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第87話 しぼんだ心 まろやかな心

 出来の悪い私に、上司も部下もたくさんの仕事を持ち込んでくれる。定時に終わるはずもなく、帰宅は夜11時過ぎ、午前様になる事もめずらしくない。会社のために全てをなげうつ覚悟なんか毛頭ないが、怒られるのはいやである。体力がない分、なんとか気力で走る。だから、どこかで抜かないと長続きしない。

 それを一挙に取り戻すかのように、の〜んびりになる時間がある。パートナーの実家に行った時である。

「着替えて楽にしてください。」
 働き者でめっきり皺の増えてしまったお義母さんの、笑顔の一言から全てが始まる。お言葉に甘えて、楽にしているのだが、
「本当に楽にしてね」
と、念を押される。体が固いせいだと思うが、どうも楽にしているように見えないらしい。得なのか損なのかは、よく分からない。
 お茶を飲みながら、近況報告などをしているうちに夕食の時間。歓迎の料理が食卓に並ぶ。刺身、肉、煮物、サラダ、ケーキと、とりどりの料理がところ狭しと並ぶ。

 こうしたごちそうも楽しみではあるが、実はもう一つ楽しみがある。それは、一見厳格な「感じ」のするお義父さんが、笑みを浮かべながら勧めてくれるお酒である。
 実のところ、お酒はあまり飲めない。すぐに顔にでる方で、ビール1本も飲めば、顔は真っ赤。量が入らない分、良いお酒をちょっと飲みたい、という感じである。
 お義父さんのところには、時々良いお酒がおいてある。これも縁なのだろう、私の年ほども寝かせたバランタインだとか、値段が一桁上の高粱(コウリャン)酒という独得の風味のある中国酒など。そんなもの、どこで買えるかすらもよく分からない。
 こういったお酒は、口当たりや香りが良いので、ついつい聞こし召してしまう。他にも、お義父さん特製カクテルをごちそうして貰ったりと、けっこう楽しんでいるうちに、飲み過ぎてしまうことしばしば。アルコールが入ると、人間普段と違う面が出たり、普段の性格がより強く出たりする。聞くところによると、普段やってはいけない、やりすぎてはいけないと自制する機能をつかさどる脳の部分が、アルコールで麻痺してしまうのだとか。泣き上戸の人は、しらふの時には泣いてはいけないと自制している、という事らしい。
 で、私はというと、つい、寝てしまう。普段、働かなくては、寝てはいけないと、自分を抑えている部分が、ペロンとゆるんでしまうのだろう。

 すぐに限界が近づく。お義父さんお義母さんには大変失礼ながら、先にお風呂を頂くが、これもまた危ない。お風呂で寝てしまうのである。時々、パートナーや子供が見回りに来ては、
「やっぱり。寝てるぞ!」
と、起こしてくれる。良くできた家族である。溺死せずに済んでいるのだから、命の恩人と言えるかも知れない。
 お風呂からあがる。限界。沈没。

 翌日はやや二日酔い。寝坊させてもらう。誰も起こしに来ない。良くできた家族である。
 二日酔いの気だるい身体。気だるい気持ち。気だるい空気。心を任せる。天気の良い日。風に揺れる木々の音。鳥の音。虫の音。雨の日。トタンに落ちる雨垂れの音。風の音。雨の音。車の音もしない。人の声もしない。遠くの山の音か。まるで子供の頃に時間が戻ったような錯覚。ゆっくりとした空気の流れ。ゆっくりした時間の流れ。ゆっくりとした気持ちの流れ。しぼんだ心が、水を吸って、空気を吸って、膨らんでいく。やわらかい時間、やわらかい空間がそこにある。

 寝に来たようなものだ、と言われる時がある。その通りかも知れない。よく寝たお酒がまろやかになるように、心をまろやかにする時間なのだと思っている。

パートナーのひとこと

 帰り、運転してよ?

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