2021年 説教
 いつものように著作権を放棄しています。
どうぞ、イエス様の宣教の為に使ってください。
ただ、私は学者でないので、適当な引用や孫引きがあります。
 引用される時は、自分で原本に当たり、確認してください。
私の体験の部分はもちろん著作者ですので、引用ください。
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 教会 説教   エゼキエル書24章15〜24節     2021年2月21日
              「 泣いてはならない 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第3週ですので、いつものように旧約聖書から聞くということで、エゼキエル24章から開いていきます。本日は、エゼキエルのエルサレムの陥落の最後の預言と言われ、エゼキエルの妻の死を伴った預言になっています。予言者エゼキエルは、こうして自分の妻の死をもっても、イスラエルの民に語らなければ成らない預言者でした。主の召命とはいえ、本当に大変なことでした。しかしエゼキエルは、主に言われた通りにするのみでありました。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1744人となり、この1週間では38人ほどの方が感染になっています。先週で鹿児島の感染状況は、ステージ3から2に段階を下げています。病院のクラスターがありましたが、なんとか減少しています。緊急事態宣言も来週に、近畿圏では解除を要請すると言われています。このまま行ってくれればと祈ります。私達のできることはマスク着用、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 さて15〜16節にありますように、突然主の言葉がエゼキエルに臨みます。24章1節によるとこの預言は、第9年10月10日の事であったとあります。バビロンの最後のエルサレムの攻撃が、列王記下25章1節にありますが、まさにこの時、第9年の10月10日となっています。つまりこのエゼキエルの妻の死の預言は、バビロン王ネブカドネツアルが、エルサレムに最後の攻撃を仕掛けた時であったのです。列王記下25章によるとエルサレムのイスラエル軍は、総攻撃を2年間耐えました。しかしちょうど2年後の10月9日にエルサレムは陥落しています。つまり妻の死の預言、16節にある「私はあなたの目の喜びを、一撃を持ってあなたから取り去る」の預言は、まさに総攻撃の預言と重なり、エルサレムへの最後の預言となったのです。余りにもぴったしの時間であるので、これはエゼキエル書が編集された時に、総攻撃の時間と妻の死の時間を同じ時にしたのだという学者もいます。しかし、私達はイエス様の遠隔奇跡を知っています。イエス様が直ったと言われた時に、遠く離れた僕が直ったというのです。エゼキエルにもちょうどは、あったと思います。
 それにしても、神様はどうして、エゼキエルの妻といわずに「あなたの目の喜び」と言われたのか。いろいろな解釈があって、エゼキエルの妻はたいそう美しかったという説もあるそうです。しかしこれはエゼキエルの妻が美しかったかもしれませんが、そういうことを言っているのではないとされます。実は哀歌2章4節とホセヤ9章16節に同じ言葉がでてきますが、そこでは「愛している」と訳してありま。ここも「愛する者を取り去る」ということの意味です。

 次に主なる神様は「一撃をもって」エゼキエルの妻を取り去ると言われています。すごく厳しい言葉は、その訳の通りで、正に一撃なのです。ボクシングにボディブローというパンチがありますが、英語ではここをブローと訳されることもあり、正にその一撃です。民数記の他の箇所では、民数記14章には「疫病」と訳され、民数記17章では「災害」と訳されています。疫病と訳されるのである聖書学者は、エゼキエルの妻は、長いこと病気があり、それがこうじて死に至ったと取る人もあるそうです。しかしこれは間違いであろうと言われています。理由は分かりませんが、現代風に言ってみれみば、蜘蛛膜下出血のように、一撃で命が取られたのです。預言者エゼキエルに取っては一瞬の出来事であったのです。
 次に主は、妻の一撃の死について、3つの否定を命じます。それは「嘆いてはならない、泣いてはならない、涙を流してはならない」です。エゼキエルはBC597年の第1次バビロン捕囚で、バビロンに連行されて、バビロンにいる捕囚民の中で、祭司として働いていました。おそらくイスラエルの捕囚民は、ユーフラテス川の河川敷に長屋を作ってバビロンの奴隷として川の河川工事に、働いたと思います。エゼキエルは祭司として、バビロンにいながら、神様の御言葉を伝え、捕囚民のいろいろな出産、誕生、成人式、結婚式、葬式と祭儀をしていたと思います。それはおそらく妻の働きが非常に重かったでしょう。その妻の死亡に際して「嘆くこと、悲しむこと、涙を流すこと」を禁じられました。

 17節にある事柄は、当時の葬儀式のかずかずの悲しみの動作です。死者の喪に服すな。頭のターバンは当時のイスラエル人の服装であり、仕事着のようなものです。「ターバンを巻け」は普通の恰好をせよ、ということです。「足に靴を履け」というのは、死者が出たときには、裸足になって悲しみを表しました。しかしそれをするなと言うことです。口ひげを覆うとは、やはり死者が出たときに、イスラエルの人は口ひげを覆い、調度今私達がマスクをしていますが、そういう恰好になったのです。エゼキエル時代は、マスクはまさに近親者に死者がでたという印です。そして嘆きのパンは、日本でいったら精進料理です。死者が出たときに食べるパンです。これらのことは、死者が自分の親族に出た時には、必ず人々がなし、おそらくエゼキエルは祭司として、皆にそれを教える立場にありました。そして悲しみを共有して言ったと思われます。しかしエゼキエルは、まさに主なる神にこの悲しみの動作、所作を禁じられました。エゼキエルはただ一つ「声をあげずに悲しめ」という事だけしか赦されなかったのです。

 神様はどうして、エゼキエルにこのように彼の妻さえも用いての預言をさせるのか。エゼキエルは、自分の家族を用いての預言者になるのか。預言者の使命の重さにただただ驚くばかりです。最終的には、24節に「エゼキエルは、お前達にとって、しるしとなる」と言われています。つまりエゼキエルはその家族を、自分の妻を用いての象徴預言をしていることになります。私達はこれをどう受け取ればいいのでしょうか。当時、バビロンにいたイスラエルの民は、残されたエルサレム神殿とその残りの民の動向が一番心配だったと思われます。それは譬えてみれば、第2次大戦の時に、仕事でアメリカにいて戦争を迎えた人々を想像することができます。日本はこれからどうなるのかという心配と重なると思います。バビロンにいる捕囚民は、エルサレムがどうなるのか、エルサレムから帰ってくるバビロンの軍隊に様子を聞きます。又バビロンの王宮につてのある同胞からバビロン王宮が、エルサレムをどうするのか、僅かに流れてくる情報に一喜一憂したと思います。
 列王記によると第1次バビロン捕囚の後、バビロン傀儡政権のゼデキア王は、最初バビロンに恭順を示しました。しかし、エジプトの力がついて、時々バビロン軍をエルサレムから追い払うことがありました。エルサレムのゼデキア王の貴族の中に、親エジプト派の力がついてきます。そしてなんとゼデキア王の最後の統治時代には、親エジプト派に動かされて、破局にむかうのです。エジプトの力を過信し、バビロンに反旗を翻します。それはバビロンにとっては自分たちが建てた傀儡政権に反抗されるということでした。バビロンは全勢力を用いて、エルサレムを攻撃します。確かに2年間持ちこたえました。しかし、その反撃も空しく陥落します。
 そして、これはエレミヤもエゼキエルも言っている通り、エジプトの勢力に頼むことは、エジプトの偶像を多いに取り入れることであり、回りの国と交易を結べば結ぶほど、偶像がエルサレム神殿に持ち込まれ、満ちることになります。これは、モーセ以来のイスラエルの建国の精神、主なる神さまに反抗することでした。しかし、バビロンに連行された人々は今の様なラジオもテレビもありません。ちょうどミャンマーの軍事政権が通信を遮断するように、情報がイスラエルからやってくる商人や軍人に聞くしかありません。わずかの情報において、バビロン捕囚民の知るところは、もしかして、バビロンとの戦争に勝てるかもしれないということだったようです。

