2020年 説教
 いつものように著作権を放棄しています。
どうぞ、イエス様の宣教の為に使ってください。
ただ、私は学者でないので、適当な引用や孫引きがあります。
 引用される時は、自分で原本に当たり、確認してください。
私の体験の部分はもちろん著作者ですので、引用ください。
2019年説教へ            表紙に戻る


(PCの方には読みにくいですが、スマホの為に、原稿の右肩を切りました。
済みませんが、これで、読んでください。)

 エゼキエル書20章32〜38節            2020年9月20日
              「 私は生きている 」
 皆様、おはようございます。本日も1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。昨日は、コロナの感染の中、子ども園の第69回運動会が短縮でしたが、無事終わることができました。お祈りを感謝です。いろいろなことが中止や短縮のなかで、あるお父さんが「行事の自粛が続く中、運動会だけはなんとかしたいですね」という声を聞きまして、本当にそうなってくれと祈りました。なんとか守られてよかったです。鹿児島地方のコロナの感染は、県庁の発表ではこの1週間に3名の感染で、昨日迄に376人となっています。鹿児島市から1名となっていますので、大分ゆるくなって来ました。とは言え油断することなく、第3波に備え、密を避け、マスクを付け、消毒をして、短縮礼拝で行きたいと思います。
 さて今日は第3週ですので、旧約ヘブライ聖書から聞くという方針で、エゼキエル20章から聞いていきます。20章は44節と非常に長いので、後半の32節から38節を開き聞きました。ここは20章1節にあるように、第7年の5月と日付が入っています。これはゼデキヤ王様が即位して7年ということであり、紀元前591年とされています。バビロン第1次捕囚から7年目、完全な滅びエルサレム陥落から4年前の預言と言うことになります。いよいよエゼキエルの預言も、最後のバビロン捕囚に向かって、審判の響きが高くなっていきます。つまりバビロン第1次捕囚の主の警告は、あまり役に立たず、それでもエルサレムの人々は偶像礼拝をはなれず、最後の破局である第2次バビロン捕囚に向かっていると言えます。
 読みませんでしたが、20章1節には、イスラエルの長老たちがエゼキエルのところに「主の御心を問うために来た」となっています。すでに聞いてきたように、エゼキエルはバビロン第1次捕囚でバビロンに連行されて、連行されたイスラエルの民と共に祭司として住んでいました。従って20章1節に来た長老は、バビロンに連行されて、そこで共同体を作りなんとか信仰を保っていたイスラエルを指導する長老たちとなります。そして結論からいうと20章3節は長老たちに主は「私は生きている。お前たちが尋ねても私は答えない」と言っています。つまりバビロンに連行されたイスラエルの民は、異教の地バビロンで苦労し、大変さの中にあって、信仰的にかなり揺らいでいたのだと思います。苦しかったと思います。しかし主なる神様は「イスラエルの長老たちが尋ねて来ても、答えるな」と言われていたのです。

 実はこの辺の事情が本日の32節から明らかになっていきます。32節に長老たちは「我々は諸国のように、また世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう」と言っていたのです。つまりエゼキエルへの相談とは、まさにバビロン捕囚された中にあって、主なる神のみを信じていくことは、余りにも大変であり苦難も多い。また捕囚されて7年経過し、もうそろそろバビロン人に溶け込んで、木や石の神様を拝んでいいのではないかということだったのです。主なる神のみを信じるのは、もうやめていいのでないか。他の神様を信じていいのでないか。いやいや、そこまで行かなくても、主なる神様を捨てるというわけでない。ただ、主なる神様を信じるのはやめない。けれどもしかし他の神様も少しは拝んで、少しは頼んでいいのではないか、と言う相談だったと思われます。
 異教の地バビロンに連行、拉致、捕囚されて、チグリス・ユーフラテス川の河川工事にイスラエルの民は捕虜として当てられたであろうと言われています。その働きは過酷であり、チグリス・ユーフラテス川は、暴れ川で洪水の度毎に氾濫しました。バビロン人はここにイスラエルの異教の地から連行、拉致してきた捕虜たちを使ったのです。このようなことは歴史ではよく起こります。日本でも戦中、戦前は、危ない炭鉱に中国・韓国人がこき使われました。今も問題が片付かない徴用工の問題はまさに、イスラエルの捕囚人の問題と重なるのです。
 長老たちは、このような過酷な労働の中で、いつまでもバビロンの神を認めず、固くなに主なる神様だけを信じていくのはもう疲れました、ということなのです。少しはバビロン人の神様を拝んであげて、同化した方がいいのでないか。バビロン人が気を許してくれるかもしれない。いつまでもバビロンの国の中で、外国人をしていてもどうにも、しょうがないのでないか、と言うことであります。気持ちは非常によく分かるのです。主はこの相談をどうされるのでしょうか。

 33節にあるように、そのようなイスラエル捕囚民の相談を、神様は受け入れませんでした。「私は生きている」と主は言われて「私は必ず強い手と伸ばした腕と溢れる憤りをもって、お前たちを治める」と言われます。「強い手と伸ばした腕は」は、神様がその力を実行される時の慣用句でもあります。主は連行され捕囚されたイスラエルの民と共にあり、その手と腕の力を発揮されるのです。しかしそれがここでは反対に、主が守ると言うよりも「溢れる憤りをもって、お前たちを治める」といわれます。

 34節にその「溢れる憤りをもって、治める」の中身はどういうことか、示されます。それは、主はイスイスラエルの民を、諸国民の中から連れ出し、散らされた国から集めると言われます。私たちは一瞬、ああ主なる神は、イスラエルの民をバビロン捕囚から連れ帰られるのか。エレミヤ28章1〜9節にあった、ゼデキヤ王第4年の5月の預言のハナンヤの預言のように「イスラエルは今から2年のうちに戻って来る」ことになるのかと思うのです。エゼキエルも又、偽予言ハナンャのように平和の預言者なのかと、もしそうであれば、良かったと思うのです。

 35節を見ますとしかし全く違います。エゼキエルはエレミヤ書28章の偽予言者とされた平和の預言者ハナンヤと違うのです。主なる神は第一次バビロン捕囚された民を集めて、エルサレムに戻すのでないのです。35節にある通り主なる神はイスラエルを「諸国の民の荒れ野に導く」と言われます。そしてなんと「顔と顔を合わせてお前たちを裁く」と言われるのです。そして36節にある一つの比喩が書かれています。その「諸国の民の荒れ野」とは「お前たちの祖父をエジプトの荒野で裁いたように裁く」と言われるのです。つまり主は「もうバビロン捕囚で7年経過した、もうこれ以上の苦難には耐えられない。もうこれ以上生きられない。主を捨てるというのでない。バビロン人と一緒にバビロン人の石と木の神様を拝ませてほしい」との相談に否(だめだ)を言われたのです。イスラエルは腐っても神の民として生きねばならないのです。
 今度は、主は「顔と顔を合わせて、お前たちを裁く」と言われるのです。つまり主は、モーセに率いられた40年間の荒野生活のように、バビロン捕囚からさらにモーセの荒野の生活のようになる、とされるのです。いろいろな取り方がありますが、7年間では足りないとも採れます。またもっと酷い状態になるであろうとも採れます。決論からいうとイスラエルは、この預言の4年後に最後の頼みであるエルサレム神殿を完全に滅ぼされ、このバビロン捕囚は第二次バビロン捕囚を迎え、なんとこれからまた70年ほど続くのです。イスラエルは2世代また3世代にわたり、異教の地バビロンでの生活していくのです。それはある意味で、モーセの導いた荒野の40年以上になり、モーセの荒野の40年の1.7倍になっているとも言えます。

 37節を読むとその「諸国民の荒野」の状態がどういうことであるのかを示しています。それはもう一つの比喩「牧者の杖の下を通らせ、契約のきずなのもとに導く」とう言い方になっています。牧者の杖の下を通るとはどういうことかです。日本にいる私たちは、牧者の杖の下を通るという生活体験がありません。しかし聖書解説書によると中近東では、牧者の杖の下に羊を通らせるとは、羊を「これは売りに出す、これは育てる、これは屠殺」という区分けをすることだとなっています。つまり神の裁きの元に、分離がされるとなっているのです。ここである聖書解説書は、浄化の荒野という言い方をしています。
 つまり私たちは神様がイスラエルを、浄化の分離にかけられ、それぞれの契約の元に生きるようにされるということです。これはどういうことか。いろいろな取り方があると思います。具体的なバビロン捕囚でいえば「そうか、主はバビロン捕囚の7年を10倍にして70年間の捕囚とされる。もう嫌だ、嫌だ、こんな苦労をするのはもう嫌だ。もう主なる神など信じない。もうバビロン人と同化して、石や木の神に仕える」と言う人もでるでしょう。しかし「そうか主なる神様は自分たちを『諸国民の荒野』に入れられる。そしてそこで自分たちを浄化し、訓練して、新しい地に入れられる」と受け止める人があるでしょう。牧者の杖の下の体験を、イスラエルはすることになるのです。主なる神様のご計画は、第1次捕囚に続き、第2次バビロン捕囚が起こり、いったんイスラエルはエルサレム神殿をも完全に失うのです。そして完全に「諸国の荒野」の状態に入れられ、ここで主なる神と顔と顔を合わせて、契約に入れられていくのです。

 私たちは36節の「主が顔と顔を合わせる」に当時のイスラエルの救いがあるのだと思います。エルサレム神殿礼拝から、顔と顔を合わせる礼拝を今一度体験する。ちょうどモーセがシナイ半島の荒野で昼は雲の柱、夜は火の柱を見ながら砂漠を進み、水が岩から出て、マナが天から降って、ウズラが空から降りて来る。コラの子たちが罪によって地面に飲まれ、荒野の蛇にかまれて死ぬ民が、しかし青銅の蛇を仰ぎ見るといやされる。そのような身近な体験をもう一度するということです。
 イエス様の十字架と復活を見て、信じた私たちにとって、それはどういうことなのかです。私は37節「契約の絆の元に導く」とは、新約では召命に生きることだろうと思います。超自然的に、どうにも逃れられない道に来た。神様の声がどうしても聞こえて、この道に来た。直接どうこうはないけれど、知らぬ間にここまで導かれてこの道に来た。教会生活の福音の中で、自分はこの道に来た、ここを行くしかない。私たちはいろいろな召命に囲まれています。そしてそれを神様のからの導き、召命と受けて歩むことを決意する。人には誇れるものは何もない。それでいいのです。神様のみがご存じです。召命は人と比べては何も起こりません。それは他愛ない隣人を助けること、良きサマリア人の後を追うことかもしれない。病気を受けながらも、元気で生きることかもしれない。大きな事業や人に話せるようなことでなくても当然です。
 38節にあるように、神様の分離を受けて、召命に生きる時、主イエス様が「生きておられて、私の主である」ことを、私たちは本当に知ることになるのです。この恵みに今日も今週も生かされて歩むのです。

 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。昨日は天候が心配され、コロナ感染の中で、子ども園の運動会ができたことを感謝します。元気な子も、今一調子の出ない子もいました。それぞれの導きを感者です。来週の平良仁先生の現会堂の感謝礼拝を守ってください。退院され療養の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康を守ってください。子ども園と児童クラブの園児と学童、先生、支援員の働きを守ってください。会堂建築の働きを守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 祈祷会説教                2020年9月16日
 讃美 新生526番 主よわが主よ
 聖書 出エジプト20章1〜17節 旧約P.126
 宣教 「 新しい生き方・十の言葉 」
 讃美 新生543番 千歳の岩よ
 祈り 祈りの課題9月号 
 黙祷      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。本日は、出エジプト記の学びの7回目で、モーセの十戒と言われるところです。ここはある意味で、聖書の中心とも言われ、律法の中心とも言われます。もちろん新約聖書を通しては、イエス様においては、中心は十字架の救いになるのです。しかし十戒はイエス様によって救われたキリスト者の生き方の一つの指針でもあり、罪を知らせるだけの役割を持っているのではないのです。十戒は、すでに何度も聞かれていますが、本日は十戒全部は聞けませんので、今回読み、新たに示されたところからお話ししたいと思います。

 まず1,2節からですが、聖書教育にも、ここを重要として、これは十戒が示される前の「神の自己紹介又自己啓示」と言われています。実は十戒は、申命記5章にもほぼ同じものがあります。この申命記の方では、出エジプト記20;1,2節のところを敷衍した形で、神様がどのように十戒を結ばれて言ったのかを、申命記5章1〜5節には詳しく書いています。そこには「ホレブの山のなかで、火の中からあなた達と顔と顔を合わせて語られたのである」としています。実は、訳出されていませんが、十戒は全て2人称単数命令形なのです。共同訳聖書は当然として「あなたは」を外しましたが、本当は昔の口語訳の方が正確な訳なのです。
 それは「あなたは、私の他に神があってはならない。あなたは自分のために刻んだ象を造ってはならない。あなたはあなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない」安息日のところは3人称です。あなたの父母を敬え、あなたは殺してはならない、あなたは姦淫してはならない。あなたは盗んではならない。あなたは隣人に偽証してはならない。あなたは隣人の家を貪ってはならない」なのです。聖書では神様を語る時また、神様が語る時には、あなたと私の2人称の関係でなすのです。
 これは改めて、神様は神として3人称で対象化して語るのではなく、いつもあなたと私の関係で考え、祈り、語るということです。そして主は、ご自身をその関係の中で「私はあなたをエジプトの家、奴隷の家から導き出した」と言われるのです。十戒は何かの道徳訓として、こうしろああしろとして命じてあるのでなく、奴隷から導き出された恵み、恩寵の主としての神様が、私達を導く指針としてあるのです。
 そして3節から17節までの十戒があります。ここをみると「あなたは何々するな」という否定命令が8つあって「安息日を守れ」と「父母を敬え」の肯定命令が2つになっています。この形式から十戒はもともとの単純な形があって、モーセの伝承の歴史の中で、段々理由が付けられていったとも言われています。しかし残念ながらモーセが聞いた最初の形は分からないとされます。しかし伝承のうちに申命記5章と出エジプト記20章を読み比べていくといろいろなことが分かります。

 まず気づくのは第2戒の「あなたはいかなる像も造るな」と4戒の「安息日を覚えよ」の説明が他と比べて非常に長いことです。これは申命記5章の方もほぼ同じです。これは伝承の中で十戒は、2戒と4戒がよく用いられたと考えてよいでしょう。私達は必要なものや実践的に使う事は、やはり多くの説明を聞いて用いて行くと思うのです。もっと言うと十戒はどれも大切な十の教えですが、それを特にどれが大切かと言うことはできません。しかしどれが一番用いられたのかという問いを立てる事ができます。そうすると2戒「いかなる像も造るな」、4戒「安息日を覚えよ」であったとなります。それは、モーセの以後の歴史をみるとまさに、イスラエルの歴史は、いかなる像を造ってはならないに背いた歴史とも言えるからです。
 士師記の歴史も、北イスラエルのアッシリア捕囚も、南ユダのバビロン捕囚もイスラエルの失敗は、主なる神を信じるのみでなくて偶像を持ち込み、アッシリアを頼み、バビロンを頼んで、裏切られて滅ぼされて言ったという歴史と見ることができるのです。士師記の場合、士師記10章6節には「イスラエルの人々は、又も主に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドン神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテの神々に仕えた」とあります。まさにイスラエルの歴史は、人間の作った神様を取り替え、ひっ替えつつ歩んだ歴史だったのです。十戒はその度に、イスラエルを正したといえるでしょう。そして今も十戒は私達を正しているのです。私に対してあなたと呼ばれる関係は、時間を超え、死をも越えているのです。

 十戒がそのままこのような偶像礼拝の時に用いられて、イスラエルは正されたという歴史は、列王記、歴代誌に直接書いてあるのはありません。
従って十戒がどれほど用いられたかを疑問視する聖書学者がいます。しかし十戒が直接用いられなくても、私達は、預言者ホセヤ、アモス、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの預言の根底を支え、預言者達を奮い立たせていた信仰であると言えるのです。さらにこの2戒に教えに同伴し、熱情の神の啓示があります。主は熱愛の神であるがゆえに、イスラエルを愛し、何度裏切られても又愛して行かれ、これが最後には、十字架のイエス様の姿になっていきます。熱愛の神の最後の姿は、十字架の愛の神であり、熱愛でなければ、神が人となり、十字架の死にまで下られることは不可能でありました。

 次に8節に十戒は「安息日を覚えること」を示します。これは他の8つが否定命令ですが「父と母を敬え」と並んで2つの肯定命令の一つとなっています。この「安息日を覚える」において、礼拝が勧められたとされます。安息日を覚えることは、具体的には礼拝を守ることでありました。不思議なことに出エジプトでは「覚える、つまり心に留める」ですが、申命記5章12節では「守る」となって、実は原文も違っています。申命記の方の「守る」が礼拝との結びつきが強いとされます。さらに安息日を守る理由が、出エジプトでは20:11節に「主は・・・7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」とあります。ところが申命記5章15節では「あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、力ある御手とみ腕を伸ばし、あなたを導き出されたことを、思い起こさねばならない。そのためにあなたの神、主は安息日を守るように命じられた」としています。
 つまり出エジプト記では安息日の7日目の休みが、天地創造の時の主の休みに基礎付られ、申命記5章では、出エジプトを常に覚えるためとなっているのです。これも大切な安息日の基礎です。安息日は、根拠を主なる神の天地創造の休みに持ち、安息日の守りによって、出エジプトを思い起こすことにありました。ここが礼拝する日となったのです。神の休みに自分も入り、ここで救いを覚えると言うことになります。これは新約聖書にある私達は、安息日を復活の日、日曜日に変えた訳ですが、しかしその根底は、救いを覚える日、つまり復活を覚える日で、同じ精神だったのです。主日の礼拝は、十字架と復活を覚える日であるというのが、根底にあります。

 次に6戒の「殺すな」ですが、十戒の殺すなは、私的な殺人の禁止であり、戦争と公的な裁判でなされる殺人刑の時の殺人とは原文の言語は、違っています。そこで十戒の「殺すな」をそのまま直接に、戦争否定や死刑廃止に用いることはできないとされます。イエス様の十字架の愛から、死刑廃止や戦争の殺人の禁止がくるのです。

 次に、7戒の「姦淫するな」と8戒の「盗むな」は、古代社会では、財産の保存に関わっていたとされます。姦淫するなとは「他人の妻と交わるな」という結婚の契約の守りが、本来の意味とされます。10節の10番目の「隣人の妻を欲するな」ですが、直接的には、9戒の「隣人に偽証するな」と隣人が2並びます。隣人の財産との関連が根底にあります。ここは聖書教育にありますが、女性が財産と考えられた時代の教えであり、現代はイエス様の教えから受け取り直しが必要です。しかし、改めて、結婚が社会生活の根底にあるというイスラエルの信仰が伺えます。私達は改めて、十戒を恵みとして受けて留め歩むことが示されます。

 祈ります。「主なる神よ、御名をあがめます。集まってなす祈祷会が始まり感謝です。本日は、十戒を聞きました。どうか十戒をイエス様の十字架から恵みとして聞く者としてください。コロナ感染は相変わらずです。守ってください。27日の平良先生の感謝礼拝を守ってください。退院され療養の・・・ください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの園児、聖徒、先生、支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの半週を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 ヨハネ黙示録5章1〜8節               2020年9月13日
              「 屠られた小羊 」
 皆様、おはようございます。本日は先週、一ヶ月半振りに、礼拝・祈祷会が開始でき、開始2回目礼拝になります。本日も1週間の歩みと罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。先週の礼拝は、台風10号と重なりました。6日の夜に、食堂シャロームホールの横のアラカシの木が根元からぽっきりおれました。不思議なことに教会側でなく、奥田産婦人科の方でもなく、教会庭のきちんと倒れてくれたのが守りでした。見ますと根が少しくさっており寿命だったようです。業者さんが、2時間で片付けられて、これもまた手際が良く見事な早さでした。
 鹿児島地方の感染は、県庁の発表ではこの1週間に2名の感染で、昨日迄に372人となっています。2名は指宿1名と串木野1名で、近いといえば近いですが、鹿児島市は少し落ち着いて来たと言えると思います。しかし油断することなく、第3波に備え、密を避け、マスクを付け、消毒をして、短縮礼拝で行きたいと思います。

 さて本日は第2週ですので、使徒の手紙から聞くと言うことで、ヨハネの黙示録を開いています。本日は5章の前半から聞きます。ここは4章が天上の礼拝であり、5章は屠られた小羊の登場であります。私達は普通にすっと読んでしまいますが、5章7節に小羊イエス様が巻物を主なる神さまから受け取った時点で、歴史支配が、小羊イエス様に移転されたと読まれています。ここはある意味で天上の歴史の転換点であり、天上の歴史の転換に呼応して、地上の歴史も転換することが言われています。しかしもちろん現実的には、何も変わったように思えないのです。
 現実に、黙示録は90年代にパトモス島に幽閉された長老ヨハネが書いているのですが、イエス様の十字架と復活からもう60年余り経過しています。十字架と復活においてすでに、支配はイエス様の元にあると信じたはずなのに、どうして今更こんなことを言うのかです。一番大きな原因は紀元66年から70年に起こったローマ帝国へのイスラエルの独立戦争であろうと言われています。ユダヤ人は、紀元前167年頃にもセレウコス王朝シリアに対してマカベヤ家を中心して独立運動をしました。そして、ある程度の成功を収めて自治を認められます。そして紀元66年頃又も今度はローマ帝国に対して独立運動を起こしたのです。しかしローマとの闘いは、シリアの戦いとは違い、バビロン捕囚に続く完全なエルサレム神殿の炎上となって終わったのです。エルサレムに住むユダヤ人は世界に散らされます。キリスト者達は、ローマに焼かれるエルサレム神殿をみて、またローマ帝国に散らされて伝道をなしました。
 そして長老ヨハネは、エルサレム炎上から20年を経ています。キリスト者はローマ帝国から見るとユダヤ教の一派ですので、ローマからの独立を画策するやからとして、迫害を受けました。そして長老ヨハネはパトモス等に幽閉され、そこで今一度改めて、神様の支配が、イエス様に移った幻を見て、信仰を確認しているのだと思われます。
 5章に展開される主なる神さまから小羊イエス様に巻物が渡される展開は、実はエゼキエル2章9節からのイメージが働いていると言われます。エゼキエル2章にも巻物が手渡される場面がでてきます。エゼキエルでは、バビロン捕囚の出来事が、神様の言葉を信じないことに対する審判になっています。長老ヨハネは、ローマ帝国によるエルサレム神殿の炎上を、やはりイエス様を信じようとしないイスラエルの人々の罪と重ねて見たのだとも思います。
 エゼキエルも神様の手から巻物を受けます。同じように黙示録でもまた表にも裏にも文字がある7つの封印のある巻物を王座に座る主なる神さまから受けます。エゼキエルも黙示録の巻物も、裏も表も文字があるのは、イスラエルには2重証書の伝統があって、2回書くのだそうです。私達も原本とコピーをとります。原本は滅多に使いません。そして写しのコピーの方を読んだり、参照したりするのです。恐らくそういう2重書きであろうとされています。

 2節に「誰が封印を解いて、巻物を開くか」と天使がいいます。主に仕える天使と言えばミカエル、ラファエロ、ガブリエルかですが、ここには名前はありません。しかし3節にあるように、天にも地にも地の下にもつまり全宇宙全体にこの封印を解く者がないのです。実はこのように、主なる神の前に、天使が聞き、それに答える者を問うというのは、列王記上22章のミカヤの預言の神の前の裁判の時、またヨブ記1,2章サタンと神様の対話の時が下地になって、似ています。長老ヨハネは、改めてユダヤ教ヘブライ聖書旧約聖書に通じています。

 4節に長老ヨハネは巻物を解く者がないので泣いていたとあります。これから起こることを示す人、また神の言葉を解く人がいないということは、キリスト者の生きる根源、存在の根拠が係る大変なことだったのです。私達も礼拝や祈祷会ができないことで、神の言葉が共に聞けないことの空しさ、悲しみを体験したところです。もちろん個人的には、聖書を読み祈られたと思います。しかし教会として兄弟姉妹と共に聖書を読み、祈れないのは、悲しくもあり、苦しい体験でした。なんと言っても主の聖霊を感じることができませんでした。

 5節に長老の一人が、長老ヨハネにいいます。「泣くな、ユダ族の獅子、ダビデの彦ばえが、7つの封印を解き、書物を開く」というのです。「ユダの獅子」とは創世記49章9節からとされ「ダビデの彦ばえ」はもちろんイザヤのメシア預言イザヤ11章1節「エッサイの株から芽が萌え出る」です。これらは皆、ヘブライ旧約聖書のメシア預言からです。主なる神のみ前に、天使が問う、使命のある者がこれに答える。この形式はイザヤもそうでした。ヨブ記ではサタンがそうでした。そしてここでは小羊イエス様が紹介されるのです。私達は神様の歴史が展開する典型をここに見て良いのだと思います。神のみ前で、問いが出される。それに答える者が起こされる。そして実行されていくのです。どうせ、いつか誰かがするでしょうでなくて、神の声を聞いたら、イザヤのように「私がおります。私を使わしください」ということです。賜物も能力もなくても、主の言葉を聞く信仰があればそれで良いのです。主は、ヤコブ書2章5節にあるように「神は貧しい人達(私たち)をあえて選ばれる」のです。

 6節に屠られた小羊が立っていたとあります。この小羊には7つの角と7つの目があったとあります。これは全知全能のしるしとされます。つまり全知全能は神様しかありません。イエス様は、人間の側からみると屠られた小羊となり、神の側から見ると7つの角と7つ目を持つ方、神と等しい方となります。これはとても大切です。イエス様は人間の側からみると十字架に付けられ、何もできなかったまさに祭壇に捧げられる小羊のような方です。神様のしるしは何もなく、何の抵抗もできず、何の働きもなく、皆に馬鹿にされ、嘲笑され、愚弄されて、死んで行かれた方でした。
 しかしなんとこの方が神様の側から見ると7つの角を持ち、7つの目を持ち、全能の方、全地を知る方、真の神さまだったのです。譬えは悪いのですが、お年寄りの方が大好きな水戸黄門と似ています。越後の縮緬問屋のご隠居さんの姿に身を隠し、何の力もない。ご隠居に何ができるか、と悪い代官が無視して、好き勝手放題にしている。すると何のことはない。天下の副将軍だったとなっています。人間はイエス様を好き勝手にして、馬鹿にし、嘲弄、愚弄して、十字架に付ました。つまり自分の罪をはっきりさせられたのです。イエス様が屠られた小羊であったゆえに、私達は自分の罪がはっきりさせられたのです。下手にイエス様が力を出し、下手に知恵をだされたら、私達の罪ははっきりしなかったとも言えます。イエス様は「神と等しい者であることを固守すべきと思われず、自分を無にして、僕の身分を取り、人間と同じものになられた。十字架の死に至るまで、従順であった」フィリピ2章6〜8節ですが、だから私達は自分の罪があぶりだされたのです。

 つまり、屠られた小羊と真の神であることは、対応しているのです。十字架に付けられた、屠られた弱い小羊だから、7つ角と7つの目を持つ全能の主なのです。7つの角と7つの目をもつ全能の主だから、十字架に付けられた屠られた小羊だったのです。つまりイエス様は十字架に上げられた無力な只の人であった。だから本当に全知で全能の愛の神様であったのです。本物の全知全能の愛の神であった。だから屠られた小羊だったのです。イエス様の姿の本当あり方はここに示されたのであります。

 7節がこの5章の中心と言われます。小羊は進み出て、玉座に座る主なる神様から巻物を受け取ります。巻物は歴史支配が書かれています。神様からの権能と権威が示されており、この巻物に全ての歴史が刻まれており、展開されて行きます。この巻物を持った方が、地上の歴史を導き、支え、守る権威を与えられるのです。またこれは命の書とも言えると思います。ここに名がしるされることが、神の国、天国を約束されるのです。地上の姿がいかにあろうとも、命の書の書かれた名が大切なのです。
 ルカ伝16章19節に金持ちとラザロの関係があります。ラザロは、金持ちの家の前にいて病気を持ち、その食卓から落ちる者でその日を暮らして、死んでいきます。金持ちは贅沢三昧で暮らし、盛大な葬式をしてもらってやはり死んでいきます。全ての人は死ぬのです。しかし天国、神の国に行くのは命の書に名のあるラザロです。金持ちは名前さえ在りません。十字架に死なれた復活のイエス様を信じ、そこに生きる大切さを示されます。

 8節には、屠られた小羊対する礼拝が書かれています。ここには竪琴と香の一杯入った金の鉢をもって礼拝したとあります。これは直接的には旧約ヘブライ聖書時代のエルサレム神殿礼拝の姿を描いています。しかし最後に「この香は聖なる者たちの祈りである」としています。聖書は、礼拝にあたって、祈りが香であるとします。素晴らしい事だと思います。実は祈りが祭壇に献げる香であるのは、黙示録8章にも出てきます。私達は究極的に神様に献げるものが何かあるか。仕事があるか、事業があるか、お金があるのか。何にもないと言わざるを得ません。しかし聖書は祈りこそが祭壇の香であるといいます。下手な祈りかもしれません。言葉が祈りになってないのかも知れません。御利益の祈りでは駄目だ、と言われるかもしれません。しかしここでは祈りの内容は問われていません。下手でも少し変でも構わないのです。神様に心から祈るとき、それは祭壇に捧げられる香に変えられているのです。

 私達は屠られた小羊に力一杯、自分のできる祈りを献げて歩むのです。屠られた小羊イエス様が、全権をもって歴史を導く権威を受けておられます。私達はこのイエス様に全てを委ねて、全てを献げて、そして何より祈りを献げて歩むのです。

 祈ります。「主なる神よ、御名をあがめます。台風10号がきましたが、建物の被害はなく、昔からのアラカシの木が倒れました。長年の守りを感謝です。新型コロナ感染が続きますが、少し感染が弱くなりましたが、どうか続けての守りを置いてください。27日の平良先生の感謝礼拝を守ってください。退院され療養の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの園児、聖徒、先生、支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

祈祷会説教                2020年9月9日
 讃美 新生442番 この世のつとめ いとせわしく
 聖書 出エジプト18章13〜26節 旧約P.123〜4
 宣教 「 一人では負いきれない 」
 讃美 新生456番 恵み深きみ声もて
 祈り 祈りの課題9月号 
 黙祷      

 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。コロナ感染の為に、一か月半の休みになりましたが、また祈

祷会が始まりますこと、心から主に感謝いたします。ただ第3波が10月以降はインフルエンザと共に来るかも

と言われており、集まりの祈祷会は又短い時間かもしれません。しかし先のことを心配しても仕方ありません

。今の祈れる時を力一杯祈り、有効に使いたいと思います。
 8、9月は出エジプトから聞き、学ぶことになっております。すでに6回を聖書教育ではモーセの生涯として

聞いて終わっております。今日から3回で出エジプトの学びは終わります。本日のところは、モーセがミディ

アン人の舅エテロから、裁判、裁きの形式を学ぶところです。モーセはミディアン人エテロから助言を受ける

までは、一人でイスラエルの民を裁いていたのです。そして、ミディアン人エテロの助言によって、21節にあ

りますが5審制といわれていますが、千人隊長、百人隊長、50人隊長、10人隊長を選び、その隊長に裁判を任

せ、最後はモーセがなすことを進言されます。

 この裁判は軍隊方式でないかという方もあり、モーセの示された裁判は、確かに軍隊の方式だったのかもし

れません。さらにこの千人以下の隊長の裁判とモーセに持ってこらえる裁判の違いがよく分かっていません。

22節に「大きな事件があった時」とあります。これは、今でいう刑事事件、民事事件のことであるのか、実は

よくわかっていません。通常民事とは財産の分与等の私人同士の争いとされ、刑事事件はこれが傷害や殺人に

発展しての国と犯罪者との争いといわれます。譬えば百人隊長までは民事であり、千人隊長やモーセのところ

で刑事事件となるという考えがあります。しかし、もう一つは、民事、刑事という考えた方でなくて、人間に

関する裁判と神様に関する裁判という区別を言う人もいます。人間に関わる訴訟は、千人隊長迄で、神様に関

わる裁判をモーセがなしたという考え方です。

 さらに、ミディアン人とイスラエルの関係も時代によって違います。イスラエルにとって、モーセという建

国の父のような立場にありつつ、しかしその奥さんが異民族のミディアン人というのは、なかなかないのでな

いかと思います。ミディアン人の始まりは、創世記25章1〜5節には、ミディアン人の系譜があります。そこを

読むとミディアン人は、アブラハムのサラが127才で亡くなり、それからアブラハムが後妻のケトラを迎え、6

人の子を産みます。アブラハムは175才迄生きています。そしてその4番目の子がミディアンとなっています。

4番目というのは後のヤコブの子ユダもそうです。ヤコブの子もルベン、シメオン、レビ、ユダとなっており

、4番目はなぜか、発展するというか大きくなる役目を背負っているようです。
 その後のミディアン人の活躍は大きく、その歴史をみるとミディアン人とイスラエルは微妙な関係にありま

す。つまりモーセの時は、仲がいいのですが後からは、どんどん悪くないり、士師記6章のギデオンの時代は

、ご存じのように士師記の士師のギデオンがでるまで、イスラエルはミディアン人に支配されていたとう歴史

もあるのです。イザヤ9章3節にミディアン人がでてきますが、ここは「一人の嬰児が生まれた」というイエ

ス様のメシア預言のすぐ直前です。ミディアン人は、なんと神様がやっつける民族の代表になっているのです


 ミディアン人は、モーセの奥さんの民族ですが、最後は、イスラエルを支配したり、イザヤに至りては、神

様から懲らしめを受ける民族の代表になったりです。つまり聖書は、ギリギリのところで、モーセを示してい

るのです。モーセは、確かにイスラエルの建国の父ですが、その奥さんは、他民族でアブラハムの子なのです

が、むしろイスラエルと対立した民象だったのです。
 ここは、私達は、いろいろな教えと学びになるのだと思います。私達は、自分と違った人からいろいろなこ

とを教わり、又導かれれて神様の道を歩むと言うことだとお思います。どんなに対立する民族であっても、良

いものは良いとして受けていく。いつも取り上げますが、フィリピ3章8節に「全て真実のこと、全て気高き

こと、全て正しいこと、すべて清いこと、あべて愛すべきこと、全て名誉のこと、徳や賞賛にあたいすること

があれば、心に留めよ」です。
 もちろん、モーセの時代は、ミディアン人と仲が良かったのですが、モーセはミディアン人エテロの進言を

いよく聞いています。13節にすでに読んだ通りですが、エテロは、モーセが一人で、朝から晩まで裁きに携わ

っているのを見ます。17節に、エテロはこの方法は悪いとします。18節に理由が示され「あなたを訪ねて来る

民もあなたも疲れ果ててします」とします。実は、皆さんも中近東のテレビでみたことがあると思います。王

様が直々に庶民の訴えを聞いて裁く時間が、中近東の王様にはありまます。それは、王様が神様の代理だから

です。ですから、モーセも間違ったことをしていたのではありません。人々の信仰に答えて、民の訴えを聞き

、そして裁いていたのです。

 しかしこの方法では、「荷が重すぎて一人では負いきれない」のです。そして、エテロの進言は、21節に「

民の全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正の利得を憎み、信頼に価する人物を選びなさい」としていま

す。聖書教育にもありますが、ここで大切なことは、神を畏れる有能な人とあって、モーセの仕事を任せられ

る人は、先ず第1に神を畏れる人なのです。ここで私達は、神を畏れる人で余り有能でない人、神様を余り知

らないが、とても有能な人ということを考えます。そして、エテロはまず神を畏れる人を選べとするのです。

ここは、賛否あると思います。
 昔読んだユダヤ教のラビの本で「ユダヤ人は初等教育においては、最高の信仰と最低の知識の人を求め、高

等教育においては、最低の信仰と最高の知識の人を求める」と在ったのを覚えています。その時はなるほどと

思いました。しかし今、エテロは改めてまず神を畏れる人を選ぶと示すのです。そのことの大切さを思います

。それはもちろん外からは見えません。いかにも敬虔な振りをして、その実は違ったという体験を、私達はす

ることがあります。その時は、なんと無信仰な判断と思っていても、後からあれは、本当に祈って、信仰から

の判断だったのだということがあります。その時はわからないことがある。しかし、私達はただ主を信じて、

神様を畏れて決断していくことを忘れてはならないのです。

 22節に、分担することでモーセの負担が減るとしています。そして23節にはそうする目的が、「安心して自

分の所へ帰ることができる」としています。つまり平安、安心の為に、そうしなさいとエテロは言うのです。

バプテスト教会は、万人祭司という理念を持ち、特にこの教会運営の役割を分担する教会だと言われています

。実は昨日も川内教会で牧師会が在ったのですが、1640年の第1ロンドン信仰告白では「全ての信徒が宣教す

る弟子にならないと行けないと要求する」としています。牧師だけが、御言葉を宣教するのでない。すべての

信徒がこれにあたるようにとのことです。これは、牧会を含めて全ての信徒が福音宣教、牧会、教会運営に携

わることを、理想としたののです。お任せでなくて、自分ができることをしていく姿です。もちろん賜物があ

って、限界がありますが、全部牧師に任せるというのは、元々のバプテストの出発にはありません。

 つまりエテロのように、5審性までいかなくても、できることはしていく教会員で教会が運営されていくこ

とを目指していると言えます。26節の難しい事件は、牧師も難しいと思いますが、祈って分担していくことを

改めて示される聖書です。

 祈ります。「主なる神よ、御名をあがめます。集まってなす祈祷会が始まります。感謝です。どうか、9月

を導きください。エテロはイスラエルの的になった民族でした。しかしモーセはそれでも良い点は良い点とし

て受けました。その知恵を与えてください。コロナ感染は相変わらずです。病気療養の方、手術を控える方支

えてください。ご高齢の方支えてください。幼稚園、児童クラブを支えてください。御名によって祈ります。

アーメン。

   マルコ伝7章14〜23節             2020年9月6日
              「 人間の心から 」
 皆様、おはようございます。本日は一ヶ月半振りに、礼拝・祈祷会が開始できることを心から主に感謝いたします。まだまだコロナの感染の中でありますが、少しだけ第2波が収まりつつあります。今度は秋や冬になって気温が下がってのインフルエンザの時期と重なる第3波のコロナ感染の警戒が必要とか言われています。本日も、1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 鹿児島地方の感染は、県庁の発表では昨日の5日迄は、370人となっています。相変わらず広がっています。鹿児島市中の感染者は4日が1人、3日が2人でした。まだまだ安心はできません。詩編106編30節のピネハスの疫病の祈りに従って、1日も早い収束を祈るのみです。また台風10号が近づいております。今までにない大きな勢力を持つ台風で、今夜に暴風域に入り、明日の朝に最接近となります。最大風速70mとのことです。どう準備すればいいのかと思います。食料を買い込んだり、片付けをしたりで、もうすることがないくらいした積もりです。ただただ被害の少ないことを祈るのみです。

 さて本日は第1主日ですので、いつものように福音書から聞くということでマルコ伝を開いています。本日はマルコ伝7章1節にありますが「昔の人の言い伝え」という箇所の後半部になっています。ここはマタイ伝15章に平行箇所があり、そこを見ながら聞いて行きます。14節の前はイエス様が当時のモーセの「父と母を敬え」の教えが、いかして人間の言い伝えで、神様の御心「父母を敬え」を駄目にしたかを教えられました。父と母を敬うというモーセの十戒が、父母への贈答品をコルバン「すなわちこれを神様の献げものにします」という言葉だけで、しなくても良いとなっていたのです。それは神様を第1とするために、父母よりも神様を第1にしたということで、よしとされたのです。これは神の名を用いて、自分の都合の良いようにするということでした。

 14節からの教えもまた、人間が勝手に作った言い伝えの教えが、神様の御心を空にしてしまう、駄目にしてしまうことへのイエス様の抵抗の教えです。それは15節にありますが「外から体にはいるもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚す」ということでした。これは日本の生活の文脈においてはピンと来ないかも知れません。イスラエルの人々はレビ記を読むと分かりますように、いろいろな食物規定と不浄の規定がありました。それぞれに元々は意味がありました。もちろん豚を食べてはならないとか、うろこのない魚は食べてはならないとか、今もってその本当の理由が分からないのがあります。しかし食物規定や不浄規定は、例えば死人に触れたら1日汚れるとかですが、これが異邦人に触れるとか、血に触れるとかどんどん拡大解釈されていくのです。
 そして当時一番イスラエル人々を苦しめる規定になったのが安息日規定です。安息日規定はモーセの十戒の4番目にあるように、元々は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」でした。たったこれだけですが、なんとこれが365の規則になったのです。つまり安息日には料理をしてはいけない。火を使ってはならない。1.2q以上歩いては行けない。床を持ち上げてはいけない。脱穀してはいけない。穴に落ちた家畜を持ち上げてはいけない。と言った類で365の項目になるのです。本来は安息日を聖とせよ、すなわち「この日は一日中神様のことを思って過ごしなさい」ということです。

 一日中神様のことを思って過ごせるのか。寝ている時はどうすると質問する方があるかと思います。日本仏教の浄土宗の法然さんが、ある信者に「寝ている時は念仏できない。どうしたら良いか」と聞かれて「起きている時に念仏しなさい」と答えています。私はそういうことだと思います。主日、日曜日は、神様を思って過ごす日です。しかし料理をし、仕事がはいり親戚が来たり、やんごとないことが入る。その時は、それをするしかない。しかしその時間が終わったら又礼拝で聞き、聖書で読んだ神様イエス様のことを思い、考えて自分の魂の点検をして過ごすのだと思うのです。
 しかしこれが細かい規定になってしまうともう神様のことの思いや自分の魂の点検が吹っ飛ぶのです。神様を思うことが無くなるのです。料理をしない、火を使わない、床を上げない、1日何q歩いたか、と数えて規定をいくらきちんと守ったかの日になるのです。これは全く普通の日と同じになります。つまり神を思う聖なる日でなくなるのです。私達は自分の魂、私の魂を主に向かって点検する日が必要なのです。
 イエス様が「外から体に入って汚すものはない」と食物規定を破棄されたのは神の御子の権威をもって、どうしても必要な事だったのだと思います。豚は汚れている。うろこにない魚は汚れている。蹄の分かれている動物は食べられるが、蹄が分かれていないと食べられない。最初は確かに食物規定で、イスラエル人であること、神を信じる民であることを証ししました。それは弱小民族イスラエルが、強力な軍隊と文化を持った国で生き残るための神様の知恵だったのでないかと言われています。イスラエルはあっという間にエジプト、アッシリア、バビロンと言った軍事や文化の強い国に囲まれ、同化される。その中で神様を信じる民であることを、外的な食べ物と不浄の規定で確かめて歩むしか無かったのです。そうしないとイスラエルは神の民であることを忘れてアッという間にエジプト人、アッシリア人、バビロン人になってしまったのです。しかしイスラエル人々が、歴史を持ち、預言者を持ち、心から神の民の使命を知るようになった時、食物規定、不浄の規定は、その役割が終わるのです。イスラエルは神の言葉を信じる民として生きていくのです。

 19節にイエス様が言われた答えがユーモアたっぷりです。食物は「心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。」外に出されるの原文は「便所・トイレに出される」となっています。どんなに清い食物も汚れた食物も食べたら同じである。変わらない。もう食べ物の優劣、清い、不浄の言っても仕方ないということです。
 私達は、2000年前のイスラエルの規則を笑うかもしれない。しかし私達も同じようなことをしているのだと思います。お金、家柄、学歴と2000年前のイスラエルには余りなかったのですが、今はお金と家柄と学歴で人を見るのは相変わらず変わりません。それはその人の実際の生き方や仕事ぶりで見ればいいのですが、なかなかそういかない。それは自分で考え、自分で見、自分で判断しないと行けないのですがそれは結構大変なのです。その人の外側、お金、家柄、学歴をみてしまうのです。
 オウム教が起こった時、なんであんなに頭のいい人が、と成りました。学歴が高かったからです。しかし頭は良かったかもですが、知恵が無かったです。お見事に教祖の教えに引っかかったのです。仕事はできたかもですが、愛が無かったのです。空中を飛ぶとか、預言するとかの奇跡ばかりに目がいって、今命がある、今生きている日常の奇跡、今日を守られている日常の奇跡に気づかない、不満だらけで今を感謝できないのです。今日生かされ、今日があることが奇跡であることに気づけないとしたら、その宗教は危ないです。今日朝ご飯が食べられた。今日礼拝ができた。そこを感謝せずに、奇跡に感動しても始まらないのです。

 20節に、イエス様は食べ物で、不浄の規定で、人間はどうこうなるのでないと言われます。さらに21節に教えをされています。「人間の心から悪い思いが出てくるからである」です。食べ物や不浄の規定で、人間はどうなるのでない。それは清い食べもの不浄な食べ物も皆トイレにいくではないかと言われる。そして本当に人間を駄目にするのは「人間の心から」と言われるのです。簡単に言うと唯心論ですね。これは、昔のマルクス主義の方からするととんでもない教えです。人の心が悪いのは、社会が原因である。パンを食えない環境にあれば、人の心は荒み、荒くれ、良いことが思いつくわけがない。泥棒に走り、強盗をする、人を騙す。つまり悪い心は、環境が悪いからであるとするのです。なるほど赤貧洗うがごとくで、善い人がでるのかとなると難しいかもしれない。
 しかしイエス様が最後の審判の譬えで言われたタラントンの譬えとムナの譬えがどうしても起こってきます。同じお金を与えられても、それを生かす人と土に埋める人が起こってくる。赤貧洗うがごとくでは確かに、どうしようもないかもしれない。しかし着る物と食べ物があるとして、その次にどう生きるのかは、人間の心のあり方に関わって来る。神様からタラントンの賜物を与えられても文句ばかり、こんなに少ないのでどうする。何もできないでないか。こんな少ないタラントンを与えた神様が悪いと文句を言いつつ生きるのか。人から見たら小さい、小さいタラントンを感謝し、受け、与えられて、しかしそれを一生懸命神様に献げ、世に献げて生きるのかどうか。それは、どこで変わって来るのか。イエス様は「人間の心」を言われるのです。心の持ち方で人生変わるくらいなら、もう変わっていますと言われそうです。しかし本当にそうなのか。私達は本当に心を、主に向けているのか、問われます。
 
 21節には、イエス様は人間の心から悪い思いが出てくるとして、みだらな行い、盗み、殺意、22節に姦淫、貪欲、悪意ここまではモーセ十戒とされ、次に詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別と続きます。モーセの十戒の殺人、姦淫、嘘付、貪欲が元になって、詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別と続くとされます。何でもない小さい罪の背後に基本的な罪があり、その背後には神様からの大きな離反があるのです。
 この前、たまたま詩編103編と104編を読んでいました。この2つの詩編は「私の魂よ、主を褒めよ」で始まり「私の魂よ、主を褒めよ」で終わっています。その中味は、もちろん神への讃美です。ふと待てよ「私の魂よ、主よ褒めよ」と歌っている私はどこにいるのかと思いました。不思議です。詩編は、私と私の魂が分かれているのです。つまり私は私の魂を見て励ましているのです。訴えているのです。当たり前の言い方ですが、私の詩人は、私の魂に呼び掛けて励ましているのです。私達は神様から自分を与えられているのです。私達は神様から自分の魂を見る力をきちんと与えられているのだと思います。「私の魂よ、主よ褒めよ」はそうでないと言えないのです。

 私達は、神様から霊を与えられており、私達は、日々を生きており、私の霊に呼び掛けることができる。神様はそうしてくださったのです。これは私達に私、霊が与えられてあるという大きな恵みだと思います。外から人を汚すことのできるものはない。人間の心から悪いものが出てくる。十字架のイエス様にしっかり繋がって、魂を清められ、点検し、神様に繋がって生きることが赦されています。

 祈ります。「主なる神よ、御名をあがめます。本日は一ヶ月半振りの礼拝を感謝します。主イエス様は『外から私達を駄目にするのはない。心から駄目になる』と教えて下さっています。十字架の主に頼みつつ歩むものとしてください。今までにない超強力な台風10号が近づいています。どうか進路に当たる鹿児島、天草、長崎やその他の人々を守り導き支えてください。被害を抑えてください。病気療養の方、手術を控える方、ご高齢でこの台風を迎える方、どうか守りを置いてください。明日の幼稚園は台風で休みです。どうか、コロナ感染の中、幼稚園、児童クラブの子ども達、先生方を支えてください。御名によって祈ります。アーメン」


 祈祷会説教  2020年9月2日
 讃美 新生492番
    わが身の望みは
 聖書 出エジプト13章17〜22節
    旧約P.115
 宣教 「 神の導き 荒れ野の道 」
 讃美 新生494番
        わが魂を愛するイエスよ
 祈り 祈りの課題9月号 
 黙祷      

 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。教会では、新型肺炎の鹿児島での蔓延のため、集まってなす礼拝・祈祷会を9月6日の主日からとしました。次の主日から礼拝、祈祷会を始めます。鹿児島県は昨日総計362人となっています。先週の水曜日は351人でしたので、1週間で11人罹ったことになります。少し感染が横ばいになったようです。この動画配信と原稿が用いられて、皆さんの祈祷会に役に立てば幸いです。続けて聖書を読み、祈りをなし、一人一人が、主のみ前に信仰をもって歩まれること、又残り半週をまた過ごされることを祈るのみです。

 本日の聖書は葦の海の奇跡の前の出来事です。1、神様がどうしてイスラエルを葦の海に導かれたのかが示され、2、この出エジプトに、ヨセフの骨が携えられていたことが書かれています。そして3、主は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって民を導かれたとあります。
 17節にはファラオが民を去らせた時とあります。エジプト王ファラオは、モーセのとアロンによって、11の奇跡が行われ、特に最後の民と家畜の初子の殺害の奇跡を体験して、この災いでこれ以上イスラエルの民をエジプトに置いて置くわけには行かないと判断しました。出発した民は12章37節には60万の民となっています。これは男だけとありますので皆数えたら150万人以上となり、つまり鹿児島県全員が移動ということになります。これだけの人が一度に移動できるは古代では難しいとして、数回に分かれたとか、数え方が違うとかいろいろな説があります。また
 ヨセフから出エジプト迄の滞在期間は、12章40節には430年となっています。これも短いとか長いとか色々な説があります。出発はラメセス王の時代らしいですが、滞在年数は具体的には実際は分からないとされます。400年というと、江戸時代が江戸幕府1603年から明治元年1867年ですので、264年間でした。江戸時代より2倍弱となります。日本の人口は1600年頃には1200万人、1750年頃は3100万人となっています。250年間で約2倍の人口になったことになります。イスラエルは、ヨセフの一族から60万人ですので、その増加そのものが奇跡といえるかも知れません。
 
 聖書に有るとおり、主はイスラエルを導かれるにペリシテ街道に導かれなかったとあります。ペリシテ街道とは、シナイ半島の地図を見て下さると良いのですが、シナイ半島の北側の道です。言ってみれば地中海に面した、エジプトから今のイスラエルへの直線の道です。この街道にペリシテ人が後に住みついたことからこの名が付きました。この道は広く大きく、すでに今のイスラエルから中近東からエジプトにいく幹線道路でありました。そこを通ればエジプトのメンフィスからエルサレムまでは400qと少しになっています。1日20qで進んだとしても、20日で付きました。しかし主なる神は、そのペリシテの道を通らずに、40年をかけてカナンの地を目指します。理由は「近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われた」と書かれています。

 神様は、近道は闘いがあること、その闘いをみて約束に地にいくことをイスラエルが止める可能性があること、としています。ここは聖書教育にもありますが、私達の人生の縮図でもあります。私達は目標をもって生きていきます。その目標にまっしぐらに一番近い道を行くことがあります。しかし目標はもっていますが、その目標にまっしぐらにいけないことがあります。ある人は経済的な理由で、自分でお金を貯めてからとなります。留学なんかはこれがあるのではないでしょうか。どうしても外国で身につけたいことがある。しかしお金がない。その人はお金のために日本で仕事をして、それから留学となります。ある人はお金はある。サポートがある。しかし今の実力で行ったら向こうで潰れるかもしれない。もう少し力をつけてから行こうとする人もあるでしょう。
 いろいろな道があります。神様はイスラエルを導くに、近道言ってみればすぐに留学させなかったと言えます。まずいろいろな体験をさせて、迂回、遠回りをして目的地にいくことに導かれたのです。ある意味で苦難の道とも言えます。しかしそうしないとイスラエルは本当のイスラエルに成らなかった。40年間の荒野すなわち砂漠の生活をもって、イスラエルはイスラエルとなり約束の地に入っていくのです。

 18節にあるように、イスラエルは「葦の海」の方向に導かれます。具体的な地名は、3つほど候補地があり、ここだと言うのは分からないそうです。しかし名前にある通り、葦の生えた湿地帯であり、ここを通ってシナイ半島に入ることになります。そして14章では、ここでもう一つの奇跡、紅海を渡ると言われる海が分かれて、その中を通っていくという奇跡が起こるのです。これも次の章で学ぶことになっています。しかしここでは目的のために、神様は迂回させられることがあるということです。まっすぐに目的に行きたいが、しかし迂回を与えられる。こうすれば自分の目的に近い、このコースやこの学校にいけば近道である。しかしそうされない。その時、私達は、泣く泣くの時もあり、仕方なしに行くときもあり、滑り止めのような形でいくこともあるかもしれない。しかしそこからまた新しい神様との歩みがあるのです。むしろイスラエルの歴史をみるとこの迂回が本道であった。迂回のためにイスラエルはイスラエルとされたとも言えます。それは迂回の道の最大の頂点が、モーセが神様から頂く十戒の授与だからです。回り道と迂回をしなければ、神の山シナイ・ホレブ山に行けなかったのです。

 これは大きな人生の教訓であり比喩と思います。近道を行っていたら目的地には着いたかもしれない。しかしその本当の仕事には就けなかった。目的の資格は取れたかもしれない。しかしその資格の本当の務めに気づけなかったということがあると思います。迂回によって実は、本当の目的地にいくことになる。つまりたまたまの腰掛けが、休憩がのつもりが、本当に自分がしたいことになったということです。神様の導きの不思議です。

 19節には、出エジプト記は、この出エジプトする民がヨセフの骨を携えていたことを書いています。これは聖書教育誌には、神の不思議な導きのしるしだったとしています。これは確かにそうです。ヨセフがエジプトの総理大臣になって、エジプトを治めて、それがイスラエルの民の存続と増加になった。しかしそれ以上にヨセフの人生が、つまり12兄弟に中に生まれ、兄弟達から疎まれ、兄弟達に奴隷としてエジプトに売られた。そして主人に買われた。けれどもそこで主人の妻から冤罪をかけられ、又刑務所に行きになった。しかしこの刑務所に行ったことが、ファラオの側近達と親しくなることになり、そこからファラオ王との会見が赦され、王の苦しむ問題を解いて、なんと総理大臣まで上り詰めるのです。これは確かに旨くいきすぎたサクセスストーリィです。しかしこれは出エジプトをヨセフが個人の歴史で前触れでしていたのです。そして似たようなことが一杯あるだと思います。スタンダールの『赤と黒』もまた、設定は全然違いますが、司祭になることで一番下の身分から貴族に登用され本当の貴族になるのです。ただスートーリィは、最後は不倫の死刑で、ヨセフと違います。
 
 つまりヨセフの骨はイスラエルの人々に神様の守りと導きのしるしとなっているのです。多くの方が、人生にそれぞれの「ヨセフの骨」を持っておられるのだと思います。それは母の言葉だったり、父の言葉だったり、友人や先生の言葉だったりするのだと思います。22節に主は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、イスラエルを導いてくださいました。これは具体的にはシナイ山の火山の事であろうと言われています。鹿児島にとっては桜島の噴火と似ております。主は共に歩んでくださることのしるしになっているのです。主はいろいろなしるしを私たちの周りにおいて、私たちと共に歩まれことを示してくださいます。
 主の与えられる私たちの人生の回り道、迂回路はその時は、悲しく面白くないかもですが、しかし後から振り返ると大切な大事な道であったという恵みです。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。新型肺炎のため祈祷会を休んでいます。しかし来週から又開始します。どうか主の守りの内に、又導きください。主は、モーセとアロンをもって、エジプトから奴隷のイスラエルを脱出させてくださいました。その時あえて近道でなくて、回り道、迂回で導かれました。どうか、私達にもそれぞれの道を教えてください。台風9号が近づいています。暴風雨と洪水の被害を抑えてください。病気療養の方、手術を控える方、ご高齢の一人暮らしの方、支えてください。コロナ感染下の子ども園と児童クラブの子どもの保育を守ってください。残りの半週の歩みを守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

   ヨブ記2章1〜9節               2020年8月30日
              「 不幸も頂く 」

 皆様、おはようございます。本日もまたコロナの感染の中、礼拝・原稿の配信ができることを主に感謝します。本日も主に命を与えられて、コロナ感染のために礼拝、祈祷会ができない中、皆さんと共に個人的な礼拝や家族の礼拝の支えになりますように祈ります。1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。鹿児島地方の感染は、県庁の発表では昨日の29日迄は、359人となっています。相変わらず広がっています。鹿児島市中の感染者は、16日から28日の12日間で10名となっています。少し収まっていますが、まだまだ安心はできません。詩編106編30節のピネハスの疫病の祈りに従って、1日も早い収束を祈るのみです。
 
 本日の聖書は、第5週の主日になっていますので、聖書の箇所を自由に決める主日ということで、ヨブ記を聞いていきます。皆さんもいろいろ問いを持たれていると思います。やはりこの新型コロナの疫病をどう受けるか、今まで散々聞いてきましたが、もう一度今日は、ヨブ記に重ねて聞いて行きたいと思います。
 ヨブ記はいろいろなところで言われるように、聖書はもちろんですが、文学作品としても、いろいろな国の作家達が最高の文学であるとしています。それは当たり前ですが、テーマが人間の苦難を扱っているからです。これはある意味で古今東西のどこの国、どこの地方、どこの民族、どの宗教にも人間である以上、苦難、苦しみは在るからです。それは小さい大きい、深い浅いがあると思います。またその苦難も自分の苦難、家族の苦難、民族や国の苦難とあるでしょう。そしてヨブ記の苦難は、神様の前の人間ということです。無神論であれば偶然とか、人間の歴史的必然とか言っておればいいのです。しかし聖書は、全能全知の神、愛の神様がおられる。しかしその中で、この苦難と苦しみが起こります。つまり無神論よりも、聖書の苦難、苦しみは、遙かに悩みが大きいと言うことになります。
 
 譬えると交通事故も大変なことですが、どこか、自分の間違いやそれなりの原因が考えられる。疲れから、不注意から、お酒からと有る訳です。しかし神様からの苦難、苦しみは、原因がそう簡単に私達に示されません。つまり本当の苦難、苦しみの理由が分からないのです。その中で起こってくるので、これはある意味で、神義論と言って正しい神がなぜ、苦難を赦すのかという問題が横たわることになります。もちろんヨブ記は神義論そのものがテーマでないと言われます。大きく取るとどんどん大きくなりますので、本日は具体的に、ヨブが出会っている苦難に即して、聞いていきます。
 
 本日は2章から聞きますが、すでに教会に長い方は、ヨブ記1章の出来事をご存知でしょう。聖書はウツという地にヨブという無垢な正しい人がいたと示します。ウツというのは、イスラエルでなくエドムの地方だろうとなっています。ヨブはイスラエル人ではないとされています。聖書にイスラエル人でない人が登場するのは、変だと言う人があるかも知れません。しかし聖書は、全地を造られた主なる神様を示します。主は、イスラエル人の神様ですが、同時に全ての人の主なる神さまなのです。聖書では、ヨブには3人の娘と7人の息子がありました。羊とラクダと牛と雌ロバは、詳しくみませんが、全部足すと1万1千頭もっていたことになります。又時代は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの族長時代であろうとされています。しかもヨブは、子ども達のためにも、その罪のために神様に生け贄を朝早くから献げていたとあります。
 
 しかしここにサタンがでてきます。神様はサタンに、ヨブのような無垢で正しい人はいないといいます。するとサタンはヨブ1章9節「ヨブは利益もないのに神を敬うのですか」と言うのです。そして「ヨブから子ども達と財産を取ってみなさい、すぐにあなたを呪うでしょう」と言うのです。神様はなんとヨブを信頼し、サタンに委ねます。そしてサタンはすぐにヨブの10人の子を殺し、奪い、続けてヨブの1万1千頭の家畜全財産を奪うのです。しかしヨブは1章21節「主は与え、主は奪う、主の御名は褒めたたえられよ」として、神様を呪いませんでした。
 そして本日の2章にはいるのです。又もサタンは神様の前にでてきます。神様はヨブの信仰を2章3節に「ヨブはどこまでも無垢である」として褒めます。すると2章4節にサタンは、人間は「皮には皮です」として、元々の意味が分かっていないのですが「人間は完全な利己主義者ですので、自分の命が大丈夫となれば、それでいいとするのです。自分の皮である命が守られればいいのです」(関根正雄訳の注解)と答えます。そして、サタンはヨブの骨と肉を打つことの赦しを求めるのです。私達は改めて、サタンの人間理解の冷血な正確さに驚くと共に、人間の弱さを知らされます。人は、自分の命が危うくなる時に、本当に神様への信仰を保てるのかという問いです。
 
 実は、この2章3節の「お前は理由なく、私をそそのかした」とヨブ記1章9節「人は利益も無いのに神を敬うでしょうか」の「理由無く」と「利益もない」は同じ言葉です。つまりヨブ記は、ヨブの信仰を、人間の側からいくと「理由無く、利益もなく」信じるのか。つまり人間の価値から離れて神を信じるかとしています。これは結論からいうと人間の利益と価値からでなくて、神を信じるのか。つまり神の自由において神を信じるのか。神の自由を認めて信じ、生きるのか、という伏線があります。
 
 2章6節には、なんと主なる神さまは、サタンに「ヨブをお前の手に委ねる。ただし命を奪うな」と言う条件で、渡すのです。私達はここに人間の自由の問題や神の義の問題をいくらでも提起できます。しかしヨブ記は、ここで神の問題でなく、この世に生活して生きる人間として、今出会っている一つの苦難の現象として、問いを私達に提示するのだと思います。 
 7節にサタンはヨブを、頭のてっぺんから足の裏まで酷い皮膚病で打つのです。これはすでに聞かれたと思いますが、人間の皮膚が象の皮膚のようになっていく象皮病説や昔からはこれはハンセン氏病のことだとされています。とにかく当時においては、ヨブは当時の人に恐れられ、必ず死ぬ病気、しかも神様に打たれて死ぬとされた病気に罹ったことになるのです。言ってみれば、少し前の癌の宣告に近いと言えます。ヨブはこうして、体が打たれ、さらに人々からは神様から打たれた病気になった。つまり肉体的にも霊的にも打たれたことになるのです。
 
 私達は病気をしますが、大体において病気はただ肉体の変調、体や臓器の変調だけで終わらないことを教えられます。病気は不思議なことに、その人の生き方と関わっており、それは生活習慣病というだけでなく、いろいろなストレスや霊的な疲労が重なっていることがあります。当然ですが、ヨブもまた単に肉体の象皮病やハンセン病に成っただけで終わらなかったのです。ヨブの病気は背後に神様の計画、神様から離されたことがあったのです。ヨブは酷い皮膚病、ハンセン病となったのです。
 
 9節に、ヨブの妻はとうとう「どこまで無垢でいるのか。神を呪って死になさい」と進言しています。当然でありましょう。10人の子供なくし、1万1千頭の家畜をなくし、自分自身は死に至る病となる。これは明らかにおかしい。単なる偶然の積み重ねとは思えない。何かある。少なくとも神様から見放されていることは確かなのです。ここで世界3大悪妻のことが書いてある解説書がありました。ソクラテスの妻クサンチッペ、モーツアルトの妻コンスタンス、そしてトルストイの妻ソフィアです。しかしこの中に、ヨブの妻を入れていいと言うのがあります。
 しかしこれはかわいそうですね。クサンチッペは、ソクラテスが、全く甲斐性がない。広場の若者を捕まえて哲学論議している間に、3人の子供を育てました。またコンスタンスとソフィアもモーツアルト、トルストイがその道の専門家で、家庭を顧みるどころでない。全く甲斐性がないのです。トルストイに至りては奥さんがいるのにせっかくの遺産、財産の放棄をする。経済的にちっとも恵まれない。しかしそれぞれに子供たちを育てています。そしてヨブの妻も10人の子供を産み育てて、そして10人殺された。これは「神を呪って死になさい」は当然であり同情できます。
 しかしヨブは10節にいうのです。「私たちは神様から幸福を頂いた。だから不幸もい頂こう」。これはいったいどういう信仰であるのかです。ヨブの信仰は、ご利益を超越した信仰であるのか。ヨブの信仰とはどういうことであるか。まず私たちはヨブの信仰が、神様に認められていることを確認したいです。ヨブ記42章7節、神様はヨブをたしなめに来た4人の友人たちエリファズ、ビルダデ、ツオファル、エリフに対して「お前たちは、私に対して私の僕ヨブのように、正しく語らなかった」と言われています。ヨブはあれほど悪態をついていますが、神様は4人の友人たちでなくて、ヨブの信仰をよしとされているのです。4人は神様の側に立って、ヨブをたしなめました。ヨブはひたすら自分の境遇の酷さと取扱いを主に訴えました。しかし主は、神の側に立ち、ヨブをたしなめる信仰でなく、ヨブの文句を言う信仰を義とされ、友人の4人が正しくないとされたのです。
 
 ヨブの信仰は16章19節「このような時にも、見よ、天には私のための証人がいる」、19章25節「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」であるとさえれています。そして最後の42章4,5節「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰に伏し、自分を退け、悔い改めます」とされます。ヨブがさんざん神様の取り扱に文句を言った時、神様は答えてくださるのです。その答えは40章6節「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」とあります。その答えは40章15節~41章26節です。神の創造のベヘモット(カバ)とレビヤタン(ワニ)の創造の姿でした。つまり博物学で、主は答えられました。しかし私たちはここを読んで、どうしてこれでヨブは悔い改めるかと言いたいです。しかしここには深い出来事がおこりました。つまり人間は、神の答えを前もって想像し、人間のつまり自分の判断に合わないのは、主なる神の答えでないと言えるのかです。ヨブは神様の知識に驚いて悔い改めたのではない。神様の答えを、自分の問いへの答えと受け止めたのです。つまりヨブは、神の答えを、神の答えとして本当に聞いた、受けたことが大切だったのです。人間的にみれば稚拙な単なる動物の博物的な語りです。しかしヨブはこれを神様の応答として受けたのです。
 
 もっと言えば、神様の自由を自由として受け入れたと言えます。ヨハネ伝1章18節「今だかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる一人子である神、この方が神を示されたのである」となっています。イエス様を見て、その言動とその十字架と復活をみて、こんなものは神様であるはずがないというのは自由です。しかし神様は事実そうされたのです。そしてイエス様を、罪の赦しの神として受ける者は幸いなのです。イエス様の言われた通りに生きても、何も儲かりません。一門の人物になれません。会社企業は大きくならない。人々に認められない。いや倒産するかも、むしろ馬鹿にされるかもしれない。しかしそこで私は、神の恵みを信じて生きていくのです。そこで私の魂は、隣人の為に祈り支え、助け愛し、共に歩むのです。主の示される道、真面目に信じて、生きて何が悪いのか、という道なのです。ヨブの信仰を、このコロナの時代に示され、十字架の恵みを受けて歩みたいと示されます。
 
 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。8月を終わり9月に入ります。9月から礼拝、祈祷会を再開します。ヨブの信仰に従うものとさせてください。神様の自由を受ける信仰を与えてください。どうか、平和を祈り、造るものとさせてください。続けて、病気療養の方、手術を準備される方、ご高齢の方支えてください。こども園、児童クラブの先生方、子供達を守ってください。教会員一人一人の信仰、魂、健康を、1週間守ってください。次週からの礼拝、祈祷会の開始を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 祈祷会説教                2020年8月26日
 讃美 新生297番 
    主によりてあがなわる
 聖書 出エジプト12章21〜28節
    旧約P.112
 宣教 「あなたの子孫のための定め」
 讃美 新生298番 十字架の影に
 祈り 祈りの課題8月号 
 黙祷      

 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。教会では、新型肺炎の鹿児島での蔓延のため、集まってなす礼拝・祈祷会を9月6日の主日からとしました。鹿児島県の感染は今総計346人となっています。先週の水曜日は335人でしたので、1週間で11人罹ったことになります。少し、感染が横ばいになったようです。この動画配信と原稿が用いられて、皆さんの祈祷会に役に立てば幸いです。続けて聖書を読み、祈りをなし、一人一人が、主のみ前に信仰をもって歩まれること、又残り半週をまた過ごされることを祈るのみです。

 本日の聖書は出エジプト12章21~28節となっています。ここは有名な出エジプトの頂点である過越祭の起源となった初子殺害の出来事です。過越祭は、イエス様の十字架の原点でもあり、ここで屠られた小羊が、イエス様の十字架のひな形になります。また過越の起こった出エジプトは、言ってみればイスラエルの民の原点でありアブラハム、イサク、ヤコブの民が、単なる家族から民族になる原点でもあります。またイスラエルがアッシリア捕囚に会い、バビロン捕囚に会う時、またダニエル書の背景になったセレウコス王朝の酷い支配、そしてローマの支配を受けた時のその苦しみを跳ね返す原点となった出来事でもありました。つまり聖書の信仰の原点ともなり、もっと言うと聖書の原点となり、つまり天地創造の原点になったとも言えます。何かの本で、出エジプトの体験が、天地創造の出発ですという本を読んで、これは言い過ぎでないかと思った事がありますが、あながちそうでないと思います。

 さてその過越のできことですが、いろいろな要素が入っていて、百花繚乱の取り方があり、またその伝承も多義に渡り、細かく見ていると説明には切りがありません。今回の聖書教育も、教育という観点から読んでおります。そんな読み方もあるのかと思います。しかし解釈の前に何が起こったのか、事実はどういうことであったのかを本日は聞いて行きます。

 モーセとアロンは、主に召されて、イスラエルの民を出エジプトさせる使命を受けます。しかしその時すでに主は、ファラオはモーセとアロンの言うことを聞かないと言われます。自分が召されておいて、その仕事は成功しないと神さまから言われるのは、気持ちのいいものではありません。やる気を無くすと思います。しかしそのことにおいて主はご自身の業と不思議を示すと言われるのです。モーセとアロンは文句はあったでしょうが、淡々とその仕事をして行くしかありません。私達の人生も主によって誕生させられ、死において召されるまで、この世の人生を、主を讃美しながら生きるということでしょう。その時、恵みの時や苦しい事があるかもしれません。しかし主が命を与えてくださって、私達はこれを感謝しつつ、神様のみ業に用いて頂くほかありません。

 7章から10章まで、主はモーセとアロンに10の徴をファラオの前でさせています。これは数え方で10つとも9つともなっています。杖が蛇になる、ナイル川の水が血にななる、この時の魚と川の悪臭をもう一つの徴に数えるのがあります。次に蛙の発生、ぶよの発生、虻の発生、9章からは家畜の疫病の発生、腫れ物皮膚病の発生、雹の発生、10章にはイナゴの発生、そして暗闇の発生です。そして最後が、過越すなわち家畜から人間における全ての初子の殺害の出来事です。これが11番目のエジプトに対する災いということになります。初子の殺害は11の災いの最後であり、古代社会の長子の特権を考えると、この最後の災いが一番酷い災いとされます。

 11章からその過越の災いの説明がなされています。11章はイスラエルの民が出発することを前提に、エジプト人から金銀の装飾品を求めることが言われています。実はこの出来事は、本来は何を意味しているのかはよくわかりません。イスラエルがエジプト人から好意を得ていた証明なのか、うまく騙したことなのか、これから40年間の旅の行程の旅費の説明なのか。しかし出発前にこのことが起こったのです。
 12章の前半は、過越をイスラエルの正月つまり暦の初めとすることが言われます。こういう暦的な時間を大切にするのは祭司資料とされております。過越の祭りが、イスラエルの民おいて、毎年祝われるためにこのような設定がなされたとも言われています。12章は15節から除酵祭との関連を語っています。過越祭は、出エジプトを記念する出来事ですが、除酵祭という農耕の春の祭りと結合していたとされます。聖書が神様の救いの歴史の守り、覚え、それを記憶して行く時に、単に歴史の祭りとして覚えていくのでなく、農耕祭の春の祭りも取りいれていったのです。ここに聖書の知恵を思います。私達も、信仰の出来事を、できるだけ多くの生活に関連しながら覚えていくことの大切さを示されます。

 そして21節から過越の出来事です。すでに多くの方はご存知と思います。21節にモーセは、長老達を全て呼び寄せます。そして「家族毎に羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい」となっています。私達は、ここに過越祭が最初は家族の祭りであったことを示されます。しかし申命記16章6〜7節には「過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のどこでもいいのではなく、ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない」とあります。つまり過越はまず家族で始まり、そしてエルサレム神殿でそして又家族でと言う風に変遷していることを知らされます。イエス様の時には、過越祭がエルサレム神殿でなされておりました。私達はこのように、過越祭が家族で、そして神殿でそしてまた家族でされていることに、信仰の生活化と普遍性を思います。信仰は家族でなされ、そして公の教会でなされる両車輪であることを示されます。つまり信仰は個人の出来事ですが、同時に教会、家族の出来事であり、私的な信仰と公の信仰と2つがバランスを持ちつつなされて保たれていくのです。

 22節からは、ご存知小羊が殺されて、その血が玄関の鴨居と柱に塗られるのです。これは全く日本の神社の赤の鳥居と同じという方もあります。たまたまの民族風習の一致なのか何か普遍性があるのかです。ユング心理学には集合的無意識という考え方があって、どんな人間も普遍的に持っている心理の型があるとします。血によって悪が贖われ、罪が過ぎ越されるというのは、教えられなくても、人間であれば誰でも心の底に、感じている事なのかもしれません。

 23節に、滅ぼす者がその血を見て、その家を過ぎ越すのです。ここには、古代の悪霊信仰を言う人もあります。小羊の血が滅ぼす者を過ぎ越すというのは、贖いの信仰の原点とも言われれます。つまり悪からの守りと代理の原点ということもできます。
 12章43節以下には、外国人、奴隷、寄留者等の過越祭の参加、不参加の規定があります。ここにはたといエジプト人であっても、このモーセの話しを信じて同じことをすれば、初子殺害の災いを過ぎ越すということが込められています。つまり過越祭は、一見するとただの民族信仰のようでありつつ、その行為においてはエジプト人、外国人、寄留人、奴隷もそうできたことなります。これはキリスト教がユダヤ教から始まっているのですが、しかし単なる民族信仰でなくて、イエス・キリストを信じるということにおいて、すべての民族に開かれていることのひな形でもあります。
 
