2018年度 説教
 いつものように著作権を放棄しています。
どうぞ、イエス様の宣教の為に使ってください。
ただ、私は学者でないので、適当な引用や孫引きがあります。
 引用される時は、自分で原本に当たり、確認してください。
私の体験の部分はもちろん著作者ですので、引用ください。
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       哀歌4章20〜22節          2018年6月17日
                               「 赦される時 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 先週は平良憲誠先生による特伝ができましたこと、心から感謝します。チラシ配り
やお誘いや、実際には来られなかったかもしれませんが、声掛け祈られたと思います。
幼稚園のお父さんの中には、初めての方も十数人あったようです。イエス様のたとえ
では、聖書のみ言葉は種である、とも言われています。お父さん方にまかれた種が、
いつか芽を出し、大きくなることを祈るのみです。
 実は、私は全くキリスト者の「き」の字も知らなかった時、高校2年生の時でした。
私の行った高校は、2年生で倫理社会という科目をならったのです。その時、教科書は、
キリスト教の箇所でした。先生はたしか共産党の方だったと思います。なぜなら先生
はマルクスが大好きで、授業は社会主義の話が多かったのです。しかし教科書で、キ
リスト教が載っていたので、先生はなんとルカ伝15章の平良先生が話されたあの放蕩
息子の聖書の話をしてくださったのです。
 わたしの記憶では、ルカ伝15章の話をして、最後に「と言う話をイエス・キリスト
はされたらしい、真に変なおかしな話だ」と言われたのです。しかし、先生が変な話
と言われたその話が、なぜか、わたしの心に引っかかってしまいました。そして、そ
れから4年後、私が友達から伝道されて、聖書を初めて読んだ時、ルカ伝15章の話を
読んで、あっと思い出しました。これは高校の時に習ったあの話はここにあったのか、
という思いです。当然、何か聖書と自分がつながっている気がして、聖書をもっとも
っと読むようになったのです。
 神さまはいろいろな方を用いられる。つまり全然のそのことを伝え、教えようとす
る気がない方の言われたことばでも、ちゃんと用いられる。ですからあまり効果とか、
良い悪いを判断しても仕方がないのです。神さまが用いるものは用いられる。チラシ
やはがきもその時は効果がないかもしれない。しかし神様はいつか用いられるかもし
れないのです。皆さんは「今度、違った先生が来るから聴きに来ないか。」と言ってみ
た。しかし来られなかった。じゃ無駄だったのか。違うと思うです。2,3回誘うと相
手は人間ですので、5回目には行こうと思うかもしれません。ですから、その時その時、
応答がないかもしれませんが、継続し続けることは大切だと思います。

 本日は月に一度の旧約聖書を開くということで、哀歌を開いています。本日は哀歌4
章になりました。何度も語りましたように、哀歌は紀元前587年のエルサレム崩壊を
みて体験した詩人が、そのことを神様のこととして受けとめて、歌い書いています。
それはヘブル語アルファーベートのいろは歌であり、最高の技巧を懲らしています。
すでに何度も語ってきましたが、エルサレムの崩壊、滅びは、イスラエルにとって大
きな悲劇であり、大きな危機でした。それはなんといっても神の民とされた自分達、
神の選びを受けたとされた自分たちが、神を知らない異教徒のバビロンに殺され、破
壊され、連行されるということでした。神は力がないのでないか。神の守りは効果が
ないのでないか。今までのアブラハム、イサク、ヤコブの神様の導きは何であったの
か、という根本の問いとなったのです。私たちでいうと、イエス様・神様を信じたの
に、なんで自分にこんなに苦難や病気がくるのか、神さまを信じ、イエス様を信じた
ことは何か意味があったのかと重なります。
 しかし、イスラエルの人々はそのような神の民、神の選びの民でありつつしかし、
神に打たれることを、真正面から受け止めていくのです。それは神さまは自分たちを
愛しておられるので、バビロン捕囚をあえてされたという信仰です。神様の守りが弱
いとか、神さまの選びは、たいしたことないでない。神の契約は無かったでない。予
言者エレミヤが示したように、反対だというのです。神様の愛が深いので、神さまは
自分達イスラエルを打たれる。神様の契約が確かなので、契約を全うされて、エルサ
レムの崩壊とバビロン捕囚が来たと受けたのです。
 これはあえて誤解を恐れずにいうと、神さまはあえてイエス様を信じた人、頼る方
を懲らしめ、試練や誘惑に置かれることがあるということになります。ですからその
時は厳しく、信仰を捨てたいと思うようなことがある。しかし主はそれでも働いてく
ださる。ローマ8章28節の通り「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された
者たちには、万事が益となるように、共に働くということを、私たちは知っています」
なのです。私たちは、このローマ書の信仰を示されているのです。

 本日の20節には、「主に油注がれた者、その人が彼の罠に捕らえられた。…その人
の陰で生き抜こうと頼みにした人が。」となっています。エルサレムにおいて、哀歌の
歌うその人は誰であったのか。エレミヤ40章に示されるゲダルヤだったのでしょうか。
しかしゲダルヤは同じ民ユダヤ人に暗殺されてしまうのです。その後に立てられたゼ
デキヤ王でしたでしょうか。彼もまた最後の戦いでバビロンに殺されるのです。
 ゲダルヤだったのか、ゼデキヤ王であったのか分かりません。しかし確かなことは、
この哀歌の詩人が、期待し心を寄せた人は、殺されバビロンに捕らえられ連行された
のです。私達もまた信仰生活において、あの人を模本にしよう、この人を目標にしよ
うと決めることがあります。こんな人、あんな人になりたいと思うのです。しかしも
のの見事に、その人が病気になり大失敗をされ、信仰を失うことがあります。
 今はもう知っている方は少ないですが、私が信仰に入り立ての頃、渡辺善太という
日本旧約学会の大御所とされた方の信仰随想を読んだことあります。なんとこの渡辺
先生は、自分を導いてくれた牧師先生が、信仰を失い、牧師を辞め、教会を離れる体
験をされていました。いろいろあるかもしれませんが、普通は自分を導き、自分のた
めに祈り、自分の信仰の手ほどきを為した方が信仰を失い、信仰を離れ、教会から去
るとかなりの痛手を受けると思うのです。自分もやめたと思うのではないかと思いま
す。しかし渡辺先生は信仰を辞めなかった。何故か。先生は「私はその先生に信仰を
導いて頂いたかが、私は聖書によって信仰を受けたのです」と書いておられました。
 そうです。確かに導く方は大切であり、導く方の祈りは大切です。しかし導く人が
どんな状態に成ろうとも、自分の信仰を聖書の御言葉に置く人は幸いです。というか、
本来信仰は、聖書から神の言葉を頂いて出発し、今を生きて、終わりを迎えるのです。
萩原姉が召天される時、正直辛かったです。影に日向に、教会を支えてくださった。
どうして神さまはこんな方をこんなに早く天に召されるのか。どうしても分からない。
しかし神様の全能と神さまの十字架の全き愛を思うと「全ての日は死ぬるに良き日で
あり、全ての日は生まれるに良き日である」としか言いようがないのです。萩原姉は
そのことを、最後に私に教えてくださったような気がします。
 油注がれた人とは、ゲダルヤかゼデキヤ王が分からない。しかしバビロンに連行さ
れ、殺されて行った。神の守りと導きの疑問を残して死んで行った。しかし哀歌はそ
れを神様の事として心から受けて前進するのです。私たちも前進します。

 21節に、突然エドムのことが出てきます。エドムは、ヤコブのお兄さんで、イスラ
エルの兄弟国家です。創世記25章に詳しく出てきます。創世記が示すエドムの祖先エ
サウの人物像は、人のよいことこの上なしです。長子の特権をいとも簡単に食べ物の
ために手放します。創世記27章には、エサウは弟ヤコブから父イサクの祝福を毛皮を
体に巻いて騙し取られます。創世記32章では、長子の特権も父イサクの祝福も奪われ
たのに、兄エサウは簡単に自分を騙した弟ヤコブを赦します。こんなに騙されやすい、
しかも人を赦しやすい人のいい兄は、まずいないのでないかと思います。
 しかし神さまは、この兄のエサウでなくて弟ヤコブを、ご自身の祝福も基とされま
す。しかしもちろん神様は兄エサウも又祝福し守られています。しかし後のエサウの
子孫は、イスラエルにことある毎に反対し対立しています。イスラエルが出エジプト
して、主の約束の地に入るとき、主なる神は、申命記2章4節では、セイルにいる親
族エサウの子孫の領内を通るなとして、兄エサウ子孫エドムを守ってくださいました。
しかしエドムは、このような主なる神さまの守りを、心に留めず、目にとめず、忘れ
ていくのです。
 アモス1章11節によるとエドムは、紀元前720年アッシリア捕囚の時、兄弟国家イ
スラエルを守るのでなく「彼らは剣で兄弟を追い」と言われています。いろいろな解
釈があるのです。一つはイスラエルの人々がアッシリアから追いつめられて、南のエ
ドムに隠れ家を求めたとき、エドムは剣で追い出したようなのです。つまり逃げてき
たイスラエルを追い払ったようなのです。「憐れみの情を捨て」となっているので、ア
ッシリアから匿ってくれないで、追い出した歴史があったとされています。
 自分達が弱かった時には守ってもらい、自分たちが強くなった時には守らない。ま
さに恩を仇で返したのがエドム国であったのです。見も知らない血も繋がっていない
国なら仕方がない。問題は兄と弟である兄弟国家でそうなったのです。実は、エルサ
レムがバビロンに陥落される時、エドム国はまだ国として保たれていたとされていま
す。哀歌の詩人は、エルサレムが滅ぼされ、自分たちがバビロン連行の憂き目を見た
時、エドムも又滅びると神様から聞いたのです。「お前にもこの杯は廻って来る」とは
この事です。
 私達は自分たちエルサレムが滅びるときに、未だ滅びていないエドム国に対して、
「お前達も滅びる」と語る哀歌の詩人の信仰を、余り良いとは思いません。しかし聖
書はなんと人間的なことでしょうか。自分に悪いことをした人に悪いことが及ぶよう
に願う。あってはならないのですが、私達の信仰の現実です。聖書は赤裸々に書くの
です。エドムのような恩を仇で返す国が、そのままであるはずがない。神の義は、必
ず貫徹されるとするのです。
 聖書には時々、報復や復讐の歌があります。神の民なのにどうして。神の守りと神
の契約を受けた民なに、何故と思います。しかし事実私達は、余りにも苦しみが襲い、
余りにも理不尽の取扱いの中に置かれる時、どうしてこの人は、そのままなのかと思
うのです。神の義はどうなるのかと思うのです。そして、このような記事が聖書にあ
るということは、疑念の表明は、赦されていると言ってもよいでしょう。
 ヨハネ伝21章の復活のイエス様の章には、同じような場面があります。復活のイエ
ス様は、ペテロに3度「私に従いなさい」と言われます。そして3度「私の羊を飼い
なさい」という有名な場面です。その時、ペテロはよせばいいのに、ヨハネが側にい
るのを見て、ヨハネ伝21章21節「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言って
しまうのです。ペテロの人となりをしめす出来事です。私は、ペテロが3回「私に従
え、私の羊を飼え」と言われた時に、隣のヨハネをみて「この人はどうなるのか」と
いうのは、分かるのです。自分のことは、神様から言われた。分かった自分はこうす
ればいいのだ。しかしあの人、この人はどうなるのですか。「私だけ、主に従い、私だ
け羊を飼わねばならないのでしょうか」と言うことです。
 おもしろいというと怒られます。しかし信仰はこのように共同体の中で鍛えられて
いくのでないかと思うのです。教会は現在確かに振るいません。昨日の鹿児島ブロッ
ク女性会の修養会も、ほとんどご高齢の方ばかりです。若い方がおられない。しかし、
最後のマウマウタン先生の説教で言われたのですが、小羊会の数人が歌を歌ってくれ
たのです。その時マウマウタン先生は、小さいけれども信仰の継承がこうして起こっ
ているのですと注目してくださったのです。私はマウマウタン先生も見て、すごいな
と思ったのです。小さいことでも、少しでも芽がでて息吹があれば、そこに目を留め
る。そしてここから大きくなるかも知れないのですと言われる姿です。女性会の信仰
をこの小さい小羊たちが受け継いでいくのです、と言われたのです。
 私達は、何はともあれ、教会に伝道されてキリスト者になるのです。中には自分は
伝道されないで、教会に来たと言う人がいるかも知れません。自分は教会から信仰を
習っていないと言う人がいるかも知れません。しかし、少なくとも私は教会の方が祈
ってくださり、教会の先輩に信仰を習い、教会の方々に支えられ、信仰仲間に鍛えて
貰いました。私は口が裂けても、教会を離れるとは言えないのです。何故なら私は個
人としては、全く信仰を持てない確信があるのです。ただ教会の恵みの守りの中でし
か、私の信仰は起こり、継続し、成り立たなかったのです。

 22節、哀歌は「乙女シオンよ、悪事の赦される時が来る」と言います。「再び捕囚
は無い」といいます。これは最終的にはイエス様の十字架での実現でしょう。しかし
今、イスラエルの罪は、バビロン捕囚において、赦されるというのです。罪の罰を受
けたものは、後は赦ししかないという信仰であるとされます。つまり哀歌の罪の告白
は、新しく生きる必要条件なのです。罪の告白は、自分の責任を取ることなのです。
自分を罪無しとするものは、最後まで赦されず、自分の生き方の責任をとれないので
す。つまり正しく生きることができないのです。哀歌の詩人はエドムのために、祈っ
て上げるべきでした。ここは旧約の限界を示すのかも知れません。
 そして、ペテロもまた、ヨハネはどうなるのかとイエス様に聞いた時、ヨハネ21章
22節、主イエス様は「あなたに何の関係があるか。あなたは私に従いなさい」と言わ
れました。私達は、隣人を問うことは許されず、脇目を振らず、ひたすらイエス様の
十字架に従って生きることが、赦されているのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。先週は平良憲誠先生による特伝を感謝で
す。・・先生によって蒔かれた種、またチラシや葉書の種がいつか用いられ、芽を出
しますように、導きください。求道の方には信じる時、委ねる時を備えてください。
病気の方、特に、・・・手術を控える・・・にみ手をおいてください。ご
高齢の方、・・・の上に守りをおいてください。
海外で働く宣教師達を支えてください。こども園、児童クラブの園児、学童、先生、
指導員を支えてください。教会員一人ひとりの信仰、魂、健康を支えてください。御
名によって祈ります。アーメン」

    マルコ伝3章31〜34節              2018年6月3日
                             「 主の御心を行う人 」 
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を導く
御言葉を聞いていきます。
 5月もあっという間に終わり、今日は6月最初の礼拝となりました。第1主日です
ので、主の晩餐を共に受けて行きます。また来週は平良憲誠先生による特別伝道集会
を致します。どうか、よき集会となりますように、祈りとお誘いをお願いします。久
し振りに今回の特伝は、中山伝道所でも宣教もそのまましてくださるとのことです。
感謝です。

 さて聖書は、イエス様と母マリヤその兄弟と姉妹までが出てくる珍しいところです。
イエス様の御家族の様子が、伺える聖書の箇所になっています。しかし読んで分かる
通りに、イエス様とその家族の関係は、言うこと無しということではありません。私
達はイエス様もまたかと言うか、イエス様にしても、家族の理解を得ることが難しか
ったのだと知ることができます。これは、ある意味で残念の面もあります。しかし本
質的に、神の国、神の御心を求めて私達が歩む時に、どうしても避けて通れない道、
課題の面もあるのです。
 31節から聞いていきますが、前後を少し見てみます。イエス様は3章13節から12
弟子を選ばれて、いよいよ公生涯、伝道の生涯が始まります。ルカ伝ではこの時30才
であったとなっています。イエス様は、30才までひたすら母マリヤと兄弟、姉妹達を
支えて生きられました。何度か語ったことがありますが、イエス様は結婚されること
なく、30才まで母と共に住まれ、兄弟姉妹を支えられたことになります。良くなさい
ました。ある意味で母子家庭の典型の姿かも知れません。
 弟達や妹達のために、ユダヤでは12才から成人式をして、大人の中に入って働けた
ようです。ユダヤのパレスチナの状況からいくと、当時は父の仕事を受け継いで家業
を継いでいくのが普通でありました。日本でも戦前までほとんどそうだったと思いま
す。イエス様は父ヨセフから大工さんの手ほどきを受けて、多くの大人の大工仲間に
入り、仕事をして賃金を得て、母マリヤと弟、妹達を支えました。聞かれたことがあ
ると思いますが、イエス様は牛と畑を耕す鋤をつなぎ又荷車を繋ぐ頸(くびき)をつ
くるのが上手だったという伝承があるそうです。またイエス様は石工としても上手だ
ったという伝承があるそうです。
 つまり当時は今のように大工さんは家を造るのみならず、家具も作り、農機具も注
文を受ければ作り、石の加工もされたことになります。聖書にはそのイエス様の大工
としての働きは全く出てきませんが、早くに亡くなった父ヨセフの後を受けて、大工
仲間の仕事を請負、家具製作や石工の仕事もこなされ、淡々と母マリヤと弟達、妹達
を支えておられたのです。そして主日にはユダヤ人として、ガリラヤのシナゴーグ会
堂に出席され、おそらく年に3回ないし1回は過越祭、仮庵祭、7週祭には120qは
なれたエルサレム神殿にマリヤと弟、妹達をつれて出席されたでしょう。鹿児島から
いうと八代の少し先あたりまで年に数回は礼拝に行かれていたとなります。
 淡々と家族を支えていたイエス様がある日突然とまでは行かなかったでしょうが、
なぜならルカ伝2章には12才の時、エルサレム神殿に礼拝に行かれた時、なんと律法
学者の中に入り、質問したり聞いたりしていたとあります。母マリヤはやはりこの子
は何か大工だけの生涯では終わらないのは、気付いていたのでないかと思います。し
かしその時がきたのです。最初は4人の弟子ペテロとヤコブ、ヨハネとアンデレ、し
かしその後ほとんど漁師で構成される12弟子と共に生活をし出されたのです。
 家族の驚きはいかばかりであったかと思います。12弟子達との伝道の生活は当然、
母マリヤ、弟達、妹たちの生活に響いたでしょう。もうイエス様からの収入はなくな
ったのです。もちろん母マリヤの生活は困窮したとはならないと思います。イエス様
が30才の時、すでに弟達は20数才にはなっていたでしょう。イエス様は弟達妹達が
ある程度の生活ができるのを確認されて、伝道生活に邁進されたと思います。
 本日の記事の直前にはベルゼブル論争があり、イエス様のなさる教えや奇跡が、悪
霊の頭ベルゼブルによるとエルサレムの律法学者が判定しました。これも家族には心
配の種になったでしょう。事もあろうに、自分たちを30才まで結婚もなさらずに支え
てくれたイエス様が、サタンの頭の仲間になっていると判断されたのです。

 31節の「人をやって、イエスを呼ばせた」と言う中に、家族さえもイエス様に近づ
けなくなった姿を見ることができます。またあんなに家族思いの長男に従い、とんで
もないイエス様にしてしまった群衆への非難が込められてもいるようです。本来なら、
家族はイエス様の働きを見て、つまり病気を癒し、悪霊を追い出し、酷い律法学者の
聖書の教えを訂正されるイエス様に従って良かったはずです。群衆に紛れ込んで、イ
エス様の話を聞き、イエス様のなさる奇跡を確かめても良かったはずです。しかし家
族は、群衆の中にもはいれなかったのです。
 宗教の権威となってしまった人を持った家族はどうなるのか。オウム真理教は例外
でしょうが、日蓮や親鸞や新興宗教の姿をみておりますと2つに別れるように思いま
す。1つは家族もまた信じていく姿です。父も母も兄弟も、自分の子が説く教えに帰
依する姿があります。しかし家族が全く理解せず反対していく姿もあります。
 イエス様はある意味で、家族からは理解されなかった姿になるように思います。そ
してこれはキリスト教が背負う一つの課題と思います。キリスト教は血のつながりよ
りも信仰の繋がりを大切します。また宗教はある意味でどこかで、血のつながりを越
えて、信仰の繋がりで結ばれていくものです。ルターは「血によってのみ繋がる家族
は危険である」と言ったそうです。家族は一度、血縁の血は一度、信仰の試練を受け
てそして、本当の家族になるということでありましょう。
 そして、日本のようにキリスト教の伝統がほとんどないところでは、まさにイエス
様に起こったようなことが、私達に起こるのです。皆さんの中で、キリスト教になっ
たということで、家族から喜ばれた方が一人でもあるでしょうか。多分一人もないと
思います。私は、神学校の授業である宣教師さんが言われたのを覚えています。「皆さ
んは、日本ではキリスト教になっても誰も喜んでくれないですね。しかしアメリカで
は良かったね、と言ってくれる人が多いです。どうかしっかり最後まで信仰を保って
ください。」と言われたのです。
 まさにイエス様とおなじような事が、今の日本では起こっているのです。信じても
誰も喜んでくれない。しかしこの方イエス様を信じて自分は生きる、ということです。
もちろん中には例外があるかも知れません。私が信じたての頃、奥さんがバプテスマ
を受けて喜んでいる無信仰のご主人がありました。しかしこれは女性だったからかも
です。キリスト者の女性というのは日本では少しだけ株が上がるように思います。女
性差別でしょうか。しかしご主人がキリスト者になってお連れあいが喜んでいるのは、
まず見たことがないです。なんか分かる気がします。何を喜んで損ばかりのキリスト
者になるのか。儲かるわけでない。この世的には損が多いのに、ということだと思い
ます。しかし損になろうが、召しは確かであり、損を越えて、罪の赦しの十字架を信
じたい、信じると言うことが起こるのです。

 32節にあるように、群衆はイエス様の御家族が来たということで、すぐに取り継い
でくれました。宗教の中には、修業の期間は、誰も取り継がないというのがあると聞
いたことがあります。しかしイエス様の弟子達は、イエス様のご家族だと言うことで、
すぐに取り継いでくれました。キリスト教は密室で何かの行事をするというのは、ほ
とんどありません。私が、バプテスマを受けた時は1976年クリスマスです。ちょうど
その頃主の晩餐を、未信者を帰らせて信者だけでする形態から、誰でも参加している
礼拝でするようになったように覚えています。記憶違いかもしれませんが、今は恐ら
く主の晩餐を、未信者を帰らせてから信者だけで別にする教会は、バプテストでは今
はないと思います。

 33節にイエス様は言われました。「私の母、私の兄弟とは誰のことか」。これは私達
もびっくりしますが、当時の人はもっとびっくりしたと言われています。それはイス
ラエルでは、なんと言ってもモーセの十戒の第4戒「父と母を敬え」は、神の教えだ
ったからです。その中味はどうであれ、父と母を敬い、重んじ大切にするのは、これ
はもちろんイスラエルだけでないのですが、イスラエルではまた特に大切な神の教え
だったのです。なぜならイスラエルでは父と母を通して神さまの教えを受ける。最初
に子どもは、父と母を通して、主なる神さまの教えを受けるのです。実は父と母を敬
えと言う教えは、旧約聖書では人倫の教えにはいるのではなくて、神の教えに入ると
まで言われています。
 イエス様が「私の母、私の兄弟とは誰のことか」と言われた時、その意味を理解し
た人は、いなかったのでないかとも言われています。父と母を敬い、兄弟姉妹が共に
歩み、家族が支え合う姿は、旧約聖書のもっとも典型的な姿でありました。しかしイ
エス様はその姿に、もの申されているのです。目の前に母がいる。目の前に兄弟がい
るのにです。しかし主イエス様はあえて「誰が母で、誰が兄弟姉妹か」と言われるの
です。聞いた人はびっくりですがしかし、これはあり得ると思うのです。
 それは、血縁の母がまた家族が、その人その子を駄目にすることを、私達は時々見
たり聞いたりするのです。余りにも支配的な家族、余りにも自分の思った通りに子ど
もを教育する母は、その子どもを本当に駄目にし破壊します。テレビ・ドラマで何度
も演じられ、出てきます。あれほどでなくても事実です。それは本当は、子どもを思
ってのことなのです。しかしその自分の子を思う方向が、自分の思う通りに動く子ど
もなっているのです。自分の思った通りにする子どもつまり人間でなくて、自分の奴
隷を育てているのです。人間の心、魂、意志は、奴隷になるように造られていないの
です。自由になるように造られているのです。
 この前も祈祷会の終わりの話しで支配的な母の姿が問題になりました。その子は力
一杯母の思いに答えるのです。しかしその段階で、母の思いは自分を愛するのでない
と分かるのです。母に従う子を愛しているのであり、本当の自分を愛していないと分
かるのです。その子どもは、東大の合格の日に「お母さんこれで満足でしょう」と遺
書を残し自殺したのです。典型的ですが、わかるのです。
 父母とは誰のことか、兄弟姉妹とは誰のことか。家族とは何のためにあるのか。私
達は、父も母も、子どもも、兄弟姉妹も、十字架の血によって一度切られ、洗われる
ことがどうしても必要であると示されます。子どもは一度自分の手から、神さまの手
に移され、そして今一度自分に手に戻って来る。このことが必要なのです。一度殺さ
れる。そして生かされることが必要なのです。そうしないと本当の関係にならないの
です。子どもは自分の持ち物でない。一つの人格である。一つの絶対的な誰も踏み込
んではいけない聖所・人格の分野があるのです。親は子に対する自分の思いや計画が
あっても、それは子と応答しつつしか実現できないのです。それを踏み越える時、人
間の破壊が始まり、人の崩壊が始まるのです。

 34節に主は言われるのです。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。」35節、
「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹又、母である。」イエス様は、家庭の破壊を
目論んでおられません。イエス様は、マルコ10章9節に「神が結ばれた者を、人は離
してはならない」と言われて離婚を禁止されたことがありました。マルコ10章13節
には、子ども達が自分の側に来ると、弟子達は叱ったのに、わざわざ自分の側に寄せ
られて、手をおいて抱き、祝福を与えられました。またイエス様の最初の奇跡は、ヨ
ハネ伝2章ではカナの結婚式の祝福の出来事でした。イエス様は、人間のなす結婚の
営みを、神さまのからの祝福として、十二分にご承知です。
 しかし結婚も又神の意志、神のみ心に従うという目標が必要なのです。『星の王子様』
を書いたフランスの作家サン・テグ・ジュペリは「結婚は向かい合ってはいけない。
同じ方向を向きなさい」と言ったそうです。何かに奉仕をするというか、家族は開か
れていて、健全になる面があります。閉じこもり、閉鎖すると腐るのです。開かれ、
流れていて、動いていて腐らないのです。これは嘘みたいなのですがマルコ8:35「命
を得ようとする者は失う。しかし命を捨てる者は得る」のです。何がどうなってそう
なるのか説明が難しいです。しかし自分を生かしたいと思うなら、どこか自分に死ぬ
ことが必要であり、本当に自分を捨てた人は何故か、命を自分が得る道を見付けるの
です。しかし「そうか分かった。得るために捨てればいいのだ」でないのです。祈り
会は時間が勿体ないです。しかし、祈り会の時間は返って時間を作り出すのです。そ
ういう逆説なのです。逆説は体験するしかないのです。納得では分かりません。
 イエス様はその方向に、神の御心を示されるのです。それは端的に愛の道と言える
のかも知れません。何も起こらない。何もないのかもしれない。しかし主が言われる、
聖書が言うのでやってみるか、でいいのです。自分のこれまでの体験や経験では全く
話しにならない。理解不能です。しかしお言葉だから愛し、祈ってみるのです。信じ
てみるのです。「淡々と黙々と神の御心を行う人、これがイエス様の兄弟姉妹なのです」。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。主は、神の御心を行う人が、私の兄弟姉
妹、又父母と言われます。感謝です。主は、身分や能力でなくて、思いと方向、信仰
によって家族としてくださいます。信仰による家族です。求道の方には信じる時、委
ねる時を備えてください。病気の方、特に、・・・姉にみ手をおいて
ください。ご高齢の方、・・・兄・姉の上に守りをお
いてください。海外で働く宣教師達を支えてください。こども園、児童クラブの園児、
学童、先生、指導員を支えてください。T先生による特伝を導きください。教会員
一人ひとりの信仰、魂、健康を支えてください。御名によって祈ります。アーメン」


     哀歌3章19〜24節           2018年5月27日
                         「 苦渋と欠乏の中で 」 
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を導く
御言葉を聞いていきます。
 今年は、早いもので、5月も最後の礼拝になりました。先週は聖霊降臨日ペンテコ
ステ礼拝が終わり、U兄・姉の2名を新しい会員として、迎えることができました。
祈りつつ教会生活を送られますように主に導きを祈ります。
 さて本日は月の最後の主日になりましたので、いつものように旧約聖書から聞いて
いきます。旧約聖書は、哀歌を開いております。今日は哀歌の3章となります。哀歌
を説教するのは、私は30年の牧師期間では、初めてのように思います。聖書には、何
度も何度も説教に用いられる書や用いられる箇所があると思います。しかしおそらく
一度も説教を聞いたことが無い聖書の箇所もあるのだと思います。いつか聞きたいも
のだと思っても、一生のうちに一回も聞かない箇所や聖書の場所があるのだと思いま
す。その反対にこの箇所は、どういう分けか何度も聞くな、と言う聖書も出てくるの
だと思います。聖書を読む方には、おそらく鉛筆で線を引く方があるでしょう。そし
て読むたびに引くのでその箇所が線で重なって読めなくなったり、とうとう穴が空い
たりしている方もあるかも知れません。昔は、自分の聖書を子どもに渡したいと言う
方がありました。しかし今は20〜30年くらい毎に聖書は、新しい訳が出るようになり
ました。現代では聖書は親から子ども、子どもから孫と渡してもいいのですが、多分、
私達の孫の代は恐らく今の聖書は、文体が固くて読めないかも知れません。ある意味
で聖書は、消耗品となっていくのだと思います。そして、もし消耗品であれば、出来
るだけ線を引き、赤線、青線を引いて書込、もう読めなくなって新しいのを買うとい
う具合になると聖書としては本望の使い方となるかと思います。
 脱線しましたが、哀歌は読まれない方の聖書の箇所かなと思います。そして今こう
して、読まれていることは、私たちの自分の一生で本当に一回かも知れません。1日
1日を積み重ねて読んで生きましょう。

 すでに1,2章の時説明しましたが、哀歌は、BC587年のエルサレム神殿の滅びに立
ち会った詩人が書いたようです。キリスト教の聖書ではエレミヤ書の次に哀歌がきま
す。つまりキリスト教では哀歌は預言者エレミヤが書いたという伝承があり預言書に
なります。しかし元々のユダヤ教の旧約聖書ヘブライ語本文では、その順番は、哀歌
はヨブ記、詩編、箴言、伝道の書(コヘレイト)という諸書の仲間に入れてあります。
つまり預言者の書でなかったようです。エルサレムの神殿の崩壊を見た詩人が、その
崩壊を神様の事柄として、神のことばとして受け止め、哀歌を書き、残したというこ
とになります。
 すでに1,2章の時にいいましたが、哀歌は旧約聖書中にもっとも技巧のほどこさ
れた聖書です。実は哀歌はイロハ歌になっているのです。そして3章はこの技巧が最
高に施され、イロハ歌が3節ずつの連になっています。22文字かける3行ですので、
66節なのです。つまり1〜3節までは、3回イで始まり、次の4〜6節までは3回ロ
で始まり、以下順番に次にハが3段、ニが3段となって以下最後のンまでの22文字が
66節まできます。こんな技巧は日本語の文章ではまずありませんし、見たこともあり
ません。その中に自分の体験と自分の信仰を歌うのですから、ある意味で大変であり、
ある意味で練りに練ったということになります。哀歌はとても只単に感情をむき出し
に悲しみを文章にするのみでは、絶対できない歌になっています。
 19節の「苦渋と欠乏の中で貧しくさすらった」は、もちろん、エルサレム神殿を崩
壊されてバビロン捕囚に連行された出来事です。ユダヤ人というのはどうしてこうな
るのかと思います。第2次対戦の時のドイツのホロコーストの虐殺も、まさに何か悪
いことをした人でなくて、ユダヤ人ということだけでガス室に送られました。ご存知、
ユダヤ人であったキリスト教カトリック教会の神父、修道女さんも例外にならなかっ
たのです。後から大問題になりました。信仰よりもさらに行いよりも、犯罪を犯した
か、どうかよりも、人種が問題になったのです。余りにもひどい差別と虐待でした。
 人類がどうしても記憶しておかないといけない出来事です。何を為したか、何を学
んだかでなくて、どこで生まれた、何人で生まれたかが基準に成るとき、無差別殺人
と言うとんでもないことが起こるのです。ヘイトスピーチも、部落差別も同じ論法で
す。何をする人か、どんな人か、善人か悪人かでないのです。ただの生まれで、どの
ように生きてきたでなくて、生まれで差別され殺されていくのです。

 20節に「決して忘れず、覚えている」とあります。これは文法では2つの動詞を重
ねる繰り返しです。直訳は「覚えに、覚えている」となっています。むしろ自分の魂
に覚えに覚えさせるということです。国を破壊され国を追われて、バビロンに連行さ
れたことを、覚えに覚えている、つまりけっして忘れないというのです。苦しい体験
は、水に流して忘れてください、というのは日本的な考え方のようです。
 聖書では、反対に苦しみと辛さを、覚えに覚えて行くのです。忘れたらいけないこ
とがあり、忘れないで、覚えている必要のことがあるのです。しかし、ご存知の通り、
十字架のイエス様は、私達の罪を覚えておいでですが、赦してくださるのです。覚え
ているけど、赦してくださる。赦してくださるとは、現象的には、忘れてくださるの
と同じこと、一緒のことです。
 覚えていると当然、魂は沈み込むでしょう。悲しい、苦渋と欠乏の体験は、覚えた
ままでは、確かに苦しいのです。しかし神さまに赦しがあり、神さまは十字架の神様
のであることを知る時、神さまが真の赦しの神、真の愛の神様であることを知る時、
21節の出来事がおこるのです。それは苦渋と欠乏の中で「再び心を励まし、なお待ち
望む」ということです。バビロン捕囚を体験することは、完全な国の滅びの体験でし
た。バビロン捕囚はイスラエルの不信仰と偶像礼拝の罪に対する裁きでした。そして、
実際に国が滅びて人々は、バビロンに連行されるのは、本当に厳しく、辛いことでし
た。しかし神さまは、何かをなされる時には、審判をされるときには、審判だけでな
くて、その前に希望の回復のしるし、その意味を置かれているのです。
 バビロン捕囚の完全な滅びの前に、どんなしるしがあったのか。1つにイスラエルは
エジプトでの奴隷の体験をしていることです。イスラエルはエジプトの奴隷の中から、
出発した民でした。イスラエルの族長ヨセフの出来事に示される通りです。ヨセフは
確かに個人の出来事ですが、兄弟から捨てられ冤罪で刑務所に入れられ、いろいろな
不条理を体験して、しかしそこから脱出し、エジプトの総理大臣となりました。神が
共にあるとき、たとえ冤罪で訴えら、入獄があってもまた復活するのです。
 イスラエルは総理大臣ヨセフの庇護の基に数を増やしたのです。しかしその後に、
ヨセフを知らないファラオが立つと、エジプトのイスラエルの民は奴隷となりました。
しかし主はファラオの心を頑なにしつつも、それによって出エジプトを果たすのです。
まさに、主は不信仰を用いる方でありました。エジプト王の不信仰をもって、イスラ
エルは、神の働きと栄光を知ることになります。

