「昌造」(2000.5)

 

伊勢 真一


桜が散る、散り終えたと思うころ雨が降る。
鋪道にベタベタと花びらがこびりついている。
クツでけとばす、とれない、もう一度けとばす・・・・

戸井昌造さんが亡くなられた。

昌造さんと言うより、私のまわりの仲間は、 昌造 と呼び捨てにしていた。
親の世代の敬愛すべき人物であるにもかかわらず、みんな 昌造 昌造 と呼んでいた。

昌造と花見をしたことがある。映画「奈緒ちゃん」の応援団の最長老にして、熱烈な支援者だった昌造に、12年間撮り続けた映画に登場する桜を見てもらいたいと思って、数人の仲間と奈緒ちゃん一家か昌造を交えて、小さな公園の小さな桜の樹の下でささやかな宴を共にした。

昌造に映画のタイトルを描いてもらった。
桜の樹を撮影するのがこの上なく好きだったカメラマン、故瀬川順一さんを描いた作品 「ルーペ」だ。力強いタイトルだった。瀬川さんの愛唱歌で、何度となく聞かされた 「みなしごの歌」は、昌造の愛唱歌でもあった。1930年代のソビエト映画「人生案内」の主題歌で、とてもいい歌だ・・・眼をつむると聞こえてくるようだ。
たしか、描いてもらったタイトルのギャラは、出世払いということだった。
出世なんかしようもない私のことを知ってるくせに。

私が映画を完成させると、試写会に駆けつけてくれた。ひとくさり論評を加えたあと、 必ず応援団をかって出てくれた。映画「えんとこ」の時には、百人を超す戸井昌造シンパに推薦の手紙を書いてくれた。

世話に成りっぱなしだった・・・

送る会(葬儀)の場で、息子の戸井十月さんにそう言ったら、 「親父はきっと見てるよ。いい仕事しような・・・」と、逆にはげまされてしまった。

もう昌造はいない。恩返しなんて殊勝なことは出来るはずがないし、面と向かって礼の ひとつも言ったことがない。
いつまでもいてくれるとばかり思い込んでいた。
いつでも、ふいに人はいなくなる。

仕事の日常にもどって、地下鉄のプラットホームで電車を待っていたら、昌造のあの声がどこからともなく聴こえてきた。あの歌声だった。

戸井昌造さんは、77才の誕生日の次の日に旅立った。

画家で、書家で、語り部で、
秩父事件研究の第一人者で、反戦の志を持ち続けたヒューマニストで、
沖縄が好きで、若い女の子が好きで、
でっかい眼とでっかい声の持ち主で、 おしゃれで、けっこうかっこよくて、
何よりも優しく楽しい奴で、

昌造の年若い友達のひとりであることが、ちょっと自慢だった・・・

雨の日が続きます。
いつまでもグズグズしている性分の私は、しばらく昌造のことを思う堂々めぐりから 逃れられないと思う。
濡れた足元を引きずりながら、世話になりっぱなしだった自分を悔います。

昌造、戸井昌造・・・