 24節から空間に広がるのみならず、時間に広がると言って良いでしょう。つまり出エジプト記は最初から子どもの教育を考えているのです。26節に子ども達はこの儀式を見て「この儀式にはどういう意味があるのか」と尋ねた時に、過越の説明をしなさいというのです。ここには、子どもの主体性というか、問われて答えるという最も原理的な教育の姿があります。つまり子どもは問いを持つことで、事態を受け入れていくと言うことです。ここはただ教えることでなくて、問題意識を持つことに教育の始まりがあるという教育観を見ていいでしょう。
 そして大人、教会に求められるのは「これはどういう意味があるのですか」という問いが真剣に出されるという事です。水飲み場に馬を連れ来ることはできるが、飲むのは馬であるということです。このためには教会は主の恵みにより、愚直なまでに礼拝や祈祷会を守り、聖霊の働きを祈り、主の言葉を一人一人が成して、祈りを積み重ねて行く。人々に「これはどういうことか」という問いが起こり、これに対する相応しい応答を持っている事が問われています。これもまた祈りということができるでしょう。
 
祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。新型肺炎のため祈祷会を休んでいます。どうか主の守りの内に、又導きください。主は、モーセとアロンをもって、エジプトからイスラエルを脱出させてくださいました。どうか、たとい小さくても、私達にもそれぞれの務めを成させてください。台風が近づいていますが、洪水の被害を抑えてください。病気療養の方、手術を控える方、ご高齢の一人暮らしの方、支えてください。コロナ感染下の子ども園と児童クラブの保育を守ってください。残りの半週の歩みを守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
   出エジプト記7章1〜7節           2020年8月23日
           「 主が命じられた 」
 皆様、おはようございます。本日もまたコロナの感染の中、こうして礼拝・原稿の配信ができることを主に感謝します。本日も主に命を与えられて、コロナ感染のために礼拝、祈祷会ができない中、皆さんと共に個人的な礼拝や家族の礼拝の支えになりますように祈ります。1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 鹿児島地方の感染は、県庁の発表では1昨日21日は、335人となっています。相変わらず広がっています。ただ鹿児島市中の感染者は、16日から6日間ありません。しかし指宿のクラスターや市来串木野市の感染があります。詩編106編30節のピネハスの疫病の祈りに従って、1日も早い収束を祈るのみです。
 
 さて聖書は、第4週の主日になりましたので、聖書の箇所は連盟の発行している『聖書教育』誌の本日の箇所からです。月に一度は全国の教会が読んでいるところを私達も聞きたいという方針です。ここは実は19日の水曜の祈祷会の聖書の箇所でもありました。祈祷会のところを聞かれている方は重なりますが、できるだけ違った視点や方向から聞きたいと思っています。
 実は、出エジプト3章から7章までの出来事は大枠ではモーセの召命になるのです。しかしここまで来るまでに、出エジプト記は3章に一度召命があり、そして4章にすでに第一回目のファラオとの交渉をしております。そして7章にもう一度第2回目の召命があり、ここから又ファラオとの交渉が始まります。なぜ2回繰り返すのか、ですが、聖書は勝手にまとめたり、順序を正したりすることをせず、それぞれの伝承を残したとされます。つまり神の言葉、伝承を「一点一角を」大切にしたのです。私達もまた事実は事実として、自分の信仰からは反していても、事実は伝えて置くというかそういう正直な真面目な信仰の態度を教えられます。単純化すれば正直が一番、真面目で何が悪いか、と聖書から言われているのだと思います。

 さて早速1節から聞いていきます。主は、モーセが神様の召命に異議を申し立てたのを聞いて、すぐにアロンを備えてくださるのです。教会に長い方は、すでにご存知ですが、聖書はアブラハムから始まって、モーセ、士師記の12人の士師たちの召命、預言者サムエル、サウロ王、ダビデ王、預言者エリヤ、エリシャそして預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルと続いていきます。そして多くの神の召命を受けた人々は、ほぼ「自分はできません」と答えていくのです。そして主はモーセを筆頭に、たとえ拒まれても、拒みに答えを備えて用いて行かれるのです。ですから私達は神様にこれをしなさいと受けた時、これは出来ませんと言っていいのです。しかし主はそのできないことを乗り越える手立てを、恵みにおいて備えていてくださるのです。
 具体的に、モーセは口べたでした。出エジプト4章10節の「私は口が重く、舌が重いもの」とは、吃音障碍であると言う解説書もあります。吃音障害者が神の預言者として用いられたというのはすごいことだと思います。つまり預言者とは、弁舌爽やかさとは関係がないのです。神さまはモーセの口べたに対して、アロンを備えられました。よくいわれるように野球は走れない人、打てない人、守れない人もそれぞれのポジションがあって、野球として成り立ちます。私は野球が下手でしたが、それでも小学生の村の対抗の野球大会に出してもらえました。滅多に玉の来ないライトで、最後の打者だったのです。人間のスポーツもこのくらいの知恵があるのです。
 主は、エジプト王ファラオとのイスラエルの交渉において、口べたを用いられるとは、なんという恵みでしょうか。私達は多くの支えを受けて、つまり多くの祈りを受けて主のみ業に参与していけるのです。祈っても何も変わらんでなくて、目に見えない大きな働きの繋がりがあるのです。

 3,4節のところは、旧約聖書の謎というか難問中の難問と言われます。これからモーセとアロンは、イスラエルをエジプトから去らせるために、エジプト王ファラオと交渉に遣わされます。しかしなんと主は、交渉相手のファラオの心を頑なにすると言われるのです。これはもう人間の理性では、理解不可能です。人間を中心に考えれば、神様は全く非合理的の方で、横暴な方であり、自分が召したモーセとアロンに反対して、あえて窮地に落とすことをなすとは何事かとなるでしょう。イスラエルの解放のためにモーセとアロンを用いられるが、ファラオの心を頑なにする。これは普通の理解では、どうにもなりません。
 しかし、この不思議な神様の人間のお取り扱いも、いろいろなことを私達に教えていると思います。まずファラオですが、この人は主なる神さまを全く知らないのです。まさに神の「か」の字も知らない。というかエジプトでは王様が神様の代理です。知らないというより、自分が神様です。しかし主なる神さまは、この人間の神さまの心の奥底を自由に用いられるのです。このファラオは自分で自覚することなく、神様の道具にされているのです。極端なことを言えば、人間は神様の前に自由なのかそうでないのかという議論があります。自由意思論と奴隷意思論があります。しかし、ここはその以前の問題で、人間の自由の前に神様の御計画があって、人間は自由ですが、その自由が神様の御計画の中にあるということです。これは自由と言えるのか、人間は自由をなして、結果的に人間は神様の計画をした。つまり人間は神様の奴隷、僕として働いたのです。これは困ったものです。

 しかしこれは、よく考えると自分の計画がうまくいかず、失敗だらけであって、どうにもならないようであっても、まだ諦めてはいけない。やはり最後の最後で神様の御計画が遂行しているのかも知れないのです。すなわちキルケゴールが言ったように「最大の罪は、絶望である」。最後の最後は神様がなさるから、人間は委ねて今成すべき事をして、前進していいのです。絶望しなくていいのです。死に臨んでもやはり、怖がってはならないというと変ですが、自分の死に主なる神さまがおられるのです。イエス様が待って立って迎えておられるのです。言行録7章56節で、ステパノが、石を投げつけられてリンチで殺される時「イエス様(人の子)が、神様と共に立っておられる」のを見るのは、迎えに来られたと言われます。聖書の臨死体験かとなりますが、もちろんステパノは未だ生きていて見るのですが、見えたのは確かなのです。私達も自分の死の前において、魂が主に迎えられるというのは恵みです。

 もう一つ、この4節を読みますとファラオが、モーセとアロンの言うことを聞かないがために、主はエジプトに審判を下し、イスラエルの民をエジプトから導き出すと言われています。つまりファラオの頑なさは、主はご自身のしるしと不思議の審判をエジプトに示し、イスラエルを去らせる為に、あえてファラオの心を頑なにしたということです。つまりファラオがやすやすとモーセとアロンの言い分を聞いて「分かった。お前達はさっさか自分達の国、アブラハム、イサク、ヤコブの祖父の国へ帰れ」と言ったら主は、ご自身のしるしと不思議を示されなかったとことになります。
 エジプト王ファラオの頑な心の故に、主はご自身の11のしるしをされたことになります。これからの祈祷会の学びになりますが、出エジプト7~12章に渡る11の不思議、杖が蛇になる、水が血になる、蛙の発生、ぶよの発生、虻の発生、疫病ペストの発生、皮膚病の発生、雹の発生、イナゴの発生、暗闇の発生、そして最後の初子の殺害です。このしるしが起こるために、主はファラオの心をファラオが気づかない形で、頑なにされたのです。
 
 こうなってくると改めて、私達は自分の思う通りにならないことを、どう受け止めていくのかを示されるのです。私達は、旨くいかないことを含めて、主の御計画であるとの信仰を改めて示されるのです。突然襲ってくる仕事の失敗や大きな病気、そして今回はこのコロナ感染です。人吉地方の方々には、球磨川の大洪水です。いつもは穏やかに流れる川が、突然猛威をふるう。神戸地震も東北地震も熊本地震も、地面が揺れるのです。私達はそもそも地面が動くことを想定して生きていません。しかし実際動いたのです。そして、私達はいつまでも地面が動くということを前提にして準備はできないと思います。いつか忘れる。そして忘れた頃に又地面が動くのです。
 政府や防災担当者の責任にするのは限界があります。そもそも人間は地面が動くことに対応して、生きていないのです。海岸や川、崖の側には家を造らないと言っても、限界があります。東北地震の時、有る地域では「ここに家を建てるな」という記念碑があって、そこの回りに一杯家が建ってしまって、そして又津波にやられているところを見て、9年前は馬鹿だなと思いました。しかし今は、これはもう忘れるのは、人間の自然であって、無理かもと思います。政府や防災担当者の方の働きを祈りつつ、しかし人間の弱さを思います。もちろんどうして地震の地殻変動が起こる地球にしたか、と神様に文句を言っていいですが、地殻変動がないなら、地球は存続するのかとなり、そもそも地殻変動のない地球に、私達人類は存在したのかとなります。
 
 主なる神さまがモーセとアロンをファラオに遣わす。しかしファラオの心を頑なにされるのは、あり得るというか、神様の深い深い御心としか言いようがないのです。つまり実践的には、私達は人間からみれば多くの悪に会います。悲しく、悔しく、命が奪われるのは、なんとか防ぎたい。しかしこの悪には、神様のみ心があって、私達は悪と闘い、準備し、そこで愛をなし、奉仕をなし、神のみ心を求めて行くのです。
 
 5節には、主なる神さまは、イスラエルをエジプトから出発させることが「エジプト人は、私が主であることを知ることになる」と書いています。これもまた不思議です。なぜ、イスラエルが主なる神を知ることになる、とされないのか。主は、ご自身の民がご自身を知ることの前に、なぜエジプト人が、主なる神を知ることを優先されるのか。思い出すのは、パウロのローマ書11章11節です。ここにも「ユダヤ人の罪によって異邦人が救われ、それはユダヤ人に妬みを起こさせ、・・・彼ら(ユダヤ人)が皆救いに預かるとれば」と言う論を語っています。神様はユダヤ人の失敗で、異邦人を救いそれからユダヤ人を救われるという計画です。なんだか浄土真宗のすべての人を救った後に、最後に阿弥陀仏は浄土にはいるという救いの設定に似ています。人間的な考えではそうなるはずもないとなります。しかし、神様の御計画はどう動くのか、です。エジプト人に主を知らせて、それからイスラエルが主を知ることになるのでしょうか。しかし事実歴史はそうなったことになります。
 
 バビロン捕囚を受けたイスラエルは、もう神様は自分たちを捨てられたと思いました。イザヤ54章14節「主は私を見捨てられた。私の主は私を忘れた」。しかし出エジプトのファラオの扱いを読んで、又イスラエルは主の計画を思い出したのです。主のご命令がなる。主の御心、主のご意志がなる。私達は、コロナの時代も主の恵みを受けて、主の御心を求めて、祈りつつ、歩みます。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。8月一杯の礼拝祈祷会の休みになりました。しかし主はこれをみ手においておられると信じます。続けて病気療養の方、これから手術を受ける方、ご高齢の一人暮らし、支えてください。このような中で子ども園、児童クラブは保育が続いています。感染がおこらないように、どうかみ手においてください。1週間の守りをおいてください。教会員一人一人の信仰、魂、健康を支えてください。御名によって祈ります。アーメン。」

 祈祷会説教                    2020年8月19日
 讃美 新生614番 主よ終わりまで
 聖書 出エジプト6章28〜7章7節  旧約P.103
 宣教 「モーセとアロン」
 讃美 新生617番 わが生けるは
 祈り 祈りの課題8月号 
 黙祷      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。先の主日に臨時執事会をして、新型肺炎の鹿児島での蔓延のために集まってなす礼拝・祈祷会は、9月6日の主日からとしました。鹿児島県は暫く感染が無かったですが、14日に5人、15日にはクラスターが起こり、鹿児島市は常に数人の感染があり、昨日は鹿児島市はないのですが5人の感染し、総計328人となっています。先週の水曜日は277人といいましたので、1週間で51人罹ったことになります。皆さんは教会に来れませんが、この原稿と動画配信が用いられて、しかし聖書を読み、祈りをなし、一人一人が、主のみ前に信仰をもって歩まれること、残り半周をまた過ごされることを祈るのみです。

 さて祈祷会の聖書は、バプテスト連盟の発行する『聖書教育』に従って、進めております。先週は出エジプト記3章モーセの召命の箇所でした。本日は出エジプト記6章後半から7章の前半になっています。実は本日の箇所は、大きな枠組みでいうとモーセの召命のパート2と言うことができます。実は皆さんは出エジプト記を通読される方は、3章にモーセのミデアンの地でのモーセの召命があり、6章2節からもまたモーセの召命があるぞと気づかれると思います。又出エジプト記を通読すると5章3〜20節には、先ず最初にモーセとアロンはすでにファラオの所にエジプト出発の交渉に行っており、また6章で再び召命があるのはどうしてかと思われるでしょう、

 実はこれらの謎を解くのは難しいのです。旧約聖書学者さんたちは、文書資料の構成という理由にしています。大雑把にいうと3章のモーセの召命はヤーウエ資料という伝承から書かれ、5章のファラオとの交渉は、エロヒーム(神)資料というところから書かれている。そして本日読みました6章から7章前半の第2回目のモーセの召命は、ヤーウエ資料とエロヒーム(神)資料を読んでまとめた、祭司資料が編纂して今の聖書になったのだというのです。なるほどそうすると順番が入り組んでいる理由は少しわかります。しかしそれにしても小学生が読んでも、なんで召命が2回になっているのか、一回ファラオに交渉にいって又召命があるのかと言いたいです。

 多分小学生でも文章のうまい子になるとモーセの召命があって、その後でアロンが補助として付けられて、そしてファラオに交渉に行ったのだ、と分かり易く順序たてて並べて編纂することが出来たと思います。しかし聖書はそうしなかったのです。

 読む私達はこんがらがるのですが、そのまま残し伝えたのです。そういうことになった背景に、やはり神の言葉、モーセ伝承への尊重・尊敬があって、簡単に変えてはならないの信仰があったのです。イエス様が言われたマタイ伝5章18節「全て事が実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一角も消え去ることはない」をイスラエルは綿々と信じており、伝えた来たのだと思います。そして読む私達は学者さんの苦労して解いてくれた文書資料説の批判を聞きながらも、神の言葉としてのそのままの聖書の権威は、一点一角も変わらないと信仰をもって読んでいきます。
 
 3章のミデアンでのモーセの召命と2回目の6章のモーセの召命ですが、いろいろな所が違いますが、読み比べると根本は同じであると気づきます。一つは神様の名前の啓示です。3章14節に主はご自身の名を「私はある」としました。同じように、6章6節もまた主はご自身を「私は主(ある)である」としています。主はアブラハム、イサク、ヤコブの神様です。しかし同時に、ある方です。すでにその時言いましたが当たり前で申し訳ないですが、有るものは有る、無い者は無いのです。ニーチェが無神論哲学の代表ですが、ニーチェがどんなに神様を殺しても、有る神は有る、無い神様は無い。ニーチェの殺した神様は、無い神様だった。人間によって殺される神様はもともと無かったのだとなります。しかし主は、有る方として自分を示されました。事態がどうであれ、イエス様はある神さまである。すごいことだと思います。

 次に、6章で主がご自身を表された理由です。3章7節でも主はイスラエルの「苦しみ、叫び、痛み」を聞いた、と言われました。そしてこの6章6節では「奴隷の身分から・・・贖う」と言われています。3章も6章も主はご自身の民の「苦しみ、叫び、痛み」を知る方であり、贖う方なのです。そして出エジプト3章と6章から知らされることは、私達の救いは、やはり神様の意思に係っているということです。救いは、私達自身ではできないのです。良く言われるように、溺れている人を救えるのは、溺れていない人であり、溺れている人が自分で自分の頭や体を引っ張っても、どうにもならないのです。神様が歴史の外にあって、歴史を創造される方が、やはり私達を救われるのです。神は神、人間は人間であるから、人間は神様から救われるということになります。

 前置きが長くなって済みません。本日の6章30節にモーセは、自分はできない「唇に割礼がない」といっています。これは旧約聖書独特の表現です。これは不可能性を示すことばだそうです。モーセが自分が出来ないと言ったは、2つの理由があるとされています。それは出エジプト2章において40歳の時でした。モーセは一度自分の決心でイスラエルを救おうとしたことがありました。しかしなんと同胞イスラエルに理解されずに返って訴えられたのです。これは大きな体験でした。自分は命をかけているのですが、肝心のイスラエルがモーセを認めないのです。
 次の理由は5章です。5章ではモーセはアロンと共に一回目の交渉に出かけているのです。しかし失敗しています。詳しいことは5章からは分かりませんが、モーセが交渉役をしたのでしょう。しかし見事に失敗しています。「唇に割礼がない」とは、口べたを意味するとも言われます。また『障碍者の神学』と言う本には、モーセはどもり吃音障碍だったという説の読み方がありました。口べたと言うは悲しいものです。言い方で旨くいく時と旨くいかない時があります。もちろんそれを含めて、主は導かれるのですが、モーセとしては全く自信を失ったのはうなずけます。

 出エジプト5章での交渉は、モーセとアロンが、民を去らせてくださいと言った交渉によって、返ってファラオは、イスラエルに藁の支給無しに、煉瓦をつくることになりました。しかも煉瓦の割り当ては減らせないとなっています。つまり交渉したばかりに、返ってイスラエルは、窮地に落ち、煉瓦の製造が苦しくなったのです。

 しかし主は、口べたにであり、どもりであっても7章7節にあるように、兄アロンをモーセの補助に立てられるのです。意地悪な読み方をすれば、どうして1回目の交渉の時、アロンが交渉しなかったのかと言いたいです。でもその務めに無ければそれができないことがあるのではないでしょうか。聖書教育誌にはエジプト語、ミデアン語、ヘブライ語の3つを操れたのは、アロンだったのでないかとしています。語学は確かに、ある程度環境によりますが、賜物があります。

 しかし主は、ご自身の御計画を遂行なさいます。口べたの人には、主が上手な人を付けられます。まさに全ての行為のもとに、主のみ心があるのです。主の祈りに「天にみ心のなるごとく、地にも成させてください」とあります。その通りに、主は必要とあれば、恵みにより思いも寄らぬ助け人を備えてくださるのです。しかしもちろん孤軍奮闘の時もあるのだと思います。しかしその時は、神様の御計画を信じて、自分のできることをなす事になります。

 夏休みが終わる時と春休みの終わる時が、中学、高校生に自殺が多く、今年はコロナでもっとも多くなるのでないかとラジオで特集を組んでいました。若い人の自死は、全く親族でもない人でも聞くのが辛いです。神様を伝えたいですが言葉がとどきません。しかし子ども達に、自分は自分の力で生まれたのでない。自分の決心で生まれたのでない。気が付くと命が与えられていた。神様が父と母を通して、命を与えられた。命の不思議を伝えたいです。従って、自分で死ぬことはないのです。学校は命をかけて行かなくてもいいところなのです。苦しみ、悩みを、主の御計画に委ねることを示されます。

 祈ります。「主なる神さま、御名をあがめます。主なる神様は、私達の苦しみ、叫び、痛みをご存知です。そして助けを備える方です。コロナ感染の中で、戦っている方支えてください。どうか、病気療養の方、これから手術を受ける方、一人暮らしのご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブの子どもたちと先生と支援員を支えてください。教会員の信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
    エゼキエル書19章1〜9節           2020年8月16日
           「 悲しみの歌 」

 本日も礼拝できることを主に感謝致します。このみ言葉も、主に命を与えられて、コロナ感染のために礼拝、祈祷会ができない中、皆さんと共に個人的な礼拝や家族の礼拝の支えになりますように祈ります。この小さい足りない説教、礼拝動画の配信が用いられますように祈ります。今日も主に備えられた新しい命を感謝しつつ、共に御言葉に聞いて行きます。1週間の罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 鹿児島地方は、5日間感染がなかったのですが、1昨日14日は4人、昨日15日に指宿のクラスター15人があって296人となっています。まだまだ予断を許さない状況にあります。いつから礼拝ができるのかは、感染状況を見る限り線を引けそうにないです。どこかで感染対策をきちんとして決断するしかないでしょうと思っています。
 
 さて今日は第3週の主日ですので、旧約聖書から聞くという方針で、エゼキエル書19章となっています。エゼキエル書は各1章が長いので、全部はできないのです。しかし一回1章ということで、大事と思われるところを選び聞いています。クリスマスとイースターのある月は、その関連の話となり1年に10回ほどです。エゼキエルを聞き始めてから2年以上たっていることになります。 
 19章のエゼキエルの予言は、読まれて又聖書を見て気づかれると思いますが、散文でなくて詩文になっています。実はエゼキエル書を見て、実は詩文も意外と多いと気づかれると思います。改めて主なる神様は散文で語られるのみならず、詩文でも語られる。しかしよく考えると聖書の言葉は口伝の伝承期間があって散文として書かれたのです。本来は詩文の方が多かったのでないかとも考えられます。
 
 19章1節には、エゼキエルはイスラエルの君侯のために「悲しみの歌」を歌いなさいと神様から言われています。悲しみの歌は原文「キーナー」と言ってヘブライ文学の一形式の挽歌です。日本でいうと俳句や短歌、和歌の中で「弔いの歌」、「葬式の歌」という言い方があると思います。まさにこの「弔いの歌」です。弔い歌で予言するというのは、エゼキエルがぎりぎりの中での預言、本当は神さまの命令ですが、改めて神さまの審判の厳しさを伝えているのだと思います。又弔いの歌をもって予言しなければ、伝わらないイスラエルの状態だったとも言えるかと思います。
 歌の中味は完全に象徴の歌、たとえの歌となっています。それは母ライオンが2匹の自分の子供を育てるけれども、それは失敗するという内容になっています。歴史書の列王記に従って読んでいくと、諸説がありますが、2節の母ライオンが誰であったのか。4節に示される1番目のエジプトに連行されたライオンの子は、どの王であり、2番目の9節のバビロンに連行されていったライオンの子が誰であったのか。それぞれ対応する母と2人の王が、諸説言われています。
 
 実は列王記下の記述から、イスラエルの滅びの時期に2人の王を産んだ母太后は列王記下23章31節から完全の滅びから3人前の王、ヨアハズ王の母、ハムタルでありました。そして母太后ハムタルはイスラエルの最後の王ゼデキヤ王をも、列王記下24章18節にありますが産んでいます。なんと母太后ハムタルは、イスラエルの滅びの時代に、兄ヨアハズ王と弟ゼデキヤ王を産んでいるのです。そして悲しみの歌、滅びの歌にあるように、ヨアハズ王は3ケ月の在位期間で、エジプト王パロネコに連れ去れて、エジプトに死んでいます。ゼデキヤ王は、ヨアハズ王から11年後に最後の王となりますが、バビロン第二次捕囚で連行され、バビロンに死んでいます。
 
 私たちはユダ王国の滅び、エルサレム神殿の破壊、完全な第2次バビロン捕囚の破壊、滅びに隠れて、母太后ハムタルのことはあまり知りません。おそらく多くの方にとってはじめて聞く名かと思います。聖書もまた母太后ハムタルが2人の王の母であったと伝えるのみで、兄ヨアハズ王はエジプトに連行されて死に、弟ゼデキヤ王はバビロンに連行されて死んで行く、悲劇の母として十分な語りができそうです。しかし全くと言っていいほど沈黙しています。私たちは、エゼキエル書19章のこの悲しみの歌と、列王記が伝える短い王朝史から想像たくましくして、母太后ハムタルのことを、思い描いていくしかありません。
 
 母太后ハムタルのことは、列王記下23章31節に、リブナ出身のイルメアの娘であったとあるのみです。ここで名前のイルメアの由来からひもときます。その名の最初は、歴代上5章24節にはマナセ族としてでてきます。さらに歴代誌上12章4節には、ダビデ王の30人の勇士の中にその名がでてきます。エレミヤ書35章3節では、レカブ人の名前にイルメアが出てきます。残念ながらエレミヤ書が語るレカブ人のイルメアとイスラエル最後の王の母太后であるイルメヤが何か関係があるのか分かりません。後はバビロン第2次捕囚から70年後のイスラエルのバビロン帰還を書くネヘミヤ記12章12節と34節に、イルメア家がでてきます。12節では祭司の名簿に、34節は合唱隊すなわち聖歌隊にイルメアの名があります。母太后のイルメヤの名、その血筋はバビロン捕囚後にも続いていたのかもしれません。
 全体を通してまとめると母太后ハムタルの家、イルメアの名はイスラエルの12部族のマナセ族まで遡ぼり、ダビデを支えた30人の勇士の中にもあり、さらにエレミヤ書35章のレカブ人の中にもあり、そしてバビロンから帰還する祭司と神殿聖歌隊の中にもある名であったのです。言ってみればイスラエルの王朝を支える由緒正しい貴族の名ともいえるでしょう。イルメアの名を持った母太后が、イスラエルの最後とは言えその最後の2人の王を産んだ母であったのです。ここに弔いの歌とはいえ2頭のライオンつまり王を産んだ母として歌われ、惜しまれたのは、理由があったのです。
 
 しかし改めてのイルメアの2人の王たちは、全く悲惨な王たちであり、悲惨な最後でありました。兄ヨアハズ王はエジプト王、パロネコに連行され、エジプトで死に、弟ゼデキヤ王はバビロンに連行されてバビロンで死にます。イスラエルの王が、神の約束の地でその最後つまり死を迎えられないのは、この2人のみであろうと思います。ただ列王記下25章27節に、ヨアキム王がバビロン捕囚から37年目にバビロンの牢屋から出されたことを伝えますが、その最後を伝えていません。もしかしたらこのヨアキム王もまたバビロンに死んだかもです。自分の産んだ2人の子が王となり、一人はエジプトに連行され、一人はバビロンに連行されてイスラエルの土地を見ずに死んで行った。イルメアは確かに悲しみの歌の主人公として、歌われたのはうなずけます。
 
 しかしここで改めてエゼキエルの悲しみの歌をみますと19章7,8,9節とその最後つまりゼデキヤ王に対して厳しいです。特に7節は王であるにも関わらず自分の国の民の城郭を破壊し、町々を荒廃させたとなっています。その吠えたける声に地と地を満たすものはおびえた、とあります。8節に、諸国民は周囲の国々から彼に立ち向かい、網を広げ、罠に捕らえたと歌っています。つまり2人の王の統治の酷さを歌っています。
 
 兄ヨアハズ王の3ケ月の統治といい、弟ゼデキヤ王のイスラエル最後の11年間の統治は、ある意味で王としては何の力もなかったとも言われています。ヨアハズ王の3ケ月間の統治の中身は書いてありませんが、これはおそらく家来の謀反か、裏切りでありましょう。初めに親エジプト派に支えられて、あとは親バビロン派に裏切られて、エジプトへの連行だったと思われます。弟ゼデキヤ王は、最初は親バビロン派に支えらえて、途中で親エジプト派に騙されて、最後は頼りのエジプトが何も助けに来なかった。つまり親エジプト派に裏切られたともいえるでしょう。ヨアハズ王もゼデキヤ王も最初から担がれた王であり、家来たち、貴族たちに翻弄された王ということもできます。母である母太后はどれだけそのことを知っていたのか。聖書は全く伝えていません。ライオンの母の歌が歌われ残されたのですから、母太后イルメアはゼデキヤ王の捕囚の時も、生きておられたことは確かでしょう。
 
 昨日は8/15日の敗戦、終戦記念の番組が一杯ありました。皆さんも、どれかを見られたと思います。私もいくつか見ましたが、ポーランドで動物園に300人のユダヤ人をかくまった話は、考えさせられます。昨年は外交官杉原千畝さんが6000人のユダヤ人を日本の外務省の反対をもろともせずに、ビザを発行し続けて助けた話がありました。
 
 またアメリカ軍が、最後の日本の上陸作戦経計画を持ち、広島長崎の他に9つの核爆弾を作って、鹿児島上陸を目指していたドキュメントも、改めてそうならなくてよかったと思います。遅すぎた敗戦決断がテーマだと思います。沖縄戦の20万の戦死者のうち188,000人の日本の戦闘員は94,000人ですが沖縄の非戦闘員は94,000人の死者です。アメリカ軍の死者は12,000人となっています。沖縄戦の188,000人の被害は、日本の軍部には当然であり、戦争終結の理由に入らなかったようなのです。日本では広島と長崎の原爆は必要なかったと言われます。しかし広島と長崎原爆がなければ、日本は敗戦決断をしたのかどうか。改めてあのドキュメントは、私たちに問うていると思います。実現しなかった鹿児島上陸作戦を見て思ったことでした。
 兄ヨアハズ王と弟ゼデキヤ王の悲惨な最後は、なぜなのか。聖書の列王記は2人の王の評価が「主の目に悪とされることをことごとく行った」とされています。列王記下23章32節、列王記下24章19節です。聖書は、私たちに王が悪かったので、イスラエルは滅びたのかという問いを出していると思います。そしてエゼキエルやエレミヤの活動は、もし王だけが政治を動かし、貴族たちだけの決断の罪であれば、あのような予言活動は存在しなかったのでないかと思うのです。
 
 エレミヤの象徴予言、神殿の庭で壺を割り、帯をボロボロにした格好で歩き回り、エゼキエルは裸の生活や奇行をなして予言をしていく姿。これらの予言の方法は、政治の責任者である王たちや貴族たちに向かっただけでないと思います。それはイスラエル、エルサレムの民たち一人一人に向かっていると思います。それは神の民の滅びや隆盛は、王だけ貴族の行為、動向だけとならないという信仰のように思います。預言者は、全く庶民は政治に、全く参加する機会をもたないエルサレムにおいて、そうであるとするのです。とすれば今はどうでしょうか。私たちはエゼキエルやエレミヤの時代よりももっともっと政治の責任が問われる時代にいます。選挙があるからです。もちろん、してもしなくても変わらない。そもそもいい人がいないと言われるかもしれません。しかし選挙民の民の考え方が、選ばれる人に反映しているのは今の方がより確かです。
 
 まず私たち1人1人が本当に神の前に生きる生活をするしか、政治は変わらないことになります。戦争をなくすには、私たちが自分が損してでも馬鹿にされても、戦争をしないという生き方をすることです。今の政治がなっとらんのは、私たちの生活の反映です。信仰を持ち、愛を持ち、平和を愛する。自分の健康や体のこと以上に、自分の魂と主イエス様への信仰を育てていく。そういう生き方が今もこれからも、問われています。十字架の主の恵みはそれをしてくださると信じます。
 
 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。昨日は敗戦記念日でした。第2次大戦は、何千万の人々がなくなりました。75年たちましたが、戦争がなくなる時代がありません。聖書もまた、信仰を持って生きることを示します。愛の力で生きることを示します。どうか、平和を祈り、作るものとさせてください。続づけて病気療養の方、手術を準備される方、ご高齢の方支えてください。こども園、児童クラブの先生方、子供達を守ってください。1週間守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 祈祷会説教                     2020年8月12日
 讃美 新生21番 栄光と賛美を
 聖書 出エジプト3章1〜15節   旧約P.96〜7
 宣教 「神の共感、モーセの召命」
 讃美 新生372 イエスの救い
 祈り 祈りの課題8月号 
 黙祷      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎の鹿児島での蔓延のために集まってなす祈祷会を延長して8月16日まで休みます。鹿児島は1昨日は感染がなかったようです。277人で止まっています。しかし聖書を読み、祈りをなすことは、キリスト者呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が、一人や家庭の祈祷で用いられることを祈りつつ原稿を準備します。

 さて本日は先週に引き続き、新しい学びで出エジプト記の3日目を学んでいきます。9月末一杯で9回に渡る長い学びです。先週2回目は出エジプト1章後半から2章の前半、いよいよ主人公モーセの登場したところでした。モーセは1章後半でファラオから男子殺害命令が出て、2章ではモーセが親から捨てれ、エジプト王ファラオの娘に拾われて、エジプト宮廷の中で育てられたことを読みました。同じことを何度もいいますが、主の御業は、本当に人間の思いもつかない方法をなさるのです。ファラオはイスラエルを撲滅する計画を立てますが、その足下で、イスラエルを救うものを準備していたことになります。

 本日の3章は、すでに教会に長い方は、モーセの召命として有名なところです。すでに教会に長い方は何度も聞かれた話になります。エジプト宮廷で育ったモーセは、40歳の時、自分の出生の秘密を知り、イスラエルの民を救いたいと発奮します。しかしなんとイスラエル人に告発されて失敗します。自分の力で救いをなそうとした時、自分の民イスラエル人から告発され失敗するのは、歴史上よくあることです。インド独立の父ガンジーもまたイギリスによって殺されるのでなく、インド人から殺されています。
  モーセはエジプトの追手を逃げて、ミデアンの原野に入り、エテロのところに匿われることになり、縁あってその娘を妻とします。そしてエジプトを逃げて40年間、羊飼いとして生活するのです。そしてすっかり羊飼いのとしての風貌とその生活の身に着けたのです。40年の歳月は、モーセに虐待されているイスラエルを忘れさせたのか、密かに祈っていたのか。聖書は沈黙しています。しかし3章は、まさにモーセが羊たちを追って、ミデアンの野に入り、神の山ホレブ、シナイ山のところに来ました。その時、柴の木がもめているのに燃え尽きないという現象に出会います。しかしこれこそ神様がモーセに出会われた出来事であったのです。

 4節にある通り、主なる神様は、モーセに声をかけられます。「『モーセよ、モーセよ』するとモーセは『ハイ』と答えた」こう書かれています。モーセは40年間の羊飼い生活の中にあって、決して神さまを忘れてなかったようです。むしろモーセは羊飼いとしての大自然の中での生活は、モーセの思考を鍛えていたのかもしれません。それ以上に示されることは、神さまは改めてここでも、ご自身の計画を遂行するために、人を召されるということです。神様のご計画は、神さまの召しというか発動によって開始されるのです。
 40年前にモーセが自分の力で成し遂げようとしたことを、神さまは今や成し遂げようとされている。80歳でモーセが立てられるのを見る時、私たちは人間の力と人間の計画が、終わるとき、実は神さまの計画が始まるのを見ることになります。私たちはここに、人間の計画と神さまの計画のあり方を見ていいのだと思います。私たちはもちろん自分で計画を立てなしていきます。その時、なることがあります。しかしモーセのようにならない時があります。この時、私たちはがっかりするのですが、同時に、神さまのご計画を思っていいのだと思います。主は違った計画を持っておられる。違った時を備えているかもしれないのです。

 7節から主なる神様は、モーセにご自身を表された理由を示されます。ここには、神さまの並々ならぬ決意を示されています。主は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに「見て」、叫ぶ声を「聴かれて」、その痛みを「知られた」のです。見て、聞いて、知ったという3つの動詞は、神様の同情の姿、又は愛の姿を示しています。8節にはさらに「下って行き」とも書かれています。神がくだるとは、まさにヨハネ伝1章14節の「言葉は肉体をとって、私たちの間に宿った」と全く同じ響きを持っています。旧約聖書ヘブライ聖書と新約聖書の神様は違っているという話を聞きますが、ここには同じ姿を見ることができます。

 10節には、主なる神様はイスラエルの苦しみ、叫び、痛みを見て、聞いて、知るがゆえに、この地に下り、そしてモーセを召されるのです。そして「今、行きなさい」と言われます。モーセはここに主に召されたのです。そしてその務めは、「我が民イスラエルの人々をエジプトから連れだすのだ」と言われています。私たちは神の召命とはこうして神さまの仕事を与えられることとして受けていのです。確かに神を信じることだけを与えられることがあります。しかし大方は神さまの召しは、こうして同時に神さまの務めを受けることでもあります。
 これはパウロの時もイエス様を信じることがそのまま、異邦人にイエス様を伝えることでした。この後の旧約の人々、ギデオン、サウロ王、エレミヤも主に召されることは、主に務め、主の仕事を受けることとほぼ同じです。主はこうしてご自身の仕事にモーセをまたそれぞれの人を召されて就けられます。

 11節にはしかし、モーセは応えています。「私は何者でしょうか。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。これは主の召しを受る者が、必ず問う問いです。パウロの場合は問答無用の召しでした。いえ、パウロもまた最低「あなたはどなたですか」聞くことは許されていました。言行録9章5節です。この後のギデオン、サウロ、予言者エレミヤもまた必ず主に無理であること言っています。ギデオンは「私の一族はマナセ族で、最も貧弱です」士師記6章15節。サウロ王でさえも「こんな男が我々を救えるか、と言って贈り物を持って来なかった」とあります。第1サムエル10章27。エレミヤもまた「私は語ることばを知りません。私は若者にすぎません」エレミヤ1章6節と答えています。
 しかしこの時、主が必ず言われる言葉が、12節「私は必ずあなたと共にいる」というインマヌエル宣言です。主の召しを受けたものは必ずその務めの不可能性を語り、しかし、同時に神ともにいますという約束を受けるのです。ある意味で、自分はできない、自分は知らないというものが、実は神さまの務めにふさわしいのかもしれません。自信満々俺に任せなさいという人を、神様用いられないのです。
 それは神さまの仕事の本質がそうなっているからです。神さまの仕事、神さまの務めは、神さまが遂行されるのであり、神さまに感謝できる人でないと用いるわけにはいかないということです。私ができる、私が知っているでなくて、私はできない、私は知らない、しかし主が導き、主が示してくださるということです。その時、主はインマヌエルの約束をもって、務めにつけてくださるのです。

  次にモーセは神さまの名前を聞いています。モーセは、イスラエル人々のところに行ったとき、必ず「その名は何かと聞かれます」と聞いています。名を聞き知るということは現代風に言えば、実体を知るという事です。実体を知ることなしに、伝えることはできません。その時、主は「私はある、私はあるというものだ」と自己啓示されています。これは五万という取り方がありますが。神様の名前は「ある」という動詞の名詞化と言われています。問題はどうとらえるかです。「現にいる、生きて働くもの、私はあろうとするもの、なろうとするもの」、神は何者にもとらわれない自由を持つ方という意味です。
   しかし私は昔からの取り方「私はある、存在するもの」が一番分かりやすいです。あるものは人がなんと言おうとなくなりません。人の言動に関わらず、あるものはあるのです。無いものは人がなんと言葉を並べ立てようとも無いのです。主はあって生きて働かれる方である。大きな恵みです。モーセがこの神さまに召されたように、私たちもまたこのある神様アブラハム、イサク、ヤコブのある神様に応えて歩むのです。

 祈ります。「主なる神様、お盆の中にあります。今年はコロナウイルスの感染で帰省ができず、動けない方が多いです。
どうかその中にあって守り導きください。続けて病気療養の方、手術を控える方、ご高齢での一人暮らしの方支えてください。こども園と児童クラブは保育が続いています。どうか、み手をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

説教   ヨハネ黙示録4章1〜11節         2020年8月9日
               「栄光と誉れ」
 皆さん、おはようございます。本日は礼拝休みの5週目となり、8月の2週目の各自での礼拝となりました。つたない宣教ですが、1週間の歩みの罪の告白をしつつ、本日と今週の主の言葉の取り次ぎとして、宣教を聞き又読んで頂くと幸いです。
 新聞テレビの伝える通りですが、新型肺炎の感染は留まるところを知らず、どんどん毎日の感染者数の増加の更新記録を作っています。鹿児島県の感染者数は8/8日で275人となっています。今週はお盆の帰省にかかりますが、実際の対応も政府は用心しつつしてほしいとなり、感染の多い都道府県では、越県しないでほしいとか、来ないでくださいとの対応です。ちぐはぐ対応に、困っている方も多いでしょう。私も今年は、実家への帰省をしないことにしました。
 この先どうなるのか、さっぱりわかりません。しかしよく考えるとコロナだけでなく、私達の人生はもともと先がきちんと読めるものでありません。いろいろな計画をしますが、コロナウイルスが無いときも他の病気でできなくなり、自分は大丈夫でも家族の病気や体調不良があります。天候の不順で今回の球磨川流域の大洪水の人々のように、計画がだめになることがあります。ある意味で、人生はどうなるか分からないのが本当の姿ですといえるでしょう。ただ私達はそのことを気づかず、忘れていたともいえると思います。私達は、日々の当たり前が、実は多くの守りにあることを実感し、やはり守ってくださる神様に感謝しつつ歩む事になるのだと思います。

 さて本日は月の第2週になりましたので、使徒の手紙から聞くという方針で、ヨハネの黙示録を開いています。黙示録は手紙ではありません。しかし長老ヨハネが書いてくれています。月に一回ずつ読むのですが、今日は4章に来ています。実は2章から3章までは手紙の形式になっておりました。長老ヨハネは、読者である7つの教会に、力一杯その褒めるべき事、他方で正すべきことを書いてくれたのです。そして、4章と5章は、6章からの6つの封印が解かれるための前章とされています。いよいよ本格的なヨハネの黙示が開示されていくのです。その前に、その巻物を読み解き、開くに価する方が、いかなる方であるのかを、私達に示そうとしています。

 本日の4章は、その巻物が渡される天上の礼拝の様子、そして5章は小羊イエス様こそ、それに相応しい方であることが示されていきます。実は4と5章は完全にセットになっており、啓示が示される毎に讃美が挟まっていることに気づかれると思います。4章でいうと1〜8節の啓示に8節に神を称える讃美があります。4章9〜10節の啓示に11~12節には主の創造の讃美があります。そして今日は読みませんが5章は1〜8節まで屠られた小羊の啓示に9~10節には救いの讃美が成されるのです。最後11節と13節に天使が示されて12節に天使の讃美、13節には全被造物の創造が示されると、全被造物の讃美となっいるのです。4章8節の「聖なるかな、聖なる方、聖なるかな」の第一讃美は、5章14節の「アーメン」の讃栄で受けております。こうして4,5章が一つのまとまりであると分かります。

 1節から聞いて行きます。長老ヨハネは、突然開かれた門をみます。これは1章12節の最初の「私が振りかえると7つの燭台が見えた」と対応しています。また予言者エゼキエルの1章4節の「私が見ていると北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし」と平行しており、これから出てくる4つの生き物もまたエゼキエルの預言からの影響があるとされています。実は日本文学には、このような突然天が開くとか、突然声が聞こえるとか、いわゆる黙示文学形式がないとも言われています。しかし本当のところはどうなのか。確かに日本の近代文学の夏目漱石やら芥川龍之介の作品には、天が突然開いた、声が突然聞こえた、というのはないかも知れません。しかし時代をもっと広げると源氏物語や平家物語、方丈記、徒然草当たりになると夢の中の語りや幻が出来事を展開させていくのがあるように思います。
 黙示録は、パトモス島に幽閉された長老ヨハネが、まだローマ帝国の組織的な迫害はありませんが、しかし皇帝の気分によるキリスト教迫害、また皇帝礼拝と戦いつつある諸教会を励ましています。幻でしか示せない現実や教えが、今風でいうと夢や理想で教えていく姿と重なるのでないかと思います。
 長老ヨハネは「ここに上ってこい」と天から言われており、この幻はヨハネが天に上ってみた幻の形をとっています。幻には、預言者は地上にいて天を見る場合と自分が天に上って見る幻とがあります。黙示録は後者です。2節には霊に満たされた、とあります。ここから幻視は、聖霊の導きということもできます。そしてヨハネは玉座を見ることになります。ユダヤ人は、神をみると死ぬという信仰がありました。従って見ることができるのは神の座のみと言うこともできます。3節に、王座は碧玉、赤目のう、エメラルドと宝石の譬えがあります。これも見てはいけない事を見る時、見てはいけないものが見える時の表現のようです。

 4節からは24人の長老がでてきます。長老には様々の解釈があり、1つにイエス様に召された信徒達のこと、2つに主に仕える天使達のこと、3つに礼拝を務める祭司達のこという説があります。よく分かっていませんが24人というのは、バビロンやペルシャの宗教からの数ともいわれます。しかし聖書でもソロモン神殿の礼拝の時、祭司が組みに分かれて祭儀を司どりますが、歴代上24章ではこれが24組になっています。5節には「玉座から稲妻と様々な音、雷が起こった」とされ、これは神様の顕現される出エジプト20章のモーセの十戒の顕現と平行しており、主なる神さまの御座が想定されています。私達には奇想天外の幻視ですが、見ているヨハネ自身は旧約ヘブライ聖書の影響もあって、ここにおられる方が主なる神であると自ずから理解してしているのです。

 次に、6節からは主に仕える4つの生き物が出てきます。前にも後のも目があるとは日本的な感覚では妖怪になります。しかし7節から1つは獅子の姿、2つは若い雄牛の姿、3つは人間、4つは鷲の顔であったとあります。これは預言者エゼキエルがエゼキエル書1章で見た幻と似ています。少し違うところがありますが、ほぼ一緒です。幻も又歴史を持つのかといいたいですが、私達もまた旧約の預言者の見た幻をまた見ることがあるのでないかと思います。エゼキエル書では、4つの顔を持つ生き物は、主の栄光であったとあります。またケルビムとも呼ばれています。
 8節には、この4つの生き物と24人の長老は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と主を讃美しています。私達はこの黙示録4章を読むと24人の長老と4つの顔を持つ生き物の働きと務めは主なる神様への礼拝、讃美であったと示されます。礼拝と讃美がそんなに必要なのか、私達はなかなか理解できません。私達は現実を生きるのが精一杯であり、礼拝・讃美する人は、暇人であります。コロナウイスルの感染で、緊急事態宣言がだされた時「不要不急の外出はしないでください」と呼び掛けられました。おそらく礼拝・讃美は、不要不急の一番バッターになるでしょう。
 数日前のドキュメントで、コロナの中で、ある芸術座が公演をするための取組を放映していました。感染の医学者を呼んでエアゾルの飛び方を映像化してPCでシミュレーションして、どこまで感染するのか調べて、徹底した消毒をして、成されていました。演劇の責任者の方は「こんな時代だからこそ、生きる喜びを伝えたい」と言われていました。教会は神様から礼拝を命じられ、礼拝に招かれています。ある意味で死ぬこと以上の優先権があるのだと思います。今日は長崎原爆の日です。原爆が落ちた長崎では、焼け野原に残った教会で、すぐに礼拝が復活したことが、伝えられています。放射能を誰も知らなかったのかもしれません。原爆を落とすことを赦した全能の神を礼拝するとは何事かと思った方もあるようです。しかし原爆を作った罪、落とした罪の償い礼拝だったととった人もありました。
 コロナの場合はしかし、多くの弱い方を危険にさらすことは出来ません。しかし同時に、コロナ感染の全然危険のない状態はもう無理かもしれません。できる限りの準備をする礼拝を模索したいです。

 9〜10節には、礼拝の様子が書かれています。そこに「自分たちの冠を玉座に投げ出した」とありあす。実はこれはいくつのかの聖書解説書に、ローマ皇帝ネロが、ペルシャと戦った時に、ペルシャの皇帝がネロにしたことであるとあります。ローマの歴史家タキトウスの『年代記』15巻29節のところにありました。長老ヨハネはこれを聞いて知っていて書いたのだと思います。1世紀のローマ皇帝は、皇帝礼拝をさせた皇帝とそうでない皇帝があったようです。しかしネロ帝は、皇帝礼拝をさせました。ネロ帝は良い皇帝だったかどうかは難しいです。つまり良いということはどういうことか、領土の拡充か政治の安定かで評価が違うでしょう。タキトウスの『年代記』はネロ皇帝に厳しいです。ネロは自分の政権安定の為に、影響力のある自分を生んでくれた母を殺しました。さらに自分の正妻を殺して、正妻の側女である奴隷を正妻にしました。ご存知ローマの大火事の原因をキリスト者に押しつけました。自分の養育係り哲学者セネカに自殺命令をだしました。ネロの最後は、すでに隠居していた70歳のガルバによって皇帝を追放されました。30歳の時でした。民衆はすでにこの時代から、ローマ皇帝、宮廷生活に愛想を尽かしていたと考えてもいいでしょう。
 長老ヨハネはローマ皇帝礼拝がどんどん広まって行き、キリスト礼拝と衝突せざるを得ない必然を感じていたのだと思います。本当に自分の冠を脱いで、その人の前に置く方、完全に降参して、その足下に入る方とは誰であるのか。それは主なる神、5章では「屠られた小羊」しかないのだと、今幻で示されたのです。本当に従うべき方は誰であるのか、「讃美と誉れ」を献げるべき方は誰であるのか、長老ヨハネは幻で示されるのです。日本には面従腹背(めんじゅうふくはい)ということばがあります。生きるためにパンを得るために従う、しかし心は渡さないという心意気です。
 長老ヨハネは、幻で真の礼拝を示します。制度的な迫害はまだないのですが、あえて真正面から戦うのでなく、幻で戦うのです。ローマの官憲、ローマの検閲は4つ生き物、獅子と雄牛と人間と鷲の顔を持った生物の手紙を読んで、ばかばかしくて真面目に検閲する気も起こらなかったでしょう。しかし読む人が読むと分かったのです。

 10、11節には「み心によって万物は存在し、創造された」と讃美します。礼拝もできない中にあって、生きる喜びがあるのが、生き甲斐があるのか。自由の無い、奴隷のような生活でなお生きるのか。しかし信仰は希望と理想を失わないのです。創造信仰、キリスト信仰は神の国を仰いで、この世の迫害を耐えたと言われます。しかしそれだけで無かったと思います。信仰は、迫害の中で、自由がままならない中で、現実に、それでもその信じた方に満足を与え、喜びを与えたのだと思います。それは、ヨブが示してくれたように思います。自分の子を全員10人を殺され、全財産を奪われ、自分は不治の病に冒された。しかしそれでもヨブは、神様を信じることが喜びでありました。私たちも又コロナで先の見えない中で、なお十字架の主、愛の主イエスを、信じて歩みます。讃美と誉れを、小羊イエス様のみに献げていくのです。

 祈ります。「主なる神よ、鹿児島の感染は留まることなく275名を超え、大都市でも毎日感染者数の記録更新をしています。しかし主は共にいて、支え守り導かれることを信じます。又人吉の球磨川流域の復興を支えてください。いつもの祈る病気療養の方、特に手術からの帰還の方・・・さん、これから手術を受ける方、ご高齢の方々、支えてください。子どもたちは夏休み保育をしています。コロナ感染から守ってください。児童クラブも夏期保育をしています。守り導きください。お盆の帰省の時期です。交通を守ってください。今週の歩みを守り、教会員の信仰、魂、健康を支えてください。み名のよって祈ります。アーメン」

祈祷会説教                     2020年8月5日
 讃美 新生507番 主の手に委ねて
 聖書 出エジプト1章15〜2章10節 旧約P.94〜95
 宣教 「抵抗の知恵、守られる命」
 讃美 新生515番 静けき河の岸辺を
 祈り 祈りの課題8月号 
 黙祷   
  
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎の鹿児島での蔓延のために集まってなす祈祷会を延長して8月16日まで休みます。しかし聖書を読み、祈りをなすことは、キリスト者呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が、一人や家庭の祈祷で用いられることを祈りつつ原稿を準備します。
 さて本日は先週に引き続き、新しい学びで出エジプト記の2日目を学んでいきます。9月末一杯で9回に渡る長い学びです。先週はエジプトにおけるヤコブの子らの虐待の呻吟、苦悩を聞きました。ヤコブの子らは奴隷労働としてピトムとラメセスの建築に酷使されました。しかし主なる神は、ヤコブの子らの苦しみをご存知だったのです。

 今回は出エジプト1章後半から2章の前半、いよいよ主人公モーセの登場です。1章後半は男子殺害命令、2章はモーセの出生の出来事と言っていいでしょう。教会に長い方はすでに、モーセの登場その赤ちゃん時代の事については、ご存知と思いますので、細かいことよりも、何が起こったのかそしてそれに込められた教えを中心に聞いていきましょう。
 エジプト王ファラオには、イスラエル人のヨセフのエジプトへの貢献の歴史を全く知らない、歴史を忘れた王が立っていました。ファラオはもうイスラエル人を守り保護することから、いかに重労働を課して、虐待し、数を減らすのかを考える王が立っていたのです。この背景には、ヤコブの子らがどんどんエジプトで増えたこと、しかし自分たちのカナン言葉を忘れず、エジプト人ではないイスラエル人としてあったことを教えます。ヨセフのことを知らない新しい王に、私達は歴史を知らない王というか国民の悲惨さを重ねて良いのだと思います。今ちょうどテレビが、朝鮮半島の徴用工問題から発した、韓国の日本の新日鉄財産の現金化を、国際法違反と言っています。しかし1965年の日韓条約成立時代の不平等と歴史は誰も、何も言いません。言いだしたら大変なことになるからです。しかし日本で一つの放送局くらい基本となる条約の不平等と成立の不平等を批判してもいいのではと思います。条約というのは対等に結ばれて条約です。日韓のやり残した歴史を忘れないできちんとすることを祈ります。
 ところでイスラエルのエジプト滞在は何年間であったのか。ガラテア3章17節には430年とあります。しかし具体的には分かっていません。しかしエジプト王ラメセスの時代がエジプト18〜20王朝とすれば、ガラテア書が書いているように400年くらいは族長ヤコブの子のヨセフからモーセまで滞在した可能性はあります。400年の間にヤコブの子、ヨセフの子達は家族から民族に成るほどに、神様に守られ、成長していたといえるでしょう。

 15節からは、エジプト王が、2人のヘブライの助産婦に命じて、しかも2人とも名前シフラとプアまで残っています。一人の助産婦さんが一体何人の人口を支えるのか残念ながら分かりません。私は助産婦、産婆さんによって家で生まれたのと母から聞きました。産婆さんがどのくらいの人口で一人必要になるか分かりません。今風に言えば産婦人科はどのくらいの町で採算があうのかとなるでしょうか。鹿児島市には60万として今41軒の産婦人科があるそうです。1軒あたり14000人くらいです。イスラエルの人々は2万強の人口だったのでしょうか。16節には、ファラオの命令が出されています。書いてあるように全く理不尽な信じられない命令です。男子ならば殺す、女の子なら生かすです。その方法は書いてありせんが、日本の江戸時代の間引きの時は首をひねったとか聞いたことがあります。全く惨いことでありまあした。しかし17節、助産婦は神を畏れていたとあります。この神は、いわゆる聖書の主なる神ももちろんはいりますが、通常の神に使う時の神です。聖書教育誌には、この助産婦がヘブライ人かどうかは分からないとしています。ヘブライ人の助産婦とも、へブライ人を助ける助産婦ともとれるそうです。通常は赤ちゃんを取り上げる助産婦たちは、神を信じる信仰深い人が多く、命を預かるので殺せなかったということでしょう。そこには、神様を信じる信仰があったのです。助産婦は男も女も生かしたとあります。

 18節にはこれを聞いたエジプト王ファラオは助産婦を呼びつけ、なぜ命令を守らないか問います。すると助産婦たちは王に反抗するのではなく「ヘブライ人のお産はエジプト人よりも早い」と答えています。人によってお産のスピードは違うでしょうが、民族によって違のかは、聞いたことがありません。言ってみればとっさに答えた頓智ということができます。神様はこういう助けをされることがあるのだと思います。例えばルカ伝12章12節には迫害され、裁判にかけられた時「言うべきことは聖霊がその時教えてくださる」という約束がありました。主がいつも導き支えてくださるのです。20節に命を守る助産婦たちを神は恵みを与えられ、さらに21節には、神を畏れた助産婦たちには、助産婦たち自身もまた子宝を与えたとあります。当時は、子どもの多さが神の祝福と考えられていたからです。子宝の原文は「家を作る」であると聖書教育誌は書いています。家を与えるというのは、子どもが増えるということだからです。22節にファラオ王はとうとう助産婦に命じてもらちがあかないことを悟ると男子の子は、そのままナイル川に放り込めという命令を出します。悪法を超えて、凄惨な悲惨な法になっています。しかし、モーセが与えらえたのはその時でした。

 2章からのモーセの誕生の出来事は、古今東西歴史に活躍する人は、幼い時に苦労を与えられて、そこから用いられるというテーマが根底にあると言われます。日本は聖徳太子が馬小屋で生まれており、これはイエス様もまた同じで、生まれて間もなくエジプトに旅立つということもあります。モーセ時代を下りますが、なんとペルシャ王のクロス王もまた、幼いころに捨てられて拾われて王になったとあるそうです。歴史的に活躍する人は神様が守るという信仰だそうです。
 モーセもまた確かにそのような思想があるのかもしれません。しかしモーセの誕生は出来事として淡々と進んでいきます。生後3か月ともなれば、鳴き声も大きくもう隠せません。父と母はパピルスの葦の船を作ります。自分で自分の子を殺すよりも、ナイル川の流れに任せたのです。しかしもちろんここには、両親はファラオ王の王族が水浴びに来る場所を知っていたのかもしれません。もしかしてという思いがあったかもしれません。そして、5節に王女はパピルスのかごを見つけ、侍女にとってこさせます。そして6節には、王女は「これはヘブライの子である」と分かっています。そして、不憫に思ったとあります。この王女は自分の父、ファラオ王の出した赤ちゃん殺しの法律を知っていたのです。そして心を痛めていたのです。この王女は、父の命令に背くことを自ら選らんだのです。時代が時代だけにとんでもないことです。しかしここに人間が人間として育っていく姿を見ます。娘と言えども、父に反抗しながら成長していくのです。もちろん父の言う通りにする子も育つでしょう。しかし自分の力で考え、自分で判断する力をこの王女はもっていました。7節の姉、実はミリアムですが、すぐに実母を乳母として紹介するのです。王女はすぐに、これは母だと分かったのでないかと思います。王女は分かってそうしたのだと思います。
 つまりエジプト王宮は自分に反抗する者を自分の家で育てていたのです。まさに神様の方法です。明治に時代に、日本は官製の大学を一杯立てて、キリスト教に囚われない人、キリスト思想に負けない人を育てます。しかしその中から内村鑑三らがでてきます。官製の大学、学校からキリスト者が続出していきます。今も最高学府にキリスト者がおられるとなんだかモーセを思い出します。神様は、すべてをお用いになるのです。最後は主に委ね、主の後に歩んでいくことを示されます。

 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。モーセはイスラエルが滅ぼされようとする時に生まれました。神様がそうされたのです。鹿児島の感染は256人となりました。大都市のコロナ感染は収まる気配がありません。球磨川の洪水被害も甚大です。復興を助けてください。手術を終えて自宅療養の方、これから手術を控える方、ご高齢の一人暮らしの方支えてください。続けて子ども園の保育、児童クラブの夏期保育を導きください。コロナ感染から園児と先生、学童と支援員を守ってください。残りの半週を間追ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教   マルコ伝7章1〜13節
 2020年8月2日
 「 神の掟を捨てて 」  
 
 皆さん、おはようございます。本日は礼拝休みの4週目となり、8月の1週目の各自の礼拝となりました。つたない宣教ですが、1週間の歩みの罪の告白をしつつ、主の言葉の取り次ぎとして、宣教を聞き又読んで頂くと幸いです。
 新聞テレビの伝える通り、鹿児島では昨日252人の感染となっています。又東京、名古屋、大阪でも1日の感染者の増加を毎日更新中です。どうなることかと思いますが、ただただ感染の収束を祈ります。そしてこれもまた大変な中ですが、熊本の人吉地区の球磨川流域の洪水被害もまた、ただただ復興の守りを祈るのみです。ただこのことの中にも主が何か示しや教えをおいておられ、また罪の示しがあるのでないか。無責任かもしれませんが、キリスト者はそのことを忘れてはならないと思います。
 今しなければならない感染対策をなしていくと共に、この現実今の現実を神様からの何かのしるし、示しとして受けていくことも忘れないということです。なぜそんなことを言うかですが、1昨日の月一度の早天祈祷会で、歴代誌下32章と列王記下19章を読んだのです。そこには神様は天使をもって、エルサレムがアッシリアの軍隊に囲まれ滅びようとする時に救われます。この時、主は天使を用いて、ヒゼキヤ王と預言者イザヤの祈りに答えて、疫病をもってエルサレムを救われているのです。天使が18万5千人のアッシリアの軍隊を打たれた実際の道具は、疫病とされています。疫病は確かにサタンの道具です。しかし誤解を恐れつつ言うことは、同時に神のご計画を遂行する時の天使の道具にもなっています。誤解を恐れつつぎりぎりで言えば疫病が天使の道具であるとはいいません。しかし疫病は天使の道具になったことがあったのです。ですから私たちは躓きを覚えつつしかし、神様が何を求めておいでになるのか、感染予防をしつつ、祈りつつきちんと聞き取っていくことが大切です。
 
 本日の聖書は、8月の第1主日ですので、いつものように福音書から聞くということで、マルコ伝から聞いていきます。今朝の聖書は、典型的な神の言葉が人間の言葉にすり替えられていく過程を示しています。出来事は書いてある通りです。1節に、イエス様と弟子たちが、ガリラヤ地方で神の国の教えと癒しの奇跡をしているときです。エルサレムからファリサイ派の人と律法学者たちが来たとあります。いろいろな理由がありますが、これはやはりガリラヤ地方の人々が、きちんと宗教規程を守りつつ生活しているかを調べるためであろうと言われます。
 近年ではイスラム国というのがトルコ地方で勢力をもち、イスラム教でタリバンという原理主義の人々が支配したことがありました。その時、宗教警察が取り上げられたことがあります。イスラムの宗教規程に従ってきちんと生活しているかどうか調べて、そうするように指導する役目の警察の人です。ちょうど同じように、イエス様の時代には、エルサレムからフェイサイ派や律法学者が来て、イエス様やその弟子達の様子を探りに来たというわけです。
 
 2節にちょうどその時、イエス様の弟子の中に穢れた手で、食事をしているのを見つけました。今日であれば、何か小学校の給食係で、手を洗わないで給食を食べている生徒を見つけて先生に告発するという具合です。今はまた新型肺炎の蔓延でこれが復活しているかもしれません。ただ給食係は病気や細菌の感染のためでした。イエス様時代はそれが、清めと穢れの規程にあっているかどうかだったのです。
 
 3節にあるように、イエス様時代のユダヤ人は皆、手を洗わないとつまり穢れを落とさないと食事をしていけなかったのです。本当に不思議なことですが、この考え方はまさにウイルスや細菌が発見され、分かるようになった時代にますます有効なのかもしれません。いろいろな病気や感染病が流行った時代を、ユダヤ人達が生き抜いて来られたのは、この手を洗う習慣つまり清める習慣であったとまじめに言う学者もいます。今はますますその信頼性が問われています。
 
 4節にはさらに、市場から帰ったときは、身を清めるすなわち水浴びをして、食事をなし、盃、鉢、器、寝台までも水で洗っていたのです。ユダヤ人は、今日のコロナ時代に通用するような生活形式を、2000年前にしていたことになります。今は家の外から帰ると必ず手を洗い、もっと厳密な方は、シャワーを浴びるのではないかと思います。その人はまさにイエス様時代のユダヤ人と同じです。
 
 5節にとうとうこの宗教警察のもどきの人々、ファリサイ派と律法学者はイエス様に対して問います。「なぜ、あなたの弟子は、昔の人の言い伝えに従って歩まず、穢れた手で食事をするのか。」イエス様の弟子達の行動と生活様式は、エルサレムのファリサイ派と律法学者からみると全く当時の規定された生活様式からはずれていたのです。神の意志とされ、神様の喜ばれる生活様式である食事に前に手を洗うという儀式をしていない。つまりこれは神様に喜ばれないとなるのです。神の国を準備し、神の国に入るために歩みましょうとされていたイエス様の教え、そもそも弟子たちが聖書の教えに従っていないではないか、と告発されたのです。
 
 6節。これに対してイエス様の答えは、明確でした。預言者イザヤを引用して答えておられます。「イザヤはあなたたちのような偽善者のことを見事に預言したのだ」とされます。そしてイザヤ書29章13節から引用されます。「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている」。続けて7節「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしく私をあがめている」と続きます。実際のイザヤ書を見ると微妙に異なっているのですがこれは、マルコの引用が70人訳ギリシャ語旧約聖書のイザヤ書からであって、ヘブライ語本文でなかったとされています。福音記者たちは、当時よく読まれていた70人訳のギリシャ語の旧約聖書から引用したのです。
 ところでその意味ですが、次にイエス様がたとえを上げて言われています。それは、は8節にまず要約がありますが「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」というのです。具体的には10節以下に示されます。当時はモーセの十戒の「父と母を敬え」という戒めは大切でした。そしてこの戒めには当時、具体的な行動がついており、具体的に父母に贈り物をするということだったようです。ただ父と母を敬うということが、言い伝えの文字だけでなくて、具体的に贈り物として規定されていることに、さすがユダヤ教と思います。
 
 しかし問題は次です。11、12節です。折角の「父と母を敬う」という神様からの規定がある。そしてそれは具体的な献ものをするという実践がついている。しかしなんと父と母に差し上げるものを「コルバン(神殿でささげるものです、ということばですが、)そのコルバンです、神殿の献ものです」というと、なんと父母に対して何もしなくていいとなったのです。これは私たちにはよくわからないところがあります。しかしどうも父母よりも大切な神様の献げるものにするということで、父母への贈り物が免除されたのではないかと言われています。実はこの規定伝承は、イエス様より以降の律法学者の議論ではつまりユダヤ教でもおかしいとなったそうです。しかしイエス様の時代はまだそれが生きていたようです。そしてイエス様の結論は13節にあるように、このような考え方は「受け継いだ人間の言葉で、神の言葉が無になっている」とされるのです。父と母を敬うという、人間の正しい倫理が、言葉を変えるだけで、免除されて具体性のないものとなる。これはあってはならないことであります。
 
 神の言葉において、人間の事柄が、否定され、正されるのは正当なことです。しかし神の言葉が人間の言葉、人間の言い伝えによって無となることはあってはならないのです。私たちは同じようなイエス様の教えをいくつか思い出すことができます。例えばルカ伝18章9~14節のファリサイ派と徴税人の譬えです。ここには人々に尊敬され、一目おかれているファリサイ派と人々からさげすまれている徴税人が神殿に来て祈った話があります。ファリサイ派は祈りました。「私は奪い取る者、不正の者、姦通を犯すものでなく、このような徴税人のようなものでないことを感謝します。私は週に二度断食をなし、収入の十分の一を捧げています」。なんという立派な行為と立派な祈りでしょうか。しかし徴税人は祈ります。「神様、罪人の私を憐れんでください」のみです。イエス様はいわれるのです。「この2つの祈りにおいて、神に義とされたのは、徴税人である」といわれるのです。
 
 私たちは一瞬何が起こったのかと思います。しかしよく考えるとまさにそうなのです。ファリサイ派は正しい生活と正しい信仰生活をしています。しかし祈りにおいて、人と比べるという大失敗をしています。そもそも神の義とは人と比べることであるかという根本的な間違いです。ファリサイ派は、ひたすら隣の人間、徴税人を見て祈っています。しかし徴税人はただ主なる神を見上げて祈っていたのです。そして主が義としてくださるのは、自分の正しさらしさを傘に着て、他人との比較に生きる人でなくて、ただ主を見上げて、自分の弱さと罪を告白して、生きる人だったのです。ここに口先で神を敬う姿と本当に神を敬う姿の対比を見ていいでしょう。父母を尊敬しつつ生きるのは、主なる神様の正しい戒めです。しかしその戒めをコルバンという言葉でごまかして生きています。本当は心から父母を尊重し敬い支える規定が、「コルバン」(ささげもの)」の言葉で骨抜きにされるのです。
 
 これはユダヤ教だけでなく、まさしくキリスト教にもよく起こるのです。コルバンの代わりに福音的、聖書的、霊的を入れることができるのです。一生懸命正しい道を歩み、清く生きようとしている。しかしキリスト者はなんと簡単に、あの人は福音的でない、聖書的でない、霊的でないと切り捨てることがあります。ではその人の使う聖書的、福音的、霊的とは何であるのか。結局、自分の思う通りになってない人は、全部「聖書的、福音的、霊的でない」となるのです。つまり自分を中心において、自分以外の考え方や人や自分の気に入らない行動を否定するには「あの人は、聖書的、福音的、霊的でない」とはなんと便利な言葉でありましょう。
 
 私たちはこのコルバンを本当によく使います。イエス様がいわれるように、13節の「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。またこれと同じことをたくさん行っている」のです。私たちはできるだけ楽に、神様に従っているという確証を持ちたいのかもしれません。こうすれば、こうしていれば神様から喜ばれる、イエス様から褒めてもらえることがほしいのです。しかし実際の私たちの行動は、自分で行って、よく考え、よく祈ってようやく道が示されることが多いです。「福音的、聖書的、霊的です」と言えばつまり「コルバン」といえば、神様の業を果たしたことになるのでない。自分で行って、一つ一つ考えながら祈りながらいくしかないのです。十字架のイエス様の道を私たちは、自分自身が生きている時代に見つけていくしかないのです。今のコロナの時代に、神様は恵みによってその道を開いてくださり、導いてくださることを信じます
 
 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。8月に入りました。鹿児島の感染は留まることなく260名を超え、大都市でも毎日感染者数の記録更新をして、東京は1日500人に迫る勢いでです。しかし主は共にいて、支え守り導かれることを信じます。又人吉の球磨川流域の復興を支えてください。いつもの祈る病気療養の方、特に手術からの帰還の方、これから手術を受ける方、ご高齢の方々、支えてください。昨日から子どもたちは夏休みに入りました。感染から守ってください。子ども園、児童クラブは夏期保育をしています。守り導きください。今週の歩みを守り、教会員の信仰、魂、健康を支えてください。み名のよって祈ります。アーメン」


 祈祷会説教                     2020年7月29日
 讃美 新生213番 われらに伝えよ
 聖書 出エジプト1章1〜14節 P.94
 宣教 「エジプトのイスラエル」
 讃美 新生546番 真暗き夜に風立ちて
 祈り 祈りの課題7月号 
 黙祷   
  
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎の鹿児島での蔓延のために集まってなす祈祷会を延長して8月16日まで休みます。しかし聖書を読み、祈りをなすことは、キリスト者呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が、一人や家庭の祈祷で用いられることを祈りつつ原稿を準備します。
 さて本日からは新しい学びで出エジプト記を学んでいきます。9月末一杯で9回に渡る学びです。今回は出エジプト1章から32章になっており、ほぼモーセの一生と採ることができます。本日はその最初でエジプトでのイスラエル人の姿です。ここは創世記のヨセフ物語からの続きになっており、世界的な大飢饉がおこって、イスラエルの12部族はヨセフの準備してくれたエジプトの地で生き延びることになります。創世記47章27節には、ヨセフはエジプトの地のゴシェンと言う土地を、イスラエルのために準備したことが書かれています。

 2節から書かれている12部族の名は、ヤコブの12人の子供達です。この後から12部族には、ヨセフの子のマナセとエフライムが入ってきます。そしてレビは祭司となりますので、12部族の名前から外されていきます。レビとヨセフに交代して、ヨセフの子マナセとエフライムが入るのが基本的な12部族の表となります。実は、12部族の表は最初のルベン、シメオン、レビ、ユダ迄つまり4男までは順番がそう変わらないのですが、その後は順番の違いが激しいです。いろいろな理由がありますが、おそらく部族の勢力の時代時代の違いでないかと言われています。最終的にはユダ族が一番強くなり、ダビデを出し、イエス様を輩出する部族となっていきます。これから2か月間学んでいくモーセはレビ族となり、祭司の家系となっていくのです。
 5節の70人は12部族の12と同じように完全数とされ、70人でエジプトに下ったというよりも、イスラエル部族の完全数が下っていった。つまり一人も漏れることなく、過不足なくエジプトに入ったという意味とされます。それにしても、ここはヨセフの家族つまりヤコブの家族が、イスラエル民族となる分岐点であります。その分岐点にはもちろんモーセがいたわけです。当たり前ですが、何か特別なことがあるのでなく、だんだんと数が増えていった。神様の守りにおいて増えていったということです。私は家族が民族になっていくに、神様の着実な守りと導きを示されます。ここには何か特別なことをするということよりも、与えられえた一つ一つをなしていくことの大事さを教えるように思います。
 ただエジプトの文書においては、もちろんモーセのことはでてこないそうですが、ヘブライ人をエジプトに受け入れたという記述があるそうです。歴史のあるエジプト人が放浪の民ヘブライ人を受けるのは、かなり抵抗はあったものと言われています。6節にしかしヘブライ人、イスラエルの人々は増えていきました。7節に国中にあふれたというのはどういうことかが言われます。ヨセフの総理大臣時代のエジプトへの貢献に応じて、エジプト人はヘブライ人を守ってくれたという説もあります。しかし自力で増えたともあります。
 日本の在日コリアンの方々の様子を見ると2つがやはりあるのだと思います。自分たちの力で伸びたと同時に、やはり国のいろいろな施策があって、それが導き、守りとなって増えていくのがあるのだと思います。

