2015年 宣教
 今年もよろしくお願いします。
いつものように、牧師の著作権を放棄します。
伝道のためになれば、勝手に引用ください。
ただし数字等は確かめて使ってください。
 説教ですので、裏を取らずに
覚えで使っていることもあります。
  説教の中の引用も、そのままの引用
でないこともあり、思想引用の時もありますので、
私を信用しないで、裏をとって、注意して使ってくださいね。
 また「てにをは」は、間違いが多いです。時間と能力のため
訂正していません。これは学術論文でないから、済みません。
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   黙示録22章18〜22節             2015年12月27日
                   「 来てください 」       ー年最終礼拝ー
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日の命を感謝し、今日示された主の御言葉に聞きつ
つ、1週間の罪の悔い改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞いていきます。
 本日は、いよいよ2015年の最後の礼拝となりました。ここまでの導きと守りをただ
ただ主に感謝あるのみです。週報の巻頭言に書きましたが、毎年いつもいろいろある
のですが、今年はまた一段といろいろありました。ここで繰り返しても、しょうがな
いですが、なんと言っても、幼稚園が、幼保連携型の認定子ども園の幼稚園として出
発した年になったこと、また中山では小羊児童クラブ、昔の学童保育今は放課後児童
クラブが始まったことです。今児童クラブは、休みに入って通常保育が7名になって
います。現時点で来年は14名スタート予定です。それにバプテスマが高橋芽生姉と山
下文広兄の2名、召天された方が3名でありました。是枝武二兄、有馬了兄、南国子
姉です。特に南姉妹の召天は未だに、いろいろな問いを与えられています。
 教会は毎年いろいろなことが起こるのですが、それにしても昨年は、時期が重なっ
たものであります。どれもまだ順調にはほど遠いのですが、色々な方の支援を受けて、
なんとかここまで来ました。どうか、続けてお祈りください。

 聖書は年の終わりということで、聖書のいろいろな終わりから聞いて行きました。
年末の1番多いのは詩編150編と思います。又はイザヤの終わりとか、パウロのおの
おのの手紙の終わりからも聞いてきました。しかし今回は新約聖書の終わり黙示録の
最後から聞いていきましょう。黙示録22章は新しい天と新しい地の様子を語り、イエ
ス様の再臨を宣言して終わっています。黙示録は最初から最後まで世の終わりのある
こと、世の終わりにはイエス様が又来てくださること、つまり再臨を語っています。
そして、18節からはいよいよ最後の証になっています。
 しかし聞かれたことがあるかもしれませんが、黙示録はプロテスタント教会では特
に宗教改革の先達の中には、全く無視されてきたところがあります。ルターは、黙示
録に行いの強調「しるされたことを守る者は幸いなり」1:3とか信仰を行わないものへ
の呪い、また裁きがあるのを見て、ここにはイエス様がおられない、つまり福音がな
いと語ったそうです。カルバンはあれほど聖書を大切にして、聖書の創世記から詩編
そして新約聖書の全ての書の注解書を書きました。しかし黙示録だけは書きませんで
した。理由はいろいろ言われていますが、初めから終わりまで幻と夢とで書かれたこ
の黙示録は、カルバンにとってどうしようも無かったのでないかと言われています。
 しかし黙示録の書かれた事情は、1章9節にあるとおり長老ヨハネはパトモス島に捕
らえられて幽閉されております。1世紀の後半にはローマ皇帝礼拝をしないキリスト
教は、すでに大迫害が始まり掛けておりました。アジア州にある7つの教会を念頭に手
紙を書いているのですが、もう普通の言葉は検閲があって書くことはできません。黙
示文学という信仰のない普通のローマの官憲が読んでも意味がわからない、馬鹿げた手紙
と判断されないと獄屋から出すことはできません。日本には黙示文学というのはない
と言われています。しかし旧約聖書ではダニエル書やゼカリア書に少しその片鱗があ
ります。ヨハネは旧約聖書のダニエル書やゼカリヤ書の黙示文学の力を借りて、黙示
録という表現方法で7つの教会に手紙を書き、これが黙示録となったと言われていま
す。
 そして、確かに福音書やパウロの手紙になじみのある私たちには、ここには福音が
ないように見えます。イエス様の教えや恵みや愛が見えないのです。しかし私たちは
この黙示録に聞くことができます。ルターもまた散々黙示録には苦労するのですが、
黙示録には、信仰による迫害を受ける者への「慰めと警告」を聞くとができる、とし
たと言わています。
 私達もまた同じでないかと思います。聖書から神さまの歴史支配を聞いています。
読んでいます。しかし実際には、今年は特にクリスマスの説教から平和をテーマにし
て語りました。平和の希求される時代です。テロやシリアの難民に、自称イスラム国
の動きに象徴さるのは、力には力の政治です。恐怖には恐怖への政治です。また他に
どんな方法があるのかと問われれば、私達も何も解決を出すことはできません。この
時、本当に十字架だ愛だと言っても、全く役にたたないかのようです。そんなことは、
絵に描いた餅のようであります。しかしなお、私たちはイエス様に召されて、信じて
立たされた以上、それ以外の立つところがありません。
 まさに1900年前の黙示録を読むアジア州にある7つの教会の人々と余り変わらな
い状況かもしれません。黙示録もまた著者の長老ヨハネは、すでに刑務所にあり、刑
務所からの手紙でしか7つの教会を励ますことができません。長老ヨハネは7つの教
会に行くことはできません。つまり見ることすでに会うこともできないのです。しか
しそれでも「主イエス様は又来られる」という一点において、励まし、慰め、やって
くる迫害の準備と警告をなすのです。

 18節には「この書物の預言の言葉を聞く全ての者に、私は証する」と書いています。
長老ヨハネが最後にできるのは証のみです。わたし達もまた同じです。イエス様を信
じる者ができることは、イエス様の証であります。そしてバプテスマのヨハネがした
ように、その証の方法は、イエス様を指さすということです。すでに聞かれたと思い
ますが、証ということばは、それが名詞として用いられると「殉教者」と同じ意味に
なります。つまり証とは、結局自分の身をもって、イエス様を示すということになり
ます。イエス様を信じますと言う時には「聖書の言葉は正しいです、1+1=2ですね。」
ということではありません。信じることは、その信仰に生きることになるのです。「聖
書は全て正しいです。良いことが書いてあります」と言うのであれば、その一部でも
その一言でも、自分で実践することが証です。「聖書は本当に素晴らしい、聖書は真理
である」と言っていながら、聖書を信ぜず、聖書を行わないなら、それは言っている
ことに成りません。つまり証にならないのです。
 聖書の言葉を行うことができるのか。パウロやルターは真剣に取り組みました。そ
して結論は、人間にはできない。ただ聖霊を受けて、神さまの恵みの力によってでき
るのみとしたのです。だから聖書を行うためには、祈りが必要なのです。祈り無しに
は聖書の実践はできません。さらに、聖書を行えない時、聖書を生きられない時はど
うなるか。聖書は罪の赦しを宣言します。私たちが自分の罪を悔いて、イエス様に来
るとき、いつでもどこからでも再出発ができるのです。
 証ができなかった時、私たちは主にその罪を告白し、赦して頂く、又再出発するの
みです。自分で取り繕ったり、穴埋めしようとしても、無理なのです。もちろん自分
でできる法的な違反は、償いや賠償が必要です。自分の責任はしなければなりません。
しかし基本は、神さまに任せなさいと主イエスは言われるのです。しかしできないこ
ととやろうとしないことは違います。できなくても、挑戦して行きます。そして、で
きるできないにかかわらず、主に委ねて歩みます。
 長老ヨハネが語る「証する」は、キリスト者の人生を一口でいえば、証ですという
ことでしょう。そしてそれはある方向をもっています。証は闇雲にどこでも誰でもで
はないと思います。それはイエス様がなさったように、悪霊追放であり、病気の癒し
であり、神の国の宣言でした。ここには、この世への奉仕という方向があります。世
に仕えるという方向があります。その方向に、証をしていくのだと思います。私たち
は順境の時も、逆境の時も、イエス様の恵みを受けて、世への奉仕の方向の証をして
いくのです。

 次に長老ヨハネは、同害報復と言われることを宣言します。「これに付け加えるもの
があれば、この書物にある災いを加える。19節、この預言の言葉から何か取り去る者
があれば、神はこの書に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り
除く」とあります。このようないい方は、申命記4章2節に「あなたがたは私の命じ
る言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」とあります。また申命
記13章1節にも「これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」と言われ
ています。これは、神の言葉の権威を示すことばであると言われています。
 ちょうど11月の最後の祈祷会の学びはエレミヤ書42章でありました。ここにはエ
ルサレムの人々が、第2次バビロン捕囚を受けて、どうにもならなくなり、エレミヤ
に預言を頼みます。つまり神の御心を聞いてくださいと頼むのです。42章6節です。
「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主のみ声に従
います。」といいました。10日目に、エレミヤに神の言葉がくだります。そして「エ
ジプトに下ってはならない」という預言の宣言が言われるのです。するとエルサレム
の住民達は、前の言葉を翻すのです。43章2節です「あなたの言っていることは偽り
だ。我々の神である主は、あなたを遣わしていない」。エルサレムの人々はまさに私た
ちなのです。
 「主よ御心を示してください。あなたの言葉を与えてください」と一生懸命祈り、
願うのです。そして答えが来ました。たとえば「それを受けなさい、それをしなさい。
じっとしていなさい。」であります。すると私たちは、神の言葉を打ち消し、削り、変
形を加えるのです。「いいやこれは受けられません。それは御心でないと思います。い
いえこれは致しません。それは私の賜物でないからです。いいえじっとしておれませ
ん、私は動かないといけないのです」といった具合です。そして見事に、同害報復を
受けるのです。

 しかし私たちはそれ以外に何ができるのでありましょうか。それは主から言われた
通り、主が示された通りにできればいいです。しかし元々の私たちは、それができな
いのです。いつも主の言葉に何か付け加え、主の言葉をどこか削除してしか生きられ
ないのです。自分は主の示し通りに動いている、主の示し通りに止まっているという
方はどのくらいあるのでしょうか。もしあるとすれば、失礼かもですが、たぶん霊的
に鈍感な方でありましょう。しかし、結論からいうと私たちは前進するしかないので
ありましょう。いえいえそれはあなたの御心でありませんとして、主の言葉に足した
り、主の言葉を削ったりの人生なのであります。
 そしてエレミヤ書にあるエレサレムの人々は、エレミヤからエジプトに行くなと言
われたのに、行くのであります。「止まれ」と言われたのに「動く」のです。「行くな」
との主の言葉を削除し、「エジプトへ行け」という言葉をたしました。赤信号皆で渡れ
ば怖くない、なのです。そしてエレミアの言う通りにエジプトに下った多くのエルサ
レムの住民達は、剣と疫病と飢饉で死ぬのです。しかししかし、なんと主は44章14
節に「少数の難を免れたものを除けば、誰も帰ることができない」と言われました。
つまりここに残り者を残し、少数のものは帰ることができるとしておられるのです。
何か、ここには、クリスマスの時に読まれるイザヤ11章1節「エッサイの株から一つ
の芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育つ」を連想します。
 実はイスラエルもまた、大元は切り倒されましたが、また残りの株からのものが主
に立ち帰って帰ってくるのです。エレミア書では、本国のものでなくて、バビロンに
捕囚された者が、立ち帰り新しいイスラエルになりました。そしてこれもまたローマ
帝国によって切り倒され、次の若枝がイエス様でありました。このような歴史は繰り
返されていくようです。日本もまた、第2次対戦の敗戦で、憲法9条を持ちました。
よく考えると実現不可能の本当に夢のような理想です。しかし理想を失うとき、土台
が崩れて、また同じ事になるのです。

 20節に長老ヨハネは「しかり私はすぐに来る」と告げます。これは、おそらく第1
コリントの手紙の最後16章22節の「マラナ・タ」これはアラム語つまりイエス様時
代のパレスチナで話されていた言葉であると言われています。それをそのままギリシ
ャ語に訳したと言われています。書いてあるようにマラナ・タは「主よ、来てくださ
い」となります。これはアーメンと同じように、土地を越え、時代を超えて、アラム
語が使われない所でも、遣われる礼拝用語になっていたとされます。つまり迫害の中
での励ましの言葉は「アーメン、マラナタ」であったのです。
 「マラナタ、主よ、来てください。」そして21節の「主イエスの恵み」これが、迫
害の中の教会を支えた言葉でありました。「主よ、来てください」の祈りは、なかなか
祈られない祈りになっています。忘れられた祈りです。しかし反対からいうとそれは
私たちが主に忘れられているということかも知れません。「主よ、来てください」が忘
れられ、祈られない時、それは教会への警告になるのでしょう。私たちは本物の主の
弟子であるのかです。私たちはイエス様の心を心としているのかです。
 2015年を終わりますが、私たちは最後の言葉として、恵みによって「主よ、来てく
ださい」の祈りを忘れないように示さされます。マラナ・タ(主よ来てください)と
祈る事を示されます。この祈りから離れないことを祈ります。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。2015年が終わります。多くの事が起こ
った年でありました。4月に始まるこども園のめぐみ幼稚園も中山児童クラブもまだ
どこも悪戦苦闘です。しかしその中にあって、主の導きと守りを祈ります。この世は
段々平和が無くなります。テロが横行し、難民が増え、力が力を呼びます。しかしイ
エス様は来られました。十字架の主は来られました。力で力を倒す道の終わりを宣言
されました。どうかそこに生かしてください。病気療養の方支えてください。いつも
祈るM姉、H姉、A兄、K兄、M兄支えてください。ご高齢で一人暮らし
の方守ってください。O姉、Y姉、K姉、H姉、K姉、S姉守ってくだ
さい。地震の避難生活の方守ってください。口の良部島の方は非難解除となり戻られ
ています。感謝です。生活をお守りください。テロの被害者と難民の方守ってくださ
い。幼稚園と小羊クラブは冬休みの保育に入ります。守ってください。お正月に守りを
おいてください。御名によって祈ります。アーメン。」

   2015年12月24日     イブ礼拝       ヨハネ伝1:14
 「神は言葉となって、私たちの間に宿られた。私達はその栄光をみた」
 クリスマスおめでとうございます。今夕は、クリスマスを覚えて、主に赦されて今日の命を与
えられ、クリスマス・イブ礼拝ができますこと感謝致します。1年を振り返りつつ、また主の
御降誕を覚えて、しばらく時を御言葉に聞きたいと思います。
 クリスマスは、皆さんご存知の通りに、御子イエスさまの生まれた事を記念し、お祝いす
ることです。それは神の御子のお誕生です。今年のクリスマスは特にフランスのテロ事件
があり、シリアの難民の続出、さらに口の良部島に象徴される火山の噴火と、世の平
和・平安を求める事件が相次ぎました。この観点からクリスマスを見ると、クリスマスは端的
に平和の到来、愛の誕生ともいえるでしょう。つまり平和の祭りといえるでしょう。私達
は平和と愛の誕生であるクリスマスを、毎年必ず祝わなければならないのです。
 なぜならば、私たちはこの世の多くのことで、すぐに絶望し、意気消沈し、平和では
なくて、力に対して力を用い、知恵に対して知恵で戦うしかないとしてしまうからです。
そして私たちのこの世の人生は、もし力が力で争い、知恵が知恵で争うならば、トド
のつまり両方の死で終わらざるを得ません。私たちはこの世の出来事をみると本
質的に、戦いと絶望の中にあることから逃げられません。
 しかしクリスマスは、戦いと絶望しかないこの世にもたらされた揺るぎない平和と愛
です。平和の光、愛の光の到来をクリスマスは、祝うのです。どこから、その平和と愛
の光は、もたらされるのでしょうか?それはこの世からではありませんでした。私
達の中に平和があり、私たちから希望や愛が生まれて来るのではありません。
人間がもたらす平和と愛は限界があります。それは私たちの歴史を顧みればすぐ
に分かることです。人の力による平和は、ことごとく崩れ、人の力による愛と平和は、
長く続かないのです。しかし神さまのもたらす平和と愛は、この世から私たちからで
なく、永遠なる神の元から、私たちの外から出てきて、私たちに与えられ私たち
を生かしていく平和と愛の光なのです。これは受け容れることができれば、永遠
のものです。
 この世から出てきたものは、時間とともにすべて形を迎え、滅び、無くなり、死
んでいきます。この世から出てきて作られたものはテレビ・メディアに象徴される通り、
本物でないのです。私たちははかない力、誉れ・名声を追い続けて生きています。あ
る人はお金であり、ある人は名声であり、ある人は学歴や学問であります。しかし
それらの欲が満たされ、手に入れるとたちまち色あせてしまいます。人間には慣れ
というのがあってどんな珍しいのものも、素晴らしいものも、そうでなくなります。濃
い酒、肥えた肉、激辛いもの、激甘いものは、すぐに慣れて又次の新しいものを求
めさせます。どんなに素晴らしい体験も、慣れて日常になっていくのです。そして他
人と自分とを比べては、少しでも優っていれば喜び、劣っていれば悲しみます。
 しかし永遠の時を思い、死を思えば、全ては蝸牛(かぎゅう・かたつむり)の戦い
です。中国の荘子は、昔ある国と国との戦争を蝸牛(カタツムリの右の目と左の目
が喧嘩したたとえを語り諫めたとあります。虚しいのです。そして、私たちはこの世
の死で終わってしまう人生しか知らないので、私たちの人生が虚しく絶望の中にあ
ることすら気づかず分からずにいます。目に見える範囲が人生の全部だと思い、
見える部分で競争して、見える部分で競いあって、実は見えない永遠に繋がり、
本当に限りのある一度の人生を過ごしてしまうことがあります。
 聖書は、イエスさまは神の子として、この世に来てくださったと語ります。私たち
のところに宿ってくださったと語ります。そしてその最後は十字架の死でありました
。神の御子が死に至るまで私たちと同じ姿になられました。つまり神の御子が苦
しみ死ぬことを負い、神のみ子は、実際に苦しみ死ぬことをしてくださいました。そ
して聖書は、イエス様の死を、神さまのはっきりとした私たち人間への愛を示して
くださったと証拠と証とするのです。
 本日の聖書の御言葉の後半には「私達はその栄光を見た」とあります。続いて
「それは父のひとり子としての栄光であった。」とあります。イエス様が来られたこ
と、イエス様がなされることが、父の子としての栄光である、と聖書はいいます。
イエス様が、わたした達のところに宿り、来て十字架にかけられた。しかしそれ
は神の栄光であるのです。ここにヨハネ伝は、神の栄光を見るのです。栄光と
は普通は、人からみて華々しく、誰からも認められ、賞賛されることであると考え
ます。しかし聖書は、神の栄光を、喜びの反対である悲惨で痛々しいイエス様の
十字架の姿に見るのです。
 先週の主日は、祝会がおわり、午後6時から中山伝道所のクリスマス夕礼拝でし
た。ここで子供達がおりますので、お話しをタレントさんの魚くんの話をしました
。頭に魚の帽子をかぶってギョギョギョと言って出てくるあのタレントさんです。本
名は「宮沢正之」40歳さんでテレビ・ドキュメントをしていました。あの方は、日本
海洋大学特任準教授です。実は小学・中学・高校と勉強はさっぱりできません
でした。でも小学3年生の時、最初にタコを見て、これはすごいとタコばかり書い
ていました。その次にお魚が好きになり、お魚やさんにで掛けては魚の絵を描き、
お母さんが買ってくれた魚の図鑑ばかり見て、お魚ばかり書いて勉
強はしませんでした。でもお母さんはちゃんと魚君を見ていてました。どんなに
先生が「お母さん、さかな君に勉強させてください。このままでは大変なことに
なります」といっても、お母さんは「あの子が魚を調べ、魚を書くことが好きな
のです。それをあの子からとってはいけません」と言って、さかな君が魚を書
き、魚を飼育することを、とことん支えました。
 お金の続く限り高い水槽を買って上げて支えました。また作る料理は魚料
理ばかりでした。なんとタコが好きな魚君のために、2週間タコ料理を造り
続けたそうです。そしてとうとう中学2年の時、専門家もできないあの有名な
カブトガニの卵の産卵と孵化を成功させたのです。とうとうこれが、一芸の入
試にかかり、魚の博士・準教授になる道を開いたのです。私はこのテレビを
みてすごいな、このお母さんは、イエス様のような人だなと思いました。この
子は魚が好きだとわかったら、最後まで有り金全部はたいて、その賜物を、
とことん支えるのです。

 実は中山伝道所ではここまでの話だったのです。しかしテレビはなぜ魚君
のお母さんがそこまでして、魚君を支えたのかの話しの続きをしてくれまし
た。それはお母さんが小学、中学、高校と若いとき、ダンサーを目指し練習
したのです。高校を卒業する時にダンスの専門学校を受けようと努力に努力
を重ねました。しかし、お父さんお母さんにどんなに何回も何回も頼んでも、
赦してくれなかったのです。今はもちろん小学生のダンス大会はどこでも行
われ、鹿児島にもダンス教室があります。我がめぐみ幼稚園子もダンス教室
に行っている子がいます。しかし40年前は無理だったのです。ダンスをする
子、ダンスをする人は不良の代表選手だったのです。
 お母さんは、その時誓うのです。自分は小さい時、自分の好きなことがで
きなかった。しかし絶対自分の子にはどんなことがあっても、好きな道を全う
させてあげよう、と決心したのです。つまりあのぎょぎょぎょの魚君には十字
架があるのです。お母さんの十字架があるのです。だから、魚君が全然成
績が上がらず、小学校の先生、中学校の先生に「頼むから勉強させてくだ
さい、そうしないと大変なことになりますよ」と言われても、魚君の興味・趣味
を徹底して守ったのです。

 もちろんイエス様の十字架と魚君のお母さんの十字架は全く違うのです。
しかしなんと重なりのあることでしょう。イエス様の到来つまりイエス様の十
字架が神さまの栄光なのです。イエス様の十字架において神さまの平安と
愛がしめされたのです。もはや私たちは、自分の力を誇示する生き方をしな
くていいのです。力には力だ、知恵には知恵だ、でなくて、静かに恵みと真
理を求めていいのです。その時十字架を負ったようであっても、またそれは
用いられるのです。自分の十字架を負うてイエス様の後を歩むのです。「言
葉は神となって、私たちの所に宿られた。」クリスマス、神の御子の誕生が起
こりました。事実起こりました。主は我らの所にいてくださいました。何があ
ってもいらいらしないでください。煩わしいことに巻き込まれる時、主はそ
のことを通して祝福しようとされているのです。このことを信じることが、私
たちに赦されています。メリークリスマス。クリスマスおめでとうございます。
 
 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。主は来てくださいました。主は
生まれてくださいました。主は共にあることを、人となることで示してくださ
いました。主はすべてを通して、十字架を通して私たちを導く神様です。私
たちの罪を越えて、私たちの罪を許すために愛し、来てくださいました。今
一度、イエスさまご降誕を心に迎え、どんな時にも導かれる主の祝福を受
けるものとしてください。主イエス様にあって生きるものとしてください。み名
によって祈ります。アーメン」
   ルカ伝2章8〜21節             2015年12月20日
                   「 恐れるな 」       クリスマス礼拝
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日の命を感謝し、今日示された主の御言葉に聞きつ
つ、1週間の罪の悔い改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞いていきます。
 クリスマスおめでとうございます。本日は礼拝堂に4本のろうそくが点けられ、クリスマス礼
拝となります。24日(木)がイブ礼拝をなし、25日(金)のクリスマスを迎えます。25日
はまた中山の小羊会のクリスマスもあります。昨日は、幼稚園のクリスマス会がありました。昨
日、教会の庭・園庭には幼稚園のクリスマス関係者・保護者会、食事作りの教会の女性会、
ワックスかけの壮年会、さらにそしてゴスペルフラの練習の方と4つの集会がかさなりすごい
混雑となり、多くの準備の方にご迷惑がかかりました。本当に大変な中、ご準備とお
支えを感謝いたします。

 さてクリスマス礼拝の本日は、通称羊飼いの告知とされるところから聞いていきます。こ
こは昨日も子供達がクリスマスページェントをしてくれました1場面です。いつも必ず笑いが起
こる場面の所です。それは羊役の園児がやはり子供ですので、演技の途中でつい立っ
てしまうのです。「羊が立っている」と昨日も大笑いになったところです。羊飼いへの
天使の告知は、実は東の国の博士への告知と同じメッセージの上にあります。それは東の
国の博士、占星術者も羊飼い達も、イスラエルの人々から言えば、どちらもさげすみの対象
であったのです。なぜ東の国の占星術者・博士達がさげすみの対象かと思われるかも
しれません。実は聖書では、占星術をなすものは死刑である。つまり神の意思を神さ
まを通り越して、星に見いだし、それをもって人生の意味を占い方針を決めることは、
神さまを無視する大罪となります。ですから死刑であり、イスラエルでは本来占星術は行わ
れてならないのです。そして羊飼いは、なぜ人々のさげすみの対象であるのか。本来
羊飼いはイスラエルの基幹産業でありました。羊肉・マトンを生産し、また羊の乳を生産し
ました。また羊毛を生産しました。食べ物と着る物という人間でもっとも必要なもの
が、羊飼いの肩に掛かっていたのです。ですからイスラエルの歴史では、王様の中に羊飼い
出身者がいました。一番有名なのは、ダビデ王様でした。
 しかしこのように生活に必要であり、基幹産業としても大切であり、王様を排出し
た階層である。しかしイエス様時代の当時、大事にされないのです。これもまたよく
あることでありました。今もまた本当に必要な職業が3Kとされます。つまり汚い、
きつい、危険とされる仕事が敬遠されます。建築・土木業の方々です。また幼稚園の
保護者会クリスマスで話しましたが、9Kと言うのがあります。汚い、きつい、危険に、次
に過酷、休暇取れない、給料安い、帰れない、婚期遅れる、化粧のらないと6Kが足
されます。お分かりですか。実はそうです。これは看護師・介護士さんなのです。最
も大事なこれらの方がいないと安心して暮らせない、大変なことになる仕事なのに9K
とされ、なかなかなる方が少なく、続かない職業と言われます。でも看護婦さんがい
ないとおちおち病気もできません。イエス様時代、羊飼い達はまさにこれでありまし
た。本当はイスラエルにとって大切で必要かくべからざる仕事ですが、人々からは馬鹿にさ
れ蔑まれ成る人がいない。成っても続かないと言った具合でした。しかしまさに主は、
この人々に最初に現れる。つまりイエス様の誕生の最初の証人とされるのです。では、
聖書から見ていきます。

 8,9節にあるように、羊飼いはいつもの通りの夜景、夜勤をしておりました。当時羊
は盗まれたり、野獣に襲われたりしました。羊飼いの夜景・夜勤はいつもの仕事、い
つものことであったとされます。しかしそこに天使が現れるのです。実は13節に「突
然」とあります。13節のこの時は、ある意味で突然讃美し出したということです。し
かし9節もまた書いてありませんが、「突然」があると思います。いつもの通りのいつ
ものこと、平々凡々の仕事であり、何も特別なことがないところ。しかしそこに神さ
まとの出会いが待っているのです。私たちは神さまとの出会いは、何か特別の事であ
り、特別の時間が流れ、特別の体験をすると思いがちです。いろいろな宗教では、修
業があります。しかしことプロテスタント・キリスト教私たちのバプテストでは修業
がまず全くありません。
 神の啓示、神との出会いは、日常の中にいつもの毎日の雑用の中にあります。この
世を離れて山奥に行くことではなく、この世を立ち切り、特別な生活をすることでな
いのです。徹夜祈祷をなし、滝に打たれ、断食をなすことではない。まさに羊飼いの
ように、生活のまっただ中に主は突然現れ、声をかけ、そこで神さまに出会いなさい
と言われるのです。というか、そこで出会ってくださる神さまが本物です。日々の生
活の中で聖書を読み、日々の生活の中で祈り、日々の生活の中で主の声を聞いていく
のです。特別な体験の中での特別な神さまの体験は、日常の体験の中で消えて行くの
です。日常に出会ってくださった神さまが本当の生きて働く神さまです。
 最近、キリスト教があまり進展せず、バプテスマを受ける方が少なくなり、お年寄
りばかりに成っていると言います。私たちもその通りと言わざるを得ません。時々、
ふっとイエス様の教えは、日本の風土に合うのであろうかと思う時があります。しか
し、この前第2テレビで、中国の16世紀の後半にできた『菜根譚』の話をしていまし
た。1つの言葉に感動しました。「人となりて何の高遠なる事業無くも、俗流を排脱し
うれば、すなわち名流にいらん」前集14節です。訳は「一角の人物になりたい思うな
ら、何か特別な事業を興した、なしたということではない。名利を求める俗情を払い
落とせばそれが、すでに名士なのである」と言います。なんだか羊飼い達の心境をこ
とを中国の詩人が代弁して歌っているように思えてなりません。

 11,12節に、天使達は神さまに出会うしるしを語ります。「これが神の子であるしる
しである」と言います。神さまと出会うしるしとは、なんと素晴らしいしるしかと思
います。ここに行けば必ず神さまと出会うことができるしるしです。旧約聖書に生き
る人々は、この神さまがここにおられるという場所を知っていました。聖書に親しん
でいる方は、すぐにそれは神殿であったとわかるでしょう。ソロモン王様が神殿を建
てたとき、神さまはソロモン王が立てた神殿を、私の足代とすると言われました。「私
はイスラエルの人々の中に住み、我民イスラエルを見捨てない」列王記上6章13節です。主は、
ここでの民の祈りを聞き、民はここで罪を告白する、そしてそれが真実であれば主は、
赦すと約束してくださったのです。
 しかしイエス様時代になりますと、イエス様が言われたように、神様に出会うしる
しの神殿は、強盗の巣になりました。祭司達と一部の律法学者は、神殿を金儲けの手
段としました。神殿の献金は神殿のお金、神殿シュケルのみであると勝手に決めまし
た。イスラエルの人々は、自分のお金を神殿シュケルに両替しないと礼拝できないのです。
そして、両替商人達はここに手数料を一杯いれて、たらふく儲けようとしたのです。
ここには神殿は金儲けの権益の巣窟となりました。人々はひたすら主なる神さまを信
じて、神殿に献げものをして、祈りを捧げました。しかしそれはひたすら祭司と一部
の両替商人の金儲けの手段に利用されたのです。
 主なる神さまの御子の誕生つまり神の誕生は、ある意味でこの神殿礼拝への大いな
る否、反対でもありました。主なる神さまは、ご自身でご自身の栄光を守られるので
す。主なる神様の神殿が金儲けの手段になってはならない。お金持ちが、そのまま神
様に祝福される宗教の仕組みはあってはならないのです。イエス様が真の神の御子の
誕生のしるしは、「飼い葉桶の赤ん坊である」お金とは無縁の事態になりました。これ
はある意味で当然だったのかもしれません。
 主なる神の子の誕生のしるしは、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんである。全く話し
にならないしるしです。王様以上の方、宇宙と天と地の造り主、私たちの造り主なる
神の御子、この誕生が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんである。全く人間に
は思いもつかない。全く想像することもできない方法です。余りにもバカバカしすぎ
るのです。もう少しましなことはないのかと言いたいです。
 もちろんインドの社会では路上で生まれる子供もあるそうです。路上で生まれて、
路上で死んでいく。マザー・テレサが活躍したところです。もしかして今のイラクや
イラクでは、同様の事が起こっているのかもしれません。しかし、これは異常事態で
す。通常のどんな貧しい世界であっても、普通は赤ちゃんとは、どんなに酷くても、
普通の人間の住む家に生まれるのです。生物でも同じです。空を飛ぶ鳥は、一番大事
な安全なところに巣を作り、雛を育てるのです。魚はほとんど生みっぱなしですがそ
れもでもある種の魚は卵から孵ってばかりの幼魚を育てる種があります。動物になる
と羊も山羊も、猫も犬でさえも、自分の子を産む時は自分の住む空間に最高の寝床を
準備して子を産むのです。幼稚園の兎もまたしかり。ちゃんと穴を掘って自分たち安
全を確保して子を産むのです。しかし神の御子は、人間の生きる空間でないところ、
家畜小屋で生まれてくださったのです。

 ここには、神の御子の誕生を受入ようとしない私たちの姿が示されています。私達
は神さまを受け容れず、拒絶する姿です。もともと人間は神さまが嫌いなのです。自
分が王であり、全ての事の決定者でないと気がすまないのです。主なる神さまが人間
を造られた時に、神さまに似せて創造されたとあります。人間には神さまに似せられ
た自由意思があるのです。しかしこれを神様を拒絶するために使ってしまうのです。
なんとも皮肉です。親に似せて作られた子が、その親に逆らうために親に似せられた
その最も大事な部分を使うのです。自分の空間に神さまを置かないのです。神さまの
空間は、自分の外に置くのです。
 しかし神さまの愛は、人間の拒絶を越えられます。人間のどうにもならない理由の
ない拒絶に関わりなく、来られるのです。人間がその場所を準備しないで、空間を作
らないのに、来られるのです。ある意味で人間の思いのその隙間に、ある意味で思い
もつかない場所に、気づかない所に、人々から無視され注目されない所に来てくださ
り、生まれるのです。ですからある意味で本当は、どんなに教会が少なくなり、信じ
る人が少なくなっても、それを気にしてはならないとも言えます。反対に私たちの国
がキリスト教国のようになっても、どこでもクリスチャンのいる国になっても、全く
安心してはいけないとも言えます。本当に大切なことは、私たちが神の国に向かい、
隣人を愛し、神さまを、心尽くし、思いを尽くし、力を尽くして信じて、行くかです。
心に常にイエス様を誕生させているのか、自分の心にイエス様のゆりかごをいつもも
っているかです。神さまの御心を示され、神の国の指針を示されるときに、それにい
つも応じる心があるのかです。

 クリスマスの近くになりますと突然の電話がかかり、ここはどうなっているかと言う人が
あります。数日前のこの前も突然電話がなり取ってみますと「牧師さん、キリスト教
は偶像礼拝禁止なのに、なぜ、教会の中に偶像があって、拝んでいるのか」と言う方
がありました。ハハンどうもこの人はカトリック教会に行かれて、マリア様か何かの
像を拝んでいるのを見られたのかなと思いました。「本当は、教会は、主なる神・イエ
ス様しか拝まないのですよ」というとふーんそうかといいます。次にこの方は、キリ
スト教は「隣人を愛し、神さまを愛する宗教だろ」と言われます。つい嬉しくなって
「『そうですよ、隣人はまず近い人から、父母、妻子供達からですね』というと『牧師
さんあんたは間違っている、隣人とは親族を越えた全然知らない人のことだろうが』
と言われます。すごいこの人ルカ伝10章の良きサマリヤ人を読んでおられたか」。し
まった、ぐうたら牧師を披瀝してしまいました。クリスマスの時期は時々こういうことが起
こるので、安心したらいかんです。それにしてもドイツのメルケル首相のシリアの隣
人を受け容れる態度はすごいです。この前ラジオで、日本は寛容の国であり、どんな
宗教も受け容れる素地がある見たいなことを、一流の評論家が言われていました。が
っかりしました。島原の乱を勉強したことがないのでしょう。日本が本当に宗教の寛
容の国なら、島原の乱の切支丹・バテレンの4万人の虐殺は起こりません。自分達は
寛容であると思っている人ほど酷いのでないかと思います。私たちは本当にイエス様
を心に迎えて、その僕として生きようとしている方がどのくらいでありましょう。主
の十字架の愛を心から受けて、これを喜び、これに答える人は、これに生きる人は、
どのくらいいるのでありましょうか。

 20節に、ルカ伝は羊飼い達が「帰って行った」と書いています。何度かお話ししま
したが、私はこの帰っていく羊飼いが好きです。天使の導きにより、神の御子に出会
った羊飼い、神の御子のしるしを見付けた羊飼い達は、ある意味で信仰の至福の時を
過ごしたのです。帰らなくていいのでないか。神のみ子の側に、ここにずっと仕えて
いいのでないかと思います。しかし帰るのです。自分の場所に帰る、自分の使命に戻
る、自分の家と自分の仕事に就くのです。まだイエス様の時でないのです。神さまの
時を待つのです。羊飼い達は後33年後のイエス様の十字架と復活まで待たないといけ
なかったのです。おそらく大部分の羊飼いは昇天したと思います。しかし神の国の始
まりを見ることが赦されました。羊飼いは達は、後はじっと待ったのです。
 私たちも自分の務めを果たし、自分の場所に神の国の実現を目指します。しかし完
成をイエス様に待つのです。完成しないかも知れない。しかし完成を目指して示され
たことをして、じっと待ちます。クリスマスは主が来られたお祝いですが、同時に、主を畏
れて待つことの始まりでもあります。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。クリスマス礼拝を感謝です。全てがここから
始まります。神の御子の到来は神さまの愛のしるしです。罪の赦しの基盤です。この
世は段々平和が無くなります。テロが横行し、力が力を呼びます。しかしイエス様は
来られました。十字架の主は来られました。力で力を倒す道の終わりを宣言されまし
た。どうかそこに生かしてください。病気療養の方支えてください。いつも祈るM
姉、H姉、A兄、K兄、M兄支えてください。ご高齢で一人暮らしの方守っ
てください。O姉、Y姉、K姉、H姉、K姉、S姉守ってください。地
震の避難生活の方守ってください。テロの被害と難民の方守ってください。幼稚園と
小羊クラブは冬休みの保育に入ります。守ってください。イブ礼拝導きください。御名に
よって祈ります。アーメン。」

   ルカ伝1章46〜55節             2015年12月13日
                 「 憐れみを忘れずに 」      アドベント第3主日
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日の命を感謝し、今日示された主の御言葉に聞きつ
つ、1週間の罪の悔い改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞いていきます。

 今週は礼拝堂に、3本のろうそくが点けられ、アドベント第3主日となります。来
週はいよいよクリマス礼拝を致します。聖書はクリスマスに向けてマリアの賛歌と言
われるところです。ここもよくクリスマスに聞かれる箇所です。もう説明する必要は
ないのですが、この歌はマリアが天使ガブリエルからイエス様誕生の告知を受けて、
エリザベトの家に行ったところです。この直前にマリアに天使が現れ、イエス様の誕
生を告げられました。祭司をしている親戚のエリザベトを尋ねるのは分かる気がしま
す。マリアは自分の信仰のできる限りをもって、天使の言葉を受入れました。「お言葉
通りこの身になりますように」と言いました。しかしマリアは一人の人間です。それ
でもいろいろ心配だったでしょう。
 赤ちゃんを産んだことのある女性であれば、これからどうなるのかがわかるでしょ
う。教会に来ておられる女性の方々は、もう先輩が一杯ですので、一杯教えて頂ける
と思います。私たちも北海道で2人の子供が生まれました。親戚が近くに全くないで
すから、どうなる事やらでした。しかし小さい教会でしたが、教会を上げていろいろ
な手配と支えをしてくださいました。マリアさんの場合は、お腹に宿るは神の子の誕
生です。どうなるのかの心配は人一倍であります。しかしマリアさんは、天使ガブリ
エルから、エリザベトが妊娠しているのが神の子があなたに生まれる印だと聞きまし
た。そうだ、天使が教えてくれた親戚の神さまの祭司をしているザカリヤの妻、エリ
ザベトに会いに行こう、は当然だったと思います。いろいろと教えてくれるに違いな
い、神さまからの誕生予告とはいったいどういうことなのだ、教えてもらおう。
 取るものもとりあえず、エリザベトにあって話をしたかったでしょう。話したいこ
とは、山ほどありました。自分に天使ガブリエルが来たこと、ヨセフと一緒にならな
いのに子が授かること、天使がエリザベトの事を知っていて、エリザベトも妊娠した
と言ったこと。しかし何と言っても聞きたいのは「生まれる子は聖なる者、神の子と
呼ばれであろう」です。これはマリアにとって、さっぱり見当が付かなかったと思い
ます。神様に仕える祭司ザカリアの妻エリザベトなら何か教えてくれるかもしれない。
こう思うのは当然でありました。
 そしてマリヤはエリザベトに会ったのです。本日は読みませんでしたが、その時44
節にある通りに「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたときに、胎内の子は喜んで踊り
ました」とエリザベトは言い、続けて45節「主がおっしゃった事は必ず実現すると信
じた方は、なんと幸いでしょう」と語っています。ある意味で、マリアはエリザベト
に会うことによって、天使ガブリエルとの対話を全てその身に体得したと言えるでし
ょう。56節には、マリヤは3ヶ月間エリザベトと共に滞在したとあります。この3ヶ
月もまた、とどのつまり45節の「主がおしゃったことは必ず実現すると信じた方はな
んと幸いか」の言葉の確認だったと言えます。
 さて46節からマリアの賛歌になっています。人は喜びを表すときにいろいろな表現
をします。踊る人もいるでしょう。しかし歌を歌うというのは、これは最も普遍的な
喜びの方法です。日本にも、短歌あり俳句ありいろいろな歌があります。マリアさん
が歌った歌は、日本語ではもちろん音韻が全く違いますので、わかりにくいです。し
かし原本では2行連歌といわれます。イスラエルの歌の方法です。短歌が57577
の音をつかうように、原文では2行づつで3つの韻を踏む歌い方です。
 46,47節にマリアは、主なる神を讃美します。その理由が48節です。それは「身分
の低いこのはしために、目を留めてくださった」と語ります。ここで私たちは、マリ
アの身分が改めて示されます。それは身分の低い、はしためこれは女僕という意味で
すが、マリアはまさしくそうであったと言うことです。私たちは聖書からイスラエル
では神の民であり、インドのカーストのような身分はなかった。日本の江戸時代のよ
うな士農工商のような身分はないことを知っています。しかし人間というのは、たと
いそうであっても、自分達で勝手に身分を作ってしまうのです。
 今、貧しさの連鎖というがNHKテレビの特集で取り上げられます。現代日本にお
いて、生活保護の子供はやはり生活保護になってしまうという悲しい現実です。悔し
いのは母子家庭の子供はやはり母子家庭になる確立が高いのだとこの前もテレビでし
ていました。日本もここまで来たかと、くやしいやら悲しいやら本当に政治の貧困に
も涙が出てきます。しかし現実・事実なのです。

 実は最近ラジオで、ゴータマ・仏陀の教えで一番最初、初期のお経の話をしていま
した。牧師が仏教のお経の話をしてもしょうがないのです。しかし話しによると日本
に伝わったお経すなわちお釈迦さんの教えは、死後500年くらいたったのが、最も多
いらしく、お釈迦様が語っていた通り、つまりイエス様の福音書のような位置にある
お経つまり亡くなって100年以内の書かれたお経は少ないのだそうです。その中で仏
教のインドから日本の仏教学者の意見が一致して一番古いとしたお経が、サンスクリ
ット語でなくてパーリ語のお経で『真理の言葉』スッパ・ニパータといいます。実は
岩波文庫になっていて980円です。これを読むとなんと仏陀がこの身分制度、人間の
価値は生まれによらないと徹底して教えています。「バラモンの人(つまりインドの最
高の身分)のものでも、悪いことをなし、人を騙すならば、悪人である。最下層の身
分でも、良い志しを持ち、日々善を実践するなら、それはバラモンである」といった
調子です。私は総理大臣だから偉い、とは全く反対の教えです。「平民であっても徳を
なし、人に恵みを施す人は、一国の宰相なり」というのです。私たち日本では身分の
違いはほとんどありませんので、ここを見落とすのです。しかしマリアさんの歌で、
また思い出させてくださいました。マリアさんは、主は「身分の低いこの主のはした
めに、目を留めてくださった」と歌います。
 私たちは改めてマリアさんによって、神さまは身分の低い者からその歴史をスター
トされる。力ある者、身分の高いもの、お金のあるものからでなかった。そのことを
教えられるのです。マリアさんの時代のイスラエルでは、おそらく身分の低い者、お
金の無い者、力の無い者は、神さまから離れたものとされていたのです。しかしマリ
アさんは、主なる神さまが、この身分の低い自分に目を留められたと歌うのです。

 49節「力ある方が、私に偉大なことをなさった」と言うのです。神さまが目を留め
られる条件があるのか。あるとすればそれは何であるのか。まさにマリアさんは示す
のです。それは身分の低さであり、力の無さであり、お金のなさである。霊的に言い
直せば、それは神さまの前の謙遜さでありましょう。徹底して神の言葉を求めるもの
であるのか。罪の深さを知るものであるのか。心から自分の罪の深さを、気づいてい
るのか。自分は主の前に何者でもないと本当に自覚しているのかなのです。
 50節そしてその行き着くところが、具体的な態度が、主への畏れです。主を自分の
目の前に置く生き方であります。それは人からは、つまり外側からはわからないので
す。神さまだけがご存じのことです。人は誰もお前は主への畏れがあるとか、お前は
主への畏れが無いとか判断できません。ただ神さまのみがご存じです。しかしそれが、
神様が目を留めるか否かの原点なのです。ある意味で主への畏れというのは、勉強し
て分かる次元ではないように思います。その人と神さまの関係であります。もし何か
それに気づく印があるのか、と言われれば「憐れみ、恵み」でありましょう。何をな
すにも主の憐れみと恵みを求め、祈るのか、それでありましょう。私たちは全てのこ
とに、主の恵みと憐れみを求め、祈るのです。

 51~53節は、マリアさんの歌は、突然革命家の歌のような調子になります。60年70
年頃の労働組合の歌のような様子をしています。「思い上がる者は打ち散らし、権力あ
る者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた者を良い者で満たし、
富める者を空腹のままで追い返す」と歌います。ここには上の者を下にし、下のもの
を上にする神さまの働きがあります。私たちは、なぜ「下の者を上にして、上の者と
仲良くさせる」といわないのかと思います。つまり「身分の低い者を高く上げ、飢え
た者をよいもので満たす」これでいいのではないかと思います。なぜ「思いがある者
を打ち散らし、権力ある者をその座から降ろし、富める者を空腹のままに追い返す」
のか。そこまでせんといかんのかと言いたいです。もっと言えば「思い上がる者を打
ち散らし、権力あるものをその座から降ろし、富める者を空腹にしたら」また次の段
階で、その反対がおこるのでないか。昔の富めるものが貧しくなって、また富めるも
のになった。昔の権力を持ったものが、落とされてまた権力の座に返りざいた。昔の
金持ちが、貧乏になって、そしてまた貧乏から這いだして金持ちになった。これでは
同じことでないかといいたいのです。現実にこの世では、これがある意味で起こって
います。
 実はこの問題は意外と深刻であります。というのは聖書の写本の中にわずかですが、
46節の「そこでマリアが言った」が「そこでエリザベトが言った」というのがあるの
です。代表的な写本は、もちろん私たちの聖書の通りです。しかし中にこの歌をエリ
ザベトであると写本するのがあるのです。つまりイエス様の母マリアが「思い上がる
者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き下ろし、富める者を空腹のままにす
る」まで歌うのか。それでは富める者や権力ある者への救いがないのでないか、と言
う取り方です。マリアさんでなくて、エリザベトさんが歌ったとするのです。
 実はこのマリヤの歌は、元々は予言者サムエルの母ハンナがサムエル記上2章1~11
節に歌った歌が基本にあるといわれます。そしてサムエル記上2章を読むと確かに、
9節「主に逆らう者を闇の沈黙に落とし」10節「主は逆らう者を打ち砕き、主は地の
果てまで裁きを及ぼす」とサムエルの母ハンナは歌っています。バプテスマのヨハネ
までつまりエリザベトまでは旧約聖書の約束とし、イエス様、マリアから新約とする。
すると「思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き下ろし、富める
者を空腹のままにする」はエリザベトまで、マリアからは新しい救いが始まるのだと
受け止めることができます。そうすると理解しやすいのです。

 しかしどうもこれは人間の考えであって、神さまの思いと違うようです。つまり、
神さまの裁きは、人の裁きと違うのです。「思い上がる者を打ち散らし、権力のある者
をその座から引き下ろし、富める者を空腹のままにする」。これではまた同じことの繰
り返しになる。富める者の救いはどうなる。権力者は救われない。イエス様の救いと
相容れない、とはならないのでないか。神さまの裁きは、裁きの中での救いになって
行く裁きなのでないか。神さまの裁きは、神の国に向かう裁きです。
 そもそもここには、人間の力によってそうなる、革命によってそうなると全く書い
ても、預言してもありません。人間の暴力や知恵や力でなることでないのです。自称
イスラム国のテロが方々に起こり、力で力を押さえる論理がもてはやされます。とう
とう自由の国アメリカでイスラム教はアメリカから出て行ってもらえという国会議員
がでてきたそうです。しかし220年も前1791年にすでにアメリカ憲法修正1条に「連
邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定しては
ならない。」となっています。信教の自由は、アメリカ憲法の第1条修正で基本中の基
本なのです。
 イスラムはテロを起こす宗教であるか。ちょうどラジオである評論家が、1995年地
下鉄サリン事件で、オウム真理教の起こった事件の時にアメリカにおられたそうです。
そこで「オウム真理教は仏教からできたのだろう。仏教はとんでもない宗教だ」と言
われたという話をされていました。「自称イスラム国をイスラム教と同じに捕らえるの
はこれと同じです」と言われていました。全くそうだと思います。
 聖書の救い、イエス様の神の国は、陰謀や暴力、奇をてらう風習や風変わりな行為、
不思議な芸当でできるものでありません。テレビで人気を博して活躍し、元気な声を
出す人が、神の国を来たらせることはできないのです。メディアの力は強いかも知れ
ませんが、神の国とイエス様の救いを来たらせることはできないのです。マリアの信
仰しかないのです。平々凡々の「お言葉通り、この身になりますように」。平々凡々の
「主がおっしゃったことは必ず実現する」という信仰なのです。平々凡々の毎日を、
聖書のみ言葉によって生き、平々凡々に隣人を愛し、平々凡々に神さまを愛して礼拝
し、生きるのみなのです。どんどんやってくる雑事と果敢に取組み、自分の務めと使
命をなんとか果たしていく信仰なのです。

 54節。「憐れみをお忘れになりません」とマリアは歌います。神さまの憐れみにす
がって生きるのです。地球温暖化は、好き勝手にエネルギーを使えませんよ、昔の節
約と倹約が大切ですと教えます。無尽蔵のエネルギーとされた原子力は放射能という
罰がついておりました。人間の知恵と力の限りを尽くしても、上手に使えないです。
私たちは主の憐れみにすがって生きるのです。マリアから生まれてくださったイエス
様は、憐れみを忘れない神さまです。神の国に目標を合わせ、イエス様の恵みにすが
って生きましょう。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。クリスマスを後1週間に控えています。
今年は平和の主の到来を心から願います。平和を来たらせてください。この土曜は幼
稚園のクリスマス祝会もあります。守ってください。Y兄のバプテスマを感謝でした。
続けてお守りください。多くの求道者を感謝です。Yさん、中山のKさん守り導
きください。また一人暮らしのご高齢の方々、O姉、Y姉、K姉、K姉、H
姉、S姉守ってください。病気療養の方々をお守りください。M姉、A兄、
H姉、M兄、K兄、I兄、支えてください。冬休みの保育にはいる小羊児童
クラブと幼稚園を、守り支えてください。東北地震以来、自然災害も多いです。避難
者を守ってください。口之良部の人々は年内を目指して帰島がかないますよう、守っ
てください。クリスマスを待つ最後の1週間をお守りください。導きをおいてくださ
い。み名によって祈ります。アーメン」



  ルカ伝1章26〜38節         2015年12月6日
                    「 お言葉通りに 」 ーアドベント第2主日ー
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も示された主の御言葉に聞きつつ、1週間の罪の悔
い改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞いていきます。
 本日は降誕節第2主日で2つ目のローソクが灯っています。本日から3回に渡って、
ルカによる福音書からイエス様の誕生の次第を聞いて行きましょう。いつの時代から
クリスマスの1ヶ月前、またイースター復活祭の1ヶ月前から準備してその日を待ち、
準備するようになったのかその歴史を余りよく知りません。しかしイースターはすで
にマルコ福音書が、最後の一週間の1日1日が分かるように書いております。その時
期に近づくとその箇所を読んで準備した初代教会の歴史を言う学者がいます。クリス
マスの記事は、イースターのようには1日づつ区切る記述は、あまりはっきりしませ
ん。しかしかなり早い時期に、クリスマスに備える聖書の読み方ができていたのでな
いかと思います。
 私は、クリスマスにおいてはルカ伝とマタイ伝のクリスマスの記事を毎年、交替に
読んで聞いてきました。今年はルカ伝の記事から読む年なのであります。そして本日
は、数年ぶりにルカ伝でも「天使のマリヤへの告知」を箇所から聞いていきます。こ
の箇所はもう新しいことは出てきそうにありません。毎年決められた時期にやって来
るクリスマスやイースターの聖書は何か新しいことや新しいメッセージがあるかと聞
いていくのは無理だと思います。聖書の読み方は、通常、1,新しい意味を取るよう
に読む、2,人々に語れるように読む、そして3、自分がその教えを実践するように
読むと3つほどあると言われます。おそらく、クリスマスやイースターの聖書はそれ
を私たちが、生きているかを問われてくるのだと思います。つまり私たちはクリスマ
スの聖書を、自分がそれを生きる為に読むということだと思われます。

 さて、26節の6ヶ月目とはどこからか。はっきりしません。しかし24,25節を読む
と不妊の女と言われたエリザベットが妊娠して、6ヶ月目のようです。女性の方は3
ヶ月くらいまでは分かりませんが、6ヶ月になればこれは誰でも赤ちゃんができたと
分かります。その時に天使はマリヤのところに来たというのです。
 28節にあるように、天使の言葉は最初は何のことか分かりません。「おめでとう。
恵まれた方、主があなたと共におられます」これでは確かに意味が分かりません。一
体何が起こるのか。何が、おめでとうなのか。何をもって恵まれた方であるか。私た
ちがこの時点で、もしここでなんとか分かるとすれば「神様が共におらます」という
宣言です。これは聖書を読む方であれば、ずっとイスラエルの民に、また何か神さま
の大事なことが起こるたびに、言われたことでした。モーセも聞きました。イザヤ、
エレミヤ、エゼキルとほとんどの預言者は「私が共にある」という言葉を聞いてきま
した。マリヤはイスラエル人として聖書を聞かされてきたでしょう。ですから何か神
さまがしようとされていることは分かるのです。しかしその中味、内容はさっぱりで
す。むしろ何も理由がないのに「おめでとう」と言われれは、反対に馬鹿にされてい
るのか、からかわれているのか、となります。
 29節には「マリヤはこの言葉に戸惑い、考えこんだ」とあります。これは強い言葉
になっています。戸惑いは混乱するとも訳せます。また取り乱すとも訳せます。本当
にマリヤは、どういうことか分からなかったのです。取り乱したのです。また考えこ
んだは、熟慮したとも、沈思黙考したとも訳せます。つまり神さまの働きは、よく言
われるように、最初はなんのことやら分からない。そういう形で私たちの所にくるの
です。つまり神さまのお取り扱いは、最初から見通しが付くとか、道が見えていると
かでないのです。神さまの道は、最初は混乱し、戸惑い、取り乱してしまうそんな出
来事であります。もちろん最初からはっきりしているのがあるかもしれません。しか
し大方の神さまの取扱は、最初からよく分かる、最初に道が見えている、はっきりし
ている。やり方は分かっているのはほとんどありません。
 正しく失敗して、どうにも成らないように見えるところから、神さまは始められる
のです。止めた方がいいのでないかという見通しの全く立たない時から、主のご計画
は始まることが多いのです。木々の葉が落ち、全く裸になった冬の木、冬の植物は、
確かにまた葉が茂ってくるのか、枯れてしまったのでないかと思います。しかし冬の
木々は葉をすっかり落とした時にすでに、次の葉の準備をしているといいます。つま
り全くの失敗のように見えるところに、どうにも始められそうにないところに、むし
ろそこから次の新しい歩みが準備されていると私たちは受け止めることができます。
ですから反対に、私たちは全き興隆の時、かげりが何もなく、なすこと考えることが
全てが順調に進む時、反対に次の奈落が、始まり待っているかもしれない。大きな落
とし穴があるかもしれないと準備しておく必要があります。
 全くイエス様の十字架と平行するのです。その時、イエス様の十字架を誰が神さま
の御計画であると考えた人がいたでしょうか。12人の弟子達は一人残らずイエス様を
捨てて逃げ去ったのです。そこにいた人も3年間訓練を受けた弟子達もまさか、十字
架が神さまの特別な計画であり、人の罪の贖いになるとは、夢にも思うことはできま
せんでした。しかしそうでないのです。神さまの全き計画でした。復活が準備されて
おり、人間の罪の贖いの大きな奇跡であったのです。
 私たちはマリヤの戸惑い、混乱をそのまま自分の混乱とし、自分の戸惑いと受けた
いと思います。神さまのお取り扱いを受けるとき、私たちは最初それが分からないの
です。その意味を取ることができないのです。なぜ自分にこんなことがおきたのか。
よりによってなぜこの時に、今からの時に、このことが起こるのか。私たちはわから
ない。しかし神さまの時の始まりはまさに人間に計り知れない時なのです。まさに起
こってはならないその時、まさにこの時、絶対あってはならないことが起こる時、神
さまはご自身のその時を用いられるのです。
 30節、マリヤは天使から「恐れるな」との声を掛けられます。マリヤは恐れたので
す。一体何がおこるのか。どんな取扱をうけるのか。マリヤの戸惑いと混乱は、主の
への恐れだったのです。恐れはもちろん怖がりや恐怖であってはならいでしょう。し
かし真の神様のみ前に立つとき、恐れがないというのも、おかしな事だと思います。
怖い恐れはなくてもいいです。しかし神さまを畏れない神認識というのも、本当に真
の神さまであるかと問われることになります。聖書では本当に神さまに出会う者は神
さまを畏れています。預言者イザヤは神様と出会う時に「災いだ。自分は滅ぼされる。
つまり死ぬことになる」(イザヤ6章5節)と言いました。自分は何も問題ない、その
ままで神に出会い生きていていいのだ、とする神さまとの出会いは、どこかおかしい
のだと思います。
 しかし神さまを本当に恐れる者には、恵みが来ます。30節もマリヤに「あなたは恵
みを頂いた」といいます。ここの直訳は「あなたは神からの恵みを発見している」と
なっています。つまり神さまのことを本当に恐れることができる時、それは実は神様
の恵みの発見者となっているのです。つまりここで私たちはマリヤに、信仰の真髄を
知らされのだと思います。信仰とは、どうも何か神さまに関する知識でないのです。
神様の知識を一杯獲得して、聖書を一杯勉強すれば神さまがよく分かりますという次
元でないのです。もちろん聖書を日々読み、聖書を自分のものにすることは大切です。
暗唱聖句も大切です。しかしそこにはもっと大切な神の言葉への畏れが問われるので
す。「畏れることはない」という宣言と主の恵みの宣言は、実は表裏一体であります。
 31節、主はここまで来て、具体的な「おめでとう。恵まれた方」の中味を知らせま
す。それは「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と
言うことでした。男の子を産むというのは、これは古今東西どこの社会文化宗教が違
っても喜びの出来事です。女の子も含めて赤ちゃんの誕生を喜ばない社会、文化、宗
教、哲学はないと思います。しかしそれも時と場合によります。人間にはいつでもど
こでも喜ばれる出来事とういのは、そう簡単にないのかも知れません。たとい赤ちゃ
んが生まれるにしても、鎌田実さんの『がんばらない』という書物だったと思います。
赤ちゃんは母親を危険に曝して生まれてくる。だから生まれたということはすでに、
他人に迷惑を掛けているのである。自分は迷惑を掛けていないといのはおかしいの
云々という箇所があります。生まれてくる事自体が多くの犠牲を伴う出来事なのです。
私達は支えを感謝して生きるのみなのです。
 まさしくこの時期におけるマリヤへの赤ちゃんの誕生はそうでした。同じ生まれて
くるにも、婚約期間と結婚期間では、ユダヤ、イスラエルでは意味が全く違ったので
す。今の日本は良い言葉でおおらかになった。悪いことばでルーズになったのかもし
れません。しかしイスラエルでは、まだまだ厳しかったのです。婚約期間の保持は本
当にその女性が、信頼できる方であるのか、正しい方であるのかを、証するものであ
りました。すでに教会に長い方は、マタイ伝1章でご存じのように、ヨセフは義人で
あったので、マリヤを離縁しようとしたとあります。それでも踏みとどまったのは、
ヨセフにも天使が声をかけて、マリヤを妻とするように、神の言葉を伝えたからです。
 34節にマリヤはもがくのです。「どうしてそんなことがありましょう。私は男の人
を知りません」と答えています。マリヤは信仰深いとか、強い信仰の者とか、夢見る
人だ、とかの傾向はどうもありません。マリヤは全きの常識の人であります。男の人
を知らない私が赤ちゃんを産むわけがない。ある意味で合理的とは言い過ぎですが、
きちんとした人であり、普通の人でありました。この時マリヤは何歳であったのかと
か、言われますが、残念ながら分かりません。ただ当時のユダヤ人は、昔の日本も同
じように、普通の人は20才以前の結婚なのです。16?18歳であったろうと言われま
す。
 35節、マリアが常識的な全く当たり前の理由を語り、それは無理だと天使に答えた
時、天使は3つのことで答えました。1つは「聖霊があなたに下るのだ」ということ、
2つは「親類エリザベトが不妊の女だったのに、妊娠したこと」。3つ目は「神さまに
できないことはない」ことです。
 私たちは、どこかマリヤの弁明に力づけられます。それは、神さまの天使が直々に
マリヤに来ても、人間はそう簡単に信じることができない。私たちは時々、神さまが
いるなら、今ここに現れてほしい。神さまがおられるなら、今ここに奇跡を起こして
ほしいという人に出会います。残念ながら、そうはいきません。というか、その人は
おそらく今ここで出会っても、今ここに奇跡が起こっても信じないと思います。マリ
ヤさんでさえも、天使が直々に来ても信じないのです。私たちはマリアさんが私たち
代表として、人間はまずそのまま神さまを、神さまの取扱を信じることはできないの
だということを示されるのです。マリヤさんの拒否は、ある意味で人間が持つ原罪を
示しているのです。アダムとイブが、主なる神さまから「すべてはしていい、しかし
一つだけしてはいけない。」その時、その1だけのしてはならないことをしたように、
私達はそのように神を嫌い、神を拒否し、神を離れる存在なのであります。
 しかしその私達に聖霊が下るというのです。神様の愛と力が働くというのです。そ
の時、私達は私達に対する神様の働きを受けることができるのです。聖霊は神様の働
きを受け入れる神様の働きです。私達は、どこか信仰を自分の責任でありつつ、しか
し神様の働きであることを、受けるのであります。神様の働きで信じることができた
と言うことは、私達はどこか安心して歩みなさいということでもあります。安心して、
神様を信じる。神様の赦しによって信じることができた。このことは大切な恵みの信
仰です。
 しかし天使ガブリエルは、天の話、天的な話だけをするのではありません。天使は
マリヤに具体的な例をしめすのです。エリザベットです。神様は私達を導くに、み言
葉だけでなさいません。それは本日、主の晩餐がありますように、パンと盃でも知ら
せてくださるのです。5感を通して味わうことを通して、十字架と復活の意味を知らせ
てくださるのです。エリザベトが示された。不妊の女と言われた親族のエリザベト、
祭司の家系でした。神様に信頼され、神様に仕える家系に、子供がない。大きなつま
づきであり、エリザベトの大きな悩みでした。しかし今やそのエリザベトが子供を産
みます。神様はそれぞれの人に、それぞれの証を備えてくださるようです。
 確かに自分が信じないといけない。しかし信じるようにしてくださるのも神様です。
なかなか信じられない人には、出来事を起こし、人を備えてくださるのです。だから
一生懸命祈り、自分にできる限りをしたら、後は主に任せる、主を待つことです。全
部自分でしたらいけないのです。神様の自由があるのです。神様にできないことがな
いとすれば、それがならないのは、その時でないことになります。
 38節、マリヤは最後の言葉をいいます。「私は主のはしため(女奴隷ですという意
味です。)お言葉通りこの身になりますように」。神様の言葉を受けるとはどういうこ
とか、マリヤさんは教えてくれます。それは、お言葉通りになりますようにです。イ
エス様のゲッセマネの祈りと主の祈りからいくと「み心がなりますように」です。最
後は、雨が降ろうが晴れようが、嵐になろうが大雪になろうが、み心のままにです。
み心のままにと祈って、そうならない時に、それはみ心でないと言ってもはじまりま
せん。み心のままには、神様のなさるようにです。なったらそれを受けて、そこから
出発することです。マリヤさんから、私達は神様と対話しながら、み言葉を受け、そ
して現実を受け入れてまたみ心を求めて前進していく信仰を教えられます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。先週のY兄のバプテスマを感謝です。
また世界祈祷週間を感謝です。私達は4組の宣教師を送っています。どうか、ルワン
ダのS先生夫妻、シンガポールのI先生、カンボジアのS先生夫妻。インド
ネシアのN先生夫妻を特に覚えて支えてください。病気療養の方、M姉、H姉、
A兄、M兄、K兄守ってください。ご高齢の1人暮らしの方、O姉、Y姉、
H姉、K姉、K姉、S姉支えてください。東北地震の避難者とテロで苦しむ
方々、シリアの難民の方々支えてください。1週間をあなたの恵みによって歩ませんて
ください。み名によって祈ります。アーメン」

   言行録1章6〜11節         2015年11月29日
     「 地の果てまで 」ー世界祈祷週間ー     ーアドベント第1主日ー
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も示された主の御言葉に聞きつつ、1週間の罪の悔
い改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞いていきます。
 本日はY兄のバプテスマ式、世界バプテスト祈祷週間、そしてアドベントの始ま
りとなりました。この日を決めた時には、ゆっくりとY兄のバプテスマ式のみに集
中できるバプテスマ式だけの日を、と思ったのです。しかし1年間の計画が頭にはっ
ていないというか、世界バプテスト祈祷週間とアドベント(イエス様の御誕生を備え
る期間の始まり)に重なりました。しかし反対からいうと世界伝道を考え祈る日とア
ドベントの最初の日にバプテスマを受けられると言うことは、意義あることではない
かと思います。また今日は証人として山下兄の奥様と希望キリスト教会伝道所の安永
兄も来てくださいました。本当に感謝致します。
 Y兄の信仰告白にありましたように、私たちはいろいろな導きで教会に関わるこ
とになり、またいろいろな人から導かれて決心していきます。私がどうしたら良いか
わからなくなった時に初心に帰って読む本があります。イギリスの19世紀のバプテス
トの牧師、スポルジョン先生が書いた『牧会入門』です。ここに、神さまは人を導く
のに、いろいろな人を用いられるとあります。教会に導いてくれる人、キリスト教の
いろいろな疑問を解いてくれる人、決心を導いてくれる人、信仰を深める人と、なぜ
か神さまは違う方を使われるのです。イエス様はいろいろな人を用いてくださって、
私たちの信仰を導かれます。時には、キリスト教で無い方も用いてくださることがあ
ります。すごいことに無神論の方や本、仏教の方や本の解説書を読む時にも、これは
イエス様の言葉だ、イエス様の示しだ、と感じることがあります。実は先ほどのスポ
ルジョンは「聖書を神の言葉として、自分への指針の最高の権威をおいたら、後は何
を読んでよい、いや全ての本を読みなさい」と書いています。神さまの導きを徹底し
て信じるとそうならざる得ないと思います。どうか、兄弟のこれからの信仰を主が導
いてくださり、私たちも心から祈って、主の恵みによって歩まれるのように、主と主
の言葉に委ねます。

 さて、聖書は世界バプテスト祈祷週間ということで、世界宣教に関する聖書から開
いております。現在、日本バプテスト連盟につなる教会は説明されましたように、4組
の宣教師を支えて送り出しています。私たちの教会を母教会としてここから出発され
たアフリカ、ルワンダの佐々木先生夫妻、シンガポールの伊藤先生、カンボジアの嶋
田先生夫妻は、夏期伝道を私たちの鹿児島でしてくださいました。面識は全くないの
ですが、インドネシアの野口先生夫妻があります。たった4組かと言う方と日本では
326の教会・伝道所の集まりである日本バプテスト連盟がよくぞ4組も支えていると
いう方があります。それぞれに宣教の使命を持って伝道してくださっています。特に、
ルワンダの佐々木先生夫妻、カンボジアの嶋田先生夫妻は、奥様が鹿児島の方でゆか
りがある方々です。祈って行きたいと示されます。
 さて聖書は言行録から聞いております。この場面は、イエス様が十字架に付けられ、
3日目に復活されて、40日間、地上で弟子達に教えを成してくだったところです。そ
の40日間の最後の日の昇天の出来事が書かれ、イエスさまがいよいよ天に登られると
ころです。イエス様が弟子達の目の前で天に上ぼられているその場所はどこかですが、
残念ながら書いてありません。しかし1章12節には、「使徒達は『オリブ畑』と呼ば
れる山からエルサレムに戻って来た」とあります。従って多くの解説書はイエス様が
天に昇られた場所は、エルサレムのオリブ山であったとしています。
 6節にあるように、使徒達は集まって、いよいよ復活のイエス様が天に帰られる気
配を受け止めたのでありましょう。「主よ、イスラエルの為に国を建て直してくださる
のは、この時ですか」と聞いています。イエス様の復活の40日間の教えは、少しです
が聖書から知らされています。弟子達は、イエス様の3年間の教えとその最後の十字
架を見ました。そして十字架の死から3日目の復活を見たのです。ヨハネ伝20章では、
12弟子の中でもトマスは復活を信じませんでした。しかしイエス様は信じることので
きないトマスに現れてくださり、トマスもまた信じる者としてくださいました。ある
意味で神さまはこの人と決めた人は、最後まで導いてくださると受け取れます。だか
ら神さまの導きを信じて、成すべき事をしたら、後は余り心配しなくてもいいのです。
 ペテロもまたイエス様が十字架に付けられた時に、逃げだしました。ヨハネ伝21章
では、ペテロは弟子の代表でもあったのですが、また漁師に戻ったように読めます。
しかしペテロにも復活のイエス様は現れてくださいました。そして「私の羊を飼いな
さい」と3回も語ってくださいました。そして再び召され、弟子達を支え導き教える
ようにしてくださったのです。ここでもイエス様に一度召されたら、イエス様を捨て
たように見えても主は、また召して使って下さると分かります。
 とどのつまり聖書の信仰はすべて神さまの導きの基にあるのです。これが実は分か
りにくいかもしれません。またキリスト教の弱点かもしれません。自分の事は自分で
する、自分の生き方くらい自分で考えろ、と言うのは分かり易いです。今自己責任が
流行です。最後まで自分で考え、自分で責任を取れというのです。これではますます
若い方はキリスト教がさっぱり分からんとなります。自分の力に頼らず、神様に祈り、
神様に導かれ、神様に委ねよ、と言うのです。一見なんだか無責任で、自発性がなく、
力が入らないと感じるようです。しかし聖書では、命を与えてくださったのは神さま
です。自分の力と考えで、もちろんいろいろしないといけないのです。しかし最後の
最後は、責任は神さまが取るから私(神様)に任せろ、と言われるのです。しかし私
たちは任せたくないと神さまに言うのです。そして、本当は命を与えてくださり、私
の全てを知り、全てを導く方イエス様があるのに、全く足りない、全然心もとない人
間の知恵と力を頼んでしまうのです。主よ、私がしますから神さまは関わらないでく
ださい、と生きてしまい、本当の幸せ、平和からますます遠ざかるのであります。
 7.8節には復活のイエス様の最後の言葉、地上での最後の教えになっています。
それは2つあります。1つは、イスラエルの復興はいつですかと聞きました。つまり
私たちで言うと自分自身の自己実現、確立、確信としていいでしょう。それはいつ起
こるのですかと聞いたのです。これに答えて「父がご自分の権威において、お定めに
なった時や時期はあなたの知るところでない」と言われます。つまり自分はいつ救わ
れるのか、いつ自分はいつ完成するのか、いつ確信が得られるのか、いつ達成するの
か、どうしても知りたいのです。しかしそれは神さましか知らない。人間は知ること
ができませんといわれるのです。神さましか知らないとなれば、私たちは何をすれば
いいのか。私達はただ待つしかありません。ぼさってと待っていていいのか。イエス
様の教えで、盗人・泥棒が、家に入るたとえがありました。泥棒は入る時と入る場所
が分かっていたら、泥棒に成りません。私達は泥棒がいつ来るかどこから来るか分か
らないので泥棒が成立します。時と場所を知らないので、盗まれることが発生します。
私たちの主は、そのように又来ると言われます。
 ですから、私たちは目を覚まして、自分のできることを淡々としながら、身の回り
のことをひとつひとつ片付けながら待つことになります。するとある時、突然来ると
言われるのです。地上の人間的に言えば待つとは、自分の仕事や日常の細々な雑事を、
片づけて行くこなして行くことになります。こんなことをしても、信仰の足しになら
ない。救いの確信に達しない。自己実現に程遠い。なんとかならないのか。救いの確
信が欲しい。しかし仕事、身の回りの雑事、しなければならない家事や日常をしてい
くのです。すると神さまの時がきて、救いに入れて頂く、確信が与えられていく。そ
ういう主の恵みの取扱の事態です。
 2つ目に、8節には聖霊の約束が言われます。聖霊が下る。すると力を受けるとい
います。多くの方は意味が分かりません。聖霊が下ると力を受ける。つまり聖霊とい
う神さまの霊、主の働きが下らないと力が付与されない。通常、普通の状態では、力
とは自分で訓練し付けるものです。体を鍛え、研修を受け勉強します。模擬試験を受
けて、資格試験を受けます。そしてそれを繰り返して、力や資格が付いていくのです。
しかし聖書の約束は、聖霊が下る。そして力を受ける。つまり聖霊の力となります。
それは一体なんであるのか。エルサレム、ユダヤ、サマリヤ全土、そして地の果に至
までの証人となる力です。
 弟子達は、イスラエルの国を建て直すのはこの時ですかと聞きました。しかしイエ
ス様は、イスラエルどころでなくて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで
も私の証人となるといわれます。私たちに直すと私たちは自分だけでも、なんとかな
れば良いと思っています。まずは自分がなんとかならないと話しにならいからです。
しかし、イエス様は、お前だけでないよ、と言われたことになります。イスラエルの
復興でなくて、つまり自分自身だけの復興でなく、ユダヤ、サマリヤ、地の果てつま
り全世界までなのです。つまりイスラエルの救い、私たちの1人の救いは、地の果て
につながっています。オーバーかもしれません。1事は万事に、万事は1事につながっ
ているのです。しかしやはりそうなるのではないでしょうか。
 今多くの宗教が世界にあります。今はシリアの問題で、イスラム教が毎日出てきま
す。対抗宗教としてキリスト教があります。そして仏教があります。本当は敵対でも
対抗でもないのです。神さまの名前、宗教が人間に利用されているだけと思います。
人間の罪でなくて、神様で説明するとわかった感じになるのです。確かに戦争の形は
その様な姿をしております。しかし本当はどうなのかです。テロを起こすイスラムの
人は本当に真の神・アラーを信じているのか。戦争を起こすキリスト教は本当にイエ
ス様を信じているのか問うてみればいいのです。違うと思います。
 ところで、これらの宗教の起源をたどってみましょう。イスラム教は1人のマホメ
ットさんです。キリスト教はなんといっても1人のイエス様です。仏教も様々な形が
あり、一番変容が大きい宗派が多いといわれます。しかし仏教もまたもともとは1人
のお釈迦様と言われるゴータマ・仏陀が始まりです。どれもたった1人の教えからは
じまります。1人が本当に救われ、その務めを果たして行くときに、実は世界につな
がっています。世界と一人は余りにも違い過ぎるのです。しかしどうもいろいろなと
ころで、世界は最初は、一人から始まる部分があります。
 実は家内からもうやめれば良いのにと言われていますが、どうしても保育士の試験
をまた受けたくて、又準備をしております。8課目のうち7科目合格しましたのでど
うしても後1科目取りたいです。今度は少し根本的に学んでいます。実はこの前の教
科書で、幼稚園を世界で始めて作った人は、これはドイツのフレーベルという人です。
58歳の時でした。しかしなんと詳しく読んでおりますと、フレーベルが世界で最初に
作った幼稚園はドイツの当時の政府であるプロイセン政府から禁止令がでているので
す。今の幼稚園や保育園、認定こども園のスタートとなったフレーベルの最初の幼稚
園は政府から禁止の対象だったのです。信じられないのですが、本当の話です。フレ
ーベルは失意の内に69歳で亡くなったとされています。幼稚園や保育園が皆の人に認
められるようになったのは、フレーベルの弟子たちの活躍からです。今、誰が考えて
も幼稚園や保育園を、政府が禁止することはないだろうと思います。最初は理解され
ず、だめだったのです。幼稚園もまた最初は一人から始まったのです。
 自分が死んでも世界は変わらず、自分が何もしなくても、自分に関係なく世界は存
続し、世界は何も変わらないように見えます。しかしどうも1人から始まる世界が至
るところにあるのです。1人が幸せになり、1人が幸せに生きると、なぜか、もう1
人の人が幸せになり、もう1人が幸せに生きるのです。そんな世界があるのです。特
に霊の世界ではそのようです。自分の国、自分の民族だけ、イスラエルの復興だけを
望んだ、弟子たちは地の果て、全世界までイエス様の証人になるという大きな大きな
とても人間の力と知恵の及ばない使命を受けることになります。
 11節に復活されたイエス様を天に送った弟子たちに、2人の天使がいいました。「な
ぜ天を見上げて立っているのか」。これはいろいろなとり方がありますが、天を見上げ
て立っていてはならない、と受け取れます。イエス様は又来られる。再臨されるそこ
に備えなさいとなります。天を見上げるだけでは、イエス様の再臨の準備にならない
のです。地にいる間は地にある使命、自分の召しをなせ、となります。
 弟子たちは何をしたでしょうか。本日読みませんでしたが、14節です。弟子たちは
熱心に祈り出したのです。祈って何になるのか。祈るよりももっと大事がことがある
のでないか。確かに祈りは何にも作り出しません。祈ってもご飯はできません。祈っ
ても、お金は貯まりません。効率を求め、何をしたかの行動を問われる現代では、祈
りよりは、まだ寝て力を養った方がいいと言われるかも知れません。祈りよりは、仕
事をしなさい、祈りよりは、勉強しなさいと言われるでしょう。祈りは何を生じるの
か、一見何も生じるものはありません。しかし、弟子たちは祈ったのです。
 イエス様の証人となる仕事、いってみれば伝道は人間の考える知恵や人間の考える
行動で間にあうのでしょうか。全く、そうでない。人の力と知恵ではどうにもなりま
せん。証人は、人間の知恵と行動の力ではどうにもならない次元です。本当に神様の
仕事をする時に、本当にしなければならないことは何であるのか。祈りです。世界バ
プテスト祈祷週間とはよく言ったものです。まず祈りから、まず神のみ心を聞くこと
からなのです。イエス様の証人となるという不可能の事の実現はまず、その支えにし
てもまず祈りから始まるのです。今週は山下兄と4組みの宣教師のために祈ります。

 祈りましょう。「天の父よみ名をあがめます。今日から世界祈祷週間で宣教師のため
に祈ります。世界宣教のために祈ります。どうか祈りを導いてください。聖霊をくだ
してください。本日、Y兄がバプテスマを受け、キリスト者の生活をスタート
されました。どうか恵みを与えてください。病気療養の方々を支えてください。特に
M姉、H姉、A兄、M兄支えてください。ご高齢の一人暮らしの方々を守っ
てください。O姉、Y姉、H姉、K姉、K姉、S姉支えてください。東
北地震の避難の方々、口之良部の島民の帰還、またフランスのテロの犠牲者、シリア
の難民の方々を守ってください。1周間を御手においてください。み名によって祈りま
す。アーメン。」

   エレミヤ32章36〜42節         2015年11月22日
                「 あらゆる恵みを与える 」
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も示さた主の御言葉に聞きつつ、1週間の罪の悔い
改めをなし、本日の御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週はS病院のS.K先生による「心のケアサポート」の研修会ができまし
たこと感謝でした。ちょうどK姉のお葬儀をしたその週でありました。先生も自殺
に触れてくださって、本当に信じられないタイミングでありました。先週は、まだど
う受けていいのか心の整理が付きません、という方が数名、語ってくださいました。
私もまだどう受け留めていいのか分からない部分があります。しかし、一生懸命、教
会関わってくださり、イエス様のために働いてくださり、祈りも真っ直ぐでありまし
た。掃除に奉仕に懸命に下働きを、働いてくださった方です。多くの欠点を持ちつつ、
しかしなお自分で自分がコントロール出来ない面もあられました。私は、神さまがK
姉を、この世から神さまの平安に移してくださったとしか、取りようが在りません。
神さまのお取り扱いを信じて歩むのみであります。
 旧約聖書では、喪の期間というのが18回出てきます。申命記34章8節には、イス
ラエルの民がモーセが亡くなってから30日間つまり1ヶ月間、喪に服したとあります。
喪というのは、旧約聖書では「悲しみを嘆き泣く」期間というのが原意です。ですか
ら、私たちは、何で今頃、なんで死んだ、なんで自分には言ってくれない、と問うと
思います。そして30日間は「悲しみを泣いて」良いのだと思います。そして、神さま
からの示しを受けてまた再出発をするのだと思います。精神医学の本でうろ覚えです
が「悲しむ時に悲しみ、喜ぶときに喜ぶことができないと次に進めない」というのを、
読んだ覚えがあります。親しかった方は、なんか手につかないというのがあるでしょ
う。しかし大切な時期なのです。
 喪の期間でいうとエゼキエル24章17節には、エゼキエルが喪に服してはならない
という命令を主から受けて、象徴預言をしています。エレミヤでは、エルサレムの為
にバビロン捕囚の為に喪に服することを示しています。神さまから自分に示された期
間を、自分に示された喪に服したいです。私たちもまたこの世にいることが赦されて
いる恵みを受け止め、生かされる時間を、しっかりと主のみ前に歩みたいです。

 さて聖書は、本日は第4週ですので、旧約聖書の名場面ということでエレミヤ書を
開きます。今ちょうど私たちが属する日本バプテスト連盟の分級テキスト『聖書教育』
誌もエレミヤ書になっており、重なっております。本当は順番から行くと本日はエレ
ミヤ35章でした。何を間違えたのか、32章にしておりました。やはり調子がまだ戻
っていないようです。
 エレミヤ書は旧約聖書では、最も大切な書物と言う方もあります。それは本日の箇
所にありますように、改めてエレミヤの預言は、通常言われる旧約の神さまは怖い神
様、厳しい神様、律法の神さま、戦いの神さまであるの正反対の預言をしております。
エレミヤの預言を通して、私たちは改めて旧約聖書もまた、恵みの神さま、赦しの神
様、愛の神様であることが示されるのです。
 32章は実はこのエルサレムの復興の預言の前に、エレミヤが親戚の土地を買うとい
う出来事が32章6〜15節に出来てきます。本日の預言は従って、6?15節に示され
たエルサレムがバビロンによって亡ぼされ、土地がバビロンのものになる時に、それ
にもかかわらず、エレミヤが土地の購入契約をしたという説明、理由でもあるのです。
なぜ、エレミヤはバビロンのものになると分かっている土地の売買をするのか。明ら
かに自分のものにならない買い物をするのか。そのことで、未来における回復を預言
しているのです。このような預言が、エレミヤ書に残され、書記官バルクが書いて残
してくれたのです。70年後に実現する神の国の姿をエレミヤは生きようとしたのです。
 なぜこの預言はなされたのか。これはやはりエルサレムの人々の落胆は大きかった
のです。もう自分達は回復されることは無い。バビロンに連行された民は、戻ること
はない。もう神様は自分たちエルサレムに目を留め、手を差し伸べることはないと思
って諦めていたのです。今やバビロンに連行された民、エルサレムに残された民、エ
ジプトに行った民も、遠からず離散して亡びて行くに違いないという絶望が支配して
いたからと思われます。
 36節にあるように、この時、エレミヤは神の言葉を聞いたのです。大切なのは「し
かし今や」です。人間的に見れば状況は全く悪く、どうにもならない。多くの国民が
バビロンに引かれた。一部の国民はエジプトに逃げた。そしてエルサレムに残された
民がある。つまり3つに分かれてしまった。エルサレムの人々は罪に染まり、偶像礼
拝は盛んであり、悔い改めは全く成されていない。33節には「彼らは私に背を向け、
顔を向けようとしなかった。私は繰り返し教えを諭したが、聞こうとせず、戒めを受
けようとしなかった」とあります。人間的に冷静に判断すれば、エルサレムの回復の
兆しは全くありません。亡びの道をまっしぐらに進んでいます。誰もエルサレムの亡
びの道を止めることはできそうにないのです。36節は言います。エルサレムは「バビ
ロン王の手に、剣と飢饉と疫病に渡されて」います。「しかし今や」が起こります。人
間からみれば不可能であっても、しかし今や、神さまの御心が変わるのです。神さま
のお取り扱いが変化するのです。ここに示されるのは、わたしたちの救いの基本・根
本は、神さまの御心が変わり、神さまのお取り扱いが変わるということです。主なる
神さまを信じるとは、このように、神さまのお取り扱いを心から信じて、その変更を
信じ、主に委ねることになります。
 37節もまた言います。「かつて私が大いに怒り、憤り、激怒して追いやった民、こ
れを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる」。続けて38節には「彼らは私の
民となり、私は彼らの神となる」。私たちは改めて、エルサレムの救い、イスラエルの
回復は、ただただ神さまの意思と力によっている。神さまが決めて、主導され、行わ
れることであると示されるのです。ここにはイスラエルが自分で変わった、イスラエ
ルは自分で信じた、イスラエルは自分で悔い改めたとはありません。「私は彼らの神と
なる。」私すなわち主なる神が恵みであるから、愛であるからなるのです。イスラエル
の状態は全く悪く、全く酷く、全くの裏切りであった。しかし神に打たれた後に、罰
の後に回復させるのです。
 物理学でパスカルの定理を発見したパスカルは『パンセ』というキリスト教の信仰
書を書いています。久し振りに開いてみました。12章のイエス・キリストの証拠の所
で「神さまは自分を証しするためにイスラエルを用いることをよしとされた」と書い
ています。9章の永続性のところではユダヤ人は「全ての民に呼びかけて、自分たち
と共に救い主を待望する者とならしめるために、神につくられた」といいます。パス
カルはパルカル時代に、イスラエルの民が土地も国も持たずにそれでもイスラエル民
族としてフランスの中で生きていることを驚きます。パスカルは、神さまはこの民を
もってご自分の証をしておられるのであると信じたようです。パスカルはユダヤ人は
世の終わりまで在り続けるであろうとしています。パスカルはユダヤ人を真のユダヤ
人と肉のユダヤ人があるとします。そして真のユダヤ人と真のキリスト者の共通項は、
神さまを愛することである、としています。
 本日のエレミヤの預言は、神さまがイスラエルを、怒り、憤り、激怒したけれども、
又集め、帰らせ、安らかにするという預言です。そして「彼らは私の民となり、私は
彼らの民となる」と言われます。これは、アブラハム以来の神さま約束であり、神さ
まのイスラエルへの偏愛であると言えます。聖書では何度も繰り返されますが、神の
民とされ、神さまから愛されるイスラエルは、すぐれた民でも、力のある民でも、有
望の民でもありません。イスラエルはうなじの怖い民であり、裏切りの民であり、忘
恩の民なのです。しかしただ一方的なアブラハムとの契約、偏愛のゆえに主なる神は
この邪悪な「イスラエルの民の神となる」と言われます。
 39節はその方法と取ることができます。「私は彼らに1つの心、1つの道を与えて
常に私に従わせる」。イスラエルの側からの悔い改め、信仰、委ねが期待できない以上、
事態の変更・変化は、神様に任せるしかありません。そして神様は実際に、1つの心
を与え、1つの道を与えるとされるのです。ここには古い信仰でなくて、新しい神様
への転換、向き直りの信仰の姿があります。それは今までの古い信仰は、モーセの律
法に示されるように、外側からの服従でした。モーセの十戒が示され、これに従う者
に祝福と呪いが示され、祝福を取れと外側から言われたのです。しかしその道は失敗
しました。ことごとく失敗しました。バビロン捕囚が起ったというのは、この古いや
り方、律法が示されて、この律法に従うものに、祝福が約束されるというスタイル、
形、形式の方法の失敗でもありました。イスラエルのバビロンまでの歴史は、ある意
味で、古い方法、まず律法が示されて、これに従え、従うものには祝福が、従わない
ものには呪いがあるという外側からの服従のスタイル、方法の失敗でありました。
 しかし今や神様は新しい方法を開始されるのです。それは内側からの服従です。エ
レミヤは新しい方法、新しい約束の預言者です。それは、律法・み心を守る力、服従
の力を人間に委ねるのではなく、神様自身が信じる心と道を人間に、私達に、備える
ものでありました。主はイスラエルを常に従わせると言われます。そしてそれが「彼
らと子孫にとって幸いになる」とします。ここにはイエス様の到来を射程にいれ、イ
エス様の十字架を含む大きな預言となっています。
 40節に主は、イスラエルと永遠の契約を結ぶと言われ、彼らの子孫に恵みを与え、
主に従う心を与え、私から離れないと言われます。41節にもう一度、恵みが繰り返し
言われます。そして、恵みを与えることを主が喜ばれるというのです。私達は、主が
エレミヤに言われる新しい方法は、内側からの恵みの方法であり、契約であるとその
姿を見ます。神と人が和解し、人と人とが又新しい関係になる時に、どのような方法
がとれるでしょうか。人と人とが新しい歩みを始める時、どうするでしょうか。特に、
一方の側の変化が全く期待できない時、私達は、どうしたら新しく歩めるでしょうか。
 結論から言えば、それは赦ししかありません。裁判所や検察はどちらがどれだけ悪
いのか、罰金がどれだけであるのか、正義の配分を行うのです。正義の配分を行われ
た私達は、検察や裁判所に従って、罰金を払い、償いをします。しかしそこからは、
何も生まれません。正義の配分をして頂いた私達はそれを受け入れ、相手を赦し、出
発しなければならないのです。時々、罪がわからないと言う方があります。罪とは自
分の責任を引き受けることであります。罪を告白することは、自分の責任を取ります、
自分の責任を引き受けることができます、ということです。つまり罪の告白をする人
だけが、自分の責任を自分で果たす人であり、本当の自由を得ることができ、恵みを
生きることができるのです。つまり赦しを受けることができる人、赦すことができる
人が、本当の自由な人であり、恵みの人であります。
 改めて恵みの人というは、何かでかいことをするとか、人々の賞賛に値することを
する人とか、全く違うと思います。私達は恵みを何か成果の上がること、何か、功績
のあることと、と勘違いします。しかしそうでないのです。恵みは主から与えられこ
と、最大の恵みとは、罪の赦しであることです。つまり最高の恵みは、イエス様を信
じ受けることであります。何かをしたことでなくて、むしろ信じることが大切です。
主人でなくて、僕であることが、大切です。私達は神様に赦されたから、人を赦せる
のです。私達は、神様に愛されているから、人を愛せるのです。しかし私達はいつも
これを取替えて、自分は人を赦したので、人から愛されねばならない。自分は神様を
これだけ愛しているので、神様から当然このくらい愛されなければならないと考えて
しまうのです。
 42節に主は「かつてこの民に大きな災いを与えたが、今や約束したとおりに、あら
ゆる恵みを与える」と言われます。今や「主はあらゆる恵みを与える」と約束されま
した。今生きているということそれ事態が、実は大きな主の愛を受けた状態です。今
や、何かしなければとか、人をあっと言わせるとか、どうでもいいことです。今や主
の愛を受けること、今や信じることが一番大切なことになります。
 後は召命でいいのです。後は奉仕で良かったのです。イエス様の十字架によって、
罪赦され、義とされたのです。後は、主の召しを待つのです。今示される奉仕の人生
でいいのです。もしかして一生召命がないという人生もあるのかも知れません。華々
しい活躍をしなかった人生もあるのです。活躍できなかった人生になるのかも知れま
せん。しかし、主の前には、それでいいといいきれないといけません。しかしイエス
様を信じて生きる。これだけで本当は信仰の英雄なのです。信仰のヒーローなのです。
 十字架に罪を赦された。罪をおかざす、主にあって一生懸命生きました。人に与え
るものは何もありませんでした。徳に値いすることは特に何もありませんでした。そ
れでいいのです。神の国・天国でイエス様は叱りません。怒りせん。「よくやった僕だ」
と褒めてくださるいのです。何もできませんでした。しかし恨みを買わない人生でし
た、でもいいのです。一生懸命過ちないように、一生懸命人の恨みを買わないように、
生きました。これもイエス様から頂く大いなる恵みの人生です。もちろん示されたら
召命に生きればいいのです。示される仕事や功績があるのかも知れません。その時は
主の恵みでなしていけばいいのです。主はすでにあらゆる恵みを与えておられます。
まず主の赦しと愛をしっかり受けることです。恵みを恵みとしてしっかり受けて歩み
ます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。先先週はK.M姉を天国に送りました。
よく奉仕をしてくださり、働いてくださった人生でした。イエス様を受けた人生であ
り、奉仕の人生でありました。どうか天国において、平安を与えてください。来週は
F.Y兄のバプテスマ式を予定してます。すべてを守ってください。病気療養の方々
を支えてください。特にM姉、H姉、A兄、M兄支えてください。ご高齢の
一人暮らしの方々を守ってください。O姉、Y姉、H姉、K姉、K姉、s
姉支えてください。東北地震の避難の方々、口之良部の島民の帰還、またフランス
のテロの犠牲者、シリアの難民の方々を守ってください。1周間を御手においてくださ
い。み名によって祈ります。アーメン。」

