タイトル

《 所沢市編 》

所沢市

重松流発祥の地として知られる所沢市の大きな祭礼は10月の「ところざわまつり」
です。山車の曳行が行われ、囃子の競演が見られます。市民祭りですので山車
以外にも、ライブや民謡、ダンスによさこい、サンバカーニバルも行われます。
また、毎年、祭りは日曜日の1日のみ、10台の山車の曳きまわしですが、5年に
一度は市制記念行事となり、祭りは2日間、新井町、有楽町を加えた12台の山車が
曳き回されます。祭りでは、各所でヒッカワセも行われ、見所は尽きません。

「ヒッカワセ」(写真左)・「山車の前を行くサンバカーニバル」(写真右)
ヒッカワセ 宵山

掲載した以外にもまだまだ囃子連があります。順次掲載する予定です。

重松流に関する詳しい情報は、こちらのHPからも得られます。 いろいろ御協力頂いております。
蘇れ!伝承音楽 重松流祭囃子 元町東囃子連

所沢市の囃子連

※表記順は数字優先のアイウエオ順です。
※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

《 旭町太鼓連 》
アサヒチョウタイコレン
旭町
囃子の流派は重松流。
重松流の創始者、古谷重松氏の甥である、古谷伊之助氏の二男、古谷吉之助氏
が当町に在住しており、氏より伝授された。また、古谷吉之助氏が初代会長と
なり「重松流祭囃子保存会」が発足。所沢の重松流の統一が図られた。昔は旭町と
日吉町は同じ地区であったが、昭和の初め頃、地区が分かれ、その際、持っていた
山車は日吉町へ、道具類は旭町へと受け継がれたという。明治42年の祭礼で
日吉町、旭町から「花篭」の花車が曳き出されたという資料があるが、その山車が
日吉町へ受け継がれた山車と同一かどうかは不明。現山車は昭和3年に
地元大工、鈴木鉄蔵氏の作とされる。(諸説あり、戦後の作とも言われる。)
起破風(ムクリハフ)付きの屋根を持つ屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。

《 新井町囃子連 》
アライチョウハヤシレン
新井町
囃子の流派は重松流。
囃子の開始時期、伝承経路は不詳。明治7年には囃子があったという。
大正時代には東京都青梅市の本町に依頼され囃子を奉納したとされる。
戦前には御幸町の山車に乗ったこともあった。戦時中は中断したが、
戦後すぐに復活し現在に至っている。雨乞い山車と呼ばれる山車(屋台)は
明治16年に鈴木三蔵の作とされ、彫刻は甲田了作の手によるという。
当時は守留を持つ山車であったが、人形はなかったという。戦後、
市制記念の時に組み立て、牛車に載せて曳き回したという。そこから
少しずつ手を加えて現在の形になった。唐破風付きの屋根を持つ
屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。
詳細はこちら。

《 荒幡囃子連 》
アラハタハヤシレン
荒幡
囃子の流派は重松流。
明治時代から重松流の囃子があったとされる。戦後中断。昭和50年頃に
立川から移り住んだ方から立川に伝わる重松流を伝授され復活。平成になって
所沢の重松流にならい、囃子に変化があったという。トラックの荷台に
屋台を乗せ、地区内を廻る。ところざわまつりでは、居囃子を行った。
※写真はところざわまつりでの居囃子。

《 牛沼囃子連 》
ウシヌマハヤシレン
牛沼
囃子の流派は重松流。
伝承経路は不明。明治頃に発足ではないかといわれる。戦時中も続き、
同市、寿町の山車には戦前から昭和30年頃まで乗っていたという。
昔は山車があったが、現在は神楽殿での演奏となる。地元、長安寺の
山門に当時の山車の部品が使われているといわれる。

《 北秋津囃子連 》
キタアキツハヤシレン
北秋津
囃子の流派は重松流。
明治43年に同市、宮本町から伝授された。戦中も途絶えず続き、
終戦後には元の囃子にアレンジを加えたという。以前は御幸町、
有楽町の山車へ乗ったこともあった。山車(屋台)は、昭和56年に
地元の方の手作りで、寄付してもらったのだという。曳き回す道幅が
狭いところが多いので軽トラックを改造して作られたとのこと。