 8節には、しかしイスラエルとエジプトの蜜月の時が終わります。もうエジプトには、ヘブライ人ヨセフの働きを知る人がなくなりました。穀物を蓄えて、飢饉の時に、エジプトの国力を周辺諸国に対して圧倒的に強くした歴史は忘れられたのです。そして、増えたイスラエルの民に対する警戒が始まるのです。ここで聖書教育は、イスラエル人がエジプト人と区別されるのは、まだカナンの言葉を使っていたからでないかと書いています。イスラエルの人々はカナンからエジプトに住みますが、その期間は200年とも400年、800年説もあります。しかし自分たちが使っていたことばを忘れなかったことになるのです。これは、ドイツにおけるユダヤ人もまたイーデッシュというユダヤ訛りのドイツ語を話していると似ています。完全にドイツ語を話せば区別が難しいですが、言葉が違っていたのです。ことばは自分の存在の根底です。カナン語つまりヘブライ語を忘れないと言うことは、主なる神様を信じる信仰を持ち続けているという証でもあるのです。

 10節にはこのヨセフの歴史を知らない新しいエジプト王が出て来た時の政策を書いています。ここにも、言葉の違いを示す「敵側について我々と戦い、この国を取るかもしれない」とあります。これはカナンから攻められた時、同じ言葉が使われていると同盟を結ぶかもしれないという心配であろうとされます。そして、新しい王の政策は、重労働を課して虐待してイスラエル人の数を減らすという方法でした。
 11節にピトムとラメセスの建築にイスラエル人が用いられたことが書かれています。ラメセスはラメセス王が作ったと言われていますので、聖書は、モーセが生まれた時代をラメセス王の時代においていることが分かります。そしてピトムとラメセスの建築は多くの労働者、つまり当時は奴隷が必要であったとされます。
 イスラエルの人はもともとは羊飼いであり、エジプト人は牧畜業を軽蔑していたとあります。しかし多くの奴隷の必要性は、イスラエルの人々が、この2つの町の建築に駆り出されていかざるを得なかったことを示すのです。生きていくためには仕方がなかったかもしれませんが、イスラエルの人々ヘブライ人は、牧畜業から現場工事の荷役人の仕事をこなしたことになります。ヘブライ人は適応性が高かったのかもしれません。あるいは、主なる神への信仰がそうさせたのかもしれません。
 ユダヤ人をテーマにした「屋根の上のバイオリン弾き」は、いろいろなバリエーションがありますが、一つには仕事を変わっていく姿をテーマしているとも読めます。いろいろな仕事の人に嫁ぐ娘たちの成功、失敗と最後は、また住み慣れた土地を追われるところで終わります。これは、人生がずっと旅であるということでもあります。つまりイスラエルの人々は、牧畜業から請け負い人夫、工事人と仕事が変わってもなお神様の導きとして受けて行ったのだとも言えます。

 12節に「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」とあります。そしてそれに対して、エジプト人はますます嫌悪していきました。いろいろな少数民族の姿がここにあるのだと思います。少数民族であるがゆえに、虐待される。しかしそれに打ち勝ってまた新しい生き方となる。すると又新しい虐待となり、また新しい対応をしていくのです。13節に、エジプト人はどんどん虐待をエスカレートさせていきます。しかし、ヘブライ人は滅びなかったのです。いろいろな見方を重ねることができます。日本の切支丹もまた、迫害されて潜伏しました。キリスト教からそれたという見方もできます。しかし潜伏切支丹として生き残ったともいえます。

 14節にレンガ作り、レンガ焼き、あらゆる農作業をさせたようです。そしてその労働は過酷を極めたとあります。しかし次の15節から読むとヘブライ人は人口を減らさなかったようです。次週の学びになりますが、エジプト王は今度は、嬰児殺しを思いつきます。内容は次週に聞いていきますが、確かなことは労働の荷重では人口を減らすことができなかったということです。昔の日本は、日曜日がなかったそうです。しかしちゃんと生きてきました。今は過労死が言われています。しかし過労死はある意味で限界があるのだと思います。神様がイスラエルに知恵を与えてくださったのだと思います。そして、時が満ちていよいよヤコブの家族が民族となる出来事、出エジプトが起こっていくのです。そこにモーセという人を神様が立ててくださったのです。私たちも、それぞれの場で、主の時を待ち、主に応えて生きていくことを示されます。主にあってコロナ時代を共に生き抜くことを示されます。

 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。新型肺炎の中、鹿児島では219人となり、多くの感染者がでております。人吉の水害と特に、与論島の守りをおいてください。神様の御業を待つものとさせてください。病気療養の方、手術を控える方、体調を崩す方、ご高齢の一人暮らしの方々の守りをおいてください。幼稚園、児童クラブの働きを祝し、感染から守ってください。み名よって祈ります。アーメン。」

 説教   第2テサロニケの手紙3章1〜5節   2020年7月26日
            「 神は真実である 」   

 皆さん、おはようございます。本日は礼拝休みの3週目となり、7月の4週目の礼拝となりました。つたない宣教ですが、1週間の歩みの罪の告白をなしつつ主の言葉の取り次ぎとして、宣教を聞き又読んで頂くと幸いです。次の皆さん揃っての礼拝は次週の8月を予定していました。しかし昨日のSNSと電話の通信執事会で、8月16日(日)お盆までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。残念です。しかしこれだけ感染が広がり鹿児島もまた九州で2番の203名になりした。与論島までクラスターが広がり、油断した訳でないでしょうが、あの小さい島では気の毒です。
 若い方は掛かっても重症化しないようですが、教会は75歳以上の方が多く高齢や合併症のある方は危ないです。じっと我慢というか、コロナウイルスの猛威をじっと静観するしかありません。最後は皆が免疫をもちワクチンができるまで罹らないようにするしかありません。100年前のスペイン風邪と言われるインフルエンザは、第2波が大きかったと言われています。「安全はすべてに優先する」で、用心にこしたことはありません。インターネットが使える方は「フィエスブック 日本バプテスト鹿児島キリスト教会・中山伝道所」で、この宣教をライブ動画で上げますので、どうか利用してください。

 さて今日は、いつものように第4週ですので、聖書教育の指定する聖書の箇所から聞くという方針で、第2テサロニケの手紙3章の前半から聞いていきます。すでに、先週の祈祷会の説教も広がっていますが同じ箇所です。重複することをお赦しください。テサロニケ第2手紙は、聖書ではもちろんパウロの手紙となっています。しかし学者の中には「すでに再臨が起こってしまった」(第2テサロニケ2章2節)という信仰が書かれており、これはいくらなんでもパウロの生きていた時代ではなかろうとしています。つまりパウロの名による手紙、パウロのお弟子さんの手紙とする方があります。確かに第1の手紙では、再臨が来たら死んでしまっている人はどうなるのかという問いにパウロは答えていました。それから何年もしないうちに、もう再臨が起こってしまったと言うのは、余りにもかけ離れているのかも知れません。
 しかし今のようにSNSを使っている時代でもありませんので、それぞれに地域の事情や格差は大きいものがあったでしょう。テサロニケにそういう信仰が起こっても、おかしくはないと思います。今も又韓国の教会事情と日本の事情とかは大夫違います。今頃と思いますが数年前には、死人を復活させる伝道者とかの集会が、鹿児島に来られたことがあります。私はその集会に行きませんでしたが、牧師として気持ちは分かります。自分の大切な伴侶や若くして子どもを亡くされた方は、聞いてみたいと思うのは当然であると思います。

 1〜3節をみますが、本日のところは、手紙の最後の挨拶のところであります。パウロはこれまでの多くの手紙でそうだったように、手紙の最後に祈りを頼んでいます。パウロは、こうして祈りを他の信徒や他の教会に頼むことが多いです。私は、ここにパウロのすごさを思います。というのも、私はなかなか「祈ってください」と言えない牧師なのです。このくらいのことは自分でしないといけないのでないか、このくらいのことは祈ってもらわなくてもいいのではないか。どうもそういう気持ちが先立って、つい「祈ってください」といえないことが多いのです。
 これは信徒の中にもあるのではないでしょうか。このくらいのことは、牧師に祈ってもらわなくても、自分でやらなくてはと思うのではないかと思うのです。しかしここでパウロを思い出して欲しいのです。パウロほどよく働き、信仰に歩んだ人が、いつも「祈ってください」と頼むのです。ぱっと見ただけで、第2コリント1章11節に「あなた方も祈りで援助してください」と書いています。またローマ書15章30節「私の為に、私と一緒に神に熱心に祈ってください」とあります。パウロはどこに行っても「祈ってください、祈ってください」と言っていたのです。それなのに私達が「祈ってくださいと言えるか」とふんぞり返っているはおかしいです。たとえここはそこまで祈ってもらわなくても、と思う事があっても、なお祈ってくださいとは大切なことだと思います。

 ところでパウロは祈りの内容を、2つ上げています。1つは主の言葉が速やかに宣べ伝えられることです。次に道に外れた悪人どもから逃れられるようにです。先ず一番の「速やかに宣べ伝えられること」です。これはパウロがフィリピ3章14節に書いている「お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」に応答します。福音宣教は急ぐことはないのですが、しかし休みながらでもないのです。福音は「ゆっくり急いで伝える」と言う言葉がよく使われます。ガタガタ、ガチガチで余裕無くして伝えても、そう伝わるものでありません。伝え方と福音の内容は呼応していることがあります。もし自分の力で、自分の能力で伝えるのであれば、伝えられる信仰義認とは合わなくなります。信仰義認とはすべて神様が成してくださると言うことだからです。神様が成してくださる信仰を、自分の力と自分の知恵だけで伝えようとするとならば、それは矛盾です。しかし全ては神様がなしてくださるとして、できる奉仕もせず、証しのチャンスを生かさず、自分に示される賜物や時を用いないとすれば、その人は怠慢です。罪とは高慢、怠慢、欺瞞であると言った人がいました。主の恵みによって、速やかに広がるように努力し伝えることは、大切です。自分に与えられた知恵と力を使って、福音を伝えるのは、大切な務めです。

 次にパウロは「道に外れた悪人から逃れられるように」と祈っています。「道に外れた」とは、新約聖書ではここだけに使われた言葉だそうです。前の口語訳では、「不都合な悪人から」と訳しており、新改訳では「ひねくれた悪人」と訳しています。具体的な姿は今一わかりませんが、しかし使徒言行録からはパウロの伝道はいつも迫害と邪魔が入ったものでした。
 言行録17章1~9節には、テサロニケ伝道のことが書かれています。ここでの伝道は最初は良かったのです。安息日を3回迎えたところで、ユダヤ人達は、パウロの宣教に従う者が出たことを妬んで、邪魔をし、2人を町の当局者に引き渡しています。パウロとシラスのテサロニケ伝道は1ヶ月足らずだったのです。7節を見ますとパウロ達を訴える者が、ローマ皇帝の他に「イエスと言う別の王がいる」と言うと訴えたということです。確かにこれは「道に外れ、不都合な、ひねくれた」訴えです。
 また言行録18章6節のコリント伝道の時には、イエスさまはメシアであると力強く証しすると「彼らが反抗し、口汚く罵ったので、パウロは服の塵を振り払った」とあります。パウロ達の伝道は、主にユダヤ人達から反対が多いですが、いつも反対がつきまとい、理解されずでした。しかし神様は反対を赦され、ある意味でまたそこにも道を置いてくださっていました。言行録18章6節には、パウロはその反対の中で「私は異邦人方に行く」とこれからの自分の伝道方針を確認しています。これはもともとパウロが最初に復活のイエス様に出会った時に、言われたことでした。言行録9章15節には「あの者(パウロ)は、異邦人や王達、又イスラエルの子らに私の名を伝える為に選んだ器である」とありました。しかし最初に言われたことですが、それが内実化するのは、こうして実践の途中の中だったのです。

 パウロの祈りの要請からは少しずれますが、パウロは実践しながら、伝道しながら自分の行く道を示されて行った伝道者だったと思います。最初からそうしよう、こうしようという方もあるでしょう。目的と実践が最初から合う方があるでしょう。しかし多く私達は、やりながら実践しながらしか分からないのだと思います。実践しながら「ああ、自分はこれに向いている」とか「ここが自分の生きるところか」と示されて行くのだと思います。昨日のテレビで自分は何をすべきか見付ける為に旅をしていますというのがありました。しかし自分が何をすべきか、というのは、仕事をやっている内に示されるのでないか。旅して見付けるので無かろうと思った次第です。

 3~6節はしかし、パウロは、これからのことを心配し祈ってもらいますが、しかし最後は委ねるのです。それは書いてある通り、神の真実を信じているからです。これは何度も聞かれたと思いますが、聖書本文のギリシャ語では、真実と信仰すなわち信じる事が同じ言葉になって、ピスティスといいます。真実と信仰が同じ言葉とは、おもしろいと思います。信仰とは真実であり、真実とは信仰でもあるのです。神の真実が、テサロニケの人々を守り、導き、支えるのです。パウロはそれを信じるのです。言葉のだじゃれ又はあやになっているのかも知れません。しかしなんという深いことばでしょう。神様の真実を信じるので、パウロは、テサロニケの人々を主に委ねるのです。神への信仰は真実となって、テサロニケの人々の信仰を守っていくのです。

 4節にあるように、パウロはテサロニケ教会の人々が、現に実行していることを、これからも実行することを信じるのです。それは神様の真実を信じるからです。神様の真実は、今のテサロニケの信仰を固くし、そしてこれからもテサロニケの信仰を守ってくださるのです。パウロがこのように深く、神様の真実と信仰を信じることがでているのは、やはり復活のイエス様との出会いでしょう。何と言っても、パウロ自身が、キリスト教の迫害者でした。パウロは、自分で自らキリスト求めたことはなく、むしろキリストの迫害者でした。
 しかし神様はキリストの迫害者であるパウロを、信じるものとしてくださったのです。もちろんパウロは、人と人とも思わない非人間、極悪非道の者でありませんでした。ユダヤ教の律法を守り、何よりも神様を第1にする生き方のものだったのです。しかしキリストについては、全く認めていませんでした。ユダヤ教のパリサイ派として訓練を受けたパウロは、神様が自分を無にして、僕の身分となり、謙って、十字架の死に至まで従順であるのは、あり得ません。私達の罪の為に死なれたこと、罪を贖うキリストもあり得なかったと思います。しかし復活の主はそれをパウロに、自分に啓示くださったのです。
 パウロはパリサイ派の訓練を受けた律法学者だっただけに、自分がイエス様を信じることが出来たこと、自分を導かれた復活の神の真実を、信じる他ありませんでした。5節にある神の愛とキリストの忍耐を知るのは、まさに自分自身が、主の愛と忍耐で取り扱われたパウロ自身だったからなのです。
 新型肺炎のコロナの感染は、多くの学者が、第2波がくるのは分かっていたがこんなに早く来るとは思わなかったと言われています。専門家がさっぱり分からないのです。しかし人生は実はもっと分からんのです。ただ一つ神様の真実だけは十字架において確かです。愛と忍耐の神は、迫害の中で、パウロを弟子として、パウロに指針を与えました。同じように主はこのコロナの中で、私達に道を示しておられることを信じます。今ははっきりしませんが、主のお取り扱いの確かさを信じます。

 祈ります。「主なる神よ、新型肺炎の感染の中での再び共なる礼拝ができなくなりました。コロナ感染は鹿児島で203人となり、九州の洪水被害は85人となります。どうか復興を守ってください。主の真実の信仰に生かしてください。病気療養の方続けてみ手においてください。退院された・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園と児童クラブの園児と生徒、先生と支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 祈祷会説教                     2020年7月22日
 讃美 新生134番 命のみことば たえにくすし
 聖書 第2テサロニケ3章1〜18節  P.382〜3
 宣教 「たゆまず、良いことを」
 讃美 新生363番  キリスト 教会の主よ
 祈り 祈りの課題7月号 
 黙祷      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎の蔓延のために集まってなす祈祷会を3回ほど休んでいます。しかし聖書を読み祈りをなすことは、キリスト者呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が、一人や家庭の祈祷で用いられることを祈りつつ原稿を準備します。
 さて本日は、テサロニケの手紙の8回ほどありました学びの最後の学びになっています。テサロニケの手紙をこのように続けて8回も学ぶのは珍しかったと思います。テサロニケの伝道は、何度も聞いてきましたように、言行録17章1〜9節に書いてあります。テサロニケに来る直前に、パウロはフィリピで悪霊に付かれた女性を癒してあげたのです。するとその主人たちが、女性たちの霊が出て行って、占いができなくなり、パウロとシラス(シルワノ)を商売妨害で訴えたのです。パウロとシラス(シルワノ)は訴えらえて投獄されるのですが、そこで地震がおこります。パウロとシラスは地震で刑務所の戸が開いたですが、逃げませんでした。当時は囚人が逃げると官吏は殺されたので、官吏は自殺しようとしました。しかしパウロとシルワノは「ここにいる。自害してはいけない」と名のりでます。

 これに驚いた官吏たちは、よく調べるとパウロとシルワノはローマ帝国の市民権をもっているのが分かり驚き、刑務所から出します。そしてテサロニケに送りました。テサロニケに着くと2人は、ここの会堂に入り、パウロはイエス様の十字架の苦しみと復活を伝えます。するとテサロニケの人々は信じてくれたのです。これはテサロニケにユダヤ人の会堂があり、その周りに異邦人の敬神者がいたとされています。当時は、ユダヤ教は、異邦人からはローマの多神教よりも唯一神でわかりやすかったこと、ユダヤ人が倫理的に人々に尊敬されていたこと、しかしユダヤ教になるには、律法や祭儀の規定でハードルが高く、入りにくかったと言われています。ユダヤ教の周りにいた異邦人たちは、パウロとシラスの宣教を聞き、イエス様の十字架と復活を聞いて信じて行ったのです。
 しかし、ユダヤ人たちは、これを見てねたみを起こし、ヤソンを引っ張りだして、「イエスと言う別の王がいる」と言わせて、動揺させパウロとシラスをテサロニケから追い出します。なんとパウロとシラスは、1ケ月ほどしかテサロニケにおれなったようです。パウロは次のアテネからテモテをテサロニケに遣わし、コリントで落ち合うとなんとテサロニケの人々は、きちんと福音に従って教会を形成してくれていたのです。パウロは喜んで、第1テサロニケの手紙を書きます。ここにはキリストの再臨に希望をおいて教会生活を続けているテサロニケ教会の人々に感謝を表しています。
 そして、第2の手紙は第一の手紙からどのくらいたっているのかよくわかっていませんが、テサロニケ教会では、すでにキリストは再臨してしまったという信仰がありました。今度はパウロは、キリストは再臨してしまったという信仰をもとに、怠惰な生活をする人々、具体的には働かないキリスト者に対して、戒めを書いています。パウロはこうして、もうすぐキリストが再臨するので、働かなくていいとする信仰と、すでにキリストは再臨してしまったので、働かなくてもいいとする信仰の極端の両面に答えていることになります。
 私たちはすでにキリストが再臨してしまっているなら、誰でもわかるはずだと思います。しかし当時はこのように両極端というか、キリストはすぐに来るとすでに来てしまったという信仰の中にあったのです。これは今でいうなら良き業をしないと救われない。良き業をしなくても救わるという両極端の信仰に重なるのかもしれません。良き業をしないと救われない。となると必死に業に励みますが、余裕をなくしすべてのことを、なすかなさぬかで見るでしょう。また良き業無しに救われると言うのは、弛緩した信仰に堕するでしょう。私たちはパウロが教えた、信仰によって完全に救われた。だから必死にその恵みに答えて良き業に励むということになります。良き業は救いの感謝であったのです。

 しかし再臨がもう来てしまった。どうしようという信仰は根深く、パウロを悩ませます。パウロはまず1〜5節に祈りを要請します。正しく主の言葉が速やかに延べ伝えられるためには、祈りが必要でした。祈りの後ろ盾を持って、福音は伝わっていくのです。それは福音の宣教は結局のところ聖霊の力だからだと思います。救いの理解は人間の力や人間の知恵でないのです。人間の知恵や人間の力だけでしたら、祈りはいらないでしょう。ひたすら努力すればいいのです。しかしことは聖霊によるとなれば、これはどうしても、祈っていくしかありません。人間の力が前面にでるのでなくて、神様のみ言葉の力が前面にで、神様の働きが前面にでるには、祈りしかないのです。自分は去り、神様が神の言葉が働いて頂くためには、祈りです。
 次にパウロは悪人どもからの守りを祈ります。これは「主の祈り」にもありました。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。キリスト教には「艱難を我に与えよ」という信仰はありません。人間は誘惑に弱く、試練に弱いのです。「試練に誘惑にあわせないでください」と祈りつつ歩むのが本当に、自分の罪を知った者、サタんの深みを知った者の祈りです。

 6節からはパウロは怠惰な生活を戒めます。キリストがすでに来てしまった。そこには、まじめに希望を目指して働き、生きる生き方がなくなるようです。これは「すでに完全に救われた」という信仰と並行するかもしれません。すでに完全に救われているのなら、何をやってもいいということがでてきます。第一コリント6章12節には「すべてのことがゆるされている」という言い方がありました。自分は救われたのだから、誨淫、殺人、盗み、貪りを正当化する群れがでてきました。初代教会では、再臨のキリストを求めて砂漠に入り自滅した教団もあったそうです。

 7、8節にあるように、そのようなことが起こらないように、パウロは怠惰な生活をせず、パンをただでもらって食べたりしなかったといいます。「夜昼大変苦労して、働き続けた」と書いています。9節には、模範を示すためだったといいます。模範は今は余りいいように用いられませんが必要です。歴史家トインビーはその時代が良かったか悪かったかは、その時代の人物が示すとしました。そういうことがあるのだと思います。不思議なことに、西郷さんや大久保さんや坂本竜馬や勝海舟と明治維新には、人物たちがでて、日本の基礎を築いています。今からするとずいぶん間違いもあるのですが、しかし時代の模範というのはあるのだと思います。
 パウロは援助を受ける権利があったのですが、むしろ働いて食べることを教えるためにその権利を使わなかったというのです。これは第1コリントの手紙9章にもでてきており、パウロの確信だったと思われます。聖書教育は、この手に職を持つ伝道者スタイルが、またこの先見直しされるかもしれないと書いています。福音宣教もだんだん専門になって旧約聖書学、新約聖書学、教会史、組織神学、教義学、実践神学の説教学や牧会学と別れています。果たして本当の信仰はどうなのかとなると、それをまとめる場所というかその現場が問われて、それは現実の教会になります。パウロが「落ち着いた生活をし、自分で得たパンを食べなさい」とはそういう聖書の教えを、統括する原点のことかと思います。13節の「たゆまず良いことをしなさい」という勧めも、とどのつまり信仰の原点、統括点を示すのでないかと思います。

 15節には、指導者のいうことを聞かない人のことが書かれています。「敵とみなさず、兄弟として警告しなさい」となっています。これはイエス様の隣人愛の実践ともいえるでしょう。最後は、主がいつもあなた方と共におられるようにとしています。パウロはいつも主がともにあり、支え導きてくれることを信じています。テサロニケ教会が、すでに再臨が起こったでなくて、希望を持って自分の手で働き、落ち着いて、本当に主が来てくださるのを待つ忍耐して待ち、歩む信仰を、抱き歩むように祈るのです。

 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。新型肺炎の中、神様の御業を待つものとさせてください。病気療養の方、体調を崩す方、ご高齢の方の守りをおいてください。幼稚園、児童クラブの働きを祝してください。み名よって祈ります。アーメン。」


 説教 エゼキエル18章1〜9節            2020年7月19日
            「 必ず生きる 」   
 皆さん、おはようございます。本日は礼拝休みの2週目となります。つたない宣教ですが、今日と1週間の歩みの罪の告白をしつつ、宣教を聞き又読んで頂くと幸いです。次の皆さん揃っての礼拝は8月を予定しています。しかし最近の感染状況を見るとどうなるのか。難しい所があります。しかし1日1日を一人で又ご自宅にて礼拝が守られ、なされていくことを主に祈るのみです。さらに九州、西日本での大雨の熊本の球磨川流域のみならず他県にも被害が広がり、全体では90名に近い方々の被害になっています。コロナの感染を心配して、ボランティが制限されております。本当にどうなるのか、復興のための片付けも又難しい判断になっています。

 先週は涙を流さんばかりの専門家のPCR検査を増やしなさいという訴えが、響きました。お医者が許可した時でなくて、確かに誰でも自由に受けることが出来るようにして罹ったことが分かったら自分から安静にして頂くのが一番のように思えます。ずっと言われ続けていますが、相変わらずなされません。しかしそうせざるを得なくなるのでないかと思います。
 さて今日の聖書は、第3週ですので旧約聖書から聞くということで、エゼキエル書18章に来ました。クリスマスやイースターのある月は、旧約ヘブライ書から聞くと言うことができませんので年に10回ほどになります。もう1年以上に渡って聞いてきています。今日のエゼキエル18章は、ある意味で預言者エゼキルの挑戦といいますか、キリスト教の根本思想・神学の原罪というあり方(アダムとイブの罪を私達も負う)に対する問いとも言われています。課題は限りなく重いといえるでしょう。
 しかしもろちんエゼキエルは神学者でなくて預言者です。しかもバビロンに連行された異国に働く預言者です。そこにはイスラエルの民の連行の苦しみ、他国に生きる苦難、チグリス・ユーフラテス川の危険な河川工事に就かされる同胞の民の呻吟、神殿を無くしてなお信仰を保って行く新しい信仰のあり方の模索と、エゼキエルの負う課題は余りにも重く、厳しく、大変だったのです。このようなことを、念頭に置きながら、聞いて行きたいと示されます。

 1節にあるように、預言は突然「主の言葉が私に臨んだ」で始まります。預言者はいつでもどこでも、主の言葉を聞く準備が必要であったことを示されます。アブラハムも又、自分の子イサクを献げる時に、天使の言葉を聞きました。自分の子を献げるという緊急事態に、よくぞ冷静に主の言葉に聞けるものだと思います。しかし生け贄として自分の子の命を絶とうとする時、アブラハムは聞いたのです。創世記22章11設です。信仰者というのは、常に主に聞く構えを教えられます。
 エゼキエルに主は言われました。「お前達がイスラエルの地で『先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と言っているはどういうことか」。これは実はどうしてそうなのかよく分かっていません。しかしこの言葉はそのままエレミヤ書31章29節にもあるのです。2人の予言者が全く同じことわざを書いたと言うことは、確かにこのことわざが言われていたのです。酢いぶどうとは、どうも未だ熟していない酸っぱいぶどうのことのようです。しかしそれを食べたからと言って、自分でなくて子孫の歯が浮くのか。歯が浮くとはどういうことか。原文は「鈍くなる」という意味の言葉です。歯が鈍いと言うのもどうも今一ピン来ません。日本では歯が強いと弱いとかいいますが、歯が鈍い歯が鋭いとは、余り言わないと思います。
 しかし表現の意味が今一分かりませんが、確かなことがあります。それは先祖のしたことが子孫に影響する。先祖のしたことの結果が、今や子孫にでるということです。つまりエゼキエルの時代に即して言えば、バビロン捕囚というとんでもない国難が襲ったのは、先祖の犯した罪のためだったということに間違いないでしょう。イスラエル民族が国を失い、エルサレム神殿を失うことが起こりました。民族の大半は、バビロンに連行されました。エゼキエルの預言の時間がからいうとまだエルサレム神殿の完全崩壊に5年ほど前です。しかしすでに6年前の第一次捕囚は起こっています。多くの人々はすでにバビロンに連行されておりました。
 その時、神の民、神の選ばれた民が、なぜこんな憂き目に遭わないといけないのか。それは当然のごとく出てきた問いでありました。そしてその一つの答えに、先祖の罪の結果を自分たちは今受けているということです。これはあり得ると思います。今まさに日本は九州地方の大洪水の被害、いよいよ第2波と呼んで言いコロナウイルスの感染状況にあります。科学的にはなんとでも説明が付きます。線上降水帯が11時間も発生してアマゾン川の何倍の水量の水蒸気が、九州の空を覆った。コロナのクラスターが起こり、第2波が来たと言う、どうしての理由は科学的につくのです。
 しかし私達はどうしてそうなったは分かりますが、なぜ、そうなったを知りたいのです。聖書は多くの人間界の悲惨の原因、被造物の虚無の原因を罪に置きます。そしてその時、原罪という捕らえ方をするのです。元祖人間のアダムとエバが、神様を神様としなかった。神様の戒めを軽んじた。具体的にはエデンの園の中央にある食べてはいけない木の実を食べてしまったということです。そして、これが子孫に受け継がれて、私達に悲惨や虚無があるというのです。ここからの解放は、神の御子キリストの信仰にありとするのです。
 つまり先祖の罪を子孫が負っていくのは、聖書の根本問題であり、現実に私達の世界はそうなっているのです。人間が歴史を持って生きていく以上、私達は前の世代に繋がっており、その良い点も悪い点も引き受けて、生きていくしかありません。生物学的には遺伝という現実があります。私達は、自分の顔や体の基本的な要素を、親から受けており、少しは整形外科で修正出来るでしょうが、大枠では引き継いで生きていきます。人間が死ぬということも又生物としての限界と同時になぜという問いを出すとすれば、罪という事態があるのです。ローマ書5章12節です。又どんなに私達が忘れても、戦争責任はその最もたる出来事だと思います。

 3節にはしかし、エゼキエルは言うのです。「このことわざを二度と口にすることはない。4節、全ての命は私のものである。父の命も子の命も私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」。これは明らかに、先祖の罪を子は負わない。先祖の罪を子孫は負わないということです。エゼキエルはどうして、聖書の根本を揺るがすような、センセーショナルなことを言うのか。
 もちろん預言者はもともと象徴預言と言って、エレミヤにも一杯でてきますが、人々の注目を浴びることをして預言することがあります。予言者は日本的な地道に主の前に生きていくでは足りないのところがあるのです。主が示されれば、エレミヤは神殿の庭で陶器を割る預言しました。エレミヤ19章です。バビロン軍が攻めてくる戦争の最中に土地取引をしました。捕囚されればすべて無駄です。エレミヤ32章です。エゼキエルはすでに聞いてきましたが、430日間変な寝方をして人々の注目を浴びます。又人糞でパンを焼きます。エゼキエル4章です。この後ですが、エゼキエルは妻が亡くなる時、悲しみむことを禁じられています。エゼキエル24章です。
 こうして預言者達は、自分の奇行を通しても預言しました。しかし神の言葉を曲げることは無かったのです。しかし今や「罪を犯したものは、その人が死に、主の掟を守り、主の裁きを忠実に守るなら彼は必ず生きる」と言うのです。これは罪の継承信仰だけからはあり得ません。しかしエゼキエルはこれを預言します。それは恐らくバビロン捕囚の苦難が余りにも大きく、捕囚の苦しみは、イスラエルの人々にとって耐えるに耐えられない状況だったからと言えます。もし先祖の罪で、バビロン捕囚が起こったのであれば、もうそこから逃れ、立ち直る機会はないかも知れません。

 5節にあるように、しかし「罪は犯した者が負い、ある人が正義と恵みの業を行うなら、その人は生きる」のです。先祖や親の罪に関係なく、罪はその人に迫り、義はその人を生かすのです。ここにおいてイスラエルの人々、エルサレムの人々は、また動き出すのです。私達はここにパウロの信仰義認を重ねてもいいのかも知れません。信仰義認はある人から見れば、なんと都合のよい教えでしょう。特に厳格なユダヤ人から見れば、忠実に良き行いや真面目に義を積み重ねることなく、良き業を行うことなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるは、とんでもないことでした。しかし、パウロはこの啓示を復活のイエス様から受けたのです。
 どんなに律法を行ってみても、良心の苦悩は収まるどころか、ますますパウロの心はズタズタにされました。良き行いをすればするほど、自分が神様に遠いことが体験されていきました。それは自分を義としようとする思いそのもの事態が、自分を中心とする罪から来ているからでした。パウロはこれに気付き、律法の罪に捕らわれてしまったのです。しかしそこにイエス・キリストの十字架の贖いが示されたのです。もう自分の力、自分の努力で神の前に義とされなくていいのです。イエス・キリスト様が、神の義を完全に満たしてくださった。私達はその義を感謝して受け、生きるのみなのです。私がすることは、宮沢賢治でいえば「東に病気の子どもあれば看病してやり、西に疲れた母あれば、イネの束を背負ってやり、北に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいよと言い、南に喧嘩や訴訟があれば、つまらないことはやめよという」と言うことです。

 6〜8節は、エゼキエルの示す神の前に歩くあり方です。偶像に関わらず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性を重んじ、人を馬鹿にせず、負債者の質物を返してやり、パンを力ずくで奪わず、飢えた者にパンを与え、裸の者に着物を与え、利息を少なくし、高利をせず、不正から遠離る、です。ここに私達は通常の旧約ヘブライ聖書にはない「飢えた者にパンを与え、裸の者に衣服を着せ」をみます。そしてこのところはマタイ伝25章31節以下のイエス様が言われた最後に審判に引用されたことに気づかれると思います。最後の審判には6つの行為があります。そしてパンを与えるは1番であり、着物を着せるは4番で、出てきます。イエス様はエゼキエル書を読まれていたのかどうか、よく分かりません。しかしなんとその信仰の近いことでしょう。イエス様はイザヤ書の引用が多いとされます。それはイエス様の歩み全体がイザヤ53章の十字架の苦難の僕の実現だからです。しかしエゼキエル書もまたイエス様の最後の審判の時の羊とされる人の行為に引用されるとは、何という恵みでしょう。

 9節にエゼキエルは「必ず生きる」と言いました。先祖の罪によってバビロン捕囚は起こったのか。日本の先祖の罪によって、コロナが起こり、大水害が起こったのか。しかしそうでない。背後に地球温暖化があるのかもしれない。先祖達の罪は繋がっているのかもしれない。しかし「正義と恵みの業を行うなら。・・・彼は必ず生きる」のです。神の恵みはそうさせるのです。地道に感染を避ける業をなし、地道に復興を助け祈るのです。地道に祈りと礼拝を重ねていくのです。主はその時、その人を、神様が必ず生かしてくださるのです。ここを信じてまた1週間を歩むことが赦されています。

 祈ります。「主なる神よ、新型肺炎の感染の中での再び共なる礼拝ができなくなりました。コロナ感染は鹿児島で162人となり、九州の洪水被害は80人近くなります。どうか復興を守ってください。信仰に生かしてください。病気療養の方続けてみ手においてください。退院された・・・を守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園と児童クラブの園児と生徒、先生と支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」
 
 祈祷会奨励                   2020年7月15日(水)
 讃  美  新生134番 生命のみことば たえにくすし
 聖  書  第2テサロニケ2章1〜17節 P.381〜2
 奨  励 「 慌てふためかないで 」
 讃  美  新生530番 ただ信ぜよ
 祈  り  祈りの課題7月号 
 黙  祷  各 自

 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。先週からまた皆で集まる祈祷会はできなくなりました。しかしそれぞれの皆様と共に聖書を読み、それぞれの祈祷の助けになればと思い原稿を作ります。そして皆さんと共に、その場その場で祈れることを心から感謝致します。
 さて本日は、6月からのテサロニケの手紙の7回目の学びで、本日は第2テサロニケの手紙の2回目となり2章から聞いていきます。この後は3章を学んでテサロニケの手紙の学びを終わり、8月からの学びは、出エジプト記からとなっています。
 本日の学びは2章1、2節にありますように「主イエス様が来られることと・・・主の日がすでに来てしまった」という者に対して「動揺するな、慌てふためくな」という教えになっています。すでに聞いてきたように、第1の手紙は新約聖書の最初の手紙であり、ある意味で新約聖書、最古の手紙となります。そして第1テサロニケの手紙のテーマは、イエス様の再臨において「すでに死んでしまっている人はどうなるのか」という事でした。つまり第1の手紙においては、主イエス様の再臨のその前に亡くなった人が問題になっておりました。そして第2テサロニケの手紙では、今度は「イエス様が来てしまった」と言うことが問題になっています。
 つまり第1の手紙と第2の手紙は同じくイエス様の再臨のことがテーマですが、しかし「主が来られたら、死んでしまった人はどうなるのか」と「主が来られてしまった。自分たちはどうなるのか」という違いがあるのです。つまり第1と第2の手紙の間は時間的に大夫離れているとされています。第1の手紙はAD50~1年頃コリントから書かれました。しかし第2の手紙は、パウロのローマ処刑時期よりもおそらくAD59年かAD60年か頃よりも、さらに遅い時期の初代教会の問題がテーマになっているとされます。ですからパウロの弟子が、パウロの名を用いて書いた手紙であるという学者もいます。しかしパウロが今後のことを注意するように、書いているとも読めますので、ここではパウロが今後のことを注意しているとして読み進めます。

 2節にあるように、テサロニケ教会では「すでに主が来てしまった」という者がいたとなっています。これは私たちはイエス様が来てしまわれたら、誰でもいつでもすぐに分かるのであり、こんなことに躓く人がいるのかと思います。しかし初代教会で、実際にこういうことが起こったのです。
 それは、ヨハネ伝に片鱗があります。ヨハネ伝5章25節には「死んだ者が神の声を聞く時がくる。今やその時である。その声を聴いたものは生きる」とあります。6章35節には「私の元に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」とあります。またヨハネ伝11章25節には「私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じる者は決して死ぬことはない」とあります。これらのイエス様の宣言は、いかにも復活のイエス様が今ここにあり、再臨が起こったかのようです。つまりイエス様の言葉には、過去と現在と未来が一緒になっている信仰があるのです。
 初代教会において、すでにイエス様のことばを非常に身近に感じて再臨が起こったと考える人がいても、おかしくないのです。しかし問題はそのことを聞いて「動揺し分別をなくし、慌てふためく」ということです。実際に初代教会の中には、再臨はすでに起こっているので、働くことを止め、結婚を止め、女性や子どもと共に砂漠の中に、荒れ野に入っていって自滅した狂信的な教団があったと言われています。しかしパウロは、そういうことがあってはならないとします。

 3、4節に歴史的な段階の理解を示しています。「騙されてはいけない」として「まず神に対する反逆が起こり、次に滅びの子が出現し」、4節に「神や拝まれたりするものに反抗し、傲慢にふるまい、ついには神殿に座りこみ、自分こそは神である」と言うものが起こるのだとします。これは具体的にはダニエル書11〜12章の預言が下敷になっているとも言われます。具体的は、紀元前160年代の外典のマカベヤ書T、Uにあるシリアのアンティオコス・エピフェネス王の神殿の冒とくがあり、これと戦いを望んだマカベヤ家の歴史があります。しかし同時に、第二テサロニケは、パウロ時代のローマ皇帝礼拝の歴史をみているとしています。
 こうして第二テサロニケは、ダニエル書のバビロン、ペルシャ時代の神の冒涜、そしてマカベヤ時代のシリア王のアンティオコス・エピファネスの王の神殿冒とく、そして今テサロニケの時代のローマ皇帝礼拝が、神の礼拝を退け、自分こそが神であるというところにあることを見ています。歴史はこうして、何度も重なり、神への冒涜の歴史を繰り返していくことを見ているのです。

 5〜8節は、神冒とくの不法の秘密の力が働いていること、その力を抑えているのがあること、さらにその時がくると不法の者が現れるが、主イエスは彼をご自身の力で滅ぼされることを書いています。さらに9節から12節は不法の者の背後にサタンがおり、サタンは不思議と偽りの奇跡を持っており、滅びていくものを欺くとしています。第2テサロニケは、こうしてサタンの働きとそれを抑えている働きを見ています。しかし10節に「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかった」として、ここには不法の者の滅びを自滅としてみているところがあります。つまり聖書のもっとも大きな裁きの方法は、放置であり、自分で自分の滅びを定めていき、自分からサタンを選び、真理を選ばない生き方になって滅びていくのです。神様は本当に滅ぼすことを決めたものには、好き放題させて、だんだん自分から滅びていく方法を取られことが、ここに示されています。12節の「真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです」とは、神様の裁きの方法でもあります。真理を信じないこと、不義を喜ぶことがだんだんと自分に、滅びを来たらせるのです。

 次に13〜15節には、神への感謝があります。それは聖なるものとする霊の力と神の選び、さらに14節には神の招きです。第二テサロニケの手紙は、人が聖なるものとなるに、人間の力を信じていません。人が聖なるものとなるには、神の霊の力が必要なのです。人は自分で聖なるものになることはできず、神様に導かれて聖となります。それは同じ次元の中でもがいても違う次元にいけないのですが、違う次元のものが来たりて、引き上げてくれることに譬えをみます。
 同じように第二テサロニケの手紙は、主の選びと招きを信じています。人が神様、イエス様の方向に向き救われるには、自分の努力や精進ではどうにもならないところがあります。神に招かれ、イエス様に呼ばれて選びが働いて、救いに入っていきます。これは理屈ではありません。体験です。聖書の神様は人が見つける神様でなく、神様が罪びとを探す神様なのです。主イエス様が12弟子を探し、選ばれたように「あなたがたが私を選んだのでなく、私があなたを選んだ」というヨハネ伝15章16節の体得が、救いの本来の姿です。そしてここに達した者は、救いの高慢、自慢ができなくなるのです。自分で救いを達成することが何もないからです。自分で見つけたのですが、実は神様から見つけられたのです。自分でしたのですが、実は神様によってさせられていたのです。このことに気付く者は、幸いです。

 最後に、15節は新約聖書の誕生の秘密を示します。「説教や手紙で伝えた教えを固く守りなさい」。ここに新約聖書は成立します。また16節からは、祝祷になっています。ここには主イエス・キリストご自身と希望と恵みを与える父なる神様が、テサロニケの人々を励まし、強め、良い働きをなすように祈られています。ここには聖霊はありませんが、子イエス様と父なる神様を結びつけているのは、聖霊です。私たちは、主の再臨を地道に待ち望み、蓋めくことなく、希望を持って歩みたいです。

 祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。信仰は時として、過去現在未来を見失うことがあります。しかし終わりの時を目指して進んでいます。そこにおらせてください。新型の肺炎の感染を終わらせ、大洪水の復興と守りを置いてください。日々のなすべき働きをなさせて、主の来臨を待たせてください。病気療養の方、ご高齢の方、支えてください。また子ども園、児童クラブの働きを支えてください。感染から守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教 ヨハネ黙示録3章14〜22節        2020年7月12日
            「 熱いか冷たいか 」   
 皆さん、おはようございます。本日からまた3回ほど礼拝・祈祷会を休みます。次の皆さん揃っての礼拝は8月になりそうです。それぞれがそれぞれの場において、又ご自宅にて礼拝が守られ、なされていくことを、主に祈るのみです。さらに先週は1週間、九州、西日本で大雨が降り続き球磨川流域のみならず、岐阜にも被害が広がり、熊本県だけでも80名に近い方々の被害になっています。また今週も梅雨前線は九州・西日本にかかり続けるそうです。被害が大きくならないのように祈るのみです。
 また新型肺炎の蔓延も、鹿児島は124人(7/10)となり、東京は1日で200人を越える日が続きます。新型肺炎も対応が限られていますが、マスク、手洗い、三密を避け、検温と免疫の食事と睡眠とできる対応が限られています。しかし1日1日を気を付けて過ごしていくしかありません。
 さて、今日から3週は原稿配布での礼拝となりますが、HPに原稿をあげています。インターネットのフェイスブックに繋げる方は、「田渕亮」という個人になって済みませんが、そこにアクセスしてみてください。未だ「鹿児島基督教会」で作れず悪戦苦闘していますが、中山夕礼拝をライブ録画(教会と同じ原稿)しています。

 本日の聖書は第2週になりますので、いつものように使徒の手紙から聞くということで、ヨハネの黙示録から聞いています。ヨハネの黙示録は手紙ではありません。長老ヨハネからの初代教会に向けた励ましであり、黙示です。しかし本日はその最後の7つ目の教会、ラオデキア教会に向けての手紙です。ラオデキアは前のフィリラデルフィアからさらに南東に70qほど離れた所にあります。7つの手紙がスタートしたエフェソからは時計回りになっていますので、直線では150qほどのところです。実はこのラオデキア教会はパウロの手紙のコロサイ人のへの手紙のコロサイ教会と15qの位置にあります。そしてコロサイの手紙には2箇所ラオデキア教会のことがでてきます。コロサイ2章1節と4章13節です。パウロがコロサイ書を書いた時のラオデキア教会とそれから約40年ほど経過した黙示録のラオデキナ教会はそう違わないと思いますが、違ったところがあるのかもしれません。
 ラオデキア教会は交通の要所にあり、銀行業が盛んであり、羊毛がよく取れ、さらに18節にでてきますが、目薬これは「フリギアの灰」といわれて、有名だったそうです。さらにローマの歴史家タキツウスによるとこのラオデキアは地震で壊滅的な打撃を受けたが、ローマの帝国の支援を受けずに、自分たちで立ち直った町として紹介してあります。一言でいうとこのラオデキアの町は、非常に富んだ裕福な町だったのです。おそらく、教会もまたそのように金持ちというか、裕福な人が多かったとされています。
 そして黙示録3章のラオデキア教会の手紙は大きな特長があるとされています。それは、ラオデキア教会は7つの教会の中で、唯一褒められることがない教会になっているのです。非常に不名誉な特長ですが、ラオデキア教会の特長と示しているとも言われています。エフェソ教会は「よく忍耐した」とされ、スミルナ教会は「命の冠を献げる」といわれ、ペルガモン教会は「私の信仰を捨てなかった」とされ、ティアティラ教会は「私はあなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」とされ、サルディス教会は「衣を汚さない人がいる」とされ、フィラデルフィア教会は「私の言葉を守った」といわれました。大なり小なりに6つの教会は褒め言葉があるのです。しかしラオデキア教会には一言もありませんでした。

 15節にあるように「あなたは冷たくも熱くもない」とされるのです。16節にはそれは「生ぬるい教会」とされています。そしてあなたは冷たく熱くもないので「口からはき出そう」と言われているのです。口からはき出すとは、裁きに渡すという事のようです。
 17節は、ラオデキア教会の自己理解を示しています。それは今までも見てきましたように、「私は金持ちだ、満ちたりている。何一つ必要なものはない」と言っているとうのです。これは一見、物質的な状態を示すかもしれませんが、同時に精神、信仰、霊においても、このように誇っていたのではないかと思われます。これはあるのではないでしょうか。教会が大きいと何でかしりませんが、自分の信仰も大きくなったよな錯覚に陥るのです。信仰は質の問題であり、一人神のみ前に立つことであり、芥子種一つの信仰が、山を動かすとイエス様から聞いています。しかし私達の弱さと罪は、外見に表れることに、つい捕らえられるのです。
 長老ヨハネは、ラオデキアの人々が自分たちで「金持ちだ、富んでいる、必要なものはない」というが、実は「惨めなもの、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸のものである」ことが分かっていないと言われています。精神、霊においては、大体において富む者は本当は貧しく、着飾っているものは、実は裸のことが多いです。まさにそのとおりに、ラオデキア教会はなっていたのです。ルカ伝16章の「金持ちとラザロ」のところでも、金持ちは名前さえ書いてないのですが、毎日贅沢に遊び暮らしており、ラザロはこの金持ちの食卓から落ちるもので暮らしていたとあります。しかし、死がこの2人に来た時、金持ちとラザロを襲った時、なんとラザロはアブラハムに懐に抱かれ、金持ちの自分は地獄ハデスにいました。
 また、ルカ伝12章の「愚かな金持ち」のところでも、ある金持ちが豊作で穀物や財産の大きな倉を建てた時に、主は「お前の命は、今日取り上げらえる」と言われたのです。穀物と財産の増加を、自分の命のためだけとし、神の前に豊になることを知らなかったのです。ラオデキヤ教会はまさに、ルカ伝が特に注意したイエス様の言葉の、財産に捕らわれた生活の、そのことのまっただ中にいたとも言えるのです。

 18節に長老ヨハネは、ラオデキア教会に3つの勧めをします。第1の勧めは「裕福になるように、火で精錬された金を私から買いなさい」です。裕福であると自慢しているラオデキア教会に「裕福になるために金を買え」と言うのは、強烈な皮肉でしょう。「自分は信仰がある」と日頃言っている人に「あなたの信仰を増すには、これをしなさい」というようなことです。ラオデキヤ教会はカチンと来たと思います。しかし長老ヨハネは、ラオデキア教会が外面に捕らわれて、本当の裕福さ、霊的な精神的な、魂の裕福さに気づいてほしいのです。火で精錬された金というは、本当に良いもの、高い品質のことを示すと言われています。
 ヨハネが持っている精錬された金、それはもちろん主の御言葉でしょう。第1ペテロの手紙1章7節にも出てきます。そこでは精錬するものは、試練となっているようです。試練によって信仰は精錬され、本当に質のよいものとなっていくのです。つまり試練や苦難や苦しみがない信仰は、もしかしたら精錬のない信仰となるかもしれないのです。つまり精錬のない金となり、混じりものだらけの品質の低い金になるかもしれないのです。長老ヨハネは、ラオデキア教会がまがい物の金になることなく、本物の金になってほしいのです。そのためには、火で精錬された金、つまり苦難や試練を通った信仰になってほしいのです。

 2番目は、裸の恥をさらさないために、白い衣を買いなさいととしています。着物を着る譬えは、イエス様もされたことがありました。マタイ伝22章11節には、婚礼に招かれたのに、礼服を着ていない譬えがあります。いろいろな意味が込められていますが、神様と出会うのに、信仰無しで出会う愚かさ、自分で自分の信仰をよしとする高慢さを示していると言えるでしょう。婚礼には礼服を着るように、神様の前にでるには、罪の赦しが必要であり、信仰という礼服が必要なのです。

 3つ目は目に塗る目薬です。薬が出てくるのは新約聖書ではここだけです。この薬は、目が見えるようになることだけでなく、見えるようになることが持続する薬であるという解説書がありました。ラオデキア教会の人々は、コロサイ書1章7節によるとエパフラスの伝道によってイエス様を信じ信仰を告白したのです。しかし自分たちの裕福な状態に捕らえられて、本当の信仰から反れていきます。高慢、傲慢、自慢の信仰に落ちて行きました。しかし長老ヨハネは、エパフラスから聞いた初めの信仰に留まり続けてほしいのです。十字架に罪を赦され、主イエス様と共に歩む貧しい信仰に立ち返って欲しいのです。目に塗る薬を買いなさい。ここには最初に見た十字架のイエス・キリストの姿を、ずっと見続けていてほしい長老ヨハネの勧めがあります。 

 19節には、復活のイエス様が、愛する者を叱ったり、鍛えたりすることがいわれます。この信仰は、箴言3章11節に「我が子よ、主の諭を拒むな。主の懲らしめを避けるな」とあります。新約聖書またこの信仰を引き継いでいます。有名なところはヘブライ書12章3節で、箴言3章の引用ですが「我が子よ、主の鍛錬を軽んじてはならない」とあります。そして「熱心に務め、悔い改めよ」と言われます。ラオデキアのキリスト者は、確かに裕福であったのでしょう。しかしそれに捕らえられて、冷たくも熱くもなくなり、なまぬるくなり、とうとう主イエス様に吐き出されてしまうのです。そうならないように、勧められ、求められています。

 最後に、長老ヨハネは、20から22節に、ラオデキア教会のみならず、7つの教会に向かっています。1つは復活の主は、私達の心の扉を叩き続ける主であることです。ここでは、主が叩き続ける主であると同時に、何度も言われるように私達は叩き続ける主のドアを開く側にあることです。主は絶対に無理にこじ開けて入って来られません。主は、私達が開けるのを待ちたまいます。絶対に私達の主体性、自発性を壊されないのです。ここは人格の絶対です。そして共に食事をしてくださいます。
 イスラエルでは朝食、昼食、夕食とあるのですが、なんと日本と同じで、夕食が一番大事だそうです。ドイツ人は朝ご飯を大切にして、夕食は簡単にするそうです。しかしイスラエルや日本は夕食はある意味で時間があってないようなもので、いつまでも語り合ってもいいのだと思います。ここの聖書の食事は夕食の単語です。イエス様は夕食にいてくださるのです。これはすごいことだと思います。

 21節には続けて「私は自分の座に共に座らせる」と言われます。私達はイエス様の座に座らせて頂くのです。イエス様が父なる神さまと同じ席についているように、私達はイエス様の席に着かせられるといいます。これもとんでもないことですが、主はそう約束されました。主の御言葉を聞き、主の御言葉に頼り、主によって歩む時、私達は、罪赦されてイエス様の座に付けて頂くのです。これも実はイエス様がすでに、マタイ伝19章28節に「あなた方も私に従ってきたのだから、12の座に座って、イスラエル12部族を治める事になる」と言われていました。天国に行ってまで偉くなろうとは全く思いません。しかし主の約束の1つにあります。
 主と共に食事ができ、主の座に座り、いつもイエス様と共にある。これだけを求めて歩めることが赦されています。「冷たいか熱いかであってほしい」の主の願いに答えていきたいです。

 祈ります。「主なる神よ、新型肺炎の感染の中での再び共なる礼拝ができなくなりました。コロナ感染は鹿児島で120人となり、九州の洪水被害は80人近くなりそうで、大きいです。どうか復興を守ってください。信仰を熱くしてください。病気療養の方続けてみ手においてください。退院された・・・
・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの園児と生徒、先生と支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 祈祷会奨励                     2020年7月8日(水)
 讃  美  新生77番 恵み深き 父なる神
 聖  書  第2テサロニケ1章1〜12節 P.380
 奨  励 「 かの日 主が来られる 」
 讃  美  新生255番 わが罪の為に
 祈  り  祈りの課題7月号 
 黙  祷  各 自

 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。今日からまた皆で集まる祈祷会はできなくなりました。しかしそれぞれの皆様と共に聖書を読み、それぞれの祈祷の助けになればと思って原稿をつくります。そして共に祈れることを心から感謝致します。さて本日は6月からの第1テサロニケの手紙の6回目の学びとなります。本日は、第2テサロニケの手紙1章から聞いていきます。この後は2章、3章と第2テサロニケの手紙を学び、8月からは出エジプト記の学びとなります。
 第1テサロニケの手紙は、新約聖書では一番最初に書かれた手紙であるとされています。紀元51年頃であろうとされています。すでに何度も言いましたように、パウロはシルワノと一緒に伝道したテサロニケを1ケ月くらいでユダヤ人に追放されました。その後パウロは、テモテをテサロニケに送って、その様子を知ることができました。テモテの知らせは、テサロニケの教会がパウロとシルワノがいなくなっても、きちんと福音に立っていてくれたことです。
 テサロニケの第2の手紙がいつごろ書かれたのかは、よくわかっていません。しかし2章2節には「主の日はすでに来てしまったと言う人がいた」とあります。これはもうすぐにイエス様の再臨があって「怠けている者たちを戒めなさい」という第1テサロニケ5章14節の勧めを考えると、主の再臨の為に仕事をしなくなったキリスト者がいたことから「主の日が来た」となった第2テサロニケの手紙は、第1よりも、大分後の状況と言えると思います。主が来られるという期待が、すでに主が来てしまったとなっているからです。

 3節には、あなた方のことをいつも神に感謝すると書いており、これは、第1の手紙3章8節「あなた方が主にしっかりと結ばれているなら、今私たちは生きていることになる」というのを受けているかのようです。テサロニケの教会は第一の手紙の後も、また元気に福音によって生きております。パウロは、テサロニケの教会の信仰に励まされたのです。そしてここに「あなた方の信仰は大いに成長し、お互いに対す一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」と書いています。テサロニケ教会はその後もまた、信仰に歩んでいる姿がわかります。
 4節にはさらに、テサロニケの教会が、迫害と苦難の中にあるとしています。そしてその中にあっても、忍耐と信仰を示しており、パウロは相変わらず、今度はテサロニケの教会を誇りに思っているのです。テサロニケ教会はパウロを支える教会からパウロの誇りの教会となっていました。
 ところでこの迫害と苦難ですが、具体的にはどういうことでしょうか。8節にもう一度、主イエスは燃え盛る火の中を来られるとして「神を認めない者や主イエスの福音に聞き従わない者」と言うのがでてきます。おそらく迫害と苦難はこの神を認めない者と福音に聞き従わない者からと思われます。もっと言うと「神を認めない者」というのは他の神様を信じて主なる神様を認めない異邦人のことと思われます。「主イエス様の福音に聞き従わない者」とは、ユダヤ人で神様を信じているが主イエス様の福音は認めない人達、すなわち十字架と復活を信じないユダヤ人であろうと思われます。

 すでに言行録17章5節にあるように、テサロニケ伝道は最初からユダヤ人のねたみによって妨げられてきました。異邦人の妨害は言行録16章18節には、パウロが悪霊に取りつかれた女性の霊を追い出してあげると占いができなくなったとして、女性たちの主人から訴えられています。また言行録19章のエフェソでは、アルテミス神の製作者が偶像扱いされて、アルテミス神の威信が落ちるということからの迫害になっています。つまりユダヤ人からはねたみ、異邦人からは経済というか商売を邪魔する者として訴えられて、すなわち迫害と苦難が起こったのです。
 しかし5節にパウロはこれらの迫害や苦しみを、神の判定が正しい証拠です、と言っています。このようにパウロは常に、キリスト者の伝道は苦しみが伴うことを隠しません。有名なところでは、コロサイ書1章24節には「キリストの体である教会の為に、キリストの苦しみの欠けた所を、身をもって満たしています」とあります。フィリピ1章29節には「キリストのためにキリスト信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とも書いています。神の国の宣教のためにキリスト者に苦しみがあることは、パウロの信仰です。
 しかしこれはもちろん苦しんで信仰を立てるとか、苦しまないと信仰にならないとか言うことではありません。艱難汝を玉にするという信仰でないのです。主の十字架を自分の身をもって理解していていく、主が救いのために十字架に付いてくださったのですが、それを自分のものにしていく時に、苦しみが一つの理解の道になっているのです。ですからこの苦難や迫害は、どこかむしろ恵みの道とも言えるのです。

 10節には「かの日」とあります。主の再臨は第1テサロニケの手紙の一つのテーマです。しかし第二の手紙のここには「かの日」となって主の再臨とは、はっきりありません。それは、第1の手紙より少し時代が落ち着いてきたのだと言えると思います。しかし同時に、テサロニケの教会は、再臨信仰をすっかり無くしたのではないのです。「かの日」が来るということを固く心に秘めていました。第1の手紙では空中で主と会うとなっていましたが、ここでは「自分の聖なるものたちの間にあがめられ、すべて信じる者たちの間に褒められる」とあります。しかし表現は異なっていますが、根底には主イエス様が又来られるということにあります。
 11節には「このことの為に祈る」とあり、パウロはやはりテサロニケの人々の再臨信仰や「かの日」が来る信仰を大切にするように勧めているのです。さらにパウロは、再臨信仰、かの日信仰、その日信仰、主の日信仰のみならず「招きにふさわしいものとしてくださるように」とも勧めています。私はここに再臨信仰、かの日信仰が、招きに答える、召しに答える、召命信仰になる原型を見るように思います。
 再臨信仰や世の終わりの信仰の聖書的な典型は、何度も言って申し訳ないですが、ルターの「明日、世の終わりが来ても、今日、私はリンゴの木を植え続ける(リンゴの木は数年しないと実をつけない)」というのが、有名です。リンゴの木を植えるのは修道院の仕事のことです。最近はこのことばはダビンチのことばとか、他のところからルターが引用したとか言われています。しかし出典はどうでもいいでしょう。世の終わりの待ち方、主の再臨の待ち方の典型をルターは示してくれたのです。それはまさに第1テサロニケの手紙4章11節がいうように、明日再臨があっても「落ち着いた生活をする」ということです。「自分の仕事に励み、自分の手で働く」ということです。

 12節はこのことで、主イエスの名があなた方の間にあがめられ、あなた方も主によって、誉を受けることになるのです、といいます。新型肺炎と自然災害の大洪水が猛威を振るう中、私たち人間のできることが限られています。神様は何を示そうとされているのか、さっぱり難しいです。しかしまさに主が来られるかの日が、起ころうとも、私たちは落ち着いて、今日なすべきことをなし、手洗い、アルコール消毒、マスク、3密を避け、体温を測り、免疫に気を付ける食事をしていくということでしょう。今は、地道な日々をしっかり歩むことが、主にあって、求められています。

  祈ります。「主なる神よ、御名をあがめます。コロナウイスルの感染に注意しながらきましたが、鹿児島は110人の感染となりクラスターが発生しました。球磨川流域の水害も酷いです。7月一杯の礼拝と祈祷会がお休みになります。どうか守ってください。まだまだ感染が続きます。どうかみ手をおいて、守って下さい。会堂建築を導きください。病気療養の方、退院された・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・を守ってください。教会員とその関係者一人一人の信仰、魂を導きください。こども園めぐみ幼稚園と児童クラブの先生方と子供達を守ってください。半周の歩みを導き守ってください。み名により、アーメン」


 説教 マルコによる福音書6章53〜56節        2020年7月5日
            「 皆いやされた 」   
 皆さん、おはようございます。本日も主なる神様に命、新しい命を与えられて、週の初めの7月最初の礼拝ができますことを心より主に感謝致します。昨日は、人吉地方で大雨となり球磨川流域の20数名の方が、行方不明です。老人ホームでは14名となっており、長野の大水害と似ておりまたも老人ホームの方が亡くなっているようです。今度調査が進む内に被害が大きくなるかもといわれています。私達の仲間の人吉バプテスト教会は、球磨川のすぐ側ですが、床下浸水だったらしく、本日の礼拝は出来るらしいですが、教会員の方の家屋等の被害があるかもと思われます。

 新型肺炎の鹿児島感染者は85名になりました。31人は天文館のバーからのクラスターのようです。天文館は大変だと思います。たった1件のバーの店からこれだけの方がでるのですから、新型肺炎の感染力のすごさを改めて教えられます。用心して歩むしかありません。しかしおろおろはらはらするのみで、またもうできることが限られております。ひたすら手洗いとアルコール消毒、マスクと栄養のある食事と睡眠くらいでしょうか。毎日体温を測り、他にできること何なのか、一つ一つしていくしかありません。ただただ祈り、あたり前の感染注意に励むしかありません。

 さて、聖書は第1週ですので、いつものように福音書から聞いて行きます。今日の福音書はマルコ伝6章で、イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて、弟子達を助けてくださったその直後のできごとです。言ってみれば、嵐の中で船が危ない状態にある時の「私だ、恐れることはない」の後日談になります。実は本日の箇所は、注目はされませんが考えさせられるところです。それは6章45節には、主は「向こう岸のベトサイダに先に行かせた」となっているのですが、着いたところは6章53節に「ゲネサレト」という地についたとなっているのです。地図で見られると分かりますが、ベトサイダは、ガリラヤ湖の一番北の町です。しかしゲネサレトはガリラヤ湖の西側なのです。なんとここは向かうところと着いたところが違うのです。これは単純に言えば、マルコ伝が福音書を書くときに間違えたとなるのかも知れません。聖書は人間マルコの間違いをきちんと記憶しておいてくれたととってもいいでしょう。しかし、聖書は神のことばであって、どんな小さいことにも意味が隠されているかも知れないととると、いろいろなことを読むことができます。
 それは目的、目標に従って行ったのに、着いたところは違っていたということです。これはあってはならないのですが、これが人生ではないでしょうか。自分はこうなりたい、こうありたいと思って目標を持って歩んでいった。しかしとんでもないところに来てしまった。私達は目標をきちんと決めて、その通りに歩まれる人生の方と目標はあるにはあるけど、全く違ったところについてしまったという人生の方があるのだと思います。イエス様のお弟子さん達は、ベトサイダを目指したのですが、着いたところはゲネサレトだったのです。これはイエス様の弟子達の典型を表しているのかも知れません。こうあらねばならない。こうしようとキリスト者もまた、自分で決めて出発し精進奮闘努力をします。しかし神様の導きは人間の思いと違っているのです。
 その時、私達はこんなはずでなかった。これは間違いだったとがっかりしたり、悔しがったりしても良いと思います。しかしそうなってしまったからには、この所に着いたからには、ここでやってみるというのもあるのだと思います。もしかしてここに連れて来られたのは神様かもしれない。そうしたら、着いたところでがんばるのが御心かもしれないのです。イエス様が行き先を決めてくださり、ベトサイドに行けと言われて、途中で嵐にあって、方向が変わってゲネササレトになってしまった。つまり間違った所に着いたのは、イエス様の御計画かもしれないのです。こういうことは多いというかこうこうことがよく起こるのかも知れません。

 NHKのプロフェッショナルでは、すごい方が一杯できてこられます。もう数ヶ月前になりますが、たまたま見ていたら和菓子のササ餅ばあさんという方が、でておられました。青森県の津軽の方で、くまざさの餅をつくる和菓子屋さんです。柏餅の柏がクマザサになっています。この方はプロフェッショナルで取り上げるくらいの和菓子屋さんですが今年94才。しかも60才の時に和菓子に目覚められたのです。その理由を、聞いていましたらたまたま60才の時、老人ホームを尋ねられた。手ぶらで行くには勿体ないと昔作っていたササ餅を作って持っていった。するとなんとそこの老人ホームのおばあちゃん、おじいちゃんたちが、涙を流して喜んで食べてくれた。こんなので喜んでくれるのか、よし作ってあげようと始めたというのです。今では津軽の道の駅、ローカル線の和菓子の部門で人気一番の常連をとっておられるのです。こんな出会いもあるものかと不思議です。最初の目標と全く関係ない道になった。しかし、そこで腐らずに偶然を生きるというか、偶然を馬鹿にしない。それならこれをやってみるかと乗ってみる。ベトサイダ行がゲネサレト行きになった。しかしそれならゲネサレトで生きてみようとなったのです。

 54節。そして聖書はゲネサレトでもちゃんと道があったのです。というか、イエス様が一緒であれば、どこでも働く場所があるのです。しなければならないことが起こるのです。人々はゲネサレトであっても、イエス様がいると知ると55節、その地方をくまなく回って、イエス様の所に病人を床に乗せて運んできました。私たちはここに、イエス様がいつでも必要とされている事態を知らされるのです。私たちはイエス様はもうこの世に必要ないのでないか。そもそもイエス様の前に、宗教が必要とされていないのでないか。コロナウイルスとの戦いにしてもこの人吉での球磨川の大洪水の防止にしても、宗教、イエス様は何の力があるのかと思います。すべてが科学の分析や医学の力です。コロナとの戦いは医学の発達のお陰です。私たちは科学と医学にひれ伏し、科学と医学の言うことのみを聞いて生きるべきなのでしょうか。又科学と医学を拝むべきなのでしょうか。
 しかし聖書は「どこでもイエス様がおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」のです。これは今のように病院が発達するともう必要なくなるのか。科学の発達は、宗教を駆逐するのか。祈りは将来の人間からは、必要がなくなり消えてなくなるのでしょうか。神様を信じて生きるのは、無知蒙昧の人であって、知恵ある人は神様の力の必要がなくなるのか。どうでしょうか。しかし私たちは、死ということを考える時に、途端に科学と医学の限界を知らされるのです。科学が発達し終わった時に、果たして死は無くなっているのか。医学は人間を死ななくすることができるのか。科学と医学は老化を駆逐することができるのか。どうもできそうにないのです。
 余りにもあたり前のことですが、長生きと幸せ、病気と幸せ、お金と幸せを考えてみると、なんとも大きな矛盾に突き当たるのです。長生きがそのまま幸せにならない。病気がそのまま不幸せにならない。お金は赤貧洗うがごとくでは困りますが、しかしそれでは一杯あったら幸せになれるのか。短い人生で幸せに生きられる方がある。病気を持ちつつ、幸せに生きる方がある。お金があっても幸せにならない方があるのです。ここには聖書の言う知識の蓄積の世界から、知恵や信仰の世界があるのです。
 人々がイエス様がいると知って、くまなく走り回り、病人なら床に乗せたままでもイエス様のところに連れてきた。これは、単に病気を癒す、悪霊を追い出すに止まらないことのように思えます。これは足りないところ、健康の不足を補うためのみであるのか。何か足りないことを加算するための行動であるか。これは幸せの量を増すための行動であるのかです。56節には「村でも町でも里でも、イエス様が行かれることころはどこでも、病院を広場において、せめてその服のふさにでも触ろうとした」のは、どういうことであるのか。さらに聖書は、触れた者は皆いやされたと伝えるのです。これはどういうことであるのか。イエス様に触れた者は、皆癒されるのは、病気のことなのか。悪霊が追放されたことであるのか。

 実はこの最後の言葉、皆「癒された」の原文は、皆「救われた」という言葉になっています。皆救われるというのはどういうことなのでしょうか。救いはもちろん魂や精神、霊の救いのことですが、同時に聖書はこの「救い」を身体の癒しにも用いることができました。マルコ伝5章21節以下には、先ほどのイエス様の服に触れて癒された女の話があります。マルコ伝5章25節に、この女は12年間の病気でした。多くの医者にかかっても癒されませんでした。全財産を使い尽くしていました。しかしイエス様のうわさを聞いて、後ろからイエス様の服に触れれば癒されると信じたのです。すると実際にこの女の人は、イエス様の後ろから服に触っただけで癒されました。しかし問題はそこからです。
 イエス様はこの12年間の病気の方を、そのままにされなかったのです。癒しを与えられた者を主は、救いにまで運ばれると言っていいでしょう。それは、イエス様はこの女をご自身の前に立たせるのです。5章33節この女の人は自分を探しておられるイエス様の前に「震えながら進み出て、ひれ伏し、すべてをありのままに話しました」。すると主イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。私たちはここに体の癒しが、魂と精神の癒しになることを見るのです。それは神様の前に立つことです。自分のありのままを語り、受け入れ、そして神様にありのままの自分を言うつまり委ねるのです。その時、体の癒しは、魂と霊と精神の救いになっていくのです。イエス様はこの女の人に「安心していきなさい」と救いを約束されています。
 体の救いが魂、霊、精神の救いになるには、私たちは神様の前に出ていくことなります。そしてありのままの自分を、神様に言うことになります。ありのままの自分を神様の述べるとは、罪ある自分のことです。私たちは神の前の自分の罪が示され、自分の罪が理解されることが、すべてが救われることになっていくのです。「主イエス様に触れた者はすべて癒された」は神様、イエス様との関係を持ったものが癒され、救われていく姿と思われます。主の十字架を自分のこととして、受け、自分の罪を知り、主の復活に生きることが、体全体、魂、霊、精神の救いになっているのです。

 宮沢賢治の死ぬ2年前の作品に「雨にも負けず」があります。あの詩はどこが中心であるのかという問いがあります。一つの取り方に後半部分の「東に死にそうな子供あれば看病してやり、西に疲れた母あれば、稲を背負ってやり、北に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいよといい、南に喧嘩や訴訟があれば、つまらないことはやめろという」の部分だと言われています。「雨にも負けず」の詩の最後は、南無法蓮華教が続きます。あれは賢治の信仰告白という取り方もあります。これはキリスト教であれば、最後は「こういう人に私はなりたい」となって「ハレルヤ、インマヌエル、マラナタ、アーメン」と結んだろうと思います。コロナ肺炎の蔓延の中、イエス様に罪赦され、私たちは、皆救われた者として歩む事が赦されているのです。

 祈ります。「主なる神よ、新型肺炎の中での礼拝を感謝です。鹿児島は85人になりました。また人吉地区では大雨の被害が30人近くなりそうで、大きいです。どうか復興を、守ってください。イエス様の救いを体全体で生きる者としてください。病気療養の方続けてみ手においてください。退院された・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの園児、聖徒、先生、支援員の働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教     第1テサロニケの手紙4章13〜18   2020年6月28日
           「いつまでも主と共に」   
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。一昨日はすごい雷に見舞われ、昨日は大雨洪水警報に見舞われました。大きな被害は未だ言われていませんが、農作物等はどうだったでしょうか。またコロナウイルスは県を越えての移動自粛がなくなり、移動ができるようになり、どんどん感染者が増えています。東京のような増える所と鹿児島のようにそうでもない県の差がはっきりでる形になっています。ワクチンや特効薬はやはり1年後でないと実用化しないといわれています。感染が収まり、ワクチン特効薬が早く出来ることを祈るのみです。本日も感染に気を付けながらの短縮礼拝を致します。しかしまずなんといっても皆様と一緒に短縮でも礼拝できますことを、感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 本日は、6月の第4週になりましたので、いつものように日本バプテスト連盟が出している『聖書教育』の本日の学びの箇所から聞いていきます。聖書教育の学びは、珍しいことに、テサロニケの第1、第2を8回の2ヶ月に渡って学び、聞いていくことになっています。テサロニケの手紙は有名な手紙でもないのに、8回学ぶのは珍しいと思いつつ祈祷会で学び聞いています。本日はその4章の後半部分のところです。

 本日の箇所は、13節の直前に聖書は「標題」といいますが、ゴチック体の題をつけていまして「主は来られる」すなわち再臨があると書いています。この13節から5章前半にかけて、パウロは主が又来てくださる、再臨について教えているのです。ここはまた11月の召天記念礼拝の際、第1コリント15章やヘブライ書11章と並んで、良く聞かれる所です。本日は、召天された方に集中することなく、この再臨の箇所そのものから聞いていきます。
 13節にあるように、パウロがこのことを書いているのは「すでに眠った人については」とあるように、実はテサロニケ教会の様子を、遣わしたテモテが伝えてくれて、それに答えているのです。パウロとシルワノのテサロニケ伝道の様子は言行録17章1〜9節にあります。その後、テモテがシルワノと一緒にテサロニケに行き、パウロの所に帰って来たことは言行録18章5節に書かれています。そしてテサロニケで問題になっていたのは、書いてある通りですが「先に眠った人について」つまり、イエス様が再び来られる前に亡くなった方はどうなるのかという心配だったのです。
 このテサロニケの人々の心配は、私達には余りないかと思います。それはイエス様が十字架に死なれて、復活されてからすでに2000年が経過しており、私達はイエス様を信じて亡くなった方がそれこそ何十億人もある時代に生きております。恐らく今地球上でいうと、生きて信じている人と信じて亡くなった人を比べれば、それは圧倒的に、信じて亡くなった方が多いでしょう。しかしパウロがテサロニケの手紙を書いた時、つまりこの手紙は新約聖書の中で、一番最初の手紙になるのです。紀元50年か51年頃とされます。この時はまだ、イエス様がすぐに来られる、自分達は又来られるイエス様に会えると信じていたのです。つまり自分達はイエス様に会えて、救われるけれども、先に亡くなった人はどうなるのかという心配があったのです。これはテサロニケ教会の人々だけでなく、当時の初代教会の人々全体の信仰的な心配だった事が分かっています。