   第1ペテロの手紙3章1〜7節         2015年11月15日
                     「 共に受け継ぐ 」
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日の
御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めを
なし、本日の御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週はK.M子姉の葬儀がなされました。余りに身近な方であり、身体的には健康で
ありましたので、突然の死に正直言って、こちらの心が浮いた状態であります。すで
に前夜式と告別式に語った通りです。10日の火曜日の11時半に振り返ると私に最後
の電話がありました。1時半ごろM姉に最後の電話をされていました。午後4時には
指宿の海岸で見つかりました。午後5時には病院に運ばれ治療を受けました。しかし
午後6時にお医者様によって死亡が確認されたのです。午後7時半頃には、K姉の
携帯電話の履歴からN姉が見つかり、私の方に指宿警察署から電話がありました。
K姉かどうか確かめて欲しいということでした。午後10時半手続きを終えて、K
姉と対面して確かにK姉だと確認しました。午前に福岡から息子さん夫妻が来られ
てもう一度確認されました。

 木曜日に前夜式、金曜日に告別式と埋葬式をしました。あっという間の1週間であ
りました。前夜式、告別式、埋葬式のみならず、その間の納棺式、出棺式、火葬式の
全てに教会員のどなたかが出席くださいました。教会総出でできましたことを主に感
謝致します。まだよく整理ができて無いところがあります。しかし兄弟姉妹のいろい
ろな方の話や出来事を総合してみますと、K姉は確かに多くの欠点がありました。
しかし精一杯生き、精一杯奉仕してくださいました。71才ではありましたが、神さま
が時を定めて、取られたのだと受け止めています。本当に力一杯ぎりぎりで生きてく
ださり、神さまがよしされたお取り扱いであり、召しであったと受けとめております。
続けてご家族の平安を祈っていきます。

 さて聖書は、ペテロ書を開いております。いつもは使徒の手紙は第2週に開いてい
ます。しかし11月は第2週が幼児祝福式となっておりますのでできませんでした。本
日は午後1時から3年ぶりの教会研修会です。テーマの「心のケアについて」の聖書
にしようかとも思いました。しかしすぐには適当な聖書の箇所が見つかりませんでし
た。いつものように、ペテロ書を開き聞いていきます。
 本日のペテロ書は2章18節からの続きで、新約聖書の呼び方では、家庭訓とか家庭
の教えと言われている部分です。新約聖書は数カ所このように、妻と夫、子供と親、
僕(召使い)と主人といった古代社会の社会の仕組みに対応した教えがまとめられた
部分があります。この妻と夫でいえば、エフェソ5章とコロサイ3章が有名で、この
第1ペテロ3章にもでてきますので3箇所もあることになります。すでに前にいいま
したように、このように3箇所もでてくるのは、やはりこのことが大切であり、その
信仰の歩みが問われており、どのようにしてこの世を歩んだら良いのかを、パウロや
ペテロが問われていたといえます。
 本日のペテロ書の妻と夫の教えの特徴は皆さんが読まれて分かるように、圧倒的な
妻の教えの詳しさと長さです。節からいうと妻が1〜6節で夫は7節のみですので、
妻は7倍になっています。これは明らかにローマ社会おいて妻のみがキリスト者にで
あることが、いかに大変なことであり、大きな課題を背負ったことであり、教会の祈
りが集中していたかを示しています。聖書の記述分量からも、ローマ社会で夫が異教
であり、自分だけがキリスト者であるのは、大変なことだったのです。ですからこの
箇所は、日本の異教社会で家族の中では自分だけがキリスト者であるという方には、
非常に親近感のある大切な箇所となります。
 しかし、現在ではむしろこの世が聖書を越しているというか、この世が人権感覚に
おいては聖書の言葉を生きている時代です。日本社会は男女同権であり、県庁の幼稚
園や保育園の受付係りは県庁の総務部、男女共同参画課 幼保連携係りといいます。
男女共同参画課とは国の方でもよくぞ名付けたものだと思います。実は社会福祉法も
子供に関する法律は、最初はエンゼルプランとか、少子化対策と呼ばれていました。
しかしこれもうまいことを考えたと思いますが、今は「子育て支援・法」として呼ば
れています。確かにエンゼルプランや少子化対策では、どうしてもどんどん子供を産
みなさいというニュアンスが大きいです。しかし子育て支援法といわれると父と母が
共同で子供を育てそれを国は支援するのです、というスタンスになっています。本当
は中味が問題ですが、名前も大事であります。
 脱線気味になりましたが、聖書の記述よりもこの世が進んでいるように見える時代
になりました。ですからウーマンリブ(女性解放運動)の盛んなりし頃は、エフェソ
5章とコロサイ3章、そして本日の第1ペテロ3章は人気が在りません。人気が無い
どころか攻撃されました。聖書は時代遅れであるというのです。特に1節には「妻た
ちよ、自分の夫に従いなさい」とありますので、どうしようもありません。逃げよう
がないです。私は堂々と牧師達がエフェソ5章やコロサイ3章、第1ペテロはもう現
代の結婚式や現代の夫婦の教えでは使わない、使うことができない、と言っているの
を聞きました。私は小さい声でまだ読んでいます。しかし私たちは聖書を読むときに
は、やはり書かれた時代を考えるべきであります。
 エフェソ5章、コロサイ3章、本日の3章の時代は、女性の地位は無かったのです。
それはローマ法の中では、女性の地位の規定がないのです。もちろん貴族や元老員の
金持ちの女性達は違った規定があったようです。これは例外中の例外であります。男
女平等はそのかけらもありません。女性は家の道具でありました。夫の持ち物になっ
ていたのです。たとえば離婚ですが、女性の方からは一切離婚の請求ができません。
夫の不倫は当たり前で妻の離婚の理由に成りません。しかし夫の方からは、自分に言
わないで親戚の家に行ったり、夕食時間にいなかったり、髪型を変えたり、料理がま
ずかったりということで、離婚が成立している判例が一杯あるそうです。
 このように全く妻や女性の人権のかけらも無いときに、一体どうして、異教の妻は、
キリスト教を信じたのでありましょうか。やはりそれでも信じたのです。それは法的
には全く権利がなかったのです。しかし宗教的には神さまの前には、男と女はないの
です。ユダヤ人とギリシャ人の違いがないのです。奴隷と主人の違いもないのです。
神の国では男と女、奴隷と主人、ユダヤ人とギリシャ人の違いがない。ガラテア書3
章28節です。それは心の中の出来事だけかも知れませんが、そこから信じたのです。
 しかしイエス様を信じたら、イエス様にある理想を持ったら、イエス様の神の国の
状態を知って受けた人は、、分かった人は、その人はその方向に向かうのです。しかし
人権が全くない、物として所有としてしか扱われない。その中にあってどんな伝道が
できるでしょうか。1,2節にあるように、方法はほとんど無かったのです。口を封じ
られたのです。夫に刃向かっただけで離婚されれるローマ社会の世の中で、どうして
証が成立するのか。まさに「妻の無言の行いによって、神を恐れるあなたがたの純心
な生活によって」しかなかったのです。
 それはちょうど、3章の直前の第1ペテロの奴隷、召使いの教えと似ています。ペ
テロの手紙は、おそらくローマ時代にあった時々の奴隷の集団蜂起を知っていたので
す。今で言う革命のあり方を聞いていたのです。そしてことごとく虐殺されたことを
知っていたのです。キリスト者の召使い、奴隷達にペテロの手紙がいうのは、奴隷蜂
起に参加し、社会革命に同調して自分の権利を守り、主人に訴え、神の国の革命に向
かって行動しなさい、でなかったのです。「善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主
人でも、心から恐れ敬って仕えなさい」だったのです。
 マルクス主義の方から、大いに怒られる方法だったのです。社会主義や自由主義か
らも怒られる「無慈悲な扱いを受けても、主人を心から敬え、従え」だったのです。
これは現代では全く通用しない、馬鹿げた方法、時代遅れの方法のなのです。これで
は会社はまずます図に乗って労働協定を守らず、ワンマン社長はますますワンマンに
なり、ワンマン取締役、ワンマン理事会になるのです。これでは会社や法人取締役・
理事会は現実を知らず、遠からず解散や倒産です。言ってみれば、不正経理をした東
芝、不正アプリケーションを取り付けたフォルクスワーゲン取締会なのです。
 キリスト教は倫理的には、もうこの世から取り残されているのか。「無慈悲な主人で
も従え」ここで判断が分かれると思います。私は一つだけ考え方を思い出します。私
の記憶は正確でないところは、教えてください。それは1999年H11年の事件です。
山口県の光市で、強姦目的で入った少年が、妻と2人の幼児を殺しました。犯人は20
才以下であったので、死刑にできないとなりました。その時、3人の自分の家族を失
った夫の方、本村さんといいますが、今の少年法はおかしいとして、報道関係者と共
に会社を辞めて講演の日々を送りたい、少年法の法律を改正する講演生活に邁進した
いと言われたのです。しかし本村さんの会社の社長は言うのです。ここはうろ覚えで
済みません。「35才のお前が何を訴えても社会は何も変わらない。仕事を続けろ。仕
事をしながら少年法を変える運動を続けろ。仕事をしながら訴えると変わるかもしれ
ん。しかし仕事をしない人間だとこの世は聞いてくれない。自分も支えるから」と言
ってくださったそうです。7年後本村さんは再婚し、仕事を続けて活動されています。
 現実的には少年法は改正され、本村さんの願いはかないました。犯人の少年は、13
年後、2012年に死刑確定になりました。今も賛否両論あります。この社長さんの意見
にペテロの手紙は近いのではないかと思います。仕事をしないでそれに専念した方が
効率はいい、一杯講演ができるのです。改革運動も進むでしょう。しかし聞いてくれ
る人が聞いてくれるのか。もちろん本村さんが仕事をするかしないかに関係なく事は、
進んだかも知れません。しかしどうなのか「御言葉を信じない夫も、妻の無言の行い
で信仰に導かれる」ことが起こるのか。結論からいうとペテロの方式は、2000年後の
その後の歴史では、キリスト教は世界の最大の宗教になってしまいました。キリスト
教22億、イスラム15億、ヒンズー教9億、仏教は4億(だたし中国伝統宗教をどう
するか4億)、もちろん中味が問題です。しかし、その時代にはその時代の伝道方法が
あるのです。少なくともそのままの形で「妻は夫に仕えなさい」は、今の日本社会で
は言えません。夫に仕えること、それをどう生き、受け取るかなのです。
 家庭訓の2番目の特徴は3,4節にある「内面的な人柄」の主張です。これは先の「仕
えよ」よりはまだまだ多くの支持があると思います。私達は確かに見てくれを大切に
します。しかしバラエティの番組でよくでてくるのが、結婚をどこで決めたかです。
男と女の人でアンケートの判断が微妙に違います。確かに金持ちであるや美人である、
たくましさとか健康は上位にあるのです。しかしなぜか一番になれません。こんな見
てくれの時代のようですが、やはり一番は、優しさと性格・人柄の良さと言った内面
の人柄が、決め手です。これも聖書ペテロ書の示す価値であります。古代社会はやは
り見てくれだったのです。女性は美しさでした。美しさというと内面も入れてしまう
人がいます。しかしイザヤ書3章16?26節には「主は飾られた美しさを奪われる。足
首の飾り、額の飾り、三日月型の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、脛飾り、飾り
帯、匂い袋、お守り、指輪、鼻輪、晴れ美、肩掛け、晴れ着、ターバン、ストール」
と出てきます。2700年前はほぼ女性の飾り用品の種類は、今と同じなのです。見てく
れなのです。男は力、権力今なら金持ちだったのです。しかし聖書は、内面的な人柄
を打ち出しました。
 5,6節には、アブラハムの妻サラを聖なる夫人として、内面的な人柄の達人として示
します。サラは神に服従し、その神への信仰の証がアブラハムへの夫への服従であり
ました。決してその反対では無いのです。信仰が先です。信仰がサラの時は、アブラ
ハムへの服従となっただけです。こうして1番目に夫への服従、2番目に内面の美し
さを示すと、さらにペテロ書は、第3番目の勧めをします。それは「善を行い、何事
も恐れない」とします。信仰の服従は、サラの娘に成ると言います。
 恐らくぺテロ書は、妻はサラの娘、夫はアブラハムの息子を理想として示そうとし
ているのだと思われます。サラの娘の特徴は、何事も恐れないです。女性は実際に恐
れが多いです。しかし信仰によって恐れを克服した女性は、サラの娘なのです。6節に
は「善を行い、何事も怖れないなら」とあります。聖書の善はまず、信仰からです。
信仰によって善を行い。信仰によって何事も怖れない人は、サラの娘なのです。具体
的にサラの恐れの克服はどこあるのか、わかりません。しかし今から3500年以上の族
長時代に、アブラハムに文句一つ言わずにバビロンのウルからイスラエルまでの1000
キロを旅した姿は、恐れを克服したサラの姿であったのです。
 最後に、ペテロ書は夫に語ります。夫はたった1節です。おそらく信仰に入った夫
は社会的には、もう家族の長として言うことはなかったのです。キリスト者の夫がし
なければならないことは1つです。それは妻の弱さを知り、妻を尊敬することでした。
コロサイ3章とエフェソ5章には尊敬が「妻を愛せよ」となっています。特にエフェ
ソ書ではキリストが教会を愛したように、つまり十字架についた愛で妻を愛せよとな
っています。これは不可能です。しかし聖霊の力で、妻を十字架の愛で愛する時、祈
りが妨げられないのです。つまり、命の恵みを相続して行くのです。夫の妻を愛する
十字架の愛に、ペテロ書は、キリスト者の家庭を建設しているのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。先週はK.M姉を天国に送りました。こ
の世では苦労の多い人生でしたが、よく働いてくださった人生でした。イエス様を受
けた人生であり、奉仕の人生でありました。どうか天国において、平安を与えてくだ
さい。教会員の多くの奉仕を感謝致します。続けてバプテスマクラスのY兄を守り
導きください。病気療養の病気療養の方々を支えてください。特にM姉、H姉、
A兄支えてください。ご高齢の一人暮らしの方々を守ってください。O姉、Y
姉、H姉、K姉、K姉、S姉支えてください。明日のA.H君の祝福式を守り
てください。東北地震の避難の方々、口之良部の島民の帰還、またシリアの難民の
方々、フランスのテロの処理を守ってください。本日の教会研修会を守ってください。
み名によって祈ります。アーメン。」 

   ルカ伝18章15〜17節            2015年11月8日
                     「 子供のように 」ー幼児祝福式礼拝ー

 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は先ほど14名の子供達を祝福の按手をしました。今年も幼児祝福式の礼拝とし
て守れますことを、主なる神さまに感謝致します。毎年持っておりますが、子供への
主なる神様の平安と祝福を祈る祈りは、古今東西どの社会にもあると言われています。
何度かお話ししたことがありますが、2000年前のイスラエルの幼児死亡率はつまり1
才までに死ぬのは30%と言われております。16歳になるまでにさらに30%の方が亡
くなる、つまり生まれて成人できるのは、生まれた子供の40%であったという学者が
います。2000年前にどうして、そんなことが解るかということになりますが、国連保
険機構の統計では、アフリカのシエラレオネとアンゴラとコンゴ共和国の乳幼児死亡
率は今も10%になっています。アフリカの貧しい国ではまだ10人の内に1人の赤ち
ゃんは死亡しているのです。2000年前のイスラエルで乳幼児死亡率が30%だったら
しいのは、わかる気がします。ちなみに今は日本は1000人1人であり、それでも1000
人の赤ちゃんが生まれると1人は助からないのです。日本では1930年代まで12.4%、
1940年つまり第2次世界対戦に突入した頃は9%となっています。
 脱線ですが、今語った事を調べていると厚生労働省の統計ですが、死亡原因が20才
から50才迄のトップは、病気でも不慮の事故でもなく日本では自殺です。つまり0.1%
の死亡率ですが、折角大きくなられても自殺で亡くなられて行きます。もっともっと
伝道が必要であります。生かされた命を最後まで力一杯生きる、そのような思想とい
うか信念、信仰が必要だと思わされます。
 ところで幼児祝福式を何で11月にするのかがありますが、これは日本では753に
合わせてしております。子供の祝福と大切さは、本日開きました聖書に在るとおりで
す。イエス様は生前において常に子供を祝福されました。祝福式をどの時期にするか
は、それぞれの地域や教会で異なると思います。日本ではもともとは神社でなさって
いたようなのですが、仏教が習い、キリスト教もその時期に重ねてしております。

 さて聖書はルカ伝18章から聞いていきます。この子供を祝福されるイエス様は、マ
タイ伝19章、マルコ伝10章、ルカ伝18章のここと全部で3箇所出てきます。おそ
らくそれぞれの福音記者達がどうしても残したかったイエス様の出来事、イエス様の
振る舞いであったとなります。特に3つの福音書に共通して、神の国に入ると言うテ
ーマをもって、すぐ後ろに金持ちの出来事が続きます。金持ちの議員が、やはり神の
国・永遠の命を得るにはどうしたらいいのかと質問したとセットになって書かれてあ
ります。福音書を読む者は、どうしてもこの幼児への祝福と神の国への直結と金持ち
の議員の神の国の求めが重なります。イエス様時代は議員はサンヘドリン議員として、
今の国会議員と同じ地位でありました。当時は人々に尊敬され、一目置かれていた国
会議員のこの人達が入れなくて、子供が入れる神の国とは一体何であるのか。又どう
いう事態であるのか、私たちはイエス様からの大きな問いをここに示されているので
す。それでは聖書から事の次第を聞いて行きます。
 15節にあるように、この事が起こったは、人々が恐らくこれは当然親たちでありま
すが、子供をイエス様のところに連れて来たことからというのです。15節は前の話と
は連続性がないと言われております。ですからいつのことなのか分かりません。しか
し親達が子供達をイエス様の所に連れてくるのは、実際に過越の祭りが始まっている
のはルカ伝では19章です。この時イエス様は過越の祭りを祝うために、エルサレム近
くにおられたのではないかと言われます。18章35節にはエリコとありますので、エ
リコの町かその近くで、エルサレムの過越祭に向かって多くの方が、エルサレムの道
を進んでいるところだったようであります。
 おそらく親の一人が「あ、イエス様がここにおられる」と見付けて、自分の子供に
手をおいて頂きたいと願い、それを見ていた人々が我も我もと自分の子供と連れてき
ていると伺えます。実はマタイ伝とマルコ伝は、幼児を意味するパイデアということ
ばですが、ルカ伝だけは、原文でブレボスと言いますが、乳児・乳飲み子と通常訳さ
れることばを使っています。幼児ならまだ「静かにしなさい」と言えば、分かる子は
分かります。乳児はそうはいきません。めぐみ幼稚園もこども園になって0才から2
才の子も常にいますが、2才になると分かる子はこちらのいうことが分かります。し
かし乳児・乳飲み子となると0,1才くらいとなるとそうは行きません。
 最初にいいましたように、当時の幼児死亡率は非常に高く、結局成人までなるのは
生まれた子の半分行かないという時代です。親は子を持つと、なんとか本当に藁にも
すがる思いで、病気や様々の災いから我が子を守りを祈らざるを得なかったのです。
ですからイエス様は、ユダヤ当局からは睨まれたり、ユダヤの律法をちゃんと守り教
えていないおかしな人として判断されていました。しかし親から見れば、神様の使い
のような力をもって振る舞っておられるイエス様に、我が子を悪や病から守ってほし
いと願ったのです。これはよく分かります。手をおいて祈る習慣は当時は、パリサイ
派の律法学者も祭司達も、時々していたと言われます。もちろん祭司達は汚れの問題
がありますので誰でも彼でも手をおいて触れることはしなかったと思います。しかし
神さまに仕えている祭司や聖書を学んでいる律法学者はやはり神さまに仕え、神さま
に近い方であり、ユダヤ社会では大切にしました。この方に、祈って頂くのはとても
大事な事でありました。
 しかしなんと弟子達は、乳児・幼児を連れてきた親たちを叱ったとあります。これ
も理由が聖書にはないので、こちらで想像するしかありません。いろいろ考えられま
す。1つは、イエス様は多くの人々への教えや病気の癒しを担われていました。乳幼児
に構ったり使う時間があれば、他の人に話をなし、病気を癒して頂く方が先だと考え
たかも知れません。2つは幼児でだけでなくて乳児・乳飲み子です。アンアン、エン
エンと泣いていたかも知れません。神の国について説かれるイエス様が、乳児に手を
おいて祈って頂いてどうするのか。どこかの宗教団体のお偉いさんは、世界の偉い人
や有名人と対談するのが好きなようです。アメリカやロシアの大統領、イギリス、ド
イツの首相、物理学者、社会学者とそうそうたる方と対談され、その宗教の真理性を
示しています、としています。弟子達はイエス様をできれば、土地の有力者やらロー
マの元老員やらお偉い方と一緒に対等に話せる方であると示したかったでしょう。赤
ちゃん、乳児に手をおいているようなイエス様は、どうもよろしくないのです。どう
も弟子達は、自分たちを、イエス様を取り巻いている王様や地位の高い人を守るSP
か、家来かのように思ったのかも知れません。
 しかし16節にあるように、イエス様は弟子の思いと全く違っていました。ここでも
また弟子達のイエス様に対する無理解が示されます。不思議なことに、弟子達はイエ
ス様のすぐ側に仕えているのですが、イエス様の思い、イエス様の心を理解しないの
です。一番有名なのは、なんと言っても弟子の代表のペテロです。イエス様が自分は
十字架に上げられると打ち開けられると「そんなことはあってはなりません」と応え
ました。イエス様はペテロに「サタンよ引き下がれ、私の邪魔をする者。あなたは神
の事を思わず、人のことを思っている」と叱りました。マタイ伝16章の23節です。
イエス様が本当のこの世に来られた目的は、十字架と復活が終わるまで、弟子達には
ずっと分からずしまい隠されたままでした。
 イエス様はこの弟子と反対です。乳飲み子を呼び押せて言われました。「子供達を私
の元に来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者達のものである」。こ
れまたすごい宣言です。イエス様が説かれている国、イスラエルがその全歴史をもっ
て示している最終の国、神の国、それはこの乳飲み子が入る国である。この乳飲み子
の持つ国である。イエス様はそう言われるのです。ここもいろいろな捕らえ方があり
ます。
 1つは神の国は、子供達の様に、乳飲み子の様に、純真で純情で無垢でなければ分か
らないのだと言われます。神の国とはどういうことか、そんなものがあるのか、ある
とすれば現在の地上とどんな関係にあるのか、天にあるのか、天のどこにあるのか、
地にあるのか、地のどこにあるのか、いつ来るのか、大人は疑問だらけです。しかし
子供は神の国をそのまま信じて、そのまま受けるのであると言われるのです。
 2つ、イエス様は「妨げてはならない」と言われています。これも重いことばです。
これは本当に「邪魔するとか抵抗する」とかの意味です。子どもたちはそのまま神の
国に来ることができると言うことになります。子供がそのまま来ることができて、大
人は妨げてしまう国、そのままくることができない国、乳飲み子が持つことができて、
大人は持つことができない国となります。「なぜならば」が原文にありますが、乳飲み
子は、神の国であるからだ、とも訳すことができます。なぜそうなるか。子供に罪が
ないことなのか。罪のない子供を妨げるな、大人はそのままはいれないのだからとも、
なります。しかしキリスト教では子供をそのまま天真爛漫で無垢で、罪が無いという
は、当たりません。聖書には、乳飲み子も又罪を持って生まれてくると読める箇所が
あります。私達は、はたと一体、神の国は乳飲み子のものであるとは、どういうこと
かと、問わざるを得ないのです。
 17節には、もう一歩進んで、16節を説明しているととれるでしょう。ここには神の
国が乳飲み子国であることの意味をさらに詳しく語っているのだと思います。それは、
神の国の状態が子供に似ているとかでなくて、乳飲み子は神の国なのである、でない。
子供が神の国を受けるその仕方受け方だ、というのであります。神の国を受ける、そ
の受けた方の例として私達に「乳飲み子」を示しているのです。それでは、乳飲み子
の受けた方とはなんであるのか。乳飲み子ように受けるとはどういうことであるのか。
 私達は、神の国をおそらく意識して受けるのであります。これを受けてこれを信じ
て、この中に入れば、永遠の命が得られる。神の国に入れば、死んでも死なない。神
の国にあれば、心配がなくなる。神の国は愛と平安の国だからだ。あの人は神の国に
入っていないが、自分は神の国に確かに入っている。エヘン、自分は何と言う素晴ら
しい信仰の持ち主である。自分はなんと幸せであるこことか。私達は、多かれ少なか
れ、神の国の理想を持ち、その利益やその大切さ重要性を自分に教え、他人に教え、
自覚して入るのでありましょう。
 しかしそれは本当に入ったことになるのか。イエス様はそのことを問われたのでは
ないかと思われます。自分で受けたつもりになっている神の国で、本当はどうか。こ
れをイエス様は問われたのでないか。実は10月のNHK第2放送で『100de名著』と
いう番組は中国の古典で、『菜根譚』と言うのをしていました。知る人ぞ知るです。多
くの政治家が座右の銘にしているので、私はずっと読まないできました。著名人や有
名人が好きな本は、私は無視することにしています。しかしたまたま見ていたら、こ
の著者「洪自誠」という人が16世紀の中国が漢民族の明の時代から、満州族の清の時
代に変わる没落した明の官吏で、政争に巻き込まれて左遷され田舎に帰って書いたら
しいと説明していました。つまり時代の変わり目、乱世の時代を生き抜いた人らしい
です。つまり中国の末世を生きた人なのです。この本で前集62篇に、こういうのがあ
ります。
 「本当に清廉潔白な人は、精錬潔白という評判が立たないものである。名前が立つ
のはその人がそれを求めているからである。偉大な技術者は、その巧みは技術を誇っ
たりしない。術を見せびらかすのは、まだ拙(せつな)い証である」とあります。説
明には、「本当に真に強い武将は、そもそも激戦にならないように、十二分な作戦を立
てるので、戦わず或いは小さい戦いで勝つのです。人格の優れた武将は勝ちを決して
誇りません。名が立っているようではまだ、最高の境地には達していないのです。技
術者も同じです。本当の技術者は名が立ちません。名が立つ前にことをなしてしまう
のです。威張りません」とあります。これがまさに、ある意味で子供の神の国に入る
境地かなと思います。つまり、子供がなぜイエス様に神の国を受ける模範とされたの
か。天真爛漫で無垢で罪がないからか。どうも違うようです。
 子供は神の国を受ける時に、どうしているのか。おそらくその子供の重要性、その
素晴らしさ、その意味を知らずにしかし神の国を受けてしまうのです。本当に清廉潔
白な人は精錬潔白の評判が立たない。本物の技術者はその技術を誇らない、知らされ
ない。つまり本当の信仰者は、あの人の信仰は素晴らしいと言われない人なのです。
あの人の信仰は素晴らしいと言われる前に、その信仰を生きているのです。本当の技
術者がその課題を与えられて、その課題の難しさも人に知らないほどに、難しさを克
服しているのと同じです。いつもとおりに淡々と与えられた課題をこなしておられる
のです。子供の神の国の受け方は、実は、達人の域の受け方に似ているのです。
 最初に、この「神の国は乳飲み子・子供のものである」は、サンヘドリン議員の金
持ちの役員の神の国の求めとセットで必ず出てくるといいました。そうです。議員は
求めて求めて神の国来て自覚に自覚してそれを得ないのです。しかし子供は知らずに、
神の国を自分のものに受けてしまうのです。私達は本当に神さまの恵みで神の国を受
けることの真実の姿を示されるのです。

 祈ります。「先週は召天者記念礼拝を無事守ることを赦され感謝です。本日は14人
の子ども達の幼児祝福式をいたしました。どうか、子供達が主に守られてこれからの
歩みを主にあってなしていけますように祈ります。今週1週間の守りと導きを祈りま
す。今、バプテスマクラスをしている兄弟を守ってください。病気療養の方々を支え
てください。特にM姉の新しい施設、H姉、A兄の療養を支えてください。ご
高齢の一人暮らしの方々を守ってください。O姉、Y姉、H姉、K姉、K
姉、S姉支えてください。東北地震の避難の方々、口之良部の島民の帰還、またシ
リアの難民の方々を守ってください。来週の教会研修会を守ってください。み名によ
って祈ります。アーメン。」

   ヘブライ人への手紙11章1〜6(7)節     2015年11月1日
                  「 神が彼を移された 」 ー召天者記念礼拝ー
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日はいつも通り、遠くより近くより多くのご遺族の方が集まり、召天者記念礼拝
が出来ますとことを、主なる神さまに感謝致します。毎年行っていますが、出席でき
る方や出席できない方が出てきます。今年もまた出来ない方の連絡、できますとの連
絡を受けつつ、先に召された方々のことを、思い起こしつつ礼拝を献げて参ります。

 聖書は、今年は召天記念礼拝によく使われる聖書でヘブライ人の手紙11章を開いて
おります。この手紙はほぼ11章全体を用いて先に無くなった方を名前を挙げて思い起
こしその生き方、へブライ人の手紙のいい方ではその信仰に習えとしているのです。
4〜7節が原歴史といういい方をしますが、人類の最初の代表選手たちです。ここに
はアベルとカイン、エノク、そしてノアが出てきます。次に読みませんでしたが8〜
22節が聖書では族長と言うのですが、アブラハムからヨセフまでです。次に23〜31
節がイスラエルの歴史になりますがモーセからラハブまでです。そして32~38節には
士師時代といいますがギデオンからダビデを経て、その後の名前が出てきませんがそ
の活躍をしたのは、イスラエルがセレウコス王朝シリアに征服された時代からローマ
時代となり、イエス様がお生まれになる直前のマカベア時代の人々です。
 こうして聖書は、自分たちより先に生まれた先祖、自分たちの前に召天された人々
の姿を示して、私たち・自分たちもそこに続けというのです。本当は一人ひとり見て
いくと大いに学びになります。しかし全部を見ることはできませんでいつものアベル
とエノク、本日読みませんでしたがノアの歩みを振り返り、これを私たちの前に召天
された人々に重ねて聞いて行きたいと示されます。
 まず1〜3節にある意味でまとめというか、4節から40節までの人々の信仰のまと
めをしております。それはこれらの40節までの人々は「信仰とは望んでいる事柄を確
信し、見えない事実を確信する」その生き方をした人々です、というのです。信仰は
見えるもの、現実になっているもののを確認することではありません。ここは原文で
は証という言葉になっていますが、見えるもの現実になっていることの証ではありま
せん。見える物や現実になったものは、もう現実に証になっていることです。そうで
なく、見えないもの、希望するものつまりまだ見えずまだ現実になっていないときに、
そうなると証する働き、それを信仰というのです。
 2節にあるように「昔の人達、先に召天された方々はこの信仰によって、認められ
た」実は原文ではここも証されたという言葉が使われています。したがって、証とい
うのは、只単に現実になったことを証するのではなく、現実にそうなる前にそうなる
として目標を定めて生きた方であり、それが証をする人になることになります。つま
り聖書では、現実にそこまで達しなくて、完成しなくても、その理想やその目標を心
に秘めて、その方向に歩む方もまた証者なのです。
 3節にはその信仰の一つの大きな姿として天地創造の信仰を語ります。天地創造は
よく考えると不思議です。この前のノーベル賞で又も日本の物理学者が受けられまし
た。ニュートリノに質量があったということを証明なされたそうです。そう言われて
もなんのことやらさっぱりです。幼稚園の父母の方に鹿大で物理学を教えておられる
先生があるので冷やかしで「どういう発見ですか」と聞きました。即「ニュートリノ
に質量があるというはニュートンの万有引力の法則に従いますということですよ」と
教えてくださいました。それでも本当には何もわからないのですが、分かった気分に
なりました。問題は、ニュートリノの解明はとどのつまり天地創造の解明らしいです。
しかし考えると天地創造は誰もそこにいることは出来ません。私達人間いや生物が出
来る前の出来事です。天地創造は実験ができるのかどうかもよく分かりません。つま
り実際に現実にできたものをこうやって出来たのです、と説明することしかできない
ようです。となるとこれは本当は物理学者に申し訳ないですが、信仰の次元に近いと
思います。信仰はまだ物理学者がよく分かっていませんというところの天地創造を、
神の言葉によると受け止めるのです。迷信でけしからんと言う方もあるかもですが、
これはすごいことなのだと思います。そこに行って見ることはできない。実験もでき
そうにない。しかし神の言葉でできたのだとして、天地のこの世を雄々しく歩みなさ
いというのです。偶然が作ったのでもなく、サタンが造ったのでもない。神の言葉が
造られた。これはこの世がどうでもいい世界でない。いい加減に生きれば良い世界で
ない。神の国に比べると一時的かもしれません。しかしこの世もまた一生懸命に生き
るに価する世界でもあるのです。
 4節からが、この信仰を働かせて生きた人々が一人ひとり紹介されていきます。ま
ずアベルです。この人は日本では全くの無名です。アダムとイブは聖書を読まないさ
すがの日本でも原始人間のらしいと知っているのは多いです。しかしその子供達アベ
ルとカインは、ほとんど知る人は在りません。カインの方はもしかして有島武郎の『カ
インの末裔』を思い出す人があるかもです。しかし兄弟にアベルがいたとは誰も知ら
ないです。聖書では書いてあるとおり、カインよりもすぐれた生け贄を神さまに献げ
て、正しい者これは義人ですが義人とされたとあります。しかし旧約聖書を読んでも
具体的にはよく分かっていないのです。聖書では、カインは農業をする先祖であり、
アベルは畜産業を営む先祖です。そして兄弟2人は自分の職業からカインは農作物の
穀物を捧げ、アベルは畜産の小羊を捧げたのです。
 しかしユダヤの伝承では、どうも問題は捧げものでくて、献げ方にあったとされて
います。アベルは心から最上のものを献げ、カインはおざなりのものを献げたような
のです。心を見られる神さまは、アベルを受けいれ、カインを退けます。しかしここ
で、カインに妬みが起こるのです。カインは何でアベルだけが神さまに受け入れられ、
自分は受け入れられないのか。カインはアベルの心を知りません。段々心を抑えられ
なくなり、兄弟アベルを殺してしまいます。人類最初の殺人事件は兄弟の憎しみ、妬
みからであったと語るのです。しかし聖書は4節に「アベルは死にましたが、信仰に
よってまだ語っているのです」というのです。アベルが何をしたのか。アベルはただ
の牧畜業の一人でした。只の一介の羊飼いです。会社を立ち上げたのでない。事業を
起こしたのでない。世界有数の建築物を建てたのでない。神さまのために心のこもっ
た献げものをした。ただそれだけです。しかし聖書は、このアベルが創世記以来今も
ずっと語っているというのです。人類が始まって以来、アベルはカインに殺されまし
たけれども、まだ今も語っている、証しているのです。殺されても心から神さまに献
げて生きた者は幸いなり、と語るのです。
 5節を見ますと信仰の証人として、次に聖書はエノクを語ります。足った1節だけ
です。中心部分はエノクは死を経験しないで天に移されたというのです。これにはや
はり多くの解釈があります。エノクが死を体験しないで移されたとはいかなることか。
聖書では死を体験しないでそのまま天に移されたのは、この他には預言者エリアのみ
です。モーセもそうだという説もありますが、これはお墓がないだけで、モーセは死
んだという申命記34章5節があり、34章6節には「モアブの地にある谷に葬られた
が、その葬られた場所は誰も知らない」となっています。エノクとはいかなる人であ
ったのか。創世記5章24節でも「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくな
った」と書かれるのみです。
 ユダヤの伝承では、エノクとは神に近づくことをずっと求めて、とうとう神さまに
近づき死を体験せずそのまま天に上げられた。神様に取られたのだ、と言われていま
す。日本的な感覚でいうと修業に修業を重ねてとうとう神様になったという形が何人
もあります。しかし聖書ではどんなに人間が修業しても修業しても、人間は神さまに
絶対なれません。どこまで行っても神さまは神さま、人間は人間なのです。しかしヘ
ブライ書は5節に「移される前に、神に喜ばれていることが、証明されていたからで
す。」これも原文は「証されていた」からです、となっています。神に喜ばれるている
ことが証されている人生とはいかなる人生であるのか。エノクの人となりが分かるの
は創世記6章21〜24節のたった3節です。書いてあるのは、65歳で初めての子を与
えられたこと、その後300年神と共に生きたこと、そして息子を娘を向けたこと、365
歳まで生きて、死なないで神さまに取られたことです。
 アベルと同じというか、いわゆる私たちが見るところの信仰の証なる出来事がない
のです。エノクも又、会社を建てたのでもなく、事業を興したのでもなく、歴史的な
建造物や世界遺産に数えられるものは、何もない。ただ神さまと共に365年生きまし
たというのです。もしやこの365年は356日を象徴しているのでしょうか。つまりエ
ノクはいつでもどこでも、仕事の時も家にいる日常の時も、ずっと神さまと共に歩ん
だということでしょうか。私たちは確かにこの世に対しては良い仕事をなしても家庭
においては、不幸な方があります。反対に家庭においては恵まれたが、社会では恵ま
れず大変だったという方もあります。しかしエノクは365日、どこにあって神さまを
見上げて歩み、これが天に取られたとしか言いようのない人生になったと言うことで
ありましょうか。6節にはエノクの生き方は「信仰がなければ神さまに喜ばれること
はできません」の証であったというのです。
 7節は、読みませんでしたが、イスラエルになる前の原始人間としての信仰者に、
ヘブライ書はノアを示しています。創世記6章から10章にあります。これは最近も余
り人気がでませんでしたが、ハリウッド映画になりました。粗筋を語る必要はないか
も知れません。ノアは地上が乱世の時代に生きます。現代的かもしれません。誰も神
さまを信じない時代に生きるのです。そこでノアは神さまの言葉を聞きます。それは
洪水が来て、全ての人類は亡びる。しかしお前は箱船を造り、そこに動物達と家族を
入れて、生き延びろという言葉です。聖書にはありませんが、ユダヤの伝承はノアに
対して一杯物語を作りました。ノアはこの言葉を聞いて、大きな鐘を造り、毎日なら
したと言われています。何事だと人々が集まると主なる神様は、洪水を起こされるの
で準備しろというのです。しかし雲一つない砂漠地帯でなぜ誰がそれを信じることが
できましょう。神の言葉を聞いてからノアはレバノン杉を毎日切って運び、箱船を建
造しだしたと言うのです。しかしノアが暮らしているのは、パレスチナの砂漠です。
砂漠の真ん中に船を造る。これは本当に目茶苦茶です。差別用語になりますが、ある
種のきちがいとなります。しかしノアは神さまの言葉を忘れることが出来ません。人々
に馬鹿にされなながらやはり、箱船を作りをやめないのです。砂漠の中に、雲一つな
い時に洪水に準備する。キリスト者の歩みの一つの象徴です。
 これは4年前の東北地震の時に、極わずかですが、幾つかの村が昔の伝承や古老の
言葉を覚えていて丘の上に家を建てていて、洪水を免れたというのがありました。本
当に極わずかです。しかし原発の放射能まで準備するは出来ませんでした。
 しかし改めてキリストを信じて死んでいくというのは、アベルに続き、エノクに続
き、そしてノアに続くことなのであります。そして私たちは今召天者の紹介に在ると
おりに私たちもまた、自分達のアベルを持ち、エノクを持ち、ノアを持つのでありま
す。私が鹿児島に来まして13年が経ちました。召天者紹介でいうと来て11ヶ月目に
松田敏姉が最初の葬儀です。その一ヶ月後に藤田富子姉でした。1年5ヶ月目にT.S
姉でありました。T.M姉以下13人が書いてありますが、お墓が別にあって葬儀会
場で、葬儀だけなした方も高木姉のお母さんや元こちらの会員であったT兄とあり
ます。突然その方の一生を聞かねばならなかった方や、ずっと12年間語り合って、召
天された方あります。それぞれに多くの印象があります。
 今一人ひとりを思い出します。S姉は何度か言いますがが、中国残留孤児の
支援と中国文化交流をされていました。夜の12時過ぎてもお悔やみに来られた残留中
国人がありました。この内、一言も会話が出来なかったのがs兄とK姉です。K
姉はずっと眠ったままでありましたが、何故か聖書を枕元で読み祈るとアーとかウ
ーとか言われるのです。H兄はずっと100歳まで生きるとして数え100歳の召天で
ありました。I姉は、死ぬ召天数日前まで、冗談を言い笑わせました。F姉
とK兄は、短い聖書の話を枕元でじっと聞いてくださった方々です。K兄は一番
お世話になった方、A兄は有る意味で一番祈って頂いた方になると思います。それ
ぞれに、思い出ばかりです。M. M姉は、直接的にはお話し出来ませんでしたが、
高校時代のお友達が今も霊園に来られて、その人となりを知る方になります。
 それぞれに信仰を持ち、主なる神さまを仰ぎ見つつ召天されていきました。大きな
業を成された方もありますが、それこそアベルやエノクのように、何をしたのか形は
残らない方もあります。しかし見えない神さまを信じ、まだ見ぬ神の国を仰ぎ見て召
されて行かれました。ある意味でエノクのように神さまによって天に移されたのです。
私たち達は復活を待ってまた出会えることを信じます。また、召された方といろいろ
な話が出来ると信じます。後は、私たちが出会った時に恥ずかしくない生き方をする
のみです。罪を犯しつつですが、それでも罪を告白しつつ、恵みにより、イエス様を
信じて証して自分の与えられた自分の人生を、生きたいと示されます。

 祈ります。「天の父よ、本日は遠くより、近くより、ご遺族の方が集まり、毎年の召
天者記念礼拝ができますことを感謝致します。あなたはよしとされる時に、それぞれ
に父母を備えて、この世に私達の体を与え、よしとされる時に、バプテスマを備えて
くださいました。今この世の命を、終わりあなたの元に召された人生の先輩達を思い
出しています。どうかアベル、エノクのように、あなたを証し、あなたを指し示すも
のとしてください。復活の時には、どうか、またまみえることを信じます。又会いま
すときに、楽しく語れるようにしてください。どうか、わたし達に備えられた道をあ
なたの恵みをもって導き下さい。バプテスマ準備の方、病気との戦いの方、一人暮ら
しの方守ってください。東北地震の避難者、シリアの難民お守りください。今週もあ
なた共に歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン」
   エレミヤ34章8〜16節             2015年10月25日
                  「 奴隷の解放 」
   今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることが
できますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日
と1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の
罪の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は早いもので10月最後の主日礼拝となりました。来週は11月になります。先
週の日曜日はお腹を壊して、ほとんど準備のできない大変な主日礼拝でありました。
なんとか礼拝の務めを終えましたが、ある薬を飲んでなんとか納まりました、という
話をしました。後から「先生あの薬は、今は余り使われていない、名前の通りに余り
にも強すぎて良くないらしい」と聞きました。本当に子供の頃からの薬ですので効け
ばいいかと思いましが、インターネットで調べてみますと、確かに今は効きすぎてよくない薬
らしい、とありました。つまり良い菌も悪い菌もやっつけるのだそうです。どうしよ
うもないときは仕方がないが、本当は勧められない、とあります。
 後からいろいろと考えさせられます。力を使ったの制圧は確かにその時は、すぐ効
く速効です。しかし後から必ず無理が来ます。隠れたところからほころびて行きます。
今は時々しかありませんが、自分たちが小さいときは学校は体罰がありました。田舎
の中学で育ちましたので、怖い体育の先生が目が光らせていて、悪い子は力で押さえ
ていたものです。規律が保たれるように見える反面、しかし生徒としては、隠れたい
じめ、恨みが溜まっていくことになります。突発的な事件が時々起こりました。
 聖書の場合は、一番力のある方がなぜかその全能の力を使わずに、十字架について
くださいました。これによって私たちに正しい道を示されたのです。改めて人間が思
いつかない方法である。同時に、本当によくなること、よくしていくことの難しさを
思います。人間の悪い菌だけ殺して、よい菌は殺さない薬は、なかなか大変な技術だ
と思いますが、今はだいぶあるらしいです。

 さて本日は、第4主日ですのでいつものように、旧約聖書の名場面と言うことでエ
レミヤ書から聞いていきます。先週も『聖書教育』誌がエレミヤ書でしたので重なる
ことになります。しかしエレミヤ書は、預言書ではイザヤ書に次ぐ大切な書ですので、
何度も開くことで、神の言葉の理解が進み、続けて聞いていくことを願っています。
 本日のエレミヤ書34章でここも又有名なところであります。出来事は非常に分かり
易い所です。解説の必要がないくらいはっきりしております。時はバビロンに攻めこ
まれる直前のエルサレムであります。時の王ゼデキヤ王は、もうだめだかと観念して、
エルサレムにいる奴隷達のことを考え、奴隷解放を宣言したのであります。しかしな
んと奴隷解放を宣言して舌の根も乾かぬうちに、それを取り消したのです。出来事は
たったこれだけです。しかしここに多くの主の教えが隠されて、メッセージが込めら
れています。
 さてまず何故またゼデキヤ王は、奴隷解放を宣言したのかです。ここは私たちは奴
隷解放というと何と言ってもアメリカのリンカーン大統領の南北戦争の奴隷解放を思
い出します。リンカーンの伝記では必ず出てきます。まだリンカーンが小さい頃、お
父さんと共に町を歩いていた。すると黒人達が売られていた。それを見て幼いリンカ
ーンは「お父さんあの人達は何をしているのか」と聞く。お父さんが「あれは奴隷商
人達で、売られているのはアフリカの黒人達なのだ」と教えてくれるわけです。リン
カーンは小さな心で「いつか僕が必ずあなた達を救ってあげる」と固く決心したので
した、とあります。涙涙の物語ですが、真偽はよくわかりません。しかし実際にはか
なりの確立で真実でないかと言われています。リンカーンはアメリカの大統領の中で
常に人気ナンバーワンの政治家だそうです。関係ありませんが、日本では何度アンケ
ート統計をとってもやはり政治家ナンバーワンは、西郷さんだそうです。2番は上杉
謙信だそうです。
 しかしもちろんゼデキア王は、このリンカーンのように義憤に駆られて奴隷解放を
宣言したのではありませんでした。実は聖書では奴隷解放をするように、出エジプト
記21章と申命記15章に書かれているのです。厳密にいうと聖書の解放奴隷は、債権
奴隷であります。レビ記25章42節には、本来は神の民イスラエルには「奴隷があっ
てはならない」とあります。しかし現実には借金が多くなってどうしても返すことが
できず、日本では自己破産になる場合があります。この時、エレミヤ時代のイスラエ
ルでは奴隷になりました。しかし出エジプト21章2節と申命記15章12節には、奴
隷は6年間奴隷として働き7年たったら解放せよ、となっています。つまり聖書では
奴隷は、解放が約束されている奴隷になります。
 奴隷解放の規定をよくよみますと、たとえば申命記15章18節には「自由の身とし
あなたのもとを去らせる時には、…あなたの神、主はあなたのおこなう全てのことを、
祝福される」という約束がついています。ここから察しがつきます。ゼデキヤ王はバ
ビロンの軍隊に自分たちが囲まれるのを目前にして、奴隷の解放を宣言して最後の神
頼み、神さまの祝福の守りを願ったことになります。もちろんこれは良い見方であっ
て、ゼデキヤ王が最後に神さまに頼るだけの信仰が残っていたのかと疑問を提出する
学者もいます。
 ここでゼデキヤ王がエルサレムの奴隷を解放したのは、バビロンの軍隊に囲まれた
のを見て奴隷が蜂起して、敵だけでなくて自分たちの中で戦いが起こるのを阻止した
と見る人もいます。また貴族達が奴隷を持っていたと考えられるが、奴隷をもつとい
うことは食物を与えることになり、バビロン軍に囲まれたら食料の調達が難しくなり、
奴隷解放とは実は、奴隷を持つ責任を放棄することであったと言う説もあります。ま
た食料だけでなくて、奴隷を持つ事にまつわるいろいろな負担から逃れるためであっ
たという説もあります。しかし、ゼデキア王には全く信仰はなく、実利のためのみつ
まり奴隷の集団蜂起を恐れ、食料支給や監督の責任を逃れるのみであったというのは、
当たらないでしょう。ゼデキア王は少しかも知れませんが、出エジプト21章、申命記
15章の奴隷解放にまつわる主の祝福の約束をやはり期待したと思います。
 それは私たちも、最後の最後で、どうにもならなくてなった時に、祈るしかないと
なります。最後は、神さまの守りを求めるのと似ております。私たちはやはりどうに
もならない病気の時、自分の力を越えた出来事に巻き込まれる時、主に祈り、主の聖
霊の導きを求めるしか無い時があるのです。
 11節。しかしとんでもないことがおこりました。ゼデキヤ王は「しかしその後、彼
らは態度を変えた」とあるのです。そして「一度解放した男女の奴隷を、また強制し
て奴隷とした」のです。ここもなぜそうしたのかがいろいろ言われています。詳しい
ことはよく分かっていないのです。大きな流れは、エルサレムは最終的に完全に第2
次バビロン捕囚で滅びるのです。しかし最後バビロンの包囲網が、一度切られたこと
があったとされています。なぜバビロンが包囲網を解いたかですが、エジプト軍の援
軍がイスラエルの国境に到達して、バビロン軍は後のエジプト軍に対応するために、
一度エルサレムから軍を引いたらしいのです。
 しかし不思議なことにこれがまた、エルサレムの住民には、バビロン軍が引き揚げ
たと受け止めてしまうのです。戦争とその後の処理には、皆さんもいろいろな間違い
を、聞かれることが多いと思います。余り良い例ではありませんが、先の大戦の沖縄
では、余りにも戦争が酷かったので、沖縄の人達はこのまま自由の国アメリカに留ま
った方が良いという期待があったことを聞いています。しかし数年もしないで、余り
の占領軍の横暴をみて、祖国復帰運動が起こったと言われています。しかし現実には、
沖縄にとって日本は祖国ではなく、沖縄の祖国は沖縄であったのです。また父の話で
は、アメリカの進駐軍が自分たちの村に来た時には、皆山に逃げて、暫く山小屋を造
ったよ、と聞いて大笑いをしたことがあります。白くて大きな体のアメリカ人の軍隊
は、当時の日本人から見ると鬼のように見えたのでしょう。実は平和特攻記念館に日
本軍の軍服がいくつも展示されています。ご遺族から提供されたとあります。本当に
小さいです。大きいものでも160pくらいかなというところです。
 又脱線しました。ゼデキア王は、ある意味で戦局を間違えて捕らえ、余りにも自分
の理想をバビロン軍の一時撤退に込めてしまったのです。自分たちエルサレムは大丈
夫だととったのです。そして、直ちに奴隷解放政策を廃止してしまったのです。余り
にも幼稚的な政策であるとなります。また余りにも稚拙な判断であります。そして、
ここをしっかりと見ていたのがエレミヤであり、また当たり前ですが、主なる神さま
でありました。
 12~16節です。主なる神さまはしっかりとエルサレムを見ておられたのです。主な
る神様は、直ちにエレミヤに語られます。「その時主の言葉がエレミヤに臨んだ」。私
はあなたがたがエジプトの奴隷の時から契約を結んで命じておいた。7年目には奴隷
を自由にせよと、しかし先祖達は従わなかった。そして15節、「お前達は皆隣人に解
放を宣言し、私の名で呼ばれる神殿において、私の前に契約を結んだ」。そして16節、
「ところがお前達はまたもや態度を変えて、私の名を汚した」と言われたのです。こ
こから分かることがいくつかあります。
 先ず主なる神さまはよく見ておられる。主なる神さまが見ておられないことはない
ということです。そして、ゼデキヤ王の奴隷解放宣言ですが、15節から神殿の中で、
うやうやしく儀式として、宣言されたと思われます。私の名で呼ばれる私の神殿にお
いて、私の前に契約を結んだ」は、これは神殿において、当時なされる契約の儀式を
ちゃんとしたというのです。単なる口約束のようなものでないのです。神さまの前に
なされた約束であった、主の前の誓いであったというのです。しかしこれが簡単に破
られて、奴隷解放宣言は破棄され、また元の奴隷は強制的に奴隷とされたのです。
 本日は読みませんでしたが、17~22節にあるように、主なる神さまは、18節にあり
ますが「私の契約を破り、私の前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが
契約に際して、2つに切り裂き、その間を通ったあの小牛のようにする」と言われる
のです。さらに19節にあります。「貴族、役人、祭司、国の民が」つまり契約の締結
では、神殿においておそらく小牛が2つに裂かれて、その間を神殿最高責任者のパシ
ュフル大祭司が通り、ゼデキヤ王が次となり、貴族、役人、祭司、そして国の民、お
そらく指導者、長老達であるとされます。これらも通ったのではないでしょうか。そ
の時の小牛のようにするといわれるのです。
 私たちはここで、主なる神さまは、本当にゼデキヤ王が奴隷解放をしたならば、エ
ルサレムを赦そうとされていたことも分かります。主なる神さまはあれほどエレミヤ
を通してエルサレムの滅びを語られました。しかし、なお主なる神さまは、申命記15
章18節の約束「自由の身としてあなたの元を去らせる時には…あなたの神、主はあな
たの行うことを全て祝される」を実行しようとされていたのです。エルサレムの奴隷
解放に応えて、エルサレムを赦そうとされていたのです。しかし今やその最後の望が
断たれています。
 私たちがここで知らされるのは、改めて主なる神さまとの約束を一端なしたならば、
それを守り抜くということです。それは確かに難しいです。なかなか出来ません。い
つも破ってばかりの私たちです。しかし神さまはご自身は、約束を守る者への祝福を
本当にいつも考えておられるのです。主なる神さまはご自身の名が軽んじられ、ご自
身が恐れられないことを、一番お嫌いのようです。主なる神さまは契約の主であり、
祝福の契約を守り続ける神さまであります。
 主なる神さまはバビロン捕囚に見られるように、もう完全に敵に囲まれて人間がで
きることは何もない状態の時であっても、しかしなお救いの手段をお持ちだったので
す。それはどういうことか人間には、分かりません。しかしエルサレムの罪を赦すつ
もりだったのです。神の御子が十字架に付けられるというのは、私たちはイエス様を
見て、当然のごとくに受け止めています。しかし、改めてイエス様の十字架は、神さ
まのウルトラCだったのです。信じれば赦されるというのは、本当は恵みではないで
しょう。それに従えば、大丈夫というのは、自動販売機の信仰です。信仰というコイ
ンをいれれば、ちゃりんと救いが出てくるのです。これは本当の恵みにならないでし
ょう。
 恵みというのは、予想外であり、あり得ないことです。エルサレムが赦されるのは、
バビロン捕囚を目の前にしては、不可能だったのです。ゼデキヤ王の最後の望みにか
けて、本当に主はそれを最後の赦し・救いにしようとされていたのです。しかしゼデ
キヤ王とエルサレムは裏切りました。神さまはどうしようもなかったのです。自分か
ら離れて、契約を破っていく民を主はどうもされない。持つ手を離すしかない。しか
し最後の望であれ、主の約束を守って来る者を祝福せざるを得ないのです。十字架の
イエス様のへの信仰は、赦されない者が赦される信仰です。裂かれた小牛のように、
イエス様の体が裂かれました。そして、その間を通る者、つまりイエス様を信じる者
の罪を赦され、祝福されるのです。私たちは又1週間、この恵みを受けて歩みます。
 
祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。10月も第4週目になります。10月の守り
を感謝し、来たる11月の歩みを、み手においてください。10月は幼稚園の運動会に始
まり、国分や熊本での研修会、K兄の納骨式を無事行う事ができました。導きを感
謝です。Y兄のバプテスマクラスをしています。続けて守ってください。ひとり暮
らしのご高齢の方、O姉、Y姉、H姉、K姉、K姉支えてください。M
姉の施設の導き、H姉は、半年の治療に入られます。どうか治療を導きまた御手に
おいてください。ご家族の守りをおいてください。いろいろな事件が続きますが、み
手においてください。東北地震、関東の大洪水、口之良部の方々守ってください。幼
稚園の働きと小羊クラブを続けて守ってください。み名によって祈ります。アーメン。」 
   エレミヤ13章12〜17節  祈祷会     2015年10月14日
   今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることが
できますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日
と1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の
罪の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週は金曜日の晩に食べた寿司が悪かったのか、久しぶりに、お腹を完全に壊して
しまいました。こんなにやられたのは、本当に珍しく、何年かぶりです。不思議なも
ので、土曜日の朝は大丈夫そうだと思ったのです。壮年会お掃除も普通にできたので
す。しかしお昼を食べる頃から急に体調がおかしくなり、何度もトイレにいくところ
となりました。とうとうバプテスマクラスをお休みして、説教だけは仕上げないとい
う気持ちで、準備した次第です。
 お腹は強い方ではもちろんありませんが、それかと言って弱い方でもなく、普通だ
と思っておりました。しかしお寿司でやられるとはがっかりです。これからは注意し
て食べようと思います。一緒に食べた雅子姉はなんともないのですから、自分だけが
やられたことになります。弱くなっったようです。注意して歩みたいです。

 さて聖書は、第3主日ですので、いつものようにバプテスト連盟が出している『聖
書教育』という教会学校の雑誌のなかから聞いて行きます。本日の分級の箇所ですべ
てのバプテスト教会が開いている聖書の箇所です。聖書教育誌は、4ヶ月学びました出
エジプト記を終わり、エレミヤ書を2ヶ月間学ぶとなっています。ちょうど、最後の
週が旧約聖書の名場面という方針でエレミヤ書を開いております。重なることになり
ます。皆さんは、またエレミヤ書かとなると思います。しかし反対からいうとエレミ
ヤ書の達人になることであります。繰り返しが多くなりますが、主の言葉、神の言葉
として聞いて行きたいと思います。
 分級のテキストは、エレミヤ書13章を学ぶことになっています。ここは実はすでに、
一度聞いたところであります。しかし何度聞いても、大切なところです。通常この13
章は、エレミヤの予言活動の第3期預言と言われています。少しエレミヤの年齢と預
言を活動を語っておきます。
 エレミヤの第3期の預言は、おそらくゼデキヤ王時代、第1次バビロン補囚と第2
次バビロ補囚の間の11年、BC597年とBC587年の最後の破局となる間の預言とされて
います。すでに学んでいますように、この第3期の預言が、エレミヤ書では一番多い
とされています。年齢のでいくと、エレミヤ56歳から66歳の11年間であろうと思わ
れます。ある意味でエレミヤの円熟時代、預言者としても年齢から言ってもそのまま
神様の言葉を受けて、語れた時代ではないかと思います。もちろん預言者とは読んで
字のごとく、聖書では特に未来を当てる預言者でなくて、神の言葉を授かった、預か
ったという意味が強いです。本来は年齢に関係ないのです。主が言葉を与えらた。そ
したらそれを語る。基本的に聖書の預言ははそうなります。だから血筋ではありませ
ん。学歴や経験でもありません。もちろんエリヤ、エリシャ時代には、預言者学校が
あったという学者もいます。主の言葉を語るにはそれなりの語り方が必要であり、様
式や形式があります。生まれつき勉強しなくても語れる方、できる人もいるかも知れ
ません。しかしある程度は歴史や学びが必要でもあります。ですから、学校が必要な
時もあります。しかし神様があるときは子供を通して、語られることがあります。福
音者に出てくる野原での5000人の給食の時、自分の弁当を差し出した、5つのパンと
2匹の魚を差し出したのは、ある意味で神様が子供を用いて語られるとなるでしょう。
 しかしそうは言ってもエレミヤは神の言葉を語る機械ではありません。自分の人生
において、自分の生き方を重ねつつ語って行くのです。これはイザヤもエゼキエルも、
主はこう言われるといいつつ、その言葉を自分で生きていることが示されています。
エレミヤの第3期56?66歳時代の預言というのは、本当に自分の生き方と神の言葉が
呼応し、遺憾なく語れたのでないかと思います。
 実は、この壺とブドウ酒の例えは、1?11節に続くエレミヤの帯の預言につながって
います。13章1節では、エレミヤは主なる神様によって、麻の帯を買い、これを腰に
締めて、水で洗うなと言われます。すでに前の主日礼拝でも語りましたが、いろいろ
なとり方があります。まずエレミヤの麻の帯ですが、エレミヤは祭司をしております
ので、大きな儀式で使う祭司の帯であろうと言われています。おそらく遠くからでも
人々にすぐに祭司様とわかる麻の帯だったでしょう。これを水で洗うなというのは、
洗濯の禁止であり、汗や生活や礼拝儀式の動作でどんどん汚くなり、汚れていったで
しょう。イスラエルの祭司は動物犠牲を献げますので、今でいうところの料理人と似
ております。礼拝に参加する毎に洗濯できない帯は、汚れていったと思われます。
 そして、この汚れがおそらくエルサレムの王様から祭司、預言者、住民に至る罪の
汚れを示していたと思われます。そして4節に、主なる神様はとうとう「この帯を外
してユーフラテス川に行け」と言われます。実はエレサレムからバビロンのユーフラ
テス川は、道のりで1000キロあります。エズラ7:9ではユーフラテス川からエルサ
レムは「第1の月に出て第5の月に着いた」とあり、おそらく月令の暦は27日ですの
で、当時は135日つまり4ヶ月以上かかったとされます。13:5節に行って、6節には
多くの月日がたって、また行ったとあります。エレミヤが1000キロの道のりを2往復
するはずがないと言われています。ですからこれはイスラエルにあるユフラテという
川があったという説もあります。しかしユーフラテス川はバビロンを象徴する川です
から、同じ名前の川がイスラエルにあるはずがないとされます。どのようにしてエレ
ミヤは、バビロンまでの2往復をしたのかわかりません。しかしやはりユーフラテス
川に行ったと取るのがいいとされます。
 自分の祭司の帯をユーフラテス川に持っていって岩に隠し、また戻ってくると言う
のは、明らかにバビロン第1次補囚とそこから帰ってた民が使い物にならないほどひ
どくなっていることを示しています。おそらく第1次補囚民が、バビロンで偶像礼拝
を覚えていたことでありましょう。それでいて「エルサレム神殿は滅びない」と信じ
ていたというのですから、よく分かりません。しかし私達も、悔い改めのない信仰を
重ねるのはあり得ると思います。私達も又、ちっとも悔い改めがないのに、自分は救
われている、救われたと言うのと似ています。人の悪口ばかり語り、自分からは弱っ
ている人を支えようとせず「救われた、救われた」という私達なのです。
 日本の歴史でいうと、西郷さんが城山でなくなった2年後の1879年の沖縄の琉球処
分、1910年の韓国の韓国併合とこれは、当時はどこの国でもしていた植民地主義なの
で悪くないという意見を持つ人がいます。しかし、聖書からはエレミヤ書からは正義
の欠如と愛の欠如と言わざるをえません。しかしながら私の亡くなった母は、第2次
大戦中は「日本は神国であるので、アメリカに必ず勝つと思って戦った。全然疑わな
かった」といつも教えてくれました。エレミヤ7章4節エレミヤはエルサレムの人々
に「『主の神殿、主の神殿、主の神殿』という偽りの言葉を頼んではならない」といい
ました。当時エルサレムの人々は、王様、祭司、エレミヤを除いた預言者すべてが「こ
のエルサレム神殿は主なる神の神殿である。絶対に滅びない」という信仰を持ってい
たのです。エレミヤだけが、ある意味で冷静に透徹に、エルサレム神殿は滅びると神
様から聞いていたのです。罪を犯し、偶像礼拝をなし、正義をいい加減にし、隣人を
虐げる愛のない民エルサレムの民は、必ず滅びるしかないとしたのです。余りにも似
ているので、驚くのです。というかこれの事は繰り返されるのでありましょう。
 さて本日の箇所13節はいろいろなとり方がある壺とぶどう酒のたとえです。これは
いくつかの解釈があります。1つは「壺にぶどう酒があるべきだ」は、生活の知恵とい
うとり方です。常にブドウ酒や油を切らさないあり方です。料理の時に、醤油や油が
切れているといざと言う時に、困ることがあります。鹿児島で言うと常に焼酎をおい
て、切らさず、ご主人に備えている姿ともいえます。お父さんが仕事で疲れて帰って
来て、あら焼酎がない、と言ったことがないようにという常々の備えのことを教える
ということです。
 2つ目に、壺というは、実はヘブライ語でネーベルと発音しますが、これはヘブライ
語のナバルつまりり愚か者に近い発音なのです。つまり「壺すなわち愚か者には酒を
満たせ」といった。酒飲みをたしなめたことわざという説もあります。愚か者には酒
を満たして、食らわしておけばいいのだ、というたとえです。つまりお前は酒ばかり
飲んでいると壺(ネーベル)すなわち愚か者(ナバル)にしかならんよ、という掛詞
の類です。しかしどちらにってもあまり気の聞いた言い方ではなく、すぐにイスラエ
ルの民が、それを「我々が知らないとでもいうのか」と答えています。つまり、エレ
ミヤさん、当たり前のことをガタガタいうなと言うことです。これはイスラエルの民
がエレミヤを馬鹿にしている具体例とも言われています。
 エレミヤは「神殿は滅びる、神殿は滅びる」と言っていつも自分たちを不安にする
預言者だ。しかしなんのことはない。神の言葉を受けておらず、当たり前のことしか
言わん最低の預言者であるのだ、と言うことのようです。つまりエレミヤが語る神の
言葉は完全に軽んじられ、馬鹿にされていたのです。13節に主は、すべての民を酔わ
せると言われ、14節には、主は、彼らを憐れまず、全く滅ぼすと言われます。主なる
神は、高慢や傲慢を誠に嫌われる方であります。罪の姿は、いろいろな形になって現
れますが、一番はこの高慢、傲慢といえるでしょう。
 実は3番目のとり方に、ぶどう酒をエレミヤより前の預言者イザヤの63:3の主の怒
りのぶどう酒と取り、ぶどう酒を満たすとは高慢を飲ませる。高慢と傲慢をもってエ
ルサレムを満たすという取りがあります。実は主の主の審判のもっとも巧妙な審判は、
傲慢と高慢の中にその人を落とされることであります。それは出エジプトのファラオ
以来、ずっとそうなのです。モーセが何度、言っても聞かれない。何度言っても馬鹿
にして打ち合わない。まさに高慢と暴慢こそ主なる神様が、その人、その国、その民
族、その家族、その会社、その度、破滅させる方法なのです。
 そして高慢、傲慢を、なぜ主が嫌われるかというと、主のみ言葉を聞けなくするか
らです。自分は正しい、自分は間違っていない、自分は間違うはずがないとして、違
った見方や考え方を全く認めないのです。たとえ行動は変わらないかもしれない。自
分の主張は自分の主張として持っておく。しかし違った見方から見ると自分は違って
みえるのでないか。違った観点からは、違って映るのだということを悟らない。これ
がもっとも酷い原因が高慢と傲慢です。
 ここで主は彼らを滅ぼす、といわれます。しかし高慢と傲慢の人は、実は本当の現
象は自分から滅びて行くのだと思います。真理から外れるわけですから、滅びに向か
っていることになるのです。宮崎の平和公園の八紘一宇の塔にある中国から持ってき
た石を、中国が返してくれと言うそうです。今更と言うのか寛容がないとも言われま
す。しかし八紘一宇は神国日本を、宇宙の中心に置く考え方です。これは考え方にお
いては、中国が困るというのは、仕方ないとも言えます。地球は丸いのでどこも中心
なのです。しかし自分だけが中心で、神国で世界の中心なのです、と言うのは、どう
かなという観点を持つということです。「自分をよく知り、敵を知りずんば、百戦危う
からず」です。これは中国の孫氏の言葉です。聖書に直せば「真理はあなた方を自由
にする」(ヨハネ8:32)です。自分の非を知り、相手の非も知る。そこから正しい行動が
でてきます。高慢傲慢はそれをさせないのです。
 15?17節は、エルサレムの最後の滅び、第2次バビロン補囚が来ることを語ります。
15,17節の基調音は「聞け」です。主が語られる、高ぶってはならないとエレミヤは語
ります。「聞け」という呼びかけの間に「栄光を主に帰せよ」と言われています。栄光
を主に帰するのは、高慢・傲慢の人は無理です。本当にことの事態をわかっている人
は、真理を知る人は、栄光を自分に帰することをしません。
 この前の日本のラグビー選手が活躍しました。インタビューでも、最高得点をマー
クした選手に「活躍しましたね」と言われて「いや皆が頑張ってくれたからです。ボ
ールを回してくれたからです」と、自分の活躍は全く語りませんでした。チームプレ
ーは皆そうかもしれませんが、それにしても徹底して謙遜な人だなと思いました。ラ
グビーは特にボールを持っていない選手の隠れた働きが大切なスポーツなのですとい
うのが、解説者のことばでした。すごいなと思います。ボールを持っている人よりも
持っていない人のプレーが勝敗を左右するゲームです、と言われる。そしてそれを、
大活躍の選手がよくわかっていて、自分のゴールは全く語らず、チームの支えに栄光
を帰しておりました。
 あらためて自分はラグビーのラの字も知らない、体が痩せてこれですので、全く興
味を持ったことのないスポーツです。しかしボールを持たない選手の動きが、大切な
競技ですと言われると、キリスト者の道に近いスポーツのようです。私達は主にひた
すら栄光をイエス様にのみ帰して、主の示さえる道を、支えていく務めを、しめされ
ます。イエス様の十字架の贖いは完全です。この恵みに応えて今週も歩みます。

祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。10月も第3週目になります。日々の守りを
感謝します。続けて10月を御手においてください。先週はK兄の納骨式を無事行
う事ができました。導きを感謝です。バプテスマクラスをしています。続けて守って
ください。ひとり暮らしのご高齢の方、O姉、Y姉、H姉、K姉、K姉支
えてください。M姉の施設の導き、H姉は、半年の治療に入られます。どうか治
療を導きまた御手においてください。ご家族の守りをおいてください。東北地震、関
東の大洪水、口之良部の方々守ってください。幼稚園の働きと小羊クラブを続けて守
ってください。み名によって祈ります。アーメン。」


   第1ペテロの手紙2章18〜25節      2015年10月11日
              「 善を行う苦しみ 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 昨日はお天気が守られて幼稚園の運動会ができました。お祈りを有り難うございま
した。夕方からの雨が早く来たらどうなるかと思いましたが、とうとう降らず、カン
カン照りでもなく、曇りでちょうど良かったです。雨が降ったらもちろんできません
し、カンカン照りでも子供達は、熱中症があるので心配です。曇りが一番です。現在
幼稚園部は64人になっているので、人数が多くてどうなるかと思いましたが、保育園
部の先生の協力もあり、手際の良いことこの上なしでした。7時半からのテント張り、
ライン引きやのスタートも素早く、終了も非常に手際よかったです。いつもテント4
つを教会のバプテストリーの下にいれ、それからも結構いろいろと片づけの仕事があ
るのです。しかし昨日はテントの片づけを終えて、庭に出た時には、すべてが片づい
ておりました。こんなに手際よく片づけてくださるのかと、先生方や父母の会の方が、
非常によく動いてくださったことを感謝しました。
 プログラム・競技種目も、今回「表現遊び」は『赤ずきん』をテーマにして羊が狼
に食べられて、そこから脱出する表現遊びでありました。よく考えられていて見てい
る方も楽しく、幼稚園らしい運動会でした。初めて見られる先生が、今年は多かった
ですが「先生、楽しい運動会でしたね」と言っておられました。本当に皆様のお祈り
を感謝です。

 さて聖書は、第2主日ですので、使徒達の手紙から聞いていきます。本日はその中
でも第1ペテロの手紙2章になっております。ここは具体的なキリスト者の生き方の
勧めになっています。実は本日読んだところが18節の前の表題に「召使い達への勧め」、
次の3章が「妻と夫の教え」になっています。このような家庭における教えは、エフェソ
の5,6章やコロサイ書3章にもあり、初代教会の一つの教えの形であったとされています。
通常このような夫と妻、親と子、僕と主人に対する教えを、家庭訓、家庭の戒めと言
っています。しかし本日の第1ペテロの2章の教えはエフェソ5,6章やコロサイ3章と比べると
圧倒的に「召使達への勧め」が長く詳しいことが特徴です。
 なぜ、第1ペテロはこの「召使いへの教え」が極端に長く、多くなったのかです。
これは明らかに初代教会の中に、その教会員に召使いが多かったと言われています。
18節にはあえて、奴隷達と言う言葉を使っていません。しかし当時の召使達はほとん
どが身分でいうと奴隷であったと言われます。そして初代教会はほとんど奴隷達つま
り身分の低い者達が集まり、ここからキリスト教は広まっていったのであります。
 奴隷といいますとローマ帝国や古代ギリシャの大きな特徴です。私達の思っている
奴隷とちょっと違うかも知れません。もともろ奴隷はローマ帝国にはなかったと言わ
れています。しかし周りの国を制服していくなかで、戦争捕虜が多くなって奴隷が増
えて来たと言われています。実は奴隷は、私達は肉体労働の奴隷だろうと思いますが、
ローマ社会には家庭教師とか芸術を担当する奴隷とかありました。中には医者とか建
築家の奴隷がいたとされています。だからご主人よりも今でいうところの教養のある
奴隷もいたのです。しかしローマ法では法的には、奴隷は人格がなく、奴隷は物とし
て扱われました。自分のものは壊しても誰も文句言われません。同じように、奴隷は
自分のものですから活かす殺すは主人の自由だったのです。奴隷は結婚できませんで
した。しかし同棲することができて家族を持てました。しかしローマ帝国の奴隷はも
のですから、ちょうど家畜の子が主人のものになるように、奴隷の子は、主人のもの
でありました。
 ちょうど私達の使う道具と似ています。奴隷はものを言う道具という見方をしたそ
うです。道具は捨てられ、買われますが、奴隷はそれと同じでした。捨てられ買われ、
勝手に手放されたのです。しかしここにキリスト教が広まってきました。ガラテア書3
章28節「そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女
もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて1つだからです」という福
音が入ったのです。各地に教会が立つとそこでは、自由人と奴隷が一緒に礼拝をした
ようです。中には、教会の執事が奴隷で自由人が一般信徒という教会も出てきました。
ある意味で一つの革命でもありました。
 しかしペテロの手紙はいいます。「召使達、すなわち奴隷達、心から畏れ敬って、主
人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と
書いています。さらに19節には「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお
望みだとわきまえて、苦痛を耐えるなら、それはみ心に適うことです」とまで書いて
います。今なら、とんでもないことであります。私達はなぜペテロの手紙は、召使達
に奴隷をやめて、自由人になれと言わないのか。正しい要求を無慈悲な主人に言うべ
きであるとか書かないのかと思います。また不当な扱いはとんでもないことであるか
ら、きちんと意見を言いなさいとかならないのかと言いたいです。しかしぺテロの手
紙は、無慈悲な主人にもよく仕え、不当な苦しみもまた、神がそうお望みだとわきま
えて苦痛を耐えよ、というのです。これはとんでもない話に聞こえます。
 今なら、こんな教えは教えになりません。通用しません。今、不当な扱いを受けた
ら、労働基準監督局に飛び込み、消費者相談に電話し、ハローワークに訴えなさい、
となるでしょう。そうすれば監督局はすぐに調査してくれますし、たとい罰則がなく
ても、それなりの注意・勧告をしてくれるはずです。ハローワークはブラック企業と
なれば、もう求職の次の相談に乗らないでしょう。そしてそれは当然な権利なのであ
ります。
 しかしペテロの手紙の古代社会ではどうであるのか。実は、奴隷の反乱は絶えず起
こり、ことごとく鎮圧されておりました。ユダヤの人々がどんなに力強く独立運動を
しても、すでにAD70年にはユダヤ戦争がおこり、エルサレムは完全に陥落しました。
またも反乱は鎮圧されたのです。ローマの圧倒的な軍隊の前に、どうすることもでき
なかったのです。奴隷に何ができたのか。当時は、何もありませんでした。
 できたことは何か。「奴隷も自由人もない、男と女もない」そんなイエス様の十字架
の神の国の福音を広めていくしかないのです。奴隷と自由人がない社会、男も女もど
ちらも自由な社会、そんな国を作るしかないのです。しかしそんな国があるのか。全
くの理想主義になります。しかしペテロの手紙は、まずそこから始めたのです。奴隷
も自由人もない平等の社会、男と女がない、平等の世界また社会、それはキリストが
おられる社会、神の国です。そこから広めよというのです。
 私は、これは今も同じかも知れませんと思います。今度の安保法案の審議も、沖縄
の普天間基地からでた辺野古基地の移転での調査取り消し問題も、根底はなんだろう
と考えます。どうも根底は国が問題です。国がなければ軍隊がいらないのでないか。
あるかないか分からない抑止力も考えなくてもいいのでないか。しかし国のない世界
というのはありえるのか。無い頭で考えてもさっぱりわかりません。しかし平和の国、
本当の国を考えると、聖書は、そういう神の国を目指しているのだと思います。そし
て私達はキリストの国または神の国はそんな国に違いない、と思うのであります。
 ペテロの手紙はいいます。「神がお望みだとわきまえ、苦痛を耐えよ」「善をおこな
って苦しみを受け、耐えよ。」そして19,20節共に「これこそ神のみ心に適うことで
す」となっています。ペテロの手紙が示す召使、奴隷の姿は、無慈悲な主人だろうが
なんだろうが「善を行って耐え忍ぶ」姿です。そして「それはみ心にかなうことです」
といいます。直訳は、実はなんと「それは神の恵みです」となっています。日本語聖
書では、さすがに「善を行って苦しみを受け、耐えよ」、「それは神の恵みです」と訳
していません。しかしう例えばルターが訳したルター訳聖書では、ここを「それが恵
みです」とちゃんと訳しています。
 恵みとは何かを改めてここで示されます。恵みとは私達はどこか不幸のないこと、
ご利益のあること、平和があって、楽しいことであろうと思います。しかしペテロの
手紙は、はっきりと2回も繰り返して「善を行って苦しみを受けていること」そのこ
と自身恵みです、というのです。恵みとは、キリストにあって善をおこなう苦しみの
ことなのです。不当な苦しみを受けても、神様がそうお望みだと信じて、苦痛を耐え
ている。これが恵みです、というのです。
 馬鹿言うでない。それは、虐待嗜好主義でマゾヒズムというのだ。キリスト教が虐
待嗜好主義、マゾヒズムであるわけがない。確かにそうです。苦しみを受けることを
喜ぶのだけなら、マゾヒズムになります。しかしペテロ書はいいます。善を行って苦
しみを受けること、神がそうお望みだということを知って、不当な苦しみを耐えるこ
とだと言うのです。これは神の恵みだというのです。20節にあるように、罪を犯し打
ちたたかれてもそれを耐え忍んでも、何の誉れもない。しかし善を行って苦しんでい
るのなら、それは神の恵みだというのです。
 私達はここに、善を行って結果がでるとか、不当な苦しみを受けても、忍耐をして
いたら理解されたとか、最後は理解されなかったとか、その結果がないことに気づき
ます。善を行って苦しみを受ける。そしてその最後、その結果、良くても悪くても、
神の恵みは変わらないことになります。21節にはもっと酷いことに「あなた方が召さ
れたのはこのことである」となっています。キリスト者つまりとにかくイエス様を主
と信じる者さらにイエス様の十字架と復活を信じる者は、善を行って苦しみを受ける
者である。そしてそのことが神の恵みになっているのです、となります。
 これではこの人は、この世では浮かばれません。心の拠り所となる、人生の平安と
なる。人生の究極の目的を示される。私たち人間は、神様に多くのことを求めて信じ
ます。しかし聖書は与えられて満足することと共に、さらに善を求めて、み心を求め
て苦しみを耐える。この方向も示すのです。つまり神様は道を示される。人は神様に
示される道を成して生きる。それが不当な苦しみでもそこに神様を見て、耐えるので
す。そこに恵みがある。
 なぜ、不当な苦しみを耐え、善のために苦しむことが恵みになるか。21節にはキリ
ストの模範があるから、といいます。キリストがそうされたのだというのです。キリ
ストはあなた方のために、苦しみを受け、その後に従うように、模範を示されたので
す。私達の恵みは、キリストの模範に示されているのです。22、23,24節は日本語で
は分かりにくいですが、模範の3つ並んだ理由になっています。1つ、この方は罪を
おかざず、口には偽りがない。2つ、この方は、罵られても罵りかえさず、苦しめら
れても脅さなかった。正しく裁かれる方に自分を任せた。3つ、この方は、十字架に
かかりその身に私達の罪を負われた。ここには、イザヤ書53章の預言に従い、実際に
そう歩まれたイエス様の生涯の歩みを、語ります。罪を犯さず、罵られて罵り返さず、
正しく裁かれる方に身を任せ、十字架に私達の罪を負われた方であった。それ故に、
イエス様の後を負うものは、そのままそれが神の恵みなのです。
 安保法案にあれだけの反対があり、慎重にしてくれという方が多いのに、辺野古の
基地移転も今もテント村の反対運動が続いているのに、しかし変わりそうにないので
す。すでに言われているように、中選挙区制度は、反対している人の数は多くても、
賛成人数は少なくても選挙に勝った地区が多いと勝った選挙区の多いほうが、有利に
なる制度です。不思議なことですが、本当は賛成の数は少ないのに、選挙に勝った地
区が集まると民意になってしまうのです。
 現実・事実と違うのです。まさに無慈悲な選挙制度です。不当な制度と言えるかも
知れません。ヒトラーを選んだドイツの民主選挙のようなものです。しかしどうなの
か。ペテロの手紙は、今も読むと革命も正しい主張も言わない。ただ神のみ心を信じ、
じっと耐え忍んで、苦しみを受けることしか言わない。しかしそこにおいて、何が起
ったのか。キリストの模範への応答が起ったのです。罪を犯したことがない人が、罵
られても罵り返さない人が、十字架にかかって私達の罪を担った。このことによって、
罪に対して死んで、義に対して生きる人を、霊において作り出すためでありました。
そして、イエス様の十字架の傷において、私達は癒やされたのです。
 今私達は平和の世界に住んでいません。日本は憲法9条に守られましたが、具体的
に基地の町沖縄には憲法9条はなかったとも言えます。ずっと基地があり続けたので
す。しかしペテロの時代に比べると奴隷と自由人の違いはなくなりました。奴隷制は
少なくとも理念上は間違いと誰でも知っています。未だ私達の世界には、女性差別は
残っています。しかしペテロの時代に比べると女性も男性も平等であるべきだは、よ
く知られています。2000年の長い歴史を伴って大きな変動が起ったのです。憲法9条
は確かに沙上の楼閣かもしれない。沖縄の基地があって9条が守られた面がある。し
かしそれは理想としては正しいと今回のことで改めてだんだん知らされつつあります。
私達は急激な変化をして元の木阿弥になるのと、じっくりしか動かない歴史を知って
います。ペテロ書は、イエス様の模範に従うことにかけたのでないかと思います。罪
に対して死に、義に対して生きる道は、息の長い道ですが、それしかない道とも言え
ます。
 25節のように、私達は羊のように迷います。しかし魂の牧者、監督者にところに帰
り続けます。国を超えた、神の国があるのかどうか、本当の平和の国とはどういう形
になるのか、未だわかりません。ただこの地上にある間、求め続けるのでないか。イ
エス様、神様は必ず答え実現してくださると言う希望を持って生きていきたいです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。10月も第2週目になります。昨日は幼稚
園の運動会の守りを感謝です。10月を御手においてください。本日と明日と国分で
青年伴走研修会、熊本では第5回宣教フォーラムが開かれます。守ってください。Y
さんのバプテスマクラスをしています。続けて守ってください。ひとり暮らしのご
高齢の方、O姉、Y姉、H姉、K姉、K姉支えてください。M姉の導き、
H姉は、半年の治療に入られます。どうか治療を導きまた御手においてください。
ご家族の守りをおいてください。東北地震、関東の大洪水、口之良部の方々守ってく
ださい。幼稚園の働きと小羊クラブを続けて守ってください。み名によって祈ります。
アーメン。」