《 北野神明組囃子連 》
キタノシンメイグミハヤシレン
北野神明組
囃子の流派は重松流。
重松流の囃子を習う前から囃子はあったと伝わっている。重松流は明治15年頃、
古谷重松と、石畑の伝承者から伝わったといわれる。そのためか、所沢市内の
重松流より、瑞穂町や多摩方面の重松流の囃子に近いという。現在は神楽殿で
演奏しているが、以前は掛け屋台を境内に組んで居囃子をしたという。古くは
近隣の広谷へ囃子を伝えたという口伝があるが、文書などは残されていない。

《 金山町囃子連 》
カナヤマチョウハヤシレン
金山町
囃子の流派は重松流。
大正10年頃に久米より伝授。このときは鈴木流の囃子であった。
昭和50年頃に重松流の囃子を旭町から伝授された。山車(屋台)は
昭和55年に町内の宮大工、本橋吉蔵氏の作。唐破風付きの屋根を持つ
屋台型の山車で、4つ車、前輪に梶が付く。正面の破風下に提灯掛けが
付き、楽屋側面に唐破風が付いているのが特徴。側面唐破風上の彫刻は
神社に残されていた古い彫刻を流用した。その他の彫刻は八田直吉氏の作。
この山車(屋台)の前に明治20年頃の作といわれる山車(屋台)があった
という。明治42年の祭礼には「金太郎」の人形を乗せた花車が曳き出された
との資料もあるので、年代的にはこの花車が現山車の前の山車かと思われる。

《 糀谷囃子連 》
コウジヤハヤシレン
糀谷
囃子の流派は重松流。
明治頃には囃子があったとされる。戦後に衰退するが昭和の終わり頃、
同市金山町の知人に指導を頼んだところ、快諾。金山町の囃子を伝授され
現在にいたる。祭礼では、トラックに櫓を組んだトラック屋台に乗り、
演奏しながら地区内を神輿と共に廻る。

《 寿町囃子連 》
コトブキチョウハヤシレン
寿町
囃子の流派は重松流。
大正中期に町内有志が囃子を始めたという。昭和12年頃には旭町からも
伝授を受けた。 昭和21年〜25年頃は、町内の囃子連だけでは手が足りず、
同市、牛沼からスケバチを頼んだ。現在の山車(屋台)は昭和23年に
旧山車の台車部分を中心に彫刻や一部部材を流用し、製作された。唐破風付きの
屋根を持つ、屋台型の山車で4つ車。前輪には梶が付く。製作にあたったのは
吉沢宗吉氏、田中武氏。旧山車は明治末期頃に購入されたもので、神武天皇の
人形の乗った鉾型の人形山車であったとされ、この旧山車の部品を売って
新山車の資金にしたとの事。

《 下安松囃子連 》
シモヤスマツハヤシレン
下安松
囃子の流派は重松流。
明治18年頃に古谷重松から伝授された。戦前は盛んであったが、
戦後は何十年も途絶えた。若い衆が先輩から習い、昭和35年から
40年頃に保存会を作った。昔は同市、有楽町の山車に乗っていた
とされ、先輩方の時代に、有楽町に囃子を伝授したという。南秋津へも
囃子を伝授した。演奏は、昔は掛け屋台だったが、今は神楽殿で行う。

《 下富囃子連 》
シモトメハヤシレン
下富
囃子の流派は重松流。
明治20年代の太鼓があったので明治期には囃子があったのではないかと
推測されている。また明治6年、入間市久保稲荷に古谷重松が奉納した絵馬には
「しもとめ」の名が記されており、この時には重松流が伝わっていたと見て
ほぼ間違いないだろう。昭和に入り、戦中は中断。昭和21年に地元の先輩がた
から若衆が伝授を受けた。その後長い間中断していたが、昭和50年頃に復活。
山車(屋台)は明治20年頃に久米新田の大工、西海千代吉氏の作とされる。
照り破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で4つ車、前輪に梶が付く。屋根は格子状に
組まれた木枠に油障子を貼る。普段はバラされ、仕舞われている。

