「余震のただ中で」というタイトルで、昨年3月以降、東北の被災地に通いながら
ノートにメモをするように書いてきたつぶやきを読み返してみた…
ロクなことはつぶやいていないけど。
完成した映画『傍(かたわら)〜3月11日からの旅〜』のパンフレットを、
その「余震のただ中で」を中心に、大学ノートのような装丁で創った。
『傍(かたわら)』を観てくれた方々の感想と映画の完成台本も盛りこまれ、
なかなか読みがいのあるパンフレットになったと自画自賛している。
冒頭に、手書きの読みづらい字の文章を「ワカラナイ」というタイトルで入れた。
『傍(かたわら)』という映画をまとめた張本人が、最初から、
俺はワカッテいない「ワカラナイ」と開き直っているのだ。
わかろうとしていないのではない、「ワカラナイ」のだ。
今回の東日本大震災を巡るあれこれをしっかりと語り切ることができない、ということだ。
3月11日、新聞もテレビもマスメディアは大騒ぎで「3.11から一年」を報道していた。
マスメディアはいつも自信たっぷりに見える。
「ワカッテマスヨ」と言ってるように思えてならないのは、私自身が
「ワカッテナイ」からコンプレックスでそう思うのだろうか…
3月10日・11日、私は伊勢市、金沢市、東京・半蔵門と、出来上がったばかりの新作『傍(かたわら)』と共に、
駆け足で上映の旅をしてきた。
そして上映後のトークを、いつものように自信のない口調でしゃべってきた。「ワカッテナイ」のだから仕方ないか。
どの会場にも予想を超える人々が集まり、真剣に映画を観て、話しを聞いてくれた。
この度の震災のこと、原発の問題を詳しく知り、考えるのだったら
家に居て、新聞やテレビを観た方が『傍(かたわら)』を観るよりも断然、タメになるだろうに…
その日、会場に足を運んでくれた少なからぬ人々は、どんな思いで観に来てくれたのだろう?
もしかしたら私や仲間たちが、行かないわけには行かないと思って被災地に向かい、
カメラとマイクを持ち、ともかく、そこに佇もうと思ったのと同じような気持ちを持ってくれていたのかもしれない。
ただ、“わかろう”とするのではなく、“身を寄せて”みたかったのではないだろうか…
『傍(かたわら)』は、映画が終わるとただ黙って怒ったような顔をして会場を去って行く人が必ずいる。
気の弱い私は、映画を気に入らなかったのか、と思ったりもするのだが、
私達が被災地へ入ったときに抱いた「言葉を失う」ような気持ちに近いものを
感じているのではないだろうか?
そんな風にも思う。
わかったふうな言葉や意味ではなく、思わずのみこんでしまう言葉や、
空気のようなものが伝わっているのではないだろうか?
そうにちがいない。
マスメディアとは大違いで、ミニシアターや自主上映の会場では一回上映して
せいぜい100人に満たない人々にしか観てもらえないけど、
ほんのちょっとでも、私達が佇んだ被災地の被災者の空気のようなものが伝わったとしたら、
創ってよかった、ということだ。
負け惜しみでなく、そう思う。
そのことには自信を持とう。
“身を寄せて”みること、傍にいること…
映画『傍(かたわら)』はまだ上映が始ったばかりだ。
東京をはじめ、まだ上映が決まっていない地域のほうが圧倒的に多い。
何とか観てほしいと思っているので、私の『傍(かたわら)』への思いに共感する方々に
ぜひ力になってほしい、上映を実現してほしいと思う。
よろしくお願いします。
【自主上映のお問合せ・パンフレット『傍(かたわら)』については、いせフィルムまで。】