 そして2つ目のしるしは、イスラエルはバビロン捕囚の前に、アッシリア捕囚を体
験していました。バビロン捕囚の120年前に、イスラエルはすでに一度アッシリアに、
12部族の内の10部族が連行され、滅ぼされたのです。しかし予言者イザヤの祈りに
よって、イスラエルはユダ族とエフライム族になっても又生き残りました。エルサレ
ムは完全な滅びを免れ、今一度悔い改めの機会を備えられたのです。
 バビロン捕囚の前に出エジプトの奴隷の体験があり、アッシリアの連行の体験の2
つがあったのです。21節に「再び心を励まし、なお待ち望む」とは、やはりイスラエ
ルは、どこかで神さまを信じている以上、かならず転換点が来るということを信じる
のです。必ずいつか主の介入がある。旧約のイスラエルの歴史は、罪を犯して、神に
打たれる。けれども又主は、必ず悔い改めの機会を準備していてくださる。主なる神
さまは実は、不信仰もまた用いる方なのです。ある意味で、主なる神様は、人を不信
仰にして、ご自分の歴史を創造され、導かれる愛の神様なのです。不思議なことです
が、不信仰も主から与えられているのです。「なお待ち望む」ことができるのは、神様
が裁きの神様、報復の神様のみでなく、愛の神様である。このところからくる信仰の
帰結です。私たちは、改めて不信仰をさえ用いる神様を思い出すとき、詮方つくした
が、何も起こらない時にも、「なお待ち望む」こと、自分の思う通りに成らないとき、
主が導かれることが、可能であり、赦されているということができるのです。

 22節からはイロハ歌が次の文字になります。22、23、24節とまた同じ文字が3連と
なります。まず「主の慈しみ、主の憐みは決して絶えない」と歌います。いつくしみ、
憐みは、旧約でよく用いられ、新約では「愛」と訳されることばです。そして新約で
の愛は、もちろん具体的にイエス様の愛であり十字架の愛です。旧約は一見すると裁
きの書、報復の書に読めます。しかしその根底に流れているのは、愛と約束・契約で
す。聖書では、主はただの裁き、ただの報復はありません。必ず裁きと報復にその根
底に、愛と契約の底流が流れているのです。
 出エジプトでも、アッシリア捕囚でも、イスラエルはその時その時で悲しく、つら
かったのです。そこで滅んでもおかしくないのです。しかしその辛さ、悲しみは、大
きな目的があって、主の慈しみ、主の憐みは、辛さ悲しみを用いることができるので
す。再び旧約聖書の創世記のヨセフの生涯でいえば、兄弟たちからの恨みと兄弟たち
からのいじめは、大きな主の計画の一部でした。刑務所での酷い取り扱いも、恩を忘
れた囚人もすべて主のご計画でありました。働き先の女主人の仕打ちもまた、主の計
らいでした。主は、悪を用いて不信仰と不条理を用いて歴史を動かされたのです。

 23節には「それは朝毎に新たになると言われ、あなたの真実は深い」と言われます。
主を信じる者は朝毎に、新たにされるのです。新たにされるのは理論でなくて、現実
です。主なる神を、心の中心に置く時、朝の目覚めは、今日一日主が生かされ、今日
も主の働きがあるということです。主が中心にある時、感謝から1日が始まるのです。
主なる神様が心の中心にある時、当たり前は一つもありません。
 それはある意味で「神の真実」ともいえます。そして、真実は深いとします。よく
言われる第1コリント10章14節の「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられ
ないものはない」とあります。その理由は、続けて「神は真実な方です」と続き、そ
れから「神様は、耐えられない試練に合わせることがない」となっています。神が私
たちを耐えられない試練に合わせないのは、神様が真実だからとなります。つまり私
たちがいろいろな試練や誘惑で、それでも耐えて、忍耐してできるのは、神様が真実
だからです。ある意味で、私たちが信じていなくても、神の真実は、私たちを導き、
耐えられない試練にあわせず、試練と共にそれに耐えられるように、逃れる道が備え
られているとします。
 ですからある意味で、自分にできる以上のことはしなくてもいいのです。というか、
真実なる神様の働きを忍耐して待つのです。祈って待つのです。なんでもかんでも自
分で道を作り、自分で作為するのは、不信仰になります。もちろん何もしないのも不
信仰ですが、何でもしすぎるのも不信仰からです。敢為無くして、何事もおこりませ
ん。しかし自分のできることをしたら、後は主に任せることも大切です。任せるとい
うことは、じっと祈り忍耐して時を待つことです。

 24節にバビロン捕囚を体験した詩人は、「主こそ私の受ける分」と言います。バビ
ロン捕囚で詩人は、兄弟姉妹、子供や親か、親戚を殺されたかも知れません。財産を
全部没収されたかもしれません。しかし詩人には、残ったものがあったのです。それ
が主なる神様への信仰でした。主こそ私の分である。分とは、主から受ける嗣業のこ
と、神様から自分が頂くもののことです。詩人には、バビロン捕囚を受けて、実は何
も手元に残っていないのだと思います。ある意味でヨブ記のヨブのようにあるのでし
ょう。子供を全部奪われ、財産を全部なくし、しかも自分は大きな死に至る病にかか
ったのです。まさに、その時、最愛の妻は言うのです。「神を呪って死になさい」。そ
のような状況なのです。
 第2次大戦のユダヤ人のホロコーストの虐殺で、すべての親族と財産を失った人の
ごとくです。無一物で、しかし自分だけ自分の命だけ残されたのです。生きがいも何
の希望も力もないのです。しかし詩人の魂は、主なる神への信仰が、すべてがなくな
った魂の一番底にあるのに気が付くのです。まさにパンドラの箱の最後に、希望が残
っていたように、箱の底に主への信仰が残っていたのです。その時「私は主を待ち望
む」と今一度、前を向くのです。
 哀歌3章はいろいろな読み方ができますが、この24節が一つの分岐点という読み方
があります。21節、24節の「私は主を待ち望む」という信仰から、25節の「主は幸
いを与える」。31節「主は決してあなたを捨てない」。38節「災いも幸いも、いと高き
神の命令による」としています。40節「私たちは自らの道を捜し求めて、主に立ち返
ろう」と詩人は祈りに進むのです。そして、55節「深い穴の底から、主よ、私はみ名
を呼ぶ」と祈りがまた始まるのです。祈りが始まる時、実は、癒しと復活がすでに始
まっているのです。主は祈る人を、また慈しみと憐みに捕えるのです。私たちは、苦
しみの時に、祈り出す。それは主の慈しみであり、憐みであると示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。5月が終わろうとしています。どうか、
来る6月もまた守りをおいてください。祈りに進ませてください。求道の者に信じる
時、委ねる時を置いてください。病気療養の方には癒しと平安を備えてください。特
に・・・支えてください。ご高齢の・・・
・・・、導きください。続けて、こども園、児童クラブの園児、子
供と先生方を守ってください。6月の導きをおいてください。今週1週間もまた教会員
一人一人の信仰、健康、魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」


   言行録2章1〜13節             2018年5月20日
                   「 聖霊が下る 」 ―聖霊降臨日礼拝―
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 今年も聖霊降臨日ペンテコステ礼拝を迎えています。イースターが終わって50日目
の日曜日として計算されます。イースターがユダヤの暦の月齢で計算して、移動祭日
になっています。ペンテコステも毎年、イースター復活祭に連動して移動します。旧
約聖書では、申命記16章に3大祭りの説明があります。ユダヤ暦では、アビブの月太
陽暦では3-4月になる過越祭、5-6月になるペンテコステ、旧約の呼び名は「7週祭」
です。そして収穫が終わる頃10-11月には仮庵祭です。それぞれに意味があり、過越
祭は、出エジプトした時を思い起こし、小羊の血をもってお祝いする祭り、ペンテコ
ステ7週祭は、春の小麦の収穫祭とされています。仮庵祭は、出エジプトした時に、
仮の宿つまり砂漠に40年間いたとのことを覚える祭りです。
 実は聖書のユダヤの祭りは、本来歴史の祭りであり、過越と仮庵祭は、エジプトか
らの脱出に関わる歴史の祭りです。しかし申命記ではなぜか、ペンテコステ7週祭が、
農業の起源の祭りになっています。そこでイエス様時代のユダヤ教ではすでに7週祭、
ペンテコステを、モーセの十戒が主から与えられた日として、農業祭から、歴史祭の
意味を与えようとしていたと言われています。しかし、聖書ではそのような動きを知
る資料はあまり出てきません。
 エステル記にでてくるエステル王妃の活躍を扱ったプリム祭すなわちペルシャ時代
にユダヤ人の大迫害を逃れた祭り、エルサレム神殿が破壊された時の祭りとイスラエ
ルでは、ほとんどが歴史の祭りが多いのです。しかし不思議なことにペンテコステ7
週祭は、農業の祭りだったのです。しかしある意味でキリスト教が起こった、聖霊降
臨日が農業の7週の祭りペンテコステを、聖霊の下った日として、今一度歴史の祭り
の位置づけをされたということかも知れません。

 ペンテコステ・聖霊降臨日は、毎年来るのですが、来る毎にどう語るのか、何が起
こったのか、本当にその意味を語るのがむずかしいです。しかし、最近はこの難しさ
が、返って聖霊降臨の大切さの意味を教えているのかもしれないと思うことがありま
す。私達は、大切なことはすぐに忘れて、どうでも良いことは最後まで覚えているも
のです。まさにペンテコステ・聖霊降臨日は、毎年来ることによって、私達の信仰に
警告と励ましを与えていくのだと思います。

 まず1節ですが「一同が一緒に集まっていた」と報告されます。まずこの場所であ
ります。2つの説があります。1つはペンテコステの起こる前に、ユダが裏切って、
主イエス様を十字架に引き渡し、自殺していきました。12使徒は、使徒ユダの補足を
しなければ成らず、くじ引きをしてユダの代わりの使徒マティアを立てたとするので
す。この場所は、言行録1章13節からは泊まっていた家の2階とあります。そのまま
続いて読むとペンてコステは、その家だとなります。
 しかしペンテコステの事件は2章41節まで読んでいきますと何とペンテコステの
説教で信じた人は3千人であったとあります。イエス様時代のエルサレムで3千人が
集まれる家は、もうエルサレム神殿しかないのです。従って聖霊降臨日のこの時の家
は、神殿の「神の家」の事であろうとされるのです。私は、このペンテコステの場所
はやはり神殿礼拝をしているエルサレム神殿の回廊であったろうと思います。

 2節に「彼らが、座っていた家中に、響いた」とあります。ペンテコステは現象で
は、激しい風という気象の現象でした。何か心の中で起こった出来事でないのです。
風が吹く、暴風雨が吹いたという、見て感じて、聞くことができる物理的な現象でし
た。それは、出エジプト20章にモーセが十戒をホレブ・シナイ山で頂いた時又列王記
上19章にエリヤが神さまに出会う時にも、伴う現象でもあったのです。
 3節にさらにこのペンテコステの出来事は、炎のような舌が別れて、一人ひとりの
信じる人の上に留まる現象でもありました。ここにペンテコステは、見ることのでき
る現象でもあったことが示されています。

 4節には、この暴風の吹く現象と炎のようなものが信者の上に留まる現象によって、
他の国々のことばを語り出したというのです。私達はペンテコステの霊の下りが、何
か話すこと、話し出すことに関連している奇跡であることを知らされます。この「他
の国のことば」を話し出したですが、すでに何度か聞かれたことがあると思います。
これは2つの意味をもっています。
 その1つは、書いてある通りの「外国の言葉」です。つまり日本人であれば、韓国
語や中国語、英語、ドイツ語、フランス語とう類です。しかしこの外国の言葉ですが、
又「違ったことば」という意味を持っています。従って、これは人間の次元の違った
ことば、つまり天国の言葉、神の国のことばともなります。従って、ここには意味の
通る外国の言葉を話したという意味と、この世のことばでない言葉を話した、つまり
異言を話したという2つの意味が込められているのだと思います。従って、このペン
テコステの体験は、5〜11節までは意味の通る外国語を語る奇跡の応答になりますが、
同時に12~13節は、この世では意味不明の異言のようなことを聞いたと言う体験の応
答になるかと思います。
 それにしても、このペンテコステの奇跡で示されることは、1節にあるように「一
同が集まっている」ここには直接祈りのことばはありませんが、一同祈っているとい
うことです。奇跡は、もちろん神さまが為されることです。従って人間の思いと違っ
たところで、神さまの主権によって行われます。しかし、もし奇跡に人間の意向が入
るとすれば、そこにはやはり祈りがあるのだと思います。祈っているところに主が奇
跡を起こされる。いつだったか、祈りとは恵みの集中で虫眼鏡のようなものですとい
う方がありました。どこにもある神の恵みは、祈りによって、集められて虫眼鏡が太
陽の光を集めて新聞紙を焦がすように、私達を動かすのでないかというのです。
 ここでは、自分の祈りの力を誇るのでなくて、神さまの恵みを集める働きのことが
ミソ・核心です。ここでは自分の祈りの力を誇ることは出来ません。待っている、忍
耐して待っているときに、神さまからよしとされる時に与えられる出来事なのです。
従って、私達は何か自分の力や自分の主導でなすのでなくて、祈って備えて、祈って
待つことになります。ペンテコステの奇跡もまた、祈っているところ、祈って待って
いるところに、神さまが為された、神さまが起こされた出来事だったのです。
 もちろん主は、祈りがなく待っていなくても、主はよしとされる時に、必要なこと
をなしてくださるでしょう。しかし祈り、忍耐して待ってそのことが起こる時は、そ
れは私達は、大きな恵みを知ることができます。こうして祈ること、忍耐して待つこ
とを、聖霊降臨は私達に、教えるのです。

 次に6〜8節には「自分の故郷の言葉、めいめいが生まれたことばを聞く」事が言
われています。めいめいが自分で分かる言葉で、神さまのことを聞いた。当たり前で
すが、実はすごいことであります。例えば仏教の日本の伝来におけるお経の役割があ
ります。不思議なことに、本来のお経はサンスクリット語もパーリー語もそれを、誰
が聞いても分かることばで語られているそうです。しかしこれが中国にきて、お経と
なって日本来たとき、あのものすごい密教的要素というか、聞いても見ても意味が分
からない、というか意味がわからないのが、有りがたいになるのです。本来のお釈迦
様の意図と違うのですが、しかし実際に私達は、お経を聞くとあの独特の節回しに感
動し、酔っぱらうのです。

 4月に父の葬儀をしました。改めて仏教の力というか、あの独特のお経の調子に父
も無事に極楽にいったかもしれないと思えるのです。あれはもう理性ではないです。
感性というか、伝統の力というか、田舎の土地のお坊さんで、父や母が仕えた私が知
っているお坊さんの長男さんでした。多分自分の子どもか、親戚のお坊さんか、本葬
の時は、3人であれは和音ではないのですが、木魚係りとシンバル係りがいて、唱え
ていました。葬儀を取り仕切った弟が、少し高かった、とも言っていました。町内会
費を、父と母は最後まで付き合って払っていて、町内会の方が最後まで付き合ってく
ださったので、90才にしては多くの方がこられて、香典に少し足したくらいできたか
ら、と言うことです。脱線しました。
 意味が分からないのが良いお経という伝統はやはりあると思うのです。しかしキリ
スト教は最初から「自分の故郷の言葉で」、「めいめいが生まれた故郷の言葉で」とあ
るのです。これはすごいことです。カトリック教会では礼典は、1964年の第2バチカ
ン公会議まで礼典はラテン語でするとなっておりました。私はある時、昔の古いカト
リックの信者さんから「昔のラテン語の賛美歌は重々しくて、清らかで、良かったで
すよ」と聞いたことがあります。「意味がわかるのですか」と聞くと「先生、分かるわ
けないじゃないですか、ラテン語ですよ」と言われるのです。私はこの感覚は、仏教
のお経を知っているので、何となく分かるのです。

 しかし聖書は、神さまの働きは、「自分の故郷のことば、めいめいが生まれたことば」
で分かるもの、分からないといけない事なのです。神さまの働きは、分かること、理
解されることが大切なのです。もちろん改めて言うまでもなく、神さまの働きは、全
てが分かるのは無理なのです。そもそもこのペンテコステの出来事からして、全てが
分かりません。どういうことが起こり、どういう風になっていったのか、今一度詳し
いことが分かりません。しかし詳しくは分からないのですが、目標は分かることを目
指すのです。
 私達が聖書を読んでいくのはそういうことであります。分かっても分からなくても、
聖書読みを続けていくのです。創世記から黙示録まで読む、終わったらまた創世記か
ら黙示録まで読む、終わったら又、創世記から黙示録まで読んでいくのです。もちろ
ん良く読めるところ分かるところ、スイスイと読めるところ、全然進めないとろこと
あるでしょう。しかしわかってもわからなくても読んでいくのです。それは、神さま
のこと、神さまの働き、そして神さまの御心を悟るためです。神さまイエス様は、最
初からご自身が理解され、ご自身が分かることを求めておいでなのです。

 9節からの11節までは、地域の列挙があります。7つの民族と9つの言語が代表さ
れているとか聖書解説書には書いてあります。しかし不思議なことに、当時、力があ
ったはずのマケドニアとギリシャとエチオピア(旧約ではクシュと表記されました)
がないとされます。それはなぜか分からないとされます。私達は世界の国々という時
に、どうしてもヨーロッパの国を思い浮かべます。もしかしたら、私達の年代は、外
国の代表というと韓国、中国、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリアとなるのです。
しかしよく見ると今の並べ方にも一番国土の広いロシアが抜けており、中近東のアラ
ブやイラン、イラク、仏教のインドが抜けております。東ヨーロッパのブルガリやハ
ンガリーも抜けています。使徒言行録も、国力はあるのですが列挙するのは辞めた、
というのがあったのでしょうか。
 実はイスラエルにとって、最初のパルティア、メディア、エラム、メソポタニアは、
5節にある「信心深いユダヤ人」が一番いたところだそうです。すでに言行録時代に
は、イスラエルにとって大事な地域で、旧約聖書の解説書のバビロニア・タルムッド
があったそうですが、その成立場所は、最初の4つの地域だそうです。この7つの民
族と9つの言語は、東から西に向かっての地域を書いています。そして地域の列挙は
10節のローマで終わっております。11節のクレタとアラビアはクレタは海洋国家で、
アラビアは内陸国家を代表させていると言われます。つまり聖書は、ペンテコステの
出来事に、東から西への国家と国の形態、海洋国家と内陸国家と全て国を上げてその
話す言語を、証人として立たせているのです。今で言うと、民主主義国家から共産主
義国家、独裁国家、全体主義国家までという意味を持ちます。神の言葉は、全てのと
ころに入って伝えられていくのだという意気込みであり、預言になっているのです。
つまり言行録1章8節の復活のイエス様のことば「地の果てに至まで、私の証人とな
るであろう」の実現のひな形を聖霊降臨の出来事は示していることになります。
 聖霊降臨・ペンテコステは、ちょうどイスラエルが約束の地に入るときに、まだ入
ってもいないのに、ヨシュア記13章に土地の区分けをしています。それと似ています。
それはただ神さまが約束されたのでできるはずだという信仰のみです。私達はこのペ
ンテコステの聖霊降臨を聞いて、将に2つの応答をなすのです。一つは、12節「これ
はいったいどういうことだ」と神さまのこれからの働きを確信して希望を持ち、そこ
に立つことです。しかし13節「新しい酒に酔っている」という応答です。実は聖書で
は「酒に酔う」とは日本の気分が良い意味は有りません。気が狂うという意味だそう
です。完全に誇大妄想であり、馬鹿な馬鹿しくて聞いておれないということです。

 私はイエス様の福音はいつもこの2つの反応を持ちつつ進みのだと思います。「十字
架の愛を信じて生きよ、十字架のイエス様の導きを信じて生きよ、聖書の言葉を聞き
続け、なし続けよ、罪を告白し続けよ、愛し続けよ。」「確かにそうだ」とその通りに
謙遜に生きる方があります。しかし「馬鹿馬鹿しい、十字架の生き方なんぞしても無
駄だ、まっぴらごめん」という生き方があります。ペンテコステの聖霊降臨は十字架
の生き方を、なぜか分からないが歩んで行く。その力を備えるのだと受けています。

 祈ります。「天の父よ、今年も又ペンテコステ聖霊降臨日礼拝を覚えています。主は
聖霊を下して、私たちを主の十字架の後に生きるように振るい立たせてくださいまし
た。感謝です。本日2人の方の転入を受けました。感謝です。またこの世でひたすら
主の後に歩まてください。求道の方には、委ねる時と信じる時を与えてください。病
気療養の方には癒しと平安を備えてください。特に・・・姉支えてく
ださい。ご高齢の・・・導きくだ
さい。続けて、こども園、児童クラブの子供と先生方を守ってください。これからの
決算総会守ってください。今週1週間もまた教会員一人一人の信仰、健康、魂を守っ
てください。み名によって祈ります。アーメン」

    エフェソ信徒への手紙6章1〜4節   2018年5月13日
                            「 父と母を敬え 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 本日は、こども園めぐみ幼稚園の母親参観で、母の日であり、家族の日礼拝として、
教会と共なる礼拝をしております。しばらくの時ですが、母の日を思いつつ、主に礼
拝を捧げます。週報の巻頭言に書きましたように、何度か語りますが、キリスト教会
の行事が、日本の行事になっているのは、クリスマスともう一つあげるとすれば、こ
の母の日だと思います。いつだったか、すもう中継の時でした、お相撲さんの紹介で、
アナウンサーが大関か関脇でしたが、何々関は非常にお母さん思いで、母の日には必
ずプレゼントをされているのです、と紹介しておりました。私は、日本古来の伝統の
相撲の放送で、母の日にプレゼントをするお相撲さんがいて、これが一つの美徳にな
り、お相撲さんの紹介にアナウンサーから使われるのを見て、ああこれはもう日本に
定着してしまったのかと感無量でありました。こんなことで感動していては話しにな
らないのですが、そう思います。

 私の母はもう、7年前に召天しまして、母の日のプレゼントをする方はいなくなり
ました。実は父の日もこの4月に、父が召天しまして、父の日に送ることもできなく
なりました。妻の雅子姉が、自分の母にプレゼントを買いに行くのをうらやましく見
ております。一緒についていけばいいのですが、なんか恥ずかしくて、付いっており
ません。いいプレゼントができることを祈ります。

 さて聖書は、いつものように家族の教えがでてくるところを、開いております。聖
書には、家族の教えが一杯あり、間接的な家族の教えとなりますと、無限にありと思
います。このエフェソの手紙6章には、直接的に「父と母を敬いなさい」と出てきて
います。「父と母を敬え」というのと母の日は少しずれると言う方もあるかもです。し
かし両親を敬うと言うことは、結局、母を敬うことがはいります。また、ある方は、
子どもに、そのことを教えてくれ、という方があるかも知れません。
 しかしこれも何度か家族の日礼拝でいいますが、自分が敬われたいのなら、やはり
自分がそのことをすべきです。時々「先生、私の子に、父母つまり自分のことです、
を敬い重んじ、気にかけるように言ってください」と言われる方があります。確かに
そのお子さんは、ひたすら自分の事だけに関わっていて、ほとんど人のこと、周りの
人の事、もちろん母や父のことにかまっておられません人です。
 しかしです。不思議なことにそういう方に限って、またその親の方自身もまたどち
らかというと自分の事ばかりで、他の人のこと、町内会やら教会やらボランティアや
ら父母の会の事はさっぱりなさいません。私は自分の子が、自分のことを思ってくれ
るかどうかは、その方本人が、実際に今、他のことに関心が行き、実際にいろいろな
支えをされているのかと、実に相関関係にあるだろうと思っています。したがって母
の日にやはり「父と母を敬いなさい」を聞くことは、実は自分がすると同時に、自分
の子どもがそれをするということで、関連しているのだと思っております。

 1節にあるように、聖書はまず「子達よ、主に結ばれているものとして、両親に従い
なさい」と言います。ここで大切なことは、聖書はただ「両親に従いなさい」でなく
て「主に結ばれているものとして」という限定というか、限界を書いていることです。
実はイエス様時代のローマ法ではまだ人権感覚はありませんでした。当時とんでもな
いことが父母の権利にあります。聞かれたことがあるかと思いますが、まず1つは、
ローマ時代の親は、子どもを奴隷にとして売ることができました。2つ目に、親は相
続を子どもにしないことも決めることができました。3つ目に何も悪いことをしてい
ないのに、親は子どもを刑務所に入れること、出すことの権利がありました。4つ目、
殺生与奪の権といいますが、子どもの命を取っても親は罪に問われなかったのです。
これらは今はとんでもないことです。しかし考えてみるとこれがとんでもないと思わ
れ、そういう風に言われ、思われるには2000年の歴史があるのです。
 ちょうど財務省のセクハラ問題と重なります。あれは確かに、昔だと何も言われな
かったかも知れません。しかし今は誰が聞いても、どこに出してもおかしい、アウト
だ、と分かります。最高官僚といわれる財務省だけが、わからなかったのです。
 従って聖書は、すでに2000年前に、両親に従うにしても、主に結ばれる、従って、
主イエス様に結ばれている制限のもとである、とするのです。つまり両親が自分の命
を取ろうとしたら「逃げなさい」ということでもあります。命は神さまの元にあり、
たとえ両親でも子供の命を取ることは赦されていません。従って、時の法律には抵触
しなくても、キリスト者の子どもは「主に結ばれているもの」として、制限を受ける
のです。つまり聖書に照らしておかしい時は、「父と母を敬え」に従う必要はないので
す。つまりキリスト者は、主に結ばれたものとして、父と母に従います。
 2節をみますと、なぜ父と母に従うのかの理由が示されています。おそらく多くの
方は、聖書は神さまのことばだとすれば、命令に理由はないのでないか。宗教はただ
神さまに従えで、それが困ると言う方がおられると思います。しかし聖書では結構な
ぜそうするのか、なぜそうなるのかが示されることが多いです。そしてこの「父と母
を敬え」という教えもまたその例外でありません。聖書は理由を示すのです。
 2節に書いてある通りです。「これは約束を伴う最初の掟である」としています。つ
まり聖書には約束を伴うつまり理由を示す掟と理由がない約束がなくて、そのまま問
答無用でとにかく従えとする掟があるだとわかります。聖書は多くの方は、問答無用
というのが多くて、聖書は読むに価しないとなるだと思います。しかし意外と理由や
約束がある。実は、聖書はその本来の形からいくと契約の書つまり約束の書なのです。
英語では聖書をバイブルといいますが、新約聖書をニュー・テスタメントと言い、旧
約聖書をオールド・テスタメントと言うときがあります。この時、テスタメントは契
約のことです。やさしくいうと「約束」のことです。父と母を敬え、という教えは、
神様の約束が伴う最初の教えなのですよというのです。そうか、そうか、それでは何
の約束がつくのか。それが3節です。

 3節には2つの約束がついています。1つは「あなたは幸福になる」ということで
す。2つ目は「あなたは地上で長く生きるためです」というのです。なんと聖書は、
父と母を敬うと幸福になるのだというのです。これはどうでしょうか。多くの方は、
違うのでないか。父と母のいうことを聞いていると時代遅れでどうにもならない。む
しろ不幸になるかもしれないと言うかも知れません。確かに皆さんの世代の父と母は、
実は私の娘達がもう28と27になりますので、私は皆さんの父母の時代になってし
まうのです。アイフォンも全く知らないし、携帯電話よりもいいですよ、と言われて
も、なかなか交換できない、変えられない時代の人々だと思います。中には、携帯も
持ちたくないというお父さん、お母さんがいるかもです。
 しかし聖書はそれでも「父と母を敬うと幸福になる」というのです。それはどうい
うことでしょうか。それは目先の事や目の前の道具の扱いのことは確かに父母よりも、
自分の方が上であるし、知識も一杯あるのです。しかし人生の知恵というか、生き方
のことなのです。お父さんお母さんは「結局、真面目に生きなさい、一生懸命生きな
さい、きちんと働きなさい、正直に生きなさい」と馬鹿真面目、くそ真面目に言うと
思うのです。そんなことをしても何の得にも儲けにもなりません。しかしどうでしょ
う。幸福にはなるのです。最近、仕事が終わり、妻と1日の終わりの御茶を飲みなが
ら、つくづく妻と話すのは、結局昔の人の言ったことが、一番だねということです。
 総理大臣の秘書官員まで上り詰めて、それはそれぞれの官庁からの選りすぐりの出
世街道まっしぐらの人がなるらしいです。その人が、愛媛の県庁の人とあっていませ
んと一生懸命、頑張り言い張ります。愛媛の県知事さんは、自分の部下を守るために、
「名刺がここにあります」と言っています。なんか漫才を見せられているような状態
です。完全に嘘と分かっていてそれでも嘘を付く。すごいですね。そこまでして首相
を守らんといかんのです。つまり幸福はどこにあるかです。お父さんが、一生懸命、
嘘を付かないといけない。その子どもは、幸福でありましょうか。不幸です。
 お父さんお母さん、ぱっとしなくていいのです。子どもに「お父さん何をしている
の」と聞きます。子どもは「サー」といます。今は子どもに説明出来ない仕事が多く
なりました。昔は先生、大工さん、サラリーマン、床屋さん、美容師さん、看護婦さんとか
はっきりしていました。しかし今は何をしているのかわからんが多いです。しかしそ
れでいいのです。一生懸命、子どものために正直に生きて、あっちの仕事、こっちの
仕事で、給料を貰ってくる。それでいいのです。お父さん、もう少し高い給料だった
らいいのにね。家では裸でかっこ悪い行儀の悪いお父さんでいいのです。問題は、正
直にまっしぐらに生きることです。大変ですが、しかし幸福なのです。

 2番目に「長きです」。聖書は間違っている。父母を敬って、長生きができるはずが
ない。嘘ばかりだ。今は健康長寿の番組が多いです。「コーヒーを飲みなさい。散歩を
しなさい。体操をしなさい。黒酢は健康に良いです。人参がいいです。卵がいいです。」
ありとあらゆる健康番組があります。しかし誰一人、父と母を敬うと「長生きします」
と言うのは、新聞・テレビは有りません。しかしこれもまた、どうでしょうか。
 これは恐らく、父と母を敬うと天に宝を積んで、その宝のために、長く生きること
になるのだ、でないと思います。「情けは人のためならず」という言葉があります。人
に情けを掛けているとこれが功徳となり、これがいつか自分に返ってくるというのが
あります。しかし聖書は功徳が積まれて功徳が自分に帰ってきて長生きとなってくる
というのとは又全然違うのです。この長生きは、どこか祝福というか、人間の生き方
の幸福の状態、つまり祝福の状態を示していると思われます。つまり先ほどの幸福と
絡まるのです。
 ここには人は父と母を敬ってこそ、本当の人間となるということです。つまり良い
譬えが思い付かないのですが、自動車は道を走っていて自動車です。トラックは荷物
を運んでトラックであり、乗用車は人間を運んで乗用車です。乗用車に荷物を詰め込
んでももちろん走りますが、トラックには適いません。トラックに人間を一杯つめま
すが、違反になるし、乗り心地はよくありません。人間が人間として良い状態で走る
時、そこに父母を敬っていることが入るのです。何かのご褒美でないのです。父母を
敬う、その生き方そのものが、幸福であり、祝福であるのです。
 この約束は条件付の約束でなく、そのままを生きる時のその生き方が幸福となり、
長生きとなるということの約束なのです。この「長く生きる」を、愛と変えてもいい
かも知れません。愛する生き方は、得なになるとか、儲かるかというと、完全に損の
生活、儲からない生き方になります。しかし世の中には儲からなくても、損しても損
を超えて余りあるのがあるのです。馬鹿にされても、愚鈍といわれても、相手を信じ
愛する人生です。これは確実に、その人は幸福であります。
 人生の長さにかえてもいいかも知れません。人間は短い人生と長い人生があります。
確かに長い人生がよさそうです。しかし長ければいいのかとなると、皆さんどうでし
ょうか。お母さんが早く亡くなられた。お父さんが早く亡くなられた。お母さんが長
生きした。お父さんが長生きした。それは長生きしてくれたら、それはそれでいいで
しょう。しかし幸福の観点からいくと、短くてもそれで自分が教えられたことがある。
長ければ長くて教えてくれたことがある。人生には、それぞれに、長い短いを超えた
ものがあるのです。

 4節に行きます。今度は、聖書は親に言います。「子供を怒らせてはいけない。主の
しつけとさとしによって、育てなさい。」無理な話ですね。幼稚園にいると子供はむず
かってばかりです。「早くしなさい、何やっているの」。1日足りともお父さんお母さん
が、わが子を叱る声を聴かない日はありません。子供が言われた通りにする日はそう
多くありません。聖書は無理な注文を語るのです。しかし人間の限界としてそれは、
無理かもしれませんが、それでもできなったことを数えるよりは、できることをいた
しましょう。主のしつけと諭しによって育てる。これはどういうことであるのか。
 これもまた先ほどいいましたが、愛と言い換えることができます。主イエスの愛に
よって育てなさいです。主の愛は無私の愛です。見返りを求めません。状況に変わり
なく愛するのです。私の父はごく一般の父でした。一番思い出すのは、いつも話しま
すが、私がいじめられた時です。私の家はかなり田舎にあって、父が小学校の先生で、
私はなぜか先生の子であるといじめられました。いじめられる子は当たり前ですが、
そのことを親に言えないのです。じっと耐えるのです。父は何を思ったのか。私のい
じめを悟ると自分のバイクで通学路を、私の後ろから付けてきました。ある日とうと
う私が高学年の子供からいじめられている現場を押さえたのです。そしてバイクで飛
んで来るとそのいじめた高学年の子の胸倉をつかみ、びんたを3回くらいかませて「き
さま、今度俺の子をいじめたら、ただでおかんぞ」と捨て台詞をはいたのです。
 私も、そのいつもいじめる高学年の子もびっくりです。何が起こったのかよくわか
りません。しかしその時から、その子は少なくてとも、私に手を出しませんでした。
古典的ですね。今とはまた違ったいじめです。しかし私の目には父は私をどんなこと
があっても守る違いないとはわかったのです。皆さんはそれぞれの自分の子の親です。
絶対身をはってでも自分の子は守るぞ、これは主の愛かどうか問題はあります。しか
し心は十二分に通じます。どうか皆さん、母の日にその覚悟を確認し、子育てしてほ
しいと思います。