《 西所沢囃子連 》
ニシトコロザワハヤシレン
西所沢
囃子の流派は重松流。
昭和25年に同市本町から伝授。戦前は北秋津から囃子連に来てもらって
囃子を奉納していた。現在の山車(屋台)は平成10年に、着工し、
平成12年に完成。川越の新富町2丁目の山車も手掛けた高橋邑吉氏の作。
彫刻は北沢一京氏。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で4つ車。
前輪に梶が付く。旧山車は昭和23年に地元の北田茂吉氏により製作された
ものであった。形態は、現在と同じ屋台型の山車であったという。

《 日東囃子連 》
ニットウハヤシレン
日東
囃子の流派は重松流。
昭和20年代頃に囃子連は発足。囃子は、それ以前からあったとされるが
詳細は不明。日吉町と東町の合同のため日東と呼ばれる。山車(屋台)は
昭和30年に以前からあった山車の車台を利用し、車台から上を新調した。
明治42年の祭礼で日吉町、旭町から「花篭」の花車が曳き出されたという
資料があるが、以前からあった山車と同一の物かは不明。現山車は、唐破風付きの
屋根を持つ屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。製作にあたったのは二上良作氏、
井上薫氏、牧野正一氏、荒井喜一郎氏。彫刻師は八王子の八田直品氏。平成10年頃
からシチョウメクズシというオリジナル曲も演奏するようになったという。

《 林(神社)囃子連 》
ハヤシハヤシレン
林
囃子の流派は重松流ジョイント囃子と称しているという。
江戸時代には神田囃子を奉納していたが、明治中期頃になって東京都瑞穂町
から囃子を伝授される。戦争で中断の後、氏子の若手が囃子の復活をと、
昭和22年に入間市上藤沢から重松流の囃子を伝授された。段物を得意として
おり、オリジナルのものも日々、研究している。演奏自体にも当地オリジナルの
手が加えられており、「ジョイント囃子」と称している。山車(屋台)は
平成3年に飯能市双柳より譲渡された。唐破風付きの屋根を持つ
屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。
詳細はこちら。

《 星の宮囃子連 》
ホシノミヤハヤシレン
星の宮
囃子の流派は重松流。
昭和52年に重松流祭囃子保存会より伝授。
山車(屋台)は昭和57年に本橋吉蔵氏の作。
唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。

《 本町囃子連 》
ホンチョウハヤシレン
元町本町
囃子の流派は重松流。
大正5年頃に同市、仲町(現元町東)より伝授。昭和23年頃には西所沢に
囃子を伝授した。他町の重松流とは違った叩き方が行わる事でも知られる。太鼓の
カラミ、チラシといった即興的な演奏が展開され、同じ演奏が二度と出来ない事も
多いという。山車(屋台)は明治5年に入間川(現狭山市)の甲田了作氏により
製作された。本町で新調されたものか、他を経由して本町に渡ったものかは不明だが、
明治31年の函書きがあり、この頃には本町にあったと思われる。また、当初は
屋台型の山車の屋根の上に一本柱を立て、その上に加藤清正の人形を乗せていたという。
人形の作者は原舟月。現在では柱、高欄とも現存していないが加藤清正の首だけが
残されている。車台がトラック改造のものに交換され、囃子台前に梶代わりの
ハンドルが付いているのも特徴。

《 宮本町囃子連 》
ミヤモトチョウハヤシレン
宮本町
囃子の流派は重松流。
天保年間の銘が入った鉦があることから、その頃には囃子があったのでは?との事。
大正初期には下安松からも伝授される。北秋津へは宮本町から囃子を伝授した。
山車(屋台)は昭和25か30年頃に、それまであった旧山車の部材を用いて製作。
作者は青山与助氏。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で4つ車。前輪に梶が付く。
この山車(屋台)以前の山車は飛行場開港記念(明治44年)に曳くため、
明治42年に作られたとされる二重鉾、三輪の江戸型山車で人形は「新田義貞」。
その後、昭和御大典の時に三つ車から四つ車に改造された。いつの頃からか
人形、上鉾は乗せ無くなってしまい、昭和初期は単層鉾での曳きまわしであった。
昭和25年の市制施行記念か憲法発布記念の曳きまわしでは、地元人形店が中心となり町内の人達で
金太郎の人形を作り単層鉾山車の上にのせた。その金太郎の人形も今では残っていない。
詳細はこちら。

