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坂戸市

《 二丁目囃子保存会(二葉会)》

二丁目の山車(屋台):平成15年撮影
山車(屋台)正面 山車(屋台)後ろ


囃子の流派は小田原囃子若狭流。旧囃子であるという。
昭和24年6月に越生町黒岩から伝授され、心和会を結成。二丁目町内に
住む囃子の愛好者23名が地元、永源寺の本堂(現在の釈迦堂)の廊下を借り、
4m程のもうそう竹に縄を巻き、一列に並んでそれを太鼓代わりに叩いて練習
したという。太鼓等、囃子道具を揃えるのに勝手が分からなかったので同じ
坂戸市の四丁目の囃子連に同行をお願いし二丁目の有志とともに東京浅草の
宮本卯之助商店へ行き道具を揃えた。早速その年の夏祭りに参加し演奏を行ったと
いう。この心和会発足以前の囃子の演奏についてだが、戦前戦後辺りは越生町黒岩の
囃子連が二丁目の山車(屋台)に乗って演奏していたといわれるが、それ以前に
ついては当HPでも現在調査中。調査の過程で川越市新宿町の囃子連(この二丁目の流派
である小田原囃子若狭流の系譜を辿ると必ず登場する。現在は新囃子になり流派が変って
しまったが以前は二丁目と同じ小田原囃子若狭流であったといわれる。)所有の
資料に坂戸市二丁目の記載があった。それによると明治42年7月30日と31日の
天王様に川越市新宿町の囃子連が出向き演奏したとある。その後は二丁目との
記載はないが、大正5年10月28日の坂戸町停車場開通式、大正6年7月25日の
坂戸町八坂神社祭典、大正7年7月14、15日の坂戸町天王様(八坂神社)、
大正9年7月14、15日の坂戸町八坂神社祭典、大正11年7月15日の坂戸町
八坂神社祭典と坂戸に演奏に出向いたとの記載があった。大正時代については町名が
記されていないので二丁目で演奏したかどうかは不明だが、少なくとも明治42年には
二丁目で演奏したらしい。この時、演奏されたのが新囃子であったか古囃子(旧囃子)
である小田原囃子若狭流であったかは新宿町の方でも不明であるというが、いずれに
せよ当時一般的であった、他地区の囃子連に依頼して囃子を演奏していたとみられる。
さて話を昭和に戻すが、心和会結成後の昭和30年代は自動車が増えだし山車(屋台)の
曳行が難しくなった。昭和40年に入るといよいよ山車(屋台)の曳行が出来なくなり
心和会の活動が休止されたという。しかし昭和48年、国道407号線が完成し、
坂戸市街地の交通事情が変化した(407号線に迂回させる事が出来るようになった)
ため、翌49年には山車(屋台)の曳行が可能となった。それにともない囃子連が復活。
会の名称も「二葉会」となり、現在に至っているとのことだった。
山車(屋台)は昭和御大典にあわせ、昭和3年に製作された。それ以前は川越の
江戸町から譲られた山車があったという。二重鉾の山車で最上段には弓を持ち腰掛けた姿
の鎮西八郎為朝の人形が飾られていたという。一丁目と二丁目で共有していたといわれ、
曳き回しも合同で行っていたらしい。大正天皇の即位祝賀でも曳きまわしたといわれる。
その後は町に電線が通り山車が通行できなくなったのと、老朽化のため山車が出せなくなっ
たという。現在の山車(屋台)は、この江戸町から譲られた山車の車輪に鉄輪をはめて
流用しその上に屋台を組んだとされる。(車台も流用されたという説もある。昭和御大典の
時の写真を見ると車輪と木鼻とよばれる車台の核となる木材は白木ではなく色が塗られて
いるように見える。囃子台より上の屋台部分は白木のままのようなので車台ごと流用された
と考えるのが自然か。)欄間にある彫刻は川越へ依頼し作られ、緞帳は東京に注文したと
いわれる。屋台部分の製作は宮大工の安西利一氏。その他、地元の人たちで手作りされた
とされる。かかった金額は当時の金額で400円といわれる。完成した山車(屋台)は
昭和3年11月の御大典記念に曳きだされたといわれる。さて鎮西八郎為朝の人形は
どうなったかというと、人形はしばらく一丁目と持ちまわりで会所に飾られたが、胴体や
衣装の傷みがひどくなり頭部と弓を残して焼却されたらしい。頭部と弓は現在も坂戸神社に
保管され、頭部は祭礼時に飾られている。(平成15年時点。)
2003.12.18up

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