 祈ります。「天の父よ、今日は家族の日です。母の日です。100年ほど前に、アメリ
カで生まれました。戦争反対の運動をいつもしていた母を思って、その子が教会で追
悼式をしました。あっという間に世界に広まったそうです。神様の無私の愛で子供を
愛する者としてください。求道の方を支えてください。病気の方支え、守ってくださ
い。ご高齢の一人暮らしの方、支えてください。こども園、児童クラブを守ってくだ
さい。み名によって祈ります。アーメン」
       マルコによる福音書3章20〜30節   2018年5月6日
                      「 取りつかれている 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 本日は連休の最終日となりました。皆様、今年の連休はどのようにお過ごしでした
でしょうか。前半は天気がよくなかったですが、後半の3〜5日は良い天気に恵まれ
ました。自分たちはもう子ども居なくなり、2人だけの連休ですので、どこにも行か
なくてよかったので、家の片付けにほとんど費やしました。しかし1日くらいでかけ
ようとなって、宮崎県の都井岬の御崎馬を見に行ってきました。桜島フェリーがもの
すごい混雑である他は、さすがに馬を見に来る人はそう多くなくて、いつもよりは多
いのでしょうが、駐車場がないとかそういうことは無かったです。
 ビジターセンターが310円かかりまして、ちょっと高いなと思いましたが、せっか
く行きましたので、チケットを買って入り、展示を見て説明をききました。私は最初
から野生の馬かと思っていましたら、1697年つまり17世紀に高鍋藩の秋月家が馬を
増やすために放牧したのが、野生化したとのことでした。普通は、馬は野生ではあり
ませんで家畜です。しかしここの御崎馬は、1年に一度集められて、病気とダニのチェ
ックを受ける他は、餌もあげられず、出産や死はそのままの自然の状態で行うそうで
す。時期になると群を作り群で行動し、馬は元々はどういう集団行動をするのかを研
究するのだそうです。
 説明の中で感心したのは、野生の馬ですから草を食べられなくなり、10年ほどで来
る寿命を悟ると自分で、一人というか一頭だけで山の中に入って死んでいくそうです。
ちゃんと馬は自分の死を悟るそうです。また雄馬は5,6頭くらいのハーレムをつく
りますが、生まれて来て一度も結婚しない馬もいるのだそうです。また自分のハーレ
ムの奥さん馬を他の馬に取られるものあるのだそうです。野生の馬も死期を悟り自分
一人群を離れて死んで行く、また一生を結婚せず一頭で過ごす馬もいるのかと、思う
と、なんだか野生の馬はかわいそうです。しかし野生の馬も神さまに与えられた命と
使命を懸命に生きているのだと、考えさせられます。

 さて聖書は、第1主日ですので、主の晩餐を受け、いつものように福音書から聞い
て行きます。本日はマルコ伝3章の後半部分になります。本日は解釈の難しいと言わ
れるベルゼブル論争と言われるところから聞いて行きます。何度聞いても、ここはす
とんと胸に落ちるのが難しいですが、聞いていきましょう。
 20節にあるように、イエス様はご自身の家に帰られました。恐らくマリヤの家でも
あり、弟妹達がいたカファルナウムの家であろうと言われます。この直前は、イエス
様が12弟子を選ばれています。ガリラヤ伝道も、ほぼ順調に推移していた時であろう
と思われます。実は本日の聖書の箇所はおおよそ3つに分けられます。
 1つは、イエス様の家族というか親戚、身内がイエス様を取り押さえにきた場面、
20、21節です。次にエルサレムから律法学者が来て、イエス様がサタン悪魔の譬えを
言われるところ、22から25節です。そして最後に26節からは強盗の譬えと聖霊を冒
涜する罪の教えになります。このように3つの出来事が今日の聖書には入っています。
 早速、第1場面の親戚身内のものがイエス様を取り押さえに来たところです。まず
イエス様は、父ヨセフがイエス様の12才以前に早くに亡くなったことです。母マリヤ
と共に弟達妹達を育てたイエス様もまた、身内、親戚からは誤解されているというこ
とです。30才まで母マリヤと一緒に住まれ、生活を共にされたのは、すごいことだと
思います。今なら30才までも母と一緒に仕えて暮らすのは、なかなかできることでは
ありません。しかし昔は当然だったかもですが、それでも母を支えて黙々と生活され
たのだろうと思います。亡くなった父は、いつだったか自分には言いませんでしたが、
母に「息子達はなぜ、自分達の近くに住んでくれんかね」と言っていたそうです。分
かる気もしますが、どうにも成りませんでした。
 イエス様は昔とは言え、母と一緒に住んで支えられたのはすごいなと思います。し
かしそれでも親戚や身内の人は、イエス様が弟子を12人集めて、神の国を教え始めら
れた時「あの男は変になった」という噂を聞いて、取り押さえにきたようです。親戚
から、おかしな人がでてはならないと言うちょっと日本的にでもありますが、まずは
親戚身内が、なんとかしろということだったのだと思います。改めて、神さまに従っ
て神の国を語り、神の国のために備える生活というのは、多かれ少なかれ誤解を受け、
身内・親戚に迷惑をかけることがある。そういうことを示される出来事です。しかし
そうであっても、私達は、主の召しを信じ、主の呼びかけを信じて、自分の使命を歩
むのだと思います。
 今度、長崎や天草の隠れキリシタンの歴史物が、世界遺産登録になるそうです。い
つのまにか、隠れキリシタンといわずに、潜伏キリシタンというようになっています。
隠れはいかにも悪いことをしたということでしょうか。しかし潜伏しないと行けない
のも同じことです。土地の領主にはきちんと仕えているのに、信仰が違うことで、迫
害に合うのは、たまったものでありません。しかし迫害を補って余りある信仰の喜び
が潜伏、隠れ切支丹には、やはりあったのだと思います。いつだった津崎カトリック教会の
近くの天草の裏側の崖の斜面の隠れ切支丹の村跡にいきました。こんな斜面のところ
でよくぞ生活したものだと思います。しかしそこで信仰を守り、作物を育てて、子ど
もを育てて、命を繋いだのです。幸福とは何であるのか、考えさせられます。

 22節は、今度は親戚、身内だけでなく、エルサレムからの律法学者が、カファルナ
ウムのマリヤとイエス様の家にきました。エルサレムからわざわざ来るのかと思いま
す。しかし言行録9章のパウロの回心の時にも、やはりパウロはエルサレムの大祭司
のところに行って、シリアのダマスコにいるキリスト者を捕まえる書状を頂き「この
道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行するため
であった」とあります。シリアのダマスコは、今もありますがエルサレムからは、ガ
リラヤの2倍の200qあります。当時200q離れたところに、行っていたくらいです
ので、その半分のガリラヤ湖のカファルナウムに行くくらいは当然だったでしょう。
 しかし当時の100qをものともせずに、エルサレムから律法学者が来たというのは、
反対からいうとイエス様の名声というか活躍と教えや行いが、すでにエルサレムに届
いていたということになります。エルサレムの宗教支配のすごさと綿密さ、熱心さを
垣間見ることができます。ちょっとでもおかしな言動や、エルサレムの神殿支配に反
対する神の教えの者があれば、調べるという体制になっていたのでしょう。
 そして22節にはすでに、イエス様を見る前から、事実を確認する前から、すでにイ
エス様の言動は「あの男はベルゼブルに取り付かれている」という判定が下されてい
たようです。また同じ事ですが、イエス様の働きを「悪霊の頭の力で悪霊を追い出し
ている」と判断されています。ここで私達は、イエス様の働きの何が問題になってい
るのかを知らされます。それはイエス様の悪霊追放の力だったようです。イエス様の
教えが問題になる前に、イエス様の行為が問題になっている。これもまた私達は理解
できます。何を言っているかは、途中で変わるかも知れません。また尾ひれや羽ひれ
が付やすいです。実際よりも多くオーバーに伝わってしまうことが多いです。
 しかし行いと言葉では恐らく、行いの方がどちらかとういうと正確に伝わるのでは
ないでしょうか。悪理を追い出しているらしい。これは一見良いことのように思いま
すが、エルサレムの祭司達や律法学者からみれば、妬みの対象になったのでしょう。
何か不思議な力で、民衆を惑わしている。群衆を集めている。宗教の権威はエルサレ
ム神殿以外にあってはならないのです。しかしイエス様は何かの力で、悪霊を追い出
し、民衆から慕われ、人気がある。律法学者達は、これはたぶん実際にその現場を見
る前に、すでに答えを持っていたのでしょう。自分たちの権威に聞かず、従わず、勝
手に神の国を教え、勝手に悪霊を追い出す。これは神さまの力ではないのです。
 ベルゼブルはすでに、何度か聞かれたことがあると思います。4つくらいの説があ
ります。シリアの神さまの名前という説、ベルゼブルとは所有の神という意味がある
ので所有の神という説、糞や肥やしの意味もあるので、糞の神という説、ヘブライ語
ではゼブルは住んでいるということなので、住む神という説、そしてサタンの頭の名
前の説です。律法学者の言いたいことはとにかく、悪霊の頭の力で、悪霊を追い出し
ているのだ、とするのです。
 これはある意味で見事というか上手なレッテル張りです。今も昔も、良いことをし
ている人を貶める方法は、レッテル張りです。ちょっと前まではあいつは赤だとか、
共産党とか言われていました。少し変わったことをして、人々に良いことをすると赤
かもしれないと言われるのです。今は反対に共産党で何が悪いかとなります。その本
当の仕事を見て、その人がしている実際の内容をみて、判断してほしいのです。しか
しちょっと前まで、何をするかわからんという意味を赤に込めたのです。
 おそらく、今もまたいじめの場面では、くさいやウザイやいろいろなことばで、少
し変わった人にレッテルを貼り、呼ぶのだと思われます。自分で見て、自分で判断す
るのでない。レッテルを貼って差別する。これは便利な方法です。アレントの『全体
主義の起源』と言う本で、反ユダヤ主義の研究がありま。反ユダヤ主事も又目の前の
本当のユダヤ人が何をしているとかでないのです。どんなユダヤ人かであるのか、良
いユダヤ人か悪いユダヤ人かでないのです。とにかくユダヤ人であれば、殺すに価す
るのです。信じられないですが、それがまかり通るのです。私達はイエス様の時代で
なくても、現代も又そのような判断をしてしまうのです。

 23節は当時に流行っていた譬えだそうです。イエス様は譬えをよく使われました。
譬えは直接語るよりも、語った時に、その意味を聞いた人が考えなければなりません。
どれで何を譬えているのか。聞いた者は、考えるのです。「サタンがサタンを追い出せ
るのか」と言われます。イエス様は、一度律法学者のレッテルを自分に受けて、それ
で反撃されます。24節に国の内輪もめ、多分これは、ローマ帝国の元老員と皇帝の闘
いでしょうか。西ローマ帝国はこの後、紀元395年迄は続きます。最後は、蛮族の攻
撃を受けてローマは、滅びました。その後は東ローマ帝国が受け継ぎます。

 25節には、次に家の内輪もめです。当時、ガリラヤにもそういう家が、多かったの
でしょうか。どんなところでも争いは尽きません。そして家の存続もまた内輪もめで
は危ういのです。そしてまた教会も、大きな教会が消滅したり、あんなに大きかった
のに今や小さくなったりするのはほとんどが内輪もめ、分裂騒ぎです。分裂、分派は、
不思議なことに、神さまの審判の道具として用いられるところです。イスラエルもま
た北と南に分裂します。これも聖書では列王記上12章15節に、分裂して滅びて行く
北イスラエルを「こうなったのは神の計らいによる」としてます。
 神をないがしろにして、神の戒めを忘れ、祈りを忘れるとき、人は高慢となり、傲
慢となって、誰にも従うことができず、自分が神様になるのです。行き着く先は、分
裂の滅びしか有りません。イエス様はこれを、サタンに当てはめて、サタンもそれを
回避するのだ。従ってサタンの力でサタンを追い出すのはあり得ないし、もしそれを
しているとすれば、サタンの国、サタンの支配も終わることになると言われるのです。

 最後に、27節は強盗の譬えをイエス様は言われます。強盗の譬えはどうして言われ
たのかが良く分からないとされます。しかし恐らく強盗の譬えは、今まさにサタンを
縛りあげ、サタンを駆逐する人の子が出現し、今現れているということでないかと言
われます。サタンは縛られつつあり、それを縛る方が、今働きを開始されたという宣
言でないかと言われています。つまりイエス様、真のキリストが、今ここに来ている
ということのしるしです。
 そして、今や人の子であり、神の子であるイエス様がこの世にきてくださり、悪霊
を追放するしるしをなさってくださった。この時、真の神が働いておられるのに、そ
れにサタンの張り紙・レッテルをする者、それは赦されないとされるのです。イエス
様は、人の子を犯す全ての罪とどんな冒涜の言葉も全て赦されます。私達は神さまに
又聖書に、どんな罵倒をあびせ、文句を言い、悪態を付き、どんなに意地悪い質問を
し、どんなにアホな意見をしても赦されるのです。無神論のニーチェももちろん赦さ
れるのです。しかしその罪の赦しを受け容れない。その罪の赦しに別のレッテルを貼
ることは赦されないのです。神さまに聖書に、疑問をもち、意見を持ち、信じないこ
とは赦されるのです。しかし実際に生ける神の働きを見て、生ける神様の働きを聞い
て、生ける神さまの働きを体験しているのに、それを受けない、取り組まない、応答
しない、これは警告を受けるのです。
 弱さを持ち、疑いを持ち、悪戦苦闘して、生きていく。いつか必ず神の恵みに預か
る時を、神の祝福を得ることを、信じて疑いつつも、生きていく。これは主が大いに
喜ばれることです。しかし恵みを求めることを辞めて、働きにレッテルを貼り、自分
を神にして、真の神の方向に向かわない時、主は赦されないという警告を言われるの
です。野生の馬も自分の死の時を知って、行動します。私達は、主の十字架の恵みを
知らされました。今はめぐみの時です。主の十字架の恵みに、応えて1日1日を歩ん
で行きます。
 
 祈ります。「天の父よ、5月最初の礼拝となりました。本日、主の晩餐を感謝です。
連休中の守りを感謝致します。どうか主の恵みを思い起こし、神の国の祝宴を望んで、
受けさせてください。主のめぐみの罪の赦しが来たときに、心から受けるものとして
ください。5月の行事、家族の日礼拝、決算総会を一つ一つ守って導き下さい。求道
の方には、信じる時、委ねる時を備えてください。病気の方特に・・・、
・・に守りを与えてください。ご高齢の方々の支えをお願いします。特に、・・・、
に守りをおいてください。この1週間をみ手に置き、
こども園、中山児童クラブ、会員ひとりひとりの信仰と健康、魂を導きお守りくださ
い。み名によって祈ります。アーメン」

       哀歌2章17〜19節       2018年4月29日
                          「 主の前に出て 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間と今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 先週は、新聞テレビの言う通り、歴史的な北朝鮮と韓国の指導者の直接対話が始ま
りました。見ていて本当に良かったなというのが第1印象でした。同じ国語を話す住
民が戦争によって分けられ、60年間も別々の国になっていた民族が、はやく1つの民
族になってくれることを祈るものです。戦争体験者の父母を持たれる方は、日本もま
た本当は北をソ連が南をアメリカが占領して、場合によっては半分に分けられたかも
知れないということを、聞かれたことがあると思います。そんな馬鹿なと思いますが、
父母はその可能性があったことを、話してくれたことがあります。その時は、名古屋
から分けられるのか、大井川になるのか、良く知らないのですが、もしそうなってい
たら、先週のようなことが日本でも起こったかも知れないのです。
 テレビも新聞も全く言わず、誰も書いていませんでしたが、朝鮮半島の分断には、
日本の責任が多かれ少なかれあると思います。なんせ日本は北朝鮮を植民地支配した
のです。もし日本の朝鮮半島の植民地支配がなければ、北からソ連がはいり、南から
アメリカが入って別れて、朝鮮戦争をする必要はなかったのです。日本は何も悪くな
い顔をして、朝鮮半島の分断を客観的に見るのは、私は間違いと思います。それなり
の責任をもち、それに対応することが必要です。その中で平和において拉致問題を問
うことが必要と思います。しかし手放しには喜べないのでしょうが、同じ言葉を話す
民族が、一緒になる方向に動く、平和の方向に動くことは、拉致問題を含めて、喜ば
しいことです。続けて祈っていきましょう。

 さて聖書は、本当は第3週に旧約聖書を入れていましたが、4月はいろいろな行事
があり、その聖書の箇所もありましたので、4月は第5週があって良かったです。エレ
ミヤ書を終わり、哀歌2章から聞いて行きます。哀歌1章の時、話しましたが、2月
でしたので、もうお忘れかもしれません。哀歌はエレミヤ哀歌という呼び方がされて、
伝承では預言者エレミヤが書いたとされています。しかし哀歌をエレミヤ書のすぐ後
に置くのは、キリスト教会の聖書の伝統です。ユダヤ教の旧約聖書だけの伝統のとこ
ろでは、哀歌はヨブ記、箴言、ルツ記、雅歌、コヘレト(伝道者の書)、哀歌と並んで
います。つまり哀歌は、律法、預言、諸書の分け方でいくと、諸書の仲間、詩編、ヨ
ブ記、箴言の仲間になっています。
 そしてこれも、1章の時、話しましたが、哀歌は5章までの全てが、いろは歌つまり
最初の言葉をイロハで合わせてあります。つまりヘブライ語のアルファーベートつま
りアレフ、ベイト、ギメルの22文字で合わせてあるのです。哀歌1、2、4,5章が
22節と3章その倍数の66節になっているのです。詩編の中にもイロハ歌があるので
すが、5章が全部イロハ歌に合わせてあるのは、哀歌のみです。聖書中、最高の文学
技巧が施してある書とも言われています。したがって私達は哀歌を読むときに、確か
に目撃証言の要素があるのですが、同時にそれは暫く経過した詩人の中で咀嚼され、
反芻されて、哀歌としてこうして私達は読んでいるということです。
 哀歌の中心主題は、エルサレムの陥落、バビロン捕囚を歌っています。神の民イス
ラエルが滅ぼされ、連行されて神の神殿エルサレム神殿が瓦礫の山となり、イスラエ
ル王国が破壊される場面を歌います。1,2,4章の1節は「なにゆえ」ではじまり
ますが、この「何ゆえ」が、ヘブライ語聖書では哀歌の名前になっています。「エーカ
ー」というのですが、哀歌はエーカー(なにゆえ)の書と呼ばれるのです。
 それはエルサレムの住民、イスラエルにとって、神の民、全知全能の愛の神の民が
滅びるのは、考えることができなかったからです。全知全能の愛の神が滅びる。これ
は表現の矛盾です。不可能の可能性と言っているようなものです。全知全能の愛の存
在者がなくなることは、あり得ません。しかしバビロン捕囚というのは、その足台で
あるエルサレム神殿が破壊され、なくなりました。全能の主、全知の主の天と地を繋
ぐ神殿、天と地を結ぶ場所が破壊され、なくなったのです。これは日本人感覚ではあ
まりピンとこないのです。しかし旧約聖書に親しみ、全知全能の愛の神の神を信じる
イスラエルの民にとっては、どうにも受け容れがたいことでした。1,2,4章1節
が「なにゆえ」と始まるのは、そういうことであったのです。

 2章を全部読むことが出来ませんでしたので、17~19節のみ読みました。2章の背
景を知るためには、1節「なにゆえ、主は憤り、乙女シオンを卑しめられるか」と14
節「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい、偽りの言葉であった」の2つ理解
が必要と思われます。イスラエルの人々は、全て主なる神を主語にして現実を捕らえ
ます。ある意味で、聖書の私達へのメッセージは、主なる神様を主語として、全ての始ま
りとして、全ての原因として、全ての導き手として、この世の現象を捕らえなさいと
いうことになります。
 私達もまた、聖書を読むということは、すべてを主なる神さまからイエス様から捕
らえ、考え、受け止めると言うことであります。全てを神さまがなされた。神さまの
み手の内にあるということです。エルサレム神殿が破壊され、滅びた。主なる神さま
を知らないなら、ただバビロンとの戦争に負けただけです。偶像礼拝や他の神を信じ
るなら、イスラエルの神の力はただ弱かったのみです。しかし唯一の神、全知全能の
愛の神を知るイスラエルにとっては、戦争に負けたのは自分たちが弱かった、戦争の
仕方、道具が悪かった。自分たちの信じる神が相手の神より弱かったのだ、となりま
せん。神さまが全能で唯一なら、自分たちを滅ぼし、戦争に負けさせたのは、主なる
神さまその方だ、としか言いようがないのです。
 私達に直せば「病気した、貧乏になった」も、確かに自分の不摂生もある、自分の
事業の計画の失敗もある。しかしその背後には、主なる神さまがあるとしか言いよう
がないのです。それが、唯一の神、全知全能の愛の神を信じる姿となります。つまり
イスラエルの民は、主に「なにゆえ」と問えるのです。私達でいうと愛なる十字架の
イエス様に「なにゆえ、こうなったのですか。」「なにゆえに、私はこうなるのですか」
と聞けるのです。間違っていけないのは、私たちは、お前がそうなったのは、こうこ
う、こういう理由だと他人は言えない。又他人には、分からないのです。只、その人
が主イエス様に聞くのです。「なにゆえ、私は、また私の回りは、こうなったのか」。
聞けると言うことは、将に、全てを主なる神さま、愛であるイエス様が、み手におい
ておられるからです。
 しかし、滅びないように成らなかったのかが、あります。それが14節です。主は何
かをなさる時には、予言者に語りかけます。予言者は主の言葉を聞いて、それを民に
伝えるのです。予言者はイスラエルの民に罪の回避を伝える器です。しかし問題は偽
預言者でした。すでにエレミヤ書28~29章にありました。真の予言者と共に偽予言者
が活躍したのです。彼らは空しい、偽りのことばを語ったのです。預言者エゼキエル
13章に偽予言者とはいかなることが書かれています。それは壁の根本治療つまり根本
の改築工事をしないで、ただしっくいを塗る人だとするのです。修繕する時、根本的
に壁の基礎や枠を最初から作り直さないで、ひたすら上からしっくいを塗りまくる。
一応見た目はきれいになるのです。しかし暴風雨や大雨がくるとアッという間に剥が
れて、壁は壊れてしまうのです。

 14節には「予言者は、罪を暴くべき」なのにとしています。罪を問わないのが偽預
言者です。本物の預言者は罪を問うのです。イエス様が真の救い主、真の神とされる
のは、将に罪を問う神、つまり罪を贖われる神だからです。私達がイエス様のところ
に行って、示されるのは私達の罪の姿です。聖書は、あなたの生き方のあそこが悪い、
ここが悪いと多少は教えるかも知れません。そこを直せば少しはいいのかも知れませ
ん。しかし主イエス様が問われる根本は、罪の問題です。主は、あなたの生きる方向、
考えが間違ってないかと問われるのです。あなたの信仰は大丈夫か、あなたは真実に
罪の告白をなし、主イエスの罪の贖いを受けたか、と問われるのです。偽預言者は、
あそこを直しなさい、ここを良くしなさいというでしょう。しかし本物の予言者は、
あなたの罪はどこにあるのか、あなたの罪を赦して頂きなさい。イエス様の十字架を
信じ、主の愛に応えて、歩みなさいというのです。

 17節にあるように、主は計画されたことを、実現され、約束されたことを果たされ
たのです。バビロン捕囚によるエルサレム神殿の破壊とイスラエルの滅亡は、真こと
の予言者が言ったとおり、罪を示し、罪を悔い改めない時のしるしだったのです。自
分に来た悪いことを、主からのものとして受けるのは、辛いことです。確かに悪くな
った原因が、自分の過失であり自分の側の謝りだと受けやすいです。しかし自分は精
一杯しており、人間的にはほとんど過失がない。しかし病気が来る。倒産がくる。事
業縮小になる。首になる。そうなってしまった。この時、これを受けるのは信仰です。
 18節には「おとめシオンの城壁よ、主に向かって心から叫べ」と言います。「昼も
夜も川のように、涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ」と言います。19節も
同じです。「主のみ前に出でて、水のようにあなたの心を注ぎ出せ」と続きます。これ
は何を示しているのか。私はこれは単純に祈りを示すと取りたいです。哀歌2章は、
祈りを要請しているのです。全知全能の愛なる神さまは、イスラエルの人々に、エル
サレムの人々に、祈って貰いたい、祈って頂きたいのです。私達は苦難や不都合やう
まくいかないことが起こらないと来ないと具体的に祈りをはじめないのです。
 祈り、その会が嫌いですという方もあります。祈りは好きでない方もあります。気
持ちはわかります。しかしそれは聖書の心ではありません。祈りが嫌いな方は祈って
ないからです。反対に祈りだけで、何もしないというのも聖書の心ではありません。
しかし祈りは時間を掛けて、時間を使ってよい出来事です。祈りは労働なのです。

 19節に「立て、宵の初めに。夜を徹して、嘆きの声を上げるために」とあります。
宵の初めにというのは、当時の見張りの時間のことです。当時の城壁の見張りは、昼
と宵と真夜中と3交替制だったようです。宵は夜の始まりですので、午後6時から午
前2時くらいにかけてでありましょう。哀歌は、祈りを始めよ、仕事として始めよ、
務めとしての祈りを、始めよと言っているのだと思います。
 19節に続く「両手を揚げて命乞いをせよ、あなたの幼子のために」とあります。具
体的には、バビロンに連行され、バビロンに殺されていく中に、子ども達があるので
す。シリアの戦争のように、毒ガスを使われると、結局逃げられないで、死んでいく
のは、老人や子ども達です。19節の「両手を揚げる」ですが、当時の祈りの姿勢です。
西洋の中世、昔のキリスト教の絵には、聖人達が両手を揚げている絵があります。あ
れは祈りの姿なのです。私達は、手を組み目を閉じますが、両手を揚げて、目を開い
ているのも、祈りの姿なのです。
 子ども達が殺され、奴隷として連行され、食べ物がないので、子ども達は、どの街
角でも、飢えて衰えています。哀歌はその時は、まず祈れというのです。苦しい時、
不合理の時、病気の時、まず祈るのです。キリスト教では、困った時の神頼みはよく
ないと言われたりします。確かに困ってない時に祈ってないと本当に困ったときに祈
れません。しかし、困ったときに祈らないでいつ祈るでしょうか。
 本日は読みませんでしたが、2章20節がエルサレム陥落の際の最大の悲惨といわれ
ています。それは「女が胎の実を、育てた子を食い物にしている」と言われます。つ
まり自分の赤ちゃんを食べている状態です。これは正常な状態ではありえません。飢
餓のために、もうエルサレムの住民は正常な普通の正気の状態でないのです。気が狂
っている、人間の状態でなくなっているのです。

 それほどまでに、主なる神はエルサレムも打ち叩かないといけないのか。自分の子
を食べるほどの苦難にあってしか、祈り出さないのか。しかし反対からいうとそれほ
どの状況におかれてやっと祈り出す、とも言えます。自分の子供を食う姿は尋常では
ありません。そしてイスラエルはこれをバビロン捕囚で体験します。そして、次には
まさに第2次大戦のユダヤ人のホロコーストは、徹底した人間性の剥奪でした。私た
ちはホロコースト600万人の虐殺を知らされ、あらためて人間の罪の深さと悲惨さを、
ことばでいうとあまりにも卑近になりますが、知らされます。ホロコースト以後の人
間は、祈りの人間でなければならないことを教えていると私は思います。
 自分は、なかなか大したものだと思う方は、全く間違っているのです。第一コリン
トの手紙8章2節にある通り「自分は知者であると思っているものは、知らねばなら
ないことを、知らないのです」。昨日、壮年会の有志で、足が悪くなって礼拝に来れな
くなったK兄を訪ねました。よもやま話になって、どうしてなのかよく理解できま
せんが、今の若い方20、30代の方が安倍政権、麻生大臣を支えている話しになりまし
た。なぜか、つばめの子のように親鳥つまり上からのエサを口を開けてまるのみして、
批判力を無くしているのです。上に指示された通り、力あるものにすり寄っていけば
大丈夫と考えるそうです。いや考えないそうです。安倍さんのようにしていけば一番
困るのは、20代、30代の若い方々なのです。しかし考えないのです。
 哀歌は教えます。困難、苦難が来て分かる。バビロン捕囚されて気づくのです。し
かしそのためには、それに気づく基礎が問われます。それは日々の夜を徹した祈りを
しておくことです。日々の両手をあげての祈りが、危機の祈りを導きます。哀歌は、
主の恵みによって、主の前にでる祈りなせ、祈りを備えよと問うています。

 祈ります。「天の父よ、4月も最後の礼拝となりました。先週、2つの国に分けられ、
戦争状態の北朝鮮と韓国でしたが、しかし1つを目指して歩んでいます。どうかドイ
ツのように成功しますように、そして拉致被害者が帰って来れますように。主が歴史
の主であることを信じます。求道の方には、信じる時、委ねる時を備えてください。
病気の方特に、。・・・に守りを与えてください。ご高齢の方々の支えをお願
いします。特に・・・に守りをおいてください。こ
の連休の中、移動される方々を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

        第1コリント7章17〜24節       2018年4月22日
                  「 神に召された時 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を
導く御言葉を聞いていきます。
 先週は交換講壇で、隣の加治屋町教会の松本先生に来て頂きました。数人に聞いて
みると落ち着いたよい説教であったといわれ感謝でした。私は聖書からというよりも、
自分の白内障の手術の話をして、お医者に任せることと神さまに任せることが、似て
いる話をしました。終わってから、数人の方が自分もこれから手術を受けるのですが、
あそこはここは、どんなになっていますかと聞かれる方がありました。また数人の方
は自分も随分昔に受けたが、そうだったですよね、と言われました。また、医者さん
が幾人かおられて、1人の方は「患者さんはそう言う気持ちで手術を受けられるので
すね、改めて分かりました」と言われました。なんか聖書の話し、神の言葉の語りに
行ったはずなのですが、目の手術の体験発表会になったようで、良かったのか悪かっ
たのか、反省することしきりでした。

 さて本日は、第4週ですので本日学ぶ聖書教育の箇所から聞いて行きます。今年度
にはいって、聖書教育は4〜6月の3ヶ月間をコリントの手紙を学ぶとなっておりま
す。コリントの手紙は、ローマ書の次にあり大事な手紙です。ローマ書がパウロの信
仰の真髄を示すとすれば、コリントの手紙は、キリスト信仰のその摘要というか実践
を示していると言えます。
 コリント教会については、言行録18章にその伝道のあらましが書かれています。パ
ウロの第2伝道旅行の最後の伝道地だったようです。紀元50〜52年頃とされ、パウロ
はキリスト者になって17,8年が経過しており、おそらく40代であったろうとされて
います。つまりパウロの信仰も安定しており、油がのり、一番動ける又力の出る時期
であったろうと思います。言行録18章によるとコリント伝道は、アキラとプリスキラ
という夫婦が協力してくれ、後からシラスとテモテも加わりました。1年半つまり18
ヶ月にわたってパウロは伝道出来ました。言行録18章9節には主もまた幻の中でパウ
ロを励ましてくださったとあります。ある夜のこと「恐れるな。語り続けよ、黙って
いるな。…この町には私の民が大勢いる」と励ましてくださったのです。
 その通り、コリントのユダヤ人の会堂長のクリスポが「一家をあげて主に従った」
とあります。ユダヤの会堂を管理する人ですから人望も高く、評判の良い方だったで
しょう。パウロの伝道は大いに力づけられたのです。しかしこのコリント伝道の成功
はユダヤ人の妬みを買うことになります。会堂長のクリスポに危害が加えられること
をもって、パウロはコリント伝道に区切りをつけて、アンテオケに帰る事になりまし
た。第2伝道旅行はこうしてコリントを最後に終わります。するとパウロのいなくな
ったコリント教会では、4つの分派争いが起こりました。1章にありますがパウロ派、
アポロ派、ペテロ派、キリスト派です。どうして簡単に派閥争いがおこるのかと思い
ますが、それはコリントの町の状況にあるとされます。
 コリントは地図で見ると分かりますが、北と南に港が開ける、天然の良港でありま
した。通常は一方向に港が開けるのですが、コリントは北と南の両方の海に面してい
るのです。当時の世界の貿易地であり、多くの富と多くの人種と奴隷と自由人、ユダ
ヤ人とギリシャ人すなわち異邦人が集まる場所でした。いろいろな考え方の方、いろ
いろな生活習慣の方、言葉、人種、宗教が集まっていたのです。4つの分派になるの
は、自然的な地理的な要件もあったかも知れません。
 その中で、パウロはコリントの状況を知りつつ、手紙を書きました。その中でも7
章は特に特異な教えとされます。本日の箇所は、後の宗教改革者カルバンの言う職業
召命の教えと絡まりつまり召し、召命観の教えと絡まり、特別な箇所になったのです。
それはパウロの意図でなかったかもしれません。しかし歴史は時々そういうことが起
こります。というか神さまがパウロの手紙を、用いてくださったと言うことだと思い
ます。自分はそのつもりがないのですが、しかしそこから違った展開ととなり、ます
ます主の教えが発展、展開したということです。

 7章全体は実は結婚の教えの中にあります。7章1節にあるようにコリント教会か
ら、結婚について聞いて来たようです。しかし本日読んで頂いた箇所は、結婚の教え
と未婚の人と寡婦の教えの中にあり「主が定めた生き方」として示されています。パ
ウロは結婚の教えに重ねて、ユダヤ人として、また異邦人として生きること、そして
自由人として、奴隷とし生きることを、結婚の教えに重ねて語ったようです。
 17節にあるように、キリスト者というのは、キリストに贖われた者、キリストを信
じた者は、主から分け与えられた分に応じて、召された状態、身分で歩みなさいとい
うのです。実は身分というのは、聖書原文にはありません。今回の共同訳の時に入っ
たことばです。昔の口語訳聖書では、身分ではなくて、状態を使っています。私は状
態がいいと思いますが、身分というと曖昧性がなくなるかもしれません。はっきりす
るということです。具体的には18節に続きますが、ユダヤ人がキリスト者になって割
礼を隠すこと、また異邦人がキリスト者になって割礼を受けることが問題になってい
ます。割礼はユダヤ人が神の民とされた時のしるしです。
 これはユダヤ人の伝承だったとか、習慣だったとかそういういう曖昧な事でありま
せんでした。聖書の創世記17章10節に主は「私との間で守るべき契約はこれである。
すなわちあなたたちの男子は全て割礼を受けなさい」となっています。従って割礼問
題は、つねに神の民としての歩みに関連され、キリスト者になってもまだ割礼が必要
であるとの見解が強く残って暫くありました。使徒言行録15章1節の第一回エルサレ
ム会議はまさに「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、キリスト者も救われな
いと」とする教えをどうするのかという問題でした。ここにおいて、はっきりと割礼
を受けるかどうか全く問題ない。主イエス様を只信じることによって救われるとした
信仰の基盤は、将にパウロだったのです。19節に有るとおり、パウロは「割礼の有無
は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」とはっきり示しました。ここで
いう神の掟とは、ヨハネの福音書13章34節「あなた方に新しい掟を教える。互いに
愛し合いなさい」という掟です。
 コリント教会には、ユダヤ人がいてキリストを信じキリスト者になったのです。し
かしその割礼の跡を隠そうとする手術を受けようとしたユダヤ人キリスト者がいたの
です。また不思議なことにその正反対に、異邦人ギリシャ人がいて、キリスト者にな
ったのです。すると自分もアブラハムの割礼を受けないと救われないのだ、と考える
真反対の人がいたのです。このように、コリント教会には真反対の人が混在している
のが特長です。しかしパウロははっきりと、ユダヤ人には割礼の跡を隠す必要はない。
ギリシャ人異邦人には、割礼を受ける必要はないとします。つまり救いは業によらな
いのです。
 ここはいつも私達が毎日、毎週、そして主に召されるまで、世の終わる迄、直面し、
いつも誘惑され、試練を受けるところです。つまりキリスト者とは、何々しなければ
成らない人と、どうしても考えてしまうのです。礼拝を毎週しなければならない人。
祈りを毎日する人、聖書を毎日読む人、献金を必ずする人、奉仕を必ずする人となっ
てしまうのです。どんなに「礼拝を毎週する人でない、献金ができる人でない、毎日
祈る人でないよ、主イエス様を信じるのみですよ」と言っても信じてくれないのです。
不思議なことに、自分はそうしていない人に限って、キリスト者とはこうこうこうい
う人、ああいう事ちゃんとしている人となるのです。話しに成りません。