   マルコによる福音書1章1〜8節       2015年10月4日
                   「 主の道を備える 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、本日と1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日早いもので10月最初の礼拝になりました。実は先週は、私の誕生日がありこれ
もまた早いもので59歳になります。なんと来年還暦です。信じられないというか、若
い頃は自分が還暦になることを想像することもできませんでした。しかし後1年でや
ってきます。記憶力は衰えるし、物忘れはひどいし、約束もメモをしていないとほぼ
忘れるようになりました。まだ大きな病気はありませんが、体力も大分落ちています。
そろそろ引退の準備しなければと思っておりましたら電話がありました。「先生、お誕
生日、おめでとうございます。」「とんでもないです。来年還暦です。どうにもなりま
せん」「そんなことないですよ。私はとうとう82ですが、60代が一番充実でしたよ。
体力は確かに落ちますが、どうにもならんということはないです。60代はようやく人
生が少しわかって、日々を暮らせるようになります。どうか良い60代になりますよう
に祈ります。」でした。50を過ぎる頃から誕生日は嬉しくもなんともなく、家族の買
って来てくれるケーキが美味しいくらいの感想でした。しかし「人間は60代が一番い
い時期かも知れませんよ」と言われると神様はこれからそういう時期を準備されるの
かもしれないと、単純な私は嬉しくなりました。にわかにまた持ち直しました。人生
60代が一番いいかも、なるほどです。教会もちょうど上半期が終わりましたが、また
下半期の歩みも、イエス様の恵みにすがって歩んで行きましょう。
 さて聖書は、いつものように、第1主日は主の晩餐を受けつつ、福音書から聞くと
いう方針でいます。とうとう先月にマタイ伝が終わりました。どこにしようかと迷い
ましたが、順当にマルコ伝から聞いて行くことにしました。12月のクリスマスや3,
4月のイースター復活祭の時期はその箇所なりますが、普通の第1聖日はマルコ伝で
しばらく歩みたいと思います。

 本日はそのマルコ伝の1章で表題は「バプテスマのヨハネ、教えを宣べる」となっ
ています。私達はマルコ伝を開いてまず驚くのは、それはマタイ伝やルカ伝を読んで
いるからかも知れませんが、イエス様の誕生の出来事がないということです。マルコ
は突然「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書いています。実は原文を読む
とこれはいろいろな聖書解説書を一つでも開かれた方は知られると思います。原文は
「はじめに、福音、イエス・キリストの、神の子の」と名詞の整列になっています。
つまりこれは創世記の1章の始まり「はじめに神は天と地を造られた」を意識してお
るとされます。ヨハネ福音書はマルコ伝の後に書かれたので、あまり参考になりませ
ん。しかしヨハネもまた「はじめに言葉があった」これは原文のままの訳になってい
ます。ヨハネ伝も又福音のはじめを大切にしております。つまりマルコ伝もヨハネ伝
もイエス様の「はじめに」を強調したいのです。
 ところでここで宗教的な真理というのは歴史を超えている。だから本当は救いには
初めも終わりも関係ないのではないかという問いがあります。しかし、福音者は4つ
ともはじめにこだわっています。そして終わりにもこだわっています。つまり聖書の
真理ははじめと終わりがある。つまり歴史があるのです。聖書の真理は歴史を超えた
理想であり、この世とは違う深淵なる真理である、とはならない。あの世に始まりあ
の世に終わるのではないのです。あの世のことはこの世に関わり、この世のことがあ
の世に関連しておるのです。ですから私達は、この世にあって大変で、苦しみがあり
ます。それでも、生かされている恵みを受けて、病気の時も、健康の時も、主の召し
と主の務めに生きるのです。イエス様はこの世で十字架に付けられ、この世で復活さ
れました。私達は死ぬまでこの世に生きる存在であり、生きることを大切して死んで
いく生きるものです。同級生の殺人事件に東芝やフォルクスワーゲンの一流企業の不
祥事件、憲法を守らない政府とこの世は困った楽しくない出来事ばかりです。しかし
死ぬまで生きる私達は、イエス様に導かれて、あの世を見つつこの世を生きていく存
在であります。
 ところでマルコ伝は、初めにを大切にしますが、それはマタイやルカ伝が始めたは
じめにあの誕生物語でないのです。マルコが示すイエス様の福音の「はじまり」は、
イエス様が生まれる前にあるのです。2節にある通りです。イエス様の福音の始まりは、
預言者イザヤの書にこう書いてあるのだ、ということです。つまりマルコはイエス様
の具体的な誕生物語も大切なのだけれども、その誕生物語の前に、イザヤの預言があ
ったのだ、と言いたいのです。主の前に、備える人がくる。主の道を準備する人が来
るのです。3節にそれは、荒野に呼ばわる声である、主の道を備える人がくる、ここで
「主の道を整え」は、泥道や雪の道で、石を取りのけて柔らかいとろこにローラーを
かけ、雪を踏み固め、通り人が通り易く歩きやすいようにすることです。イエス様が
来る前に、イエス様の道を備える人が来る。イザヤがそのことを預言している。その
ことが起こったというのです。
 全知全能の神さまが来るのに、備えの人が必要なのであろうか。神さまは前準備を
する人を必要とされるのであろうか。答えはその通りです。神さまは、備える人、準
備する人を必要とするのです。それは神さまの謙遜でないかと思います。本当に神さ
まは人となれた。ご自身の力と威力で、人間をロボットのように、プログラムに従っ
て動く機械にされなかったのです。人間には意思があり、自由があるのです。
 神さまがご自分が出現するのに、備える人を必要とされるのである。なれば、私た
ちはもっともっと備える人、前触れの人が必要であり、あったのであり、これからも
あるのです。実際私たちは自分の体験からそのことがわかります。エレミヤ1:5に
主は「あなたが母親の胎に作られる前にあなたを知った」と言われ、又エフェソの手
紙1:4節に「天地創造の前に、神は私を愛して、…キリストにおいてお選びになりま
した」とあります。私たちはキリストに来るとき、キリストの前に神さまの業があっ
たのだと言わざるを得ません。私の小さい体験でも信じたのは20歳でした。しかし高
校の時、2年生の倫理生活の科目の時間に、マルクス主義の先生が、教科書通りにル
カ伝15章の「放蕩息子」の話をしてくださったことを覚えています。全くの無神論だ
ったはずの自分ですが、聖書に興味をもったことを覚えています。もっと遡ると私は
浄土真宗のお寺の保育園でした。仏壇に手を合わせる時間を覚えています。しかしな
ぜか手を合わせる対象は違っていたのですが、手を合わせる態度はそこで学んでいた
のでないかと思う時があります。そして受験生で行き先がわからなくて、迷った時、
なぜかカッパブックスの親鸞の『歎異抄』を買って読んでいます。線を一杯引いたの
覚えています。パウロのローマ書7章15節「自分が望むことは実行せず、返って憎む
ことをしているのです」に来る前に、私は親鸞のいう「罪人さえ往生するいわんや善
人は当然往生する」という説すなわち実はおれは善人だという人の方が、悪人よりも
もっと罪が深いという説を、読んで聞いて知っていました。
 神さまは、前もって備えをもって、本当の救いにいれてくださるのです。神さまは
一人一人に主の道を備え、その道を真っ直ぐに準備する人を備えておられるです。そ
れは、友人かもしれない。親族かもしれない。会社の同僚かもしれない。結婚相手か
も知れない、本かも雑誌かもしれません。しかし確かに、本当の者、真理、キリスト
に合う前に備えの人がいたのです。そして私たちはこの世にある間は、常に私たち自
身が他の人に対して、神さまの備えの人に主にあってなされているのです。
 3節にバプテスマのヨハネは、荒野にいたといわれます。私たちは荒野というとパ
レスチナの大変な砂漠地帯を考えます。しかし荒野にいたというのを、別に人間が全
くいない寂しい所、気候が酷く厳しく苛酷な所と考える必要はないでしょう。荒野と
は、人間関係の荒野ととれば、正に人が一杯いるがゆえに、本当の友人がいない、人
が一杯すぐ側にいるのに、本当の仲間がいない荒野であるともいえます。親戚が多く
てひとりぼっちというは本当に酷い荒野になります。人が一杯いるから寂しくないの
か。携帯電話ですぐつながるために、返って寂しさが増す。すぐつながる寂しさ、一
杯話せるのに、心が通じない寂しさ、これは一行に無くなりません。つまり、誰かの
歌ではありませんが、私たちは実際に、人間砂漠にいることになります。
 しかしまさに備えられる人は、人間砂漠の荒野にいるから、主の声が響くのだとも、
その声が聞こえるともいえます。砂漠に水を見付けた喜びが大きいように、荒野に水
があるのことが本当に安心のように、荒野にいるからこそ、備えの人の大きさが分か
り、真理とキリストの有り難さが大きいのです。
 4節.バプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを語りました。悔い改めとは
原文はメタノイアで、方向転換という意味です。バプテスマのヨハネは方向転換を示
したということです。私たちは常に方向転換を求められています。ルターは「キリス
ト者とは日々悔い改める」人であるといいました。日々方向転換する人であります。
私たちは年を取ると方向転換がだんだんできなくなります。しかし方向転換といいま
しても、くるくる回ってまた元の方向を向いたのでは話しになりません。軍国主義、
天皇制、全体主義から折角日本は脱出したのに、また常任理事国になって軍事大国を
目指しますでは、これでは困ります。
 正しい方向が正しいメタノイアが必要なのです。正しい方向とはなにか。イエス様
です。十字架です。方向が違っていたらどんなに一生懸命やっても無駄になり駄目に
なる。これは、時々マラソン等の長距離のレース競技でおこります。正しい折り返し
点で回らず、何を間違えるのか、間違った折り返し点で回ってしますのです。途中の
運営委員会の人が、懸命に注意しますがわからなくて、とうとうゴールします。「間違
ったコースです。」「え、そうでしたか、選手は前の人を見て走るしかないのです」と
応えていました。一生懸命走れば走るほどかわいそうです。一生懸命さも確かに大事
ですが、実はどの方向かは、もっともっと大事です。カルバンはいいました。「人生に
おいては、足を引きずりながらでも正しい道を行く方がいい。」それはどんなに早く、
力強く、かっこよく走っても間違った方向でしたら、何にもならないからです。もち
ろん走るしかない。やってみないとわからないことも多いです。しかし常にメタノイ
ア、方向転回を覚えていることは大切であり必要です。常に、イエス様を向きなさい、
常に十字架に向き直りないさい。日々、自分の十字架とイエス様の教会の十字架を負
い、担い、主の示される道を歩みなさい。現代のヨハネはこう語るでしょう。
 6節にはバプテスマのヨハネの様子が書かれています。ラクダの毛衣、腰に皮の帯
です。今で言ったらなかなかの贅沢です。今はラクダの下着が一番保温性が良くて、
高くて良い下着です。皮のベルトは今はほとんど合成の皮で、本物の皮はほとんど有
りません。私は一度本物の皮のベルトをしてみたいです。冗談になりました。しかし
このヨハネの恰好は、当時は予言者エリヤの貧しい恰好を意味するそうです。特殊な
恰好ではありませんが、貧しい恰好だったそうです。食べ物のイナゴと野ミツもまた、
羊や牛肉と比べると普通の貧しい人の食べ物でした。ヨハネは貧しい着物と貧しい食
べ物に満足して生きたのです。
 バプテスマのヨハネのすごい所は、ルカ伝3章にその教えがあります。自分を慕っ
てくるものに、この世を捨て、荒野に行けと言いませんでした。酒を飲むなとも言い
ません。文明生活、文化生活を捨てよとも言いませんでした。徴税人が来たら「ロー
マの手先になるな」とは言いませんでした。「決まり以上に取り立てるな」といいまし
た。兵隊が来たら、人殺しの兵隊を止めろといいませんでした。「騙したり、ゆすりと
ったりせず、ローマの給料で満足せよ」といいました。荒野にいくのでなく、この世
に留まり、ユダヤ人が心から嫌った職業である徴税人やローマの兵隊でもいいとしま
した。一般人には「下着が2枚あれば、もっていない者にあたえ、食べ物を一杯もっ
ていたら、持たないものに分けなさい」といいました。社会構造の変換、革命を説き
ませんでした。時代の子の限界ともいえます。
 7,8節。ヨハネのしたことはつまり言ったことは何か。「わたしよりも優れた方が
くる。聖霊でバプテスマをする方が来る」この2つです。すなわちひたすらイエス様
を指し示すことでした。現代の社会学、政治学からするとヨハネは取るに足りない。
全く何も教えていないことになりそうです。いや政治を後退させ変革の破壊者となる
でしょう。全くの保守主主義といわれそうです。徴税人でも兵隊でもいいのだ。自分
の賜物で生きていきなさい。パウロもまた、自由人になれたらいいが、しかし奴隷で
もいのだと第1コリント7:21にいいます。「召された時奴隷であったとしても、そ
れを気にしてはいけません。むしろそのままでいなさい。」です。現代からここには、
何があるのでしょうか。
 イエス様のみを自分の基盤とし、イエス様にのみ自分の基盤、根をおいている姿で
あります。イエス様にのみ期待する人、イエス様にのみの変革に委ねる人が、本当の
変革、ほんものの革命ができるということです。根と基盤を持つ人間が、社会支え、
本当に変革できるのです。イエス様と聖霊に期待する人が、この世を変えるという信
仰です。キリストが来る、聖霊が来る。ここを期待して、自分の根をもって、しかと
主を待ち望み、主イエス様を期待することであります。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。10月になりました。9月守ってくださ
ったように10月守ってください。10月も多くの行事があります。特に今週の幼稚園
の運動会を守ってください。小羊クラブを守ってください。病気療養中のH姉、M
姉、A兄、M兄、K兄、守ってください。バプテスマクラスを守ってください。
一人暮らしのご高齢の方守ってください。小野姉の家庭集会が始まりました。どうか
守り導きください。熊本での研修会、国分での研修会お守りください。K兄の納骨
式もみ手においてください。自然災害が多いです。どうかみ手を置き、東北地震、北
関東の洪水の避難者守ってください。口の良部の方々もみ手をおいてください。今週
1週間の守りを置いてください。御名によっていのります。アーメン。」

   エレミヤ書33章1〜9節          2015年9月27日
                   「 私を呼べ 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は早いもので9月最後の週の礼拝となりました。昨日は、世界飢餓対策機構の
鹿児島食料デーの案内で、天文館での街頭募金がありました。この12年間ずっと参加
してきましたが、街頭募金を始めたのはまだ5回目くらいです。昨年は台風にぶつか
りできませんでした。いつもは20人が、1時間呼びかけて立って大体3万円くらいで
す。昨日はしかし23000円くらいでした。改めてちっとも景気は回復していないなと
感じました。しかし金額は少なかったのですが、この世知辛い世の中で、立ち止まっ
ていれてくださる方は相変わらずおられます。金額よりも、その心にこちらが安心し、
励まされます。具体的には立ち止まってハンドバックを開いて、そして財布を取り出
し、財布を開いて入れてくださるのですから、結構たくさんの行程があり、時間がか
かるのです。その時に「頑張ってくださいとか、大変ですね」と言ってくださるので
す。いつもナンニチパチンの前でしています。普通はパチンコ店から出てくる人は、
いれてくれないとこちらは思います。しかし意外とその時、勝たれたのかもしれませ
んが、ちゃりんと財布の底の硬貨ですが、募金をいれてくださるのです。負けていれ
てくださる方はないと思いますが、数人がパチンコ店の玄関からそのまま募金箱にき
てくださいました。
 確かにこのところ殺人事件ばかり報道され、政府も憲法を守らないのかと、いいニ
ュースがありません。しかし巷ではまだまだ飢餓は困った問題だ、なんとかしてほし
いと思っておられる方がやはりあるのです。まだまだそう簡単には日本は潰れないの
でないか。頑張れるのでないかと勝手に思って帰ってきました。荒田のサンエール前
のキリスト教会の唐川牧師の2人の息子さん4年生と2年生が手伝いに来ておりまし
た。最初は恥ずかしがって後ろにいたのです。だんだん通りの人がいれてくれるので
前にでてきて、1時間経つと「お願いします」と声がでていたのが良かったです。お
父さんの唐川先生は「小さい時からこんな経験させたかったです。良かったです」と
のことでした。22名でしたので、本当は一人が千円献金すれば、22000円になるので
1時間立たなくてもよかったのです。しかし主は何か違った体験をさせてくださるよ
うに思っています。どうか若い方が、募金の体験してくださることを祈っています。

 聖書は最後の年ですので、エレミヤ書を開いています。エレミヤ書も33章になって
おります。33章は31章からの回復の預言の最後の部分です。33章は31章から続け
ている預言か、離れている預言か、よくわかりません。32章からエレミヤの書記官と
されるバルクがでてきています。エレミヤ書は実は書記のバルクが書いたとされてい
ます。となるとエレミヤ書は時系列になって書かれているところとバルクが内容別に
つまり救いや滅び警告、また諸国民への預言といった分類別、ジャyンル別にしたと
ころもあるはずです。33章ももはや正確な時を定めるのは無理とされています。
 しかし預言の内容からはいよいよバビロン・カルデラ軍はエルサレムを攻撃しかけ
た所であろうと思われます。4節に「攻城の土塁が築かれとあり、侵入を伏せぐために
破壊された家屋」とあります。具体的にバビロン・カルデラ軍は攻めこむための土塁
を築いていたのでしょう。エルサレムは3方向を深い谷で囲まれた丘の街でありまし
た。守るには敵が来る1方向だけでよかったのです。反対に攻める方は、どうしても
エルサレムに他の所から登る積まれて高くなった土塁が必要とされています。多くの
軍隊が、土塁をつくるために駆りだされたとされています。エルサレムの攻防に土塁
がでてくるとこれは、もう戦争が始まっているということでありました。
 1節にあるように、その時、主なる神様はエレミヤに再びまた声をかけられます。エ
レミヤはすでにその時、獄屋にいたとあります。つまりエレミヤの預言に耐えられな
いゼデキヤ王は、エレミヤを捕らえて獄屋に閉じ込めておりました。それはそうです。
エレミヤの預言は最初から常に「エルサレムは滅びる、必ず滅びる。その犯した罪の
ために滅びる」というものでした。誰が戦争を準備しているときに、自分の国は滅び
ると言いまわっている預言者をそのままにするでしょうか。そんなことをしたら、兵
隊は戦意を喪失し、エルサレムに住む人々の協力も得られません。最初から負けるた
めの戦いをあえてする人はまずいないでしょう。エレミヤを獄屋に閉じ込めるのは、
普通の王様でありば当然でありました。
 しかし人間はこうして、閉じ込めることができましたが、神の言葉を閉じ込めるこ
とはできないのです。神の言葉は獄屋にいるエレミヤにまた再び語られのです。しか
しここで大きな教えがあります。それは、神の言葉が獄屋のエレミヤに語られたとい
うことは、預言というのはその時は聞かれなくてもいい。まず預言者だけが聞いてい
なくてはいけない言葉があるのです。神様は獄屋にいるエレミヤに語るということは
この預言はその時は、人々には語られない。聞かそうに牢屋では、もうどうにもなら
ない。しかし神様はエレミヤに知っておいてほしい。そのような言葉があるのです。
後から人々に知らせる預言がある。
 これは大切だと思います。すべての神の言葉はすべてに語られないといけない、で
はない。預言とは語られれば預言になるのではない。皆が知っているから真理になる
のではない。皆が知らなくても真理がある。ある意味で正当な意見でも、多数でない
時がある。むしろその方が多い。正統派はかならずしも多数派でないのです。すなわ
ち多数派が正しいのか。という問いが立てられる。特に預言者が語る神の言葉は、そ
うなります。支持者が多いと真理になるか。正しくなるのか。そうでない。これは時
代を見ればまさにそうです。黒人解放のマルチン・ルーサー牧師もまた、戦いは少数
派からです。黒人も白人も同じ人間である。余りにも当たり前ですが、当時はそうで
ないのです。迫害され暗殺される。しかしだんだん皆が理解して来る。男女平等しか
り、差別撤回運動はほとんどこれです。最初は正しいとわからない。間違っていると
言われるのです。主なる神は、あえて獄屋にいるエレミヤに神の言葉を語られる。エ
レミヤは誰かに語ろうにも語れない。しかししっかりと神の言葉を受け止め、心に刻
んでおくのです。そして時が来た時に、語るのです。
 3節に主は「私を呼べ」と言われます。獄屋にあるエレミヤは、もう人々に主の言葉
を語れません。しかし主は「私を呼べ」と言われる。預言者はその仕事、神の言葉を
民に知らせ、語ることができない時も、主を呼びその言葉を聞いていくのです。そし
て主は「あなたの知らないことを、告げ知らせる」と言われます。主は、聞く方を探
しておられる。それを語れなくてもいいのです。主はまず、聞く人を探しておられる
のです。私達は当面、主の言葉を聞いても何もできないかもしれない。聞いてもその
役目にないかもしれない。しかしまず「主を呼び」聞いて置くのです。
 5節にあるように、主のことばはエルサレムの滅びでした。バビロン・カルデアと戦
っても、エルサレムの都は死体でいっぱいになるのです。主はエルサレムのあらゆる
悪行のゆえに、エルサレムに顔をそむけられたのです。主の顔がそむけられる。その
結果、エルサレムは滅びるのえす。となると私達は、主がこちらに顔を向けれること
を常に目指すことになります。状況はよくない、すべてがうまく行かない。失敗と苦
しみが多い。しかし問題は状況がよくない。うまくいかないということよりも、主の
み顔を仰ぐということになります。うまく行かない中であっても、主の顔の方を向く。
うまく行かない中で主の顔を見上げる。これが私達に求められていることなります。
顔をそむけられた主に、なんとか顔を向けて歩んでいく。これが求められているので
す。祝福は主のみ顔にあります。十字架の主は見たくないですが、しかし十字架の主
を見上げていくということになります。
 6節からは、突然、本当に全く突然、理由もなく、回復の預言です。主は突然、忽然
としてエレミヤに言われれます。「私はこの都に、癒やしと治癒と回復をもたらす。」
先ほとからいいますように理由が書いてない。5節と6節の間は、無限の空間があり
ます。理由が無い。5節まで「撃ち殺し、この都から顔をそむける」と言われた主が、
6節には「癒やしと治癒、回復」を宣言されます。どうなっているかですが、最後は、
私達は結局どうしようもないのです。
 しかし聖書には、確かに主に委ね、主にまかせるしかないことが結構時々ある。人
間としては、只手を引いて見ておくしかないことがあるのです。出エジプト33章19
節「私はは恵もうとするものを恵み、憐れもうとするものを憐れむ」とあります。こ
こはモーセが「あなたの栄光を見せてください」と主に頼みます。その時の答えがこ
れです。「私はあなたの前に、すべての私の良い賜物を通らせる」と言われて「私は恵
もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむ」となっています。正直言って人
間は、どうにもならない。モーセよ、お前は私をよく信じてくれたとか、モーセよ、
お前はよく精進して私に従ってくれたとかでない。モーセ、お前の信仰は見上げたも
のである、でない。私は「恵もうとするものを恵み、憐れもうとするものを憐れむ」。
自由の主が、あなたを恵み、あなたを憐れむということになります。これは神様に見
込まれたとか、神様に偏愛されたとかの話になります。全くの不公平と全くの偏愛で
す。しかし主なる神さまにおいては、それでいいのだとなります。
 そもそも、人間は、主なる神様の前に、差が付けられるのか。もちろん試験では点
数がつきますし、資格試験では合格、不合格があります。金持ちや貧乏人とあります。
しかし神様の前ではどうなるのか。どうも皆、罪人です。人間が決める差は神様の決
める差と異なるのです。人間の見る観点と神様が見る観点と違うのです。人間の観点
はこの世までなのです。あの世まで次の世までつながる見方は土台無理なのです。
 エレミヤに戻りますとつまり主の顔がエルサレムに向いた、向けられたのです。神
様の顔が、怒りから恵みに交代されたのです。神様は審判と脅しをやめられたのです。
神様は、力ずくをやめられたのです。神様は人を信頼されることにされたのです。神
様は徹底した恵みの主なる神である方になられたのです。8節には「私に対して犯した
罪から彼らを清め、犯した罪と反逆をすべて赦す」と言われます。さらに9節には「彼
ら、すなわち国々人々は、私がこの都に与える大いなる恵みと平和を見て、恐れおの
のくであろう」と言われます。
 主なる神様はエレミヤに「エルサレムの罪を清め、反逆をすべて赦す」と言われま
す。それは、私達にはイエス様において、イエス様の十字架において起ったことです。
十字架、これ以上の赦しの証と根拠はありません。主なる神様は宇宙を創造し、人間
を創造されました。そして人間は罪を犯し、神様から離れていきました。神様は自分
から離れて行く人間を、救う義務はありませんでした。しかし神様はそうされません
でした。神様は、愛と自由において、私達人間を救うことにされたのです。「神はその
御独り子をたまわったほどにこの世を愛された。それはみ子を信じるものが一人も滅
びないで、永遠の命を持つためである」。イエス様の派遣は、神様の顔が人間に向けら
れた事実です。イエス様の十字架と復活は、神様がずっとその顔を私達に向けておら
れることの根拠です。私達は私達にどんなことが起っても、なお神様はお顔を私達に
向けておられるのです。私達はひたすら神様に向ければいいのとを示しています。
 日本では、ここのところ安保法案が議論されている一色の時、今もそうですが、ヨ
ーロッパではシリアの難民が次々に押し寄せています。そして私達はドイツがひたす
ら難民を受け入れている先頭にたっています。たまたまドイツはフォルクワーゲンが
ジーゼル車に不正アプリをいれているらしく、そちらの方がニュースとして、大きい
です。日本では誰もシリアの難民を受け入れよ、という人はいません。
 ドイツ留学の友人牧師がメールをくれました。そこには、ドイツのメルケル首相が、
メディアに答えている文章でした。メディア:あんなに多くの難民がしかもイスラム
教の人たちがドイツに押し寄せてきて大丈夫なのか。メルケル首相:シリアの難民が
でた原因であるISの指導者の中にはドイツで学んだ若い方が多いです。私達はその責
任があります。メディア:イスラム教の方が、大勢ドイツに入って、キリスト教のド
イツは大丈夫なのか。メルケル首相:イスラムの人が来たら混乱するとか、テロが起
きるとか、不安や不信感からの政策・政治は何もいいことを産みだしません。ドイツ
はキリスト教の国です。信仰の自由の国です。ドイツのキリスト者は、イスラムの人
が来たら、話し合い相互に理解することができるかもしれないのです。
 友人牧師のドイツ語翻訳の力は、私はよく知らないのです。一冊だけドイツ語の神
学書を日本語にしたからと無料で送ってきたのがあります。ドイツで神学修士号をと
ってきたので信頼できる訳と思います。それにしても、メルケル首相の卓見に驚きま
す。中国は怖いとか、北朝鮮が攻めてきたらどうするのかとか、まさに日本は不安と
不信感からの安保法案の政治です。まず信頼してからでないとよい政策はできない。
これは、メルケル首相が、イエス様の十字架を信じているとしか言いようがありませ
ん。ドイツの難民政策はうまくいくのかどうか、私にはわかりません。しかし不安と
不信感からは何も生まれないとは、まさにベルリンの壁が壊れた体験からでありまし
ょう。エレミヤが神様は恵みの神になられたと言いました。これは、イエス様を知ら
された私達はもっともっと確信できる信仰です。ここに歩みたいです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。9月も最後の週になり、10月を迎えます。
どうか、9月を守ってくださったように、10月を御手においてください。北関東の洪
水もまだまだ避難者があります。続けて東日本の大地震の避難者もみ手においてくだ
さい。多くの求道者を感謝します。バプテスマクラスの兄弟をお導きください。病気
療養の方も多いです。守ってください。特にM姉、A兄、H姉、K兄、M
兄お守りください。ご高齢の一人暮らしの方も多いです。O姉、Y姉、K姉、
H姉、K姉支えてください。O姉は今週、家庭集会を初めて下さいます。どう
かみ手をおいてください。幼稚園と小羊クラブを守り、今週1週間を憐れみと恵みに
富むイエス様と共に歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン」

   出エジプト記34章1〜10節         2015年9月20日
                「 憐れみ深く恵みに富む 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週はとうとう安保法案が参議院も通過し、最後に衆議院で未明に可決されました。
戦後70年の節目に、戦争体験を根本にしてできた平和憲法は、改憲はされませんでし
たが、集団的自衛権が行使できる、つまり自国が攻撃されていなくても相手に戦争が
できる国となりました。なんと言う皮肉かと思います。しかし自民党に投票する国民
が多いのですからどうにもなりません。憲法違反の法律が国会を通っていいのかで、
多くの弁護士さんが、安保法案は憲法違反という裁判がなされるそうです。違憲訴訟
の法定闘争が計画されています。時間がかかりますが、当然だろうと思います。
 しかし私はほとんど実際の国会中継は聞けませんでしたが、木曜日の鴻池議長の不
信任議決の所は、たまたま長崎の施設を変わることになる父のところにいて1時間だ
けですが国会中継を聞けました。本当は父が相撲を見たいということで、相撲を見よ
うとしたら国会中継になっておりました。どうしようかと思いました。父は87才です
ので戦中派です。聞いていると突然父は、自分が志願兵であったことを話してくれま
した。徴兵は20才にならないとないので、自分は軍隊に志願したのだとのことです。 
 じっと社会党の福島議員の意見と山本太郎議員の意見を聞いていました。さすがに
両者共によい意見でした。福島議員は憲法違反の濃い議案を参議院は通してはならな
い。山本太郎議員は、外国に行かれた自衛隊の保証が全く議論されていない。時間を
掛けるべきだ、ということを中心に語れていました。私は2人とも正当な正しい意見
でありましたので、自民党の中にも賛成する人がいるのではないかと思っていました。
しかしご存じの通り不信任は否決され、参議院を通ってしまいました。でもあれだけ
正しい意見が言われてそれでも通ってしまいましたが、歴史には残るのではないかと
思います。ちょうど第2次世界対戦の開戦の時、誰が決定したのか、どうして戦争し
たのか、どうして開戦したのかがよくわからないと言われます。しかし今回は中継さ
れて国民の目の前でおこなわれたのです。戦争責任がはっきり分かりました。山本太
郎議員が、自民党の終焉だと葬儀の恰好をして、数珠をもって反対投票をしました。
馬鹿馬鹿しい売名行為といわれそうです。しかし私は山本議員のことを全く知りませ
んし投票したこともありませんが、予言者エレミヤはがなした神殿で壺を割ったり、
ぼろぼろの帯をわざと着て滅びを預言したのと似ていると思います。歴史の変わり目
のしるしには奇行をする人がでてくる、これでないかと思います。

 さて聖書の箇所は第3聖日ですので、いつもの通りに礼拝後に分級があります。バ
プテスト連盟の『聖書教育』の聖書の箇所から聞いて行きます。ここはすでに水曜の
祈祷会に出た方は同じ聖書の箇所です。しかし大切な箇所ですから、聞いてきます。
 1節に入る前に、少しだけこれまでのイスラエルの歩みを語ります。出エジプトは名
の通りに、イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地カナンの地に到着するまで
の出来事です。出発に関する色々な出来事、そして出発してからの出来事、本日は出
エジプトの頂点と言われるモーセの十戒の授与の場面です。しかし本当の十戒の名場
面は実は20章の神さまの顕現と授与であります。しかしなんとモーセが主なる神さま
から十戒を頂いている時に、イスラエルの民は、金の小牛の偶像をアロンに作らせて、
偶像礼拝の罪を犯すのです。聖書では出エジプト24章18節に、モーセが十戒を頂く
のに40日40夜係ったとあります。一ヶ月半モーセが山に登っていなくなったので、
イスラエルの民はモーセが死んだかいなくなったか。あっという間に主なる神さまか
ら離れます。エジプトで拝まされていたエジプトの神さまに逆戻りするのです。私た
ちは改めて、折角モーセが導いてくれ、奴隷の身分を出発したのに、また元に帰る姿
を見ます。それはちょうど今回の法案が、戦後体制からの脱出ということがいわれま
すが何のことはない。その先は明治維新の天皇制国家だったと似ています。せっかく
奴隷を解かれて、自由になったのです。しかしあっという間に、また奴隷の宗教、エ
ジプトの宗教に戻っていったのです。
 しかしモーセはシナイ・ホレブ山から戻ってみて、イスラエルの姿を見ると主なる
神さまから頂いた十戒の石の板を、叩き割りました。32章19節です。「宿営に近づく
と彼(モーセ)は、若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持って
いた板を投げつけ、山のふもとでくだいた」とあります。主なる神さまが直々に与え
てくださった石の板をモーセはたたき割ったことになります。モーセはすぐにシナ
イ・ホレブ山に引き返し31〜32節に「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神様をつ
くりました。今もしあなたが彼らの罪をお許し下さい。もしかなわないのであれば、
私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください」と命をかける執り成しの
祈りを捧げます。
 私たち達はモーセが自分の命を差し出して、民の罪を赦し、救って下さいとの祈り
に、聖書の語る最初の執り成しの祈りを見ます。創世記18章にアブラハムもまたソド
ムとゴモラの執り成しの祈りをしています。しかしこの時は、アブラハムは自分の命
の身代わりのことは言いませんでした。聖書ではモーセが自分の命を差し出して祈る
最初であると思います。そしてこれはイエス様がご自身の命を十字架に差しだされる
姿のひな形になっています。
 前置きが長くなりましたが、34章の1節は、このモーセの執り成しの入りを受けて、
主なる神さまがもう一度十戒を与えてくださる所になっています。1〜3節の2回目
の授与の姿は24章の一回目と比べれば少しずつ違うところがあります。しかし一番は
主なる神さまは、もう一度授ける方である。つまり再びチャンスを与える方なのです。
良く言われますが、日本社会は一度失敗するとチャンスがない社会と言われます。今
はだいぶ違ってきました。しかし学生から就職する時には、多くのチャンスがありま
す。しかし一度就職して離職すると極端に、次を探すのが難しい社会とされます。一
度話したかもしですが、北海道にいたときちょうど東日本最大の橋、室蘭白鳥大橋が
作られていました。その設計者がたまたまキリスト者で完成する3年間ほど教会にお
られました。この方が「先生、外国はおもしろいですよ、設計に失敗しても又させる
のです。日本では考えられません」と言われるのです。どういう事ですかというとカ
ルフォルニアの吊り橋が台風で飛ばされてバラバラになったそうです。その時、又新
しい橋に作るときに、壊れた橋を作った人にあえて設計させた。今度は台風で飛ばな
い橋を造れということらしいです、といわれるのです。非常に興味深く聞きました。
また失敗しても、またチャンスを与える社会なのです。
 改めてそれは主なる神さまが、またチャンスを与える主なる神さまなのです。一度
与えた。しかし与える間もなく偶像礼拝に走った。大失態をしでかした。しかしモー
セの祈りを受けて、モーセの命を受けて、再び十戒を与え直した。私たちは自分の子
が失敗しても失敗してもまた次のチャンスを迎えることができるようにします。まさ
に同じように主なる神さまは何度もチャンスを与えて下さる主なのです。イスラエル
の失敗を受けて、また再びチャンスを備える主です。私たちもまた何度も何度も主の
赦しを受けつつチャンスを与えられ、この世を主に召されるまで進んでいくのです。
 次に、4節から7節まで主なる神さまの自己啓示・自己顕現と言われる場面です。
ここには主が自らを宣言される姿があります。すでに主なる神さまはモーセに3章14
節において現れてくださいました。出エジプト3章はモーセの召命と言われています。
そこには主ご自身が3章6節「私は、あなたの父の神、アブラハム、イサク、ヤコブ
の神である」こと、つまりモーセの先祖に現れた主なる神さまであることを言われま
した。そして、有名な今でも解釈が一杯ある3:14節「私はある、私はあるというもの
だ、通称『あってあるものである』」と言う名を示してくださったのです。何度か言い
ますように、このあってある者は、一番の取り方は、存在を与える神、存在の根本、
根源である神というのが多いです。そして気づかれたと思いますが、本日6節また、
3章14節を受けて「主、主」と2回繰り返されています。これはモーセを呼ばれた
3:14節の神さまが、やはり34:6節でもまた、同じ主として、2度繰り返されて、ご自
身の名を示されています。ここも厳密に訳すると「主と呼ばれる主は」という意味と
されます。
 つまりこの「主、主」の2回繰り返しもまた、主なる神の存在の確かさと主の共存
性を示すと言われます。5節には主は「モーセと共にそこに立ち」とあるので、ここ
で言われているのは、モーセのとの共存です。折角出エジプトを成し遂げ、シナイ・
ホレブ山で主の十戒を受けて、主なる神さまとの契約を結び、再出発をする。ここに
おいて、イスラエルの民は偶像礼拝の大失敗をする。しかし主は、再びモーセと共に
歩むといわれたのです。これが「主、主」という繰り返しの意味です。
 昨日は壮年会の掃除があったのですが、終わったお茶会で、ここ数日テレビを見て
いて疲れたという方がありました。本当に同感でした。中継では相手は正しいこと、
正当なことを言っているのに、それに応答しない。話しても話しても通じない姿を見
せられるのは本当に疲れます。俺は正しいお前は只従えのみ。分かったそれではこう
変えるからや分かったそれではこうするから、分かったここを変えるからお前はこう
してほしいとか、全くない。これは疲れます。議論にならない議論を聞かされるのは
疲れます。しかしモーセは主が共にあると聞いて、また出発します。9節にあるよう
に「私たちの中にあって進んでください」と祈っています。モーセは主が共にいてく
ださる、それで十分であり、それで勇気百倍又出発するのです。私たちも基本はここ
にあります。所詮この世の出来事です。パウロはフィリピ3:20に「私たちの本国は天
にあり」としています。キリスト者の国籍は天にあり、と生きました。この世がどん
なに酷く見えても、なお、この世で生かされる間、主と共に生きて行きます。
 続けて34章6節には「憐れみ深く、恵みに富む神、忍耐強く慈しみと誠に満ちる」
とあります。これは3章には無かった啓示です。主なる神さまは、憐れみと恵みに富
まれます。忍耐と慈しみと誠に満ちています。これはこの後旧約聖書では何度も繰り
返される主なる神さまのご性質の出来事です。そして実際具体的に、このことは偶像
礼拝をしたイスラエルを赦し、又再び共に行かれる主に現れています。さらにこれは、
出エジプトの後にもダビデ、ソロモンの王国時代、バビロン捕囚においてもまた示さ
れました。
 そして何よりも私たちは主なる神さまが、イエス様となって来てくださった姿に憐
れみと恵みを確実に知ることができます。イエス様によって主なる神さまは、人とな
ってくださった神さまです。イエス様によって主なる神さまは僕となられた神さまで
す。イエス様を見るとき、主なる神さまは人の弱さを知る神さまです。イエス様を見
るとき、主なる神さまは十字架の低さに来てくだいました。イエス様にあって十字架
についてくださいました。イエス様にあって人間の死を体験してくださる神さまであ
りました。フィリピ2章6〜8節はまさに憐れみ深く恵みに富む神さまの姿です。「キ
リストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わずに、
かえって自分を無にして、僕の身分をとられました。人間の姿で現れ、へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。主なる神さま
が謙りの神さまというのは、とんでもないいい方です。しかし主なる神さまは謙るこ
とによって、主なる神さまである神さまなのです。
 ユダヤ教とイスラム教の方からみるとキリスト教は、神さまが人間になられたとは
けしからんと言われます。しかし聖書は、主なる神さまが謙りの神さまであり、人と
なり、僕となり、十字架に付き、死を体験された主なる神さまなのです。主は謙りに
おいて唯一の主であり、誠の神様です。私たちは神さまが謙りの主であられますから、
ひたすら謙り、主の後を追う僕であり、弟子であり、友なのです。憐れみと慈しみは、
謙りに行き着くのです。
 最後に10節は主なる神様は、私たちと契約を結ばれる神さまです。罰すべき者を罰
する神さまは、罪を問う神さまです。しかし罪と背きと過ちを赦す主です。罪の赦し
は契約に行き着きます。憐れみと慈しみが謙りに行き着くように、罪の赦しは契約に
つながります。神さまは私たちと新しい契約を結ばれます。イエス様を信じる事によ
り義とされる契約です。10節の聖書は「驚くべきみ業、かつて成されたことのないみ
業」といいます。宇宙の創造主が、人間と契約を結ばれる。主なる神さまにその必然
性はありません。主なる神さまは人間なしで神さまです。主なる神さまは人間が無く
ても主なる神さまです。人間の作った神さまは、人間がいなくなるとなくなります。
しかし主なる神さまは、自由に愛において、イエス様を送り契約を結ばれる神さまで
す。私たちができるのは、イエス様の恵みを信じ、罪を赦し、弱さを担われた十字架
の主へ感謝を表して、生きる以外にありません。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。先週は多くの学者達が違憲となした法律
が参議院を通り、とうとう衆議院で可決されました。早速自衛隊の方は、スーダンに
行かれるといわれています。殺すことなく殺されることがないようにみ手をおいてく
ださい。北関東の洪水もまだまだ避難者があります。続けて東日本の大地震の避難者
もみ手においてください。多くの求道者を感謝します。バプテスマクラスの兄弟をお
導きください。病気療養の方も多いです。守ってください。特にM姉、A兄、H
姉、K兄、M兄お守りください。ご高齢の一人暮らしの方も多いです。O姉、
Y姉、K姉、H姉、K姉支えてください。O姉は家庭集会を初めて下さい
ます。どうかみ手をおいてください。今週は連休になっています。交通を守り事故無
く守ってください。今週1週間を憐れみと恵みに富むイエス様と共に歩ませてくださ
い。御名によって祈ります。アーメン」
   第1ペテロの手紙2章11〜17節         2015年9月13日
                「 自由な人として 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週は北関東の方で台風から変わった温帯低気圧と台風18号に挟まれて、帯状の降
雨帯ができて停滞し、大変な被害がでました。昨日もまだ救出が続けられています。
5000人の方が避難されています。宇都宮教会の天野牧師が少し知り合いですので、お
見舞いメールを送ってみました。すぐに返事が来て「後1,2時間雨が続いていたら教
会の近くの川が溢れて宇都宮も大変な被害になったはずです、神さまの守りを感謝し
ます」とのメールが来ました。かなりぎりぎりの所で、雨が納まってくれたようです。
 しかし堤防が崩れた鬼怒川を初めとして、雨が止んでも水がなかなか引かない所も
あるようです。家が丸ごとながされる映像は、堤防の決壊も3・11の地震の津波と
ほぼ同じのような状態になるのが怖ろしいです。突然、全てが流されるのはどんな風
になるのか、被災した方の守りを祈らざるを得ません。それにしても日本はほとんど
安全なところはないのだなということ思います。鹿児島も例外でありませんが、でき
るだけシンプルライフを考えて、身辺整理して身軽になって置くこと改めて教えられ
ます。被災者の続けての守りと復興を祈るのみです。

 さて聖書は第2週ですので、使徒の手紙から聞くということで、ペテロの手紙を開
いています。すでに何度か説明しましたが、1章1節にこの手紙の宛先が「各地に離
散して仮住まいをしている選ばれた人々へ」となっています。従って、すでにもうロ
ーマ帝国の各地にキリスト教会ができている時期であろうと分かります。まだ国家的
なキリスト教への大迫害は起こっていない時期を想定できるとされます。しかしペテ
ロはネロ皇帝の時に、ローマの放火事件の犯人とされ、逆さま十字架に付けられたと
いう伝承が残っております。国家的な組織的な迫害はまだですが、ローマ帝国からそ
ろそろ嫌われていたことは確かでありました。
 2章のこの箇所は、キリスト者がこの世にあってどのような生き方をしたらいいの
か、教えています。標題にも「神の僕として生きよ」と書かれています。だいたい3
つのことが教えられていると言われます。1つは11、12節にあるキリスト者とは旅人
で仮住まいの者である、ということです。2つは13節に以下に、主にあって人間の制
度の従いなさいということです。最後に16節以下に自由な人として生活なさいという
ことです。どれもキリスト者の倫理と生き方として、非常に大切な原則であり、一つ
一つ聞いて行きたいと思います。
 まず11節のキリスト者とはこの世に生きていますが、旅人であり仮住まいのもので
あるということです。ペテロの手紙ははっきりとキリスト者とは「旅人、仮住まいの
ものである」というのです。これはとても大切な視点です。というのは、日本のキリ
スト教は数が少ないものですから、教会の課題に土着化というか、人々につまずきを
与えず、できるだけ波風を与えずにいたい。そうしないと伝道できないという大きな
弱点があります。確かに、どこでもかしこでもぶつかっていたのでは話しになりませ
ん。しかし土着を目指す余り、福音が水増しされたり、どうでもいいことに気を遣っ
たりしていたのでは本末転倒になります。厳しすぎてもだめですし、ゆるすぎて普通
の人よりいい加減でないかとなっても困る訳です。
 ペテロの手紙は、基本を語るのです。それはイエス様を信じた人は、もともとから
して「旅人ですよ、仮住まいの者ですよ」というのです。鹿児島の方はこのことが良
くお分かりになると思います。転勤や学校で鹿児島を離れ、違ったところに行かれて
生活します。すると言葉も違う、考え方や感じ方も違って来るわけです。鹿児島の方
は、これはまたずいぶん違うとびっくりされるのです。これは鹿児島以外から鹿児島
に来る方も同じです。いろいろな所で違いに戸惑う。そしてやはり自分の育った所が
いい。何と言っても自分の土地、鹿児島が一番とかなるのです。しかし聖書は、キリ
スト者になったからには「もともとが旅人です、仮住まいのものですつまり基本的に
転勤族になったのです」と言われるのです。
 この世はたとい育ったところであっても、旅人で仮住まいの転勤族ですよ、と言う
のです。自分の好き勝手に、自分の思う通りに生きるのでなく、魂に戦いを挑む肉の
欲を避けなさい、と言うのです。ここで肉の欲というと今では何か、性的な放縦を考
える方が多いです。しかし聖書の肉の欲というのは、性的な放縦ではなくてそれも入
りますが、むしろ神さまに逆らう全ての考えや行動です。私たちは自分が一番かわい
いのです。自分だけがよくしたい、よく思われたい、自分だけ儲けたいと思います。
しかし神さまの視点から見るとどうなるのか。ここはあそこを立てるとか、ここは我
慢しなければならないとか、ここは喧嘩してはならないとかでてくるのです。
 私が一番キリスト教の精神で驚いたのは、マックス・ウエバーのと言う人の書いた
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』という本を学生の時読んだ時です。この
本は今は随分間違った箇所がいわれています。しかしウエーバーはなぜ世界では、西
洋がつまりイギリスやドイツ、フランス、アメリカが産業革命を成し遂げ世界の覇者
になったのかを解明しています。答えは単純なのです。キリスト教があってキリスト
教が儲けることを神の使命として教え、儲けた財産を神さまのために使ったからだ、
となっています。単純すぎるかもしれません。しかし中国やインドにものすごい金持
ち達がいました。モンゴル帝国も一時期は、東ヨーロッパから蒙古襲来の日本まで広
がりました。しかし長続きしません。金儲けの上手な中国やインドでは、なぜ産業革
命がおこらなかたったのか。
 ウエーバーは、キリスト教が無かった。つまり儲けることを神さまの使命とし、儲
けたお金を神さまのために使わなかったというのです。つまり大雑把にいうのですが、
中国やインドの金持ちは、儲けた金を自分のためだけに使うのです。でかい家を建て、
親族をやしない、散財するのです。しかしキリスト者は貯金しました、そして自分の
ためでなく会社・事業に投資した。つまり神の使命としての儲けに使ったと言うので
す。当たっていないという方もあるかもです。しかしこの世の為にでなくて、つまり
自分の為の事業でなくて、神の為の事業として儲ける。神さまのために自分の会社を
もっともっと大きくする使命があると受ける。これは肉の欲の満たしとは少し違うの
です。これが同じ長い歴史でも、中国やインドでなくて、西洋で産業革命が起こり、
世界の覇権をした原因だというのです。少し風呂敷が大きくなりました。しかし自分
は何者かが、その生き方を問うのです。キリスト者とはこの世では旅人で仮住まいで
あり、本当の古里が天にある。この観点がある時、この世のものをどう使うかが変わ
ってきます。自分を肉のために使うのか。それとも神さまのために使うのかなのです。
 12節。ペテロは言います。「異教徒の間で立派に生活なさい。彼らはあなたがたを
悪人呼ばわりしても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめる
ようになります。」ここで一つだけ注目します。「立派に生活なさい」ですが、これは
人々があがめるすごい生活ではありません。キリスト者でも失敗します。間違ったこ
とをします。ここでの立派は「よい」という意味です。キリスト教でよいとは、事柄
に即するということです。事柄つまり神さまの創造の御心にそうということです。頭
の良さや性格はどこか生まれつきがあります。最初から違います。計算が上手な人が
あります。頭が悪くて何度言ってもわからない方もあります。しかしよいとは、示さ
れたことへ即することです。時間はかかってもちゃんとするということであります。
下手でも一生懸命、自分の賜物を使うと言うことです。
 初代教会時代にケルソスいう人が『キリスト教反対論』を書いています。この人は、
キリスト教がいかに馬鹿げた宗教であり、つまり創造主がいるとか、神が人間であり
神であるとわけの分からんことを言っているとか、人肉を食べさせているとか、これ
は主の晩餐を間違って聞いたらしいです、終わりの日があるとか教えているとか、文
句たらたらです。ローマ皇帝を拝まず、ローマ帝国にとって全く役に立たない宗教で
あるととうとうと書いています。しかしこの人は1つだけキリスト者の道徳はよいと
したそうです。そしてローマ帝国が、キリスト教になってしまったのはある意味で哲
学が優れていたのでもなく、力があったのでもない。ケルソスが1つだけよいとした
主の十字架の隣人愛があったからと言われています。
 馬鹿にされても文句言われても、礼拝と祈りを捧げ、自分の生活を事柄に即して立
てていったのです。力を示すのでなく有名になるのでない。貧乏人は貧乏人として、
金持ちは金持ちとして、病人は病人として神の使命に生きて、隣人を愛して支えて生
きたのです。振り返るとローマ帝国はキリスト教になってしまっていたのです。もち
ろんキリスト教となったローマ帝国はまた次に大きな問題を持つことになります。し
かしまず言葉で通じなくても、生活で示せるのです。私たちは目立ったり力をもった
りでない。普通の日常の自分の使命を尽くす。ここにおいて用いられるのです。
 13節からは、大いに問題のある箇所かも知れません。キリスト教は第1義的には革
命の思想ではないのです。旧態以前の昔ながらの保守的な教えなのです。マルクス主
義からは大いに文句を言われました。女性解放の方々からも文句がでています。「主の
ために、全ての人間の立てた制度に従いなさい」です。どうしようもないです。パウ
ロも又、ローマ13章に同じような事を書いています。しかしペテロの手紙のこの方が
徹底しており、具体的です。13,14に皇帝、17節には、ちゃんと「皇帝に従え」と書
いています。これでは解釈しようがありません。
 しかしこの旧態依然、保守ゴチゴチのキリスト教が、なぜかイギリス革命、フラン
ス革命をなし、悪い王様をギロチンに掛けて、革命の社会でもありました。これも不
思議なのです。恐らく多くの社会の中でキリスト者は、どちらかというと色々な団体
では、文句の多い、嫌なやつに数えられているのではないかと思います。「人間の立て
た制度に従え」と教える教えが、なぜ革命になるのか。
 答えは、先ほど12節に「主のために」読み方によっては「主にあって」という限定
が着いているからです。まさに主のために、主にあって、制度に従い、法律に従いま
す。しかし問題は、上の人が私利私欲に走り、党利党略に走るとき、政府や国が自分
の使命を忘れて「主にあって、主のために」を忘れる時、それが起こります。会社が
設立理念を離れ、私利私欲だけになるとき、それが起こります。政府で言えば、日本
のような国の形態の場合は、根幹の憲法を忘れる時、それが起こります。もっという
と神さまを忘れる時、それが起こるのです。それは見える形では起こっていないかも
知れません。全く同じように見えるかも知れません。しかし改革、革命は深く浸透し
ていくのです。それは神さまが造られた世界だからでもあります。
 キリスト者は無秩序主義、無政府主義とは相容れません。制度を守り、決まりを守
り、習慣を大切にします。革命にほど通い。しかしそれは「主にあって、主の為に」
です。国であれば、弱い人が支えられ守られ、1人1人が自分の人生と自己を実現す
る為です。そして14,15節に特に聖書が言う政治の働きは「悪を行う者を処罰し」と
いう正しい裁判です。聖書では正しい裁きが成されないとき、その国の滅びは近いの
です。
 洪水は天災だから仕方がないと多くの方が言います。しかし原子力発電にしても、
河川の堤防にしても人間がつくりました。そこには責任があり、責任のあるところに
は裁きがあるのです。なぜあそこが決壊したのか、なぜ発電所はメルトダウンしたの
か。裁きがなされて本当の予防ができるのです。主にあって、主において、上の制度
に、つまり法や法律に従って歩みなさい。生きなさい。そして「主のあって主におい
て」が崩れる時、その制度は破壊され、また新しい制度を作り直し、また従って行く
のです。主にあって、主において上に従う。制度に従う。これはキリスト者の正しい
道です。 
 最後のペテロの手紙は、16節に「自由な人として生活せよ」といいます。ここも余
りにも有名です。ルターは宗教改革をなしましたが有名な3つの宗教改革文書という
のがあります。その中の1つに『キリスト者の自由』というのがあります。有名な前
提は「キリスト者はすべての人の僕になることができる奴隷である。同時に、キリス
トはすべてから自由である王である」となっています。奴隷であり王様である者、こ
れがキリスト者です。どういうことか。言葉では矛盾です。説明は厄介です。しかし
私達は実例をすぐに示すことができます。イエス様です。イエス様の生き方はすべて
の人の僕でありつつしかしすべての人の王様です。つまり本当の王様は僕になれる人
であり、本当の僕になって仕えることのできる人は、真の王様なのです。
 これは理屈では通りません。矛盾です。しかし信仰の現実です。キリスト教では、
本当に偉い人は僕であり、しかし本当に僕の人は実は王なのです。何度か話ましたが
私が最初の牧師になったのは北海道の室蘭でした。そこでお世話をしてくださった尊
敬する他教派の牧師もう天国ですが、キリスト者になった証を聞きました。戦争直後
の東北の田舎に宣教師が来たそうです。そして天幕伝道で神様の前には天皇も平民も
ないという説教をされたそうです。戦争に負けたとはいえ天皇陛下は絶対でした。そ
の宣教師は集会の前にスリッパ並べをしていたそうです。これは本物かもしれないと
思ったと言われました。キリスト者は僕であり王である。これが自由の根源です。自
由を神の僕として用いたのです。私達もすべてが自由です。しかし僕として自由を用
いるのです。イエス様の十字架の恵みは、自由に答える恵みです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。9月2週になりました。先週は大雨によ
り大災害が栃木で起こりました。どうか被災の方守ってください。水がひかないとこ
ろもあるそうです。守ってください。求道者の方支え導きください。特にバプテスマ
を準備する方守ってください。病気療養の方も津続けて御手においてください。特に
M姉支えてください。幼稚園は敬老会を終わり運動会の準備をしています。守って
ください。小羊クラブも通常保育になっています。学童を守り、支援員を守ってくだ
さい。小野姉の家庭集会がはじまります。守ってください。桜島、口之良部島守って
ください。1周間また主の前に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」
   マタイ伝28章16〜20節          2015年9月6日
                「 私の弟子に 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は教会学校との合同礼拝ですので、子供達の説教からします。―子供説教―
 さて本日は振起日礼拝として、守ります。ところで振起日礼拝とは何ですかという
のが良く言われます。何度か巻頭言に書きましたが、書いている本人が書いたことを
忘れていることがあります。つまりこれは聖書からはなかなか出てこない礼拝です。
バプテストは聖書を中心とするのになぜ、聖書にない礼拝をするのかといわれそうで
す。私はこれはバプテストの特徴であるのかと思いましたが、日本キリスト教団もル
ーテル教会もしているようです。調べてみますと振起日礼拝は、アメリカ教会発の礼
拝のようです。いつだったか語ったことがありますが、アメリカでは英語でラリーデ
イというそうです。ラリーとは西織選手が有名で今回早々と一回戦でまけましたが、
あのテニスや卓球のラリー・打ち合いのことです。アメリカではやはり夏休みが終わ
り新学期が始まるころ、今年で言えば9月13日がこの日にあたるようです。中には、
この振起日礼拝を、1ヶ月もするつまり4〜6週に渡ってする教会もありました。
 インターネットをみておりますと、特に教会学校を持つ教会では、このラリーデイ・振起日
礼拝におやつを出し、ゲームをまじえて、大人と一緒に礼拝にして後は楽しむという
のがあります。あるアメリカの教会では「御言葉は聖書からだけ学ぶのではなく、教
会生活を通して学ぶのであるから、礼拝後の楽しい交わりを入れるのは正しいことで
ある」とまで書いてあるのがありました。私達の教会でいうと春のお花見礼拝のこと
かと思います。これはよくみるとバプテスト教会ではなくアメリカ・ルター派教会と
ありました。御言葉を聖書からでなく、教会から学ぶというのは、バプテストではそ
のような面を知っていても直接言うのはないように思います。つまりどうもバプテス
ト発でも、聖書発でもなく、アメリカの教会の伝統のようです。
 これを日本の教会が真似ていいのかですが、形骸化しておるのかもしれません。し
かし夏の疲れでしばらく休んでいる方に、鹿児島ではちょっと早いですが、秋風と共
にお誘いの葉書が行って「教会はあなたの事を祈って待っています」と言うのもちょ
うどいいのではないかと思います。10月になるとまた運動会、11月召天者記念礼拝、
12月クリスマスの準備となります。9月の始まりの礼拝として、守りたいと思います。
 さて本日の聖書ですが、マタイ伝28章の最後の箇所にしました。いつもは世界祈祷
日週間で開いたりします。しかし今回、第1主日はいつもマタイ伝から聞いています
が、ちょうどこの箇所であること、イエス様の大宣教命令と振起日礼拝はあっている
かなと思います。

 マタイ伝28章のこの最後の章は、イエス様が復活されて、最後の命令、教え、教訓
を教えられたところです。すでにマタイ伝28章7、10節には復活のイエス様が「弟
子達にガリラヤに行けといいなさい、そこで会える」と女の弟子に言われていました。
ユダはいませんのでここでは11人の弟子達は、イエス様の言葉に従って、ガリラヤに
行きました。実はこの山はガリラヤのどの山かと言われています。3つの説がありま
す。1つはイエス様が宣教を開始される時に、サタンに試みられました。この時マタイ
伝4章8節はサタンがイエス様を非常に高い山に連れて行ったとあります。そして「こ
の私にひれ伏せば、全ての権威を与える」とサタンが言ったあの試みの山です。2つ
目は、マタイ伝5章から始まる山上の説教が語られた山でないかと言われます。3つ
目はイエス様がペテロとヤコブとヨハネを連れいって、山上で変貌されたマタイ伝17
章1節の変貌の山です。聖書には残念ながらどの山か書いてありません。しかし18節
にイエス様は「私は天と地の一切の権威を授かった」と言われました。これはマタイ
伝4章8節のサタンが「私を拝むならこれ(つまり地上の一切の繁栄つまり権威)を
与える」と言いました。その対応対比を考えると一番最初のサタンの試みのガリラヤ
にある山かもしれないと言われています。
 17節。しかしここで大切なことは、どの山であるかよりも書いてあるようにマタイ
は、この期に及んでなお「疑う者がいた」と正直に書いていることです。この疑うは
実は、マタイ伝ではもう一箇所でてきて14章31節です。ここにはペテロが湖の上を
歩かれるイエス様を見て、イエス様の真似をしようとして途中まで湖の上を歩くので
す。しかし打ち寄せる波を見て沈んだという有名な箇所です。イエス様を見つめて真
っ直ぐ進む時には、水の上を歩けるのです。しかし途中で現実の波を見て沈んでしま
う。この信仰を示しています。しかしここで大切なのは、沈もうとした時ちゃんとイ
エス様が支えてくださったということです。ペテロはできるかどうか分からないけど、
主の「来なさい」と言う言葉に従って、水の上を歩いてみた。案の条途中で沈んだ。
しかしイエス様は支えてくださった。私達は、復活のイエス様を信じる時に、不信仰
の微塵もない完全・完璧な信仰でなくていいのです。そもそも不信仰のない完全な信
仰は人間にはありません。信仰は常に不信仰を含みつつしかしそれを乗り越える形で
導かれていきます。「自分は疑いません」と言う方は、確かに偉いかもしれません。し
かし人間は弱いのです。病気をします。災難に苦難に遭います。途中でどんなに固い
信仰も崩れます。しかし心配しなくていいのです。イエス様の「お出でなさい」、イエ
ス様の「来なさい」という言葉を確かに聞いたなら水の上を歩いてみることです。
 案の定失敗するでしょう。しかしイエス様はそこから導いて下さいます。沈み欠け
たところから又導きが始まるのです。イエス様の十字架の御手は私達の下にあります。
地の底まで沈んで行ってもまたその下にイエス様、神さまのみ手があるのです。安心
して歩みましょう。復活のイエス様を疑う弟子もいる。しかしまた支えて頂くのです。
 19節を見ますと復活のイエス様はまず、第一に「全ての国民を私の弟子とせよ」と
言われます。次にイエス様は「バプテスマを授けよ」と言われます。最後に20節に「私
が語ったことを守るように教えよ」と言われます。皆さんは順序がおかしい、と思わ
れるでしょう。自分はバプテスマを受けるときは、バプテスマクラスを受けてイエス様の
教えをまず学んだ。それからバプテスマを受けて、そして弟子となって生きなさい、
と習ったぞと思われるでしょう。現実の私達と順番が逆になっています。まず、聖書
は「弟子とせよ、そしてバプテスマを授け、そして教えたことを守るように教えよ」
となっているのです。なぜでしょうか。
 いろいろな取り方があります。確かに現在は順番が違ったように見えます。しかし
イエス様が言われたことがやはり正しいのです。まず何よりも先に、第一にイエス様
の弟子になることが先にあるのです。もろもろの教えの前に弟子になれるのかと言わ
れると困るのですが、実際に現実はそうなっていると思います。イエス様の信仰はや
はり教えから入らないのです。具体的には難しいですが、聖書を読むと同時に、礼拝
や祈りがあります。さきほどアメリカのルター派教会の振起日礼拝の説明にけちをつ
けました。しかし実際に聖書を学ぶためには教会生活をすることからがあります。こ
れは具体的には礼拝生活になるのです。諸々の教えの前に祈りがあるのです。それは
皆の前で祈れるのかどうか、でなくて、実際に祈らざるをえないという生活のことで
す。皆の前の祈りは確かに少し訓練がいります。最初、礼拝の司会者をされる方は必
ず紙に書いてこられます。紙に書いた祈りは、祈りでないと怒る方があります。しか
し現実には、紙に書いた祈りから始まります。司会をする方で、一番最初から自由に
祈った人をみたことがありません。もしやおられたかもしれませんが、おそらく教会
を去られています。神の前の祈りに恐れが無い人は、去るしかないのです。
 神さまの前の祈りで、皆の執り成しになる祈りを、一番最初に自由にできる方はあ
りません。まず誰でも祈りを書いてみるのです。まさに弟子になるとはまずそういう
ことです。聖書に精通するとか、聖書概略を知るとか、聖書の歴史を知る前の段階が
あるのです。それは何か言葉にならないのですが、あえて言えば神さまへの畏れとい
うことです。怖い恐れでなくて、聖なること、尊厳さに対する感覚のようなものです。
異言を語るとか奇跡を見たとかでない。静ずまって主なる神こそ神さまであることを
知る。言葉になりませんが、そういうことです。礼拝を守る、祈りを守るという感覚
です。ある意味で契約と言ってもいいかも知れません。契約というと突然固くなりま
す。しかし神さまのとの契約を守るという感覚です。礼拝しても祈り会にでても何も
変わらない。しかし神さまのみことばですからやってみます。神さまの約束ですので、
効果があるなしでなくて、してみますという信仰です。祈っても祈って変わらず、好
転しない。神さまからの答えが見えない、ある意味でどうもなさそうにみえる、いや
本当にない。しかし祈っていく信仰です。しかし礼拝して行く信仰です。これは約束
の信仰、契約の信仰といいます。
 私達も小さい教会ですが、鹿児島にはもっともっと小さい教会があります。しかし
ずっとずっと黙々と支えて礼拝を献げる信徒の方があります。南連合の集まりや連盟
の集まりに行きます。とにかく行事が多すぎます。しかし文句言いいつつ、それでも
食料デーや地域の集まりを担い、行くのは、私はそんな信徒に出会えるのが神さまの
大きなプレゼントです。中には牧師よりも遙かにすぐれた信仰の方があります。です
が、それでもきちんと教会に仕えておられる姿をみると励ましを受けます。そんなも
のではないでしょうか。
 イエス様がまず「弟子とせよ」とバプテスマより先に言われた、教えよ、より先に
言われたのはそれです。信仰には、バプテスマよりも、教えよりも先にあることがあ
るのです。信仰は「弟子となる」という教えを越えた信仰の現実があるのです。バプ
テスマせよ、とは教会儀式ですので有る意味で教会を作れともなるでしょう。教えよ
は、私達は人間ですので、学びがいるのです。どんなことにも学びが入ります。時代
はどんどん進みます。学ばなくていいのはほとんどありません。学ばない人は進歩が
ありません。しかし学びの前の段階・前提があるのです。
 もう忘れかけておりましたが、思い出しました。今回幼稚園の一泊保育にいつもの
ように着いて行きました。2日目の朝にある子が「先生、○○ちゃんが泣いている」
と他の子がいいます。どこでというトイレだというのです。走って行ってみるとパン
ツの中にうんこをして泣いていました。間に合わなかったのです。昨晩の寒さでお腹
が冷えたのでしょう。お腹がゆるくなっていたのでしょう。ふと教育実習に行った時、
私は基礎免許が、知恵遅れの子供の養護学校でした。その時の先生が、養護学校のこ
こではまず子供のしものお世話がスタートですよ、と言われたことを思い出しました。
教育でない。そうだろうと思いました。パンツを洗ってあげました。
 全ての仕事に基礎があります。信仰にも基礎があります。聖書の教えを知る前に、
十字架のイエス様の弟子にならせて頂きます。バプテスマはその次のことです。聖書
の教え、イエス様の詳しい学びも、実は次の段階でいいのです。まず、弟子になるの
です。イエス様の様の後に従うことから始まります。それは、何かはそれぞれの人に
あります。しかしまず礼拝を献げ、まず祈りを捧げます。それから聖書の詳しい学び
が始まるのです。時々私達は、順番を間違えて脱線します。しかし最初のペテロで言
ったようにそれでも神さまは、水に沈みかけた私の側に来て、沈みかけた私を持ち上
げてくださるのです。だから心配は入りません。
 最後に、これは世界祈祷週間で言いましたが、実はこの本日の18〜20節を、世界宣
教のイエス様の命令・召命であると世界で始めて受けとったのは、バプテストのイギ
リスの最初のインドの宣教師ウイリアム・ケアリ牧師とされています。そんな馬鹿な
ことがあるか、16世紀にザビエルが日本に来たではないか。その時、イエス様のマタ
イ伝28章を読んだはずだと思うでしょう。ところがザビエルさんの書物には、イエス
様のマタイ伝28章のこの箇所の引用はでてこないそうです。もちろんここで資料がな
いので知らないとはなりません。宗教改革者のルターやカルバンは読んだはずだ、世
界の人にイエス様を伝えよと解説しているはずだ、と思います。しかしルターもカル
バンもマタイ伝28章のこの箇所でなぜか、世界宣教を説教しませんでした。この箇所
をまともにイエス様は「世界の人、全ての国民に伝えよと言われている」と受け止め
たのは、イギリス・バプテストのケアリー牧師でした。お父さんは学校の先生でした。
しかし自分は靴屋をしていました。17才でお金を盗んで捕まって改心し、22才の時、
イギリス国教会会員でしたが、再バプテスマを受けてバプテスト派になりました。聖
書学校に行って信徒牧師だったそうです。聖書を読んでいる内にどうしても、イエス
様の命令を自分の召命と思うようになったそうです。1793年、32才でインド渡り73
才で死ぬまでインド伝道しました。この人も弟子になるのが先で、学びは後からだっ
たのです。私達もまたイエス様の弟子として頂く、十字架の赦しの恵みを生きるとこ
ろから始めましょう。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。9月に入りました。振起日礼拝を感謝で
す。9月を導きください。子供達は夏休みが終わり、幼稚園、小羊クラブは夏期保育
が終わり、通常の保育になっています。一泊保育も雨に降り続けられましたが、守っ
てくださり、感謝です。求道者の方々を導き、守ってください。全てをご存じのあな
たがその求める所に答えて、信じる時、委ねる時を備えてください。病気療養の方、
特にリハビリのM姉、A兄、H姉、K兄を守ってください。続けてみ手をお
き、お守りください。桜島は山体膨張しましたが、大きな被害なく、避難勧告が解除
されています。お守りを感謝致します。続けて守ってください。口之良部の避難の方
はまだ帰ることができません。どうかみ手を置いてください。参議院の安保法案もみ
手においてください。今週1週間を主のみ前に、弟子として過ごさせてください。御
名によって祈ります。アーメン」

   エレミヤ書32章6〜15節          2015年8月23日
                「 再び買い取る時 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 今朝は、台風が近づく中での礼拝になっています。まだ気配がありませんが明日の
明後日の幼稚園の一泊保育は延期となり、中山の児童クラブも明日はお休みを決めて
います。早すぎるかもですが、安全は全てに優先するということで、早々と決めてお
ります。桜島の噴火も山体膨張と火山性地震の多発から1週間が経過しどうなること
やらです。このまま噴火しないでいてほしいと言う方、少し噴火して数十年でも安心
して暮らせる方がいいのでないか、という方いろいろです。また高槻での中学1年の
男女の殺人事件も、先ずは犯人が捕まって良かったです。しかし2人共に殺されとは
また酷い事件になりました。犯人は前科のある方で、これからまた前科者の管理は厳
しくなると思われます。しかし犯人の憎さと同時に、深夜の夜中中を中学生が遊んで
いたというのは、とうとうここまで日本の家庭の教育力がなくなったのかと言う思い
があります。また日本はこんなに危ない国になったのだという思いと2つあります。
詳しい状況がまただんだん分かってくると思いますが、神戸のサカキバラ事件と同じ
ように、大きな衝撃を残すのでないかと思います。
 この様なときにキリスト教のできることは少ないです。私達には、神さまの救いの
手は短いのでないかとか、なぜこんなことをそのままにしておかれるのかとか、あり
ます。戦争の時も、いつもなぜ神さまは戦争をとめられないのかとかあります。しか
し神さまは真面目に努力する人、決まりをきちんと守る人には、それなりの酬いを備
えてくださいます。パウロはフィリピの手紙4:8節に「すべて正しいこと、すべて
清いこと、すべて気高いこと、全て愛すべき事、…心に留めなさい」と書いています。
「真夜中中に遊んでいる人を守れ、健康に全く注意しない人の健康を守れ、」というの
は正しいのかどうか。ここには責任が発生します。戦争は何はともあれ、まず人間の
業です。なぜ戦争を止められないのかは、あなたは戦争を止める働きをしたのか、が
問われます。神さまの問いにはいつも自分への問いが入っています。ドイツのある牧
師が夢をみました。ヒトラーが裁判を受けているのです。夢の中でヒトラーは「自分
は一度も福音を聞かなかった」と言っていたというのです。私はこれは健全な夢だと
思います。神さまは、なぜヒトラーを止められなかったのか、があります。しかしヒ
トラーは一度も福音を聞かなかった、という夢をみたのです。なぜ伝えなかったのか、
という課題が見えてきます。最後は十字架の主の言葉を真剣に生きるという事だと思
います。

 さて聖書は、主日の第4週ですので、エレミヤ書を開いています。32章の本日の
箇所は、30章からの回復の預言の3章に渡る最後のところです。本日の箇所は通常、
エレミヤの象徴預言と言われます。出来事としては、面白くもなんともない出来事で
す。エレミヤは13章では帯をとって、雨ざらしにして、ボロボロになった帯をエル
サレムの人々にしめし、イスラエルの滅びを語りました。エレミア19章では、神殿
に行き、皆の見ている前で陶器を割って、イスラエルの滅びを語りました。ある意味
で預言者はエンターテイナーの面があります。しかしここでは、エレミヤが親戚の畑
を買うというまことに陳腐な全き日常のできごとです。
 不動産の売買は、確かに普通の場合は人生の中でそう多くあるのではありません。
ある人は人生で一回も不動産の売買をしなかったという方もあるかも知れません。し
かしある人は、一生の内に数回は遭遇するかも知れません。またこの世の問題として
は、不動産売買は不動産屋があり、不動産に従事する免許や資格があるのです。極め
て日常的な一つの商売ということもできます。しかし極めてありふれた出来事で、預
言とはもともと言えない畑を買うという出来事が、6節にあるように、主の言葉が望
んでなされるのです。私達は、ここでの一番の預言は、神さまは預言の言葉を、言葉
として語るのみならず、日常の出来事を通して示されるということを聞くのです。主
なる神様は言葉でみ言葉を語られます。しかしなお言葉のみでなく、出来事を通して、
日常を通しても語られるのです。すでに聞いてきたことですが、なお聞いて行きたい
と思います。
 6〜7節にあるように、主の言葉はエレミヤに臨み「叔父の子ハナムエルがお前の
所に来て、アナトトにある私の畑を買ってくれといいに来る」というのです。ここに
は、なぜハナムエルがエレミヤに畑を買ってくれと来るのか、その理由がありません。
また買ってくれというその畑はどのくらいの広さはなのかも、ありません。またその
畑はよい畑であるのか、悪い畑であるのかもありません。水はけがよいのか、悪いの
か、山の陰で日当たりが悪くどうにもならない畑であるのかも分かりません。そもそ
も預言者活動をしてきたエレミヤが、土地を買うだけのお金をもっているのか、書い
てありません。つまりエレミヤ書が私達に言いたいのは、この畑の売買の詳細を知ら
せるのではなく、預言者エレミヤがこの畑を買う契約をした。このことが大切なこと
であったと思われます。
 9節にエレミヤは、17シェケルのお金を払ったとあります。エレミヤは少なくて
も17シェケルはもっていたのです。17シェケルはダリク金貨の20分の1である
と分かっています。1ダリクは、金8.4cです。現在金の1cの金は4200円の相
場だそうです。つまり今のお金に換算すると1ダリクは35000円となり、1シュ
エケルは1750円となり、17シェケルは、29750円つまり約3万円くらいな
のです。3万円の土地というのは、日本にはないと思います。もちろん今から260
0年も前の中近東のイスラエルと現代日本の相場を比べるのは無理な話です。金の価
値は、2600年前の方が今の日本より遥かに高かったと思います。
 しかし私達は土地の値段を現在に換算することによって、なぜ、こんなに安い土地
の売買をするのか。問題がまた一つ増えるのであります。幾つかのことがいわれてい
ます。1つに親戚のハナムエルの窮状が伺えます。土地をこれほど安くく手放すのは、
もう土地に対する価値がなくなりつつあると言えます。土地価格の暴落時代ともいえ
るのです。時代を考察してみます。エレミヤがこの神さまの言葉を受けたのは、32
章です。前後関係からこの土地の売買は、実は第1次バビロン捕囚から第2次バビロ
ン捕囚の11年間の間でないかと言われています。つまり、エルサレムはすでにバビロ
ンの軍隊に囲まれており、風前の灯火状態であるのです。エルサレムはバビロンによ
って、いつ陥落されるとも限らない状態です。イスラエルが亡ぼされてバビロンの土
地となる、占領される一歩前でありました。現在の日本では沖縄くらいしか実際の土
地の没収というのはないと思いますが、自分の土地が自分の土地でなくなるのです。
エルサレムの陥落が見えている。土地の没収が目の前にある。こんな時に土地の売買
はなりたたないでしょう。嘉手納基地になろうとしている沖縄で、嘉手納の基地にな
る土地買ってくれと言われるのに等しい。今は土地の専有代がはらわれますが、昔は
ありませんでした。バビロン捕囚におけるエルサレムの陥落を考えると、親戚ハナム
エルがエレミヤに土地を買ってくれ、というのが分かります。ハナムエルとすれば、
土地を持っていても無一文になるのであれば、安く売れるときに2足3文でも、売っ
た方が良いと言うことができます。
 7節と8節にあるように、実はイスラエルでは、誰も自由に土地の売買ができると
は限りませんでした。もともとイスラエルでは、土地は神さまからの嗣業で神さまか
ら受け継ぐものでありました。土地は地境を移してはならないというのが原則です。
ですからエレミヤに、親戚がアナトトの土地を売りに来たのは、エレミヤに土地を買
うその権利があったことになります。つまり「親族として買い取り所有する権利」が
エレミヤにあったのです。ここでエレミヤは、買うこともできましたが、もちろん買
わないでおくこともできました。エレミヤは予言者ですので、主なる神の言葉を受け
て、バビロン捕囚は避けられないことを知っていました。つまり土地を買っても、そ
れはバビロンのものになるのです。自分のものにはなりません。しかしここでエレミ
ヤは、あえて土地を買いとる行為をするのです。なぜなら、ことによってバビロンか
らの救いの預言をすることになるのです。言葉を持ってするのではなくて、こうして
自分の行為をもって神さまの出来事を示し、預言することを、預言者の象徴行為の預
言といわれています。
 9〜13節まで、古代社会における土地売買の様子が書かれています。エレミヤ書
が言いたいことは、ここでは、どのくらいの広さの土地を、どのくらいで買って儲け
た損したがどうか、ということでありません。銀を計りで計り、証書を作成し、封印
をして、封印しているものとその写しを作る。そしてそれを壺の中にいれておく。こ
れらのことは、当時の土地売買契約で普通に行われていた方法だそうです。ここで大
切なのは、戦争でバビロンに亡ぼされる、負けると分かっている。明らかに土地の契
約書は無駄なことになる。しかしなおそのことを知りつつまた土地の売買契約を行う
ことです。エレミヤが主によって言われたのは、戦争状態という非日常の中で、普通
の日常を行うことでありました。そして明らかに戦争で無駄になる行為をすることに
よって、平和がまた来るということを預言していく姿をエレミヤは見せるのです。
 私達はここを読んで1つには、預言者と言うのはとてもでないがやっておれないと
なります。明らかに損するとわかっているのにそれをなす。戦争で募集されることが
わかっている土地を買う。そんなことをする人は普通はいません。しかしあえてそれ
をする。それは戦争で没収される土地がまた戻ってくることを示しています。しかし
この行為は、確かに馬鹿げていますが、神の国を望みつつこの世を生きるキリスト者
もまた同じ状態にあるのでないかと示されます。
 私達がなす礼拝、祈祷会、集まり、研修会これらはよく考えるとこの世的には、無
駄なことであります。ある意味で時間の浪費かも知れません。神様がおられず、神の
国が来ないで、ずっと人間の国でしかないなら、神の国を仰ぎ、復活を信じて、神様
のみ心に励むとは、なんと無駄なことでしょう。しかし私達は神様の恵みによって、
今礼拝をなし、祈りをなしているのです。こららのことは、エレミヤの無駄とわかっ
ている土地の売買、没収されるとわかっている土地を購入する行為と同じであると思
います。
 しかし無駄の行為であると同時に、エレミヤの土地売買の行為は、エルサレムの人々
にバビロンに滅ぼされてもなお、回復の時があるのでないか。神様のご介入があるの
でないか、と示していることになります。キリスト者の礼拝の姿は余りにも小さく、
この世の大いなる無神論の情勢からいうと取るにたりません。特に日本では教会は、
あってもなくても何も変わらないのでないかと思われます。しかしそれでも、あの世
を示し、神の国を示し、復活を示して行くのです。というか、そういう姿をとって行
くことを示されるのです。
 イエス様はマタイ伝の山上の説教において、5章13節に「あなた方は地の塩です」
と言われています。塩は料理の中に入れると見えません。材料はみえますが、塩は溶
けてなくなりそして働くのです。教会は大きな働きとしてはみえません。ある意味で
見えては行けないのかも知れません。鹿児島教会は少し大きめの教会ですが、多くの
日本の教会は小さいです。どこにあるのかもわかりません。しかしそれでも少人数で
礼拝し、祈祷会を守り、研修会をしていく中で、やはりこの世にイエス様を示し、神
の国を示し、復活を示していくのです。ですからある意味で教会はこの世のことに余
りに気遣っていくと塩気がなくなります。どこか馬鹿な所が必要というか、イエス様
の教えに従うとこの世とずれて行くのです。こうしたら大きくなる、こうしたら良く
なる。それはイエス様の教えによってならいいのです。しかしイエス様教えに反して
いたら、聖書になかったらしない、と言うかできないのです。
 エレミヤは滅ぼされる土地の売買をしました。没収される土地、この世的には無駄
な買い物をしました。しかしそれは神様からまた土地がイスラエルとして回復される
ことの預言としてなしたのです。イエス様を信じて歩むということは、最後はイエス
様がこの世を支配してくださり、平和を来たらせてくださるということを信じて歩む
ことです。現実は、力を持つ人が支配し、頭のいい人が支配し、戦争に勝つ国が支配
する。サタンのような人が子どもたちを殺している。しかし神様は、愛を支配の原理
とされ、寡婦や孤児をこの世の中心においてくださる時を備えている。バビロンの広
大な帝国に比べると四国くらいの大きさのイスラエルは、取るに足りない国です。し
かし今バビロンの存在を知る人は誰もいません。小さなイスラエルが残っているので
す。
 参議院の安保法案の審議は、改めてアメリカの戦略に日本が組み込まれるという根
底があることが、言われなくても気づくことですが、言われています。しかしアメリ
カはいつまでも大国でないのです。自分の生きる道を探さないといけません。私達も
またイエス様の十字架の救いを受けて、礼拝を重ね、祈りを重ねて行きます。私達の
礼拝、祈祷会は、エレミヤのように没収され取られる土地を買う姿です。しかし主は
エレミアの土地売買を預言としてくださいました。私達もまた、このように酷い世の
中であり、何もできそうにないこの世において、それでも塩とされたことを、受けて
歩むのです。そしてイエス様は小さい私達の小さい歩みにきちんと答えてくださる主
なる神様であります。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。8月の第4週を感謝です。70年談話が
でましたが、なんと心のこもらないお座なり談話でありました。平和を来たらせてく
ださい。先週は全国壮年大会が無事終わり感謝です。台風が来ており来週の一泊保育
を延期し児童クラブも休みます。被害がでませんように守ってください。多くの求道
者を感謝です。Yさん、Yさん、Yさん、中山のKさん守り導きください。
また一人暮らしのご高齢の方々、O姉、Y姉、守ってください。病気療養の方々
をお守りください。M姉、A兄、H姉、M兄、K兄、I兄、支えてくだ
さい。夏休み保育の児童クラブ、幼稚園の夏期保育を、守り支えてください。東北地
震以来、自然災害も多いです。避難者を守ってください。桜島もお守りください。口
之良部の人々がなかなか帰れません。守ってください。安保法案も参議院におくられ
ました。廃案を願います。今日からN.Y神学生が夏期伝道研修でこられました。
守ってください。今週の導きをおいてください。み名によって祈ります。アーメン」
   出エジプト記17章1〜7節          2015年8月16日
                「 その岩を打て 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 今朝は、先週に平和聖日礼拝をしましたが、交読文で毎年の平和交読文を読むのを
忘れてしまいました。本来は先週でしたが本日平和交読文を、交読することにしまし
た。今年は戦後70年ということで、いろいろなテレビ局がそれぞれに趣向を凝らした
番組を作っています。本当は全部見るといいのですが、時間がありませんので見たい
ものでなくて、こちらの時間の都合の着くものを見ています。それでも、考えさせら
れるのが多いです。
 一つはいよいよ戦後70年となると実際にその現場を記憶し体験する人が少なくな
って来ました。私は3才のころのことをほとんど覚えておらず、ようやく5才の頃か
らああだったとかこうだったとか覚えている程度です。ですから幼稚園の年長くらい
から記憶がなんとかあるのだと思います。そうすると実際の戦争体験を語れる方は7
5才以上くらいからだとなります。巻頭言に書きましたが、従軍看護婦のように、実
際に戦争中に17才以上の実際に戦地に行って働いた人となると最低でももう85才
以上くらいになられています。戦争の実際の状態がどうであったかは、もうしばらく
で第1次資料として語ってくださる方が、おられなくなるのです。できれば多くのこ
のような番組が作られて、体験の語りを残しておいて欲しいと思います。実際の戦争
を知らない人が、実際や実態を知らずに、理論だけでどんどん前進して、戦争ができ
る国になってしまうと大変です。後からでは遅すぎまし、反対ができなくなります。
 この前の熊本のバプテスト大会ではマルチン・ニーメラーというドイツのナチス党に
反対して戦った牧師の言葉を紹介されていました。ニーメラー牧師は、ヒトラーの戦
争に強く反対した牧師として有名です。しかしそれでも以下の言葉を残しています。
「最初、共産主義者が捕まった時、自分は共産主義でないので反対はしなかった。次
に、自由主義者が捕まった時にも、自分は自由主義者でなかったので、反対しなかっ
た。とうとうキリスト者が捕まった時に、自分は反対したがもうすでに遅かった」。つ
まりニーメラーという牧師は、キリスト者が捕まり出す前に、共産主義や自由主義の
方が、政府の迫害を受ける、と言うのです。つまり基本的人権が侵され、自由がおか
される時には、次にキリスト者の迫害の危険を感知せよということだと思います。
 これは水俣病の時もすでに亡くなられた原田正純先生の講演を聞いた時も同じ事を
言われました。「人間がやられる前に必ず自然界の何かがやられています。気を付けて
ください」と言われていたことを思い出します。水俣病は、水俣から雑食のカラスが
まずいなくなったと言われています。それから猫が変な病気になったと言われていま
す。そして最後に人間に出たのです。人間に来たときにはすでに遅いのです。ですか
ら、私達の回りに昆虫がいなくなり、野良猫がいなくなり、雑草がなくなり植物がお
かしくなった時には、人間も危ないのです。虫がいるということは実はとても大切な
ことなのです。いつもは気にとめないかもですが、共産党や自由主義者がおかしな扱
いを受けたら、今度はキリスト者であるということなのです。