 それはエルサレム不落神話と言われて、エゼキエルから100年前に、予言者イザヤの時代に、エルサレムを囲むアッシリアの18万5千人の軍隊が滅び、(ペスト発生とされますが、列王記下19章35節でした)、エルサレムが奇跡的に救われた歴史でした。エゼキエルは、主なる神様から100年前の出来事はもうない。悔い改めない平安の予言者の預言は偽りであり、エルサレムは裁かれる、と聞いていたのです。エゼキエルは、バビロンによる完全な陥落預言を主なる神さまに聞くに付けて、妻の死をもって、預言していくしか無かったのです。

 19節にバビロンの捕囚民は、エゼキエルに妻がなくなり、喪にも服さない、葬儀の手続きを何もしないエゼキエルの様子を見て言います。「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と聞かれます。そしてエゼキエルは最後の預言、エルレムは完全に陥落する。神の裁きは成される、エルサレムに残っている民と息子、娘達は皆殺されると言う他無かったのです。

 これのことを私達はどう受けていくでしょうか。私は、キリスト者は、信徒、宣教師、牧師を含めて全て象徴預言に用いられるということだと思います。2つほど思い出します。1つは、戦争直後、宣教師達が、日本に一杯来ました。ある牧師の回顧録だったと思います。宣教師のお宅にいくと冷蔵庫があり分厚い肉が一杯入っていた。当時日本人は食べるのが大変な時代であった。これは一体何だと思った。これは大いなる躓きです。しかしこの牧師さんは、最後は福音を受け容れて、この事態を書いています。冷蔵庫に肉の入った宣教師さんは用いられたと思うのです。
 もう一つは、10年間前に肺ガンで亡くなれた作家井上ひさしさんです。面白い小説を一杯書かれました。自分の体験を書いておられます。この方は東北の方で、なんと父母が貧しく、弟さんと共に東北のラサール会の救護院に預けられました。なんとそこの修道士は、本国から送られてくる修道服を皆、自分たちは着ないで、子供達の服に仕立て直して着せてくれたそうです。井上さんは、後に信仰を捨てる棄教宣言をされるのです。しかし修道士達のその姿をみて、洗礼を受けたと書いておられます。
 冷蔵庫に肉が一杯はいって宣教された方、自分の服を全部子供服に変えて支えてくれた修道士、どちらも象徴預言だと私は受け取ります。ある福岡の牧師さんは、ガンの宣告を受けて、生きている内にとそれまで迷惑を掛けた方を尋ねる旅行を組み、それを済ませて天国に行かれたそうです。それを聞いてそこまでするか、と思いました。しかしこの先生の象徴預言だったと思います。私達はエゼキエルのように、主の恵みよって、性格も家族も、神様によって皆用いられていくしかないのだと思います。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。東北に地震が起こっています。どうか被災者を守ってください。コロナ感染が少し弱まりつつあります。守ってください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブの働きを支え導きください。御名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   黙示録6章12〜17節          2021年2月14日
              「 誰が耐えられる 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第2週ですので、いつものようにイエス様の弟子、使徒の手紙から聞くということで、長老ヨハネの黙示録6章を開いています。本日は、7つの封印を解く最後の6番目の封印の出来事です。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1706人となり、この1週間では53人ほどの方が感染になっています。金曜日の感染は13人が鹿児島市になっています。幼稚園のお母さんが「自分の職場で陽性者が出ました。私は部署が違うので濃厚接触者になりませんでした」と教えてくださいました。今私達は、本当にいつ感染してもおかしくない状態です。緊急事態宣言がでて全国的にも少しよくなっていますが、このまま行ってくれればと祈ります。私達のできることはマスク着用、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 さて本日は黙示録6章12節以降の後半部分で、7つの封印の内の第6番目の封印を解いたところです。この後、第7封印が解かれ、次に7つのラッパが吹かれ、さらに7つの鉢が地上にこぼされます。封印、ラッパ、鉢と次々にでてくるヨハネの幻は、ロシアのおもちゃのマトリューシカを思います。おもちゃを開いても、開いても、次々がでてきて、最後はどんなものがでてくるのか分からない。期待させて次々と先に進むというか読ませる技法かと、ヨハネの黙示録の幻の構成に驚くばかりです。
 12節にあるように、小羊イエス様が第6の封印を解かれると大地震が起こり、太陽が頭の毛のように黒くなり、月全体が血のようになったとあります。これらの出来事はすでにイザヤやヨエルや旧約聖書の預言者達が示していたものです。つまり世の終わり、最後の日のしるしとして起こる出来事を示しています。第6の封印では、まず天地のしるしが12~14節でしるされ、それから15節〜17節では、世の終わりにおける人間のあり方が書かれています。
 私達は世の終わりがまず、大地震、太陽と月の宇宙的な異変によって知らされることをここに読むことができます。巻頭言にも書きましたが、世の終わりの預言は、聖書の教えの中でも最も受け取りがたい、読みはするけど避けてしまう教えではないかと思います。幾つかの理由があると思います。1つは、世の終わりと言われましても、確かに宇宙的には、宇宙の年令がビックバンから135億才とか太陽の年令が後50億年迄とか、科学的にいわれます。しかし余りにも長すぎて、それは始まりがあれば終わりはあると思いますが、とても真面目に取り組む必要を感じません。そして2番目は世の終わりを言う前に、自分の寿命、自分の終わりが当然先に来るわけです。地球や自然界の終わりよりも、自分の終わりが確実に早いので、世の終わりと言われても、どう捕らえて良いかわかりません。
 そして、私達は何よりも最後とか終わりについては余り考えたくないのだと思います。自分のできることがほとんどないし、何をして備えるのかが分からないのだと思います。しかし、たまたまですが先週の日曜日の夜にNHKスペシャルで『未来の分岐点』というのをしていました。地球が滅びるとか言う前に、私達は自分たちから食料の分配に失敗して、飢餓を迎えて滅びるらしいです。持続可能な成長というか、SDGィーズに示される17の基本方針を実践していくことを唱えていました。それがどこまで妥当するかは、私はわからないのです。ただ世の終わりが天文学的にでなくて、意外と私達の身近にあるのは確かのようです。また思わぬ所から世の終わりが来るらしいです。それが、ある見識の経済学や科学で、計算できるらしいです。
 イエス様が世の終わりについて、4つの福音書全部に言われているのはなぜか。古代イスラエルの伝統の中に、イエス様は人と成られたので、イスラエルの伝承を担って世の終わりを語られていた。私も余り真面目に世の終わりについて聞くことは有りませんでした。しかし、第2次大戦でも日本が原爆を受けた時、広島の人も、長崎の人も原爆を知らなかったのです。戦争中でありましたが、原爆は突然落とされました。広島、長崎にとって原爆は世の終わりでした。イエス様の世の終わり、黙示録の世の終わりは、そういう類比があるのかも知れません。ドイツのユダヤ人虐殺のホロコーストの時も、一般ドイツ人は隣人のユダヤ人がなぜか突然いなくなっているとか、空き家になったとか、おかしいとかは気づいていました。しかし大量虐殺がなされているのは、政府の人しか知らなかったようです。