《 御幸町囃子連 》
ミユキチョウハヤシレン
御幸町
囃子の流派は重松流。
大正初期に古谷伊之助氏より伝授。下安松からも伝授を受けている。
以前は南秋津、北秋津からスケバチに来てもらっていた事もあった。
山車は東京都瑞穂町石畑下組より明治43年に購入。石畑も何処かから
この山車を購入したとされるが場所は不明。制作は明治6年9月に
高橋稲吉氏、□村力蔵氏(※破風裏の墨書。□は読めず)の手によると
推測される。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車の屋根上に一本柱の
盛留を立て、最上部に「関羽と周倉(伝、張飛)」の人形を配する。
4つ車で前輪に梶が付く。人形は原舟月の作。平成17年、荒木社寺設計に
より修繕が完了した。昔は砂川村から山車を借りていたとされ、明治42年の
祭礼では「二人立素戔尊」の花車が曳き出されたという資料から砂川村
一番組の山車を借りたものと思われる。山車、人形とも市指定有形文化財。

《 元町東囃子連 》
モトマチヒガシハヤシレン
元町東
囃子の流派は重松流。
戦前は囃子連がなかったので、東京都東村山市西宿の囃子連に頼んで
演奏してもらっていた。町内には昭和22年頃に東村山市西宿から
囃子を伝授。昭和42年には旭町からも伝授される。山車(屋台)は
現在のものは昭和3年の作で青山伊助氏の作。彫刻は八王子の佐藤光重の作。
廻り舞台が採用され、四つ車で前輪に梶が付く、その前は三重高欄の大きな
鉾型人形山車で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の人形を乗せていた。
現在でも盛留め人形、上中高欄、四方幕が保存されている。現在の山車(屋台)
が出来るときに解体されたという。それより以前の明治42年の祭礼では、
「獅子」の花車が曳きだされたとの資料がある。現山車は市指定有形文化財。
詳細はこちら。

《 山口囃子連 》
ヤマグチハヤシレン
山口
囃子の流派は重松流。
以前は山口二区太鼓保存会を名乗った。明治に始まったとされ、昭和初期
には途絶えてしまった。昭和20年代に復活するも、昭和30年代頃に
再び途絶えたという。現在の囃子連は、平成5年頃に役鼓連(所沢市役所の囃子連)
から習い、復活した。メンバーに役鼓連に所属していた方がいらした関係で
習うことになった。演奏は中氷川神社の神楽殿で行う。宮本町、北秋津とは
交流が深く、祭礼ごとに行き来があり、スケバチをする。

《 有楽町太鼓連 》
ユウラクチョウタイコレン
有楽町
囃子の流派は重松流。
昭和3年頃に同市、和田(下安松)より伝授。伝授される前は、この和田(下安松)
の囃子連に山車に乗ってもらっていた。山車(屋台)は明治初期頃に砂川村7番
(現立川市)で製作されたものを大正10年11月に有楽町在住の深井伝右衛門氏が
購入。その後町内へ寄付された。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車であるが、
屋根に一本柱を立てるための穴が空けられており、往時は屋根上に一本柱を立て、
盛留を配したであろうと推測される。現在は人形、盛留とも現存していない。彫刻師は
下野宇都宮の住人、後藤徳蔵藤原信吉。精巧な彫刻が随所にみられる。平成12年に
改修され、現在に至る。この山車以前の、明治42年の祭礼では「三種の神祇」の花車が
曳き出されたという資料がある。また現山車は市指定有形文化財となっている。

もどる