 キリスト者にとって良き業とは、ただただ感謝なのです。徹頭徹尾感謝なのです。
救われ、導かれ、守られている感謝です。感謝から主との契約である礼拝、祈り、聖
書読み、献金、奉仕の力がでてくるのです。絶対に救いの条件でないのです。この世
で主の為に一杯働いた人が天国によい席を持っているので全くないのです。ただただ
神の憐れみなのです。ルカ伝23章24節の十字架の上に上げられた一人の罪人があり
ます。この世では良いこと、キリスト者の務めを全く何一つしてません。礼拝、献金、
奉仕、祈り、聖書読み、この世において良き業を何一つしていません。しかし主は「あ
なたは今日私と一緒に楽園にいる」、つまり救われると言われたのです。これが感謝で
す。私でも救われるのは、あのルカ伝23章の十字架の罪人が救われるからです。イエ
ス様の為に自分はこれとこれをした、あれとあれをした。申し訳ありませんが、それ
では、あなたは絶対に救われません。ただイエス様を頼み、十字架の罪の赦しを信じ
る。ただ主の赦しを受ける、それのみなのです。それが義とされる信仰なのです。

 20節から、問題の多い箇所です。共同訳は身分と訳したので、ますます躓きは大き
くなるかもです。問題の中心は、自由人と奴隷の状態で、主を信じたときどうしたら
いのかです。21節にあるように、奴隷であっても自由人であっても、パウロはそれを
気にしなくてよい。なんと共同訳は「自由の身になることができても、むしろそのま
までいなさい」となっています。昔から聖書を読まれて来た方はなんか変だぞと気づ
かれたでしょう。実は前の口語訳聖書では「むしろ自由になりなさい」と訳していま
す。つまり「奴隷のままでいなさい」と奴隷から「自由人になりなさい」と全く正反
対の訳になるのです。こういうのは牧師泣かせというか、聖書読み泣かせですね。皆
さんの中にも「先生、どちらが正しいのですか」と聞きたいと思うのです。

 実は、結論からいうとどちらも正しい。原文はどちらにも訳せるのです。あえてい
うと実は昔の口語訳のように「自由になりなさい」と訳する方が、世界の聖書訳では
多いそうです。ちなみに新改訳聖書もそうしています。しかし共同訳はあえて世界の
動向を捨てて「むしろそのままでいなさい」としました。そして、せっかくですので、
共同訳はカトリックの陣営が力をもった訳だったからだ、身分の固定化に参与してい
る、と聖書協会を現状を嘆くのでなく、その意味をなんとか捕って見たいと思います。
 「むしろそのままでいなさい」は、現実にはそうなりませんでした。現実は、世界
の動向は、アメリカのリンカーン大統領の南北戦争を始めとして、フランス革命を経
て、日本は明治維新と第2次世界対戦を経て、奴隷の解放、身分制度の解体に向かい
ました。全ての者が神さまの前に平等であり、特に命の平等性は、奴隷も自由人も区
別なし、差別は無いは、本来の聖書の創造信仰の根本の姿であります。世の終わりの
時には、奴隷も自由人なく、ユダヤ人も異邦人も関係ないのは、当然の姿でありまし
ょう。神さまはご自身に似せて人を創造され、男と女に創られました。奴隷と自由人、
ユダヤ人と異邦人に造られませんでした。平等は完全な神様の御心です。
 しかし問題は、パウロが直面している奴隷制のある社会おいての生き方です。パウ
ロの手紙の中で、ピレモンの手紙があります。これはパウロが恐らくローマでの最後
の監禁の時の手紙であろうとされます。パウロは兄弟ピレモンという金持ちのキリス
ト者に書いた手紙です。パウロは獄中でオネシモというピレモンところから逃げだし
盗みまで働いた奴隷に会います。しかし不思議なことにこの奴隷のオネシモはパウロ
の伝える福音を信じて獄中で回心し、パウロによく仕えるものになったのです。刑期
が終わったのか、どうしてなのかはくわしくは分かりません。しかしパウロはこの獄
中で、キリスト者になったオネシモを、兄弟ピレモンのところの送り返す、戻すので
す。ここで私達は、パウロがピレモンを奴隷から解放して自由人にしてほしいと書い
ていないのを読みます。奴隷だけれども、仲間として兄弟として、主を信じる者とし
て、受け容れてほしいとするのです。
 つまりパウロはオネシモを奴隷から自由人に直ちにしてほしいでなくて、仲間とし
て受け入れてほしいとするのです。ある方から言えば、パウロの勧めは古色蒼然たる
昔のからの教えであり、これでは社会の改革は無理であるとなるでしょう。身分の枷・
制度をそのままにしておいて、仲間として受入れよ、では何も変わらないといえるで
しょう。しかしどうでしょうか。何も変わらないでしょうか。
 社会が変革するためには、まず精神、魂が変わらないと進まないということがあり
ます。制度が先か、理念が先か、制度と理念は一緒でないとだめとかあります。しか
し今の新聞テレビを賑わすセクハラ問題も、森友学園の国有地払い下げ問題も、加計
学園の特別区の使い方も、自衛隊員の国会議員罵倒問題も、根底には何があるのかで
す。自分だけ得する、自分は絶対悪いことをしない、自分は間違わない、自分の息の
かかった人を優遇する。制度の問題と共に、そういう精神、思想の問題とも言うこと
が出来ます。つまり魂の問題がやはり根底にあるのです。

 パウロはオネシモが自由人に即なることよりも、ピレモンがまず奴隷オネシモを、
奴隷だけれども仲間にできるのか。またオネシモも、奴隷だけれどもピレモンを主に
ある主人として、自分も同じキリスト者として仕えることができるのか、問われてい
るのと思うのです。1対1の関係ができて、社会ができて行く。本当の交わりが出来た
とき、奴隷制の廃止は生きてくる分けす。セクハラも、女性と男性が平等である根底
ができて、有効になってきます。平等思想の無い平等の制度は意味があるのか。生き
るのかです。主に与えられた自分の分を生きるというのは、古色蒼然ですが、同時に、
次の革命の準備でもあるのでないのでしょうか。
 23〜24節.信仰もまた似た面があります。本当に私達は、イエス様の十字架の贖い
の身代金を払われて、神さまのものとされたのです。二度と人の奴隷、人の目の前に
生きてはならない。神の前に留まって生きるのです。私たちは、十字架の罪の赦しで
召された分を、ひたすら歩み続けて行くのです。この主の恵みの感謝に答えて、神の
国が、主にあって準備されるように思います。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。1週間の守りと1週間の導きを祈ります。
召しに留まって生きよ、とパウロは勧めます。私達は1とっ飛びに改革したいのです。
しかしすぐの解決はすぐに破局します。忍耐してじっくり祈り、じっくり十字架をか
みしめ、恵みに応答するしかありません。求道の方には信じる時、委ねる時を備えて
ください。病気療養の方、特に・・・姉支えてください。ご高齢の方には、さ
らに守りをおいてください。1週間、主のみ前に歩ませてください。御名によりアーメン。」
      第一ペテロ4章10節            2018年4月8日
           「 その賜物生かして互いに仕えなさい 」
 本日も主に命を与えられて、皆さんと共に礼拝ができますことを、まず主に感謝致
します。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。
主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を
導く御言葉を聞いていきます。

 先週は木曜日の午前2時半に、私の父が突然といっても数回危機があったのですが、
天に召されました。89歳、実際は法律では4月25日生まれですが、父は4月1日だ
ったと言っておりました。昔は、1ケ月ほどたってから役場に登録に行きましたので、
90歳であったと思います。誤嚥性肺炎でしたが、だいぶ良くなって老人ホームの方が
酸素ボンベの扱い方を病院に習いに行って、いよいよ退院ですねという矢先でした。
 90歳の方は、先の戦争を体験し、父は志願して兵隊になり、17歳で敗戦を迎えてい
ます。この年代の方は、いつも戦争だけはしてはいかんと言っていた年代の人です。
日本の復興の第一戦と言っても小学校の先生でしたが、一生懸命支えた年代です。私
がキリスト者になった時は、びっくり仰天して、長崎の教会の先生を訪ね、その先生
から「たぶん息子さんは若気の至りです。今はそういう人が多いです。心配しなくて
もいいです」といわれて、安心して帰ってきたそうです。しかしその息子が牧師にな
ろうとは夢にも思わなかったでしょう。父は、先生としては厳しかったらしく、森山
の老人ホームの介護の方は、教え子さんですが、厳しかったですと言われていました。
昔の先生は、手が先にでていましたが、その部類かもです。

 最後の父のことばは、私は鹿児島から見舞いにきていましたので「まだ帰らんでい
いのか」でした。つまる「早く帰れ」でした。親と言のは、いつまでも私61歳ですが、
いつまでたっても子供のことを心配してくれるのです。父については、いい人と言う
方とそうでないと言う方と2つに分かれるのは人間としては限界のところです。しか
し子供としては、本当に7年間になくなった母と共に、子供をよく支えてくれた最高
の父だったです。

 さて、本日は任命式をいたします。その後女性会主催のお花見会があります。4月の
初めには、いつものように、任命式を致します。今年はこども園28人の職員、児童ク
ラブ6人の職員合わせて34人です。これに教会の執事、監事、各会役員、教会学校教
師では、執事が6人で、監事2名、後各会役員、教会学校の教師で、プラス12名にな
るかと思います。座っている方より、立って紹介される方が多い礼拝になります。多
くの皆さんの祈りに支えられて、4月からこども園のこどもは83人からスタートし、
放課後児童クラブは30名でスタートします。ただただ主の守りと導きを感謝です。任
命式にて、幼稚園の関連の先生は、少しだけ教師の紹介を致します。

 さて本日の聖書はこのような中にあって、2018年を見通し、1年間を念頭おいて頂
く聖書を掲げています。年頭の聖句は「その賜物を生かして互いに仕えなさい」第一
ペテロ4章10節です。3月の教会総会において少し説明しましたが、なお礼拝として
もこの箇所から聞いて行きたいと思います。この聖書は、司式者に読んで頂きました
ように、ペテロの手紙の「神の恵みのよい管理者」という単元の中にあります。
 ペテロの手紙は、1章1節にあります通りに、使徒ペテロが、5つの地名、ポントス、
ガラテア、カパドキア、アジア、ベテニアとほぼ今のトルコ地方になりますが、その
地方にできた教会に手紙を書いたのです。ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダの手紙は、
使徒たちが書いた手紙で、一つの教会というよりも、ある地域にある教会に向けて書
かれており、初代教会一般について書いているので公同書簡とも言われます。特別な
1つの教会に当たる手紙ではなくて、ある地域全体の教会を目指しています。したが
って、教えは特殊な教えでなくて、教え一般というか、キリスト者の基本的な教えに
なっているのが特徴です。

 7節にあるように、本日の教えの前提には「万物の終わりが近づいている」という終
末の教えが根底になっています。「万物の終わりが近づく」ということを聞くと、私た
ちは「何をしても意味がなり、明日は終わりだ、飲め食えや」となるのです。しかし
聖書では、万物の終わりが、ただのおしまいの意味でなくて、神の前に立つことにな
るのです。神様を知らない者にとって万物の終わりは、恐ろしさや恐怖になるのです。
しかし真の神を知る者には、万物の終わりは、神様に出会える本当の喜びの時にとな
ります。世の終わりは、愛の神を知るか否かで、全く反対の意味になるのは、不思議
ですが、真実です。

 父は仏教式で葬儀をしました。村に一つあるお寺の住職さんです。わかりすい教え
を説いてくださいました。人はどんな人でも必ず死ぬ、栄華を誇る人間も必ず死ぬ。
世の無常を悟り、仏を信じてこの世を歩めと言われました。しかしイエス様の教えは、
人間は必ず死ぬ、しかし十字架を信じて復活する。神に出会う備えをして人生を歩め
となります。人は死ぬというところと、神・仏を信じて歩め、は同じです。つまり前
の「人は死ぬ」と後ろの「神・仏の前に歩め」は、同じです。しかし中身が、無常を
知って歩めと罪許されて復活を知って歩め、という事の違いになります。どちらが優
れているとか、どちらが正しいというのは、最終的には人間の力ではわかりません。
しかし聖書は、神の啓示として、神の言葉として、主イエス様の十字架の罪の赦しを
信じ、復活を信じて歩めと勧めるのです。後はこれにどう応えるかです。
 7節にはその実践として、まず祈りが勧められ、8節に、愛し合うことが勧められ、
9節にもてなし合いが勧められます。そして、本日の10節、賜物を生かして互いに仕
え合いなさいと勧められます。そして、11節から具体的に、語る者、奉仕をする者へ
の勧めがなされ、それは神が栄光を受けるためですとされ、つまり賜物の生かし合い
はその目的と目標を、神の栄光のためにという目的と目標に置くのです。
 ところで7節から10節の4つ勧めですが、独立しているとも読めますが、しかしこ
れは4つで一つのことを語っているとも言えるでしょう。つまり、祈り合い、愛しあ
い、もてなし合い、賜物の仕え合いは、別れているけれども実は一つのことでないか
ということです。祈ることは、愛ともてなしと賜物の仕えあいを、相互に含むという
ことです。愛し合いは、祈りともてなしと賜物と仕え合いを含み、もてなしは、祈り
と愛と賜物の使用を、また賜物の仕え合いは、祈り、愛、もてなしを含むということ
です。強調点の違いがあるのですが、しかし事柄は一つのことを語っており、相互に
関連して動いているということです。

 10節には、この賜物を持っての仕え合いですが、大きな前提は「あなたがはそれぞ
れ、賜物を授かっている」です。ここには大切な教えが入っています。それは主を信
じる、主に召される。主に呼ばれ、務めを与えられるということは、主の賜物を授か
っているという信仰です。この前の鶴竜が相撲で優勝しました。そのインタビューで、
鶴竜は怪我が多い横綱の中で、なかなか練習ができない横綱です。休場も多い。その
なかで第1コリント10章13節「あなた方を襲った試練で耐えられないものはない。
神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に合わせない」という箇所を述べて
いたそうです。神は耐えられない試練に合わせない。そして、このペテロの手紙の教
えの召したからには、主は賜物を与えておられる。これは、相互に関連している信仰
のように思えます。
 つまりこれらの信仰の根底には主の真実性があるのです。続けて、神の恵みの管理
者としてありますが、これも、主が召しを与え、自分の勤めに付けさせる時には、必
ず恵みの賜物が必ず与えられているという信仰です。主はそのように、賜物を与えな
いで、能力を与えないで、勤めに着けるはずがない。つまり免許をもたないものをそ
の勤めに着けることはなさらない。主によって務めに着けられたからには、必ず免許
が与えられていますということです。
 ですから賜物をもって仕え合いなさいは、まさに福音書でイエス様の教えられたマ
タイ伝25章のタラントンのたとえとルカ伝19章11節以下のムナのたとえが一致しま
す。タラントンのたとえもムナのたとえも皆さん耳にタコができるほど聞かれていま
すが、少しだけ繰り返します。ある時、ブドウ園でも小麦畑でもなんでもいいのです
が、農園の主人か管理人が旅にでます。おそらくローマ帝国の地主に会いに行くのか、
経営状況を報告に行くのだとされています。この時、主人管理人は、自分の僕にそれ
ぞれ自分の財産を預けるのです。ある人は5タラントン、ある人は2タラントン、あ
る人は1タラントンでした。タラントンとは、貨幣の単位です。イスラエルの最高の
貨幣の単位です。ルカ伝のムナのたとえでは、10人に10ムナを授けます。ムナもま
たギリシャの最高の貨幣の単位です。そして、マタイ伝でもルカ伝でもそれぞれのお
金を用いて、商売をするようにと命じて旅にでるのです。
 そして、5タラントンのものは5タラントン、2タラントンのものは2タラントン儲
けました。またルカ伝でも、1ムナを用いて、10ムナにした人、5ムナに増やした人
がありました。しかしその中に、1タラントンを受けた人は、そのお金を用いるのが怖
くて、土の中に隠した、ルカ伝では10ムナを布に包んでしまっておきました、という
のです。
 なぜ、土に隠し、布に包んでいたのかですが「ご主人が厳しくて、失敗したらたい
そう怒られるので、使いませんでした」というのです。ご主人は旅から帰って来て、「使
わなかったらなぜ、せめて銀行に預けるくらいはできただろう」というのです。つま
りご主人は何がなんでもタラントンをまたムナを使うことを命じておられるのです。
非常に単純化しましたが、言いたいことは、土に中に隠す、布に包んでそのまま置く
のは、だめですということです。どんな賜物でも、賜物と言えない賜物でも、使って
くれということです。

 父は、納棺するときに、私たちの地方では、親族が手伝うという風習があります。
納棺するときに、鹿児島では納棺士さんが全部されますが、私のところでは納棺士は、
親族にここはこうしてください、あそこはこうしてくださいと指示しています。地域
ずいぶん違うものです。私は、足の足袋をはかせるのと足の脛あての取り付けをしま
した。父は柔道や剣道ができたので、ふとももや足が大きかったことを覚えてます。
しかしその足と太ももは、片手で掴んでしまえるくらいに細くなっていました。最後
の1年間は車いすでした。足の筋肉も使わないと本当に骨と皮になるのです。つまり
私たちの賜物も、自分はできない。これはできないと言っていると、どんどんやせ細
り、骨と皮になるのです。

 自分はできませんと言う方があります。しかしその務めになされたという事は、そ
の性質と姿をもって、大丈夫と主が判断されたということです。実際は園務を任せら
れた園長や牧師が責任を持つのです。ですから、このような自分にこんなできない仕
事与えてどうするかと思われるかもですが、理事会を通り、総会を通って承認された
以上は、できるということで委嘱されたことになります。できなくてもいいのです。
その責任は委嘱した人にあるのです。その務めを言われた人は、一生懸命その仕事を
するという事になります。そして、失敗しても、全く気にしないことです。それはも
しかして当事者の責任の発生するところがあるのかもですが、最終責任はやはり、園
長ないし、理事長、牧師にあるでしょう。そのために立てられているのです。
 聖書では失敗を恐れてしない、間違いを恐れて実行しないことは、お金を土に埋め
て、布にくるんでおいて置くことに匹敵します。ですから、間違いや失敗を恐れて、
自分はできないと自分で判断してしないことは、全く主の勤めを果たしたことになら
ないのです。
 少なくても、自分で自分の勤めを判断せず、自分の今できることを精一杯献げると
いうことであれば、失敗、間違いは、しないことよりも、より良いという事になりま
す。失敗しない、間違わないことは大切ですが、それ以上に、自分の今できることを
すること、精一杯を献げることが、大切になってきます。
 そして、賜物を生かして用いることになります。聖書は賜物をもって仕え合いなさ
いと勧めます。仕え合うとは、立ち上げることであります。盛り上げるということば
をよく使いますが、それに似ているかもです。そして、語る者、奉仕するものへの力
の応じての活動が勧められるのです。

 最後に、最終目的であるすべては「神の栄光のため」が言われます。これは、人間
の栄光がむなしいからです。すべてを神の栄光のために、神の名のためにするという
ことです。これは、宗教改革者のカルバンがその神学の中心においたことばです。す
べてが神の栄光のためにささげられる。人間の業でない、ある意味で教会のためでも
ない。すべては神の栄光を目指すのです。人間や教会の栄光を掲げた時、やはり偽善
が生じます。自分のそのままあるだけを捧げていくのは、ただただ神の栄光のみです。
人間の栄光、み業がはいると教会は、神さまの制度から人間の制度になるのです。人
間の制度でなくて、神さまのイエス様の制度であり続けるには、神の栄光が、中心に
ある時です。それ以外を目的に置くと途端に堕落や退廃が始まります。どうか、この
1年間自分のそのままの賜物を主に献げて、歩んでください。主の守りと導きを祈り
ます。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。本日は任命式の礼拝となりました。どう
か、本日任命された、執事、監事、各会役員、教会教師、こども園教職員、児童クラ
ブ支援員に聖霊をくだし、神様イエス様の力を与え、その職務を全うできるように、
賜物をますます備えて導き支えてください。1年間の守りを祈ります。続けて、どうか
求道の方に、信じる時、委ねる時を備えてください。病気療養の方に、・・・、
に癒しを与えてください。ご高齢の・・・、
兄、姉を支えてください。平和を来たらせてください。新しい出発、進
級、学校に進む方に、み手をおいてください。教会員、こども園、児童クラブの教師、
子供達の魂、信仰、健康を守り、1週間またイエス様と共に歩ませてください。御名
によって祈ります。アーメン」

   ルカによる福音書24章1〜12節       2018年4月1日
            「 復活なさった 」
 本日はイースター復活礼拝として、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝が
できますことを感謝いたします。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔
い改めをなし、1週間を導く御言葉を聞いてまいります。
 本日は、今承認されましたように、礼拝の後で、Tさんのバプテスマが実行
できることを感謝いたします。すでに、いつもの事と言えばそうですが、木曜から少
し水をためて汚れを落とし、さらに金曜には水槽バプテストリーをデッキブラシで濾
すって洗い、金曜から水をためて、健康上の理由で冷たくないように、お風呂用の暖
め装置をいれて、準備しております。当教会のバプテストリーの水は3dあるそうで、家庭
用のお風呂暖め装置では、あまり効果が期待出来ませんが、しないよりはいいだろう
としています。
 それにしても、T兄以来またこうしてT姉のバプテスマが赦されて、感謝です。
イースター礼拝で一番嬉しいのはなんと言っても、こうしてバプテスマが起こる事で
す。バプテスマは確かに人間が信じて受けるのです。しかし聖書によるとバプテスマ
の執行は、神さまの介在無しには不可能です。バプテスマは間接的に、神さまの働き
を見ていることになります。ただただ主の導きを感謝致します。

 さて聖書は、いよいよルカ伝の復活の報告の所です。これまで3回ほどルカ伝から
イエス様の最後の1週間の出来事を聞いて来ました。ペテロの裏切り預言の箇所、ゲ
ッセマネの祈りの箇所、そしてイエス様の埋葬の箇所でした。本日はいよいよ主イエ
ス様の復活の場面です。
 イエス様の復活の場面はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとすべての福音書にありま
す。そして復活の報告はほぼ一致しています。死人が甦るという大変な出来事ですが、
先ず気付くことは、4つの福音書に一致しているのは、物理的というか現象的には、
イエス様の墓が空っぽだったと言うことです。聖書は、どんな具合にイエス様の死体
が生きる者となったのか、真夜中だったのか、明け方だったのか、現象的な具体的な
復活の様子は書いておりません。具体的にはお墓が空っぽだったということです。後
は、それぞれの弟子達が、復活のイエス様と出会うことをもって、復活を体験すると
いうか、感得するという形になっています。つまり御霊によって、聖霊によって、悟
るというか、おのおのが示されるということです。それは、復活がもし物理的に、科
学的に証明されたら、それは信仰が必要ないことになってしまうからだと思います。
イエス様の復活が、信仰を持って受け止めることができる出来事であるということは、
復活信仰にとって大切な部分であるのです。

 1〜4節にあるように、男の弟子達はチリジリバラバラになっていました。ルカ伝
22章によると、ペテロはユダヤ人の裁判の時、遠く離れてみていました。しかし女中
さんに「この人も一緒にいた」と言われて「私はこの人を知らない」、2回目に「あな
たはあの人の仲間だ」といわれて「いや、そうでない」。3回目は「あなたはガリラヤ
のものだ」と言われて「あなたの言う事は分からない」といいました。完璧に、イエ
ス様のとの関係を否定し、鶏が鳴くとその裁判の場所から出て行き、どこにいったの
か分かりませんでした。しかし女性の弟子達は、アリマタヤのヨセフがイエス様の埋
葬している場面を見て余りに簡素化されたイエス様の埋葬に、何とかしてあげたいと
思ったようです。女の弟子達だけで香料をもってイエス様のお墓に行きました。朝早
くの事だったようです。

 そして3,4節に、イエス様の埋葬されたお墓に来てみるとお墓を塞いでいた石は
転がっており、主イエス様の遺体は見あたりませんでした。そして、途方に暮れてい
たというのです。途方にくれたは「混乱した」とも訳せることばです。するとそこに、
天使と思われる白い輝く衣を着た2人の人がいたのです。何かここは、私達は神さま
の取扱を受ける原型を示しているように思えます。
 お葬儀をよくしてあげたいという思い、その思いの実践のために、そこに言ってみ
る、また示される今できることをしてみる。しかしそこには途方に暮れ、どうしよう
もない場面、出来事が展開しているのです。香油を塗りたくても、その遺体がなけれ
ばどうにも成りません。ここで人間の思い、人間の行為は、頓挫しています。人間の
業はここで停止、ストップです。どうにも動くこともできない。まさに途方にくれ、
混乱のみがあります。
 しかしその時、天使のごとき2人の人が出現するのです。あらためて復活の出来事
は復活信仰が先導し、復活信仰があって出来事を導いているのではないのです。神様
の側から働きかけがあり、神さまの側から導きがあるのです。ある意味で男性の弟子
達は全く話しに成りません。しかしそれでは女性の弟子達はなんとなっているのか。
それはお墓に来ただけましです。しかし復活信仰はありません。しかしお墓にきただ
けの話しですが、それでも主はこの女性の弟子達から用いてくださるのです。
 ここで祈りを重ねてもいいかも知れません。木曜でしたかNHKのEテレで最近は
教育テレビといわずに、Eテレといいますが、シスター鈴木秀子さんがでていました。
東京の聖心女学院の先生でシスターです。マザーテレサが来たときに影響を受け、今
は、死に行く人々のカウンセリングの仕事をされています。この方が、NHKでした
がキリスト教の祈りの話をされました。祈りとは自分は「虫眼鏡と思います」といわ
れるのです。どういうことかというと、太陽の光は万人に注がれています。しかし小
さい時、虫眼鏡で新聞紙を焼いて遊びました、あれと同じで、全ての人に神さまの恵
みは注がれるのです。しかし祈りは神さまの恵みを集めるのかも知れません、と言わ
れるのです。
 うまい表現だと感心しました。神さまの恵みは全ての人に注がれている。しかし祈
りは神様の恵みを、ある人やある出来事、ある点に集中させることができるのでない
かと言われるのです。男弟子は散り散りバラバラです。しかし女性の弟子達はともか
くそこに行ってみた。そこで天使に出会うのです。恵みは逃げた男弟子にも確かです。
しかしイエス様の近くにあろうとした女性弟子には、よりはっきりと示されるのです。

 5〜8節にかけての天使の言葉は「復活が信じられないとは困ったことだ」という
説教では有りません。「そんなことも信じられないのか」の叱責や嘆きでもありません。
7節には聖書の言葉を思い出させます。聖書の言葉を思い出させる、聖書の言葉の指
示に従わせる。これが天使出現の目的だったと分かります。復活の主が分かる方法が
あるとすれば、それは信仰です。しかしもっとその信仰を突っ込むと聖書のことばの
想起です。6節に「ガリラヤにおられた頃に、お話しになったことを思い出せ」と言
います。復活のイエス様なんか信じられるか、死人の甦りなぞ、バカバカしくて付き
合っておれない。その時、もし何か私達にすることがあるとすれば、またできるとす
れば、それはガリラヤでイエス様が、語られていた言葉を思い出させることです。そ
こに集中しておれば、いつか分かるから、というのです。
 ここで聖書の信仰は、言葉はまた出来事であるということです。つまり「ガリラヤ
におられたころにお話しになったこと」とは、単なる山上の説教ではありません。そ
れを含みつつ、しかしなおイエス様のなされた全てのみ業が入るのです。イエス様は
悪霊に付かれた方の所に癒しに行かれた、イエス様は寡婦や孤児や病気の方の社会的
弱者の所に行かれて励まされた。イエス様は、当時は死の病で、神に打たれたとされ
た重い皮膚病、ハンセン病の人を訪ねていやされた。これらの全てのことが「ガリラ
ヤで語られた」事に含まれるのです。

 8節にあるように、その時、婦人達はイエス様の言葉を思い出したのです。つまり
イエス様のなされた言葉と業と出来事全てを思い出したのです。その時実はマルコ伝
では「怖ろしかった」で終わりました。しかしルカ伝では11人の弟子と他の弟子に伝
えるべきだと力を与えられた。つまり使命を受けたのです。9節には「一部始終全て
を知らせた」とあります。マルコ伝では恐れおののき、そして黙っていたのが精一杯
の女性の弟子でした。しかしガリラヤのイエス様のことばと出来事を思い出したとた
ん、力が湧いたのです。使命が与えられたのです。神さまからの力、聖霊、使命は、
ガリラヤのイエス様のことばの想起が用いられて、力となるのです。
 私達において、そのことを言い直せば、神のことばである聖書を読むことで、やは
り知恵や力が与えられて用いられるということです。驚き、恐れるのみであった女性
の弟子達を立ち上がらせたのが、ガリラヤのイエス様のことばであれば、今もまた私
達を立ち上がらせるのは、同じくイエス様のことばです。つまり聖書、福音書です。
 つまりここにおいて、改めて「途方に暮れこと、恐れること、おののくこと」が、
用いられるのです。私達は聖書に書いてある通りをすればいいのですが、その時うま
くいかないことを知っています。ある意味でペテロが、失敗して用いられるように、
信仰は、失敗して本物になっていくのです。というか、そういう方法でしか私達は成
長できないのです。「やってみる、失敗する。また言葉を受けるか使命を受ける。そし
て前進する」ということです。ペテロの3回の裏切りはそういうことを私達に示して
いるのでしょう。
 それはまた私達が避けられない病気などもそういうことだと思います。本当に余り
にも小さくて、大きな病気の方には申し訳ないのですが、私は、手術ともいえない白
内障の手術を受けました。右目と左目があるので、1週間ずつです。2週間お風呂に
入れませんでした。しかし2週間が終わり、入れた時の喜びというか、大げさですが、
なんだかお風呂にはいれるのがこんな多きな恵み、喜びだったのか、びっくりしまし
た。2週間くらいお風呂にはいれないくらい、なんでもないと言われそうです。しか
し、お風呂にはいれるというのは、すごいことなのだと感心しました。当たり前はそ
れができなくなると有り難さがわかる、といわれますが、まさしくそうなのです。
 女性の弟子達の恐れと当惑は用いられるというか、天使からの使命を受ける一つの
準備だったのです。その時は恐れと混乱・当惑ですので、大変であり苦しいのです。
そんな体験したくないのです。しかしそれがあって復活の伝達使命が与えられるので
す。

 11節にはしかし、なんということでしょう。女性の弟子達のこの体験は、用いられ
ないのです。使徒達はこの話が戯言のように、思われたというのです。戯言とは、い
ろいろな訳ができるのですが「ナンセンスのことばとも、作り話とも、馬鹿げた語り」
とも訳されることばです。つまり全く信用されない、全く相手にされない語りだった、
というのです。そして、余りに戯言に思えたので、信じなかったとあるのです。
 女性の弟子達の当惑と恐れから、天使の出現となり、天使の言葉に導かれガリラヤ
でのイエス様のことばを想起し、思い出した。そこにおいて確かにイエス様は復活さ
れたのでないか。かすかな希望が出てきたのです。しかし12弟子達は、またも信じな
いのです。無理もないかもです。12弟子はイエス様の逮捕の場面に出くわし、どうす
ることもできず、逃げ出したのです。ペテロだけ遠くから従ってユダヤ人の裁判だけ
は、見ていました。しかし3度の決定的なイエス様との関係を拒否の裏切りをすると
もう遠くからも離れて、群衆の中に紛れて見えなくなったのです。
 イエス様が生前3度も「自分は十字架に掛けられる、しかし必ず復活するから」と
言われていました。しかしその萌芽を女性の弟子達が示しているのに、男弟子達は、
馬鹿にして信じなかったのです。何度もチャンスは来るのですが、そのチャンスが掴
めない。そんな姿を示されます。なぜ、信じないのかですが、当時は女性は裁判の証
言権が無かったのです。つまり男性の弟子達は、当時の回りの風習にそのまま巻き込
まれて、イエス様の新しい権利、女性もまた証言することがゆるされる権利への解放
に気付かないのです。これは教会の歴史を見ると繰り返されます。イエス様のなさる
ことは、時代の最先端を行っているのです。しかしそれが本当に教会の出来事になる
には、社会のしんがりになっていると言う事実があります。つまり教会は、いつも回
りに流されているのです。自分で判断するのは、ずっと後になってです。イエス様の
出来事から考える、イエス様の言葉から行動するには、時間がかかっているのです。

 12節にあるようにしかしです。12弟子達は信じなかったのですが、ペテロはもしか
してと別の行動を取ったのです。女性の弟子達の行動は、無駄でないのです。確かに
戯言と処理されました。しかしそれでも言ったことは良かったのです。その時は何も
起こりませんでした。返って馬鹿にされました。しかし語ったことは生きているので
す。ペテロはもしかしてと思ったのだと思います。ペテロは、イエス様が生前に言わ
れていた「十字架に付けられ、復活する」と言われていたよなあ、と思い出したので
しょうか。書いてはありません。しかし12弟子で一人だけですがお墓に行ってみたの
です。そして空の墓を体験したのです。ここが起点になって、復活の報告の広がりの
初めになるのです。「女性の弟子達の復活伝達は無駄だった、何もならなかった」とな
るでしょうか。確かにその時は戯言にされました。しかしそれは、1人のペテロを動
かし、復活体験を準備していると言えます。復活信仰はこうして、一歩一歩伝わるよ
うです。全部一度に伝わるというのはないようです。馬鹿馬鹿しいと思われる。しか
し語ってみると全員で無いが、たった一人が動くのです。そしたら又たった一人が動
くのです。それ以上を望んだらだめなのでしょう。それで十分です。復活信仰の真髄
はそんなところにありそうです。私達も躊躇しながら、しかし聖霊の恵みによって、
復活を語り、生きる者となることが赦されています。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。本日はイースター復活祭です。主の十字
架と復活を特に受け、覚えさせてください。本日はこの後、Tさんのバプテス
マ式を致します。どうかみ手をおいてください。ここまでの導きを、ただただ感謝で
す。主は生きて働いておられます。私達は鈍くて、それが見えず、気づかないのです。
次週は第67回のこども園の入園式があります。どうか、守ってください。病気療養の
H、K姉、ご高齢の方々、O、Y、K、K、H、S、H姉の守りを置い
てください。新年度のこども園と児童クラブの働きの上に、主の守りをおいてくださ
い。一週間み手においてください。御名によって祈ります。アーメン。」