 13節には、「星が落ちる、それがイチジクの青い実が落ちるように落ちる」とあります。星が落ちるはずがないと私達は思います。しかし「当たり前のことが当たり前にならない出来事」と置き換えますと、私達の回りには、確かに当たり前のことが当たり前にならないことが多くなっているようにも思います。14節の「山も島も皆その場所から移される」とあります。これもまたエレミヤ4章、ナホム1章、エゼキエル38章に似たような預言があるのです。しかし、旧約の予言者達の世の終わりの預言を踏襲して、イエス様は引き継ぎ語っている、では足りないのでないかと思います。
 これらの世の終わりに一番近い現象は、やはり地球温暖化が考えられます。コロナ感染も元々は地球温暖化が原因かもしれないという人がいます。今は、非常に少ないですが、段々突き止められていくのだと思います。地球の温暖化は確かに、人間の罪であるかどうかは難しいです。しかし、欲望や便利さの追求がどうしても、炭酸ガスの増加となり、地球を暖かくする方向になるのは確かのようです。

 15節からは、これらの地球環境、天と地の異変に応えてなす人間の振る舞です。そこには7つの種類の人がでてきます。書いて在るとおり、王様、高官(貴族達)、千人隊長これは将校達です。富める者、力ある者、これらは政治を支配する者といえます。しかし残りの2つは、奴隷も自由な身分の者もあるとのことで、この世の終わりの現象を被るのは、自分の好き勝手している王や貴族、将校達、商人や権威あるものだけでありません。奴隷も入ります。全人類が同じように、この天地の異変の被害を受けるのです。これもまた、地球温暖化の被害と似ています。先ほどの世の終わりの飢饉の話しですが、確かにお金持ちは食料難の飢饉の被害をお金の力で最初は免れます。しかし時間の問題です。金持ちは、高い食料を買えるうちは良いのですが、無い食料を買うことはできません。先進諸国の人々は、相対的に食料が身近にあるので、実は全体的に食料が無くなっていることになかなか気づかないのだそうです。

 16節の山と岩に向かって「私達に覆い被さり、神様と小羊の怒りから私達を匿ってくれ」といいます。実はこれもイザヤ2章、19章、ホセア10章の預言にあります。御座に座る神様と小羊イエス様の怒りから、逃れられると思うか、予言者達のその時の思いはどうだったのかと思います。もともとパレスチナでは、戦争から逃れる方法は山に入って、岩の洞窟に潜むことでした。クムラン教団が、ローマ帝国との戦争からのがれるために、洞穴に逃げて、そこに聖書の写本を隠し、戦争が終わった後に、その場所が分からなくなりました。19世紀になって羊飼いがたまたま洞穴に石を投げる遊びをしていたら、カーンと瓶が鳴って、おかしいと行ってみたら見つかったという嘘のような本当の話があります。クムラン洞窟の聖書のイザヤの写本は有名です。
 ですから実際に戦争が起こると洞窟に隠れ、岩の隙間に逃げ込むという習慣があったのです。しかし黙示録では、これは神様の最後の世の終わりの時です。本当の世の終わりの時です。17節に有るとおり「誰がそれに耐えられるのか」はもちろん「誰も耐えられる者はない」ということを言っています。神様が来たらせる世の終わりの審判には、誰も耐えることのできる者はないのです。
 私達はこの第6の封印が解かれたら、まさに最後の審判の直前であり、最後の日にかかったということになります。しかし不思議なことに、第6封印は最後のそのものがありません。山と岩に向かい「自分たちに覆い被さり、神様と小羊の怒りから逃れさせてくれ」との願いはあるのですが、審判そのものの事態がないのです。つまり仏教で言うところの地獄絵、針の山や釜ゆで状態、火炎の中の状態がないのです。

 私達は次に、最後の第7封印を読むことになります。今日は読みませんが、黙示録7章の第7の封印を聞くことになるのです。黙示録7章3節には「我々が神の僕達に刻印を押してしまうまで、大地も海も木もそこなってはならない」となっています。つまり第7封印の世の終わりの最後の封印は、神の僕が刻印を貰うまで留め置かれるのです。ところでこの刻印ですが、やはり旧約エゼキエル9章4節にあるのです。ここには「あらゆる忌まわしい事のゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」となっています。そして6節「あの印のあるものに近づいてはならない」と主はエルサレムを破壊する天使に言っています。奴隷制度のあるところでは奴隷に焼き印をおして、所有者を明らかにしたと言われます。そのように、神様は自分の所有を明らかにするために刻印を押されるというのです。初代教会ではこの刻印を、主イエスの名によるバプテスマと受けとめました。
 私たちは改めて最後の日を創造される方、最後の審判をされる方、神の小羊は、神様が私たちを愛し、十字架についてくださった神であることを知らされます。最後の審判は、十字架に付かれた主がなさるのであります。つまり聖書の神の審判は「ある者たちに報い、ある者たちを、裁いて罰すること」でないのです。聖書の神の裁きは、むしろ「秩序を造り、破壊されたものを回復する」働きです。ですから一見黙示録の裁きは、第6封印を見ると報いて、裁き、罰するように書かれます。しかし第7封印においては、神の僕たちに刻印を押されるまで、大地も海も木も損なわれません。

 神様の審判道具、剣と疫病と飢饉すなわちコロナ感染は、最後は人類を滅ぼすことができないのです。主は、コロナ感染を何かの秩序を造り、何か破壊されたものを回復するために用いておられるのです。世界で、すでに1億人以上が感染し、236万人がなくなっていいます。しかしコロナは人類を滅ぼすことはできません。なぜなら十字架の主、イエス様をこの世に送られた神様が、すべてをみ手に置かれているからです。主なる神と小羊イエス様の怒りは、世の秩序と破壊の回復のための裁きなのです。私たちは疫病を通して、何かを受けるのだと思います。コロナ感染と戦う医療関係者、そして手配をする保健所、罹患して病気と闘う方、その為に祈ります。私たちはこの時期、なすべきことをきちんとして、主の取り扱いを信じ歩むことが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。主は世界審判の主です。しかし罰を与え、報いるための審判をなさいません。創造の秩序と破壊の回復の為になさいます。感染が少し収まりつつあります。どうか、戦っている方を守り、導き、支えてください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブを支えてください。み名によって祈ります。アーメン。」