 そして、ここは日本的というか儒教的な感覚の人はわかるでしょうか。先に死んだ人の方々のことを思って、多くの人が嘆き悲しんでいたようです。それをテモテから聞いたパウロは、希望を持たない人のようではなく、是非次の事を知ってほしいと語りました。14節は先に亡くなった方へのある意味で結論です。イエス様は死んで復活された。神様は同じように、イエス様を信じ眠りについた人すなわち亡くなった人を、イエス様と一緒に導き出して下さるというのです。つまり結論からいうと、パウロは、全てのことの根拠、全てのことの根底に「主イエス様が死んで復活された」があるのです。そして主イエス様が死んで復活された以上、それを信じた人は、死んで復活する。つまりイエス様のようにその人を、神様が取り扱われるということです。
 これは実はテサロニケ教会の方々の心配に答えたのみならず、パウロの信仰の全ての本体とも言えるでしょう。キリストに結ばれすなわちキリストを信じた人は、キリスト同じようになる。キリストが十字架に付いたら、信じた人も何らかの十字架を受ける。しかし、キリストが復活させられたので、キリストを信じた人をまた十字架の中から復活されるのです。

 15節、パウロは「主の言葉に基づいて」と言い添えています。これから語ることが、パウロ自身の作り話でなく、パウロが考えてのことでなく、ただただ主の言葉によるというのです。パウロの手紙にはこうして、自分が言っていること、主が言っていることを区別する箇所がいつかありまます。例えば第一コリント7章25節には「私は主の指示を受けていませんが、主の哀れみにより信任を得ている者として、意見述べます」と書いています。第1コリント7章40節には「しかし私の考えによれば」という箇所があります。つまりパウロは、ここは変えてはならない主の言葉と、ここは自分が考えて主はこう言われるはずだと類推した言葉の箇所があるのです。
 つまりパウロは、自分の言葉と主の言葉をきちんと区別して、教会の人々に示したのです。つまりパウロにとって主の言葉それほど重かったのです。私たちもまた、自分の言葉を、さも神様の言葉のように言ってしまったりします。パウロはできるだけそういうことが起こらないように、自分の言葉はこうです。しかし主の言葉はこうなのですと言うことができました。
 そしてその主の言葉は「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人すなわち亡くなった方より先になることはありません」と言うのです。

 16節に今一度説明されていますが「キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活する。17節それから私たち生き残っている人が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に引き挙げられる」というのです。ここには、はっきりと主の言葉として、まず死んだ人が最初に復活するのだと示されています。そして順番からいくと眠った人、亡くなった人が先に復活し、生きている人は後から復活するとなるのです。
 実は旧約の外典儀典に第4エズラ書と言うのがあって、ここには「生きている人は死んだ人より幸いである、それは復活に預かれるから」と言ったことが書かれてあるそうです。パウロは第4エズラを読んだことがあるのかどうか、分かりません。しかし外典儀典とはいえ、こんなことが書いてある書物があるということは、当時死んだ人、亡くなった人は希望がないとされていたのは確かのようです。しかしパウロはこのように言われていたことを、イエス様の復活によって全く逆転し、さかさまにしたのです。「死んだ人こそ最初に復活し、生きている人は後から復活する。」つまり死んだ人がより幸いであるとなります。
 もちろんこれはパウロの言い分のまた違った強調になるかもしれません。実はこの部分をよく読むと死んだ人が先か、生きている人が先かは、パウロにとっては余り眼中にないのです。テサロニケ教会の人があまりにも先に亡くなった人のことを悲しんでいるので、強調していったのです。パウロの本当の心は、14節にある「イエスと一緒に導いてくださいます」であり、17節の「主と出会うために」であり、「私たちはいつまでも主と共にあるのです」ということ、つまり復活が先になろうが後になろうが、生きていようが、死んでいようが、問題は「主と共にある」ことです。
 パウロにとって救いの究極の姿は「主と共にあること」でした。これは何ケ所がでてきます。フィリピ1章23節には「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」とあります。又ローマ書8章17節「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受ける。」同じく8章32節「御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあろうか」とあります。パウロにとって当然苦しむこと、苦難や楽しむこと、愉快がこの世にはあるのです。しかしそれはその根底に、主と共にあるなら、それでいいということがありました。つまり生と死を乗り越える境界線があるとすれば、パウロにとってそれがキリストと共にあることであります。

 パウロにとって生と死を超えるものは、キリストと共にあることでした。つまりパウロにとっては、生も死も超えることがあるとすれば、それはキリストです。ここで私たちは、当然いろいろな質問が出てくるでしょう。合図の号令とはどういうことなのか、大天使の声はどういうものなのか、雷のようなことなのか。神のラッパはどう響くのか、イスラエルのみか、全世界に響くのかどうか。空中で主と出会うとはどういうことであるのか。具体的にはよくわかりません。これは言ってみればイメージの象徴でパウロは説明していると言えます。しかし主イエス様と会うことは、確かに言葉の説明のみでは不可能で、イメージが必要です。ただイメージは説明しだすとイメージで無くなりその力を失います。説明するわけにはいかない。しかし説明しないと分からない。もうそのままのイメージがしかありません。私たちは主と出会う方法また復活の詳しいこと、詳しい時間は具体的には分からない。けれどもとにかく世の終わりに「主と共にいることになる」が起こると言えます。
 私たちはよくいろいろなことは分からないけれど、確かなことは、人間は死ななければならないことだ、といいます。しかしパウロは言うのでありましょう。私たちはいろいろな分からないことに囲まれて、右往左往している。コロナウイルスしかり、しかし確かなことは、最後は主に在る者は、イエス様と一緒にいることになる、ということです。つまり未来に死がありますが、その死は無になることでも、0になり消えてなくなることでもない。主イエス様と共にあることです。もう何の希望もありませんとはよく聞きますが、最後の希望が残っているのです。それは最後の未来に主イエス様と共にある、ということです。

 一番最後に残るのは、死んでもなお残るのが「主と共にあること」である。ならば、もう私たちは、この世の価値と去らばしていいいでしょう。力を見せつけることもいりません。お金を示すこと、賜物をひけらかす必要もいりません。主に与えられたそのままの自分で生きることです。若い時は背伸びしたり、いろいろな挑戦をしたり、あるかもしれない。しかし究極的には十字架の主と共に過ごすのです。でしたら余り見せびらかすことなく、謙遜にそのままの弱い自分で、間違いの自分でいいのです。「私たちはいつまでも主と共にいる」ことになる。これが私たちの最後の究極の姿です。主は十字架の主です。謙遜に生きることが私たちに赦されています。与えられた命と賜物をしっかり生きる他は何もいりません。ただ主の恵みによって生きるのみです。

 祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中での礼拝を感謝です。又第2波のところとそうでもないところがあるようです。用心に歩ませてください。最後は主と共にあります。感謝します。私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、恵みで守り導きください。私達を導き、お支えください。病気療養の方続けてみ手においてください。退院された・・・を守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教       エゼキエル書17章1〜10節    2020年6月21日
             「果たして成長するか 」    ー父の日(家族の日)礼拝ー
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。一昨日19日から県を越えての移動自粛がなくなり、移動ができるようになりました。遊園地やライブハウス、夜の酒場も営業できるようです。一昨日の食料デーの委員会も10月30日の金曜の夕べですがいつもの「音楽と報告会」を鹿児島サンエールですることになりました。サンエールは鹿児島市の管轄ですが、やっても良いとのことです。第2波が来たらその時は仕方ないので中止とするようです。飢餓問題も、新型肺炎の疫病と同じように待ったなしだということです。ただただ守りを祈るのみです。
 本日も感染に気を付けながらの短縮礼拝を致します。しかしまずなんといっても皆様と一緒に短縮でも礼拝できますことをまず感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 本日は、第3週ですので、いつものように旧約ヘブライ聖書から聞くと言うことで、エゼキエル書を開いています。今朝司会者に読んで頂いた箇所は、皆さんどう思われますか。多分チンプンカンという方と、こんな簡単な話が聖書にあったのかと2つに分かれると思います。1~10節までのこの話は、日本昔話でいうと花咲爺さん、瘤取り爺さんの類で、わしとブドウの木の話は、欲張りの爺さんが、その欲張りの為に身を滅ぼす話しになっているのです。

 本日の19章は、エゼキエル全体の構成からいうと第2単元の8〜19章の預言で8章1節に第6年6月5日の預言とあり、西暦に直すとBC591年の預言になります。つまりバビロン第2次捕囚の完全なイスラエル、エルサレムの滅びの4年前の預言となります。一回目を読んでも「2羽の鷲とぶどうの木の話」で、なんのこっちゃです。しかし少しのヒントで最初の大鷲がバビロン、7節のもう一羽の大鷲がエジプト、そしてぶどうの木はいつもイエス様が言われたようにイスラエル、エレサレムのことであると言えば、聖書になじみのある方は、余りない方も内容はピンと来ると思います。
 端的にいうと、イスラエルの家は最初の大鷲バビロンによって、第1次捕囚を赦されて国を残され存命し、5節にあるように水の豊かな水の柳のように大きくなった。6節、そしてやがて成長し、弦の延びた立派なぶどうの木になったのです。しかしなんとこのぶどうの木は、何を思ったのか、7節より2番目の大鷲つまりエジプトに手を伸ばして、これに水を求め、立派なぶどうの木として植えられていたのに、最初の大鷲バビロンを裏切り、第2の大鷲エジプトに頼ろうとしたのです。

 9節にあるように、この時の「ぶどうの木は成長するのか、その根は引き抜かれ、実はもぎ取られ、芽ばえた葉はすべてしおれてしまわないのか。それはしおれてしまう」とエゼキエルは謎と譬えをもって、預言しました。実はまさにその通りに、時の王ゼデキヤはしてしまうのです。列王記下24章17節には、バビロン王ネブカドネザルが、第1次バビロン捕囚の時にヨアキン王を退位させ、もともと王の血統からいくと傍流の叔父マタンヤを、名をゼデキヤと改めて王とします。しかし王となって5年目にゼデキヤ王は、バビロンに反旗を翻します。列王記下24章20節です。
 ここで私達は、どうしてゼデキヤ王は自分が元々王となれる身分でもなかったのに、バビロンによって王とされ、しかもバビロンはイスラエルを滅ぼさず、存続の計らいをしてくれたのに、バビロンを裏切るのか。その理由がさっぱりわからないのです。聖書はその理由を、私達が列王記、エレミヤ、エゼキエル書を読んで、自分たちが想像していくように、自分たちで読み込んでいきなさい、としているのかなと思います。
 無い頭を振り絞って、幾つかの理由を考えてみます。理由の1つには、エレサレムの偶像礼拝があるかと思います。偶像礼拝とは、エゼキエル6章にありましたように、モーセの十戒で第1戒から3戒まで、偶像礼拝の禁止があれほど言われていました。しかしエルサレム神殿は、主なる神の神殿でありつつ、ありとあらゆる偶像があったのです。6章を読みますとどこか日本の状況が浮かぶのです。イスラエルの山や丘にはそこいら中に祠や聖所があり、なんと神殿にも祭壇の回りに、東西南北に偶像が置かれています。それはすでに少し聞いてきましたが、当時は外国と交易するときには、相手の神々を受けいれる習慣があったのです。イスラエルが国力をつけて、外国と台頭に交易をなし、貿易をする毎に、偶像は増えていくのです。しかし主なる神様のエルサレム神殿にそれが安置されるとは、まさかでありました。しかしそのまさかが起こっていたのです。
 偶像礼拝はとどのつまり、自分の考えを神とすることです。偶像の後には、自分の考え方をよしとし、自分の思いを遂げるということが隠れています。偶像礼拝をすればするほど、自分のるつぼに入り、他人の意見が聞けず、裸の王様状態になるのです。エルサレムの人々、そしてゼデキヤ王までも自分を立ててくれた、イスラエルを存続させたバビロンを裏切る程の王になってしまって行くのです。

 2つ目の理由は、エレミヤ書40章にあります。エルサレムが完全に陥落した後の出来事です。その時残ったエルサレムの人々はゲダルヤという人を中心に、もう一度国の復興のためにまとまろうとしました。最終的にゲダルヤは、暗殺されますがその時、残った者はエレミヤを連行して、エジプトに逃げたとあります。つまりエジプトを頼り、頼みとしてエジプトの力でイスラエルの独立を勝ち取ろうとする人々、親エジプト派というのは、エルサレムにずっとあったことになります。自分を王として立ててくれて、自分を支えてくれるバビロンがある。しかしそれをあえて裏切るのは、この親エジプト派の貴族達、家来達に王がそそのかされた、エジプトはバビロンよりも、もっともっと良くしてくれるという甘言に乗ってしまった、とも言えます。

 3つ目はしかし、イザヤが100年前にアッシリア捕囚の時に、言った言葉があります。イザヤ2章22節「人間に頼るのを止めよ。鼻から息をしているだけの者に」とイザヤ6章4節「落ち着いて静かにしておれ、畏れることはない」です。大帝国アッシリアがイスラエルに攻めて来る。その前にシリアと北イスラエルが同盟してエルサレムに攻めてくる。その時、時の王アハズは、エジプトと組むべきか、周辺諸国と組むべきか、人間の知恵だけに頼りました。その時のイザヤの言葉です。ゼデキヤ王は、これまでの歴史、イザヤ、エレミヤ、そしてエゼキエルが語ってくれた言葉に耳を貸さなかった。肝心要の主なる神様に聞き、頼ることを思い出さなかったのです。

 旧約ヘブライ聖書の歴史で、このバビロン第1次捕囚とバビロン第2次捕囚の間の大転換、親エジプト政策の大失策は大きな謎です。どうしてこんな馬鹿な破局的な決断を、ゼデキヤ王はしたのか。エルサレムの貴族達は、なぜエゼキエル、エレミヤの語る「今はバビロンに従えよ、今はバビロンが神様の杖であり鞭である」を受け容れられなかったのか。しかしこれはいろいろな歴史の中で起こることかも知れません。第2次大戦の破局に突き進んだ日本もまた、いくらでも途中で止めることができたと言われています。2個の原爆投下の前に、日本は降伏を言われたが無視したと言われています。沖縄戦が起こる前に、止めることができたと言われています。しかしあの時は最後までいきました。沖縄戦は日本側188000人(内沖縄県民94000人つまり戦死者の半分)、米軍12000人で合計20万人の死亡です。ざっと米軍と日本は15倍の戦死者の違いです。しかししてしまったのです。こんな惨い、酷い闘いをする必要があったのか。

 11節以下は読みませんでしたが、エゼキエルは17章14節にバビロン第一次捕囚の原因を「それはこの王国が高ぶる事無く、従順になり、契約を守り続けるようにさせる為である」としています。エゼキエルは、バビロンを裏切り、エジプトと組もうした原因を「高ぶり」に見ています。そして契約を履行する大切さを見ています。16節には「自分を王位につけた大王に対する誓いを軽んじ、彼との契約を破ったので、大王の国バビロンでかならず死ぬ」とゼデキヤ王に宣言しています。戦争の原因や結果を「高ぶり」と言った徳目、道徳に帰するのは、余りにも古い歴史の見方かも知れません。もっときちんとした科学的な歴史分析、経済分析、戦力分析に帰するべきかも知れません。しかしエゼキエルが言う「高ぶり」は検討外れのようでいて、きちんとあっている、的を射ていると言えるのです。
 最初の恵みを与えてくれた大鷲に忠誠をつくさず、喉も元過ぎれば、次の別の大鷲に乗り換える。これはなんとも、人間の道徳にも悖るとなります。人間が滅びる時には高ぶりが先にあるのは、宗教の違いを超えて、人間万物の普遍的な姿であり、考えて見れば、神様が全てを創造されたので、滅びの前に高ぶりがあるのは、神様の創られた原理原則、つまり法則なのかも知れません。
 今日は6月第3主日で、父の日です。ご存じ父の日は母の日に遅れること、2年後の1909年制定だったとされています。理由はアメリカ南北戦争の時に、6人の子供を男手一人で育てた父のことを思い出したソナラ・ドット夫人は、母の日があるのだから父の日を祝ってほしいと自分の教会の牧師に頼み、6月に父の日をしたのが第3日曜日だったとあります。教会発の母の日と同じであっという間に広まったそうです。

 この前は、父がいじめられていた私を守ってくれた話をしましたが、もう一つ父で覚えていることがあります。それは父は変な癖がありました。それはなんでも確かめないと気が済まないという癖です。ある時、これまた私は小学高学年と思いますが、トイレがよくないということで、新しいトイレを家に造ることになりました。もちろん昔の汲み取りトイレです。確か家を造ってくださった大工さんが来て、トイレを造られたはずです。しかし作るのを見ていたのか、なぜなのか、わかりません。父は、完成してからこのトイレはよくないと言い出したのです。専門の大工さんが造っているのだから何を文句いうのかと思いました。とうとう父は、洗面器に水を汲み、やかんに水をいれて、私にも手伝わせて、汲み取り口の下からみているから、便器から水を流せというのです。私は水を流し、父は首を汲み取り便器に入れて流れを見て、水が漏れとるというのです。父は、自分でセメントを買い、直しました。
 私はプロの大工さんを疑う父が、なんとも理解できませんでした。しかし父は最後まで定年まで平教員だったのです。今思うとゴマすりやおべっかは大嫌いだったのだと思います。お酒はおちょこ一杯で真っ赤になりました。エゼキエルと何の関係があるのかですが父は「高ぶり」が大嫌いだったのです。事実を確かめないと落ち着かないのです。先生には、学問に秀でた先生、同僚に信頼される先生、子どもに好かれる先生とあるとすれば、父は完全に子供と遊ぶ先生でした。私たちは、鷲に育てられたブドウの木として、イエス様に信義をもって最後まで信仰に生きることを示されます。

 祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中での礼拝を感謝です。越県がゆるされるようになりますが、用心して歩ませてください。高ぶらず、信義に生かしてください。主の恵みに生かしてください。私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、守り導きください。私達を導き、お支えください。病気療養の方続けてみ手においてください。入院された・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。会堂建築を守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教       ヨハネ黙示録3章7〜13節     2020年6月14日
             「 試練の時に 」   
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。鹿児島市で又1名罹られました。本日も感染に気を付けながらの短縮礼拝を致します。しかし皆様と一緒に礼拝できますことをまず感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 先週は東京での昼の小さいカフェでの集団感染が言われておりました。今はカフェとカラオケが一緒になっているのがあるのだそうです。この時期にカフェでカラオケをしていて感染されたようです。この時期に改めて人間は歌が必要なのだろうか、讃美の本質というか、歌を歌うことの要求とは何であろうかと思わされます。歌、賛美歌というのは禁止されても人間の根元的な生きる要求になっているのでしょうか。総会資料の聖歌隊の2020年度の聖句に「主を讃美するために民は創造された」詩編102:19節とあります。讃美、歌の要求は人間の存在の根源のようです。
 さて本日の聖書は、使徒の手紙から聞くということで、長老ヨハネの黙示録3章の6番目の手紙、フィラデルフィア教会のところから聞いて行きます。フィラデルフィア教会は、前の節のサルディス教会から南東45qにあるとされています。7つの教会の内、3番目のペルガモン教会が一番北にあり、それからティアテラ、サルディス、フィラデルフィア教会と南に来て、一番南が次の7番目のラオデキア教会となります。フィラデルフィア教会は町としては一番新しいらしく、紀元前2世紀中ごろにペルガモンのアッタロル2世という王が建設した町だそうです。しかし読んでわかるようにここには強力なユダヤ人の共同体がありました。これがフィラデルフィア教会を作るユダヤ教の回りの敬神者集団を作り、キリスト教会の基礎になったともいえます。しかし反対にこのユダヤ人会堂のために、9節にあるようにフィラデルフィア教会は、このユダヤ人によって迫害され、攻撃されています。
 攻撃と言っても、何か物理的に教会が壊されるということでなく、キリスト者に対して、キリストを信じる事よりもユダヤ教に進むこと、律法を守ることを進められたようです。すなわちキリスト教会が、ユダヤ教化されていくことであろうとされています。

 7節にあるように「フィラデルフィア教会の天使にこう書き送れ」と言われる方は、聖なる方、真実なる方、そしてダビデの鍵を持つ方と言われています。すでにここは6回繰り返されており、それぞれの教会の天使に書物を書いているのは、もちろんイエス様です。ただ聖なる方、真実なる方はわかりますが、この7節の特長はイエス様の紹介に「ダビデの鍵」がでてきます。ダビデの鍵はすでに黙示録1章18節にありました。その背景にはイザヤ22:22節の「ダビデの家の鍵」があるとされます。「空けると誰も閉じず、閉じると誰も空けられない」とは、イエス様がダビデの鍵を持つ者であり、フィラデルフィア教会の為に、新しいエルサレムの道を準備し、その町に通じる鍵を確実に持って開けておられるということです。
 8節にあるように、主イエス様はフィラデルフィア教会の業を知っておられます。そして天の門を置き、いつでも入れるように鍵を開けて待っておられるのです。私達も究極的には、イエス様によって又天使によって、新しいエルサレムのダビデの鍵が開けられ、いつでも天に迎えられると言えます。ところで8節にはなぜイエス様がフィラデルフィア教会をそうされるのか、3つの理由が書かれています。
 1つは「あなたは力が弱かった」とあります。フィラデルフィア教会は、経済、社会的に力が無かったようです。ユダヤ人の会堂は、いろいろな職業組合を独占し、ローマ支配者の貴族達の関係を持っていました。従ってフィラデルフィアのキリスト教会は、ユダヤ人の会堂からみると風前の灯火です。教会に集まっている人も奴隷階級の人が多かったのかも知れません。いつ商売の取引を停止されるか、いつ仕事を首にされるのか、だったのでしょう。「主イエス様を信じます」という信仰は、ユダ人の会堂のユダヤ人達からみるととても賛同できず、認められなかったのです。しかし2つ目に主は「わたしの言葉を守った」としてくださいました。具体的には主のことばのどの言葉なのかは分かりません。しかしフィラデルフィアのキリスト者は弱かったのですが、主の言葉を守り、イエス様の信仰に留まりました。ユダヤ人から取引を外され又首になるかもしれない恐れがある。しかしそれでも主の言葉に留まったのです。

 3つ目に「私の名を知らないとは言わなかった」とあります。ユダヤ人の会堂は、おそらくキリストの名を口にするなと圧力をかけたでしょう。イエスの名を告白するなと脅したのでしょう。ユダヤ教を信じろと言ったのかも知れません。しかし力の無い者は力のない者なりに生き方を知っています。イソップ童話のネズミとライオンではありませんが、時としてネズミはライオンを助けることがあるのです。経済的、社会的に全く力が弱い。しかしだからむしろキリストの名を告白できたのです。それは第2次大戦中の朝鮮半島のキリスト教であり、完全に武力の力では日本に支配されているが故に、信仰で団結して抵抗していくということがありえます。

 9節にイエス様は言われます。「サタンの集いに参加し、自分はユダヤ人であるという者達」。実はイエス様から見れば、このユダヤ人会堂は、偽りでありサタンの集いであると言われます。黙示録のイエス様は福音書のイエス様と違うところがあります。特に報復の言葉がはっきりしています。ここではまさにユダヤ人の会堂はサタンであるとはっきり言われます。そしてキリスト者を迫害するユダヤ人は偽ユダヤ人と言われるのです。ここにユダヤ人が偽ユダヤ人と言われることは、キリストを信じるキリスト者こそ本当のユダヤ人、真のイスラエルということです。
 ここで私達は喜ぶだけではいけないと思います。私達も又自分の社会的な地位を傘にして、信仰的な地位を隠れ蓑にして、相手をよく見ないで、また相手のしていることを確かめないで、サタン呼ばわりする時があります。その時神の民ユダヤ人イスラエルが偽ユダヤ人、偽キリスト者と言われたようになるのです。何のことはありません。神の御子イエス様によって、私達が反対にサタンと判定される事があるのです。
 この神の民、選びの民イスラエル・ユダヤ人が裁かれ、汚れた律法を知らない異邦人が神の民となり救われていく。この事態は結局イザヤやエレミヤ、エゼキエルの大きなテーマといえるでしょう。神の民が国を失い、王を殺され、民は捕囚民となって世界にチリジリバラバになる。その時、神様の約束はどこにあるのか。どうなっているのかです。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルは1つの指針を示します。それは本当に神を信じ、悔い改め、神と共に生きる時、主は罪を赦し、省み又連れ帰り、国を復興してくださるということです。自分を一介の神の前の只の罪人として受け止め、ただ神の恵みによって生きる時「人間に頼るのを止め、鼻で息をしているだけものに頼るのを止めること」イザヤ2章22節、「落ち着いて静かにしており、畏れる事なくあれ」イザヤ7章4節に進む時、主は働き守り導かれるのです。

 10節に「あなたは忍耐して私の言葉を守った」とフィルラデルフィアのキリスト者は言われています。忍耐は日本では月並みのことばかも知れません。しかし旧約ヘブライ書から新約聖書にかけて忍耐は、旧約・新約聖書を通しての神様の約束を頂く大きな態度であり、信仰のあり方です。実はこの10節は、あなたが忍耐を持って私の言葉を守った。だから「全世界の試練の時に、私もあなたを守ろう」と言われています。このように「あなたが何々をしたので、それに答えて神様は何々をする」という応報関係の信仰は、新約聖書はあまり出てきません。特にパウロは恵みの圧倒的な優勢、恵みの圧倒的な充満を言います。私達の貧しい応答を越えて、私達は罪を犯すことしかできませんので、神様は恵みを下さるのです。私達が失敗しようが、罪を犯そうが、しかし神の恵みは、それを越えて、神様のご自身の歴史を行われるのです。
 しかし人間は弱いので時として、聖書にはこのような応報の勧めがあります。例えば第2サムエル2章30節には、祭司エリに対して神様は「私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる」と言われました。自分の息子の為に祭司として神様を軽んじたエリは、退けられサムエルが立っていくのです。またヨブ記13章9節にはヨブは友人ツオファルに言います。「人を侮るように、神を侮れるのか」。つまり圧倒的な恵みの優勢に私達罪人は、甘んじて安眠を貪っては成らないのです。圧倒的な神の守りと恵みがあるが故に、私達は祈るのです。圧倒的な恵みと導きがあるがゆえに、自分のできることを献げるのです。圧倒的な神様の守りがあり、必要を満たす恵みの故に、私達は1日1日を礼拝し祈り、奉仕をしていくのです。私達は、自分はこうしたのだから、神様はこう答えてくださった、とは言えないのです。しかし神の圧倒的な恵みによって、これをすることが赦されたと言えるのです。

 11,12節に主は「すぐに来る」と言われます。これはもちろん主の再臨信仰です。初代教会を根底で支えたのは、この再臨信仰だと言われています。主がすぐに迎えに来てくださる。これは苦難にある教会の大きな支えでした。ユダヤ人の迫害を受け、これからキリスト教は2世紀にはいるとトラヤヌス帝とハドリアヌス帝の時から、イエスの名を信じているだけで、逮捕される時代が来ます。長老ヨハネつまり黙示録は散発的な皇帝の恣意的な迫害の時代から、公的なローマ帝国による制度的な迫害の分岐点にいます。再臨信仰はこの2世紀にはいるキリスト者を支えたのです。
 しかし再臨はただ未来を見て待っていることではありませんでした。それは聖霊降臨であり、主の復活でもあります。再臨は未来を待つのみでなく、現在に聖霊を受けることであり、過去の主イエス様の復活を生きることでもありました。主は再臨を待つ者を、神殿の柱とされます。主は神の都、新しいエルサレムの名を、フィラデルフィアのキリスト者に書き込まれます。つまり私達は最終的に、新しいエルサレムが、天から下ってくるのを、待つ存在であります。自分の賜物を皆主に用いて頂き、神様の時を待って、上からの下ってくるエルサレムを待つ身なのです。
 来週は父の日です。いつもは父の日礼拝、家族の日礼拝をしますが今年はコロナでできません。しかし父の日で思い出すのは毎年話してすみませんが、私が小学生4年生くらいでいじめに遭っていた時でした。父は私の様子がおかしいことを知って、私の後からバイクで付けてきて、当時5年生だった先輩が私をいじめている現場を押さえるやいなや、飛んで来てその先輩をビンタしてはり倒したのです。父は違った校区の小学校の教師をしていたので、今だったら懲戒免職でしょう。昔ですから何事も起こりませんでした。しかしその時、父は自分を守ってくれと実感しました。先輩は隣の小学校の先生に、ビンタされてもう2度と私をいじめることは無かったのです。
 主イエス様の十字架はそういうことだと思います。十字架の圧倒的な恵みは、神様は絶対私を守ってくださるという大きなしるしです。この恵みに答えて歩みます。

祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中での礼拝を感謝です。鹿児島で又出たようです。守ってください。フィラデルフィアの教会を主は見て、守り、信徒達に答えてくださいます。私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、守り導きください。私達を導き、お支えください。病気療養の方続けてみ手においてください。・・・を守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの又1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教       マルコ伝6章45〜52節       2020年6月7日
           「 幽霊だと思う 」   
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。本日も感染に気を付けながらの短縮礼拝と主の晩餐です。しかし皆様と一緒に礼拝できますことまず感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 新型肺炎の第2波と言われるのが、北九州では起こっています。そこのクラスターの起こった病院の院長先生や今回は罹患した人を運んだ救急隊員の方も係ったと言うことで、インタビューを受けておられました。病院も救急隊員もどちらも完全防具をしていてかかったらしく、ああなってくると正直、なる人はなる、成らない人はならないともう人間の努力はどこまでかと思ってしまいます。しかし油断せず、手洗い、マスク、3密を避ける、免疫の高まる食事で日常を歩みたいと示されます。

 本日は第1主日ですので、いつものように主の晩餐を受け、又福音書から聞くと言うことでマルコ伝6章の後半部分「湖の上を歩くイエス様」というところから聞いて行きます。実はイエス様が湖の上を歩かれるのは、マルコ伝4書35節以下にもでてきて2回目なのです。2章もたたないで又出てきたことは、弟子達の記憶の中で、ガリラヤ湖の水の上を歩いて自分たちを救ってくださったイエス様の働きが鮮明だったのだと思います。私達は、なんでこんな水の上を歩くことが、何度もでてくるかと思います。2000年前の人々にとってまたイスラエルにとって、水を治めるというは、神様の大きな働きだったと言われています。
 ヨブ記28章25節には「神は風を計って送り出し、水を計って与える」とあります。又詩編104編には水を自由に操られる神様が讃えられています。砂漠乾燥地帯の国々の中にあるイスラエルは水が大切でした。地中海やガリラヤ湖の水はある意味で、神様の支配の及ばない違った領域とも考えられたようです。イエス様が水の上を歩かれたというのは、自分たちの信じる神様が水を支配してくださる神様というとても大切な信仰だったのです。古代日本、中国でも又竜神は一番霊験あらたかと思われますが、水の神様です。このところ水害続きで、水を治めるというは実感をもって考えられます。ある意味で2011年の東北大地震の津波は地震が原因ですが、水の力を教えられました。イエス様が「水の上を歩いた」報告がこうして2回もマルコ伝で繰り返されるのは、こうして水を治める神様の大きな力、支配、守りを示していると言えるのです。

 45節から読みましたが、この出来事は5000人の給食と言われ、これまたパンを増やされる奇跡の直後になっています。これもまた非常に現代的で、主の晩餐を今日は受けますが、パンは人間の生きる根底の課題であります。サタンの誘惑もパンからスタートしました。マルクス主義ではありませんが昔も現代も、パンを制する者が、世界を制するという現象があります。しかしイエス様は、パンの本質は何かと問われるのだと思います。パンの為に生きるのか、生きるためにパンを食うのかの問いです。現実的には、パンの為の生きているような状態です。しかしイエス様が言われたとおり「生きるためにパンがあるのです。パンの為に生きるでない」それを教えてくれるのは、神の言葉、聖書であります。「人はパンのみで生きるのでないのです」

 45節のイエス様がなぜ、弟子達を先に行かせて、自分は残り、群衆を解散させられたのか、理由はよく分かりません。しかし46節をみるとどうも、イエス様は弟子達と離れて又群衆と離れて、祈りの時間をとるためだったのでないかと思われます。当たり前ですが、実はイエス様はよく祈られました。マルコ伝1章35節には「朝早くまだ暗いうち、イエスは人里離れた所に出て行き、そこで祈っておられた」とあります。このマルコ伝1章37節は弟子達がイエス様を見付けると「皆があなたを捜しています」と言っています。イエス様は群衆を置いて又弟子を置いて、人里離れて祈られたようです。神の子のイエス様がこれほど祈りの時間を取られたのですから、私達は只の人間です。もっともっと祈りの時間が必要であるのは確かです。祈りの時間を確保するのは、キリスト者の最低の姿です。イギリスのバプテストの有名な牧師スポルジョンは「キリスト者は祈り無しに長時間いてはならない」といいました。ユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーは「祈りは宗教である」と言いました。時間を決めて祈り、目的を持って祈り、また集まって祈るのは、コロナ時代は医学の要請に反しますが、しかしそれでも大切な信仰の働きです。

 47節には、弟子達を載せた船は、ガリラヤ湖の真ん中当たりに出ていました。ガリラヤ湖は東西10q、南北22qくらいの湖です。何度も言いますが、鹿児島の錦江湾の半分、桜島から国分に囲まれた部分くらいの大きさの湖です。当時の漁師さんの船は5,6時間で向こう岸についたと言われています。48節にあるように、ちょうど弟子達を載せた船が、湖の真ん中当たりに来たとき、逆風が吹いてきたようです。
 弟子達はペテロ、ヤコブとヨハネと多くもともとはガリラヤ湖の漁師さんです。ここは任せておけというところです。ところがこれは4章の時もそうでしたが、激しい突風が起こり、4章では船は水をかぶって水浸しになり、とうとうプロの漁師達がマルコ4章38節に「先生、私達がおぼれても構わないのですか」と言ったとなっています。いつも漁をしていた海で、そこの海のプロの漁師が、人間的には大工のイエス様に「自分たちが溺れも構わないのか」というのですから、これはもうどうにもならんということだったのです。マルコ4章の嵐は、そのようにプロの漁師があわてふためく雨と風の酷い大荒し状態の湖になったようです。

 6章48節を見るとしかしこの6章では、イエス様は弟子達が「こぎ悩んでいるのを見た」とあります。つまり桜島から国分が見えるように、イエス様は、弟子達を見ておられたことになります。夜が明けるころだったとありますので、まだ薄明かりでしょう。しかし見えたのですからマルコ6章での嵐は、雨は無く風の強い嵐だったようです。弟子達はむかい風に阻まれて、こぎ悩み苦労しています。しかしイエス様はそれを見てくださっている状態であったのです。
 私達はここに、いろいろなことを読み込むことができるでしょう。それは弟子達は強い向かい風と戦っていますが、それを神様は見ていてくださるということです。私達は、次々とやってくる出来事に追われて、現実に呑み込まれて右往左往して、これと取組み、神様がいるのかいなのかとそれどころでありません。しかし主はきちんと見ていてくださる。マルコ6章では嵐の中に見てくださっていた。マルコ4章の時は、イエス様は寝ておられたとあります。神様が寝ているというのは、現象的には私達がよく体験することかも知れません。マルコ伝4章の時に語ったと思いますが、隠れたる神と神がおられないとは全く別です。寝ておられる神様は、いないと同じでありません。見ているけれどもしかし介入されない神は、いない神様となるのでありません。
 子どもを育てたことのある方は、分かると思います。子どもは助けられるけれども助けては行けない場面があります。じっと黙って見ていないと行けないときがあります。そこで親や先生が出しゃばって、助けるとちっとも助けたことにならない。子どもの自主性と自発性が育たない場面です。現実にはその判断が難しく、助けないと愛のない親となり、愛のない先生です。しかし本当は助けてはいけない時があるのです。子どもが怒っても、だだをこねても、ここは自分でしないといけないことを教える時があります。親や先生は、涙をのんで助けないということです。

 48節には実はイエス様はもう、湖の上を歩いて、弟子達の側におられるのです。しかしなんということか、側を通り過ぎようとされたのです。ここはおかしいと言えばおかしいです。弟子達を助けるために湖の上を歩いて行かれたのに、側を通り過ぎるとはどうしてか、と言いたいです。ある聖書解説書には、ここは出エジプト33章18節以下のモーセに対して、主の栄光の通り過ぎと重なると取るのがありました。主の栄光つまり主の臨在は真正面から見ることはできず、通り過ぎるのを後からしか見ることが出来ないというのです。イエス様は真の神として通りすぎることで自らを現わされたと言うのです。イエス様のガリラヤ湖での湖の上の通り過ぎを、主なる神様がモーセにご自身の栄光を見せられた時と重ねるのは、読み込み過ぎのような気がします。どうでしょうか。どちらにしろ私達は、現実の中で神様の姿を見つけること、そこの神様のしるしを見いだすことが、困難な者であるのです。私たち人間は、神様の取り扱いが、なかなか理解出来ない存在である、と教えているのです。
 そしてまさに49節には、湖の上を歩くイエス様を見て、こともあろうか幽霊と間違えるというのです。これはいくらなんでも酷すぎです。神と幽霊を間違える。しかし実際には現実には私達がよくあることだと思うのです。神様が側にいて、手を出そうとされている。神様が関わろうとされている。神様は決して見捨てず、現実に助けようとしておられる。しかし私達はそれをまさに幽霊かサタンのように受け止めてしまうのです。聖書には弟子達は「大声で叫んだ」とあります。50節には「皆はイエス様を見て怯えたのである」とあります。こんな取り間違いがあっていいのでしょうか。
 ここも大きな示しがあるといえるでしょう。神様の御介入、神様の取扱いは、実際には、私達にとって幽霊かサタンか、とても助けてくれる天使にはとても思えないということです。これは私達の現実であり、罪の弱さであり、罪のなせる業と言っても良いかと思います。私たちはこんなことは決して神様でない。自分たちはサタンに試みられているという時、しかしその時、実は愛の神様の事があるのです。

 50節。イエスはすぐに彼らと話し始め「安心しなさい。私である。恐れるな」と声をかけてくださったのです。神のみ手を幽霊、サタンかと思った時、主は声をかけてくださる。つまりみ言葉を示してくださるのです。「安心しなさい。私だ。恐れるな」これはイエス様の自己啓示の言葉です。特に今回は2つ目の「私だ」に注目します。これは、ヨハネ伝では7つの私だ、になりました。「私は命のパン、私は世の光、私は羊の門、私は良い羊飼い、私は復活と命、私は道と真理と命、私は真のブドウの木だ、です。」イエス様は命のパン、光、復活、命、道であります。主は羊飼いでありブドウの木でもあります。命のパンであり光、復活、道である主は、私たちと共に歩まれます。イエス様が弟子たちの船に乗ると風は止まりました。実は主イエス様は私たちといつも共にあるので、本質的には大風、大嵐は実は神様にあっては止まっているのです。でも現象では現実には、私たちは悲しいし、苦しく振り回されるのです。努力が必要であり、訓練が必要なのです。でも根本的には、イエス様が見ておられる。イエス様は一緒に人生の船に乗ってくださっているのです。現実には幽霊に見えても、サタンに見えても、しかし主が共にある。今のところコロナウイルスはともても、神様に仕えるとは思えません。しかし主が共にあることは変わりません。これを忘れずに、日々を歩むこと、十字架と恵みの主と共にあることを覚え歩みたいです。

祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中での礼拝を感謝です。主を幽霊と間違える私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、守り導きください。私達を導き、お支えください。病気療養の方続けてみ手においてください。・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教       使徒言行録2章1〜13節     2020年5月31日
           「 故郷の言葉を聞く 」            ー聖霊降臨日礼拝ー
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。今は感染に気を付けながらの短縮礼拝です。しかし皆様と一緒に礼拝できますことまず感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。

 本日は、2020年の聖霊降臨日礼拝として守ります。イースター礼拝は新型肺炎で守れませんでした。あれから50日経過したペンテコステ礼拝が短縮とはいえできることは、ただただ感謝です。実は先週は、西南学院神学部の片山先生が『中世の秋を生きる教会』という講演集を送ってくださいました。何が書いてあるのかと思いましたら、中世ヨーロッパを襲った黒死病ペストと教会のことが書いてありました。15世紀1400年代に、ヨーロッパの3分の1が亡くなったというペストが襲いました。今でこそペストはその原因がペスト菌であり、線ペストと肺ペストと2種類あって、宿主はネズミであり、ネズミの駆除で戦えることが分かっています。しかし15世紀はまだ宗教改革もまだであり細菌学、病理学は全く発達していません。次々と係った方は亡くなりました。言ってみれば今でいうと原因は分かっていますが、闘い方がないワクチンや特効薬がまだない新型肺炎と状況が似ています。
 なんと一番影響を受けたというか死んで行かれたのは、教会の方だったそうです。修道院は、当時病気の人を介護しましたので、全滅した修道院は数知れず、司祭の方は60%がなくなり、市中の人は係った人は40%が亡くなっていたそうですので、圧倒的に教会の方、司祭の方が亡くなって行ったそうです。しかも司祭はどうしても最後の臨終の告解を聞いてあげないといけなかったので、ペストの方の側に行き、どんどん罹っていったそうです。しかし司祭さんは告解を止めなかったそうです。司祭は、自分が死ぬことを分かって告解をしていった、ともいわれています。

 人々の倫理はどんどん低下し、親は子を捨て、子は親を捨て、パニックになり、死臭が匂って、ようやくその家のものが皆、夜逃げしたということが分かったそうです。教会は何もすることができず、ただただ祈ることしか出なかったそうです。片山先生の結論は、何もできない教会はただ祈るしかなかった。そして、病気をひたすら記録したそうです。それで今、状況がわかるのだそうです。
 なぜ神様はこのような当時のヨーロッパ世界の人口の3分の1が亡くなる病気を赦されたのか。残念ながら人間には分からないそうです。東北地震の時の問いと似ています。なぜ神様は赦されたのか。地震は地殻構造のなせるわざとは言え、あそこまで酷い津波が必要だったのか。しかし主は十字架の愛の神様です。私達はこの結果をみて、自分の生き方を問うしかありません。このままいくと滅びの道をまっしぐらに進んでいる、悔い改めよ、生き方を変えよということです。答えがすぐにない問題に直面した時、私達は祈り、自分の生き方を問い、そして自分のできることをしていくしかありません。手洗い、マスク、免疫を高める食事そして今日の成すべきこと、今日の使命に前進していくことです。仕事する者は仕事をなし、祈る者は祈り、家事をするものは家事をすることです。パニックにならず、日常を支えることです。

 さて聖書は聖霊降臨日で一番読まれる言行録2章から聞いていきます。ここはイエス様が復活されて50日目の出来事であります。それはひたすら主イエス様のお約束を期待して祈って待っていたということです。私達は、最後は神様の約束を信じ通すということだと思います。弟子達もしっかりと祈って待ちました。10日、20日、30日くらいにはもうだめかも思ったかもです。40日目はすっかりあきらめていたかもです。イエス様は「約束のものを待ちなさい」と言われた。しかし本当か。主イエスの約束は本当になるのか。しかし疑っても良かったのだと思います。要は祈り続けることでした。イエス様が復活された時、多く弟子達は疑ったのです。しかし主は咎めませんでした。そのまま疑いを受けられたのです。ある方が「止めなければ失敗にならない」と言いました。失敗しても失敗しても、続けるとその失敗は、訓練であり通過点になるのです。失敗は止めたときの評価です。

 2節。弟子達はイエス様の約束を信じて祈り続けます。するとなんと50日目に約束の聖霊が来たのです。その喜びはいかばかりだったでしょうか。それは「突然上からつまり天から」来たのです。これは大切です。私達は、祈りに答えて起こったといいます。しかし確かにそれもあります。しかし神様の出来事は、祈りの応答として起こったと言うよりも、神様の時がなったともいえます。信仰はどちらを取るべきなのか。祈ったからなったと取るのか、神様の時が成就したというのか。3節にこの出来事は炎のようなものもの、つまり火が現れて一人一人に留まったと言われます。炎すなわち火は、常に神様の臨在に随伴すると言われています。
 モーセがシナイ・ホレブ山で主の律法を受けた時、全山が火で煙ったとあります。2節の激しい風もまたギリシャ語原文は霊とも訳せます。火と風と霊は、神様の存在の象徴でもあります。つまり神様の臨在が、聖霊降臨を起こしました。弟子達は確かに祈って主イエス様の約束を待ちました。しかしむしろ神様の時が来たと言えましょう。弟子達の信仰は祈りによってしめされたと言えます。私達はある意味で、約束を信じて、1人の一介の信徒として祈り続けるのです。

 4節には、聖霊降臨によって起こった出来事が書かれています。書いてある通り、他の国の言葉を語りました。どうして弟子達が他国の言葉を語ることができたのか。それは奇跡としか良いようがありません。ただペテロ時代のペテロ達、ガリラヤの人達は、私達日本人と違って、誰でも最低2カ国語を話しました。それは外国人と商売する時のギリシャ語と家庭のことばヘブライ語の方言であるアラム語です。ローマの言葉ラテン語はまだ当時は、一般的なことばでなくて上流階級の官吏達の言葉だったようです。しかし9節から11節にある7つの民族と7つの地方の言葉は、さすがにガリラヤのイエス様の弟子達が話すのは無理でした。これは奇跡が起こったのです。
 ただこのように多国語を語る奇跡は、聖霊降臨だけでなくて、当時は同じように多くの外国語を話すという奇跡を起こす人がいたことが分かっています。しかし全くのガリラヤの漁師達の集団とその弟子達が外国語を語るのは奇跡です。1つは、旧約ヘブライ聖書からの伝統でいうとこの多国語を話すのは、バベルの塔の出来事の修復ということができます。人類は神様のごとく成ろうとして、天に近づき、主なる神は、言葉を乱されます。しかしここに聖霊はこれを修復されるのです。多くの国の言葉が話されて、一つとされ今や神の偉大な業を語り出すのです。
 2つ目は、全世界に神の言葉が継げ知らされる宣教のひな形です。7つの民族と7つの地方があげられています。実はここには当時大事な国、マケドニアやエチオピア何と言ってもギリシャが抜けています。理由が分かっていません。ただおそらく7民族、7地方にすることで、全民族を代表させたと言われています。エルサレムで、全世界の言葉が語られ聞かれたことは、これから主の福音が全世界に伝えられ、出て行く象徴なのです。

 今回6節と8節、11節に注目しました。「自分の故郷の言葉、めいめいが生まれた故郷の言葉、私達のことば」と3回も同じことが言われています。聖霊降臨の奇跡は外国の言葉が分かるということが入っています。しかし同じ言葉でも私達は聞いても聞かない、聞いても分からないということが起こるのです。言葉は不思議なもので、同じ言葉が語られても、聞く方によって違ってくるのです。同じ国語で語られて意味が分かっても、それでもその言葉が分かる時と分からない時が起こります。イザヤ6章9節「良く聞け、しかい理解するな。よく見よ、しかし悟るな」の状態です。
 苦労して育った人は、苦労した人の言葉が分かります。どうでも良い人生を渡った人は、しっかりと自分の人生を歩んだ人の言葉が分かりません。お金の力で世間を渡った人は、お金を持たずに世間を渡る人の苦労は分かりません。同じ言葉を語っても、分かる人と分からない人が出てきます。ここで「自分の故郷の言葉で聞くとは」表面的には、通じると言うことでしょう。しかしさらに通じることばという意味を越えて、体験の共有がここにはあるのだと思います。分かる言葉、分かる心の言葉で聞けたと言うことです。通じていても分からない時があります。ここでは通じる言葉が分かることばとなって伝わったということです。信仰の言葉はそういう面を持っています。信仰によって分かるというのがあります。説明の言葉は信仰があっても、なくても同じです。しかし実際の言葉の理解が変わるのです。これはもう聖霊にまかせるしかありません。聖霊がその人の心を開いてくださることを、信じて、語るしかないところが言葉にはあります。

 最後に12、13節があります。これは生前のイエス様の奇跡でも、復活のイエス様の顕現でもありました。復活のイエス様が目の前に復活しておられるのにそれでも、信じられない弟子があるのです。ガリラヤの漁師達が、世界の言葉を話しているのを、目の前にみても「新しいぶどう酒によっている」と受け取られました。事実が事実としてあるのですが、それが受け止められない。それはどう受けたらいいのかです。
 ヨハネ伝9章にその典型があります。生まれつきの目の不自由な人が、イエス様によって癒されました。しかしファリサイ派の人は、罪人が生まれつきの目の不自由な人を癒せるはずがないとして、イエス様によって目が開いたことを認めません。目の不自由な人が自分は癒された、目が見えるようになったと言っても認め無いのです。この時この人はどうしたらいいのか。ファリサイ派の人の所に何度も行って、認めさせるのか。そんなことはしなくてもいいのです。事実を事実として認めない人と付き合う必要はない。そんな時間は無いのです。
 この人はここから自分の人生を歩めばいいのです。信じない人のための証明の為に時間を掛ける必要はないのです。後は目を開いてくれたイエス様を信じて、主の臨在を信じて、主が共にあることを信じて歩むのです。聖霊降臨とは何であったのか。それは異言の賜物のある人は異言を語ればいいです。奇跡の賜物のある人は奇跡を起こせばいいでしょう。しかし目をあけられた人は「主よ、信じます」と告白して、自分の人生を、恵みによる日常を歩み始めることなのです。
 新型肺炎で、なかなかワクチンができず、もしかして数年、薬もできず悪戦苦闘かも知れません。ヨハネ6章67節に「あなた方も私を離れていきたいか」とイエス様は言われた事がありました。しかし68節、ペテロは言いました「主よ、私達は誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命のことばをお持ちです」。私達は何があっても、主イエス様のところに、恵みによって留まるものなのです。

 祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中での聖霊降臨日礼拝を感謝です。私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、十字架の赦しをもて導きください。主は歴史の中で私達が理解できないことを起こされます。神戸地震、東北地震、熊本地震、そして新型肺年が来ました。十字架のイエス様がそれを起こされたとはいえません。しかし、事実、疫病の中に私達はあります。どうか、いにしえの教会と共に祈ります。どうか、私達を守ってください。病気療養の方続けてみ手においてください。・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

説教       エゼキエル16章1〜8節     2020年5月24日
           「 お前は私のもの 」  
 
 皆さん、おはようございます。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。先週から感染に気を付けながらの短縮礼拝です。皆様と一緒に礼拝できますこと感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。先週は1ヶ月半振りの礼拝で、終わってから数人の方からやはり礼拝は良いですね、とメールやお声かけを頂きました。神様が礼拝をもって、私達を導き支え、守られているのだと改めて確認することができ、感謝で一杯です。
 さて今日は旧約聖書から聞くと言うことで、エゼキエル書16章を開いています。ここはエルサレムの審判預言に属しています。この直前の15章は有名なエルサレムがぶどうの木に譬えられております。これは新約聖書でも受け継がれており、イエス様ご自身が「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」といわれたところに繋がります。この直後の17章は二羽の鷲とぶどうの木の譬えで、これもまたゼデキヤ王が自分を立ててくれたバビロンとの契約を破り、エジプトに援軍を頼むイスラエルの不忠実の在り方を示しています。全体はイスラエルの主なる神への背信と同時にバビロンへの不忠実を示しているのです。

 本日は1節の前にゴチック体で「エルサレムの背信」とあります。そのテーマに沿い16章全体を使って一つの譬えが使われております。それは少女が成長して大人となり、しかし成人して自分を育ててくれた人また夫を裏切っていく譬えになっています。1節には「エルサレムにその忌まわしいことを伝えよ」となっており、16章全体がエルサレム、イスラエルの主なる神への背信が一人の女性の背信物語となっています。
 このように主なる神への信仰を結婚や女性で現すのは、実は前の預言者ホセアの伝統であると言われています。預言者ホセアはアモスやイザヤと同じ時代の人ですが、自分の妻の不倫を元に預言して行った希有の予言者です。それにしても予言者というのは、自分の私生活もへったくれもない。奥さんの不倫を元に預言していかないと行けなかったのですからすごいです。象徴預言といわれているのですが、ある意味で私達もまた、神様の象徴預言に使われているのかも知れません。キリスト者が犯罪をなしたり、犯罪に巻き込まれたり、いろいろなことが起こります。しかしそこにおいて、神様は働いて、十字架を通して、ご自身の言葉を語っておられるのです。

 2節から始まるある少女の大人になるまでの成長の物語は、捨て子の物語がその根底にあると言われています。捨て子は古今東西どこの国にもあったとされています。必要とされてないで、生まれてくる子供はどこの時代のどの子の国にもあり、イスラエルもその例外でなかったのです。今日本は人口減少に悩んでおり、少子化に悩んでいます。捨て子よりもいかに育てるかが問題です。しかしいろいろな手当が成されていますが、それでも育てられないと赤ちゃんポストが熊本にありますが、5年間に200人で、1年に40人ほど利用されたそうです。やはり使われているようです。
 3節にはイスラエルの姿が、お前はカナン人だ、父はアモリ人、母はヘト人とされ、当時イスラエルが馬鹿にしていた民族がもともとのイスラエルの姿なのだとしています。例えが悪いですが、日本もまたどんなに中国、朝鮮半島を嫌っても、元々が漢字を使う中国文化圏であり、その文化は朝鮮半島を通って来たのです。今本屋さんでは嫌中、嫌朝鮮半島の本のコーナーがあるそうです。全くナンセンスです。自分が出てきたところの文化の原点を忘れて、原点を嫌っても何も出てきません。日本は中国と朝鮮の文化に支えられてできた国なのです。
 アモリ人は子供、幼児を神に献げる祭儀をもつ民族です。ヘト人は元々ヒッタイト民族として鉄器を造った民族です。しかし当時旧約ヘブライ聖書で、イスラエルが異邦人として嫌い馬鹿にしておりました。新約聖書でいうところのサマリヤ人のようなものです。しかしそれがイスラエルの原点なのだとエゼキエルは示すのです。

 4節の出来事は、捨て子の譬えとされています。生まれた日にへその緒を切られず胎盤と一緒に捨てられていたのです。水と油と塩と布は新生児を洗い、養護する道具です。しかし誰もそれを使わなかった。まさに野原に道ばたに捨てられた赤ちゃんだったのです。5節に「お前が生まれた日に、お前は嫌われて野に捨てられた」とあります。この捨て子は女性だったのです。熊本の「こうのとりゆりかご」の5年間の統計では、200人ですが捨てられる子供の男女比は現代、半々で同じだそうです。

 6節に「私がお前の傍らを通って」とありますが、主なる神はこの捨て子の側を通られました。これは譬えですが天使となって通られたのか、具体性はないので分かりません。お前は自分の血の中でもがいていたとあります。へその緒から流れた血が赤ちゃんに流れついていたのでしょう。不思議なことに「血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った。」が2回繰り返されます。つまりヘブライ語の強調形です。
 主なる神は、捨て子イスラエルを拾われたのです。拾って育てられ、生かされたのです。予言者エゼキエルは自分たちイスラエルの原点を異邦人の捨て子として見ています。しかしおそらく多くの方は、ちょっと待て、イスラエルはアブラハムからの神様の契約の子でないのか。アブラハム、イサク、ヤコブの契約の流れにそって、ヨセフを経て神様が守り、出エジプトして導き、支えてくださったのでないのかと言いたい方があると思います。しかしエゼキエルはこのアブラハム伝承ではなくて、異邦人の捨て子伝承に立ってイスラエルの自分達を見るのです。
 エゼキエルは高級祭司でした。第一次バビロン捕囚でバビロンに連行されました。それはバビロンから主だった人と見られたからです。エレミヤは第1次捕囚では、連行されていません。下級祭司だったからと言われています。上級祭司エゼキエルは、当然祭司の訓練によりアブラハム伝承を知っていたはずです。しかしそれを用いなかった。自分は何者であるのか。エゼキエルがバビロン捕囚に出会ってバビロンに連行された時、自分を根底で支えたものは、捨て子伝承だったとなります。
 私達はどうでしょうか。国を失い、神殿が破壊され、しかしそれでも信仰者として立って行く時、どこに自分を置くのかです。エゼキエルはイスラエル捨て子伝承に立ち、ここから主が導きてくださることを信じました。主なる神様は捨て子からイスラエルを起こしてくださったことを、受け止めた。そしてここから出発して行くのです。預言者エゼキルは、捨て子の原点に帰りまたイスラエルは最初から神様と共に、国造りをして行かないといけないと受け止めたのだと思います。

 6節の「お前に向かって『生きよ』と言った。お前に向かって『生きよ』と言った」と2回の繰り返しは、預言者エゼキエルが神殿を破壊され、バビロン捕囚された中で自分が出発点においた主の御言葉であったと思います。私達が本当に苦しみの中にあり、本当にどうにも成らなくなった時、頼るべき御言葉は何であるのかです。もちろんアブラハム、イサク、ヤコブの契約は、そこに自分を奮い立たせるものがあるとする方もあるでしょう。アブラハムも又神様の声を聞いて、行く先を知らずに出発し、イスラエルの祖父となったのです。ウルにいれば親戚や知人に囲まれ、何不自由のない生活ができる。しかしその時、神の言葉「私の示す地に行きなさい」を聞きました。アブラハムもまた、神の言葉に従う原点です。しかしエゼキエルは、自分の過去を捨て子として受け止め、捨て子を生かし導き守った主なる神を見上げたのです。

 7,8節を読むと、主なる神は捨て子を育て、成人させます。お前は裸のままであったはよく意味が分かっていません。しかし8節にもう一度主なる神はこの成人になった少女、女性に出会いました。そしてその時「衣の裾を広げてお前に掛けて裸を覆った」とあります。これはルツ記3章9節にありますが、結婚の象徴とされます。主なる神は、野原にあったこの捨て子を拾われ、生きよと声を掛けられ、大きくされ、さらに結婚の契約を立ててくださったのです。
 私達は簡単に神の恵みということばを使います。また実際に神の恵みの中に生かされています。そしてこの神の恵みは、事実私達を生かします。そして改めてその恵みは、私達の思いを越えて大きいと言えるでしょう。主は私達の思いを遙かに超えて働き、守り導かれるのです。それは現実には、文句も言いたいし、愚痴がでます。しかしどうもそれ以上に主の恵みは、働かれているのです
 思い出すのは、種子島の沼田先生が時々、鹿児島での病院とかデパートの買い物のついで鹿児島教会に寄ってくださることがあります。その時々、ぼそっと信仰の話をしていかれるのです。この前は、自分の信仰の原点で、自分の先生がふと「自分は牛の糞のようなものである」と言われてそれがずっと心に残っているのです、と話していかれたことがありました。
 年がばれるというか、生まれがばれるというか、私も長崎のかなりの田舎で育ちました。実は小学低学年までは、農耕馬が引いている馬車や牛が田んぼを耕して、親戚の従姉妹達が上手に牛を扱うのを覚えている年代の最後なのです。小学4年年になるとあっという間にガソリンの耕耘機がでてきて、全てがエンジンに変わりました。しかし牛や馬が道路に糞を垂れ流していくのを見れた最後の年代なのです。あの時は、牛や馬が適当に道ばたに糞をして、よく考えると肥料なのですが、汚いものの代表選手だったのです。しかしそれは何か人間の罪を象徴していたのです。沼田先生の先生が「自分は牛の糞みたいなものであるが、しかし神さまはそれでも用いてくださった」と聞いて、罪の目が開けたと聞いて分かるのです。すみません。少し町に育った方はピンとこないかもです。牛や馬が道ばたに糞をしながら仕事している姿です。

 エゼキエルは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンに連行され、今までの祭司の生活が一変し、ユーフラテス川の湖岸日雇い労働者になった時、アブラハム伝承でなくて、むしろ捨て子伝承を思い出した。父はアモリ人、母はヘト人のカナン人の捨て子だった。しかしそこから主に「生きよ」と生かされた。主なる神はまた生かしてくださるということです。9節以降は、イスラエルがいかに主なる神の恵みを捨てて背信し、高慢と傲慢の塊となり、その美しさを誇り、遊女となり、娼婦とまで成り下がっていったのかを書いています。イスラエルの姦淫を止めさせ、目を覚まさせて、主に立ち返らせるためには、バビロン捕囚の徹底した破壊しかなかったと言うのです。

 第二次大戦で沖縄戦、2つ原爆をもってやっと目が覚めた日本と似ていると思います。検事長が緊急事態宣言の最中に、新聞記者とかけ麻雀ができる。これは高慢、傲慢意外にないでしょう。少なくない国民の方がどうやって生活したらいいのか。飲食業は多くが潰れるかもしれないとされる中で、自分が定年問題で渦中にあるのに、賭け麻雀をしているとはどうなっているのか。東京大空襲、沖縄戦、2つ原爆を忘れた姿、自分が罪人、捨て子であったことを忘れた姿でしょう。罪の赦しの十字架の恵みを忘れた姿です。しかし主は「生きよ」と声を掛けてくださる。この新型肺炎の中にあって「お前は私のもの」、「生きよ」の声を聞いて、祈り、礼拝し、また1週間を歩みます。

 祈ります。「天の父よ、新型肺炎の中の礼拝を感謝です。私達の罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、十字架の赦しをもて導きください。病気療養の方続けてみ手においてください。・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教          黙示録3章1〜6節       2020年5月17日
             「 目を覚ませ 」   
 本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めの礼拝ができますことを心より主に感謝致します。一ヶ月半ぶりに感染に気を付けながらの短縮礼拝ですが、皆様と一緒に礼拝できますこと感謝です。主に赦されたそれぞれの1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 およそ一ケ月ぶりの礼拝となりました。皆さまの健康が守られ、主に感謝いたします。新型肺炎のために多くの集会ができなくなり、鹿児島市の牧師会はとうとうズームというソフトを使った会議をしました。初めての体験でした。10人の先生方が参加して、一人の先生は2時間の間悪戦苦闘されましたが、とうとう繋がりませんでした。それぞれの先生方のPCの性能とまた詳しい人によるとその接続環境にもよるらしいです。変なところで日本のネット環境は外国に比べると大夫弱いらしいです。新型肺炎のために思いもよらない事、又いろいろなことが訓練されるのかも知れません。
 ラジオの番組で、ある経済学者さんがこの新型肺炎は、これからグルーバル化や生産性・効率化でなくて、人間の命を守る経済に転換せざるを得ません、と言われていました。具体的に何がどうなるのか分かりませんが、いくら儲かっても感染して死んだら確かになんにもなりません。もちろん儲からないと食えなくて死にます。しかし命を守る経済活動とは、必要になってくるでしょう。そして命を守るということで言えば、正に礼拝は私達が永遠の命を与えられ、それに生きることの証です。命を守る礼拝の信仰が、問われていくのかも知れません。しかし同時に命をだけを大切にして、命を失うこともあります。命以上の命の神様の大切さを再び示されます。

 さて聖書は黙示録3章から聞いて行きます。この箇所は長老ヨハネが7つの教会に手紙を書いたサルディスの教会へ手紙になっています。サルディス教会は他の長老ヨハネが書いた6つの教会の手紙に比べて、余り特長がないという特長があります。サルディス教会の特長がないのは、サルディスの町自体に活気がすでに黙示録の時代に無かったからでないかと言われています。教会のある町の活気と教会の活気が連動しているのかどうか、難しいところです。
 東京、大阪、名古屋、福岡のような人口の多いところには確かに大きな教会が生まれやすいかも知れません。しかし教会の活気と町の活気が連動しているのかどうか。町は疲弊しても教会は頑張っているとか、町は活気があるが教会は疲弊しているとかあるのでしょう。実はサルディスは、直前にあるティアティラ教会から南東へ55キロ、サルディスの次にあるフィラデフィア教会からも60キロほど離れた町です。黙示録時代の600〜700年前はリュデアという国の首都であったとされています。砂金がとれる裕福な町だったそうです。しかしその後はペルシャに滅ぼされ、一度興隆しますが、紀元前133年にはローマ帝国の傘下に入ったとされています。交通の要所にあって、一度は首都として栄えたが、ヨハネの黙示録時代は小さいなローマ帝国の一つの町になっていました。
 日本でいうと古都の奈良辺りになるのでしょうか。九州で言えば昔の北九州市ということに比較されるでしょうか。この町にサルディスの教会があったのです。しかしこのサルディス教会は「目を覚ませ、悔い改めよ」とあるように、どうも沈滞状態、眠っている状態が特長です。1節にある「7つの霊と7つの星をもっている方」はもちろん今までにエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ教会への手紙を、長老ヨハネを用いて送った、同じイエス様のことです。
 そしてサルディスの教会は「私はあなたの行いを知っている。あなたは生きているとうのは名ばかりで、実は死んでいる」と言われています。「あなたは生きている」というのは、いろいろな取り方があります。どうもサルディス教会が、自分たちのことを「生きている教会」と自称していたようです。皆さんどうでしょうか。私達が自分のことを「私は生きています」と自称する時は、あえて人に言う時はおそらく本当は霊的に死んでいるように思われます。本当に生きている人は、自分で気が付かずに、生き生きして活動しているのです。本当に生きている人は、自分から言わないし、人もまた見れば分かるというものです。本当に生きている人は、人から言われなくても反対に人からどう言われようが、人の噂は全く気にならずに、どんどん奉仕され、自分のすべきことを成されているように思うのです。つまりイエス様だけを見上げて、自分の賜物を力一杯献げておられると思うのです。イエス様から「実は死んでいる」と言われているのは、おそらくこのサルディス教会の方が、ある意味で高慢になり、誇っている。町は沈滞ムードですので、せめて教会だけでもと思ったのか、自分たちの力を自慢している、傲慢になっている状態だったのかも知れません。

 2節には「目を覚ませ」と言われています。この言葉は新約聖書にはよく出てきます。皆さんも世の終わりを待つあり方、マタイ伝25章にある「賢い乙女と愚かな乙女」の譬えを思い出されるでしょう。賢い乙女は、いつ主人が帰って来てもいいように、灯し油を準備した。しかし愚かな乙女は灯し油を準備していなかったのです。賢さと愚かさが、聖書では頭の良さや立ち回りの良さでなく、信仰をもって世の終わりの準備にしているのかで問われるのです。
 私達はサルディス教会がどんな行いをして、自慢していたか、何をもって自分達は生きていると言っていたのか、具体的に知りたいです。しかし聖書にはそれが書かれておらず分かりません。しかし聖書学者によるとこのサルディス教会の自慢は単にキリスト信仰にあること、何というか誤解されると困るのですが、苦難のない信仰、苦しみのない信仰、本来はそんなものはないですが、そういうことであろうと言われています。つまり十字架のない信仰というかそういう安易な信仰にサルディス教会はあったのでないのかとされています。
 人はイエス様を信じると確かに恵みの中に入れられ、感謝の生活に入るのです。ある意味で、今日、命が取られても大丈夫というと大げさですが、すべて神様が守り、すべて導き、支えてくださり、主はいつの日も自分に最善をなしてくださると受けられる。これは何よりも大きな幸せであり祝福です。しかし日本ではキリスト者は「アーメン、ソーメンか」と言われたり、大なり小なりの切支丹の扱いをされたりの歴史を持っています。しかしどうもサルディス教会の人達は、ローマ皇帝礼拝にも反対することもなくそのまま受入、当時の社会の習慣を受入れ、この世との軋轢もなくして、こじんまりとしたぶつからないキリスト教信仰になっていたようなのです。
 エフェソ教会は初めの愛から離れ、スミルナ教会はサタンの集いに参加しているものがあり、ペルガモン教会はサタンの王座があり、ティティラ教会にはイゼベルがいました。それぞれ闘いの中にあったのです。しかしサルディスはサタンがサタンとして認知されず、熱い愛もなく、イゼベルもいない。一見順風満帆のようで、いいと言えばいいのですが、十字架の信仰になっていないのです。イエス様から「実は死んでいる」と言われたのはこの事のようです。
 私の尊敬する先生で、もう天国ですが「教会はガタガタしている時が生きている時なのだ。死んだ教会はサタンも手をつけない」と言われていました。ずいぶん乱暴な先生やと思ったものです。しかし確かに牧師がツーと言えば、信徒がカーと答えるのは、本当はおかしいのもかも知れません。皆がどんどん奉仕をし出すと確かに軋轢やいざかいが起こり、実はそれが新しい神様への課題や使命の発見になって行くのでないかと思います。先は見えなくても、よく分からなくても、動いてみることです。トライアンドエラーから、人間は主の恵みによって道を見付けていくのです。

 3節にイエス様は「どのように受けたか、聞いたか、思い起こし、それを守り抜き、悔い改めよ」と言われています。一言で言えばこれは初心に帰るということです。「どのように受けたか、聞いたか」は、長老ヨハネがサルディス教会に行った時に、教えていたことでしょう。よく言われることに、迷った時、困った時には、元に戻れと言います。山で道に迷った時も、どんどん進むよりも前のところに帰るのがいいそうです。自分が最初に教会で聞いて信じたこと、バプテスマの時に最初に大切にしたことに戻ることです。悔い改めとは、すでにご存知の通りもともとの意味はメタノイアで「方向転換」です。サルディス教会は「俺は生きている、自分は生きている」と自慢しないで、この世とうまくいっているのを自慢しないで、最初の信仰に熱く方向転換しなさいと言われているのです。

 4節はしかしサルディス教会にも少数ですが衣の白い人、衣を汚さない人がいたのです。その特長は続けて書いてあるとおりに「私と共に歩く人」です。つまりイエス様といつも一緒にいる人があるというのです。聖書は確かに、教会を大切にします。共同体がどうであるのか、イスラエルとしてあることが、個人としてあることとより大切なことがあります。個人としてある又共同体としてあることをいつも2つを見ています。確かにどんなに義人であっても、罪を犯すと滅びるとエゼキエル書3章や33章はいいます。しかし神様はソドムとゴモラの滅びの時のように、町の大部分が罪であっても、そこに一人の義人ロトがいた時に、救い出されたことがあります。主は、けっして一人を馬鹿にせず、見くびることなく、一人になっても信じ、1人になって信仰を守っている者を見ておられるのです。
 4節の白い衣はいろいろな意味を持ちます。まず白は天国に生きる色です。バプテスマの時に白い服を着ます。あれは神の国の人、天国人になるということを意味するといわれています。体は死んでも、しかし魂は白い服を着て天国に行くのです。5節には、白い服を着た人、イエス様と共に歩く人は、命の書からその名を消さないと約束されています。命の書は旧約ヘブライ語聖書以来の信仰です。モーセも又も出エジプト32章の時代から命の書の信仰があります。命の書に書かれているものは、決して滅びず、神と共に神の国の住民になるのです。ルカ伝10章20節には主は「悪霊があなたがたに服従することを喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われています。この世でどんなに迫害され又苦労にあっても、命の書に名があるものは神の国に入るのです。神の国の住民として登録されているのです。主は、父なる神と天使たちの前で、私の名を呼んでくださるのです。

 その保証は何であるのか。「主と共に歩く」ということです。私たちは苦しい時も悲しい時も、嬉しい時も順風の時も逆風の時も、いつも主イエス様と共に歩むことです。コロナウイルスの時も、そうでない時も、おそらくコロナが収まっても又次の疫病があるのだと思います。しかし基本は主が告げられることを、神のことばをいつも聞いて答えていくことです。主が恵みにおいてなしてくださることを信じます。

 祈ります。「天の父よ、1ケ月半ぶりの礼拝となりました。私たちはこのように次々と困難が襲ってきます。どう対処していいかもわかりません。礼拝、祈祷会もできなくなりました。しかし主はまた回復されてくださいます。私たちの罪と弱さをあなたはご存じです。どうか、十字架の赦しをもて導きください。病気療養の方続けてみ手においてください。・・・を守ってください。ご高齢の・・・さん守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康、子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの1週間を又お導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 祈祷会奨励                     2020年5月13日(水)
 讃  美  新生265番  ほむびきかな み子を降し
 聖  書  使徒言行録3章1〜10  P.217
 奨励朗読  「 キリストの名によって立つ 」
 讃  美  新生271番  光のみ霊
 祈  り  祈りの課題5月号 
 黙  祷  各 自
      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために集まっての祈祷会をなすことはできません。祈祷会も集まらない祈祷会が6回目となっています。明日の5月14日に鹿児島県は緊急事態宣言の解除になると言われています。もしかしたら、集まらない祈祷会は、これで最後なると嬉しいです。解除の内容がまだはっきりしませんが、礼拝、祈祷会は、3密を避ける対策をして、行えるとよいと思っております。
 さて祈祷会の聖書は、いつものように連盟の聖書教育から次の主日の聖書の箇所を取りあげております。今回は、言行録3章のペテロが、足の不自由な人を癒す奇跡のところです。この直前は初代教会の麗しい教会生活が書かれています。それは「すべてのものを共有し、おのおの必要に応じて、皆が財産を共有し、毎日神殿に詣り、家毎に集まって、パンを裂き、神を賛美する」姿です。しかしこれは一歩間違えると親しい人だけの集まり、同じ傾向を持った人の集まり、同好会や愛好会に堕する危険性もあります。しかし教会はイエス・キリストの証人として立っていかねばならなかったのです。

 聖書はすぐに、親しい者同士の、友好会、愛好会でなくて、現実に弟子たちを向かわせます。それはペテロとヨハネが、神殿にお祈りに行った時に起こりました。1節に午後3時の祈りとあります。改めて初代教会が、当時のユダヤ人の神殿生活をそのまま守っていたことがわかります。当時は、いろいろな資料がありますが、おそらく日に3度、エルサレムの人は、神殿に行ける人は、神殿礼拝に祈りに出かけたようです。通常9時と12時と午後3時の祈りがあったとされています。そしてここは午後3時の祈りの時に起りました。
 このように私たちが神様の事柄に出会うには、もちろん自分から求めて行って起こることもあるでしょう。自分から求めて違う世界に入り、違う仕事について、日常と違う場所で、神様の出来事に出会うことがあります。しかしペテロやヨハネのように、いつもの習慣を守っているところに出会いが起こり、神様がことを起こしてくださると言うのも多いのだと思います。毎日毎日代わり映えのしない日常、しかしそれをしていく時に、神様がちゃんと事をおいておらえるのです。

 先日は、バプテスト牧師会があって、久ぶりに国分の協力牧師、立山先生が来られていました。牧師会が終わって帰る時に「どうして先生は、都城で社会福祉事業を立ち上げて、身体障碍を持つ方の仕事の事業をすることになったのですか」との話になりました。先生はそのつもりは全くなかったけれども、たままた障害を持った方を預かったのが始まりですと教えてくださいました。
 この「たまたま」がどうも、問題の核心部分です。いつも例にあげますが、アフガンの凶弾に倒れた中村哲先生もまた最初からアフガンの苦しむ人を助けようと行かれたのでありませんでした。たまたま高山の蝶の採集に登山隊の医者としていかれたのです。しかしそこで貧しい人たちに出会われたのです。
 ぺテロとヨハネは、何かこの生まれつきの足の不自由な人を癒そうとできかけたのでない。いつもの通りの午後3時の祈りに出かけた。そしてそこでこの生まれながらの足の不自由な人に「たまたま」出会いました。そしていやしの出来事が起こったのです。何か私たちも神様の業をするとき、起こる時はそういうことでないかと思うのです。何か構えて、大きなことをやろうと備えて、神様のことができるのか。そういう人もいるかもしれない。しかしいつもの通りにしている、いつものことを当たり前にしないといけなかった。そこにふと見ると神様の出会いが待っていたのです。