   ルカによる福音書23章50〜56節       2018年3月25日
            「 墓の中に納めた 」 ー棕櫚の主日・受難週説教ー
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 本日はいよいよ教会の暦では、受難週に入ります。イエス様は木曜に洗足され、金
曜日に十字架に付けられ、日曜日に復活されました。次週はイースター復活祭となり
ます。本日の執事会で、T姉の信仰告白を審議し、次週に教会員にお諮りしてイー
スターのバプテスマ式の予定です。イースターのバプテスマは、2015年の3年前のイ
ースターのM姉以来です。こんなに嬉しいイースターはまた感謝感激です。

 先週はまた南九州地方連合の定期総会がありました。巻頭言に書いていますが、な
んと地震で倒れた熊本南教会は3100万円の献金が集まり、この5月に教会堂新築の工
事が始まるそうです。また1964年から54年間の伝道所だったそうですが、この度熊
本愛泉教会の山鹿伝道所は、総会決議をされて、今年の11月に教会組織をして、教会
として出発されるそうです。どちらも本当に嬉しい話で、感謝の他ありません。54年
間も伝道所としてなさっていた事だけでもすごいですが、とうとう54年目に実が実っ
たのです。このところどこを向いても、悪いニュースばかりで、神さまはどこに働い
ておられるのかというのがありました。しかし何というか、カボチャ畑のカボチャの
ように、ウリ畑のウリのように、毎日見ていてもちっとも大きくなっていないのです
が、夏になり秋になるとこんなに大きくなるように、主はきちんと働いておられるの
です。私の小さい時は、私の家の近くにウリ畑があって、いつもみていたのですが、
あれはなかなか大きくならないのです。しかし秋になるととんでもない長さになって
いるのです。改めて主の働きは、淡々とした歩みであると確認します。もう一つは、
私達は自分自身の計画を持つのですが、しかしなお主も計画を持っておられて、隠れ
て働いてくださっているのです。自分の計画がうまくいかないと主の計画もうまくい
っていないと感じるのです。しかし主の御計画は確かのようです。従って私達は、自
分の務めをなし、聖書を読み、祈り、献げる生活を主のみ前に続けたいと思います。

 さて聖書は、受難週に入りますので、イエス様の十字架に掛けられた所からいつも
は聞いています。しかし本日は十字架に付けられ殺され、そしてイエス様が葬られる
ところから聞いて行きます。イエス様の葬りの場面はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
と4つの福音書が全て書いて報告しております。マルコ伝が一番長く、面白いことに、
葬りの記事が一番短いのはマタイ伝です。ルカ伝の特長は、アリマタヤのヨセフの人
となりが詳しく書いてあること、女性達のことが書いてあること、そして女性達が香
油と香料を準備して安息日の空けるのを待っていることが書かれていることです。
 50節にあるように、ルカ伝はアリマタヤのヨセフについて他の福音書以上に書いて
おります。アリマタヤのヨセフがでてくるのは、ルカ伝以外にはヨハネ伝19章です。
まず議員であったとあります。これはイスラエルでは、宗教と政治を司るサンヘドリ
ンと言われる議員です。日本でいうところの衆議員議員よりももっと権威があったと
思われます。当時はサンヘドリンの人数は71人であったとされ、サンヘドリンの議長
は大祭司がなって国会の議事を運営しました。これに選ばれるには、かなりの聖書の
知識とお金の力が必要だったとされています。

 アリマタヤですがこれは地名です。これは聖書解説書によると預言者サムエルが生
まれたラマの近くにあったとされています。ラマはエルサレムの北東の20qの所にあ
ります。今の感覚でいうと20qは近いです。しかしイエス様時代にエルサレムから
20q離れた所からサンヘドリンの議員になるには、エルサレムからの議員よりも、か
なりの力とお金も必要だったのでないかと言われています。預言者サムエルが生まれ
活躍した町の近くであるということはアリマタヤのヨセフにとって、一つの誇りであ
ったでしょう。自分の古里にイスラエルを導き、ダビデ王に油を注いだ予言者がいた。
鹿児島の方が、外に出るときにやはり西郷さんの姿がどこか手本になるように、自分
の町に信仰者の預言者サムエルがいたというのは、アリマタヤのヨセフの生き方を決
めていたと思います。善良で正しい人は、善良は良いということ、正しい人は義人と
いう言葉です。この良い人で義人は、ルカ伝ではイエス様の誕生の時に預言したザカ
リヤ、シメオン、エリザベットにも使われたことばです。

 51節には、このヨセフは実は「同僚の決議や行動には同意してなかった」と書かれ
ています。71人の議員の中で、果たしてイエス様の殺害を決めた時に、何人の議員が、
反対していたのか、聖書は書いておりません。70対1でイエス様の殺害は決まったの
でしょうか。もう数人くらいは、イエス様の十字架刑に反対した議員があったのでし
ょうか。聖書を読む限り圧倒的多数でイエス様の殺害は決まり、議員から派遣された
人々がイエス様を逮捕し、十字架に付けました。しかし改めてこれは全員一致でなか
ったのです。もちろん「同意しなかった」という言葉から、ヨセフが反対の一票を投
じたということまで読み込むのは難しいかもしれません。多勢に無勢でどうにも成ら
なかったと言えます。反対していたが、反対意見は言わなかった、言えなかったのか
も知れません。実はユダヤの議会には古くから「全員一致は審議やり直し」という習
慣があるそうです。何か決める時には、必ず反対者や別の意見があってしかるべきで
あるという考え方の習慣です。日本では全員一致は、全てが賛成で良かったとなるの
ですが、イスラエルでは全員一致はやりなおしですので、再審議となり困るのです。
アリマタヤのヨセフはそういう反対に用いられたのかも知れません。予言者サムエル
が、必死にイスラエルを裁いて守っていったように、アリマタヤのヨセフは、イエス
様の内に、何か神さまの御心を感じ、もっと良く聞いてちゃんとした審議してもよい
のでないかと思っていたのであります。
 ルカ伝はさらにこのヨセフが「神の国を待ち望んでいた」と書いています。ヨセフ
は言ってみれば、田舎の有力議員です。田舎の方では、町のように裕福な暮らしは出
来ません。全ての人が羊飼いや農業をして働きます。中には、農業に失敗して身を持
ち崩して土地を失い、エルサレムの都会に出て行く同郷の者の姿をみていたでしょう。
田舎の方では、会堂での礼拝もきちんと守られ、全ての生活が聖書に従ってなされて
いたでしょう。しかしエルサレムに来てみれば、エルサレムの祭司達は、捧げられた
犠牲の動物や献金で、裕福な生活をなし、ヘロデ王とローマ総督のご機嫌伺いをなし、
イエス様が怒られたように、神殿には両替商人がごったがえし、商売をする人々が神
殿の境内におりました。
 イザヤの預言したイザヤ56章7節「私の家は、全ての民の祈りの家でなければなら
ない」は、全く守れていないのです。アリマタヤのヨセフは、ルカ伝19章のイエス様
の宮清めの姿つまり両替商を追い出す姿、21章の寡婦の献金の姿、その時に言われた
姿「この人はどの人よりも多くの献金をした」と言う言葉を思い出したでしょう。ま
た、ルカ伝14章にある病人を安息日だとして、手当もせずに、癒さずに、そのままに
している姿も見られたでしょう。アリマタヤのヨセフは、エルサレムの人々が、もは
や主なる神さまの言葉に従っていない姿を見るしか無かったのです。アリマタヤのヨ
セフは、イエス様の言動を知れば知るほど、いにしえの預言者が語る神の国がくると
したら、イエス様の御言葉によって、イエス様を中心にして来るにちがいないと確信
していたのかも知れません。
 しかしアリマタヤのヨセフの祈りと願いも空しく、主イエス様はサンヘドリン議会
の決定に従って逮捕されます。まず祭司達のユダヤの裁判を受け、それからローマの
ポンテオ・ピラトの裁判を受けました。当時のユダヤ人は死刑を伴う裁判はできず、
ローマ帝国の総督がそれをなしました。そして十字架刑が決まりあっという間に刑は
執行され殺されたのです。アリマタヤのヨセフの無念は察して余りあります。

 52節にあるように、このヨセフはしかし、ピラトの所に行って、その死体の引き取
りを願うのです。ピラトはどう思ったのか、サンヘドリンの他の議員はどう思ったの
か。聖書は書いておりません。しかし申命記21章23節「必ずその日の内に埋めねば
ならない」の規定により、木に掛けられたイエス様の遺体はその日の内に、葬られ埋
葬されることが望ましいのです。アリマタヤのヨセフは、聖書の規定に従って、総督
ピラトに遺体の引き取りを願ったのです。
 それにしても、ここで改めてアリマタヤのヨセフのイエス様への思いが伺えます。
死体の引き取りを願い、それを埋葬することは、その人の親近者であり、その人の信
望者であることを示すのは確かです。お葬儀をするということは、少なくてもその人
に思いを持ち、その人を尊敬していることであります。ユダヤの裁判とローマのピラ
トの裁判とによって十字架刑にされたことは、明らかに社会的に、ユダヤ社会からも、
ローマ社会からも死刑とされ、完全に社会的な身分が剥奪されたことです。その人の
お葬儀をして上げる。これは自分も又ユダヤ社会からまたローマ社会からの差別、不
利益を被ることでした。しかしヨセフはそれをもろともしないのです。ラマの近くの
アリマタヤからエルサレムに出てきて、サンヘドリンの議員となる地位を築いたヨセ
フ。しかしそれをものともせずに、イエス様の葬儀をして上げる。弟子達がチリジリ
バラバラになって、葬儀の思いもその手伝いも全くないことを思うと、アリマタヤの
ヨセフはある意味で、イエス様の真の弟子の第1号とも言えます。

 53節に書かれている「遺体を十字架から降ろし、誰も葬られたことの無い墓に葬っ
た。」これは、実はアリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体に触れ、死体の汚れを受け
て、ちょうど今、ユダヤでは過越の食事に預かる時期ですが、それに参加できないこ
とになります。つまりヨセフは、ユダヤ最大の祭りで過越の祭りに参加できない状態
になっても、なおイエス様の葬りの方を大切にしたと言うことになります。私達はこ
こでパウロがフィリピ書3章8節に書いていた「私の主イエス・キリストを知る事の
余りの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストの上に私は全て
を失いましたが、それを塵あくたと見なしています」を思い出します。ヨセフは、将
に主の十字架の方が、自分が築いて来た地位よりも遙かに高いと示した最初の人でも
あったのです。

 55節には、その時、ルカ伝は女性達がガリラヤから一緒に来ていたとことを示して
います。「ガリラヤから付いてきた」と言うことで、これらの女性達が、いかにイエス
様を慕い、その後に付いついて来たかを示しています。ガリラヤはエルサレムから120
qも北にある地方です。もちろん当時の地方のユダヤ人は過越祭、仮庵祭、五旬節祭
と年に3度はエルサレムに行くことを理想としていました。婦人の内に幾人かはすで
に、何度もエルサレム神殿に来たことのある人がいたでしょう。しかし、それでもイ
エス様に従って、120q離れた所で仕えるのはたいしたものです。マルコ伝とマタイ
伝はこの女性の中にマグダラのマリヤがおり、ヨセの母マリヤがいたとしております。
改めてここにも、男の弟子達の姿はありません。男の弟子達の動向は、22章54節に、
遠く離れて裁判の様子を見ていたペテロを最後に、主イエスを「知らない」と三度否
み、そのまま裁判の場所から遠去かったままです。イエス様は改めて、ユダヤの裁判
を終え、ポンテオ・ピラトの裁判からは全く一人でありました。
 56節にはしかし、女性の弟子達は、家に帰り、香料と香油を準備したのです。それ
はイエス様の葬りは確かにアリマタヤのヨセフがしてくれたのですが、安息日が近づ
いており、かなりの簡略化の元に行われたとされます。女性の弟子達は、イエス様を
きちんと葬ってあげるために、香油と香料を準備し、安息日の空けるのを待って、正
式に葬りの手はずを取ろうとしたと言えるでしょう。こうしてイエス様の葬りは、聖
書の規定に従って、淡々となされました。又アリマタヤのヨセフの祈りと願い、女性
の弟子達の悲しみの働きによってなされたのです。
 しかし私達はこの葬りにおいて、何度も言われますように、イエス様の預言されて
いた復活の期待は全くないと言っていいと思います。少なくともイエス様は三回、自
分は聖書の言葉に従って、復活すると預言されていました。しかし12弟子達はもちろ
ん、アリマタヤのヨセフも、女性の弟子達も復活の預言を思い出した人は誰もいませ
んでした。改めて復活は、人間の期待や信仰を越えていたとなります。人の理解を超
えて、復活は起こり、神さまのご計画は遂行されて行きます。
 私達はイエス様の十字架と葬りの出来事より何を示されるでしょうか。それは、神
の側の計画は人間には知られず、しかし人間は自分のそれぞれの自分の思いを成して、
ある時は自分の罪をなして、神さまの御計画を成してしまっていると言うことです。
ですから、私達のできることは、神さまからのはっきりした示しが無い時は、今ある
こと、今しないといけないことをしっかりとなすと言うことです。仕事のある人は仕
事を成します。定年を終わった方は、終わった働きをなします。主婦の人は主婦の働
きをなし、学生はひたすら学びを成します。
 日々、主の十字架の恵みに答えて、主の喜ばれる礼拝、祈り、捧げものを続けてな
すことです。神の国はどこにあるのかというしるしは簡単には、見えないかも知れま
せん。むしろサタンの働きが顕著です。しかし、主イエス様は働いておられます。地
震で倒れた熊本南教会はまた立てられます。54年目の山鹿伝道所は、今年教会になり
ます。私達の教会も、イースターのバプテスマがあります。主の十字架の罪の赦しと
神の国は、小さいくても徐々に進展しているのです。主イエス様の御言葉を固く保ち、
その愛の恵みに答えて歩んで行きます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。本日から受難週に入ります。主の十字架
を特に覚えさせてください。先週は、南九州連合の総会が熊本愛泉教会でありました。
その時報告の時間で、熊本南教会が5月から新築されること、山鹿伝道所が54年間の
伝道の内に教会組織されることが言われました。ただただ感謝です。主は生きて働い
ておられます。私達は鈍くて、それが見えず、気づかないのです。どうか、この1週
間特に、主の十字架を仰いで歩むものとさせてください。病気療養の・・・、
ご高齢の方々の守り、こども園めぐみ幼稚園、児童クラブの働きの上に、主の守りを
おいてください。T姉のバプテスマの準備を置いてください。一週間み手においてくだ
さい。御名によって祈ります。アーメン。」

   ルカによる福音書22章39〜46節       2018年3月18日
            「 御心なら 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 いよいよ教会の暦では、来週が受難節の最後の受難週になります。本日は、ルカに
よる福音書22章から通称ゲッセマネの祈りと言われるところから聞いて行きます。不
思議なことに、ルカ伝22章には、このイエス様の最後の祈り、また弟子達が眠りこけ
てしまった祈りの場所を、ゲッセマネとは紹介しておりません。オリーブ山であった
としています。つまりマタイ伝26章とマルコ伝14章に示されるゲッセマネの祈りは
オリーブ山の一部にあったことになります。

 実は、ルカ伝22章のオリーブ山ゲッセマネの祈りは、マタイ伝、マルコ伝とべると
短い記事になっています。どうしてかと思って読むと、マタイ伝とマルコ伝では、弟
子達が眠り込み、イエス様が来て注意されるのが3回に及びます。イエス様は3回も
弟子達のところに来られて、起きて祈るように言われます。しかしルカ伝では、イエ
ス様が祈る事を語り、弟子達がそれに答えない姿は1回のみになっています。
 ルカ伝は弟子達の眠る姿をそんなに伝えたく無かったと言うことになります。3回が
一回ですので、ルカ伝は弟子達の祈りを重んじないのかと思いそうです。しかしそう
では在りません。マタイ伝とマルコ伝は、ゲッセマネの祈りにペテロとヤコブとヨハ
ネの3人を伴われました。しかしルカ伝では、弟子達全員がゲッセマネの祈りに、弟
子達全員を伴われています。マタイ伝はその辺の事情をわかるように書いており、ま
ずイエス様は弟子達一行と共にゲッセマネにいかれた。しかし最後はペテロとヨハネ
とヤコブの3人を連れて祈り場に行かれたと読むことができます。つまりマタイ、マ
ルコ伝には、弟子に重要性の差があるのかも知れないとも読めます。ペテロとヤコブ
とヨハネは弟子の中でも弟子の指導的位置であったと読めそうです。しかしルカ伝で
は、39節には「いつものように」とあり、ゲッセマネの祈りは、イエス様が12弟子
と一緒に、エルサレムに来られた時には、共に祈る所であった。つまり初代教会のい
つもの祈祷会の一つの場所であったとなります。
 実は、皆さんも気づかれると思いますが、聖書には、今の教会にある祈祷会のよう
な箇所がなかなか見つかりません。酷い人になると祈祷会はしなくていいのだ。なぜ
なら聖書にそんなに一杯書いてないというわけです。しかし一杯ないですが、一番大
事な祈り、ゲッセマネの祈り、イエス様がご自身の十字架を最後に決められた場所は、
いつものように弟子達と一緒に祈られる場所であった。つまり祈祷会で決められたの
です。実は、使徒言行録2章の聖霊降臨日ペンテコステもまた一軒の家に「一同が1
つになって集まっていた」とありますので、これも祈祷会と言うことができると思い
ます。つまり今の十教人が、教会に集まって祈る祈り会は、確かに聖書に一杯はでて
きません。しかしゲッセマネの祈りでイエス様は、最後の十字架の決定をされ、言行
録2章では聖霊降臨日になりました。ですからやはり弟子達が集まって祈る祈祷会は、
大切な教会の働きであると聖書は示していると示されます。

 さて39節に示されるのは、祈りというは確かに、大きな苦難が起こり、大きな試練
があって、祈りが成されていくのです。しかしその背後というか、その祈りがおこさ
れるためには、「いつものように」祈る祈り、「いつもの場所にいる」祈りが、支えて
いるということです。特別な時に特別に祈るのはよくないということではありません。
それはそれで大切です。というかのっぴきならない事情が私達を祈りに押し出します。
しかし特別な時に、苦難や試練の時に祈り、答えを得ていくのは、こうしてその背後
に「いつもの祈り」があるということです。これもまた大切なルカ伝の教えです。
 さらにルカ伝だけが示すもう一つのことは、39節にゲッセマネの祈りには「弟子達
も従った」という姿です。ゲッセマネの祈りは、イエス様が主導され、イエス様が導
かれ、弟子達がそれに従った祈りだったのです。今ちょうどバプテスマクラスをして
おります。バプテスマに備えて学びをするわけですが、根本になぜバプテスマをする
のかがあります。心に信じているのだから、いちいち水に浸からなくてもいいのに、
どうしてこんな形式にこだわるのかがあります。「心から信じています」と言われれば、
その方の救いを疑うことは、人間の知恵では無理でしょう。
 しかし聖書にはすごいことに、イエス様ご自身がバプテスマを受けられています。
イエス様が、神の子であり、本来は罪の赦しのバプテスマは必要ないのです。それで
もマタイ伝3章15節に「これは良いことである」としてご自身が受けられました。キ
リスト教とは、イエス様を信じ、イエス様の後に従う事態です。その初めに、イエス
様が受けられたバプテスマを受けないとは矛盾です。イエス様を信じるからには、イ
エス様の後になんとか従いたいのです。イエス様の全部を出来るわけもないのですが、
自分の出来る分を従いたいのです。そこにバプテスマがあるのです。
 まさに祈りもそうです。39節の「弟子達も従った」これは、まさに祈りの姿でもあ
るのです。祈りを成すとき、祈りに向かう時、実はそこにはイエス様になんとか従う
一つの弟子の姿があるのです。祈りには、イエス様の後を追う姿があるのです。イエ
ス様に従いたい思いが本物であれば、祈りはその従いの一つの姿・形なのです。

 40節に、主は、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。こ
れは、私達はこれからくるイエス様の十字架と弟子達の試練・誘惑を考えると当然の
教えにように思います。これから十字架につけられるイエス様にとって、先生である
主イエス様を失う弟子にとって、試練・誘惑に陥らないようにすることは、急務の事
でありました。
 しかしこれはゲッセマネに祈りの解説で必ず言われることですが、改めてこの「誘
惑に陥るな」は、実際には主イエス様ご自身が教えられたルカ伝11章とマタイ伝6章
の「主の祈り」の6番目の祈りでもありました。主は常々から「誘惑に合わせないで
ください」を、弟子達に教え、ご自身が示される祈りに入れられていたのです。つま
りゲッセマネの祈りは、一見特殊な特別な祈りのようでありつつ、実は元々の平々凡々
の祈りの項目でもあったのです。死の直前の命に関わる危機の時の祈りが、実はいつ
もの教えの祈りである。これがゲッセマネの祈りの特長です。
 つまりここには危機からの脱出は、常々のことの繰り返しであるがあるのです。信
仰では本当の危機で役に立つ、頼りになるのは、突然の何かの救出のマニュアルでな
いのです。いつもしていること、いつも祈っていること、いつも教えられていること
なのです。何故かここには、歴史の深い教えも入っているように思います。
 なぜなら、歴史において大きな事を為し遂げた方は、その人自身は、旧態依然の前
の出来事、習慣を守っている人々なのです。日本の明治維新を新しい日本とすれば、
その活動の原動力の一人は、なんと言っても西郷さんです。ところで西郷さんは、島
津の殿様をなんとか盛り上げ、支えたい感情を死ぬまでもっていた封建領主に報いた
い心を持つ方でした。又、近代世界観を、通常はコペルニクス的転換といわれる天動
説から、地動説を唱えたのは、望遠鏡を作り、天文学を淡々と研究するガリレオでし
た。ガリレオは全く、教会にもの申すために天文を観測して、地動説を唱えたのであ
りませんでした。当時のイタリアの一界の天文学者でひたすらその研究をしていただ
けなのです。ガリレオが研究すればするほど、地動説の方が、天文の事実に近かった
のです。そしてルターが宗教改革をして、教会改革をした時、そのルターはひたすら
聖書を研究するカトリックのアウグスチヌス会のただの田舎修道院の1修道僧でした。
ルターは、元々は教会を改革してカトリック教会からプロテスタント教会を造らない
といけないと全く思っておりませんでした。聖書を研究していくと、どうしても当時
のカトリック教会の制度や教えが、聖書と合わないと受けざるを得なかったのです。
彼は仕方なしなしカトリック教会から破門されて、仕方なしなしルター派教会を作ら
ざるを得なくなっていったのです。再洗礼派すなわちバプテストの先祖達が聖書から
もの申したとき、ルターは急進すぎるとして、なんと反対したのです。
 イエス様が、ゲッセマネの祈りに置いて、弟子達に示した教えは、イエス様の最初
から祈りの教え「私達を誘惑にあわせないでください」の繰り返しでありました。こ
の新しさが全くないその新しさが、本当の試練・誘惑において、力を発揮するのです。

 42節には、主イエス様の実際のゲッセマネの祈りの内容です。なんとここも又、新
しさは、ないのです。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし
私の願いではなく、御心のままになさってください」。これもまた聖書を読まれる方は、
これは主イエス様が教えられた主の祈りの第2番の教え「御心の天になるごとく、地
にも成させてください」だ、と気づかれると思います。弟子に教られた「試み・誘惑
にあわせないでください」と同じように、御心を求めるご自身の祈りもまた、最初に
教えられた主の祈りです。つまりいつもの祈りだったことになります。まさにそれは
「御心をなさってください」でした。
 祈りとは究極的に、主なる神様の御心が、祈る自分の心となることだ、言われます。
それは、神の全知全能の愛の故に、神の御心は必ずなるのですから、一番の祈りは自
分の思いが、神様の思いになり、一致することが最高の祈りの形になります。

 43、44節は、大括弧にいれてありますが、聖書の一番古いとされるシナイ写本とア
レキサンドリア写本には記載がない為です。しかし、イエス様の祈りの苦闘が良く伝
わります。実際にマルコ伝14章33節には「イエス様はひどく恐れてもだえ始められ
た」とあります。マルコ伝の状況をルカ伝が伝えるとすれば、まさしくこのように、
書かざるを得なかったと思います。祈りの時に、イエス様の汗は、血のしたたりのよ
うに地面に落ちたのです。この最後の祈りは、苦闘であり、闘いでありました。私達
は10年前でしたか、H姉が最初の手術を受けられる時に、連鎖祈祷を行いました。
教会員の方が自分の時間を繋いで、祈りを献げることをしました。さすがに夜の12時
から午前4時を担う方は在りませんでした。でも、昼は30分ないしある方は1時間の
ところに名前を入れてくださり、朝の4時から夜の12時まで祈りが繋がりました。
 私達は、イエス様が神の子として、十字架の罪の贖いの使命をもって、この世に来
られてそれを果たしていく姿を見ます。しかし同時にイエス様は人の子として、私達
の弱さを担われ、私達の弱さを理解される真の人です。ゲッセマネの祈りの姿は、ま
さしく神の御子と人の子が一致している姿です。真の神と真の人の一致です。43節の
天使が現れイエス様を力付けたのは、天使はマリヤの受胎告知に現れ、こうして十字
架の時に現れ、そして復活の時にも、ルカ伝24章4節に現れています。つまりイエス
様の誕生、十字架、復活の時に現れて、イエス様が神の子であることを証していると
言われます。

 45節にイエス様はどのくらい祈られたのか、時間は書いて在りません。弟子達は眠
っていたのですから数時間は経過したのだと思います。「祈りが終わって立ち上がられ
た」とあります。41節には、「跪き」とあるので、ここから立ち上がられたのです。
つまり祈りは、どこかで立ち上がり・決断が必要なのです。祈りには、いつまでも祈
ることもできるのと、ある時点で、いつ間でも祈る分けにはいかないのがあります。
祈りの示しはなくても、祈りは決断が求められる事があるのです。イエス様は、数時
間の祈りの内に、十字架の杯を取ることを決断されたようです。それは、もともと主
の使命として、決められていたことでありました。しかしもともと決められたことで
あっても、実際にそれをすることは、また違うことです。しかし決めたらそこに向か
って努力するしか在りません。
 自由は決める前にはありますが、決めたら自由は決めたことへの服従となります。
実はこうして、本当の自由のある人は、服従の出来る人であり、本当に服従出来ない
人は本当の自由を知らない人であります。人間には本当の自由があるのかどうかは、
大いに問題です。しかし、主イエス様は真の神さまのですから本当の自由を持たれて
おり、その自由から十字架の杯に決断されたのです。私達は、この時のゲッセマネの
祈りすなわちイエス様の愛の決断によって、救われるのです。私達の救いは必然では
なく、このイエス様の祈りの自由な答えでありました。恵みとはこのように、主イエ
ス様の祈りであり、主イエス様の恵みの決断であったのです。

 46節にあるように、ゲッセマネの祈りは、歴史の転換点のような祈り、全宇宙、全
世界の救いの係る祈りでした。しかし弟子達は寝ていたようです。人間とはそのよう
なものであり、人間の限界を示しています。本当に祈り支えないといけない時に祈れ
ず、祈らないのです。どうでも良いとき、そんな時はないかもですが、自分の思いを
通し、かかる時に主の御心に反してでも徹夜祈祷するものなのです。自分の思いは、
一生懸命祈り、支えるものなのです。しかしある意味、それでいいのでないかと思う
のです。なぜなら人間はそれしか出来ないからです。本当に大切な祈りは祈らず、ど
うでも良いときに血眼になって祈る。主はそれを知り、赦してくださるのです。
 しかし本当に祈らないといけないことが分かった時、祈りが恵みであり、恵みは祈
りであると了解されたとき、真の恵みの祈りが起こるのです。その時は、主イエス様
と共に祈りましょう。単なる言葉でなくて聖霊により、淡々と当たり前の祈り「誘惑
に陥らせず、御心をなしてください」と主の十字架の恵みで祈りましょう。

  祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。私達は受難節にあります。またこの時
期、多くの若い方は自分の進路を決める時にあります。どうか、主が道を示してくだ
さり、支えを置いてください。緊急の祈りは日常の祈りに支えられています。どうか、
日常の祈りを積ませて下さい。求道者の方には委ねる時を備えてください。バプテス
マクラスの竹下さん、支えてください。病気療養の・・・姉、支えてください。
ご高齢の方々の守りをおいてください。・・・兄・姉
を続けて支えてください。今週の子ども園、児童クラブの児童、先生、支援員の健康
と信仰を守ってください。教会員一人一人の信仰、魂、健康を支え、この1週間また
主のみ前に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」

    ルカによる福音書22章31〜34節       2018年3月11日
            「 信仰はなくならない 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 本日は、すでに新聞テレビが伝えるように、東北の大地震が起って7年目の日であ
ります。いろいろな見方ができますが、7年経って考えさせられるのは、自然の力の
すごさと地震は来るのだとして生活するという事でありましょう。今ちょうど新燃岳
が噴火していますが、火山の噴火も又繰り返されることを思って生きる事を示されま
す。そして自然の災害は、時間が経過するとなんとか対処しますが、原子力のように、
人間が自然に手を加えて勝手に作ったものは、これは被害が特別大きいことです。原
子力は確かに安い大きな電力を与えてくれますが、その代償は大きいです。今、熊本
地震の益城町の平田仮設に1ヶ月に一度訪問に行っています。仮設の方の話を聞く度
に復興には時間がかかりそうだというのは、確かにそう思います。

 また先週は、国有地を特別に安く払い下げた森友学園の文書を作られた近畿財務局
の方が自殺され、財務省の佐川長官が責任をとって辞任なさいました。例によってま
た下の実際に文書を作らされた方が自殺され、上の方はちゃんと生き残る構図です。
なんとかならないのかと思います。本当は作成を指示した方が悪いのですが、どうに
も成りません。神戸製鋼のように本来は上の人が責任をとって止めるのです。財務局
は、下の方が自殺されて、中間は辞任で、指示した上はのうのうと生き残りです。後
は、どうなるのかです。責任の取り方は本当に難しいことがあります。
 ハンナ・アレントは、ドイツのホロコースト・ユダヤ人殺害が起こった時、ヒトラ
ーが政権に付いた時、さっさかユダヤ人殺害を遂行する職をやめた人達を書いていま
す。日本では辞めるというのは、正しい責任の取り方でないとされます。しかしある
時には、それしかできないことがあります。あまりにも非人間的な扱いと酷い命令が
来る時、自分がつぶれないために、辞めるというのは、一つの方法だというのです。
自殺するよりは、逃げた方が絶対に良いと思われます。考えさせられます。
 さて、聖書は受難節にはいりました。イエス様の最後の1週間のその関連の聖書を
読んで行きたいと思います。調べて見ますと今年はルカ伝から受難週の箇所を聞く順
番になっていました。今日からイエス様の復活のイースターまで、今年は4月1日が
イースター復活日ですが、ルカ伝から4回ほど聞いていきます。

 本日はペテロの裏切りの予告といわれる所です。これもマタイ、マルコ、ルカ、ヨ
ハネと4つの福音書にすべて出てくる出来事です。特にペテロの裏切り予告の中でも、
ルカ伝はシモン・ペテロが裏切りが、サタンが神に願って赦されたとあります。これ
はルカ伝22章だけにでてくるところです。改めてまた今一度、ペテロの裏切り預言を
聞き直していきたいと思います。
 31節のまずこの裏切りの予告です。4つの福音書共にこのイエス様のペテロの裏切
り預言は、イエス様が最後の晩餐をなさっている時で、ゲッセマネ・オリーブ山の祈
りの直前ということになっています。弟子達との生前での最後の食事の場所で、イエ
ス様はこのシモン・ペテロの裏切りを話されたのです。ご自身が十字架に付けらえる
1日前の出来事でありました。書いてあるように、シモン・ペテロの裏切りの背後に、
サタン・悪魔の神様のへの願いがあったとあります。これは旧約聖書ヨブ記と一致し
ております。それは聖書の信仰では全てのことが、全知全能なる愛の神様の前に、起
こるということです。主なる神さまの許可の元に起こらないものは何もない。この世
の全ての出来事が主のみ手の中にあるのだ、という信仰です。
 それにしても、何故神様はサタンの願いを、赦し、受け容れられるのか。それは人
間には分かりません。旧約のヨブの時もそうです。ヨブは一生懸命主なる神に仕え、
無垢な二心のない信仰で主に仕えている。しかしまさにその人に、財産を無くし、子
供を亡くし、最後に自分は死の病が来る。試練・誘惑がやってくるのです。理由は分
かりません。書いてありません。ペテロもヨブも試練を受ける理由は、分からない。
しかしその中で、主に仕えていくことを、求められ、教えられるのです。
 私達は、弟子の筆頭であるシモン・ペテロもまた、サタンの誘惑を受けて歩むこと
を知らされるのです。サタンから試練を受けることを、神様に赦されて行く。まして
や私達もまた、誘惑と試練の中でこの世を歩むのであり、主の祈り「み心に合わせな
いでください」がやはり切実な祈りであることを知らされるのです。
 しかし32節があるのです。しかし主イエス様は、祈られるのです。ペテロは試練を
受けます。しかしその傍らに主の祈りがある。主は、サタンの試みの願いを許可した。
つまり主なる神様は、サタンより上位にあるのです。主なる神さまは、明らかにサタ
ン・悪魔より強いのです。しかし、その主がサタンの試みを赦し、そして神の御子は
試練に合うそのもののために祈られるのです。

 その祈りの内容は何であるのか。書いて在るとおり、ペテロの「信仰が無くならな
いように」とあります。主は、サタンの試みを赦し、そして試みに合う者が、信仰を
なくさないように祈られるのです。信仰が無くならないようにの原文の意味合いは「信
仰が失敗しない、信仰が死なない、信仰が止まらない」と訳すことができます。主は
信仰が無くならない、止まらない、失敗しない、死なないように祈られる。しかし、
私達はできることなら、そもそも試練・試みにあわせないでくださいと言いたいです。
試み・試練にあわなければ、信仰を失わずに済むのでないか。しかし主のみ心は、ペ
テロ・シモンが、試み・試練を受け、しかし信仰がなくならない、止まらないことで
あったのです。
 これはどういうことでありましょうか。私達はやはりここに自由を入れて良いのだ
と思います。信仰は、オートマチックでないのです。マニュアル車なのです。オート
マチックが便利なのですが、その時、失う者があるのです。機械マシンの自動車の場
合は、便利、便利でいいのです。しかし人間の場合は、便利がすべてよいとは限らな
い。オートマチックは、大きな代償を持っているのです。それは、人格の応答性です。
信仰は、試練があって試みがあって、この世では信仰になるのです。
 巻頭言に書きましたが、ひょんなことから、この前クセノフォーンの『ソクラテス
の思い出』という本を手に入れました。4巻というか4章だてになっているのです。
紀元前4世紀、BC380頃書かれたとあります。255円でした。日本は縄文時代から弥
生時代になる頃です。ソクラテスが殺されて10年くらいのころと言われます。
 この3章なのですが、あるアテナイの若者がソクラテスを尋ねて来ます。そして、
自分は政治家になりたいというのです。ソクラテスは、それは良い考えだ。若い時か
らそのような大志のあることは結構なことだね、とするのです。そして、ソクラテス
は、いつもの問答をするのです。ところで、君はアテナイをどんな国にしたいのか。
そのためにはどんな方法があるのか。アテナイがこれから立っていくには、隣のスパ
ルタと戦争しないと行けないかもしれない。アテナイの兵隊はどのくらい必要と思う
か。スパルタはどのくらいの兵隊でアテナイを攻めてくるだろうか。アテナイの産業
はどの方面を豊にし、どの方面に力をいれるべきか。アテナイの弱点はどこにあって、
それはどのようにして、是正したらいいのかと言うのです。この若者は、残念ながら
ソクラテスの質問に1つも答えられないのです。この若者は実は、自分が有名に成り
たい、名を挙げたいだけで、政治のこと外交のことを全く勉強しないで、アテナイの
政治家を目指していたのです。
 ソクラテスはこの若者に言うのです。あなたは自分の家に戻り、お父さんの手伝い
をして、まず自分の仕事に身をいれて、アテナイ一の仕事人になりなさい、それから
政治家に成るべきである。すごいですね。これが紀元前4世紀の日本の弥生時代の本
に言われているのです。イエス様の400年前なのです。これは教えとしては、全く現
代も同じではないでしょうか。今もまた、目指す方面の知識、その実力がないのに、
意見だけはいっぱしのことを言うのがあります。またその実力がないのに、その仕事
をなし、又させられるのは、実は空しいことであり、大変なことです。