 教会 説教   マルコ伝8章1〜10節          2021年2月7日
              「 賛美の祈り 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第1週ですので、いつものように福音書から聞くということで、マルコ伝8章を開いています。また短縮ですが主の晩餐も受けて行きます。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1653人となり、この1週間では54人ほどの方が感染になっています。非常事態宣言がでて全国的にも少しよくなっているようです。このまま行ってくれればと祈ります。いつもいうように、私達のできることはマスク、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 本日の箇所は、マルコ伝8章のパンの増加、4000人の給食と言われるところです。実は6章30節以下に5000人の給食がありました。つまりマルコ伝は2回続けて、イエス様のパンの増加の給食の出来事を報告していることになります。実は5000人の給食と4000人の給食はマタイ伝にも14章とマタイ伝15章と2回なされております。そしてルカ伝9章では5000人の給食のみ報告され、ヨハネ伝6章でも5000人の給食が報告されています。つまりイエス様がなされたパンを増やされる奇跡は、マタイ伝2回、マルコ伝2回、ルカ伝とヨハネ伝に1回ずつで福音書に全部で6回もあることになります。つまり福音記者は、少し強調していえば、このパンを増やされる給食の奇跡を、十字架と復活よりも十字架と復活の出来事としてはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのそれぞれの一回ずつで4回ですので、それよりも多く報告したという事になるのです。まず改めてどうして、なぜ、福音記者マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは、このパンを増やされる奇跡をこれほど大事にして、報告したのかが問われます。
 正直言って、現代にいる私達は、イエス様がパンを増やされ5000人、4000人が満腹する奇跡が、そんなに大事なのかがよく分からないのです。もちろん戦中派の方や戦後の混乱期の食糧難の記憶のある80代や70代後半の方は、これはすばらしい奇跡だと素直に感動されるかもです。しかし私は1956年、昭和でいうと30年代の生まれです。正直家族や親戚がパンがなくて困っているという体験がほとんどありません。むしろ今、子ども食堂の働きに象徴されるように、もしかしたら今こそ、子どもの貧困問題が言われており、パンを満腹に食べた事がない子ども達が、実は身近にいて、このイエス様の奇跡に感動を覚えるのかも知れません。

 1節にあるように、この奇跡が起こったのは「群衆が大勢いて、何も食べるものが無かった」となっています。2節をみますと何と群衆は、3日間、イエス様のお話しを聞いていたようです。イエス様と弟子達の近くにいたと報告されています。3日間というと、昔の私の信じたころの45年前の教会の伝道会、伝道集会は、金曜日の夜から始まって土曜日、日曜日の主日と確かに3日間、教会に来られた先生の話を聞きに行きました。しかし今は土日、いや日曜日だけが多くなっています。金土日と3日間するところはもう余り聞いたことがありません。そして45年前は、伝道会は夜だけでした。時々、土曜日の朝の集会があって、青年会やら女性、壮年会の集会があったくらいだったでしょう。ですからお話しを聞くと行ってもせいぜい賛美歌や交わりをいれてもせいぜい2〜3時間くらいだったでしょう。その時間以外は自分の家に帰り、また仕事のある人は仕事が終わってきたものです。
 しかしこの4000人の人々は、イエス様の話を3日間、3節には「遠くから」、4節には「人里離れたところ」から来て、イエス様のお話しを聞いたのです。まずこの熱心さに驚き、3日間もイエス様のことばを聞こうとする当時の熱意というか、霊的な飢え渇きに驚きます。私達はこの4000人の給食の報告で、聖書の言葉を3日間ぶっ続けて聞きたいと思うのか、とまず自分が問われます。そして、このような熱心さはもう今は期待できないのでないかとも思います。しかし、そうでもないかも知れません。今、橋口姉がインストラクターをされている親業会の方が3名、聖書の話しを聞きたいと言われて、3回目の学びを終わりました。私は、実は1,2回でもう良いですが、と言われると思ったのです。でも4回目と5回目の日程を決めました。子ども食堂の子供達はこの奇跡が分かり、喜びが分かるかもしれないといいましたが、聖書を改めてきちんと聞きたいと言う方も、神様は起こしてくださるのです。

 4節にあるように、イエス様は「空腹のままに家に帰らせると途中で疲れきってしまうだろう」と言われました。実は、マルコ伝6章の5000人の給食の所では、弟子達がマルコ伝6章36節に「人々を解散させてください。そうすれば、自分で回りの村や里で何か食べるものを買いにいくでしょう」と言っています。つまりパンを与える奇跡の主導は、5000人の給食の方では、弟子達になっていますが、4000人の給食ではイエス様であり。私達はイエス様が主の祈りを教えられる時に言われたマタイ伝6章7〜8節「異邦人のようにくどくど祈るな、・・・あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知である」ということを思い出します。この4000人給食においては、イエス様の方から「空腹のままに帰らせてはならない」と必要を知り、言われて奇跡を準備されていることが分かります。
 しかし弟子達はすでに5000人の給食を体験しているにも関わらず、前の時と同じように「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるのか」と言っています。5節にイエス様は「パンはいくつあるか」と聞かれて、弟子達は「7つあります」と応えています。ここの対話も5000人の時の給食と同じです。5000人の時もイエス様が「パンはいくつあるか」というと弟子達は「5つあります。それに魚が2匹です」と答えていました。比較しても余り意味がありませんが、5000人の時は5つのパンと2匹の魚から男ののみ5000人が満腹し、4000人の給食の時は7つパンと少しの魚から男女の4000人が満複していることになります。奇跡の力としては、5000人の方が大きいとは言えます。

 6節からは奇跡の場面です。ここも5000人の給食とほぼ同じです。イエス様は人々を座らせて、7つのパンを取り「感謝の祈り」を唱えて、弟子達に配らせます。ここにはイエス様から弟子達へ、弟子達から群衆へというパンの動きがあります。7節は、魚に対する奇跡になって、これも5000人の給食と同じです。まずイエス様が魚を今度は「賛美の祈り」をなされ、それから弟子達に配らせています。実はこの感謝の祈りと賛美の祈りですが、いつも使う主の晩餐の制定句の第1コリント11章23節からのことばとほぼ全く同じになっています。つまりパウロは、このイエス様がなさった4000人、5000人の奇跡を元にして、主の晩餐を伝承していると言えるのです。つまり主の晩餐は、その名の通り十字架に引き渡される前の夜の出来事ですが、実はその背後にはさらに主イエス様と共なる4000人、5000人との給食があったのです。主の晩餐に4000人5000人の給食があるということは、そこに群衆が皆弟子達と共に、イエス様と食事をすること、そして奇跡を体験することが入っていたと言えます。もっと言うとこの4000人、5000人の中にはまだイエス様のことをよく知らない、しかし3日間も、み言葉を求めている人々がいたということです。主の晩餐を受ける資格があるとすれば、実はこの熱心とも言えるのです。今日の出来事は主の晩餐の受領の境界線をどこに引くのかがかかっています。しかしこれはまた別の問題とも言えます。

 8節にあるように、イエス様の増やされたパンを食べ、その増やされた魚を食べて、その残り物を集めると、7つの籠になりました。いろいろな意味が言われています。しかし単純に4000人が食べてなお余った。すなわちイエス様の祝福は4000人に一杯で、なお有り余る祝福であることを、示し証明しています。そして9節には、4000人の人がいたとあります。6章の5000人の給食の時は「男が5000人であった」とあります。ですから6章の方は男女合わせると1万人になったかもしれません。6章では男だけ数えて、8章では男女を数えるのはなぜか。またもしかしたら8章は書いてないけど男だけの4000人だったのか。よくわかっていません。当時の習慣からは、男だけで4000人だったかもしれません。しかし主の福音の性質から「神の前に男も女もない」からは8章では男女を数えたともいえるでしょう。そうなると6章の給食よりも、8章の給食はだいぶ規模が小さかったとも言えるかもです。