 さて聖書は、有名なマサ・メリバの水と言われるところです。ここはなんと言って
もイエス様が、マタイ伝4章7節イエス様の荒野の試みの2番目に「あなたの神であ
る主を試してはならない」と言われたところの引用です。ここの実際の引用は申命記
6章16節です。しかし申命記6章16節を見ますと「あなた達がマサにいたときのよ
うに、あなた達の神、主を試してはならない」と言われています。つまり本日の出エ
ジプト17章の体験が元になって、申命記語っています。そしてイエス様が悪魔の誘
惑に遭われた時に引用された聖書の箇所がきたのです。つまりメリバ、マサの出来事
はイスラエルにとってずっと続けて覚えられた事件であった。イエス様もまたサタン
の誘惑の時に思い出された事件であった。本日の箇所はつまり聖書の根本的な誘惑、
試みのしくみ、誘惑の状態を示すと言っていいでしょう。
 1節にあるように本日の出来事は単純です。イスラエルの民は前の16章でパンの問
題と肉の問題を神さまによって解決されました。神さまはイスラエルの民が、パンが
欲しいというとマナを降らせることで解決されました。次にイスラエルが、肉がほし
いというと今度は、ウズラがイスラエルの宿営に降りてくるという解決を示されまし
た。パンと肉がないという問題を解かれた主は、全知全能の主であります。しかしな
お本日のところでは、さらにシンの荒野からレフィデムの荒野に来ると水の問題が起
こります。私達は、パンと肉の問題が解決されたら水は当然解決されていると思いま
す。しかし聖書は1つ1つの問題を示して行きます。これが人間の現実だと思います。
ある人はパンの問題で躓き、ある人は肉の問題で躓きます。そしてまた水の問題の躓
きもあるのです。私達が生きていくというは、大変な問題であると言えます。そして、
パンの問題、肉の問題、水の問題があり、神さまが一つ一つ答えて行かれる。という
ことは、私達もまた1つ1つの独自の問題を持っていいし、またそれに神さまが答え
てくださるということでもあります。本来はパンの問題より肉の問題より水の問題が
重大でないかと思います。しかし聖書はパンの問題、肉の問題、そして水の問題の順
序を示しています。人それぞれによって、民族、種族、性別のあり方によって問題の
大切さが違うとも言えます。それぞれの人にそれぞれの問題があり、主にあってこれ
と取り組むのです。
 2節にあるように、イスラエルの民は、モーセと争い「我々に水を与えよ」と言い
ます。この「争い」が原文でメリバです。この水がない出来事の場所の最初の名前に
なります。次に、なぜ主を試すのかとモーセが言いますが、この「試す」が原文でマ
サといいます。それでここは、争いと試すの場所で、メリバ・マサと言われるように
なりました。こうして聖書は、争いと試すが一緒に起こっていることが分かります。
それはそうだと言えるでしょう。私達が争う時には、実は試すことが起こります。あ
るいは誘惑が起こっています。試すことや誘惑が起こるときには、大体にして争いが
起こっているところです。メリバ・争いとマサ・試みは同時に起こっており、それを
区別するのは難しいのとも言えます。イエス様がこのマサ・試みを引用されたマタイ
伝4章はサタンとの戦いの場所すなわちサタンとの争いの場所・場面とも言えます。
試みと争いは一つの出来事の違った面であると言えるでしょう。コインを裏から見た
時と表から見た時、それぞれに違いますが、しかし同じコインであります。マサ・試
みとメリバ・争いは、こうして同じ場所に起こる違った面なのです。
 3節にあるように、民は争い、試みてモーセに言いました。「なぜ、我々をエジプト
から導き出したのか。子供も家畜も水がない渇きで殺すのか」。これは16章のパンと
ウズラの体験をしているのに、なぜかと思います。ここまでも人は傲慢、強欲になれ
るものかと思います。今し方パンを与えられ、ウズラの肉を準備された。だったら水
は当然、主なる神さまは由としてくださる時に、準備してくださるに違いないのです。
パンと肉を備えた主に水はもっと簡単なはずです。何をそんなに慌てるのか、主をな
ぜ、信じないのかと思います。しかし事実イスラエルの民は、パンを与えられ、肉を
与えられたその次に、やはり水がないとモーセに文句を言い出すのです。
 しかしこれが私達の姿なのです。私達も大変だと思っていたのに、恵みによってそ
れを乗り越えた。すると何故か次のことも神さまが乗り越えてくださるに違いないと
神さまの働きを当然視するのです。神さまは自動的に働く機械のように思うのです。
私達は神様を、自分の思う通りにして下さる神さまにしてしまうのです。自分で努力
することを忘れるのです。そして、次のことを神さまがしてくださらないと神さまに
向かって、どうしてこれをしてくださらないのかと言い出すのです。つまりここには
前に神さまが恵んでくださったがゆえに、今ある昔よりも軽いことに、文句を言い出
すということが起こります。
 たとえが悪いかもですが、大きな大きな病気を癒された。そしたら神さまは当然こ
の私の風邪を治せるはずです。そしてなぜ私のこんな風邪も治せないのかとなるので
す。時計仕掛けの神さまになるのです。イエス様を私達が見つめる限り、聖書の神さ
まは時計仕掛けの神様になりません。いつも人格の対応を持たれる神さまであり、応
答を望まれる神さまのです。大きな病気を祈りにおいて癒された主は、実は小さな風
邪もまた、自動的でなく祈りによって癒される主なのです。あの人にこう働かれた神
さまは自動的に、私にもこう働くべきである。あの人をああ取扱われたのであれば、
私もああ言うふうに取り扱うべきである。これは聖書の神さまにはありません。神さ
まは一人一人一回一回の祈りを求められ、応答を求められます。ギリシャの話で、ア
レキサンダー大王がまだ家庭教師についていた時の話です。アレキサンダー大王はア
リストテレスに「自分は王になる人物である。もっと簡単に数学が分かる道がないの
か」といいました。アリストテレスは「数学に王道はありません。王様でも乞食でも、
毎日コツコツと問題を解いていくしかありません」と言ったと伝えられています。
 神さまの導きがもっと簡単に分かる方法がないのか。神さまの奇跡がもっと簡単に
できる方法はないのか。答えは、毎日祈り、毎日聖書を開いて聞くしかないのです。
誰でもできて、しかし誰でもできない方法です。幼稚園の子供にもできて、しかし大
人ができない方法なのです。学歴が全くいらず、しかし学歴の高い人もできない方法
なのです。パンと肉の問題を解決したら、当然水の問題を解決しろ。ここに大きな試
みがあるのです。主の祈りの「試みにあわせないでください」は、ある意味で1日1
日を祈り、一歩一歩を、歩む方法であります。
 4節にモーセは、直ちに神さまに祈りました。4節後半にはモーセは「叫んだ」と
あります。モーセは動揺しているのかも知れません。又もイスラエルの民に文句を言
われています。しかしモーセのすることは、いつも同じとも言えます。民に文句を言
われ、問題が起こりました。どうしていいのか分かりません。砂漠でどうしてパンを
備え、肉を備えるのか。そして同じように水をどうして備えるのか。モーセには皆目
見当もつきません。モーセのできることはいつもの祈りです。そしてやはりそれは当
たり前の事であり、又も同じ事であり、しかし最も正しく最も適切なことでありまし
た。もっとましなことはないのか。もっと違うことができないのか。しかしまず祈り
なのです。
 イギリスのタイタニック号の沈没はいろいろ映画が吹き替えで何度もされています。
一番新しい吹き替えのもう一つ前の版だったと思います。あの沈み行くタイタニック
号で、ずっと祈っているお客と全く祈らないお客と祈ってから他のお客を助けにいく
お客と3つのグループが描かれてありました。実は神学校にいるとき、キリスト者は
どれが良いだろうとキリスト教倫理の問題になったことがありました。ご存じ全員が
助かる救命ボートはありませんでした。神さまの助けを願ってずっと祈る。これは大
切です。祈る時間があったら、どんどん動いて他の人を助けるべきである。これも大
切です。しかし短く祈ってそして行動することができたら、これが神さまの喜ばれる
道でないかとなりました。私達は業の前に、祈りを忘れるのです。ちょっとでも祈り
を合わせないのです。しかしモーセは直ちに、主に祈りました。
 5,6節にあるように、主は答えられました。「長老達を伴い、ナイル川を打った杖
を持って行け。そして、主はホレブの岩に立たれて、そこでその岩を打て」と言われ
ます。今レフィデムにいるのに、何故ホレブの岩か、なぜ杖で岩を叩くと水がでるの
か。主が岩に立つとはいかなる事態であるのか。問題山積の箇所です。意味は確かに
分からないことだらけです。しかし主は答えてくださったのです。主は、ナイル川を
分けた杖で、岩をたたきなさい、と言われます。叩いたくらいで水がでるのか。岩を
叩いて水をだす、とは聞いたことがないのです。
 しかしモーセは叩きました。神の言葉に従ってみました。するとその通りに岩から
水がでたのです。ここで大切なのはモーセの信仰がしたのでないのです。ナイルを打
った杖の魔法の力でないのです。モーセは神の下僕であり、杖は神の道具でしかあり
ません。ここで大切なのは神の言葉です。神様の指示です。実はこの出エジプト17
章はよく民数記20章と対比されます。民数記20章の水がない出来事では、カナン
の地の偵察が起った後の事件となっています。しかし同じ事件の違った報告というと
り方もあります。しかしよく読むと民数記20章は、岩に命じろとなっていますが、
出エジプトでは岩を叩けと言われています。違うのです。民数記ではモーセが、命じ
ろと言われたのに、岩を出エジプト17章のように叩いたので、モーセは「約束に地
にはいれない」と審判されています。命じるのか、叩くのか、モーセはきちんと神様
の言葉を聞くように言われたのです。そしてそれに失敗したのです。一度成功したそ
の岩を叩いた。つまり成功体験に頼んで、岩に命じるという神の言葉をきちんと聞け
なかったとも言えます。
 マサ・試みとメリバ・論争の水の根本がここに示されます。神を信じるとは、神に
聞くと言うことです。信じるとは聞くことです。神が全知で全能の愛の神となれば、
私達の最高の業があるのとすれば、ただ聞くことになります。叩くのか、命じるのか
確かに細かいです。しかし十字架の恵みの主を信じ、ただ聞いていくのです。

  祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。8月の第2週を感謝です。先の戦争を
ことを思い起こし、亡くなられた方のことを思います。70年談話がでましたが、な
んと心のこもらないお座なりのものでありましょうか。平和を来たらせてください。
バプテスト大会を無事終わり感謝です。続いて、全国青年、全国壮年大会、一泊保育
です。しっかりと守ってください。多くの求道者を感謝です。Yさん、Yさん、
Yさん、中山のKさん守り導きください。また一人暮らしのご高齢の方々、O
姉、Y姉、守ってください。病気療養の方々をお守りください。M姉、A兄、
H姉、M兄、K兄、I兄、支えてください。夏休み保育の児童クラブ、幼稚
園の夏期保育を、守り支えてください。東北地震以来、自然災害も多いです。避難者
を守ってください。桜島も避難となりました。み手のおいてください。口之良部の人々
がなかなか帰れません。守ってください。安保法案も参議院におくられました。廃案
を願います。今週の導きを守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

   ヨハネ伝14章27節                2015年8月9日
                「 私の平和を 」  -平和主日礼拝ー   
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は8月の第2週で平和聖日としてまります。今回は壮年会の方が、讃美をして
くださいました。毎年の聖書の箇所はいつもマタイ伝5章9節の「平和を作り出す者
は幸いなり」からしております。しかし今回は、ヨハネ伝から開いて見ました。
 今年は、先の第2次対戦が終わってから70年の節目と言うことで、新聞テレビが
多くの特集をしております。今回はこれに安保法案がありましたので、いつもの年よ
りも遙かに多くの番組があります。NHKではもうすでに70周年番組を初めておりまし
て皆さんも見られたと思います。私も、全部はみれませんが、あそこそこみておりま
して、本当に知らないことばかりです。金曜日の夜にあったNHKの特集番組は、報
道の問題を取り上げておりました。アメリカと日本の戦争において、いかに情報がテ
レビやラジオの報道がもいられたかをしております。私は正直にいって日本は大本営
発表と言えば、間違いだらけの報道を意味しました。しかしアメリカは自由の国でそ
んなことは無かろうと思っていました。しかし番組では、アメリカの戦争映画責任者
がまだ94才で生きておられてその当時の事を語り、アメリカもまた映像は検閲され
て、戦争の遂行の高揚と戦争国債を買わせるために大いに用いられたと告発していま
した。当然と言えば当然でありますが、やはりそうかということであります。
 一番びっくりしてたのは、硫黄島の戦いでした。数年前に映画になりました。アメ
リカの独立記念日のモチーフに使われた5人くらいの兵士が、アメリカの国旗を硫黄
島のすり鉢山の上にたたているあの有名なレリーフの姿のものがあります。あれは実
は第2次対戦の硫黄島で演出用に取り直したものなのだそうです。硫黄島の戦いは、
それから1ヶ月半も続き、日本人は20,129名が死亡、アメリカ軍は6821人
の死亡でした。しかしご存知のように実は負傷兵をいれるとアメリカ軍が28,68
6人のとなりなんと第2次世界対戦で、負傷兵が日本よりアメリカの軍の方が多い戦
いの現場は、ほとんど無く希有の戦いだったのです。つまりアメリカは苦戦したので
す。しかしアメリカはそれを本国に伝えず、まさに日本の大本営発表のように、ごま
かしたとありました。戦争とはそういうものなのです。
 そして原爆の写真もアメリカは原爆投下後すぐに広島、長崎に入りその惨状を写真
に写したのですが、しかしそれはアメリカ国民には伝えなかったそうです。余りにも
悲惨であり、戦争への厭世気分が蔓延したら困るということだったようです。キノコ
雲だけでなくて、その下で何が起こっていたのかの写真はずいぶんたってから公開さ
れたと語れていました。そして、日本もアメリカも戦争のプロパガンダすなわち戦争
遂行スローガンは平和のためにでありました。日本もまた八紘一宇(8つの方向でつまり
世界を一つにする)というスローガンは世界を平和にするという目標だったのです。現代
の安保法案もまた積極的平和主義という平和の名の下に行われています。
 つまりいつの時代にも、戦争は平和の名のもとにおこなわれています。平和の為に
と言いだしたら私達は、まず騙されないぞと構えるべきであると歴史は教えるのです。
そういう目をもって、私達は世界を見ておく必要があります。
 そして聖書もまた、私達はイエス様の言われた「平和を作り出す者は幸いである」
というマタイ伝5章9節を、きちんと見ておく必要があります。イエス様の言葉もま
た一歩間違えると、戦争の為に使われないとも限りません。私達は単純にキリスト教
が世界を征服するときに、世界平和が来るなどと単純に思っていけないのであります。
神さまはイシュマエルを置かれており、アブラハムの子とイシュマエルの子は、恐ら
く世の終わりまで続くと思われます。

  聖書を良く読みますと確かに「平和を作り出す者の幸い」を語っいます。しかし
イエス様は平和を人間が造り出すだけを言われていません。その代表がヨハネ伝の本
日の箇所です。ここには「私が与える平和」と言われています。つまり平和には、私
達が苦労して働いて、私が作り出してて実現する平和と、神さまが備えて、神さまが
お与えになる上からの平和の2種類があるのです。これはまさに、神の国をイエス様
が教えられた時と同じと言うか平行しています。神の国もまた私達が苦労して、働い
て、努力して作り出す面と全く私達の努力なしに、全く神さまから上から与えられる
神の国と2つの方向があるのです。神の国が人間の努力や力で成される面としかし、
全く人間の努力や働きのよらずに神さまがもたらしてくださる面とあります。そして
この2つがどうしても必要なのです。
 神の国は人間の努力によってのみ与えれるとすれば、私達は誤解を恐れずにいうと
すればまさにエホバの証人のように、毎日自分の仕事をおいて、神の国を伝えるべき
となります。まさに、社会奉仕は時間の無駄です。本を読む暇があったら伝道です。
幼稚園や児童クラブなどの社会奉仕はとんでもありません。時間の無駄です。そんな
余力があるのなら伝道しなさいとなるでしょう。なぜなら、神の国が来るのはひとえ
に人間の伝道によるからです。
 しかしイエス様は神の国を神さまがご自身の力と時間において、上から降りてくる
者としても示されました。「見よ、新しいエルサレムが用意を整えて、神の元を離れ、
天から下て来るのを見た」黙示録21章2節です。神の国は、めぐみによって、神さま
がもたらされます。神さまがもたらしてくださらないと恵みになりません。天から下
るのですから、人間が何しようが、何もなすまいが関係ありません。主なる神様は上
から新しいエルサレム神の国をこの世に、来たらせるのです。この世は変えられるこ
とになります。
 それでは私達は、神の国は上から来る。私達の努力と関係無しに上からくる。とす
れば、もう伝えることをやめるでしょうか。どうせ伝えても伝えなくても、真面目に
歩んでも不真面目に歩んでも神の国が来ることは同じらしい。それでは「飲めや食え
や踊れや」になるでしょうか。ならないのです。神さまの圧倒的な恵み十字架を受け
て、神の国は私達の努力によらないで来る。すると私達はますます神さまの恵みに答
えようとするとしかいいようがありません。私達の努力、業でなくて、神さまのめぐ
みによって神さまの国はくる。そしたら、私達はもっと真剣に生き、もっと真剣に御
言葉を伝え、イエス様を伝えるしかないのです。
 これと全く同じです。キリストの平和は、頑張って、くじけないで、働く者に幸い
が約束されている。しかし同時に、キリストの平和はイエス様が、この世とは全く違
った姿で完全に与えられる。与えてくださる。平和を作り出す者は幸いである。しか
し平和を作り出すに頑張る者への幸いと全くこの世の次元とは異なる平和を備えて与
えるイエス様が同時にあるのです。これは矛盾でなくて現実です。なんでそうなって
いるのか。そうなっているとしか言いようがない。平和を作り出す頑張りは祝福があ
ります。しかし同時に平和と平和はぶつかり、諍いが起こり、戦争になるのです。平
和が戦争になるとは本当はあり得ないのですが、現実には、いつも平和の名によって
戦争が始まる構図になってしまうのです。先の大戦はアメリカの考える平和と日本の
考える平和がぶつかりました。そしてどちらが正しいのかは歴史がある程度判定して
くれます。しかし最後の判定は神さまがしてくださいます。
 27節をさらに読むと単に人間が作る平和と神さまが与えてくださる平和の対比だ
けでなくて、イエス様はご自身の与える平和は、世が与える平和ではないとされてい
ます。そして主イエス様が与える平和の特質は、心を騒がせるな、怯えるな、と言わ
れています。ここに神さまが与えてくださる平和の性質は、心を騒がせ、怯えること
のない平和です。人間の作る平和は、アメリカの平和、日本の平和、イスラムの平和
のように、自分を中心にする平和のようです。自分が中心になるとは罪の平和とも言
えます。神さまを忘れた平和とも言えます。心が騒ぐ平和とも言えます。つまり力の
平和です。バランスの平和です。ロシアが50の兵器をもてばアメリカも50の兵器
をもつ、中国は30の兵器にしろといった力の分配の平和です。ここには真の平和は
ありません。いつ相手が嘘を付くかもしれない。同じ兵器としても、力が違うかもし
れない。バランスの平和は心が騒ぐ平和です。・
 つまり最後は怯える平和です。いつ中国が30の約束を破り50になり、100に
なるかもしれない。どんなに条約を結んでも破られるかもしれないと怯える平和です。
心が騒ぐ平和、心が怯える平和は平和とは言えない平和です。あえて言えば戦争をし
ていない平和です。しかし主が与える平和は、十字架の平和です。神さまに罪を認め
て、降参した平和です。

  *******済みませんが、ここから後は紛失していました。*******


   マタイ伝28章11〜15節         2015年8月2日
                「 心配かけない 」     
 今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は早いもので8月の第1主日になりました。いつものように、第1主日は主の
晩餐を受けて、福音書から聞いていきます。福音書から聞くこの第1主日の聖書もマ
タイ伝も最後になってきました。後一回の復活のところで終わります。調べて見ます
とマタイ伝から聞くというこの聖書箇所は、2005年から続けておりました。10年間
マタイ伝から聞いてきたことになります。マタイ伝が終わると次はマルコ伝に行きた
いと思っております。

 本日の箇所は「番兵、報告する」という標題が付いております。果たしてここから
何かメッセージがあるのだろうかと思われるでしょう。イエス様の復活の出来事に続
いて起こる何か付け足しのような、復活のイエス様の大宣教命令の前の前座のような、
なくても良いような記事にも読めます。しかし聖書は神さまの言葉です。神さまが無
駄なことをマタイに命じられたとも思えません。何かここにも神さまのメッセージが
書かれていると信じて聞いて行きます。
 ただ無神論者のバートランド・ラッセルでしたか「牧師達はどうでも良いような聖
書の箇所をいじくり回して、とんでもない教えをひねり出している」とか書いていた
のを思い出します。確かに解釈しすぎはいけません。書いてもないことを書いている
かのように取るのは、困ります。しかし最終的に神の言葉である聖書を解釈しないと
いうのも、怠慢であり主の御心が隠れているかもしれません。イエス様はマタイ伝5
章18節に「天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一角消え去ることはない」と
言われました。またマルコ伝13:31節には、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅
びない」と言われました。こうなってくると天地と共に滅び行く人間が、滅びない聖
書の言葉を解釈しすぎたということが言えるのかともなります。人の知恵と力を尽く
して御言葉に聞くのは大切であります。一見なんの変哲もない言葉が、意外に大切な
ことがあるのです。マタイ伝28章の最後の大宣教命令と言われる復活のイエス様の最
後の教えと復活された出来事に挟まれた番兵のローマ兵の報告の出来事は、何を私達
に問うのでしょうか。じっくりと聞いていきましょう。
 11節には、イエス様の復活の様子を見ていたローマ兵は、婦人達が行き着かない前
に、つまり当然ですが、婦人達が弟子達へ復活を報告する前に、祭司長達に報告され
たとあります。つまりユダヤ当局は、実は意の一番にイエス様の葬られたお墓で何が
起こったのか、知らされたことになります。ここで、ローマ兵はなぜピラトのところ
に行かないのかという疑問もあります。しかしマタイ伝27章65節によりますとピラ
トはローマ兵を、祭司長の配下においたと読めます。ローマ兵は総督ピラトに命じら
れて、祭司長の配下に置かれたのです。その命令に従い、まず祭司長に自分たちが見
たことを報告したのです。これは命令を受けたものの当然の方法と思われます。私達
もいつもは自分の場所で働いていますが、今日は違った部署に応援に行ってください、
と言われたらその部署の長に従って仕事をするのは当然でありましょう。
 12節をみますとしかしここでとんでもないことが起こります。祭司長と長老すなわ
ちユダヤの当局は、イエス様の復活を否定する方法というか、復活を無かった事にす
る、そのような方法を考え出すのです。私達はここで、いくつかの疑問がおこります。
なぜ、祭司長と長老は、ローマ兵の話を聞いて、イエス様の復活の出来事を、これを
隠し通せると考えたのか。自分たちが、一番最初のその報告を聞いた時、自分たちこ
そそれを確かめる為に、お墓に走らないらないのか。もし復活が事実ならば、自分た
ちは、主なる神さまに敵対していると考えることができなかったのか。ローマ兵の番
兵の報告と祭司長達の反応は多くの疑問があります。
 マタイ伝28章1〜4節にはローマ兵が見た出来事が書かれています。大きな地震が
起こったこと、お墓の石が動いたこと、主の天使が天から下ってきたこと、そしてお
墓の石の上に座ったことです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった
のです。これを見たローマの兵の番兵は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のよう
になったのでした。確かにローマ兵からすれば、イエス様の復活はまだ見えておりま
せん。ローマ兵の見たことは、イエス様の復活によって起こった様々の現象でありま
す。ローマ兵は、自分たちが見張っていたら、地震が起こり、墓石がころがり、天使
が石の上に座り、その輝きは稲妻のごとくその衣は雪のように白かったのですと言い、
私達は死人のようになったのです、となります。ここには確かに「イエス様が復活さ
れました」とは見えず、言えず、入っていないともいえるでしょう。
 こうして、実はイエス様の復活というのは、改めてその場面を見ることはできず、
その復活という結果というかその復活によって起こった現象を示されるのであるとい
うことが分かります。イエス様への信仰を持つ婦人達は天使の言葉を聞き、復活され
たと聞くことができた。しかしイエス様への信仰のない番兵は、そこにいるのに復活
の結果起こった現象しかみることができない。私達はここに大きな差があることを知
らされます。この番兵の報告の記事は、こうして信仰のある人と信仰のない人の神さ
まの事実の見方を私達に示すのでないかと聞くことができます。ある出来事が起こり
ます。それは神さまが起こしてくださいました。しかしそこに立ち会うものは、その
人の信仰によってある人は、そこに神さまの導きを見る。しかしある人はそこに偶然
を見るのです。復活とは信仰のない人には、地震が起こり、墓の石が動き、天使がお
りてきた現象です。しかし信仰のある人には、復活が起こったので、地震が起こり、
墓の石が動き、天使が降りてきて宣言してくれたのです。現象を見てそこの背後にあ
るものをなんとか見ようとする人と現象をみてその現象だけに留まる人と、人はどこ
で分かれるのでありましょうか。信仰と不信仰はどこに境界線があるのでしょうか。
 13節には、祭司長と長老達すなわちユダヤ当局の判断があります。それは「弟子達
が夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった」とする解釈でした。
復活の事実はこうして、似てもにつかない全く別の出来事に変えられていくのです。
この祭司長の解釈には、実はとんでもない間違いがあります。それは、私達は気づき
ませんが当時のローマ兵の職業規定からすれば、とんでもないことでした。まずロー
マ兵ともあろう者が、勤務中に全員居眠りをするとういことです。これはいくら2000
年前でもありえないと言われます。ローマ兵は当時の優秀な最高の兵隊です。夜勤を
命じられたらきちんと夜勤をしました。眠る場合には交替で眠りました。誰かが必ず
起きていました。全員が居眠りをするというはあり得ません。もしそんなことをした
ら死刑であったとも言われています。
 さらに眠りこけただけだけでなく、死体を盗まれました。これもローマ兵の番兵が
ついて盗まれるというのは、エルサレム師団にとっては大きな恥です。27章65節には
総督ピラトが「しっかり見張らせよ」といいました。見張りが見張りの務めをはたせ
なかった時、やはりローマ兵は死刑とまで行かなくても降格や減給、下手をすると免
職です。ここのローマ兵は、眠り転けたという職務怠慢だけでなく、死体を盗まれた
という職務遂行の過失、恥まで負わされます。これでは番兵としては全くだめであっ
たとなります。ローマ兵の恥さらしになるのです。こんな恥を受けてもその報告をせ
よ、と言われたこのローマ兵は職業倫理のない、よっぽどのひどいロ―マ兵であった
ことになります。なぜこんなことになったのか。
 12節には「多額の金」が動いたとあります。人間名誉よりもやはりお金が大切なの
です。そもそもユダがイエス様を裏切ったのも、多額の金が動きました。マタイ伝26
章15節には、ユダがいいました。「あの男をあなた達に引き渡せばいくらくれますか」
祭司長達は、ユダに銀貨30枚を渡すことにしました。銀貨30枚は高いのか安いのか
議論にされます。出エジプト21:32によると牛が奴隷を突いて殺した時の賠償金の値
段とされます。奴隷は、人間とは思われず物と同じでした。その人の一番大切なもの
を壊した時の賠償金くらいの値段であります。今交通事故の賠償金の相場は、一家の
大黒柱の死亡で2800万円と言われています。イエス様はこれよりもはるかに低いもの
を壊した時の賠償金でその命を奪われました。
 14節に「心配かけない」と祭司長たちが言ったのは、もし総督ピラトがこのことを
知って、番兵の兵士たちを咎めようとしても、咎めがいかなくなるようにするという
「心配かけいない」でありました。祭司長と長老達の力は、すでにイエス様の裁判で
証明されていたのです。総督ピラトはこの裁判が冤罪らしいと気づいています。しか
しとうとう十字架刑になりました。祭司長と長老達の力は証明されたのです。祭司長
と長老達はもしイエス様を許すならば、ローマ皇帝に反対することになると脅して総
督ピラトを黙らせました。兵士たちは、祭司長と長老達の力を認めざるを得なかった
のでしょう。ローマ兵は、言われるその通りにしたのです。
 私達はこの小さな記事にイエス様の復活が、歪められ、誤魔化される仕組みを見る
のです。復活の事実は、簡単に歪められ、ごまかされます。そして私達はこれがいつ
の時代も又くりかえされることを知っています。福島の原発でもそうでした。メルト
ダウンはないと何度も言われたのです。数値や検査の結果は、メルトダウンはないと
されたのです。しかし蓋をあけてみると完全にメルトダウンでした。何十人もの科学
者が又物理学者が動員されて、ニュースに出てきました。そして見抜けないのです。
復活そのものを見ることができない。その起った結果、現象からしか理解することは
できない。これが人間の限界でもあります。人となられたイエス様がご自身の力、神
様のみ力をもって、復活された。これを見ようとしないとはいかなることでありまし
ょうか。ここには人間の怠慢が示されています。
 神のみ子が来られた。そして罪の赦しの十字架を負われた。そしてそれを示し根拠
つけるために復活された。人間は復活することはできません。神様のみができる業で
す。しかし復活そのものは、人間にはわからない。人間に理解できるのは、復活の結
果の現象としての地震であり、墓石の転がりであり、天から下る天使の姿であります。
ここから天使の声を聞くには、信仰が必要なのです。祭司長と長老たちの失敗はなん
であるのか。弟子たちよりも早く優秀なローマ兵によって伝えられた事実がある。し
かしそれをきちんと聞かず、受けない怠慢です。
 マタイ伝にははっきり書かれていませんが、ヨハネ伝20章3?6節にはペテロと愛
する弟子が、女達の報告を聞いて墓に走る姿が書かれています。12弟子の失敗の姿、
不信仰の姿は見る影もありません。ユダは裏切り、ペテロもまた知らないといいます。
イエス様の十字架後の11弟子は散り散りバラバラになります。しかし12弟子がそれ
でも12弟子である理由があります。それはお墓の現象、地震と石の転がりと天使の出
現を聞いたら墓に走ったのです。走ってもどうなるものでもないでしょう。しかし祭
司長と長老がいかに復活の言い伝えをねじ曲げたらいいかを考えている時に、弟子た
ちは墓に走りました。祭司長と長老たちは、ローマ兵に心配するなと事実を曲げるこ
とを教えました。事実を捻じ曲げるお金を使いました。しかし弟子たちは何もできま
せんでした。お金もありませんでした。しかし事実の報告を聞いたら、弟子たちは現
場に走ったのです。確かめたのです。ここの怠慢とはなんでしょうか。神様に答えな
いことです。神様がことを起こされた。神様がことをなさった。現象としてしかわか
らない人間は、ことを確かめるしかありません。それは出来事に答えることです。出
来事に応じることです。現場に行き、天使の言葉を聞くしかありません。聞いた言葉
に生きる。主の召命、主の召しを生きるのです。
 実は今週8日土曜日、私は昨年の保育士試験で落とした最後の1科目を受けに新屋
敷の女子短期大学に行きます。後一科目ですからどうしても落とせません。学びの中
に「最悪の家庭は、最高の施設に優る」ということばができてました。もちろんこれ
は大変な誤解を与えて、1950年頃には家庭至上主義を植え付けてしまいました。行政
はこれをそうかと逆手にとって児童福祉の施設整備を怠った可能性があります。しか
しそれでもやはり、この言葉は生きており、保育園をはじめとして多くの児童養護施
設は、家庭的雰囲気を目標にしています。現在の施策もうすべての児童養護施設を100
名以下にする。家庭的な雰囲気を持つことが目標です。保育園もいまは小さいのがあ
ちこちのできて気づかれていると思いますが、理想は60人とされています。100名と
か200名の幼稚園は本当はおかしいのです。脱線しました。
 つまりこれを聖書にいかせば、教会に生きるとなります。カルバンは教会を信仰の
母であるとしました。つまり「最低の教会は、最高の信仰にまさる」と言うこともで
きます。教会は確かに煩わしいのです。掃除がある、祈り会がある。各会がある。な
んで聖書だけひたすら教えてくれないのか。なんで霊的な成長だけしないのか。なん
で交わりをしないといけないのか。しかし教会でないと主の晩餐は成り立ちません。
キリストの体としての教会体験をしないと信仰は空転するのです。怠慢になるのです。
怠慢の信仰というとそれは聖書を読まない信仰だといわれそうです。しかし怠慢の信
仰とは教会を立てない信仰なのです。虚偽を作り出して心配するなというよりも、走
って現場にいくことです。隣人と祈ることです。そこに復活の主がおられるのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。7月を終わり、8月に入りました。7月の
守りを8月もおいてください。8月は多くの行事があります。バプテスト大会、全国青
年、全国壮年大会、一泊保育等です。守ってください。多くの求道者を感謝です。Y
さん、Yさん、Yさん、中山のKさん守り導きください。また一人暮らしの
ご高齢の方々、O姉、Y姉、守ってください。病気療養の方々をお守りください。
M姉、A兄、H姉、M兄、K兄、I兄、支えてください。夏休み保育の
児童クラブ、幼稚園の夏期保育を、守り支えてください。東北地震に加えて、自然災
害も多いです。被害を少なくしてください。口之良部の人々がなかなか帰れません。
守ってください。平和法案も憲法違反とされていますが、参議院におくられました。
廃案にを願います。今週の導きを守ってください。み名によって祈ります。アーメン」
   エレミヤ書31章31〜34節         2015年7月26日
                「 私を知るから 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は早いもので7月第4週の最後の礼拝となりました。今週の最後の土曜日はす
でに8月になっています。さていつものように、月の最後の礼拝は、旧約聖書の名場
面というとおかしいですが、有名な場面から聞いて行きます。本日はその場面でも、
エレミヤア31章です。このエレミヤ31章はエレミヤ書の頂点ともの言われる新し
い契約の預言のところです。私たちが、新約聖書、旧約聖書と言うその最初の根拠は
このエレミヤア書31章から始まるのです。ここには、はっきりと新しい契約と古い
契約があると示されています。神様の私達への新しい契約は、このエレミヤ31章に
よって預言され、そしてイエス様によって成就されて行くのです。
 さて本文に入る前に先週は、教会学校の夏期学校がありました。例年通りでありま
したが、台風が近づいているにも関わらず、天気予報の天候もよろしくないと覚悟し
ておりました。しかし行ってみると大雨にふ振られることなく、キャンプファイアー
もいつもの通りにできました。子どもたちが楽しみにしているアスレチックも、無事
できました。しかしアスレチックは最終段階まで18箇所あるのですが、3箇所が使
用禁止になっておりました。木製のために傷んでいて修理ができないのと使い方が悪
くて怪我人がでたのでしょうか。見た目には、何も悪くないのに、使用禁止になって
います。今年はこれをクリアーしたかったのに、という子供がいて残念でした。遊具
は確かにお金がかかるのですが、なんとか修繕して欲しかったです。後で市役所に投
書でもしなければと思っています。
 後、先週は祈っていただいた児童クラブですが、せっかく12名あたえられました
が、どうしても退所してもらわないと困る子がでてきました。支援員から「見てくだ
さい」と言われて、昨日1日中みておりました。基本的にとてもいい子なのですが、
どうしても自分より力のない子、自分より下の子に対して、心配りができないで、恐
怖心を与えてしまうのです。長い目で見てここで良い体験を与えらればいいのだかと
いうことと、しかし一方でもう一人支援員を増やすことができて見てあげれば、なん
とかなるのにと思います。しかしその力はなく、長い目でみることができず、責任が
もてないということで、退所にしました。お母さんも涙を流して「残念です」と言わ
れましたが、こちらも、どうすることもできずでした。
 このことを通して、あらためて「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」は
嘘だと思いました。共同生活をするには、わんぱくでも、たくましくてもいいのです
が、愛のある子でないとうまくいきません。改めてイエス様の示される「隣人を愛せ
よ」というのは実は教育目的・方針だったのだと確信した次第です。中山に教会があ
って、そこでの児童クラブの使命があるとすれば、まさにこういう子に隣人愛の体験
をと思います。しかし限界を示されております。どうかまた続けて祈ってくだいさい。

 さて聖書は、エレミヤ書30章からの回復の預言の最後の段階の預言になっていま
す。もうエレミア書は4年目になりましたので、大体の歴史の大枠は、理解されてお
られるでしょう。イスラエルは、モーセに引きいられて出エジプトを果たし、約束の
地でイスラエル王国を造ります。ダビデやソロモンの黄金時代を迎えますが、だんだ
んと主なる神様の戒めモーセの十戒から遠ざかって行きます。エレミヤの生きた時代
は、イスラエルはすでに、100年前に北10部族からなる北イスラエルはアッシリ
アによって滅ぼされてされておりました。エレミヤ時代は、エルサレムを首都とする
南ユダ王国になっておりました。ユダ王国はユダ族が中心の国です。
 しかしエレミヤ時代には、この残されたユダ王国もまた、自分たちには神の都エル
サレムがあるとして、主なる神様の信仰に生きるのでなくて、エルサレム信仰に生き
たのです。これはまさに形骸化した信仰の姿です。主なる神は、バビロンをもって、
エルサレムを威嚇し、とうとう滅ぼすしかなったのです。神の都エルサレムが異教徒
に滅ぼされる。現象的には、主なる神様の神殿が破壊されるという大きなつまづきを
もって、主はイスラエルを鍛えられることになります。
 しかし主なる神様は、滅びの中にも、救いの道を備えておられました。その預言が
31節の「イスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と言うことです。
主は出エジプトされた時に、モーセの十戒を示し、救われた民の進む指針・道を示し
てくださいました。しかしその契約は、バビロン補囚のエルサレム神殿破壊をもって、
一つの限界と時を迎えました。人間は形あるものを基盤として、神殿のような人の外
にある形を通しての信仰には限界があり、形骸化を免れないのです。新しい契約、新
しい信仰の形が必要なのです。もちろん、モーセの十戒に示されるエルサレム神殿を
中心とする信仰もまた、恵みの信仰でした。何よりも、モーセの十戒は、出エジプト
の後に示されています。時々旧約聖書は、救いを自分の行いで勝ち取る律法の信仰、
新約は恵みの信仰と言われたりします。しかし本来の旧約の律法も又その成立をたど
ると恵みになっています。出エジプトという奴隷の身分からの解放を通して、救われ
たという恵みの体験を通して、十戒は備えられました。しかしどうしても形ある云え
に、形にとらわれます。
 32節、主なる神は「私が主人であったにも関わらず、彼らはこの契約を破った」と
言われるのです。本来は、十戒は救いの感謝へのいい表し、応答です。しかしこれが、
救いの条件となって行くのです。これはどうしても陥ってしまう私達の信仰の姿です。
資格というのは、その仕事をするための最低限の能力・知識のことですが、これを誇
るということが起こります。学歴も同じです。あることをするために、もっと言うと
人間として最低限の力を、つけるために学ぶのですが、これが誇りなるのです。一番
酷いのは、私は国を誇るということでないかと思います。日本人は優れているという
のは、外国人が言ってくださるのはいいが、自分から言い出すととんでも無い事にな
ります。自分で言ってはいけない。自分はその務めを果たしていくだけの使命がある
のです。日本は素晴らしいと言う人にいい人がいないというのは、当たっていると思
います。自虐的歴史感でもなんでもなく、本当に日本がいいと思う方は、ひたすら自
分の使命に生きる人で、自分で自分を褒めることはいたしません。
 33節、それでは、新しい契約はとはどのような契約であるのでしょうか。すでにイ
エス様の福音を聞いたもの、そこに生きているものには、返って分かりにくいかもで
す。主は「私は律法を彼らの胸に授け、彼らの心にしるす」と言われます。いろいろ
な取られ方があります。しかし一番はイエス様が心にあるという生き方です。誰かに
勧められる。誰かから言われる。強制されてそうするのでないのです。まさに心に神
様の戒めが刻まれている。外からでなくて、内から内側から、神様の戒めを喜ぶので
す。これは具体的には聖霊の働きになります。しかしあえて言うとすれば、心の声、
心の促しとして、神様の声、み心をなし、喜ぶことができる姿です。
 パウロの信仰義人をここにしめすこともできます。人は「人は、律法の行いによっ
て義とされるのではなく、信仰によって義とされる」ローマ3章28節です。人は行い
によってしかわかりません。いいことをした人はいい人であり、悪い子ことをした人
は悪いい人です。しかし私達は、現象・表面はそうなりますが、それではなぜ人は良
いことをする人と悪いことをする人になるのかと問うことができます。その時、私達
はその人の心が良いことを良いとして、悪いことを悪いとした、としか言いようがな
いのです。人間は自分で良いと思うことしか行動できないからです。
 そうなると私達は、何が正しいのか、何が神様に喜ばれるのかが、実は行動の最初
に来ざるを得ないとことに気づきます。行いが先にあるのではなく、信仰が先にある
のです。まず神様に喜ばれる道を行くのか、自分が好きな道を行くのか、私達は根本
的には、信仰から行動の始まりであるとなります。神様はどうでもいいと思う方はま
ず礼拝に来ません。祈りはどうでもいいと言う方は、まず祈祷会に来ることはできな
いのです。まず、神様を心の中心に置く。ここから全てのことが始まる。信仰義人は
そういうことです。そしてエレミアの預言もまた、胸の中に、心に中に、神様の思い
が記されるようになる。その時が来る、聖霊が心に入る時が来るというのです。
 34節その時「人々は隣人同士で、兄弟同士で『主を知れ』と教えあう事はない」と
します。すでに「小さいものも大きい者も、私を知る」と預言されています。私達は
これが、イエス様を信じる時に成就すると信じています。イエス様が主の晩餐におい
て、新しい解約を立てられた時、まさにエレミヤの示す31章の新しい契約を目指して、
言われたと信じています。
 それはイエス様が、私達の心に住まれて、導かれる関係です。ヨハネ伝15章14節
が成就します。そこには「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」
と言われています。イエス様は、私達を僕としません。イエス様は、私達を、奴隷に
しません。キリスト者は神様の友であります。奴隷と友の違いは自由です。友達は、
自由に私を助けるのです。友達に命令するとすれば、それは友達と言いません。皆さ
んの中で、自分に命令する友達がいるでしょうか。その人は友人ではありません。命
令するのは上司であり、親族の上のものです。決して友とは言いません。友とは、自
分が助けたいときに、本当に困っているなとわかった時に、頼まれもしないのに、自
発自由に、助ける人、助けに来る人です。ある意味で聖書でいう隣人かも知れません。
 「主を知れ」と言って教えあうことがない。それは、知識の問題ではなく、自由の
問題です。知識は教えあうことができます。しかし自由は、教えてもらうのではなく
自分で決めることです。自分ですることが自由です。自分が神様のために神様に向か
って何ができるのか、何をすればいいのか、聞くことができることです。
 34節、最後にエレミヤは「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めない」と
言われます。エレミヤの凄さは、新しい契約に罪の赦しがあることです。エレミヤは
人間の限界を本当によく知っています。人が神のみ心を行おうとし、それを行いたい
と願う時に、最後に問題となるのは罪のことです。私達は「神様の友とされた」「自由
に神様に従いなさい」と言われた時に、やはり尻込みにするしかありません。そんな
ことができるわけがない。人間が神の友人になれるわけがない。こんなに罪深く、こ
んなにも神様のみ心から遠いものができるわけがないといいます。
 しかし、すでに預言者イザヤの時もそうでした。人が用いられる、神様との関係が
本当に正しい関係になる時には、まず罪の問題が必ずでるのです。聖書では「私は罪
を犯したことがありません」という方はまず、神様に用いられた試しがありません。
不思議なくらい、神様に用いられる人は罪の感覚が聖霊によって研ぎ澄まされます。
ペテロは只の漁師ですが、イエス様の大漁の奇跡を見た時「主よ私から離れてくださ
い。私は罪深いものなのです」と言っています。ルカ伝5章8節です。しかし主は罪
を告白した者から用いられます。イザヤは「主よ、私を遣わしてください」と言うほ
どの預言者です。しかしイザヤ書をよく読むとイザヤは「主よ私を遣わしてください」
と言う前に、主の姿を見て「災いだ、私は滅ぼされる。私は汚れた唇のもの」と告白
しています。そして主は、聖なる祭壇から炭火をとってイザヤの口に当てて「あなた
の罪は赦された」と宣言されています。この出来事の後にあの有名な「私を遣わして
ください」があるのです。つまり神様の用いられる器とは罪の感覚のある方である。「私
は、罪人です。私から離れてください」と言う人。「災いだ、私は唇の汚れたもの」と
いう人です。不思議なことに、神様が人をご自身の歴史に用いる人は、必ず罪を自覚
し、その罪を赦された人です。もっと言うと、神様に用いられる人とは、自分は神様
の計画に全くふさわしくないと思っている人、自分は神様を信じるに値しないと思っ
ている人です。この人が、実は神様を信じる資格のある人、用いられる人になります。
自分はそこそこであるとか、自分の能力はまあまあであるので用い頂こうとかは残念
ですが、用いられません。罪の赦しを必要とし、罪の赦しを請い、願いつつしかしな
お、神様に従う人、ここに神様はご計画をなさるのです。エレミヤが「私は彼らの悪
を赦し、罪を心に留めない」といわれたのは、まさにこのことです。
 今回の巻頭言には、すこしむかっと来た方があると思います。しかし本当にそう思
っています。「教会は老人ばかり、働き人はおらず、若い人はいない。滅びる団体であ
る。会堂も立てられない」。しかしキリスト教はいつもそこから、滅びから立ち上って
きました。思い出すのは神学校の授業で、あるアメリカの宣教師が、誰かの質問に答
えて「キリスト教は今滅び行く宗教団体です。だから私は宣教師になったのです」と
言われれたことがありました。私は、その時はこんな宣教師がいるからキリスト教は
だめなのだと思いました。しかし今はアメリカを批判してやまなかったその宣教師は
本物だったかも知れないと思います。すでに本国に帰られています。アメリカのすご
さは、こういう宣教師があるということです。
 私達はイエス様の罪の赦しをやはり一番において、神様の導きを受け、イエス様の
恵みに答えて歩みたいです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。7月を終わり、8月に入ります。イエス
様の守りと導きを感謝です。先週は、夏期学校の守りを感謝です。夏休みをどうか事
故なく、健康を守ってください。多くの求道者を感謝です。Yさん、Y山崎さん、Y
さん、中山のKさん守り導きください。また一人暮らしのご高齢の方々、O姉、
Y姉、守ってください。病気療養の方々をお守りください。M姉、A兄、H
姉、M兄、K兄、I兄、支えてください。K兄を特にみ手をおいてください。
  夏休み保育の児童クラブ、幼稚園の夏期保育を、守り支えてください。東北地震に加
えて、自然災害も多く、大雨が続きます。被害を少なくしてください。口之良部の人々
がなかなか帰れません。守ってください。平和法案も憲法違反とされていますが、参
議院におくられました。み手をおいてください。また良き知恵を与えてください。今
週の研修会を守ってください台風が来ています。1周間を恵みで導きください。み名に
よって祈ります。アーメン」 

  出エジプト記13章17〜22節         2015年7月19日
                「 迂回させられた 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 先週は、幼稚園と小学中学校は、夏休みが始まりました。中山伝道所の小羊児童クラブ
もさらに3名来てくださって、夏休み保育は一気に12名の登録になりました。本当に
お祈りを感謝いたします。早速午前8時からの保育になりました。保育は8時から午
後7時までですので、1日8時間を超すことになります。市役所から補助を受ける団体
の事業の児童クラブですので、1日8時間、週に40時間以上は絶対働かせないでくだ
さいと市役所に言われておりました。たまたま4名の支援員の方が揃うことが出来ず
に、早速、1日目に補充第1号支援員として、昨日は午後の部の保育にはってきました。
 小学生と6時間ちゃんと遊ぶのは、久し振りの気がします。案の条「先生トランプ
しよう」と言われてなんと「スピードをしよう」と言うのです。生まれてはじめてト
ランプの「スピード」を聞きました。「ごめんね、先生はスピードを知らないよ」、「え、
そんなことも知らないの」と驚かれました。しかしちゃんとこうやってこうやってこ
うやるのだよと教えてくれて、結構おもしろいトランプゲームでした。最初は、いつ
も負けでしたが、だんだんと上手になって、引き分けができるようになり、とうとう
時々勝つことができました。1時間以上しました。大変だったです。
 帰る時間になるとお仕事終わりのお母さんがお迎えに来られました。「ありがとうご
ざいました。助かりました」と言われました。本当に、やってよかったなと思いまし
た。どこまで続くかどうかですが、クリスチャン起業家のドラッガーという方は「経
営とは顧客の創造である」という有名な言葉を残しています。必要とされている間、
必要がある間は、貢献が求められている間は、これはできるのでないかと思っており
ます。経済的には厳しいかもですが、必要としている方がおられる限り、なんとか主
の導きを頂いて進めたいと願っています。どうか伝道に用いられるようにさらなる知
恵を、お祈りください。

 さて聖書は、第3週ですので、日本バプテスト連盟の聖書テキスト『聖書教育』の
箇所から聞いて行きます。本日の分級の聖書の箇所であり、すでに祈祷会の来られて
いる方は、同じ箇所を聞いております。本日の箇所13章の最後は、イスラエルの出エ
ジプトの出発の最後の10番目の奇跡である過越の奇跡が終わった直後であり、葦の海
の奇跡の直前であります。しかし非常に大切な神さまの導きのあり方を示します。出
エジプトをする最後の奇跡は、エジプト全ての人の初子最初に胎を開いた子供が死ん
でしまう奇跡でした。これは家畜に至るまでそうであったとされています。聖書には、
出エジプトが、モーセに率いられるイスラエルの民の出発であると同時に、エジプト
人達が、自分達の国に、こんな民族がいたらエジプトは滅びてしまう。出て行ってほ
しいという2重の意思によって、起こったことを示しています。そしてこれは、いつ
の世にも起こる神さまの救いの出来事のひな形として示されていると思います。
 私達は確かに、イエス様を信じる時に、自分が信じて、自分からイエス様のところ
にいくのです。しかしその時に、なぜか親族・友人達から煙たがれ、嫌がられる要素
が入っているのです。イエス様を信じることは、自発でいて、しかし自発だけでもな
い。友人やこの世は、イエス様を信じようとする人を嫌がる面があります。離れて欲
しい面があります。信仰なんかそんな真面目に考えるな、深刻に考え過ぎでないか。
過ぎたるは及ばざるがごとしだぞ。この世は信仰に入る人を、心配する振りをして、
実はイエス様を信じようとする人を敬遠しているところがあります。そこまで考える
必要はない、考えすぎ、やり過ぎというのです。まさに、イスラエルが出発する時に、
モーセに率いられていく面とエジプトであるこの世から嫌がれる面、この世から離れ
る面があるのです。私達はその2つの面を通して、神さまに近づいていく。これを自
覚していることは大切だと思います。イエス様を信じる時、この世や友人は、残念な
がらそれを喜びません。しかし恵みはそれを越えて神さまに近づけ、信じて行くので
す。
 さて17節に入ります。聖書は、不思議なことに、主なる神さまが、イスラエルを導
くのに、近道に導かなかったといいます。書いてあるように、当時エジプトから主が
約束されたカナン地に行くに、近道はペリシテ街道といわれた北の道がありました。
ここは直線にして500qくらいなのであります。当時の人でも10日間で、いけたとい
われています。500qといえば東海道53次もまた495qといわれています。江戸時
代に実際に京都から東京まで歩いた人の記録が残っています。例えばドイツ人医者の
ケッペルは12日間、長崎のシーボルトは17日間かかったと書いているそうです。『東
海道中膝栗毛』という有名な旅の書では12日で着いたと読まれています。つまり、本
来はエジプトとイスラエルの間は、歩いても12〜17日でいける距離なのであり、東京
から京都までくらいだったのです。
 しかし主なる神さまは、イスラエルを導くのにこの道に導かれませんでした。当時
はシナイ半島の中心を通る道もありました。しかしこれも主なる神さまは通られませ
んでした。なんと主なる神さまが導かれた道は、18節には「迂回されせられた」とあ
ります。実際は迂回どころでないのです。40年をかけられました。後から地図をみて
くださるとわかりますが、一番遠回り、これ以上のない遠回り、最高の遠回り南の道
で導かれるのです。どうしてこんな馬鹿な導きをされるのか。書いて有る通りに「民
が戦わねばならないことを知って後悔しエジプトに帰ろうと思うといけない」とあり
ます。
 実は一番近い道のペリシテ街道は、中近東から多くの帝国がエジプトとの戦いのた
めに必ず通る道なのです。エジプトはこのために、ペリシテ街道には多くの要塞基地
を設けて多くの軍隊を配置していたのです。もしイスラエルがこのペリシテ街道を通
るとすれば、次から次へとエジプトの要塞からの軍隊と戦わねばなりませんでした。
これは、430年も奴隷の生活で戦争をしたことがないイスラエルの民には無理であり
ました。もちろん神様は全能の主です。人間のどんな軍隊より強いのです。しかし、
主なる神様は、全能の神さまがエジプトの要塞の軍隊と次から次に戦い、それを蹴散
らして前進していく方法を取られませんでした。エジプトの戦いは、次の葦の海の奇
跡で十分であり、ある意味で一回限りです。主なる神様は、エジプトとの戦いは一回
であり、その後は、砂漠でのいろいろな体験によって歩むように、されたのです。そ
れは、新約聖書によれば「人はパンのみで生きるのでは無い」という体験とまとめる
ことができます。
 これらのことは、常に私達に起こることのひな形であります。神さまは私達を導く
のに、近道を使われないことが多いです。いろいろな苦労を与えて、いろいろな道を
知らせて、そして、その中に神さまの導きがあることを知らせて、ゆっくりゆっくり
導かれます。これは世界史もまたそうであり、中国のような大きな国も、韓国や日本
のように小さい国も、それぞれの時代に、国家の危機が起こり、しかしそれに答えて、
知恵を使い頭を使い、いろいろな方策や技術で挑戦に応戦して生きてきました。頭の
いい人はいい人なりに、大きな課題を与えられ、普通の人間はまたそれなりの課題を
与えられて、自分なりにそれに応答して、それを乗り越え、そのことを通して、主な
る神さまにイエス様に出会うように、してくださるようです。
 18節には「隊伍を整えて」とありますが、軍隊の隊列行進のこととされます。イス
ラエルは430年間も奴隷でした。全く軍隊の経験のある人はいません。もしかしてエ
ジプト軍隊の奴隷、下働きをしていたイスラエルの人がいたかも知れません。隊伍は
本来訓練なしにできるわけでありません。それこそエジプト軍の仕方を見ようみ前で
真似したのでないかと言われています。全く訓練されていないイスラエルの隊伍の列
は、ぎこちなく、全く恐ろしさも何も、むしろ滑稽な姿だったかも知れません。見よ
う見まねでも隊伍を組んだのです。実は鰯や秋刀魚の小魚が海で泳ぐとき、他の大き
な魚の敵から身を守る為に隊列を組むと言われています。魚とて一匹でいるとすぐに
狙われて食べられるますが、大群でいると狙われにくいと読んだことがあります。隊
列を組むとは弱い生物の守りの本能なのかも知れません。 
 19節には、しかしモーセは「ヨセフの骨を携えていた」とあります。それは創世記
50:24-25には、ヨセフが亡くなる時「約束の地に帰るときには必ず自分の骨をもって
帰るように」約束させています。つまりモーセがヨセフの骨をもっていることは、ア
ブラハムからの主なる神さまの約束を綿綿と継承していることを示しています。改め
て、出エジプトはモーセの勝手な思いこみとか、モーセの野心とかモーセの決心の主
動ではないのです。出エジプトはイスラエルの民が、もう我慢の限界だ、と奴隷とし
てエジプトなぞにいてたまるかという人間の思いだけでは起こらなかったのです。出
エジプトはアブラハムからの導きと土地の約束があってのことです。神さまの示しが
430年間も聞き続けられて、守られている。主の言葉が聞かれていて、継承されて、こ
の事があってなるのです。この事の印でもあります。
 これもまた世界史の現実ではないかと思います。アメリカの黒人解放の南北戦争の
リンカーン大統領も、確かにリンカーンのヒューマニティをいうことができます。し
かしリンカーンはすぐれた信仰者でもありました。人間は神の前に平等であり、人間
は差別されてはならないという聖書の、イエス様の約束が全くないなら黒人解放をし
たのか。またこれはマルチンルーサー・キング牧師の1960年の公民権運動もまた同じ
です。アラバマ州で、黒人と白人のバスの席が違っていて、たまたま体の調子の悪い
黒人が空いていた白人の席に座ってしまった。しかしバスから降ろされた。事件とし
てはこれだけです。しかしこれはいかんと立ち上がったのは、キング牧師の正義感だ
けで説明できるのか。それは無理でしょう。キング牧師はやはりイエス様の信仰を聞
き、これに従いたいと思っていたのです。つまり、神さまの約束、神さまの示す国、
夢があったのです。
 中山児童クラブもまた、なんとか伝道したい、伝道の手がかりがほしいという神さ
まからの思いがあって、あのままではどうにもならんと損してもいいから初めてみよ
うと総会決議がなるわけです。子供が好きだとか、放課後の子供の安全を守ろうとい
うだけでは、社会福祉の専門に任せろ、としかなりません。教会がすると返って危な
いし、とんでもないことになるという危険あるのです。しかしやってみます。本当は
幼稚園も初めはそうなのだと思います。麦野七右衛門先生が、なんとか伝道の手がか
りはないかと鹿児島教会ではじめられた。しかし後から必要あったのか、教会のため
になるのか、十字架だけで教会は立たねばならないとか、勝手な事を、言い出すので
す。最初に返っていけばいいのです。
 20〜22節は、神さまの守りを語ります。スコトは現在も分かっているそうですが、
エタムはわからないそうです。そもそも葦の海も実は3つの説があります。1つは、
シナ半島の東側のアカバ湾と言われる所です。2つ目は、シナイ半島の西のはずれの
現在は、エス・スエース湾といわれるところです。3つ目が、エス・スエース湾の北
側にある湿地隊でいくつもの湖が続く場所です。いくつもの湖があって、湿地帯と言
われると私は一度しかありませんが、釧路湿原を思いだします。あそこなら数qに渡
る湿原で、確かに軍隊の馬や戦車は行けそうになく、大雨が降れば水の中です。釧路
湿原は、車は固めた道路をいきます。下手に歩いたら泥の中です。軽いイスラエルは
さっさか渡れたのかもしれませんが、軍隊は動けません。火の柱、雲の柱はどういう
ことなのか分かりません。しかし夜も昼も道を示す何かがあったということです。イ
エス様の東の博士を導く星を思い出します。
 とにかく主は、葦の海の奇跡に向かって、イスラエルを導かれます。そして14章
の大きな奇跡、葦の海が開く奇跡がおこるのです。ここでイスラエルは決定的に主な
る神の力を見せられて、いよいよ徹底的に遠回りの荒野の道に進むことになります。
私たちは、この本日の箇所で、主なる神様の導き方のひな形を示されます。わたした
ちはなぜかこのことをよく忘れます。私達は大切なことはよく忘れる存在なのです。
だから何度も何度も主の言葉に聞いていくしかないのです。
 それは神様の導きは遠回りであり、近道はされない。裏口入学はないということで
す。訓練を課して、時には危ないところをとって、しかしそこにまた、神様の導きを
受けて歩むということです。主は祈りを与えられるようです。祈りに祈って、試練を
受けてことがなっていく道を備えられるということです。目的を定めて、目標を決め
る。それに向かってまっしぐらにしたいですが、ならない。なっているのですが、現
実は、全く関係のないような道を通らせられるのです。しかしそこに、主は本来の目
的、目標に気づかせる訓練をおいておられます。これは目的と違うのでないか。どう
して雑用ばかりさせるのか。しかしそこをきちんと努めて、次の段階に進みます。そ
れぞれの仕事にそれぞれの基礎があります。神さまがそれを決めてくださいます。
 最後は、イエス様の十字架に付けられた神様の愛をしっかり持つ。イエス様の復活
の恵みを信じてことにあたることです。主なる神様の遠回りの導きを心止めて歩みま
す。
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。イスラエルを導きくださった主なる神さ
まが、今も私達を導きくださることを感謝します。先週から子どもたちは夏休みに入
っています。どうか事故なく、健康を守ってください。多くの求道者を感謝です。Y
さん、Yさん、Yさん、中山のKさん守り導きください。また一人暮らしの
ご高齢の方々、O姉、Y姉、守ってください。病気療養の方々をお守りください。
M姉、A兄、H姉、M兄、K兄、I兄、支えてください。K兄を特に
み手をおいてください。夏休み保育の児童クラブ、幼稚園の夏期保育を、守り支えて
ください。東北地震に加えて、自然災害も多く、大雨が続きます。被害を少なくして
ください。口之良部の人々がなかなか帰れません。守ってください。平和法案も憲法
違反とされていますが、衆議院を通過し、参議院におくられました。み手をおいてく
ださい。また良き知恵を与えてください。今週の木金の教会学校キャンプと守ってく
ださい。1周間を恵みで導きください。み名によって祈ります。アーメン」

   第1ペテロの手紙2章1〜10節      2015年7月12日
                「 主の元にきなさい 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 昨日は恒例の夏祭りが行われました。1週間前は、3つ台風が来るのではないかと
なり、できないのでないかと思っておりました。しかし一番危ない9号がそれてくれ
ました。しかし韓国にいきましたので、幼稚園の韓国の方に大丈夫ですかというと、
今韓国は日本と反対で全然雨が降らずに困っています。台風様々ですよと言われまし
た。被害が大きいと困りますが、雨を降らせれる台風は感謝です。とにかく、晴天に
はなりませんでしたが、無事に終わることができませした。お祈りを感謝致します。
 さて聖書は、2ヶ月ぶりにペテロの手紙を読んでいます。第2主日は使徒の手紙を
読むという計画してきましたが、意外に第2週はいろいろな行事が入りできないもの
です。5月母の日礼拝、6月父の日礼拝と本来は違うのですが、教会では第2週に集
中しています。しかしもちろん福音書が信仰の要であり、パウロの手紙が信仰の真髄
になるのです。しかしヤコブ、ペテロ、ヨハネとこれらの手紙も非常に大切で教えに
置いて有益なのです。本日もまた第1ペテロの手紙2章から読みますが、これもキリ
スト教の特徴を上手に取られており、非常に大切な教えになっています。早速聞いて
いきます。
 1〜2節に示されるように、ペテロの手紙はまず「だから」と1章を受けています。
1章の後半には主の言葉は永遠に変わることがないとして、キリスト者の救われた言
葉の堅固さが示されていました。これを受けて、ペテロの手紙は「悪意、偽り、偽善、
妬み、悪口を皆捨て去りなさい」といいます。この「捨て去れ」ですが、意味は着物
を脱ぎなさいと言うときの「脱ぐ」という言葉です。つまりペテロの手紙は「悪意、
偽り、偽善、妬み、悪口」はキリスト者が誰でも前に着ていた身につけていたもので
あり、イエス様を信じたからには、これをぬ脱ぎなさいと語るのです。ここで私達は
キリスト者になるということは前にあったもの、前にもっていたものを、脱ぎ捨てる
ことであります。
 この5つの悪意のリストの内で一番脱ぎ捨て難いものは何かと言う議論をした解説
書がありました。この悪意のリストで一番脱ぐのが難しいのは妬みでないかとなって
いました。「妬み」は救われてからも心を見張っていないと私達がすぐに落ち込む姿で
あります。よく信仰を誇るというのがありますが、パウロ先生も書いています。「信仰」
の誇りは大切な時は大切ですが、間違えると大きな間違いになります。私達がいつも
妬みがないのか、妬みやうらやみに支配されてないのか、常に自分の心を見張り、見
ている必要があります。
 次に、2節には「生まれたばかりの乳飲み子のように、霊の乳を慕い求めよ」とあ
ります。この霊の乳は、通常聖書では神さまの御言葉のことであり、具体的には神の
言葉である聖書です。私達はここで霊の乳、御言葉を慕い求めることがキリスト者の
一つの姿、スタイルであること聞きます。昔はよく聖書を読みました。昔は聖書を読
んでから眠りにつきました。昔はよく読みました。良く聞きます。しかし聖書は、キ
リスト者とは、生まれたての乳飲み子が乳を飲むように、乳を慕い求めなさいという
のです。つまりこれは昔はそうでした、前はそうでしたではなくて、キリスト者であ
ることは、神の言葉である乳を飲み続けることであります。私達の信仰は、赤ちゃん
が乳を飲まなくなるとその成長を止めるように、み言葉の乳を飲むまないと信仰の成
長が止まるのです。聞くこと、聞き続けることが大切です。
 そしてそれは結局、人から言われてそうなるとかではないのです。3節に続くよう
に、それは「主が恵み深いことを味わい知った」これは詩編34編9節からと言われて
います。つまり神さまを信じるその体験なのです。聖書を読む。なるほどと分かる。
聖書を読む。今困難の所にあることが、少し違った方向から示される。聖書を読む。
今の苦難が違った意味を持つようになる。聖書を読む。聖書のイエス様の言葉から自
分の今の場所を示され、自分の歩みを問い直す。イエス様の言葉から力を受け、勇気
を受けて又出発する。これらの体験がまた聖書を読み進ませるのです。
 4〜8節は何度も何度も繰り返される言葉が「石」です。6回も「石」という言葉
が使われています。この石には2つ意味が込められています。1つはこの石はイエス
様ということです。イエス様はユダヤ人からこの世から捨てられた石です。神の子と
してのイエス様は全く理解されず、とうとう十字架に付けられました。人間空は全く
役にたたない、捨てられた石です。ユダヤの建築は、木よりも石が多いとされます。
そして大工さん石工さんは、材料を選びます。当たり前のことですが、よい建物を建
てるためには、よい材料が必要です。これは全てのことに通じています。何かを作る
ためにはまず、材料がよくないと話しになりません。料理も同じです。肉も野菜も、
美味しい肉、新しい野菜があれば、料理は美味しくなります。本当の料理人はよい材
料を選びます。今している『天皇の料理番』のテレビ番組も、毎日鍋を洗い、毎日包
丁を研ぐことを料理の基本として教えています。
 しかしここにとんてもないこと、この世の常識を壊すことがおこりました。なんと
大工さん、石工さんが捨てた石、これは役に立たない、これではよい建物、よい家が
建たないとされた石が、捨てられた材料が用いられるのです。これは使えないとされ
た肉、こんなしおれた野菜でおいしい料理がつくれるか、と捨てられた野菜が用いら
れて美味しい料理とされるというのです。イエス様がそうなのだと言うのです。この
世が捨てた石、材料が用いられる。用いるのは、最高の大工さんであり、最高の石工
さんである主なる神さまでした。最高のコックさんが、すてられた材料をもって、新
しい料理を作られたのです。まず第一の石は、この世に捨てられた石、イエス様が用
いられるということです。
 実はこの石は、イエス様であると同時に、これが私達の教会でした。教会は捨てら
れた材料が、神様によって組み合わせられ、立てられた場所なのです。つまり私達が
教会の本当に石になるためには、まずこの世から捨てられないといけないことになり
ます。この世でいい材料、良い石とされたものは、本当に捨てられない石は、本当の
イエス様の教会お材料になれない可能性があります。
 こんなことを言うと、馬鹿なことをいうものでない。結局この世でよく用いらる人
が、教会でも用いられる。この世でしっかりしている人が教会でもしっかりしていて
用いられると言われそうです。しかしそれは本当でしょうか。ペテロ書は「捨てられ
た石が親石として用いられる」としています。用いられる人は本当はこの世からよく
捨てられた人なのです。この世では役に立たないとされた人なのです。わたしは根本
的にそうであると思っています。中には、この世でもそこそこの地位を得た方があり
ます。しかし本当のところはどうであるのか。捨てられた石が頭石となるという聖書
の言葉が真理であるとすれば、この世で用いられて、この世で評価されて、なお教会
で評価されるのはおかしいです。矛盾しています。
 つまりイエス様の本当の石は、この世では役に立たない石でないのか。私達はそこ
が問われると思います。もし自分は一廉の人物であり、イエス様なくしても十分にや
っていける、やってきた、祈りなんか本当はなくてもいい、祈りなしに十分にやって
いける。この方は少なくとも、ペテロの聖書のことばから外れています。神様はこの
世に捨てられた石を用いるのです。自分はこの世でも通用する通用しなければならな
いというは聖書に反しています。自分は捨てられた石、祈りなくして、イエス様なく
して生きられない石である。自分はイエス様からしか認められない。イエス様だけが
自分を評価してくださる方である。イエス様によってかろうじて立たされている者で
ある。イエス様に用いたれて生かされる石である。ここがこの聖書の問うところなの
です。
 さらに、わたしたちは、この捨てられた石が用いられて家にされる面をみます。イ
エス様の前に、私達は信仰の個人主義は成り立たないのだと思います。私達が少なく
とも神様に用いられるとすれば、それは家としてです。私達はイエス様に用いられる
家としてこの世に用いられるのです。もちろん私達はたった人一人のキリスト者とう
いうのはありうると思います。19世紀のデンマークのキルケゴールは、確かにたった
一人のキリスト者だったかも知れません。キルケゴールは自分のことを単独者と言い
ます。キリスト者は単独者として立ってこそキリスト者という信仰がありました。し
かし単独者には恵みの捕らえ方が弱い気がします。イエス様の十字架の恵み、イエス
様の十字架の赦しが、弱いのです。
 私が本当に赦されて、私が本当に神様を信じる時、私達は祈ってくれる人、隣人を
もつのだと思います。交わりを開始するのです。祈りが生まれるのです。私がイエス
様から選ばれてイエス様の建物の石になったとことがわかれば、隣人は、またイエス
様の石になるのです。私は隣人のために祈りだすのです。教会の無い、教会を持たな
いキリスト者はありえますが、不可能の可能性としてありえます。本当のイエス様の
弟子は弟子となった時からイエス様の家に組み込まれて、そして隣人が与えられてい
るのです。本当のキリスト者、本当のイエス様の弟子は、隣人を持ち、友人を持ち、
祈りをもつのです。
 それは確かに毎日一緒にいて、ベタベタしている友人ではないでしょう。のべつ間
もなくしゃべり出す友人でないでしょう。もしかして相手は自分ことを知らないほど
に疎遠からもしれない。しかしそれでも隣人を持つのです。それは祈るからです。祈
りはつながりを持つのです。ある幼稚教育の本に、悪い幼稚園であっても行かないよ
り行った方がいいというのがありました。ずいぶんと手前味噌な幼児教育の本だなと
思いました。しかし真理があります。それは悪い幼稚園それはいい幼稚園がいいに決
まっているのですが、お友達と切磋琢磨されるのです。お友達に教えられ、お友達に
教える体験をもつのです。これが子供の成長にとても大切なのです。大人から教えら
れるよりも、大切なのです。
 全く同じように、下手な教会にいかないよりは、下手な教会でも行った方がいいと
なります。もっと言うと下手な祈祷会に行かないよりは、下手な祈祷会でも行った方
がいいとなります。さらに言うと下手な分級に出ないよりは、下手な分級でも出たほ
うがいいとなります。手前味噌に聞こえます。しかし真理があります。それはキリス
トを信じる実際の人に会えるからです。信じる人にあって具体的な生き方の実際を知
らされるからです。その人は、その教会は、その祈祷会は、その分級は、間違ったこ
とをしているかも知れません。聖書的でないかもしれません。しかし聖書的でなけれ
ば、その人はあんな人になってはいけないという反面教師になるのです。大丈夫なの
です。イエス様が導かれるのです。意外と信仰の短い方でもちゃんとわきまえて知っ
ているものです。あの人の友人になったらあの人のようなキリスト者になったくれた
ら困る。しかし以外とそうなりません。キリスト者は、聖霊が導いてくださるのです。
神の選びの方は、不思議なことにきちんと判断されます。イエス様が石を家の一部と
して用いられるのはこのことです。石は石のままでは、石ででしかありません。しか
し用いられると家になり、橋になり、建物になります。石の一個では只の石です。し
かし主に用いられて使われれるとそれぞれの役割を持ち建築物の一つとして機能する
のです。不思議ですが、それが神様が石を持ちるという意味です。私達は用いられる
ように、イエス様に自分を献ないと用いられません。
 最後に、ペテロ書は、10節に「あなたがたは、今は神の民である」といいます。私
達の価値は全くたいしかことが無いかも知れません。自分はどう考えても、全く普通
の人間で誰とでも取り換えがきく。自分がしなくても他の人がするのであろう。自分
がするよりももっと上手に他の人がするかもしれない。自分は全く取るに足りない人
間で取り立ててかたることもない。しかしどうでしょうか。それが本当にそうである
としても、なお、一つだけ語るべきことがある。それはイエス様の民であるといこと
です。
 この前牧師研修会が沖縄であって、首里城を見てきました。調度品が何もない。酷
いお城でした。すでに1879年に、日本の琉球処分の時に持ちされらました。残ったも
のは1945年に、すべて戦争で焼かれました。普通は最後の琉球の王様(しょうたい王)
が使ったお茶椀とか、最後のお姫様が使ったお箸とか筆とか展示してあるものです。
何もないです。しかし時々、美術館の展示で、有名な作家が使っておられたボールペ
ンと筆とか万年筆とかあるときがあります。その時、よくみるとどこにでもあるボー
ルペンだったり、安物の万年筆だったりします。これからは有名な作家が使っていた
ワープロとかパソコンとかが展示になるでしょう。ワープロ。パソコンはそれこそ何
千何万と同じものが造られます。性能は皆同じ機種なら同じです。しかしその人が使
っていたというだけで、展示品になるのです。
 それと同じです。私達は何も頬る能力や技術はもって無いかも知れません。他の人
の方がよく自分の仕事をするのかも知れません。しかしイエス様が私を使ってくださ
るのです。もし私が全く取る似たるものがなくても、時々、美術館にくる鉛筆や筆と
同じです。イエス様の民なのです。それだけで展示品になるのです。イエス様を信じ
ているそれだけで、十分です。私達は神様の宝の民にされたのです。そこを喜ばすに
どこを喜ぶでしょうか。人の褒める言葉で安心するでしょか。安心しないのです。神
様のもとに行く。神様の民である。これが大切なのです。

 「天の父よ、み名をあがめます。先週は神学校週間でした。どうか、学んでいる神
学生を守り、道を示し、ますます主イエス様に仕える牧師にしてください。続けて求
道者の方を感謝です。どうか、あなたがみ言葉を与え、道を開き、信じる時と委ねる
時を備えてください。病気療養の方、支えてください。リハビリのM姉、A兄、
H兄、K兄、I兄ささえてください。ご高齢の一人暮らしの方、O姉、Y
姉、K姉、H姉続けて御手においてください。4月からはじまった中山伝道所の児
童クラブ、幼稚園の新しい歩み支えてください。昨日の夏祭りは事故なく守ってくだ
さり楽しくできて感謝づです。また、1週間御手においてください。いよいよ15日に、
憲法違反とされる平和維持法案が可決されそうです。御手においてください。み名に
よって祈ります。アーメン。」

   マタイによる福音書27章62〜66節      2015年7月5日
                「 墓を見張る 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 今朝は7月の第1主日となり、さらに今朝は、枕崎と伊集院から神学校週間のアピ
ールに来てくださいました。私は他のいろいろな教団の友人たちや地区の牧師会の
方々いますが、壮年会が神学生のために献金を集めて、支えているのはバプテストだ
けだと思います。おそらく、他の国のバプテストに聞いても壮年会が自分たちの交わ
りの他に1つの目的をもって、特に牧師になろうとする神学生を生活を支えるという
はどうも聞いた話では、日本バプテスト連盟だけのようです。私達の宣教団であるア
メリカのバプテストには壮年会が神学校を支える運動をするいうのは、ないようです。
つまり日本のバプテスト連盟の壮年会だけがしている運動になります。
 どこまで続くのか、ずっと続けることになるのか、前例が無いのでなんともいえま
せん。しかし今のところは、この働きは非常によいと思います。私の友人たちに聞き
ますと確かに牧師養成の学校に行って、この授業料が無料であるつまり壮年会献金が
肩代わりしているは、非常に少ないと思います。その教団の神学的な傾向のゆえに、
神学校を無料にしているのは、聞いてことがあります。しかしそれは専門学校だから
です。学校法人のちゃとした大学制度の神学部で実質的に無料になるは、ありません。
 そしていろいろな教団の方に聞くとやはり牧師の養成というのは大変なことであり
ます。せっかく大きくなった教会も、次の牧師がいないということで、苦労している
のを聞きます。また、非常に優秀な方がお金のために勉強の道が閉ざされるのも勿体
ないことになります。もちろん神様は必要とされるところに道を開いてくださいます。
しかしそれを支えていくのは、大切な仕事であります。私もまた、西南神学部が壮年
会の働きで実質無料の時代に、学んだ者でありその働きの実であります。どうか、壮
年会の神学校週間が用いられて、多くの神学生が学び、牧師になる訓練を受けてくれ
ることを祈るものです。
 さて、本日は第1主日ですので、いつものように主の晩餐を受けます。そして福音
書から聞くという方針で聖書を開きます。福音書はとうとうマタイ伝も最後になって
きました。本日は、復活の直前の章で、通称は「番兵、墓を見張る」とついておりま
す所です。この聖書は、受難節に聞かれる聖書箇所ではあります。しかしこの番兵を
つけたところは、ここからみ言葉に聞くというのはあまりないのでないかと思います。
言ってみれば墓の番兵は、人間の神様に対する最後のあがきというか、最後の力を振
り絞った所となります。しかし結論からいうと人間の最後の力を振り絞った復活阻止
のあがきもまた神様の復活には勝てない。当たり前ですが、人間は神様に勝つことは
できない、神様の計画を妨げることはできない。神様のみ心を変えることはできない
のです。神様は人間の力や悪巧み、すべての知恵を反対に用いてくださるのです。
 ここまでのことを少し振り返ります。イエス様はユダの裏切りによってユダヤ当局
に捕まりました。ペテロは果敢に後を負いましたが、結局3度も「イエス様を知らな
い」と答えてしまいます。イエス様はまずユダヤ人の裁判にかけられます。ユダヤは
ローマの植民地で死刑ができませんでした。それでローマ総督ピラトの裁判にかけら
れ、死刑となります。ピラトは薄々イエス様は冤罪である、妬みのために十字架に付
けられると知っておりました。しかしピラトは真の裁判をしなかったのです。とうと
うイエス様は死刑判決をお受けになり、殺されます。そして墓に葬られるのです。
 本日はその墓の葬りに関する出来事です。実は本日の墓の見張りに関する出来事は
マタイ伝27章だけが伝えている出来事です。マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝には、お墓
に番兵がいたことは伝えますが、実際にどういう経緯でローマの番兵がつくことにな
ったのか、は伝えていません。私達は、イエス様のお墓にローマ兵の監視、警護がつ
いているいきさつをマタイ伝27章のみから知るのです。
 62?64節から私達が驚くのは、祭司長とファイサイ派が集まって、ピラトのところ
に来て、番兵・警護を要求しております。その時、ピラトに対して、共同訳は63節に
「閣下」と呼びかけています。(口語訳は「長官」でした)実はこれ原文は「主よ」で
す。つまり祭司長とファリサイ派は、本来神様にのみに呼びかける言葉を、よりによ
ってローマの総督ピラトに使っているのです。つまり祭司長とファリサイ派の神は、
なんのことはない総督ピラトになっているのです。本来、祭司長とファリサイ派はエ
ルサレム神殿を守って、しっかりと祭儀をなして、動物の捧げものをして、主なる神
に仕えるのが仕事です。祭司長とファリサイ派の神様、主は、当然のごとく「主なる
神」でありました。ユダヤの地域は、ローマ帝国でも非常に治めるに難しい地といわ
れてきました。それはローマが皇帝礼拝を勧めれば勧めるほど、ユダヤ人達は反発し
て、自分たちにはモーセの十戒があり、その第1戒が「私以外のものを神としてはな
らない」だからである。これを命をかけて守ろうとしたのです。
 ユダヤ人はユダヤ人である以上「主なる神様以外は神様としない」具体的には主な
る神様以外は、拝まないという姿勢をとりました。それでユダヤ人イスラエル人達は、
ローマ皇帝礼拝が来ると必ず反対が起ったのです。さらにイスラエルには、イザヤに
始まる大預言者達がいました。「その日、かの日に、必ずメシア・キリストが来て、イ
スラエルを救う」という預言がありました。ユダヤ人の人々は上から下まで、王様か
ら最下層の人にいたるまで、主なる神様こそが主である。ここに生きていたのです。
ここはどうしてもはずせないユダヤ人のユダヤ人たる真髄でありました。キリスト教
でいえば、イエス様はキリストであるということ、十字架の罪の赦しを信じるという
こと、主は復活されたこと、主の祈りだけは外せないということでありました。
 しかし今、上は王様から下は一般人に至るまで主なる神が主であるという信仰が、
なんのことはない、一番上の当局からはずれていたのです。祭司長とファリサイ派、
ユダヤの政治を司る最高の人々が、主なる神を「主」と呼ばす、自分たちを植民地に
しておいているローマ人の総督を「主」と呼んでいたのであります。これは驚くべき
ことであり、しかしありうることであります。
 教会では一応牧師ないし執事会が、主を信じる信仰にたっているはずであります。
しかし実際は、皆さんも気付き、またご存知の通りであります。信仰がないとはいい
ませんが、肝心のところで牧師や執事会が、祈りを忘れ、この世の知恵に従うのです。
それはよく起こることです。そして、今の平和関連法案の審議に致しましても、憲法
学者達と今までの内閣法制局長官たちが、首を揃えて「この法律は、憲法違反の疑い
がある」と言います。しかし「学者の意見と政治家の意見は違うのです」と言っての
けるのであります。日本は憲法を基本にして立っている立憲主義の国です。しかし憲
法をないがしろにする政治が立つ。最も主なる神様を主と信じるべきユダヤの政治を
司る当局が、主なる神さまでなくて、よりによって異教徒のローマ人を「主」と呼ぶ
のです。古今東西このようなことが起こるのです。肝心の人が信じない。守るべき人
が守らない。信じるべき時に信じない。そしてその時、滅びは近いのです。イスラエ
ルもまたイエス様を十字架につけた37年後にローマ帝国に滅ぼされてしまうのです。
先週も聞きましたが、エレミヤ30章21節「誰が命をかけて私に近づくのか」は常に
真理です。
 64節に祭司長、ファイサイ派は「そうなると前よりもひどく、惑わされることにな
る」といいます。イエス様の教えは何時の時代もまた「惑わし」と判定されます。イ
エス様の教えは、惑わしの教えとされるのです。この神のみ子がこの世にきてくださ
った。復活をもって自分を啓示してくださった。私達の弱さと罪を負い、赦し導いて
くださる。神の国をもたらしてくださる。この教えは、信じる者にとっては、大きな
救いです。しかし信じないものにとっては惑わしであります。
 旧約が律法の世界とすれば、新約はめぐみの世界です。旧約が行いを中心にしてい
るとすば、新約は愛を中心に置きます。旧約が忠実を原理とすれば、新約は自由を原
理とします。ここには、同じようでいて大きな違いがあります。その分岐点は、イエ
ス様の誕生、出現、登場です。神様はここから時代を変えられたのです。アブラハム
やエレミヤの預言した約束が成就したのです。
 一昨日ある方から演劇の券を頂いて、せっかくですので宝山ホールに、見にいきま
した。題は「風と共に来る」です。そうです。あのマーガレット・ミッチェルの映画
「風と共に去りぬ」のできた背景を、コメディにした演劇です。ま言ってみればまが
いのもかも知れません。しかしどうして、どうしてよくできていました。私はずっと
なぜ、恋愛ものの映画が「風と共に去りぬ」という題になっているの分からずにいま
した。しかし今回、あの「風と共に去りぬ」の脚本家がユダヤ人であり、この脚本家
がユダヤ人の差別と戦う人であったことを知りました。「風と共に去りぬ」は、実は黒
人奴隷制を基礎においたアメリカの南部が変わる、ということ、風と共に去るとは、
奴隷制を基礎にした南部社会は去る、と言う意味らしいです。恋愛事件を題材にして、
奴隷制が去るということをテーマにしたかったようです。ユダヤ人ですから、風とは
ヘブライ語で聖霊でもあります。イエス様の霊と共に、南部の奴隷制は去り、吹き飛
ぶということになります。
 イエス様が来られた。これは神様が時代を変えられること、行い、律法の世界から
めぐみ、自由の世界に変えられて行く事を示しています。ある人は、それを惑わしと
取ります。しかしイエス様の福音をよく聞いた人は、この神様の風を、心から受ける
のです。イエス様を信じる方は、おそらく行いと律法、制度の世界よりも、めぐみと
自由の方が何倍も大変と知っています。命令されてそれをする方が、自分で考えて良
い道を自由に選ぶよりも楽です。命令に従うほうが、危険も失敗もないでしょう。し
かし喜びは違うのです。自分で祈り、自分で自由に従う喜びがあるのです。
 65、66節には、総督ピラトは、ローマ兵をつけることを承認します。しかし実はユ
ダヤ人当局には、ユダヤ人の神殿警備隊がいたとされています。つまり祭司長とファ
リサイ派は、本来は自分たちの神殿警備隊を、イエス様のお墓に貼り付けておけばよ
かったのです。しかしユダヤ人当局は、これにローマ兵までも付け加えたとなります。
これは用心深いとも言えるでしょう。念には念をいれたともなるでしょう。しかしユ
ダヤ人当局は、本当は何かを怖れているとも言えます。イエス様を殺してしまってす
べて自分たちの批判するものを追い出しました。しかし何か怖かったのです。強力な
ローマ兵の警備を望んだのです。
 このようなことはよくあるのではと思います。自分の思い通りになった。何の心配
もない。しかし、義にもとることをしてなした財産、持ち物、地位には、必ずその傷
跡が付いているのです。文学の世界には多いです。夏目漱石の『こころ』もそうです。
何の不足もない素敵な奥さんと暮らしている。しかしその奥さんと結婚するときに友
人をだし抜いてしまった。これは心に残る。そして、その心が今の奥さんとの幸福を
蝕んでいく。
 『罪と罰』もある意味でそうです。高利貸しのおばあさんは大金持ちで、どんどん
金を設けていく。しかし自分は教養もあり、前途有望なはずなのに、お金がない。才
能を使えない。盗んでもいいはずだと考える。しかしおばさんを殺すはめになる、そ
して成功したかに見える強盗殺人は、完全犯罪であるけれども自分から遊女のソーニ
ャに罪を告白することになるのです。つまり殺人したことそのものが主人公を追いや
るのです。
 ユダヤ人当局も、イエス様をまんまと冤罪にかけて、見事に十字架につけました。
ローマ総督ピラトも冤罪と気づいているのに、それを見破っているのに、何もできな
かった。完全にユダヤ人当局の計画通りです。自分たちを邪魔するものは現実、現象
からは消えました。しかし本質は、消えなかったのです。真理であるイエス様は消さ
れても消えないのです。神様は人間が創るものである。神様は、心の弱さに宿るので
ある。神様は弱い人間、自己実現しない人間の信じるものである。神様は弱い人間、
強く生きられない人間の恨みである。万能人、超人には神様はいらない。ニーチェは
本当に人間の心を読んでいました。
 しかしどんなに否定しても、どんなに無視しても、神殿警備隊だけで足りずに、最
強のローマ兵をつけて監視ししても、出てくるものは出てくるのです。事実は事実だ
からです。神様イエス様は、復活されるのです。むしろ、ユダヤ人は完膚なきまでに
イエス様を殺したからこそ、強力なローマ兵という監視をつけたからこそ、反対に復
活が明らかにならざるを得なかったのです。イエス様の死体が盗まれたという噂がた
ちました。しかしそれは、あの強力な忠実なローマ兵をどうして、あの弱い武器をも
たない弟子たちがくぐり抜けるのかという問題を解かねばなりませんでした。
 イエス様を否定する論理、方法、思想・考えが返って、イエス様は生きておられる、
イエス様はあるいうことを示すのです。それが神様の方法であり、イエス様の墓にい
たローマ兵の教えです。壮年会の神学校献金が、これからずうと神学生を支えること
ができるのか分かりません。しかし壮年会が祈りをやめず、本当に牧師を育てたい、
牧師を多く出し、支えたいという祈りが続く限り、自分たちが支えているという思い
から解放される限り、止むことはないでしょう。神学校週間と学ぶ神学生のために祈
ります。
 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日から神学校週間です。どうか、学ん
でいる神学生を守り、道を示し、ますます主イエス様に仕える者にしてください。本
日は、枕崎の地頭園兄と伊集院から大谷兄のアピール隊を感謝です。枕崎に行かれた
鹿児島の右田兄、伊集院兄、滝下兄の行く道帰り道を守ってください。求道者の方を
感謝です。どうか、あなたがみ言葉を与え、道を開き、信じる時と委ねる時を備えて
ください。病気療養の方、支えてください。リハビリのM姉、A兄、H兄、K
兄、I兄ささえてください。ご高齢の一人暮らしの方、O姉、Y姉、K姉、
H浜崎姉続けて御手においてください。4月からはじまった中山伝道所の児童クラブ、幼
稚園の新しい歩み支えてください。この土曜日は夏祭りですが、事故のないように守
ってください。1週間御手においてください。み名によって祈ります。アーメン」
    エレミヤ書30章18〜22節          2015年6月28日
                「 彼は私の元へ 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 早いもので本日は6月最後の主日礼拝になっています。いつものように本日は最後
の主日ですので、旧約聖書の名場面ということで、エレミヤ書を開いております。エ
レミヤ書もとうとう30章目になりました。毎月1回はエレミヤ書を開いて聞くとい
うことできましたので、3年間を過ぎたことになります。

 実は、30章から32章の3章は30章1節の前にあるように、エルサレム、イス
ラエルの「回復の預言」になっています。エレミヤはすでに語りましたが、1章1節
から3節にあるように、祭司のヒルキヤの子でありました。そしてエレミヤはヨシア
王、ヨアキム王、ゼデキヤ王と3代の王様に仕えました。エレミヤが主の言葉を聞い
たのは1章2節にヨシア王の治世の13年とされ、これはBC626,7年とされます。
そしてゼデキヤ王の11年は、イスラエルの最後のバビロン捕囚とされ、BC586
年でありました。ここまでで40年の預言活動になります。そしてエレミヤ書を読み
ますとバビロン捕囚以後もエレミヤはイスラエルの民と共にエジプトに連行されます。
そこでもエレミヤは預言活動をしています。つまり40〜50年に渡る預言活動をし
たことになります。本当に息の長い預言者です。
 エレミヤに学ぶことは、息の長く、主の言葉を聞いていく姿です。エレミヤは1,2
年でどうこう言うことはありません。第1バビロン捕囚された同胞に、捕囚は長く続
くから、連行されたその地で仕事を見付け、結婚し、子供を儲け、嫁を貰い、娘を嫁
がせなさい、といいました。5月に聞いたエレミヤ29章6節です。昨日はイスラム
教では断食月の初めの日で大切な日でしたが、多くのテロ事件が起こりました。私が
一番おかしいと思ったのは、自称イスラム国が自分たち同士で、イスラムの方がイス
ラムを殺していること、シーア派とスンニー派が互いにテロをし出したことです。イ
エス様は「サタンが自分たちの国で内輪もめしたらなりたたない」と言われました。
サタンの内輪もめのたとえをもって、イエス様がサタンの頭で、他のサタンを追い出
しているというはおかしいと言われたことがありました。イスラムは素晴らしい、他
の宗教はだめだ、と言っている間はいいのです。しかしイスラム同士で争うとなると
いよいよ自称イスラム国も、末期的な情況なのかも知れません。とにかく、恐怖を根
底においた政治や社会は短命です。