 32節に、イエス様は「ペテロの為に祈ります」と言われた。全知全能の愛の神様な
ら祈らないで、いや祈ってのいいけど、試みを外したらいいのでないか。試みないで
用いるべきでないか。しかし違うのです。神様は、試みを備えて、その中で訓練、鍛
錬されて、そして又信仰に戻ってくるようにされるのです。私達は酷いとか、厳しす
ぎるとかいうかも知れません。
 しかしこのイエス様の教えにはきちんと恵みが入っているのです。それは気づかれ
ると思いますが「あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」という勧め
です。これは明らかに神様が、シモン・ペテロを立ち直らせますという約束のことで
す。ペテロはイエス様を裏切ってしまうのです。シモン・ペテロは確かにサタン、悪
魔の手の内に落ちるのです。大失敗をするのです。しかし裏切りの中からまた戻って
来て、弟子達を力づける、これは原文では「強くする」なのですが、強くすることが
赦されているのです。
 実はイエス様の出来事は、すっと読むとすっと終わるのですが、良く考えるとすご
い約束が時々置いてあります。この前の祈祷会は聖書マルコ伝14章3節のナルドの香
油をイエス様に注いだ女性のところでした。あれもまたイエス様の最後の1週間の出
来事です。あれも不思議なことに、今からイエス様は十字架に付けられて殺されてい
きます。この女の方がなした行為は、300デナリおそらく300~400万円の香油をイエ
ス様の頭に注ぎかけるのです。なんと勿体ないと弟子達は叱るのです。しかしその香
油はこの女性のものであり、弟子達のとやかくいうものでありません。その時、イエ
ス様はこの女のしたことは、私の葬りの備えであると受けられるのです。そしてこの
婦人は、世界中に伝えられると言われたのです。今から十字架に係り、殺される人が、
なぜ「この女性のしたことは世界に広まる」と言うのか。これはもう、復活の先取り
の預言になっています。
 「立ち直ったら弟子達を力付ける、強くしてあげなさい」。試み、試練にあうのです
が、しかし主は共にいて守り導き、また絶対に立ち直らせてくださるという約束なの
です。試練を受けるそして、受ける試練の中で、シモン・ペテロは、本当に弟子達を
力づける人になっていくのです。

 33,34節は、シモン・ペテロは、そのようなイエス様の言葉は耳に入りません。シ
モン・ペテロは、失敗し、主を裏切ってから、本当の弟子になっていくなどと言うま
どろっこしい訓練、行程は認めたくもないのです。「主よ、ご一緒なら、牢屋に入って
死んでも良いと覚悟しております。」この覚悟は、死ぬことは準備完了です、とも訳せ
ます。死んでも牢屋に入る覚悟と準備ができています。イエス様、全く心配しなくて
いいです。私の信仰は鉄の信仰、鋼の信仰なのです、イエス様に地獄の底までついて
行けますよ、と言うのです。
 「私に任せなさい、私は全てを知っています。私についてくれば大丈夫です」とい
う信仰があります。しかし「私は、全部は分かりません。私は間違っているかもしれ
ません」という信仰があります。どちらがいいのか。それは、表面上は、できれば「私
についてきなさい。私は全て分かっています。大丈夫です」と言うのがいいに決まっ
ています。しかしどうでしょうか。最後のことばは、真の神・イエス様しか言えない
とすれば、どうでしょうか。「実は私は、全部は分かりません。私は部分的にしか分か
りません。私は間違っているかもしれません。しかし、こちらに行くように主に示さ
れているのです。」こちらが本当の信仰かもしれないのです。私達は正しく聞くという
ことと、何でも聞くということの違い、熱心に雄弁に語ると言うことときちんと正し
く語ると言うことの違いを示されるのです。

 34節にシモン・ペテロは、イエス様から「あなたは今日、3回私を知らないという」
といわれます。ペテロは、イエス様と共に、死の覚悟、準備が出来ていますつもりで
した。しかしトンデモナイでした。身も心も一身同体、主イエス様の弟子の中の弟子、
主の僕の中の僕です、でないのです。イエス様が言われたのは「弟子の中の弟子、僕
の中の僕ということを拒絶します」というそういうすばらしい信仰の拒絶のことでな
い。ただ知っている事さえも、否認し、拒み、認めないよといわれのです。知ってい
る、これは、余りにも小さいことであります。私達は聞いたことあるだけで、それを
本当には知らなくても「知っている」と使ったりします。
 もちろん知るも又、深く知る、きちんと知る、ただ聞いたことがあるという知るも
あります。ここでは一番一般的な知るが使われており、聞いたことがあるの知ると取
ってもいいのです。シモン・ペテロは、聞いたことがあるの知るさえも否認し、拒絶
するとイエス様は言われるのです。つまりペテロは、イエス様のことを聞いたことも
なく、全く無関係というのです。本当に酷い、徹底した拒絶、否認でありました。
 しかし主はそれでもいいのです。そこからペテロを立ち上がらせるのです。ペテロ
はどうしても、この自分の力の確信、自分の信仰を潰されないといけなかったのです。
ペテロの自分の力による鉄の信仰、鋼の信仰は、一度完全に潰れないと、本当の恵み
の信仰、憐れみの信仰、十字架の信仰ができないのです。自分の弱さを見つめる信仰
と言い変えてもいいでしょう。弱さを持ちつつ、信仰は恵みであるという時、それは
無くならない信仰であり、隣人を励まし、力づける信仰になっているのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日は東北大地震から7年目の日です。
どうか続けて、復興をみ手においてください。手術の方、病気療養の方と続きます。
お守りください。3月はいよいよまとめの月です。次週は定期総会を致します。どう
か導き守り支えてください。・・・さんのバプテスマクラスに御手をおいてください。
続けて求道の方には、委ねる時、信じる時を備えてください。病気療養の・・・
姉、支えてください。ご高齢の方々の守りをおいてください。・・・、
を続けて支えてください。子ども園の今週の卒園式、児童クラブの
児童、先生、支援員の健康と信仰、魂を守ってください。1週間また主のみ前に歩ませ
てください。み名によって祈ります。アーメン」

  マルコによる福音書3章13〜19節       2018年3月4日
            「 呼び寄せられる 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 先週は、手術後に合わせたメガネが出来てきました。これでまず3ヶ月を使ってみ
て、先生によると3ヶ月後にはまた視力が変り、もう一度合わせてそれでずっと使う
メガネができるそうです。今はメガネが途中で2回ほど変えても料金が発生しない事
になっているようです。ますはこれで白内障の手術も一段落というところです。新し
いメガネに慣れるまで時間がかかるでしょうが、お祈りを感謝です。多くの方が「良
くなったのですか」と聞かれます。昼の運転はそう変わりませんが、夜の運転は今ま
でと比べて格段によく見えて安心で安全です。今までどのくらい見込み運転でしたい
たのかと思うとちょっと危なかったです。本当に目の中のレンズを交換するという、
こんなことをできるようになるとは、手術の技術の進歩は有り難いです。神様がこん
なことまで、人間ができるようにされて、ただただ感謝です。

 さて本日は、第1主日で礼拝の中で主の晩餐を受けます。いつものように第1主日
は、福音書から聞くと言うことで、マルコ伝3章から開いております。ここは12弟子、
12使徒とも言われますが、その選びの箇所になっています。使徒という特別な地位と
も言えるのですが、しかし同時に弟子としては私達も同じです。どのようにイエス様
が12使徒、12弟子を選んで、その目的は何であったのか、共に聞いて行きます。す
でに12弟子を選ばれる箇所は、共観福音書では、マタイ伝10章にルカ伝6章に平行
箇所があります。ほとんと同じですが、微妙にちがうところもあります。例えば、シ
モン・ペテロの次は、マタイ伝とルカ伝はアンデレですが、マルコ伝はヤコブ、ヨハ
ネになっています。17節にマルコ伝では、ヤコブとヨハネは、イエス様が雷の子とい
うニックネームをつけておられますが、マタイ伝とルカ伝はこれがありません。マタ
イ伝はバルトロマイの後に、トマスとありますが、マルコとルカ伝はマタイとなって
います。こういう弟子のリストの細かい違いを探っていくと面白いかもしれませんが、
今回は余り細かい違いでなくて、12弟子、12使徒のあり方に焦点を当てて聞いて行き
ましょう。

 まず、13節にあるように、主イエス様は「山に登って、これと思う人を、呼び寄せ
ると彼らは側に集まってきた」とあります。ここだけでも本当にすごいことだなと思
います。まず12弟子の任命、形成は、全く人間の思いでないことです。山に登るのは
旧約聖書時代から神様の顕現現れの場所です。モーセは十戒をシナイ・ホレブ山で受
けています。予言者エリヤが神様に出会うのもホレブ・シナイの山の中でありました。
マルコ伝では、主イエスさまはよく祈るために山に登られたのが伝えられます。具体
的に何と言う、どこの山かは分かりません。2章からの流れでいくガリラヤ湖畔で、
カファルナウムの近くの山となります。
 しかし問題は山の場所でなくて、弟子選びの原因です。ここでは、イエス様におび
ただしい群衆が押し寄せて来たから、それをうまく処理するためにとか、そろそろ弟
子達を組織化して、伝道を上手にきりもりしましょうとかでない。只只、主イエス様
が主導され、主イエス様が召され、選ばれたということです。主が呼ばれた。だから
弟子達は、主の側におれるのです。弟子達が我こそはイエス様の側で働きたいとか、
我こそはイエス様を助ける人間になるとか、私こそを弟子にしてくださいとか、そう
いう人間の主張や発案によっていないということです。ただただ主が呼ばれた、主が
召されたという事実しかないのです。たとい志願しても、主のお呼びと召しの事実が
ないと、弟子達はイエス様の近くにおれるのです。
 このことを、私達はよく覚えて良いと思います。13節には「これと思う人々」とあ
ります。この「これと思う」の原文は「主自身が、望まれ、意志された」人達という
意味です。私達がとにもかくにも、教会にいて、教会にある。これは主の召しがない
と無理なのです。イエス様の側に集まることは、主の召しと主の呼びかけなのです。
私達はよく理由がわかりませんが、私が信じて、私がバプテスマを受けて、私が教会
に連なれたということは、まず主の「これと思う人々を呼び寄せた」その中に入れら
れたということです。これを特に覚えたいです。
 すでにヨハネ伝15章16節にあることばを思い出されるでしょう。「あなた方が私を
選んだのでない。私があなた方を選んだ」という事実です。私達は「主よ、とんでも
ないです。私があなたを選び、信じ、受けいれ、バプテスマを受けました」と言うで
しょう。しかし主は「私が、あなたを選びました」と宣言してくださるのです。私達
は、召しのその出来事をただただ受けるのみです。救いは受けるのみなのです。
 ところで、この弟子の選びを読み分かるように、弟子達は選ばれた理由がないので
す。時々シモンはペテロと呼ばれた。ペテロとはケパで岩だからシモン・ペテロは岩
のような信仰をもっていた、とまことしやかに説明があります。とんでもないです。
福音書が書いている通り、ペテロは、主が十字架に付けられる晩にイエス様を裏切り
ました。イエス様が復活なさってもう一度弟子にしてくださった時も、また失敗して
います。ガラテア書2章11節です。パウロは「ケファ・シモン・ペテロが、アンティ
オケに来たとき、非難すべき事があったので、私は面と向かって、反対しました(昔
の口語訳は『なじった』)」とあります。ペテロはおおよそ岩のような信仰でなくて、
あっちふらふら、こっちふらふらの風船信仰だったのです。しかしそれでも弟子のま
とめ役をしたのです。私達は12弟子、使徒の任命を見るたびに、ただただ主の不思議
な選びと愛と恵みを知らされ、感謝するのみです。

 14節にある「使徒を任命し」ですが、原文は創世記1章1節にある、主が天地を創
造されたの「創造する」のギリシャ語が使われています。イエス様にとって12弟子の
任命は、天地創造と同じくらい重いのです。つまり私達がとにもかくにも、主の側に
いて、教会に繋がらせて頂き、信仰を持たされている。このことは、天地創造の業と
恵みに匹敵するのです。私達は自分していることが分かっていないのです。自分でい
つでも信仰は受けられ、自分でいつでも信仰は捨てられると思っております。しかし、
仮りに本当に主イエス様に繋がる信仰は、主なる神の天地創造の時の主の創造であり、
神様が造ってくださった信仰です。第1コリント12章3節「聖霊によらなければ、誰
も『イエスは主である』と言えない」は事実なのです。創造の主、聖霊が私達に臨み
降って、私達は「イエス様は主である」と言えるのです。つまり信仰が起こるのです。
ただただ、私たちは、主にみ業と愛と恵みに感謝して受けるのみなのです。
 ところで14節は、主イエス様がなぜ、弟子を選び、使徒を立てられたのかを語りま
す。その一番目の理由がふるっています。書いてある通りなのです。「彼らを側におく
ため」です。「え、そうだったっけ」なのです。なぜ、イエス様は信じるものを召され、
呼ばれるのか。天地創造の創造の力をもって、聖霊を送り、私達に主を信じる信仰を
与えられたのか。なんと「側に置く」ためだったのです。時々「私はもう何もできま
せん。もう体が動きません。もう働けません。年金生活です。若くはありません」と
いう方があります。全然全く心配ないのです。そもそもキリスト者になるのは、イエ
ス様の側にいるためにです。第一義的には、キリスト者は何かをする人でないのです。
第一義には何かをできる人でないのです。「働けない、動けない、献金できない。」そ
れで良いのです。第1の目的はただ主の側にある為です。主の側にいる為です。
 何で、側にいるだけ、側にあるだけなのか。次の目的、派遣するためです。派遣と
は何か。それはイエス様の証をすることです。ところでまず主イエス様の側にいない
と派遣は無理です。何故なら傍にいないと主イエス様を見られない、聞けない、体験
できないので証にならないのです。証とは、法廷用語ですが、自分が見たこと、自分
が聞いたこと、自分が体験したこと、それらを法廷で証言することです。裁判で、犯
人らしき方を見て、聞いて、体験した人は、本当にこの人が、あの人を殺すところ、
盗むところ、嘘付いたところを見ました、聞きましたというのです。それ以上はあり
ません。私は見た、私は聞いた、私は体験した、それだけです。「この人は犯人です」
というのは、言わなくてよろしいのです。それは、裁判官と弁護人が裁判して決める
のです。証人の証は自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証するのみです。
その為には、イエス様の側にいて、イエス様の近くにないと、イエス様を見て、聞い
て、体験して証する人、イエス様の証人になれないのです。
 イエス様が弟子を召し、自分の側に置かれる。それは、イエス様の証人となり、イ
エス様はこんな事をされた。こんなことを聞いた、こんなことを体験したと言うのみ
です。これが派遣です。ですから聞いてくれない、馬鹿にされた、相手にされなかっ
た。全然問題ありません。その責任は証人にありません。裁判した裁判官と弁護士に
あるのです。私は主の傍にいて、見る事、聞くこと、体験することを証言するのみで
す。このために傍に置かれて、派遣され、見たこと聞いたこと体験したことを語る、
宣教するのです。

 15節には主に召された弟子には、悪霊を追い出す権能が持たせてある、と言われま
す。そんなものがあるのかと思います。全く自分にはなさそうです。しかし主は悪霊
を追い出す権能、権威を持たせたと言われるのです。悪霊を追い出すどころか、悪霊
にまみれていますと言いたいです。しかし、主は悪霊を追い出す権能、権威、力を与
えたと言われるのです。これはおそらく私達の自分自身にはないのだと思います。む
しろ自分にはないということ知っているということだと思います。自分には何の力も
権能も権威もない。しかし力と権能と権威をもっている方を知っています。権能と力
と権威をもっている方がある。そしてそれが聖書に示されている。
 キリスト教伝道とは乞食が乞食に宝のありかを知らせるに似ていると言われます。
知らせる人自身が乞食です。知らせる人が、金持ちだったら信仰がいらない。実際に
金持ちだからです。しかし乞食がお金のありかを教える時、そこには相手は乞食です
ので、本当にそうかだろうかと疑いを超えて信じる信仰が必要です。ただ見て聞いて
いるだけでは分からない。信じて行ってみないと宝に行けない。しかし知らせる相手
は乞食です。乞食の言い分を信じるか信じないかを問われるのです。手術に似ている
かもです。どんなに良い情報を集めて、良いお医者と分かっていても、その先生から
手術を受けないと何も起こりません。手術の場合は症例が一杯あるから症例がものを
いうかもです。しかし自分が受けるには、おそらく信仰が必要かもです。この先生は、
自分の時も、前の症例と同じようにしてくださるという信仰が必要なのです。
 悪霊を追い出すとは、つまり罪と死の支配から、神と義の支配に移ることです。ど
うやって可能であるのか。その人が心から主イエス様を信じるしかありません。そし
て主は、自分が召した方、自分が呼んだものには、確実に悪霊すなわち罪と死の支配
からの解放をする力を与えているというのです。つまりこれは、伝える相手に、聖霊
が働いていて、何か分からん胡散臭い乞食であるが、嘘をつかない乞食のようだと分
からせてくださるのでありましょう。ですから伝えるに失敗しても、究極的には自分
の責任にしてはいけないのでありましょう。つまりイエス様の場合も、証人自身には
失敗はないのです。見たこと、聞いたこと、体験したことを証言するのみです。そし
て、裁判の失敗は、裁判官と弁護士がその責任を負うのです。

 16節からはそれぞれの共観福音書で多少の違いがありますが、12弟子の名前です。
全部取り上げる訳にいかないので、熱心党のシモンとイスカリオテのユダを考えてみ
ましょう。熱心党は、すでにご存じのとおりローマ帝国からのイスラエルの独立を武
力で成し遂げるという今のテロ集団のような思想を持っていた人です。そしてイスカ
リオテのユダはイエス様を裏切ります。イスがヘブル語で人と言う意味、カリオテは、
土地の名前とされます。カリオテの人:ユダとなります。この人たちもまた、懐に短
刀を隠し持ち、ローマの要人たちを殺して回るテロ集団とされます。
 しかしイエス様の弟子の中にはなんとマタイという徴税人の人、ローマの占領制度
の末端で働く人もいたのです。ですから究極的にイエス様の弟子はこの世の価値で言
うと絶対合わない人たちだったのです。つまり本当に弟子たちが胸を割って話せば、
けんかになる人々だったのです。しかし主は、この人たちを召され呼ばれたのです。
それは人間の価値を相対化する神の価値、イエス様の支配が、この世の価値の支配よ
り大きいからです。つまり弟子たちは、この世の価値を超えて、イエス様に集められ
たのです。私達でいうと罪の赦しの十字架に集められたことになります。私達もまた
自民党がいいという人、はやり共産党でないとだめだ、と言う人があると思います。
原発はこの先廃止と言う人、原発でないとやれないと言う方があると思います。今度
の平成天皇の交代もまた、最後までした方がいいと言う方、変わっていいと言う方、
そもそも天皇制はいらない、いや必要と分かれると思います。
 イエス様の弟子の構成をみると教会はそれでいいとなります。しかしそこに安住し
てはならないでしょう。日本の教会は、先の大戦に全く反対できず、ドイツでもヒト
ラーに反対した教会は少なかったのです。ユダヤ人600万人を見殺しにしていく教会
とは何だったのかです。主の十字架に結集し、主の十字架を証するために、私たちは
主の傍に召されて置かれたのです。主の傍にあることを、ただ感謝し、主の恵みと愛
に頼りつつ、歩み生きていくのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。先週は鹿児島教会に7年間奉仕くださっ
たH生が82歳で召天されました。ご家族に平安をおいてください。2月の歩みを
終わり、今日から3月の歩みです。手術の方、病気療養の方と続きます。お守りくだ
さい。2月は年度の報告と年度の計画、予算を立てて、新年度に備えます。3月はいよ
いよまとめの月です。どうか導き守り支えてください。竹下さんのバプテスマクラス
に御手をおいてください。続けて求道の方には、委ねる時、信じる時を備えてくださ
い。病気療養のH姉、支えてください。ご高齢の方々の守りをおいてください。・・・
・・・を続けて支えてください。子ども園の園児と卒園
式、児童クラブの児童、先生、支援員の健康と信仰、魂を守ってください。1週間また
主のみ前に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」

    マルコによる福音書11章1〜11節       2018年2月25日
         「 連れてきなさい 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 本日は、早いもので2月も最後の礼拝となりました。いつものように、本日の聖書
は、聖書教育誌が、本日学ぶ聖書の個所としているところです。全国のバプテスト教
会が学んでいる聖書の個所を、鹿児島教会も月に一度は聞いていきましょうという趣
旨でしております。1月の時もそうでしたが、2018年の最初の1,2,3月の3か月の学
びが、今回はマルコ伝になっております。マルコ伝は16章しかありませんが、書かれ
た年代は一番古く、イエス様のいろいろな伝承の一番原初的形が、伝えられていると
言われています。マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝共に、マルコ伝を参考にして、自分福
音書を書いたとされています。祈祷会に来られている方は、だぶって2回同じ個所を
聞くことになりますが、神の言葉は、同じ個所からまた違ったことが聞けることがあ
ります。何度も、聞いていきたいと思います。
 さて、本日のマルコ伝11章は、はあまりにも有名なイエス様のエルサレム入場です。
マルコ伝が伝えるエルサレム入場は、ここが初めてイエス様がエルサレムに来られて
います。これが最初で最後のように読めます。しかしヨハネ伝を読むとイエス様の最
後の十字架に付けられるエルサレム入場の前に、3回ほどイエス様はエルサレムに登
られています。
 ヨハネ伝では1回目が、ヨハネ伝2章13節に過越祭に登られております。この時ヨ
ハネ伝2章では、イエス様は宮清めすなわち両替人や献げものを売る人々を追い出し
ておられます。しかしマルコ伝ではエルサレム入場された次の日に宮清めをされてい
ます。おそらくイエス様は宮清めを一回目のエルサレム入場の最初にされたという伝
承とイエス様がエルサレム入場されたときに、最初にされたのは宮きよめであったと
いうのが、一緒になって伝えられたのでありましょう。
 2回目はヨハネ伝5章1節です。この時はエルサレム神殿のベトザタの池で、38年
間の病気の方を癒されています。ここではイエス様は癒しをなさるためにも、エルサ
レムに上られたことになります。3回目は、7章10節です。この時は、仮庵の祭りで
あったとされています。この3回目の時は、「かわいている者は誰でも私のところにき
なさい」という7章37節の教えがなされています。
 そして、最後のイエス様のエルサレム入場は、ヨハネ伝12章12節から最後21章
までです。この時、マルコ伝と同じように、イエス様はロバの子に乗って、エルサレ
ムに入場され、エルサレムの群衆はイエス様を歓迎したとなっています。有名な棕櫚
の葉をふって迎えたのは、ヨハネ伝12章のみでマタイ、マルコ、ルカは棕櫚の葉では
なかったように読めます、マルコは「野原から葉の付いた枝を切ってきた」としてい
ます。具体的には、エルサレムには、棕櫚の木が多くなかったらしく、群衆が全員棕
櫚の葉を持つ容易でないとされます。マタイ、マルコ、ルカの伝える、葉の付いた枝
で迎えたのでないかとされています。

 エルサレム入場は1〜6節までの子ロバに乗ることになったことの次第と7〜11節
の実際の入場行進の様子と2つの報告に別れています。まずイエス様がなぜロバの子
に乗るのかです。これは、何度も言われてきたように、ゼカリヤ9章9節にメシア・
キリストがエルサレムに入場する時は、「雌ロバのロバの子」に乗るとなっています。
さらにゼカリヤ14章4節には「その日、主はみ足をもって、エルサレムの東にある オ
リブ山の上に立たれる」とあります。ベトファゲとベタニアからつまりエルサレムの
東のオリブ山らエルサレムに向かう方、そしてロバの子に乗る方が、メシア・キリス
トであることを示しています。イエス様は、人々にこの預言に気づくようにされた、
せめて12弟子達には、ご自身が人の子、メシア・キリストとしてエルサレム入場する
ことを、ゼカリヤの予言によって、理解するようにされたと思われます。
 しかしマルコの伝えるエルサレム入場には、群衆の中からの信仰告白や弟子達のイ
エス様に対する信仰告白は全く言われておりません。イエス様はゼカリヤ預言9章と
14章に気づくように示されたのかもしれませんが、それに気づく人はなかったとなり
ます。つまりこれに気づいたのは、後からこうやって福音書を書いたマルコ、マタイ、
ルカたちであったとなります。私たちはこうして、後からあの出来事はこうだったか
と分かることがあります。その時は、その時起こっていることに対処するだけで手一
杯です。意味も分からずしているのです。しかしあとから、あのことは、こういう意
味だったのだと気づくのです。そして罪ある人間、限界のある人間はそれしかできな
いし、それでいいのでありましょう。あの時、神様はこれを伝えたかったのだ、その
時は分からなくても、後からでもマルコやほかの福音記者のように、気づければそれ
でいいだと思います。福音書になってから気づく。私達も過去に起こった出来事の意
味を、今頃になって分かる。分かった時にその所から又歩み出す、それでいいのだと
思います。
 ところで、ここでは不思議なことが起こっています。それはイエス様が向こうの村
にロバの子が繋いであることと、それを連れてくる時に「主がお入り用なのです」と
いえば許してくれるという不思議な出来事です。何か、仲間同士の合い言葉のような
言い方です。聖書解説書には、イエス様はヨハネ伝が先に述べたように、数回エルサ
レムに登られております。ベタニアには知人達があって最後の取決めをされており「主
がお入り用」と言う言葉を合い言葉にして、ロバの子を貸してくれる手はずが整って
いたというのもあります。どうでしょうか。

 又3節の「この主がお入り用」というのは、主なる神の主でなくて、この子ロバの
主人のことであるという取り方もあります。そうすると確かにつながりはよくなりま
す。「どうしてロバの子を解くのか」に対して、「このロバの主人が必要としている」
と言えば、誰だってロバの子を引いていくのを赦すはずです。
 しかし3つ目に、幾つかの解説書は、「行為預言」ということを言っております。イ
エス様はここでは言葉でなくて、出来事を通して、ご自身の身を明かしておられる。
イエス様のお言葉通りに、事がなることでちょうど自然への奇跡の出来事にように、
ご自身の人の子、神の子としての権威を示されていると言われています。イエス様は
十字架の前の最後のエルサレム入場において、最後のキリストのしるしをなさり、し
るしを置かれたのだというのです。私も、懇意になった人に最期の十字架のエルサレ
ム入場の時は、ロバの子を貸してくれという約束ができていたという取り方、又これ
は、ロバの子の主人のことだ、という取り方よりも、イエス様は、神の子としての力
で、ロバの子を準備され、それを最後のご自身のメシアの証とされたのだ、と取って
いいと思います。
 ロバの子を用いのは、ゼカリヤ9章9節の預言だけでなくて、人を乗せていない動
物を、聖なる事には用いるという信仰があったとも言われています。そしてさらにこ
れもよく言われることですが、イエス様はローマ帝国であれば、当然であった王や権
威ある者が乗る軍馬を使われなかったことです。ゼカリヤの預言ですが、同時にこれ
はイエス様が平和の王であり、謙遜な王である事を示すのです。実はゼカリヤの預言
も、ロバの子に乗るのはゼカリヤ9章9節に「高ぶることがなく、ロバに乗ってくる」
というしるしであるとしています。
 イエス様は、軍馬でなくて子ロバに乗ることでゼカリヤ14章10節のメシアである。
これが聖書本来の王であり、メシア・キリストの姿であるということは、大きいと思
います。軍馬と子ロバの違いは余りにも鮮明です。子ロバは多分よろよろしながら運
んだでしょう。子ロバのイエス様の運搬には、全くそこにはさっそうとした速さや恐
れや威厳のようなものは感じられなかったでしょう。むしろ心配やイエス様は落とさ
れないのかというハラハラどきどきがあったと思います。
 そしてゼカリヤの預言の成就以上に、この子ロバの徴用は、神様が、誰を又何を、
用いるのかをずっと示してきました。キリスト教会は、この時以来、子ロバに自分を
重ねて、主を運ぶ働きを見てきたのです。主なる神様は、いつも力ある者、知恵のあ
るものでなくて、初めてもの、体験の無い者、知恵のない物を用いられる。本来、体
験や経験はもちろん大事なのです。しかしイエス様は、経験、体験、知恵や知識以上
に、小さき者を用いるのです。マタイ伝11章25節「天地の主である父よ、あなたを
褒めたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い物には隠して、幼子のようなもの
には示してくださいました」とあります。またパウロは、第1コリント1章18節に「十
字架の言葉は滅んで行くものにとっては愚かですが、私達救われるものには神の力で
す。19節「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さかを意味のないものとする」
とあります。
 ある解説書には、本来ならこれだけの群衆が動員され、人々が木の枝を振って迎え
ていたら、ユダヤ当局やローマのエルサレム警護隊が、なぜすぐに取り押さえにこな
いのかと書いています。イエス様前の外典のマカベヤ書の乱の時は、同じように行進
して、すぐにローマ兵に取り押えられ、捕まった人もあったようです。しかしこの子
ロバに乗ったことが、予言を知らないローマ兵には、余りの幼稚さと稚拙さ、滑稽さ
に、ユダヤ当局もローマのエルサレム警護隊も、逮捕するに価しないとしたのでない
かという説もあります。つまり、幼稚さ、素朴さ、こっけいさが、用いられたのです。
帰って神様の予言を成就したのです。神のしるしとなったということです。新来者と
いうか、バプテスマを受けて新しい方が、返ってよく用いられる。事情をよく知らな
いが故に新しい思いや信仰や態度を示してくださるというのは、よくあることです。
子ロバを用いるイエス様は、どこか物知りの専門家になってしまい、すでに多くのこ
とを知ってしまって、主のために何もしない私達への警告かも知れません。

 次に7節からは実際の入場行進の姿です。多くの人が自分の服を道に敷いたとあり
ます。旧約聖書列王記下9章13節には、予言者エリシャ時代に、王妃イゼベルとその
王アハブを打つために予言者エリシャによって立てられた王イエフがいます。この王
が王とされた時にも、同じように群衆・人々が服を脱いでイエフ王の足元においたと
あります。今でも偉い人というか政府の貴賓が来られた時には、飛行機からおりる時
に赤い絨毯がひかれますが、あれと同じでしょう。人々は、何か、ロバの子に乗った
人を囃し立てているこの滑稽や集団に、何かを感じたのでしょうか。イエス様として
は、これは最後のエルサレム入場であり、十字架を目に前において、主の与えられる
盃を受けるための入場でした。ここには、どこかに滑稽さだけでなく、本当の真剣さ
があったのだと思います。全人類の罪を贖う大きな仕事の前触れでもあったのです。
人々が上着を脱ぎ、服を道に敷いて迎えるに値する入場であったのは、確かなのです。

 次に、9節の人々のホサナの歓声ですが、これは日本語でいうと「万歳」と言う喜
びの声だとする説があります。しかしこのホサナは、救いを求める声であり、王を歓
迎するのとは違うという2つの説に分かれています。引用は詩編118編25節とされま
す。そこをみると「祝福あれ」とホサナが訳されています。しかし、同じホサナが、
第2サムエル14章4節のダビデ王への呼びかけの時、第2列王6章26節の予言者エ
リシャの時は、同じ原文のホサナが、「助けてください」と訳されています。
 ですから、ホザナは、「祝福あれ」と「助けてくれ」と2つに取られる意味があった
ようです。マルコ伝の行進の流れでは、万歳の意味が多いように思えます。しかし、
その中に「助けてくれ」があるのは覚えていていいのではと思います。イエス様は、
力ある王、ローマの支配からイスラエルを回復してくださる王として歓迎されていま
す。しかし同時にホサナには、魂の救いを求め、罪からの救いを求める意味も入って
いるのです。イエス様はある意味で政治的な救いと宗教的な救いが重なっている方と
して、ここでも示されているようです。9節「主の名によって来る方」には魂の救い
のメシア、10節「父ダビデの来るべき国」には、政治的なメシアの姿で2つ言われて
います。イエス様が来られたとき、本当の姿はなかなか見分けが付かなかっただろう
と思います。12弟子達もイエス様のキリストの姿を間違えていたことは頷けます。つ
まり魂の救いは、体の救いを伴っており、体の救いはまた魂の救いと重なるところが
あるのです。救いにおける魂と体の完全な分離は、ヤコブ書2章16節のいう偽物の信
仰つまり「言うだけで体に必要なものを何一つあたえないなら、何の役にたつか」の
信仰となります。信仰によって真実の救いの姿を、受け止めることが問われるのです。
魂と体が分離せず、魂だけ、体だけにならない姿です。「人はパンだけで生きられない」
姿が問われます。

 11節は、しかしそれでもイエス様は、12弟子を連れてベタニアに行かれました。弟
子たちは主への本来の理解が届かないですが、それでも、イエス様に連れられて、共
に行動しています。エルサレム入場は、主と共にあることが、弟子の姿であることを
示しているのでしょう。これからゲッセマネの祈り、イエス様の逮捕と弟子たちの試
練の時がやってきます。しかしその行動の規範は、主に連れられること、主と共にあ
るのか、のようです。人から理解されてなくても、人から馬鹿にされても、なお主と
共にある。私達も時として、イエス様のみ心を間違えるのかもしれません。しかしい
つも共にいてくださるイエス様と共にあること求める。イエス様に共に一致して歩き
出すことを、このエルサレムの行進は、教えていると示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。・・・治療を感謝です。ま
た先週は、・・・の手術も無事終わり感謝です。治療は続きますが守りを置いてくだ
さい。2月は年度の報告と年度の計画、予算を立てて、新年度に備えます。どうか導き
守り、支えてください。・・・さんのバプテスマクラスに御手をおいてください。続け
て求道の方には、委ねる時、信じる時を備えてください。病気療養の・・姉、支えて
ください。ご高齢の方々の守りをおいてください。・・・兄、
姉を続けて支えてください。子ども園、児童クラブの園児、児童、先生、支援員の健
康と信仰、魂を守ってください。1週間また主のみ前に歩ませてください。み名によっ
て祈ります。アーメン」