 しかしそれにしても、なぜ、マルコ伝は又マタイ伝もそうですが、2回もイエス様のパンを増やす給食を報告したのかです。2つのことが言われています。1つは、やはり主なる神様イエス様の圧倒的な奇跡の力です。イエス様は本当に神の子の力を持っておられて、まことの神であり、その力を示されたのです。神の子であることを5000人と4000人の給食で示されたということです。パンを増やすのは、マタイ伝4章3節のイエス様の荒野の誘惑では、最初の試みでした。サタンは言いました「これらの石がパンになるように命じてみよ」。これは、パンの問題を解決できれば、これは神の子であるというのは、サタンが言わなくても、いやサタンが言うように大切な神の子のしるしなのです。そして、イエス様はモーセがマナをもってパンを降らせたように、今ここで必要なしるしをされたということです。

 もう一つは、このすぐ後に問題になっていますが、弟子の無理解、無信仰です。なぜマルコは2回も同じことを書いて、2回目もほぼ一回目と同じ奇跡なのに、同じ不信仰が何日も経たないうちに起こっているのに、弟子たちが全くイエス様の力を悟らず、その力と権能を信じないのか。その不信仰は全く不思議です。しかし事実、現実です。ここのパンの増加の給食で私たちが知るべきテーマは、不信仰であるということです。私たちは不信仰を生きているのです。私たちは常にいつまでも高慢であり、いつまでも不遜であるのです。私たちは罪の中に生きているのです。
 私たちはコロナの感染の中にあります。理由はわかりません。科学的な理由は、WHOの調査班が中国の邪魔を通ってなんとか出すかもしれません。しかし本当の理由は何であるのか。神様は、天地を創造されたら機械仕掛けの神であって、そのまま自然界の法則に委ねて、このコロナ発生には全く自ら責任をもっておられないのか。確かにこの信仰は、神様を守ることができます。しかし私は足りないと思います。ヨブ記によると神様の赦しなしには、何も起こりません。たまたま祈祷会ではマタイ伝10章26節以下でした。そこには「雀一羽、髪の毛一本が、神の赦しがないと落ちず、抜けない」とあります。神様は摂理の神様です。これは危ない信仰かもしれません。しかし、全精力をもって神様を信じる時には、はずせない信仰と思うのです。十字架の神様の語り掛け、恵みの主の語り掛けを私たちは、今、聞いていくのだと信じます。

 祈ります。「天の父、主なる神様、み名をあがめ讃美します。主は力ある主です。求道の方を支え、コロナ感染の中で、医療関係の方、保健所の方、また職を失った方を支えてください。教会の病気療養の方、ご高齢の方、弱っている方支えてください。会堂建築を支えてください。子ども園、児童クラブの働きを守り導きください。み名によって祈ります。アーメン」
 教会 説教   ヨエル書3章1〜5節          2021年1月31日
              「 残り者はそこに 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第5週ですので、自由に選ぶ聖書という方針で、ヨエル書3章を開いてみました。特に大きな理由はないのですが、先々週YMCAの運営会に参加して「老人は夢を見、若者は幻を見る」が、非常に示されました。80を越え、80近く成られても、このコロナ感染下でも鹿児島にYMCA運動を広めたいという運営員の方々の熱い信仰に感心したところです。

 さて新聞・テレビが伝える通りですが、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1599人となり、1週間では101人ほどの方が感染になっています。鹿児島はステージ3になりましたが、鹿児島は少し良くなっているように思います。沖縄の宮古島のクラスターが放映されていて、島は病院が限られており、大変だなと祈るのみです。私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。

 さて聖書は、ヨエル書3章を開きました。ヨエル書は、旧約ヘブライ書の中では12小預言書に入ります。ホセヤ書、ヨエル書、アモス書と続きますので、私達は滅多に読まないと思いますが、それでもその位置はホセアとアモスに挟まれており、重要性が大きいです。実際に新約聖書では、言行録2章17〜21節に引用され、ペンテコステ聖霊降臨を預言した聖書となっています。又、なんと言っても本日の5節は、パウロのローマ書10章13節の「主の名を呼び求める者は全て救われる」に引用されており、パウロの信仰義認の根拠となる聖書になっています。旧約聖書ヘブライ聖書は、もともとキリスト・イエス様の出現をその時は、預言の形でしか知らなかったのです。しかしイエス様が来られてみると、このヨエル書は、使徒言行録の聖霊降臨の預言とパウロの信仰義認の預言となり、改めて当然ですが、新約聖書からは無くてはならない預言者であった事になります。
 私達は改めて、ヨエルの預言がどのような時代の預言であり、どのような未来、将来を描いていたのか、聞いて行きたいと思います。しかし12預言書の中でも、実はヨエル書は、その歴史性と預言者ヨエルの人となりが、全く分かっていないのです。アモスは羊飼いの預言者、ホセアは北イスラエルのレビ人説があります。しかし預言者ヨエルはその人となりが全く分かっていません。というか4章しかありませんので、そこからヨエルの人となりを見ていくのは難しいのです。さらに旧約聖書を読み解くには、時代背景が必要なのです。しかしこれもなんと紀元前7世紀のそれこそアモスやホセア時代の預言者とする説と、なんと5世紀の預言者マラキやゼカリヤ時代の第2神殿時代のさらに後において、ヨエルが最後のマラキよりも後の預言者だとして紀元前4世紀に置く説もあります。ヨエル書の書かれたのは、最初から最後まで300年の開きがあるのです。これは正直困ります。

 しかし、こういうあまりにも謎の多い預言者は、返って神の言葉としては、良いのかもしれません。下手にこの人は、羊飼いだ、レビ人だ、祭司だと分かるとそれに捕らわれ、そこに引っ張られて聞いてしまうことがあります。時代もよく分からない、何をしていた人かも分からない。となると私達は、ヨエル書そのものを読むしかありません。しかしこれは、伝道でも同じことが言えるかもしれません。皆さんも、伝道会、聖書講演会等に出た時に、私はこうして救われました、こんなことがあって救われました、こんなことがあって導かれました、と聞いて驚き、びっくりして、神様は素晴らしいと帰ってきます。しかし、聖書のことばは何も覚えていない。イエス様の言葉もイエス様の業も何も語られなかったということがあります。
 ぼそぼそして、眠たかった。ちっとも面白い話しでもびっくりする話しも無かった。でも、イエス様がああされた、こうされた、聖書はこう言っていることがちゃんと頭に残ったとなると、これはもちろん後者の方が、神様は喜ばれると思うのです。ヨエル書は、確かにその時代やその人となりの話しができない。それは具体性を欠いていて面白くない。しかし、神様はこう言われるが残った、それでいいのであります。

