具を放せばよかったのだが、そのまま下へ落ちてしまった。 下に居た人の肩に斜めに当たって落ちたので2人とも大きな怪我はなかった。

「宮本」の幕
   昭和30年ころの写真を調べていると「宮本」の印の入った幕が、切り取られ、 吊るされているように見えたため、この点もお聞きしてみた。これは、越生神社の本祭り (秋祭りのこと。秋祭りでは山車は曳かず、余興をやったり居囃子のみだった)で、居囃子をしていたところ、 打ち上げた花火の火が落ちてきて、舞台に飾っていた「宮本」の幕に燃え移ってしまった。 そのため、焼けた部分を切り離して、山車に吊っていたのだという。この幕自体は現存している。

2004. 6.19up

2009. 7.24改訂
2009.11.30改訂

※地元関係者の方々、地元研究家、K氏並びに越生町教育委員会様には、
多大な御協力、御指導頂きました。御礼申し上げます。

※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

黒岩囃子連
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