  哀歌1章18〜20節            2018年2月18日
         「 主よ、この苦しみを 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、主に礼拝ができますことを心から主に感謝いた
します。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を
導く御言葉を聞いてまいります。
 巻頭言に書きましたが、3週間の休みというか、2月1日から2回続けて礼拝説教
と祈祷会の話を休ませて頂きました。その間、説教に来てくださった先生、祈祷会を
してくださった兄弟姉妹はもちろんですが、その他多くの方にお世話になりました。
本当に有り難うございます。まだメガネの調整が悪くて、皆さんの顔がよくみえませ
んが、遠くを見るのと近くをみるのは、前よりも遙かによくみえるようになりました。
問題は、本日のように遠くをみて、近くも見るときの想定がわるく、メガネの調整を
もう一度していきます。
 それにしても今回は、白内障は手術の内に入らないという方もありますが、2週間、
お風呂に入るな、顔を洗うな、目にゴミや埃を入れるなには困りました。私のお風呂
はカラスの行水に近いのですが、それでも寝る前にお風呂に入って、暖まって寝るの
が唯一の楽しみでありました。お風呂で暖まって寝るのが好きな者が、はいれないと
なると実際に全く寝つけず眠れませんでした。何が一番辛かったかと言うと手術の時
の緊張感つまり麻酔が係ったとはいえ、メスが体に入る時の感覚の変な痛さの緊張が
あります。しかしそれ以上に、お風呂にはいれない、顔を洗えないのが、つらかった
です。そしてこれは病院によって違うそうですが、手術から4日間は短い点滴があり
ました。上手な看護婦さんは一瞬の間にさしますが、そうでない方は、時間がかかり、
2箇所も痣ができました。これも痛い体験でした。
 後、不思議なことに白内障は私の時は最初7人、2回目は6人で一緒に並んで受け
るのです。メル友ならぬ、手術友ができました。手術の後の2週間に渡る検査と点滴
はこのうち2人が私といつも一緒の時間帯なのです。あの時は痛かった、この時はど
うだったと検査や診断まで、同じ体験をしたもの同士の連帯があるのです。一人の方
は手術室から出るときに迎えに来ていたご主人に「あなたこの人と一緒に受けたのよ」
と言われてました。全然身も知らない方がですが、不思議にずっと前から友達だった
ような気がしました。これは不思議な体験ですね。これから先、暫く1週間毎、次が
2週間毎、最後は3ヶ月毎の通院になって、おしまいになるらしいです。この度は本
当に支えと祈りを感謝致します。

 さて本日の聖書は、第3週ですのでいつものように、旧約聖書から聞いて行きます。
1月にエレミヤ書52章で最後でありました。そのまま続けて哀歌から聞いて行きます。
哀歌はまず多くの方が、ほとんど読まれないと思います。哀歌は日本風にいうとお葬
式の歌となります。お葬式の歌が好きですとか、よく読むのですというは、よほどの
人でない限りありえないと思います。哀歌は従って、教会で読むか、何か聖書日課の
ようなものがあって、それで強制されて読むとかそういう事であろうと思います。反
対からいうとこうしてエレミヤ書の順番に読むことになったことは、いいことかも知
れません。
 哀歌についてまず知って置くべきことは、キリスト教会では、エレミヤが書いたで
あろうという伝承があることです。これは歴代誌下35章25節にエレミヤは哀歌を作
ったとあるからです。しかし歴代誌の言う哀歌は、ヨシア王が死んだ時となって、哀
歌が前提としているバビロン捕囚の後の時代と合わないのです。
 そしてユダヤ教の伝承では、哀歌は諸書に入っており、詩編、箴言、ルツ記、雅歌、
コヘレト(伝道の書)、哀歌、ダニエルとなっています。従って、ユダヤ教では哀歌は
エレミヤが書いたとなっていません。また哀歌の名前ですが、ユダヤ教では、最初の
言葉でその書を呼びます。ヘブル語聖書では哀歌1章1節の初め「なにゆえ」(原文で
はエーカーと発音するのですが)、「なにゆえ」の書となります。実は前の1955年訳を
持っている方は、哀歌1章1節は「ああ」となっていたこことを覚えておられると思
います。実はこれは1章、2章、4章の1節が「ああ」となって始まっているのです。
ですから哀歌は、ユダヤ教の人にとっては、語感としては、「なにゆえ」の書、又は「あ
あ」の書となります。
 ですから、あまりにも理不尽な扱いを受けた、あまりにも理不尽に亡くなって行か
れた、余りにも理不尽に、理由無く扱われた、馬鹿にされた。この時人はおそらく哀
歌を共感して読める位置にある。反対からいうと「哀歌はちっとも面白くないですね」
と私達が言ったり、成ったりの場合は、その人が本当に貧乏であり、ある程度お金を
持っているにせよ、幸せな生活を送られている事になります。そう言うことも言える
かと思います。聖書は、実は私達が「面白い、面白くない」を判断する前に、聖書か
ら私たちが、判断されているとは、本当だと思います。
 しかし哀歌は、実は確かに「なにゆえ」の書であり、「ああ」の書であるのですが、
実は、そのまま感情や思いが語れているのではありません。読まれた方は、気づかれ
たと思いますが、1,2,4,5章はちょうど22節になっており、3章は、22×3の66節に
なっています。実は哀歌はきちんと韻を踏み、完全なイロハ歌つまりヘブライ語22文
字の最初の文字アレフから初めて、最後のタウまできちんと合わせてあるのです。旧
約聖書にイロハ歌は8つあるとされていますが、哀歌は実は旧約聖書中、もっとも文
学的な技巧がほどこされた歌になっています。
 つまり「なにゆえ、ああ」という名の書物で理不尽の感情と思いをぶちまける書な
のですが、同時に最高の文学的な技巧をほどこした書である。これもまた私達は聖書
の信仰を考えさせられます。つまり本当の理不尽の思いをぶちまける時は、理性の制
御、理性の言葉に合わせて語ると言うことです。反対から言うとただぶちまけても、
相手に伝わらないのです。前置きが長くなりました。今日初めて哀歌にはいるという
ことでお許し下さい。

 早速18節から入ります。哀歌は、イスラエルがバビロンから攻撃され、完全にその
エルサレム神殿を破壊され、自国を失ったそのことを歌った歌です。今では神殿を失
い、国を失ってもどのくらいの人が悲しみ、苦しむのでしょうか。そんなことより、
自分に金がない、自分の財産がなくなった。夫や妻とうまくいかない、自分の子供が
大変である。そちらの方がもっと深刻だ。いやいや実は自分の会社は潰れそうなので
す。いや一生懸命、仕事をしていますが、自分の仕事が職場で全く理解されないので
す。こちらの方がもっと問題かもしれません。恐らく聖書を読むということは、哀歌
の詩人自身はイスラエル国とエルサレム神殿の滅びを問題にしています。しかし詩人
のこの苦難は、ある意味今の時代に類比させますと夫婦仲が今一です、子供が大変で
す、離婚です、お金がないです等の問題や課題、そして仕事が危うい問題と自分自身
に振り替えて読むと言うことだ、と思います。そうしないと余り聖書を読むことの意
味がないです。
 18節には突然と言っていいですが「主は正しい」と出てきます。つまりこれは自分
に起こる全てのことが、聖書では神様の許し成しに起こりません。つまり「主のなさ
ることを受け止めます」と言う宣言になります。国は破壊され、心の拠り所の神殿は
瓦礫になった。しかし主は自分に不義をしていない。主のなさることはやはり義とし
か言いようがない。自分に起こった不幸、苦しみ全てを、主がなされ、そしてそれを
義として受けますということです。そして続けて、詩人は「私が主の口に背いた」と
いいます。哀歌の詩人は、国が潰され、神殿がバビロンに破壊されたことを、正しい
と受け止め、それは自分が主の口、主の言葉に背いたからだというのです。
 具体的に18節「聞け、諸国の民よ、見よ、私の痛みを、私の乙女も、若者も捕らえ
られ、引かれていった」これはエルサレムを擬人化して語ったと言われています。し
かしこの詩人自身、自分の娘、息子が連行されて行った、娘は犯され、息子は殺され
たと受けて問題ないと思います。ヨブ記と似ていますが、10人の子供が皆殺されたよ
うに、哀歌のこの詩人もまたバビロン捕囚において、自分の娘と息子、子供達を亡く
したのです。しかしそのことを、この詩人は「私が主の口に背いた、私が主の言葉に
従わなかった」とするのです。
 今では考えにくいです。イスラエルとバビロンとに戦争が起こった。完全負けて、
国は滅び、心に頼んだ主の神殿は瓦礫の山となった。その時に「私が主の言葉に背い
た」という人がどのくらいいるでしょうか。そもそも国の滅びを自分の責任として受
けるのはあるのでしょうか。いや受ける前に、正しいのでしょうか。いや会社や仕事
が自分の責任がなくて無くなり、潰れた時、倒産した時、果たして自分が悪かったと
言う人が何人いるでしょうか。これは明らかに社長が駄目だった、その時の指導体制
が悪かった、NPOで言えば理事長、理事達が悪かったとなるのです。そもそもそれを
王様でも貴族でもない政治の責任を取れない一イスラエルの詩人が、「私が主に背い
た」と言えるのか。これは無理な話です。第2次対戦の反省の時「一億操懺悔」とい
う言葉が言われました。全員が悪い。これは明らかに、誰も悪くないの裏返しです。
私は日本の歯車の一つであった、責任はない、ということです。社会の歯車に戦争を
止めることも、反対することもできる分けがない、と言うことです。しかしこの人は
いうのです。「私が主の口に背いた」。この詩人は誇大妄想でしょうか。自分の責任に
ないことを自分の責任としてしまう人でありましょうか。

 19節には、この人の行動が書かれています。この詩人は、ただイスラエルの歯車と
して、自分の務めを果たしていただけでないようです。「私は愛した人々に呼び掛けた」
と言っています。この「愛した人々」ですが、哀歌1章2節の「彼女を愛した人」の
言葉と同じです。親しい人、特別な関係にある人です。この哀歌の詩人は、とにかく
自分の最も親しい人から隣人から力一杯呼びかけたようです。
 ここでこの詩人を、もしエレミヤに重ねると確かにエレミヤは、神殿に行って、通
りを行く人に何度も「神に悔い改めよ」と呼びかけました。エレミヤ13章では、ぼろ
ぼろになった帯を締めて、ある意味で奇抜な服装をして、人々に神の言葉を語りまし
た。「お前たちはこのぼろの帯のようになる。」またエレミヤ19章では、陶器をもって
神殿の庭にばらばらにぶちまけ「お前たちは悔い改めないとこの陶器のようにばらば
らになる」としたのです。エレミヤ20章では、祭司パシュフルに語りました。エレミ
ヤ26章では予言者ウリヤに語りました。エレミヤ28章は、予言者ハナンヤに呼びか
けました。「今は平安を予言してはならない。平和を予言する者は、その言葉の成就す
るとき、初めて主が使わされた預言者と分かる」。エレミヤは、今は悔い改めの時、今
は、主に立ち返る時だとしたのです。 
 すでに何度も語ってきましたが、エレミヤは本来、主にある「安全、平和、平安」
を語りたかったと思います。しかしバビロン捕囚の前夜はそういう時代でないのです。
ヨアキン王は、バビロンが攻めてきそうになると主なる神に頼むのでなくて、エジプ
トの力を頼みとしました。ゼデキデ王もまた、自分がバビロンに立てられた傀儡政権
なのに、自分を立てたバビロンを裏切り、エジプトを頼ります。主の真実にひたすら
頼み、主の導きを信じて、歩むことをしないのです。自分を立ててくれたバビロンへ
の誠実もないのです。軍事力のバランスと自分の政権をいかに維持するかしか頭にな
いのです。いかに自分の政権を上手に運営するのか。いかに政治をうまく渡るのか、
のみなのです。主への信仰をどう生きるのか。自分の魂をどうするのか。神の前にど
う歩むのか。全くエルサレムの人々は眼中になかったのです。戦車の数を増やす。軍
馬の数を増やす。軍隊の力の増強に頼り、バビロンとエジプトを比べて、強い方に付
く、そういう生き方しかないのです。自分の信仰、自分の魂を正しく、主なる神に向
ける、配慮するというがありませんでした。主にあっての自分の使命に生きる信仰な
ど、頭の片隅にもありません。自分の仕事を御言葉によって遂行するがありません。
神様に与えられた自分の務めに生きるの考え方は全くないのです。エレミヤは、その
時は「平安、安心、平和」を語れないのです。ただ「主に立ち返れ、主に向かって生
きよ」としか言えないのです。

 20節。哀歌は「ご覧ください、主よ、この苦しみよ」と語り、又も「私は背きに背
いた」と語ります。「自分は悪くない。自分は何も悪いことをしていない、自分は歯車
の一部で責任が取れませんでした」でない。エレミヤこそが、一番神様に従い、神様
に向かい、自分の魂を主に向けて、人々に主の言葉を語り、警告し続けた予言者でし
た。しかしその人が、この人が、自分が一番「私は背きに背いた」というのです。こ
れはいったいどういうことでしょうか。
 2つのことを示されます。罪の告白とは、実は責任を取る生き方ということです。私
は全然悪くないと言う以上、けっしてそこからの新しい出発がないのです。まずは私
が悪かった、足りなかったというところから、すべてが始まるのです。反対からいう
と罪の赦しがないと再出発がないのです。2つ目は、責任は集団の帰属意識からきます。
帰属意識を断ち切る一番はその組織を離れることです。しかしパウロは「あなた方は
罪に仕える奴隷になって死に至るか、神に従順に仕える奴隷になって義に至るか」ロ
ーマ6章16節としました。つまり人間は、一つの帰属を離れると知らないうちに違っ
た別の帰属にはいるのです。問題は、私たちは罪の奴隷か、義の奴隷かしかないとい
うことです。一つから離れてもまた次の帰属に取り込まれるだけである。そうなると
私たちは改めて、主に仕えることがいかに大きな恵みかを、知らされます。
 主は十字架において、恵みの支配を確立し示してくださっています。罪と死の支配
でなくて、恵みと義の支配の中で、自由をもって、仕えていくことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。2週間にわたる白内障の治療をしました。
多くの方の支えにより、終わりました。ただただ感謝しかありません。2月は年度の報
告と年度の計画をして、新年度に備えます。どうか導き守り、支えてください。続け
て求道の方には、委ねる時、信じる時を備えてください。病気療養の・・・
支えてください。ご高齢の一人暮らしの方を続けて支えてください。教会員一人一人、
子ども園、児童クラブの園児、児童、先生、支援員の健康と信仰、魂を守ってくださ
い。1週間また主のみ前に歩ませてください。み名によって祈ります。アーメン」

 2月4日は、テモテ・ボード先生に
 2月11日は、麦野賦先生の説教でした。

  マルコ伝4章35〜41節            2018年1月28日
            「 なぜ怖がるのか 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 本日は2ヶ月ぶりに弟4週の聖書を、バプテスト連盟が出しております『聖書教育』
の聖書から聞いて行きます。いつものように、日本全国のバプテスト教会が聞いてい
る聖書の箇所から聞くことは、大切かと思うからです。聖書教育では1〜3月の学びを
マルコ伝としており、本日はマルコ伝4章35節から41節の「突風を静めるイエス様」
というところです。ここは典型的な奇跡伝承のところです。イエス様は様々な奇跡を
されましたが、聖書学者達は、奇跡を分類して、人間に対する奇跡と自然に対する奇
跡と分けております。そして人間に対する奇跡は、さらに悪霊追放と病気の癒しの2
つの奇跡に分けて考えております。嵐を静める奇跡は、自然に対する奇跡であり典型
的な自然奇跡と言われています。
 すでに聖書を読まれる方は、病気の癒しもそうですが、自然に対する奇跡は、特に、
イエス様が神の子である権威を示すことに強調がある事に気付かれると思います。こ
の嵐を静めるイエス様の姿もまた、39節の吹いてくる風に対して「黙れ、静まれ」と
いう言葉に段々と収斂していくような出来事でありました。もちろん中心はそういう
ことですが、奇跡は又いろいろなことを、周辺において教え、又もっております。本
日は示されたところで聞いていきます。

 まず35節に、その日の夕方になって、「向こう岸に渡ろう」と言われました。夕方
になっているのに新しいことをされるというのも、弟子達にしてみれば困ったと思い
ます。もうすぐ今日の働きも終わるぞと準備しかかっているのに、向こう岸に行くと
いうのはどういうことかと成るわけです。
 イエス様が、あえて向こう岸に行かれる理由は、ここには書いてありません。読む
私達がいろいろと想像していくしかありません。しかし、聖書は書いていないことは、
知らないとして聞く事と、書いてないことをいろいろ想像して聞く事と2つともあり
と思います。書いてないことは知らなくてもいいことだも正しいですし、書いてない
ことを自分に与えられた課題として、自分の体験からいろいろ想像して、そこに御言
葉を受けていくのもまた一つの読み方です。しかし書いてないことを読むときには、
やはり限界を知っておくのも必要です。それは、自分がそう思うということです。

 36節には「群衆を後に残し」とあるので、向こう岸に行く1つの理由は、群衆が押
し迫り、イエス様は弟子達を休ませようとされたのかも知れません。マルコ伝6章31
節には、イエス様が「さあ、あなた方だけで人里離れた所に行って、暫く休むがよい」
と言われたことがありました。イエス様は馬車馬にように働くことをよしとされませ
ん。主なる神さまは、7日目に一度の安息日をおいた方でした。休むことは、ただの
中止、休憩でないのです。神の命令として、創造を省みるつまり自分の歩みを省みる
休みは、神様の正しい業なのです。
 もう一つは5章でわかりますが、イエス様一行は向こう岸に着くと、悪霊に付かれ
たゲラサ人を癒されています。豚を飼っていたとあるので、完全に異邦人です。イエ
ス様は、あえてこの異邦人ゲラサ人の悪霊を追い出すために行かれたとも読めます。
 しかしまた、マルコ伝1章35節には、ペテロと仲間が、イエス様を見付けて「みん
ながあなたを捜しています」というとイエス様は「近くの他の町や村へいこう。そこ
でも、私は宣教する」と言われたことがありました。イエス様が「向こう岸に行こう」
とされたのは、次なる宣教・伝道の歩みだったのかも知れません。4章のイエス様が
一体どこにおられたのかは、よく分かりません。しかしイエス様のガリラヤ初期の伝
道はガリラヤ湖の北西沿岸であるカファルナウムを中心とされていました。従って、
カファルナウムの向こう岸とは、ガリラヤ湖の地図では、デカポリスとされるガダラ
地方です。ここには5章にもありますが、異邦人達が多かったとされます。
 つまりイエス様は第一義的には、イスラエルの救いの為に来られたのです。しかし
4章ではすでに異邦人のことを心に留めておられたのかも知れません。ともかく、イ
エス様は弟子達と共に、夕方でしたが「イエス様を船に乗せたままこぎ出した」ので
す。新しことへの挑戦です。しかもそれは、弟子達が勝手に考え出したのでもなく、
成り行きでそうなったのでもなく、イエス様の言葉、イエス様の主動でした。イエス
様の言葉で、向こう岸に渡ることになったのです。

 37節をみますとしかし、その時「激しい突風が起こり、船は波をかぶり、水浸しに
なるほどであった」とあります。イエス様の言葉に従い、イエス様のみ心をであるこ
とが分かっている。しかしそこに突風が起こるのです。イエス様の言葉に従っている、
イエス様のみ心を行っている。しかしそこに、苦難が待ちかまえているのです。この
とき私達はどうするのか、どうなるのか。弟子達は、私達の代表として、このような
問いに立っていると言っていいでしょう。
 37節にあるように、ガリラヤ湖の突然の「突風」は回りを山で囲まれ、盆地のよう
になっているガリラヤ湖ではよくある、山おろしという風の吹き方だそうです。イエ
ス様の弟子のうち主要な弟子4人は、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネでした。こ
れらの4人の弟子はガリラヤ湖の漁師でした。プロの漁師でしたので、ガリラヤ湖の
事はよく知っており、その突風への対策もよく知っていたと思います。しかし、この
時はどうも自分たちの体験や自分たちが今までしてきた方法ではどうにもならかった
ようです。船は水をかぶり、水浸しになりそうでした。
 旧約聖書では、海というのは、神様とは別の支配があるとの信仰が時々出てきます。
本来創世記の天地創造では、海も山も全てを創造されたのが主なる神です。したがっ
て、海もまた神様のみ手にあるのです。しかし、現実には海は余りにも、人間の力及
びませんので、旧約の創造信仰があるにも関わらず、海は別の神様やサタン・悪魔が
支配しているとの信仰がずっとありました。したがって、反対からいうと海を治める、
海を支配するというのは、真の神様ということになるのです。

 38節にあるように、弟子達が悪戦苦闘している中で、イエス様は船の後の方で寝て
おられました。新しい計画や新しい挑戦をして見る。しかし結果は全く見えてこない。
現れない。現れないどころか、失敗寸前である。神様の力も補助も全くあるとは思え
ない。この計画は神様からの計画であり、一生懸命祈った計画であった。しかしその
状況はかんばしくないのです。
 私達は聖書に多くのこのような例を見いだすことができます。一番はなんと行って
もモーセの出エジプトです。主なる神さまは、イスラエルを奴隷の民から自由な民と
して、エジプトから出発して、約束の地・カナン地に行かせると約束して下さいまし
た。しかしモーセがエジプト王ファラオと交渉するとファラオはイスラエルの民を、
出発させてくれないのです。私達はなぜ、神様はモーセに行かせると良いながら、フ
ァラオの心を頑なにして、去らせないのかさっぱり理解ができません。しかし、聖書
では、どうもそう言うことがでてきます。
 ヨブ記のヨブの生涯もしかりです。ダビデ王の生涯もしかりです。神様に愛されて、
神様に従って、確かに悪いことをしますが、きちんと悔い改めて歩みます。しかしな
かなかその恵み、祝福が見えないのです。イスラエルの歴史全体が今に至るまで、本
当にこの民は、神の民であるか、物理や数学の証明問題のようには、全くなっていま
せん。今もイスラエルがあるというのは、確かに神様の恵みのしるしです。しかしそ
のイスラエルは歴史上最高の苦難ホロコースト600万人の殺害を受けるのです。そし
て確かにそれから生き延びて、今に至ります。しかし今は又パレスチナ人々との戦争
が終わりません。信仰はどこをみていいのか。私達は迷いに迷うのです。
 別に世界の出来事を取るまでもないかも知れません。私達の人生もまた、神様に召
されて、バプテスマを受けた。神様の愛を知った。神様の導きを受けている。しかし、
嵐や波が私達を襲い、船は苦難で水浸しになり、沈みそうなのです。信仰は息も絶え
そうなのです。イエス様が寝ておられるというのは、確かに、神様はおられるのです
が、この世の現象においては、おられないように見えてしまうのです。私達は神様の
「沈黙」のテーマをここに込めてもいいのかも知れません。
 神様はおられるけれども、実際には、おられないかのように、自分の回りは動いて
いる。その時、信仰は何か意味があるのかと成ります。しかしそれでもなお、私達は
神様に愛されており、神様の召しの中にあるのです。遠藤周作の『沈黙』の話が昨年
10月の宗教改革500年講演会に出て、あったことを話しました。あの時の神父さんも
また「遠藤周作の沈黙は全く沈黙でありません。神様はきちんと語られています。最
後の踏み絵で『私を踏みなさい』と言われたのは、まさしく神様の語りです。」と言わ
れていました。「自分はそう読んでいます」と言われるのです。
 実は思い出すのですが、西南神学部で学んでいたとき、西南学院の学長をされて「教
会の歴史」を教えてくださったホエリー教授も、又すでに本国に帰って行かれました
が、この先生もまた「沈黙は沈黙で在りませんね。神様はあの小説で十分語られまし
たよ」言われていたことを思い出しました。切支丹がどんどん殺されて行く中で何も
されない神様は、何もできない神様かと日本人は読んでしまうのです。しかし神は沈
黙はされていない。ちゃと語っておられると言うのです。
 寝ておられる神様は、人間が思うところの寝ておられる神様かという問いが立てら
れるのかも知れません。モーセの話の戻すとエジプト王ファラオが、頑なになり、そ
れに対して、モーセが何度も、語りかけ、何度も交渉に行くことによって、実は何も
起こっていないようでいて、事柄は進展していると言えるのです。出エジプトでは、
10の奇跡が起こって最後に、出発します。10の奇跡が起こるためには、ファラオの頑
なさが用いられたということもできます。ナイル川が血に変わり、蛙が出現し、ぶよ
が発生し、虻が発生し、疫病が起こり、腫れ物が起こり、雹が降り、イナゴが発生し、
暗闇が襲った。最後に過越の祭りの起源になるエジプトの初子が家畜から人まで死ん
でいくのです。この10番目の奇跡を通して、ファラオはイスラエルの出発を赦します。
 つまり9つの奇跡は、最後の奇跡の準備をしたともいえるのです。読み方によって
は、9の奇跡でもファラオはイスラエルを去らせないのですから、前の9つの奇跡は、
現象的には失敗の奇跡ということもできます。しかし、この9つの失敗の奇跡がない
と10番目の最後の過越の奇跡がおこらないのです。私達の歩みは本当に最後まで、人
間の判断がわからないのです。しかしわからないことを理由に何もしないのはもっと
悪いことになります。歴史の判断は人間は、分からない。だったら人間は何もしない
で置こうとはならないのです。私達は自分に示されたところを、果敢にやってみるし
かないのです。そして、それは失敗で効果が見えなくても「敢為なくして、何事も起
こらない」ので、前進するのです。

 マタイ伝25章のタラントンの譬えの通りです。僕に主人から5タラントン、2タラ
ントン、1タラントンが与えられます。主人は旅に出ます。5タラントンの人は、早速
行って商売をして5タラントンを儲けます。2タラントンの人もそうです。5タラン
トンから比べると半分もないと文句を言うことなく、いや文句を言ったかもですが、
この人も又2タラントンで商売をして、2タラントンを儲けます。実際に使ってみた
ということです。しかし1タラントンの人は、これを使わずに土の中に埋めてそのま
まを持っているのです。1タラントンの人の言い分は、主人は「まかないところから刈
り取り、散らさないところから集めらえる厳しい方でした。怖ろしくなり、そのまま
土に埋めたのです」というのです。マタイ伝25章24,25節です。しかし主人は「それ
でも、つまり自分がそんなに怖ろしくても、銀行に預けることはできただろう」でし
た。せめて利息が付くだろうというのです。今は利息が極端に少ないですが、それだ
けに、今はこの銀行に預けておけばは、タラントン賜物を、使うことに対する、主人
の執念、意気込みを示されます。

 38節の弟子達の言葉「私達がおぼれても(原文は滅びても、死んでも)構わないの
ですか」は、私達の信仰の限界かもです。イエス様が共に船にいてくださる。確かに
寝ておられますが、おられるのです。しかし共におられるのに「死んでも構わないの
か」と言ってしまうのです。主が共に船におられるので沈むはずがないのです。しか
し現象をみて、沈むと思ってしますのです。そして主は弟子達に答えて、たちどころ
に「黙れ、静まれ」と言って、風を静め、波を静めてくださるのです。よく考えてみ
れば当たり前です。主が向こう岸に行こうと発議されたのです。主のみ心です。何が
あっても必ずなるのです。しかしファラオがモーセを邪魔したように、すぐには成ら
ないのです。すぐには成らないのですが、必ず成るのです。だから、祈り続ける、成
し続ける、敢為するつまりやってみ続けることが問われるのです。

 39節。イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。私達は
弱いのです。信じることができない、信じ続け、信じ抜くことができない者です。し
かし、主は共に私達の人生の船にすでに乗っていてくださっているのです。だからこ
の恵みを受けるだけなのです。十字架の罪の赦しで、共にいてくださり、復活の力で
支えて下さるのです。後は、委ねるのみなのです。ここに歩みます。

 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。2018年も1月の最後礼拝を感謝です。ど
うか、今年も主と共に歩み、主のみこころをなし、主のご計画に生かしてください。
来週は私の目の治療のために、国分教会の・・・先生がこられます。守ってください。
続けて、求道の者に信じる時を備え、すべてを委ねる時を備えてください。病気の方
に戦う力を備えてください。特に・・・兄支えてくださ
い。ご高齢のお一人暮らしの方を支えてください。・・・姉
支えてください。今年もまた子ども園、児童クラブ関係者を守り、伝道所を含めて教
会員一人一人の健康と信仰を守ってください。自然災害で仮設に住まれる方支えてく
ださい。北朝鮮に平和を置いてください。今日からの1週間をお守りください。み名
によって祈ります。アーメン。」
    エレミヤ52章4〜11節         2018年1月21日
            「 死ぬまで牢獄に 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 先週は、巻頭言にもかきましたが、16日火曜日の午前2時19分に、H姉が
主のみ元に召天されました。すでに前夜式や告別式で語りましたが、姉は教会の執事、
役員として、また幼稚園の理事として、本当によく働いて下さいました。教会では特
に教会学校をよく支えてくださり、毎月の教師会の準備、議案の打合せ、特に夏期学
校の支えには、多くの思い出ばかりです。前夜式では時間がなくて、省略しましたが、
夏期学校の宿泊施設を決める時も、川邊の磨涯仏公園に出向かれたり、皇徳寺4丁目
の宮川小後キャンプ場に行ったり、一緒に行って、ああでもない、こうでもないとこ
こに子ども達が泊まり、ここで水泳をして、ここでお風呂にはいって、ここでカレー
を作ってと、ここは暑すぎる、涼しい所はないかとあちこと探し回ったこともありま
した。本当によく動き、よく働いてくださった方でした。
 私は、火葬場でH姉の一番上のお姉さん確か78才といわれたので、悦子姉の10
才上でしたが、ずっと話してH姉のお父さんの話を聞きました。H姉は4人兄弟
姉妹の一番下でありました。お父さんは、明治生まれの典型というと変ですが、こう
と決めたらまっしぐらの方だったようです。先の戦争の終戦近く、満州行きを決めて、
それを断行しようとして、もう終戦近くで行けなかったのですが、それでもいろいろ
模索されたこと「あの時、満州に行っていたら今頃私達は、皆戦争孤児でした」との
話をしてくださいました。戦争が終わると建築士の免許をとって種子島に渡られ、役
場の公務員となり、そしてH子姉が生まれたのだそうです。人それぞれに、家族の歴
史があります。特に戦争時代を通った方々はそれぞれに大きな出来事があって、今と
は異なる姿を示され、日本の姿との重なり、いろいろなことを教えられます。

 さて本日の聖書は、第3週の日曜日と言うことで旧約聖書から聞きます。エレミヤ
書を開いております。とうとう52章のエレミヤ最後の章に来ました。いつから初めた
かと週報を辿りますと、2012年4月22日がエレミヤ書1章になっています。5年間
聞き続けたことになります。本当に長かったです。しかし予言者の立ち位置がよく分
かり、自分の歴史を神様の視点からどう見ていくのかそういう事も、示されるように
思います。自分の進路、教会の進路の判断の材料になると信じます。次はどうするの
かですが、そのままエレミヤ哀歌、エゼキエルと聞いていこうと思っています。
 エレミヤ52章は、直前の51章64節に「ここまでがエレミヤの言葉である」とあ
ります。つまり52章はおそらく書記のバルクか、他のエレミヤ書を編集した方が書き
ましたよ、ということです。改めて旧約聖書も新約聖書も、ここまでは神様のことば、
ここは私のことばときちんと分けているところがすごいと思います。エレミヤの言葉
は51章63節までです。ここからはまとめの章ですというのです。パウロも又第一コ
リント7章12節に「主でなくて私が言うのですが」という書き方があります。パウロ
も又ここまでは主のことば、ここからは私パウロのことばですと意識して手紙を書い
ています。
 私達はどちらかというと自分の言葉を、さも神のことばでもあるかのようについ語
ってしまうのです。しかし聖書はここまではエレミヤ、ここからは編集人、パウロの
ことばですよと分かるように書いているのです。私達も、言われなくても、ここはそ
の人の意見、ここは聖書の主張ときちんと聞きたいと思います。言っている人が熱心
に語るとその意見まで神の言葉になることがあります。熱心に語ることと、正確に語
ることとは違うのです。熱心に聞くことと正しく聞くこととは違うのです。神の言葉
と人間のことばはやはり違うのです。

 本日読みました、4節のバビロンのエルサレム包囲の前に、3節には「ゼデキヤ王
がバビロンに反旗を翻した」と在ります。2節には「ゼデキヤ王が主の目に悪と見ら
れることをおこなった」とあります。ここだけ読みますとゼデキヤ王の滅亡は、主の
前の悪、偶像礼拝と言うことになります。確かにそうなのですが、具体的には、ゼデ
キヤ王のバビロン反旗は、理由がよく分かっていません。というのも、もともとゼデ
キヤ王が立てられたのはバビロン王によってでありました。すでに見てきましたが、
エレミヤ37章1節には「ヨシアの子ゼデキヤが王位についた。バビロン王ネブカドレ
ツアルが、彼を王としたのである」とあります。自分を立てて王としてくれた国に対
して反旗を翻すというのは、普通は考えにくいです。しかし事実そうなってしまった
のです。
 聖書学者が、いろいろ調べています。大まかな所では、ゼデキヤ王は、エジプトの
ファラオの力を過信したとなっています。ゼデキヤ王は、確かにバビロンの力で王と
成った傀儡政権でした。しかしゼデキヤ王は傀儡政権を脱して、本当の力を付けたか
ったのかも知れません。そのためにエジプトのファラオが、パレスチナの方に関心が
あることがわかるとエジプトと密約を交わして、バビロンの力を断つという方針、暴
挙に打って出たのです。
 しかしこれは全く世界の情勢を知らず、またエレミヤの神の言葉にも、逆らったこ
とでした。すでに聞いてきましたが、エレミヤ27章12節には「首を差し出して、バ
ビロン王のくびきを負い、彼とその民に仕えよ、そうすれば命を保つことができる」
というものでした。エレミヤは、今は主なる神様はバビロン王を、ご自分の僕として
おられる。バビロンに降伏し、バビロンに仕えて生きよというものでした。
 これは想像力をたくましくすると、第2次対戦の最中に日本において国家総動員法、
治安維持法の中で「今はアメリカが神の僕である。アメリカに仕えよ、戦うな」と言
っているのと重なります。これは全くとんでもないことであり、国を危うくする危険
人物、国賊になるのです。本来ならエレミヤは、ゼデキヤ王に暗殺されてもおかしく
ないのです。しかしエレミヤはゼデキヤ王の3代前からのヨシア王、ヨアキム王と仕
えて来た予言者でした。ゼデキヤ王としても父に仕えた予言者エレミヤを無きものす
ることはできませんでした。つまり当時のイスラエル、エルサレムの人々は、エリヤ、
エリシャ、アモス、ミカ、ホセア、イザヤの系譜に当たる予言者エレミヤを、危険人
物、国賊としながらも尊敬していたのです。神様が何か本当のことを、予言者エレミ
ヤに語っておられるかも知れないというのがあったのです。
 それにしても、バビロンの力によって、王とされた者が、その敵エジプトの力を借
りて、反旗を翻すというのは、理解が難しいです。ここには、狂信があったとされて
います。狂信とは、1つはエルサレム不敗、不落神話であり、2つはダビデ王の血統
に対する神様の守りです。これは確かに、100年前のアッシリアが攻めて来た時、そ
の闘いの時には、預言者イザヤの祈りをもって、エルサレムが救われました。神様は
エルサレム神殿とダビデ王の家系を守られたのです。しかし返ってこの出来事、イザ
ヤの時にアッシリアから救われたことが、仇となるのです。あの時救われた、だから
この時も救われるとなるのです。歴史の教訓が、仇となることがあるのです。
 あの時このようにしたら救われた、だから今もこのようにしたら救われる。正しい
こともあるのですが、時代が全く違っていて全然見当外れになることもあるのです。
エレミヤとイザヤの違いはどこにあったのか。おそらく、その信仰の内実だったと思
います。エレミヤの時は、イスラエル、エルサレムの偶像礼拝はエゼキエルも語って
いますがかなり進んでいたのです。イザヤの時はまだ、イザヤが一心不乱に祈り出す
と人々もまた、一心不乱に祈ったのです。予言者イザヤとエルサレムの人々はどこか、
信仰の共感があり、通じています。
 イザヤ7章にインマヌエル予言があります。アラム・シリアと北イスラエルが同盟
を組んで、エルサレムに攻めてくる時です。イザヤは「落ち着いて、静かにしていな
さい。恐れることはない。」イザヤ7章4節と予言しました。「落ち着いて静かにして
おれ」で民はピンときたのです。「主を信じなさい、神の守りを祈りなさい」と分かっ
たのです。しかしエレミヤの時はもう「落ちついて、静かにしていなさい」では分か
らないようです。エルサレムには偶像礼拝が満ちており、具体的な祈りの行動がおこ
らないのです。祈りがわからない。信仰において「主にあって静かにする、落ち着く」
が理解されていないのです。
 つまり内実がない、信仰の内実、祈りの積み重ねや御言葉の積み重ねがないのに、
さも祈りがあるように信仰があるかのように行動してしまうのです。まず、悔い改め
があっての行動が理解されないのです。横綱白鳳が休場しましたが、解説者が実は今
場所は練習がほとんどできてないのです、との説明でした。そういうことと重なるの
です。何でもそうですが、教会では、まず祈りが先にあります。まず教会の祈りが積
み重なって、実現・成就があります。何かが成就し、なる時には、実は隠れたる祈り
があるのです。問題はその感覚です。「主よ、誰も祈らなくても、まず私から祈ります」
という信仰です。