 エレミヤは「もう、お前達は外国に連行された。もう決死の覚悟で、異教徒バビロ
ンと戦い、戦い尽くして、敵を一人で多く倒して帰って来い」とはいいません。「捕虜
になることは恥であり、捕虜になるくらいなら敵の一人でも倒せ」とも言いません。
エレミヤは、もう敵の地バビロンでそこで生活を立てて、暮らして、結婚して子供を
もうけ、そこで神さまの時を待て、というのです。
 私は今回の沖縄の牧師研修会では、チビチリガマとシムクガマの見学コースに行きました。
皆さんご存知とおもいますが、チビチリガマとシムクガマは700mしか離れていない同じ読
谷村の人々のアメリカの上陸地帯の隠れがです。チビチリガマでは83人の方が自決しま
した。しかし700mしか離れていないシムクガマでは700人の方が一人も死なずに助
かりました。同じ読谷村でなぜそんな違いがでたのか。沖縄では高校生の平和学習コ
ースになっているそうです。理由はチビヂリガマでは村で村一番の秀才と言われた方が
皇民化教育を受けて、捕虜になるくらいなら死ぬべきであるとして、自決を初めたこ
と。しかしシムクガマではたまたまアメリカ帰りのお爺さんがいて、捕虜になるべきであると
得意の英語を使って、自分たちは住民であり、戦う意思はない捕虜にせよ、と英語で
話せたことであるとなっています。

  捕虜になるくらいなら死ぬべきであると考える人がいたのか、自分たちは戦闘員
でないから、捕虜になるべきであると考えた人がいたかの違いとなっています。これ
が生死を分けたのです。まさにエレミヤがいたらこのアメリカ帰りのお爺さんであり
ました。エレミヤもまた捕虜となって連行されたからには、もうバビロンの敵の地で
しっかり生活して生きなさい、死んではならないというのです。私達はイスラムの方
が自分達同士で戦いだしたこと、先の戦争で捕虜になるべきだと言った方があること
を思い出し、エレミヤの息の長い預言、生きる預言の大切さを思います。

  本日の聖書に入る前に、30章1,2節には、30章から32章に続く一つのテ
ーマが語られています。それは「見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する
日が来る」という言葉です。神さまは最後は、イスラエルとユダを捨てない。その繁
栄を回復するとの約束です。この言葉がエレミヤ預言活動のいつ主から示されたのか、
実はよく分からないとされます。エレミヤはバビロン捕囚の前にこの言葉を聞いたの
か。バビロン捕囚を受けてから聞いたのか。どちらかと言われます。
   普通に考えれば、エレミヤは、イスラエルがバビロン捕囚を受けた姿を見て、そし
て、もう主なる神は、ユダを懲らしめ、脅かすことはしない、と言われたといえます。
しかしエレミヤは最初から主なる神はイスラエルとユダの繁栄の回復を聞いていたと
もいわれています。苦難や懲らしめを受ける前に、救いの回復が言われていたら苦難
や懲らしめは、その意味をなくし、苦難や懲らしめにならないとも言えます。
   しかし私達はなぜ、改心し、罪を悔いあらため、神さまを本当に心から信じるので
ありましょうか。それはイエス様が最初に十字架についてくださり、赦しがあるから
です。私達は、本当に神さまは自分の罪や弱さを赦し、受け容れてくださるのかと思
いつつ神さまを信じたのでないのです。最初に、イエス様から「あなたの罪はゆるさ
れた」と聞いて、それで信じたのです。すなわち最初に罰や懲らしめがあってそれを
受けて赦しのところに来たのでない。神さまが十字架で完全にゆるしてくださると聞
いて、安心してイエス様の所に来たのです。

   エレミアの聞いた「私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る」はエレ
ミヤの最初からの預言者としての最初からの御言葉だったとも言えます。エレミヤは、
神さまの回復の預言を聞いていたから、滅びの預言をすることができたのでないか。
「エルサレムは完全に滅ばされる」との預言は、神さまの確かな回復預言を聞いてい
たからこそ本当にできたのでないと思われます。

   18節からはエルサレムの町の回復の預言とされます。さて18節からはエルサレム
の町の回復の預言とされます。エレミヤは、主は言われるとして「私はヤコブの天幕の
繁栄を回復する。その住むところを憐れみ、町は廃墟の中にたてられる」と預言します。
私達は、ここにもまたアブラハムの時のように、またモーセの時のように、ある意味で一
方的な主の語りを聞きます。ここにはエルサレムがよく悔い改めた、エルサレムがよく
神様に従い、エルサレムががよく神様の言葉をなした、とは全くありません。エルサレ
ムは主の懲らしめを受け、具体的にバビロン軍によって町を破壊されています。エル
サレムにはもう何をする力もないのです。しかしだからこそ、主なる神様が、私は回
復するといわれます。聖書はこうして大事なところはいつも神様の主導です。「神様
はこう言われる、見よ私は云々」となるのです。私達はあらためて聖書の主なる神
様の真の姿をみます。それは神様がなさるということです。
時々、キリスト教は宗教でないと議論があります。わたしはなぜそんなことをいうの
かと思っておりました。しかし今日のようなところにそれが現れています。この世の
宗教は、ほとんど人間が神様を求めて歩みます。人間が神様を創造するのです。
神様はこうあらねばならない。神様は存在しなければならない。神様は正しい裁判
をしなければならない。神様があるとすれば、こういう形である。そしてこれを拝み
、これに願い、これに祈ることになります。しかし聖書ではそうなっていないのです。
 聖書でははじめに、人間が神様に何かを求めるのはありません。神様が宇宙を
創造され、地球を創造され、人間を創造され、自由を与えられます。そして人間
にこう生きてほしい。こう歩んでほしいと示されるのです。つまりキリスト教はこの
世の宗教の形をしていません。エレミヤ書でも同じです。「主はこう言われる。私
はヤコブの繁栄を回復し、その住むところを憐れみ、都を廃墟の上に建てる。
」つまり再建するのです。私すなわち主なる神のご計画が先にあります。私達は、
主なる神様のご計画と愛に答えていくのです。

 19節にあるように、主なる神様の回復のみ業にしたがって、感謝するものが
起こり、楽を奏するものが起こります。まず神様の救いのみ業がある。裁き
がおこるのは、主のみ業に、主のご計画に答えない時に、裁きが起こるの
です。主なる神様は、私が彼らに栄光を与え、侮られることはないと言われ
ます。20節にはさらに「彼らを苦しめるもの私は報いる」と言われます。主の
信じる者は何も益がないのでないか、イエス様を信じて何もいいことがない
のでないか。私達の疑問は次々に湧いてきます。しかし、主はちゃんと報
いると約束されています。主は弱い者、虐げられる者のところにいてくだ
さる方、また実際にいます方です。

 先の牧師研修会が終わって帰る時間が少しありました。私は再建さ
れた首里城をみてきました。首里城は琉球王国が曲がりなりにもあ
った大きなしるしです。琉球は7世紀に中国の歴史書に現れ、1406年に
尚氏(しょうし)によって統一されてできました。しかし1609年に島津の
侵攻を受けます。しかしその後も半独立国として生きていきます。しかし1871年
に琉球処分があり、尚秦(しょうたい)王様は19代の最後の王様ですが、
東京に連行されて、華族、伯爵とされ、琉球王国は沖縄県になるのです。
しかしそれでも、沖縄として独自性を保ちます。先の第2次対戦では、
約20万人の犠牲をだし、県民の4人に1人がなくなったと言われます
。アメリカの治世を受けて、しかしそれでも1972年に又復帰しました。
 首里城を見ての私の感想は、歴史書、歴史物がほとんど全くない
のです。首里城が先の大戦で全く破壊されたからであり、琉球処分
の時に東京にもちだされた資料は関東大震災で全部消失したとされ
ています。本当に散々な目にあった沖縄です。しかしなお沖縄は沖縄として、
日本の中で日本でありつつ沖縄としてあります。私は神様はきちんと沖縄
を支えてくださっていると受けています。日本の普通の1つの県になるという
人もいますが、そうならないのでないかと思っています。

 21、22節にはエレミヤは「一人の指導者が彼らの間からでる」と語ります。新
約聖書を読む私達には、こんなところにもイエス様の預言があるのかと驚きま
す。しかしこの一人の指導者は直接的にはイエス様の出現の預言ではないよ
うです。しかし、エレミヤは、イスラエルの中から神様の約束の民のなかからや
はり、導くものがでると信じていたのです。そしてエレミヤによると主は「彼の他、
誰が、命をかけて私に近ずくであろうか」と言われます。ここには神様の僕の姿
があります。それは、命をかけて主に近づいて行く姿です。ここで命とされた言
葉は、確かに命という生命の根源のところの意味です。しかし原意は心という言
葉です。私達が心をかけて神様を求め、近づくということです。私たちが、心を
かけて神様を求め、心を尽くして、神様につかずく時に、神様もまた私達を近づ
けてくださいます。もちろん人間の発意と人間の主導だけで、神様に近づける
わけでありません。しかし神様はイエス様によって私達を呼ばれております。
聖霊をくだしてくださいました。十字架において私達の罪をゆるし「すべて重荷
をおいて苦労しているものは私のもとにきなさい。休ませてあげます」とマタイ
11章28節に招かれています。このイエス様の招きの言葉を聞いて、私達がイ
エス様に近づきたいと思う時、主は私達を近づけてくださるのです。私達はイ
エス様の招きの言葉を聞いたので喜んで、神様に近づくのです。

 最後に22節。エレミアは「こうしてあなた方は私の民となる」といいます。ここ
で私達は、改めて私達が神様に近づく時に、民としてつまり隣人をもって神様
に近づくのだと知らされます。つまり神様に近づくものは一人で近づくのではな
く隣人を持つものとして、民として教会として近づくのです。教会としても近づく
というと教会は罪だらけであるといわれます。確かに教会は罪だらけにまみれ
ています。しかしなお、エレミは「あなた達は、私の民となる」とし、「私つまり
神様はあなた方(あなたのでない)の神となる」といいます。教会は罪だらけ
かも知れません。しかし教会はなお言行録20:28にイエス様の血で贖われた
神の教会でありつつづけます。罪にまみれつつも、イエス様の十字架を仰い
で、神の民教会として立っていくのです。続けて、主の招きに主の恵みに
答えて歩みます。

 「天の父よ、み名をあがめます。命をかけて心をつくしてあなたに従うもの
としてください。先々週は沖縄での研修会を感謝です。6月も最後の週日礼
拝となりました。6月の守りを感謝です。今週7月になります。導いてください。
ネパール地震に続けて八丈島の地震、さらに口之良部島の火山が噴火し
ています。どうか島民を守ってください。審議中の平和維持関連法案は9月
まで審議するそうです。どうか良き知恵を議員に与えてください。病気療養の
方、特にM姉、治療中のA兄、H姉、M兄、ご高齢の方の一人暮
らし、困難にある方々を支えてください。4月からの中山伝道所の児童クラブ
は、夏休みの登録する方を含めると7名になりました。感謝です。幼稚園も
続けて御手においてください。働きを支えてください。1週間も十字架と復活
の主を見上げて歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン。」

   出エジプト2章11〜15節          2015年6月21日
                「 誰がお前を 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は、先週の祈りにもありましたが、母の日と同じく教会発で始まりました父の
日になっています。しかし先週に父の日・家族の日礼拝をしましたので、本日の聖書
は出エジプトを開きました。今年度も3週目は分級をいれておりまして、分級のテキ
ストでもあるバプテスト連盟の『聖書教育』の本日の箇所からであります。

 さて先週は4年前に計画されていました3バプテスト合同研修会が4年延期されて
ありました。これは日本バプテスト連盟、日本バプテスト同盟、沖縄バプテスト連盟
の3つのバプテストが一緒に研修会をする、これに日本バプテスト連盟の牧師配偶者
会研修会が加わって行われました。なんでもついでにすればいいのでありませんが、
沖縄大会ということで、これに女性連合の「命ど宝の日」の研修会も重なりまして、
雅子姉妹はまだ沖縄にいます。
 研修の内容は、沖縄バプ連の饒平名先生の講演1と日本バプ連盟からルワンダの宣
教師の佐々木和之先生の講演2がメインでありました。講演1は「戦後70年、キリス
トの平和を造り出す、沖縄から共に」でした。講演2の佐々木先生は「本物の平和と
和解のために」でありました。短くまとめようかと思いましたが、話し出すとそれだ
けで説教が終わりそうです。次に講演1と講演2の間にオプションプ゚ログラムがあり、私は
読谷村にあるチビチリガマとシムクガマと恨の碑の3箇所の見学コースに参加しました。後の
2つは辺野古のテント村を尋ねるコースと糸満の平和の礎(いしじ)を尋ねるコース
でした。これも話し出すと説教が終わりますので、おいおいこれからの説教で入れて
いきたいと思います。沖縄はいつか行かなければと思っていましたが、今回は願いが
かない感謝でした。

 私が沖縄でお世話になった先生方は皆来てくださっておりました。一番驚いたのは、
私がまだバプテスマ受けたての頃、教会学校教師研修会で、日曜学校助成協会にて先生を
してくださった小浜先生がおられたことです。あれからどうなったのか、ずっと消息
を知りませんでした。なんと今は私がいた首里教会の伝道師をされていて38年ぶりの
再開でした。38年前と全く変わらぬ姿に驚きました。また38年前には教会学校の生
徒であった瑞慶山君が牧師になっていました。噂には聞いていたのですが、牧師紹介
で改めて牧師になっておられる姿を見て、小学生の時を知っているだけに、どうして
あの洟垂れ小僧がこんなに大きくなられたのか、不思議でありました。しかしそれは
私自身も80代の先生方から見れば全くそうなのだろうと思います。連合の青年会で一
緒にワーキングした先生方が今は90近い先生のなっておられる姿をみると時の流れ
を考えさせられます。最後の日は、鹿児島行きの飛行機が午後7時45分発でしたので
時間があり、首里城とその近くにある私がバプテスマされた首里教会を訪ねました。
しかし何度も道を間違えて、2人の方に聞いてようやく到着しました。地名は変わっ
ていませんが、目印となっていたお店やマンション、家はほとんど建て替えられてお
り、全く場所がわからないのです。教会、幼稚園、霊園とも皆新しくなっておりまし
た。40前と変わらないのは、教会の庭にあった大きなガジュマルの木一本のみでした。
 最後に、一番何も変わっていないのは58号線沿いにある嘉手納基地でした。あの異
様に大きな嘉手納基地は全く変わっていませんでした。58号線から有刺鉄線を通して
みる嘉手納基地は、数キロに渡り続きます。3700mの滑走路を2本持ち、羽田空港の
2倍の大きさがあります。40年前に見た通りの姿で、今もありました。この嘉手納基
地の他に、さらに辺野古に新しい基地を作る日本政府とアメリカの姿は、やはり異様
に見えます。

 さて聖書はモーセが神さまの召命を受ける前の出来事です。ここは人間の正義感の
限界と神さまの召命の大切さを改めて知らせます。モーセの誕生の時代は、エジプト
王ファラオが交替して、エジプトにいるイスラエルの人々の取扱が変わった時期であ
りました。エジプト王はイスラエルの数が余りにも増えたのをみて、イスラエルの人
口を減らすため、生まれてくる男の子を殺害する命令を出しています。モーセもまた
その適用を受けて、殺されかかるのです。しかしエジプト王ファラオの娘に拾われて、
エジプトの王宮で育てられることになります。父である王は、殺せと命令しているヘ
ブライ人の男児を、娘が王命を犯して、育てるという不思議な出来事が起こります。
 そして本日の11節に聖書は成人した神さまの召命を受ける前のモーセの姿を示すの
です。詳しく書かれていませんが、この殺人事件は偶然であったのか、モーセの止む
に止まれぬ思いであったのかよく分かりません。成人したモーセはある時、自分の同
胞のイスラエル人ヘブライ人が、エジプト人に重労働の現場で打たれているのを見る
のです。この「打たれている」ですが、打ち殺されそうになっている、と読んでもい
いそうです。殺されかかっているということです。もちろんその原因は書かれていま
せん。そもそもこのエジプト人がいわゆる14節にある「監督」だったのかどうか、も
分かりません。監督というのは奴隷イスラエル人を見張る監督のことです。もちろん
今は考古学が発達して、エジプトのイスラエルの奴隷はいわゆる満足に食べ物を与え
られず、死ぬまでこき使われる奴隷というのとは違ったようです。ある程度の自由が
あり、買い物ができ、肉を食べることができ、結婚をして子供を育てることができま
した。またそうでないと労働力としては使えません。しかし今で言うところの人権は
なく、11節の事件は、何か仕事に失敗したのか、へまをしたのか、さぼろうとしたの
かわかりません。しかしエジプト人に殺されそうになっていたのです。もしこのエジ
プト人が奴隷労働の監督でないとすれば、つまり普通のエジプト人がイスラエル人を
叩き殺そうとしているのであれば、イスラエルの扱いはかなり劣悪だったと言うこと
も言えます。

 12節にあるように、モーセは回りをみて、つまりモーセは表向きはエジプトのファ
ラオの王の娘の子でありました。もちろん当時エジプト王は、後継者のために多くの
側室がいたでしょう。どのくらい王となれる継承者がいたのかわかりません。しかし
モーセも又ファラオ王の一人の娘の子となれば、何十番目かの継承権があることにな
ります。その人がエジプト人を殺したとなるとやはり大変なことになります。モーセ
は用心に用心を重ねて、回りをみて、エジプト人を撃ち殺して砂に埋めました。王の
娘の子であればその権威において、エジプト人を去らせることができたと思います。
しかしすぐに殺してしまうところに、熱血感モーセとも、正義感の溢れるモーセさら
に剛胆なモーセの姿も読み取れます。しかし確かなことは、ここにおいてモーセはも
う自分のアイデンティティを、エジプト人でなくてイスラエル人・ヘブライ人におい
ていることが伺えます。
 実は先の研修会の講演1の饒平名先生も戦争を体験をされた88才の先生でした。自
分のアイデンティティの話をされました。沖縄の那覇に生まれてお父さんを早く亡くし、もの
心着いた時、母は自分を連れて台湾に出稼ぎにでていた。しかし生活が成り立たず、
とうとう沖縄本島で働くことになる。敗戦で宮古に行かれます。母を助けようと一生
懸命勉強されて沖縄の国費留学生となられて、岡山大学の法学部に留学ができたそう
です。大学を卒業して沖縄に帰られます。琉球政府の出世コースに乗られる。しかし
自分は何ものか。皆さんもご存知のように、宮古島と沖縄本島の方言は全く違ってお
り、自分は宮古島(ミヤコンチュ)人かウチナワンチュか、日本人ヤマトンチュでな
いことは確かだと自分が何者かなかなかわからない。その苦悩の時に照屋寛範(てる
やかんぱん)先生に出会うのです。この先生は、琉球人ウチナワンチュとキリスト者
が本当に一緒になった最後の人と言われていました。実はこの照屋寛範先生は私にバ
プテスマをしてくださった城間先生の先生でもあります。こうして饒平名先生は、沖
縄の方は、日本人と琉球人の2つのアイデンティティを持つ人であると言われていま
した。1つの国に置いて二重のアイデンティティを持つ人間です。そこがわからないと沖縄の
人とは本当につきあえないのでないか、と言われました。私は沖縄に住んだ者として
よくわかります。
 モーセもまたエジプトの王の子として育てられたエジプト人、ファラオ王の娘の子
です。しかしそして同時にイスラエル、ヘブライ人としてのアイデンティティを持つ人間であ
ったのです。しかしこれはまた日本人としてキリスト者になった人にも当てはまると
思います。キリスト者として立つの時、時々日本人としての在あり方と合わないこと
を感じることがあります。しかしこれは韓国人である在り方とキリスト者、アメリカ
人でありつつキリスト者であることも、本質的には同じかもしれない。インドネシア
人でありつつしかしキリスト者であるのは実は大変でないかと思うのです。光と闇は
違うと聖書はいいます。根本的にキリス者のアイデンティティは、この世の生き方と
どこか違っており、私達は2重のアイデンティティを生きているのだと思います。

 13節、モーセはさらに次の日なんとイスラエル同胞が、互いに争いあっているのを
目撃するのです。イスラエルのアイデンティティを持ったモーセとしては本当に辛か
ったと思います。この民族のために、この同胞のために自分は命をかけて、自分を犠
牲にしても救いたいと思っている。しかしこの民族が自分たち同士で争っています。
モーセはやむにやまれず「どうして仲間を殴るのか」と仲裁にはいるのです。しかし
14節にある通りに、この喧嘩の仲裁に入られたイスラエル人は怒ります。「誰がお前
を、自分たちの監督、裁判官にしたのか」と反論します。そして「エジプト人を殺し
たように、自分を殺すつもりか」と言い返したのです。昨日のモーセの行動、場面を
見ていたものがいたのです。
 イスラエル人・自分たちを守ってくれたエジプト人の話は、あっという間にイスラ
エル・ヘブライ人に広まった。あのエジプト人は本当はイスラエル人・ヘブル人だと
広まっていたのです。しかしイスラエル・ヘブライ人の中には、そんなことはどうで
もいい。自分が生きるために、利益になることが大切だと刹那刹那に生きる人がはや
りいるのです。そして、モーセもまた自分の民を、自分の力と自分の知恵で救えると
思っていたのです。モーセにはまだまだ訓練が必要でありました。
 このモーセの姿は、どのようなところにも起こることではないでしょうか。ある社
会やある組織で、不正を見つける。また不都合な事態を見つける。なんとかしたいと
正義感に燃える。そして事実自分にできることをやってみる。しかし誰からも賛成さ
れず、誰からも理解されない。お前は目立ちたがり屋かと無視され、いや返って余計
なことをしてくれるなと馬鹿にされ、仲間はずれにされるのです。しかしそこでこそ、
その人の生き方の本質が問われるのです。
 ここでモーセは、さっさか逃げ出すのであります。エジプト人として育った自分が
エジプト人を打ち殺した。これが知られているのです。イスラエル同胞は自分の気持
ちを理解せず、返って訴えられるかも知れない。モーセはもう逃げるしかないと思っ
たのは当然です。そしてこれが、ある意味でモーセの人間として限界です。モーセは
よくやったのです。人間としてできることを頑張ってくれたのです。しかし神様との
出会い、召命を受けていない者の限界がここに現れたのです。
 平和憲法は、本当に国を守れるのか、交戦権を認めない、集団的自衛権を認めない
憲法で本当に大丈夫であるのか。理想的にすぎて現実に対応していない。そうだとす
れば、憲法を捨てた方がいい。あるいは解釈を変えて集団的自衛権を持った方がいい
のだ。これは確かに一つの方法であります。沖縄の広大な基地、それに屋上屋(おく
じょおく)を重なるように、又基地を作る。「なんと言ってもまだまだアメリカが強い
です。アメリカと組んでおくべきです」とは昨日の改正賛成派テレビは言っています。

 しかし本当にそうなのか。理想をなくした現実はそうかもしれない。よく分かりま
す。人間の罪の現実からいくと軍事力を持たざるを得ない。しかし神様と出会ったキ
リスト者は、そうともいえない。やはり神様の現実を考えさせられるのです。饒平名
先生の講演では「イスラエルは軍事力をもっていたので、出エジプトができたのです
か」と問われました。答えは軍事力がなかったので、出エジプトできたのです。もし
下手に超大国エジプトとイスラエルが軍事力で戦ったらあっという間にイスラエルは
滅ぼされたのです。イスラエルは軍事力をもたなかった。残りは知恵と無抵抗でつま
り非暴力と信仰で、戦うしかなかったのです。そしてイスラエルはだからこそ超大国
から脱出できたとなります。この教訓は現代ではナンセンスでありましょうか。どう
もインドでガンジーさんが、イギリスになされた方法は出エジプト戦法だったのでは
ないか。
 モーセは自分の決心と自分の力と知恵で救おうとしたこの時に失敗しました。そし
てまた40年間ミデアンの砂漠で、羊飼いとしての訓練を受けます。40年後80歳にな
ったモーセは今度は、神様に召命されてこの仕事に付けられます。もう自分の力を誇
る年ではありませんでした。何かが起こるとすれば、それは神様の力です、と素直に
祈り、言える訓練を受けたのです。自分の体力と知恵の限界を知らされたのです。つ
まりもう自分はできないとわかった時に、主によって用いられ、遣わされるのです。
自分の力では無理と心から分かり、祈るしかないと示された時、主は用い、遣わして
くださるのです。私達は自分に絶望し、しかしイエス様の十字架の仰いで歩みます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。先週は沖縄での研修会を感謝でした。良
き研修ができました。辺野古のテント村にいる人々を守り導き支えてください。求道
の人々に本当にあなたに頼る信仰を与えてください。沖縄戦が終わった命ど宝の日を
23日に迎えます。どうか、平和を造りだす信仰を与えてください。病気療養の方支え
てください。特にM姉、A兄、h姉、M兄を支えてください。ひとり暮らし
のご高齢の方支えてください。ネパール地震に続けて口之良部島の火山が噴火しまし
た。全島避難になっています。どうか島民を守ってください。新しい歩みをしている
中山伝道所の児童クラブ、幼稚園の働き、支えてください。1週間も十字架と復活の
主を見上げて歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン。」

   ヘブライ人への手紙12章7〜11節       2015年6月14日
                「 霊の父 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は、1週間早いですが父の日参観ということで、幼稚園の行事を終えて、園児
の御父様方を迎えての礼拝を感謝致します。調べてみますと2008H20年から6年間、
この家族の日礼拝は、6月の特伝をしてきました。しかし牧師の話を一度もお父さん
方が聞けないのはおかしいのでないかということ、御父様方だけが外部の講師の先生
の話を聞くのでなくて、お母様方も聞いてほしいと、今年は5月の母の日礼拝に外部
講師を呼んでの特伝となりました。私は6年振りに父親参観の御父様方を前に、宣教
することになります。
 それで本日は改めて、父の出てくる聖書を拾って、ヘブライ人への手紙12章の本日
箇所としました。しかし実をいうと聖書の神さまは父なる神さまと呼ばれております。
主の祈りにも「天にまします我の父よ」と早速父が出てきております。つまり聖書は
ある意味でどこを読んでも父の言葉はでてくるのです。ある意味で父の出てくる箇所
を探さなくても、聖書はどこを読んでも父なる神さまの方向を向いていることになり
ます。しかし分かりやすく父が出てくる箇所を拾ってお話をします。

 まず、7節に突然「鍛錬として忍耐しなさい、神はあなたがたを子として扱ってお
られるのです」とあります。何のことかと思われたと思います。実は、このヘブライ
人への手紙は、手紙の形をとっているのですが、誰かと決まった宛て先がない手紙に
なっています。結論から言いますとこの手紙は、キリスト教会ができて100年ほど経
ち1世紀から2世紀にはいるころ、キリスト教がローマ帝国に内に広まっていきまし
た。しかしキリスト教はローマ皇帝礼拝を拒否しました。そこで広まると同時にいつ
もローマ帝国の皇帝礼拝とぶつかることになりました。つまりキリスト教会は、広ま
るのはいいのですが、ローマ帝国の内のあちからこちらで、嫌われ者となり、政府に
とってはやっかいな宗教になっていったのであります。
 「鍛錬として忍耐しなさい」という勧めは、こうしていろいろな人から、またロー
マ帝国から嫌われて行く過程で起こるキリスト者の迫害の姿なのであります。迫害と
いうと少しオーバーになります。本日は私達は何かを成し遂げようとし、何かを成そ
うとするときは、どうしても乗り越えねばならない障害、訓練と考えて読み解いてい
きたいと思います。私達はそれぞれの目的や目標があります。だいそれた目標を掲げ
なくても、自分の妻や子らと平和に安心して暮らせればそれでいいと言う方もあるで
しょう。中には何とか一つ上を狙って、できれば今はもうないかも知れませんが、独
立して会社を持ちたいとかあるかも知れません。大きな夢、小さな夢といろいろあり
ます。しかし夢や目的は小さくも大きくてもどちらにしても、私達は乗り越えるべき
課題、訓練があります。そしてその課題が問題が大き立ちはだかって、どうにもなら
ないとこことあります。
 ヘブライ書の訓練は、こうして簡単でない課題、ちょっとやそっとではなかなか解
決出来そうにない課題と考えていいでしょう。そこにぶつかった時に、私達はどうし
たらいいのか。聖書は、一つの考え方として「父から鍛えられない子があるか」とい
うのです。今は家族で仕事をしてそれを引き継ぐというのはほとんどなくなりました。
職人さんも会社や有限会社の組織で働いておられます。古代社会は、しかし家族で仕
事を担いました。だから親が子を訓練して、技術を身につけさせるのは当然のことで、
どこでも行われていたのです。しかし今は確かに、仕事として親が子を訓練するのは
少なくなりましたが、訓練鍛錬が0になったかというとそうではないでしょう。

 今もまたお母さんはお母さんで、お父さんはお父さんで、子供を甘えかすだけでな
くて、ここはどうしても教えないとだめだ、我慢させないとだめだ、と言うところが
あるのだと思います。もちろん乳幼児はどちらかというと、子供に答えてできるだけ
遊んであげる、とかが必要です。しかし学童期になるとやはりここはがんっばっても
らおうとか、ここは手をだすのはやめようとかいう場面があります。

 8節に、そして聖書はいうのです。「誰も受ける訓練を受けないとすれば、それはあ
なた方は庶子すなわち私生児かもしれない、実の子でないかもしれない」というので
す。幼稚園におりますとお爺ちゃんお婆ちゃんが時々、送迎をされていて話すがこと
があります。「自分の孫はかわいいです」と言われて、そうですねと話を合わせている
と「何と言っても、責任がないですからね」と言われてます。孫はかわいいかわいい
だけで、しつけは子である親がするので「自分たちは、かわいいかわいいだけの部分
でいいから」と言われるのです。それじゃいけませんでなくて、そうではないでしょ
うか。お爺ちゃんお婆ちゃんまで、教育、教育とされたのでは、子供は大変です。
 しかしここにあるのは、やはり親は育てる役割と使命を持ち、それは簡単でなく、
ただ好きなことをさせて、好きなことを与えて、甘やかせておればいいというだけで
成り立たない何か訓練のようなものがあるということです。聖書はここで、訓練はい
らん、しつけもいらん、適当にしておけばいいのだ、となるとそれは本当の子でない
かもしれないというのです。もちろんここで現代の問題は、甘やかすことを知らない
親がいて子供が精神的に大変になっているところもあります。しかしこれは例外です。

 9〜10節にはこうして肉の父、この世の父が私達を訓練し、時にしつけをしてそれ
は嫌なことを含みつつしかしそれでも、それを理解し尊敬するのでないかと受けてい
ます。そしてこの考えを、霊の父にあてはめることを語るのです。つまり、私達は、
ある時にどうしても受入られないような事が起こります。どうして自分だけうまくい
かないのか。同じように頑張っているになかなか成果がでない、上の人に認めてもら
えない。業績があがらない。よりによってこの時にこんなことになってしまった。な
んで自分はついてないのかがあります。同期の方が、どんどん前に行って自分はちっ
ても前に進めない、勧めないどころか後退の憂き目にあうことがあります。
 これは何あれがこうしてこうなっての原因と結果の次元ではなく、まさしくなんで
もこうなるのとか、言ってみれば意味の次元の出来事です。しかしその時こそ10節に
あるように「霊の父は私達を鍛えておられるのです」と受けよ、というのです。しか
し問題は、このような困難の時に、本当に自分は目には見えない霊の父から鍛えられ
ているのだ、ここを乗り越えればきっと次は開けるのだと受けられるのかどうか、で
す。ここは分岐点ですが、分からない。ただそうだ自分の訓練だと受けるのか、自分
だけなんでこうなると腐ってしまうのか。その瀬戸際は、その人のこれまでの体験に
負うところがあるでしょう。
 6年前まで私は家族の日父の日の話では、自分の父の話をいつもしました。教会員
も方はまたかで済みません。6年日振りになりますが、今87才で老人ホームの父で
す。一番覚えているのは、小学3年生ころと思います。私がいじめにあった時の出来
事です。なぜそうなったのか理由は覚えていないのです。私はなぜか上級生からいつ
も睨まれて、なぜか生意気だと叩かれるのです。今のような陰湿ないじめでないので
すが、それなりに怖くもありました。教室にいると上級生がくるので、始業のベルの
時まで隠れて、先生が来られるの始業ベルに合わせて教室に入っていたことを覚えて
います。とうとう父に知られる所となります。父はずっと私を学校まで付けて来て、
いじめている子を見付けて、今考えるとどうして分かったのかわかりませんが、捕ま
えて5年生か6年生かを平手打ちで張り飛ばしてしまったのです。捨てぜりふも覚え
ていますが「今度この子に手をだしたら只ですまんぞ」と言ってバイクでいきました。
昔はやくざのような先生がいました。実は父は隣の学校の先生をしており、今なら大
問題でしょう。しかしこの体験は、私の心に深く入り、そこからどんなに父に怒られ
ても、父は絶対自分を愛していると疑えないのです。これは理屈でなくて、信念のよ
うなものです。

 私はなぜ自分は20才まで聖書のせの字も知らない環境だったのですが、友人に連れ
られて教会に行き、勧めらるママに父なる神さまを信じ、あっという間にイエス様の
十字架を信じることができたのか不思議です。しかしどうもこの体験、自分は何があ
っても守るものがいるという体験だったのでないかと思うことがあります。肉の父も
将来のことを考えて守ってくれる、訓練してくれる。だったら霊の父はもっともっと
私達のことを考えており、肉の父より以上に配慮されて、私達を導いておられるに違
いない、と言うことです。神様の愛の十字架が分かるのです。

 10節にあるように、肉の父、この世の父は、自分の考えによって、自分の思いでそ
れをするのです。肉の父は「しばらくの時」すなわちこの世の事だけを考えて、ある
時はやりすぎるし、ある時は大切なことを全くしないということがあります。しかし
霊の父は、全知全能のその知恵で、私達を鍛え、導き、支え、愛するのです。そして、
霊の父は鍛える目的が「ご自身の神聖にあずからせる目的」となっています。私達は、
何で自分がこうなった、なんで自分はこんな目にあうのか。なんで自分は、認められ
ないのかと言うときに、霊の父は自分をあえて訓練しておられる。こんな目に会うの
は、父なる神が自分を特別に、ご自身の神聖にあずからせる為になされていると受け
ていいのです。
 ここで神の神聖ですが、なかなか理解できません。神聖さとはなんぞや。日本の感
覚で神聖というとどうでしょうか。霧島に泊まった時に、霧島連山の朝霧の中に、唐
国岳の頂上が見えた、ということでしょうか。世界遺産になった空海の高野山の山の
中でしょうか。しかし聖書の神聖は、そう言う面を持つですが、しかし「取り分ける、
区別する」というもっとも卑近な意味を持っているのです。聖書の神聖さとは、神さ
まの目的の為に、区別され、取り分けられたある状態のことでもあります。つまり言
われのない苦難、どうしても理由がわからない苦労、原因結果が合わない苦労は、も
しかすると神さまの神聖すなわち取り分けのための苦難、苦労かもしれないことにな
ります。理由の分からない苦難は、そもそもそういうことを考える余裕がないのです
が、しかしなお私達に問いを立てるのです。この苦難は自分を訓練する霊の父の訓練
かもしれない。じっと忍耐であるということです。

 最後に11節は、鍛錬、訓練とは、当座は喜びではないとあります。全くです。これ
はなんでもそうだと思います。後5回ほどで終りますがTBSの60周年記念番組で、
全部見ませんでしたが、『天皇の料理番』というテレビドラマをしています。これは
1980年が最初で、今回のは3回目の吹き替えです。古い方はなんども見られたと思い
ます。久し振りに面白いドラマでした。小さいお子さんを持たれているところは見る
余裕はないかもです。
 ストーリイは明治時代に天皇の台所つまり料理長になった方、実際の徳永料理長の
実際の半生をしています。史実その通りでないらしいですが、田舎のどうにもならな
い若者が、へんなところから料理に興味をもち、奥さんを捨てて料理の修業をして、
とうとうパリに料理の留学をなし、帰ってきて天皇の料理番になるという物語です。
簡単にいうとサクセスストーリイで単純すぎておもしくないと言う方もあるでしょう。
 しかし要所要所に、大事なことを入れています。それは言ってみれば訓練とは当座
は喜ばしいものでなく、苦しいのであるが、その後に必ず支えてくれるということで
す。主人公は、破天荒の性格のゆえに繰り返しや基礎的なことをするのが大嫌いです。
コックのさんの修業はまずは鍋洗いからです。なんども鍋洗いを省略しようとするの
ですが、どうしても料理長に見付かってしまうのです。とうとう主人公はなぜ綺麗に
なっている鍋をまた洗い直すのか訳が分からんといいます。しかしその時、料理長は
いうのです。「料理を美味しく作れるかどうかは、才能がいる。しかし鍋を綺麗にする
のは、努力でできる。誰でもできる努力を省略して美味しいものはつくれない」。これ
は何度か繰り返されております。主人公がパリのコックの組合に入る時も、問題を起
こしてもうパリにおれなくなった時、パリのコック長は「自分は多くの料理人を育て
た。しかしお前のように毎日、料理が終わった後に包丁をとぐやつは、パリにいない。
どうか自分の店で働いてくれ」というのです。主人公はパリのコックの組合に日本人
として初めて入るつまり免許皆伝してもらうのです。

 当たり前のことを当たり前にする。キリスト者であれば、お祈りと聖書読み、礼拝
です。おそらくそれぞれの職場、家庭にそれぞれの基礎があるのだと思います。それ
は当たり前に過ぎて言葉にもなっていないかも知れません。あるいは何か、紋切り型
で何も新しいことはないかもしれない。しかし訓練や基礎とはそういうものです。そ
してその奥に、基礎的な体験があるのです。聖書でいうと祈りであり、イエス様の愛
の十字架です。目に見えない霊の父の配慮なのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。本日は幼稚園のお父様との共なる礼拝と
なりました。感謝です。梅雨の雨が続きます。どうか大きな被害がないようにお守り
ください。今年は、ネパール地震、八丈島地震、口之良部島の噴火と自然災害が続き
ます。どうか全島避難になっている島民の方々を守ってください。平和関連法案も憲
法違反となっています。どうか議員達に知恵を与えてください。病気療養の方多いで
す。入院のM姉、通院のA兄、H姉、入院のM兄支えお守りください。一人
暮らしの高齢の方お守りください。Sさんは手術を終わり退院されます。感謝
です。守ってください。今週は沖縄で牧師研修会、教役者配偶者研修会になっていま
す。現地の準備する先生方と講師達をお守りください。4月から始まりました中山伝
道所の児童クラブ、幼稚園の働きを支えてください。御名によって祈ります。アーメン」

   マタイ伝27章27〜43節          2015年6月7日
                                  「 自分を救え 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、本日と
1週間を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪
の悔い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。
 本日は、6月の最初の礼拝となりました。皆さんと共に主の晩餐を共に受けられま
すこと、感謝です。先週は梅雨に入りました。今回は雨が少ないのでないかと言われ
ています。しかし先週の水曜日の大雨で枕崎線も吉松線も止まりました。今年の梅雨
も大きな被害がないように祈ります。
 また、先週は今回の平和維持法案が、国会に呼ばれた3人の憲法学者によって、自
民党の推薦した憲法学者も憲法違反であるとしました。これは珍しいというか、普通
は自民党が推薦した学者は自分を推薦してくれた党の見解を支持する意見を述べるの
が普通です。この学者さんは自民党を裏切ったのか、自分の学者としての良心からい
わざるをえなかったのか、よく分かりません。しかしこれはよほどぎりぎりのことを
しているのは、確かであります。それにしても憲法とはすごい力があるものだと改め
て、驚いております。

 何度も話してすみませんが、高校生の漢文の時間に倣ったことで、中国の基礎を築
いた秦の時代の始皇帝の話です。自分の政治がうまくいっているかどうか、始皇帝は
身分を隠して巷にでます。そしてある田んぼで丸丸肥った百姓に会うのです。そして
始皇帝の政治はどうかね、と聞くのです。その百姓は、まるまる肥った腹を叩いて「戦
争はないし、作物はよく育っている。始皇帝、それは誰のことか、おれは知らん」と
いったそうです。自分を全く知らず、自分の政治に関心を示さない百姓のことばを聞
いて、始皇帝は、ああ自分の政治はうまくいっていると喜んで王宮に帰っていったと
いう話しです。
 憲法の話をしても、そんな難しいのをどうするのか、平和平和といっておれば、平
和になるのかと、馬鹿にする人は多いです。しかし改めて憲法学者が3人揃って違憲
ですという法律が通って無理に施行して、実際に戦闘になった時、憲法は私達に「警
告しましたよ」と言うのだと思います。平和憲法をなんとか守って欲しいです。
 さて聖書は、第1主日ですので、福音書から聞くということで、マタイ伝27章を開
いています。本日の箇所は、本当は受難節の時に聞く聖書です。イエス様が十字架に
上げられる箇所は、私達は何度も注意深く毎年聞いてきました。しかし本日は、十字
架の救いの観点からもう一度少し離れて、長かったですがマタイが伝えてくれた十字
架の場面として聞いて行きたいと思います。

 改めて27〜44節を読んでみますと気づいたのは、29節、37節、42節に、イエス様
が十字架に上げられた理由、十字架に殺された理由が「イエス様がユダヤ人の王、イ
スラエルの王である」ということであったということです。ローマ兵のあざけりも、
イエス様の罪状書きも、通行人のあざけりも全てが「イエス様が、ユダヤ人の王であ
った」ということに集中しています。私達はパウロの手紙で、十字架の死、イエス様
の死は罪のあがないということで読み込みます。イエス様の血が、過越に屠られ神殿
に献げれる小羊の血に重なって、罪の赦しが成立したと受け止めるのです。しかし改
めてその根底のところに「イエス様がユダヤ人の王である」という事実が横たわって
います。
 私達は改めてイエス様の十字架の死が、具体的にはイエス様がユダヤ人の王として
来られたことに係っている事を示されるのです。ローマ帝国にとってローマ皇帝内に
おいて王は、カイザル皇帝のみであります。ユダヤ人の王もまた、植民地である以上、
ローマ皇帝カイザルだけであります。ユダヤはローマの植民地であり、ユダヤ・イス
ラエルの地においても、ユダヤ人の王はローマ皇帝カイザルのみなのです。しかしイ
エス様は、天地の創造者、神の御子、世界の王として私達のところに来られました。
ぎりぎりのところで、そうするつもりはなくても、イエス様はローマ皇帝とぶつかる
ことが起こることを、イエス様の十字架は示しています。

 宗教的真理と政治的真理は違うものである。「神のものは神へ、カイザルのものはカ
イザルへ」とイエス様はマタイ伝22:21節に言われました。宗教は政治に関せず、政
治は宗教に関係しません。当然のことです。しかしなおイエス様の十字架は事実イエ
ス様がローマ兵によって殺されて行く姿なのです。十字架を見るとき、私達はそれぞ
れの信念をもって、この世を生きていくしかない事を示されます。本来ぶつからない
ものがぶつかる時が起こる。これがあることを示されます。イエス様の十字架がこの
世において起こったことを受ける時、私達もまたぶつかることは避けられないのでし
ょう。十字架の御言葉に従うと言うことは、やはりぶつかりが起こってくるのであり、
それは本当に私達を生かす御言葉である以上、生活であることから起こってくるので
す。私達はイエス様がローマによって十字架に上げられた。イエス様はユダヤ人の王
として十字架に上げられた。このことを頭において、ぶつかりのあることを、受けつ
つこの世を歩むのです。

 次に私達は、イエス様の十字架の場面には「自分自身を救え」という言葉のあるこ
とを聞きます。特に42節の「他人を救った。自分自身を救うことができないのか」が
痛烈です。イエス様は改めて他人を救っておられた。神の国の言葉を伝え、罪を赦す
宣言をなし、病気を癒し、悪霊を追い出し、孤児ややもめの友となれていたことが示
されます。しかしこのイエス様は、その力を自分を助ける、自分を救うためには使わ
れなかった。いや使うことはおできにならなかったのです。これは大きな躓きです。
普通は自分の力があるから救うのです。金持ちだから能力があるから、貧乏人を救え
る。自分の力を他の人に教えて上げて助けるということが成り立ちます。しかしイエ
ス様はその方法を使いませんでした。
 そもそも私達は成功した人に、成功談を聞くのです。試験に合格した知識があるか
ら、その知識をわけて貰うのです。しかしイエス様は自分を救えなかった。自分は十
字架に付けられたままです。新たに事業を興す人が事業に失敗した人に何かを聞くで
しょうか。聞かないでしょう。いい大学に行きたい人が大学試験に通らなかった人に、
通り方を聞くでしょうか。聞きません。イエス様の姿はまさにそこにあります。十字
架に付けられた人に、私達は教えを聞くのです。そこには何があるのでしょうか。私
達は、イエス様の復活の後にいるので、イエス様が神の子であるという証拠の元にあ
るというでしょうか。2000年の教会の歴史は、燦然と輝き、実際には世界史はキリス
ト教の実績の後にあるというでしょうか。「他人を救った、しかし自分自身を救うこと
ができないのか」は、西暦2000年の21世紀には、もう死んだ言葉でありましょうか。

 そうでないでしょう。今も生きていることばだと思います。今も私達が実際に隣人
に御言葉を伝えようとする時に起こる言葉であります。私達はたえずそういう「お前
は何様か」といわれるのです。私達が子供を育てるにはやはりキリスト教がいい、信
仰は子育ての最後の拠り所です、といいます。しかし私達はそれではその子を見せて
みろ、といわれるのです。そして私達はとても人様に誇れる子供もっていない事実が
あります。教会がなす事業も同じではないかと思います。世には多くの事業がありま
す。キリスト教精神に立った福祉事業で、久山療育園や大牟田敬愛園のように活躍し
ている事業もあります。しかし中には失敗して消えていった事業もあります。骨身を
削って一生懸命立て上げた事業が、子供がついでくれないというのもあります。しか
しもっと悲しいのは、キリスト教の精神でなさった事業が途中で潰れていくことです。
まさに今もまた「他人は救ったが、自分自身は救うことができないのか」の言葉がか
けられるのです。イエス様が受けられた十字架は、まさにこのように昔の言葉でなく
て、今の言葉であるのです。私達はおそらくイエス様が受けた言葉を今もまた、受け
て歩んでいくのだと思います。「他人を救ったが、自分は救えない。」しかしそれでも、
私達はイエス様を信じて歩いていくのです。前進して行くのです。お前は自分も救え
てない、しかしなおだからこそ、イエス様を信じ、イエス様を頼って歩むのです。

 43節に十字架の前の通行人はいいました。「神に頼っているが、神の子心ならば今
救って貰え。私は神の御子だと言っていたのだから。」キリスト者とは基本的にこの43
節を生きていくものなのです。神に頼り、神の子とされたことを生きるのです。そし
て今救って貰うことは、主のみ手に委ねます。この43節の教えは「御子とされたこと
を喜び、神に頼って生きることです。」ただし、今救われるかどうかを、主に委ねます。
そもそも主に頼るということは、やはりその救いの時期と時を主に委ねることも入り
ます。委ねる事無しに、信仰は起こりません。

 イエス様の十字架はやはり私達の信仰の姿です。イエス様は救いの時期を神さまに
委ねて、十字架に付けられました。神さまの御心は十字架の罪のあがないの道である
とご存知でした。それは苦しい道でした。ゲッセマネの祈りにあるように「できれば
この杯を取り去ってください」と祈られました。しかし「御心をなさってください」
と受けられました。十字架には自分の判断で、神さまに時を委ねる判断をされた姿が
あります。自分を放棄し、神さまの御心を立てられた姿があります。神さまの上に自
分をおいて、自分勝手に時期を決められることはなさいませんでした。時期は神様に
委ねられたのです。
 ユダヤ人の通行人の間違いは「今降りてこい」と「今救って貰え」にあります。ユ
ダヤ人達は、神さまは時間の支配者であると知っていました。出エジプトにはモーセ
の出現という時間が必要でした。バビロンからの帰還にも、イザヤ40章以下の預言が
必要でした。第1神殿の建築はダビデ、ソロモンが必要であり、第2神殿の建設は、
エズラ、ネヘミアが必要だったのです。それぞれに長い時間と時が必要でした。神さ
まは準備されるのです。信仰はそれを越えないで待つのです。神さまを越えても、そ
の時はなったようでも結局なっていないのです。

 イエス様の十字架においてさらに知らされることは、時を委ねることは、怠慢にな
らないのか。何もしないで待つのか。十字架につけられて待つのは、何もしない怠慢
ではないか、であります。どうでしょうか。イエス様は十字架に付けられて、何もな
されなかったのか。何も出来なかったとも言えます。しかし本当に十字架の上で何も
なさっていないのか。私達は、本日の箇所ではイエス様が十字架に付けられて時を只
只待つ方のように見えます。じっと神さまの時を待つ方であります。しかしなおされ
たことがあります。それは祈りです。イエス様はじっと神さまの時に委ねられました。
しかしイエス様の十字架の7言と言って十字架の7つの言葉が残っています。そして
この7つの言葉は祈りなしに不可能です。

 祈りは、確かに独り言にもなります。何もしていないかのように見えます。しかし
人は祈る時に、神さまと共に働いているのです。祈りは、行動の最も根元的な行為の
第一歩です。祈りは確かに一歩間違えると自分の思いを神さまに実現させる祈りにな
ります。神さまを祈り倒す祈りがあります。聖書にも、至る所に神さまに自分の祈り
を通すたとえが多いです。イエス様の祈りの勧めにもルカ伝18:1節に「不正な裁判官
とやもめ」の話があります。裁判官はいいます。「自分は、神を神とも思わない、人を
人とも思わない、しかし毎日来て煩わしいので適えてあげよう」と言うのです。これ
が本当に神さまへの祈りだったら、多くのキリスト者はキリスト者を止めるのではな
いかと思います。しかしそれでも、ここに真理があります。それはもう駄目だ、もう
どうにもならない時に、なお最後に一つ祈りがあるといえるのです。私達はどうにも
ならないときに、やはりイエス様に励まされて、又祈りだします。そして祈り出した
ときには、実はかなりの場合、大丈夫です。思った通りになるとは言いません。願い
が叶うともいえません、しかし今あるところから、み心を求めて出発できるのです。
今の現実を認めて受けて、又再出発できるのです。

 最後にイエス様の十字架の姿には真実があります。十字架は神の御子が人間の姿を
とられた本当の姿です。受肉といいますが、本当に神さまが神さまでありつつ、人に
なられたのです。イエス様は仮に人間の姿になられたのではありません。本物の人間
として十字架を負われました。弱さのある、自分で自分を救えない姿です。ローマ兵、
祭司長、通行人から馬鹿にされる姿です。神でありつつ人でもある姿。しかしここか
ら救いが、復活が始まるのです。つまり真実の事実から救いは始まっているのです。
今ある現実をよく見る。人間の罪から目をそらさずに、しかし失望せずに赦しを見上
げて歩むのです。イエス様の十字架は常に私達の信仰のあり方を示す姿です。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。早いもので6月の最初の主日です。主の
晩餐を受けます。感謝です。梅雨に入りました。どうか一人一人が健康に注意され、
主に守られて歩むものとしてください。ネパール地震に続けて八丈島の地震、口之良
部島の火山が噴火しました。全島避難になっています。どうか島民を守ってください。
避難生活を守ってください。審議中の平和維持関連法案も憲法違反とされています。
どうか、良き知恵を議員達に与えてください。病気療養の方、特に外園姉、治療の続
くA兄、H姉、入院のM兄、ご高齢の方の一人暮らし、困難にある方々を支え
てください。新しい歩みをしている中山伝道所の児童クラブ、与えられた4人の児童、
幼稚園の働きと85人の乳児と児童を支えてください。6月の歩みをお守りください。
1週間も十字架と復活の主を見上げて歩ませてください。御名によって祈ります。ア
ーメン。」

  エレミヤ29章4-9節       2015年5月31日
              「 その町の平安 」     
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと主に感謝致します。今日も主に備えられた命を感謝しつつ、本日と1週間
を導く御言葉に聞いて行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔
い改めをなし、1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。

 本日は、早いもので5月も最後の主日礼拝になっています。もうすぐ梅雨です。先
週は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝を致しました。聖霊を受けて弟子たちが聖書の教
えに目が開かれたように、私たちも聖霊を受けて目と耳を開いて頂き、聖書の言葉に
歩んでいきたいです。本日は最後の週ですのでいつものように、旧約聖書から聞いて
行きます。旧約聖書は、エレミヤ書を一章ずつ開いています。
 さて先週は、木曜日に中山小羊児童クラブへの市役所の視察というか、問安があり
ました。3名の担当の方が来られて、新設したフエンスやいのしし網、整備されたエ
アコン、畳の匂いもまだ新しくまた静養室、実は牧師室ですがそこに簡易ベットまで
置かれており、トイレは男女別れて新しく、基準に申し分ない基準以上の施設に写真
をバチバチ一杯とって行かれました。指導員の方もここは教員免許のある方ばかりで、
後は子どもたちだけですね、ということでした。ビリングや様々の広報誌にも宣伝く
ださい。できればポスターを作ってどしどし貼ってみてくださいと、本当に好意的に
いろいろ示唆してくださいました。なんとか今年は10名の登録を目指してください
とのことでした。皆様の祈りを感謝いたします。どうか、続けてお祈りください。

 さて、本日の29章は1節に前にエレミヤの手紙という標題がついております。こ
こにはいくつの手紙があるのかが問題とされ4つあるともされております。しかし時
は紀元前594年頃すなわちイスラエルがバビロンに攻められる第1次バビロン補囚が
起って、3年ほどの経過の時であろうとされます。従って今から2600年ほどの前の
出来事です。このころの手紙というのは私達が知っている何かの羊皮紙やパピルスに
文字を書いて、それを相手に渡し、それを渡された人が読むというものであったのか、
実はいろいろ議論されています。今のような私達が容易に使う紙や鉛筆、筆はまだ発
明されておりませんでした。
 一つの当時の手紙のあり方には、本日は読みませんでしたが、3節にあるように、
「ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネザルのもとに派遣した…エルアサと
…ゲマルヤに託された」とあります。この時はあたかも手紙があったように書かれて
いますが、実際には、口述すなわち言葉で伝えたことを、そのまま伝令が相手に伝え
るということが手紙とされたとも考えられています。当時の王様の伝令は、王様だけ
の伝令でなくて、他の人の言葉も伝えたことをしたらしいです。
 次に私達はなぜ、バビロンは連行して補囚した民を、奴隷にして売り飛ばさないの
か、なぜ連行された民は、イスラエル人として一つの共同体を保っているのか不思議
です。今ならさしずめ収容所生活だったのか、と思います。しかしまさにそうだった
のであろうと言われています。バビロンはイスラエルの民を連行すると、言ってみれ
ば彼らは、イスラエルの人質として収容所のようなものを作ったとは聖書にありませ
んが、囲って共同生活をさせてエルサレムへの牽制としたようです。バビロンはイス
ラエルの高い地位の人を連行して、人質としてエルサレムをバビロンの言う通りに従
わせるという政策であったといわれます。もちろん実はの7年後にバビロンの第2次
補囚という完全なイスラエルの滅び、エルサレムの破壊が起こり、人質としての価値
がなくなることが起こります。この時には、もうイスラエルの民はバビロンの中で生
活の基盤をつくり、そのまま生活できたのでないかと言われています。つまり連行さ
れ、補囚された10数年の生活の姿勢が、バビロンでイスラエルがそのまま生き残る
かどうかの瀬戸際であったことになります。

 新しいことがスタートして数年でそのことが続くのか、壊れるのかが決まることが
あります。それは厳しいとかどうか、ということも入るかも知れません。方法論でそ
うかも知れません。しかし仕事の姿勢であったり、信仰の姿勢であったりします。バ
ビロンの補囚民は、これから数百年を生きるその姿勢をエレミヤに示されたのです。
 当時はすでにエレミヤ28章の時に聞きましたが、イスラエルの民はすぐにバビロ
ンから戻れるという狂信的な信仰が起こりました。28章には預言者ハナンヤとエレ
ミヤの対決が伝えられておりました。預言者ハナンヤはすぐに戻れるという予言をし
ました。しかしエレミヤは「平和を予言する預言者はそれが実現してはじめて主が遣
わされたことになる」としました。そして、主なる神様は、ハナンヤを遣わしていな
いとして、主に逆らって主の名を使って予言した罪を問われたのです。
 預言者ハナンヤがなぜすぐに帰ることができる、バビロンは滅びると予言してしま
たったのか。これも28章の時、聞きました。それはエレミヤから100年前のイザヤ
のアッシリア補囚の時に、エルサレムは一度救われたのです。日本にも柳の下にいつ
もどじょうはいないといいます。一度うまくいったことは次も大丈夫だと思ってしま
うものです。イスラエルの民は神様が警告として、日々悔い改め、日々み言葉を求め
て生きるように、アッシリア補囚を起こし、きちんと主なる神様に向かって悔い改め
るようにされたのです。しかしイスラエルはこの警告を聞きませんでした。そして第
1次補囚が起ったのです。そして捕囚連行を、神様の警告、神様の鞭や杖と受ける人
は、まさに予言者エレミヤくらいだったのです。
 エレミヤはこの補囚は簡単におわらない。数年で帰還できるものでない。読みませ
んでしたが、10節には70年かかるとしました。70年というのは当時の人の人間の一
生とも言われています。つまりエレミヤは補囚された人は、もう戻ってこれない。神
様は人の一生の期限を補囚民の時間とされたのだ、と示すのです。もう帰って来られ
ないことを考えて生活を組み立てなさい、というのです。

 5節にはバビロンに補囚された補囚民の生き方を示しています。それは、家を建て
よ、庭に果樹を植えよ、6節、妻を娶り、息子・娘をもうけて、息子には嫁を娶り、
娘には嫁がせ、孫たちを得よという言葉でした。異教の地バビロンで、人口を増やし、
減らしてはならない。つまりバビロンを自分の町、自分の土地としてそこに生活する
準備をしなさいということでした。バビロンを自分の生活の場としなさいとう言うの
です。これはある意味で今では当たり前かも知れません。私達が外国に行った時、引
越の時、その住む期限に応じて、その準備をします。1年いることになれば1年いる
準備をするでしょう。大きな荷物はそのままで小さい必要品だけで生活するでしょう。
3年生活する5年いる10年になると余り変わらないかもですが、それでもずっとい
るのとは違った生活になるでしょう。まさにエレミヤはこのバビロン補囚はずっとい
ることになる。70年というのは今でこそ70年ならまた帰れるということのように聞
こえます。しかし当時の人は、生きているときは帰れない。自分の子か孫の時代であ
るとなるのです。
 それにしても戦争で自分の国を滅ぼす国、自分の敵国です。そこで、もう帰れない
ことを念頭に置いて、そこで生活する生活を整えなさいとエレミヤはいいます。これ
はかなり屈辱的な予言でした。愛国者達、信仰の熱い者達には到底受けることができ
ない予言だったでしょう。イスラエルの神様は、バビロンの神様に勝てないのか。主
なる神様は自分の民を捨てるのか。イザヤが予言者だった時には、ちゃんとアッシリ
アをはねのけ、アッシリアを滅ぼしてくださった。今はできないのか。外国の地で、
異教に囲まれてそれでも生きていかないといけないのか。異教に囲まれて小さくなっ
て信仰を守り、こそぼそと信仰を守り、生きていくのか。それよりもいっそのこと
雄々しくバビロンと戦って死んだ方がいいのでないか。エレミヤは大きな大きな問い
を出しました。熱狂主義や狂信主義者には到底受けることができないことばでありま
した。
 しかし7節エレミヤは敵国に補囚、連行された民に言います。「あなたが送られた
町の平安を求め、その町の平安があってこそ、あなたがたの平安もある。」つまりこ
れは異教バビロンのために祈れ、異教バビロンの平安を祈れ、バビロンの平安があっ
てこそバビロンにいるイスラエルの民の平安もあるというのです。バビロンとの戦争
に敗れてまだ3年目です。この時、まだ主の都エルサレムはありました。大方のイス
ラエル人はまだエルサムの復興を信じていました。エジプトが助けてくれれば、バビ
ロンとの戦争に勝利し、補囚民は皆帰れるかもしれない。まだ本当の決着は着いてい
ない。戦いの余地は大いにある。しかしエレミヤは、戦争をする必要はない。敵国バ
ビロンの平和を祈り、バビロンで孫子の代まで生活できる基盤を築く仕事をせよと言
うのです。ある意味でエレミヤは、平和を作り出せと言われたイエス様に似ているの
かもしれません。というかイエス様がエレミヤにヒントを与えられているということ
でしょうか。

 これはとんでもない予言者という見方も起ったでしょう。しかしエレミヤは現実を
見るのです。圧倒的なバビロン軍の強さを見れば、今、主なる神は、バビロンを自分
の下僕としてイスラエルを打たれた。今はバビロンの時代である。主なる神さは今バ
ビロンを自分の下僕として用いておられる。神様の時が来るまで、今はじっと生活し
て置くべきである。生活の基盤を作っておくべきである。これは理想主義、積極主義
の方からみれば、なんとももどかしい生き方でありました。しかしこれは敗北主義で
はありません。敗北主義は、もう何をしてもどうにもならない。刹那的に、刹那に生
きるしかない。飲めや歌え、やであります。しかしエレミヤは違うのです。どうなる
か分からない。何をしてもどうにもならないでない。長い捕囚期間に備えよ、自分の
生活を整えよ、バビロンでの生活を準備せよ、なのです。
 家を建てよ、これは一生懸命、異教の国で働き異教徒の信頼を得ないとできません。
園に果樹を植えよ、これは畑に作物を植えよともなります。畑を得て種を蒔く、なん
と当たり前の当然のことでしょう。しかし土地を頂き、種を蒔くには、異教の国で土
地を外国人に分けてくれる人がいるのでしょうか。今でも外国人の方が土地を手に入
れ、会社を起こすのは難しいです。皆さんご存知、日本ではパチンコ屋さんのオーナ
ーは在日朝鮮人の方が多いです。それは外国人は、正当な会社成立の名義人になれな
い時期が長かったからです。いまでこそ自由になりました。エレミヤの時は2600年
前の敵国です。敵の地で、子供と孫を得よ、平和を祈れ、これは敗北主義のように見
えて、実は果敢な戦いの必要な大きな働きでありました。

 実はこの聖書の箇所を使った説教集を読んだことがあります。川崎在日大韓教会の
イ・インハ先生の説教集です。数年前に召天されました。そこには「今も昔も、在日
韓国人の同胞に私が言える言葉があるとすれば、このエレミヤ書の言葉の通りです」
とありました。まさにこのエレミヤ書のことばは、今も生きて働く言葉なのです。連
れて来られた土地で生活の基盤を作れ。孫と子を増やせ。そこの国の平和を祈れ、小
さくなるな、増えろと言われるのです。韓国人へのヘイトスピーチが渦巻くなか、今
も状況は同じだと思います。日本の平和を祈り、孫と子を儲けよ、きちんとしっかり
働けです。

 8.9節にエレミヤはいいます。「あなたのところにいる予言者、占い師に騙され
てはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。」私達はここに偽預言者の姿、占
い師の姿を見ます。それは、自分の見た夢をそのまま語ってしまう予言者です。私達
が気をつけないといけないことは何か。それは自分の夢を、神様のみ心、神様のみ言
葉と思ってしまうことです。何度か語ったことがありますが、ある牧師は「地獄とは
どこか。それは自分の思う通りになってしまうことである」という言葉をいいました。
まさにそうなのです。
 私は今回の児童クラブのことを通して、一杯学びました。もし最初から人数が満ち
ておれば、真剣な祈りもなかったでしょう。今頃はとんでもないことになっていたの
では思います。それはこども園もどんどん人数が増えている、児童クラブも増えてい
る。自分の思った通りになった。神様は鹿児島教会と共にある。いやいや自分と共に
あると勝手に思ってしまったことでしょう。
 一生懸命謙遜のふりをして、これはかなり花持ちならない信仰の高慢になったこと
間違いなしです。自分は正しいとする地獄になったはずです。神様はやはり神様です。
真剣な祈りを教えてくださるのです。謙遜な忍耐を教えてくださるのです。0にはさ
れなかった。しかし多くの子どもたちでなかった。これは大きな恵みです。大失敗で
したね、という人がいます。反対に祈っていますという方がいます。こうすればとい
ろいろなアイデアを語る人がいます。店じまいを考えなさい、という人もいます。は
やり人間はこうして信仰を教えていただくのだと思います。誰がいいとか悪いとかで
ないのです。成功するとか失敗するとかでなくて、主に守られていることが大切であ
るのです。失敗しても成功しても、なお主が共にいてくださり、主に守られているこ
とを、感謝し、喜んでいくのです。そしてなすべきことを、主に示されたことを、恵
みによってしていくのです。

 主は彼らの見た夢に、従ってはならないと言われています。偽預言者は、自分が見
た夢を神様のものとしてしまうのです。何も考えずに、すぐにしてしまうのです。し
かし主なる神さまは、私たちに示されたいことがあるのです。何が正しい道であるか、
考えさせるのです。主が導かれる主が示される道を、祈りつつ示されて歩のです。そ
の時、主がご自身の御心を示し、成就してくださるのです。十字架において、主の恵
みが示され、主の愛が示されました。なんとすごいことでありましょう。うまくいか
ないこと、バビロン捕囚は長いとエレミヤは受けました。バビロンに長くいることが、
神様の導きであるとエレミヤは受けました。私たちも主の導きと言葉をとことん信じ
て、主にあってすべてに当たり、歩みたいです。

 祈ります「天の父よ、み名をあがめます。主よ、今朝も礼拝できることを感謝いた
します。先週は聖霊降臨を感謝です。また先日は女性ブロック修養会を感謝です。ま
た有馬了兄が92歳で召天されました。教会員の方が支えてくださって感謝です。ネ
パール地震と続けて口之良部島の火山が噴火しました。全島避難になっています。ど
うか島民を守ってください。避難生活を守ってください。審議中の平和維持関連法案
も名ばかりです。どうか、良き知恵を議員に与えてください。病気療養の方、特にH
姉、入院にされたM兄、H姉、ご高齢の方の一人暮らし、困難にある方々を支
えてください。新しい歩みをしている中山伝道所の児童クラブ、幼稚園の働き、支え
てください。今週はいよいよ6月のあゆみです。1週間も十字架と復活の主を見上げ
て歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン。」

   ヨハネ伝16章5〜11節    2015年5月24日
   「 その方が来れば 」           ―聖霊降臨記念礼拝―
  今朝も主に新しい命を与えられて、皆さんと共に今日の礼拝を献げられることがで
きますこと感謝致します。今日も主に備えられた命を感謝しつつ、共に御言葉に聞い
て行きます。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、
1週間を導く御言葉を聖書に聞きたいと思います。

 本日は教会の暦では、ペンテコステ・聖霊降臨日です。主のみ前に聖霊降臨日礼拝
を献げたいと思います。さて聖霊降臨日礼拝ですが、キリスト教には3つの特別礼拝
があります。クリスマス(聖誕日)とイースター(復活祭)そしてペンテコステ(聖
霊降臨日)です。クリスマスのイエス様の誕生日です。イースターはイエス様の復活
された日です。これらは、なるほどと納得できます。しかしペンテコステは良くわか
らないと言う方はまだまだおられるのではないでしょうか。私も信じた最初の頃は、
聖霊降臨日礼拝というのは教会の行事にあるからしているくらいでした。なかなか実
感がわきませんでした。しかしだんだん教会生活を重ね、多くの人々の信仰の誕生に
立ち会っていると信仰とは、つくづく人間が自分の力や決心だけでするものでないと
分かります。中には自分で決心した、自分が自分の信仰を守っていると言う人もいま
す。必死で守っておられます。しかし見ていますとそのような方は遠からず教会を離
れていく方が多いようです。こんなめちゃくちゃな、こんな基本的なこともおぼつか
なくて、よく教会に来られているなという方があります。しかし本当にぼちぼち、こ
つこつこつと続く方があります。その方の力でないのです。そういう方もみておりま
すと、やはり信仰は、自分の決断、自分の守りの力だけでない。聖霊なのだと思わさ
れるのです。
 私は、信仰は聖書の言う通りに、イエス様の招きであり、聖霊の働きである。聖霊
の導きとしか言いようが無いと信じます。バプテスマクラスやバプテスマ後クラスを
必要とあれば、もちろんします。しかしもう自分のクラスの導きでこの方の信仰がよ
くなったとか、しっかりしたとかほとんど考えないようになりました。チャンスがあ
れば学びもいいです。しかしよく勉強すれば、良い信仰になるほど信仰は甘くないの
です。礼拝出席、祈祷会、聖書読み、日々の奉仕と毎日毎週の課題、訓練とこつこつ
重ねていく。ただただ聖霊の御働きなのです。

 さて聖霊降臨日の聖書は、一番は使徒言行録2章ですが、本日のヨハネ伝16章や
ヨハネ伝14章また時々パウロや他の使徒の手紙の聖書も開くことがあります。中で
もこのヨハネ伝16章は言行録2章の次に読まれると思います。ヨハネ伝の大きな流
れでは16章はすでにイエス様の決別説教と言われ、イエス様が十字架に付けられる
前の1週間の中に教えられた箇所です。14章最後の31節には、すでに「さあ、立て
ここからでかけよう」と十字架への決意があり12章ではエルサレム入場があります。
明らかに16章のここは、イエス様の最後の1週間の教えの出来事なのです。
 5節にあるように主イエス様は「今、私はお遣わしに成った方の所に行こうとして
いる」と言われます。そしてすでに弟子達も「どこにいくのか」と聴く者はないとあ
ります。実は既にペテロは13章36節で「主よ、どこにいくのですか」と聴いており、
トマスも14章5節でやはり「主よ、どこに行くのですか」と聴いています。すでに
弟子達は何かを感じて質問していました。そして肉の体のイエス様が何か分からない
けど、どこかわからないけど自分たちとは離れしまわれることは、気配でうすうすと
感じていたのです。
 私達は第6感というか、何か示しのような事があってそれでこうなる、ああなると
思うことがあります。そうなることもあれば、そうならないこともあります。しかし
クリスチャンにとって大切なことは、たといこうなるああなると悪い予測ができても、
神様の御心ならそれをすること、そこに前進することです。パウロの第3伝道旅行の
使徒言行録21章10節には、パウロへの予言の話があります。カイサリアに着いた時
です。そこにはアガボという予言者がパウロに、エルサレムに行くと大変なことがあ
るから行かないように進言します。しかしパウロは予言者アガボの預言を感謝しつつ
13節「イエス様の名のために、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことも決意
しています」として、主の御心に従う事にしました。ここには預言よりも予感よりも
神様の御心が大切なことをしめしています。たとい預言や予感で苦難や苦しみ、死ぬ
ことが示され、分かっていても、パウロはエルサレムにいって証をすることを選びま
す。予言よりも神様の証が大切なのです。つまり私達も正しいことやしなければなら
ないことは、それがたとえ悪い結果をうむことがわかっていても、していくしかない
のです。

 6節には弟子達がイエス様のとの別れを予測して、悲しみに満たされていたとあり
ます。しかしイエス様はむしろ今の肉のイエス様ご自身が去ることは良いことである
と言われます。なぜかというと7節にある通りです。肉のイエス様が去ること、いな
くなることによって、弁護者、聖霊が使わされるのです。肉のイエス様のままで側に
おられた方がいいのか、聖霊となって来られるイエス様がいいのか。私達は、考えさ
せられます。ある人は体の見える肉のイエス様がずっと近くにいてくれたらと言うで
しょう。姿が見える形のイエス様が、五感にうったえる形のイエス様が、側にいてほ
しいと思うことは信仰生活において多々あるのです。
 しかしイエス様はご自身が私達を離れ、去ることが、私達のためによいと言われま
す。一つの譬えはいつまでもいつまでも親元を離れない子供を考えるといいでしょう。
いつまでもいつまでも子供を側において置きたいという親もいるかも知れません。し
かし普通の親であれば、いつかは親を離れて自分の独立した自律した生活をしてほし
いと願うものです。本当の親であれば、独立して自律した生活を子供に望むのです。
いつまでも側にいてほしいは、不健康な親であり不健康な家族です。自律は本当の親
の願いであり、よく成長した子もまた早く親から自律したいと思うでしょう。イエス
様もまた、体を持つ肉の形としてイエス様でなく、私が去らなければ、弁護者はあな
たの所にこないと言われる。その聖霊を送って聖霊と共に、私達が神様を信じる、自
律した独立した信仰生活を送って欲しいのです。
 私達は改めて、主なる神様は大人の愛の神様であると知らされます。主は、私達を
本当に心から愛し、支える本物の神様である。べったりとくっついた子供、自分の言
うことに盲目的に従い、自分にへつらい、ぬかずく奴隷を必要とする神様でないので
す。聖書の神様は、私達を大人として友としてつきあえる真の人格になってほしいの
です。神様は私達を大人として扱い、自分で判断して、自分で自由に従い、自分でみ
心を聴く僕を喜ばれるのです。そのためには、肉の体のある肉で捉えるイエス様から、
見えない聖霊のイエス様へと交替されるのです。見えるイエス様から見えないイエス
様となって、私達を支えて導きくださいます。イエス様は共にいてくださるという信
仰が必要です。弟子達は見えないイエス様、聖霊によって支え、導かれるイエス様と
共に、この世を歩むのです。

 8節を見ますと聖霊は、ただお弟子さん達の為だけに送られたのではありません。
「聖霊は世の誤りを明らかにする」とあります。聖霊が送られる理由は、お弟子さん
達の訓練導きだけでなく、実はこの世のためにも必要だったのです。先ほど私は聖霊
降臨礼拝はクリスチャンになってもなかなかなじめなかったと言いました。しかし全
く認識不足だったのです。聖霊はクリスチャンのためだけでなくこの世のためにも遣
わされたのです。8節にある通り聖霊はこの世に罪と義と裁きを明らかにする、原文
では宣言するのです。この世は、聖霊が遣わされて初めて、罪と義と裁きを悟るので
す。この世は、聖霊の力によらなければ、罪と義と裁きが分からない、悟れない、理
解しないのです。根本的な働きです。反対から言うと聖霊が下ったので、私達ははじ
めて罪と義と裁きを受け入れ、主イス様を信じているのです。
 それでは聖霊の示す罪とは何でしょうか。聖霊の示す罪とは、私達が普通に考える
罪と異なります。私達は罪と言うとまず具体的な悪い様々なことを思い出します。殺
人、姦淫、盗み、偽証、むさぼり等を考えます。確かに聖霊が下るときに、私達は具
体的な罪の根本の罪が示されるのです。しかし聖霊は、様々な罪を引き起こす根本の
罪は何なのか、教えるのです。聖書と聖霊は、罪の根本は、イエス様を信じないこと
として示します。
 ここはまず普通の状態では分からないでしょう。キリスト教の手前味噌に聞こえま
す。なぜ、イエス様を信じないことが具体的な罪の根本と成るのでしょうか。殺人、
姦淫、盗み、偽証、むさぼりの根本の罪が、なぜイエス様を信じないということであ
るのか。それは、イエス様が真理とも言われることがから類推できます。本当の真理
の前に、もし私達がそれを拒み、それを馬鹿にするなら、実は真理からその人が拒ま
れ、バカにされていることになります。本当の真理はそういう面を持ちます。
 実は、神の子イエス様を受け入れ信じる。これは実は表面上の簡単のことでないの
です。根本で大変なことが起っているのです。それは自分が死んで、神様に生きるこ
とです。人は本当は自分に死ぬことはできません。しかし自分に死んだ人でないと本
当は信じたことになりません。イエス様を信じるという時、私達は自分の自己中心を
捨てることになるのです。そして自分自身の自己賛美を根本的にやめたことになりま
す。自分の賞賛、自分の計画を主に委ねることになります。ここには自分が馬鹿にさ
れたとか、自分は無視されたとかの怒りが入る余地がないのです。自分の隣人や妻や
夫に誠実を尽くす以外の道がなくなるのです。
 代価を払わないで何かを取る事は盗みです。真実以外の歩みは馬鹿らしくなり、自
分の賜物以上の貪りはほしくなくなるのです。イエス様の十字架を信じ、受け入れる。
ここには自分が死に、自分を捨てると言う罪の根本的な処理がなされる所なのです。
イエス様を信じる時、自分が死んでイエス様と共に、また歩み出します。イエス様を
信じる事態は、幼稚園の子供もなすことができる事です。しかしイエス様を信じるこ
とは、自分が死ぬという最大の奇蹟が聖霊によって起こっているのです。イエス様を
信じることは、自分が捨てられることです。イエス様を信じるときに、自分の罪の大
きさがはっきりしてきます。こうして罪とはイエス様を信じないことであるが、実現
します。

 次に聖書は、聖霊がこの世に義について知らせると言います。それは「イエス様が
父の身元に行き、イエス様が見えなくなる」ところであるとします。イエス様が父の
ところに行かれて、姿が見えなくなる事の一番のとり方はイエス様の十字架と復活、
そして昇天のことであると言われます。これも又一見、キリスト教の手前味噌で、義
とは正義である、正しいことであると言われそうです。しかしこの世に示される神様
の義とは、イエス様の十字架と復活、昇天である。そして十字架のイエス様の歩みの
根本は何であるのか。それはイエス様の父なる神様への十字架への愛の服従であると
言われます。聖霊の示す義とはイエス様が父なる神様に愛によって従われた姿なので
す。私達もまた聖霊の教える義を、受けて歩むのです。それは神様のへの愛の服従で
す。義とは神様・イエス様の跡を愛によって追うことです。正義はとても大切です。
しかし正義には愛が必要なのです。正義を超える者をイエス様は示されました。それ
が愛です。ここで間違えてはいけないのは、愛への服従は主イエス様・神様への服従
であり、誰かの人間の言葉に従うことでない。それぞれが示され、また自分の持って
いる神様の賜物への愛による服従です。神様が示された主イエス様、神様の言葉に従
うことであります。義を知らせる時に、同時に十字架の愛がしめされる。ここに神様
の示される義があるのです。

 最後に聖霊は裁きをこの世に示します。そして聖書は11節「この世の支配者は断
罪される」と示します。聖書は、この世の支配者は裁かれているというが、好き勝手
にやっているのではないか。今特にその思いが強いです。言われているように平和関
連法案の審議は、明らかに、平和憲法を無視したあり方です。平和憲法には日本は
「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを
放棄する。 …陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
ない。」となっています。
 改正したかったら正論でいわれるように、本当は憲法を国民できちんと議論して、
憲法を変えてからすべきであると思います。いまだ22万人の方が避難所生活をして
おられる。しかもまだ福島原発の状況さえよくわかっていない。優先順位が違うので
ないか。なんとかしてほしいです。

 11節。しかし神様の裁きは間違いない。人間の裁きは冤罪があり、不公平がある。
しかし神様の裁きは具体的であり、一滴ももらすことがない。聖書はこの世の支配者
は断罪されると言います。中国の老子は、「天網かいかい疎にして漏らさず」という
言葉を語っています。天の網は、非常に荒くて、ざるように悪いことをする人を漏ら
しているように見える。しかし、実はちゃんと捌いている、というのです。あくどい
方法で、財的に成功した人は、他のところで裁かれ、義にもとることをしたものは、
ちゃんと元をとっているというのです。人間の目にはそれが分かりにくいのです。し
かし神の目はちゃんと見ておられます。
 しかし聖霊のさばきは、確実です。イエス様は「御子を信じる者は裁かれない。信
じない者はすでに裁かれている」とヨハネ3:18で言われています。信じる者は、
自分の思った通り、自分の考え通りに動きません。動けません。神様にいつも道を渡
すのです。神様の御心を聞こうとします。イエス様に道を空けるのです。ここで裁き
を免れます。万事は神様の業しかならないのです。神様を知らず、無視する人は常に
不平不満の中にあります。この世的には成功していますが、真の喜びのない成功にな
るのです。分かちあうもののない喜びともいえるでしょう。
 聖霊は、聖書は、ここに裁きを見ています。神様が聖霊を遣わして下さった。私達
はただ聖霊を受けて、主のみ業に歩むのです。自分の成すべき事をします。できない
事はしません。そしてすべてを主に委ねて歩むのです。聖霊に全て委ねて歩むことが
赦されています。
 最後に聖霊は、弁護者、助け主とも言われています。私達は助け主、弁護者をいつ
も頂いているのです。一人ぼっちでないのです。私達は罪人ですが、イエス様の助け
主、弁護者をいつも送ってもらっています。3人よれば文殊の知恵とありますが、イ
エス様は助け主、弁護者を送ってくださって助けてくださいます。1人では思いもつ
かないところから助けが起こり、導きが起こります。聖霊降臨を心から受けて感謝し、
イエス様の聖霊と共に歩みます。
 
 祈ります。「主よ、今朝も礼拝できることを感謝いたします。2015年の聖霊降臨
を感謝です。昨日は当教会での女性ブロック修養会を感謝です。50名以上の方が集
まってくださいました。また先週は、A了兄が92歳で召天されました。ご親戚が
少ない中で、教会員の方が支えてくださって感謝です。ネパール地震と災害が多いで
す。また東日本大地震では相変わらず避難されている方が22万人です。どうか主よ、
守り支えてください。上に立ち導く方に守りと知恵を与えてください。又原発に働く
方の健康を守り、技術者に知恵を与えて下さい。平和維持関連法案も、名ばかりです。
どうか、良き知恵を議員に与えてください。病気療養の方、特にH姉、A兄、H
姉、ご高齢の方の一人暮らし、困難にある方々を支えてください。新しい歩みをし
ている中山伝道所の児童クラブ、幼稚園の働き、支えてください。今週1週間も十字
架と復活の主を見上げて歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン。」
使徒言行録18章1〜11節                        20150518
           「 私の民が大勢 」  
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩みと罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 先週は、巻頭言に書きましたが、国分教会からマウマウタン先生をお招きして、特別伝道集会ができましたこと感謝でした。教会は幼稚園のお母様方が40名ほど聞かれました。そして飛び入りも1名ありました。中山も友人だということで、やはり始めての方が来られました。一番嬉しかったのは、このところの求道者の方が、教会も伝道所もほぼきてくださり聞かれたことです。どうか主が続けて働いてくださり、更に信仰が深まり、バプテスマまでの導きを祈ります。
 ザアカイのお話を通してでしたが、ミャンマーの教会の話も聞けて良かったです。私達日本人はどこか、アジアでは経済が進んでいますので、キリスト教もどこかで日本が一番進んでいるつもりでおります。しかし実は韓国やミャンマーとそれぞれのお国に合わせて、それぞれのキリスト教が伝えられており、独自の発展をしています。そしてカトリックはもちろん日本は1549年開始でけっこう古いのですが、実はプロテスタントの伝道は、日本よりミャンマーが古いのです。もちろん古ければいいのではありません。キリスト教は聖書を基いとします。しかし聖書を基としながら、そのまま真似はできませんが交流を深めていろいろな知恵や伝道のあり方をまなぶことはできるように思います。そして、世界のキリスト者が市民レベルで交流することは大きく言えば、世界の平和にもつながると思います。
 来月6月には、牧師会や連合女性会、牧師配偶者研修会は沖縄大会となっています。すでに先発隊が幾人か行かれておおり、証をいろいろしてくださっています。基本的には余りにも事実を知らないということです。今回の普天間基地を辺野古の基地に移すことも、ことばだけ聞くと町の真ん中の基地から誰もいない海岸に基地が移るのはいいことだ、となります。しかし沖縄に行ってみると本当は基地だらけで、沖縄の小さな離島にも基地だらけでやはり移設はいいことだとは言え、又これ以上にまた作るのかと思ったという方がありました。こういうのは行って分かる感覚であります。
 ミャンマーの先生が南連合にいて、牧師も信徒も欧米ではこうしているが、ミャンマーでは、こんな時はどうしているのですかと聞けるのは大きな恵みであり、感謝であります。

 さて聖書は、第3日曜日ですので、いつものように連盟の聖書を学ぶテキスト『聖書教育』の指定箇所から開いております。本日の箇所は、使徒言行録18章のコリント伝道のところです。パウロの第2伝道旅行の出来事であります。コリント伝道は、第2伝道旅行の中心ともいえます。そしておそらくそれはパウロの伝道の一つの典型を示すだと読む事ができます。本日のコリント伝道は3つに分けて読むことができます。1つは1?4節のアキラとプリスキラと一緒になした伝道、次が5節からでアキラとプリスキラにさらにシラスとテモテが加わった伝道。そいて最後が9?11節で、復活のイエス様が励まされた出来事です。
 まず1節ですが、パウロはアテネから一人でコリントに来たようです。アテネでは数名の方が信じてくれました。17章にあるようにパウロは力一杯自分の知識の限りをつくして、文化の町アテネで伝道をしました。なぜパウロがアテネに留まらずにコリントにきたのかは言行録は書いていません。しかしパウロは17:22節にアテネのアレオパゴスに立って説教をしました。これはおそらく現代で言うとアメリカのカーネギー・ホールみたいなものです。パウロはアテネではやれることをやったという思いがあったのでしょう。あるいは書いてありませんが、主の示しがあったのかも知れません。
 2節にあるように、パウロがコリントに来るとそれは、神様の導きでした。なんと同じキリスト者のアキラとプリスキラが、ローマから来たのです。書いてあるように、当時のクラウディウス皇帝の時、ユダヤ人ローマ追放令がでたのです。AD50年の出来事でした。なぜそんな法律ができたのかよくわかっていません。1つはユダヤ人は皇帝礼拝をしなかったので、ローマ皇帝の政策とぶつかったという節があります。もう一つはすでにローマにもキリスト教が伝えられていて、キリスト者とユダヤ人が論争しており、分裂する宗教はローマにおけないとの皇帝の判断があったとも言われています。とにかく、町を追われるのというは大変なことです。しかし神様は、このとんでもない勅令の事態をコリント伝道の好機と変えてくださるのです。ですから私達は自分の計画がならなくても、自分の思う通りにいかなくても、最後の最後は落胆してはいけません。神様の大きな計画を信じて、自分のできることをなしていくのだと思います。

 3節にあるように、パウロとアキラ、プリスキラはテント造りを生業としていました。今でこそテントは夏にキャンプする人が使うくらいの贅沢品です。しかし当時のテントは、今のように宿屋がどこにでもある時代でありません。旅行をする人にはテントは必需品でした。小さいテント、大きな家族のテントとありました。そしてそれは羊や牛の革で作るのが多かったそうです。つまりテント造りは、別名皮なめし業でもあったのです。日本の歴史では、皮なめしは動物を殺し、特殊な匂いがするということで、ある地域では部落差別にもなりました。聖書解説書では、ユダヤ人達はこのような人があまりしたがらない仕事について、生きる道を見出していたとするのもあります。そして当時の律法学者は必ず、聖書の学びの時に、職業訓練を受けたと伝えられています。聖書を教えるだけでは、生活ができないので、手に職をつけて、伝道したと言われます。パウロもまたこの訓練を受けていたのです。全くの知らない土地にいっても、需要のあるテント作りは、律法学者を活かしたのです。

 4節にあるようにしかしこの方式には、限界がありました。それは週日は仕事をしますので、安息日ごとにしかみ言葉が語れないのです。パウロは仕事をしながら、安息日ごとに会堂に行き、イエス様のみ言葉を伝えたのです。そこにはユダヤ人だけでなくギリシャ人も説得に務めたとあります。おそらくパウロはテントを買いに来る人々に、イエス様のことを語ったでしょう。パウロ時代には、会堂にギリシャ人つまり神様を敬う敬神の人がいました。パウロはこうしてユダヤ人だけでなく、会堂に来ているギリシャ人も相手にしてみ言葉を伝えました。今も基本的には似ていると思います。鹿児島教会もまた幼稚園をもち、来ている方々に語る機会を持ち、み言葉を語るきっかけを作っていくのだと思います。
 5節を読みますとアキラとプリスキラと伝道を共にしているうちに、シラスとテモテが、マケドニアからやってきます。ここからコリント伝道は第2期に入ります。「パウロはみ言葉に語ることに専念した」とあります。これは原文もまさに、専念する、専従したということです。それだけをもぱらすることです。もう兼業をしなくてよくなったのです。なぜそうなったかですが、実は本日は読みませんが、第2コリントの手紙11;9節とフィリピの手紙4:15節にからシラスとテモテは、フィリピ教会からのパウロの働きへの献金をもってきてくれたのです。この献金によって、パウロは生活のためのテント造り皮なめし業をすることなく、伝道だけに専念、専心することができるようになりました。
 私達はこのパウロのコリント伝道第2期の姿をみて、あらためて伝道は、チームによって担われて行くのだと示されます。言行録ではパウロが全面にでて、なんでも一人でしているように読めます。しかし改めてパウロが伝道に邁進できるのは、アキラ、プリスキラ、シラス、テモテそして献金を集めて送ってくれるフィリピ教会とその祈りがあることを示されます。この第2伝道旅行のコリント伝道の姿はその後のパウロの伝道の姿でもあります。単立教会の素晴らしさはもちろんあります。小回りがききます。しかし同時にチームを作り役割分担をする伝道もまた大切です。460年前にザビエルが鹿児島に来たのは、イエズス会という支えるチーム、伝道団があったからです。伝道が得意な教会があります。奉仕から入る教会があります。いわゆる社会運動の教会があります。イエス様はいろいろな教会の姿を持っておられて用いられるのです。