 1節にあるように、ヨエルは突然「私は全ての人に我が霊を注ぐ、息子、娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見、2節、奴隷の男女にも我が霊を注ぐ」と言いました。前後関係がよく分かりません。1,2章のとの関連でいくと、いつの時代であるのか、イスラエル地方は時々イナゴの大群に見舞われています。そのどこかの時代のイナゴの大群が押し寄せた時でした。ヨエルはこのイナゴの大発生で、イスラエルが被害を受けた時、イザヤが預言していた終わりの日と、イザヤが預言していた聖霊の注ぎを示されたのです。つまり預言者ヨエルは、イナゴのイスラエルのへの大襲来を、神様の世の終わり、神の日の到来のしるしとして主に示され、受けました。
 そして、本日の「霊を注ぐ」ですが、これもまたイザヤ32章やイザヤ44章にあります。終わりの日に、神様は聖霊を注がれるというのも、実はイザヤの預言にあったのです。ある意味で、私達はコロナ感染の疫病の時代の中にあります。これもまた、取りようによっては、神様のしるしともいえるでしょう。もちろん現実に医療関係者は大変な状況にあり、苦しむ人々に保健所や公的機関でコロナ感染に対処している人々があります。私達はできるだけ対策に協力し、祈り、感染の収束を祈ります。しかし一方で、神様のしるしは何かと問うことは残ると思います。
 イエス様のお弟子さん達は、このヨエル書の霊を注ぐ預言を、自分たちに注がれた聖霊降臨の出来事と受け止めました。そして、神様が新しい業をなされ、新しい時代を開始されると受け止めたのです。そしてそれまで、隠れて自分の部屋や自分の所に留まっていた弟子達は、ここからイエス様の十字架と復活の出来事を伝えよう、罪の赦しの福音を伝えよう、主がいつもインマヌエル共にいてくださることを伝えようと出て行ったのです。ヨエルの預言は、聖霊降臨を神様のものとして、神様の計画として受け止める道を示しました。ヨエル書の預言によって、聖霊降臨は教会の誕生日になったとも言えます。
 私達は聖霊降臨日以後にいます。そして今一度ヨエル書開くとき、特に2節の「奴隷となった男女の僕にも」とあるところを読みます。神様は改めて、聖霊を注ぐに何の区別もされない。本当に全ての人に聖霊が下ると読むことができます。そして聖霊は、老人も若者も奮い立たせるのです。教会は若い人がいないという嘆きが、どこに言っても聞かれます。しかしどうなのか。旧約聖書においては、アブラハムは75才にて、モーセは80才にしてそれぞれの自分の故郷を出発し、自分の使命を受けています。聖書の場合は確かに長寿で、今の年令とそのまま一致させて良いのかがあります。しかし、それにしても族長たちの姿は老人です。モーセの弟子ヨシュアは110才迄働いて召されて死んでいます。110才まで働かせるな、と怒られますが、確かに健康や記憶や気力、体力の衰えは仕方ないです。しかし、もし主に用いて頂く賜物が、まだその人にあるのであれば、75、80,110才もまた主が用いてくださるといえるでしょう。私達は「自分はもう何歳になりました。もう賜物を用いることを止めさせてください」という祈りでなく「主よ、ここはまだ主に献げられそうです、どうか足りませんが、使ってください」という祈りになっていくのだと示されます。

 次に3~4節には「天と地にしるしを示す」とヨエルは言います。しるしは、常に神様を知らせる出来事です。続けて「血と火と煙の柱」とありますが、これは出エジプトの時のしるしです。血は、過越祭のはじまり出エジプトの最後の奇跡となった小羊に血を玄関の柱に塗ったことです。これを無視したものの家の人間から家畜に至まで初子が殺され、イスラエルが奴隷状態から、自由へと出発したことです。火は、シナイ・ホレブ山において、モーセの十戒を受けたことです。神様は私達人間が、また被造物がいかに生きていくべきかを、モーセの十戒を通して示されました。それは一言でいうとイエス様がまとめられた「神を愛し、隣人を愛せよ」ということでした。
 十戒において教えられてみると他愛のないことかもしれません。しかし「神を愛し、隣人を愛して生きる」ことが、この世において私達が幸福を満喫し、主に召されるまでにこの世で果たしていくことであります。次の煙の柱もまた、イスラエルをシナイの半島の砂漠の中で導いたしるしです。主はイスラエルの民が迷わないように、雲の柱、煙の柱となって導いてくださるのです。これらはまた主の十字架の贖いの血でもあり、主の教えの火であり、また聖霊の導きである柱ともいえるでしょう。主イエス様の十字架の血に委ね、モーセの火の律法に教えられ、具体的な聖霊の導き雲の柱を受けて、この世において、主を告白しつつ歩み、進むとも言えます。

 その時、4節のように、太陽は闇に、月は血に変わる天変地異が起こっても、私達は恐れることはありません。ちょうど今コロナ感染の最中です。現実に怖ろしいです、いつ自分が罹るかもしれません。ただし、恐れることはありません。主がインマヌエルしていてくださり、たとい感染して召されたのとしても、なお、主が共にいてくださるからです。

 5節には「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」とあります。パウロはこれをローマ13章10節に引用しました。パウロはここを信仰義認として受けて、何の業もしておらず、何も功績がなく、何もなしていなくても、なおキリスト信じることただそれだけで、主は義としてくださるとしました。「口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」としています。私達のあり方を、深く見つめる時、自分の罪を見るとき、自分の業は何も誇るものがなく「私はふつつかな僕です。なすべきこと成したにすぎません」とただ主がさせてくださったと感謝しか言いようがないということです。

 最後にヨエルは「主が呼ばれる残り者がそこにいる」としました。残り者の信仰は、聖書ではとても大切です。イザヤ、エレミヤ、ミカ、ゼカリヤに良くでてきます。神様はイスラエルを裁きに置きます。アッシリアにバビロンに、シリアに、ローマ帝国、イスラエルはいつも滅ぼされ掛けます。しかし、そこに残り者があるのです。そして主は、アッシリア捕囚、バビロン捕囚、シリアの文化政策、ローマの支配の時も、いつも残り者から再出発されるのです。残り者はいつも信仰が熱いとは限りません。信仰はギリギリの時もあります。しかしそこから主は聖霊を送り、また信仰を起こし、導かれます。私達もまた、この時代に主の聖霊を受けて、主のめぐみに歩むことが赦されているのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染の中にありますが、どうか、コロナに関わる関係者を守ってください。罹った方を支えてください。教会の病気療養の方、ご高齢の方々支えてください。会堂建築を守り導きください。子ども園、児童クラブと保育が続いています。先生方、子供達を守り、み手においてください。1月が終わり、明日から2月の歩みになります。どうか、2月の歩みをみ手においてください。御名より祈ります。アーメン」



 教会 説教   マタイ伝8章5〜13節          2021年1月24日
              「 これほどの信仰 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第4週ですので、いつものように連盟の聖書教育誌の本日の聖書から聞いていきます。連盟の聖書教育誌では、今年の1〜4月までマタイ伝を学ぶ事になっています。こんなに長い期間一つの書の学びは珍しいですが、マタイ伝という大切な聖書だからということだと思います。
 さて新聞・テレビが伝える通り、とうとう鹿児島県も昨日から警戒レベルをステージ3にしますとのことです。関東や近畿、、名古屋、福岡のような緊急事態宣言ではないですが、それに近い警戒を行ってくださいとのことです。鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1498人となり、1週間では165人ほどの方が感染になっています。しかし他県に比べると鹿児島県は、コロナ病床の使用率とか重傷者数は、かなり低いです。しかし用心に越したことがありません。私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。