 4〜6節に具体的なエルサレムの攻防が書かれています。ゼデキヤ王の9年から11
年まで持ちこたえたので、1年半、エルサレムは戦ったのです。ゼデキヤ王は傀儡政権
とはいえ、1年半もバビロンと戦えたのです。内部の団結は強かったのかも知れません。
エジプトのファラオの援軍を最後の頼みとして、ひたすら待ったとも言えます。しか
し、エジプトは来なかったのです。エレミヤが予言したとおり神の御心は、今はバビ
ロンが神の僕である。主はバビロンを用いて、エルサレム、イスラエルを打つという
ことでした。神の御心に逆らっては何もできないのです。
 8節には、ゼデキヤ王の軍隊がばらばらになる様が書かれています。エルサレムはバ
ビロン軍に囲まれているのに、どうやって抜け出すのか詳細は分かりません。しかし
エルサレムを抜け出すことはできたようです。しかしすぐにバビロンに見つかり、追
いかけられて、捕まりました。主の計画でない時は、うまく行ったようでそうでない
のです。むしろうまく行って、自分から罠にかかることが起こります。
 列王記上22章には、有名な「予言者ミカヤの予言とアハブ王の死」というのがあり
ます。シリア・エフライム戦争の出来事です。予言者ミカヤは、アハブ王の死を予言
します。アハブ王はかんかんに怒ってミカヤを捕まえて、戦いにでます。この時、ア
ハブ王は「自分が無事に帰ってくるまで、ミカヤを捕まえておけ」と言うのです。し
かし予言者ミカヤは「王様が無事に帰ってきたら、主は私に語らなかったのです」と
いうのです。22章26節です。アハブ王は気が気でありません。戦闘を避けて、弓矢
の当たらないところを逃げ回ります。しかし敵が全く誰も何もねらわないで、矢を放
ったところ、なんと逃げ惑うアハブ王に当たるのです。22章34節です。アハブ王は
この矢を受けて死んでいくのです。列王記上22章は予言とはいかなることかを私たち
に教えています。神様がなると決められたことは、どんなに人間が逃げてもなるので
す。と言うか、全くの偶然が、神様に用いられるのです。
 ですからある意味で、やれることをなし、示されることをしたらならば、後は煮て
食われようが、焼いて食われようが、勝手にしてくださいと主にすべてを預けること
です。それでいいのではないかと思います。人はなんやらかんやら言うかもですが、
人の思いで事が決まるのでない。人間の思いでなくて、神様の思いでことはなってい
くのです。

 9〜11節は、バビロン王のゼデキヤ王への裁きです。容赦のない徹底した裁きです。
バビロン王は、自分が立てたゼデキヤ王に裏切られたのです。恩をあだで返されたら、
腹も立ったでしょう。書いてある通り、自分の目の前で子供たちは殺されます。また
自分に仕えた将軍たちも殺されます。さらに自分の両目も潰されます。そして、足枷
をはめられて、バビロンに連行され、死ぬまで牢屋に入れられたとあります。神の言
葉に逆らった時の状態を示します。
 実はこの後、エレミヤ52章で主は、イスラエルの信仰の2つの狂信、エルサレム神
殿の不落神話とダビデ王家との守りの契約神話をことごとく破壊します。12~23節は、
エルサレム神殿の徹底した破壊です。エルサレム神殿は何も守る力がないのです。神
様が守るのであり、神様が守りをはずされたら破壊されます。24~30節は、ダビデ王
の子孫に仕えたすべての家来の連行です。ダビデ王家は、主に従う限りにおいて主の
守りを受けるのであり、予言者エレミヤを、神の言葉をないがしろにしては、守りを
期待できないのです。ここにおいてエレミヤ52章は、イエスラエルの狂信を破壊し、
目を覚まさせ、狂信でもなく、無信でもない。冷静な信仰を問うているのです。
 今日は読みませんでしたが、52章の最後31節からにその冷静な信仰を見るようで
す。それは、第一次バビロン捕囚において、捕えられていたヨアキン王の解放です。
BC562年とされます。神殿破壊から24年目でありました。書いてあるように、事柄
はバビロン王のエビル・メロダク王が即位し古代社会の慣習によって恩赦されたので
す。信仰の出来事でないのです。社会の慣習です。しかしエレミヤ書はそこに、ダビ
デ王への神の約束がまた動いていることを見るのです。神様がやはりダビデ王の約束
を果たしておられるのと知るのです。これは連行されたイスラエルの信仰かも知れま
せん。静かな、冷静な信仰でした。歴史の中に、主のしるしを見ていく信仰です。私
たちもまた祈りつつ、主の十字架の信仰のしるし、恵みに導かれ、歩んでいきましょ
う。
 祈ります「天の父よ、先週、H姉が召天されました。主の召しでありました。
只々ご遺族の守りと平安を祈ります。どうか、私たちも自分の死を見つめつつ今を生
きるものとしてください。続けて、求道の者に信じる時を備え、すべてを委ねる時を
備えてください。病気の方に戦う力を備えてください。特に、・・姉の上に力を与え、
支えてください。・・・兄支えてください。ご高齢のお一人暮らしの方を支え
てください。・・・姉支えてください。今年もまた子ども園、
児童クラブ関係者を守り、伝道所を含めて教会員一人一人の健康と信仰を守ってくだ
さい。自然災害で仮設に住まれる方支えてください。北朝鮮に平和を置いてください。
今日からの1週間をお守りください。み名によって祈ります。アーメン。」
  第1ヨハネの手紙3章4〜10節         2018年1月14日
                               「 兄弟を愛さない 」
 本日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができますことを感謝いたし
ます。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導
く御言葉を聞いてまいります。
 本日は礼拝後に、臨時総会が開かれ、2018年度の執事、監事選挙があります。どう
か、ふさわしい方が選出されるように祈るものです。また基本的には教会は、御霊に
よって、聖霊を与えられて執事の仕事が立てられ運営されて行くものです。従って、
確かにどんな人が立てられるかが問題ですが、その背後に聖霊の働きを無視しては、
何にも成りません。どんなに相応しく良い方であっても、聖霊の働きがなければ、人
間の働きになります。反対に、どんなに人間的には欠けが多くともその人が、聖霊に
より頼み、日々祈って神の御心を本当に願ってくだされば、それは最高の執事、責任
役員と言うことになります。12使徒信条には、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会
を信じる」とあります。私達は聖霊と教会を信じて、歩んで行きたいです。

 さて、本日は2ヶ月振りになりましたが、またいつもの通りに第2週は使徒の手紙
から聞く事ということで第1ヨハネの手紙を開いております。少し復習を致しますと
ヨハネの手紙は、1世紀も終わるころに書かれたとされます。パウロやペテロはAD60
年代には殉教したのですが、ヨハネは生き残り、その後も他の使徒達、弟子達の伝道
が進展して、ローマ帝国の主だった植民地の町には、1世紀を終わる頃は、ほぼキリ
スト教会ができていたのでないかと言われています。ヨハネ黙示録には小アジアの7
つの教会の手紙が書かれています。ヨハネの手紙には、異端という言葉は使っていま
せんが、言行録24章には「分派」ということばが、第2ペテロ2章1節には「滅びを
もたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と
異端のことばがあります。ヨハネの手紙では2章18節に「反キリスト」と言われてい
ます。すでに1世紀の終わりに、正しい教えに対する分派や異端ができていたのです。
この人達がヨハネの立てた教会、また小アジア地方に立てられた教会を惑わし、混乱
に落としたようです。

 すでに1章においては、この反キリストとされる人々が、1章8節に「自分たちに
は罪がない」と教えていました。また2章3節には「この方(イエス・キリスト)こ
そ…全世界の罪を贖う生け贄です」とあります。2章9節には「『光の中にいる』と言
いながら、兄弟を憎む者」がいたと言われています。2章22節には「イエスがメシア
であることを否定する者」がいたことも分かります。そして、2章28節には「子達よ、
御子の内にいつもとどまりなさい」と進めています。本日の箇所は、この「御子の内
に常にとどまりなさい」を受けて、それの実践のあり方を示し、教えている箇所と言
って良いでしょう。
 4節に「罪を犯す者は、皆、法にも背くものです」とあります。反キリストとされ
たヨハネの手紙の分派、異端がどのような人であったのかは、少しずつ明らかにされ
ていきます。ヨハネに対立した分派・異端の主張は、1章8節にもあるように「自分
たちには罪がない」ということ、2章9節にあるように「自分たちは光の中にある」
という主張でした。しかし実態の彼らは、本日の10節にあるように、又2章9節にも
でてきたように「兄弟を憎む者」であったようです。それは、自分たちは救いの知識
を持ち、他の人は救いの知識が少ないという事でした。キリストを信じる人が兄弟姉
妹ですが、その人達の信仰の知識が足りないと馬鹿にし、蔑んだようです。
 さらに悪いことには、キリストの知識が自分たちにあるとすれば、悪いことをして
も、良い目的のためにしているのだから良いのだといった自己正当化が成されたこと
です。ヨハネの手紙にはその当たりのことがはっきりは出てきません。しかし本日の
箇所のように、ヨハネは徹底して「罪を成すことと義をなす」事を、対照的なテーマ
にこの手紙を書いています。このことは、罪が罪としてみられない。よい目的を知っ
ている者の罪は、罪でないといった正当化がなされていたと思われます。
 これは、もう現代でも多くの類似を示すことができます。今の刑事、警察番組では、
一番多いのはこの正当化ではないでしょうか。テロリスト達が、殺人や金儲けのいろ
いろな悪いことをする。しかしそれは今のいい加減な政府を転覆させ、正しい政府と
作るため、正しい政治をするためであると正しい目的を提示するわけです。或いは自
分は正しく仕事をしてきた。しかし世の中が自分の仕事を認めてくれない。ここで一
矢報いても良いはずだという展開になっています。しかし主人公である刑事さんやお
巡りさんが、それでも悪は悪だ、正しいことのための殺人は認められない、目的が正
しいからとして、殺人、間違った金儲け、騙しや脅しはよくないという分けです。
 余りにも世俗の譬えになりましたが、基本的には「罪を犯す者は、法を犯す者です」
という余りにも当たり前のヨハネの主張は、そういうことを示していると思います。
罪を犯すというと罪とは何だとか、罪はいかにして分かるのかとか、議論が起こりま
す。酷い時はニーチェの絶対的な善、罪はない、と言った類です。しかしヨハネは、
罪とは法に背く者、不法ですというのは、議論が起こりにくいです。現実に不法すな
わちモーセの10戒の「殺人、姦淫、嘘、貪り」が罪である、とはっきりします。

 5節にあるように「御子は罪を取り除くために現れた。御子には罪がない」は、不
法を改めてはっきりさせ、キリストを信じるキリスト者は、罪すなわち不法ができな
いことを示しています。6節に「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」と
あるのも又ヨハネの分派・異端の人が「自分たちはキリストの内にいつもある」と言
っていたと思われます。しかしその行為・行動は、罪を犯し不法をなして、なおこれ
は良い目的のため、よき施策のためにしているのだという姿を表していたのでしょう。
ヨハネは「罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいないのです」と厳し
いです。罪を犯し不法をなし法に背く者は、キリストを見たことも、知ってもいない
のだ。これは罪を犯し、悪いことをなして、正当化や反動形成、投影という原始的な
責任転嫁をする人への警告です。自分がしないといけないことをしない。自分が嫌の
こと、自分に不利なことは相手が悪い、社会が悪いとする心理行動への警告です。
 余り良い例でないのですが、ユダヤ人のホロコーストの600万人の虐殺の時、ユダ
ヤ人の指導者の人々には、ユダヤ人の国イスラエルを作るために、ナチス・ドイツに
協力した人がいたという同胞による同胞の裏切りがあったという信じがたい事実をア
レントは書いています。それでドイツの罪が軽くなるとは思いません。しかし、現実
にそういうことも起こるのです。自分たちの崇高な目的、使命のために、罪は赦され
てもいいという考え方です。しかしヨハネは、罪を犯すものは、御子を見たことも、
知ってもいないとするのです。イエス様を信じることは、この世の罪が免れるとか、
この世の罪が軽くなるとか全くないのです。主イエス様を信じる者は、むしろこの世
を正しく、良心に従って生きるのです。

 7節に、今一度「子たちよ」との呼びかけがあります。これは2章28節にもありま
した。「子たちよ、御子の内に留まりなさい」です。続けて「誰にも惑わされるな」と
続きます。ここはヨハネの分派・異端の人々の意見が続くのでしょう。「義を行うもの
は御子と同じ、正しい人です」とあります。これは「義を行う人は、御子と同じ義人
です」と言うことです。どうも分派・異端の人々は、信仰のみの強調をなし、義の行
為・行動を、馬鹿にし軽んじていたようです。信仰があれば、すべては正しい。義の
行為はどうでもいいとは言わなかったでしょうが、重きを置かなかったのです。ここ
まで言うと一時期の正統派プロテスタントに似てくるのかもしれません。ルターが、
信仰義認を言った時、それはいつの時代も、どんな宗教もそうですが、信仰のみでい
いのだ、行動は二の次、三の次だとされたものです。ルターとしては、行為によって
は、義認されないと言いたかったのです。信仰が最も大事ですと言いたかったのです。
しかし次の世代は、信仰だけあればいい、行動はどうでもいいとなるのです。
 何度も言うように、これは日本仏教にも本願誇り、南無弥陀仏と唱えれば、何をし
ても、浄土に行くという風に教えらえることに重なります。親鸞聖人は困ったのです
が、強調点の仕方によってそういうのがでてきたのです。ルターも又、信仰義認をい
うとどうしても、行為はどうでもいいという教えがついて回りました。ヨハネの手紙
は、時代を先取りするかのように、「惑わされるな。義を行うものは御子と同じように
義なる者だ」というのです。
 つまり義認は、聖化が伴うのです。聖化つまり清くなることです。清くなると言う
のはこれも何度もいいますが、ヘブライ語ではカドシュです。これは一義的には道徳
的な概念の前に、分離の概念です。清くなるは、なにか正しいことをする、清らかな
ことをすることでありません。この世から分かれて、神のものつまり神の所有物とな
るということです。神を信じる、神のものとなる、神のみ心をまず第一にする。主の
祈りで言うところの「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」を、この世で生
きることです。もっと具体的にいうと神の前にぬかずいて手を合わせる。祈りを献げ、
礼拝を献げる、教会に属することです。
 義認はつねに聖化がともなって、義認となるのです。イエス様のたとえ話でいうと、
山上の説教のマタイ伝7章15節以下です。イエス様は「茨からブドウが、あざみから
イチジクがとれようか。すべて良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言
われました。内面の良さを語るのに慣れている私たちは、あまりにも単純すぎて躓く
のかもしれません。良い木が良い実を結ぶのは当たり前でないか。悪い木が、信仰に
よって良い実を結ぶのだといいたのです。しかし、現実には、そうはいかない時が多
いです。現実に、良い木はよい実を結ぶ、悪い木は悪い実を結ぶ。「あなたは額に汗し
てパンを得なければならない」。これは厳然としてある、神様の戒めです。そして、急
がば回れで、最終的には額に汗してパンを得る方法が、一番いいパンを食べる方法に
なるのです。それは、信仰も又最終的には1日1日の聖書を読んで、積み重ねるしか
ないのです。信仰もまた一日一日の祈りを積み重ねるしかないのです。ある時、恵み
により突然開けるのがあります。しかしそれは、1日1日の恵みの聖書読みがあり、1
日1日の恵みの祈りが積み重なっている時なのです。

 8節は、恐ろしいことに「罪を犯すものは悪魔に属する」といいます。しかしここに
も福音があります。それは悪魔の場合は悪魔の子の創造がないのです。神の子はあります。
神様は自分の子を創造されることがおできになるのです。私たちは神様によって創造
され、イエス様によって、恵みによって、神の子として頂くのです。しかし悪魔は子
を創造できません。悪魔は神様が造られた子供を誘惑して、自分に属させるの
みなのです。ですから、ある意味で、悪魔の支配、悪魔の働きから脱出したら、その
人は神の子となることができます。つまり悪魔からの解放が可能なのです。8節に続け
て「悪魔の働きを滅ぼすために、神の子が現れた」とあります。
 現代ではこの信仰はどこまで理解されるのかですが、イエス様が来られたことによ
って、実は私たちは自由ということを知ったのです。イエス様が来られなかった時、
私たちは、この世の霊の奴隷でしかなかったのです。私たちの判断、価値はこの世の
諸霊の判断しかなかったのです。しかしイエス様が来られて、私たちはもう一つの判
断ができるようになったのです。愛の判断であり、この世だけでなくて、永遠の命の
時間の中での判断です。イエス様の来臨は、実は大きな出来事であり、時を分ける大
変な出来事だったのです。ここから時間が分かれるのです。奴隷の時間に、真の自由
の時間が入ってきたのです。
 私たちはこの世だけで生きているのでなかったのです。神様の前に、死んでからの
時間もあるのです。それを時間と言っていいのか難しいですが、神様の前の時間・存
在があるのです。この世の時間だけでなくて、神様の前の時間・存在を示されただけ、
私たちは自由が増えたと言えるでしょう。この世は何も認めず、この世は馬鹿にして、
何も報いないかも知れません。しかし、主は十字架の時間で評価されるのです。
 9節には「神から生まれた者は、罪を犯さない。なぜなら神の種が留まっているから」
といいます。この種はいろいろな取り方がありますが一般的には、聖霊の種と言われ
ます。聖霊の種によって御子を信じる者は罪を犯すことができないのです。もちろん、
私たちは、キリスト者が罪だらけになって、散々な姿になっているのを見ます。しか
し、それでも聖霊の種は、キリスト者を去らないのです。神の約束は、アブラハム、
イサク、ヤコブ、そしてイエス様を通して、確かなのです。キリストを忘れた時、キ
リスト者は、この世の人よりも酷い状態になります。罪のどん底を体験します。しか
し、主の契約は確かなのです。罪を犯しどうにもならない姿になっても、又義に向か
って義をなそうとする時、イエス様の十字架は確かに赦し、力を与えるのです。
 この世は「あいつは性懲りもなく又やっている」と言うでしょう。しかしこの世は
赦しの力に対して何の力も影響力もありません。その人に力を与えるのは、イエス様
の十字架です。神に向かい、義に向かって、義なる生活をまた始める時、また聖霊は
助けて下さるのです。まず自分の兄弟姉妹から愛は始まります。隣人を持たない信仰
は、信仰を無くす、と言われています。まず兄弟を愛し、イエス様の愛の内に留まる
続ける1年間をすごしたいです。
 
 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。2018年の第2週を迎えています。どうか、
今年も主と共に歩み、主の義をなして、主に御業を仰ぎ、主のご計画に生かしてくだ
さい。・・・さんがセンター試験を受けています。守ってください。続けて、求道の
者に信じる時を備え、すべてを委ねる時を備えてください。病気の方に戦う力を備え
てください。特に、・・・姉の上に力を与え、支えてください。・・・
兄支えてください。ご高齢のお一人暮らしの方を支えてください。・・・、
姉支えてください。今年もまた子ども園、児童クラブ関係者を守り、伝道
所を含めて教会員一人一人の健康と信仰を守ってください。自然災害で仮設に住まれ
る方支えてください。北朝鮮に平和を置いてください。今日からの1週間をお守りく
ださい。み名によって祈ります。アーメン。」

   マラキ書1章2〜5節           2018年1月7日
       「 愛してきた 」        −新年礼拝―
 新年、明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。本
日も、主に新しい命を赦されて、まずこうして礼拝ができるますことを感謝いたしま
す。本日の与えられた御言葉を開きつつ、1週間の罪の悔い改めをなし、1週間を導く
御言葉を聞いてまいります。
 巻頭言に書きましたが、2018年のお正月は本当によいお天気で穏やかに明けました。
あんなに雲一つない良い天気の元旦、お正月は鹿児島では久しぶり、何年振りであり
ましょうかと、思います。1月2日から2泊3日の長崎帰省をしたのですが、長崎地
方も、2日、3日とすごくよいお天気でした。1年間が穏やかに、平和に過ごせること
を主に祈るのみです。
 内外に問題は山積しておりますが、新聞・テレビは、株価が上がったとか、お正月
のお年玉商品が5%もよく売れたとか、金持ちには確かに景気のいい話ばかりであり
ます。お金のない一般庶民には、株価の高騰はむしろ害にしかならないのでないか。
本当に喜んでいる人は誰であるのか、これから日本が直面する少子高齢化や人口減少
という本当に大切な根本問題には、きちんと答えようといたしません。株価が上がっ
ても少子高齢化、人口減少は全く何も変わりません。根本問題に答えることをしない
で、どうやってこの先を生きていくのか、新聞・テレビを見るたびに暗澹(あんたん)
たる気持ちになるのは私だけなのでしょうか。少子高齢化、人口減少は、小手先の政
策ではどうしようもないだけに、株価の高騰のにわか騒ぎは、なんか心配ばかり先に
立つものであります。
 しかし、私のような知恵のない者が心配しても、仕方がないのです。信仰をもって
聖書から聞いていきたいと思います。聖書は、新年礼拝ですので、一番最初の章、1
章からということで、マラキ書を開いてみました。マラキ書は、旧約聖書最後の書で
す。本来、年の最後の礼拝がふさわしかったのかとも思います。しかし、1章からと
いうことで、新年礼拝に開いてみました。

 マラキ書は旧約聖書の最後の予言者と言われています。しかし実はマラキという予
言者はいなかったというのが、旧約聖書学者の通説です。それはマラキという固有名
詞がつまり人間の名前はなかったであろうと言われておるからです。マラキとは「私
の使者」と言う意味であり旧約聖書は、最後に神の使者という書物を示して、神様の
問いを立てて、新約聖書のイエス様の到来を待ったと言われています。
 時代的にはしたがって、マラキ書は、バビロン捕囚から帰ってきて、第2神殿を立
てた後になります。BC515年に、第2神殿は立ったことは立ったのです。しかしその
神殿再建は、思ったようには何も、大きな奇跡が起こらなかったのです。イスラエル
の人々は、神殿を再建すれば、神様は早々にメシア・キリストを出現させ、主なる神
が支配される本当の神の国が来ると思い込んでいました。しかし神殿は再建されまし
たが、待てど暮らせど、何も状況は変わらないのです。ペルシャのクロス王はバビロ
ン王を倒し、確かに神殿再建をイスラエルに赦しました。イスラエルの民を、もとの
土地への帰還を赦したのです。しかしそれ以降は、むしろイスラエルの人々は、サマ
リヤを統治するペルシャの統治者に支配されるだけでありました。ペルシャは、簡単
にはイスラエルの自治権を認めることをしませんでした。イスラエルの自治権は、ほ
とんどうまく機能しなかったのです。
 イスラエルの人々は、70年してようやくバビロンから帰って来れた。神殿を再建し
た。しかし実際の生活はちっともよくならない。よくならないどころか、昔の自分た
ちのものであった土地は、ペルシャが赦すサマリヤ人のものになっている。当然、イ
スラエルの人々の信仰は、2つに分かれました。1つはそれでも、主の約束を信じて、
じっと待つべきだと言う人々です。しかし他方に、これだけ苦労して待って、バビロ
ンから帰ってきても、何も変わらない。主なる神様はやはりイスラエルを捨てられた
ままなのだ、とする人々の信仰です。
 私たちは、神様を信じるということは、おそらくいろいろな状況にあっても、この
ような2つの面を持ちつつ、進むのであろうということができます。一方に主の恵み
は確かであると生きる。しかし他方で何も変わっていないように見えるのです。私た
ちはこのような現実に遭遇した時に、どのように自分の時代を生きていくのか。これ
がマラキ書の提示する問いと言っていいでしょう。

 1節は読みませんでしたが、マラキ書は「託宣」ということばで始まっています。実
はこの託宣が2重性をもっているのです。一つは、託宣とあるようにそれは神様から
のメッセージであり、神様が予言者を通しイスラエルに、示した「ことば」と言うこ
とです。私たちは託宣を受けることで、神様の意志を示され、そこに生きることがで
きるのです。人間的ないろいろな考え方がある。どれが正しいのかわからない。しか
し託宣すなわち神様の示しがある。これは、右に行くべきか左に行くべきかの時の最
後の神様の示しがあるのです。
 しかし託宣には実は「重荷」という意味があるのです。神の言葉が示された。それ
は喜ばしいことではあります。しかしその託宣の使命が、余りにも重い時、それは重
荷になる可能性があります。正しいことが示された。しかし正しいだけにそれをする
ことが大変なことがあります。その時、託宣は、重荷になります。しかし、私たちは
そのような時に、しかしそのようであるがゆえに、神の意志でありつつ、神様から頂
く重荷として、受けて立つということができるでしょう。基本的には神様からの重荷
は、主が言われたようにマタイ伝11章30節に「私のくびきは負い易く、私の荷は軽
い」と言われました。主が負わせられる重荷は、最後は託宣であり、主が負ってくだ
さるので軽いという信仰が問われのです。

 2節にあるように、主の託宣は「わたしはあなた方を愛してきた」という宣言でした。
主がバビロン捕囚されたイスラエル民をイスラエルに帰らせ、バビロンをペルシャに
打たせて、第2神殿を再建できた、という事実は、やはり主がイスラエルを愛してお
られるという事実なのです。「私はあなたを愛してきた」これは神様がなさるイスラエ
ルへの宣言であります。
 神の愛は、人間的な思いやりや感情を超えているのです。しかしイスラエルには神
の愛の実感がないのです。愛されているのなら、これくらいあるべきだ、これくらい
の状態になっているはずだ。神から愛されている人とは、こういう人に違いない。人
間はいくらでも神様の愛の状態を考えだし、それにあってないと愛されていると捕え
ることができないのです。
 しかしこれは、ある意味で高慢の罪といえるでしょう。私たちを創造され、導かれ
る方が私たちに、愛の宣言をなされた。これに対して、それは愛とは言えないと言っ
ていることになります。続く「どのように愛を示してくださったのか」は、全く愛の
判断を、人間がしていることになります。そもそも被造物である人間は、神様の取り
扱いの良し悪しを、言うことができるのか。創造者である主なる神が、もっともよい
と思われる方法、出来事を示し、それを愛として示される。

 しかし被造物である人間がそれは愛でないという。これはもうパウロが、ローマ書9
章20節で語った言葉を思い出します。「人よ、神に口答えするとはいったいあなたは
何者か。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるで
しょうか。」とあります。神様の愛を神様と論争するとき、私たちは自分が何者であり、
自分の判断とは何であるのかが問われるところにあります。マラキ書が示す当時の
人々の問い「どのように、愛をしめしてくださったのか」は、おそらく正しく答えら
れることはないと思います。「どのように愛した」という問いは、どこか「本当に愛し
た」ということと次元が異なっているのです。
 どのように愛しているのかと問う時には、無限に「このように、あのように」とな
るでしょう。しかし「このように、あのように」という答えは、また次の「あのよう
に、このように」が生まれてくるのです。「あのように、このように」どうして愛して
いるのかと言った具合です。つまりこの「どうして」という問いは、無限の循環に、
無限の円環になっている可能性があります。
 神様の真の答えは、神様が言われたように「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
という事実になります。つまり神様の答えは、どうしてでは答えられないのです。事
実、そうされた。選びとというか。出来事になっているのです。端的にいうと理由が
ないのです。おそらく現代人、近代人は理由がないのに耐えられないでしょう。とい
うか不当な理由には、我慢ができないのです。正しい理由がなければならないのです。
しかし現実は愛するには、正しい理由がないのです。
 エサウとヤコブの出来事は、創世記25章と27章にある不思議な出来事です。これ
は、はっきり言って全部理解するのは不可能です。族長アブラハム、イサクの息子達
エサウとヤコブの出来事でした。イサクの子、エサウとヤコブは、生まれてくる時、
兄は弟に仕えるという主の予言の元に生まれてくるのです。その後、エサウは長男で
狩りが好きで、野外に出ることをよしとしました。ヤコブは弟で家の中の仕事が好き
だったようです。ある時、イサクは年を取って、自分の父アブラハムから受けた祝福
を、兄のエサウに受け継がせることにしました。しかしその時、妻のリべカは、弟の
ヤコブに策を授けて、兄エサウの祝福を奪うことになったのです。人間的な倫理的な
視点では圧倒的に、兄エサウの方が正しい。弟のヤコブの方法は、母リべカの行動を
持ってしても、理解不能です。父イサクはヤコブとリベカに騙されたというのが、一
つの読み方です。しかし聖書は、兄は弟に仕える「私はヤコブを愛し、エサウを憎む」
として、この出来事を伝えるのです。
 これは現代人にとって理解不能です。こんな理不尽な話はない。しかし、私たちは、
自分の周りを見れば見るほど、理不尽が多いことに気がつかされます。というか、人
生はもともと理不尽を、いかに生きていくのかに満ちています。それは理不尽はない
がいいのに決まっています。しかし現実に差がある、不均衡がある。私たちは生まれ
や能力、才能を考えれば、平等と言うのは、ほとんど不可能な出来事であると知らさ
れます。しいていえば、主の前、神様の前の平等がやっとなのです。しかし人間は平
等であるといういわば神話に振り回されるのです。
 本日の4節には「たといエドムが、我々は打ちのめされたが、廃墟を立て直す」と
言ったとあります。いろいろな取り方があります。一つには、自分の運命に立ち向う
ということになるでしょう。エドムは自分で自分の運命を切り開くと決断したのです。
しかし、万軍の主は、これを破壊すると言われるのです。とこしえに主の怒りを受け
た民とされています。エドムは身もふたもないです。せっかく自分の道を歩もうとす
るのですが、元々が主の怒りを受けた民である以上、どうにも立ちようがないのです。
 どうしてこんなに、回答のない、力のでない、どうしようもない出来事をマラキ書
はいうのか。エドムは憎まれ、ヤコブが愛されている場合は、どうにも人間は手の打
ち様がないではないのか。5節に「はっきりと言うべきである。主はイスラエルの境を
越えて、大いなる方である、と」つまりエドムがどこに逃げようとも、エドムがどこ
に何をしようとも、どうなろうとも、主なる神様が決めた以上は、エドムに逃げる場
所がないのです。神さまが、なされた通りになる。
 しかしこのエドムに対するどうにもならない審判が、ヤコブ・イスラエルに対する
愛の確かさでもあります。イエス様が十字架を受けねばならない審判の理由は、動か
し難く罪のためにあるのです。しかしイエス様が十字架を受けてくださり、審判をそ
の身に負うてくださってある。その十字架が確かであるゆえに、神の愛が確かに私た
ちに、示されているのです。十字架の審判の確かさがないと主の愛の確かさもあいま
いになります。マラキ書の不可解さ、理解の難しさは、このように、エサウに対する
主の憎しみです。そしてそれは、ヤコブに対する神の選びの確かさになっています。

 神の選びを私たちが本当に理解するは、現実にむずかしいです。イスラエルの神の
選びは、交錯しております。20世紀になってイスラエルはホロコースト600万人の虐
殺を体験しました。600万人の虐殺を歴史的な偶然としたり、それはなかったりのこ
とにはできません。賠償金で解決できる人数でありません。歴史はユダヤ人、イスラ
エルのホロコーストを忘れることはできないのです。そして、それはドイツだけでな
くて、様々な国における同じような虐殺や理不尽の殺人の代表として私たちに示され
てあるのだと思います。ドイツもまたユダヤ人のホロコーストはなかったとする勢力
があるそうです。しかし圧倒的に、ホロコースト以後を、どう生きるかと問う人々が
あるのです。
 聖書を読むということは、神の愛を知って、体験して生きるということです。どの
ように主は私を愛されているのですか。これは、問いとしては成り立ちません。主は
十字架に死んで復活されて「私はあなたを愛してきた」と言われたのです。私たちに
できる事、赦されていることは、主の十字架の出来事と復活を自分の生活で生きるこ
とです。逃げも隠れもしないで、神様の十字架の愛の事実を受けて、生きることです。
1年間、又主の十字架の現実の愛を生きるのみなのです。
 
 祈ります。「天の父よ、み名を崇めます。2018年が無事に明けました。どうか、今
年も主と共に歩み、主に御業を仰ぎ、主のご計画に生かしてください。続けて、求道
の者に信じる時を備え、病気の方に戦う力を備えてください。特に、・・・
支えてください。・・・支えてください。ご高齢のお一人暮らしの方を支え
てください。・・・姉支えてください。今年もまた子ども園、
児童クラブ関係者を守り、伝道所を含めて教会員一人一人の健康と信仰を守ってくだ
さい。自然災害で仮設に住まれる方支えてください。北朝鮮に平和を置いてください。
1週間をお守りください。み名によって祈ります。アーメン。」