 6節にはしかしパウロの伝道の成功は大きな妬み、反対をおこします。ユダヤ人達は、反抗し、口汚く罵ります。ユダヤ人にしてみれば、自分たちの旧約聖書を説かれて、イエス様を伝えるのですから、正直困ったと思います。それは今でいえばエホバの証人が聖書を説いて、自分たちが正しい、教会は間違っている、と説いて回るに似ていると思います。エホバの証人の場合はある程度行くと教えが違う、イエス様が神様、神の子になっていない、主の復活が中心にないと気づきます。十字架の罪の赦しが全面にないと分かります。十字架の愛と赦しからでなくて「伝えよ」との厳しい律法から入ります。しかしパウロの教えは、結局、旧約聖書の中心は何かキリストだ、でしたので、ユダヤ人達は本当に困ったのです。
 反対され、罵られて、パウロは自分の服の塵を落として「あなた達の血はあなた達の頭に降りかかれ」として「私には責任がない」としています。これは一つの儀式です。私たちにはどうしても受け付けない感覚です。実は「私には責任がない」の原文は「私は清い」となっています。これは自分のなすべきことは全部した。後はあなた達が受け入れないという責任を取りなさい、であるということのようです。私はここまでよくできません。果たして、自分にできる務めの全部を伝えたのか、したのか、いつも疑問だらけです。イエス様のことば一つでさえもまともにできたためしがありません。イエスさまは「7を70倍、許しなさい」と言われます。はい、分かりましたと思うのです。しかし後から後からちょっと待て、やはり許せません、となります。しかしイエス様は「私は十字架にかかっている。許しなさい」と言われるのです。ある神学者は、許せなければ忘れたらいいと言われます。忘れることは許すことであると言われます。これならできるかもしれません。というか私なんかは、今ではもう、加齢で忘れてしまいます。これは本当の赦しなのかよくわかりません。しかしこれは、人間の限界でしょう。忘れたらいけないことがありますが、忘れるのはめぐみなのかも知れません。
 7節にパウロは追い出された会堂の隣に家を借ります。ティティオ・ユストという人の家です。家の教会のはじまりともいいえます。パウロ先生はすごいです。これもまた真似できません。反対され、罵られた会堂の隣に家を借りて伝道できるものなのか。しかし反対から言えば、ユダヤ人はこんなところはおおらかなのでしょうか。会堂の中にいなければいい。隣でもかまわんといいうことでしょうか。8節にあるようにこの伝道はなんと会堂司クリスポが一家を上げて主イエス様を信じてくれたのです。会堂司は会堂を守る人です。今で言うと教会の牧師のような人です。この家族全員が信じてくれる。そこの会堂の人からは、大きな信頼をえたのと同じです。パウロはますます伝道に力が入ったでしょう。実際に、コリントの多くの人々がパウロの言葉を聞き、バプテスマを受けました。

 最後に、9節から11節です。イエス様がパウロに幻で声をかけてくださいました。実はパウロがイエス様の声を直々に聞くのは生涯で2度のみです。1つは言行録9章の回心の時でした。イエス様は「パウロ、パウロ、なぜ私を迫害するのか」とパウロは、キリスト者を迫害したのであって、イエス様を迫害した覚えはないですが、言われていました。そして本日の18章のコリント伝道の時です。コリント伝道は書かれている以上に困難であったのだと思います。だからイエス様も声をかけてくださったのです。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」はイザヤ43章の言葉とも言われています。イザヤ43章には、そのままのこの言葉はありません。しかし確かにイザヤ43章の響きを持ちます。イエス様もまた聖書の言葉をもってかけてくださるのです。
そしてその理由は「この町には私の民が大勢いる」でした。私達の伝道はある意味でこのイエス様の言葉への応答でありましょう。どの人が神様の民かは人間にはわかりません。しかしこの町にイエス様の民が大勢いる。すなわち私達はその方に出会い、伝えたら、その方はイエス様のすでに選ばれた民ですので、その人は、信じるしかないのです。なんと力を抜ける、しかし反対に、力をいれてしっかり伝道できる言葉でしょうか。私達は、すでにイエス様が決めた選ばれた民に伝えることを負うています。私達はすでにあるイエス様の民に伝えていくのである。これは大きな伝道の励ましです。選びの信仰は、間違えると選民信仰になり、歴史的にもとんでもない姿をとりました。ユダヤ人自身が、選民思想をもち、神の言葉をたたえるどころか、異邦人を馬鹿にした信仰になりました。
なんども語ってもうしわけないですが、バプテスト宣教師、ウイリアム・ケアリーがインド伝道を目指したとき、大きな伝道団にインド伝道の話をすると、そこの牧師たちは、神様はすべてのことを予定されている。インドの伝道は、神様が必要なときになさるから、ウイリアム牧師が行かなくてもいいと、支援を断られたことが伝わっています。選びの信仰は何もしなくていいとなるのです。しかしウイリアム・ケアリーは、選ばれている人がインドにもいるはずだ、と小さな牧師会で話して、承認され出発するのです。同じ信仰が、怠慢になり、励ましになる。確かに難しいです。しかし、主の言葉をきちんと聴いたパウロは、聖霊に導かれて「この町に私の民が大勢いる」を受けて、コリント伝道に励みました。私たちも聖霊を受けて、パウロの信仰にならいたいです。

 祈ります。 「天の父よ、み名をあがめます。先週は、国分教会からM先生をお招きしての特別集会を感謝です。どうかみ言葉を聞かれたお母様方、新しい方が、主の御前に答えて歩むことができるように導きください。新しい年度に入り幼稚園も中山も新しい取り組みにまだまだ苦闘中です。どうか導きください。新しい求道者の方々に、あなたが、み言葉を持って答えてください。ネパールの地震も余震が続き、交通網が寸断されており、復興は大変のようです。捜索と復興を導きください。日本の東北大地震からの復興と放射能の処理を守ってください。周辺事態関連法案がだされますが、なんとか平和憲法を守っていけるように導きください。1周間をあなたのみ手においてください。み名によって祈ります。アーメン」

 マタイ伝27章15〜26節                        20150503
           「 その血の責任 」  
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は早いもので新年度も一ヶが終わり、5月の最初の主日になっております。主
の晩餐を受ける日です。また本日は、憲法記念日になっております。ご存知の通り、
第二次大戦の日本人300万人とも中国人1千万とも800万人とも言われる多くの犠牲
の下に出来た平和憲法は、日米ガイドラインで、骨抜きにされております。いろいろ
な解釈があります。多くの友人達が、いろいろな意見を下さいます。私が一番なるほ
どと思ったのは、今までは防衛のための戦争しか出来なかった国が、正義のために戦
争ができるようになったのです、というのが、一番いい解釈のように思います。もち
ろんもっと悪く言う方は、アメリカの本当の属国になりはてたのだ、と言う方もあります。
果たして正義の為の戦争があるのかどうか、本日の25節の「その血の責任」にも関
わってくる大事な問題かと思います。
 さて昨日は、毎年行われる鹿児島ブロックの5つの教会が合同して行う合同教会学
校が伊集院の城山公園で行われました。今年は全部で55人でした。オリエンテーリ
ングというポイントを決めてそこにある課題を解いて、一番早くゴールしたチームが
勝ちというゲームでした。ポイントの課題のテーマは「平和」になっており、問題は
聖書にある平和の聖句を5つあがよとか、沖縄に関する5つの言葉を上げよとか、平
和の讃美歌に振り付けをつけよ、とか、楽しくて考えさせる問題が一杯でした。皆楽
しく取り組みました。

 2つほど出来事を語ります。一つは鹿児島教会の一人が転んで手に擦り傷を負った
のです。この時、お医者さんの小学2年生の娘さんいました。「先生、救急箱。先生、
消毒薬。先生、リバテープをとって。はい、おしまい」と、目にも止まらぬ早さで、
転んだ子の治療をしたことです。「お父さんと同じお医者さんになるの」と聞くと
「ウン、そうだよ」と自分の使命のように答えてくれました。幼稚園の赤さんから入
ってずっと知っていますので、たのもしいやら嬉しいやらでした。
 次に私は2班のリーダーになったのですが、先ほどのオリエンテーリングで2番と
なり大きな大きなの食パンの固まりをプレゼントで貰いました。実は6班あって3番
まで貰えるのです。つまり2つにわけてくださいということです。2つにわけるとこ
ろまでは良かったのですが、自分たちの分が確定すると、さあ食べようと皆で一斉に
パンの固まりをちぎって食べました。ふと隣の国分のマウマウタン先生の班を見ると
皆で、しっかり目をつぶり、祈っているのです。こういう時に信仰の薄さを感じます。
さすがマウマウタン先生は違っています。子供達に先生祈ってからたべないとだめだ
よ、と言われてしまいました。ミャンマー・ビルマは確かに経済的には、日本より遅
れています。しかし実は信仰的にはプロテスタント伝道は、日本より伝統が長いので
す。こんな所にでるのかと、反省させられました。

 さて聖書は、第1日曜日ですので、福音書のマタイ伝から聞いて行きます。本日の
箇所は、イエス様がピラトの裁判を受けられる時に、バラバという「評判の囚人」と
恩赦を分け合い、イエス様が恩赦を受けずに、バラバが受けたという事件です。まず
私はこの記事を読む時に、どうしてまたこんな記事があるのだろうと読むたびに思っ
ていました。しかし確かにローマ帝国の裁判の制度にあったようです。きちんとした
法律があってそれに沿って裁判がなされるのが普通です。しかし書いてあるように、
祭りの時とか、何かの時にそれぞれの文化において法をこえた恩赦があります。なん
と2000年たった日本にもあるのです。私が初めてこんな不思議なことがあるのかと
思ったのは、なんと言っても昭和天皇が亡くなられた時の恩赦の発表です。覚えてお
られるでしょうか。私はちょうど西南の神学生であったので、天皇の死去に伴う恩赦
の発表があった時、たまたま同級生に法学部を出て牧師になろうとしている方ありま
した。恩赦などというのは、日本のように法的な考え方や体系が遅れた国にあるのだ
ろうと聞いてみたのです。すると法学部卒業の彼は「とんでもない、恩赦というのは、
昔からの法治国家にもある長い伝統の制度だよ」というのです。そしていろいろな外
国の例を教えてくれたのです。
 まさにこの聖書にもつまりローマ帝国のこの時代から祭りの時は、超法規で一人を
許すというような事があったらしいのです。それがイエス様の時にもあったのです。
そしてそうであれば、まさにイエス様こそ冤罪であり、罪がないお方ですので、イエ
ス様が許されてしかるべきです。しかしそうならなかったのです。このバラバの赦免
の出来事は、改めて人間の罪の恐ろしさと破滅に向かう事になる時の最後のだめ押し
の人間の状態を示します。しかしさらにそれを背後に置いて導く、神さまの救いの計
画のすごさを伝えている、としか言いようが在りません。私達はこのバラバの赦免と
いう全くトンチンカンの出来事においても、尚、主の御計画、十字架の救いの遂行が
なされていることを知るのです。最後の最後まで神さまの9回裏逆転ホームランを信
じて、忍耐を持ってこの世を生き、また主の時を待つことを示されるのであります。
 15節に示されますように、聖書は、イエス様の裁判の真っ最中に「ところで」と
当時の裁判の習慣を語ります。そして祭りすなわちユダヤで最高の祭りであった過越
の祭りの時に、1人を赦すことになっていたといいます。そして16節に「そのころ
評判の囚人がいた」と伝えます。マタイ伝はこのバラバについて詳しく伝えていませ
ん。「評判の」と訳された言葉は「悪名高い」と言う意味でもあるとされます。もし
かしてローマ帝国への反乱、独立の首謀者として有名であったのか、それとも本当の
殺人強盗のような人であったのか、よく分かりません。しかしバラバの名はエルサレ
ム、ユダヤの人々によく知られていたのでしょう。

 17節にあるように、ピラトはバラバとイエスとどちらを釈放してほしいのか、と
聞いています。実はなぜ、ピラトはそこに集まっている群衆に赦免を誰にするのか、
聞く必要があるのか、分かっていません。ピラト総督は自分の権限で自由に誰を祭り
の時の恩赦の対象にするのかを決められたそうです。誰もその決断に文句をいうこと
のできる人はいなかったと言われています。しかしこの時、総督ピラトは群衆に聞い
ています。本当にイエス様を無罪放免したかったら、自分の権限でできたはずです。
しかしピラトは、ここに至りてまだユダヤ人の関心や人気を気にしたのでしょうか。
ユダヤ人の皇帝カイザルへの訴えを気にしていたのでしょうか。18節には「妬みの
ためと分かっていた」とあります。ますますピラト総督はその権限を使えばいいのに
と思います。しかしピラトは自分の権限を使いません。
 つまり私達は、このバラバの無罪放免において改めて総督ピラトはその自分の使命
を又も放棄したと知るのです。ピラトはずっとイエス様の裁判が、ユダヤ人が死刑の
権限をもたないので、ローマの裁判を受けさせて、死刑にする冤罪であると気づいて
います。その本当のところは、ユダヤ人当局の祭司長、長老達、律法学者達の妬みで
あると気づいていました。しかしその本当のことを知りつつ、それを止めることをし
ないのです。このようなことは歴史上何度も起こるのかも知れません。
 何度も繰り返して申し訳ないですが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』
の大審問官の部分も、19世紀のロシアにイエス様が現れて、政治と宗教の癒着を問
い直す場面があります。その時、ギリシャ正教の大審問官はイエス様を異端として退
けるのであります。これはドストエフスキーの天才の想像ですが、同じような事は大
なり小なりどこでも起こってくるのです。自分が自分としてできる所にいるのに、そ
の自分の務めや役割を怠ることにおいて、小さい者や弱い者が十字架にかかってしま
う。この事は常に起こっていることなのであります。

 19節には、ピラトの妻が出てきます。2000年前のローマ帝国の時代になんで女性
の妻が夫とはいえ、総督でもある夫に箴言する力があるのかと思います。しかしこれ
またローマ帝国は不思議なくらい女性の地位が高いのです。もちろん今とは比べもの
になりません。しかし貴族の女性は財産の相続権があり、つまり経済力をもち、その
背景のある女性は、今と同じですがどんどん離婚して気に入った力のある夫を選べま
した。ローマ帝国では、子供に対しては殺生与奪の件があり、子供の権利はなきに等
しいのですが、女性は財産権をもっていたと言われます。
 女性は霊感が強いというのは、ローマ帝国も同じ考えがあり、夢で苦しめられたピ
ピラトの妻は、夫のなしている裁判に気付き「あの正しい人」と最初からイエス様は
正しいと断定しています。ピラトの妻はピラトにイエス様を正しく裁くように勧める
のです。正典の聖書にはありませんが、後日談が伝説にあります。ピラトの妻は、キ
リスト者となり、エジプト教会地方の伝承では、聖人にまで昇格したと言われていま
す。プロテスタントには聖人はありませんが、そのくらいピラトの妻はたったこれだ
けの記事ですが、評価が高いです。しかし総督ピラトは結果的には妻の進言に耳を傾
けることをしませんでした。聖書はおそらく総督ピラトには、何度かイエス様の十字
架の死刑を中止する機会があったのに、しかしそれをしなかった総督として示してい
るのです。

 20節からいよいよイエス様の十字架刑が決定されて行きます。10,21節には祭司長、
律法学者が、民を扇動してバラバを許すようにしていたことがわかります。21節に
は今一度総督ピラトは、解放するのはどちらかと聞くと「バラバだ」と言う答えがな
されます。十字架につけるのは、どちらかと聞くと「イエスである」と群衆は答えて
います。22,23節には、何の悪をなしたかと罪状の現実を聞くと、それには答えずに
「十字架につけよ」と答えがありました。つまりここの群衆は、すでに考えて答えを
だすのでなく、まさに群集心理に近い形です。成り行きの感情に訴えてことをなす状
態になっています。
 マタイ伝は24節に総督ピラトが水を持ってこさせて、祭司長、律法学者、群衆の
目の前で、手を洗ったとあります。これは私達には突飛に見えます。しかしユダヤ人
には、大きな意味を持っています。それは申命記21章6?7節の手洗いの動作なので
す。申命記21章のもともとの手洗いの意味は、町に殺人事件が起ってその犯人が見
つからない時のことを規定したものです。もし、町に殺人事件がおこってその犯人が
わからない時、殺人事件のあった一番近い町の長老は、雌牛を犠牲として捧げて犠牲
の雌牛の上で、手を洗うことになっています。そして「我々の手は、この流血事件と
関わりがなく、目も何も見ていない」ことを宣言し、証明するとなっています。つま
りピラトは、ローマ人ですが、わざわざユダヤ人の習慣を用いて、イエス様の裁判に
は自分は罪がない。関わりがない。これを証明しようとしたのです。24節には、
「この人の血について私には責任がない。お前たちユダヤ人の問題だ」としています。
 総督ピラトは当時のできる限りの最高の儀式をもって、自分はこの人イエス様の無
罪の血について責任がないと示しのです。しかしこれは、責任回避の最高の儀式・動
作ともいえます。実際にイエス様を助けることのできる権限は総督ピラトしかいない
からです。自分が参与できるのに、自分がしなければならない地位にありつつそれを
しないで、儀式をするというのは、本当はおかしいです。そのような自分は無罪だ、
の儀式をするくらいなら、ちゃんと自分の権限にある裁判をするべきであります。
 あまりいいたとえでありませんが、責任のとり方を考えさせられます。日本では悪
いことが起こると責任問題となり、今のそのトップが辞任して終わります。しかし本
当はそのトップは2度とそれがおこらないように仕事をして、それからやめるべきで
あります。昔よくあったことですが、昔の担当の人がなしたことが、今頃になって罪
が現れて、その責任を取るときに、不思議なことにやめているその昔した人でなくて、
今ある昔のことを知らないトップにある人が責任をとってやめて行かれます。制度上
そうせざるを得ないらしいですが、よくわかりません。
 総督ピラトは手を洗う暇があったら、すぐに実際の裁判をするべきです。ここは何
か、ある尊敬する人を亡くした時と似ています。その人が生きている時には、全く助
けることをせずに、死んでからお墓に一生懸命、お花を持っていくに似ています。本
当に大切なことは、その人が生きている時に、困っている時に、実際にそこに行って
助けてあげることです。何ができるかは、たかが知れているかもしれない。しかし、
少しでもいいのでできることをすることです。ヨハネ伝17章3節に「永遠の命とは、
唯一の真の神であるあなたとあなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ること
です」とあります。死んでから丁寧に弔い、お花をいっぱい捧げることよりも、生き
ている時にできることで仕えることであり、亡くなってからは尊敬する人のその教え
に力いっぱい生きることであります。

 戦争の反対や迫害に耐えるのは、その時になってからは遅いと言われます。戦争が
起こる前に、平和を作るための働きをなし、日頃から証をなしていくことです。この
時、この証はもちろんイエス様のことを直接語り、伝えるだけでありません。直接に
言葉で伝えなくても、自分の仕事や自分の生活で教えるという方法もあります。人を
助けるには、実際に困っている人にお金や物質をあげる方法ももちろんあります。し
かし私達は親鳥や親のライオンが、まだ飛べない小鳥や自分の子供に、実際に獲物を
取るところを見せて、子供にこうしろと教えるのもあるのです。口で伝わるのもあり
ますが、口で伝えられないものもあります。よく言われるように、何も言わなくても
主日を守り、祈祷会を守る姿勢は、実は、最高の伝道の形になるのです。
 さて最後に、25節は新約聖書で最も難しいと言われる聖書の箇所です。ピラトが
自分はこの人・イエス様に罪がないと手を洗うと、ユダヤ人たちは「この人の血の責
任は我々と子供にある」と答えたというのです。信じられない宣言です。ここはどう
受け止めたらいいのか、わかりません。多くの聖書学者の中には、ユダヤ人の迫害と
虐殺の歴史をここで正当化するのがあります。ルターでさえ、ユダヤ人の迫害の根本
はこの言葉の成就である、と考えていた節があるそうです。ユダヤ人の迫害の正当化
に使われて来た聖書なのです。しかしそんな聖書の読み方はあってはならないと思い
ます。

 私は今回この箇所を読んでユダヤ人のイエス様に死刑に対する確信の深さを思いま
す。人間はどれほどの確信で人を殺せるものでしょうか。人を殺すときに、絶対殺し
ていいと思うのでしょうか。反対から言えば、自分は絶対、神様と同じくらい正しい
というところで人を殺すのかも知れません。戦争の時はどうも自分は絶対に正しいと
しないと人を殺すことはできません。しかし自称イスラム国がしているように、聖戦
の戦いほど、いい加減な戦いはありません。十字軍に示されるように、神様を戦いの
名目にした時こそ一番危ない戦いの時であります。
 私達は、これはイエス様のために絶対しなければならなないと思ってしている時は
実はかなり危ないと言えます。自分でもイエス様のためにしているのどうか怪しいと
思いつつ、しかしやはりしている。自分はどうもイエス様と共に、こういうことをす
るのが、好きなのですよ、くらいの時が丁度いいのかも知れません。「今しているの
は、私でなくて、イエス様であり、聖霊の働きです」と常々のパウロが言って働いた
というのはそういうことではないでしょうか。イエス様の仕事は人間の真剣さの最高
のものの一歩手前でしなさい、と言うのがよいようです。神様の本当の仕事はそうい
うことだと思います。「その血の責任は私と子孫にある」との大決断で事がなされる
時、それは大いに間違っている時であります。ヤコブ書4章15節「主のみ心であれ
ば、(主の恵みによって)、あれもなし、これもしましょうとあなたがは、いいなさ
い」とあります。これが主のめぐみによってなす私達の仕事の本当の姿です。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。昨日は鹿児島ブロックの合同教会学校
を感謝です。鹿児島から22名が参加し、55名の方々と共に良い時を過ごしました。
どうか子どもたちの信仰を守り導き、支えてください。新しい年度に入り幼稚園も中
山もまだまだ苦闘中です。どうか導きください。求道者の方々に、あなたが、み言葉
を持って答えてください。ネパールの地震はまだ全貌がわからずです。交通網が寸断
されており、救助救難が、大変のようです。埋もれた方の捜索と復興を導きください。
日本の東北大地震からの復興と放射能の処理を守ってください。連休のなかにあり、
動く方も多いです。交通を守ってください。1周間をみ手においてください。み名に
よって祈ります。アーメン」
 
 エレミヤ書28章5〜9節                        20150426
           「 神から遣わされた預言者 」  
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は、早いもので4月も最後の主日となりました。新年度も1ヶ月を終わります。
幼稚園の新しい歩みも中山の児童クラブも新しい歩みも始まっています。しかしなか
なかまだ順調からは程遠いです。どうか、皆様の祈りによって支えてください。
 さて本日は第4週となりましたので、いつものように旧約聖書から聞いていきます。
今回は、エレミヤ書28章を開いています。旧約聖書のエレミヤ書を一ヶ月に一回づ
つ、1章を1回で語るという方針できました。章立てによっては、2回3回語るべき
ところもあるのですが、全体が52章ですのでできるだけ1章を一回でとしておりま
す。1年間に大体10回エレミヤ書をとりあげますので、3年目に入っていることにな
ります。

 28章に書いてある通りに1節の前に表題といいますが「ハナニヤとの対決」とな
っています。つまり読んでわかりますが、偽預言者対本物の預言者の対立であり、偽
者と本物を、どう見分けるかという昔からの難しくて重たい問題であります。しかし
聖書の信仰はどうしても、この偽者と本物の対立が起こります。つまり本物があるの
で偽者が起こることになります。もし本物がなければ偽者はありません。皆正しいと
なります。ブランドものに似ています。何年もかけて本当に誰が身に着けても、誰が
使ってもこれはいいということからブランドもののよい製品ができます。しかしブラ
ンド物ができるとすぐにこれを真似た偽者ができるのです。もしこれはいいというブ
ランド物がないなら、偽物はありません。それぞれにいい品物なのです。
 すでにエレミヤの予言は、26章に示されています。26章4節「彼らに向かって言
え、もしお前たちが私に聞き従わず、私が与えた律法に従って歩まないならば、6節、
私はこの神殿をシロ(破壊された神殿)のようにし、この都を地上のすべての国々に
呪いの的とする」ということでした。エレミヤは、イスラエルの民、エルサレムの住
民が、ただひたすら主なる神様の言葉を求め、それに従い、主の恵みを受けて主の使
命に生きることを望みます。しかしイスラエルの民はそれを喜ばず、自分の思いに走
り、偶像を作り、これに従っていくのです。ここで偶像とは、ただ単に見える形の像
を拝むということではありません。お金を求め、地位を求め、名を求め、自分を立て
る生き方もまた偶像であります。また主の律法を神様の本当の御心を考えずに、闇雲
に字句通りに守ることもまた律法の偶像になります。何のための律法であるか、なぜ
主はそれを制定されたのかを常に問うことが求められるのです。
 27章には、エレミヤは自分の首に木製の首かせをはめて生活し、神様に立ち返ら
ない生活を続けると必ず、当時の世界帝国バビロンに滅ぼされ、首かせをはめられて
連行されると予言しました。このように預言者が奇怪な変な格好をしたり、変な行動
をしたりするのは、預言者の象徴行為と言われています。それは今も似ているかも知
れません。それは今もまたビジュアルな方法や奇抜な方法が、メディアによって使わ
れて、もう子供たちは絵や動画、写真がないと注意力を持続することは難しいです。
本物の預言者も偽者の預言者もこの象徴行為を当時はよくしたのです。したがって、
見ているだけ聞いているだけ、ではどちらが本物であるのかが、見分けが付かなかっ
たのです。
 本日の聖書は5節から読みましたが、本来は1節からです。この予言者エレミヤと
予言者ハナニヤとの戦いの時が書かれています。時は、ゼデキア王の4年とあります。
紀元前594年か593年といわれています。何度も語りますが聖書を読んでいますと何
で紀元前6世紀のことが年までわかるかと思います。日本はまだ縄文時代から弥生時
代に入るころです。お釈迦様でも一番誕生の古い説は紀元前463年です。実は定説は
なく200年の開きがあります。孔子様も、誕生は紀元前552年といわれています。そ
れよりもまだ古いことになります。随分古い時期ですが、聖書は時期を数え、伝える
のです。そしてこれは第1次バビロン捕囚が起こって4年後であり、完全な滅びであ
る第2次バビロン捕囚の7年前ということになります。
 エレミヤの名の意味は「主の嗣業(受け継ぐ地)」という意味ですが、ハナニヤと
いうのは「主の恵み」という意味です。新約聖書に通じるいい名前です。主の恵みに
生きている予言者だったのかも知れません。そしてその出身はギブオンと書かれてい
ます。これはエレミヤが生まれたアナトトとは10数キロしか離れていません。鴨池
から見ると谷山くらいなのです。つまりエレミヤとハナニヤはおそらく同郷の予言者
ではないかと言われています。同郷のものというのは普通は、親近感があり、いろい
ろ協力します。しかしその主張が違うとむしろ反目が厳しくなります。皆さんも東京
や大阪にでて鹿児島出身の方というと親近感を持つと思います。しかし意見や生き方
が違うと分かると返って反目が激しくなってしまうことを体験されたりするのではな
いでしょうか。エレミヤ(主の嗣業)とハナニア(主の恵み)は、そんな関係にある
のです。
 読みませんでしたが2〜4節にハナニヤの主張が書かれています。それは3節に
「2年間で第1次バビロン捕囚で持ち去らされた神殿の祭具は戻ってくる。」4節に
「2年間で第1次バビロン捕囚でバビロンに連行された者達は、戻される」という本
当に、喜ばしい平和の予言でした。主なる神様はイスラエル・エルサレムを必ず守ら
れ、バビロン帝国は弱体化して、もう攻めてくることはない。イスラエル・エルサレ
ムの独立は保たれるというものでした。エルサレムの国民は大いに喜び、主なる神様
の守りを大いに感謝したと思われます。しかしそこには、自分の生き方を問い、悔い
改めのない生き方、聖書を開いて、聞くことのない生き方であったのです。今までど
おりに自分自身を神として悔い改めず、次々と偶像を作っていく行き方だったのです。
 6節にこれを聞いたエレミヤがいます。エレミヤは「アーメン。主がその通りにし
てくださるように」といいます。エレミヤもまた、イスラエル人として、イスラエル
の守られること、エルサレムが守られることを大いに求めるのです。エレミヤとて主
の神殿の祭具が戻され、第1次バビロン捕囚で連行された人々が返されることを祈る
り願うのです。エレミヤもまたイスラエル人としてできればイスラエルの国の繁栄と
平安、守りと導きを願い祈り求めているのです。エレミヤもまた愛国心を持っている
のです。イスラエル、エルサレムが神の民として繁栄を謳歌してほしいのです。

 7節。しかしエレミヤは、神様の言葉を受けて語らなければなりません。民の繁栄
と平安を願いつつしかし、民の繁栄と平安以上のもの、主なる神さまが、今いわれる
主の言葉を預かり、語らねばならないのです。8節。そもそも預言者は、神様の言葉
を預かり、それを語ることに使命を持ちます。エレミヤはハナニヤが自分と同じ預言
者であることを認めます。そして昔の預言者は、民と王に対して、戦争、災害、疫病
を予言したと語ります。つまりエレミヤは預言者とは災いを語る預言者と幸いを語る
予言者があると示します。そして歴史からはつまり本来の預言者とは、災い・警告の
予言者であったと示すのです。
 私たちは預言者が、主の言葉を受けて、私たちが神様の恵みに眠りこけてしまいそ
うなときに、本当の主の恵みに気づかせ、そこに生きるように勧めてくれることを知
っています。主の言葉は最初から裁きであることはありません。主はイエス様を遣わ
して私たちの罪をその十字架に負われました。主はもともと愛の主であり、赦しの主
であり、平安と守りを備える方であります。しかし私たちはこの恵みを、自分の生き
方を反省しなくてもいいとか、いつまでもそのままでいいということではありません。
私たちは、主の恵みによって赦されているので、むしろますます主の恵みに答える人
生を送るのです。これは強勢ではなく、恵みを受けたものの自由な自発です。

 9節。エレミヤは「平和を予言するものは、その言葉が成就する時、はじめてまこ
とに主が遣わされた予言者であるとわかる」といいます。つまり幸いの予言の真偽は、
時間がかかるということです。それが起こるかおこらないかでようやく真偽がわかる
のです。つまり災いの予言者よりも幸いの預言者の方が厳しいのです。災いの予言は、
それを聞いて民が悔い改め、自分の行いを正す人が起こるかも知れません。それによ
って、民も国も災いを避けることができるかも知れません。しかし幸いの予言は、間
違うと災いを平安と思いこみ、その国とその人を完全に眠らせて、麻痺させて、本当
の滅びと災いがその民とその人に来ることになります。私たちは優しい父よりも、怖
い父の方が本当はいいのかもしれないと思うのです。
 4年前に大地震がきました。大きな被害となりました。原子力発電所は壊れ、放射
能まで漏れました。今もまだ原子力発電所の解体処理は、目途が立ちません。偵察ロ
ボットが2台も壊れたそうです。私たちは、やはり地震が来る地震が来ると言ってい
た地震学者が正しかったと知るのです。地震学者を馬鹿にして備えをしなかった発電
所がやはり間違っていたとなります。鹿児島で言えば、大噴火が起こる大噴火が起こ
る、備えよ、と言っている方がいいのかも知れません。

 10節以下は読みませんでしたが、大筋をお話します。それは預言者ハナニヤは祭
司と人々の前で、預言者エレミヤの首にあった木のくびきを壊します。エレミヤが木
のくびきを壊され、自由になったように、エルサレムは必ず主なる神によって守れる
というのです。持ち出された神殿祭具は戻され、バビロンは攻めてこないというので
す。見ていた人々は、預言者ハナニヤの確信に満ちた平和の予言に酔いしれたと思い
ます。反対の災いの予言をしているエレミヤのくびきを壊し、自由にしてあげる。な
んと寛大な処置であるとか、本当に恵みの預言者だ、と人々は、預言者ハナニヤこそ
真の予言者であると感動したのです。しかし、事実はそうでなかったのです。

 15節、エレミヤはハナニヤに主の言葉を告げます。「よく聞け、主はお前を遣わ
されていない。お前は民を安心させようとしているが、それは偽りだ」そして、17
節。預言者ハナニヤはその年の7月に死んだとあります。つまり主の審判が、主の名
を誤って使ったハナニヤに下ったのです。
 私たちはこのエレミヤとハナニヤの対決を聞いていくつかのことを示されます。ま
ず1つは、予言の厳しさ難しさです。この前ラジオを聴いていましたら有名な俳優さ
んの俳優学校のことを話されていました。毎年10人くらいが入ってくる。そして3
年間の訓練を受けて卒業されていくのだそうです。私は俳優というのは、てっきり生
来の賜物だけでスカウトされてなるのだろうくらいしか知りませんでした。しかしそ
れは昔の話です。今はなりたい人がいて、学校に行き訓練を受けて俳優となっていく
のだそうです。面白い事に、俳優は実は訓練と教育が非常に大切な要素だそうです。
しかしこの俳優学校は、入学者に2ヶ月くらいの訓練を授けたら、もう一度厳選する
のだそうです。声の出し方、その場の雰囲気の捕ら方、これは生来のものが有り、ど
んなに訓練してもどうにもならないのがあるそうです。この俳優さんは、2ヶ月後に
そのことを生徒に告げて、辞退してもらうそうです。俳優でなくて他の生き方・職業
を目指しなさいと言ってあげる、と言われていました。その人の将来をみこして、な
りたいだけではなくて、その資質をみて、どんなに努力しても駄目と言ってあげるの
だそうです。こういう特殊な道は、そういうものかもしれないと妙に納得しました。
 次にこのエレミヤとハナニヤの対決の教えは、予言者においても、愛国心や他人を
助けたい、かっこよくしたいという思いにとらわれてしまうことです。エレミヤは幸
福の預言、平和の預言は、それが実現してようやく本物であるとわかるのだと言いま
す。つまり幸福や幸せを預言する時は、その真偽に時間がかかるのです。時間がかか
るのを、時間を掛けずにしてもだめだということです。時々いいますように、子供も
また成長には、時間の段階があります。赤ちゃんは首が座って、ハイハイして、それ
から自分で座って立ち、最後に歩きます。首が据わらないのに、歩かせても無駄です。
座ることができない赤ちゃんに立たせても駄目です。
 それぞれの段階をもって大きくなります。幸せの預言者の真偽は時間がかかるので
す。ハナニヤはいい預言者だったと思います。民に仕え、王に仕えて、なんとか平安
を祈り、預言し、イスラエルとエルサレムを励まし、支えたかったと思います。しか
しそのために、民と王様を喜ばせるために、主の名を誤って、間違って使ってはなら
なかったのです。主の名は、主の名として、主なる神さまは、ご自身の独自の御計画
があるのです。主は私達が考える通りになさり、私達が希望する通りに動かれるので
はありません。私達はそのことをここから知らされます。ハナニヤはじっくり時を待
つべきだったと言えます。幸いの預言を説いたら、イスラエルの民に悔い改めを説い
て、じっくり時を待つべきでした。
 自分自身の願いと自分たちの思いを持っていることは大切です。しかしそれは、神
さまの名において言うことは出来ません。あくまでも、自分たちはこう思う、自分た
ちはこうしたい。これが主の御心であるように祈ります、願いますとしか言えないの
です。私達はしかし、神さまが私達のつたない祈りを聞いてくださることもまた確信
していいのです。イエス様は、ヨハネ伝14章14節に「私の名によって何かを願う
ならば、私が適えてあげよう」と約束なさいました。主の名によって、主の御心を求
めて、なんでも願い祈っていいのです。主は適えてあげようと約束くださっています。
 主の約束を信じて、何でも願い、祈り、主の名をあがめて生きる。これが私達に許
されているのです。

  祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。4月も最後の週になりました。新年
度の歩みを感謝です。幼稚園と中山伝道所共に新しい歩みに向かっています。課題は
まだまだ多く、それぞれに苦闘しています。どうか導きと守りをおいてください。求
道者の方々を感謝です。中山に来られた方も、また続けて求道されている方を守り導
き、御言葉を与えてください。転入されたT姉、バプテスマのT姉支えてくださ
い。病気療養のあるM姉、大学病院で治療されているA兄、H姉、A兄、K
兄守ってください。東北大地震から4年目です。避難されている方、放射能から逃
れている方お守りください。今週一週間を導き、主の恵みにおいて歩ませてください。
み名によって祈ります。アーメン」

    使徒言行録11章19〜26節                        20150419
           「 初めてのキリスト者 」  
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 今朝は第3週になりましたので、いつものようにバプテスト連盟の聖書教育誌の箇
所から聞いて行きます。今年の連盟の聖書の学びの本である聖書教育は4,5月を使徒
言行録、夏の6〜9月まで出エジプト記、10〜11月をエレミヤ書そして最後もう来年
の話で申し訳ないですが、12月と1,2、3月をヨハネによる福音書としています。ま
だ年度初めで多くの方が、進級や進学の新しいお子様の対応や仕事で、ガタガタキシ
キシだと思います。年度始めは大変なのですが、どうか落ち着き次第が、礼拝に加え
て中山の学び会、朝または夜の祈祷会の聖書の学びにお出かけてください。

 さて昨日はFHさんとNさんの結婚式を執り行うことができて感謝です。
皆さんの本当にすごいチームワークの働きで無事に終わることができました。会場作
りもスムーズにできて、また片付けも素早くできました。フラワーガールやリングボ
ーイも今回はスムーズに備えられて感謝でした。どうか、よき結婚生活となり、一つ
のまた主のみ前における夫婦、1つの家族ができるように祈るのみです。

 さて聖書は、使徒言行録の11章になっています。ここは書いてあるように、アン
ティオケ教会のことが初めて出てきます。実は聖書を読まれていて意外と気づかない
のが、このアンティオケ教会設立の重要性なのです。このアンティオケ教会の成立こ
そ、言行録2章の聖霊降臨と言行録9章のパウロの回心に続く初代教会の非常に大切
な異邦人伝道の3本柱の1本の出来事でありました。それは私達と同じ形の伝道、全
くの異邦人つまり聖書、具体的にはまだ旧約聖書ですが、その素養の全くない異邦人
にキリストが伝えられ、そしてイエス様が信じられた教会なのです。皆さんは、聖書
を読まれてすでにこれまですべてのキリスト者が、イエス様を伝えられて信じたので
ないかと思われるでしょう。全くその通りなのです。これまでもイエス様を信じた異
邦人も、福音書にあるイエス様の時代のツロ・フェキアの女とか、ローマの百卒長と
かいました。そして言行録10章にも、ローマのイタリア隊の百人隊長コルネリウス
の回心が詳しく書かれています。
 しかし実は今までの異邦人は、旧約聖書の素養のある人々、ツロフェニキアの女に
しても、旧約聖書を知っていました。メシアを求めていたのです。そして言行録10
章のコルネリスの回心ですが、ローマ人のコルネリウスは10:2節に「信仰心あつ
く、一家揃って神を恐れ、民に多くの施しをなし、絶えず神に祈っていた」とありま
す。この人は確かに異邦人です。しかしユダヤ人の会堂の回りにいた人、ユダヤ人の
主なる神を信じ、家族で聖書に一目も二目もおいていた神を恐れる人、敬神者であり
ました。メシア、キリストを求めていた人でした。ただ割礼だけがない信仰のある異
邦人でありました。しかし本日の11章のアンティオケ教会の出現は、神を恐れる人
でない普通の全くの異邦人達でした。つまり私達が信じた時、全く聖書を知らなかっ
たのですが、それでもイエス様を伝えられて、それで信じたキリスト者が、初めて起
こったのです。つまりここから私達と同じ、旧約聖書を知らずに、ただ主イエス様を
信じるだけのキリスト者が出現するのであります。

 さてアンティオケ教会の起こりの次第は淡々とおもしろくもおかしくもない事実と
して伝えられて行きます。まず使徒言行録7章にあるステパノを起点として起こった
迫害が言われます。使徒言行録8章1節に「その日エルサレム教会に対して大迫害が
起こり」とあります。この時の迫害で散らされた人々がフェニキア、キプロス島、ア
ンティオケと散らされます。しかしユダヤ人以外、すなわち旧約聖書の素養のある人
以外には語らなかったのです。イエス様のことを旧約聖書を知らない人に語って意味
がないと考えていたのです。不思議です。すでに聖霊降臨・ペンテコステは起こって
いました。使徒達、弟子達は聖霊を受けていたのです。全世界に散らばって、イエス
様の福音を伝えているはずなのです。しかしそうでない。初代教会の全世界とははま
だ全世界にいるユダヤ人と思っていたのです。

 20節、しかし時が来ました。キプロス島やキレネの人のキリスト者で、この人達
がアンティオケに行った時に、ギリシャ語を話す人々に語りかけて、主イエス様の福
音を説きました。書いてあるとおりに、このアンティオケで福音を語った人は名前が
ないのです。なんと使徒言行録13章からパウロの第1回伝道旅行、言行録16章から
の第2回伝道旅行を支えたアンティオケ教会は、その設立者は分かりません。最初の
異邦人教会のもっとも大切な教会は名も無きキリスト者が立てたことになります。実
は、聖書ではパウロが伝道に活躍しますが、代表的な教会、ローマ教会やエフェソ教
会は、パウロが行く前にすでにあった教会でした。つまり初代教会の大事な教会の中
には、すでに名も無きキリスト者がたてた教会ということになります。
 私達はここで一つの大きな学びをします。それは伝道というのは、どこかどさくさ
に紛れてなされる面がある。こんなことをいうと怒られますが、キプロス島やキレネ
から来たキリスト者がおそらく迫害を逃れて来たのか、何か商売で来たのかよく分か
りません。しかしこの人々が、ある意味で試しに、ある意味で自分の信仰の喜びから
アンティオケアにいる異邦人に語ってみた。そしたら信じた。そこから始まるのです。
 私達は近代の伝道方法が、一番はウイリアム・ケアリーのインド伝道と思いますが、
イギリスの伝道団を建てて、それから派遣されて行きます。日本のバプテストも先ず
アメリカの伝道団があってそこで選ばれて訓練された宣教師が日本に来ました。確か
に札幌のクラーク博士や横浜のヘボン博士、そして西南学校を建てたドージヤー先生
方は、立派な人たちでした。しかし同時に使徒言行録はパウロによる伝道者を伝える
と同時に、名も無きキリスト者の伝道があったことを示すのです。私達もイエス様の
ために目標はただイエス様を伝えるということだけで伝えるのです。聖書を全く知ら
ないギリシャ人に福音を伝えてどうなるでなくて、誰でも良いから聞いてくれる人に
は伝える。これもまたありなのです。伝道方式が決まって献金が集まって計画を立て
て、それからと言っていたらこれはいつまでたっても進みません。よく日本伝道もま
まならないのに、なぜ国外伝道するかという方があります。全くです。国外伝道のお
金を国内伝道に使うともっと伝道できそうです。しかし実際にはウイリアム・ケアリ
ーも同じですが、資金力のある大きな伝道団体からは、インドへ行くなんてと馬鹿に
されえ相手にされず、小さな牧師の仲間の伝道団から派遣されています。伝道の始ま
りとはそういうものであります。

 21節。この計画性のないキプロス島やキレネの人々のアンティオケ伝道は、なん
と「主がこの人々を助けた」とあります。そして信じて主に立ち帰った者が多かった
とあります。キプロス島とキレネの名も無きキリスト者の伝道は、主に用いられたの
です。主は何をどう用いられるか、私達には分かりません。伝道の書コヘレト11章
6節「朝、種を蒔け、夜も手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか両方か、わから
ないからだ」とあります。できることをできるところからしておくことが大切です。

 22〜24節には、このアンティオケ伝道の成功の噂がエルサレム教会に伝わりまし
た。エルサレム教会は当時ほとんど人はいないのです。8章1節には12使徒だけの
教会つまり12人の教会になっていたとあります。しかし8章よりは少し増えていた
ようです。エルサレム教会はバルナバをアンティオケに使わします。バルナバが出て
くるのは、言行録ではここで3度目です。1回目は4章36節です。バルナバはエル
サレム教会の初期からの信徒で、レビ族であったとあります。ユダヤ人で祭司もでき
る家系です。バルナバとは慰めるという意味です。人情厚く人を慰める賜物があって、
そう呼ばれていたのでしょうか。2回目は言行録9章27節です。この時はバルナバ
つまり慰めの賜物が大いに用いられます。迫害者パウロが回心したとき、エルサレム
教会と迫害者のパウロを繋いだのがバルナバです。そして3回目がこの11章です。
 この時、バルナバが異邦人アンティオケ教会に使わされたのは、レビ人であり旧約
聖書に精通しているのが、適任であるとされたのでないかと言われます。つまりエル
サレム教会はあれほどイエス様から律法からの自由「安息日のために人があるのでな
い、人の為に安息日がある」と聞いていたのです。しかしそれでもまだ、律法に詳し
いバルナバを異邦人アンティオケ教会遣わしたことになります。イエス様から教えを
受け、聖霊を受けていても、なかなか今までの生活から考え方から抜けだすのは、難
しいことを教えています。そしてそれは私達も同じです。キリスト者になっても、や
はりお彼岸になるとお墓参りをしたいというキリスト者は多いです。そしてそれは偶
像礼拝の間違いだとはいえないと思います。キリスト者になったからすぐに今までに
生活をやめようというのは、返って危ないのでないか。じっくりイエス様の御心から
本当はどうしたら一番いいのか問うてもいいのです。イエス様ならどうされるのか。
主の十字架からはどういう道があるのか。問うことが許されています。
 それにしても、ここでエルサレム教会は、検査に来たのか、監督にきたのかという
見方があります。確かにそういう面があります。しかし私達は、教会の成長はどうい
うわけか、単独ではうまくいかないと見ています。確かに単立教会というのがあって
伝道がうまくいっているように見える教会があります。しかしそういう所はしばらく
すると世襲制の教会になったり、長い目で見ると分裂があったりです。イエス様の教
会であり続けるためには、私達は文句をいいつつ、不経済的に見えつつやはり他の教
会との交わりを必要とします。アンティオケ教会も喜んでバルナバを迎えたのか、仕
方なくバルナバを迎えたのか書いてありません。しかしバルナバを迎えたのです。エ
ルサレム教会と交わりをもったのです。

 23節。そしてバルナバは、異邦人が主イエス様を信じていく姿を見て、喜びます。
そして主イエス様から離れることがないようにと、アンティオケ教会の皆に勧めたの
です。アンティオケ教会の人は驚いたのではないか。全くの異邦人にイエス様のこと
を語ってみた。すると信じてくれた。多くの人が信じてくれた。噂を聞いてエルサレ
ム教会からレビ人のバルナバがくるらしい。律法に詳しく、律法学者よりも偉い祭司
にもなれる家系のお偉い方だそうだ。自分たちはどのくらい注意されるだろうか。異
邦人がイエス様を信じるはずがないと言われるのでないか。ちゃんと聖書・律法を伝
えたのか、と言われるのでないか。戦々恐々として迎えたのです。しかし反対だった
のです。バルナバは大いに喜び、アンティオケ教会の姿をよしとしてくれたのです。
おそらくここには、バルナバの喜び以上に、アンティオケ教会が喜んだのでないか。
そう思います。
 アンティオケ教会の人々は、嬉しかったと思います。イエス様の言葉や伝承を一杯
もっているエルサレムの教会のレビ人バルナバさんが、自分たちをやり方をほめてく
れた、認めてくれた。支えてくれた。これはイエス様にもよしとされたような具体的
なことではないでしょうか。もちろん教会がよしとしたことで、間違ったことは一杯
あるでしょう。しかし多くの他の教会が、いいことだね、頑張りなさい、祈っている
よといわれれることは、本当に力になるのです。それは交わりの力です。
 本来は、自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で決断して行動します。それで良い
のです。しかしそれを他のキリスト者に話してみる。見て貰う。そしてそれはいいと
言われる。これは嬉しいです。おそらくこの世的には全く地位はありませんが、聖書
をよく読んでいる執事とか牧師とかに、それはいいね、自分もそうする、自分もそう
思うと言われるともっと安心するのではないかと思います。聖霊の守りです。
 神さまは私達が交わりにおいて、成長することをよしとされるのです。もちろん交
わりばかりで実質がないことも起こります。集まってばかりで奉仕がない。チラシ一
枚配らないと言うもあるかもです。しかし神さまは礼拝にでてくるだけのような時も
用いられるのです。神さまの用い方は私達の思いを遙かに超えているのです。神さま
は必ず用いられる。私たちの失敗さえも用いられる。そのことを覚えたいです。

 最後に25〜26節です。バルナバはアンティオケ教会の姿をみるとすぐにパウロを
探しにタルソスに行ったとあります。そして見つけ出してアンティオケに連れてきた
とあります。アンティオケ教会の姿をみてバルナバはこのアンティオケ教会が成長す
るためにはパウロが必要だと示されたのだと思います。タルソはアンティオケから
200q西に離れています。鹿児島からだと熊本の先、福岡の手前です。そんなところ
にいるパウロを探しに行って連れてきました。久留米教会の牧師を問答無用で鹿児島
に連れてきたということでしょうか。
 おそらくバルナバは、これからのアンティオケ教会を考えるとエルサレム地方、エ
ルサレムやパレスチナ地方以外の生まれでギリシャ語ができて、しかし同時にユダヤ
人、エルサレム教会にも一目置かれている人、そんな人がこのアンティオケ教会には
必要だと思ったのではないでしょうか。異邦人の生活が分かっている。しかし同時に
エルサレム教会からも理解される人、律法学者の力のある人。これはパウロしかいな
いと言うことだと思います。パウロはエルサレムの大祭司にキリスト者の迫害の許可
をもらえるほどの律法学者です。しかも復活のイエス様に捕えられたキリスト者です。
異邦人教会を支え、エルサレム教会と交わりつつ伝道するにはどうしても必要な賜物
でした。
 私達はパウロのように大活躍をしないかも知れません。又実際にパウロのような働
きは出来ません。しかし同時に、神さまは私達をそれぞれの場所においておられるの
だと思います。アンティオケ教会の開拓者が名もないキリスト者のようにです。しか
し彼らは自分の持ち場で、イエス様を語りました。計画も見通しもなかったはずです。
すると主はこれを用いて言行録で最も大切な異邦人のアンティオケ教会を立てられた
のです。クリスチャンが始まったのです。主のめぐみを信じ、主のめぐみによって、
自分に示され、自分に出来ることから働くことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。4月も第3週になりました。新年度の
歩みを感謝です。幼稚園と中山伝道所共に新しい歩みに向かっています。課題は多く、
それぞれに苦闘しています。どうか守りと導きをおいてください。求道者を感謝です。
続けて求道されている方を守り導き、御言葉を与えてください。転入されたT姉、
バプテスマのT姉支えてください。病気療養のM姉、A兄、H姉、A兄、
K兄守ってください。東北大地震から4年目です。避難されている方、放射能から
逃れている方お守りください。今週一週間を導き、主の恵みにおいて歩ませてくださ
い。み名によって祈ります。アーメン」

     イザヤ書7章3〜7節                            20150412
           「 静かにしておれ 」  
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は、先週が年度の初めの主日となり、執事、役員、CS教師、幼稚園教師、理
事、監事、評議員の任命式とイースター礼拝が重なりました。又當房順子姉の転入式、
高橋芽生姉のバプテスマ式となりました。あまりに多くなったので例年では最初の主
日は、主の晩餐を受けますが本日に移しました。また本日の聖書は、いつものように
新しい年度の聖句から聞いて、1年間を念頭において歩みたいと思います。
 3月末の巻頭言に書きましたように、教会の年度の聖句や年度の目標は果たして必
要なのか、あっても意味があるのだろうかと書きました。極端な話、聖書があるから
いらないのでないかという議論もあります。普通の企業、売上や営利、儲けをまず目
標にする企業であれば、売上の目標があってこれに対してねらいを定め、方法を決め
るのは当たり前のことです。しかし医療や教育や老人福祉関連のものは、保育園に普
通の企業が参入して果たして大丈夫かと言った議論があるように、限度があります。
なぜなら医療の目標は本来は治療することであり、儲けることでありません。幼稚園
も儲けるところでありません。また教会もまた、今年は5人のバプテスマをしましょう
と掲げても、私は目標通りなった教会を聞いたことがありません。また余り意味があ
りません。バプテスマは数字よりも本当に信じているか、本当にイエス様を心に受けた
のかということが問題なのです。たとえば100人の形式的なバプテスマをする教会より
も、本当に悔い改めた1人の人がでることが大切で在るというのは、議論が起こるか
もですが、その意味は皆さんお分かりだと思います。
 それではと年度の目標や聖句を全く掲げなくていいのかといわれると、努力しない
でことがなるのかと思います。目標がないと無駄な動きがでてくるでしょう。いつか
分かるはず、と言わなくても分かることがあるのかもしれません。しかしやはり言わ
ないで気づく人と言われて気づく人は、どちらが多いのかとなると私達は罪人ですか
ら、言われてようやく気づくのではないかと思います。教会の目標である救い、愛す
る、信頼する、安心するは、数字にはなりません。しかしそれでも、それを念頭にお
いて日々の生活をなすというのは、大切であります。
 今年度は、講壇の向かって右にありますように「落ち着いて静かにしていなさい」
というイザヤ書7章4節を掲げて「じっくり伝道する」をテーマに置きます。じっく
りとは納得の行く伝道というか、急がない、慌てない、ガタガタしない伝道という意
味で掲げています。本日は聖書のイザヤ書7章3〜7節から聞いて行きます。
 実はイザヤ書7章は、すでにクリスマスの時に特に7章14節がイエス様の誕生の
「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む」としてインマヌエル預言として有名です。
クリスマスの時にはイザヤ11章かイザヤ7章は必ず読まれる聖書であります。実は、
その時に大まかに説明して来ました。イザヤ7章は特にシリア・アラムとエフライ
ム・北イスラエルが、南ユダに攻め込む少し前の時代であると言われています。紀元
前740〜30年頃の出来事です。
 読みませんでしたが、時代背景は7章1,2節に在るとおりです。パレスチナ地帯
イスラエルの北には、アッシリア大帝国がまだまだ猛威を振るっておりました。この
前の自称イスラム国が偶像破壊の名目でシリアにある古代アッシリヤ帝国の遺跡を破
壊しているのがありました。まさにあのアッシリヤ帝国なのです。アッシリはその国
力と軍隊の力によって、パレスチナ地方を思うがままに、支配しておりました。しか
しパレスチナにあるシリアとエフライム・北イスラエルは、なんとかアッシリの支配
と力をはねのけようといろいろな方法を試していました。その一つが小国が同盟を結
んで、大国と戦うことです。戦争に勝つまで行かなくても、アッシリアを跳ね返し、
交渉や朝貢の税金を安くして貰う。同盟によってそのことを考えていました。歴史の
本によるとシリアとエフライム・北イスラエルは、地中海の海岸沿いの国ペリシテと
同盟を組み、3国同盟ができて、アッシリアと戦う準備をしていたと言われます。
 そしていよいよエルサレムの南ユダに誘いがきたのです。今も昔も同じかもしれま
せんが、小国の同盟にはやはり1つでも違反する国があるとそこから連帯が崩れて、
大国に支配され無いとも限りません。出来るだけ多くの小国が連帯し、団結して戦う
必要があります。そこでシリア・アラムのレチン王とエフライム・北イスラエルの王
ペカは、ペリシテを自分たちの同盟に入れたことに力として、なんとしても南ユダの
アハズ王を同盟に入れたかったのであります。小国が団結して、大国に当たるという
と今でも大切なことかもしれません。しかし当時の同盟は、神さまを交換して互いの
国で相手の神々を祭るというしきたりがありました。預言者的な信仰、「私以外のも
のを神としてはならない」という聖書信仰からはどうしても手放しで歓迎し、喜ぶ出
来事で無かったのです。

 2節にあるように、アラム・シリアとエフライム・北イスラエルの同盟成立が伝わ
った時には「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように揺れた」とあります。
アハズ王も民も、この同盟にはいらないとどうなるか。しかしもしこの同盟に下手に
参加したら、今度はもっと怖ろしいアッシリア帝国はどう出てくるのか。考えても考
えても答えが見付からないのです。遠いアッシリアは怖ろしいし、また近くのレツイ
ン王とペカ王も怖ろしいのです。そもそも北イスラエルは、南ユダともともと兄弟国
家でした。ダビデ、ソロモン王時代には、同じ国で同じ主なる神を信じているのです。
しかし仲良くできないのです。つまり親戚同士でいがみ合った状態ですのでますます
質が悪いのです。
 私達も全く同じようにどうしたらいいのか分からない状態に置かれることがありま
す。右に行けばいいのか、左に行けばいいのか。前進したらいいのか、退いたらいい
のか。分からないのです。ここはじっと我慢したらいいのか。ここはさっさか撤退し
たらいいのか。前進あるのみであるか。判断しないといけないのですが、判断が出来
ないのです。まさに本日の聖書は、そのような私たちの決断の状態と重なるのです。
 3節にあるように、主はイザヤに言われました。それは「息子を連れて布さらしに
至る大通りに沿う浄水池にいるアハズ王に会え」と言われるのです。まず、これから
王様に箴言する預言活動するのです。そこによりによって子供を同伴しろと主は言わ
れるのです。予言をしたら王様が主の言葉に怒って、殺されるかもしれません。そん
な場面に子供を同伴するのか。反対に子供を連れていたら人の子であれば、子供の前
で親を殺すことは無かろうとも言えます。しかし主の言われる「共に子供を連れてい
け」は実はこのイザヤの子供の名前に意味があります。その子の名前は「シェアル・
ヤシュブ」です。2つの取り方があります。
 シェアル・ヤシブの一つは「残り者は帰る」という読み方です。これはイザヤが、
たといユダ王国が他国に、又アッシリアに攻撃されても、連行されても、必ず帰って
くる。「アハズ王様、神さまの世界支配を信じて、行動しなさい」というしるしにな
ります。もう一つは「残り者は、悔い改める」という取り方です。実は聖書では「帰
る」は「悔い改める」という意味も持つのです。これだと王様に、悔い改めて神さま
を信じ、主の言葉を求めなさい、ということになります。イザヤは宮廷の預言者でし
た。アハズ王はイザヤの子供の名を知っていたとされます。イザヤが自分の子供を連
れて自分に近づいて来たとき「悔い改めよ」の子供連れているのであれば、主を信じ
て行動せよというしるしを受けたでしょう。
 実はアハズ王が浄水池にいたということが、アハズ王はなんとかこの戦いを戦う為
に、浄水池すなわち水の確保を最優先にして準備をしていたとされています。エルサ
レムの戦いでは、水の確保が大変重要であるとされます。部下に任せず王様自身が自
分で水路を見に来ている。このことは王の心が動揺して、もう部下に任せられない。
アハズ王には全ての事が疑心暗鬼の状態でないかと言われています。「森の木々のよ
うに心が動揺した」というのは、部下も信頼できない状態に、動転したアハズ王がな
っていたことになります。つまり、レチン王とペカ王が同盟を組んだということで、
アハズ王は、すっかり肝をつぶし、動転してしまったのです。

 4節、預言者イザヤは「おちついて静かにしていなさい。恐れることはない」と語
ります。つまり主なる神の守りを信じ、がたがたしないとうことです。シリアとエフ
ライムが同盟を組んで、自分たちに同盟を呼びかけてくる。参加しても参加しなくて
も自分たちの立場は危ない。しかし予言者イザヤはいうのです。「落ち着け、静かに
しろ、恐れるな」です。なぜなら、南ユダ国には主なる神があり、すべてを導かれ、
世界を支配し、ご計画を持たれる神様がある。その神様にまず立ち返れ。それからし
なければならないことを、考え、示しを待ちなさいということです。
 これは、いろいろなところで言えると思います。何か自分に危機が来るとき、私た
ちは自分の立場を忘れて、自分の使命を忘れて、右往左往になることがあります。あ
まりにも自分の周りが酷く見えて、本当は大変なことでないのに、事実以上に大変な
ことと勘違いすることがあります。またその反対に、本当は大変なことであるのに、
恐れによって、それに気づかないで過ごすこともあるかも知れません。しかしどちら
にしても、その時大切なのは「落ち着け、静かにしろ、恐れな」です。それはすべて
のことを支配し、導き、統括する主なる神様がおられるからです。つまり私たちは、
肝心の時に祈りを忘れて、自分たちを導かれる主イエス様を忘れてしまうのです。
 私たちは、神様が私たちが何をすることを喜ばれると考えます。自分で何か解決す
べきであり、自分の知恵と力で、逆転すべきであると考えてしまうのです。
 ルター派とカルバン派が共同で作った『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答
書があります。この問の116には、なぜ祈りはクリスチャンにとって必要なのです
か。という問いがあります。答は、祈りは神が私たちから求める感謝の最も高貴なも
のだからです(詩50:14-15)。霊的な息によって絶えず神に願い、感謝する者にのみ
神はその恵と聖霊を与えようとされるからです(マタイ7:7,ルカ11:9以下,13,
マタイ13:12)。とあります。
 私たちの高貴さとはなんでしょうか?この世において、私たちが高貴であると思っ
ていることは何でしょうか?このことを私たちは問うてみる必要があります。身分が
高いこと、社会的な地位が高いこと、お金持ちとか学歴が高いこと、この世の成功な
どが、私たちにとって高貴さを見出すことではないでしょうか。その場合、何を着て
いるかとか、どんなところに住んでいるかとかいうことが関心の基準になっていま
す。その物腰や態度などももちろん影響するでしょう。しかし私たちの目や思いは、
祈りの高貴さに満ちあふれたこの世的には貧しい人の高貴さを見出すことは、希なの
です。
 学歴があり、社会的地位があり、お金持ちで、事業に成功すれば、私たちはその人
が全然祈りを知らない人でも高貴であると感じるのです。この感覚は、私たちが肉の
思いに囚われており、肉の思いに価値を見出しているからではないでしょうか。そし
て、この世的には貧しい人であっても、祈りにおいて熱心で神の前に謙遜な人々がい
るのです。しかしそのような人々に私たちは尊敬と敬意を払うことは希なのです。 
 祈りにおいて熱心で、神の前に謙遜であることが本来の高貴さである。にもかかわ
らず、私たちはその高貴さを感じる感覚がなく、そのような人々をむしろ馬鹿にして
いないでしょうか?そしてこのような私たちの態度と感覚において、私たちがなぜ祈
りをおろそかにしているかという理由が明らかになります。それは私たちが祈りのそ
の高貴な価値を見出していないからであり、祈りをおろそかにし実は馬鹿にしている
からです。馬鹿にしている理由のもっとも大きなものは「祈ったって、変わるもの
か!」と思っているからです。そしてこの世のものを祈りによって求めようとしてい
るからです。また、私たちはこの世の価値に裏付けられた高貴さというのが、神の御
前でどのようなものであるかを考える必要があります。それは虚栄ではないでしょう
か?自分自身の内にこのような虚栄の存在に気がつくことは大変に幸いなことではな
いかと思うのです。
 アハズ王は、自分の力と知恵で、水を確保し、戦いに備えようとしました。部下に
もまかせられないほど動揺しました。なすべきことをなすことは大切です。しかしす
べてをなす前にイザヤは「静かにしなさい。落ち着きなさい。恐れるな」といいいま
す。神様の支配を思いなさい、つまりまず静かに祈りなさい。まず、祈ってから行動
しなさいというのです。本当に価値あるものを思いなさいというのです。

 5〜7節に、イザヤはシリアのレチン王とエフライムのペカ王のはかりごとは、な
らないと予言しました。しかしアハズ王はとんでもない行動にでました。それは列王
記下16章7節にあります。アハズ王は、レチン王とペカ王に抵抗するために、なん
とアッシリアに頼ったとあります。アハズ王は、アッシリアに使いを送り「私はあな
たの僕です。アラム・シリアと北イスラエルの王の手から私を救ってください」とい
います。狼から逃れるためにライオンあるいは熊に頼んだのです。どこか日本が先の
大戦の終結をソ連に頼んだのに似ています。アメリカは早く終わらせるために、日本
に原爆を落としました。エルサレムはもっと酷い状態におかれることになります。
「落ち着け、静かにしろ、恐れるな」。危ないとき、私たちは自分の使命に立ち返り、
自分のなすべきことをまず求めます。つまり成功や業績ではなく、主の前に謙遜に祈
り、神様の前に低くなり、自分をイエス様に差し出す信仰を教えられるのです。
 
 祈ります。「天の父よ、新年度に入り2週目です。どうか、一つ一つのことを守っ
てください。本日は県議会選挙です。投票率が低いそうです。守ってください。幼保
連携の幼稚園の歩み、中山の児童クラブの歩み、悪戦苦闘しています。本当に謙遜に
祈らせてください。あなたのみ手をおいてください。今年度は『静かにじっくり伝道
する』を念頭におきます。転入くださったT姉、バプテスマのMT姉、続けて
守ってください。病気療養のM姉、M兄、A兄、K兄守ってください。求道
者の方の心の奥底をあなたがご存知です。どうか導き、その問いに答えてください。
東北大地震から4年目になっています。避難者の守り、放射能からの守りをおいてく
ださい。今週の歩みをみ手においてください。み名によって祈ります。アーメン」


   ヨハネ伝20章1〜20節                            20150405
           「 死者の中からの復活 」  ―復活礼拝―
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。本日は特に年度の最初の礼拝がイースター(復活日)となりまし
た。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩みと罪の悔い改め、
1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は當房順子姉の転入とこの後高橋芽生姉の信仰告白が認められて、バプテスマ
式を致します。執事、役員、CS教師、幼稚園(正式の名前は幼保連携型 認定こど
も園 めぐみ幼稚園といいます)教師、学校の法人の理事、監事、評議員の就任式も
あります。もりだくさんの年度最初の礼拝となりました。私が牧師になってから、お
そらくイースターと年度の初めはありますが、これにバプテスマが重なったのは初め
てだと思います。本日の聖書は、短く聞くわけにはいきませんが、必要なところだけ、
大切な部分を、端的に聞いて行きたいと思います。
 イエス様の十字架に付けられるいきさつは、すでに3回に渡って聞いてきました。
当時のイスラエルは、ローマ帝国の植民地であり、イスラエル・ユダヤの当局はイエ
ス様を死刑にしたかったのでが、その権限がありませんでした。イエス様はユダヤの
裁判に掛けられて、言ってみれば神さまの冒涜罪、昔の日本でいうと天皇の不敬罪と
でもいいましょうか。その判決で死刑になりました。イエス様は自らを神の子として
示されたので、これがユダヤ人当局にはモーセによって「主なる神のみを神とする」
とされたユダヤ人には、我慢のならない神さまの冒涜罪になったのです。
 ユダヤ人は死刑の権限がありませんので、イエス様を死刑とするために、エルサレ
ムにいる総督ピラトの所にイエス様を訴えます。ところで総督ピラトは、残忍な総督
としてユダヤ人には評判は良くなかったのです。しかしさすが政治の難しいイスラエ
ルに派遣されたことはありました。すぐにこの訴えられたイエス様の裁判が、冤罪で
あると理解しました。総督ピラトの妻もまた夢でお告げを受けてこの裁判はおかしい
と言っていたのです。しかし総督ピラトはのらりくらりと裁判を引き延ばし、ユダヤ
人当局の裁判取り下げを狙ったのです。とうとうユダヤ人は最後通告をします。それ
は、イエス様を許すこと、無罪放免することは、ローマ帝国の皇帝の敵を許すことに
なる。総督ピラトは、ローマ皇帝カイザルの敵になるということでした。イエス様は
政治的なメシア・キリストとは違っていたのです。しかしユダヤ人の反乱はいつも、
ローマ皇帝への反乱と重なることが多く、イエス様もローマからみれば、皇帝の反対
者に見えるのです。
 これには総督ピラトもどうすることもできません。イエス様の無罪、冤罪に気づい
ていますが、下手に許せばローマ皇帝に自分が訴えられます。総督ピラトは自分の責
任を放棄する形で、イエス様を十字架に引き渡したのです。イエス様は2人の犯罪人
と共に十字架に付けられてしまいました。そして「エリ、エリ、レマサバクタニ」
(我が神、我が神、なぜ私を捨てたのか)という声を最後に、十字架の上に、死んで
行かれました。しかしこのような複雑な人間模様の後にきちんと神さまの御計画は進
展していったのです。とどのつまりイエス様の十字架は、イエス様が、神さまの人間
への救いのみ業、罪からの救いのみ業を淡々と成し遂げる愛の業でありました。
 イエス様は十字架からお墓に葬らるのです。そして安息日を迎えて、ユダヤ人達は
安息日に規定にしたがって、安息日を守ります。そして本日1節にある通りに、マグ
ダラのマリアはイエス様のお墓にきたのです。私達は弟子たちは皆逃げ出したことを
知っています。弟子のユダも弟子の代表格のペテロもイエス様を裏切りました。しか
しここにマグダラのマリアは、イエス様のお墓に行きました。実は同じ聖書の箇所マ
ルコ伝15章には、他の女性たちもイエス様の体に香油を塗るために行ったとありま
す。先ほどいいましたがイエス様は安息日が始まるギリギリで十字架に死なれて葬ら
れ、最後の埋葬の手順ができなかった可能性があると言われています。
 日本の葬儀でも、手順が守られないと文句をいう人がいます。キリスト教は手順が
あってないようなもので、参列者はキリスト教はそんなものなのかも知れないと文句
言う人は少ないです。しかし仏式になると皆さん体験がありますので、あそのこ葬儀
屋はおかしいととか、あのお防さんは何何をしなかったとか聞くことがあります。マ
グダラのマリアはどうだったのか。しかし最後の葬りができなかったことが気になっ
ていたのは確かでしょう。ヨハネ伝はマリアが一人でお墓に行ったとしています。ま
だ世が明けきらない夜中にお墓に一人でいくのは、本当は恐ろしいと思います。しか
しマリアは恐ろしさよりも、イエス様の葬りの手順が最後までできなかった。それだ
けが気になっていたのでしょう。

 昨年度は私達の教会も5人兄弟姉妹を天国に送りました。時々、告別式の日の夜遅
くなって駆けつける方があります。聞いてみるとやはりお世話になった、特に目をか
けて頂いたのです、と言われます。私がこちらに来て数年せずに天国に行かれた諏訪
タヨさんの時は、午前1時になっても数人の中国人の方が来られました。諏訪さんが
日中友好の務めをされて、実際支えた方の関係者でした。やはり自分に関係の深い方
の葬儀は、なんとか行きたいと思うものです。マリアは生前イエス様に多くの導きと
守りを受けました。なんとか最後の務めをしたいと思ったのです。
 こうしてマリアは女性にして復活の最初の証人となるのです。ここにはイエス様は
必ず復活されると言った信仰からでなかったのです。お世話になったイエス様に何か
したいという思いでした。私達は信仰というのが、信仰のままでもちろんそうなると
いいのです。しかし同時に信仰には人間的な情けとか同情とか義理とかが働いて、き
っかけとなる。そういうことをあらためてマリアから教えられます。信仰のみは大切
です。しかしお世話になった、助けてあげたい。同情と言ったところからも、それを
きっかけとして、復活の証人になされていくのです。

 2節をみるとマリアはお墓の墓石が転がっているのを見て、中を見ることなく、す
ぐにペテロとイエス様が愛しておられた弟子、これは通常ヨハネと言われるのですが、
そこに走ります。どうして自分が中にはいらないのかと思います。しかし当時お墓の
戸が開いたままであるのは、墓泥棒かあるいはユダヤ人がイエス様の遺体を運ぶかで
ありました。マタイ伝には、イエス様が生前に復活の話をされたので、弟子たちがイ
エス様の死体を運び隠して復活したと言わないようにしたとあります。マリアはその
ようなイエス様への仕打ちを、思い出したのかも知れません。とにかく自分ではどう
することもできない事態がイエス様に起っていると感じたのでしょう。とにかくペテ
ロとヨハネに知らせないといけない思ったようです。まだ復活信仰ではありません。
 それにしてもペテロはイエス様を裏切った者でした。イエス様を裏切った人に、イ
エス様の墓が荒らされていることを伝えてもどうなるのかと思います。しかし改めて
ペテロはイエス様を裏切ったのですが、なおこうして弟子のマリアからは、一目置か
れていた姿を見ます。ペテロは裏切ったがそれでも弟子たちから見れば、イエス様の
一番弟子として、何か頼れるものを持っていたのでしょう。失敗しながらもイエス様
についてきた3年間は、ペテロをキリスト者として見られる何かを、ペテロに与えて
いたのでしょう。イエス様の恵みは確かです。私達も、自分の失敗や不信仰にめげな
いことを教えられます。確かに多くの失敗や間違いを犯します。多くのつまづきを犯
します。しかしイエス様を仰ぎ続けましょう。イエス様は又用いてくださるのです。
罪を赦してくださるのです。清めてくださるのです。そして又召してくださるのです。
次の務めを示してくださるのです。イエス様を信じることは、次の召し、次の示し、
次の務めを受けることであります。

 3〜5節は、本当に不思議なあるいは変な出来事です。実は復活の伝承は、マタイ、
マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書全部にあるのです。しかしこのペテロと愛して
おられる弟子ヨハネのお墓への競争を記すのはヨハネ伝だけです。マリアの話を聞い
たペテロとヨハネは、競争する形でイエス様の葬られた墓に走ります。もう一人の弟
子つまりヨハネの方がペテロよりも先にお墓につきます。しかし中を覗くだけでお墓
の中には入りません。ペテロが来るのを待つのです。そして、ペテロは遅れて着きま
すが、中に入るのはペテロなのです。どうしてこんなことをわざわざヨハネ伝は伝え
たのか。これは実際に起った細かい事実の話なのか。何かこのペテロとヨハネのお墓
への競争のような走りに、聖書は何か意味をしめしているのか。実はよくわかってい
ません。確かにペテロよりもヨハネの方が若く、従ってすばしっこくて、早くお墓に
ついた。しかしペテロを立てて中に入らず待っていたのでしょうか。それにしてもな
ぜそれをいちいち書く必要があったのか。意味を考えるにはあまりにもたわいのない
話です。しかし意味がないならどうしてこんなことをイエス様の復活の大事な時に、
3節に渡って書く必要、知らせる必要があるのか。意味を取り過ぎてもいけないし、
無視しずぎてもいけないのかも知れません。
 あえて言うならば、ペテロ的な直感的、直情的な信仰とヨハネ的、ヨハネ伝に示さ
れるような神秘的、理知的な信仰の関係をいうのでないかと言われます。体験的、直
感的な信仰と理性的な信仰は、弱点と長所を持つのです。理性はどんどん前にいく。
体験はそう簡単に前進しない。のろのろ進むのです。しかしいざ墓に着くとつまり死
を目の前にすると理性は立ち止まり、体験は墓の中に入っていったのです。私達はど
ちらを大切にするのか。自分はまず経験し体験からしか進めない。自分は頭でまず考
えて行動指針ができないと前進できないと私達は2通りあります。しかしペテロが偉
いとかヨハネが偉いとかでないでしょう。神様はどちらも用いる。体験からの方はど
んどん体験していくしかない。理性からの人は、ひと通り自分で考えてからしか体が
動かない。しかし私達は、それで生きるしかないのです。自分の持って生まれた賜物
からしか動けない。自分の持っているものを用いてまず行動して生きていくしかない
のです。考える人はまず考える。しかし体験しながらでないと考えられない人もある
のです。神様は喜んでどちらも用いてくださるのです。
 イエス様は十字架についてくださった。イエス様は私達の罪を背負われて、身代わ
りになってくださった。もう罪をいつまでもいつまでも悩んではいけないのです。私
の罪を、イエスさまは負われたのです。そして復活を示された。つまり私達は、まさ
しく義とされたのです。神様によってよしとされた。もう自分はどう思われているの
か、自分はどう見られているのか。必要以上に人間の目を気にして、ガタガタ気にす
ることは入りません。主イエス様が復活してくださった。主イエス様は、私達の先が
けとなり復活された。私達は復活させられるのです。復活を待つ人がいつまでもいつ
までも、過去にとらわれ、過去を気にしてすごしてもあまり意味がない。私達の未来
には、復活が待っている。希望が待っているのです。
 復活と希望が先にあるとすれば、今私達は、今のこの世で、何を目標にするのか。
召しです。神様からの召命です。証です。自分の務めであり、自分の証です。ある意
味でキリスト者の務めともいえるかも知れません。キリストを直接知らなくても、し
かし生きている間は、この世の務めがあるのです。それはお金にはならないかも知れ
ません。人々に賞賛されることでないかも知れません。この世的には見るべき姿はな
にも残らないかも知れません。もちろん生活ができないと生きられません。しかし罪
が赦され、神様の関係を正された人が次にどう生きていくのか。神様の召し、神様さ
の務めを生きることになります。イエス様が言われたマタイ伝6章33節「まず、神
の国と神の義を求めなさい。必要なものはすべて与えられる」は確かです。

 8節には「見て、信じた」があります。ペテロの後にイエス様のお墓に入ったヨハ
ネは「見て、信じました」。何を見たのか。イエス様を包んでいた麻布のあり方を見
てです。日本語ではうまく訳出できませんが「離れたところに丸めておいてあった」
は、直訳は「折り畳むことなしにあった」となっています。つまり折り目なくおいて
ある麻布とは何なのか。どうもイエス様は巻かれた布からすっと抜けだした形なので
す。理性の人ヨハネは、イエス様を包んでいた布を見たらわかったというのです。そ
れは明らかにイエス様が復活した事の奇跡の痕跡であるとわかったというのです。
 9節には、イエス様が復活するという聖書の言葉をまだ知らなかったとあります。
つまり聖書に示される前に、復活を信じたと言いたいのです。実はヨハネ伝では、ヨ
ハネ伝20章29節になかなか信じられない実証家トマスに対して「見ないで信じる者
は幸いである」とあります。つまりヨハネ伝の最後は、主イエス様が、トマスのよう
な実証家タイプの人に対して「見ないで信じる」ことの大切さを示し、語るのです。
しかしこれを伝えるヨハネは、見て信じたのです。
 もちろん、私達は同じように見てもある人は、全く反対に取ることを知っています。
今度中山伝道所で、児童クラブを計画しています。まず一人登録してくれました。私
は合う人ごとに「一人来ました」というと反応は、2つに別れます。一人来ました。
「絶対また来ますよ。」と言う方。一人きました。「一人ですか。大丈夫ですか。」
これは仕方ないかもです。どちらも正しいです。(3人になりそうです)
 復活をわずかなしるしで信じる人がある。全くしるしなくして信じる人がある。神
様は確かに記しなくてして信じるものの幸いを宣言された。しかし私たちは見ないで
信じることの難しさを知っています。しかし聖霊によって、やはり見ないで信じる方
もある。小さなしるしで信じられる方も、見ないで信じられた方も、神さまは用いて
くださる。神様はそれぞれの方に、それぞれの賜物をおいて、信じる道を備えてくだ
さると信じます。私達は、与えれた務めをしっかり果たして、復活されたイエス様の
み跡に従うことが赦されているのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日は、年度の初めの礼拝となりまし
た。またイースター礼拝を感謝です。私たちは年度の初めに立ち、主の恵みと導きを
ただただ祈り求めます。私たちに恵みと御霊をくだして、今年度に示されたことを成
し遂げさせてください。転入のJ T姉、バプテスマのMT姉をこれからも支
えて導きください。4月1日から幼稚園は幼保連携型 子ども園、幼稚園として歩ん
でいます。また中山小羊児童クラブは3人でスタートできそうです。感謝です。今か
ら執事、役員、CS教師、幼稚園教師、理事、監事、評議員の任命式をします。聖霊
豊かに注ぎ、その務めをまっとうさせてください。病気療養の方、特にM姉、A
兄を支えてください。1週間をあなたにゆだねます。み名によって祈ります。アーメ
ン」

   ヨハネ伝19章13〜19節                            20150329
           「 十字架につけた 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は棕櫚の主日として、イエス様の最後の1周間を記念する日になっています。
イエス様はこの日に生涯最後のエルサレム入場をされ、月曜日に宮清めと言われる神
殿の両替商人を追い出され、タラントの例えや最後の教えをなさり、木曜日に弟子た
ちの足を洗われ、ゲッセマネの祈りをなし、裁判を受けられ、金曜日に十字架につけ
られました。棕櫚の主日と言われるのは、マルコ伝11章8節やマタイ伝21章8節に
イエス様の入場の際に「木の枝を切って道にしいた」とあるところから取られました。
エルサレムは棕櫚の木が多く、木の枝を切って道に敷いたというは、この棕櫚の木の
ことであろうと言われています。それで棕櫚の主日となりました。

 そして最後の1周間の教えをなされ、ユダの裏切りとペテロの裏切りにあわれて、
まず最高法院サンヘドリンの裁判に引き渡されます。マタイ伝26:3から、カヤパと
いう人が当時の祭司長だったようです。ルカ伝は、祭司長のカヤパの裁判と総督ピラ
トの裁判の他にヘロデ王からも尋問を受けられています。しかしピラト総督は、あま
り評判は良くなかった総督でしたが、さすがイスラエル、ユダヤの難しい、厳しい土
地に派遣されただけの人でありました。すぐにこのイエス様への祭司長カヤパ達の訴
えが、冤罪であり、ローマ帝国にとってはこのイエス様は無害であり、裁判をするだ
けのことはないと判断しています。
 しかしユダヤ人達は、どうしてもイエス様を十字架にかけるべく、自分たちには死
刑の権限がないので、ここでなんとかイエス様を死刑にしようと画策します。総督ピ
ラトはこんな人の裁判をしても仕方がない、ローマ皇帝に無害な人の裁判は、無駄で
あると示します。ピラトは冤罪の人の裁判をしたくないのです。しかしユダヤ人達は、
「もしこのイエス様を釈放すれば、ローマ皇帝に敵するものを釈放したことになる」
といいます。イエス様を政治的なメシア運動、つまりローマ独立運動を推し進めよう
としたローマ皇帝に反する王であったとするのです。ピラトは裁判をしたくないので
すが、ローマ皇帝カイザルに反対するものを釈放するのかと言われて、13節にある
ように、とうとう本当に裁判をしなければならい場所の席につきます。今風に言えば、
本当は私的な自宅での裁判とはいえない裁判で済ませたかったのです。しかしローマ
皇帝に反対するもの、自称の王を許すことをするのか、と言われて、正式な裁判をす
るしかなくなったのです。総督ピラトは、大嫌いなユダヤ人たちにおどされて裁判を
させられる悔しさがあります。さらに冤罪だからというよりも、こんな力も威厳もな
にもない人の裁判を執行しなければならない自分に、がっかりだったかも知れません。
 書いてあるようにガバタは、敷石という意味で、日本風にいえば広い座敷のような
ところに高台があり、そこにローマの正式の裁判が行われる席があったようです。つ
まりピラトは正式に裁判所に入ったということになります。わたしたちはこのピラト
のように大した事はない、はやく適当に終わらせたいと思っているのに、とうとう本
当に係わることになってしまったということがあるのかも知れません。乗り気でもな
くやる気もない。どうでも良かったです。しかし少しだけとやってみるとどんどん深
みにはまり、後に引けなくなることがあります。そういう時にどうしたらいいのかで
す。本当は淡々ときちんと裁判をしてあげれば良かったです。ローマの権威において、
尋問をし、ローマの権威のおいて反対尋問を聞き、証拠を調べて、判決の判例に従い、
それなりの結論を出せば良かったと思います。
 しかし総督ピラトは、書いてある通りに裁判の手順を踏み、裁判を進めないのです。
それはもし正しい裁判をして、イエス様を釈放すればまたユダヤ人からローマ皇帝に
告げ口されます。イエス様の裁判は、冤罪なのに死刑にしなければならない裁判であ
りました。冤罪になのにもともと死刑が決まっており、ローマの権威で死刑を追認し、
執行するということでありました。決まったことを追認するために、自分の権威が使
われるというのも、人間であれば最も嫌な扱いということになります。皆さんも、自
分が決めないのに、自分が決めたことにしないと行けない目にあったことはないでし
ょうか。あの人はああ言っていた、こう言っていたとなり、今さら反対もできないし、
違うとも言えない。あの人はこう言っていた、ということに合わせていくしかない。
そういう生き方をするしかない時です。

 14節からの裁判の様子が伝えられます。ピラトは「見よ、あなた達の王だ」と言
います。ここには「ユダヤ人の王を、ローマ人が裁くのを、お前たちは、じっとみて
いるのか」という嫌味と揶揄になります。もともとイスラエルは常に独立の機運が高
く、何かあればローマ帝国からの独立を語る人々や自称の王が起こりました。そして
そのような人には、必ず賛同者がついたのです。それはローマ皇帝礼拝に反対すると
いえば「私以外のものを神としてはならない」というモーセの十戒を守ることであり、
多くの人の賛同を得たのです。つまり神様の名を使った運動ということになり、賛同
者は必ずいたのです。それはイスラエルの信仰の根幹でありました。
 今の自称イスラム国に似ているかもです。イスラム諸国では、まずイスラムの旗を
あげると多くの人はついて来る。少なくてもイスラムの人々は何かをしてくれるかも
しれないと期待するのです。キリスト教に散々傷めつけられた。人々はなんとかキリ
スト教に一泡吹かせたい。一矢報いたい。人々はイスラムの名を持つ主張、反抗にま
ずは賛同するのです。総督ピラトもまたそのことを知っていた。ユダヤ人の王が起っ
た。ローマ皇帝への反乱が又始まる。お前たちは賛同しないのか。賛同すべきでない
のか。どうなのかと言う巧妙な揶揄であり、嫌味です。難しい国、イスラエルに派遣
された総督ならではの最高の嫌味であったと思います。脅されたピラトの最後の抵抗
の感があります。ピラトはいい人であるのか、悪い人であったのか。難しい判断です。
行政官としてギリギリの反抗、問い、嫌味であります。
 いつだったかお話したことがありますが、牧師の学びで、西南神学部に3年間いた
時です。今もあるのですが、毎年キリスト教週間という行事が10月にありました。
何年生の時かそこに最高裁判所長官を退任された第7代裁判所長官をされた藤林益三
(ふじばやし えきぞう)さんが来られました。1975年から76年までの1年間の長
官でした。実は無教会のキリスト者でした。私の知る限りでは、日本の最高裁判所長
官でキリスト者は、後、田中耕太郎さんこの方はカトリックで、10年間なさった方
以来です。藤林さんはキリスト者でそれで西南に呼ばれて来られたのです。講演が終
わって「誰でも対談をしたい人は来なさい」と言われたので数人が対談室に行きまし
た。誰でも質問していいのというので、私は恥も外聞もなく「先生、ピラトの裁判は
先生だったら、どうされましたか」と聞きました。先生はそれは難しい質問ですと言
われて、「うーん」と腕を組まれたのです。答えははありませんでした。正しい裁判
をしてやりたい。しかしそうすると自分の地位が危ない。ローマの権威においてなお
ざりの裁判もできない。助けたい。しかし助けると自分が危ないのです。
 最近はいじめの問題が時々テレビで取り上げられます。根本的なところは助けたい、
けど助けたら今度は自分がいじめられる。自分がいじめられるのは嫌だから友人たち
に同調するか、黙認するというのが、多いように言われます。つまりピラトのジレン
マは今も変わらず2000年間続いているのです。どうしたらいいのか。昔なら正義感
で言うべきで、良かったのかも知れません。自分がいじめられても構わんという方が
多かったかも知れません。しかし今のいじめは陰湿であり、いじめらてもいいと開き
直る人は少ないです。