 さて聖書は、マタイ伝8章5~13節の百人隊長の僕を癒すという出来事になっています。ここは大きく分けると遠隔奇跡と言ってイエス様が遠くにおられて、人々の病気を癒される奇跡のところになっています。この百卒長の僕の癒しは、ルカ伝7章にもほぼ同じ報告が成されており、またヨハネ伝4章46節以下にもカファルナウムの王の役人の息子の病気の癒しが、やはりイエス様による遠隔奇跡で報告されています。イエス様がカファルナウムでなされた出来事が、よく覚えられていて、マタイ、ルカ、ヨハネと伝えられたようです。ただマルコ伝には伝えられておりません。
 又、良く読むとルカ伝7章とマタイ伝8章は違うところもあります。マタイ伝では5,6節に、百人隊長が直々にイエス様に「自分の僕を癒してほしい」と懇願しています。ところが、ルカ伝7章では、百人隊長が直々にイエス様に懇願するのでなくて、ユダヤ人の長老達を、使いにやってイエス様に懇願しています。どちらが本当だったのかは難しいです。直々に百卒隊長が頼んだとすれば、その並々成らぬ気持ちが伝わってきます。しかし百人隊長は、ユダヤの慣習を良く理解していたとすれば、異邦人である自分が、直々にイエス様に近づき懇願するのは、自分の汚れをイエス様に移すことになるかもしれないと用心して、長老達を介して頼んだかも知れません。
 7節には、イエス様はこの百人隊長の願いを聞いて、まさに直ちにすぐに「私が行っていやしてあげよう」と言われています。イエス様らしいというか、すぐに躊躇なく行動される主イエス様の姿が現れています。しかしルカ伝では、長老達がイエス様に「あの方はそうするに相応しい方です。私達ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と進言しています。この百人隊長は、ローマ人かシリア人か分かりませんが、ガリラヤ地方に赴任させられ、軍人としてユダヤ人の生活を見ました。そして、ユダヤ人の律法を理解するに連れて、毎週の礼拝とその生き方に感動し、会堂までも作って寄進してくれたようです。歴史上、ユダヤ人に成らないがしかし会堂の回りに信仰をもって同情をもって生活する人々を「神を恐れる人」と呼んでいました。そして実はこの人々が、イエス様を信じて行ったのです。
 ユダヤ人は西洋の歴史では『屋根の上のバイオリン弾き』やセークスピアの『ベニスの商人』にあるようにユダヤ人ゲットー(集まり)を作り、回りの人々になじまず、嫌われ者です。しかし、それでも歴史に生き残って来たのは、聖書を生活の中心において、毎週礼拝を献げ、一生懸命人々を助け、聖書の示す隣人愛の生活をしていたことが、やはり異邦人には一目おかれたと言われています。ルカ伝7章からはそのようなユダヤ人の姿が、浮かんできます。

 8節には、マタイ伝ではすぐにイエス様の答えを遮る形で百人隊長は「私はあなたを自分の屋根の下におむかえできる者ではありません」と応えています。そして「一言、おしゃってください」と言っています。ルカ伝の方では、イエス様は暫くこの百人隊長の家に近づいて歩み行かれます。そしてその家に近くなってから、百人隊長は気づいて「私はあなたを自分の屋根の下に迎えることのできる者ではありません」と答えています。ルカ伝の記述ですと百人隊長は、まさかイエス様が直々に来てくださると思いも寄らず、遠くから来られるイエス様を見て、びっくりして言ったということでしょうか。ルカ伝の報告もまた同じように「一言おっしゃってください。そして僕を癒してください」となっています。
 どちらにも共通しているが「一口、言ってください。そうすれば僕は癒される」です。ここには、全くの信頼をイエス様に置いていること、イエス様の一口で、全てがなるという信仰を持っていること、この百人隊長の信仰が明かです。百人隊長は、創世記1章の「主は、光れあれと言われた、すると光があった」を思い出しているのでしょうか。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは全て添えて与えられる」マタイ伝6章33節を思い出しているのでしょうか。「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」マタイ伝10章30節を、思い出しているのでしょうか。ともかく百人隊長は、神様の摂理と神様の揺るぎない支配を、すっかり信じ、すっかり頼んでいるのです。

 9、10節には、隊長の信仰告白といえるでしょう。「自分も権威の元にあるです。」と答え「自分の下に兵隊がいます」としています。「一人に『行け』と言えば行き、他の人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えばします」と答えています。百人隊長は全く自分の体験から、権威の元にあるもののあり方から神様のあり方を推測しています。皆さんも聞かれたことがあると思いますが、ローマ帝国は確かに、黙示録ではバビロンと言われ、野獣と言われ、蛇や龍と言われて、淫婦とさえ言われています。聖書では、全く良いところ無しの帝国のように聞こえます。紀元70年にはユダヤ戦争がおこり、エルサレム神殿はバビロン捕囚から再建されましたが、又も破壊されました。
 しかしローマ帝国は実はローマ法という法をもって国を支配する歴史上最初の国として起こりました。マタイ伝8章の百人隊長は、ローマの軍隊の中でもイスラエルのガラテア地方を治める末端の軍隊です。言ってみればローマからはまさに極東の端と言うことになります。しかし、それでもローマ人兵として、ガリラヤに派遣されたならば、このようなきちんとした上下関係を持って動いていたのです。
 そして、この百人隊長は、自分のその体験をもって、神様の支配を推し量り、イエス様が神の御子とすれば、全宇宙、全世界がその支配の中で動いていると理解しているのです。ある意味でこの百人隊長の信仰は「生ける信仰」とかと思います。生ける信仰と言えば、私が導かれたのは、沖縄の首里教会でした。何度か語りますが、私を導かれた、お菓子問屋を生業としている一人の兄弟がおられて、祈祷会の常連さんでした。沖縄のさらに南の宮古島というところの出身でした。この方がある時、救いの証しをしてくださったのです。導かれて、教会に集うように成った時にある新興宗教からの誘いを受けた。もし断ったら商売ができなくなる。仕方なしに集会について行った。すると折伏(しゃくぶく)が始まりました。この方小学校しかでてないので言葉は得意でないのです。「お前の信じている神様は外国の神様だろう、おかしいのでないか」と言われた。その時、まだ教会に浅かったのですが、聖書で聞いたか、牧師から聞いたか、ひとつの言葉が出てきたそうです。「私は生ける神イエス様を信じているのです」と答えてしまった。するとなんということでしょう。それに対して誰も反論できず「生ける神」という言葉が、その宗教には無かったらしいのです。
 偶然と言えば偶然かもしれない。どうしようも無かったかもしれない。学歴はない、地位もない。言葉も知らない。だけど、最も肝心のことを知るというのはあるのだと思います。この百人隊長もまた、イスラエルのガリラヤ、カファルナウムに派遣されるくらいですので、もしやローマで何かやらかして左遷だったかも知れません。とてもローマ兵の昇進街道のまっただ中では無かったと思われます。しかしユダヤ人の黙々とした毎週の礼拝を横で見た。ユダヤ人なりの聖書の実践と隣人愛を見ていたのだと思います。そして、自分たちローマ人よりもよほど幸福に暮らしていると分かったのだと思います。そしてユダヤ人に会堂を寄進して上げたのです。

 私はいつだったかアフガンの中村哲先生が、イスラムのモスクを作られている姿のテレビ映像をみたことがあります。「イスラムの長老達に頼まれた」と言われていたのが印象に残っています。キリスト者なのにけしからんでなくて、モスクがアフガンのこの土地の人達に必要だと思われたのだと思います。