 2節には場所の説明があります。美しの門とは、エルサレム神殿の東側にある、婦人の庭に入る3つの門の内の真ん中の門だったとされています。青銅で作られた美しい門だったので「美しの門」という名が付き、後からコリント門とか、ニカノル門とか名前が付いたそうです。つまりエルサレム神殿の最も美しい門に、生まれながらに歩けない人が施しを請うていたのです。全知全能の愛の神様の神殿の一番美しい門に、生まれながらの足の不自由な方が施しを乞いつつある。これは大きな皮肉なのかもしれません。当時は身体障害をもっている人は、ほぼ施し以外に生活のすべがなかったと言われています。しかし主は、ここからこの方の方向を変えてくださるのです。

 3節からいやしの奇跡の様子が書かれています。ここは聖書教育も注目していますが、3節から5節に「見る」ということばが4回でてきます。3節「境内に入ろうとするのを見る」。4節「彼をじっと見て」、また4節に「私たちを見なさい」。そして5節に「二人を見つめていると」となっています。
 実は日本語は「見る」はほとんど「見る」しか言葉がないのです。しかしギリシャ語は、見るが4つとも違うのです。私は良く知らないのですが、日本語は「美味しい」もおそらく一つだと思います。とても美味しい、すごく美味しい、ちょっと美味しいという具合です。しかしフランス語は「美味しい」の言葉が、一杯あると言われています。つまり、文化によってその敏感なところは言葉が多いのです。
 実は、最初の3節の「見る」は、注目しないでぼっと見る、ただ「見ているだけ状態」の見るです。次のペテロが「じっと見る」は、焦点フォーカスを当ててきちんと見ることです。次の「私たちを見なさい」の見るは、区別して注意深く見ることです。そして最後の「2人を見つめていると」は、何か起こると期待して見ることです。
 見ることにも、これだけ種類を違わせて出来事を伝えることは面白いです。まずぼっと見ている、次に焦点を絞って見ている、3番目に区別してつまり注意を払って見る。そして4番目の最後は、期待を持って見る。その時、神の言葉がかけられるのです。もちろんぼっとしている時も、なんだなんだと物見遊山で見ている時も、神様は用いてくださるのだと思います。しかしだんだんと対話によって、時間によって、見る対象がしぼられていくのもありうると思います。やみくもになんでも見るから、肝心のところをきちんと見るへの変化と言うことだと思います。

 他のたとえで言えば、見る訓練や聞く訓練というのはあるのだと思います。熱心に聞くと正しく聞くのは違っていると思います。最初から本質を見抜ける方もあるでしょう。しかしだんだんと分かってくるのもあります。昔ある信仰書に読んだ証を思い出します。「信仰は何になるのか、面白くもなんともないと思っていた。しかし、せっかく信仰を頂いたのだからと礼拝と祈祷会を重ねていた。するとある時、調子が悪くて病院に行ったら、なんと自分が助からない大きながんにかかっていることが分かった。しかしこの時、忽然とずっと何となしに聞いてきた聖書、ただなんとなく祈っていた祈りのことばが突然、自分を支え、導きだした」というのを、読んだことがあります。手前みそかもしれませんが、これ本当だと思うのです。
 ぼっと見て、きちんと見て、しっかり見て、期待して見た。すると神の言葉がかけられたのです。6節です。「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。この人は、施しすなわち恵みのお金を貰おうと思ったのです。しかし、癒しが与えられたのです。
 イエス様を信じるとはこういうことが起こります。ただ、自分の欠点を直そうと思って、短気を直そうと思って、幅広く人につきあえないのかと思って、心の弱さを直そうと思って教会の門を叩いた。しかし振り返ると待っていたのは、自分の生き方全体の方向転換だったのです。

 それにしても「ナザレ人、イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」とはどういうことでしょうか。キリスト教は、ご利益宗教でなかったのではないでしょうか。癒しはお医者様に任せるのではないでしょうか。信仰が生まれつきの足を癒す。整形外科の代わりをしていいのでしょうか。しかしここには頑として「キリスト・イエスの名によって立つ」とあります。
 何の役にも、腹の足しにもならないようなイエス様の名です。しかし、実はこの人を歩かせるのです。私たちは、やはりキリストの名つまり実体がその人を奮い立たせて、整形外科のような働きをしたと知らされるのです。イエス様の実体、十字架のイエス様、復活のイエス様は私たちを、しっかり立たせるのです。躍り上がって立たせるのです。そして歩き出すのです。歩き回って讃美しだすのです。
 罪の赦しの力は、肉体を癒し、さらに前進させ、讃美に生かすのです。この恵みを私たちは生きるのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。もうすぐに緊急事態宣言が解除されるようです。しかし生き方はあまり変わらないようです。3密を避け、ウイルスを受けない生き方が問われます。病気療養の方、・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さんを守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブは保育が続いています。先生方、支援員方、乳幼児、学童の保育を守ってください。どうか、教会員一人一人の健康、信仰を守り、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」

    説教  コロサイ人の手紙3章18〜25節    2020年5月10日
         「 妻を愛しなさい 」   ―母の日―

 本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めに礼拝(家庭礼拝)ができますことを、心より主に感謝致します。皆様と一緒に礼拝できませんが、主に赦されたそれぞれの礼拝の時を、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 緊急事態宣言が5月31日迄伸ばされることになりました。感染者がほぼ横ばいになっているところは、地方によっては営業や休日自粛が緩和されるようです。又場合によっては早めに宣言解除をするかもしれないと言われています。しかし続けて第2派、第3派の感染流行があると言われており、やはりこの1年間は用心することが続くのだと思います。私達はいつも朝のラジオを聞きながら、朝食をとるのですが、そのラジオで地球上ではウイルスは何億年の歴史をもちますが、人間はせいぜい20万年の歴史しかありませんと言われて、ウイスルが勝つのか、人間が勝つのかは、本当は分からないのです、と言っていました。確かに聖書では人間は天地創造の最後の段階にこの地球に創造されていますので、宇宙からみれば完全に新参者なのかも知れません。ウイルスの方が何倍も歴史を持ち、生きる力が優れているのかもです。しかしパスカルのように、人間は宇宙からみれば確かにすぐに折れる葦のように弱いが、考えることのできる葦である、に賛同します。そして、神様の造られた人間は、やはり高慢にならず、罪を知りつつ、イエス様と共に、恵みの中で与えらた命を力一杯生きていくのだと示されます。

 さて今日は本当なら、母の日礼拝、家族の礼拝で、幼稚園、子ども園のお母様方に100本ほどのカーネーションを準備して講師も違った方をお招きしての礼拝でした。しかし全く今年はできませんでした。母の日礼拝の由来はご存知のように、アメリカのメソジスト教会(日本では日本キリスト教団の教会になります)で、ジョン・ジャービスという教会学校の先生が、自分を育ててくれた母を思い出して、子供達にお花をもって感謝の意を表したがことがきっかけと言われています。当時、スーパーマーケットの王といわれたジョン・ワナメーカーがこれはいいとして、あっという間にアメリカ全土に、カーネーションで母に感謝を表すキャンペーンをして広がったそうです。日本では戦後に大いにい広まり、今も続いて成されています。
 実は私のところも、伊佐市の大口にいる娘がわざわざカーネーションではありませんが、お花を持ってきてくれました。持つべきは娘だとか言っております。私は男で
若い時に母にお花をプレゼントしたことはなかったでした。しかし小学生の時、今日は母の日だと言って、弟と一緒に前のお店に昆布の佃煮を買いに行って、母にプレゼントしたら、おいおい泣いて喜んでくれたことが最高の思い出になっています。
 さて聖書は、そういう訳でいつも親子関係をしめす聖書の箇所を、拾ってこの時読んでいます。いつもはモーセの十戒からとか、申命記からとか使っていますが、今日はコロサイ書3章から聞いて見ます。実はコロサイ書3章の本日の箇所は、教会における家庭訓として、新約聖書は一つの定式まとめとして用いられたと言われています。全く同じ形式を持つのが、エフェソ5章22節以下、第1ペテロ2章18節以下にあります。後は聖書学者によってテトスの手紙2章を入れる方もあります。さらに外典儀典ですが、クレメンスの手紙、イグナチウスの手紙にも同じ形式を持つ教えがあるとされています。

 18節から読んでいきますが、読んで分かる通りに教会の人々にとって、簡単に妻と夫、子供と親、奴隷・僕と主人と言ったそれぞれの階層の人々に、倫理的な教えの基準のようなものを示す必要があったのだと思います。今でもマニュアルといいますが、それぞれの業界にお客さんへの対応の仕方、それで全部解決は無理ですが、しかしあるのと無いのとでは、やはりある方が分かり易いし、責任性もでてくるといえると思います。
 新約聖書にこのような形式の教えがでてくるのは理解できます。しかしもちろんこれは、今のマニュアルと同じで、使い方を間違えると全く人間味のない、機械的な対応となり、返ってトラブルの元になったりもします。それは前後の生活の文脈なくして、ただ「妻は、夫に仕えなさい」と言い出すと全くどうにもならない教えになってしまうことです。何度か話したことがありますが、今キリスト教の結婚式で、妻と夫への教えの時、大方の牧師はエフェソの5章22節「妻達よ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」は読まれなくなったそうです。もし使っても説明して使うようになったと言われています。実は私も結婚式の時には、違う箇所になっています。
 それは当然こととも思います。自動車の性能が上がっているのに、いつまでも制限速度を20キロしていては誰も守らず意味を無くします。状況をみて30キロ、40キロにしていくのです。しかし当然ですが、カーブであるとすれば、これが60キロとか70キロには決してなりません。
 聖書もまた、状況を無視して、書いているのではありません。実はよく読むと「主を信じる者に相応しく」とあります。原文直訳は「主に近くある者」という意味です。主イエス様に近い者として、妻は夫に仕えるのです。この仕えるですが、これも多くの女性の方はひっかかるかも知れません。これは「下にある」と言う意味です。女が男の下とは何事かと怒られるかもです。しかし問題はパウロは神の国を、直接にこの地上に造ろうとしていません。神の国は、神様がもたらされるのです。神様が自分の時と時期を、ご自身の自由に決めておられるのです。したがって聖書はこの世の秩序を無視しないのです。むしろこの世は神様の被造物であり、天地創造は主によって、よしとされたところから始まりました。

 新約聖書は、この世の秩序を無視せず、しかし「主を信じるものに相応しく」との基準を付けたのです。実はこの「主を信じるに相応しく」とか「主にあって」とかはとても大切です。ローマ書13章1節にも「人は皆、上にたつ権威に従うべきです」とあります。この時パウロは「神に由来しない権威はなく」と続けて書いています。つまり、上に立つ権威に従うべきですが、神に由来しない権威、神に反抗する権威が出てくれば、これはサタンとなり、これに抵抗することができるのです。いやむしろこれに抵抗しなければならないとなります。
 新約聖書は注意深く読んでいかないとただ「上に従え、夫に従え、両親に従え、主人に従え」としか言わないと読んでしまいそうです。しかし注意深く読むとそれは、夫が、両親が、主人が、神にあって正しくあるのかによるのです。家庭内暴力をもって振る舞う夫には、全く「仕える」必要がないです。もし両親が、神様の教えに悖る、反対することを強要するならそれは「従う」対象になりません。同じく、全く理不尽な、理屈に合わない業や仕事をさせる主人・社長には、これまた従う必要はありません。さっさか止めなさいとなります。これはもちろん今だからですが、コロサイ書の当時は、奴隷は簡単にその身分を変えることは出来ませんでした。

 ただ、実はこのコロサイ書3章に示される教えは、もうひとつ大きな特長があります。それはこの家庭訓の教えは、まず妻に、まず子供に、まず僕・奴隷達から語りかけていることです。これは実は当時のギリシャ哲学者達の家庭訓には珍しいとされています。同じような教えを当時の通俗哲学者ストア哲学がなしていたとされます。しかしそれはまず男から、まず親から、まず主人からであったとされています。それは当時の通俗哲学では女、子供、僕は、自分で自分のことをコントロール出来ない者つまり動物と同じような見方をされていたのです。つまり理性を働かせることが出来ない者だったのです。今考えると酷い話です。しかしそれは聖書の中にも入りこんでおり、有名なイエス様の5000人の給食は例えばマルコ伝6章44節には「男だけで5000人だった」と書かれています。女性と子供がいたはずですが書いて無いのです。
 ところが本日のコロサイ書3章、エフェソ6章21節以下、第1ペテロ2章18節以下は、当時人が下位のもの、人とされないと考えていた者、女性、子供、奴隷・僕から先に教えを成しました。これは神の言葉に応答できる、言葉を聞くことができると考えたと言うことです。これは、とても大切なことと思います。確かに教える中味は、当時の当たり前の通俗哲学にあるものでした。「夫に仕えよ。両親に仕えよ。主人に仕えよ」です。しかしその教えの根底には、全く新しい世界の希望、萌芽、神の国の平等と公平が、すでにあるのです。女性、子供、奴隷・僕達こそ、神の声を聞くことができる、聞く者となる、という大前提があるのです。

 最後にこの家庭訓の教えは、22節からの僕と主人の教えが、妻と夫、子供と両親の教えより圧倒的に多くなっています。さらに気づくのは、主人よりも僕・奴隷達への教えの多さです。明らかにコロサイ教会には自由人でなく、奴隷・僕階級の人が多かったのです。そしてパウロは、この奴隷・僕達に3回も、「主を恐れつつ」(22節)、「主に対してするように」(23節)、「主キリストに仕えている」(24節)と、キリストにあって、キリストによって、キリストのために歩むことを勧めています。
 実はコロサイ書の聖徒達は、2章1節にはパウロは「直接にあったことがない」と書いています。またしかし2章5節には「私は体では離れていても、・・・キリストにある固い信仰を見て喜んでいます」と書いています。コロサイ書は4章18節に「私(パウロ)が囚われの身」すなわち獄中書簡であることを示しています。パウロは獄中からコロサイ教会の様子を聞き、そして手紙したのです。獄中にいるパウロにとって僕・奴隷の人々が多いコロサイ教会は、自分の身に置き換えて、親近感があったのだと思います。またコロサイ教会をなんとか支えたいと思ったのです。

 コロサイ書の中心は、本日の聖書の直前3章17節であろうとされます。そこには「何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝せよ」となっています。パウロはすべのことをキリストにあって、キリストによって、キリストのためになせと言ってるのです。それはキリスト・イエス様が私の罪を背負い、赦し、復活して共に歩まれる神様だからです。
 今日は母の日です。私達は自分の存在を母と父に負っています。そしてそれを支え導かれる主なる神様、イエス様に負っています。読みませんでしたが、4章1節には主人に向かって「あなたがたの主が天にいる」と書いています。今の制度では私達は一人一人自由人です。しかしそれは、神の僕にあっての自由人です。ここを忘れるとまたサタンの奴隷になるのです。主にあって、妻を愛し、夫を愛する生き方を貫き、歩むことが赦されています。
 
 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。新型肺炎が蔓延し、多くの方が罹り、命を落としています。どうか1日も早くウイルスを終焉させてください。14日には鹿児島では緊急事態宣言が解除される予定です。またもう少しかかるかもしれません。しかしどうか主の導きを与えてください。病気療養の方、支えてください。・・・兄の回復、・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂と健康を導きください。子ども園、児童クラブの働きを守ってください。どうか今日からの1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

祈祷会奨励 使徒言行録2章1〜13節        2020年5月6日(水)
 讃  美  新生262番   み言葉よくだりて
 聖  書  使徒言行録2章1〜13節   P.214〜5
 奨励朗読  「 いったい これはどういうことか 」
 讃  美  新生263番   満しめたまえ み霊を
 祈  り  祈りの課題5月号 
 黙  祷  各 自   
  
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために、集まっての祈祷会をなすことはできません。祈祷会も集まらない祈祷会が5回目となっています。全国の緊急事態宣言も5月31日まで延びました。しかし鹿児島のようにそれほど罹患者が多くないところは、独自の対応でよいとなっています。県知事さんはおそくら鹿児島県の別の対応を出されると思われます。それにしても多くても少なくても1日も早く集まって祈る祈祷会をなしたいものです。
 祈祷会の聖書は、いつものように祈祷会は『聖書教育』を使っています。本日の聖書の箇所はいわゆる聖霊降臨ペンテコステの出来事のところです。この言行録2章は、教会の誕生日ともいわれ、この体験をもとにして、いよいよ教会はイエス様の伝道を始めるのです。
 1節には、この起こった時が書かれています。それは五旬節の日が来たとなっています。すでにご存じの通り、初代教会の時代は、ユダヤ人達は、過越祭これは太陽暦では3、4月にあたります。次に仮庵の祭り、これは太陽歴では9,10月にあたります。そしてこの五旬節を、太陽暦では5、6月ですが、守っていたとされます。これらはユダヤの3大祭りとされ、過越は出エジプトの出発を、仮庵は荒野の40年を、そして五旬節は、基本は農業の祭りで春の収穫祭の意味をもっていました。申命記16章にあります。そしてこれもご存じと思いますが過越祭と仮庵祭は、7日間祝われる大切な祭りであり、五旬節はペテロ時代は1日間だったとも言われています。
 しかし五旬節は、その後2世紀になると荒野でモーセから十戒を受けた日、律法授与の日として祝われるようになったとされます。しかし言行録2章を読んでいます。多くの人々がごったがえしており、すでに五旬節はこの時代に、単なる農耕の祭りから、かなり大切な祭りになっていたのではとも思われます。
 書いてある通りに一同は1つになって集まっていました。書いてありませんが、ここはやはり12使徒、弟子達、女の弟子たちが祈っていたと考えていいでしょう。この直前の記事は、11人がユダの後を決めるためにくじを引き、マティアがユダの代わりになったことが書かれています。初代教会は、12使徒を補充して、復活のイエス様の約束を待っていたと思います。言行録1章4節には「父の約束されたものを待ちなさい」と言われていたのです。
 聖書を読んでいますとこのように「主の時を待つ」ということが多くできてきます。本当に待つことは大変です。40日目に復活の主が昇天され50日目の五旬節に聖霊がきました。弟子たちは10日間待っていた、祈っていたということになります。サムエル記上13章8節にサウロ王がペリシテのとの戦争に出かける時、サムエルの来るのが遅く、7日間待ったが待てず、自分で燔祭を捧げて、サムエルから怒られ、王から退けられる預言を受けたことがありました。ペリシテ軍が迫っているに7日間も待たされたらたまったものでありません。サウロ王は我慢ができなったのです。しかしサムエルは、待つべきだったといいます。
 私たちも礼拝と祈祷会の再開を待っています。本当にあと1ケ月も伸びるのは困ったものです。鹿児島だけでも宣言を解除してほしいです。しかし、新型肺炎の感染力と死亡率をみるとご高齢の方には確かに危ないです。また自分ももうかかっているかもしれません。時をじっと待つことを示されます。

 2節にあるように、すでにごご存じの通り、突然激しい風が吹いてきました。聖霊降臨は、聖書教育にもありますが、3つのイメージがあると書いています。一つは突然の激しい風です。2つは炎です。3つが舌という他の国々のことばです。
 この最初の突然の風と炎ですが、これは旧約聖書からずっと神様の現臨のしるしとされます。エリヤがシナイ・ホレブ山で、神様の声を聴いたとき、列王記上19章11節です。ここには「激しい風が岩をくだいた」とあります。また炎の火は、モーセが十戒を頂いたシナイ・ホレブ山は火が、けぶったとされます。出エジプト19章18節です。こうして、言行録は風と炎の内に、聖霊がくだったことを書いており、ここには神様の臨在をしめしているのだと言われています。
 しかし私はむしろここで「突然に」注目したいです。聖霊降臨は、弟子たちが願っていたと思います、祈っていたと思います。しかし来たらせてくださるのは、弟子たちの思いがあったのですが、主導はやはり神様です。神様がもたらされるのです。これは神様の国の復興を弟子たちが聞いた時、言行録1章7節に「時や時期はあなた方の知るところでない」と言われたことに平行します。私たちは何事も、神様ことは、神様が先導され、神さまがなさることを、謙遜に待ち、祈り、そして準備するのだと思います。聖霊降臨はまさに祈るしかなかったと思います。そして祈って待ったのです。そしてその時が来ました。聖霊降臨はこうして、またも神の時を祈って待つ、なすべきことをなして待つことを教えています。
 新型肺炎はある意味で突然でした。だれも予測できません。私たちはこのようなことがあるのだと思います。ただ100年前に過去にスペイン風邪があり、その前にペストがあり、聖書にもよく読むと神様がダビデ時代に、又エレミヤ時代に、疫病を裁きや怒りの道具に用いられたことがあります。地震に似ていますが、私は自分たちの被造物としての限界を知らされます。

 4節には起こったできごとです。それは舌のようなものが一人一人の上にきて、他の国の言葉を語りだしたというのです。7節には、世界中から神殿に集まってきた人たちが、めいめい自国の言葉で、神様の偉大な業を聞いたとされます。いったいどんな奇跡だったのかと思います。9節から11節の書いてある地方名は、東から西に、イスラエルを囲むように国々と民族が書かれているとされます。実は、これからペテロやパウロが伝道にでかける場所であるとも言われています。つまり聖霊降臨において、これから世界中にでかけるひな型がしめされているとも言われています。
 もちろんここには、極東の端である日本はありませんが「他国ことば」に、日本語もあったのだろうかと考えると楽しいです。主は、すでに最初の聖霊降臨日に、全世界に広がることを示しておられたのです。そしてこれは、マタイ伝28章20節のひな型でもあります。「全世界に出ていく」姿です。

 13節にはしかし、この出来事を聞き、見た人の中には、「新しい酒に酔っている」とあざけったともあります。イエス様も何度も、その教えと業をあざけられています。主の教えは祭司長、律法学者、パリサイ派のように特に当時の主だった人に馬鹿にされています。主の教えはいつも、常に全員に理解されるとは限りません。むしろこうして反対や嘲りのあることが言われます。そしてその中で、福音は伝えられていくのです。福音はこうして神の活動がなされ、これに応答が起こり、それはいつも抵抗があり、しかしそれでも主の御業をなすために悪戦苦闘されて、前進していくようです。最初からいい答えや、良い方法、よい評判は、ないのだと思います。
 主はこのように、福音の進展を、妨げの中におかれ、しかし前進されるのです。これは、私たちが簡単に意気消沈しないためだと思います。新型肺炎の中、礼拝も集会もできず、集まっての祈りもできずです。あるテレビで、私たちは教科書に載る時代を生きていますと言われていました。確かにと思います。しかしキリスト者は、この時に、じっくり祈り、こうして主の時を待つのだと思います。聖霊降臨を祈って待った弟子たちに続きたいと示されます。主の十字架の恵みと主の赦しが与えられました。じっと時を待つのだと示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。緊急事態宣言は、5月末まで伸びました。しかし地方に裁量を認めています。どうか時を備えてください。いつも祈る方々、病気療養の方・・・兄の回復を感謝します。・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブは保育が続いています。児童クラブは来週から通常保育となります。先生方、支援員方、乳幼児、学童の保育を守ってください。どうか、教会員一人一人の健康、信仰を守り、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」 
   説教  マルコによる福音書16章14〜20節   2020年5月3日
           「 主も共に働く 」 
 本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めに礼拝(家庭礼拝)ができますことを、心より主に感謝致します。皆様と一緒に礼拝できませんが、主に赦された私的な礼拝の時を、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 緊急事態宣言が4月7日に首都圏と感染が多い大阪、福岡地区に、又4月16日に全国に鹿児島を含めて出され17日目になりました。鹿児島の小中高生は、来週の5月11日から登校開始となっています。鹿児島の緊急事態宣言の解除とどのように連動するのかですが、小学校が開始されれば事態宣言解除も近いのではないかと思います。もちろんまた増えて宣言強化になるかも知れません。先が見通せないのは、辛いですが、ここはどこか、復活から聖霊を待つ弟子達、じっと神様の時を待つ弟子達の姿に重ねていいのではないでしょうか。巷には、夜の明けない夜はないとか、雨の上がらない雨はないとかいいます。それはそれでいいのですが、聖書は、やはり「全てのことに時がある」コヘレト(伝道の書)3章1節でいいのではないかと思います。
 特に、聖書では第2サムエル24章、歴代誌下20章では、戦争、飢饉、疫病を神様の裁き、怒りすなわち警告としています。それならなおさら私達は、主の裁きは恵みの始まりとして、むしろきちんとこれを受けて、右往左往しつつ、しかし主を見上げて行くのだと思います。第2次世界対戦の時に、キリスト教会が馬鹿にされつつも、しかし祈りにおいて熱くじっと耐えたように、また韓国のキリスト教が、日本の迫害にあいつつも耐えたように、そして日本自身のまた2つの原爆と沖縄戦、敗戦からなんとか立ち上がったように、歩むのだと思います。
 韓国が、意外と上手に新型肺炎から立ち上がり、済州島はものすごい人だかりで、日本では誰も韓国を手本にしろと言いませんが、徹底した検査が良かったとも言われています。とにかく裁きを今受けているのですから、これをきちんと受けるべき時であります。学校を9月入学にする、憲法改正などと脇目をふらずに、新型肺炎にきちんと対応し、十字架のイエス様を知らされた私達は、ここに留まり祈るのです。

 さて聖書は緊急事態宣言の中に、いつもと違ってイースター(復活祭)からずっと復活のイエス様の働きから聞いております。本日はマルコ伝16章14〜20節から聞いていきます。恐らくここは多くの方が滅多に聞いたことがない聖書だと思います。というのは本日の箇所は、すでに前の1954年訳の前の口語訳聖書、1963年からの新改訳聖書の時も大括弧に入っておりました。共同訳聖書も当然大括弧にいれています。すでに聞いたことがあると思われますが、実はこの括弧は、マルコ伝の最も古い写本群にこの16章9節以下がないのです。この9節以下の大括弧にはいっている部分が最初でてくる写本は、なんとやっと7世紀の写本からなのです。
 もちろんマルコは書いた、しかしその写本がなかなか見つからず7世紀まで経過したとも言えます。しかしさらに9節以下の文体や用語から、やはりマルコ自身ではなかろうと言われているのです。それではなぜ9節以下があるのかですが、マルコ伝が8節に余りにも突然終わっているので、マルコの弟子達がマタイ、ルカ、ヨハネ等を読み、又自分達が聞いた伝承を用いて、その後の復活のイエス様の姿の要旨を書いたと言われています。7世紀からの写本にこの9節~20節以下がでてきますので、教会は、これを神のことばマルコ伝として受け止め伝承してきたのです。
 以上のような訳ですので、なかなかここから説教するのは、ないかと思うのです。マルコが書いたかどうかという箇所からよりも、きちんとマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネが書いた箇所があるのですからそこから聞いた方がいいとなります。しかし今回復活のイエス様の働きということで機会を与えられて、共に聞いていきます。

 まず14節には、イエス様が11人の食事の時に現れてくださいました。ここはほぼルカ24章41から43節のまとめの報告ということができます。しかしここにはルカ伝にはない「弟子達の不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。イエス様が弟子達の信仰を咎めたというのは、ここだけだとされています。イエス様は確かに、マタイ伝14章にぺテロが、ガリラヤ湖の水の上に沈むとき「なぜ疑ったのか」と怒られました。マタイ伝16章でペテロが、主の十字架を理解しなかった時「サタンよ、引き下がれ、あなたは私の邪魔する」と戒められました。マタイ伝20章に、十字架を目の前にして、弟子達が、誰が偉いのか議論した時「仕える者でありなさい」と諭されました。マルコ伝9章で弟子達が霊を追い出せない時「なんと信仰の無い時代か」と嘆かれました。確かに怒り、戒め、諭され、嘆かれましたが、イエス様は弟子達の信仰を真正面から咎めたことはありませんでした。
 しかし、ここには不信仰と頑な心を咎めた、とあります。ご復活の主を目の前にして、弟子達すなわち私達は、主を信じる事が出来ないのです。その時、主は、私達の前に立ってくださるのだと思います。この咎めは、ヨハネ伝3章18節がいう「信じないものはすでに裁かれている」に似ていると思います。すでに主が十字架に付き、私達と共に歩み、復活し、聖霊を送ってくださっている。それでも信じることが出来ない。これは、神さまに責められるというよりも、自分が、自分を神様から引き離している状態といえましょう。人に責められる前に、自分が自分を落としているのです。
 私達はどこか、人に責められ、人に裁かれる前に、自分で自分を裁いてしまっていることがあります。他人はしっかり頑張っておられて、それで十分だと判断しているのです。しかし自分が自分に良き評価ができないのです。パウロは「自分は自分を評価しない」といいました。第1コリント4章3節です。最終判断者、最終審判者を知ることは、大きな恵みです。最後は主が決められる、私たちは判断を主に委ねて、生きるのです。

 15節には、有名な大宣教命令があります。これはマタイ伝28章19,20節のまとめであると言われます。しかしよく読むとマルコ伝の独自性があるのです。それは、マタイ伝では「全ての民」となっていますが、ここでは「全て造られたもの」となっています。これは創造物全体という意味です。マルコ伝の伝える復活のイエス様は、マタイ伝の「全ての民」から「神の創造物全体」に伝えよ、となっています。つまりマルコ伝は福音の宣言に、全宇宙を射程に入れているのです。人間以外に誰が聞くのかとも思います。しかし、被造物全体に、は大きな射程の変更です。
 確かにオーバーな言い方かも知れません。しかしどうなのか。今回の新型肺炎蔓延も終わってから多くの発生の原因の研究が出るでしょう。その時、今すでに言われていますが、なぜ、この時にウイルスが変異し蔓延したのか。気候変動を原因に言う人がいます。アメリカは中国説、中国はアメリカ説をいいます。しかし便利な生活、便利な行動が、変異を赦したという考え方もあります。原因は分かりませんが、今まで通りの生き方でいいのだ、とならないでしょう。ますます二酸化炭素を出さない、エネルギーを使わない世界、温暖化を止める、無駄をしない生き方が求められます。自己中心の罪、人間中心の罪が問われているのです。

 最後に、17節と20節に、信じる者のしるしが言われます。これは普通は、しるしを求める信仰は、イエス様からマタイ伝12章、16章には「ヨナのしるし以外は与えられない」と言われました。またマルコ伝8章12節には「今の時代のものには決してしるしはあたえられない」と言われました。しるしは、信仰者が自ら求めることではないのです。しるしを求める信仰は、主が言わるように、どこかおかしいのです。自分からしるしを求める信仰は、イエス様からも拒否されているのです。ヨハネ伝20章のトマスが典型です。「見ないで信じる者は、幸いである」と言われました。
 しかしそれでも神様のからのしるしが起こるのです。ヘブライ書2章4節には「神もまたしるし、不思議な業、様々な奇跡、聖霊のたまものを御心に従って分け与えて、証ししておられる」とあります。つまり自分から求め、自分が自分を証明するのでなくて、神様がなしてくださるしるしがあるのです。自分で作る作為のしるしでなくて、主から与えられるしるしがあるのです。つまりしるしとは、自分が求める時には起こらない、しかししるしを諦めて、ただ神の御心に従う時に、向こうから起こるといえるでしょう。「私の為に命を失う者は、それを救う」マルコ8章35節という形です。
 マルコ伝16章17、18節には、5つのしるしを示しているといわれています。1,悪霊を追い出し、2,新しい言葉を語り、3、手で蛇を掴み、4に毒を飲んでも死なず、5に病人に手をおけば直るです。これはすべてイエス様とパウロがなしたことであるとも言われています。それぞれに象徴的な意味があります。
 まず悪霊を追い出すです。主は確かに多くの悪霊付の方の悪霊を追い出されました。これは今の精神疾患のみでは有りません。確かにそれも入りますが、それに留まらないのです。今は新型肺炎が目の前にあり、礼拝、祈祷会ができず、集会が出来ません。しかし本当の闘いはどこにあるのかです。聖書は確かに戦争、飢饉、疫病を神様からの裁き、怒りとしてしめしています。実際に罹っている方、もしかして自分も明日にも罹る時は、疫病と戦うしかありません。しかし本当の闘いとは何であるのか。
 戦争や飢饉や疫病が足下にも及ばない闘いがあるのでないか。目にみえませんが、あると思います。それがサタンとの闘いであり、罪との闘いです。それは戦争、飢饉、疫病のとの根底の闘いです。「私達は、血肉を相手にするのではなく、支配と権威と、暗闇の世界の支配者、天にある諸霊を相手にするものなのです」エフェソ6章12節です。私達は具体的に戦わないと行けないのです。しかしその背後にあるものを忘れては成りません。相手を赦せない力、認めようとしない力、目の前に捕らわれると全体を忘れることがあり、霊の力を見くびることがあるのです。具体的に戦いつつ、しかしその背後の霊、悪霊か聖霊かを見ていることが大切です。

 2番目にある新しい言葉は、まさにそれに気づかせる言葉です。アフガンの中村哲先生が、アフガンではお医者では救えない。用水路工事、農業を復興させないと根本が支えられない、アフガンは救われない、とされたことです。しかしそれは現地に行かれて、そこで生活され、そこで現地の方から、向こうから気づかされたことでした。貧しい人を救いたいの理想ではどうにもならないことなのです。
 次の蛇を掴み、毒を飲んでも死なず、病人に手をおけば癒されるとは、言行録でパウロがしたこととされます。これらは2世紀のキリスト教が具体的に体験していたことであろうとされています。しかし今私達は、このようなしるしをそのまま求めません。主の御心であれば、そうことがあるだろうと言うことになると思います。
 今はむしろ、ヨブのように主の取扱を受ける時なのだと思います。主が十字架につかれて、弱さの中に沈まれ、体験されたようにです。しるしは、おそらく後から分かるのだと思います。主の導き、罪の赦しの奇跡を信じ、じっと成すべき事をして耐えるときなのではないかと示されます。隣人と共に、赦し、認め、支えていく。復活の主が共にいてくださる。この確信をもとに、今週も祈りつつ、歩みます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。新型肺炎は相変わらず蔓延中です。どうか一日も早く収まり、緊急事態宣言の解除を祈ります。続けて病気療養の方、入院の方、ご高齢の方、支え導き守ってください。子ども園と児童クラブは続けて開き、人数は半分になっていますが、支えらえています。先生と支援員、幼児、学童を守ってください。1週間復活の主と共に歩ませてください。み名よって祈ります。アーメン」


 早天祈祷会 歴代誌 下 20章1〜12節 早天祈祷会   20200501
 賛美歌は、新生430 静けき祈り
 2020年も早いもので4月を終わり、本日から5月1日で5月の歩みとなります。今年は、新型肺炎でどうなるか予断をゆるしませんが、5月一杯、事態宣言は続くらしく、遅くても6月には礼拝祈祷会ができて、10月当たりから会堂建築にかかりはじめるかと思います。どこまで早天礼拝ができるかですが、先月も申しましたように、幼稚園の行事にかかっていなければ、朝の6時半からですので、幼稚園の図書室等を用いて、毎月1日の早天祈祷委会を続けていきたいと示されています。
 いつものように、早天祈祷会は、民数記28章11節にある「毎月の一日の捧げもの」の集会にヒントを得て、早天の祈りを献げます。民数記28章11節によると全部で10頭の動物犠牲の献ものをしました。大切な集会であり、祈りであったと思います。新年度も又早天祈り会は「祈り」という言葉のでてくるところを拾いつつ、2020年度も又祈りの聖書の個所から聞いて、祈りの献ものを致します。

 本日は、歴代誌下7章のソロモン王の神殿奉献の祈りが終わり、歴代下20章ユダの王ヨシャファト王の戦い、勝利と言われるところです。ヨシャファト王は、ソロモン王の後、イスラエルが北と南に分裂して、南のユダの4番目の王様になります。時代は紀元前873年から849年とされ25年間王でありました。北イスラエルは、その時アハブ王で、すでに預言者エリヤが活躍していたと思われます。しかし歴代誌には預言者エリヤは出てきません。今日は読みませんでしたが、20章14節には、ヨシャファトの祈りに神様が答えたのは、レビ人のヤハジエルとなっており、歴代誌は預言者よりも、祭司、レビ人達がよく活躍します。

 1節から見ていきますが、6節に、ヨシャファトの祈りがありますが、この祈りは、モアブ人とアンモン人そしてメウニム人が、エルサレムに攻めてきたとされています。モアブとアンモンは、実はイエスラエルの兄弟民族で、創世記19章にはアンモンとモアブは、アブラハムの甥、ロトの近親相姦による子孫であるこことが書かれていました。モアブ、アンモン人はイスラエルの東の地域におり、メウニム人はエドム人と一緒とする説もありますが、南の違った民族という説もあるそうです。ここでは、イスラエルが東と南から攻められたということです。

 2節にエン・ゲデが出てきますが、これは死海の真ん中付近の西岸にある町です。ここにモアブとアンモン人、メウニム人の軍隊は集結したようです。3節に、ヨシャファトは恐れて、主を求めることを決意し、断食を布告します。すると4節に、エルサレムのみならずユダのすべての町から主の神殿、エルサレム神殿に集まりました。そしてヨシャファトは祈りました。
 実は、歴代誌の記述は必ず、列王記にあるのですが、この20章のモアブ、アンモン、メウニム人との戦いは、歴代誌のみの報告となっています。つまり歴代誌の独自の伝承があったとされています。しかし列王記のユダとアラムの戦いの伝承が、この中にあるとも言われています。
 実は、ヨシャファトは、歴代下18章においては、北イスラエルのアハブ王に誘われて、組んでアラムと戦おうとしたことがありました。しかしこの時はアハブ王に戦いを誘われていますが、結論から言うと敗れています。この18章には預言者ミカヤの働きもあり、何度も誓わせてようやくこの戦いが負けるとの預言を引き出した話があります。19章では、先見者イエフによって、アハブ王と組んでアラムと戦った戦いを、「主を憎む者の友となるのは何事か」と言われています。大きな流れからいくと20章のヨシャパトの戦いは、同盟を排して、主にのみ頼り、祈りによって、道を開くヨシャパテの信仰を伝えていると言えます。

 6〜12節が、ヨシャパテの祈りの内容になっています。6〜8節が、過去の神様の働きを語っています。祈りには、お願いの要素があり、すぐに必要を祈っていいのです。しかし主の祈りも最初に「天の父よ、み名があがめられますように」とあります。自分が祈る前に、自分が祈る神様の姿を語るのは適切なことです。読んで分かる通りに、ヨシャファトは、これまでの主の導きの歴史を語っています。ヨシャファトはアブラハムの選びとソロモン王の神殿の建設まで導いてくださった主をたたえています。私たちもそういう意味では、主が、神の国を教え、十字架に付けられ、復活して共におられる神様に呼びかけるということを示されます。

 9節には、祈りをする理由を示して祈っております。そこには「裁きとしての剣、疫病、飢饉の災いに襲われたなら」とあります。改めて歴代誌は、剣すなわち戦争と疫病、飢饉を主の裁きとして受け止めたようです。「苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます」と祈っています。祈りは、もちろん神様の御心を求めていくのですが、しかし同時に、苦悩の中からとあるように、切羽詰まった状況、苦難の状況からの祈りがあることを示しています。というか、私たちは自分の弱さと罪のゆえに、本当に真剣に祈りだすのは、こうして自分の危機の時なのかもしれません。「あなたはそれに耳を傾け救ってください」と祈っています。

 次に10〜12節には、祈りの根拠というか、どうしてこの祈りを祈るのか理由と共に、その祈りをしていい根拠を示しています。祈りはそのまま祈ればいいのです、しかしヨシャファトは、あえてこの祈りが正しい祈りであること、祈りに正しいとか正しくないとかは本来はないでしょう。しかしアンモン、モアブ、セイルの山の人々、これは先ほどはメウニム人でしたが、この民族に、イスラエルは何も悪いことをしていないと祈ります。
 10節の出来事は、民数記21章と申命記2章に書かれています。神様は約束の地カナンの地に入る時に、イスラエルにきつくアンモンとモアブの地は与えない、彼らを敵としてはならない、彼らに戦いを挑んではならないと言われていました。イスラエルは主の命令を守り、アンモンとモアブ、それにエドムの人々と戦わない作戦を立てました。公道をまっすぐに通るので通らせてくださいとお願いしたのです。食物は金を払い、水もお金を払いますとまでしています。モアブ人はそれを赦してくれたのですが、バシャンのオグはこれを赦さず、戦争になって、イスラエルはその領土をとったとあります。
 今ここで、ヨシャファトは、この時アンモンとモアブの民は残され、セイルの人々エドムも残されたのに、今になって戦いを挑んできたのですと祈ります。ここはある意味で、正義はイエスラエルにあるのですと言うことでしょう。12節の「私たちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか」と祈っています。これは、今はパレスチナ問題を含めるとなかなか難しい問題です。しかし、ヨシャファトに時代は、土地取得を紀元前1200年ごろとすれば、350年後の紀元前850年ごろですので、ある程度正しかったのです。
 こうして、ヨシャパトの祈りは、1つに神様の今までの働きを述べる、2つに今の自分たちの困窮、苦難つまり剣である戦争になりそうなことを述べる、そして、3つめにこの戦いは、正義の戦いであり、謂れのない戦いを仕掛けられていることを述べています。そして、このヨシャパトの祈りは聞かれたのです。

 この後は読みませんでしたが、主は、20章15節にこの戦いは「主の戦い」であると言われています。つまりヨシャファトの祈りを受け入れてくださったのです。この主の戦いは、聖書にそう多くありません。主の戦いの最も典型は、士師記19、20章のベニヤミン族の蛮行といわれるところです。ベニヤミン族の中で、罪のない娘を殺すことにおいて、イスラエルの11部族はミツパの主の前に集まり、ベニヤミン族に戦いを仕掛けています。実は主の戦いはほとんどが守りであり、自分たちの罪をただす戦いになっています。
 敵とやみくもに戦う領土拡張の戦いは、主の戦いになっていません。この後は14節にレビ人のヤハジエルに言葉が望みます。そして、イスラエルに攻めてきたモアブ、アンモン、セイル人の軍隊は味方同士で相打ちして滅んでいます。主の戦いの時は、大体において、相打ちで滅びることが多いです。人の力でなくて、神様が戦ってくださったことを知らせるためとされます。
 こうしてヨシャファトは守られ、その戦いの場所はベラカ(たたえる)とされたと26節にあります。主が祈りに答えてくださったのです。今も、新型肺炎のために、多くの主の民が祈っていると思います。罪の赦しを受けて、罪を告白し、主に新たに仕える時としたいです。

 祈ります「天の父よ、今新型肺炎の中で、礼拝祈祷会を休んでいます。どうか主が導き守り、支えてください。歴代誌もまた疫病を、主の裁きとして受けています。どうか、私たちが罪の赦しの中で、罪を悔いて、方向転換し、また新しくあなたにつかえる者としてください。続けて病気療養の方、ご高齢の方、子ども園の先生と園児、児童クラブの支援員と学童を守ってください。み名によって祈ります。アーメン。」



 祈祷会 説教  使徒言行録1章3〜11節      2020年4月29日
 讃  美  新生4番     来たりて歌え
 聖  書  使徒言行録1章3〜11節   P.213
 奨励朗読  「 約束されたものを 」
 讃  美  新生260番   み言葉もて霊の火を
 祈  り  祈りの課題5月号 
 黙  祷  各 自      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために集まってなす祈祷会を4回ほど休みました。25日の執事会では、鹿児島の緊急事態宣言が解除されてから祈祷会・礼拝開始としました。最速では5月10日に礼拝、祈祷会は5月13日からとなりそうです。しかし予断は許しません。解除が遅れるかもしれません。5月全部というのはないかなと思いますが、6月一杯までかかると言う人もいます。これはある意味で、弟子たちが約束の聖霊を待つのに似て、その時を定めるのは、神様しかおられないということだと思います。祈ってじっと待ちましょう。
 祈祷会の学びは、いつも『聖書教育』からですが『聖書教育』の学びは、使徒言行録の学びとなり、5回となっています。今回は1章、2章、3章、8章と10章になっています。ちょうど、パウロが救われところまでとなっており、ペテロの伝道に焦点をあてて学ぶということだと思われます。本日は、その最初で復活のイエス様が昇天され、その使命の委託をペテロ達、弟子たちにされるところです。そしてここには、父の約束を持つこと、約束の聖霊を待つというテーマになっています。

 3節から聞いていきますが、復活の主は言行録では40日間、弟子たちを教えられています。これはマタイ、マルコ、ヨハネ伝にはない報告で、ルカ伝と言行録のみがなす報告です。ルカ伝と使徒言行録は医者ルカが書いたとされ、ルカだけが復活のイエス様が体をもって40日間弟子たちを教えられたとなっています。ルカが復活のイエス様が40日間弟子たちを教えたというのは、ルカが復活の体の体性を非常に重んじたからでしょうか。
 ルカはお医者さんだったとされています。復活が単なる霊のからだの再現、亡霊の体の復活のようなものでなくて、ルカ伝24章43節にありますが「魚を食べてくださったこと」を、ルカは伝えています。復活が具体的なことであり、本当の体のよみがえりであることを、ルカは示したかったのです。実はパウロも又、第一コリント15章44節に「自然の命の体で撒かれて、霊の体が復活するのです」と書いています。ルカもパウロも復活の体に非常に固執しています。これはおそらく当時のギリシャ世界において、肉体を軽んじ知識が重んじられる中で、キリスト教がどうしても譲れなかったことでありましょう。知識でなくて信仰であり、信仰は体をもった交わりであり単なる認識ではない。礼拝もまた体をそこに運びいれて、主を信じなすものである。新型肺炎の恐ろしさは、体と体との感染であるがゆえに、このような人間のつながりを切るところにあると言っていいでしょう。又信仰のすごさは、単なる理性の承認ではなく、自分の体をもって奉仕し、担い、仕え合う、愛するところにあるのです。これは非常に現代にもマッチします。ルカはギリシャ人でありつつ、イエス様を信じていました。ギリシャ的な知識の弱点をよく知っていたのだと思われます。復活のイエス様の信仰とは、知的な理解でなくて、愛であることを示すのです。愛は一人では決して成立しません。相手がいるのです。

 4節には、復活のイエス様が「父の約束されたものを待て」と言われています。私たちはヨハネ伝を読んでいます。そこには、これは主が与えられる聖霊であろうと予測ができます。しかしヨハネ伝20章22節では、復活のイエス様が弟子たちにすでに「聖霊を吹きかけた」となっていました。しかしここで復活のイエス様は、約束されたものを待ちなさい、と言われています。私たちは聖書の記述で「すでに与えた、しかし待っていなさい」や「罪赦されたことに生きなさい、なぜなら罪が赦されているから」とか「良き業をなしなさい、なぜなら良き人にされたから」とか、順序がうまく合わない教えに突き当たることがあります。「良き業をする人が良き人、正しいことをする人が、正しい人」だと普通に考えます。しかし聖書は「神の子とされたので、正しく生きなさい」となります。「正しく生きる人が、神の子です」とならないのです。「聖霊を与えられているから、ここで聖霊を待つ」のです。
 聖書の信仰は「まず恵みが与えられた。それに対する行動に生きよ」となります。これはけっして「良き行動をしたから、よき恵みを与える」とならないのです。聖霊を与えられた、だから聖霊を待つというしくみです。分かりにくいのですが、信仰の大切な部分です。「良き業をするから、由とされるのでない。由とされたから、良き業に生きる」のです。これは信仰を誇ることなく、ただ淡々と信仰に生きる本質です。
 究極において、私たちは主の恵みに生かされて、事をなすのであって、良き生き方が、主の恵みをもたらすのではありません。だから決して自分を誇れないのです。いつまでもキリスト者は「私は取るに足りない僕です。なすべきことをなしたにすぎません」ルカ伝17章10節なのです。信仰は神の時を待つことです。もちろんじっと待つのでなく、しなければならないことをしながら待つのです。敢為なくして、あえてすることなくして、何も得られません。しかし、それでも主の恵みに答えてなすのです。父からの聖霊を待つ、神の時をじっと待つ。これは信仰です。

 6節には、ルカが伝えるイエス様の地上最後の言葉になっていきます。弟子たちは「神の国の復興はこの時ですか」と聞きます。又も弟子たちはイエス様の言葉を聞いていませんでした。今しがた「父の約束を待ちなさい」と言われたのですが、全く理解しません。弟子とすれば、イエス様が復活した今こそ、神の国の復興の時でないか。ここが神様の時に間違いないと思ったのです。死人がよみがえる。これ以上の証があるのでしょうか。こんな素晴らしい出来事をもって、人々はイエス様に集結して、ここから神の国が始まるのでないでしょうか。復活のイエス様は、ローマ帝国の支配を蹴散らし、ダビデがペリシテ人を蹴散らしたように、今こそイスラエルの復興の時でないのか。神の国が完成すると思ったのです。弟子たちを私たちは責められません。私たちもそこにいたら、同じこと言ったような気がします。

 7節にしかし、主は最後のことばを言われます。「父が自分の権威をもって決められた時や時期は、あなた方の知るところでない」。わたしたちは弟子たちと一緒に、イエス様の復活の今こそ、イスラエル復興の時、神の国が完成する時と思います。しかしそうでない。私たちは時と時期を、父なる神に委ねないといけないようです。主なる神様はイエス様の復活を、神の国の始まりとされたのであり、完成にされたのでなかったのです。神の国の時カイロスと時期クロノスは、神が定めたもうのです。私たち人間はじっと待つしかない。
 しかし反対からいうと私たちは自分の知恵や力で、神の国をどうこうできないとも言えます。神様がなしてくださる。私たちは自分の務めに献身するのです。そして時と時期を、主に委ねるのです。究極は主がなされると知れば、私たちは最後から一つ手前の真剣さでなすとも言えるのです。事業は失敗したかのように見える。道半ばでその方は、召天された。しかし、人間的には道半ばの挫折でしょうが、しかし神様の目からはどうなるのかです。

 8節は、何度も言われる「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ全土、そして地の果てまで」です。弟子たちの証は、時間、空間が広げられます。そして「私(主)の証人」となるのです。イエス様の地上最後のことばは「私の証人となる」です。未来形です。「なれ」でない。「ある」です。証人は裁判所から引っ張られて、弁護士から頼まれてなすのです。自分からでない。第1ペテロ3章15節には、「いつでも弁明できるように備えなさい」とありました。自分の務め、自分の委託をしっかりなして、待っている形です。主はいつか証人として用いてくださいます。その時に備えて、礼拝し、日々祈り、み言葉を聞き、時を待ちましょう。

 10節には主の体が天に上ると又も天使が現れます。そして「又おいでになる」と約束を宣言します。復活の主は、又来てくださるのです。復活の時に、やはり天使が復活なさったと約束されたように、今度は「又来てくださる」と約束します。この約束を信じて、自分の使命と主からの委託に歩み、献身し、歩みます。

  祈ります。「天の父よ、鹿児島の緊急事態宣言から13日目です。主の守りを祈るのみです。どうか、新型肺炎を収束させてください。聖霊によって信じ、仕えることをなさせてください。主の証人として、生かしてください。
 どうか続けて、病気療養の方・・・兄の回復を感謝し・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブは保育が続いています。先生方、支援員方、乳幼児、学童の保育を守ってください。どうか、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」


    説教  ルカによる福音書24章36〜49節   2020年4月26日
           「 私の手や足を見なさい 」 
 本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めに礼拝(家庭礼拝)ができますことを、心より主に感謝致します。皆様と一緒に礼拝できませんが、主に赦された私的な礼拝の時を、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 4月7日に首都圏と感染が多い大阪、福岡地区に、又4月16日に緊急事態宣言が全国に鹿児島を含めて出され11日目になりました。鹿児島もまた小中高生は、4月22日から休校に入りました。また市役所からこども園や児童クラブにも、父母の方が子供を見ることができる場合は、できるだけそうするように、できるだけ本当に大変な、又必要な子供達だけを保育するようにとの通知が来ています。協力くださる父母の方もありますが、現実には看護士さんや公務員の方があり、0にはもちろんなりません。半分くらいになって保育しております。
 先行きは見えませんが、韓国や中国をみるとやはり3ヶ月間、7月までは覚悟がいるかなと思わされています。有名な女優や芸人さんらが60代、70代で亡くなっておられます。怖さが段々分かってきました。しかし何度も書くようで申し訳ありませんが、聖書では、サムエル記下24章には「戦争と飢饉と疫病」は神様が用いられる主の怒りの道具となっています。何か主が、私達に警告されているのだと受け止めます。主の十字架によって、私達は赦しの元にありますが、しかし警告や用心や自分たちの生き方の変換は、問われていくのだと思います。
 さて聖書は4月12日に今年のイースター復活祭を迎えました。そしてその後の聖書を、復活のイエス様の働きの箇所から選んで読んでおります。暫くマタイとヨハネ伝から聞きましたが、本日はルカ伝24章の復活の主の働きのところです。ルカ伝ではこの直前が、エマオ途上の復活のイエス様の姿が書かれています。本日はその続きとなります。全体の流れからいくとエマオ途上でクレオパともう一人の人に、主は復活を示されました。そして今日のところは、残りの11人の弟子達に現れくださった所となります。これはマタイ、ヨハネ伝にも共通しており、復活の主はまず、女性達に現れ、そして次に11人の弟子達に現れてくださっています。復活の主は、言ってみればまず個人的に出会い、それから11人の弟子つまり大勢に現れてくださると言っていいでしょう。主はある意味で、私的に現れてくださるのみならず、公的にも現れてくださると言って良いかと思います。

 36節にあるように復活の主は、直前の33節から11人がいた時「平和があるように」と現れてくださいました。これは、ヨハネ伝20章19節と同じであり、マタイ伝28章9節では「おはよう」と訳されましたが原文は同じく「平和があるように」です。唯一違うのはマルコ伝だけです。しかしマルコ16章6節の天使の「驚くことはない」は「平安あれ」と平行していると言えるでしょう。こうして復活の主の第1声は前にも述べましたが「平安あれ」、ヘブル語で「シャローム」なのです。私達は繰り返しますが、復活の主に出会う時に「平安あれ」と出会ってくださる主を知らされます。
 私達は絶えず、心騒がせ、落ち着かず、状況に左右されるものです。しかし復活の主に出会う時にそこには必ず「平和、平安」が示されてあるのです。このことは何よりも大きな慰めです。バプテストでは使いませんが、ルター派とカルバン派が共同で作ったハイデルベルク信仰問答の第1問には、「あなたの唯一の慰めは何ですか。」と問われて、答えは「私が身も魂も、生きる時も死ぬ時も、主イエス・キリストのものであることです」と答えています。平安あれといわれる復活の主の元に、私達は所属し、生かされていることを確認したいです。

 37節には、こうして復活の主が11人に現れてくださったのに、11人の弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ていると思った」とあります。信じられないことです。復活のイエス様は、最初にこうして幽霊と間違えられるのです。しかしこのテーマは、すでに幾度か出てきました。マタイ伝14章26節には、弟子達がガリラヤ湖で突風のために船でこぎ悩んでいる時がありました。主が近づいてくださると「幽霊だと恐れた」とあります。何故か分かりませんが、私達の罪と弱さにために、イエス様が折角来てくださり、支えようとして下さっているのに、弟子達、私達は気づかないのです。
 私達は「どうして私を病気にした、どうして事業を失敗させた」と神様に文句を言います。しかしよく考えてみるとそこには、主のみ手があったのかも知れません。いやあるのです。主は全てのことを、み手に置かれる全知全能、愛の方であるとすれば、病気や失敗も又み手の中であり、神様にとって無駄なものは何一つないのです。何かあるから病気と失敗が、来たのです。主ご計画だったのかもしれないのです。

 37~43節は、不思議というか、そこまでするかと言うか、主は、手と足を見せられ、お魚まで食べられます。ここはヨハネ伝20章24節以下の「トマスとイエス様」の所とほぼ同じです。主はこうして、ある人達には、いわゆる実証主義をもって相対されるのです。「見ないで信じる者は幸いである」と言われた復活の主が「亡霊には肉も骨もないが、私は『ある』」、ここの原文は『持つ』という言葉です、と言われたのは、ものすごい宣言です。さらに復活のイエス様は「何か食べるものがあるか」と言われて、なんと弟子達が「焼いた魚を一切れ出す」と43節に弟子たちの前で「それを食べられた」とあります。何という具体性でしょうか。そもそも、もし霊であり亡霊でしたら、もちろん魚は通り抜けるのです。しかし復活のイエス様は、それを食べることができた。完全な体があったことを示されています。
 それにしても、ここまで具体的に復活のイエス様の体の現実性をルカ伝が伝えてやまないのはどうしてなのか。ヨハネ伝のトマスは「自分の指をイエス様の体に入れ、自分の手を、イエス様の脇腹にいれてみないと信じない」と言っていました。そして実際に復活の主が現れてくだされるとその実証をする前に「わが主、わが神」とひれ伏しています。トマスにとって、復活のイエス様が答えてくださることが、実証よりもさらに大きな事だったと言えます。私達は、時として事態の好転や結果の転換の如何に関わらず、実はその苦難や痛みを共にしてくれる方や人があれば、それでいいのだというのがあるのだと思います。
 変なたとえで悪いのですが、田舎のお医者さんで、現代の医療の技術を知られなくて、古い処置でも一生懸命して下さる方と、最新の医療を知ってさっと直してくださるが、患者さんを物扱いしてしまう姿と言っていいでしょうか。最新の技術を医者は全員持つべきだとなります。しかし死んでしまうことになっても、最後まで古い技術で患者さんに寄り添い、支えてくださるお医者さんを私達は、絶対に馬鹿にできませんし、無視でません。もちろんそれで、技術の罪が滅ぼされるとはなりません。
 魚を食べてくださる復活のイエス様に、何が込められているのか。いろいろ取れますが、それはおそらく実証主義に対しては、実証的にとことん付き合ってくださるイエス様の姿かと思います。イエス様が十字架の上でマタイ伝、マルコ伝では「自分を救え、降りてこい、そうしたら信じてやろう」と嘲弄されました。そして、ある意味で、主は降りて来られ復活されたのです。私達は、神様はなんと力のない方か。何故ここで救わない、救えないのか、というのが起こります。しかしここで降りて来られない。ここで自分を救えない姿に、理由があるのです。
 私達もまた、どうしてこんなことを赦されるのか。そのままにしておかれるのか。神戸地震、東北地震、熊本地震、そしてこの新型肺炎です。まさに神をあざ笑うかのような無惨な罪のない人々の死があります。しかし私達は、隠れたる神、理由を示されない弱い神様の姿に、十字架に共に苦しまれ、共に傷みをなさる十字架の神様を知らされます。これは主の贖いの又違った面であり、イエス様の死の贖いの違ったあり方と言ってもいいかも知れません。

 41節には「喜びの余り信じられず」とあります。そんな馬鹿なことがあるかと言いたいですが、私達の現実です。嬉しいけれども、信じられない。何も起こらないけれども、信じて行く。信仰にはそういう側面があるのです。嬉しいが悲しい。悲しいが喜んでいる。弟子達の不信仰を前に、魚を食べてくださるイエス様は、何かそのような「喜びの悲しみ、信仰の不信仰」のようなものが示されています。
 44節からは、復活の主が、聖書の説明をしてくださいます。ここではモーセの律法、預言の書、そして詩編が出てきます。ここには「律法、預言、諸書」といわれる旧約聖書の3区分がしめされています。旧約ヘブライ聖書は、イエス様時代から「律法、預言、諸書」と言われており、この3つが聖書であり、このすべてがイエス様を指し示すとされています。「必ずすべて実現する」には旧約ヘブライ聖書の全体がイエス様にかかっていることを示しています。さらにここで示されるのは、45節の「聖書を悟らせるために心の目を開いて」と言われています。つまり私たちが聖書を聖書として知ることができたのは、復活のイエス様が、私たちの心の目を開くことが必要である。というか、主が私たちの心の目を開かれて、聖書を分からせて頂くことが起こっています。聖書を読むには、まず先に恵みがあって、それから私たちの理性が働くのです。私たちが、聖書を少しでも分かるのは、イエス様の恵みの導きが先にあるのです。聖書が分からんという時、分からんというその人の主体の前に、神様がその人の理性の目を閉じておられるとも言えるのです。ここにはそのような選びというか、恵みの姿があるのです。私たちはですから、聖書が少しでも喜びとなり、読む楽しみがあるならば、それは主の恵みの時として、感謝をもって受けるべきであります。

 最後に主は「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまれ」と言われます。つまり自分の力、自分の知恵での復活の主の証人になるのは無理であり、不可能のようです。これもまた大きな恵みです。原文直訳すると「高い力を着るまでは、都に座れ」となっています。「着る」は服を着るの「着る」です。「留まれ」は「座る」という言葉です。高い力、これは言行録からは聖霊ですが、聖霊を受けるまではじっと座っていろとなります。ここもすごいです。キリスト教はどちらかというと仏教に比べると「動」の宗教と言われます。確かにザビエル、マティオリッチ、ウイリアム・ケアリーその弟子達とどんどん地の果てを目指しました。しかし肝心の復活のイエス様は「力(聖霊)を着るまで、座っていろ」と言われたのです。
 今新型肺炎で悶々としています。礼拝も祈祷会も集会も伝道会も、近づく母の日礼拝も、何もできません。しかしどうなのか。ここは「力を着るまでじっと座っていろ」かもしれないのです。言行録は座る時間を祈りに捧げました。新型肺炎は、時が来るまで、じっと祈っていろ、かもしれないのです。ここはじっと聖霊の力を受けるまで、座っていましょう。

 祈ります。「天の父よ、日本全体に緊急事態宣言が出て20日目です。まず鹿児島の事態宣言解除まですべての活動を休みます。しかしこども園や中山の児童クラブは開いてください、と言われています。どうか先生、子供達を守ってください。病気療養の方・・・兄の回復を感謝です。・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を、健康を導きください。私たちを復活の主と共なる信仰に生かし、用いてください。どうか1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」


  祈祷会説教    ヨハネ伝21章1〜14節      2020年4月22日
 讃  美  新生19番    すくしき主の愛
 聖  書  ヨハネ伝21章1〜14節   P.211
 奨励朗読  「主イエス、7人に現れる」
 讃  美  新生523番   主われを愛す
 祈  り  祈りの課題4月号 
 黙  祷  各 自      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために集まってなす祈祷会を3回ほど休みます。5月3日から礼拝と5月6日から祈祷会を始める予定でおりますが、5月6日迄は、国の緊急事態宣言ですので、1週間ほど延びるかもしれません。臨時執事会を4月25日(土)に開く予定です。ここで決めてまた連絡いたします。
 さて本日の聖書はこの緊急事態宣言の中で、復活のイエス様の出来事から聞こうと計画しています。本日はヨハネ伝21章1〜14節のイエス様の14節からは3回目の顕現となっています。しかし実はよく数えると1回目、20章11節からマグダラのマリアへの顕現、2回目が20章19節からの10人弟子への顕現と聖霊の付与、そして3回目は24節からのトマスへの顕現となっています。この7人シモンペテロへの7人への顕現は、数えてみますと4回目になるのです。それではなぜ3回目と14節にあるのかです。もちろん、1回目のマリアと2回目10人の顕現は一緒とするとか、10人の顕現とトマスの顕現を一つに数えるとかあります。又1回目はマグダラのマリアで女性だから1回目と数えないという人もあります。しかし聖書学者は、この1〜14節の顕現報告は、違った伝承が入ったのであろうとしています。
 それは、明らかにヨハネ伝はここで終わります、というのが、20章30〜31節に書かれているからです。「これらのことが書かれたのは、云々」となっているのは、ヨハネ伝の終わりにふさわしく、ここで一端ヨハネ伝は終わります。しかし暫くして、ヨハネは違った伝承が見つかったので、ヨハネはまた自分の福音書に、付け足したということです。当時はできるだけ多くの伝承があるということとが、証言のためには大切でした。ちょうどマルコ伝も最後の16章に付録のような形で書いてあるのと同じように、証言を足したものと思われます。
 1〜14節の出来事は、1〜3節のペテロの「私は漁に行く」という場面、4〜8節にこの漁が失敗する場面。そして10〜14節にそれでも復活の主が、湖畔に、魚とパンを準備されていたことの3場面になります。

 まず1〜3節ですが、私たちは驚きをもって、この箇所を読みます。復活のイエス様は、すでに20章22節に「聖霊を受けよ」と聖霊を下さっていました。20章29節には、トマスに「信じない者でなく、信じる者になりなさい」と励ましておられました。しかし、なんとペテロはエルサレムからガリラヤに帰ると「漁にいく」と言い出したのです。ペテロを筆頭に12弟子は人間を取る漁師になったはずなのです。マルコ1章17節です。「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」でした。しかしここでは、どうなっているのか。故郷に帰って改めて伝道する気力をなくしたのか。先生イエス様のいない喪失感があまりにも強かったのか。ペテロは3節に「私は漁に行く」といいだします。
 ここで、2節には7人の弟子が書かれています。どうしてか。残りは11人でなかったのか。後の4人はどこにいるのか。いろいろなことが言われます。ここにいない4人はペテロに従う力も無くしていたのでしょうか。一つの解釈には、11人よりも7人の方が完全数であるという取り方があります。ペテロとトマス、ナタナエル、ゼベタイの子たち(これはヤコブとヨハネとされています)。そして、他の2人の弟子で7人になりますが、これがヨハネの示す弟子全体の象徴のことでないかというのです。
 つまり復活のイエス様に2回も顕現をうけた弟子たちは、それでも伝道する力も気力もなかったようなのです。これはまさに私たちのことではないでしょうか。私たちもまた、なぜか、福音書がこれほどはっきり主を示し、又パウロやヤコブ、ヘブライ、ヨハネの手紙と多くの証言たちがあるのに、なかなか伝えることができず、悶々としているのではないでしょうか。そして3節にあるように、元の漁師に戻るとは、その生活は、成功しなったのです。失敗をもって「何もとれなかった」とあります。プロの漁師としての感が鈍っていたのでしょうか。たまたま魚の取れない日だったのでしょうか。この「何も取れなかった」には、しかし7人のつまり全弟子の失望と無能力、無気力が示されているように読めます。

 4〜8節は、しかし復活の主はこの7人の弟子たちの困窮にご自身を表してくださるのです。弟子たちは、夜通し漁をしたのです。しかし何も取れなかったのです。すでに人間を取る漁師にされたものが、魚の漁をしても、成功しないということでしょうか。いろいろな意味がこめられます。
 しかし5節に復活の主は、「子たちよ、何か食べる者があるか」と声をかけてくださるのです。復活の主の素晴らしいことです。恵みにあふれることです。表面的には弟子は大失敗でありますが、主イエス様にとって、弟子たちがどのような状況にあるかは、すべてご存じでありました。弟子たちは、声の主がイエス様だと気づきません。これはすべての福音書にある隠れたる主のテーマです。復活の主は、最初は気づかれないのです。気付かれないけど、そこにいてくださり、私たちの状況を知っていてくださり、守っていてくださっているのです。5節の弟子たちが素直に自分たちの悲惨さを認めて「ありません」と言うところに、主の働かれる要素をみます。隠し立てせず、自分の弱さを全部吐き出し、言うとこころで、復活の主は働いてくださいます。
 6節に主は具体的にすぐに指示をなさいます。「船の右に網を下ろせ」です。ここで多くの人は、すぐにルカ伝5章の最初のペテロとイエス様の出会いの場面を思い出します。この時は、ペテロはもう船から上がり、網を洗っていたとあります。そしてルカ伝5章4節には夜通し働いたが、魚が取れなかったと書いています。しかしそれでもペテロは、イエス様のことば「沖にこぎだし、網を下ろせ」のみ言葉に従ったのでした。その時、大漁になり、ぺテロはイエス様の弟子に召され、そして弟子になることを決心したのでした。
 ここはおそらくイエス様があえて、一番最初のペテロとの出会いを、再現なさったのでないかと思います。何もとれず、起こらず、がっかりしている時に、主は声をかけてくださり、それに従うと事件が起こるのです。多くのことが示されます。もし、ペテロが無駄だとして何もしなければ魚は取れません。ここには、無駄と知りつつしかし主の言葉を、やってみることを示しているのかもしれません。敢為なくして、ことは起こらないといえるでしょう。

 7節に、その様子を見ていた主に愛されている弟子すなわちヨハネは気づくのです。「主だ」と示しています。そして、ヨハネの声を聴いて、ペテロはすぐに行動します。ここには「ヨハネが気づき、ペテロが動く」という連携を見ることができます。これは、どうも、初代教会がペテロ派とヨハネ派が分裂、分派しており、イエス様はすでにそれをご存じで、その連携をしめされたという解説書もあります。勘ぐりすぎかもしれませんが、よくわかります。気付き派と行動派はどちらも大切で、認識の得意な人、行動・奉仕の得意の人、これはどちらが偉いとかでなくて、主にあって実はどちらも大切なのです。
 9節から14節は、なんと復活の主が、弟子たちに魚を焼き、パンを備える給仕をされています。主はまたもヨハネ13章の弟子の足を洗われたように、ここで弟子に仕えておられるのです。復活の主は何をなさるのか。すべてを支配する権能をもって人間を支配されるのか。自分に仕えていく弟子を求められるのか。どうも全く違います。復活の主は弟子に対して給仕をされるのです。ここは涙なくして、読めないのです。復活の主は、裏切った弟子達の給仕をされる。余りにももったいない出来事です。トドのつまり私たちも同じです。復活の主が弟子達に魚とパンを備えらえた。私たちも復活の主の跡に従うなら、主の僕と友であるなら、やはり隣人に仕えていくのです。あらためて弟子に仕える復活の主に、私たちは喜びをもって仕えていくことを示されるのです。
 
 祈ります。「天の父、主なる神よ、新型肺炎の対処で、祈祷会も皆で集まって開くことができないでいます。どうか一日も早い新型肺炎の終焉を祈ります。復活の主は、何をされたのか。なんと弟子たちの給仕をされたのです。私たちもまた、復活の主と共に、隣人に仕えていくのです。
 聖霊によって信じ、仕えることをなさせてください。どうか続けて、病気療養の方、・・・兄の回復を感謝し、・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの先生、支援員、乳幼児、学童の保育を守ってください。どうか、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」

   説教  マタイによる福音書28章16〜20節   2020年4月19日
           「 全ての民を私の弟子に 」 
 本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めに礼拝(家庭礼拝)ができますことを、心より主に感謝致します。皆と一緒に礼拝できませんが、主に赦された私的な礼拝の時を、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。とうとう、緊急事態宣言が全国に出されました。鹿児島もまた小中高生は、4月22日から休校に入りそうです。ただし子ども園めぐみ幼稚園と中山の児童クラブは、お知らせが来て反対に休まないで下さいとのことです。どちらが感染しやすいのかなと思いますが、子供達の中には、医療関係の方や公務員の方がありますので、出来るだけ開き、支えたいと思っております。

 さて聖書は復活祭の聖書をそのまま受け継いで、復活のイエス様の教えから、暫く聞いていきます。本来なら年度初めの教会の年間主題聖句やら、いつもの旧約聖書エゼキエル書、聖書教育の箇所となりますが、この際ですので復活のイエス様にしばらく集中して聞いていきます。
 聖書はマタイ伝の28章の最後の箇所です。もう教会に長い方は、ここは何度も聞いた復活のイエス様の大宣教命令のところです。何か新しいことがあるかと言われそうです。しかしいつも聞いて何度も聞いているところが意外と新しい事を示してくれるのでないかと思っています。
 16節に書かれているように、復活されたイエス様は、ユダが離れて11人になっていますが、ガリラヤに行きました。そこでイエス様が指示、命令されていた山に登ったというのです。確かに弟子達はペテロを筆頭に主を裏切り、逃げ回っていたのです。しかし改めて、11人はここに主イエス様の命令に従って来たのだと思います。逃げながらでも従うところに弟子のすごさを感じます。もちろん聖書解説書には、ガリラヤは弟子達が逃げるに一番いい場所だったというのがあります。確かに、犯罪者が最後に逃げる場所というのは土地勘がある自分の故郷か、一度住んだことのある場所らしいです。11人の弟子達は、もし追っ手が来たら、かつて知りたる自分の故郷ですので、隠れる場所等の推測が着いたと思われます。
 しかしそこまで勘ぐらなくてもいいのではないか。弟子達はイエス様のマタイ28章7節にある女の弟子達から聞いた通りに、復活のイエス様の言葉、指示されたガリラヤの山に上ったのです。11人は女性弟子達の言葉を信じたのです。当時、女性は裁判の証人になれないとされていました。しかし弟子達は、イエス様との3年間の生活を経て、女性の証言を信じるところまで、信仰は進んでいたと言えるのです。

 ところでこの山ですが、残念ながらどこの山かは書かれていません。しかし3つの候補があるそうです。1つはイエス様が宣教を始められる時に、サタンに試みられた高い山です。マタイ4章8節にあります。2つ目はイエス様が山上の説教をなされた山です。これは丘と言った方が良いかも知れません。マタイ伝5章1節です。3つ目は、イエス様が姿を変えられた変貌の山です。マタイ伝17章1節です。どの山かは分かりませんが、しかし弟子達は集まったのです。そしてそこに復活のイエス様がおられたのです。その喜びはいかばかりであったでしょう。主の言葉に従い、その通りになっていることを確認することは、信仰者にとってこの上なく嬉しいことです。そしてひれ伏したとあります。これはもちろん動作では、頭を下げて、ひれ伏すことです。「礼拝した」と訳される言葉でもあります。心から喜び、礼拝したのです。
 しかしなんと言うことでしょうか。マタイ伝はその時、疑う者がいたと書きます。わざわざガリラヤのある山まで来て、それでもまだ疑うのかと思います。しかしあるのではないでしょうか。嬉しいし心から礼拝する。しかしそれでも私達の弱さは、疑うのだと思います。それは、マタイ伝14章でペテロは見事に、途中までガリラヤ湖の上を歩いたのに、波を見て沈んだ姿と重なります。復活の主に出会っているのに、疑う。私達の信仰は弱く、しかしその弱さにあっても、主は支え守り導かれるのです。疑う者があるにもかかわらず、主は、18節から声を掛けてくださっています。それは、疑う弟子達に、復活の主の委託、宣教命令を与えられるのです。