 15節にあるように、総督ピラトの嫌味と揶揄にも全く関係なく、ユダヤ人たちは、
「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫びます。ここの「殺せ、殺せ」は原文は「上げ
ろ、上げろ」です。つまり十字架に「上げろ、上げろ」という連呼です。もう何が、
真理か本当か、を考えるというよりも、群衆心理に近いでしょう。イエス様が貧しい
人を訪ね、病気の人を癒やし、神の国のことを教えてガリラヤ中を回られた。律法学
者たちと論争されて「安息日のために人があるのでなく、人のために安息日がある」
とどうどうと当時の律法の守り方の間違いを正された。しかし不思議なことに、この
群衆はイエス様のあれだけの働きを誰も理解し、示し、思い出そうとはしないのです。
本当に大切なことをした人を、本当に評価しようとしない。これはいつの世にもある
のかも知れません。
  15節には、最後のことばというか、イスラエルの人々が「私達には皇帝以外の王
はありません」と語っています。あれほど皇帝礼拝はいけない。イスラエルではロー
マ皇帝は王ではない。イスラエルの王は、いつも「主なる神様である」と教え、信じ、
守ってきたことです。しかしイエス様を十字架につけるために、イスラエルは自分の
王を、主なる神様から、ローマ皇帝カイザルに変えてしまったのです。イエス様の十
字架において起ったことは、神の民イスラエルが主なる神さまへの信仰を捨て、ある
意味で完全に神の民から堕落し、転げ落ち、消滅することでもあったのです。イスラ
エルは、イエス様を殺すことで、実は自分自身を殺してしまった。自分自身である礼
拝の自由さえも捨ててしまったのです。イスラエルは、イエス様を十字架につけて、
AD70年、40年後に完全の滅びます。しかしすでにここでイスラエルの滅びは始まっ
ていた、決まっていたともいえます。

 そもそもイスラエルには、人間は王となってはいけないという伝統がありました。
旧約聖書士師記にでてきます。士師記はモーセ5書やサムエル記に隠れて、あまり注
目されません。しかし実はイスラエルの基本信仰、つまり旧約聖書の根本信仰を示す
大切な書です。士師記9章には、勝手に王となったアビメレクの話があります。その
時、ある喩え話が語られています。「ある時、もろもろの森の木が王様を立てようと
した。そしてオリブの木に言った。私達の王になってください。するとオリブの木は
言った。私はどうして、神と人を崇めるために用いられる私のオリーブ油を捨てて、
もろもろの木を治めることができましょう。次に、もろもろの森の木はイチジクの木
に言った。どうか私達の王となってください。イチジクの木は言った。どうして、私
は私の甘みと果実を捨てて、王様になることができましょう。もろもろの森の木は次
に、ぶどうの木に言った。どうか私達の王になってください。ぶどうの木は言った。
私はどうして、私のぶどうの実と葡萄酒を捨てて、王になることができるでしょう。
もろもろの森のいばらに言った。どうか私達の王になってください。いばらは、言っ
た。あなた方が真実に私を王とするならば、来て私の影に難をさけなさい。」このこ
とは解説の必要はないでしょう。自分から王となるような者は、すべての者を自分の
日陰にして、枯らしてしまうしろものである。王というのはもともとは茨である。
 本当に有用な人間は自分の使命と賜物を全うすることをよしとして生きるのである。
王たるものは、自分からなるものではない。自分からなりましょうと言うものは、森
を悪くするものである。実はよく聖書を読むとダビデ、ソロモンと王様が確かにいま
す。しかしイスラエルの王は、どちらかというと緊急自体発生の時に、人々を守り
人々を危機から、急な難から救うためにあります。通常は、主なる神様が王様である。
民は、神様にしたがって自分たちの歩み、自分たちの使命をはたすのみで結構である
という信仰なのです。王が王として威張り散らす、支配をほしいままにするというの
は、聖書ではありません。ダビデは聖霊を受けてなるのです。イスラエルの王の即位
になされる油注ぎは、本来聖霊を注がれるということです。神の力を受けて、神様の
仕事をするということです。

 そして聖書のイスラエルの王の理想は、苦難の僕であります。イエス様の言われた
「一番偉いものは、一番皆に仕えるものでありなさい」です。つまり聖書の管理人、
監督の理想は、人々部下が一番働き安くし、一番その賜物を発揮できるために、働く
人であります。どこかの王のように、自分の理想を求め、自分の理想を実現する人で
ないのです。自分の思ったことを人にやらせる人ではありません。仕える人です。
 イエス様の十字架で起ったことは、こうしてピラトは自分の使命を果たすことを忘
れたこと、神の民イスラエルが、主なる神だけが王であるという神の民であることを
捨てたことでありました。つまりイエス様の十字架は、自分の使命と自分の務めの喪
失において、いつも起こることであります。自分の賜物を忘れた時に、イエス様の十
字架はいつでも起こるのです。
 オリブの木は、自分の油のつくり、イチジクの木が甘い実をつくり、ぶどうの木が
ぶどうの実を実らせるように、自分の使命を生きるのです。いばらに王となってもら
ってはいけません。それは森の破滅です。
 16節には、ピラトはイエス様の裁判をせずに、民衆の声に従って、自分の保身を
計りました。イエス様を十字架に引き渡しました。実はピラトは、イエス様の復活後
も、数年間ユダヤの総督であったそうです。イエス様の裁判に立会い、イエス様の復
活も聞いたはずですが、ピラトのその後は記録には、何も残っていないそうです。ピ
ラトは、イエス様を裁いたときに、すでに裁かれていたことになります。自分の保身
を図ったときに、ピラトは自分を破滅させたことになります。自分を守って自分を殺
したことになります。イエス様は自分を捨てて、復活されました。私たちは、十字架
のイエス様を見るとき、仕えるものが仕えられ、命を引き渡すものが、命を得る姿を
見ます。受難週のこの時、今一度イエス様の十字架の恵みを受けて、イエス様の仕え
つつ歩みたいです。全てが神さまの計画にあること、しかし十字架の時も、希望をも
って前進し生きることを示されます。

 祈ります。「天の父よ。御名をあがめます。先週は総会があり14年度のまとめと
15年度の計画を感謝です。15年度の画を導き、支えてください。いよいよ本日から
も受難週です。イエス様の十字架を思いつつ歩ませてください。来週は高橋芽生さん
のバプテスマと當房順子姉の転入式です。お守りください。どうか、求めるところを
守り、導き支えてください。幼稚園は4月1日からの幼保連携型の歩みとなり、又中
山は児童クラブは昨日正式に申し込まれた1名の学童からの始まりです。どうかなお
送ってください。どうか主の守りと導きをお願いします。M姉は3・20に手術をさ
れました。昨日退院され、仁愛会病意です。どうか守ってください。M兄の検査入
院を守ってください。H姉、K兄、A兄支えてください。東北地震から5年目
になっています。避難者は今だ22万です。復興は遠く、放射能の避難者もまだまだ
多いです。避難者を守ってください。1週間また主の御前に歩ませてください。み名
によって祈ります。アーメン。」

   ヨハネ伝19章8〜12節                      20150322
           「 何の権威もない 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず主に感謝致します

。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩みと罪の悔い改め、1週間を導く本日の

み言葉を聴いて行きます。
 本日は受難節というイエス様の最後の1周間を覚える時期になっています。今年は3月28日から受難

週に入り、4月5日が復活祭となっています。本日は、イエス様の最後の特に十字架に付けられるとこ

ろから聞いて行きます。
 昨日は土曜日でしたが、南九州連合の定期総会が、熊本愛泉教会で持たれました。100名くらいの方

が集まって14年度の報告と15年度の計画、予算を立てました。私は会計でしたが、上手に予算が立てら

れず、申し訳なかったです。さて今年特に強調されたのは、来年2016年のバプテスト大会を沖縄で開催

したいということでした。実は南九州連合は2つの沖縄の教会を持っています。那覇新都心教会と西原

新生教会です。いつもこちらに来てもらって定期総会やバプテスト大会をしています。いつか、沖縄で

もバプテスト大会をしたらどうかと言われてきました。しかし経費の面でどうしてもできないでいまし

た。しかしとうとう来年2016年にしたらどうかと計画を進めています。交通費がかかるので多くの方は

行けないと思います。しかしなんとか総会が成立するくらいの方が、沖縄に行って、沖縄の信徒の方に

出席いただき、バプテスト大会の交わりを深めたいと計画しています。現実には時期の問題、交通費支

援がどこまでできるのかありますが、一番安い時期になんとか開催したいと進めています。どうか祈っ

てください。さらに、本日は当教会の総会もあり、14年の反省と15年の計画がよく審議されますように

祈ります。
 さて聖書は、通常第2回めのピラトの尋問と言われるところです。すでに一回目は先週聞きました。

ピラトは先週聞きましたが、ユダヤ地方というところに送られてきたローマ帝国の総督でした。イスラ

エル・ユダヤ地方は、ローマの植民地でありました。常に独立の機運が高く、特にイスラエルは皇帝礼

拝を偶像としていたので、いつも暴動や反乱が起こる地区でした。ここに送られてくる総督は、普通の

総督ではなく、かなりの実力者でないかと言われています。総督ピラトは俗人で残忍なところがありま

した。しかしイエス様の裁判においては、さすがです。どうもイエスさまの訴えは、冤罪で無罪ではな

いか。イエス様の訴えのこの事件の裏には、時のユダヤ・イスラエルの権力者、祭司長、律法学者、下

僕たちの妬みや恨みがあるのではないかと気づいいたようなのです。
 しかし、うすうす真実を知ってはいるのですが、きちんと裁判をしようとしない総督ピラトの姿があ

ります。それは私達も常にもっている姿です。事実を知っていても、先送りし、真実を知っていてもそ

の通りにしない、できない。保身を諮る姿であります。ピラトはイエス様の裁判の前に、すでにいくつ

かの失策をしており、ユダヤ人からローマ皇帝に訴えられておりました。もうこれ以上、ユダヤ人から

自分の失策を皇帝に告げ口されたら困る状況だったと言われます。
 それでまずはじめに考えたのが、イエス様はユダヤ人にとって、またローマ帝国にとっても全く無害

、無実なただの人であると示すことでした。ピラトは今ではありえませんが、イエス様の罪が決定する

前に、イエス様をムチで打ち叩き、よれよれにします。そして無残なイエス様の姿を、ユダヤ人に示し

ます。そしてイエスが訴えるに値しない、裁判するに値しない男である、無力なただの人であると示し

たのです。つまり、ピラト総督の目論見は、こんな男の裁判をして何になるのか。意味がないでないか

。政治的にも、宗教的にもこんな弱い、無力な人が何かできるは思えないと示します。つまりユダヤ人

達の裁判取り下げをねらいます。しかしそれはうまく行きません。ユダヤ人、イスラエル人は、イエス

様をなんとか殺し、亡き者にしようとしました。それは、イエス様がご自身を「神の子」として示され

たからです。ローマ人にとってイエス様が神の子かどうか、そんなことはどうでも良かったのです。ロ

ーマ人にとって、イエス様がローマ皇帝に逆らうものかどうかが問題だったのです。
 本日の前の19章7節に、総督ピラトは、本来どうもこの裁判は、ローマにとっては、どうでもよさそ

うだと思っていました。しかし、ユダヤ人の訴えつまり「この人は『神の子』といっている」と聞いて

、これは困ったと思ったのです。8節の「恐れた」は何か恐れるものがでてきたというよりも、この裁

判は一筋縄でいかない、単にイエス様が訴えるに値しない人であると示すだけでは、どうにもならない

と知り始めます。そのそも本当にイエス様が神の子であるなら、その背後には、ローマ皇帝を凌ぐ、ロ

ーマ皇帝とは問題にならない力と権威があることになります。ローマ皇帝に反対するどころか、ローマ

帝国を根底から覆すかもしれないのです。
 ピラトは、あらためて2回目に、一回目は「真理とは何か」でしたがイエス様に「どこからきたのか

」と聞きます。総督ピラトは証言をとりたかったのでしょう。本当のところ、イエス様の裁判はどうい

うことなのか、興味を持ち、自分の仕事つまりローマの安定にどう寄与するのか、知りたかったのでし

ょう。
 9節ピラトは言います。「あなたは、どこからきたのか」。これは、確かにあなたはどこから来た、

どこの出身か、どこの生まれか、という表面上の地上の知識をしめします。しかし私達が自分に「自分

はどこからきたのか」と言う問いは、実は実際に母さんから生まれたというどこから来たかという場所

ではないのです。自分のあり方、難しい言葉でいえば存在、つまり実存を問うことばでもあります。自

分は何者であるのか、日本人だ、韓国人だ、インドネシア人だという前に、人間である。どんな人間で

あるのか。何を求める人間であり、何を目指す人間であるのか。これは、自分の過去、現在、未来を通

して、この世に生まれて来た意味、この世に果たすべき意味を問うことばでもあります。多くの哲学者

はそれぞれに、自分のあり方、生きる意味を問いました。
 歴史をみますと自分はどこからきたのか、という問いは、考えさせられます。ソクラテス・プラトン

はご存知、無知の知をいいました。人間は、自分が何も知らないと言うところまで学ぶべき存在である

とします。何も知らないということがわかったとき、初めて知るところに達したということです。キル

ケゴールは人間は単独者であるとします。多くの人の中で自分で決め、一人で生きて行かねばならない

人です。サルトルは、人間は対他存在、つまり他人の中で他人の目を気にしながら生きて往く存在でし

かないとします。ハイデッガーは、人間は、死にゆく存在であるとします。人間は、常に自分の死を常

に目の前において、生きていかねばならないとします。これは世俗では、やめることを考えて仕事しろ

とか、退職届けを胸に秘めて仕事をせよとかの言い方になります。中国の老子は自分は無であるとした

でしょう。あるいは、水を理想としました。形を自由に変えて、しかし水は水であるあり方を変えない

姿です。人間は水のように姿を変え、しかし水であることをやめなという生き方です。
 こうして「あなた、自分はどこからきたのか」は大切な問です。大小、深さはありますが、大切な問

いです。総督ピラトはローマの帝国の俗人であったとされます。しかし問いました。第一回目は18章38

節に「真理とは何か」でした。そして2回めの今は「あなたはつまり私は、どこから来たのか」です。

どうもイエス様に出会うということは、常に自分の生き方が問われるのです。反対から言えば、自分の

生き方を問わずに、イエス様に何かを問う時は、本当は問が成り立っていないのです。これもまた端的

にいえば、自分は何もしないで問うことは、問いにならないのです。これは先生をしたことのある方は

わかると思います。生徒がいくら真剣そうに聞いてきても、自分から何も調べない、自分は何もしない

で答えはなんですか、と問われても、これはおかしいというのと同じです。そして、書いてあるように

、イエス様はまたもピラトの問いの裏を知られています。つまりいい質問をするのですが、その根底に

自分がかかっていないのです。自分は何もすることなく問う問は、根本的には、答えることができない

のです。
 10節に、ピラトは自分の問いに答えられないイエス様に少し怒ったのでしょうか。イエスさまを脅し

ています。人間が神様を脅すとは、話にならないのですが、よくやることです。そもそも脅しは、本当

には実力のない人が使う手であります。自称イスラム国の姿を見ればわかります。最初はとんでもない

国がでたものだと恐れた人が多かったと思います。しかしだんだん正体がばれてきます。ただのイスラ

ム教の名を使った過激派集団です。とにかく反対する人を殺して、恐怖を煽り、宣伝します。あるいは

オウム真理教も似ています。世の終わりを自分で演出して信者を増やすのです。
 有名なフォイエルバッハは『キリスト教の本質』を書きました。ここでキリスト教は人間が作った宗

教であるとします。人間が、宗教を作り、人間が宗教を編み出した。宗教は人間が自分の慰めのために

作ったとするのです。フォエイルバッハには、神様からの声を聞く、神様からの語りかけを聞く、本当

の祈りのその真の姿がないのです。哲学者のキリスト教になっています。
 偽者の宗教には、日々の努力、日々のささやかな楽しみ、日々の訓練・努力からの逃走があるです。

毎日の営みからの逃走です。それも必要かもしれません。それはそれにかかる人がいるかも知れません

。しかし教育、子育てと同じで、カッコつけても何しても日々3度の食事を与え、おしめを変え、日々

保育することからしか始まりません。教育は日々の営みです。今度、連合会計をしていていつも思うの

は、1万円違っても、1円違っても、同じ違いは違いです。あわせないと行けません。何度も何度もやり

直して、合わせて行きます。それをしないと前に進みません。
 11節、ピラトの「釈放する権限も、十字架に従事活につける権限も自分は持っている」に答えていわ

れます。確かに表面的には、そうです。しかしイエス様はその根拠を知る方です。いやその権威を与え

た方です。「神から与えられていなければ、何の権限もない」。なんという明確さでしょうか。課長が

平社員に指示する。その権限が与えられている限りです。部長が課長に指示する。その権限が与えられ

ているからです。社長が部長を指示する。その権限が与えられているからです。ピラトがイエス様を裁

判する。ローマ皇帝がその権威をピラトに与えているからです。そしてローマ皇帝は、ただしばらくの

時、神様がこの地上の支配を許しておられるに過ぎません。
 ローマ書13章1節「人は皆上の権威に従うべきです。」とあります。そして続けて「神に由来しない

権威はない」とまで書いています。理由は「今ある権威はすべて神によって立てられているからです」

とあります。昔から評判の悪い聖書でもあります。これでは改革や革命、改良ができないと言われたも

のです。上から言われた通りにしろということかと言われたものです。しかし反対です。宗教改革者の

ルターは、上に立つカトリックに抵抗し、逆らいました。根拠は何か。同じです。「全ては、神から権

威が与えられいる」。したがって、間違ったことをする人は、神から権威を外されるしかないという確

信です。真の神様が本当の権威である。間違ったことをする人、制度は、必ず神様から権威を剥奪され

るという信仰です。つまり上に立つ総督ピラトは、本当の権威、主なる神様に向かって仕事をしなさい

ということです。
 どうしようもない社長が席についた。どうにもならいとただごきげん伺いをするだけか。そうでない

のです。自分に示された自分の仕事をするのです。社長でなくて、自分の会社の使命を果たしてすると

いうことになります。どうしようもない夫と一緒になった、これは今はありませんかもです。しかし、

たとえとして主に示された自分の主婦の仕事をするのです。子供を育て、孫を養い、家庭を切り盛りし

、育てるのです。イエス様の「神から与えたれていなければ、何の権威もない」とはこうして実は改革

、革命の思想なのです。
 最後に12節、イエス様を脅したピラトが今度は、ユダヤ人当局に脅されています。イエス様の十字架

は「脅すものが脅される」という人間の原罪、浅はかな姿が現われています。祭司長、律法学者はいい

ます。「自分を王とするイエス様を釈放したら、ピラト総督は皇帝の敵になりますよ。」なんと巧妙な

、これまた巧妙な訴えです。ピラトはこうしてイエス様を十字架につけるしかなくなります。そして、

こうして神様のご計画、イエス様がこの世に来られた使命、私達の罪を担って贖う働きが成就されてい

くのです。
 イエス様の裁判を読む時、私達は、人を恐れるのではなく、自分の使命を果たすことを示されます。

上からの権威は本当の真の権威である、すべてを神様が握っておられる。私達は使命が終わる時、いつ

でも取り替えられ、やめさせられるです。又天に召されるのです。私達は、イエス様の大きな恵みと赦

しを受けて、自分の働きをこの世で果たしていくのです。イエス様の十字架の愛と罪の赦しを心から受

けて、受難節を歩みたいです。全てをお委ねし、しかし自分の務めを果たしつつこの世を、主の恵みに

よって歩むのです。

 祈ります。「祈ります。天の父よ、み名をあがめます。本日は総会があり、まとめと計画をいたしま

す。どうかよき計画を導き、支えてください。いよいよ来週からも受難週です。イエス様の十字架を思

いつつ歩ませてください。多くの求道者の方を感謝です。どうか、求めるところを守り、導き支えてく

ださい。幼稚園は4月1日からの幼保連携型の備え、又中山は児童クラブの備えをしています。特に中山

はまだ生徒がおりません。どうか送ってください。どうか主の守りと導きをお願いします。M姉は

3・20に手術をされました。成功だったとのことです。どうか守ってください。A兄の検査入院を守っ

てください。H姉、K兄、A兄支えてください。東北地震から5年目になっています。避難者は

今だ22万です。復興は遠く、放射能の避難者もまだまだ多いです。避難者を守ってください。1週間ま

た主の御前に歩ませてください。み名によっていのります。アーメン。」

  ヨハネ伝19章1〜7節                      20150315
           「 十字架につけよ 」
 
本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず主に感
謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩みと罪の悔い
改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 
本日からはいよいよイエス様の最後の1周間から聞いて行きます。実は、受難節に入るごとにマタイ、マルコ、ル
カ、ヨハネと毎年順番に最後の1周間を拾って聞いています。今年は調べてみますとヨハネ伝の十字架の箇所から
聞く年になっています。さっそくヨハネ伝の十字架の箇所から聞いて行きます。イエス様の最後の一週間はなんと
言ってもイエス様が人となって来てくださった最後の仕上げというか、イエス様の目的のそのものであります。イ
エス様の十字架は使命の挫折であるとか、人間の弱さの現れであるとか、イエス様の社会革命の失敗であるとかい
ろいろな解釈があります。しかし福音書をきちんと読んでいくと、イエス様の十字架はたまたまたそうなってしま
ったとか、失敗とかでなく、イエス様はこのために来てくださり、十字架を担うことが、復活を目指したイエス様
の本来の救いの道であったことが分かります。
 
さて1節から聞いていきますが、すでにヨハネ伝では18章の28節からユダヤ人当局は、イエス様を総督ピラトの所
に連れていって裁判を願っています。すでに何度も言いますが、18章31節にあるとおり、祭司長、律法学者とい
うユダヤの当局は、イエス様を死刑にしたいのです。しかしユダヤ人は死刑の権限がなかったのです。それはイス
ラエルにあるエルサレムは当時、ローマの植民地であり死刑という最後の権利はローマが握っていたのであります
。そしてピラトはローマ皇帝に反抗する人であれば死刑にしなければなりませんが、ローマ皇帝、ローマの政治に
反抗しない人であれば、極刑にする必要はなかったのです。この事情からユダヤ人当局はなんとかイエス様を殺し
て無きものとするためには、ローマ皇帝への反対者として訴える必要がありました。イエス様お裁判はこうしても
ともと冤罪の者を、死刑にするという方向性があったのです。
 
当時エルサレムを治めていた総督ピラトは、ローマの政治家としては優秀であったろうと言われています。ピラト
がエルサレムを収めていた期間は9年間であったと言われています。当時も今もこの前のシリアの自称イスラム国
に示されるように、イスラエルのエルサレム周辺国は、2000年前から常に独立運動が起こり不穏な国々でした。
しかしローマ帝国はなんとしてもパレスチナ地方は平和にしたかったと言われています。それはパレスチナ地方は
南はエジプト、北はローマ、東はペルシャ、西は地中海と交通の要所にあり、ここが平和でないと世界を収めるに
困ったと言われています。パレスチナでも特にイスラエルは頑固な信仰があり、それはもちろん主なる神を信じる
ユダヤ人ですが、偶像礼拝を徹底して嫌い、当時ローマ帝国は皇帝が神となっていましたので、いつも何かあるご
とに内乱や騒動が起こりました。ローマ皇帝がこんなところに派遣する総督はかなりの実力のある人であったとさ
れます。
 
しかし総督ピラトは確かに実力はあったかもですが、実はイエス様の裁判をする前にすでに2,3の失策をしていた
とも言われています。総督ピラトは難しい場所に派遣されるそんな優秀なはずの総督にも関わらず、イエス様の裁
判では自分の責任を回避しました。きんとした裁判をしなかったのです。それはすでに2,3の失策をしてユダヤ
人に訴えられていたからとも言われるのです。
 
伝えられているのは、これは日本人にはわかりづらいですが、ローマでは軍馬の頭につける軍の記章に皇帝の肖像
が使われておりました。これがユダヤ人には偶像とみなされたのです。ユダヤ人当局はピラトにエルサレムに入る
時は、皇帝の肖像のついた記章は、偶像をエルサレムに持ち込むことになるのでやめてくれと言っていました。し
かしそこはローマ人のピラトはまさかそこまでと思わなかったようです。その皇帝の肖像の記章を軍馬にそのまま
つけてエルサレムに入り、エルサレムの人々は偶像が神殿に持ち込まれるとして暴動を起こしました。総督ピラト
はローマの軍隊の力でそれを収めたのです。しかしこれは失策としてローマ皇帝に伝えられたそうです。後は同じ
ような失敗でローマの軍旗にやはり皇帝の像が描かれており、これがもとで起こった事件もあったそうです。ピラ
トは、ローマ皇帝をなんとかユダヤ人に馴染むようにしたかったようですが、ユダヤ人が皇帝礼拝を偶像としてい
ることを理解せずに、ことごとく失敗しました。
 
今に直せば、相手の国民の嫌がることをわざと何度もして、それでもローマ皇帝のためであるとふんぞりかえるこ
とがあったようです。今も似たようなことをしているのかも知れません。とうとう自分の立場を悪くして、肝心の
イエス様の裁判の時に、自分の力をだせないのでありました。
 
1?7節のピラト裁判はある意味で、めちゃくちゃ裁判だったと言われます。それは1節にあるようにまだ刑罰が確
定していないのに、イエス様は鞭打たれています。これはローマの裁判ではめったにないそうです。ローマは法律
を持って国を治めることを目指した国家でした。したがって今と比べるとずいぶんひどい制度かもしれませんがそ
れでも、パウロがローマの市民権で守られたように、法の支配が一方で強かったのです。しかしイエス様は判決さ
れる前に鞭打たれ、ローマ兵の嘲笑と愚弄を受けておられます。1節と3節にもイエス様打たれています。なぜ、裁
判の前にイエス様が打たれるかです。多くの答えは、総督ピラトはイエス様の無罪を知っており、できれば助けた
かったようです。しかしその方法を間違えたようであります。
 
それは総督ピラトは、イエス様を裁判の前に鞭打ち、兵隊に愚弄させておいて、ある意味で威厳と無力さを示し、
引き立てた。そしてユダヤ当局にイエス様がいかに無害であり、いかに王としてなっていないことを示し、訴えを
取り下げさせようとしたのではないかとされます。しかしこれは見事に失敗してしまいます。4節と6節にはピラト
は「この男
に罪を見いだせない」としています。本来なら罪を見いだせないなら証拠を調べ、どうどうと無罪の判決を下して
、放免すればいいのです。しかし総督ピラトはそれをしません。なぜか、ユダヤ当局が訴えを取り下げる方法を取
らせようとするのです。ここにある意味で、ピラトはユダヤ当局に弱みをにぎられており、きちんと正しく裁判官
としての仕事をすることができなかったのです。
 
しかしこれは私達にもいつも起こることかも知れません。本当は正しいことを知っている。しかしその正しいこと
をそのまますることができずに、他の方法を取るために、返ってこじれてしまうということです。私達はいつも本
末転倒をしてしまう存在なのです。例えば、教会は罪人の救いのために建てられています。教会はイエス様の愛の
業を行うためにあります。教会はイエス様に従うためにあります。しかし肝心の救いがおろそかになって、他のこ
とで忙しいということが起こります。教会は愛と真理を求めるためにあるのに、そうでないことが起こるのです。
信徒の交わりにためにあるのに、そうでないことが重要視されることが起こります。
 
ピラトは、総督としてどうどうと裁判をすればいいのです。しかしイエス様を愚弄し、鞭打ち、その姿に同情を買
わせて、裁判の取り下げを狙ったのです。しかしこれはユダヤ当局の目論見と全く違っていました。ユダヤ当局は
、イエス様がユダヤの王として振る舞うということよりも、ご自分を神の子とされていることが我慢ならず、問題
だったのであります。ユダヤ人にとって問題なのは、イエス様が政治的なメシア・キリストでなくて、宗教的に自
分を神の子とされたことが我慢ならないのです。それはすでにユダヤの最高法院での裁判で、明らかでありました
。イエス様はご自身を神の子とされ、これがレビ記24章16節「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の
御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」とある刑罰にかかったのです。
 
こういう事はこの前の自称イスラム国の後藤さんの殺害にも当たるかも知れません。すでに後藤さんの殺害状況を
幾人かの証人たちが話をしています。交渉に当たる助ける方のイスラム法学者はイスラムは人質をとらないとか、
戦闘員でない民間人を人質にして殺すはもっとも酷い罪であるとか伝えたようです。しかし相手はもう憎しみの塊
であり、もう通常の対話とかかけひきではどうにもならない状態である。ピラトがいかにユダヤ当局の同情を買お
うと画策しても、裁判取り下げをねらっても相手は、イエス様の妬みと憎しみで、判断がおかしくなっています。
この時は正しい裁判をするしかないのです。
 
言って見れば決然とした裁判というか態度で、ことに当たるしかなかったようです。王としての威厳はなくどうに
も力ない弱々しい一人の男がいる。裁判しても何も特にならない。無害である。しかしそうれであればあるほど、
ちゃんとした裁判で無罪にすべきだったのです。ユダヤ人には死刑の権利がない。ローマの総督である自分にしか
ない。そしたら自分が判断すべきで、他人に、人に判断させてはいけません。
 
私達もイエス様に対しては、このことが起こるのです。イエス様を誰とするのか。イエス様を只の人とするのか。
偉い人とするのか。あの人はこういう。この人はああ言う。しかしその時、自分が判断しないで人の判断に任せる
ことが起こるのです。私の罪を負い、私のために十字架についてくださり、私のために復活してくださった私の神
、私の主である。しかしそのことを、他人の判断、人の判断で受けてしまうのです。自分で読み、自分で感じ、自
分で受け、自分が信じることをしないのです。
 
信じることに服従が伴わない信じ方になるのです。信じていますと言いつつ自分の生き方を通す生き方になるので
す。信じているのに愛さない信じ方になるのです。これは口先だけの信じ方です。これがピラトの信じ方の姿です
。ピラトは18章38節にイエス様が「私は真理を証しするために来た」と言われると「真理とは何か」と問いまし
た。問はある。しかしその先がないのです。真理とは何かと言う問いは、自分の生き方がかかる問であります。聖
書の真理は、私がその真理を知りそして信じ、そしてそれを生きることにあります。聖書の真理はそれを生きるこ
とから始まります。特に信仰の真理は、そこに生きることがかかります。聖書信仰は服従が伴い、愛が伴い、行動
が伴う信仰なのです。だからパウロは信仰義人を大切にしました。それはイエス様を信じる信仰義認を受けた者は
、服従と愛と行動に生きざるを得ないからです。
 
ピラトはイエス様に罪を見出さないと知りながら、そのことをきちんと裁判して示さないのです。自分だけに与え
られている死刑判決の特権を放棄するのです。自分だけが助けられるのに助けないのです。東北大地震から4年が
過ぎ5年目に入ります。先週は多くの方の体験が示され、言われ、書かれて紹介されていました。ある体験を読み
ました。第一波の津波に飲まれて母が瓦礫に挟まれて「助けてくれ」と言っているのに、どうしようもなくごめん
と言って、第2波の津波を避けてそこを去り泳いで助かった娘さんの手記がありました。肉親を見捨てた、しかし
今は自分の人生を一生懸命生きることが母への鎮魂である、と書かれていました。粛然とした今19歳になった娘さ
んです。
 
私達にできる慰霊が本当にあるとすれば、ピラトのように自分の務めから逃げるのではなく、イエス様のように淡
々と自分の使命、自分のできることをしていく姿です。イエス様の十字架の恵みに答えて生きる。イエス様の恵み
で人生のこの難関を乗り越えて生きたいです。
 
祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。3月22日は総会があり、まとめと計画をいたします。
どうかよき計画を導き、支えてください。いよいよ今年も受難節に入っています。イエス
様の十字架を思いつつ歩ませてください。多くの求道者の方を感謝です。どうか、求める
ところを守り、導き支えてください。幼稚園は4月1日からの幼保連携型の備え、又中山は
児童クラブの備えをしています。特に中山はまだ生徒がおりません。どうか送ってくださ
い。どうか主の守りと導きをお願いします。M姉は3・20に手術です。どうか守ってくだ
さい。H姉、K兄、A兄支えてください。東北地震から4年立ちましたが、避難者
は今だ多く、復興は遠く、放射能の避難者もまだまだ多いです。守ってください。1周間
を主のみ前に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」

   第1ペテロ1章22〜24節                      20150308
           「 永遠に変わらない 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 今朝は教会学校の礼拝にて卒園礼拝をすることができまして感謝です。年長のお友
達は、いよいよ1年生となって巣立って行きます。教会の卒園礼拝の他に幼稚園では
卒園式もあります。子供達はなんで2回も卒業式があるのだろうと思っているかも知
れません。しかしこれからの日本の歩みと子供達の歩みを考えると余りにも課題が多
く又重く、本当に主の守りの内に育ってほしいと祈るばかりです。特に気になるのは、
集団的自衛権の行使で、日本がアメリカの下働きをさせられそうなことです。今まで
折角、平和憲法の下に独自路線と言ってもそれでもアメリカのいいなりだったと言う
方もありますが、歩んで来たのにという思いがあります。
 1993年の湾岸戦争の始まるまで、アフガニスタンの救ライNPO法人、ご存知ペ
シャワール会は、会長さんが我がバプテストの福岡の香住ヶ丘教会の会員です。当初は
車にデカデカと日の丸を付けていたと講演で語ってくださいました。イスラムの人々
に日本は一目置かれて、日本はアメリカと違う、原爆を落とされそこから立ち上がっ
てきた国だと支えてくれるイスラムの人が一杯いたそうです。しかし湾岸戦争に協力
する当たりから、いわゆる後方支援をしだしてからイスラムの人も、日本はアメリカ
と同じだと考えるようになったと言われます。時代は変わるので仕方ない面がありま
す。しかし折角日本が築いてきた平和憲法を持つ姿を捨てるのは勿体ないです。
 平和憲法は国民を守らないと言う方があります。しかし自称イスラム国のこの事件
を見るにつけて、本当は平和憲法が日本国民をちゃんと守っていたのでないかと思う
ことがあります。これを武力に変えてはたして、平和憲法の持っていた力と威力に勝
てるのだろうか、幼稚園の子供達を送り出すにつけて考えさせられることです。
 さて聖書は、第2週ですので使徒の手紙から聞くで、ペテロの手紙から聞いていま
す。ペテロの手紙は、書かれたギリシャ語が非常に優れており、漁師であったペテロ
自身が書くのは無理であろうと言われています。私もたった4節に5回も辞典をひか
ないと分からない単語がありました。福音書では余り使わない難しい言葉で書いてい
るのです。おそらくパウロがテモテに口述筆記させたように、このペテロの手紙は、
ギリシャ語の優れた弟子に筆記させたと思います。
 22節から読みました本日の箇所は、実は13節からの標題「清い生活をしよう」と
いう後半部になっています。全体のテーマは清い生活、いわゆるキリスト教では聖化
と言われるところです。聖化というのは、キリスト教の歴史では何度か強調されたこ
とがあります。一番はメソジスト教会のはじまりであるウエスレーでありましょう。
この人はキリスト者は聖化された生活が必要であるとして、生活を厳しく律したので
す。朝6時に起きて聖書を読む、正午には祈りをする。午後3時また聖書を開く、午
後7時にまた祈ると言う類です。とうとう方法の決まった人・メソジスト教会という
名前を付けられました。これはメソッドという方法という英語から来ましたがあだ名
だといわれています。バプテストもまた水に沈む洗礼を大切にして、ギリシャ語の水
に沈むというバプタイズというのが、あだ名になってバプテストとなりました。この
ウエスレーも又、清い生活、魂の清めを非常に大切にして、生活を整えたのです。日
本でいうとホーリネス教会がこの流れを一番受けていると思います。
 ただ難しいのは、清い生活となるとどうしても見た目になります。形から入ること
になります。その時はいいのです。キリスト教を受けるのに、私達はわけが分からな
いので、まず形から入るしかないです。まずただたどしくてもとにかく祈りをします。
訳が分からなくてもとにかく座って聖書を読みます。礼拝をします。献金をします。
訳がわからなくてもとにかくまず形を整えることからだ、というのはある程度あって
います。まずしてみないとわからないからです。
 しかし初めはよくても信仰が形から入り、いつまでもそこにいると残念ながら律法
主義になります。形だけにいるとその意味が無くなって何のためにそれをしているの
かも分からなくなります。イエス様が何度も何度も律法学者にしめされたように、本
来の安息日は人間を仕事から解放し、休ませる為にあります。マルコ伝2章27節
「安息日は人のためにある。安息日のために人があるのではない。」全くその通りで
す。しかしそれが、規則を守る日になるのです。そしてやっていない人を見下げたり、
差別や区別したりとなるのです。
 22節にペテロ書は「魂を清めよ」といいます。そして「清い心で深く愛し合いな
さい」といいます。清くなることは確かに形からはいることがある。しかし本質は魂
を清めることです。清い心で互いに愛し合うことです。ここですでに教会に長い方は
聖書の清いは、もともとは異なる、分離するというのが原意であると思い出されるで
しょう。教会が清いのは、普通の建物と異なるからであります。神さまが清いのは、
被造物と異なるからであります。キリスト者が清いのは、普通の人と違う所があるか
らです。
 実は先週、弟から父が気落ちしているのでちょっと行ってくれと頼まれました。長
崎の老人ホームに行ってみると確かに食が細くなり、元気がありません。しかしたま
たま父のいる老人ホームに、同じ中学今の高校ですがその3年後輩の方が入ってこら
れました。この方が父のことを「先輩、先輩」と言って立ててくれるのです。87歳
の父に84歳の後輩です。そして私に言うには「あなたのお父さんは、多くの先輩達
が先輩風を吹かせて後輩を叩いていたのに、一度も後輩を叩かなかった」と言われる
のです。父は「覚えとらんな、そうだったかな」というところです。そしてその方は
私の職業は何かと聞きました。「鹿児島で牧師をしていますよ」というと「クリスチ
ャンですか」と驚かれました。ところが私がクリスチャンとわかるとこの方は、そう
だそう言えば中学の数学の先生がクリスチャンだった、と父と話が盛り上がるのです。
そして「あの先生は変わりもんだったね。一度も生徒を叩かんやった」というのです。
戦争前のあの時代に、生徒を叩かない先生がいたのかと思います。しかし父とその後
輩さんの話では戦前のあの時代に生徒を叩かない変わりものの数学の先生がいたとい
うのです。まさにこれです。この先生は、聖書的に言えば清い心、異なった心でおら
れたのです。清いというは、確かに倫理的な清さもあります。しかし人と違っていて
もそれを貫き通す。人に馬鹿にされても、何を言われても、神さまの教え・戒めに生
きることです。私たちも今一度、清さに生きるというと無理ですが、人と違うことを
恐れないことに生きるのは、よいことです。
 23節に、次にペテロは「新たに生まれる」ことを言います。これはキリスト教の
教えでは、新生といいます。新しく生まれることです。これについては、ヨハネ伝3
章に当時の最高の律法学者ニコデモも理解出来なかったことが書かれています。イエ
ス様がヨハネ伝3章3節に「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできな
い」と言われました。ニコデモが3章4節に「年をとった者が、どうして生まれ直
すことができますか」と全く理解しません。イエス様は3章10節に「あなたはイス
ラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」と言われています。こん
なに真正面にイエス様から叱られた人は珍しいです。ニコデモは、御霊における新し
い誕生がどうしてもその時は分からなかったのです。
 ある意味で人間の限界というか、人間の力、知力では届かないないところかも知れ
ません。私達の力では、人間を考える時に、どうしてこの世で「新しく生まれる」と
いうことが出来るとかまた分かるでしょうか。それはそもそも不可能です。この世に
ある人間はこの世の観点でしか自分を考えることしか出来ません。これは哲学には無
理な話です。この世の哲学は、この世のことにおける人間を捕らえ、語るのです。し
かしイエス様は聖書は違います。聖書は人間を神さまから愛されている人間として示
し、また神さまから御霊を注がれている人間として示すのです。つまり聖書はすべて
の人間を救われていく課程の人間として示すのです。
 私達は生まれたままの姿、生まれたままの人間は、神さまのことを知ることがでず、
神さまの事柄をすることができません。神さまの御心を知ることができないのです。
正しいこと、良きこと、善であることを知ることはできるかもしれない。しかし知る
だけでなくてそれを行うとなると全く出来ません。ローマ書7章18節にパウロ先生
は書いています。「善をなそうとする意思はありますが、それを実行するこができな
いのです」とあります。私達は、正しいこと、良きこと、善であることが分かっても
それを実行できない。もし実行したとしてもそのとたんに悪が入り、自分の欲や自分
の名誉、自分の利益のためにそれを使い、それをしてしまうのです。良く言われる謙
遜の高慢です。私は何もできません。私は取るに足りません。そう言いつつ、実は自
分こそ立派にできると思っている状態です。また私は知りません、といって本当に絶
対知ろうとしないのです。これは知ることの怠慢の状態です。私は知りません。だっ
たら知ろうと努力することが問われます。しかしそれをしないのは怠慢です。
 しかし新たに生まれる人、神様の愛を受けて御霊を心から受ける人は、聖霊に導か
れる人であり、新しく生まれた人です。この人はこの地上にあって神さまの御心を喜
びます。神さまの意思を自分の意思とします。自分は衰え、自分は評価されなくても、
神さまの御心が行われることを第1とするのです。イエス様が言われた「まず第一に
神の国と神の義を求めなさい」の人です。これは人間の力、生まれたままの人間は不
可能です。生まれたままの人間は、神さまを第1とする、神の国を求めて生きるなん
てことは知る事もなす事もできません。聞いても馬鹿馬鹿しくてやっておれないので
す。そこに価値を見出すことができません。
 しかし神さまは新生の道を備えて下さいます。それがイエス様の十字架と復活を受
ける道です。イエス様の十字架と復活を自分のこととして受ける時、主は御霊の喜び、
聖霊の導きをその人に備えられます。イエス様のインマヌエル、イエス様が共に歩ま
れることを、心から受け信じる時、その人は、愛する人、新しく生まれた人です。地
上のことは必要です。食べなければなりません。しかし地上のことから天上のこと、
神の国をあがめ、希望を持ち、待ち望む人になるのです。朽ちない種、生きた言葉で
あるイエス様から生まれた人は、こうしてこの世にあって、神さまを喜び、神の国と
神の義をまず求めて歩む人に恵みで、変えられます。回りがどんな状況にあろうとも、
神さまに示される自分の道を歩まれるのです。
 先ほどの父と後輩さんが、覚えている中学の数学の先生は、戦前の軍国主義の時代
に、生徒を叩かないという信念をもち、教育されていたのです。今でも新聞テレビに、
先生の暴力がでてきますが、今ならともかく戦前にそれをするのは、大変な生き方で
ありましょう。御霊を受けて、新生された方にゆるされた生き方であったのです。
 最後にペテロは、有名な「草は枯れ、花はしぼむ。しかし主の言葉は永遠に変わら
ない」といいます。これは有名すぎてこの言葉だけで引用されます。もちろん背景な
しに言葉だけでも十二分に神さまの御言葉の力を示すことができます。ペテロの手紙
もまた、この言葉をそのまま暗唱して使っていたと思われます。しかしこの言葉はイ
ザヤ40章の7,8節からの引用です。イザヤ40章とはイザヤの後半部分始まりで
す。ここはイザヤの後半部分を導く後半のイザヤの召命の箇所とも言われます。時は、
イスラエルがバビロンに捕らえられて、70年が経過する頃でした。バビロンの東に
ペルシャの国が台頭してきます。40章からイザヤはこの歴史の動きをきちんと見て
います。神さまの歴史の介入をみていたのです。
 バビロン帝国という圧倒的な強大な軍隊を持つ帝国の前に、パレスチナの全て国が
破壊され、支配されました。エルサレムもまた神の神殿を瓦礫にされました。エレミ
ヤの時代には、バビロンのネブカドネザル王は神の僕とも言われていたのです。バビ
ロンを倒す者はこの世には、全くいないかのようでありました。しかし、すでにバビ
ロンを神の僕とまで言ったエレミヤもまた、神さまはバビロンの罪を罰するであろう
と預言していました。そしてその時がきたのです。
 「草は枯れ、花はしぼむ」自然の法則ということもできます。自然界にあるものは
すべて時間の支配を受けます。ギリシャ神話では、時間をクロノスといいますが、ク
ロノスというのはすべてを食べつくしていく怪物として示されます。怪物クロノスか
ら逃れて、食べられないものはありません。すべてが時間という怪物に食べられ、消
化され破壊されていくのです。しかし草は枯れ、花はしぼんでも、なお変わらないも
のがあります。それが天地を創造され、時間を造られた神様です。クロノス、時間を
造られた神さは時間を支配される方です。時間クロノスに、縛られる方でないのです。
 神様は人間が造ったという考え方があります。時間を造られた方を知らないのです。
時間を造る方を知らないと、人間が神様を造ったとして満足します。そこにとどまる
虚偽に安住するのです。しかし神様は時間を造られた方、私たちを造られ、私たちの
魂を造られた方です。
 私たちに伝えれた福音のイエスさまは、時間を超えて私たちと共に歩み、新しく生
まれ変わらせる方です。この世にあって聖なる生活を備えて、そこに生きる力を与え
る方です。私たちはそれぞれの聖なる異なる使命が神様から与えられています。主の
十字架と復活の恵みを大いに受けて罪赦され、召されるときまで、互いに愛し合いつ
つ歩みます。
 
 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。3月も2週目になります。3月は総会が
あり、まとめと計画をいたします。どうかよき計画を導き、支えてください。痛まし
い事件が続きます。守ってください。草は枯れ、花はしぼみますが、主の言葉は変わ
りません。「神の国と神の義を求めて」歩ませてください。多くの求道者の方を感謝
です。どうか、求めるところを守り、導き支えてください。幼稚園は4月1日からの
幼保連携型の備え、又中山は児童クラブの備えをしています。どうか主の守りと導き
をお願いします。M姉は3・20に手術です。どうか守ってください。H姉、K
兄、A兄支えてください。東北地震から4年立ちましたが、避難者は今だ多く、復
興は遠く、放射能の避難者もまだまだ多いです。守ってください。1周間を主のみ前
に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」

    マタイ伝27章11〜14節                      20150301
             「 お答えにならない 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 今朝は早いもので3月の第1主日になりました。いつものように主の晩餐を受けま
す。またいよいよ年度の最後の月となり、まとめと計画の定期総会もあります。実は
15年は2月22日から受難節が始まっており、15年の受難週、棕櫚の主日が3月29
日で、イースター復活祭は4月5日になっています。今年のペンテコステ聖霊降臨日
は5月24日です。本日は、いつものように第1主日ですので福音書から聞いて行き
ます。クリスマスとイースターの前の4回はいつもその出来事の聖書を中心に聞くこ
とにしています。今年も数回を十字架の出来事から聞くことに致します。
 さて先週は友人からくるフェイスブックを見ておりましたら、NHKに自称イスラ
ム国の名前にイスラムを使わないでほしいとの運動が起こっているとありました。イ
スラム国のお陰で本当のイスラム教が誤解されるという主張のようです。本当のイス
ラムは人質を取って殺したりしないというのです。また今、自称イスラム国では、
アッシリア帝国時代の偶像を破壊していますが、あれはコーランの言うところの偶像
破壊でもなんでもなく文化の破壊、文明への挑戦であるそうです。脱線ですが一昨日
のテレビでは預言者ヨナの墓が壊されていました。旧約聖書の預言者ヨナは実はコー
ランにも出てきます。私達はヨナの墓があったことも驚きですが、コーランでも大切
にされている預言者ヨナの墓を壊すとは、自称イスラム国に人たちは本当はコーラン
を読んだことがないのでしょう。宗教の名を借りた過激派の自己宣伝はいつの時代も
ありますが、イスラム教はよくわからないので、私達は判断ができないのです。私達
は本当のイスラム教の姿を知る必要があります。
 さて聖書は、マタイ伝27章のイエス様のピラトの尋問のところです。このローマ
総督ピラトの尋問はピラトの尋問、死刑の判決、兵士の愚弄、十字架刑と4場面に分
けられて伝えられています。本日はその最初のピラトの尋問から聞いて行きます。す
でにご存知の通り、イエス様時代のイスラエルはローマ帝国の植民地でありました。
全ての自治権がイスラエルにありませんでした。特に裁判においては、死刑のような
極刑はローマ帝国の総督がこれをしました。このように一つの国に統治されているの
に違った法律が適用される時に植民地といいます。脱線ですが今度「戦後70年談
話」が政府からだされます。戦前の朝鮮半島、台湾、樺太を植民地というかどうかで
もめているらしいです。戦前に朝鮮半島、台湾、樺太からは貴族院の選挙がなされな
かった。つまり同じ統治されているのに、同じ法律でなかったとなって植民地であっ
たというのが通説と言われます。またいろいろこねくり回して、植民地にしなかった
とういうのでは思いますが、しっかり歴史の反省をしてほしいです。
 さてイエス様の裁判は祭司長、律法学者達は、なんとしてもイエス様を死刑にした
かったのです。そしてそのためにはローマの総督ピラトの裁判を仰いだということに
なります。すでにイエス様はマタイ伝26章54節に以下に、大祭司カヤファの大審
問で死刑になられていたのです。この時は大祭司がマタイ伝26章63節「生ける神
に誓って我々に答えよ。お前は神の子メシアなのか」と問いイエス様は64節に「そ
れはあなたが言ったことだ」と答え、続けて「あなた方はやがて人の子が全能の神の
右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」とイエス様は答えておらます。すると大祭
司は「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要であろうか」と判決しています。つま
りイエス様の罪状は、最高法員の大審問のところでは自分を神の子とした、神の冒涜
罪で死刑となります。
 しかしユダヤの裁判では、こうして死刑にできても、実際の執行はできないのです。
祭司長、律法学者は、次に総督ピラトの裁判を受けさせるのであります。イエス様が
ユダヤの最高法員の裁判を受け、それからローマ総督のピラトの前の裁判を受けるま
での手順については実はいろいろな方法があるそうです。聖書解説書によるとその手
順が踏まれていないと取る説があります。つまりピラトの前のイエス様の裁判は一体
本審査の本審議なのか予審なのか、なぜピラトだけが裁判してその回りに陪審員がい
ないのかとかあります。通訳がいたのかいないのか。イエス様はギリシャ語かラテン
語を話されたのかとかです。しかし聖書は時として本質だけ書くときがあります。イ
エス様の裁判では本審だったのか、予審だったのか、陪審員がなぜいないのかは、当
時の公用語のギリシャ語だったのか。結論としてはローマ総督ピラトの前に神の御子、
イエス様は立たれたというのが大切なのです。神の子、イエス様は自他共にこの歴史
が認める、夢でも幻でもないこの地上のローマ帝国の総督ピラト前に裁判を受けられ
たのです。
 ピラト総督は人となりはよく分かっていません。評判のいい人とか、人間性に溢れ
る人とかは無いらしいです。残忍だったという説があるそうです。しかし当時のロー
マの総督がだいたいそうであったように、あわよくば元老院になって出世したいとい
うくらいのローマの出世街頭をひた走る一人の官僚だったようです。イエス様への質
問も「お前がユダヤ人の王であるか」とそのものズバリを問うています。つまりロー
マ人総督ピラトにとっては、イエス様が神の子であるかないか、神を冒涜したかどう
かとか全く自分の出世に関係在りません。ピラトの関心はただ一つ、イエス様がロー
マ皇帝に楯突く者であるか、反対者なのかでありました。いつも独立運動がおこる情
勢不安なユダヤの地で一番の問題は、勝手に国を作り自称王様ができること、ローマ
の支配に反対しローマへの税金を払わなくなることでした。
 こうしてみると2000年前も今の自称イスラム国と全く変わりません。国としての
政権であるイラクやシリアは、勝手に国をつくる団体に目を光らせているわけです。
本来イラクやシリアがきちんとした国であるならば、独立運動はおこらないはずだと
言っていいのです。イエス様がユダヤ人の王と称して、ローマ帝国に反対するならす
ぐに死刑であり、そうでないならただのローマ帝国の極東であるユダヤ人の宗教問題
なのです。
 イエス様は総督ピラトの問いに答えて「それはあなたのいうことである」と答えら
れました。前の口語訳と新改訳聖書では「その通りである」と訳しています。しかし
今の共同訳は直訳形で「それはあなたが言うことである」としました。なぜそうした
かです。総督ピラトは「ユダヤ人の王か」と問いましたが、これは政治的なメシア・
キリストかと問うた事になります。しかしイスさまは政治を含めた人間全体の王であ
りメシア・キリストです。イエス様は政治的な王以上の方、政治を越えた方でありま
す。イエス様の答えは「政治的なメシアではない。それはあなたのいうことである。
私はそれ以上のもの、真の神の子メシア・キリストである」ということです。
 12節から祭司長と長老達が、訴えたとあります。ここに大切なことは祭司長と律
法学者でなくて、祭司長と長老達という民の代表が入っているということです。つま
りマタイ伝ではイエス様が十字架に付けられたのは、単に祭司長や律法学者という当
局というか、政治的な指導者層がそうしたのでなく、イエス様の十字架の判定にちゃ
んと民衆がいるのだとしていることです。聖書では政治当局は間違うけれども民衆は
間違えないとかありません。ローマ帝国は神に反逆するけれども民衆はそうでないと
かいうのは在りません。イエス様の十字架においては、上から下までローマ総督から
民衆にいたるまで、イエス様に反対、反逆して、神の御子を十字架に付けるのです。
人間は金持ちから貧乏人に至るまで、主なる神さま、イエス様に反対する。神さまを
神さまとしない、神の戒めを受けないと言うことがここに示されています。考えてみ
れば聖書の教える原罪、私達の持つ罪は上から下まで完全に罪に染まっており、イエ
ス様の恵み、神さまの恵みなくてしては、正しくあることが不可能なのです。アダム
とイブが、エデンの園に置かれて、全てのことをなして良い。ただ一つ園の中央にあ
る木の実を食べるなと言われた。しかしよりによって全てのことをせずに神さまの禁
じられたことからしてしまうというが、人間なのであります。
 12節の後半から14節まで、聖書はイエス様が何も答えられない姿を語り続けます。
13節にあるように、これは今も西洋人ではそうらしいですが「不利な証言に対して
沈黙するのは黙認している、是認している」と取られるのです。沈黙は金であるとい
うのは、どうも日本だけに通用することのようです。ローマの裁判ではそもそも初め
に被告人がまず自分の状態を訴えて弁明し、これに対して裁判官が反論をだして罪を
定めていくのが普通であると言われています。イエス様のように沈黙して黙っておれ
ばどんどん不利になっていきます。向こうの言葉が多いほど、イエス様の罪状は大き
くなり、重くなり、酷くなります。少しでも反論しないと裁判はますます不利になっ
ていくのです。
 しかし書いて在るとおりにイエス様は、何もお答えになりません。これではどうに
もなりません。ますます罪は重くなり、あたかも死にたいのか、自殺したいのかとな
ります。そしてまさにイエス様の目標は、神の子として、死んでいくということで
あったのです。イエス様は神の子として、死んで行かれることが、ここで殺されるこ
とが使命であり、神さまの御計画になります。しかし本当に只死んでいくことが、神
さまの計画でありえるのか。いろいろな手を尽くした。人間のあらゆる力と知恵を尽
くした。そしてどうにもならなくて死ぬしかなかった。それならば私達はこれは神さ
まの御心であったのだと言えるでしょう。そしてあらゆる限りの手を尽くして死んで
行く人を見るとき、それでもなおそこに神さまの御計画を知り、そのことを神さまの
ものとして受けるのではないかと思います。
 しかし何もしないで、黙っていて一言も言葉を出さないで、死んでいくことが、な
ぜ神の御心、神さまの計画になるのか。私達は多くの疑問を持つのです。この前、テ
レビで癌の治療をしないで死んで行く方のドキュメントをしていました。もちろん痛
みの緩和治療はされるのです。しかし積極的な癌の手術やホルモン治療や薬剤による
制癌治療をされないで死んで行かれるのです。なんでそんな番組を最後まで見たのか
ですが、痛みの緩和治療をされたのが、我がバププテストの京都バプテスト病院だった
のです。先生は出てこられませんでした。病院の言い分は患者の意向にそって治療し
たまでですとなっていました。痛みの緩和治療だけで、後は患者が賛成しない限りそ
のままにしておく。大いに反対があるでしょう。これが神の御心かと怒る方があるで
しょう。私も分かりません。
 イエス様はなぜ反論されず、一言も語らず、ただなされるがママに十字架に付けら
れていかれるのか。すでに教会に来られている方はこれがイザヤ53章7節の苦難の
僕の姿であるということをご存知です。イザヤ53章7節には「彼は口を開かなかっ
た。屠り場に引かれていく小羊のようだに、毛を切る者の前に者を言わない羊のよう
に、彼は口を開かなかった」とあります。イザヤ53章は、第一義的には、バビロン
時代に補囚され、連行されたイスラエルの民が、バビロンの覇権が終わり、ペルシャ
時代に時代が交替する時期です。イスラエルもまたペルシャの時代になると帰還でき
ると言う幻を示された一人の苦難の僕を支持し助ける預言と言われています。バビロ
ンからペルシャの世になる時にいち早くペルシャの時代を読み取り、そのために準備
をする。これは言ってみれば今を支配しているバビロンからみれば敵対行為になりま
す。主の僕の歌は、イザヤ42章、49章、50章、そして53章と4つあるとされ、私
達が知る53章はその僕の歌の最後のものです。
 イザヤの預言した主の僕は、42章がその召命です。そして49章が主の僕の課題で
す。そして50章が主の僕の苦難とされ、私達がよく知っている53章は主の僕の挫
折、失敗と言われています。つまり名前は伝えられていませんが、イザヤの預言する
主の僕は、イスラエルの帰還のために苦労する主の僕は、最終的に捕らえられて殺さ
れたと言えます。しかしこの主の僕の働きは無駄にならなかったのです。イスラエル
は事実、紀元前539年にバビロンを出発し、帰ってくることができたのです。名前
さえも知られていない主の僕の隠れた働きによって、その生きているときは報われな
かったけれども、事実その幻は正しかったのです。
 初代教会がイザヤ53章をもってイエス様の働きの預言として読み、聞いたのは、
当然とも言えるでしょう。イエス様の大きな使命、神の子の使命は、人間と神さまの
和解であり、そのための罪の赦しです。神さまと人間が本当に交わり、神さまが人間
を喜び、また人間が神さまを喜ぶ事。神さまが人間に使命を示し、人間が神さまの使
命を受ける事。この事が本当に起こるためには、罪の赦しが必要です。今の世が神の
国に繋がり、神の国が今の世につながる。今のこの世に生きているのに、あの世の神
の国と同じように生かされる。これは罪の赦しが必要なのです。無神論の世にあって
しかし神さまを信じて天に宝を積んで生きる事。これは罪の赦しが必要なのです。私
達がこの世を喜びつつ、しかしこの世に捕らわれず生きるには、全てが神さまの恵み
に係っており、神さまの恵みの赦しに係っています。イエス様の十字架の恵みに全て
が係っているのです。イエスさまはここに歩まれました。黙って歩まれました。一言
もしゃべりませんでした。私達はイエス様のこの働きをただ感謝して受けるのみです。
 主の僕の苦難とされるイザヤ50章10節に「お前達にいるであろうか。主を恐れ
主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩く時も、光の無い時も、主の御名に信頼し、
その神を支えとする者が」とあります。世の愛が冷え、力が盛んにもてはやされる時
に、主の御名に信頼し、イエス様の十字架を支えとして歩む一人になりたいです。

 祈ります。「天の父よ御名をあがめます。3月の第1週を感謝です。この後の主の
晩餐もお守りください。2月が終わり、3月に入ります。ここまでの守りを感謝です。
年度もこの3月で終わります。14年度は本当にいろいろな事がありました。2名の
バプテスマと5名の召天者がそのことを語ります。さらに今続けてのバプテスマ準備と
転入の準備の方があります。守り導きください。全てのことをご存知のあなたが求道
者の方にみ手をおいてください。この4月1日から幼稚園は0歳1歳2歳が来ます。
約90人の幼稚園になります。また中山も地域の児童クラブを始めます。どうか事故
無く、イエス様と地域に仕える教会にしてください。なお大地震から4年が経過して
避難者の方はまだ22万人です。放射能から避難者を含めて、どうかみ手をおいてく
ださい。1週間また支え導き恵みもって支えてください。御名によって祈ります。
アーメン」

   エレミヤ27章12〜15節                      20150222
             「 偽りの預言 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 今朝は早いもので2月も第4週になりました。いつものように最後の週は旧約聖書
から聞いて行きます。旧約聖書は今はエレミヤ書からですが、エレミヤ書は27章に
なっています。
 先週は、1年に一度あるそうですが、今回初めての参加になりました九州連絡会と
いう西九州、北九州、福岡と南九州連合の九州の4連合が集まって伝道を協議する会
がありました。これに西南神学部と九州バプテスト神学校、久山療育園と大牟田敬愛
園が参加する協議会でした。本当は連合の会長さんだけで私はでなくてもいいのです。
しかし今回は南九州連合がホスト役で迎えると言うことで、私も出てくれと言うこと
で行きました。会場は1日目は児湯教会で、2日目は高鍋伝道所でありました。
 児湯教会は何度も行ったことがありますが、高鍋伝道所は初めていく教会でした。
皆さんも行かれたことのある方は少ないと思います。今は、横川先生が本当は退職牧
師ですが、次の方が来るまでしてくださいと又なさっています。日豊線の高鍋駅から
10号線にでる交差点の延岡よりにちょっと行ったところにありました。ただ、折角
10号線沿いに見えるのですが、高鍋教会にはいるには10号線から直接はいれないの
です。宮崎とは思えないような小さな路地にはいってから教会に曲がるという具合に
なっていました。いろいろな理由でそうなったそうですが、なんだか勿体ないという
ところです。入り口が狭いのは、イエス様が言われた「狭い門からはいりなさい」を
地でいくのかと、考えさせられました。教会は30人もはいれば一杯になるような小
さなかわいい教会堂でした。しかし見るからに田舎の教会という雰囲気がただよい、
高鍋の町にある教会のたたずまいです。この町にも主の民があって、礼拝は5,6人
だそうです。しかしちゃんと5,6人の礼拝が続けられれているのが、すごいなと
思って見てきました。どうか、高鍋教会の為に祈りましょう。

 さて聖書は、エレミア27章から「偽りの預言者」と通常いわれている所です。こ
との起こりは27章1〜3節にあります。今では考えられませんが、エレミヤは主な
る神さまに、その首に横木でくびきをつけるように言われています。首に何か装飾品
をつける、首飾りは今でもあります。しかしエレミヤは首に、何か罪を犯し、その刑
を受ける時の首の頸城をつけているのです。エレミヤはおそらくこの27章の預言を
したときには、首に横木の頸城をつけて預言したと言われています。
 3節あるよに、エレミヤの預言の時が書かれています。それはユダのゼデキヤ王の
ところにエドム、モアブ、アンモン、チイルス、シドンこれは今のシリアのことです
が、5国の王の使者が集まっていた時でした。聖書の解説書を見ますとこのゼデキア
王の時代にエドム、モアブ、アンモン、チイルス、シドンの5つの王の使者が来てい
るのは、エレミヤ書28章1節に「その同じ年、ユダのゼデキヤ王の治世の初め、第
4年」とあります。したがってなんとこのエレミヤ27章のこの預言はBC594か
593年であろうと分かっているのです。聖書の預言はこうして、時間と場所を本当に
大切にします。日本の国で紀元前594年か593年というのは、縄文時代から弥生時
代の過渡期ですので、誰がいて、何を語り、どうしたというのは、全くほとんど分か
りません。日本の一番古来の国家である有名な卑弥呼の邪馬台国でさえも紀元2か3
世紀です。しかしエレミヤの預言は邪馬台国の卑弥呼から6〜700年前の出来事です。
こうしてエルサレムの中で、バビロン捕囚の大破局の前の6,7年前の預言であった
時まで時間が決まり記されていることになります。
 さてこのエルサレムの周辺の5つの王の使者がエルサレムに来て、ゼデキヤ王のと
ころに来ているのはなぜかです。実は聖書にはその理由が書かれていません。しかし
エレミヤの預言の内容からその理由がだいたい分かっています。つまり読みませんで
したが27章の5~11節に「主なる神は天地の造り主である。しかしその支配を僕バ
ビロンのネブカドネツアルの手に渡した。ネブカドネツアルに刃向かってはならない。
バビロン王の頸城を負い、彼に仕えよ」となっています。この事からこの5つの国の
使者の来た理由は、エルサレムのゼデキヤ王の所に来て一緒になって同盟を組み、バ
ビロン王ネブカドネツアルと戦おうという使いであったろう、と言われています。エ
レミヤは主なる神に呼ばれて、首に罪人のしるしである頸城をはめて、そして5つの
国の王の使者にこの事を語ったのであります。5つの国の使者に自分の首に頸城をは
めたまま出会い、そして主のなる神の預言を語るというのは、おそらく他の国の使者
にとっては奇想天外なできごとであったと思われます。国の使者つまり外交官の前に、
首に犯罪人の頸城をはめたまま出てくるこの人は、なにものか。びっくりしたのでは
ないかと思います。
 しかし他の国ではあり得ないことでしたが、エルサレムではあり得たのです。それ
はエルサレムでは預言者という王様に箴言をする地位が確立しておりました。そして
この預言者達は時々、エレミヤだけでなく、エゼキエルもそうですが、裸で生活した
り、ぼろを着て生活したり、箱庭を造ったりの奇行を持って、神さまの言葉を預言し
たのです。おそらくゼデキア王も、この5つ国の外交官・使者達に、我が国では王の
顧問に預言者達があって、もうしわけないが時々変な預言と変な行動で神の言葉を取
り次ぐのです、とか言われていたのでないか。言われた外交官もエルサレムは預言者
という務めがあるとは聞いていたが、実際に王の顧問として預言者がいると言われれ
ば、無碍にこの人は失礼な人であるとは、言えなかったのでないか、というところ
だったと思います。

 本日の聖書の12節はそのような中で語ったのです。周辺の5つの国の使者・外交
官に語っただけでなくて、ゼデキヤ王もすでに聞いていたと思います。しかし今一度
語った。正確に言えば語り直したのではないかと思います。それは4〜11節の要約
ともいえます。一言で「首を差し出して、バビロンの王のくびきを負い、彼とその民
に仕えよ。そうすれば、命を保つことが出来る」というものでした。おそらくもうす
でにエレミヤは、前に5人の王の使者の前で語っているので、ゼデキア王には短く本
論だけ語ることができたのだと思います。続けてエレミヤは、ゼデキア王とその民が
「剣と飢饉と疫病になどで死んでいいのか」と語っています。
 私達はここに、預言者が語る驚くべき預言を知らされるのです。それは、戦争の
まっさい中に、これから戦争をしなければならない時に、よりによって敵である相手
の「王に仕えよ、敵の王のくびきを受けよ」と語る預言者の姿です。これは現代であ
れば、全くないとは言えません。たとえば、先の第2次世界対戦の時に、東大学長を
された無教会のキリスト者であった矢内原忠雄という方は、戦争の始まる前にこの戦
争は必ず負ける、といつも言われていたことが伝わっています。軍部の情報操作に全
く動ぜず、真実を知っている人がいるものです。しかし多くの国民はそんなことは分
かりません。
 数年たったでしょうか美術家で評論家の「せのおかっぱ」さんの半生を描いた『少
年H』という映画がありました。ご家族は英国聖公会のクリスチャンでお父さんは洋
服屋さんです。外国人のいろいろな情報を外国人から知るのです。しかしまさか日本
が負けるとは、まだそこまでの情報は持っておられず、日本の政府に何か計画がある
のだよと、一生懸命少年Hつまり若いころの「せおのかっぱ」さんに日本政府を執り
成し、なだめる姿があります。しかし見事に日本は軍部の情報とは、全く反対に完全
に敗戦するのです。

 エレミヤの時代は、今と違って新聞もテレビも、無線も電話もインターネットも無
いのです。しかしバビロン大帝国の前には、首を差し出せ、無駄な抵抗するな、バビ
ロン王に仕えよ、とさえ言うのです。エレミヤは圧倒的なバビロン帝国軍の前には、
パレスナの5つの国が同盟して戦ってみてもどうにもならないというのをはっきりと
見ているかのようです。それにしても、主のなる神の預言者が、異教徒の他神教の国
に対して、他神の国、異教の国に仕えよ、首を差し出せ、と言っていいのでしょうか。
 いやその前に、本日は読みませんでしたが、25章6節には、主は「これらの国を
私の僕バビロンの王ネブカドネツアルの手に渡した」と言われています。エレミヤは
実は自分の預言で3回も、25:9節、本日の27:6、そして43:10とバビロン王、ネブ
カドネザルを、主の僕と呼んでいます。ネブカドネツアルが、主なる神への信仰を
もっていたとか、主なる神に尊敬を持っていたとか在りません。まだ聖書は今の形に
なっていませんが、それでも聖書の伝承を知っていたとか聞いていたとかも、全く在
りません。ネブカドネツアルは、バビロン帝国の無慈悲な王でありました。全き異教
徒、全き主への無信仰者であったのです。しかし主は、このバビロン王のネブカドネ
ツアルを自分の僕としたと預言します。

 13節、エレミヤは続けて、剣と飢饉と疫病で死んではなら無いと言います。ここ
は戦争が起こった時に、続けて起こる出来事を語っていると言われます。それは剣の
次は飢饉であります。これは先の第二次世界対戦の時も、そうであったと聞きます。
戦争が終わってもなお、都会では食料難が来て、田舎に食料を求めて多くの人が移動
しました。少年Hの映画でも、お母さんが折角少年Hが田舎から貰ってきたお米を
「得るよりも与える者は幸いなり」と聖書のことばを唱えながら次々に隣の人にあた
える姿があります。少年Hすなわち息子の「せおの」さんと大げんかになっています。
一市民、一キリスト者の善意ではどうにもならないのです。戦争が終わってもなお次
の段階は、飢餓で死ぬ人が多いのです。
 次に、エレミヤは疫病を語ります。これも戦争の直後は、物資が不足して薬も何も
なく、たいした事のない病気でも助けられなかったことが、言われています。戦争は
こうして、実際の戦いが終わってからも、また新しい戦いの始まりがあることを伝え
ます。シリアの自称イスラム国も、結局アメリカとイラク戦争の戦後処理が問題で
あって、自称イスラム国が起こったとも言われています。自称イスラム国をたたいて
も非難しても、自分で作った原因をまた自分で処理しているようなものです。戦争の
後の飢饉、戦争の後の疫病をどう処置するのか、戦争にはいつもそのようなことが、
あるのです。戦争をするためには、こうして、多くの問題を抱えつつ、勝っても負け
ても、その処理があることをエレミヤは示します。
 改めてなぜエレミヤはここまで透徹にバビロンとの戦いをみることができたの不思
議とされます。しかしおそらくエレミヤは自分よりも約150前のイザヤの時代の北
イスラエルとアッシリアの戦争をよく知っていたのでないかとの説があります。北イ
スラエルがBC722年にアッシリアによって滅びた当時のイザヤの預言を、何度も何
度も読み返し、その信仰をもって自分の時代、エレミヤの時代をみたのでないかと思
います。実は今、エレミヤ書のブームがおこっているというとオーバーですが、エレ
ミヤ書を読む人が多いとも言われています。戦争に備える時代というのはエレミヤ書
の読まれる時代なのです。

 14節には、偽予言者達の預言内容が語られています。彼らは「バビロン王に仕え
るな」と言います。まさに五つの国の使者と同盟を結び、大帝国バビロンと戦えとい
うのです。聖書保守主義なのです。いくら大帝国バビロンでも、パレスチナの五つの
国が同盟し、これにユダ・エルサレムが入って六つの国の同盟連合になれば、絶対に
勝てる。自分たちはこの土地をよく知っている。バビロン軍よりも地の利は自分たち
にある。どうして、六つの国が同盟すれば、いくらバビロン帝国と言えども倒せない
こと、防げないことがあろうかと言うのです。
 なぜ主なる神の国、イスラエル、エルサレムがよりによって異教徒の国、偶像礼拝
の国に仕えないといけないのか。なぜ、バビロンのくびきをおわないといけないのか。
主なる神さまは必ず助けてくださる。120年前のアッシリアが攻め来たとき、エルサ
レムは救われたではないか。というのです。預言者達は、主なる神の名をもっていま
した。主なる神さまの守りを強調しているのです。どうしてこれを否定できるでしょ
うか。主なる神さまが、主なる神さまの都と自分の民を守られる。必ず立ち上がって
くださる。この預言に一体誰が、何の文句がつけられるでしょうか。どうやってこれ
を否定するのでしょうか。

 しかし15節、エレミヤは言います。「私は彼らを派遣していない。彼らは私の名
を使って、偽りの預言をしている」つまり主なる神の預言者が、主なる神の民と主な
る神の都を守るというまことに当たり前の預言、誰が聞いても本当らしく聞こえる預
言は、実は、主なる神さまが派遣していないと言われるのです。私達はこのような時
に、どう判断して、どう受け止めていいのか。本当の所は分からないのだと思います。
 今風になおしますと誤解を恐れずに言えば、今はちょっと違いますが、無神論のソ
ビエトがありました。そして一応キリスト教国アメリカがあります。この時、キリス
ト者がアメリカで無くて、ソビエトに仕えよというようなものです。おそらくマルク
ス主義のシンパかとな思われるでしょう。自称イスラム国は話しになりませんが、も
しかしてイスラムこそ本当の主なる神の教えであって、キリスト教は間違いらしいと
いうのもあり得ます。しかし問題は、本当に主はそう言われているのかなのです。
 エレミヤは、なぜ、偽予言者が、主なる神さまを信じて、回りの5ヶ国と同盟を結
び、主なる神の敵バビロンと戦えと言っているのを、偽りの預言と見破れたのか。バ
ビロンのとの戦いは必ず負ける、今主なる神さまは異教徒バビロンを自らの僕とされ
ているからだ、と語ることができるのか。実は分かりません。ここには、普通の人は、
見破る力はないでないかと思います。

 私達がエレミヤから聞けることがあるとすれば、人間が、誰が考えてもそうだと言
えることが、必ずしもイエス様の思いとはいえないということです。五つの国と同盟
を結び、バビロン帝国と戦えば、いくらなんでも神さまは助けてくださる。主なる神
さまが、自分の国と自分の民を守らないことはない。どんな時にも必ず主なる神の民、
主なる神の都エルサレムは救われるとは、限らないということです。聖書では過信と
いうのは戒められます。不信のもまた戒められます。変な言い方ですが、私達は、過
信でも妄信でもなく、不信でも、弱信でもない。イエス様の聖霊に導かれる十字架の
信仰が問われるのです。助けず、倒されるままにされることが、神さまの計画であり
うることがあるのです。
 大きな声で言えば正しくなるとか、赤信号は皆で渡れば怖くないとか、やはりない
のです。正しいことは、大きな声で言おうが、小さな声で言おうが、正しいのです。
赤信号はやはり止まれであり、赤信号で渡ればやはり事故の起こる格率が高くなるの
です。イエス様の御心を知るのは確かに難しいです。しかしそれでもイエス様の御心
を求めていくことが問われています。私達は何度も失敗するかも知れません。しかし
失敗を恐れず、主の御心を求めて、前進して歩めと言われているのです。イエス様の
十字架と復活の恵みが、そこに導いてくださるのです。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。2月も最後の主日となりました。2月
を守ってくださったように、3月の歩みも又定めてください。自称イスラムの国のこ
とから愛が冷え、対決ばかりが声たからか言われます。根本を見つめ、平和を来たら
せてください。Tさんのバプテスマクラス守ってください。T姉の転入
の証をお守りください。多くの方の求道を支えてください。あなたがその心をご存知
です。どうか心の叫びに答えてください。そしてあなたを受けて共に歩ませてくださ
い。幼稚園と中山伝道所は4月1日から幼保連携型の歩みと児童クラブの歩みを準備
しています。どうか備えを十分にさせてください。地震の避難者を守り、放射能の避
難者の守りをおいてください。御名によって祈ります。アーメン」

    ルカ伝12章13〜21節                      20150215
             「 神の前に富む 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 本日は早いもので第3週の日曜日になりました。いつものように、バプテスト連盟
が使っています聖書教育誌の指定する聖書からか聞いて行きます。今回はそれがルカ
伝12章の通称では「愚かな金持ち」と言いわれる例え話のところです。
 先々週に湯川さんと後藤さんがイスラム国と称する国に殺されて、悲しみが癒えま
せん。いろいろな意見が出されています。とうとう産経新聞には、誰かが言い出すと
思いましたが、日本は平和憲法があるので、馬鹿にされるという意見がでたようです。
私はとっていないので又聞きになります。ヨルダンの国は自分の国のパイロットを殺
されたので、なんとさっさか報復の爆撃して、イスラム国と呼ばれる国の50人を殺
したとなっています。なんでも日本も一緒に戦おうと誘われて、日本には平和憲法が
あるので戦えないというと怪訝な顔をされた、とかだそうです。色々言いたいことが
あります。まず、ヨルダンが国としてしっかりしていないからイスラム国を名乗るう
なおかしな集団ができたのだろうということです。そして1人を殺したから50人を
殺すようなことをしている限り、平和はまず来ないというとことです。
 よく言われるようにイエス様がお生まれになったのは、イスラエルであります。そ
してこの場所こそエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ローマとずっと戦争
を何千年間も渡ってなしてきた国々のまっただ中でありました。イエス様の十字架の
平和のメッセージには、復讐はどうしても平和をもたらさない、という神様の知恵が
込められていると思います。
 復讐ではなくて、平和を作り出すにはどうしたらいいのか。力に対して力でなくて
戦う方法はどこにあるのか。武力を使わないで、戦う知恵をどうするのかが日本に与
えられた使命だと思います。それは簡単でないのですが、しかし、それが第2時世界
大戦を戦い、原爆を2つも落とされた国の体験を活かす道であります。産経新聞のよ
うな発行部数の多い新聞が、簡単に平和憲法があるから、日本はダメだという論理に
乗ってしまうのは情けないです。

 さて聖書は、愚かな金持ちといわれ箇所です。ルカ伝12章は非常に大切なイエス
様の言葉が連続しています。12;4「体を殺しても、それ以上何もできないものどもを
恐れるな」があります。あまりにも有名です。この前も「国境なき医師団」が、日本
国から危ないシリヤやヨルダンに入るな、パスポートを返納しろと言われて「申し訳
ないが、従うわけには行きません」とインタビューで答えていました。そうだろうと
思います。なんでわざわざ誰も助ける人がいないところにお医者を派遣して助けるの
か。これは国の仕事でないのです。国が国として成り立っていないからそこに行く団
体があるのです。それは使命感の仕事であり、もっといえばイエス様の「体を殺して
もそれ以上何もできないものを恐れるな」のみ言葉の実践でしょう。この言葉おかげ
でどんなに多くの人が国を恐れず、人を恐れず、使命に向かって進んでおられるかわ
かりません。次に12:10「人の子の悪口を言うものは赦される。しかし聖霊を冒涜す
るものはゆるされない」これもまたどんなに多くの方を力づけるでしょうか。私達は
表面上は人に合わせ、この世に合わせて生きております。しかしどこかで、これはお
かしいと気づくのです。そしてこれはおかしいと気ずいた時、私達は心に呼びかける
聖霊の声を聞くのです。そしてこの声には聞かないといけない。どんなに調子のいい
ことをしていても言っていても、この世に自分から合わせていても、最後は、聖霊の
声に聞く。小さなか細い声でも、神様がそれをなせという声を聞いたら絶対に馬鹿に
したらいかん、ということです。

 このように12章はダイヤモンドのような宝のようないい言葉があります。イエス
様がこれらの言葉を語られていた時、突然、一人の人がイエス様のところに来て「兄
弟に遺産を分けるように言ってください」といいます。前の言葉集が良かっただけに、
なにか突然、地面に投げ落とされたような気分になります。しかしイエス様時代には、
聖書を教える律法学者は、このように生活の指針を示す働きもしたらしいです。とい
うか、有名な人になればなるほど、このような日常の相談が舞い込んだと言われてい
ます。また脱線ですが、実はこの前からマホメットさんのコーランを読んでいます。
実は財産配分の話がよく出てきます。おそらくマホメットさんが、いろいろなところ
で相談されたのではないかと勝手に想像します。確かコーランは予言の書だったのに
突然、男は女の2倍の財産相続にせよとか、財産が残ったらなんと父母も6分の1を
受け継げとか、つまり戦争か何かで若くして死んだ息子の財産を父や母がもらう設定
まであります。財産は肉親でも分かたがいします。マホメットさんも大変だったので
しょう。しかし改めて、マホメットさんもアラビのその地で財産配分の相談をされる
ほど、信頼されていたことにもなります。

 イエス様はしかし、書いてあるようにこの人の心をすぐに読まれたようです。この
人は財産分配に困って、どうしようもなくなってイエス様に問うて来たのではないの
でしょう。イエス様は、15節に「どんな貪欲にも注意せよ」と言われました。どう
もこの人は、遠くの親戚か疎遠な親戚なのに、ある親戚が亡くなって、財産がもらえ
るかもと来てみたら、もらえなかったようです。なんとかならんか、そうだイエス様
ならなんとか少しでも分けてもらえるように言ってくださるかも、ということであり
ましょう。財産に対する執着心が人一番強かった人だったのかも知れません。もちろ
ん財産に執着しない人があるのか、と言われるとまずないでしょう。だからこの話は
ある人の話しでありつつ、万人向かっているのです。イエス様は、誰が自分を裁判官
や財産分配人にしたのか、と言われて、一つのたとえ話を話しだれたのです。
 このように、イエス様は誰かの質問を受けて、そしてそこから話を展開されること
が多いです。良きサマリヤ人も「隣人とは誰か」と聞かれて話されました。放蕩息子
も、また「この人は、罪人と一緒に食事をするのか」と言われてそれに答えてなされ
ています。質問を受けてそれに答えてなされる時、聞く方は一層真剣に聞かざるを得
ないと思いま。どんな下手な質問も、しないよりはましであるとユダヤの事わざにあ
るそうですが、頷けます。

 イエス様がされた喩え話は説明の必要もないほど誰でも分かります。これは幼稚園
の子どもたちも年長くらいになると理解するのではないでしょうか。ある金持ちがい
ます。神様は金持ちの畑を豊作にされました。私達は金持ちはもともとお金があるの
だから豊作にしなくてもいいのにと思います。しかし神様は、貧乏人にも、金持ちに
も哀れみ深い方です。豊作にされます。するとこの金持ちは、困りったと言うのです。
なぜなら、自分の今持っている穀物蔵に入りきれないほどの豊作だったのです。金持
ち蔵ですからそれこそ大きな蔵だったでしょう。しかしそれにも入れきれないほどの
豊作でした。これほどの豊作なのですから、少しは貧乏人や寡婦や孤児に分けてあげ
たらいいのにと思いますが、さっぱりです。全くこの金持ちの眼中には隣人、他人は
ありません。もしかして、家族もでてこないので、家族すらもこの金持ちの隣人でな
いのでしょうか。せめて家族でも親戚でも、分けてあげたらいいのにと思います。
 原文では、この金持ちの姿がよく分かります。まず。17節の「作物をしまってお
く」ですが、「私の作物をしまっておく」となっています。18節に「蔵を壊して」
となっていますが、実は「私の蔵を壊して」です。さらに18節の「穀物や財産をみ
なしまい」はこれ又原文は「私の財産と穀物をみなしまい」となっています。つまり
この金持ちは、私の蔵、私の作物、私の財産と穀物と私のオンパレードなのでです。
私、私、私、なのです。ついでに言うと、19節の「こう自分に言ってやるのだ」は
なんと原文は「私の魂に言ってやる」となっています。つまり私の作物、私の蔵、私
の財産と穀物、私の魂と4回も「私、私、私、私」となっています。聞いている方は
いやになるのです。この人は本当に全世界が、私のためにあると思っているのです。

 さらにこの人は「これから先、何年も生きて生きて行くだけの蓄えができたぞ」と
喜びまます。財産が増すということは、確かに安心も増すということかも知れません。
しかしこの人もっと大変な思い違いしました。それは、19節の「一休みして」です。
これは豊作で小麦がいっぱい取れて、古い蔵を壊して、新しい蔵を立てて、金持ちは
金持ちなりに多くの苦労して、すこし休んで、食べたり飲んだりしようと受け取りそ
うです。しかしそうでないのです。この一休みですが、実はイエス様がマタイ伝18
章11節に言われた休みなのです。そこには「全て疲れたもの重荷を負うているもの
は、私の元に来なさい。休ませてあげよう」となっていますが、あの休みなのです。
 つまりこれは確かによく働いたから少しは休みなさい、休息・休憩しなさいの休み
でありつつ、実はもっと根の深い本当に休み、神様の平和に包まれて、イエス様の十
字架の赦しに包まれて休むところの休みになっているのです。イエス様のマタイ伝
11章18節の休みは、実は、イザヤ28章12節の休みであるといわています。イザヤ
の休みは、もちろん神様の与えてくださる安息のことであります。そこには、イザヤ
の時代に、イスラエルに向かってアッシリアが怒涛の勢いで攻めてきています。イス
ラエルは風前の灯火のような有り様です。しかし主がイスラエルと共にあるとイザヤ
は語るのです。どんな敵の中にあっても、なお主の安息にはいることができるという
予言になっているのです。主が安息に入れるといわれたので、言われた者はその約束
を信じるだけでいいのです。主が言われる安息を信じて、安息にはいる。安息には安
息を受ける信仰が必要なのです。つまりじっと待つ時にはじっと待つ信仰が問われま
す。動いて働く時には、どんどん動く信仰が問われます。休むにも動くにも信仰が必
要なのです。何もしないということは、信仰がいらないと思いがちですが、そうでも
ないのです。

 イザヤ7章4節「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」とイザヤ
はアハズ王にいいました。多くの周りの国はアッシリアに対抗して、いろいろな備え
をし同盟を組んで、これにあたろうとします。しかしイザヤは神様が守ってくださる
ので、隣国と同盟を結んだり、南のエジプトに頼ってはいけない。神様を信じて「落
ち着いて静かにしておれ」というのです。これは勇気のいることです。周りがガタガ
タ動いている時に、じっと神様を待つ、時を待つのは信仰の働きです。なすべきこと
をなしつつ自分の時を待つのです。「すべて重荷を持つもの、疲れているものは、私
のものとに来なさい。休ませてあげよう」はこの神の安息に入れということです。が
たがたしても、どうにもならないことが私達にはある。神様の時があるのです。
 ところがこの金持ちは、まったく違った休みを考えました。財産こそ自分の休みと
思ったのです。財産があることが、自分の安心になると思ったのです。今まさに現代
人もまた、そのような中に私達は生きていると言えるでしょう。しかし突然、20節
の神様の声があるのです。「愚か者、今日今晩、お前の魂は、要求される、取られる
のだ」というのです。この世が、この世の価値のままでそのままであるなら、財産が
即安心であるというのは当たる人もあるかも知れません。しかし神様は天地の造り主
です。天と地の造り主とは、目に見える地の世界と同じように、目に見えない天の世
界も又、神様の被造物であると言う信仰です。この世は、この世で完結しません。こ
の世はあの世につながっています。私達は体をこの世に残して、魂が移されて行きま
す。神さまはこの世だけでなく、天すなわちあの世を造られており、神様はこの世の
主であると同時に、あの世でも主であられます。地の造り主であられる主は、天の造
り主でもあられる主なのです。

 私達としては、この世でも、あの世でも神様を知り、神様に仕えることは同じなの
です。あの世とこの世で何が違うのか、何が一緒なのか言われます。何が違うのかは、
すべてが違うのではないのかと言えます。すべてが更新されるとも言われます。この
世の何ものもそのままでおれないのかも知れません。しかし一つだけ同じものがあり
ます。それはイエス様です。私達が知る福音書のイエス様は、あの世でもこの世で
知っているイエス様です。この世で知るイエス様は、あの世では違ったイエス様で
あったというのは、ありません。もしそうでしたら、それこそ騙しの異端です。あの
世のイエス様とこの世のイエス様は同じイエス様のなのです。すごいことです。
 つまりわたしたちは、この世でイエス様に喜ばれることは、あの世でも喜ばれるこ
となのです。つまりこの世で隣人を愛する業、神様を心をつくし、思いをつくし、力
を尽くして愛する業は、同じなのです。私達はこの世でイエス様に喜ばれる業をして
おれば、あの世でも喜ばれることになります。つまりイエス様の喜ばれることは、こ
の世にあって、あの世を生きていることになります。