 18節には主イエス様の復活のひとつの意味が示されています。復活はいろいろな意味を持ちます。1つは、なんと言ってもイエス様が十字架に殺されつつも、只の人間ではなく、神の御子であり本物の神様、主であった。2つは、イエス様の教えは確かに十字架になってしまったが、山上の説教に示され多くの福音書に示されたその教えは正しかった。3つは、十字架になってしまったが、主の愛の姿、病気の人を癒し、悪霊に付かれた人、寡婦や孤児を守り、弱い人と共に生きることは正しかった。そして主の死は私達の罪の贖いとして、父なる神に受け入れられた。そしてマタイ伝は、特に十字架からの復活に、全ての、全宇宙の権威が与えられたとするのです。
 「天と地の一切の権能が与えられた」。十字架に掛かり、全き弱さの中に死んで行かれた方が実は、一切の権能を与えられた方だったのです。これは確かに今は分かりません。私達は、神戸地震、東北地震、熊本地震、そして新型肺炎と全くどう捕らえていいのか、神様の権能がどこにあるのか、さっぱり分からない中にあります。何でもかんでも神様のせいにできません。しかし「一切の権能」には、やはり新型肺炎がはいっているでしょう。復活の主の権能すなわち主の赦しがなければ、ヨブがサタンに試みられたように、この蔓延は無かったはずです。主は何かを示しておられるのです。
 神戸、東北、熊本地震をそのままにしておかれる神様を信じない、信じられない、とは何人も聞きました。しかしある方が「主は津波と共に一緒に流れてくださった」と言われてました。私はそうだろうと思います。十字架についてくださった方は、一緒に流されて、苦難を共にしてくださっている。熊本地震で一緒に揺れてくださり、建物の下敷きになって下さり、痛みを知ってくださるのだと思います。十字架に掛かられた方は、今も新型肺炎に掛かって苦しんでくださるのだと思います。だから、私達は主の僕、主の弟子、主の友として、できることを成すのです。

 19節に、主は復活により権能を与えられた方として、3つの委託をなさいました。1つはすべての民を私の弟子としなさいです。これは今、誰が読んでも民族を越え、イスラエルを越えて異邦人につまり私達に主の福音を伝えて、弟子とすることだと受け止めます。しかしなんと19世紀まで、バプテストの宣教師ウイリアム・ケアリーが、この聖書の箇所に示され宣教するまで誰も気づかれなかったのです。歴史とは時々不思議ですが、こんな単純な主イエス様の伝道命令が、理解されなかったのです。不思議なことですが、日本に伝道に来たカトリックの宣教師ザビエルや中国に伝道したマティオ・リッチは、マタイ伝28章19〜20節を引用しなかったそうです。この「弟子としなさい」を「教育しなさい」ととったと言われています。
 なんと宗教改革者達(ルターやカルバン)も気づきませんでした。有名な話し、ウイリアム・ケアリーがインド伝道に行きたいと牧師会で、献金を募ると「海外伝道は神様がなさる、人間はしてはいけない」と言われたことが伝わっています。神学者ではない、普通の教会の牧師が素直に聖書を読んで、自分がこの聖書の言葉、主の命令に答え、実際になした典型的な例であるとされます。「弟子にする」は、やはり教育とはちょっと違います。主イエス様の僕になることであり、主の戒め、愛の戒に生きるように歩むことです。これは民族を越えて、海外の伝道が射程に入っているのです。
 2つ目は「洗礼・バプテスマを授ける」です。バプテスマには、単なる知的な理解を超えて、自分の体で体験し、経験していく、信仰の歩みが入っています。バプテスマを受けるには、単なる知的な承認を超えることです。つまり団体というか、共同体に参加、入会することです。イエス様を信じその教えに生きることは、確かに一人でなすものです。誰かに代わって信じてもらうわけにはいきません。信じるは誰でもない自分がすることです。しかし聖書は、自分が一人ですることですが、そこに隣人、共同体があるのです。一人で信じるのですが、そこには信じる同心の仲間があるのです。
 つまり信仰の世界は、隣人がいて成り立っていく面があるのです。神様を信じるとは、確かに1対1なのです。しかし1対1はどこか、隣人と共なる世界なのです。それはアブラハム、イサク、ヤコブの神といわれるように、個人で信じつつ、しかし個人だけでなくイスラエルの神という共同体のあり方があります。つまり本当の信仰は、どこか執り成しをしていく信仰であり、自分のことを神様に祈るだけでなく、隣人を執り成し祈る在り方でもあるのです。信じておればバプテスマはどうでもいい、単なる形式であるという方があります。しかしバプテスマは信仰の原型を示しています。それはイエス様も又バプテスマのヨハネから受けられたことでした。全能の神の御子が、人間からバプテスマを受けられる。これ以上に謙遜の姿があるでしょうか。信仰はこの謙遜から始まり、この謙遜に生きるのです。
 主イエス様がバプテスマを受けられ、主イエス様がバプテスマを命じられた。すなわちバプテスマはキリスト信仰の始まりにふさわしいのです。私たちは、バプテスマさえも受けられない信仰とは何であるのか、を問われるのです。

 3つ目に、復活の主は「命じておいたことを守るように教えよ」です。間違えていけないのは、イエス様が教えたことを守るということです。誰かが勝手に作り出したキリスト教哲学でないのです。キリスト教の生き方、教会が作った決まりでもありません。イエス様が教えたこと、つまり聖書の言葉です。これは山上の説教であり、主がなされた安息日の癒しであり、孤児や寡婦たち、社会的弱者への愛であり、マタイ伝25章にあるように、飢える者、渇く者、旅する者、裸の者、病気の者、牢屋にいる者を訪ねることです。
 歴史をみると海外宣教は、いつも帝国主義やキリスト文化優越主義を伴いました。もちろんザビエルやマティオ・リッチも又迎えられる時は武器や文化と一緒でした。自分の領土、国の支配の拡大としての宣教が確かにあったのです。しかしイエス様の宣教命令は「弟子にする、バプテスマをする、イエス様の教えたことを守る」と言うことです。ここには、教会を立てると言うのも結果としてあるでしょうが、異邦人宣教の目的ではありません。しかしまたバプテスマをする、において、教会を立てることは関係ないとも言えません。イエス様の救いに生きる人を伝える、解放に向い、サタンの支配を逃れて、神様の支配に移る神の国に共に参与することでもあります。復活の主に出会うということは、こうして罪赦され、主の委託を受けることです。主の恵みによって、これを受けて歩むことを示されます。

 祈ります「天の父よ、いよいよ日本全体に緊急事態宣言となりました。今週から又小中高は休校です。しかしこども園や中山の児童クラブは開いてください、と言われています。どうか先生子供達を守ってください。特に医療関係者を守ってください。病気療養の方・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を、健康を導きください。私たちを復活の主と共なる信仰に生かし、用いてください。どうか、1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」



  祈祷会説教   ヨハネ伝19章11〜18節     2020年4月15日
 讃美    新生262番  み霊よくだりて
 聖書    ヨハネ伝20章19〜29節  P.210
 奨励朗読  「主、弟子たちとトマスに現れる」
 讃美    新生263番  満たしめたまえ
 祈り    祈りの課題4月号 
 黙祷      
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために集まってなす祈祷会を3回ほど休みます。しかし、聖書を読み、祈りをなすことは、キリスト者呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が家庭の祈祷で用いられることを祈ります。
 聖書は聖書教育の箇所を用いています。『聖書教育』誌では4月は4回をヨハネ伝のイエス様の復活の章から聞くことになっています。本日は復活のイエス様が弟子達とトマスに出会ってくださるという有名なところです。
 19節にあるように、ヨハネ伝は週の初めの日の夕方として、復活の日すなわち日曜日の夕方の出来事から伝えています。すでにご存じの通り、キリスト教会は、ユダヤ教の安息日に礼拝をするのではなくて、主の日、日曜日に礼拝をしています。これはまさしく本日の記事にもあるように、主が日曜日に復活してくださったことを記念しているからです。後から16節に、「8日後」と出てきますが、主は日曜日ごとに現れてくださって、これが日曜日が礼拝日になった起源です。
 復活は4つの福音者が一貫していますが、弟子たちは誰も、イエス様の復活を信じておらず、期待していなかったことから始めています。イエス様は生前に最低3回は、十字架と復活の預言をされたのです。しかし誰も信じていませんでした。まさに私たちと同じ状態です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちも先生のイエス様が十字架に付けられたのですから、何らかの取り調べ、逮捕があると思ったのです。もしかしたら自分たちも十字架かもしれないと考えるのは不思議でないでしょう。ユダヤ人をおそれて、戸に鍵をかけていました。弟子達の恐れの様子が分かります。
 しかし弟子たちの不信仰を超えて、主は現れてくださいます。ヨハネ伝では復活のイエス様の最初の言葉は「平和があるように」です。これはもちろんユダヤの普通の挨拶でした。日本語に訳す時は「おはよう、こんにちは、こんばんわ」と訳していいのです。しかし原意はこの通り「平和があるように」です。復活のイエス様の第1声が「平和があるように」とは、なんと素晴らしい言葉でしょうか。私たちは今も、新型肺炎の脅威に恐れています。特にお年を召された方は罹るとその進行状況が年をとるほど大きいとされています。また何か他の病気を持たれた方は、さらに死亡率が高いです。恐ろしくないと言ってみても、限界があります。しかし復活の主の第1声が「平安あれ」というのは、なんという素晴らしい恵みでしょうか。全能の主が「平安あれ」と言ってくださる。主のことばは出来事となる。これは大きな慰めです。
 20節に主イエス様は、手とわき腹をみせたとあります。これはもちろん十字架に付けられた時に、釘がイエス様の手を通し、足を通し、わき腹をやりで刺された傷の事です。ここにイエス様は、自分の十字架の釘の後をもって十字架に付けられたイエス様が、本当に復活されたことを示されています。もちろんイエス様を間違えるとか、取り違えるとかないでしょう。しかし中には、幽霊とか霊とか、仮の姿とかありえます。しかし主は、釘の手と足とわき腹の後で、復活を示されたのです。
 これはあるのではないかと思います。私たちは自分を自分として証明する時に、自分が一番苦労したことをもって、証明するのだと思います。自分の病気したこと、仕事に失敗して、しかし立ち上がったこと、自分がうまく行かなかったことや自分が一番苦しかったことが、どういうわけか、自分の証明になることがあります。主を主ととして証明するのは、十字架の傷であったというのは、私たちも忘れてならないことであり、自分もまたそうなのです。
 21節は、主が弟子たちを派遣される姿です。ここはマタイ伝28章の最後の派遣命令であり、ルカ伝24章49節、そしてマルコ伝16章15節と同じ姿です。復活の主がなさる一番の仕事は、弟子の派遣、宣教の委託です。そして弟子の派遣は、まさにイエス様が父なる神様に派遣されたことと重なっています。主イエス様が父なる神様に派遣されたように、今度はイエス様が私たちを派遣されるのです。そして22節にあるように、主は私たちが自分自身の力で、自力と自己責任で委託をなし、宣教をするのでないことを示されます。主イエス様はその力と能力を与えられるのです。
 今新型肺炎の感染の蔓延を抑えるために、店舗や企業に休業を要請するのなら、補償や支援をしろと言われています。国がお願いだけして、その補償、支援をしないのは、責任ある仕方ではありません。主イエス様は派遣するからには、きちんとその助け主を与えられます。これが聖霊です。主は息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けよ」です。この時、いろいろなことが、ここの読み方が言われます。
 まずここには、おそらく創世記2章7節にあった天地の創造の人間の創造が繰り返されているという取り方です。主は、人間を最後に創造されます。その時人間の創造の時に「息を吹き入れられた」とあります。人間はここで再創造されているのです。又、第1コリント15章45節には「最初の人アダムは命ある生きものとなったが、最後のアダムは命を与える霊となった」とパウロは書いています。まさにイエス様はここで、人間にただ生きる命を与えるのみならず、霊を与える命であるのです。本当の生きがいというか、生きる使命というか、魂の生きるパン、生きる糧を与えられるのです。
 23節の聖霊を送る時の言葉も又多くの意味を含んでいます。罪の赦しが、あなた方にかかわっていることが示されます。罪の赦しは、本来神様のみの力です。しかしここには、罪の赦しが人間の関係の中で体験されていくことを示しています。もちろんカトリック教会は、ここで教会の罪の赦しの権能を言うのかもしれません。しかし「あなた方が赦す、あなた方が赦さない」とは、教会の権威よりも、赦しつつ赦されていく、人間の弱さ、社会性、依存性を教えてくださっていると読めます。
 罪の赦しを、イエス様を信じる信徒に委ねておられるのは危険でもあり、しかし大きな恵みでもあります。ここにはマタイ伝16章19節のペテロに言われた「あなたが地上でつなぐことは天で繋がれる」又18章18節の「あなた方が地上でつぐことは天でも繋がれる」という相互性、対話性も思い出すことができます。罪の赦しと聖霊の働きの関連を読むこともできます。罪の赦しは聖霊の導きに関連しています。罪の赦しは神様のものですが、それが聖霊によって私たちに体験されていくのです。
 24節からはトマスへの主の顕現です。トマスはヨハネ伝ではよく出てくる12使徒の一人です。ヨハネ11章6節では「私たちも主と共に死のうではないか」と言っています。14章5節では「主よ、どこの行かれるのか私たちは分かりません」と聞き、主の「私が道、真理、命である」を引き出しています。さらに21章2節に、最後の顕現のところでもペテロと一緒にいます。トマスは懐疑派と言われていますが25節に「手に釘跡を見、この指を入れ、脇腹に手をいれてみないと信じない」と言っています。これはトマスが完全に逃げ惑ったのでなく、十字架を遠巻きにして、主を見ていたのでないかという解説書を読みました。トマスは復活の証人として立っているのです。トマスはいわば、当時の人であると共に、いつの世代にもある私たちと同じ同時代の人でもあり、すなわち私たちの代表選手でもあるのです。
 26節に主は1週間して、つまり次の日曜日にまた出会ってくださるのです。つまりこれは礼拝を示しているとも言われます。主は礼拝を機会に現れてくださるとも言えます。トマスは主が現れられた時に、その懐疑主義、実証主義を放棄しました。それは「私の神、私の主」で分かります。もう指を主の釘の跡の手と主のわき腹にいれる必要がなくなったのです。主から声を掛けられ、主の声を聴いた時、もう懐疑と実証は必要でなくなるのです。
 これはどこかヨブ記の最後、あれだけ悪態を語り、あれだけ不信を表明したヨブが、ヨブ記42章の主の顕現において、感謝するのと似ております。主イエス様に出会うことの幸いの原初的な形を、トマスは示しているのでしょう。それは29節の「見ないで信じることの幸い」に至るということです。この幸いはもちろん、マタイ伝の山上の説教のあの8つの「幸い」のことです。
 私たちは、主から、幸いを宣言されており、見ないで主を信じていく、聖霊を与えられており、これを知り、受けることができた幸いを生きているのです。
 祈ります。「天の父、主なる神よ、新型肺炎の対処で、祈祷会も皆で集まって開くことができないでいます。どうか一日も早い新型肺炎の終焉を祈ります。トマスのように、私たちも主の復活を信じることができません。しかし主は、ご自身を示してくださいました。聖霊によって信じることが与えられていることを感謝します。どうか続けて、病気療養の方・・・兄の回復を感謝し、・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの先生、支援員、乳幼児、学童の保育を守ってください。どうか、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 
   説教  マタイによる福音書28章1〜10節   2020年4月12日
            「 復活された 」        イースター礼拝
 イースター、主のご復活を心よりお喜び致します。本日も主に命、新しい命を与えられて、週の初めに礼拝(家庭礼拝)ができますことを、心より主に感謝致します。主に赦された私的な礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。新型肺炎の対応で、4月一杯をそれぞれの各自や各家庭礼拝になっています。しかし戦争が来ても、飢饉が来ても、疫病が来ても、主の復活はおこりました。そして、一番の大切なことは私達が疫病に負けることなく、主の復活が私達の心に中に起こること、一人一人に主の復活と共に、私の復活が起こることです。
 私達はイースター礼拝を各自で、又数人で守っています。これは、初代教会がロー帝国の迫害を受けて、カタコンベ(地下墓地)の中で守り、九州の潜伏切支丹達が、幕府の政策で迫害を受けて、山の中に隠れて礼拝していたことと重なります。何かそういう平行感覚、共感をもって礼拝できたらすばらしいです。
 先の見通しは全く立ちませんが、大きく見ればワクチンが1年半後にはできており、中国の例の通りであれば、3ヶ月後には、何かしらの峠を越しているかもです。7月末には見通しがたっているかと思います。しかし新聞テレビがいうように、油断すれば、どんどんまた第2派、第3派の感染が爆発があるのだそうです。気を抜くことなく歩みましょう。またこの中にあって、鹿児島は小中高と授業が開始され、子ども園も中山の児童クラブも保育を続けています。どうか、子ども園の先生と子供達、児童クラブの支援員と学童達の為に祈ってください。
 さて聖書は、マタイ伝28章の復活の箇所から聞いて行きます。主のご復活はご存知の通りに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと全ての福音書が報告しています。しかし読まれて気づかれるように、全ての福音書が少しづつ違っています。いつだったか言いましたが、復活の証人は女性であることは一致していますが、1人か2人か3人かあるいはそれ以上かで、分かれます。マグダラのアリアは4つの福音書にでてきますが、後のマリアはどのマリアかは分かりません。天使は1人か2人かも違います。いろいろな学者が統一した出来事を、読み込んでいます。しかし4つの福音書をすべて満足させる「これが真相だ」というのはできないとされています。
 しかしこれはそれでいいのです。4つの福音書から私達が何か真相らしきものをつくり出すよりも、それぞれの福音書が書いてくれたところの証言で、私達はイエス様の復活の姿を示され、捕らえるのが一番です。それは、それぞの福音記者がそれぞれこれがイエス様の復活の様子だったと、自分の信仰を掛けて示してくれたからです。客観的にどうこうよりも、主観的だと批判するよりも、信仰において書いてくれたからです。
 マタイ伝28章は復活に日に、マグダラのマリアともう一人のマリアこれはマタイ伝27章56節から、ヤコブのヨセフの母マリアであろうとされています。2人は墓を見に行きました。実はマルコ伝ではその理由を、イエス様の体に香油を塗るためにとあります。しかしマタイ伝は理由を書いていません。しかしこれはマルコ伝が示してくれたように、イエス様の埋葬が安息日規定に係って、十分になされずに、葬られました。女性達としては、なんとしても墓石をどうやって除けるのかを除外して、主イエス様の近くに行って、何とかしてイエス様の埋葬をきちんとしてあげたいというのは当然と思います。
 マルコ伝も同じですが、ここには主が言われていた復活信仰はないのです。人間的なイエス様に最低限の埋葬をしてあげたいという人間的な思慕の思い、同情の思い、弔いの思いであります。しかし私達は人間的な同情や思慕、弔いを余計なこととして、復活信仰には何も役に立たないとして、除外し、切断することはないと思います。それは、ヨハネ伝6章の「5つのパンと2匹の魚」のように、5000人の男を前にして、1万の女性子供の人々を前にして、何の腹の足しにならない「5つのパンと2匹の魚」が用いられていくようなものです。主は子供の差し出した、小さい小さいパンと魚から大きな奇跡、大きな事を為してくださいます。ここもまた2人の女の同情と弔いの思いから、復活の証言者へとしてくださるのです。
 2~3節に、大きな地震と主の天使が下ります。ここもこの地震は何の為に起こったのか。天使は何の為に来たのかと言われます。ひどい解釈になると復活されたばかりのイエス様はまだ力が無かったので、父なる神は、地震で墓石を動かしたというのがあります。天使達はイエス様の復活を助けるために来たとあります。しかしマタイ伝を読む限りとてもそうとは思えません。この地震と天使は、どう読んでも、この女達にイエス様の復活を示すために来たのです。
 4~5節を読むと復活は言ってみれば、2つの面をもっています。番兵に対しては、怖ろしく、震え上がる出来事で、死人のようになったとあります。これは復活が神顕現と同じ要素と力を持っていることを示すと言われます。神が顕現され、ご自身を現される時には、旧約聖書にありますが「雷鳴がとどろき、稲妻が走り、角笛が鳴り響き、山は煙につつまれる」と出エジプト20章18節のモーセの十戒の授与にあります。これは、恐ろしさの別の表現と言われます。神様の現臨・顕現には「恐ろしさのあまり震え上がる」があるのです。
 しかし同時に、神様の現臨には「恐れてはならいない」という慰めがあるのです。婦人達には、恐ろしさの中にあっても、しかし天使からの声かけがあり、恐ろしさを越えて余りある平安が示されています。7節を飛ばしますが、8節には「婦人達は恐れながらも大いに喜んだ」とあります。不思議なことですが、これが神の現臨・顕現の2面性です。神の顕現は、怖ろしいのです。しかしそこにかすかに喜びがあるのです。マルコ伝の復活記事では圧倒的に恐れの方が前面にでています。しかしそれでも、婦人達は、弟子達に伝えに行ったのです。
 神様の出来事には、こうして恐ろしさだけ、喜びだけというのはないのだと言えます。神様のお取り扱いには、怖ろしさに喜びが、また喜びに恐ろしさが伴っている。恐いと言うより、畏れが伴っていると言えましょう。それはこの新型肺炎も似ていると思うのです。確かに罹ると怖ろしいです。致死率は高くはないのですが、感染率は非常に高いです。また致死率は高くないのですが、一部重症化するとなかなか助かりません。
 同時にこの疫病は、余りにも自国主義で自分の国が一番とする考えに対する世界的な鞭、杖のように思えてなりません。自分の国だけではどうにもならない。自国が疫病を叩けても、外国が収まってないとどんどん入ってくるのです。世界が一緒に戦わないと闘いにならない。なんという偶然かと思います。この疫病は神の使いかのような働きです。いい加減の国の政策を笑うかのように、そこの対策の不備を突いてきます。指導者の質までも、対策の仕方で露わにされます。憲法を変える機会が来たと便乗する人、きちんと戦う人、私達はその材料と姿を見せられます。
 お医者さん達も、行事の自粛要請を守らない人の命をなぜ、自分たちの命を張って守らないと行けないのかという方、ここでこそ自分たちはきちんと働きたいと言う医療関係者、インターネット見ていると本当によくわかります。教会のすることが無いことが悔しいですが、併設の子ども園と児童クラブはその第1戦です。祈ることができます。医療関係者の子供は、保育園と子ども園に来るな、児童クラブに入れるなという記事まで、新聞にあります。酷い話しです。その人たちを支えないとこの闘いは成り立ちません。イエス様の十字架が、人々を知る判別式になるように、この疫病は私達に問うて来るのです。
 私達は、恐ろしさの中に、主のお取り扱いを示され、主のみ手をすこしだけ塊間見ることができます。2人のマリアが神顕現の恐ろしさに中に、きちんと喜びを聞いていたことと重なると思います。私達はある意味で、どんな事の中にも、裁きの中にも恵みがあり、一見恵みだ恵みだという中にも、きちんと当然でなくて、感謝で受けないと裁きに転じることがあることを知らされるのです。
 7節を飛ばしました。7節は、ルカ伝とヨハネ伝は余り強調しませんが「ガリラヤで復活のイエス様に会える」という約束です。ヨハネ伝は約束を書いていません。しかしガリラヤと思われるガリラヤ湖(ティベリアス湖)での主の顕現を書いています。7節のガリラヤで会えるというのはどういうことか。もうすでに多くの方が語っている通りです。また私も毎年語っているつもりです。それは復活のイエス様との出会いは、特別なところで、特別に起こるのでない。まさにガリラヤという日常で起こるのです。ガリラヤはイエス様が生活され、12弟子達が漁師をし、税金を取り、農業をし、生活していたところです。シナイ・ホレブ山、神の山でないのです。日本的にいうと滝に打たれ、神秘漂う熊野の山でないのです。いつも仕事し、家事をしている普通のその場所です。
 プロテスタントは特に、巡礼も聖地もないとして、物足りないと言われます。しかし、巡礼も聖地にも行く暇、時間がないのです。生活しないといけないのです。しかしまさにその生活の場が、復活のイエス様が待っておられる場所です。反対に言うと生活の場がない方は、復活の主に出会う場がないのです。一日一日をふうふう言いながら過ごすところ。しかしそこに復活のイエス様がおられる。天使が示してくれると気づくのです。主はよしとされるときに私達に気づかせてくださるのです。
 最後の9,10節は復活のイエス様が婦人にもう一度、出会ってくださったところです。この婦人達は先ほどの2人のマリアであるとそうでないと言う2つの説があります。しかしここでマタイ伝の言いたいことは、弟子達が「兄弟達」に成っていることです。ここで分かることは、イエス様は全く弟子達の十字架の前からの逃走を咎められないと言うことです。イエス様を3度否んだペテロ、主の逮捕から全て逃げた弟子達。しかし今や主イエス様は、このていたらくの弟子達を「兄弟」と呼ばれるのです。そして、伝えよと言われるのです。主は、この弱い罪深い弟子達を兄弟と呼び、用いてくださるのです。弟子にはその力も能力もちろんありません。しかし主が用いるといわれるので、力一杯差し出すのみです。私達も同じです。罪深く、力無く、能力がなく、愛もない。しかし、主は兄弟として用いるとされる。主に委ねて進むことが赦されています。復活の主と共に、共に歩むことが赦されています。
 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、2020年のイースターをこのような形で迎えるとは夢にも思いませんでした。しかし主はそうされました。主は死人の中より復活されました。疫病は神の使いの面があります。なんとかこれと闘い、退ける力を与えてください。どうか良き政策がなされますように、又特に医療関係者の方を支えてください。病気療養の方、・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの保育を守ってください。あなたの復活に答え、私を「兄弟」として用いてください。どうか、1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 スマホやアイホンの方の為に、書式無しの設定です。PCの方は
よみにくくなりましすが、3週間済みません。


   祈祷会原稿   ヨハネ伝20章11〜18節   2020年4月8日
 讃美:新生15   「人の目には見えねども」
 祈り
 聖書:ヨハネ伝20章11〜18節  P.209~210
 朗読:プリントを読む
 讃美:新生240  「救いの主はハレルヤ」
 黙祷
 本日も、祈りの前に聖書から聞いていきます。新型肺炎のために集まってなす祈祷会は3回ほど休みます。しかし聖書を読み、祈りをなすことは、キリスト者の呼吸のようなものです。この小さい祈祷会の奨励が家庭祈祷で用いられることを祈ります。マルチン・ブーバーという哲学者は、人が祈るところに宗教があると言いました。祈りは信仰の必然であり、祈りのないところに信仰はおこらないように思います。というか、神様は私たちの祈りを起こし、信仰を起こしてくださるとも言えます。
 祈祷会はバプテスト連盟の『聖書教育』のテキストを用いていますが、本日は2020年の第一期の学びになっています。4月は4回ヨハネ伝の復活の記事から聞くことになっています。本日は主イエス様の復活を受けてヨハネ伝20章11〜18節から聞くことになっています。ここはマグダラのマリアに復活のイエス様が現れてくださる有名なところです。私たちは、マタイ伝やルカ伝にも復活のイエス様と弟子たちの出会いを読みます。そして、ヨハネ伝もまたイエス様との出会いを伝えます。そこに共通していることに気付かれると思います。それは、復活のイエス様が、最初弟子たちには、気づかれないということです。

 本日の11~14節には、マリアが墓の前で泣いていることが書かれています。実は20章1節から読むとイエス様の死体の置かれていた墓の石が動いて、空いていたことが知らされます。そしてペテロと主の愛しておられる弟子ヨハネが墓を見ると、墓のなかは空であったとあります。そしてイエス様を包んでいた布が、そのまま置いてあり、ある意味で布から体が抜け出たような状態であったという人もいます。そして直前の9,10節には、復活の聖書の言葉を信じなかったとあります。つまり復活の出来事で、各福音書が言いたのは、イエス様が復活されても、復活はすぐには、実際には弟子達にも理解されない、分からないということです。
 ヨハネ伝でも、11節に墓をみると2人の天使が立っており、この天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねます。13節にマリアは全く事態が理解できず「私の主が取り去られました。私にはわかりません」と答えています。マリアには全く復活の信仰はなく、イエス様の死体が誰かによって、どこかに移されたと思ったのです。15節には、この天使の声をまず園丁と勘違いしたらしいことが書かれています。移されたにしても、園丁なら知っているだろうということです。

 14節には、なんと天使に代わって、イエス様が立っておられるのに、マリアは気づいていません。これはどういうことでしょうか。復活は、どこか人間の力だけでは全く信じることができず、もう一つ違った力が必要なのです。端的にいえば、聖霊となるでしょう。復活は、人の力にもう一つ何かがあってまた、加わって、そして気づき、信じることになるということです。これを反対からいうと、私たちが信じることができる、できたということは、神様の導きの内にあり、神様の力、端的に言えば、聖霊の導きを受けているのだとなります。
 これは大きな恵みであり、信じることがこれほど大きなことであるということを示しています。つまり神様の選びに入っていることになるのです。14節では、見ているし、会っている、話しているのに、イエス様が分からないのです。これは一方からは大変なことであります。人は神様の召しというか、聖霊の働きがないと、ある時点で、神様がわからないのです。話している、会っているのに、わからないのです。これは、やはり私たちは謙遜に、またへりくだって歩むというか、信仰が改めて神様から来ることを示されます。誰も、信仰を誇れないのです。神様からのものだからです。 ヨハネ伝15章16節「あなた方が私を選んだのでない。私があなた方を選んだ」の成就です。

 15節には相変わらず、マリアはイエス様を園丁と間違い「誰を探しているのか」の問いに「どこに置いたか教えてください」と答えています。ある意味であんなにイエス様に仕え、関係が深かったのに、それでも分からないのは、不思議ですが、事実です。そして16節にイエス様が「マリア」と呼んでくださると理解ができたとなっています。彼女は振り向いて、「ラボニ」と言ったとは、すでに信仰の長い方はご存じですが、ヘブライ語の「私の先生」という意味です。「私の先生」というのは、まさに生前のイエス様に気付くことができたとういことです。
 つまり復活のイエス様に気付くには、イエス様つまり神様の一言でいいということです。どこか信じられないですが、ある意味で当然となりますが、神様の1つの言葉、神様の只招きだけで、実は復活のイエス様に気付くのです。違った言い方をすれば、聖霊はイエス様の一言で働いて、事をなすと言えます。ここは、マタイ伝8章8節の百人隊長の僕をいやされたローマ人の百卒長の僕の癒しを思い出します。このローマ人百卒長は、自分の僕を癒していただくのに「ただ一言おっしゃってください。そうすれば、私の僕は癒されます」といいました。権威のある言葉とはそういうことだと知っているのです。まさに神様の言葉のすごさ、力強さを知らされるところです。

 17節に、主は「私にすがりつくのはやめなさい」と言われています。おそらくマリアは「ラボニ(私の先生)」といいながら、イエス様に喜びのあまり、すがりつこうとしたのです。しかし主はそれを止められました。いろいろな理由が言われます。1つには、イエス様はこれから父なる神の天に上り、凱旋されるのですから、それを止めてはならないことです。しかしもう一つは復活のイエス様は、すがりつくという行為でなくて、信仰において繋がること言うことです。イエス様を知るには、確かに体験と経験が必要です。しかし最後は、最終的には、イエス様を知るには、パウロが第2コリント5章16節「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」とあります。復活の主を知るためには、最後は信仰によるということです。
 さらにここを注意深く聞くと、イエス様は改めて弟子たちを「私の兄弟たちの所に行って」と言われています。つまり私たちはイエス様から兄弟たちと呼ばれているのです。つまりイエス様はまず弟子、僕として召してくださり、次に主の戒めを知ることで、友と呼んで下いました。ヨハネ伝15章15節です。さらになんと復活されると本日の所で、兄弟と呼んでくださるのです。これはすごいことだと思います。私たちは信仰によって、イエス様の兄弟なのです。僕でも友でもない。主の兄弟です。

 18節はどの福音書も共通していますが、「私は主を見ました」という復活証言がマリアによって言われています。ここはどの福音書も最初は女性が復活に気づくのです。最初女性が気づきそれから、ペテロやヨハネが知らされて気づく構図になっています。ここも当時の社会的なしくみを考えるとすごいです。女性は裁判の証人になれなかった。しかし聖書は、女性を最初の証人として立てるのです。しかも、キリスト教会一番大切な復活の証人が、女性からです。これは改めて取るに足りないもの、力のないもの、弱いものを、主は用いるという根本メッセージに思えてなりません。小さいもの、名もなき者、声の出せない者の側にイエス様はおられます。復活を私たちが信じ、思い、めぐらす時に決して忘れてはならない出来事です。小さい兄弟と共にあることが復活に求められています。
  祈ります。「主なる神よ、み名をあがめます。新型肺炎の蔓延中で、皆さんと共なる祈祷会がしばらくできません。しかし、主はこのような中に復活してくださいました。弟子たちの不信仰を超えて導いてくださいます。主のご復活を心から感謝です。どうか続けて、病気療養の方、・・・・兄の回復を感謝し、・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの全日保育を守ってください。どうか、半週の歩みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」



    (ここから短縮礼拝となって、説教は3分の2になっています。)
    マタイによる福音書27章45〜56節     2020年4月5日
            「 なぜ 私を 」
 本日も主に命、新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますこ
とを、心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振
り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 本日は、新型肺炎の蔓延を受けて、短縮礼拝となっています。4月は今日が受難週の
始まりで、次がイースター復活祭となっています。早速、本日は受難週の出来事で、
イエス様の十字架の姿から聞いてきます。福音書はイエス様の十字架の姿を様々な形
で示しています。いろいろな読み方があり、どれが正しいとかありません。マタイ、
マルコ、ルカ、ヨハネが伝えてくれたように、私たちはそれぞれの福音書の報告を、
を受け止めるしかありません。4つの福音書が少し違ったイエス様の十字架の強調点を
持っているのは、私たちもまたそれぞれの福音記者からそれぞれの強調点を、信仰の
糧とするための神様の配慮であると思います。

 まずマタイ伝とマルコ伝が、本日読みましたように「わが神、わが神、なぜ私をす
てるのですか」を伝えています。しかしルカ伝とヨハネ伝はこの出来事を伝えていま
ません。ルカ伝は、十字架のイエス様が自分を十字架に付けるものの執り成しの祈り
をなされます。「父よ、彼らは何をしているのかわからないのです」と祈られました。
ヨハネ伝は、19章30節に「成し遂げられた」と死んでいかれています。これは、神
様の示されるイエス様の使命を、この世で果たし、すべてを成し遂げ、つまり救いを
なしとげて行かれるイエス様に強調点があります。
 おそらく今一番私たちに感想を与えるのは、ルカ伝の自分を十字架に付ける者に対
して、執り成し祈られるイエス様の姿かと思います。また実は初代教会にとって、一
番大切だったのは、ヨハネ伝の「すべてを成し遂げられた」と言って死んでいかれる
全く神の御子の使命を果たされた姿であったと言われています。皆さんは、4つの福音
書の中で、どの十字架が一番心に残り、その姿を求めていかれるでしょうか。私は、4
つの福音書共に大事なのですが、あえて好きなのはどれか、どれが一番心に響くかと
いうとどうなるか。なぜか、マタイ伝やマルコ伝の伝える十字架でした。もちろんル
カ伝の自分を十字架に付ける敵のために執り成し祈る姿も感動します。また使命を完
全に果たして天国に凱旋されるイエス様も、確かに大切です。しかし神の御子が、「わ
が神、わが神、どうして私を捨てるのですか」。この捨てるは「離れる」という意味が
もちます。「わが神、わが神、どうして私を離れるのか」は、私は19歳ではじめて聖
書を読みましたので、あれからずっと心に残り続けています。
 イエス様は本当に神の子から人間となり、私たちの苦しみを負う方であったのだと
いうことです。私たちは簡単に「あなたの苦しみは良く分かります」といいます。確
かに自分と同じような苦しみをした人をみると、だいたいこういうことだろうと想像
ができるのです。しかしよく考えてみると、その人と自分が同じような境遇にあって
も、実際その人と家族構成、経済状況、仕事環境と大分違うのです。本来、誰も本当
にその人の苦しみが分かるというのは不可能なのだと思います。そして苦しみの本当
の姿は確かに、具体的に助けがない、理解されない、お金がないのです。しかしそれ
は、もしこれは訓練だと思えば、なんとかなるものです。
 問題は苦しい時に、その意味がわからない状況です。これに堪えても、果たして何
かあるのか。頑張っても、果たしてどういう意味があるのか。イエス様が「わが神、
わが神、どうして私を捨てるのか、離れるのか」は、まさにそういうことだと思いま
す。しかしイエス様はまさにそこにおられる。意味の見いだせない、苦しみ、痛み、
これからどうなるのかわからない苦しみ、痛み。しかしそこに主は神の御子は来てく
ださっているのです。もちろん、この「わが神、わが神、なぜ、私を捨てるのか、離
れるのか」は、私たちの罪の贖い、身代わりとなった姿です。一番大切なことは、罪
のあがないです。
 しかし、同時に私たちのどうにもならならない、理由を見いだせない苦難と痛みに
主はいてくださる、これは大きな慰めであり、恵みです。「私は真理であり、道であり、
命である方」が、私の苦しみ、私たちの痛みに共にある。そこには、苦しみに、痛み
に、神の光が見えないけどやはり、神の主の光はやはり当たっていることです。

 51〜54節は、イエス様の死の後に起こったことです。もう、教会に長い方は何度も
何度も聞かされてきました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。これは神殿
の崩壊を意味します。主がご自身の体をいけにえとして捧げてくださったのです。も
う、牛や羊の動物犠牲は必要がなくなり、エルサレム神殿はいりません。そして神と
人間を隔てる幕、仕切りがなくなりました。もうイエス様の十字架の執り成しによっ
て、神様は罪を隔てをなくされました。私たちは何憚ることなく、神様に祈っていい
し、受け入れられています。十字架において、神様は本当に私たちに近づかれたので
す。「道であり真理であり命である」方が、私と共におられるのです。もうあまり人の
ことを考える必要はないのです。主が今、私に求めるところに生きていきます。

 52、53節の墓にある死人復活は、どういうことなのか、よくわかっていません。た
だこの後のイエス様ご自身の復活と人間の私たちの復活の前触れ、先ぶれと言われて
います。イエス様の十字架の後に、私たちは生かされ、私たちはやはり復活するので
す。体をもって復活するのです。何か幽霊のような形ではありません。きちんと体を
与えられて、復活していきます。それは正直、信じるしか方法はないのです。

 そして54節には、これらの出来事を見ていたローマ人の百卒長が、十字架のイエス
様を見て「この人は本当に神の御子であった」と信仰告白をします。本来これは、イ
スラエルの人々、神の民・神の御子を与えられたユダヤ人が言うべき告白です。しか
しここには、ユダヤ人からは神無き民、神の約束を知らない異邦人が「この人は神の
御子だった」と告白します。こもれも先ほどの神殿の幕が避け、墓にあった死人がよ
みがえったことと連続と言われています。つまり思いもかけない出来事、異邦人が信
じる出来事が起こるのです。それはある意味でイザヤ56章6節「主の元に集まってき
た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となる」の成就です。そしてそれは私
たちも同じでしょう。信じる者が主に用いられる。信じる者が主から祝福を受ける。
神の民が用いられる。私たちはそれを信じて歩みます。しかし十字架のもとで異邦人、
ローマ人が十字架のイエス様を見て信じている。それはどこか、神殿が破壊されて、
つまり教会が破れたところ、信仰が破れたところに、主が異邦人ローマ人を起こして
くださるという約束にように思えます。それがどのように起こるのかがよくわかりま
せん。しかし少なくとも自分が自分だけが選ばれたとか、自分だけが祝福されている
ではなくて、主は自由に信じる者を起こされ、自由に信じる者を立たされるというこ
とです。言ってみれば、バプテスマのヨハネのように「自分は劣えるが、あの方は栄
える」ヨハネ伝3:30ということのようです。

 55,56節には、十字架の傍にいた大勢の婦人たちが書かれています。56節はその中
でも特に覚えられていた3人の婦人たちです。何度も言われますように、当時あの
5000人の給食にあるように、女性たちは人の人数にはいらなかったです。しかし復活
の後に、こうして、数えられ名前が挙げられていきます。これも又ローマ人、異邦人
と同じことだといわれています。やはり人々から軽んじられ、重きを置かれない者を
主は用いられるのです。

 新型肺炎のニュースを聞いておりますと、全く信仰を持たないであろう人が、これ
は、自国だけを一番にしている風潮に対する世界へのしるしかもしれない。もう自分
の国が一番だとか言っておれない時代に幕明けであるとか、地球温暖化に気づきなさ
いというメッセージかもしれないと感想を言われています。神様を知らなくても、こ
れは何かのしるしだと思う方があるのです。神様の裁きは、聖書ではいつでも恵みの
始まりです。暗闇の後に、光がきます。主の十字架はそれをしめしています。
 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。新型肺炎の中で多くの人が苦
しみ、生活が成り立たず、痛みを覚えています。昨日も、ある方から収入が半分なり
ました、という電話を受けました。どうか、主よ、1日も早く終わらせてください。し
かし同時にこの中に、主のしるしを見させてください。病気療養の方、手術後の方、
ご高齢の方の守りを置いてください。また幼い子供を保育する子ども園、学童の児童
クラブを守ってください。1週間の守りと導きをおいてください。あなたの教会を守っ
てください、み名で祈ります。アーメン」

    マタイによる福音書27章32〜44節     2020年3月29日
            「 自分を救ってみろ 」
 本日も主に命、新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますこ
とを、心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振
り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 先週は新型肺炎の感染者がいよいよ鹿児島でも見つかり、姶良の方でイギリス旅行
をされたとかありました。このところ海外旅行をされて見つかる方が増えています。
旅行するなとは言えませんので、海外ではやはり感染を防ぐのが難しいのでしょうか。
見えないだけに難しいです。鹿児島でも見つかったということで、ある方が関東の教
会の新型肺炎対策を持ってきてくださって、私が鹿児島教会用に修正して見ました。
対策・対応は余り変わらないのですが、又強制しても仕方がないので、このような方
向で対策を歩みましょうということで、お願いします。
 さて聖書はいよいよ年度末ですが、今年はちょうどイースターが第2週になってお
り、年度のまとめと年度の初めの聖書の聞く時期に重なりました。イースターは月齢
の暦で太陽暦からみると移動祭日になります。臨機応変にするしかありません。暦を
みますと3月と4月の第1にイースターが来るのは2024年と2026年で、あとは暫く
4月の第2、第3週にイースターがかかっているようです。
 オリンピックも正式に順延となり、1年後にはいくらなんでもできるかと思います
が、それも予断を許さないと言う方もあります。とうとう順延する費用もまた馬鹿に
ならないらしく、インターネットでは誰が順延費を払うのか、払えるのかと言った議
論があります。ただ新型肺炎蔓延とオリンピックの延期報道に紛れて、大阪の財務局
の森元問題の書類を書き替えさせられ、自殺された職員の方の妻の方の訴えが、余り
取り上げられないのが、残念です。写真を見ると本当に純朴・素朴そのものの方で、
お父さんの話ではお金がなくて大学にやれず、財務局に入局されたらしく、改ざんは
上からの命令でそうせざるを得ず、残念無念が伝わってきました。お金の力で大学に
行った安部首相と麻生大臣の「調査せず」の非情さが伝わってきて、心ある公務員の
方は、くやしいだろうと思います。神様のお取り扱いが必ずあると信じ祈ります。

 さて聖書は先週に続いて、イエス様の最後の1週間の出来事から聞いていきます。
先週はナルドの香油といわれる出来事でした。イエス様の最後の1週間にある女性は、
何か感じることがあり、イエス様に高価な香油を注ぎました。確かに勿体ないし、意
味がないと弟子達は思いました。しかしイエス様はこの女を受入れ、葬りの準備をし
てくれたと受け止めてくださったのです。弟子達の気持ちを受け止めるイエス様の能
力に驚くばかりです。私達はここまでは無理かもですが、主の後に従いたいです。
 さて本日はイエス様がピラトの前の裁判を受けられ、死刑が確定して、いよいよゴ
ルゴダの処刑場に行かれるところ、十字架に付けられ、皆に嘲弄される出来事から聞
いていきます。イエス様は総督ピラトの前に裁判を受け、しかも死刑が決まるとロー
マ兵隊達から愚弄され、十字架刑場への道は疲労困憊の中でありました。
 32節にありますが、途中でキュレネ人のシモンという人が、イエス様の十字架を担
ぐことになります。マタイ伝はこのシモンについて余り書いていませんが、マルコ伝
15章21節では、このシモンについてアレキサンドロスとルフォスの父としています。
すでに聞かれたことがあると思いますが、このシモンの子供達の名前があることから、
この後、クリスチャンになり、少なくともマルコのいた教会員となったようです。

 キレネ人これは口語訳聖書ではクレネ人でしたが、エルサレムから1200qほど西に
あり、地中海に突き出た北アフリカの町です。こんな遠い所からエルサレムに来てい
るのは、キレネ人であっても少なくともユダヤ教を信じ、エルサレムに巡礼に来てい
たのでないかと言われています。もちろんイエス様とは全く面識が無かったと思いま
す。噂もまた1200q離れた町までは、無理だと思われます。つまりこのキレネ人シモ
ンは、全くイエス様と関係ない人が、エルサレムの過越祭に来て、たまたまローマ兵
の強制徴用のために、イエス様の十字架を担がされたのです。そして、それが元でキ
リスト者になった方となるのです。全くの偶然がキリスト者になることがあります。
 キレネ人シモンが、嫌々この事をなしたのか、イエス様の疲労困憊をみて人間的に
同情したのか、全く聖書は書いていません。ただ十字架に付けられる人は、このよう
に、途中で他の人に十字架を運んでもらうというのは他にもあったようです。十字架
はこれまたいわゆる十字架だった説、T字だった説、また棒状であり、横木は無かっ
たという説があります。また最初から棒状のものが地面に立てられており、横木を後
から付け、梯子で上に上って罪人を張り付けた説、最初は下で棒に両手両足を張り付
け、それから地面に立てた説とこれも2つ在ります。中世には段々十字架の磔つけ方
の伝承が増幅して、釘はとがった釘でなくて、先が丸くなった釘で打ち込まれたとか、
十字架に付けられる時には、両手、両足を引っ張られて付けられたとか、イエス様の
苦しみ、傷みを増長する様々な想像が加えられたとされます。
 特にカトリック教会では、十字架には14の場面があって、日本でも古いカトリック
教会では、それが絵に描かれて張ってあるのがあります。1番はピラトの裁判、2番
は十字架を担ぎ、3番は地面に倒れ、4番でシモンに出会い、5番に母マリアに出会
い、6番ではベロニカに会い、8番でイエス様の為に嘆く女達を慰め、途中省略しま
すが14番で十字架に死ぬと言った具合です。私は北海道に居たとき、函館のカトリッ
ク教会に行った時に見た記憶があります。

 しかし不思議なことにマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝では、実はイエス様の十字架の
苦しみを強調するような場面はほとんどないのです。具体的にはイエス様の十字架の
傷みと苦しみは聞く者の想像に委ねられているのです。特に35節の一番の肝心の十字
架の場面は先ほど少し言いましたが、どんな風に手や足に釘が打たれたのか。最初地
面で十字架に付けられそれから上げられたのか、最初に地面からの十字架があって、
梯子をかけてイエス様は上げられて釘で打たれたのか、書いてないのです。むしろ兵
隊がくじを引いてイエス様の服を分け合ったとか、一見どうでも良いことが書いてあ
ります。確かに十字架刑を受けるものは兵隊から服を剥がれて、裸で付けられたとさ
れています。さらに死刑人の罪状については、本来は首から紐で罪状札を下げられて
いたとされています。イエス様の場合はピラトの特別の計らいで、罪状書「これはユ
ダヤ人の王である」がプレートのように、書かれたことになります。
 残忍な惨い十字架なのですが、しかし福音書は淡々と事実を書くのみです。これは
何故なのか。実はこの淡々とした書き方に深いメッセージがあるのです。それはこの
十字架に付けたものにぶどう酒を飲ませ、イエス様の服をくじ引きで分け、十字架に
他の強盗も一緒に付けられ、通行人が神を冒涜したという一連のどうでもよさそうな
出来事が実は、ひとつひとつ旧約聖書の預言の成就として受け止められるのです。私
達・異邦人がこの十字架の出来事を見て、ここを読んでもピンとこないのです。しか
し旧約聖書に精通したユダヤ人達が聞けば、ぶどう酒を飲ませられるは、詩編69:22
であり、服を分けるのは詩編22:19であり、他の強盗も一緒はイザヤ53:12、通行人の
冒涜は詩編22:8節にあるのです。
 どういうことか。聖書は、淡々と主イエス様が父なる神様の御心を成就して行かれ
る姿を示していることになるのです。苦しかった、辛かった、痛かった、大変だった。
確かにそうです。しかしどんな苦しく、辛く、大変で、痛かったであっても、そこに
は、神様の御心がある。つまりその苦しみ、辛み、大変、痛さをきちんと受けていく
イエスさまがあるのです。つまりこの十字架の苦しみは、確かにイエス様が一人で受
けておられるのですが、しかしそこに共にある神様の御心があるのです。それをまず
第1に聖書の福音書マタイ伝は、伝えたいのです。

 私達はイエス様の十字架という痛みと苦しみと辛さの極限の中に、神様が共にいて
くださり、その十字架の道をきちんと歩むように取りはからってくださる神様がある
のを示されるのです。私達も同じなのです。確かに、苦しみ、傷み、辛さが伴いどう
にもならないことがあるでしょう。今回の新型肺炎もある意味で世界的な広がり、感
染です。どこまで続くのか、どうなるのか分からない。しかし聖書では疫病は神の裁
きとして役割を持っています。つまり何かのしるしと示しがあることになります。
 私達もまた意味の分からない苦難にあうことがあり、先の見えない生活をしないと
いけないことがあります。その時、私達ははやり意味の見えない闘いを、意味がなさ
そうに見えても、戦うことが赦されています。それはイエス様の十字架が示されてい
るからです。中世の人々はそこに苦難を共にする神様の信仰を読み込みました。しか
し聖書自身は、おそらく神様に示された道を、淡々と歩むことを示すようです。苦難
と痛みと苦しみを受けつつ、しかし神様のみ心を、神様の今日の御心、今日の与えら
れた業をなしていきます。解決が見えなくてもインマヌエルを信じて日々主と共に歩
むのです。ここに主の祝福があるのです。

 39節からは、イエス様の嘲弄です。39と40節には通行人の嘲弄があります。41~43
節は祭司長、律法学者、長老達の蔑み・嘲弄です。そして44節にはイエス様と同じく
十字架に付けられた者からの嘲弄になっています。気づかれると思います。この3つ
の層の人々の嘲弄は、1番目と2番目がほぼ同じで、3番目の罪人達は書かれていませ
んが「同じように、イエスを罵った」とあります。つまりイエス様の嘲弄は同じこと
が3回繰り返されたことになります。40節を代表して聞きます。一番目は「もし、神
の子なら」という理由です。次に2つ目「自分は救えない」です。そして3つ目が「十
字架から降りて来い」です。そしてこの3つの嘲弄のテーマの頂点はもちろん「もし
神の子なら」であります。そしてここまで聞いて行くとすぐに、これはイエス様が公
生涯に入る時に、伝道生活にはいる時の最初に、サタン、悪魔に試みを受けられたそ
のことだと気づかれるでしょう。イエス様は、伝道生涯の最初につまりサタンに誘惑
を受けられ、そして何と伝道生涯の最後のこの世の命の終わりの十字架に、実はサタ
ンの誘惑を受けられたのです。
 伝道生涯の最初のサタンの誘惑「もし神の子なら」は何だったでしょうか。そうで
す。それはマタイ伝4章の荒野の3つの誘惑の1番と2番目でした。誘惑の1番目は
「もし神の子なら、この石をパンに変えてみよ」でした。誘惑の2番目は「もし神の
子なら、この神殿の高い塔から飛びおりたらどうだ、天使達が助けてくれるだろう」
でした。特に2番目の誘惑、神殿の屋根の端にイエス様を連れていって「ここから飛
び降りてみよ、天使達が助けてくれる」と「十字架から降りて来い」はまさに瓜二つ
なのです。つまり「自分自身は救えないのか」は、まさにサタンの誘惑の真髄になっ
ているのです。

 神の御子が十字架に付けられる。これは大きな躓きです。神の全能と全知と愛を持
つ方が、神の被造物の人間に殺されていく。これは絶対にあってはならないことです。
むしろありえないことです。決してあっては成らないことです。しかしここにそれが
起こります。いやここでそれが起こってはならない。本来全能の神の力が働き、全知
の神の介入が無ければならないのです。どこかでこの歴史は絶対的な力で、断ち切ら
れないといけないのです。しかしそれは起こりません。神の御子は殺されていくので
す。神様は何もしないのか、神様は何もできないのか。「もし神の子なら、石に命じて
パンにしたらどうか」、「もし神の子なら、高い神殿の屋根の頂からおりて、無傷で着
陸したらどうか」。これはしては成らないのです。亡くなられた中村哲先生が、食料を
アフガンに持っていくことでなく、井戸と用水路を引いて、自分達でパンを作ること
が出来るようにすることに重なります。まどろっこしい、実際に水の利権があって、
先生は結局殺されました。しかし助ける方法は、これしか無かったのだと思います。
 全世界は、弱い神様でなくて、何もできない神様でなくて、死んで行く神様でなく
て、権力と力で幸福をもたらす基準でイエス様を判断しようとしたのです。しかしそ
れはできないし、してはならないのです。42節に祭司長、律法学者、長老達は「十字
架から降りたら信じてやる」といいました。全くの欺瞞です。実際に3日後にイエス
様が復活された時、この人達は、誰も信じませんでした。イエス様を信じるためには、
自分の罪と対決するしかないのです。自分の弱さを知り、自分の自己中心を知り、自
分の限界を知り、自分もまた愛されて生きるしか、支えられて生きるしかないことを
知ることがどうしても必要なのです。愛し、支え合って生きる、只の人としか生きら
れない、それを妨げる自己中心の罪に気づくしか方法がありません。
 祭司長、パリサイ派、長老達は、イエス様がでなければ、ずっといがみ合い利権に
おいて、反目していたと言われます。しかしここで一致してイエス様に反抗します。
しかしこの祭司長、律法学者、長老達の罪が、その時、イエス様の真の姿が浮き彫り
になるのです。「もし神の子なら」と馬鹿にされたそのことが、イエス様は真の神の御
子であったことを示します。主はサタンの誘惑に勝たれ、十字架に死なれ、降りて来
られませんでした。本当にその十字架の死を持って、私達の罪を担い、贖われた方で
す。それが神様の御心であり、導きだったのです。イエス様はサタンの誘惑と一人で
戦われ、それに勝利されたのです。私達は神様の勝利が華々しいものでなく、淡々と
したものであり、十字架に死んで行かれることであったと示されます。本当の勝利は、
そういうものなのです。新型肺炎の勝利も、黙々と新ワクチンを研究されている名も
ない研究者によっているのだと思います。私達も又、主の御心を求めて、主の守りの
内に、主のみ旨のなることを信じて祈りつつ、今週も歩みます。

 祈ります。「天の父よ、私達は受難節にあります。主は『十字架から降りて来い』と
いわれました。サタン誘惑でした。しかしこれを退けられ、主の御心をなさいました。
新型肺炎を終わらせてください。新しい歩みの方お支えください。病気療養の方、
・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人
一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ
の全日保育を守ってください。あなたの十字架に答え、私を主と共なる信仰に用いて
ください。どうか、1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

    マタイによる福音書26章6〜13節       2020年3月22日
            「 葬りの用意 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 新型肺炎の感染はとうとう中国からヨーロッパに重点が移っています。とくにイタ
リアはどうしてあんなに広がるのか、不思議です。フランスもドイツもドイツに至り
ては、キリスト教神学はドイツ留学が多いので留学した先生方や友人からドイツの市
民生活を聞いています。話し半分でも、日本より遙かに清潔に気を付ける国民性です。
ある先生はドイツ人と一緒にアパートを借りたそうです。その時、シャワー室が共同
で、シャワーを浴びた後、そのままにしてドイツ人の同僚と交替したら「日本国民は
どうして、水をきちんと拭いて交替しないか」と怒られたそうです。シャワー室を交
替するときに、壁と床を全部涸れ雑巾で拭いてから交替する。ドイツ人は大変な清潔
好きな人達ですと言われていました。こんなドイツでもあれほど広がるのか、不思議
でたまりません。後からいろいろな研究がでるのだと思います。
 実は、先週は宮崎での連合総会が中止になったのですが、ホテルをずいぶん前にと
ってかなり安くとれたので、キャンセルするのが勿体ないと、皆さんに馬鹿にされる
かと思いつつ19日(木)の1泊の夜はわざわざ宮崎の駅前近くの3ヶ月前に予約した
ホテルに泊まりにいきました。高速道路なら2時間でいきますが、お金が勿体ないと
下道を5時間かかりました。宮崎も本当にガラガラでした。夕食を食べたお店は、お
客さんが少なく、なんと1000円のパスタの注文でしたが、それにデザートのプリンを
無料で付けてくれました。不謹慎ですが、旅行するなら今が一番かもです。お客さん
を大切にして貰えます。
 新型肺炎も、感染のない地域の小中高の休校は解除するようです。鹿児島はおそら
く本当はあるのでしょうが、感染がまだ見つかっていないので、小中高休校は解除の
可能性が高いようです。用心しつつも、新型肺炎の終息を祈り、免疫を付ける食事を
なし、うがい手洗いを徹底しすごしましょう。

 さて聖書は、4月12日にイースターを迎えますので、受難節・四旬節ともいいます
が、イエス様最後の1週間の出来事から聞いていきます。先週は、ロバの子に乗って
エルサレムに入場されたイエス様の姿でした。私達も「主がお入り用」と言われた時
には、子ロバのように何の役にもたたないかもですが、イエス様をお乗せして進みた
いです。さて本日はやはりイエス様の最後の1週間の出来事で、イエス様への香油の
注ぎです。マタイ伝では「ベタニアでの香油注ぎ」と言われます。実はこの香油注ぎ
もまた子ロバに乗ったイエス様の報告のようにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝と全
部の福音書にでています。ただしルカ伝はイエス様が香油を頭に注がれるのはルカ伝
7章で主の最後の受難週では在りません。香油を注がれた家もベタニアのシモンでな
くて、ファリサイ派のシモンの家となっています。又ヨハネ伝12章も、最後のエルサ
レム入場の前に香油注ぎをおいています。そしてヨハネ伝では頭でなくイエス様の足
に香油を塗って自分の髪の毛で拭いたとされています。ですから厳密に言うと3種類、
3回の香油注ぎがあったのかもしれません。しかしおそらくイエス様に香油を注ぐ出
来事は受難週の香油注ぎが最も覚えられ、中核になったとされます。
 早速6節から聞いていきます。まずこの出来事が起こった場所は、ベタニアのシモ
ンの家です。ここは重い皮膚病すなわちハンセン病の方の家でした。当時も明らかに
ハンセン病を出した家はこうして皆に覚えられたのです。そしてイエス様がこうして
エルサレムに来られた時には、ここに滞在されたのです。おそらくこのシモンはイエ
ス様にハンセン病を癒して頂いたのであろうと推測できます。イエス様は最後の1週
間は、昼中はエルサレム神殿の境内に入られ、夜になるとこうしてエルサレムのすぐ
近くのベタニアのシモンの家に行かれました。
 ベタニアにはマリアとマルタの姉妹と兄弟のラザロの家もありました。このベタニ
アのシモンとマリアとマルタの家の関係はよく分かっておりません。ただ状況からは
シモンの家の方が裕福であり、食事を提供でき、またこの一人の女が自由に来ること
が出来るほどの広さというか、空間が自由だったようです。

 7節に一人の女が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってきました。そしてす
でに準備をして食事の席についているイエス様の頭に注ぎ掛けます。マルコ伝14章3
節では「壺を壊し」とあります。注いだといっても、大切に無駄にならないように、
こぼさないように注いだのでなく、言ってみれば容器を壊し、惜しげもなくガバとか
けたような状態です。又マルコ伝14章とヨハネ伝12章では、この高価な石膏の壺の
香油は300デナリオンであったと報告されます。これは当時の労働者の1年分の年収
に匹敵します。借りに1日1万円とすれば、300万から400万になるのです。こんな
高価な香油を誰が持っていたのか。どんな婦人だったのか。ご存知と思いますが、2
つの説が言われています。
 1つは、ローマ帝国の貴族か、それなりの身分の金持ちの婦人でイエス様に対して
日頃から心酔していたのでないかとの説があります。2つは、この女はいわゆる遊女
であり、香油は仕事のために必要なものであったというのです。後半の説をとる人は、
この婦人の名を遊女でイエス様を信じたマグダラのマリアに同定するものもあります。
中世では、多くがこの婦人をマグダラのマリアであったとしているそうです。
 しかしマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ共にどういう訳かこの人の名を上げていませ
ん。つまりこの人はあえて4つの福音書共に名前無しで伝えられたのです。なぜ名前
なしのある婦人で伝えられたのか。それはこの婦人が特別な婦人ではなく、誰でもこ
の婦人に、自分を同定し、入れることができる為であろうと言われています。つまり
この婦人は確かに300万の香油を主に注ぎ、とんでもないことをしたのです。しかし
それは特定のある人が、特定のある場所でしたことでなくて、イエス様に対しては、
誰でも、いつでもこの準備をしておくということでないかと言われています。
 実は香油を食事の前に体に注ぐのは、格式張った食事やお客さんを呼ぶ食事になる
時には、実際にあったようです。しかしそれはあくまでも食事の前であったそうです。
ここでのように食事の席につかれてしまって、まさに食べようとされる時は、むしろ
無礼であったかもしれないと言われています。つまりこのある女の香油注ぎは通常の
慣習からいくと無礼にも当たり、このある女の緊急性と切迫性を示すとも言われてい
ます。

 8節から12節は、今度はイエス様と弟子達の対話になります。ここからの弟子達と
対話はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝に共通しています。ルカ伝だけが、弟子でな
くて、ファリサイ派のシモンが問いをだしています。しかしマタイ、マルコ、ヨハネ
伝は全て弟子達が問い立て、特にマタイ伝とマルコ伝は、そこにいた弟子達の何人か
が言ったとあります。しかしヨハネ伝は問いを立てたのはユダだったとしています。
問いはご存知のように非常に有名な問いです。しかも同時に余りにも正当な問いです。
それは「なぜ、こんな無駄をするのか。9節、高く売って、貧しい人達に施すことが
できた」というのです。
 もちろんヨハネ伝では、注釈がついており、ヨハネ伝11章6節に「彼がこういった
のは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく。彼は盗人であって、金入を
預かっていながら、その中味をごまかしていた」とあります。ですから確かにユダは、
本当には貧しい人のことを考えて言ったのではないかも知しれません。しかしたとい
そうだとしても、ユダが言ったにもしても、他の弟子達が言ったにしても、出された
問いは、古今東西、真面目な宗教が必ず問われる問題であります。
 それは、申命記15章11節に「この国から貧しい人がいなくなることはない。私は
あなたに命じる。・・・生活に苦しむ貧しい人に手を大きく開きなさい」です。現実にイ
エス様はマタイ伝では2回も「私が好むのは憐れみであって、生けいけにえではない」
とマタイ伝9章13節、12章7節に言われています。香油を注ぐ、油そそぎのような
宗教行事に、お金を掛けるよりも、明らかに貧しい人への憐れみ、施し、正義や公平
への行使が大切なのです。イエス様があえて2回も言われているのは、旧約のホセア
書6章6節の引用であって、この最初のホセアの箇所もまた、アッシリアが責めてく
る前に、イスラエルの政治が、全く貧しい者を省みず、富める貴族達はどんどん富み、
貧しい民衆はますます貧しくなる政治に対して、予言者イザヤと同世代の予言者ホセ
アが言ったことです。マタイ伝9章では、イエス様が取税人や罪人達と一緒に食事を
していることへの批判に答えたものです。またマタイ伝12章7節では、安息日規定を
金科玉条に守り、病気の人をも、安息日に癒さないファリサイ派に向けて言われたも
のです。つまり宗教の規定が、貧しい人を差別し、馬鹿にし、宗教の規定が貧しい人
を苦しめている時のことでした。
 つまりユダか弟子達が言った「なんと無駄なことをするのか、300万円をどぶにす
てるようなものでないか、貧しい人に施してほしい」というのは、イエス様こそがも
っとも大切にしていることでもあったのです。しかしイエス様は、そのユダヤや弟子
達の問いに対して、なんと反対のことを言われるのです。

 10,11節です。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれた。貧しい
人はいつもあなた方と共にある。しかし私はいつもいるわけでない」つまり私達は宗
教行事に対する信仰批判の中に小信仰、名誉欲、恐れ、妬み、預言者気取りが入って
ないのかを問われるのです。本当に心から、貧しい人のことを考えてユダやある弟子
達は言ったのか、です。自分がそれをすることができない小信仰の裏返しでないのか。
正論を吐いて、自分の名誉欲を満足させているのでないか。自分の財産を失うのが恐
くて、そんなことをされたらたまったものでないという心が言わせているのでないか。
このことを惜しげもなくできる婦人に対する信仰の妬みがあるのでないか、そしてい
かにも預言者のごとく、社会正義を振りかざしているのでないか、です。
 つまりここでは信仰とは、社会倫理の実践ではない。社会正義の実践でもない。時々
巷に張ってある「世界人類を愛しましょう。」ではないのです。信仰とは、イエス・キ
リストと言う人格に、本当は神格ですが、ここに自分の全身全霊を、全てを委ねるこ
とであり、限界のない傾倒と信頼をするものなのです。なぜこの婦人のしたことが、
この福音と共に全世界に宣べ伝えられるのか。全世界に伝えられないといけなのか。
ここが問題なのです。

 もう一つ、12節にイエス様は「この人は私の体に香油を注いで私を葬る準備をして
くれた」と言われます。これは、この女に人に聞いたら「そのつもりでしましたか」
と聞いたら、恐らく「分かりません」と答えたのだと思います。これはイエス様がこ
の女のしたことに対する判断であり、イエス様の評価です。この女の人は自分でもし
たことがよく分からなかったのでないかと思います。なぜ300万円もする高価な香油
をイエス様に、無礼の状態でも、降り注いだのか。イエス様の女弟子として、イエス
様を影ながら仕えて来た。イエス様の話を聞いて来た。身辺のお世話を他の女弟子と
共にしてきた。今回エルサレムに入場に子ロバに乗りながら入場される姿を見た。宮
清めされるイエス様を見た。なぜか、十字架を前にしたイエス様の緊張感、悲壮感を
感じてしまった。何か近々にあるのでないか。ここは時間を超えて、時を知るこの女
性の姿が前面にでます。この女もまた本当の十字架の意味は分からなかったと思いま
す。イエス様の死までは、思い至らなかったと思います。しかし何かを感じたのです。
そしてそれに自分の持てるもの高価な香油で答えたのです。具体的に時に、教会でも
あるのです。時を知って、自分の持てるものを、持ってこられるのです。
 私達はそれに文句を付けるわけには行きません。イエス様はこの行為に「私の葬り
の準備した」と受け止めてくださったのです。これはとても大切です。信仰の浅い人、
未だ教会をよく分かっていない人が、とんでもない判断をすることがあります。信仰
の長い人から見れば、又教会の長い人からみれば、なんという愚かなことをするかと
なることがあります。しかしその人は、その人なりに、イエス様と向かわれたのです。
それは誰も否定できないし、否定されては成らないのだと思います。

 あるテレビドラマを見ておりました。少し前有名な俳優さんで、大夫有名になった
ようです。お巡りさんの最後の訓練をする学校の教官が主人公の話がありました。私
は全部見たわけでありません。途中何回目かの話でした。非常に優れた生徒で、法律
の試験も、射撃の試験も、犯人逮捕の試験も、言うこと無しの生徒がいました。他の
生徒は、難癖があったり、家庭の問題があったりで、どんどん止めていきました。し
かしこの生徒は、難なく全ての試験をクレアーしていくのです。しかしこの教官は、
この優秀な生徒を落第生にして、最後の追試を受けさせるのです。理由は教官がいう
には「お前は同僚に対する尊敬、愛がない」でした。私はこの原作を知りませんし、
脚本家も知りません。しかしこの原作者・脚本家はキリスト者かもしれないと思いま
す。それは全部優秀にできるからこそ、落第しなければ成らない道、真理、命です。
同僚に対する尊敬がないなら、できない仕事があるということです。その人はそれが
どんなに優秀でもしてはならないのです。優れて優秀だからしてはならないです。
 イエス様がこのある婦人に「私の葬りの準備をしてくれた」と判断されたのはこう
いう事だと思います。私達もまた主の十字架と復活を受け、さらに最後の1週間の出
来事全部が福音だと、主の恵みを受けて1日1日を、祈り、生きていきます。

 祈ります。「天の父よ、私達は受難節にあります。主の最後の1週間も福音と言われ
ています。子ロバもこの名も無き婦人も福音です。どうか、主に献げる信仰に生かし
てください。新型肺炎を終わらせてください。病気療養の方、・・・
・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導
きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの全日保育の働きを
守ってください。あなたの十字架に答え、私を在る婦人の信仰に用いてください。ど
うか、1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

  マタイによる福音書21章1〜11節       2020年3月15日
            「 主がお入り用 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 新型肺炎の話からはいるのも、又かと思われるかもですが、とうとう佐賀と長崎に
きました。九州で残るは鹿児島だけになりました。おそらく鹿児島にきていると思い
ますが、検査にかからないだけでありましょう。3週前に言いましたが、元の当教会
員で鹿児島大学の獣医学部におられた動物疫病感染学の専門である清水先生は「日本
の全ての病気は、実は鹿児島から始まるのです」と言われていました。だからもう来
ていると思って対処した方がいいと思います。
 実は、昨日はI幼稚園の評議員会にでてきました。マスクをつけて、ザビエル
ホールの体育館の全部を使って13人の会議でした。私は「今日は、一杯委員の方が来
られるのですね」と言うといいや「園医さんから会議をするなら、1人1人が出来る
だけ離れて、マスクと消毒をしてください」とのことでした。一人に1つの机が与え
られて、大きなザビエルホールの真ん中を一杯あけて、13人が会議をしました。なん
か異様な会議でした。ここまでしなくても、と思いましたが、出来るだけ感染のリス
クをなくした方がいいとのことです。伊集院幼稚園では、土曜日は2号認定、3号認
定児だけが利用するとなり、学童保育は完全に土曜休みにしたそうです。やはり自分
の園から感染者をだしてはならないということでしょう。

 何度も思いますが、今回の新型肺炎はやはり私達への警告に思えてなりません。何
でも自分の力でできると思い、計画でできるという人間の驕り、私達への警告に思え
て成りません。高校野球もなくなり、オリンピックもかなり大夫危なそうです。城西
高校野球部は初出場で選抜大会がなくなり、残念無念でしょう。東京オリンピックも
招地に賄賂を使ったとか言われており、委員長が交代されました。本当に歴史は人間
の思い、人間の考え通りにならない。私達の計画はいつも神様の守りがあればこそ、
神様の導きがあればこそ、の制限付なのです。マタイ伝5章37節「あなた方は『然り、
然り』、『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者からでている」とありま
す。私達は神様の赦しの元に生かされてあるのです。
 9年前の東北地震の時にも、人間はまだあんな大きな地震の予知もできないのかと
思いました。今回もまた肺炎自身は昔からのずっとある病気なのに、薬の開発が遅れ、
やはりこれほど止めることができないのかと、人間の力の限界を示されます。手洗い、
うがい、免疫力を高めるのが対処です。しっかり祈りつつ過ごしましょう。

 さて聖書はいよいよ後4つの主日をすぎるとイースター復活祭です。今日からは主
の十字架と復活の最後の1週間の出来事から聞いて行きます。本日はそのイエス様の
最後の1週間、受難週の始まりの主日の出来事からです。ここはロバの子に乗られて、
エルサレム入場をされたイエス様の出来事が示されています。イエス様のエルサレム
入場は、マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章、ヨハネ伝12章と全ての福音書に書
かれ報告される出来事です。つまりこのエルサレム入場からいわゆるイエス様の十字
架と復活の一連の出来事なのです。十字架と復活にエルサレム入場があるのは、十字
架と復活の出来事がエルサレム入場と結びついて伝えられていたからです。今回はマ
タイ伝の伝えるエルサレム入場から聞いていきます。
 イエス様の最後のエルサレム入場は、オリブ山の梺の町ベトファゲから始まります。
このベトファゲは、エルサレムから1qくらいの町だったそうです。天文館と鴨池よ
りも近い位置にあることになります。ここからイエス様は2人の弟子にロバを借りる
ように命じられます。2人の弟子は、ペテロとフィリポではないかというのが、伝承
であるそうです。しかし聖書からは全く誰であるかは分かりません。

 2節にあるように、イエス様が乗られるロバは、イエス様の所有ではありません。
ロバはつないであり、子ロバも一緒にいるとあります。どうもマタイ伝ではロバと子
ロバが一緒にいるのが、イエス様言われたしるしのように読めます。3節には、もし
誰かからが、何か言ったら「主が、お入りようなのです」と言いなさいと言われまし
た。ここから1つの説が言われています。1つはこのロバとロバの子の所有者とイエ
ス様は、知り合いかかで予約がしてあった。「主がお入りよう」というのが、合い言葉
になっていたと言うのがあります。つまりこのロバの所有者とイエス様は合い言葉を、
前もって決めていてそのことばを使ったというのです。日本でしたら、「山」と言えば
「川」と答えて、仲間であることを確認します。それが「主のお入りよう」という言
葉だったと言うのです。なるほど面白い取り方ですが、おそらく違うでしょう。
 それはやはり4節に続くからです。4節では、イエス様がエルサレム入場されるの
は「預言者を通して言われていたことが、実現するためである」とあります。イエス
様がエルサレム入場されるとすれば、それは預言の成就でしかありえない。5節の引
用は、ゼカリヤ書9章9節と言われています。この預言は、終末の日にエルサレムに
来られるメシア、キリストは「柔和な方で、ロバに乗り、それは荷を負うロバの子、
子ロバである」とあるのです。このメシア・キリストが、柔和の方で、荷役のロバに
乗られ、しかもそれは子ロバである。これは、ユダヤ教のパリサイ派、律法学者の信
仰からは、全く考えられませんでした。当時のメシア思想、キリストに期待されたの
は、ローマ帝国によって植民地にされているイスラエルを、ダビデのように力強い軍
隊によって解放し、イスラエルの独立を勝ち取る王でありました。
 そもそも王が柔和であり、軍馬でなくて、荷役のロバに乗り、それがしかも子ロバ
に乗る。これは全く予想もされない、期待もされない、全く当時のメシア信仰を馬鹿
にしたような、雑巾を顔に当てるようなそのような酷い話であったのです。しかし当
時は注目されていませんでしたが、まさにゼカリヤ9章9節は正にその預言をしてい
たのです。ここのこのゼカリヤ預言は恐らく人々がよく知って理解していたと言うよ
りも、イエス様がそうされて初めて皆に気づかれた預言なのであろうと思います。
 ゼカリヤは預言していたのです。本当のメシア・キリストは、力強くローマ帝国を
蹴散らして、植民地を解放し、独立を勝ち取る王でない。柔和で人々の苦しみを知っ
ており、軍馬に乗らない、つまり戦争をしない王であるということです。すでにマタ
イ伝11章29節には「私は謙遜で柔和の者である。私の頸きを負い、私から学びなさ
い」とイエス様は言われていました。聖書の示す真のメシア・キリストは、まさに柔
和の方、荷役のロバに乗り、子ロバに乗る方でした。メシア・キリストが何の勇まし
さもなく、むしろこっけいともいえる子ロバに乗られる。当時これはとても受け容れ
ることができない出来事だったのです。
 しかし当時の人は、馬鹿にし、パリサイ派、律法学者からは全く相手にされないの
ですが、6節にある通りに、弟子達はイエス様が言われる通りにしたのです。はやり
ここに弟子達の真髄があるといえましょう。当時の人々の思い、考えとは全くことな
り、当時のメシア期待、メシア待望とは大夫かけ離れている。しかし「主のおことば
ですから、言われた通りにやってみます。」これが弟子の姿であり、いよいよイエス様
の最後の1週間になって、今一度示される本当の弟子の姿です。
 この世からは相手にされず、してもまず無理と分かっているけどそれでもやってみ
る、というのは聖書の一つの大きなテーマです。マタイ伝5章5節には、シモン・ペ
テロが、イエス様の弟子になった時のことが書かれています。ここでは漁師のペテロ
が一晩中働いても魚がとれず、その時、イエス様が「沖にこぎ出し網をおろしなさい」
と言われて「夜通しとっても取れませんでした。しかしお言葉ですからやってみまし
ょう」と網を降ろすと大漁だったとあります。ペテロは最初から無理だと分かってい
ても、しかしお言葉であればやってみる。その信仰の持ち主でした。
 又、マタイ伝14章29節には、イエス様が湖の上を歩かれた時「主よ、あなたでし
たら私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」とやはり無理だと分
かっているのに、主のことばがありさえすれば、水の上を歩けると信じたペテロがい
ます。しかし実はマタイ伝8章8節には、ペテロがそう信じる前に、ローマ人の百卒
長は「私はあなたを自分の屋根の下に迎えできるようなものでありません。ただ、ひ
とことおっしゃってください。そうすれば私の僕は癒されます」という信仰を示して
いました。そして百卒長の僕は癒されました。
 イエス様がロバとロバの子に乗られる、ロバを使われるエルサレム入場の出来事は、
このようなペテロの召命の時の大漁の出来事、ガリラヤ湖の水の上を歩かれる姿、さ
らにローマ人の百卒長の信仰の僕を癒す信仰とある意味でイエス様の言葉、み言葉を
信じる信仰のまとめとして示めされているのです。弟子たちは本当にイエス様が「『主
がお入りよう』といえば、所有者はロバと子ロバを解いてくれる」という言葉を信じ
て、そうした信仰を示しています。私たちはいろいろな苦難や艱難があります。今も
まさに新型肺炎という疫病の苦難があります。しかしその中にあっても、主の言葉を
信じ続け、また主の言葉を実践し続ける。礼拝、祈祷を続ける。さらに聞き続け、又
聞いたらそれを行ってみることを教えられるのです。

 7節からは、群衆がイエス様を歓迎していく姿が書かれています。群衆はおそらく
世界中から集まって過越祭を、エルサレムで祝おうとしている人々でありましょう。
かれらは巡礼としてエルサレムにそれぞれの生まれた国から来ていたと思われます。
エルサレムに巡礼にくるほどですので、群衆の信仰心は熱かったと思われます。当然
メシア・キリストが来るという信仰をもっていたはずです。ダニエル12章が預言する
人の子、雲に乗ってくる方を期待していたと思います。ロバと子ロバは引いてこられ、
人々は上着を脱いでロバの上に置き、その上にイエス様は乗らました。

 8節には王様の歓待式のようなまた即位式のような様子です。群衆は自分の上着を脱
ぎ、道に敷き、他の人は木の枝を切って道に敷きました。これらの姿は、当時の王様
や位の高い貴族がエルサレムに来た時によくなされたようです。そして9節にはイエ
ス様の前に行く者としんがりの者が、皆叫んで讃美しました。この讃美歌は、詩編118
編26節とされています。「ダビデの子にホサナ」ですが、本来の詩編118編25節は
「どうか、主よ、私たち救い、どうか、主よ、私たちに栄えよ」と祈りと願いの詩編
になっています。しかしここでの群衆のホサナの叫びは、実は喜びの叫びになってい
ます。本来は救いの求めでしたが、実際には、喜びの叫びになっている。これは、よ
くとれば、神への祈り・願いは、神様にあってすでにかなえらえたと信じなさいとの
ことです。成就を先んじて祝っているとなります。しかしこの群衆が本当にイエス様
の真の姿をとらえていたのか。力のメシア・キリストでなくて、軍隊からの解放のメ
シア・キリストでなくて、罪からの解放、罪の赦し、謙遜のメシア・キリストである
と理解していたのか。これは十字架の裁判において、明らかになります。結論からい
うと誰も、イエス様の本当の姿を知らなかったのです。

 10節に「群衆が叫びつつエルサレムに入場されると都中の者が一体これはどういう
人だと言って、騒いだ」とあります。私たちはイエス様のエルサレム入場に際して、
群衆のように、ホサナ、ホサナとお祝いするものを一方に見ます。しかし他方にエル
サレムの住民のように胸騒ぎをするものがいます。つまり人々は2つに分かれたこと
がわかります。
 実はこのエルサレムの住民が騒いだのは2回目なのです。覚えておられると思いま
すが、マタイ伝2章3節、それはイエス様の誕生の時、東の国の占星術の学者たちが、
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王に聞
きに来た時でした。ここから33年前なのです。神の都エルサレムは、33年間何も変
わっていなかったのです。イエス様が誕生された時、エルサレムの人々はメシア・キ
リストの誕生に誰も喜ばず、誰も期待せず、ヘロデ王は幼子の殺害を計画、実行しま
した。エルサレムの人々は、不安を抱いたのです。ヘロデは自分の王権が脅かされる
ことを恐れ、エルサレムの人々は日常生活がまた乱されることを嫌ったのです。今ま
さに、エルサレムの住民はメシア・キリストの入場に、誰も参加せず、心が騒いでい
るのみです。今回またも真のメシア・キリストを迎えませんでした。
 群衆はあまり理解せず、しかし何かあるかとイエス様を迎えます。しかし後から裏
切ります。エルサレムの人々は、相変わらずに無関心です。ちょうどイエス様がその
ような中でお生まれくださったように、今も又、そのような無関心の中でイエス様は、
エルサレムに入場されるのです。
 私たちはどこにいるでしょうか。イエス様の言葉を信じ委ねて、自分を、主を運ぶ
ロバと子ロバに置くでしょうか。群衆のようにわけもわからずにイエス様を担ぎ叫ぶ
でしょうか。エルサレム住民よろしく、自分の生活の邪魔をするなと無関係無関心を
決め込むでしょうか。イエス様のエルサレム入場は私たちへの心への挑戦でもありま
す。日々私たちは神様から挑戦を与えられ、日々これに応戦するのです。群衆は、こ
の人は誰だと聞かれて「預言者イエスだ」と答えました。これまでの何人もでた普通
の預言の一人であるのか。申命記18章15節の「私のような預言者を立てる」の唯一
の預言者としてイエス様のもとにすべてを委ねるのか。イエス様のエルサレム入場は
私はどうするのかが問われているのです。主の恵み、十字架の恵みに答えて、自分を
を荷役のロバ、子ロバとして歩みことが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。受難節の中にいます。いよい
よ後4回でイースターです。どうか、十字架と復活を思いつつ過ごさせてください。
主よ、ピネハスの祈りに続いて、新型肺炎を終わらせてください。病気療養の方、外
・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人
一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ
の3週間前倒し保育の働きを守ってください。あなたの十字架に答え、私を荷役のロ
バ、子ロバとして用いてください。どうか、1週間を導きください。み名によって祈
ります。アーメン」


    ヨハネによる黙示録2章18〜29節       2020年3月8日
            「 固く守れ 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 このところ1ヶ月ほど新型肺炎の事から話していますが、相変わらず広がる一方で
す。とうとう韓国と中国から来た人は2週間留め置くとなりました。新型肺炎は山口
と宮崎県にもきました。すでに鹿児島に来ているが、検査にかからないだけと言う方
もあります。子供には係りにくいとされますが、それでも幾人かは係っています。一
つの特長はクラスターと言うそうですが、集団でかかる特長があるようです。ですか
らライブハウスのように余りにも近い環境で長くいるのは良くないようです。教会は
もともと皆さん離れて座られていますが、できだけ離れて座るのを心かけて下さい。
 この1週間は聖書の疫病のところを読んでいます。聖書のヘブライ言語では疫病は
ヘブライ語で2つ在ります。マギファーとディベールです。不思議なことにその一つ
の疫病を示す言葉ディベールは、なんと言葉を意味する示すダバールという言葉と同
じ子音を使うのです。示唆的です。「言葉は神であった」とヨハネ伝1章1節にあるよ
うに、言葉は人間活動の根源です。そして聖書では神様が言葉によって示されます。
そして聖書はその言葉の語源をもって、疫病にも当てるのです。人間の存在に不可欠
の言葉は、常に疫病と共にある。やはり私達は神様を信じて、神様と共に歩むように
罪を自覚して歩みなさい、と言うことだと思います。人間を人間たらしめる言葉は、
同時に疫病にも使われる。それは言葉を大事にしつつ間違えて疫病にならないように、
気を付けて歩みなさいということのように思えます。

 さて、本日の聖書は第2週になりましたので、いつものように使徒の手紙から聞く
と言うことで、ヨハネの黙示録を開いています。ヨハネの黙示録は手紙とは違います
が、イエス様の弟子・使徒の言葉には間違いないです。本日は2,3章にまたがる長
老ヨハネの7つの手紙の4番目、ティアティラ教会に向けた手紙です。18節から早速
聞いていきます。
 まずティアティラの町ですが、先月に聞きましたベルガモン教会の南東に60qくら
いのところにある町です。すでに言いましたが、黙示録の7つの教会はエフェソをス
タートして時計回りに70から80qの距離をおいてくるりとラオデキアまで一周する
かのようになっています。おそらくローマ帝国の郵便伝達の道をなぞったとも言われ
ています。ティアティラの町ですが、なんと言行録16章14節にパウロが第2伝道旅
行をした時に、フィリピの町でパウロを接待し、家に泊めてくれたのが、ティアティ
ラ出身の紫布を商う商人でリディアと言ったとあります。まさにこのリィデアこそ当
時のティアティラの経済活動の証人でもあると言われています。当時ティアティラは
ローマ帝国にとって政治・軍事的には余り重要な町でなかったようです。しかし商業
の町として、このように紫布の商人達の組合本部があり、経済、商業都市として栄え
ていたとされています。
 港町でもないティアティラが商業組合の本部の町であったとは不思議ですが、内陸
の道路の幹線の交わるところで交通の便が良かったとされています。ティアティラ教
会は誰が立てたのか。この言行録16章のパウロを支えたリュデアが故郷に帰って教会
を建てたのか、もちろん何も分かっていません。しかし当時確かに長老ヨハネが7つ
の教会に書く手紙を、ここに書くだけの教会になっていたのは確かです。

 19節には、このティアティ教会は、パウロを支えたリュデアを出した程の地域で真
面目によく働く人が多かったのでしょうか。「あなた方の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐
を知っている」と言われています。教会の様子はヨハネのいるパトモス島にも聞こえ
ていたのです。この行い、愛、信仰、奉仕、忍耐は、具体的はどういうことかですが、
残念ながら分かっていません。しかし具体的には分かりませんが、初代教会がどうし
て、あのローマ帝国の中で伝道を広げることができたのか。もちろん4世紀になると
ローマ皇帝がキリスト者になるくらいですので公的な後ろ盾もありました。しかし紀
元1世紀から3世紀の間、イエス様が誕生され十字架復活を受けて、紀元299年代ま
では公的な後だては全く在りませんでした。ちょうど日本のキリスト教のように、な
ってもならなくても全く社会生活には関係がない状態だったのです。むしろローマ皇
帝礼拝をしない変な人達だったのです。言行録24章5節には、パウロは疫病の様なヤ
ツで「ナザレの分派の首謀者です」とローマの官憲から訴えられています。
 しかしなぜかローマ帝国内に、キリスト者はじわじわ増えていきました。その原因
をいろいろ教会史家が研究しています。そして結論は奇跡が起こった、不思議な力が
あったということでないとしています。まさに愛、信仰、奉仕、忍耐をもって、人々
に仕えたと言われています。ローマ帝国には今のような社会福祉の制度はなく、行き
倒れの旅行者がいれば、教会が助けました。戦争や病気でやもめになった人、親に死
に別れた孤児達を教会は助けたのです。教会は何の力も何の権力も無かったのです。
しかしお互いに病気の人を見舞い、困った人を助け、身体障害を持った人、身よりの
ない子供達を支えたのです。つまりイエス様の愛、奉仕、忍耐の業をなしたのです。
 振り返ってみれば、疫病のごとくローマ帝国に少しづつ少しづつ増えており、とう
とう有名なコンスタンチヌス大帝は、迫害するより自分がキリスト者になった方が、
ローマ帝国はよく治まるとして、十字架をもって戦えという夢を見て、キリスト者に
なってしまいました。ティアティラ教会はなんの変哲もない教会です。しかし行いと
愛と信仰、奉仕、忍耐を持って、キリストに仕えて行きました。そして19節「近頃の
行いは最初の行いに優っている」とつまりティアティラ教会の行為は、パトモス島に
いる長老ヨハネの耳にはいる程の教会になっていったのです。ある意味でティアティ
ラ教会は初代教会で、最も普通の一般的な教会だったのかも知れません。

 20節にはしかし、長老ヨハネはティアティラ教会にひとつ言うべき事を持っていま
した。それが書いてあるようにイゼベルの放置です。イゼベルと言ってももちろん本
名ではありません。教会のある女性を象徴的に言っているのです。なぜ、このイゼベ
ルと言われた女性がティアティラ教会にそんなに力を持っていたのか、よく分かって
いません。一つの仮説にこのイゼベルは言ってみればティアティラ教会の監督・牧師
の奥さんだったのではないかという仮説があります。今の教会はまず牧師の奥さんが
教会を牛耳っているというのはめったにないと思います。しかし初代教会では、時と
してあったようです。
 イゼベルと言うのは、列王記上16章にあります。北イスラエルのアハブ王の王妃で、
政略結婚においてシリアからイスラエルに嫁いできました。バアルの神を信じており、
主なる神の祭司達を殺して、バアルの神の祭司を擁護し、シリアのバアル神をイスラ
エルに広めたのです。とうとう預言者エリヤを迫害したこともあります。列王記上21
章のナボテの畑のところでは、ナボテを殺して土地を取り上げ、自分のものにしたこ
とで有名です。イスラエルでは土地の売買は神様の嗣業で出来なかったのです。所有
者が死んだ時だけにできることに目を付けたのです。しかしこのことで神様の怒りに
触れて、列王記下9章では、イエフと言う人が、預言者エリシャに油を注がれて、イ
ゼベルを打つことになります。イゼベルというのは、イスラエルの信仰を曲げていく
そのような邪悪な者の象徴の言葉です。

 20節には具体的に、2つのことが言われています。偶像に捧げた肉を食べさせたこ
と、みだらなことをさせていたことです。偶像に献げた肉を食べさせたというのは、
第1コリントの手紙8章にもでてきています。パウロ時代からの初代教会の大きな信
仰の問題でした。すでに何度も言いましたように「偶像なるものはない、唯一の神し
かいない」ので、偶像の肉を食べることは問題無いとパウロは知っていました。しか
しその信仰を全ての人が持っているわけではない。偶像の肉を食べることは、偶像に
関わることだと受ける信仰の弱い人がおり、現実に躓く人がいる。それなら自分は偶
像に備えられた肉を食べないとパウロは言いました。第1コリント8章12節です。正
しい信仰が常に正しいわけでない。愛によって働く信仰が正しいのです。

 21節に教会は、この自由主義のイゼベルに悔い改めを迫ったようです。しかし一行
に悔い改めなかったようです。自分は強い信仰のままでいいとしたのです。弱い人の
ことを省みなくていいのだ、と言うのです。自分が強くなれというのです。どこか自
己責任論を振り回して、実際に信仰の弱い人をバッタバッタとなぎ倒すかのような姿
だったのでしょう。みだらなというのは、実際に性的な不倫のことだという取り方と
やはり偶像礼拝にそそのかすことだという取り方があります。おそらくこのイゼベル
派と言われた人は、偶像はいない、唯一の神様しかいない。だから偶像礼拝をしても
全く問題ないというような論理を振り回したのでありましょう。

 22、23節には、この「イゼベル」と「この女と共にみだらなことをする者」と「こ
の女の子供達」という3つのグループへの指摘があります。主は、主の教えを故意に
曲げる者、悔い改めの機会があるのに、それを拒絶するものを、そのままにはされま
せん。23節には3番目のグループへの審判「この女の子供達を撃ち殺そう」とありま
す。不思議なことに、原文は訳出されていませんがここの「打ち殺す」は、「疫病に殺
す」が直訳原文となっています。当時は、疫病は神様の審判の道具だったのです。今
そんなことを言うと笑われますし、不謹慎かも知れません。
 しかしこの世界的な疫病とも言える新型肺炎の蔓延は、単なる偶然であり、病気の
変異の一形態であると言うことだけになるのか。病気の進化の一段階だけであるのか、
これはよく考える必要があるかも知れません。全世界に広まり、もう中国が、韓国、
イタリアがと言っておれない。世界に広まるのは人間に対する警告ではないのか。疫
病は、人間が普通にできる人々の交流や交わりを完全に断ちます。一時期とはいえ韓
国、中国と往き来が出来ません。お医者さんやそれを助ける公務員の方が係って行く
中にも深刻さがあり、最終的にはワクチンができると思いますが、時間が掛かります。
何でもかんでも人間の自分の思った通り、人間の計画通りに出来ると思うな、神への
祈りを持って、神への感謝をもって歩みなさいということかも知れません。

 24節には「サタンの奥深い秘密」とでてきます。イゼベル派の人々は、普通の礼拝
の中に潜んでいたのでしょう。なにくわない顔で、いつも礼拝にいるのです。しかし
心には、自分たちはサタンの秘密を知っている、サタンの奥深い秘密の教えを体得し
たと思っていたようです。つまり自分たちは何をしても大丈夫、何をしても神様から
咎められることはないと思っていたようです。しかし23節にあるように、神様イエス
様は「人の思いや判断を見通す方」であるのです。主はイゼベルの教えが蔓延するな
かで、きちんとこの女のお教えを受けない方、拒否する者をご存知だったのです。

 25節に、主はイゼベル派に属さない、きちんと主の教えを守る人をご存知です。主
は「今持っているものを固く守れ」と言われます。また主は、「あなた方に別に重荷を
負わせない」とも言われます。私達は今持っているものを知らないでいることがあり
ます。今持っていることがいかにすごいことであるのか知らないで、生きることが確
かにあり得るのです。
 何度かお話ししましたが、アンゼルセンの童話「みにくいアヒルの子」は、アンゼ
ルセン自身の物語であるという説があります。白鳥の卵が何故か、アヒルの巣に入り、
白鳥はアヒルたちと一緒に育つのです。白鳥はアヒルと違い幼鳥時代は灰色で過ごし
ます。兄弟達にも、回りにも醜い子だ、灰色だと馬鹿にされて育ちます。しかしお母
さんは、当然ですが自分の巣の卵から孵ってきたのですから、最後まで白鳥のアヒル
の子を支えるのです。「お前は灰色だが、きっと神様が何かをしてくださるに違いない」
と支えるのです。そして雪が降り、雪が止み一冬が過ぎ、春がきました。醜いアヒル
と言われたアヒルは、実は白鳥で、誰よりも遠く、誰よりも高く、飛べたのです。
 アンゼルセンも又同じです。貧しい靴屋の息子として生まれ、母だけがアンゼルセ
ンを信じていました。15歳にして劇団にはいりますが、誰からも注目されず、アンゼ
ルセンが書く戯曲は、ことごとく馬鹿にされ、取り上げられません。しかし劇場の支
配人コリンと言う人が一人のみ、アンゼルセンの才能を信じるのです。そして支えて
いきます。アンゼルセンの童話に死ぬことが多いのは、アンゼルセンは自分は死んで
からしか、評価されないと思っていたらしいとあります。しかしアンゼルセンは70歳
で死ぬまで童話を書き続けていくのです。生涯独身でした。ゴッホに似ていますが、
アンゼルセンもまた死んでからその仕事の本当の評価がされた人です。

 25節の「今持っているものを固く守れ」は、ティアティラ教会の信仰をイエス様は
ご存知なのです。イゼベル派の人々は、ティアティラ教会の田舎臭い信仰を馬鹿にし
ています。「愛、信仰、奉仕、忍耐」なんかどうでも良いのだとしています。今を面白
く可笑しく生きればいいのだと言うのです。ふしだらなことも、信仰があれば大丈夫
というのです。しかしイエス様は、今持っている信仰を固く守れと、励ましたのです。
「別の重荷を負わせない」には、今の信仰を固く守る姿を思います。26節には「私の
業を終わりまで守り続ける者に」、28節「明けの明星を与える」と言われています。
聖書の明けの明星とはイエス様ご自身です。「私が道であり、真理であり、命である」
その真の神である、父なる神様と同質のイエス様が最後の勝利者の報酬なのです。私
達はこの「固く守れ」のイエス様の励ましに、恵みによって答えて行くのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。受難節に入り、主の十字架と復活を念頭
において歩みます。中国に始まった新型肺炎は全世界に広まり増えています。どうか、
主の守りを与えてください。詩編106:30節のピネハスの祈りを成させてください。今
年は会堂の建築に歩みます。どうか導きください。病気療養の方、・・・兄、
・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂
を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの3週間前倒し
保育の働きを祝してください。あなたの励ましに答えて歩む者にしてください。どう
か、1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

    マルコ伝6章30〜44節            2020年3月1日
            「 食べて満腹した 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 毎週の礼拝をする度に新型肺炎の話をするのは、だんだんどうかと思うようになり
ました。しかしとうとう岐阜、石川、徳島、宮城、栃木、静岡、長野県と広がる一方
で、とうとう北海道は60名以上の患者さんになっています。北海道に14年間いまし
たので、その体験から行くとウイルスと言っても肺炎ですので、あの寒さでは、多く
なってもおかしくないというのが実感です。寒いと病気になっても体力がいります。
ただ青森、岩手、秋田がおられませんので、この新型肺炎はどうなっているのかです。
 言われる通り徹底した手洗い、うがい、マスクしかありませんが、ある方が「先生、
亡くなる統計の年令を見ていますと免疫力の強さも関係しているように見受けます」
と言われました。なるほど高齢者が係り易く亡くなり安いのは、免疫力の低下が大い
に関係していそうです。今回は、栄養バランスのよい食事をされて、もし係っても大
丈夫のように、肉や野菜の取り方も注意されて、免疫の観点からも過ごされることを
祈ります。この前聖書検索のソフトがあり、「疫病」と打ってみました。出る出るわで
す、旧約聖書は疫病の宝庫です。ほとんどが神様からの刑罰となっています。しかし
詩編106編30節は「ピネハスが立って祈ると疫病が止んだ」とありました。主は、主
を信じる者の祈りを聞いて、疫病を止められることもあったのです。どうか、すでに
そうされていると思いますが、疫病が止むように続けて祈りましょう。

 また中山の児童クラブ、学童保育は、市役所こども政策課からわざわざお願いしま
すと電話がなりました。「なんとか対応しますが、3月分の支援員の給与の増加分は大
丈夫ですか」と言いますと保証出来ませんので、予算のできる範囲でお願いしますと
言われます。ええそうなんですかといいましたが、お願いしますでも増えたお金の補
填は分かりませんと言われて、はて困ったなという状況です。しかしやらないわけに
いかずです。こちらも春休み保育が3週間延びる状況ですので祈ってください。
 さて聖書は、第1主日ですので、いつものように礼拝において主の晩餐を受けてい
きます。週報にも書きましたが、先週の水曜日から受難節・四旬節ともいいますが入
っています。主の十字架の40日前から準備することになっています。今年は4月12
日がイースターです。3月の3週から4回は、イエス様の受難週の出来事から今年も
聞いていこうと計画しています。

 さて聖書は福音書から聞くということで、マルコ伝から聞いています。とうとうマ
ルコ伝6章の5000人の給食と言われるところです。これはマルコ伝8章には4000人
給食があります。イエス様は公生涯の3年間において最低2回はこのようなパンの奇
跡を成されたと思われます。この5000人の給食については、教会に長い方はいろいろ
な意味を聞いて来られたと思います。この5000人の給食は一体どういうことであった
のかです。大体4つの取り方があります。1つはこれはイエス様がご自身のメシアで
あることを示される出来事であった。2つは、これはローマ帝国に革命の反旗を翻す
人がイエス様を持ち上げようとした出来事であった。3つはこれは食料を分け合いな
さいというイエス様の教えの出来事であった。4つは聖餐式を制定されるための前準
備の出来事であった、というのです。なるほどです。
 おそらく3番目の食料を分けなさいとは、どういうことかと思われるでしょう。実
は、こういう取り方があります。5つのパンと2匹の魚は、ヨハネ伝6章では子供の
弁当だった。5000人の中で子供一人が自分の弁当を皆の為に差し出し、これをイエス
様が奇跡で増やされた。子供の素直な小さい信仰に神様が答えられたのをみて、人々
は自分の弁当を分け合ったのだとするのです。そんな馬鹿な、どこにそのことが書い
てあるかとなります。しかしこれは結構歴史をもった取り方とされています。
 以上のような取り方がありますが、ここはそういうことがあるのかという念頭にお
きつつ、本日は素直にマルコ伝を読んで行きたいと思います。まず30節に弟子達はイ
エス様から派遣されて、自分達が行ったこと、教えたことをイエス様に報告しました。
この直前の出来事はバプテスマのヨハネの殺害です。弟子達は自分たちもヘロデ王に
殺害されるかもしれないという危機を持ちながら宣教しました。そしてイエス様のと
ころに戻って来て報告しました。改めて自分したことをイエス様に報告するというの
が大切なのだと示されます。祈りはそういう意味を持っているのだと思います。

 31節にはこの報告を聞いてイエス様が何を言われたかです。なんと「あなた方だけ
で人里離れたところに言って、暫く休んできなさい」と言われるのです。「ペテロ、お
前は何人に伝えたか。ヤコブ、お前の説教で何人悔い改めたか。ヨハネ、どのくらい
献金を集めたか」で全くない。イエス様が言われたのは「離れた所にいって、暫らく
休め」でした。ここに神様の見られるところと人間の考えることの違いをみます。弟
子達はヘロデ王の迫害の中、殺されるかも知れないことを承知で、神の国の福音を伝
えました。イエス様は弟子達の本当の疲れをご存知だったのだと思います。危機の中
でしかし一生懸命伝えてくれたこのことをイエス様は見ておられたのです。
 そこには食べることの出来ないほどの人々が、ごったがえしていました。しかしイ
エス様は今が宣教のチャンスとかそういうことでなく、弟子達がきちんと休んで次に
備えることを考えて、教えておられます。私達も改めてイエス様の配慮というか、そ
の観点すごさ、神様だから当然なのでしょうが改めて教えられます。

 32節に弟子達は、誰もいないところを目指しました。恐らくこれはガリラヤ湖の西
岸から東岸を目指されたと言われています。西岸はカペナウム等の町がありましたが
東岸は異邦人の地で、イスラエルの人々は少なかったと言われています。33節をみま
すと人々は、弟子達が西岸を離れるのをみて、東岸にいくと悟り、追いかけました。
なんとイエス様一行の弟子達の船より先に着いたとも書かれています。ガリラヤ湖は
湖ですので、全体を見ようと思えば見れたのであり、人々は弟子達とイエス様が行く
先の見当が着いたのかも知れません。ガリラヤ湖は南北20q、東西10qですので、
マラソンをする覚悟であれば、42qを走らなくても、向こう着に陸路で回れないこと
ないほどの距離です。南北20qは錦江湾でいうと桜島を含めた国分当たりまでの大き
さがガリラヤ湖くらいです。姶良から国分くらいまで走ったことになります。今日は
鹿児島マラソンの日でしたが、市民ランナーはお断りになっています。

 34節には、そこまでしてイエス様の話を聞きたいと集まっている人々をイエス様は
そのままにされませんでした。人々は船よりも早かったので、船は大夫途中でこぎ悩
み時間ががかかったのかも知れません。しかし主は、その人々を見て「羊飼いの居な
い羊の群」として見られ、深く憐れまれたとあります。何度か聞いたことがあるかと
思いますが、これは新約聖書では最高の同情と憐れみを示す言葉です。主が憐れまれ
る。その時に奇跡が起こるのです。主イエス様はそこまでして集まってきた人々に教
えられました。本当は、聞いてきたように暫くの休憩に来られたのです。しかしそこ
に困り果てた人々をみて、イエス様と弟子達一行は、休むどころでなくなりました。
そういうことはあるのだと思います。目的はこうだった、けれども行ってみたらそれ
どころでなくなったのです。その時、主はそのまま「私たちは休みにきたので、話も
しない、癒しもしない。あっち行け」と群衆にされなかったのです。また教えをなさ
れ、弟子達は休みを返上して、それを支えたのだと思われます。

 35,36節にとうとう大夫時間がたった。つまり夕方になっていったのだと思われます。
もうすぐ夕食の時間に係っていたのだと思います。誰が言ったか書いてなく、弟子達
の中から誰ともなく「人々を解散させましょう。そうすれば、人々は回りの村々に何
か食べ物を買いにいくでしょう」といいました。後から分かりますがここにいたのは、
5000人の男で女性と子供をいれると2万はいたかもです。弟子達は反射的に自分たち
が、食べ物を準備するわけに行かないと悟ったのです。

 37節にイエス様は「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言われています。弟
子達の驚きがわかるようです。そしてすかさず弟子達は「200デナリオンのパンがあ
っても無理です」といいまいた。すでにご存知の通り1デナリオンは、当時の男性1
人の日給であったと言われます。男の人が1日働いて貰う賃金です。仮に1日1万円
で換算すると、200万円のパンでも足りないとなります。下らない計算をしますが、
もしパンが一個100円でしたら200万円では、2万人のパンが買えます。足りている
のでなかい。しかし問題は5000人は当時は男しか数えなかったので、ここには女性と
子供がいたはずです。多分女性と子供は男の大人より多かったであろうと言われます。
男5000人なら全部でやはり2万人以上がいたようです。福岡ドームが4万人の観客席
だそうです。福岡ドームの半分の人がいたことになります。

 38節にイエス様は「パンはいくつあるのか見て来なさい」と言われます。これはど
ういう事かいろいろ言われます。福岡ドームの半分の人数がいる中で、パンを数える
方もどうかと思います。しかし弟子達はイエス様から言われたからには、探し回った
ということでしょう。いろいろな説がありますが、誰もパンを持っておらず、見つか
ったのは、5つのパンと2匹の魚でした。これは通常は当時のイスラエルの弁当の定
番だと言われています。日本だったら昭和初期の「おにぎり5個と目刺し2匹」とい
ったところです。パン5個とガリラヤ湖から取れた魚の干物2匹です。こんなものを
持っているのは、誰か。ヨハネ伝6章9節には「ここに大麦のパン5個と魚2匹をも
っている少年がいます」となっています。
 どうしてこの少年は持っていたのか。想像するしかありませんが、やはりお母さん
が作ってくれたのでしょう。何かの弁当を食べる仕事にやったのか。弁当の必要な少
し遠いお使いをしてもらったのか。なぜこの少年が、イエス様を追いかける集団の中
に混じっているのか。たまたま何だろうと混じったのか。自分もイエス様の話が聞け
ると思ったのか。何も書いてありません。しかし確かなのは、弟子達はこの少年の弁
当を拝借して、イエス様の前に持っていったことです。この少年が自分の弁当を弟子
に渡し、弟子はそれを、イエス様に渡したと思われます。それにしても2万人程の人
を前に、福岡ドームの半分の人の前に置ける5つのパンと2匹の魚です。まさにあま
りにも僅かなのです。言ってみれば全く話しにならないのです。しかし問題はこの全
く話にならないところから、どうも信仰の事柄はスタートすることです。或いは僅か
のきっかけと言ってもいいのかも知れません。僅かの出会いと言っても良いのかも知
れません。信仰のスタートはこうして余りにも僅かで貧弱です。
 イエス様は別にこの少年の5つのパンと2匹の魚がなくても大丈夫だったのかも知
れません。何も無いところからパンを出し、何も無いところから魚を出して、それを
増やしてくださることがおできになったと思うのです。しかしイエスさまはあえて、
弟子達に「パンはいくらあるのか」と捜させたのです。これはどういう事だったのか。
はやり、私達は神様の前に、自分のパン、又賜物を捜させる為だったのだと思います。
 何度か話しますが、こちらに来てから食料デー委員会に誘われて、もう10数年にな
ります。最初は1円玉の献金が何の役に立つのか、どうせするなら責めて100円玉と
思っていたのです。しかしある時、主催の先生が回って来られて、私達委員達にお話
しされるのです。日本の1円は確かにお釣りの為にしか役にたたないです。しかしこ
れがアフリカや東南アジアに行くと、今は又違っているとおもいますが、まさに100
円、500円になる時があるのですと言われます。つまり為替レートのしくみです。人
間の世界でもこんなことが起こるのです。そうすると世界ではそして神様の世界では、
全く様相が違ってくるのです。

 41節に行きますが、イエス様は5つのパンと2匹の魚をとり、天を仰いで讃美の祈
りをなさいました。実はこれ福音書では、祝福とも訳されています。この5000人の給
食と主の晩餐の時のみ「讃美の祈り」で使われます。一つの例外は、マタイ伝25章の
自分では知らないで、飢えた人、渇いた人、旅してる人、裸の人、病気の人、牢にい
る人を助け尋ねた人に言われる「私の父に祝福された人」の時です。この祝福もここ
で使われた讃美の祈りです。従って訳としては「祝福の祈り」でもいいのです。
 私達はこんなものが何になるのかということもまた、神様が用いられる時があると
言うことになります。更に驚くことには、ここにはおまけまであるというのです。パ
ンくずと残りの魚を集めると「12の駕籠に一杯になった」とあります。取るに足らな
いものが2万人を越えて行くのです。それは神様に献げて、これを神様が受けて、祝
福の祈りをされた時です。2万程の人が食べて満腹され、さらにおまけまでるという
のです。あり得ない話しですが、信仰の献げものはそういうことだと示されます。
 巻頭言に書いたヘミング・フジコさんは、67歳まで誰も注目されないピアニストで
した。淡々とドイツで、1ピアノ教師をされてきました。完全に盛りを過ぎたもうす
ぐ引退の方です。しかしなんとフジコさんは、ハバクク書2章3節を心に留めておら
れたのです。「たとえ遅くなっても待っておれ。私はすぐに来る」。これは本当は、バ
ビロン捕囚からの帰還の預言です。しかしそれは神様を信じて、神様がなさる時を待
つ信仰になったのです。いつになるか分からない。しかし自分の賜物を主に献げて待
っている。神様はきっと来る。少年のパンと魚を用いられたように、私達も取るに足
りないものと又ことを、主に献げて主の時を忍耐をもって待つことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。受難節に入りました。主の十字架と復活
を念頭において歩みます。中国に始まった新型肺炎が今だ増えています。どうか、主
の守りを与えてください。ピネハスの祈りを成させてください。今年は会堂の建築に
歩みます。どうか導き、支えてください。病気療養の方、・・・、
・・・兄の回復を感謝です。続けて・・・姉、
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。
こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの働きを祝してください。あなた
の復活の信仰の導きに従うものとしてください。どうか、1年間導きください。み名に
よって祈ります。アーメン」

    ヨハネ伝11章17〜27節           2020年2月23日
            「 私は復活、命である 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 今週も又日々のテレビ新聞ニュースの一番は相変わらず、新型肺炎のニュースにな
っています。とうとう九州に来ました。福岡に来て、熊本に来ました。広がるたびに、
スマホのニュースの通知の光が点滅して、何かなと開くと新型肺炎の広がりのニュー
スです。鹿児島も時間の問題としか言いようがないです。ただ鹿児島大学の獣医学部
におられ今は福島におられる清水先生は、10数年前に「日本の全ての病気はまず鹿児
島から始まって全国に広がるのですよ」と教えてくださいました。だから鹿児島で病
気を防げれば、何とかなるという話だったように記憶しています。
 しかし新型肺炎は東京の関東の次は和歌山に次ぎに北海道に行き、名古屋、大阪と
全く予測が付きません。また子供には係りにくいと言われていましたが、とうとう子
供にも係るようです。3月の鹿児島マラソンも中止になっています。また公務員の方、
内閣官房の担当官とか、実際に現場に行って阻止する務めの方が、係っておられます。
私達のできることが限られており、手洗い、うがい、マスクの着用くらいです。ただ
ただワクチン等の製造や実際にその病気に効いて直す薬が早くできることを、祈りま
す。製薬会社方々は必死だと思います。治療に当たられるお医者さんや看護士さん、
それぞれの防止の担当の方の守りと導きを祈ります。

 さて聖書は第4週になりましたので、いつものように本日のバプテスト連盟の分級
のテキスト『聖書教育』誌の聖書の箇所から聞いて行きます。本日の全国の教会が聞
いていく分級の聖書の箇所は、ヨハネ伝11章17~27節の読まれた箇所です。ここは
ラザロの復活とよばれる非常に有名な箇所です。そしてヨハネ伝ではラザロの復活が
イエス様の7番目のしるしとしています。この印を最後に、イエス様は今日は読みま
せんでしたが、11:24節にイエス様を殺す計画が進められ「イエスはもやは公然とユダ
ヤ人達の間を歩くことはなく」とあります。この11章はイエス様がご自身の姿を完全
に示され、ユダヤ人当局はいよいよイエス様の殺害計画を進めていくそのような分岐
点の出来事であるとも言えます。
 17節にあるようにイエス様はラザロが亡くなって4日経ってから18節にあるベタ
ニアに来られました。ベタニアはエルサレムから15スディオンつまり約3qのところ
にあったのです。ここにはマルタとマリアの家があり、ラザロはマルタとマリアの姉
妹の兄弟であったとされます。本日は読んで貰いませんでしたが、ラザロがどうして
死ぬことになったのかは、11章1〜16節に書かれています。病名は書かれていません
がラザロは病気であったとあります。この病気は重篤であって、マルタとマリアの姉
妹はラザロの病状がおかしいということで、人をやってイエス様に知らせたとありま
す。ここを読むとマルタとマリアには、イエス様がおられれば、ラザロの病気を癒し
てくださるか、何かをしてくださるはずだという期待、信仰があったと伺えます。し
かし11:6節にはイエス様はラザロが重体であると聞かれてもなお2日間、ヨハネがバ
プテスマを預けた町サリムのアイノンという町におられました。地図で計ってみると
ベタニアからアイノンまで直線距離で80qくらいあります。当時の交通事情を考えま
すとすぐに行けるという距離では在りません。

 11章4節にはイエスさまは「この病気は死で終わるものでない。神の栄光の為であ
る」と言われています。ラザロの病気は何か特別な神様の業に用いられる病気だと示
されているのです。私達は病気は大小を問わず早く癒してほしいし、もし自分がかか
ったら早く直りたいです。ましてや新型肺炎のようにまだ治療法が確立しておらず、
薬もないとなれば、係ること事態をなんとか避けたいと思います。福岡市の七隈線地
下鉄で、くしゃみをしているのにマスクをしていないとして、非常ベルが押されて、
車掌さんがこんなことは初めてだというニュースがありました。そこまでいくかと思
いますが気持ちは分からんではないです。ただ鹿児島の市電でしたら中年のおばさん
が「これつけなさい」とマスクを上げるように思います。
 ただこのラザロの場合は、イエス様はそれは大変だと一目散に、ベタニア目指して
出発されたとなっておりません。一見冷たいように見えますし、酷いとも言えます。
しかし人間の目にはそうなのですが、神様には神様の御計画があり、時があるのです。
イエス様は11:11節に「ラザロは眠っている」と言われ、12節に弟子達は「眠ってい
るのでしたら、助かるでしょう」と頓珍漢の対応をしています。ヨハネ伝は特にそう
ですが、弟子達の無理解と不信仰が、出来事を進展させて、イエス様の本当の姿が示
されることが多いです。ヨハネ伝2章の水がぶどう酒変わる時、ヨハネ伝3章のニコ
デモの新しく生まれ変わる教え、ヨハネ伝4章の生ける水の教え、ヨハネ伝6章の命
のパンの教え、ことごとく聞いた方は勘違いし、頓珍漢の質問になります。しかし頓
珍漢の質問と対話からイエス様の本来の姿、本当の信仰のあり方の説明になっていき
ます。従って私達も又相手に、こちらの伝えたことが全く通じなくて、理解されなく
ても、主が導き支え用いらていくことを、信じて又伝えていくことを示されます。

 19節をみますとマルタとマリアの家には、多くのユダヤ人が弔問に来ていました。
これは古今東西どこでもですが、ユダヤ人も又お葬儀をしました。当時のお葬儀は7
日間続いたとされています。人々は生前のラザロの姿を思い出し、マルタとマリアに
いろいろと話しかけ、慰めようと力づけようとしたのだと思います。ラザロは姉妹の
中に男一人兄弟ですので、近所のユダヤの人々はこれからのマルタ、マリアの姉妹の
生活のことを心配したのは考えられます。
 20節にはそこにイエス様が来られるとの知らせが届きました。アイノンという町か
ら80q以上の旅をして来られたのです。マルタは早速「迎えに出ること」にしました。
そして書いてあるように「マリアは家に座っていた」とあります。実は、ルカ伝10章
38節以下にマルタとマリアの話があります。この時はイエス様とその12弟子達が、
マルタとマリアの家によってくださったことがありました。その時マルタは一生懸命
イエス様一行のお世話、接待をして、マリアはじっとイエス様の足下に座って話を聞
いておりました。マルタはとうとうイエス様に「自分だけに接待をさせるマリアを注
意してください」と言ったことがありました。
 あの時とよく似ています。マルタは活動的でさっさかイエス様を迎えに行き、マリ
アは座っていたのです。しかしこの時はマリアはただ座っているのでなく、ユダヤ人
達の弔問客の接待をしていたのでしょう。お葬儀の時に家の主人がいないと話しに成
りません。マルタはマリアに弔問客の対応を任せて、イエス様を迎えに出かけていっ
たのです。

 21節にマルタはイエス様に早速「主よ、もしここにいてくださいましたなら、私の
兄弟は死ななかったでしょう」と語りました。22節さらに「あなたが神に願うことは
何でも神は適えてくださることを知っているのからです」といいました。恨みがまし
い言葉とも取れます。どうしてもっと早く来てくれなかったのか、とも取れます。し
かし、今や兄弟ラザロの死を目の前にして「イエス様の祈りは必ず神様に受入られま
す」と言うのはこの状況に置けるマルタの最大の信仰告白とも言えます。ラザロは死
んだけれども、なおイエス様と神様の特別な関係を認めていくのです。
 さらにここには、取り方によっては、当時の奇跡が奇跡士というか、奇跡はその人
が起こしているという信仰に反対して、マルタはあくまでも奇跡は神様が起こすこと
を知っていたとも取れます。つまりイエス様がこれまで起こされた奇跡は、イエス様
が何か奇跡士というか、マジシャンととして自分の力でなされたのでない。イエス様
は徹頭徹尾神様の力で成されたということです。イエス様は神様に願われ、父なる神
さまはイエス様の祈りに答えて、神様の力で奇跡を起こされたのだという信仰です。
 これは非常に大切かと思います。奇跡が起こったり、ある人が奇跡を起こしたりす
ると私達はどうしてもその人にその奇跡の力があると受け取ってしまいます。奇跡を
なさるのはただ神様だけであり、奇跡を起こす人は、神様にお願いして奇跡を起こさ
せて貰っていると言う信仰です。もちろんここには、次に祈りの力が入ってくるのか
も知れません。この人は祈りの力を持った人であるとして、神様を祈りの力で動かせ
る人になっていくのです。万能の祈りの力を持つという危険性が在ります。マルタの
信仰はイエス様が神様にお願いして、神様が実際に奇跡を起こしているというのは、
それまでのイスラエルの聖書の立場からしても、正しい信仰に近いと思われます。

 23節にしかしイエス様は言われます。「あなたの兄弟は復活するでしょう」。驚くべ
き言葉です。死んで4日間立っています。もう完全に魂と体の分離は確かであり、生
き返るのは不可能です。蘇生は不可能であり、復活しかラザロが生きる方法は在りま
せん。24節にすかさずマルタは答えています。「終わりの日の復活の時に、復活する
ことは知っています」。マルタのこの信仰は、当時のイスラエルの通常の信仰でした。
ユダヤ人は、パリサイ派もバプテスマのヨハネがいたクムラン教団のエッセネ派も、
死者の復活を信じていました。ただし祭司階級のサドカイ派は、終わりの日の復活を
信じていなかったと言われています。
 使徒言行録23章6,7節には、パウロがユダヤ人当局から逮捕された時、裁判する
議員の人達にパリサイ派とサドカイ派の人がいたのを見て「自分は死者の復活の事に
ついて伝えていたのです」とわざと混乱させる弁明をしています。これはパウロの時
代も又パリサイ派は死者の復活を信じ、サドカイ派は信じておらず絶えず論争になっ
ていたからです。議員達は復活論争になってしまってパウロの処分の論争から反れて、
処分を協議する最高法員は分裂し、その間に脱出したとあります。
 マルタも又イエス様からラザロの復活を聞いた時、パリサイ派が教えており、自分
たちも信じている終わりの日の死人の復活のことだと思ったのです。ところがイエス
様は言われました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」。
余りにも突飛なことで、マルタはびっくりしたでしょう。そしてイエス様は続けて「生
きていて私を信じる者は誰でも決して死ぬことは無い。この事を信じるか」と言われ
たのです。
 イエス様はマルタの信仰を、そのままにして置かれなかったのです。イエス様を信
じるということは、未来のある時点において復活する。死人はいつか在る将来に未来
に甦る、復活するという信仰では足りないのです。不十分なのです。イエス様を信じ
て生きることは、今が復活であり、今が命であるイエス様と共に歩むことなのです。
イエス様を信じる時、今生きている命が、永遠の命であり、復活の命なのです。そこ
を生きているのかとイエス様は問われているのです。マルタは、今迄のイスラエルの
信仰、未来における死人の甦りではない。今を甦りに命を生きている。今を永遠の命
に生きている信仰を、イエス様に問われているのです。イエス様を信じるということ
は、今を復活の命と今を永遠の命に生きることなのです。
 またこれはヨハネ伝が私達に問うているともいえます。ヨハネ伝は4つの福音書の
中では一番新しい福音書と言われています。マルコ伝は古く紀元60年代に書かれたと
されます。しかしヨハネ伝が今のような形になって福音書とされたのは、紀元90年代
とされています。ヨハネ福音書はすでにイエス様が十字架に付けら、復活されてから
60年経っていました。人々はもちろん迫害がありましたが、信仰は広まり、ローマ帝
国の安定もあって、ネロ皇帝のような迫害はしばらく在りませんでした。ある意味で
ヨハネ伝は、これから起こる大迫害の時代に備えさせていると読むこともできます。
イエス様を信じることは、未来のある時点での復活や将来のある時に起こる審判では
ない。今復活を生き、今永遠の命を生きることである。今復活の命を生きていますの
で、確かに肉体は死ぬのですが、しかし肉体の死は本当の死でないのです。

 私達は改めて、ヨハネ伝からイエス様の復活の命を今生きているのか、イエス様の
永遠の命を今生きているのかと問われているのです。その時、死んでも生きる信仰を
生きているのかと問われています。これはもう一人一人の信仰であり、出来事であり
ます。これはとても知的な承認とかではありません。信仰の知識的な受入でもありま
せん。日々の信仰の生活です。さらに英雄的な何か多くの事業を興すとか、人々に奇
跡を起こしてびっくりさせる事でもありません。
 今を生きる復活の信仰にあっても、やはり失敗や病気はあるでしょう。時には怒り、
感情を制限できなくなることもあるでしょう。5世紀のアウグスチヌヌスのヨハネ伝
説教には、この11:17節の4日目の復活からヒントを得て書いています。「1日目の復
活はイエス様をただ信じることです。2日目の復活は信じて罪を犯し、そこから帰っ
てくる復活です。3日目の復活とは、こちらが正しいと知っているのにそれが出来ず
に、間違った罪を犯し、しかし又戻ってくる復活です。そして4日目の復活とは、全
く体が肉の世の罪に染まり、神を神とも思わず、完全に世に染まり、悪の習慣に捕ら
われて完全に罪に染まっている。しかし神様の恵みによって悪の習慣を断ち切ってま
た信仰に戻ってくることです」としています。解説書にはこれはアウグスチヌスの体
験からの信仰であろうとされています。私達は罪に染まり、罪が習慣になってしまい
どうにもならんということもあるでしょう。しかし復活の主はそこからまた復活させ
てくださるのです。イエス様に悔い改めの希望を持って、主の復活を生きて行きます。

 祈ります。「主なる神よ、中国に始まった新型肺炎が今だ増えています。福岡と熊本
に来ました。どうか、主の守りを与えてください。今年は会堂の建築に歩みます。ど
うか導き、支えてください。病気療養の方・・・の回復
を感謝です。続けて・・・姉を守
ってください。ご高齢の・・・姉守って
ください。教会員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、め
ぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブの働きを祝してください。あなたの復活の信仰
の導きに従うものとしてください。どうか、1年間導きください。み名によって祈りま
す。アーメン」
    エゼキエル書15章1〜8節           2020年2月16日
            「 不信を重ねた 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
心より主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、
罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 ここの所の新聞、テレビの第1のニュースがいつも新型肺炎になっています。とう
とう沖縄、和歌山、北海道と直接的な外国人や中国の方との接触が無い方も、新型肺
炎にかかるようになりました。テレビ、ラジオでは違う局面にはいりましたとか言っ
ております。ただそう言われてもこちらのすることは、人混みの中にはいらない。マ
スクをかけ、手洗いをきちんとするくらいで、特別何もできることがないことです。
検査キットやワクチンや対策になる薬が、どこまで開発されているのか、さっぱり分
かりません。中国では患者さんが67000人、死者が1500人代となり、日本でも1名
が亡くなれました。まだ減少の兆しはなく暫く続くのでないかと言われています。
 何か、解決のヒントはないものかとアルベルト・カミュの『ぺスト』を本箱から引
っ張りだして読んでいます。ペストはネズミが媒介する細菌の感染で、新型肺炎はウ
イルスですので性質が違うのです。しかし小説には、病気の為に戦うお医者さんが死
んで行き、その妻や子供がペストに係る中で、悪戦苦闘する医者のリューの姿が描か
れていいます。全体のテーマはヨブ記に似ており、子供を含めて大人を次々に呑み込
んでいく、病気の力に人間の力の弱さを示しています。しかし政府の対策がなかなか
効果をなさず、人間の努力をあざ笑うかのような病気の蔓延という全き不条理の中に
あって、それでも隔離された町の現場を逃げ出さずに、患者さんの治療をしていく医
者のリューの姿が示されます。多くの友人達が現場を離れるなか、医者リューは最後
まで現場に留まり続ける物語なのです。
 連帯してなんとかペストの病気と闘っていく姿は、実はこの小説が1947年に出版さ
れているので、このペストは何重にも比喩と譬えが重なっておるとされます。ペスト
は実はヒトラーや独裁体制の政治のことかも知れないともいわれています。ペストは
新型コロナウイルス肺炎とは大夫性質が違いますが、前線で戦う医者さんや封じ込め
の陣頭指揮を取る公務員の方々の守りを祈るのみです。

 さて聖書は、第3週になりましたので、旧約聖書から聞くということでエゼキエル
書から聞いていきます。本日はエゼキエル書15章になっています。この15章はぶど
うの木の譬え、次の16章がエルサレムの淫乱の花嫁、17章が鷲の譬え、18章が個人
と責任、19章は獅子の親子の譬えと続く6章をもって、エルサレムの罪を告発して行
きます。本日のエゼキエル15章のぶどうの木の譬えは、新約聖書ではヨハネ伝15章
1節「私は真のぶどうの木」やヨハネ伝15章5節「私はぶどうの木、あなた方はその
枝である」に繋がっていくイスラエルがぶどうの木に譬えらえる一連の聖書の御言葉
です。
 しかしイエス様がぶどうの木とイスラエルの民を譬えられた時、イエス様は信仰の
支えを言われ、信仰の保持の進めを言われたのです。しかしエゼキエルではイスラエ
ルの罪の告発として語られています。エゼキエルはぶどうの木をイスラエルの罪の告
発に用い、イエス様は、ぶどうの木を信仰の勧めに用いられたところが、何か新約と
旧約聖書の位置関係を示しているようでもあります。
 1節にあるように、しかしエゼキエルがぶどうの木を、エルサレムの罪の譬えで言わ
れたのは、神様の言葉の故でした。2節にあるように、神様は「ぶどうの木は森の木々
の中で枝のあるどの木よりも優れているであろうか」と言われます。そして3節には
その比較の対象、内容として「ぶどうの木から何か役に立つ木材がとれるだろうか」
と言われています。ここは不思議千万です。そもそもぶどうの木の評価は、その果実
の実が干しぶどうやワインの材料として用いられるのです。ぶどうの評価はぶどうの
実を付けるかどうか、つまり良い果実が実るかどうかが問題なのです。
 イザヤ5章には、イスラエルがぶどうに譬えられて「良いぶどうの実るのを待った。
しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった」とあります。またホセア10章1節もまた
「イスラエルは延びほうだいのぶどうの木」と譬えられ、エレミヤ2章21節には「私
はあなたを甘いぶどうを実らせる確かな種として植えた」とあります。つまりその実
がなるかどうか、また実が良いかどうかが、ぶどうの木の評価なのです。しかしエゼ
キエルは、なんとぶどうの木の評価が、全く注目されもせず、誰もそんなことは考え
ないこと、つまり果実でなくて木材に適合するのかが問われているのです。これは一
体どういうことでありましょうか。
 誰が考えても、ぶどうの木を建築材料にしようと思う大工さんはあり得ません。し
かしそのありえないことを、あえてエゼキエルが語ったのはどうしてか。つまりエゼ
キエルが預言した時代、ヨアキン王の第6年、紀元前591年頃、第2次バビロン捕囚
の完全の滅びの5年前に、まさにエルサレムはそのくらいになっていたのです。つま
りぶどうの木を建築材料にするというほどの転倒した状況であったということです。
私達は、何でそんな馬鹿のことを考えかと思います。しかし国が滅びる手前の状況と
いうのはこういうことなのかも知れません。ぶどうの木を建築材料に使え、というこ
とが、まかり通るほどの現実を無視し、事実を見ない状況があったのです。つまりこ
こにはイスラエルに狂信と盲信が闊歩している状況を読み込むことができます。
 それはいろいろな国の滅びに比較することができるでしょう。ヒトラーがドイツを
治めた1933年から自殺した1945年まで12年間あります。日本も日中戦争は1937
年の廬溝橋事件から1945年の敗戦までの8年があります。この時期は、まさにぶどう
の木を、建築材料に使えるかのような出来事だったのでないかと思うのです。

 3節に「ブドウの木から器を掛ける釘を作ることができるのか」は、家具の中で最
も小さい家具とされる釘でさえ、ぶどうの木ではできないことを示しています。イス
ラエルは、強い軍隊の戦闘能力があったでしょうか。豊富な天然資源があったでしょ
うか。類い希な統治能力があったでしょうか。また海を越え、山を越える貿易力があ
ったでしょうか。文化を創造する力があったでしょうか。イスラエルは何一つ無いの
です。バビロンやアッシリアのような兵隊を持っていません。天然資源は在りません。
ダビデ、ソロモン時代以外は回りの国の統治に成功したことは在りません。貿易力も
在りません。文化はピラミッドを作ったエジプトに比べると余りにも貧者です。イス
ラエルは、正に神に選ばれ、主なる神を知らせる民として、神様に選ばれた以外に何
もないのです。申命記7:7イスラエルは周りの国で最も貧弱な民であったのです。
 しかしエルサレム・イスラエルは、自分たちが神の民であること、選ばれた民であ
ることを、自分の神様からの使命に関連させることなく誇ったのです。しかもすでに
第1次バビロン捕囚が起こっているのに、自分達が滅ぼされなかったことを、紀元前
700年エゼキエルから120年前のイザヤの時に、アッシリアが退散したことと結びつ
けておりました。神様は再びアッシリアの時のように、神の都エルサレム・自分たち
を守ってくださる。それは自分たちが選ばれた民であるからだと盲信、狂信したので
す。私達は国も人も個人も、滅びの前には必ず、高慢と傲慢が先立つことを、改めて
聖書のイスラエルに、エゼキエルの預言書に教えらえるのです。私達はこのように、
神様の警告を恵みに、神様の恵みに警告を取り違がえることをよくするのです。エゼ
キエルが、全く話しにならないぶどうの木を建築材料に使えるのかという途方もない
比喩をあえて語ったのは、このようなイスラエルの状態がありました。

 4節にエゼキエルは、そのように建築材料としては役に立たないぶどうの木が、す
でに火に投げ込まれて、両端が焼かれ、真ん中も焼かれているとします。これはイス
ラエルが受けたアッシリア捕囚とエゼキエル15章の預言から5年前に受けた第一次
バビロン捕囚とされます。イスラエルは、火に投げ込まれたブドウの木の状態である
のです。「それでも何か役に立つのか」。5節にもう一度「それでも何かに役に立つのか」
と2度繰り返されます。これは、ブドウの木はまさしく全く何の役にも立たないまし
てや焼かれたブドウの木は、ということが示されています。
 私たちもまさに一緒です。私たちはキリスト者とされたことで、何か、力を持った
でしょうか。私たちはキリスト者とされたことで、何か賜物が増えたでしょうか。キ
リスト者にされて、何か、関係力が増えたでしょうか。私たちの文化力が上がったで
しょうか。いいえ何も変わらないのです。何も変わらない。しかし変わったことがあ
る。それが私たちの罪の赦しと神様の恵みからの使命です。私たちはイエス様の十字
架の罪の赦しを信じ、イエス様の復活を信じたことで、人間的な力は何も変わらない
のです。しかし聖霊によって罪赦され、復活の力を頂き、神様と和解し、生きる使命
を与えられました。これは、信じて分かる神様の大きな恵みです。
 私たちは病気になり、事業に失敗し、試験に落ちるかもしれません。しかし大丈夫
なのです。神様が共にいてくださるのです。キリスト者は何か特別のことができる人
になり、超人になり、何でもできる人になるのでありません。まさしく病気をし、失
敗し、試験に落ちるただの人です。しかし本当に神の恵みに生きるただの人は、実は
誰にも交代できない、神様に与えられたこの世にたった一人しかいない、主と共にあ
る人になるのです。

 6,7節には、イスラエル・エルサレムの住民が、神様の火に投げ入れられます。神
様はイスラエル・エルサレムにご自身の顔を対抗して向けます。神様の裁きの火はイ
スラエル・エルサレムを食い尽くします。つまり焼き尽くします。しかしなんと神様
の恵みは、その時、そうされた方が、主なる神であると知るようになると言われます。
反対から言うと、私たちは神様が自分を取り扱っておられるのと知るのに、神様の火、
試練の火、試みに火が必要である時があるのです。私たちの信仰は、神様のしるしを
必要とすると言えるのです。
 神様を知るには、確かに良いしるしが必要な時があります。ヨハネ伝にはイエス様
は7つのしるしを行われたとあります。水をブドウ酒に、役員の息子を癒し、5000人
の給食をなし、ガリラヤ湖の水の上を歩き、38年の病気の方を癒し、生まれつきの目
の不自由な人を癒し、ラザロを復活させました。イエス様を信じるにヨハネは見える
しるしを語りました。しかしイエス様が復活された最後のしるしの時、イエス様は信
じないトマスに「見ないで信じる者は幸いなり」と言われました。復活の聖霊による
信仰は、しるしを超えていく信仰を示し、またその信仰を実現させるのです。
 そしてエゼキエルは良いしるしだけでなくて、神様を信じるに導くある意味で悪い
しるし、火の裁きを示すのです。私たちは、病気の癒しだけでなくて病気になること
を通して、事業が成功し順調にいくだけでなくて事業の失敗を通して、試験に受かる
だけでなくて試験の失敗を通して、導かれる神様の臨在を示されます。病気にかから
ない方がいいです。事業や仕事は失敗しないがいいです。試験はできるだけ受かるに
こしたことはありません。しかしできないこと、限界を示されること、できなかった
ことによっても、主は導かれるのです。

 8節に、主は審判を語られます。「私はこの地を荒廃させる」のです。しかしエルサ
レム・イスラエルの不信仰は、それで終わるかと言うとそれで終わらない、不信仰は
おしまいにならなかったのです。私たちはローマ書11章のパウロの信仰を示されるの
です。ここにはパウロがイスラエルの不信仰を通して、異邦人が救われる神様の計画
を示しました。ローマ書11章11節「彼ら(ユダヤ人)の罪によって、異邦人に救い
がもたらされる結果になりました」とあります。続けて11章12節には「彼ら(ユダ
ヤ人)の罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となった」と続きます。私たち
は、最後の最後は神様がまとめてくださる、統治してくださる。このことを信じるこ
とが赦されています。ですからある意味で私たちの努力は、私たちの業はどんなに一
生懸命、死に物狂いでしても、最後から一つ手前です。最後の最後は、主がまとめて
くださる。主が導いてくださるのです。ですから病気になり、失敗し、試験に落ちた
ら反省はしないといけません、何が悪かったのか調査がいります。しかし最後まで悲
しんではいけません。落胆し、悲しんでそれに押しつぶされてはいけません。絶望は、
最後の責任を神様にとらせず、自分で責任を採る生き方になるのです。キリスト者の
哲学者キルケゴールが「人間の最大の罪は絶望である」と言った通りです。絶望とは、
最後を神様に委ねない、人間の最大の高慢であり、傲慢です。最後の最後は神様に委
ね、まかせないといけないのです。委ねが赦されているのです。

 先週は第41回クリスチャン修養会がありました。新潟聖書学院の先生で、朴・チャ
ンス先生でした。巻頭言に書いた通りですが、日本がこれから対面する大きな課題へ
の挑戦を言われました。教会の財政課題、信仰の課題、教会課題、伝道の課題、いろ
いろあります。しかしこれから日本の教会が直面する課題の一番はやはり、牧師や献
身者の絶対的な不足だそうです。もう牧師先生のことは牧師に任せろとではだめらし
いです。一人一人が真剣に祈っていくしかありませんそうです。ただ聖書ではそれで
は何でも若い人が立てばよいのかというとそうでもない。アブラハム、モーセ、ヨシ
ュア、カレブを見よ、と言われます。年をとってから神様の仕事をしています。です
から私たちも自分に示される日々の神様の仕事をしていくしかないのです。そしてま
ず祈っていくしかないのです。主はもちろん私たちの必要の前に必要を満たす方です。
しかし同時に祈りに答えて、ことをなされる方です。課題が分かっていますので、力
一杯祈っていきます。主よ、働き人を立ててくださいと祈りつつ歩みます。

 祈ります。「主なる神よ、中国に始まった新型肺炎が増えています。どうか、主の守
りを与えてください。今年は会堂の建築に歩みます。どうか導き、支えてください。
病気療養の方・・・の守りを感謝です。・・・兄の回復を感謝です。
続けて・・・姉を守ってください。
ご高齢の・・・姉守ってください。教会
員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中
山伝道所の児童クラブの働きを祝してください。信教の自由を守る日です。あなたの
信仰の導きに従うものとしてください。どうか、1年間導きください。み名によって祈
ります。アーメン」

    ヨハネ黙示録2章12〜17節           2020年2月9日
            「 悔い改めよ 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の
悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 先週から新聞テレビの第一のニュースは、コロナウイルスの新型肺炎ばかりとなり
ました。日本も感染者が60数名となりました。1名は亡くなられたようです。今の所
は収まる気配がなく、確かにどこまで広がるのかと思います。思い出すのは、西洋史
の学びの時に、ヨーロッパにペストが流行って、封建制度の農民の命が奪われ、人口
が3分の一になって、農民の地位が上がり、それが宗教改革の準備をしたとか聞いた
ことを思い出します。14世紀のペストの流行のことです。また17世紀の1665年のペ
スト流行は、ニュートンが都会のケンブリッジ大学を離れて田舎に疎開し、それが原
因で、ゆっくりと考える時間が与えられて、光の分析と重力の発見の機会となったと
も言われています。最後に19世紀末のペスト大流行は日本の北里柴三郎がその菌を発
見して収まったとされます。この時の題材に、アルベルト・カミュが有名な『ペスト』
という小説を書いています。もう中国は何をしているのかの問題を越して、世界中で
ワクチンの製造とか有効な予防の対策が必要な時でないかと思います。日本もその道
の機関が頑張って、ワクチン等が早くできるようにして欲しいです。罹った方には癒
しを、その現場で働いている方には、守りと導きをひたすら祈るしか在りません。

 さて聖書は、第2主日ですので、いつものように使徒の手紙から聞くということで、
ヨハネの黙示録から聞いて行きます。本日は、2章の12節以降からで、ペルガモン教
会への手紙になっています。ペルガモン教会はエフェソ、スミルナと続いて3番目の
教会になります。すでに話しましたとおりに、この2,3章のヨハネの黙示録の手紙
は、エフェソ教会に始まって時計回りに7つの教会を回っています。そしてペルガモ
ン教会は、スタートのエフェソからスミルナへ、スミルナから大体80qくらいの北の
距離にある都市です。ここはエフェソやスミルナと比べると海から25qほど入ってお
り、港町エフェソやスミルナよりも小さい町であったそうです。しかし内陸の交通の
要所とされ、ローマ帝国はアジアの首都をペルガモンにおいたとされています。アジ
アと言っても、今のイスラエルからトルコにかけての西アジアの地方のことです。
 そして13節にペルガモンでの「サタンの王座」とでてきますます。これは諸説あり
ますが、おそらくローマ皇帝礼拝が、西アジアで最初に行われたローマ皇帝礼拝の神
殿、宮のことでないかと言われているのです。本日は信教の自由を守る日礼拝でもあ
りますが、ローマ皇帝礼拝と共に、ちょうどだったかも知れません。12節は非常に珍
しいのですが「鋭い両刃の剣」そして16節には「口の剣」とイエス様が武器の携帯を
している珍しい箇所とも言われています。理由はよく分かっていませんが、迫害が迫
っていることが関係しているかも知れません。キリスト者はいよいよ何か悪いことを
したから逮捕されるのでなく、キリスト者と言う名において、官憲に逮捕、迫害され
るようになる初めにありました。

 13節の「サタンの座」ですが、ローマ帝国は多神教の国でしたので、ペルガモンに
はギリシャ発のゼウス神の祭壇もあり、多くのエフェソで言えばアルテミス神のよう
な女神の祭壇もあったとされています。そしてとうとうアウグストスの像が立てられ、
ローマ皇帝礼拝がなされて行きました。しかしペルガモンのキリスト者たちは、「私の
名をしっかり守っている」と言われる通りに、ローマ皇帝礼拝に組みしなかったよう
です。ここで名とはもちろん、神様、イエス様の名のことです。神様、イエス様の名
を守るとは神様、イエス様を信じ通すということです。
 ここに忠実な証人アンティパスが出てきます。残念ですがこの人のその人となりは、
伝えられてないそうです。しかしこのアンティパスは、具体的に分かりませんが「サ
タンの住むあなたがたの所で殺された」とあります。一番考えられるのは、アンティ
パスはやはりどうどうとローマ皇帝礼拝を拒否して、殺されていったと思われます。
これは言われますように、第二次大戦の時は、朝鮮半島のキリスト者のように、また
日本でもホーリネス系の数少ない牧師達のように、真正面から天皇への礼拝を拒否し、
牢獄にぶち込まれ、迫害されて殺されて行ったのが重なります。ここで真正面からと
言ったのはいろいろな逃げ道が実はあったそうです。この人達はそれを使わなかった
のです。
 このアンティパスから実は、証人がだんだん殉教ということばに置き換わって言っ
たとも言われています。キリストの証人とは殉教者のことであり、殉教者はキリスト
の証人となっていったとされています。しかし反対からいえば、もしここでキリスト
者であることが、迫害の対象であれば、ペルガモン教会の人々は皆逮捕となるはずで
あります。ここで一人アンティパスだけが殺されているのは、歴史からは未だキリス
ト者ということで、全員を逮捕し、迫害を加えるとはなって無かったようです。アン
ティパスが見せしめになったのか、何か特別な皇帝礼拝否認の行為をしたのか、よく
わかりませんが、殺されていきました。もう一つ考えらえることは、このアンティパ
スはもしかしたらペルガモン教会の人でなくて、他の土地から引かれてきて、ペルガ
モンで処刑されたのかもしれないと言われています。そうしたら、一人アンティパス
だけ処刑されたことが分かるとされています。

 しかし書いてある通りですが、ペルガモン教会の信徒達は、アンティパスの処刑に
めげることはありませんでした。アンティパスの迫害を見て、自分たちの将来の姿を
示され、むしろ自分たちの信仰を強くされたのです。これは在るのだと思います。確
かにキリスト信仰を続け又受けると迫害であると示されれば、嫌になって捨てる人も
あるでしょう。しかしそうとも限りません。特に奴隷階級の人々は、どちらに転んで
も、ご主人の恣意的な制裁によって死ぬこともあるのです。訓練が非常に厳しく、大
変なことが分かっていても、だからこそその道に来ると言うことが人間には時々在り
ます。柔道や相撲の選手や特別なスポーツ選手、野球の選手は、そこが徹底した厳し
い訓練をしてくれることで、あえてその相撲部屋や道場、またクラブを選ぶというこ
とがあります。何かのテレビで、広島で鍛えられたいという野球選手のインタビュー
を見たことがあります。スター選手で組まれた巨人軍だとよい選手になれない。最初
は自分に訓練を課すというのです。
 ペルガモン教会の人々も、もし安心又は安寧なる社会的地位を求める信仰であれば、
迫害があれば、逃げたでしょう。しかし元々が神様に仕えたい、信仰を高めたい、い
やイエス様に救われた余りの喜びの為に信じておれば、そう簡単に逃げだし、信仰を
捨てることはないでしょう。「私の信仰を捨てなかった」とは従って単にペルガモンの
人々が、信仰を手放さなかったと言うよりも、むしろ神様に与えられた信仰に気づい
た。ヨハネ伝15章16節の「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選ん
だ」の信仰に立っていたということであります。神が与えられる信仰に立っていたと
いうことです。自分で守る信仰でなくて、神様に与えられた信仰に気付いたのです。

 14節、しかし長老ヨハネはペルガモン教会の信徒達が、迫害の実体アンティパスの
殉教を見ても、ひるまなかったことを褒めますが、なお指摘することがありました。
それは、ペルガモン教会にバラムの教えを報ずる者がいるということです。ところで
このバラムの教えですが、これは旧約聖書、民数記に出てきます。実は、民数記22章
から24章の3章に渡りバラム伝承と言われる聖書の記述があります。実は旧約聖書で
もバラムについては、アンビバレント・二面性があります。つまりバラムは良い人だ
った。つまりイスラエルを祝福したという伝承とバラクは酷い人だった、つまりイス
ラエルを呪ったという伝承があるのです。実は民数記を読まれたら分かるのですが、
一回読んだだけでは、良い人か悪い人か決断しがたいです。バラムは最初イスラエル
を呪う為にやって来て、最後はイスラエルを祝福して帰っています。バラム伝承の理
解の難しさは、ユダヤ教も同じだったようです。イエス様時代のラビ伝承でも、バラ
ムはイスラエルを罪に落とした人だという一方、バラムは祝福を与える良い人だとい
うアンビバレント・正反対の両面性の評価があるのです。
 そしてヨハネの黙示録が教えるバラムの姿は、バラムはイスラエルを呪う酷い異教
の祭司であったと言う伝承に立っています。具体的には、ペルガモン教会のバラムと
言われる人達の罪は、1つに偶像に捧げた肉を食べさせようとしたこと、2つにみだ
らなことをさせようとしたとあります。その内容はすでに聖書に聞かれたことです。1
世紀のキリスト者は、偶像に捧げた肉を食べることができるのかどうかが大問題であ
りました。これはすでに第1コリントの手紙8章にあった通りです。偶像に捧げられ
た肉を食べることは、その偶像礼拝に参加することになると考えるキリスト者がいた
のです。パウロは、それはあり得ないと知っていました。しかしそのキリスト者の信
仰を大事にして、自分も肉を食べないとしました。韓国の牧師さんと一緒に神社を見
にいくと、鳥居をくぐられないで、横を通られます。自分はなんでもない、こんな神
様信じてたまるかと思うのです。しかしそのことを行動にあらわせない。そこで下を
潜ろうが、飛び越えようが関係無いです、と言っても始まりません。韓国の先生方の
そういう信仰の態度を大切にしたいです。
 みだらなことですが、これも道徳的なことだいうことでも在りません。具体的には、
偶像礼拝のことであろうとされています。エゼキエル書23章は偶像礼拝を誨淫の罪と
して示しています。バラムの教えとは、おそらくある意味で正しいのですが、間違っ
たパウロ主義といっていいでしょう。唯一絶対の神を認めるならば、偶像はありえな
い。従って何をしてもかまわない。しかしこの教えは、正しいのですが間違っている
のです。つまり弱い信仰の人をつまずかせて、結局自分の信仰もなくしてしまうので
す。弱い信仰の人を思いやる。大事にする。肉を食べて良心が弱り、自分は偶像に組
していると思っている人の前では、自分も偶像に捧げられた肉を食べない。バラムの
教えに組しないとは、弱っている信仰、弱い良心の前で、隣人の前で、自分の強い信
仰、強い良心をひけらかさないことです。