 この世にあってあの世を生きることが、あの世の生き方をこの世でも生きることが、
イエス様が一緒である生き方です。それは有名な生き方とか、優れた生き方とか、目
立つ生き方とか、お金持ちになる生き方とかには、ならないでしょう。目の前の出来
事を淡々と生きる生き方かも知れません。まさに神様を念頭において、隣人を念頭に
おいていきる生き方とも言えます。問題は日常の隣人を愛して生きるということです。
21節の「自分の前に富んでも、神の前に豊かにならないものは、この通りだ」の生
き方です。
 ニーチェは、「隣人を愛せよ」からは何もでてこないと言ったそうです。しかし
ニーチェは自分のためだけに生きて、隣人を失うときに自分を失い、狂人になって行
きます。不思議なことに、私達は自分であるためには、隣人が必要だあり、隣人がい
る時に、反対に本当の自分になれるようです。神の前に豊かになるとは、私が「私が
私が私だ」を考えなくなる時であります。私を考えなくて、イエス様と共に歩めれば
それでいいという時に、どういうわけか私も安心して、安息に入り、本当の自分と本
当の私が現れて、自由に生きてくれるのです。

 この後の12章は、これまた有名な33節に「天に宝を積みなさい」という教えに
なっています。神の前に豊かになれと同じことの違った言い方です。しかし今は天に
宝を積むはキリスト者でも死語の言葉になりつつあります。でもしかしキルスト者の
生き方の根本は、天に宝を積むことであります。どこかこの世を相手にしていない生
き方です。天に宝を積むとは、この世から理解されほめらる生き方から離れます。し
かし反対からいうとをもっともこの世が恐れる人は、実は「天に宝を積む人」でない
かとも思います。
 最初の国境なき医師団というボランティア団体のように、国の支援を受けられない。
国の支援がない人のところに、自分たちは行かないといけないのです、という働きが
あります。申し訳ないですが、国の無いところにいくのですから、お国に従うわけに
にはいかないのです、という働きがある。後藤さんのように生きるしかないところの
キリスト者達が実際にいます。まさにイエス様の「天に宝を積みなさい」の働きのし
るしです。

 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。2月も半ばになりました。自称イスラム
国に2人の日本人が殺され、次々とおかしな事件が報道されます。小学生が殺されま
す。おまわりさんが殺人をします。何をどう生きたらいいのかわかりません。しかし
イエス様は天に宝を積みなさい、神の前に富みなさいといわれます。そこに生きさせ
てくだい。多くの求道者の方を感謝です。どうか、求めるところを守り、導き支えて
ください。幼稚園は4月1日からの幼保連携型の備えをしています。又中山は児童ク
ラブの備えをしています。どうか主の守りと導きをお願いします。M姉、H姉、
K兄、A兄支えてください。東北地震から4年立ちましたが、避難者は多く、風
光は遠く、放射能の避難者もまだまだ多いです。守ってください。1周間を主のみ前
に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」
     第1ペテロ1章13〜21節                      20150208
             「 信仰と希望 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 先週は、捕らえられていた後藤さんがイスラム国に殺されてしまいました。祈りも
空しく残念無念です。いろいろな所で、イスラム国とはそもそも何であり、イスラム
教とは、ああいう人質をとって殺すことを認めるのかと言われています。テレビやラ
ジオでいろいろな学者や評論家がイスラムについていろいろいいます。しかし私も聞
いていて本当のところが、今一よく分かりません。とうとう一番大きな権威のあるイ
スラム教の団体が、イスラム国はイスラム教ではないと、宣言が出たとも言われてい
ます。キリスト教にいる方はあれは異端審問かなとも聞こえますし、イスラム教はそ
もそも異端というような問いを立てないともいう方もあります。あそこのイスラムは
イスラムといえないという宣言をイスラム教がだすのは、異例中の異例らしいです。
 私も巻頭言に書きましたが、とうとう19年前の96年3月16日に一回目読み終わ
る、と最後の頁に書いた日本語のコーランを引っ張り出して又読み始めました。今更
読んでもどうにもならないでしょう。私の持つ日本語コーランは、中央公論社からで
た藤本先生という方がアラビア語から訳されたコーランです。初めに書いてあります
が、これはイスラム教徒が訳した訳でもなく、認められたものつまり公認のコーラン
では、ないとあります。認められ公認の日本語コーランはイスラムの教の方がちゃん
とした信仰を持って、訳さないとだめとのことです。

 聖書は全部で66巻で、新約部分は27巻です。コーランは114巻になっています。
ただコーランは巻と言わずに、1章2章の章立てになっています。しかし分量は
ちょうど新約聖書と同じくらいになっています。つまり一つ一つの章、巻が新約聖書
よりも非常に少ないのです。ある意味で簡単に読めるともいえます。問題のコーラン
では人殺しが簡単にできるのかです。1章開巻、2章雌牛の章、3章イムラーンの章、
4章女人の章、5章5巻の食卓の章まで読んで見ました。言ってみればマタイ、マル
コ、ルカ、ヨハネと使徒言行録あたりとなるでしょう。
 第一印象は、慈悲深い神様という語りかけが多いです。おそらくこれは聖書でいう
ところの恵み深い神様のことでしょう。コーランは常に神様を「慈悲深い神」と呼び
かけています。やはり聖書に似ています。次に気づくのが、イスラムとは神に帰依す
る人のことですが、唯一の神への礼拝、貧しい人への喜捨つまり献金、そして善行の
3つの柱が何度も何度も繰り返されます。聖書的にいえば、礼拝せよと献金せよ、良
き業をなせ、がいつも出てくるのです。日本人には一番つまづきになる言い方です。
しかしこれだけ、繰り返されるとなんだか、日本では礼拝せよと献金せよをいえば躓
くと心配する前に、礼拝と献金と善行は、よっぽど大切なのだと思わされます。ここ
は読む人によって別れるところかも知れません。
 そして、5章5巻までしか読みませんが、信仰のための戦いが結構出てきます。こ
れだと若い読者は、武器をとって戦うのかも知れません。確かにコーランは具体的に
は武器を持てとか、相手を殺せとかありません。しかし信仰には神の道の戦いがある
ことを、何度何度も語ります。次に5巻までですが、予言者マホメットはアブラハム
に従え、ということをこれまた何度も言います。マホメットはアブラハムが自分たち
の模範であると考えていたようです。パウロがアブラハムの信仰を、信仰義認の代表
選手と捕らえたように、マホメットはイスラムの神の帰依者の代表をアブラハムと考
えたようです。イスラムとキリスト教のやはり親戚なのだと思います。最後に当たり
前ですが、コーランには予言者イエス様を語るのですが、神のみ子イエス様の信仰は、
間違いであるとこれまた何度も何度も出てきます。マホメットはイエス様は予言者で
ありますが、神の子ではないとします。最後までイエス様を神の子とは信じ、認めて
いません。似ていますが、ここで別れます。イエス様が単なる預言者か、神のみ子で
あるか。マホメットは信じませんでしたが、私達はやはりイエス様が神様であり、神
の子であり、罪の贖い主であると信じることができたこと、これが最大の恵みであり
大きな違いです。キリスト教はイエス様のへのイスラムつまり帰依者なのです。

 さて、本日は、第2週の主日礼拝となり、いつものように使徒の手紙から開いて行
きます。使徒の手紙は、ペテロの手紙を読んでいます。ペテロは12弟子の一番弟子
でありました。もちろん聖書にはペテロを一番弟子としますとはイエス様は言われて
いません。しかしイエス様に質問しイエス様の側にいつも仕えていたのはペテロとヤ
コブ、ヨハネの3人であり、その中でもペテロがいつも弟子の代表のような役割を
持っていると思われます。ペテロの手紙は、非常に優れたギリシャ語で書かれている
とされます。私の下手はギリシャ語の知識でも確かにそうだと思います。ペテロは漁
師さんでありましたので、ペテロの手紙の立派な文章をそのまま書いたかどうかは、
分からないと言われます。パウロがテモテに口実筆記させて手紙を書いたように、ペ
テロもまたそのままでなくて、誰かに書いてもらったのかも知れません。

 13節にあるようにペテロは、心を引き締めて、イエス・キリストが再臨されるま
つまり又来られる日々に備えて、その時の恵みを待ち望みなさいと語ります。ペテロ
は、一般的な言い方になっていますが、キリスト者の生活は一言でいうと待ち望みの
生活だと言うのです。キリスト者は、この世で完結しないのです。この世だけで、自
分たちの生活は終わらないのです。この世はあの世への備えでもあり、この世はあの
世に向かって、希望を持って生きるところであります。復活の待ち望みの生活が、こ
の世にあるキリスト者の生活です。ですからこの世ですべての解決をしなくてもいい
とも言えます。この世で全部精算しなくてもいいとも言えます。
 ある人が、この世の生活はただただ艱難辛苦であった。そこまで行かなくても、何
も喜びらしい喜びがなかったとなっても、又計画半ばで挫折した人生となっても、し
かし希望を持つ生活には変わりないのです。イエス様が与えてくださる恵みを待ち望
んで、この世を生きる。これは大きな違いになると思います。それはスポーツ選手が
次の試合の状況を見越して、今の苦しい訓練を耐えるのであります。学生さんが勉強
して試験を受けて、その後の資格や卒業を目指すのと似ています。人は待ち望むもの
がある時に、どんなに苦しい状況でもひどい生活でもことに当たるのだと思います。
 イスラムでは人間の命は命の書に書かれていて決まっている、とあります。だから
自爆テロをするとも言えます。しかしイエス様は、人の命が命の書にあるなら、最後
まで命の書の命を守り、命を今も明日もちゃんと使い果たしなさい、とタラントのた
とえで言われたのだと思います。自分に何もなくても、なおイエス様が与える恵みを
待ち望む。これがキリスト者のこの世での行き方、あり方です。

 15、16節には「聖なるものとなれ」とあります。聖なるものとは、今は一番分か
りにくいものになりました。聖なるのもともとの語源は「違ったもの、別れたもの」
という意味だとされます。今は、とにかく一緒であることが目指される時代です。
違ったもの別れたものは人気がないかもしれません。しかし神様は聖なる方でありま
す。違った方であります。そしたら私達は神様を信じるのですから、違ったものにな
ること、別のものになることを恐れてはなりません。むしろ違ったもの、別のものは、
大切となります。
 聖なるもので大切なことは、聖書では聖なることに清いことに、倫理的な清さがは
いることです。有名なところでは、アモス書5章24節に「正義を洪水のように、恵
みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」とあります。アモスの時代、聖な
ること、清いこととは、神殿祭儀に参加して、祭司の清めを受けることにあります。
しかしアモスは5章21節に「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの捧げもの
の香りも喜ばない」と言われました。どんなに神殿礼拝に参加し、浄めの儀式を受け
てもなんにもなりません。それよりも神様の喜びは、正義と恵みの業です、と言われ
るのです。これは旧約聖書の一つの大きな転換点であるとも言われます。出エジプト、
レビ記において祭儀を正しく、立派に行うことは、アロンとレビ人が定められたよう
に、一つの神様のみ心でした。しかし預言者アモスは、祭儀礼拝の清さ、聖なる姿よ
りも、正義と恵みを神様は喜ばれるといいます。
 これはイエス様を見上げると全くであるとわかります。イエス様もまた、安息日を
きちんと守ることよりも、隣人を愛して生きよ、といわれたのです。律法の細かいこ
とをきちんきちんと守って行くよりも、平和を造る者の幸い、柔和な者の幸いを、宣
言されるのです。立派な正しい答えを与える律法学者には「あなたも行って同じよう
にしなさい」と良きサマリヤ人のところで言われています。私達はイエス様を信じま
す。そしたらイエス様の後に従います。イエス様を目指してイエス様のようになんと
か生きることを求めます。自分の利益だけを考えるのでなく、自分の力でもって相手
を活かすこと、隣人に仕えることを考えるのです。もちろんそれは完全にはできるは
ずもありません。しかし十字架に私達の罪と弱さを、許してくださる主を仰いで、主
の後に従うことをなそうとするのです。
 聖なるものとなれとは、続けて「私も聖なるものであるから」とあります。私達も
また、聖なるものとなれとは、イエス様の聖なることに預かることであります。この
世から別れることになるのかも知れない。この世と違うことになるのかもしれない。
しかし聖なるものとなれ、と主が言われるのであれば、私達は主の聖なることに何と
か預かろうとするのです。また「聖なるものであれ、私が聖なるものであるから」は、
聖なることの勧めは、また自分もその聖なることに参与しつつしかできないことを示
しています。何でもそうかもしれませんが、教えることが上手な人は、自分も学んで
いる人であります。自分は自分を学びの場に置かないで、人を教えようとしても無理
な話です。自分が新しいものに挑戦することをしないで、子供や人に新しいことへの
挑戦することを教えることはできないでしょう。「聖なるものであれ。私も聖なるも
のである」は、学ぶことを教える人は、学ぶ人である。挑戦することを教える人は、
自分も挑戦する人である。愛することを教える人は、自分もまた愛する人である。仕
えることを教える人は、自分もまた仕える人であると言うことです。働くことを教え
る人は、自分もまた働く人でないとうまくないのです。

 17節には「その方を恐れて生活しなさい」とあります。コーランを読んでいて改
めて気づかされるのは「汝は、こうしなさい」という命令形です。確かに力強いです。
発破がかかります。「汝、礼拝者となれ、汝、喜捨の人献金者となれ、汝、神の道、
信仰のために戦うものとなれ、汝、唯一の神を信ぜよ」すごいです。しかしある程度
まで来ると私のようなものは、ちょっと無理かもと尻込みしたくなります。それは健
康で、頭がよくて、頑張れる人にはいいでしょう。しかし病気を持ち、頭もそう回転
が良くなく、すぐに息切れの来る者は、そこまでできません、と言いたいです。とこ
ろが、聖書はちょっと違うのです。「主を恐れて生活せよ」と聖書もまた確かに命令
形があります。しかしその理由が振るっています。

 19節「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」とありま
す。つまり聖書は至るところでそうですが、命令に前に、恵みがあるのです。「主を
恐れて生活しなさい。先祖伝来の虚しい生活から離れなさい」と聖書も一杯の命令を
します。しかしそれは「あなた方が傷も汚れもない小羊イエス様の血を受けた」から
です。私はあなた方のために、血を流した。すでに贖いがなされた。十字架と復活は
起こった。だからキリストの尊い血を受けた者として、それをなしなさいとなってい
ます。つまりペテロ書は、何がなんでもそうせよになっていないのです。あなたはキ
リストの血を受けた。すでに十字架と復活は起こった。救いの恵みの業はなされた。
後は、イエス様を信じ、イエス様を受けたものとして、あなたはイエス様に答えて歩
めとなっています。
 だから私達は、実は、あの人はあれをしていない、これをしていない。それなのに
ああだこうだと言ってしまう。人間ですからどうしても言わざるを得ないのですが、
本当は言わなくていいのです。聖書の命令は「あなたは贖われた。だから贖われた者
として生きよ」というのみです。聖書は、あなたに恵みが与えられた。だから恵みを
受けた者として生きよとなっています。あなたは守られている。だから守られている
ものとして生きよ。ということです。
 何何をせよ、そうすればあなたは、天国に入るとなっていない。何何をせよ、そう
すれば、あなたは神に国にはいるとなっていない。反対になっています。あなたは天
国にはいる。だから何何をせよ。あなたは神の国にはいる。だからあれあれをせよと
なっています。言ってみればコーラン的命令は確かに短期決戦には向いています。と
にかく頑張れ、ここまで来なさい。そうすれば、天国と復活が約束されるとなります。
しかしイエス様は「私は復活であり、命であり、道である。あなたはそれを受けた。
あなたは復活であり命である。だからそれを受けたものとして生き、受けたのとして
歩みなさい」となります。イエス様の勧めは、もしかしたら怠慢の人がでてくるかも
しれない。だってもう復活も命も与えられたのですから。しかし本当に恵みに気づい
た人は、もう人との比較はどうでもよくなります。人の批判もある意味でどうでもよ
くなります。なすべきことは、主のみ心です。ただひたすらにある意味でコーラン以
上に、ひたむきに主の恵みに答えていくのです。

 最後の21節はそのことをいうのでしょう。「あなた方は、死者の中から復活させ
て栄光をお与えになった方を、信じている。あなたの信仰と希望は、神にかかってい
る。」どこかあなた任せです。正確にいうと神様任せです。聖書の信仰は神様任せで
行くのです。聖書の信仰は、下手に人間の業がはいるとろくなことがないのです。俺
がしなければ、お前がやってないからだめだ。そうならないのです。主の恵みによっ
て、今日はこれとあれができた感謝、となるのです。主の守りのうちにあれとこれが
できた。感謝です、となるのです。
 先週は父がインフルエンザから肺炎となり、励ましにちょっと来てくれと弟に言わ
れて、長崎に木曜日に行って来ました。だいぶ弱っているのかと行きましたら、元気
にしておりました。ご飯もほぼ全部食べていました。話のなかでシリアで日本人が殺
された話になりました。父は日本人はアラブ人を殺したこともないのに、なぜ殺され
るのか、わからんといいます。私もなんと答えていいのかです。コーランでは神の道
のために戦うことを何度もいいます。もちろんそれは戦争しろという意味ではありま
せん。そしてコーランは不思議なことに親のいない「孤児を守れ」と言うことがまた
「神の道のために戦え」よりも多く出てきます。後藤さんは、キリスト者だったそう
ですが、5冊書かれた本は、すべて戦争で親をなくして困っている子供たちの本です。
つまり後藤さんは、コーランの教えを忠実にしていた方になります。やはり今度のイ
スラム国は、イスラム信仰の面からも本物ではないようです。コーランでは最大の罪
に同じ信仰のものを殺すこととなっています。
 私達はあらためてイエス様を信じ、イエス様の恵みを受けたことを感謝し、イエス
様の十字架と復活に答えて、神様の信仰と希望に生きることを、示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。2月も2週目にになりました。どうか主
の守りを感謝いたします。続けて導きください。おかしな事件が続けて起こります。
守ってください。求道者の方を支えてください。み言葉を与えてください。幼稚園の
幼保連携の準備、中山の児童クラブの準備を支え、守ってください。どうかよきこの
世への奉仕となりますように、み手をおいてください。東北地震から4年目になり
ます。避難者を守り復興を支えてください。リハビリのM姉、H姉、K兄、A
兄、I部兄をお守りください。本日は延岡教会でM牧師の就任式です。どう
か延岡教会の働きと信徒の方を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

   マタイ伝27章1〜10節                         20150201
             「 裏切ったユダ 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 先週は、イスラム国に捕らえられた後藤さんがどうなるのか、日没までと言う期限
を廻って、何度もテレビを見ましたが、とうとう今朝5時頃殺害のビデオが流されま
した。残念です。結局2人とも殺されてしまいました。改めて何もできないのだとい
こうこと、これは強い自衛隊があったとしてもどうにもなら無いと思います。イスラ
ム国が国と言えるのかどうかですが、これを滅ぼしても格差世界を無くさないと又出
てきます。祈ることしかできませんが、祈ります。
 又先週は、金曜日にいよいよ中山小学校において、中山小羊児童クラブの紹介があ
りました。入学説明会には200人と言われる中山の1年生のPTAの方が来ておら
れました。私達、小羊児童クラブに与えられた時間は5分でした。何とか説明を終え
て、中山第1から弟4クラブは一括して、募集要項が配られ、小羊児童クラブも机を
1つ頂いて、案内を取る方を待っておりました。しかし中山第1〜4クラブはものす
ごい長蛇の列を作って並ばれましたが、こちらは10人くらいが取り来れる程度であ
りました。残念無念で、がっかりしておりました。ある方が電話をくださり説明する
と「先生、歯医者さんでも新しいところは行きたいと思いませんよ。今までの腕のい
い歯医者に行きます。ましてや子供を預けるのですから、そう簡単に新しい所に行き
ません。時間をかけないと」と言われました。全くです。まずは中山第1〜4クラブ
に漏れた方から拾っていくしかないようです。児童クラブは必要度の優先順位があっ
て、選抜が行われます。どうか、続けて祈ってください。

 さて聖書は、本日が第1日曜日ですので、福音書から聞くということで、マタイ伝
を開いております。本日は有名なユダの首つり、ユダの自殺のところです。ユダの裏
切りに関する所は、何度も語られています。皆さんも何度も何度もユダについて聞か
れて来たと思います。裏切ったユダについては、裏切ったペテロと比較して、同じ裏
切りなのに、なんでこんなに違うのか。私達はユダの裏切りと自殺から何を聞くこと
ができるか。もう新しいことはないのかもしれませんが、しかしなお聖書に、私達も
もう一度、聞き直してみましょう。
 1、2節にありますように、イエス様は、ユダヤ当局、祭司長と律法学者に引き渡
されるとイエス様を殺そうと相談し、2節にイエス様を、総督ピラトに引き渡します。
すでにご存知のように、当時のイスラエルはローマ帝国の植民地であり、ユダヤ当局
だけの力では、死刑の裁判ができななったのです。死刑のような極刑は、総督ピラト
が裁判をして、判断をしました。2000年も前の国ですが、ローマ帝国の法律はたい
した物だと思います。死刑はきちんとした裁判でないと許さないというのは、現代で
もはたして守れる国は多くないのです。現代でもまだイスラム国のように、あっとい
う間に首を跳ねられるところもあります。
 そして3節にあるように、聖書はユダはイエス様が極刑に定められると「後悔」し
たとあります。つまりユダはある意味で、本物の自他ともに認める悪人ではなかった
ことになります。ユダは、まさかイエス様がローマの総督のピラトに引きわたされ、。
つまりまさか死刑になることまでは考えていなかったといえます。4節には「私は、
罪のない人の血を売り渡して、罪を犯した」と言いました。つまり死刑はイエス様に
対する刑罰でないとユダは判断したと言えます。
 ユダがなぜイエス様を裏切ったのかは諸説あります。有名なところを少し述べます。
おそらくみなさんも何度も聞かれたでしょう。まずルカ伝やヨハネ伝では、ユダに悪
魔が入ったという説を書いています。悪魔という神に反対する力の中に、サタンの支
配の中に、ユダは入ってしまったというのです。神の子を死に渡して、神の力を封じ
こもうとしたということです。サタンは神の子を殺して、神様の計画を邪魔しようと
した。というのです。しかしこれは反対に、神様に用いられて復活というもっとすご
い神様の証になったのです。
 次にユダが裏切った理由は、革命期待からの挫折説です。ユダの正式の名前は、イ
スカリオテのユダです。このイスカリオテですが、どうも「短剣所有殺戮集団」とう
意味の説があります。つまりイスカリオテの人たちは、胸に短剣をいつも忍ばせてお
いて、ローマ人の要職の人やユダヤ人でローマの手先になっている人を暗殺しました。
今で言うところのテロ集団でありました。しかし反対からいうと誰よりもローマ帝国
からのイスラエルの独立を祈り、願っていた人であります。イエス様がローマの支配
を傘にきて神殿経営をしている祭司長や律法学者を批判し、その信仰の頑なさを暴か
れ言われました。この時、ユダはイエス様は最後は、ローマ帝国に反対し、イスラエ
ルをローマから独立させるに違いないと思ったのです。しかし待てど暮らせど、イエ
ス様は武力蜂起する気配がありません。反対に武力を捨てよとも言わんかなです。イ
エス様、そろそろ時期ではないですか。ユダは、メシア・イエス様にローマ帝国打倒
の立ち上がりを促したいというのです。それが裏切りとなって、もう我慢できない時
期をつくろうとした。
 つまり自作自演のイエス様への独立蜂起の立ち上りを促したのです。しかしそれは
返ってイエス様が死刑となる結果を産んでしまう。ユダは驚いて自分のなした悪の大
きさに気付き、自分で自分の命を奪ったというのです。なるほど、わかりやすいとい
うか歴史的には、その方向なのかもしれません。

 しかし今回改めて思うことは、ユダはやはり一生懸命、誰れよりもイエス様仕えよ
うとしたのではないか。そうでないと12弟子の中で、会計係に選ばれるでしょうか。
これ又何度も言われるように、そもそも会計係になる人は、人一倍熱心で、その上に
正直な人、人の信頼を得る人でないとできません。ユダは一生懸命働いたのでないか。
そして、イエス様に一生懸命仕えたのでないか。しかしおそらくイエス様からなかな
か評価されなかったのでないか。ペテロとヤコブとヨハネはいつもイエス様のそばに
いて、イエス様の言葉をかけていただく。しかし自分はこんなに一生懸命働き、仕え
ているのに、その見返りがない。ユダは神様を疎み、妬んだのです。
 一つの証拠に、これまた4つの福音書が皆書いていますが、ある女性が高価な香
油をイエス様にふりかけた時、ユダは「貧しい人に施すべきだ」と苦言しました。ヨ
ハネ伝12章7節では、ユダはこの貧しい人に施すべきだを、本心から言ったのでは
なく「彼は盗人であって、金入れを預かっていながらその中身をごまかしていた」と
あります。この箇所は、確かにユダがお金に身を売ったとされます。しかしこれはヨ
ハネ伝の後からの解説、判断であって、あらためてユダがお金に身を売るほどの人で
あれば果たしてイエス様の弟子となり、イエス様と共に神の国を伝えて、伝道生活す
なわち放浪生活をするのであろうとかと思います。ユダは確かにごまかしたことが
あったかもしれない。しかし基本的にイエス様を用いて金儲けをしようとか、金の亡
者になっていたというのは、当たらないでしょう。金の亡者であれば、もっと金持ち
になる方法を考えていたでしょう。

 私はユダの裏切りとは、どうも本心からでなく、イエス様に仕えても仕えても評価
されない自分の姿を見て、少し自暴自棄になったのではないかと思えます。いざイエ
ス様が死刑になるために、ピラトの裁判にかかることがわかると、自分の悪に気づく
だけの良心を持っていたのです。イエス様の十字架への引き渡しが、ユダの妬みと認
められない悔しさにあるとすれば、実は私達は常にユダになるのです。私はユダであ
るは真実です。ペテロとヤコブとヨハネに引けを取ることのない献身をなして来た。
しかしイエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを見て褒めている。なぜ神の子が自分
を認めようとしないのか。私の献身に気づかないのか。自分に報いないのか。ユダの
気持ちは、誰でも持っている気持ちなのです。
 4節にあるように、このユダの告白とも言える、後悔は祭司長達ユダヤの当局から
は無視されます。しかしユダは銀貨30枚を戻して、返してその後悔には、真実味が
あります。よくなぜ、ペテロは同じくイエス様を裏切ったのに赦され、ユダはお金を
返してまでも悔いているのに、赦されないのかと言う方があります。ペテロは泣いた
だけだが、ユダはお金を返してその後悔をしっかり表現したと言う方があります。な
ぜ、違ってきたのか。

 5節にあるように、ユダは裏切った後に、首吊り自殺をしており、ペテロは弟子た
ちの代表として、カトリックの伝承では、エルサレム教会の第1号の教皇となった
とまで言われます。同じく裏切った生涯ですが、その後の生涯はあまりににも違いす
ぎです。なぜそうなったのか。これまたいわれるようにユダは自殺し、ペテロは泣く
のみです。つまり、どうもユダはイエス様を裏切り、さらに首を吊って、自殺の罪を
加えたとも言われます。しかしその本質はなんであるのか。
 やはり、ユダはなんでもかんでも自分でしてしまった、といえます。ユダはつまり
近代人であり、現代人なのかもしれません。今流行りの徹底した自己責任者なのです。
自分が悪いことをしたら、自分が責任を取る。これは人間の基本的な生き方であり、
社会が成り立つ基本中の基本です。確かに自分のしたことは自分が責任を取り、その
したことの責任をとることで現代社会は成り立ちます。自由を与えられた人間は、自
分の判断で自由にしたことは、責任を取るのです。これは強調しすぎることはないで
しょう。しかしなお、私達はそれだけで人間が生きることができるのかを問うのです。
人間が本当に自分だけで、生きているのかです。
 ユダは自分で自分を判断して、自分を死刑にしました。これは正しい判断であった
のか。イエス様を裏切る事実は、極刑にしても足りない、とでもいうのでしょうか。
しかしこのユダの判断は大きな間違いを一つしています。それは、イエス様の十字架
の赦し、イエス様の十字架の恵みの評価がないのです。ユダの失敗の大きなひとつは、
イエス様の十字架はユダの罪、自分の罪を許さないと判断したということです。つま
りユダの罪はイエス様の十字架の恵みより大きいのか、という問です。イエス様の十
字架はユダの罪を赦すことができないのかという問です。結論からいうとイエス様の
十字架の恵みは、ユダの罪より大きい、ということです。
 ユダもペテロも大きな罪を犯しました。どちらもイエス様を裏切りました。ユダは、
自分でその責任をとり、ペテロはただ泣くだけでした。しかし主の恵みは自己責任を
取れないただ泣くだけのペテロに働くのです。そしたらなおのこと、責任をとろうと
したユダには、大いに働いたはずです。しかし、ユダは少し早とちりしたとも言えま
す。神様の判断の前に、自分で勝手に判断して、自分を殺したのです。神様の判断を
聞かずに、自分でしてしまったのです。失敗した、どうなるかわからない。間違えた
自分の責任だ、どうしたらいいのか。その時、自己責任で自分でなんとかするという
判断するのもあるかもしれない。しかしじっと神様の判断を待つのもありです。

 どうでしょうか。社員が失敗した時に、自分で責任を取れというのがあるかもしれ
ない。しかしほとんどは、社長の判断を仰ぐのではないでしょうか。社員は「社長ど
うしましょう」と言うのではないでしょうか。どうしましょうと言う前に、辞表を出
されたら困るのではないでしょうか。本当に力のある社長は、この社員はこのくらい
の仕事をして、今回のこの仕事は、危ないかもと知っているのではないでしょうか。
それなのに、自分で判断して、自分でやめられたら、社長は使いようがないのではな
いでしょうか。社長は失敗しても訓練のために、その人にあえて危ない仕事を、困難
な仕事をさせたりするのではないでしょうか。人間の社長でもそのくらいのことをす
るのです。ましてや全知、全能の愛の神様に判断を仰がないとは、なんという大間違
いでありましょう。勿体ないです。ユダは、悔いるところまでは良かったのですが、
その後に、自分の失敗の処分を、主なる神に聞くこと、委ねることを、しなかったの
です。
 信仰義認といのは、委ねる意味を持っています。最近「ありのままで」の歌が流行
りました。ある牧師は、ありのままというのは、信仰義認であるといいます。しかし
「ありのまま」では困るという方もあります。「ありのまま」とキリスト信仰は違う
という議論があります。私もどうも違うのでないかと思います。信仰義認はありのま
までありつつ、しかしありのままを乗り越える力を与える恵みです。キリスト信仰は
まずありのままを大切にします。しかし次にありのままにとどまるのことをさせませ
ん。ちょうど、イエス様は、マタイ伝9章22節に、12年間の病気をした女に「あ
なたの信仰があなたを救った」と言われました。またマタイ伝15章28節にシリア
フェニキアの女に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そしてマルコ
伝10章では盲人に「あなたの信仰があなたを救った」とそのままの信仰を肯定され
ます。しかし、次の段階で、12年の病気の女には「安心して暮らせ、元気でいけ」
と言われます。シリア・フェニキアの女には特に声掛けはありませんが、またマルコ
10章の盲人は「イエスに従った」とあります。イエス様に癒やされ、救いを与えら
れた人は、決して「ありのまま」におれないのです。恵みに応えたいのです。次の段
階があり、次の段階に進むののです。前に前進するのです。

 6節から10節は、ユダの返却した銀貨の話になっています。なぜかユダの祭司長
と律法学者に返却したお金は、拾われます。なぜ献金したお金がユダのした献金だと
わかるのは、よくわかっていません。しかし区別できたとします。そして、ユダの返
したお金は、自殺して血が流れたからでしょうか「血の代金」と言われます。そして、
祭司長たちはこのユダの返却したお金で、外国人の墓地を作ったというのです。ユダ
の裏切りの話しにどうして、このような後日談をマタイ伝が伝えるのか、よくわかり
ません。しかし書いてあるように、言いたいことは予言者エレミヤ書の言葉が成就し
たということです。
 ユダの裏切の出来事から発端した出来事のことまで、エレミヤ書の予言とする信仰
なのです。それは、イエス様の裏切りと裏切ったことから派生した外国人の墓地の購
入ままでもみことば通りに起こるということです。神の計画の確実性、確かさを示し
ます。またイエス様の十字架への引き渡しは、確かにユダの裏切りでありました。し
かし実はユダの裏切り以上に、神様のご計画であったと述べるのです。神さまはユダ
の裏切りで計画変更される方ではない。すべてがユダの自由意志が入って、しかも神
様のご計画なのです。
 つまり私達は確かに神様の胸のうちにあるのです。なお、ユダはやはり神様に知ら
ないで仕え、また仕えさせられる人の代表であろうと示されます。神学者バルトは有
名な『イスカリオテのユダ』という本で、ユダは救われているとします。もちろん本
当は行ってみないとわからないでしょう。しかしバルトは、イエス様の十字架の恵み
は、ユダの裏切りよりも大きいのは確かである、とするのです。
 私達もまた、裏切りのユダにいつでもなるのです。自分で自分を評価し、自分で自
分の首を締めるつまり、首吊りをするのです。しかし本当に私達を判断してくださる
のは、主なる神様、イエス様です。だから自己責任は必要ですが、最後は神様の判断
を仰ぐのです。人間の判断、自分の判断は間違いが多いのです。最後は委ねる、主の
恵みを信じ委ねることを、ユダの失敗から示されるのです。

 祈ります。「天の父よ、先週は、27日に92歳でK兄が召されました。多く
の方の参列と支えにおいて、葬儀式ができましたこと、心から感謝です。昨年8月3
日に病床洗礼ができたこと感謝です。残されたご家族の上に、主の守りと祝福をおい
てください。求道者の方を、支え守ってください。次週は延岡教会のM牧師の就任
式です。どうか準備を、守ってください。めいさんのバプテスマクラスを守り導きください。
先週金曜日に中山小羊クラブの説明と案内をPTAに、配りました。どうか多くの方
を主が送ってください。幼稚園も幼保連携型に向けて工事中です。守ってください。
東北地震の被害者、放射能からの避難者守ってください。イスラム国の人質の後藤さ
ん守ってください。1周間を導きください。み名によって祈ります。アーメン。

    エレミヤ書26章1〜10節                       20150125
             「 立ち帰るかも知れない 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 先週は、日本人2名の方がイスラム国に捕らえられて身代金が240億円という法
外な額を要求される事件が起こりました。期限が先週金曜日の午後3時前と言うこと
で、救出のためにいろいろな事が行われているようです。今朝は湯本さん殺害とも言
われ、今だ安否がわからないようです。もしかしたら分かっているのかもしれません
が、イスラム国からの応答がないともされます。あらためてシリアは余りにも遠く、
どんな国であるのか、どんな国民がいるのか、日本からはさっぱり分かりません。
 イスラム国のあるシリアはしかし旧約聖書ではアラムとされており、新約聖書では
シリアとなっています。アラムは創世記から出て来ており一番なじみのあるのはイサ
クのお嫁さんリベカは創世記25:20ではシリア・アラム人となっています。士師記か
らでてきますが、ダビデ王の少し後当たりから聖書によく出てくる長い長い歴史のあ
る国です。日本よりも歴史の古い国なのです。新約聖書ではシリア人と言えば、マル
コ伝7章にイエス様に子供を癒してもらいたくて母親が来ました。イエス様がまずイ
スラエルの人を救う為に来ました、と言われると犬でも子供の机の下のパンくずを頂
きますとしてイエス様を驚かせ、娘を癒して貰っています。ルカ伝4章には列王記が
引用されて、エリヤにハンセン病を癒されたナアマン将軍がシリア人であったとされ
ています。聖書からは、シリア人は異邦人でありますが、ナアマン将軍がおりシリ
ア・フェニキアの女がいます。つまりシリア人は表向きは異邦人ですが、その人の中
には、イスラエル人をしのぐ信仰の方があったと聖書は伝えます。おそらく聖書はシ
リア人に、異邦人の代表選手をさせているのでないかと思います。さらに申命記26
章には、イスラエルの根本信仰を語るとされて有名な26:5節には、イスラエルの先
祖は、一アラム人であったつまりアブラハムのことを、シリア人であったと述べてい
ます。5節「私の先祖は滅び行く一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに
降り、そこに寄留しました」となっています。旧約聖書においてはアブラハムはイス
ラエル人の前に、シリア人・アラム人であったという伝承もあるのです。
 ですから今は確かにイスラムとキリスト教、ユダヤ教は敵対し仲が悪いです。しか
し元々はとても近い親戚の民族・宗教です。私はアメリカに付き合って十字軍に参加
しなくても、中東においては日本は歴史を異にする独自の路線で、平和憲法を持つ国、
シリアを攻撃しない国のスタンスで歩めば良かったのでないかと思っています。とに
かく、湯本さんは殺害かもですが、2人の方が救出されますように続けて祈ります。
 さて聖書は第4週ですのでいつものように旧約聖書から聞きます。旧約聖書はエレ
ミヤ書から聞いておりますが、本日はその26章を開きました。この26章はエレミ
ヤの預言を書記官のバルクが書いてくれたものとして、受け止められています。エレ
ミヤ45章1節に「ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口実に従って、これらの
言葉を巻物に書き記した」とあります。この「これらの言葉」の巻物の始まりがこの
26章からであるというのです。

 1節にエレミヤの預言の時代が書かれています。皆さんも気付かれると思いますが、
聖書では時間と場所を大切にします。もちろん「ヨヤキムの治世の初め」では分から
んと言われるでしょう。ヨアキムは紀元前609年から598年の11年間在位の王様で
す。11年間の前半というのは今は一秒の単位で時間がきざまれますので、余りにも
おおざっぱかも知れません。ヨアキム王はしかしバビロン第1次捕囚まで王であった
のです。そしてエレミヤが神の言葉を語ったのは、主の神殿の庭でありました。そこ
にユダの町々から礼拝のために来るすべての者へ語れ、とあります。神殿にこのよう
に全ての民が集まるのは、恐らく申命記の16章から仮庵祭、過越祭、そして7週祭
のどこかであろうと言われます。つまり、10,11月か、3,4月か、5,6月のどこかの日
であります。こうして聖書は神の言葉が語りかけられるのをいい加減にしません。出
来るだけ時と場所を示すのです。私達も、自分が救われ、自分がバプテスマを受けた
時と場所をきちんと覚えて置きたいです。

 3節に主はエレミヤに「彼らが聞いて立ち帰るかもしれない」と言われます。私達
は全知全能の愛の神さまが、立ち帰るかもしれないとは何事か、と言うかもしれませ
ん。全てをご存知で、全てを導く方が「立ち帰るかもしれない」とは、けしからんと
言われそうです。確かに主は、全てをご存知で全てを導く愛の神さまです。しかし私
達の自由を踏みにじってまでなさる方では在りません。私達はやはり神さまに応答す
る自由を与えられております。神さまは御言葉を与え、律法を与えて、そして私達が
いかに応答するのかを待っておられる方であります。神さまは恵みを備えて、恵みに
答えるようにして下さる方なのです。恵みを受けよ、と言われる方なのです。
 さらに「悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す」とあります。これも取
り方によっては、神さまが悪をなすのかとなります。しかしこれは恵みを備えた神さ
まが恵みを与えようとしておられるのに、それを選ばないことが、すでに災いであり
ます。神さまが災いを降すのではなく、人間である私達が、恵みから反れて、自分勝
手に判断し生きることが、すでに災いということです。

 4節から6節までに、主の言葉が語れます。ここはいろいろ取り方がありますが、
3つの事が言われています。1つは「私に聞き従わず、私が与えた律法に聞き従わな
い」と言うことです。主は、主の言葉を下し、具体的に主の律法を下さいました。こ
れにおいて歩め、と指針を示してくださったのです。律法はそれだけを取りますと、
人を締め付け、人を束縛し、人の自由を奪う者と見え又されます。しかし聖書の律法
は常に福音が先にあります。モーセの十戒が律法の最初の形でした。この前に出エジ
プトがあります。神さまは、ただ律法を与えたのでは在りませんでした。まず出エジ
プトの奴隷からの解放があるのです。奴隷の束縛から解放された人は、解放して下
さった方に感謝を表すでしょう。自分の命を救って下さった方、自由を与えて下さっ
た方に、なんとか報いたいと思うでしょう。本来の主の律法は、地獄に落とすとか、
災いを下すとか、恐怖を持って、従わせるのでは在りません。恵みと感謝がその律法
を成し遂げる原動力になるのです。
 今回の身代金事件もすぐに出てくるのは自己責任問題です。責任でなくて、自己責
任というところに冷たさを感じます。どうもいろいろなニュースを聞いていると後藤
さんは、捕らわれた湯元さんを助けに行ったということらしいです。本来は国の務め
を後藤さんはされたことになります。報道カメラマンはなぜ、危険な所にいくかと言
う方もあります。しかし誰かがいかないと危険さが分かりません。またその現場にい
かないと本当のことが分かりせん。食料デーが毎年10月に行われて、現地のスタッフが
現地の話をして下さいます。それによって私達はようやく飢餓がどこまで酷いのか、
ようやく知ることになります。ルワンダの佐々木先生も同じです。佐々木先生のから
聞いて、私達は初めてルワンダで起こったことがわかるのです。
 そこにいる方、そこに行って見る方が必要であり、誰かが行って見ないと子供の状
態、飢餓の状態はみないと分からないのです。そこに危険があり、こうして捕まり身
代金のかもにされます。しかしそれを自己責任といえるのかがあります。
 神さまの律法が面白くない、律法は締め付けるもの、律法は、嫌なものであるとい
うのは、根底に主の恵みの体験の欠如があるのだと思います。実は反対です。神さま
の恵みと救いが分かり、それを体験した者は、次の段階は神さまの御心を行わせてく
ださい。神さまの意思を教えてください。つまり神さまの教え、律法を教えてくださ
いとなるのです。自発して主の御心をしたいと進むのです。そして実は律法の根本は
イエス様も言われたように「神さまを思いを尽くし、精神を尽くし、魂を尽くして愛
すること、そして隣人を自分自身のように愛すること」に帰するのです。
 2番目に主は、私の僕である預言達の言葉に聞き聞き従うことを求められます。律
法は書かれたものですから、どうしても時代が変わるとそのままでは言葉が分からな
くなります。またその最初の意味を忘れてしまいます。その時、主は僕である預言者
達を送られるのです。そして律法を説いてくださるのです。預言者達は、聖霊により
神の言葉をその生きている時代に当てはめ、語ります。人間は、主の言葉を守るとし
ながら、実は神さまのことや思いを思っていない事態が起こってくるのです。

 26章はエレミヤが体験した預言者の姿ですが、一つの預言者の典型を示していま
す。それは8節にあるように、エレミヤが主の言葉を語ると祭司と他の預言者がエレ
ミヤを捕らえたというのです。そして「あなたは死刑に処せられる」としたのです。
エレミヤは預言者ですが、同業者である預言者と神に仕える祭司に、死刑として訴え
られます。実は、ここに本物と偽物が起こります。主の言葉を語る同業者だから、ど
ちらも神さまの事を思っているはずである。神さまのみ旨を、教えているはずである。
しかしエレミヤの語ったことから、分裂が起こるのです。
 それは具体的には、エレミヤの3番目の言葉からです。エレミヤは、律法に聞かず、
預言者の言葉に聞かないならば、このエルサレム神殿はシロの神殿のようになると
言ったのです。次はシロの神殿は、ヨシュア記18:1に「イスラエルの人々はシロに
集まって臨在の幕屋をたてた」と最初に出てきます。イスラエルの民がカナンの地に
入った時に最初に立てた大事な神殿でした。士師記ではイスラエルの12部族が集ま
る時の大切な神殿でありました。そして一番有名なのは、サムエル記上1〜3章にお
いてサムエルの先生エリが仕えていた神殿であり、サムエルを訓練した大事な場所で
す。しかしシロの神殿はエリの子供達の滅茶苦茶なやり方において、段々力をなくし
ました。さらにその子孫がダビデ王でなくてサウル王についたことによって、完全に
忘れ去られたのです。サムエル記上2章12節から17節には、当時エリの子供達が
いかにいい加減な祭司をしていたか書かれています。まず12節には「エリの息子は
ならず者で主を知ろうとしなかった」とあります。後は、民が犠牲の動物を持ってく
るとそれを横取りしたり、祭司は脂肪を焼いて、その後で献げものを受ける規定です
が、それをしないでそのままとりました。サムエル上2:16には「今よこしなさい。
さもなければ力づくで取る」とエリの息子達がしています。これではシロの神殿は廃
れていくのは当然のことでした。もちろん一端サムエルが再建するのですが、サムエ
ルの亡き後はどんどん廃れて行きます。

 このシロの神殿のようにエルサレム神殿もなると言われたのです。これはエルサレ
ムの祭司達や預言者は怒ったのです。つまりエレミヤは今エルサレム神殿に仕えてい
る者を、祭司エリの子供達つまり「ならず者で主を知ろうとしなかった」祭司になぞ
らえたとなります。これではやはり怒るでしょう。自分たちがあの滅びたシロの神殿
に仕えた祭司と同じであると言われて喜ぶ人はいません。しかし実際にはエレミヤの
預言の通りになったのです。

 7〜10節はいよいよエレミヤの裁判が始まります。ユダの高官達は主の神殿の前
で、裁きの座についたとあります。当時の裁判は町の門で公開にて行われたのです。
後は、読みませんでしたが裁判の様子です。エレミヤは淡々と自分は神さまから示さ
れた言葉を語ったと言います。そして16節には、この裁判は高官とそれを見ている
民がエレミヤを擁護し、祭司と預言者達がエレミヤを訴えるという構図になっていま
す。そして17節には、民の長老からエレミヤより100年前の預言者ミカの話がでて、
エルサレムは滅びるという預言は預言者ミカもしていたということで保釈されます。
19節には、預言者ミカの預言の時は「その言葉を聞いて、主を恐れ、その恵みを祈
り求め、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか」としています。
 私達はのエレミヤの預言の様子を聞くと本当にぎりぎりの所にエレミヤは生きてお
り、ぎりぎりのところで預言をしていったのだと分かります。ルターは卓上語録で
「本当の神さまの言葉が語られる所では、人々に憎まれる」と言ったとされます。今
も昔も基本的には変わらないのだと思います。昨年は「日本を愛するキリスト者の
会」が旗揚げしました。日本社会でのキリスト者の躓きを無くそうと、神道の神とキ
リスト教の神さまは同じ神さまであるとかいう神学を打ちあげています。又言ってみ
れば韓国併合は良かったといいかねないような一方的な歴史観を持もっています。つ
まずきを無くすという気持ちは必要でしょう。わざわざ違ったところを強調すること
はないでしょう。しかし預言者の務めは違ったところを言うのでもなく躓かないよう
にするのでなく、神さまの言葉を伝え生きることです。イエス様の姿がやはり、伝道
には欠かせません。人質になった後藤さんは、あやしげな湯本さんを助けるためにシ
リアに入りイスラム国に入られたらしいです。後藤さんは湯本さんの友人だったそう
です。ヨハネ伝15章13節「友のために自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛は
ない」とあります。後藤さんは証です。2人が助け出されるように祈って行きます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。早い者で本日は1月最後の主日礼拝
となりました。どうか1年間を導き守ってください。先週は数え100歳でH
兄があなたのみ下に召天されました。葬儀式全てを守り導いてくださり感謝です。残
された御家族をあなたの平安に満たしてください。続けて病気療養の方を支えてくだ
さい。リハビリ療養中のM姉が胆嚢炎になられました。今治療中です。守ってくだ
さい。続けてH姉、K兄、A兄、I]兄をお守りください。幼稚園の新しい歩
み、中山の歩みを導きください。また東北地震の避難者や放射能からの避難者を守っ
てください。本日は当教会にて、鹿児島ブロック新春の集いがあります。来られる方
の安全を守ってください。イスラム国に人質になった後藤さんを助けてください。御
名によって祈ります。アーメン。」

    ルカ伝5章1〜11節                            20150118
             「 お言葉ですから 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 昨日は阪神淡路大地震から20年目で多くの慰霊祭が行われたようです。6000人
余の方が亡くなりました。特に地震からの火事で多くの方が亡くなったとされます。
個人で出来ることは何があるのか少ないですが、東北地震と共に、復興を祈ります。
さて先週は昨日からいよいよ幼稚園の工事が始まりました。見ておりますとせっかっ
く新しく作った天上と床がもちろん壁になる部分の上下だけですが、外されて行きま
す。又折角作った一階の2才児支援室の新しい壁がはずされて、乳児室と合体してお
ります。現場監督さんに新しいので「勿体ないですね」というと、最低限は削らない
と工事ができないのだそうです。昨日は、子供達は大きな音に驚いて、教会のサイド
ルームに一時期避難しました。サイドルームのたわいもないおもちゃは、幼稚園にな
いので、最初は取り合いとなりました。子供達は改めて新しいのが好きなんだなと知
らされました。大きな音の工事は、昨日だけだそうです。後は大きな音は在りません
とのことでした。
 しかしどうしてまた幼保連携型の工事が耐震の新築工事と共に一度にできなかった
のか。県庁と市役所と支援金の出どころが違うのです。つまり耐震工事は県庁で、幼
保連携型の施設は市役所です。でももともとは、同じ私達の税金です。本当になんと
かならないのものかと考えさせられます。新しい壁が外され、新しい床が掘られると
なんとも言えない気持ちになりました。なんか複雑な気持ちで、幼保連携型の工事を
みている次第です。

 さて本日の聖書は、第3日曜日ですので、バプテスト連盟の出しています聖書教育
誌の本日の学ぶ箇所から開いています。月に一度は、全国の兄弟姉妹の教会と同じ聖
書を開くのも大切かと思っています。聖書は、非常に有名なペテロの召命の記事です。
もちろん書いてあるように、ヤコブとヨハネも一緒に召されています。この記事はマ
タイ伝4章18節以下とマルコ伝1章16節以下にもあります。実は、マタイ伝とマ
ルコ伝では、シモン・ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの4人が召されたと
なっています。しかしさらに良く読み比べるとルカ伝だけが、魚が大漁に取れた出来
事を伝えています。なぜルカ伝だけがアンデレを外したのか、そして魚の大漁の出来
事を伝えたのかよく分かっていません。中には魚の大漁の記事は、別の出来事をここ
にルカが間違って聞いたと言うと語弊がありますが、入れたのではないかという解説
書もあるくらいです。しかし私達は確かにマタイやマルコの報告4人か3人かとうい
うこと、魚の報告が少し違っているのですが、このルカの記事からら今一度イエス様
に4人ないし3人が弟子として召されて従っていく、出来事として聞いきて行きます。

 5章1節にあるように、まず初めにイエス様は、ゲネサレ湖畔におられます。4
章から読みますとイエス様は40日間の悪魔の誘惑を受けて勝利され、ガリラヤの
町々に神の国を知らされ、伝道されて行きます。そこで悪霊に取り付かれた人を癒し、
多くの病人を癒し、さらに神の福音を告げ知らせた、とあります。4章44節には
「ユダヤの諸会堂に行って宣教された」とあります。イエス様は、精力的に会堂のあ
るところを回られたようです。そしてこのガリラヤ湖のほとりで、何という町なのか、
カペナウムの近くなのかよくわかりませんが、この召命の出来事が起こりました。
 まず1節にあるように人々はイエス様を見付けると神の言葉を聞こうとして、群
衆がその回りを取り巻き、押し寄せてきたとあります。この有様は私は行った事はあ
りませんが、有名な歌手やタレントの音楽講演会の会場のような雰囲気なのでしょう
か。多くの人でごった返している風景を思い起こします。しかしイエス様は、風景に
呑み込まれて、群衆と一緒になって熱演して大声で歌う、教えるというのは在りませ
ん。

 2節にあるように、イエス様は2双の船を見付けて、その内の一双に乗られます。
3節には、イエス様が乗られた船はペテロの船であったとあります。すると話として
はよく分かります。というのはイエス様はこの直前の4章38、39節で、ペテロの姑
を癒して上げているのです。つまりイエス様がペテロの船に乗られたのは、顔見知り
のペテロをご存知であり、ペテロも又自分の姑を癒してくださったイエス様に恩義が
あったとなります。弟子達の召命は、話の順序としてはルカ伝が一番分かり易いので
す。ただ、分かり易いから信じられるとか、分かりにくいので信じがたいとかは、信
仰の世界では余りないように思います。分かり易くても信じるない人があり、分かり
難くてもそのまま信じる方があります。しかしルカの順序は、非常に親しみやすい事
は確かです。
 ペテロはイエス様をすでに少しだけ知っており、姑の癒しの恩義もあり、船に乗せ
てあげたのです。そしてイエス様は船から座って語り始められました。おそらくこの
ガリラヤ湖、ゲネサレ湖の岸辺は傾斜がほどよくあって、湖から語りかけるとちょう
どよいすり鉢状の岸辺になっていたのでしょう。私はイエス様の群衆が、押し迫って
いるのに、それでも座ってじっくりと話される姿に驚きます。イエス様は熱狂者のタ
イプでは無かったと思います。というかユダヤの聖書を聞く習慣すなわち、座って語
り、座って聞くという習慣は、熱狂を排除したのではないかと思います。日本の野外
コンサートはテレビで見ているとほとんど立ち見です。人々は立って聞き、歌う方も
立って歌い、熱狂して行きます。しかし聖書の語るイエス様は座って語り、聞く方も
座って聞くのです。これはじっくりとあれこれ思いを巡らし、自分の体験を重ねつつ
聖書の言葉は開かれて行くということです。神の言葉は熱狂の中では聞けないのです。

 次に4節からはマタイやマルコにはない、魚の大漁の奇跡が語られます。イエス様
は話が終わると、これは原文は話を「止める」となっています。実際に一連の説教が
終わったとも言えるし、少し聖書の話を休憩されたとも言えます。しかし全体の流れ
からはその時の説教、話を終えられたということでしょう。イエス様はペテロに「沖
にこぎ出して、原文は(深み行って)ですが、網を降ろし、漁をしなさい」と言われ
す。ただ単に「網を下ろして見よ」でなくて、イエス様は「漁をするために、深みに
行き、網を下ろしなさい」といわれています。
 これにはさすがにペテロは困りました。5節に在るとおりに、ペテロ達3人は、夜
通し漁をしましたが、取れなかったのです。実はイエス様は大工さんでした。ガリラ
ヤ湖の魚の漁には全くの素人です。漁師さんに、大工さんが「深みいって網を降ろし
て漁をしなさい」といわれれば、これはよほどの人でない限り、頭に来ると思います。
なんと馬鹿なことをいうのか。自分たちの長年の経験と習慣からは、もう魚はとれな
い時間である。またどこの深み行けというのか。こんな岸の近くではまず取れない。
かなりの深みいかないとだめですよ。全く何も分かっていない。これだから、素人は
だめなのだ、困ったものだというところでしょう。
 実はこの前、教会のPCが壊れて、自分の力ではどうしようもなくなりました。い
つも頼む電気屋さんが1週間もしないで直してきました。びっくりして、どうしまし
たといいました。私の見立では、これはもうメーカー行きだろうと思ったのです。
メーカー行きだとはやり2,3週間待ちます。しかしこの電気屋さんは「少しおかし
なファイルがありまして、直してあげたらなおりましたよ」といわれました。電気屋
さんはいろいろですが、PCのシステムファイルを自分の力で自力で直せるのはすご
いです。やはり素人と玄人の違いを思います。
 ペテロも姑を癒して頂いた恩義はあるが、魚の取り方は、私の専門ですからと思っ
て「夜通し働きましたが、何もとれませんでした。魚の専門が夜通ししても、取れま
せんでした。あなたに何ができるのですか」と言いたかったと思います。「しかし」
とペテロは言うのです。これは原文でもちゃんとあります。「しかし」つまり「にも
かかわらず、それでもなお」です。つまり自分の経験と体験、魚取りの習慣では、も
う取れない時間です。魚はいつもとれるのではありません。チャンと時間と場所があ
るのです。手順があるのです。「しかし、にもかかわらず、それでもなお」 ペテロ
はイエス様の言葉を、やって見るのです。

 皆さんも、魚釣りをしたことのある方は、魚は時間がとても大切です。私は北海道
の室蘭にいた時、子供達と共に室蘭の港だけで釣れるというチカという魚を釣りに行
きました。長さ7,8pで大きくても15pで、鹿児島でいうとキビナゴに似ていま
す。当時アフリカの留学生の子供が3人いて、春になると礼拝を終えて、日曜日に一
緒に行きました。チカは港の中を回遊していて、30分くらい釣れて後はどうにもな
りません。回遊して連れ出すと一気に一度に4匹、5匹が釣れます。多い人はバケツ
一杯釣ることができますが、子供達は20匹くらいです。サビキ(オキアミ)を撒い
てチカを呼び寄せて、擬似餌(ぎじえ)でつります。これは釣りの技術でなくて、本
当に時間というかタイミングで勝負です。
 ペテロ時代の魚は、どうだったのかよくわかりませんが、ガリラヤ湖の漁は夜に取
る漁でした。夜の漁は、日本だとイカ釣り漁船のようになります。しかしすでに日は
高く登り、魚がいるわけもないのです。「しかし、にも関わらず、それでもなお」、
ペテロは「網を降ろして見ましょう」といいました。それは「お言葉ですから」と
なっています。あなたの言葉の上に、つまり私の経験、私の体験と私の習慣はだめと
言っていますが、あなたの言葉によってなします、ということです。
 私達はこのペテロをどう判断するでしょうか。ペテロはお人好し過ぎるでしょうか。
素朴なガリラヤの田舎者でしょうか。少し頭が弱いと判断しますでしょうか。絶対に
取れないと分かっているのに、やってみるとはどういうことでしょうか。今流行の振
り込め詐欺でしたら、ペテロはいの一番にひっかかるのでしょうか。確かにそうかも
しれません。しかし考え方によっては、キリスト者とは、まさにこの神さまに騙され
た人、神さまの言葉をやってみて、自分で体験した人ではないかと思います。キリス
ト者がもし、そんなことはない。絶対あり得ない。つまり神さまなんかいない。神さ
まはいないのだから、神の言葉に従わない。神さまの言う通りにしたら絶対損になる
として、何もしなかったらその人は信じるところ来れず、信じることにならなかった
でしょう。私達は信仰とは常にこの「しかし、にも関わらず、それでもなお」、あな
たの言葉を信じ、頼み、やってみますの次元に生きると言うことなのです。
 ペテロは、自分の体験や自分経験や習慣や技術を持ちつつ、しかしなお神の言葉を
してみて、神の言葉を求め、より頼む人の典型ではないか思います。無理だとわかっ
ている。だめだと自分の経験と自分の体験が言っている。しかし、主のしてみなさい
との言葉が掛けられる。どうせだめならしなくてもいいという自由がある。しかしす
ることが赦されているのなら、することができるのならやってみるということです。
ペテロはここで、キリスト者の典型の姿となり、神さまの恵みの言葉に応える姿が示
されているのです。

 7節に在るとおりに、その結果は大漁でした。これはガリラヤ湖の漁の仕方から
いっても、ペテロのこれまでの技術や体験からいってもありえないことでした。しか
し起こったことを見ると奇跡を認めざるを得ません。8節に、ペテロは直ちにこのイ
エス様がただものでないと悟ります。ペテロのイエス様への呼びかけは、5節に「先
生」ですが、8節に「主」となっています。そしてペテロは直ちに、主イエス様に向
かって「私から離れてください。私は罪人です」と語るのです。ペテロは、漁師でし
たが、神さまを知っていると言えます。神さまに人間は近づけない。神さまから見れ
ば自分はただの罪人に過ぎない。神さまの恵みに答えず、神さまに感謝をささげず、
神さまを神として受けない。つまりいつも自分を中心にして、高慢に神無しで生きて
いる。ペテロは、神さまの恵み、導きに全く応答しない自分を知っています。
 しかしここにまた奇跡が起こります。神さまにおいて、主イエス様にとって、自分
が神さまにふさわしくない、自分は神さまに遠いとした者は、実は、神さまが近づい
てくださるのです。つまり神さまに召され、神さまに近づけられる方法は、自分が神
さまから遠い、自分は神さまにふさわしくない人間であると心から信じ受け止めるこ
とです。すると、主イエス様は、私は神さまから遠い、ふさわしくないとした者を、
近くに呼ばれ、召されるのです。私達は、ここを読んでペテロに、ヤコブに、ヨハネ
に何かの信仰深さや神認識の鋭さも、何も読み取ることはできません。ただ、神さま
が、神さまから遠い、ふさわしくないとしたペテロ、ヤコブ、ヨハネを召されるので
す。要は人間の資質にないのです。ただ神さまの召しにあるのです。
 私達はペテロの召命を聞く時に、神さまの圧倒的な召し・呼びかけを聞くのです。
人間の側に何もない。しかしだからこそ、神さまの召しによってイエス様のものとさ
れていくのです。私達もまたこの召しを聞きました。ただ感謝をもって、イエス様の
言葉、聖書にひたすら使えていくのみの人生になります。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。昨日は阪神淡路地震から20年目でし
た。6000人余の方がなくなりました。東北地震と合わせて、どうか続けてみ手を置
いてください。求道者の方、あなたが全てをご存知です。支えて導き下さい。先週は
2015年の責任役員執事、監事が決まりました。導きください。昨年からの祈りで、リ
ハビリのM姉、H姉、K兄、H兄、I兄お守りください。昨日から幼稚園の
工事がはじまりました。中山の児童クラブと共に、準備を導きください。来週は鹿児島
ブロックの新春の集いがあります。どうか、準備を導き、集まる方の安全を守ってく
ださい。1週間をみ手においてください。御名によって祈ります。アーメン。」
    第1ペテロ手紙1章10〜12節                      20140111
             「 この救い 」
 本日も主に赦されて新しい命を与えられ、皆さんと共に礼拝できますことを、まず
主に感謝致します。いつものように本日と1週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩み
と罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉を聴いて行きます。
 先週は、フランスでテロ事件が起こり17人の方が凶弾に倒れています。イスラム
教を風刺した雑誌社がやられたようです。テレビを見ていて、残念ですとか怒りを覚
えますととか言うのは当然です。しかし中に「これはフランスの自由を冒涜するもの
です」というのを一般市民の方が言われているのを聞きました。やはりすごい国だな
と思います。日本で新聞社が銃撃されたとき、果たして一般市民の方が「これは日本
の自由が冒涜されたのです」と言う人はまずいないような気がします。反対に宗教の
悪口をいうからバチがあたったのだ、とかなるのではないでしょうか。フランスの自
由への冒涜であるという意識や言葉がでるフランスのすごさを思います。
 フランスの警察というと私は一つ思い出すのことがあります。それは、第2次世界
対戦で、ナチスドイツがフランスに侵攻したとき、余りにもナチスドイツの軍隊が、
早く侵攻したので、フランスの軍隊も体制がとれず、逃げ出した事が伝わっています。
しかしなんとフランスのパリ警察は、いわゆる拳銃でナチスドイツと戦ったというこ
とが伝わっています。何故ならば、フランスの警察は国でなくて、フランスの市民を
守るのであるという信念があったからだ、と書いてありました。
 日本の警察で果たして、体制とれず自衛隊が逃げ出したときに、それでも鹿児島の
市民を自分たちは守りますと残って、敵国の戦車や大砲に向かって拳銃で戦う警察が
あるでしょうか。これはないと思います。今回のテロ事件も2名の警察官がなくなっ
たとあります。テロリストの自動小銃に対して、フランスの警官はあるいは拳銃で
戦ったのでないか。ひとたまりもなかったでしょう。しかしフランスの自由に対して
の戦いですというのはすごいです。フランスも右翼の台頭が強いらしいです。しかし
そう簡単には右翼化しないのでないかと今回の事件の市民のコメントで思っています。

 さて聖書は、第1ペテロの手紙から開いています。本日の箇所は、キリストの救い
について語っています。まず10節にあるように、救いとは一つには恵みのことと言
い換えております。ペテロにとってキリストの救いとは、恵みでありました。救いを
恵みとして語るのは、救いには神様から与えられる面、自分の力でなくて、自分以外
から頂く恵み、主から与えられていくところがあるからです。
 確かに10節に「預言達も探求し、注意深く調べました」とあります。救いは人間
が求めていく面があります。私達の中には確かに自分から救いを求め、探求して行く
方もあります。神さまとはどういう方か、神の子とはどういう方か、自分はこれから
どう生きて行けばいいのか、また死ぬということはどういうことであり、何が起こる
のか。どこかに行くのか、自分が変わるのか、そのまま消えることであるのか。確か
に大きな疑問であり、何をおいても問わざるを得ない時があります。
 しかし人によりますが、自分が探求し、自分が注意深く調べることは、忙しさに負
けたり、探求がおろそかになったり、八方美人になって結局自分が生きるための指針、
生き方となるようなことは、掴めなかったとなることがあります。色々な人を一杯
知っているわけではありません。しかし大方は自分の探求、自分の好奇心だけで、キ
リストの救いに来た、キリストを信じる所までできた、と言う方は少ないように思い
ます。どこかで真理から呼ばれている、真理から招かれたている、どうにもならなく
てキリストのところに来た。そう言う面が必要なのではないかと思います。いろいろ
なことの達成には、まず自分の決意、自分の探求が必要です。しかしこと救いに関し
ては、自分の決断、自分の決心だけではどうにもならないのです。

 11節に聖書は「預言者達は自分たちの内におられるキリストの霊が」と書いてい
ます。旧約の預言者達が、預言していくその姿には、実はキリスト霊があらかじめ証
したというのです。ここは普通の考えでは、キリストは2000年前に生まれたので
あって、旧約聖書時代にイエス様があるはずがないとなります。しかしペテロ書は、
イエス様が目に見える形で、私達の所に来られたのは、確かに2000年前のクリスマ
スの出来事からである。しかしイエス様はすでに神さまと共に、永遠の初めからあっ
たのだと受け止め、信じ、示しています。これはヨハネ伝8章58節にもイエス様は
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から私はある」と言われています。
イエス様は、真の神として、父なる神と共に、又聖霊なる神さまと共に永遠の初めか
ら先在されているのです。
 私達はですからキリストの霊とは、神さまの霊とも言い換えが出来ますし、聖なる
霊とも言い換えが出来ます。11節は、キリストの霊が、預言者達に働いて、キリス
トの「苦難とその栄光をあらかじめ証した」と受けとめています。キリストの救いに
私達が預かる時、このように自分から探求があると同時に、キリストの霊が、聖霊が
私達に働き、支え、導き、キリストを信じるところに連れて行ってくださるのです。
 またここではキリストの福音が、すでに苦難とその栄光として示されていたことを
伝えます。私達はここで、すぐにイザヤ53章の預言を思い出します。イザヤ53章は
すでに何度も聞かれていると思います。旧約聖書中でもっとも有名なキリスト預言、
イエス様の預言です。紀元前6世紀に生きた預言者イザヤの第1義的な本来の預言は、
バビロン時代に、バビロンの捕囚を受けて連行されたイスラエルに向けて預言されて
います。その内容は、バビロンから帰還するためにいろいろな苦労をして、なんとか
イスラエルをバビロンからイスラエルに連れ帰ろうとして、出発を画策する名も無き
ある僕の姿を示しています。しかしそれは実はイエス様の姿への預言でもあったので
す。苦難を通して栄光を見る。苦難を担ってそれから栄光がある僕の預言は、イエス
様の生涯の預言に重なったのです。
 これは、ある意味でどんな世界でも共通しているとも言えます。何かを成し遂げ、
何かを造り上げ、又何かを発見する働きは、どうしても何も成果のでない時期、下積
みと言われる時期、また明らかに失敗に見える時期があります。何度も何度も同じこ
とを繰り返して、成果無く、失敗する時期があります。時々、下積み無しに成功だけ
の方があります。しかし水の泡のように、大体においてすぐに消えて行かれます。私
達は大方において、苦難を経てそれからそれに続く栄光の時が来るのです。もちろん
この場合、自分の時は苦難だけを担うことになり、栄光は次の世代になるという方も
あるでしょう。そんな厳しい、したくない役目を担う方もあるのかも知れません。
 たとえばモーセはその代表です。モーセはイスラエル人ですが、エジプトに生まれ
ました。エジプトがイスラエルの移民の民を嫌う時代に生まれました。昔はエジプト
のイスラエルの民は、ナイル川の湾岸工事をしてくれる、ピラミッドの工事をしてく
れるちょうど良い奴隷でした。しかし数が余りにも増えて、段々エジプトはイスラエ
ルに恐れを覚えるようになります。この度のフランスのテロ事件も、アフリカ系フラ
ンス人やアラブ系のフランス人、イスラム系のフランス人が増えて、主流のキリスト
教の方が肩身が狭くなり、だんだん多様性を重んじないフランスになっているのかも
知れません。自由の国フランスの旗印も多くの犠牲が伴うのです。

 そしてモーセはその時、神さまの声を聞くのです。それは自分たちの元いた国へ帰
ること、出発することを聞くのです。モーセはその後40年間もかけて砂漠をイスラ
エルの民を率いてパレスチナのイスラエルへの帰還の旅をします。そしてとうとうそ
の目的を果たそうとします。約束の地が見えるピスガ山の頂きに登ります。申命記3
章25節には、モーセは神さまに祈ります。「どうか、私にも渡って行かせ、ヨルダ
ン川の向こうの良い土地、美しい山、又レバノンの山を見させてください」と祈りま
す。しかし主は申命記3章27節「ピスガの頂きに登り、東西南北を見渡すのだ。お
前はこのヨルダン川を渡ってはいけないのだから」と言われます。なぜ、モーセが約
束の地まで来たのに最後にその地に入れないかは、幾つかの理由は言われています。
 しかしモーセの40年間の苦闘は、まさにこの約束の地に入ることにあったのです。
しかしモーセはピスガの山の頂から約束のその地を見るだけで、実際には入っていけ
ないのです。モーセの弟子ヨシュアにその務めは引き渡されます。私達はこのモーセ
の姿を見る時に、目的の直前に来て、自分はその成果を受けず入れず、そして次の人
にバトンタッチをするモーセの姿を見るのです。まさに本日ペテロ書が示す予言者と
同じ姿なのです。

 12節には、救いの預言が、「自分たちの為ではなく、あなたがたの為である」と
の預言の啓示を受けたと言います。モーセがなした努力と奮闘は、モーセ自身はその
完成を見ず、弟子のヨシュアが受けました。それと同じように、預言者達の預言の成
果とその結果は、その預言をした預言者ではなく、なんと何百年も後の、私達が受け
ています。さらにこの12節にはこのイエス様の救いの福音が「天使たちも見て確か
めたいと願っているものなのです」となっています。イエス様の救いの出来事は、天
使も見て確かめたいと思っていた。ここをどう受け止めていいのか分かりません。一
つはそのまま取ると天使は人間の存在を越え、人間の知恵や力を越える存在であって
も、イエス様の救いについては、神さまから知らされていなかった。私達に知らされ
て、それから天使に知らされたと言うことになります。イエス様の救いは、こうして
天使にも前もって知らされず、人間においてのみ知らされたものであったのです。十
字架の救いは、天使も知らなかった救いであり、人間に示された事になります。イエ
ス様の救いはそれほど大切な、神さまにとっても秘密中の秘密であり、秘儀中の秘儀
であったことになります。
 神の御子が、人となってこの世に来てくださり、十字架についてくださった。私達
の罪を担い、罪を赦して、復活された。共に歩んでくださり天国を約束してくださる。
この福音は、預言者が何年も係って準備し、天使にもその時まで知らされず、時を定
めて、啓示して下さった私達への救いなのです。
 ペテロ書は改めて、イエス様の救いの有り難さ、すごさ、恵みの大きさを訴えるの
であります。バークレーという人の聖書解説書を読んでいましたら、この箇所に、イ
ギリスのロンドンのランプ点灯官の話が書かれていました。まだ電気のない昔のイギ
リスのロンドンには、ガス灯の時代があったそうです。その点灯は、夕方になると点
灯官という人が、ひとつ一つ火を付けていったそうです。それは単純な作業だったの
で、その点灯官の中に目の不自由な方があったそうです。彼は、自分が何をしている
のかはわかりますが、その仕事の成果を直接、見ることはできません。しかしその実
際の自分のなした結果を見ることはできませんが、毎日毎日その仕事を続けたと言わ
れています。私達の伝道は、これに似ている所があるのかも知れません。
 預言したこと、言葉を伝えたことがそのまま起こり、そのまま自分の仕事や成果と
して残ればそれに越したことは在りません。自分がその仕事の成果にあずかれれば、
それは大なる祝福です。しかし成果を見れない、その成したことがどういうことにな
るのか知らされない。モーセのように40年間の仕事の完成の直前に、この世から取
り去られる人もいます。福音はしかしそう言う人々の積み重ねの中で、引き継がれて、
私達は救いを受け取っているのです。天使達も見て確かめたいとした福音が今、私達
の所にイエス様のよってもたらされ、来ています。私達は十字架の救いの大きさとそ
の準備も含めて、きちんと受けとめ答えたいです。

 今回お正月は長崎に帰省してきました。いつも鳥栖インターがものすごく混むので、
私はいつもお正月は、有明フェリーで熊本から島原に渡ります。今回はどういう訳か、
並んでいましたら、ちょうど私の前で、もう乗れませんと切られました。50台から
60台乗るのですが、自分の前迄乗れて、ちょうどの私から次のにして下さいと言わ
れます。あれは本当にがっかりです。桜島フェリーみたいにすぐ次が来ればいいので
すが、40分くらい待ちます。
 とうとう待って乗れたのですが、乗るときはもちろん先頭です。そして何と降りる
時も、先頭ですので一番に降りるのです。私は数え切れないくらい有明フェリーに乗
りましたが、船に一番に乗れて、船から一番に出たのは初めてでした。なかなか気持
ち良かったです。しかしそれは、自分の前でおしまいになって、次まで待たされる
がっかりの体験があったからです。十字架があってから復活があるのです。
 私達は、主を信じてもうすでにイエス様の救い、恵みを受けているのです。今だ、
この世で多くの嬉しい体験悲しい体験をします。しかしすでに天国は確かなのです。
もちろん今だこの世は多くの働きや病気、テロ、戦争があるでしょう。しかし恵みの
救いは確かなのです。ですからさらにこの世において、神さまの計画に歩みたいです。
主の手足になりたいです。主に示される道を自分の十字架を負いつつ、しっかりと歩
みましょう。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。どうか、主よ、2015年が始まりまし
た。主の道に歩ませてください。ペテロ書によれば、救いはキリストの霊による恵み
と導きです。ただただ感謝あるのみです。預言者達が探求し、よく調べて、聖霊に導
かれてイエス様の救いを預言しました。預言者たちはまだその預言を味わうことが出
来ませんでした。天使にも隠されていました。しかし、今私達に、明らかに啓示され
たのです。しっかりと受け止め信じるものとしてください。求道者一人ひとり導き
守ってください。昨年からの祈りで、リハビリのM姉、療養のH姉、S君、
K兄、H兄、T兄、支えてください。東北地震も4年目に入ります。どうか被
災者、避難者を守ってください。幼稚園は今週から改修工事です。中山も児童クラブ
の準備をしています。今年の歩みを守ってください。バプテスマクラスのMさんを導き下
さい。御名によって祈ります。アーメン。」
    詩編1編1〜6節                             20150104
             「 幸せな人 」
 新年明けましておめでとうございます。本日も主に赦されて新しい命を与えられ、
皆さんと共に礼拝できますことを、まず主に感謝致します。いつものように本日と1
週間のみ言葉を聴きつつ、1週間の歩みと罪の悔い改め、1週間を導く本日のみ言葉
を聴いて行きます。
 お正月はいかがお過ごしだったでしょうか。今回は元旦礼拝を休み、失礼致しまし
た。牧師仲間のフェイスブックによると元旦礼拝をされたところの牧師は、本当に大
変だったというのが多く、申し訳なく思いました。しかしゆっくり帰省できて、父を
本家に連れて行き、親戚がいる正月気分を味わってもらって感謝でした。段々記憶力
が無くなって来て、叔父叔母の質問にも答えられなくなっていた父でした。たとえば
「老人ホームではおせち料理がでるのか」と聞かれて「そう言えば何を食べたか覚え
とらん」という具合でした。施設の方からは「おしっこが近いので、紙おしめパンツ
をしていますので、そのまま連れて行きなさい」と言われて、いよいよだなと思いま
した。少しずつ少しずつ弱って来ています。
 又年賀状も一杯来ていますが、いつもはなんとか年内ぎりぎりに出していましたが、
今回は児童クラブの準備で、29日も準備の見積もりの方が来られて、全くできず、
返事を書くのがやっとのようです。本当に申し訳ありません。年賀状の中で一番驚い
たのは、ある電力会社に勤めている私と同じ年の友人から「来年はいよいよ定年がき
ます」とありました。びっくりしました、と同時にうらやましいというのもあります。
しかし公的年金は私の年ではまだまだ先ですので、友人は大手の電力会社ですので、
出向か嘱託かになるのでしょうが、もうそんな年なのかと少し驚きであります。
 牧師の場合は、先輩達を見ていますと、連盟では65才の定年になっても返って仕
事が一杯になる牧師達が多いようです。体の動く限りは、むしろ小さな教会の助っ人
牧師としていろいろな所で使われており、喜ぶべきか、悲しむべきかよく分かりませ
ん。神さまに赦される限りは働きたいです。しかしヨハネ伝21章18節では、主はペ
テロに「あなたは若いときには行きたい所に行っていた。しかし年をとると、行きた
くないところに連れて行かれる」と預言されています。自分でこうしたいああしたい
と思っていても、年を取ると主が連れていかれるところがあるのでしょう。とにかく、
今年もまた、主に従って歩むのみであります。

 さて聖書は、詩編第1編を開いてみました。この聖書は、元旦礼拝や新年礼拝に開
かれるもっとも多い聖書でないかと思います。年の始に聞くに、ちょうどよく主張が
はっきりしております。私達は改めて幸いな道を今年も歩もうと決心するのでありま
す。この「いかに幸いなことよ」の呼びかけは、古代からイスラエルの人々に良く知
られていたようです。それはイエス様もまたマタイ伝5章のからの山上の説教の8福
と言われる祝福の宣言のところに、同じ言い方をされています。あの「心の貧しい人
は幸いである。悲しむ人は幸いである。柔和な人は幸いである。義に飢え渇く人は幸
いである」という部分は、8回繰り返されますが、まさにこの詩編1編の響きをイエ
ス様が踏襲されて使われた、と言われています。
 1節にある通りに、詩人は幸いな人のまず否定的な部分から語ります。否定的な部
分から語るというのは、響きがよくないと言う方があります。しかし聖書では、モー
セの十戒に示される通りに、まず否定から入ります。「私以外のものを神とするな。
いかなる偶像も作るな。主の御名をみだりにとなえるな。…」と続く否定構文は、日
本人は威圧的に聞こえるらしいです。しかし否定構文とは、実は後は全部自由だぞ、
と言うことらしいです。私以外のものを神とするな、後は全部自由でよい。いかなる
偶像も造るな、後は全部自由だ。主の御名をみだりにとなえるな。後は全部自由にし
ていい、と言うことらしいです。
 実はこのお正月は、昨年1年間で有名になった歌がいつものように紹介されていま
した。映画音楽では有名な「ありのままで」、『アナと雪の女王』と言う映画ですが、
英語の歌詞がでてきました。「ありのままで」は原文で「レット イット ゴー」と
なっていました。すごい訳というか、ニュアンスがだいぶ違うなという感想を持ちま
す。原文を辞書通りで訳せば「さあ、行こう」を含むありのままです。むしろ前進せ
よという意味です。しかし日本語では「ありのまま」はそのままでいいとなってしま
います。つまり止まれの意味が強くなります。言葉は訳さないと使えませんが、だい
ぶ意味が合いが違ってくるのです。
 1節には「歩まず、留まらず、座らず」とあって、幸いな人は、一見するとなんと
消極的かとなります。しかしその意味合いは、モーセの十戒と似ていて、確かに「歩
まない、留まらない、座らない」とありますが、意味は、神に逆らう者意外となら、
どんどん歩め、罪あるもの以外なら、どんどん一緒に留まれ、傲慢なもの意外とは、
どんどん座って学び議論せよ、となるかと思われます。
 さらにこの「歩まず、留まらず、座らず」は、罪の度合いを示すという取り方もあ
ります。罪はまず、罪人の計らいや考えに同調することから始まります。これが歩む
です。次に、罪人の道に立ってしまうことにあります。つまり体が罪の考えに入るこ
とです。ただ考え事からとうとう動作や行為に入ります。最後に傲慢な者と共に座る。
つまり神を信じることや神さまを信じる者を、仲間と共に嘲り出すのです。自分もよ
く分かっていないのに、無神論の主張に乗ってしまって神さまをあざけり出す、これ
が傲慢の姿であります。罪とは何かはいろいろな定義の仕方があります。一つのあり
方に罪とは、高慢と傲慢の姿があります。傲慢と高慢のもっともな姿、典型は、聖書
ではペテロです。「皆があなたに躓いても、私は決して躓きません」マタイ伝26章
33節です。皆の者があんな事をしている。しかし自分は絶対にしない。皆のものは
馬鹿だから、頭が悪いから、知らないからあんな事をしている。しかし自分は頭も良
いし、馬鹿でないし、よく知っているから絶対そんなことはしない。当然いつも私達
が考えることです。しかし実はここが一番危ないのです。皆のものがしている。自分
もそうなるかもしれない。主の導き、主の守り、主の恵みによって、しっかり祈り、
しっかり学び、しっかり準備しよう、でないと危ないのです。「歩まず、留まらず、
座らず」はこうして罪を犯さないために、正しい人と共に歩み、正しい人と留まり、
正しい人と共に座ることを、勧めているのです。日本でも良い友達を持てとあります
が、段々感化されていくとを示します。イエス様の側に歩み、イエス様に留まり、イ
エス様と共に座るのです。

 次に詩人は2節の肯定的な面を語ります。幸いな人は「主の教えを愛する」。「主
の教えを昼も夜も口ずさむ」とあります。ここは古い方はよくご存知のように、この
「教え」は原文はトーラーと言って狭い意味では、律法のことです。しかしトーラー
は広い意味では単なる律法の書ではなく、神さまのみ心、神さまの意思のことです。
つまり平たく言えば、いつも神さまのことを考えている人と言うことになります。
「主の教えを愛し」は従って、何をするにも、何をなすにも、まず主が喜ばれること、
主が楽しみ、主が望まれることを考えている人です。さらに「その教えを昼も夜も口
ずさむ」は、確かに御言葉を何度も何度も口にしていることです。しかしさらに「口
ずさむ」は、メディテーションという意味を持ちます。つまり黙想のことです。何度
も何度も御言葉を思いめぐらして、その真の意味を突き止め、言葉の真理を受け止め
ることでもあります。
 具体的には、たとえばローマ書13章1節には「人は皆上に立つ権威に従いなさ
い」とあります。これだけだととにかく上の者いうことを良く聞け、となりかねませ
ん。しかし第1ペテロの手紙2章17節には「神を恐れ、皇帝を敬いなさい」とあり
ます。上に立つ権威に従うことには、神を恐れることが関わっているのです。つまり
盲目的に上に従えばいいのだとなりません。神を恐れて、上に従うのが、神さまの意
思であり御心になります。つまり上に立つ権威が神さまに逆らう時には、つまり上に
立つ者が神さまを恐れない時には、ここには抵抗が生じることになります。こうして
私達は昼も夜も主の言葉を口ずさむ、つまり思いめぐらし、黙想して、何が神さまが
求めて、何が神さまの意思で、神さまが由とされることであるのかを、自分でも確か
めつつ歩むことになるのです。

 3節には、このようにしていつも神さまの教え、律法、御心を求める者の姿を示し
ています。それは、流れのほとりに植えられた木であるといいます。日本では木はど
こでも茂り大きくなります。しかしパレスチナのイスラエルは基本的に砂漠気候です。
残念ながらどこでも木が大きくなるのではありません。オアシスか川のほとりなので
す。そして、川の水の流れの側の木は、季節毎に実を付け、葉もしぼばぬ常緑樹とな
ります。そして詩人は、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむその人のする
ところは、全て繁栄するとまでいいます。これは言い過ぎである。現実でないとすぐ
に反論が出るでしょう。現実にキリスト者がつねにいつも繁栄しているとは限りませ
ん。キリスト者もまた病気をし、失敗をします。中には一般の主を知らない人よりも
客観的に苦しみが多いではないかと見る人もいるでしょう。また下手をするとこれを
反対にとって、自分はいつも繁栄しない。失敗ばかり、人に躓きばかり与えていると
読む方もでてくるでしょう。自分は全くこの世の繁栄から遠ざかっている。本当は救
われていないのでないか。自分が口ずさんでいる聖書は、違うのではないか。繁栄が
ない自分は、救いから漏れているのでないか。なぜなら、主の教えを愛し、主の教え
を口ずさむ人は、皆栄えるとある。しかし自分はちっとも栄えていない。自分は救わ
れていないのだ、となるのです。
 さらにもっと酷いことに、自分はこんなに儲かっている。自分はこんなに健康であ
る。病気一つない。自分は子供に恵まれ、家族に恵まれ、仕事に恵まれ、何の問題も
ない。これは自分は神さまから大いに祝され、神さまが自分と共におられるに違いな
い。自分は神さまと共にあるのだ。皆のもの、自分の言う通りにすれば、必ず神さま
が共にいてくださる。どうだ皆私の言う通りにしなさい。そうすれば、神さまから皆
繁栄するの約束がもらえるのだ、神さまから恵みがもたらされるのだ、という人もい
るのでしょう。恵みの高慢というものです。典型的な高慢の信仰の姿です。しかし詩
編のここでは、その両方が否定されます。

 ところで福音は一体誰から聞くべきでありましょうか。お金持ちからですか。貧乏
な人からでしょうか。地位のある人からでしょうか。全くの無名の人からでしょうか。
権威のある人からでしょうか。権威のかけらもないひとからでしょうか。学問のある
人からでしょうか。学問のない人からでしょうか。誰から聞くべきでありましょうか。
 私達はおそらく金持ちで地位があって、有名で権威があって、学問のある人から聞
くべきであると言うでしょう。しかしそうでないのです。だって福音を信じて金持ち
でないということはおかしい。福音を信じて、有名でも権威もないのはおかしい。福
音を信じて、学問もないのはおかしいと人はいうでしょう。しかしバプテストで一番
有名なイギリスの19世紀の牧師スポルジョンは「福音は乞食が乞食に食物のありか
を教えるのと似ている」と言ったそうです。
 いろいろな取り方があります。まず、福音を伝える人は乞食でなければなりません。
つまり自分は何の力もない、自分に権威がない、自分には救う信仰がないとよく分か
る人、自覚している人でないといけません。信仰の高慢の人は、教える資格がないの
です。次に、聞く人も本物の乞食でなければなりません。つまりおれはこれだけの金
があるとか、おれはこれだけの知識や学問、資格がある又持っていると言う人は、残
念ながら食べものをありかを本当に聞けないのです。それはアクセサリーとしての福
音は聞けるかも知れない。飾りのとしての福音は聞けるかもしれない。しかし本当に
空腹を満たす本当のパン、真理のパンとしての福音は聞けないのです。つまり乞食と
は謙遜であり、命をかけてつまりほんものの命のパンを探す人でないといけない。

 4節に、神に逆らう人は籾殻であると言われます。中味がないのです。この世的に
は人角の人物で、多くの成功と人望にある。しかし天地創造の主、私達を裁かれる主
は、それを籾殻とされるのです。

 6節、最終的に、私達の平安は何でありましょうか。「主は私の道を知っていてく
ださる」ということです。主に従う者とそうでない者の違いはあるのか、あるとすれ
ばそれは何であるのか。詩人は言います。「主は知っていてくださる。」それです。
神さまを知っていても知らなくても、ヨブ記にある通り、むしろ知らない人の方が、
楽しみ多く、楽な生き方をしているかのようです。しかも病気にかからず、失敗も少
なく見えます。しかし詩人は言います。神さまに従う人はまず、神に知られる人なの
である。どんなに苦しい目に遭い、病気に遭っても、なお主は本当の私を知っていて
くださる。私達はまず改めて、神さまに心の奥から全身全霊を、知られる存在である。
失敗しても、病気でも、まず主が共にあって、知っていてくださる。私達は、ここに
自分の荷を降ろして、この1年間を復活のイエス様と共に歩みます。

 祈ります。「天の父よ、皆をあがめます。2015年が寒かったですが穏やかに開け
ました。今年も成すべきことが山積です。しかし主よ、一歩一歩成させてください。
今年もまた私達は、大きな病気をなし大きな失敗をするでしょう。しかし主は全てを
知る方、愛する方、守り導かれる方です。主のみ手の中に私達はあります。主の導き
を信じて、大胆に歩ませて前進させてください。求道者にあなたを信じる平安を与え
てください。昨年のからの祈りですが、リハビリのM姉、退院したS君、H
姉、K兄、I兄、H兄、続けてみ手を置いてください。東北地震の非難者、放
射能からの避難者を守ってください。今年1年間もまた導ください。御名よって祈り
ます。アーメン。」