 15節にもう一つニコライ派がいるとされています。具体的にニコライ派の説明がこ
こにはありません。しかし説明がないのはおそらく名前が違いますが、内実はバラム
の教えと似たり寄ったりだったのだとされています。つまりペルガモン教会のバラム
の教えとニコライ派はいろいろ言うけれども、とどのつまり主なる神様、イエス様に
逆らい、イエス様を無視する教えだったのです。中心にイエス・キリスト様がいない
のです。イエス様に与えられた信仰がないのです。自分で信仰をもっていると思って
いる信仰しかないのです。ゼーレン・キルケゴールは、キリスト者の最大の罪は「自
分の信仰を信じることである」としました。聖書から導かれ、聖書に示された言葉、
神様に与えられた信仰にならないのです。

 16節に、このペルガモン教会にヨハネが語る言葉、送る言葉は「悔い改めよ」です。
聖書の信仰において、最初で最後の言葉です。私たちはとどのつまり、悔い改めに始
まり、悔い改めに終わるのです。ルターが「キリスト者とは日々悔い改め続ける人で
ある」といった通りです。カルバンが「真の教会とは日々神のことばに変革する教会
である」といった通りです。ここにある「私の口の剣で」はもちろんエフェソ手紙6
章17節「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と言われたこと、聖書のみ言葉の
ことです。御言葉によって悔い改め、変えられることです。

 17節にペルガモンの教会の天使に語るイエス様は「勝利を得るものには、隠された
マンナと白い小石を与える」といいます。勝利を得る者、つまり悔い改め続けるペル
ガモンのキリスト者のことです。自分の信仰に安住せず、いろいろな託宣を並べて結
局は自分の腹に仕える信仰でなく、神様に与えられる信仰を受け、イエス様の言葉に
変革される続けるキリスト者です。その信仰者には、隠されたマンナと白い小石が与
えられます。ここでマンナは天の食べ物伝承があったとされています。マンナ自身は、
出エジプト16章の時に、砂漠でイスラエルにパンがなくなった時、神様が天から降ら
せたパンのことです。砂漠で命を保たせた奇跡の食べ物から、このパンはその後、天
国の食べ物の象徴ともなったとされています。地上にあって、天の食べ物が先に与え
られるのです。これはイエス様の象徴ともいえます。神様から与えられた信仰には、
イエス様が伴っているのです。
 次に白い小石とは何かです。これは諸説あって、当時の裁判の時に無罪のものには
白い石が、有罪には黒い石が渡されたと言われています。つまり裁判のお札のことで
ないかと言われます。キリスト者がこれから迫害の裁判に備えさせているともされま
す。キリストに難く立って白い石を頂けということです。しかしここでは、天国の切
符説が適切だと言われています。2世紀にはいるとキリスト者はこの世では勝つことは
まず見込めませんでした。ローマ帝国は迫害を制度化するのです。ローマ皇帝礼拝拒
否の罪は皇帝の恣意的なことでなくて、法律で逮捕、監禁、獄死を与えられるのです。
その時に裁判に勝つしるしを受けても意味がない。これは天国の切符であるとされる
のです。この小石に新しい名があるのは、天国行きの切符が確かに主イエス様を信じ
る、自分ものであるということです。
 黙示録は究極的には、この世を相手していません。この世をうまく渡るバラムの教
え、ニコライ派に組しません。天国に逃避せず、この世に深い入りせず、信仰の現実
を踏みつつ、日々悔い改めて、今をイエス様の信仰を通して進んでいくのです。

 祈ります。「天の父、主なる神様よ、中国に始まった新型肺炎が猛威を振るっていま
す。どうか、主の守りで終わらせてください。今年は会堂の建築に歩みます。どうか
導き、支えてください。病気療養の方、・・・感謝です。
続けて・・・姉を守ってください。
ご高齢の・・・姉守ってください。教会
員とその関係者、一人一人の信仰、魂を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中
山伝道所の児童クラブの働きを祝してください。信教の自由を守る日です。あなたの
信仰の導きに従うものとしてください。どうか、1年間導きください。み名によって祈
ります。アーメン」

     マルコ伝6章14〜29節         2020年2月2日
            「 洗礼者ヨハネの首 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の
悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 本日は早いもので、2020年も1月を終わり、2月になっています。新聞テレビが伝
えるように、中国の湖北省、武漢での新型肺炎が広まっています。不思議なことに、
子供は罹っても酷くならないと言うことです。普通なら大人が免疫を持っているので、
酷くならないと思いますが、今回のは罹ると大人が酷いそうで、なんとも大変な新型
肺炎です。2,3日前のラジオの解説者は、もし世界へ広まった肺炎の納まる気配が
7月まで続いたらオリンピックも順延でしょうと言っておりました。
 私はそれを聞いて、これはエゼキエル14章の神様のなさる審判の疫病かと思いまし
た。何でも感でも神様のせいにしたら行けないのです。しかしこのところあたかも人
間の力で何でもできるような風潮です。アメリカもイギリスも我が道を行くで、ちっ
とも他の国、特に弱小国のことを考えません。もう少し謙遜で、謙って歩んでもいい
のでないか。自分が一番でなくて、謙り、他の国と歩調を合わせて、幸福を一番に探
し、共に歩むのは神様の喜ばれることと思うのです。その中でいち早く佐賀のあるN
POが、中国にマスクを送りますとニュースが出ていたのが良かったと思います。日
本ができことは多分、性能の良いワクチンを作るとか、性能の良いマスクを送ってあ
げるとかでないかと思っていました。中国でももちろんよいマスクが作れと思います。
どうか、1日も早く新型肺炎が収まることを祈ります。

 さて本日の聖書は、マルコ伝6章のバプテスマのヨハネの殺害の報告です。ここは
読めば読むほど、闇の力、サタンの力の激しさと、その闇の力の前に、なすすべのな
い弟子達、また義人で聖人のバプテスマのヨハネの姿が示されます。聖書20節に「正
しい聖なる人」とありますが、これは「義人で聖人であった」という語源です。さら
にこのところは多くの聖書解説によって、イエス様の十字架の預言、ひな形でもある
とされています。闇の力、サタン力の前に、義人と聖人は、ただいいように扱われて、
馬鹿にされ、酒宴の宴会のなぐさみものとして、殺されて行きます。時はそのような
様相を示すことがあります。ヒトラーの時代も、第2次対戦の中国、朝鮮半島もある
意味でそうでした。しかし私達は時がそのようであっても、なお主の力、神様の全能
と愛を信じてこの世を歩むのであります。主の恵みによって、バプテスマのヨハネの
後を追い、イエス様の十字架を指し示して歩むのです。バプテスマのヨハネの余りに
もあっけない死に、私達はむしろ主の守りと導きを必死に祈るだと思います。

 14節にあるように、聖書は、イエス様の名が知れ渡り、時のヘロデ王の耳に入った
と伝えます。ヘロデ王は、本当は王と言うべきでないと言う方もあります。それはヘ
ロデ王は、ガリラヤとペレアのイスラエルの一領域を治める領主くらいの位置でした。
しかし王と呼ばれているのは、当時のガリラヤの住民達はヘロデのことを王と言って
いたからとされています。
 ヘロデ王にイエス様の業が聞こえた時、ヘロデ王は「洗礼者ヨハネが生き返ったの
だ」と語ったと伝えます。続けて15節には当時のイエス様への評価が書かれています。
それは「彼はエリヤ(旧約の預言者)」という人、又「昔の預言者のような人」とう人
がいたと言います。これは、他の福音書にも何度か出てくるイエス様の評価です、マ
タイ伝16章14節にもペテロの信仰告白があります。あそこでもイエス様が「人々は
私のことを何と言っているか」と尋ねられると弟子達は同じく「エリヤだ、エレミヤ
だ、預言者の一人だ」とイエス様が言われていると答えておりました。しかしヘロデ
王は、「私が首を切ったあのヨハネの生き返りだ」というのです。

 そして聖書は、17節からどうしてヘロデ王がそんなことを言うのか、と言う理由を
説明する形で、バプテスマのヨハネの殺害の様子を知らせて行くのです。出来事とし
て適当な時に、バプテスマのヨハネの殺害をマルコ伝は入れても良かったと思います。
しかし、時系列に書かれるよりも、このようにヘロデ王の反応の理由として、出来事
として書かれると私達聞く方は記憶に残りやすいと言えると思います。
 ところでヘロデ王というと私達はイエス様の誕生された時、イエス様をなんとか殺
そうとして、マタイ伝2章にベツレヘムの2歳以下の子供の皆殺しにしたあのヘロデ
大王を思い出します。しかし実は、あのヘロデ大王は、イエス様が誕生してほどなく
死亡しております。晩年は王権を狙ったとして、自分の息子の長男を殺し、家庭不和
の中で、病気で死んでいったとされています。本日のマルコ伝6章のヘロデ王はヘロ
デ大王の次男とされ、通称はヘロデ・アンティパス王と言われていました。ヘロデ大
王が10人の妻を持ち、策略に策略を重ねて王となったのと比べると本日のヘロデ・ア
ンティパス王は、穏健な統治者でヨハネに耳を向けることができる人でした。

 17節からのヨハネの逮捕の事情はバプテスマのヨハネの預言者としての人となりを
よく現しています。当時ヘロデ・アンティパス王は、兄弟の妻ヘロデアを自分の妻と
したと言われています。どうして、ヘロデ王が兄弟の妻ヘロデアを自分の妻としたの
か理由はよく分かっていません。当時は、日本の戦国時代のように、政略結婚が多か
ったようです。これは古今東西どこの国でもあることでした。
 ここのヘロデ・アティパス王は、もともとは東の隣国、ナバテア国の王女を妻とし
ておりました。しかし彼女を離縁し、ヘロデ王の兄弟と結婚していたヘロデアと結婚
します。元々の妻はナバテア国の王の正式の娘・王女であり、すでに結婚していたヘ
ロデアは王の出でありませんでした。どうもこの結婚はヘロデ・アンティパス王が仕
掛けたのでなくて、ヘロデアが自分の地位を向上し確保するためにヘロデ・アンティ
パス王に媚びを売ってしたようです。ナバテア国は、自分の国の王女がヘロデ王に離
縁されたことに怒り、ガリラヤに責めてきたことが伝えられています。しかしヘロデ
アは、これにめげず、ローマ帝国カリグラに取り入って王位を求めたとあります。ど
こまで行っても出世欲の強い女性だったようです。
 当時のローマ皇帝カリグラは、王女ヘロデアの実情を知っており、ヘロデアに王位
を与えず、むしろヒスパニア(今のスペイン)に追放したと言われています。バプテ
スマのヨハネの首をはねた酬いを、ヘロデアは最後には、受けたことになります。実
はこのヘロデ・アンティパスとヘロデアの関係は、列王記上21章のエリヤ時代の王妃
イゼベルとアハブ王の関係であると多くの解説書が書いています。アハブ王は聖書を
最低限守ろうとする王ですが、王妃イゼベルが聖書の戒めを越えて、ナボテを殺し、
畑を奪ったとんでもないことをするあのパターンです。
 しかしここで歴史はまだそこまで行っておりません。18節に在るとおり、バプテス
マのヨハネは、ヘロデアの野心やその後のローマ皇帝への訴えを知るよしもありませ
ん。ただ律法に従って、忠実に兄弟の妻を自分の妻にするのは良くないと訴えたので
す。この「兄弟の妻を娶ってはならない」は、聖書はレビ記18章16節の規定であろ
うとされています。ここには、どこか歴史や野心にはほぼ疎かったであろうバプテス
マのヨハネが、旧約聖書、律法に従うことによって、最大の社会的な告発ができてい
たという神様の配剤を知らされます。
 これは歴史には時々起こることです。第2次対戦の時、日本では7人の牧師が獄死
しています。この7人は、天皇制に反対して天皇は神ではないと真面目に答えた人達
で、ご存知ホーリネス系の牧師達です。この人達は、聖書をそのまま信じる人達で政
治的な野心は全くない牧師達でした。神学もほぼ修めていなかったとも言われていま
す。しかし東京神学大学や蒼々たるきちんとした大学を出た神学者達は宗教と政治は
違うとして、宮城遙拝は罪でないという議論に乗ってしまいました。しかしホーリス
ネの極僅かの牧師達は天皇を拝むのは偶像礼拝の罪であるとしたのです。実は戦争が
終わってからも、この殉教者の牧師の子供達は、辛苦をなめたことが伝わっています。
 結局戦争が終わってしまうと天皇の人間宣言といった形で、誰が正しかったのかは
明らかです。聖書を信じるのか、神学を信じるのか。バプテスマのヨハネは、ヘロデ
アの野心を全く知らなかった故に、ただ聖書に従って箴言したのです。しかしこれが
本当の社会正義となり、ヘロデアの逆鱗に触れ、命を落とすことになりました。しか
し神はその真の姿をご存知だったのです。バプテスマのヨハネの殺害は、私達も聖書
に従って、祈り、聖書に寄り頼んで、歩んでいくことを、教えられるのです。

 20節にあるように、ヘロデアは自分の野心に従って行動したいのです。しかしヘロ
デ・アンティパス王は、穏健な人だったようです。ヨハネの教えに、当惑しながらも、
なんと「喜んで耳を傾けていた」とあります。それで王妃ヘロデアも手をだせないの
です。これもあるのではないでしょうか。私達は、確かにイエス様を人々に伝えても、
すぐに信じる人にはなかなか出会いません。むしろ馬鹿にされたり、無視されたりで
す。しかしそこでめげては成りません。やはりチャンスあれば語っていきましょう。
 昨年、幼稚園で、1つの事案が起こった時に、ある父母の方が私に言われました。「先
生、この幼稚園はキリスト教の幼稚園ですね。2000年間の歴史のある教えでしょう。
どうか、確信を持って子供達に教えてください。私は支えます」。この方はキリスト者
でないのです。しかしイエス様の教えに立っている幼稚園だからきっと間違いないと
言われるのです。まさにヘロデ・アンティパス王です。教えはよくわからない。しか
し間違いないと確信を持ち、喜びをもって支えて下さるのです。

 21節、しかし歴史は時に、酷い時があります。闇の時、サタンの時というのがある
のです。とんでもない機会が来たのです。それはたまたま訪れます。ヘロデ・アンテ
ィパス王の誕生日がきました。ヘロデ・アンティパス王は、晩餐会を催して、高官や
千人隊長、ガリラヤの有力者を呼びました。その時にこともあろうか、22節、ヘロデ
アの娘、聖書には出てきませんが、歴史家ヨセフスはこの娘の名前をサロメとしてい
ます。この子が皆の前で踊ったのです。多くの解説書が、王様と王妃の子がいくら踊
りがうまくても当時、招待客の前で踊ることは考えられないとしています。王妃と王
妃の娘は、普通はきれいに飾られて皆から賞賛を受けるので精一杯のはずでした。
 しかし不思議なことに、この場に王妃ヘロデアはおらず、ヘロデ・アンティパス王
は何を思ったのか、娘の踊りを許可したのです。この辺の経緯は不明です。娘サロメ
は、よほど踊りが上手だったのか。王妃ヘロデアが居なかったので、王の面目が潰れ
そうなので、娘に踊らせて面目を保とうとしたのか。行ってみればギリギリの選択だ
ったかもです。ここはエステル記1章のペルシャ王妃ワヒティが、ペルシャ王の招待
を断って、祝宴に出てこなかったことを、平行箇所に出す解説書もあります。

 しかし、22節この娘サロメの踊りは非常に良かったのです。その「お客達は喜びま
した」そして、その喜びに便乗する形で、ヘロデ・アンティパス王は、娘に欲しいも
のはなんでもやろうといい、23節には「この国の半分もやろう」と言うのです。しか
しこれは全くの口からの出任せです。ガリラヤとペレア地区の領主ヘロデ王は、畳一
枚の土地もローマ帝国の許可無くして、動かすことは出来なかったとされています。
 24節には、少女はなんとこの座を外し、王の誕生祝宴に欠席している母ヘロデアの
所に行きます。そして母に「何を願ったら良いのか」を聞くのです。ここも多くのこ
とが言われます。まずこの誕生日のお祝いを自分で決められない娘です。全くの母任
せのこの姿は、今で言うところの母子分離不能の状態です。現代心理学は、娘サロメ
と母ヘロデア母子分離不安神経症というでしょう。もしかして母ヘロデアはあえてそ
のように子供を育てたのかも知れません。自分の願いを実現する娘として、娘をその
ように操縦できる奴隷の子の姿に育てたのです。そして普通はそのように育てられる
と娘は反発するのですが、娘は未だその状態には無かったようです。
 私達はここに自由に育てる、自律心を持つ子に育てることを示されます。もし娘サ
ロメが自律心を持っていれば、自分で判断できる子に育っていれば、バプテスマのヨ
ハネは殺されなくて済んだでしょう。こうしてバプテスマのヨハネの死には、聖書の
示す兄弟の妻の略奪の罪、できもしない約束の履行の罪、見栄と社会体裁・世間体の
罪、母子分離不安の罪と多くの罪の姿が示されています。そして、聖書を素朴に固く
なに守り、自分の命を落とすことになったバプテスマのヨハネの姿を見ます。しかし、
このバプテスマのヨハネの姿が、実はイエス様の十字架の姿を預言していたのです。
イエス様はこのバプテスマのヨハネの死を見られて、ご自身の道備えをしたバプテス
マのヨハネの死によって、ご自身の死の確信をまた深め、人々の罪の贖いのご自身の
使命を再び示されたと思われます。

 29節には、バプテスマのヨハネの弟子たちが、ヘロデアの陰謀にも関わらず先生で
あるバプテスマのヨハネを葬る姿があります。これもまた、イエス様の葬儀を申し出
たアリマタヤのヨセフとニコデモを預言するかのようです。闇の時、サタンの時が確
かにこの世にはあります。しかし闇の時であっても、ヨハネの弟子達のように、ヘロ
デアの圧政にもかかわらず自分たちの先生を葬る弟子が続きます。イエス様の葬儀を
申し出る人が起こりました。そして、ある意味でイエス様も十字架に挙げられますが、
なお12人の弟子は主の十字架に逃げ惑いつつ、またも聖霊によって集められ、イエス
様の復活に力づけられて、主の後に続いていくのです。こうして最後は、闇の力、サ
タンの力もきちんと神様のご計画に入れられていくのが分かります。私たちは全体を
見通すことができません。ですから、闇の時間のように思えても、サタンの時のよう
に思えても、自分の賜物を主に献げつつ歩むことを示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神様よ、先週は新春の集いを感謝です。連合の働きを祝
してください。先週は臨時総会にて、主な平面図の位置を決めました。続けてよい形
を与えてください。病気療養の方、・・・感謝です。続けて・・・、
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。1月を終わり、2月の
教会員とその関係者、一人一人を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道
所の児童クラブ、今週の熊本地震支援のこれからの形を協議する会を導きください。
悪い肺炎が世界に広まっています。闇の力の時代にも、あなたの導きに従うものとし
てください。どうか、1年間導きください。み名によって祈ります。アーメン」
    ヨハネ伝6章22〜33節         2020年1月26日
            「 それが神の業 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の
悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 本日は礼拝後、臨時総会となり新会堂平面図の協議があります。これが決まらない
と次に進めませんと設計さんからのお願いです。なんとか決めるしかありません。ま
た、本日は愛餐・誕生会、連絡・執事会と伊集院教会での新春の集いもあり、盛り沢
山ですが、なんとか今日を乗り切って行きたいと思います。
 本日の聖書は、第4週ですのでいつものように、バプテスト連盟の出している『聖
書教育誌』の本日の学びの箇所から聞いて行きます。聖書教育誌では、本日の聖書を
ヨハネによる福音書6章後半部分から学ぶとして、22節以下にしています。6章のこ
こは、イエス様が5000人の給食をなし、実際は女性と子供が居たので、1万人以上の
方に食事を与え、次の場面でガリラヤ湖の水の上を歩いて、弟子達の船が荒波にもま
れているのを助け、本日の「私は命のパンである」という箇所にはいる前半の対話と
なっています。ここは主がいよいよご自身が神の子であること、真の救い主、命のパ
ンであることを示される前哨の部分です。特に26節と32節には「はっきり言ってお
く」という、イエス様の自己啓示とされることばが使われており、この6章が非常に
大切であることを示しています。

 本日の場面は、22節から24節が、5000人の給食を受けた人々がカファルナウムに
来たこと、25節から27節が神の業とは何かという対話になっています。22節から見
ていきます。ここは5000人の人が来てみると、小舟が一艘しかなかったことを人々は
知っていたとあります。そしてこの船に弟子達が乗ったが、イエス様は乗られなかっ
たことも知っていました。ここにはイエス様が何か超自然的な力で、船によらずに特
別な力で向こう岸に渡られたことを暗示しているのだと言われています。つまり水上
歩行のようなこと、瞬間移動のようなことです。23節を読むと、なんと間髪をいれず
5000人の給食があった場所にティベリアスから船が数艘きたようです。私達はこんな
に偶然に事が進むはずもないと思います。ここにもヨハネ伝は、何かイエス様の超自
然的な力が働いて、この5000人の人々を向こう岸に移動させるために、神様の配慮が
なされたのでないかとも思えます。そして、実際に24節では、5000人の給食を食べ
た人達が、このティベリアスから来た数艘の船に乗り、イエス様を追いかけているこ
とが分かります。
 これはある意味で、偶然と言えば偶然です。しかし神様の下には偶然はあるのかと
いう問いもできます。偶然か奇跡かは、確かに判定が難しいことがあります。トマス・
アキナスは有名な「神の恩寵・恵みは自然を破壊しない」と言いました。神様の恵み
は自然現象を破壊する方向でなくて、それを用いて働く方向でなるとしたのです。私
達が主の取扱を受ける時、それは偶然だった、これはたまたまの偶然だ、ということ
があります。しかし神様は自然を用いても恵みを示すとすれば、偶然はいつも神様の
ものとして受けることが赦されていると思います。
 一昨晩は日本のシスターで鈴木秀子さんの働きのドキュメントの再放送をしていま
した。今末期医療の方を一人一人尋ねて「死ぬのは恐くないよ」と励ます活動をされ
ています。鈴木シスターは東京の純心女学院の出身ですが、家は全くの仏教だったそ
うです。しかし親から東京で勉強するのなら全寮制の大学でないと許さないと言われ
たたそうです。もう東京で学ぶなら基督教の純心女学園しか行くところがありません。
とうとうそこに入り、シスター達の影響を受けて、なんと20歳でイエス様を信じて洗
礼を受け修道会に入り、シスターになったのです、と言う話をされていました。こう
いうのは、偶然というのか、神様の導きというのか。恵み(神様の介入)は自然(成
り行き)を破壊しないのです。いや用いるのです。

 25節からは、船に乗って来た人々とイエス様の対話になっています。5000人の給
食に預かった人達は、イエス様が「いつ」ここまで来たのか、聞いています。人々は、
「いつ」を聞くことで「どんな風」に来たのか知りたかったのだ、とも思います。し
かしイエス様は「いつ」来たのかの質問に答えません。それは続いての対話にあるよ
うに、この人々はしるしやパンの奇跡のようなことを求めていたからです。
 27節にイエス様は「朽ちる食べ物の為に働くのではなく、いつまでもなくならない、
永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われています。朽ちる食べ物は、も
ちろんパンや肉、野菜のような実際に体を作る食物のことです。私達は、明日食べる
ものがないという状況にはほとんどないと思います。もちろん今は子供食堂に見られ
るように、実際に食べてない子もいるのです。しかし私達普通一般は、何とか食べる
ものがあります。そしてむしろ私達はその食べ物の程度を誇っているのかも知れませ
ん。セレブの食べる贅沢な良い物を自分は食べているのだと言ったことです。住める
家があればいいのですが、かっこいい家に住めるのか。働いて幸福に暮らせればいい
のですが、自分がよしとする職業でなくて、人が良しとする職業になるのです。お金
が人よりもあることを求めます。ましてや永遠の命に至る食物となると、はたしてど
れほど人がそのことを意識しているかです。
 先ほどの鈴木秀子シスターは、マザーテレサに会うまでは、ミッションの大学の教
授・先生をしていたようです。しかしマザーテレサが日本に来て、直接話をする機会
が与えられて、自分のシスターとしての生き方がこれでいいのかとなったそうです。
鈴木シスターは「これは第2の回心だと思います」と言われていました。マザーテレ
サに有名な「日本には道端に暮らす貧しい人はおりませんね。しかし心の貧しい人が
多いですね」と言われて鈴木シスターはたと立ち止まったそうです。シスターとして、
良い生活や物質的な地位を求める生活をしていた訳ではなかったそうです。しかし心
の貧しさ、競争の正当化、本当に悩み苦しみ人をきちんと見て、支え、お世話し、仕
えているのかと問われたそうです。
 イエス様は「いつここに来たのですか」つまり、何か特別は奇跡的な方法できたの
かと問われて、人々を驚かす奇跡や大きな業が問題でない。「永遠の命に至る食べ物を
射程にいれて、目標にして、生きているのか」と問われたのです。これは、マザーテ
レサの日本での感想に重なると思います。日本では確かに道ばたで寝ているような貧
しい人は少ない。しかし心が貧しいのでないか。今はもう1984年を最後にマザーが日
本に来てから、実際に食べられない子供達が一杯になりました。路上生活者を支える
NPOはそれこそ数え切れないほどになりました。しかしそれは根本では、すべての
関係を切ってしまう私達のあり方、心の貧しさが、実際に一番弱い人に又子供に現れ
ており、当然の帰結だったのかもしれないのです。

 26節に、主イエス様は「父である神が人の子を認証された」とあります。父なる神
の認証の働きをもって、イエス様は「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と
言われたのです。具体的には、これはイエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマ
を受けた時に「天が開いて霊が鳩のように天から降ってくるのを見た」というヨハネ
の証言のことであると言われています。主イエス様は神様から子として認証された方
として、5000人の給食をなし人々に出会い、父なる神の権威をもって「人の子が与え
る食べ物」として語っておられるのです。
 28節には、これを聞いた人々が「神の業を行うには何をしたらいいのか」と聞いて
います。ここには、通常のユダヤ人、律法学者の「神の業」として、聞いているとい
う取り方があります。永遠の命に至る食べ物を示すのであれば、本当の神の業を示し、
知っているのかもしれないと思ったのです。あるいは神の業をこの直前の5000人の給
食のように、又水の上を歩く驚くべき奇跡のようにとらえ、自分たちもそのようなこ
とができるためには、何をしたらいいのかということかもしれません。律法学者的な
観点か、奇跡の観点か。どちらにしても、ここに問題になるは、神の業が、何か人々
の前になすこと、何かをすること、祈りや礼拝、奉仕や献金、良き業のように認識可
能な姿が見えるような外的に誰でも分かるような振る舞いになっていることです。可
視的なすること、業になっていることは、否めません。
 しかし29節に、主イエス様は言われます。「神がお遣わしになった者を信じること
が、それが神の業です」と言われました。これは何かすること、外的に認識的に何か
が分かることでありません。最近は非認識的機能ということが言われるようになりま
した。信仰は認識機能か、非認識機能かと言われれば、これは全く非認識機能の仲間
です。信仰は信頼であり、態度であり、希望であり、愛であり、これは数値化がまず
無理です。礼拝に何回でた、献金を何回した、奉仕に出てきたというのは数値になり
ますが、ではそれが信仰かと言われれば、また次元が違うのです。極端な話し、何度
も話す通り、ルカ伝23章43節のイエス様の隣に磔になった十字架刑の犯罪人は、数
値化できる信仰はありません。ただ十字架のイエス様に信頼したのです。しかしこの
イエス様の十字架の横の犯罪人は、イエス様に「あなたは今日、私と一緒に楽園にい
る」と約束されました。

 神様・主イエス様を信じることが、神の業であるというのは、ある人にとってはと
ても理解ができないことです。人間の行為や公平、尊厳を馬鹿にされたように感じる
人もあるかもです。しかしある人にとっては、なんと素晴らしいことでしょうか。神
様・主イエス様を信じることが神の業である。その恵みに気づいた人がいます。その
筆頭にパウロを入れていいでしょう。パウロは、ローマ3章28節「私たちは、人が義
とされるのは律法の行いではなく、信仰によると考えるからです」と書いています。
ローマ書5章1節には「私たちは信仰によって義とされたのだから」と書いています。
ヨハネ福音書とローマ書はきちんと一致するのです。
 そしてこれは実はパウロによれば、アブラハムからの伝統なのです。創世記12章に、
アブラハムはまだ何もしていない時、バビロンのハランを出発する時、神の御声を聞
いて信頼して出発しました。神への信頼があって出発したのです。また創世記15章に
は、75歳でハランを出発し、99歳にして子供が生まれない時、アブラハムは神様が空
の星を見させて「あなたの子孫はこのようになる」と言われた時、そうなると神の言
葉を信じました。それを「神様は彼の義と認めた」とあります。つまり、パウロから
見れば、人は何かをして義とされるのではなく、神様を信じて義とされるのです。業
は後からだったのです。パウロは、イエス様の信仰にそれを見たのです。つまり人は、
まず信仰、ビジョン、愛、希望に生かされて、そして見えること、外面のことをなす
のです。まさに非認識機能が、認識機能を引っ張っているのです。
 つまり信仰は、実は行為や出来事、歴史や文化の根っこだったのです。種まきのた
とえにある通り、石地に落ちた根っこの張らない野菜は実が少なく、枯れるのです。
しかし良い地に落ちて、根っこがきちんと張れば、実は30、60、100倍になるのです。
非認識領域は、なかなか注目されません。しかし実は見えないからこそ、大事であり、
見えないからこそ、人を生かしもし、殺しもします。その人を支えているのは見える
ものでなくて、実は見えない非認識領域とも言える信仰なのです。

 30節からは、付いて来た人々は「あなたを信じることができるように、しるしをく
ださい」と言います。イエス様は実は、マタイ伝12章39節、マタイ伝16章4節に2
度にわたり「邪悪で神に背いた時代はしるしを求めるが、ヨナのしるし以外には与え
られない」と言われました。マタイ伝はなんと2回も言われています。マルコ伝8章
12節、ルカ伝11:29節にも出てきています。「ヨナのしるし以外のしるしは与えられな
い」と言うのは福音書の繰り返される証言です。
 しかしユダヤ人はモーセを引いてきて、モーセはしるしを与えてくれた。つまり天
からのパンであるマンナを与えたというのです。ですから、イエス様も本当に父なる
神様の認証を受けたならば、しるしをしなさいというのです。しかしイエス様は書い
てある通りです。モーセのしるしとしての天からのパン、マンナはモーセが与えたの
ではなく、父なる神がモーセを用いて与えたのですと言われます。ここにはモーセの
繰り返しではなく、全く新しい主イエス様の啓示が扱われ、示されています。父なる
神は、モーセの与えたマンナを、又この時代に又与えるのではないのです。全く新し
い本当の天からのパンを与えるのです。32節に「私の父が天からの真のパンをお与え
になる」と言われます。そして33節、神のパンは「天から降り、世に命を与える」の
です。天からのパンは、お腹を膨らませるのみでないのです。
 私たちは改めて、イエス様が旧約におけるモーセ以上の父なる神様の啓示者であり、
現実にイエス様が命のパン、神のパンであることを示されます。私たちはこのイエス
様を食べつつ、つまり信じつつ歩むのです。それは、確かに一見お腹が満ちるように
は見えません。認識ができにくいのです。しかし確かに目にみえませんが、説明にも
苦労しますが、ちょうど隠された野菜の根のようです。見えないけど見えない部分が
支えているのです。そして私達・野菜を大きくし、強くします。

 鈴木シスターの励ましの方法を見ているとイエス様と似ております。末期の患者の
そばに行き、手を取って触り、呼吸を合わせます。「死は恐ろしくないのです。あなた
の罪はすべて赦されています。死はあちらに移動することです」と言われます。患者
さんはじっと聞いて安らかに寝ていきます。それを見て、これはイエス様のやり方だ
と思います。私たちもまた、死を恐れないことが赦され、イエス様のパンを日々食べ
ることが赦されています。感謝です。

 祈ります。「天の父、主なる神様よ、先週は2020年度の各会の役員さんが決まりま
した。主の導きを感謝です。会堂の設計を委ねる橋口姉のお父様が昨日亡くなられて、
本日は前夜式です。どうか守ってください。病気療養の方、・・・、
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、
一人一人を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ、これ
から、教会建築の間取りの決定の総会をします。あなたの導きに従うものとしてくだ
さい。どうか、1年間導きください。み名によって祈ります。アーメン」

   エゼキエル14章21〜23節         2020年1月19日
               「 慰められる 」
 本日も主に新しい命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、
主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の
悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。

 本日は、第3週になりますので、いつものように、旧約聖書から聞くということで
エゼキエル書14章から聞いて行きます。エゼキエル14章は、1節の標題にあります
ように「偶像礼拝と神の審判」が、テーマになっています。すでに今まで聞いてきま
したように、イスラエルは、紀元前586年に第二次バビロン捕囚を受けて、完全に滅
ぼされます。エルサレム神殿は瓦礫の山となってしまいます。その前に第1次捕囚が
あり、地の民と一緒にエルサレムに残って預言を続けたのが預言者エレミヤであり、
貴族や祭司、主だった人達と一緒にバビロンに連行されて行き、バビロンの地で預言
活動したのが、預言者エゼキエルでした。バビロン第一次捕囚から完全な滅びである
第二次捕囚まで11年間の間があり、この時11年間に預言者エレミヤとエゼキエルそ
して捕囚はすぐに終わるという偽預言達の三つ巴の予言者が活躍していくのです。
 預言者エゼキエルは祭司でありましたので、日付を付けるのが特長になっており、
本日の14章の預言は、エゼキエル8章1節に、第6年の6月5日とあり、次の日付は
20章1節に第7年の5月とあります。つまりエゼキエル8~19章の間の第14章の預言
は、第6年と第7年の間に成されたと言えます。第6年とは第一次バビロン捕囚から
数えるとなっていますので、第一次捕囚がBC597年とされ、14章の預言はそれから
6年を引いて、紀元前591年頃となります。
 こんな前の記録の時間が分かっており、書かれていることに、聖書の記録の長さに
何度聞いても驚きであります。すでに何度か話しましましたが、バビロンがイスラエ
ルの民を連行した事ですが、これはどの国にもあります。日本もまた第2次対戦の時
に、韓国・朝鮮人の方を連行しました。今、徴用工問題と言われて韓国と日本の問題
の焦点とされています。日本は、炭鉱に連れてきて仕事をさせたのが多かったようで
す。しかしバビロンでは炭鉱でなく、ユーフラテス川の河川堤防工事に使われました。
ユーフラテス川はバビロンの中心の川であり、暴れ川であり、雨期になると氾濫しま
した。これの河岸工事に連行されたイスラエルの人々は使われたと言われています。
バビロンは、河川の堤防工事にイスラエルの多くの人員が必要だったのです。
 圧倒的な大帝国バビロンの前に、弱小国家イスラエルはある意味で風前の灯火であ
り、歴史的な必然によって滅ぼされたという見方もできます。しかし神様から遣わさ
れた預言者は、違っていました。イスラエルが滅ぼされ連行され、エルサレム神殿が
破壊されたのは、バビロンが強かったのではない。イスラエルが神様の前に罪を犯し
たからだというのです。神の民の使命、神様に仕え、神様を伝える務めを、怠り、真
の神様を信じるのでなく、偶像礼拝をしたからだというのが、預言者達エレミヤとエ
ゼキエルの主張でした。イスラエルは神の前に罪を犯した。だから神に滅ぼされた。
神に立ち返り、悔い改めて神様を信じていくしか救いの道はないというのです。

 21節から23節は、14章の最後の部分です。14章は1〜11節が長老達の相談、12~22
節がノア、ダニエル、ヨブの執り成しについて、そして本日の箇所はその後の部分に
なります。14章1節には、「イスラエルの長老数名が私のもとに来て、私の前に座っ
た」とあります。バビロン第一次捕囚から6年が経過し、バビロンに連行されたイス
ラエルの人々も大夫バビロンの外国の捕囚生活に慣れてきたのかと思います。そして、
これからの自分たちがどうなるのか、エゼキエルに聴きに来たのです。エルサレムの
方では偽預言者達がイスラエルの民は、すぐに帰れる、すぐに捕囚、連行は終わると
言っていたのです。長老達は偽予言者達がいうように、すぐに帰れるのか、いやその
まま続くのか、続くとしたらどのくらいの続くのか、どうしても自分たちの生活設計
のためにも、神様の御心を聞きたかったのだと思います。
 エゼキエルの預言内容は、書いてある通りです。主なる神は、4つの厳しい裁きを
エルサレムに成されます。剣、飢饉、悪い獣、疫病です。主はその裁きをなさるであ
ろうと言うのです。実は14章12節から20節の部分は、それぞれに4つの裁きのこ
とが書かれています。13節には飢饉の裁き、15節には悪い獣の裁き、17節は剣の裁
き、そして19節が疫病の裁きです。不思議なことに順番が21節の4つの裁きと12
節からの4つの裁きで順番が違っております。理由はよくわかりません。ただバビロ
ン捕囚の歴史の報告の順序から行くと、バビロンが攻めて来る剣の審判、次に包囲さ
れていますので食料がなくなっていく飢饉の審判、そして食料がなくなり体が弱る疫
病の審判、そして完全に滅ぼされてからは防備がなくなりますので、悪い獣の審判と
なっていくと思います。この順序に近いのは21節の順番ですので、最後の21節はバ
ビロン捕囚の事実を反映していると思いわれます。

 ただ12節から20節の4つの裁きには、執り成しの祈りのことが書かれています。
ここにもしノア、ダニエル、ヨブの3人の義人がいたとしても、彼らは自分自身を救
いうるのみで、町の人々や自分の息子、娘、けっして救うことはできないと言われて
います。ここでいうノアは創世記6章から9章までに報告されているノアの洪水で救
われたあのノアです。すべての人類が神の御心に背く中で、ノアのみが神のみ心にか
ない、箱枌の作り方を教えらえて、洪水を生き延びました。ノアは箱舟を造って、家
族と動物たちを乗せており、家族と動物達は生き延びたことになります。
 次のダニエルですが、これは残念ながら私たちの知るダニエル書のダニエルではあ
りません。私たちが知るダニエルはペルシャ時代の預言者であり、バビロン捕囚以後
の予言者です。エゼキエルよりずっと新しいのです。ここにでてくるダニエルは、ウ
ガリット神話に出てくるダニエルで、正しい支配者、審判者として有名だったようで
す。言ってみればシリア・フェニキア版のダビデ王、ソロモン王といったところです。
ウガリット神話では、このシリア・フェニキアのダニエルは、その義によって、アナ
トト女神の復讐から自分の子供たちを救えなかった、となっているそうです。
 そして最後のヨブは、もちろんヨブ記のヨブです。このヨブもまた義人ヨブとして
知られています。許可されたサタンに、財産を奪われ、自分の息子7人、娘3人の10
人の子供は台風が吹いてきて、家が倒れて殺されています。さらに自分の妻からこん
な目にあうのなら「神を呪って死になさい」と言われました。しかし「主は与え、主
は奪う。主のみ名は褒めたたえられよ」として神様の取り扱いを信じます。ヨブは神
を呪うことをせず、神を信じて生きました。しかし考え方によっては、ヨブは自分の
信仰、自分の義においては、自分の子供10人を守れなかったとなります。
 こうして、ノアは例外になりますが、ウガリットのダニエルとヨブは、その自分の
義によって子供たちを救うことができない例として示されているのです。神の審判は
このように、公平であり厳然であり、徹底しています。神の審判のある時、救いがで
きたとしても自分自身を救うのが最大限でありました。剣、飢饉、悪い獣、疫病が神
の審判としてエルサレムに臨むときには、こうして誰も救いえず、自分自身が命から
がら救われるのみなのです。

 22節にはところがしかし、神の審判の厳格性は確かなのですが、ここに例外が起こ
ります。エルサレムには確かに剣、飢饉、悪い獣、疫病が神の審判の道具として送ら
れます。人も家畜も立ち滅ぼされていきます。しかしここに例外が起こります。神の
厳正なる審判にも関わらず「そこにわずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは
逃れて救い出され、お前たちのところに出てくる。」と約束されるのです。神の審判は
厳選な審判であり、公平であり、例外があってはなりません。主が滅ぼすとされた時、
それを変えることはできないのです。ノアを例外として、ウガリットのダニエル、そ
してヨブは、自分の義、神への信仰で、自分の息子・娘たちを救えませんでした。し
かし、ここにエゼキエルは、例外が起こりえることを示しているのです。神の審判が
なされるのにかかわらず、しかしそこにわずかの者が残され、バビロン捕囚の中から
息子、娘たちは逃れて救い出されると言うのです。

 22節はこうして、エゼキエルは「お前たちが彼らの歩みと行いを見るとき慰められ
る」と言います。23節にもう一度「お前たちは、彼らの歩みと行いを見て、それによ
って慰められる」というのです。ここ2回繰り返される慰めは、いったいどういうこ
とでありましょうか。
 実はこれがどういうことかよくわかりません。しかし似たような展開は、ローマ
9~11章にあります。ローマ書9〜11章の3章は、イスラエルの選びを扱った章です。
ローマ9章2節にパウロは「私には深い悲しみがあり、私の心には耐え間ない痛みが
ある」とします。なぜかと言うと、イスラエルの民は、神の御子・キリストを十字架
に殺し、滅びの道をまっしぐらに走っているのです。イスラエルの歩みは神の審判を
まともに受けて、滅びの道をまっしぐらに走るばかりに見えるのです。
 しかしパウロは、イスラエルは、まっしぐらに滅びの道をいかないであろうとする
のです。キリストを十字架に付けた民、神に真正面から反抗した民、イスラエルであ
る。しかしこのイスラエルの民は、永遠に滅ぼされるのではありませんでした。ロー
マ書11章1節に「神はご自身の民を退けられたのであろうか。決してそうでない」と
して、ローマ11章5節では「同じように現に今も、恵みによって選ばれた者が残って
います」というのです。そして11章11節「彼ら(ユダヤ人)の罪によって異邦人に
救いがもたらされる結果となりました。それは彼ら(ユダヤ人)にねたみを起こさせ
るためだったのです」としています。続けて11:12節に「彼の罪が世の富となり、彼
の滅びが異邦人の富となるのであれば」としています。11:23節には「彼ら(イスラエ
ル)も、不信仰に留まらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼を再び接ぎ木す
ることがお出来になります」としています。

 つまりユダヤ人は確かにキリストに反抗して、イエス様を十字架につけた。これは
永遠の滅びである。しかし神様はこのことをイスラエルの永遠の滅びにしないであろ
う。ユダヤ人の失敗・罪を用いて、恵みによって異邦人の救いにされた。そしたら恵
みによって、ユダヤ人もまた信仰を持つならば、救われるはずだとするのです。
 異邦人がキリストを信じて、救いに入ったことを11:14節には「何とかして自分の
同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」としています。パウロは
決して、キリストを十字架に付けたイスラエル同胞の滅びを信じておらず、異邦人が
キリストを信じて、神の祝福にはいることが「ユダヤ人にねたみを起こして、キリス
トを信じる者が出てくるはずだ」としています。パウロのこの論理はあまりにもまど
ろっこしくて、本当にそうなのか、そんなことでユダヤ人が本当に救われるのかと言
いたいです。しかしパウロは、11:29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものな
のです」と書いており、11:32節には「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められ
ましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです」としています。

 長い引用例になってしまいました。エゼキエルは、神の4つの裁き、剣、飢饉、獣
の害、疫病が、イスラエルに臨むとします。しかしこの裁きがイスラエルにとって慰
めになる時がくる。裁きを通して息子、娘が逃れて救い出され「お前たちは彼らの歩
みと行いをみて、慰められるのだ」とするのです。エルサレムへの審判、災害は、最
終的には単なる裁きで終わらないとします。

 23節に「私が行ったすべてのことは、理由なくおこなったのではないことを知るよ
うになる」というのです。これは裁きにおける恵みというと変ですが、そういう事態
を示していると思います。バビロン捕囚は確かに多くに人の命を奪い、悲惨な状態に
なりました。エレミヤ哀歌は、第2次捕囚において起こった民の悲惨を書いていまし
た。それはエルサレムの食料がなくなり、エルサレムの住民のある人は気が変になり、
自分の子供を食べだすほどであったとあります。エレミヤ哀歌2章20節です。
 それほどの大変な状況になりつつしかし、神様は理由なく、裁きを行われたのでな
いとするのです。ここは最後は、もう理性を超え、人間の分別の限界かもしれません。
多くの戦争の悲劇は、あまりにも酷く、それを肯定することはできません。しかしパ
ウロは9:20節に「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造っ
た者に、どうして私をこのように造ったのかといえようか」としています。文句を言
えない私たちは、しかし神様に問いを立てつつ、しかし神様の側に、何かの理由を想
定して生きるしかないのだと思います。「神は理由なく裁きを行ったのではない」。し
かしその本当の理由は分からないのです。私たちは分からないけれども「理由なく行
わない」神様、つまり理由を持っておられる神様を信じて、前進していくのです。
 私たちの歩みはそういうことが多々起こるのだと思います。理由ははっきりしない
けれども、前進していかざるを得ないのです。ある本に「本当に大きなことをなす人
は、一人として計画した人はいない」とありました。ベンチャー企業も国作りもそう
らしいです。そういえばダビデもソロモンも、イザヤもエレミヤ、エゼキエルも全く
長子でも、正当な相続権もない人ばかりです。預言者に至りては、どこの馬の骨かわ
からない預言者が多いです。ただ神のことばを聞いたのです。そして主に示される所
に生きたのです。私たちもまた「神は理由なく、ことをなされない」。理由を持たれる
神を信じて今日を生きていくのです。主の十字架の罪の赦しと恵みを信じ、主のなさ
る慰めを信じ、今週も歩みます。

 祈ります。「天の父、主なる神様、2020年が始まりました。先週は2020年度の執事
と監事さんが決まりました。主の導きを感謝です。戦争の響きがありますが、どうか
平和をもたらしてください。病気療養の方・・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・、
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人を
導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ、来週は、教会建
築の間取りの決定の総会をします。あなたの導きに従うものとしてください。どうか、
1年間導きください。み名によって祈ります。アーメン」


    黙示録2章8〜11節              2020年1月12日
                  「 忠実な証人 」
 本日も主に命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝ができますことを、主に
感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い
改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 今年は新年から次々と飛んでもないニュースが入り、今年1年間を象徴するような
様相を見せています。イランとアメリカは戦争状態にはならないようですが、暫くは
小競り合いが続き、多くの人の命が奪われていくのでないかと心配です。巻頭言に書
きましたが、中村哲先生の本を読むとイスラムでは「目には目、歯には歯」は今も生
きている掟のようです。脅しには屈しないのは、これは日本人も当然かもですが、イ
スラムの方は特にそうだとあります。自衛隊の中東派遣も、憲法違反になるかもです
ので、せめて国会で決議してあげればと思いますが、閣議決定です。もし自衛隊員の
命が失われたら本当に大丈夫なのかと思います。教会でいうと大事やことはやはり総
会にかけて決めるのであって、牧師だけだととんでもないし、執事会だけだと心配で
す。私は手順は大事のように思います。もちろん電球を取り替えますを総会にかけて
いるようでは、話しに成りません。

 聖書は、今日からいつものように第2週ですので、使徒の手紙から聞くということ
で、ヨハネの黙示録からきいて行きます。ヨハネはローマ皇帝拒否者として、捕らえ
られエーゲ海に浮かぶパトモス島に捕らえられます。黙示録1章9節にあります。し
かしヨハネは、パトモス島から7つの教会エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティア
テラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキアに手紙を書き、これからやってく
る大迫害に備えさせました。黙示録はこれまで、散発的にローマ皇帝が恣意的に行っ
てきたキリスト教への迫害が、いよいよ国家的に、制度的になる手前にあります。
 この7つの町は、エフェソから始まって不思議なことに時計回りにくるりと今のト
ルコの西部を回っています。意味があるのかどうかが言われていますが、当時のロー
マ帝国の郵便の経路だったのかなとも思います。それぞれ60qくらい離れて7つの教
会を一周すると420qくらいになります。エフェソ教会を鹿児島教会とするとスミル
ナ教会は人吉教会くらいで、次のペルガモ教会は熊本教会と言った具合です。後は延
岡教会、宮崎教会、都城教会といった具合です。
 スミルナ教会は、7つの教会の手紙の中では、一番短く8〜11節ですので4節です。
しかし読まれて分かるように、実はスミルナ教会は、全くヨハネから責められ、批判
されることがない教会なのです。他の6つの教会はそれぞれに、ヨハネから責める点
を指摘されています。例えば1番のエフェソ教会は黙示録2章4節に「あなたは初め
の頃の愛から離れてしまった」とあります。次の3番のペルガモン教会には、2章14
節に「バラムの教えを報ずる者がいる」となっています。4番のティアテラ教会では、
20節に「イゼベルという女のすることを大目に見ている」となっています。5番のサ
ルディス教会は3章1節に「あなたは生きていると言っているが、実は死んでいる」
と激しいです。6番のフィラデルフィア教会には3:9節に「見よ、サタンの集いに属
して」と言われています。7番のラオデキア教会は、3:16節に「冷たくも熱くもなく
生ぬるい」と言われています。ところがスミルナ教会は責められる点がない。つまり
7つの教会でヨハネが欠点を指摘する点がなかったのが、つまりヨハネが心配しなく
ても良かったのが、スミルナ教会であったことになります。欠点がないことが優秀か
と言われると困りますが、スミルナ教会はヨハネにとって着実な教会であったことは
確かです。

 8節にあるように「最初の者にして、最後の者、一度死んだが、又生きた方」がス
ミルナ教会に言われます。この方はもちろん主イエス様です。その方が9節にあるよ
うに「私はあなたの苦難や貧しさを知っている」と言われます。スミルナ教会は貧し
い教会だったのです。他の6つの教会で貧しいと言われた教会はありません。そして
ここでいう貧しいは、霊的な心理的な貧しさを示すことばでなくて、物質的な貧しさ
を示すことばであると言われています。つまりスミルナ教会は物質的な貧しさにある
お金のない教会でした。
 苦難や貧しさは、信仰にとってやっかいです。多くの方は、神様を信じれば、お金
が儲かると思うのではないでしょうか。信じたけれども貧しいままだと神様は助けて
いない、もっと言うとその神様は頼りに成らないことがあります。せっかく信じたの
に、自分の会社が倒産したら、これは90%自分に信じた神様は力のない神様だったと
なるでしょう。もう止めたとなるでしょう。元々病気の人が信仰を持つことになった。
そして病気を克服された、ならまだ良いのです。しかし健康であった人が、信仰をも
って病気になったとなる、とこれはその神様は何をしていたのかとなります。
 詩編44編25節には「何故、み顔を隠しておられるのか。彼らが貧しく、虐げられ
ていることを、忘れてしまわれたのですか」とあります。この詩人にとっても、神を
信じ、信頼する者が貧しく虐げられているのは、大きな躓きであり、信仰にとって、
理解のできない出来事だったのです。詩人は神様に問いをたてているのです。そして、
それに対して、黙示録2章9節、主イエス様は「私は、あなたの苦難と貧しさを知っ
ている」と言われたのです。詩人は「苦しいです、忘れたのですか」と問いましたが、
今や主は「私はあなたの苦しみ、貧しさを知っている」と答えられました。
 主は知っていてくださる。主はご存知である。これは何よりも大きな慰めです。全
知全能の愛の神、主は全てなさることができます。その神様が自分の貧しさ、苦しみ
を知っていてくださる。それはある意味で貧しさと苦しみが、主のみ手の中にあると
いうことでもあります。それは当人には理由はよく分かりません。なぜそうであるの
か分かりません。しかし主は自分の貧しさと苦しみを知り、そこにおいてくださって
いる。少なくとも「私は(主は)知っている」ということばに、私達は何か理由は分
からない。何か掴めないけれども、主が知っていてくださるなら、何かそこに理由が
あり、ご計画があるはずだと受けることができるのです。
 そして、ヨハネは「だが本当は豊なのだ」と続けています。つまりスミルナ教会は
物質的には、苦難や貧しさがあるのです。7つの教会の中で、一番貧乏で金策に困っ
ている教会です。しかしそれを神様が知っていて下さっている。その時、現象的には
苦難と貧しさがあるが、事実・真実は、神様から見るとそれは豊かなことであるとし
ています。それはどういうことでしょうか。

 詩編119編143節には「苦難と苦悩が私に振りかかっていますが、あなたの戒めは
私の楽しみです」とあります。詩人は、自分が物質的には乏しく、苦難の中にあって
も、神様はなお導いてくださることを示しています。ましてや私達は、神様の恵みを
受けて、イエス様を受けて、イエス様が十字架の苦難を負い、十字架の死を負ってそ
の中から復活してくださったことを示されています。恵みの十字架からの復活がある
からには、苦難と苦悩、貧しさは、変えられていくと言うことができるでしょう。そ
れは何度も繰り返しますが、イエス様の山上の説教のマタイ伝5章の「貧しいものは
幸いである」という、飛んでもない逆説にもなって行きます。
 詩編119編の詩人は143節に「あなたの戒めは私の楽しみです」と語り、神がそう
してくださるといいます。これは新約の私達には、イエス様の真実ということになる
と思います。これはある意味で聖霊の体験でもあります。私達の人生は失敗してもな
お、道が開けることが多いのです。試験に失敗した、行きたいところ、その資格に行
けなかった。だから今があるのは、よく考えるとやはりそうなのです。思った通りに
試験にパスしていたらどうなったのか。幸せだったのか。判定は難しいです。
 結婚でも同じです。思った通りの人に出会うことももちろんあるでしょう。しかし、
思った通りの人でなかったとしても、地道に誠実な関係、信頼の体験を重ねることに
おいて、私達は関係を作り出すことができるのです。あなたは2番目でした、とは口
が裂けてもいえないでしょうが、だから一番になっていくのです。詩人には、事実、
苦難と苦悩が降りかかるのですが、しかし神様を知り、信じることにおいて、乗り越
えられるのでないかと前を向いているのです。神様はそこを見て、スミルナ教会は貧
しいけど「本当は豊なのです」と言われたのだと思います。教会の歩みはそういう面
がいつもあることだと思います。

 次にヨハネは「自分がユダヤ人と言うものどもが、あなたを非難している」と言い
ます。具体的にこの自称ユダヤ人は誰であるのか。続けて「彼らはユダヤ人ではなく、
サタンの集いに属しているものである」としています。通常ユダヤ人とは、神様を信
じ神に頼る、神様の民のことを言いました。ただしアブラハム時代からモーセ時代ま
でのユダヤ人は、定住した場所を持たない、流浪の民、卑賎の民という意味を持つ侮
蔑の言葉でもあったとされています。しかしここでヨハネは自分がユダヤ人であるこ
とを誇りとしており、スミルナ教会を非難するユダヤ人は自称ユダヤ人であり、サタ
ンの集いに属する者としています。
 ユダヤ人と自称ユダヤ人を分けて、彼らはユダヤ人でなくサタンの集いに属する者
といいます。ここのユダヤ人はどうも、スミルナ教会の人を迫害し、馬鹿にするユダ
ヤ人達のようです。すでにご存知のようにヨハネのいた教会は、1世紀から2世紀に移
る紀元100年ころの教会です。当時は、ユダヤ人達は今のトルコ一帯は多く住み、時
にパウロを助けたり、パウロを迫害したりしましたことが言行録にあります。最初の
キリスト教会は、地方に散らばった離散ユダヤ人が会堂の礼拝でパウロの説教を聞い
て、キリスト者になっていって、教会を支えてくれたのです。しかしだんだんキリス
ト教はユダヤ教と違う教えらしいとなっていきました。
 ユダヤ人達は忠実で人望が厚く、お金持ちが多く、各地域で多くの特権が与えられ
ていたことも言われています。特権の一つは、ユダヤ人は一神教を固く守る故に、ロ
ーマ皇帝礼拝で、皇帝を拝まなくても良かったという特権が言われています。日本で
は考えにくいです。日本の戦時中の宮城遙拝は、免除の人があったとは聞いたことが
ありません。そしてキリスト者は、最初、ユダヤ人の特権をユダヤ人と間違えられて、
享受できたともいわれています。そしてスミルナ教会では、おそらく根本主義の頑な
なユダヤ人からキリスト者は「あいつらはユダヤ人でない」と言われて、ユダヤ人の
特権を取られた可能性が言われています。

 10節に「あなた方は、受けようとしている苦難を決して恐れては成らない。・・・あ
なた方の何人かを牢に投げ込もうとしている」は、この事を示すようです。ユダヤ人
からキリスト者は一神教を捨てた人であり、ユダヤ人でないとして、皇帝礼拝をしな
いものとして、逮捕して牢に投げ込むようにされているということです。ヨハネはこ
れを「悪魔の試み」としており「10日間の間苦しめられるであろう」としています。
具体的に数名はすでに牢屋にいるのかも知れません。そして、スミルナ教会の人々は、
投獄を恐れているのです。
 ヨハネがどうして10日間の抑留と言えるのかは分からないとされます。しかし10
日間は多分、抑留期間、迫害期間は短いということでないかと言われています。ニッ
サンのゴーン元会長さんが日本から逃げました。解説を聞いていると最終判決まで5
年間係り、さらに奥さんに会えないということらしいです。そこだけ聞くと日本の司
法制度はかなり厳しいかなと思います。殺人をしたわけでもなく、誰かを実際に傷付
けたわけでなく、自分の会社からお金をふんだくったのですから、罪は大きいですが、
判決までに5年間、その間、妻と会えないとなると、逃げたのは悪いですが、逃げた
気持ちは分かる気がします。
 ヨハネは、投獄を恐れるスミルナ教会に「死に至るまで忠実であれ」と励まし「命
の冠を得られる」としています。神への忠実と艱難への恐れは両立せず、神ならぬも
のを恐れないことは神への忠実であり、神への忠実は神以外に何も恐れないことを示
しています。艱難との闘いは、神様への忠実にはつきものであるのだと示しています。

 11節にヨハネは、聖霊の教えとして、勝利を得る者は第2の死から害を受けないと
しています。これは死んでからの最後の審判とされます。第2の死については黙示録
20章6節に再びでてきます。当時は、肉体の死と同時に死んでからの2番目の審判の
死が信じられています。そして肉体の死よりもむしろ死んでからの審判の死が重んじ
られたのです。ここは千年王国説と重なっており、キリスト教でも解釈がわかれてい
ます。千年王国を復活の前にするのか、後にするのかとかあります。
 しかし問題はどちらに転んでも、死に至るまで神様に忠実にあることが問われてい
ます。私達は物質的に貧しかったスミルナ教会が、主にあって歩んでおり、ヨハネは
この教会を頼もしく思い、死に至るまでの忠実で励ましました。そして外典儀典にな
るのですが『ポリュカルポスの殉教』という使徒教父文書が残っています。そこには、
黙示録の手紙から50年後に、スミルナ教会にポリュカルポスという司教、牧師がいて、
その殉教を書いています。ローマの官憲から逮捕されたポリュカルポスは、切支丹の
取り調べに似ているのですが「ここでキリストを呪いなさい、そうすれば助けて上げ
る」と言われるのです。しかしポリュカルポスは有名な「私は87年間キリストに仕え
ていました。キリストは一度も私を裏切りませんでした。どうして私が、今になって
キリストを裏切るような言葉をいえましょう」と答えました。本当は、ライオンに食
われる刑でしたが、ライオンが皆引き払っており、火で焼かれる火刑で殺されていっ
たのです。しかし最後は風が吹いてよく焼けず、とうとう総督は槍で突き刺して殺し
たとなっています。「死に至るまで忠実なれ」。私達には重い戒めですが、主の十字架
の恵みを受けて、目標を定めて歩みたいです。
 祈ります。「天の父、主なる神様、2020年が始まりました。戦争の響きがあります
が、どうか平和をもたらしてください。病気療養の方・・・、
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、
一人一人を導きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ、今年
は、教会建築に取り組みます。あなたの導きに従うものとしてください。明日の子羊
会の守りください。どうか、1年間導きください。み名によって祈ります。アーメン」


    第一コリント信徒の手紙1章4〜9節      2020年1月5日
            「 主も最後まで 」
 新年あけまして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
元旦礼拝に出席された方は挨拶が重なりますが、今年は脱走事件に始まり1年間を象
徴するかも知れません。本日も主に命を与えられて、年の初めに皆さんと共に礼拝が
できますことを、主に感謝致します。主に赦された短い礼拝の時ですが、1週間の歩み
を振り返り、罪の悔い改めをなしつつ、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。
 今年は、元旦礼拝が終わりましてから帰省してきました。いつもの通り、父方と母
方の親戚めぐりと言いましても、本家のみの挨拶と昨年亡くなった親戚だけですが、
挨拶に行ってまいりました。父方は本家に誰もおらず、母方は87歳のおじさんがおら
れました。田舎の方でもだんだん正月3ケ日も、本家も又家にいるのが難しい時代に
なってきました。忙しい時代、人がいない時代になっているのを感じます。
 父と母のお墓参りをして、母方のおじさんと少しだけの話になりました。おじさん
は奥さんに先立たれて、母方の本家を一人で守っておいでです。家には納屋もあって
広く、畑も広く管理が大変で「もう人生楽しいこともなくなりました。早くお迎えが
来ることを願うばかりです。」と言われます。帰省した息子さんに「そんなことを言う
ものでない」とたしなめられておられました。
 命は神様のからのものです。信仰の有無にかかわらず、与えられた命を生きるしか
ありません。信仰を持つと主から与えられた命を改めて示されます。ご高齢の方が一
人で、田舎において家を守ることの難しさ、どこまでできるのか、を考えさせられま
す。私の父と母はなんとか老人ホームで元気でいてくれての召天でした。しかし田舎
の本家の方はそう簡単に、老人ホームへというわけにもいかず、改めて1人のご高齢
者の在り方を考えさせられる正月帰省となりました。教会の皆さんもご高齢の父母を
持たれる方は、いろいろと大変と思い、知恵を祈るものです。

 さて聖書は、コリントの手紙の1章から聞いていきます。新年礼拝ですのでいつも1
章や初めに関係のある聖書から読んでおります。今年は初めてと思いますが、コリン
トの1章から聞いていこうと示されました。すでにご存じのように、コリントの教会
は、パウロが新規伝道をした教会でありました。使徒言行録8章にはコリント伝道の
様子が書かれており、何度も話した通りです。コリント伝道は第2伝道旅行の最初の
段階で起こりました。ギリシャの首都アテネでの伝道が振るわず、パウロは港町コリ
ントに来たのです。するとそこに同業者のアキュラとプリスキラ夫妻が来て、さらに
シラスとテモテがマケドニア州から来て合流し、5人の伝道集団となりました。パウロ
は天作りという副業をしなくてよくなり、伝道に専念、集中することができ、伝道は
大いに進展したのです。言行録18章10節には、主がパウロを力つけてくださり「恐
れるな、語り続けよ、黙っているな。私があなたと共にいる。…この町には私の民が
大勢いる」と言って励ましてくださいました。そして言行録18章11節には「パウロ
は1年6か月の間ここにとどまって、人々に神のことばを伝えた。」とある通りです。
 しかしパウロがコリントを去ってから次の伝道地に行った時、問題が起こります。
コリントはもともとギリシャの港町であり、港町はどこでもそういう傾向があります
が、多くの人が集まり、多くの民族、文化、習慣を持つ人が集まります。キリストの
福音は、最初はよく受けられたのです。しかしだんだんと変質していきました。すで
にご存じの通りですが、第1コリント5章から後は、ずっとコリントの教会に起こっ
ている問題についてパウロが答えています。

 5章は近親相姦の問題、6章は教会員の訴えごとの問題、7章は結婚離婚、未婚とや
めもの問題、8章は偶像に献げられた肉の問題、9章は伝道者の給料の問題、10章は
偶像礼拝、11章は礼拝の服装の問題と主の晩餐の受け方の問題です。15章は復活の問
題、16章は献金の問題です。このようにパウロは当時の教会の具体的な問題について
語り、それは現代の教会もほぼ同じように当てはまると思われます。つまりコリント
書を読むことは今も昔も、問題のない教会はないこと、しかし問題がありつつそれと
対応しながら教会は建てられていくことを示されます。「こんな教会は教会でない」と
して他の教会に行ったら、そこにはもっと多くの問題があって、戻ってきたというの
は、よく聞く話です。次々と教会を取り換えるのも時々聞く話です。私たちは問題の
ない教会はないというところに立って、自分のできること、自分に示されたところを
主のみ前になすのみであります。
 私は、教会はイエス様が立たせるのであって、人間が立たせるのでないと思います。
しかしもちろん皆さんはそれまでさっぱり伝道できなかった教会が、牧師が変わった
とたんに、伝道がよくできるようになり多くなったというのを聞かれると思います。
また営業マンをされた方は、同じ商品なのにAさんが売ると10個売れて、Bさんがう
ると1個しか売れない又はさっぱり売れないともよく聞かれる話しと思います。神様
はこうして確かに人を用いられます。ですから人の努力や工夫は大切です。しかし聖
書の基本、神の導きを考えると、そこには人間を超えた神様の働きを考えざるを得ま
せん。教会には時期カイロスがあるのだと思います。その時期カイロスをどう生きる
のかが問われています。それはやはりまず地道な祈りと思います。人から褒められる
祈りでなくて、人と関係ない、自分と神様で重ねていく祈りです。イエス様が言われ
たマタイ伝6章の「まず隠れたところに行って、戸を閉めて祈る」祈りです。
 パウロが一生懸命伝道した。そしてコリント教会は立派に立っていった。しかしそ
の後、コリント教会は分裂の危機にあり、様々な問題が起こる教会になりました。そ
こでパウロはどういう教えをなしていくのか。またどういう手紙を書いているのか、
私たちは聞いていくことが必要です。

 4節にあるようにパウロは挨拶が終わるとまず、神様への感謝をします。当たり前か
らもしれません。5章からは具体的なコリント教会のへの指示がなされていきます。し
かしその前に、パウロは信仰の在り方、問題への対処の在り方から述べていくのです。
方法の議論の前にあり方があるのです。まず何はともあれ、コリント教会が今やとん
でもない問題に巻き込まれているのですが、そこ根底にはキリスト・イエスによって
神の恵みを受けたことがあります。私たちは問題が出てくると問題に囚われます。し
かしそもそもその問題の根底が大事です。問題が起こる前に、問題が起こる前の段階
があります。それはコリント教会がイエス様の恵みを受けているという大前提です。
問題の前に、コリント教会は確かに主に召されたのであり、コリント教会は主の恵み
を受けたのです。まずコリント教会があることをパウロは感謝します。私たちでいう
と、それはまず命のある事あり、こうして教会に来て礼拝ができるようになったこと
です。それはうまく行くうまく行かない、助けがある助けけがない以前の問題と思い
ます。人数が多い、少ない、力がある、力がないの以前の問題です。まずそれはキリ
スト・イエスの恵みを受けたということ、十字架を信じたということです。

 5節にあるように、パウロは問題だらけのコリント教会がしかし、キリストに結ばれ、
あらゆる言葉(これはロゴスなのですが)とあらゆる知識においてすべての点で豊か
になっているとします。つまりパウロにとって、問題はある意味でどこでもあること
であり、問題の対処はいろいろあるのです。しかし問題の前に、すでにコリントの人
はキリストに結ばれており、キリストにあって言葉ロゴスとあらゆる知識を持ってい
るのです。イエス様にあるということ、イエス様に結ばれてあるということは、実は
聖霊によって、ロゴスとあらゆる知識が豊かにされているのです。
 これはもちろん世俗的な知識ではありません。世俗的な生きる力であれば、この世
の人がはるかに上手であり、優れていると思います。しかしここでパウロのいうロゴ
スと知識は、信仰からのものです。私たちはこの世の多くの人が、私たちよりも優れ
ており、人格や人徳においてもはるかに良い方を知っていると思います。しかし信仰
があるということ、神の前に生きると言うことは、聖霊による違った次元のロゴスと
知識なのです。それは端的に言えば、イエス様が教えられたマタイ伝5章の山上の説
教「貧しいものは幸いであり、…飢え渇く者は幸いであり、…柔和の者は幸いであり、
…義に飢え渇く者は幸いである…」という宣言が確かにこの世的にはおかしいけれど
も、やはりそうだとアーメンと受ける能力、御霊なのだと思います。

 6節には続けて「キリストによる証があなた方の間で確かなものとなった」としてい
ます。パウロは、一度キリストを受けられたことを非常に大切にしていると思います。
キリストを受けることは、たとい1度であってもそれは、神様の出来事であり、神様
の働き、聖霊の働きなのです。パウロはコリントの人たちが一度キリスト受け、その
信仰を持った。それは非常に大切なことであり、信仰が起こったことは、神様の働き
と守りがその人と共にあるのです。パウロはコリントの人たちが信仰を受けたこと、
キリストを信じたことを、キリストの証が確かになったこととして示しています。
 証とは、改めて表面的、現象的には、信仰の言葉の受け入れです。しかし信じてバ
プテスマを受けると言われるように、信じることは単なる知的な承認ではなく、バプ
テスマに示されるように、死んでよみがえることでした。バプテスマが信仰告白と共
に、バプテスマという水に沈み、水からあがることをもって示される通りです。それ
は知的な承認だけでなくて、信仰の行動に移るのです。パウロがキリストの証が固く
されたとは、信仰は行動になるということだと思われます。
 昨年12月に凶弾に倒れた中村哲兄弟は確かに、イスラムの中にあって確かに言葉の
証はおできにならなかったと思います。しかしそのなされたことは、イエス様の歩み、
イエス様の証と言っていいでしょう。よきサマリヤ人のように、自分にできることを
なされた。できないことは求められていないのです。できない時にはできない。でき
る時にできることをしていく歩みだと思われます。

 7節には、パウロはこんなに問題山積のコリント教会に対して「あなた方は賜物に何
一つ欠けるものがない」と書いています。私たちは、5章以後からのパウロの指示を読
むとコリント教会は欠けたところばかりの教会に見えます。しかしパウロは問題を指
摘し、問題の解決の指示を書いていますが、そのコリント教会は「賜物に欠けること
のない教会だ」というのです。私たちはここにもパウロの見ている観点と私たちが見
る観点の違いを示されます。私たちはここが悪い、ここがなっていない、ここが足り
ないと数えます。しかしパウロはこんな問題だらけのコリント教会が「賜物に何一つ
かけたことがない」と評価するのです。
 これはどういうことでしょうか。私はよく子供から「父さんは悪いことばかりしか
いわんね」と怒られます。子どもに言わせるともう少し褒めてもいいのでないかとい
うのです。しかし親の私は自分の子供は、どうしても悪いところが見えるものですか
ら、ここはこうしたらどうか、あそこはこうしたらどうかとすぐ直したがるのです。
しかしよく考えると人間は全体で生きています。その人の欠点が良い点となり、その
人の良い点が、実は場合によっては大欠点になることがあります。人間は実は簡単な
評価ほど難しいものはないのです。おそらく多くの方が欠点を正して、よくしてもら
うとただの人というと変ですが、面白みのない人になるのかもしれません。反対に面
白いばかりで、全然仕事にならないとなっても困ります。ただの人が本当に多くのこ
とを成し遂げることが聖書の教会の姿でもあります。
 パウロが見ていていたのは、コリントの教会の欠点だらけの姿でなくて、キリスト
の現れを待ち望んでいる姿です。それは「待っている」という姿です。コリントの教
会はめちゃくちゃなことが行われている酷い教会です。しかしキリストの現れ・啓示
を待っている教会だったのです。じっと忍耐して待つ教会が、実はがたがたしている
ようでいて「賜物に何一つ欠けることない」教会の姿でないかと思われます。

 8節は「主も最後まであなた方を支え、キリストの日に非の打ちどころのないものに
してくださる」と言われます。主はキリストの現れ、啓示を待っているものを、主は、
なお最後まで支えられるのです。キリストの日とはある意味で最後の日です。私たち
は最後の日までそんなに長いこと待てるか、と思います。しかし主は最後まで支えて
くださるとは、すばらしい恵みです。最後の日はいつかわかりません。しかし主は、
最後まで支えて続けてくださるのは、大きな約束です。私たちにあるのは、この「最
後まで主が支えて続けてくださる」のは主の約束だと思います。クリスマスに信仰の
誕生を確認し、信仰の始まりを確認しました。それは神様がなさいました。そして、
新年の初めに示されるのは、神様が最後まで支え続けてくださるという約束の確認で
す。紆余曲折しながら、しかし主は最後まで支えてくださる。これを確認するのが、
クリスマスの次に来る年の初めの礼拝でありましょう。

 9節に最後に、パウロは、神は真実であるとします。神の真実性が、主が最後まで支
える支えの根拠と言えましょう。主は最後まで支え続けられる。それは神様が真実だ
からです。私たちは年の初めに神様の真実を示され信じるのだと思います。そして、
神様の真実に頼り、神様の真実を忘れないと確認するのです。それは主の十字架の真
実でもあります。神が人となられて、十字架を負われた。この事実が神の真実の根拠
です。私たちは最後まで主に支えられて生きるのです。正月に母方のおじさんを訪ね
て、87歳になって「何の生きる楽しみもない」と言われました。しかし私たちは、神
の真実が示されているのです。私たちは、神の真実に生きることが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神様、本日は2020年の最初の礼拝に立っています。こ
れから2020年が始まります。私たちはあなたの真実に委ねます。間違いや失敗や病気
があるでしょう。しかしなおあなたは最後まで支えてくださいます。十字架によりイ
ンマヌエルしてくださいます。この主の真実の約束を信じて、今年も生かしてくださ
い。苦難にある者、病気療養の方、・・・
・・・姉を守ってください。ご高齢の・・・
・・・姉守ってください。教会員とその関係者、一人一人を導
きください。こども園、めぐみ幼稚園と中山伝道所の児童クラブ、今年は、教会建築
に取り組みます。あなたの導きに従うことを許してください。お正月の守りを感謝し
ます。どうか、1年間導きください。み名によって祈ります。アーメン」