 そして、異邦人ローマ人の百人隊長の言葉を聞いて、イエス様は「イスラエルの中でこれほどの信仰をみたことがない」と言われたのです。そんなことはない。イスラエルはモーセの時代から聖書を読み、聖書に従い、神様を証ししてきました。百人隊長は異邦人でまだユダヤ人にもなっていない。聖書の知識もほとんど無い。しかし生ける信仰を持っておられたのです。
 11、12節は信じられない宣言です。「東から西から大勢の人間が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着いた時、み国の子らは(これはイスラエル人です)、外の暗闇に追い出され、泣きわめき歯ぎしりする」。これは信じられない宣言です。これは全くあの良きサマリア人と同じ響きです。ユダヤ人は倒れた人を助けない。蔑まれたサマリヤ人が倒れた人を助ける。しかも、お金を宿屋において助ける。隣人はサマリヤ人だった。これはまさに典型的なイエス様の教えになっています。本当に信仰のあることとはどういう事かを、イエス様は問われているのです。
 聖書をほとんど知らない異邦人。たまたまガリラヤに配属されてユダヤ人を見ることになって神を信じたローマ人。しかし、自分の軍隊の体験からイエス様に全てを委ねることをよしとして、イスラエル人に信仰を教える形になったローマ人です。主イエス様は「行け。あなたの信仰の通りになる」と約束されたのです。私達もまた同じ異邦人です。ただ主の恵み、十字架の主を受け、応え、復活の主と共に歩みます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。とうとう鹿児島もクラスターが続きステージ3となり、さらなるコロナの感染注意になっています。どうか、守ってください。続けて、新しく来られた・・・さんを守り導きください。療養中の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・守ってください。子ども園、児童クラブの保育を開始しています。コロナ感染から守り支えてください。主にのみ仕えさせてください。会堂建築を支え守り、導きください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   エゼキエル書23章46〜49節  2021年1月17日
           「 私が主であることを知る 」
 おはようございます。本日も、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第3週ですので、いつものように旧約ヘブライ聖書から聞いていきます。本日はエゼキエル書23章の後半部分です。さて新聞テレビが伝える通り、東京都と関東3県に引き続き、近畿の1府3県と名古屋、岐阜、福岡まで緊急事態宣言がでています。鹿児島県は一昨日で1333人となり、1週間では140人ほどの感染になっています。とうとう児童クラブでは親御さんの会社の方が陽性となり、児童クラブの子どもの御家族がPCR検査となり、陰性ということで事なきをえました。すべて保健所の指示でした。これだけ広まるといつなってもおかしくない状態です。しかし、私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。。

 さて聖書はエゼキエル23章ですが、ここは23章全体がオホラとオホリバという姉妹の物語で、完全に寓話の物語になっています。このように1章全体が寓話になっているのは珍しいとされます。寓話やたとえ話、隠喩や直喩と幻と聖書には多くの語りがあります。細かいところになると区別が難しいですが、寓話というのはイソップ童話のように、狐や羊がそれぞれの人間の役割を担わされ、一対一対応ができることが特長とされます。つまり本日の箇所は、2人の姉妹オホラとオホリバの裁判の判決の部分ですが23章全体が、オホラとオホリバの姉妹の姦淫の出来事になっています。結論からいうと姉のオホラがサマリヤを首都とした北イスラエルであり、妹オホリバが、エルサレムを首都とした南ユダのことです。オホラとは「彼女の天幕」と言う意味であり、オホリバは、「私の天幕は彼女の中に」という位の意味です。天幕をもじって姉妹の名にしているのは、天幕が出エジプトの砂漠時代に神様の住まいだったこと、また異教の礼拝の場所でもあったことが言われています。

 23章のオフラとオホリバの全体の設定は、エジプトで遊女をしていたが、不思議なことに、主なる神様の妻となり、しかしイスラエルに来ると2人共に又も姦淫を働き、主が離れられ、滅びていくという物語になっています。そもそも私達は、なぜ、主なる神様が、エジプトの遊女を妻とするかといいたいです。主なる神さまに対して、とんでもない発想です。しかし、実はこのような設定はエゼキエルより150年前の預言者ホセア、預言者イザヤよりも前の、預言者アモスよりも後の預言者ホセアも又、同じ設定を使って預言しています。ホセア1章2節は「主はホセアに言われた。『行け、淫行の女を娶り、淫行による子らを受け入れよ』」となっています。ここも又どうして、と言いたいです。しかしホセアとエゼキエルは、イスラエルの主なる神への裏切りは、まさに、淫行の女が愛によって正妻として娶られたのに、しかしそれでも忠実な愛の夫を、又も裏切ったイスラエルとなっているのです。
 そもそも淫行の遊女を自分の正妻にするというのは、古代ではありえません。しかし主の愛はそれをなしました。つまりエジプトからイスラエルの民は、モーセによって導かれてイスラエルに来ました。これが主なる神さまが、遊女イスラエルの民を正妻とした事実です。しかしその大きな愛を裏切って、また姉オフラはアッシリアと淫行をなし、妹オホリバはバビロンと淫行をなしたのです。さすがに忠実なる愛の夫、主なる神は一旦イスラエルをバビロン人異邦人の手に渡すことにされたことを語ります。姉オフラと妹オフリバの物語は、信じられない主の愛への又信じられない裏切りになっているのです。

 今回は分量が余りに多く全部を読みませんでしたので、説明説教になって申し訳ないです。エゼキエル23章は「主の言葉が私に臨んだ」に始まり、22節、28節、35節と本日の46節と4つの「主はこう言われる」の預言によって構成されています。最初に23章1〜4節に全体の説明があります。それはエジプトに2人の女性がいた、この女性はエジプトで淫行を行った。ここで突然淫行とでてくるのでびっくりです。しかし聖書の淫行、姦淫は常に偶像礼拝のことでもあります。オフラとオホリバは、エジプトで淫行をなす者、偶像礼拝者であったというのです。4節に、なんとこのエジプトの淫行の女を、主なる神は妻として迎えて、子どもが与えられます。この子どもとは、ダビデ、ソロモン王を筆頭とする北イスラエルと南ユダの王国とされます。
 しかし5節に、遊女を妻とした主なる神の元にありながら、姉オフラはアッシリア人に欲情を抱きます。これは北イスラエルが自分の地位を保とうとして、アッシリと同盟を組む姿です。何度も語りますように、古代社会の国と国との同盟は、常に自分たちの神様を相手の国に持ち出し、また相手国の神様をこちらに移入して拝むことから始まったとされています。23章7、8節にある「その偶像によって身を汚した」と「彼女はエジプト以来の淫行を離れなかった」とはこのことです。しかしなんと自分から身を売ったアッシリアは姉オフラを優遇しませんでした。結局自分の方から身を売ったのに、朝貢を求められ属国扱いであり、なんらの優遇処置は無かったのです。
 そして世の常かもですが、自分から身を売ってきた女の愛に、飽きたアッシリアはひとたびイスラエルが自分の意のままにならないことを悟ると、一気に滅ぼしにかかったのです。23章10節です。「彼らは彼女の裸をあらわにして、彼女の息子、娘を奪い、ついに彼女を剣で殺した。」BC722年に起こったアッシリア捕囚の事です。イスラエル10部族は、アッシリアに連行され、周辺諸国の民がサマリヤに移植され、混合の民ができました。これが、イエス様時代のサマリヤ人の発生です。

 23章11節からは、この姉オホラの出来事をじっと見ていた妹オホリバがいました。しかしこれもなんということでしょう。姉オフラの現実から妹オホリバは学ばないのです。何と言うか人間というは、魂や精神の次元では、学ばないというか、学べないのかも知れません。全く同じことを、姉オフラのしたことを妹オホリバもしてしまいます。すでにご存知のようにオフラの情夫がアッシリアとすれば、オホリバの場合は、情夫はバビロンです。南ユダはバビロンの力を見るとその力で保護して貰うことを計ります。自分の方からバビロンに近づき、朝貢をなし自分の優位なる立場を作ってもらうことを伺います。つまりバビロンの神々を受け入れ、偶像礼拝をなします。

 しかしバビロンもまた、中近東の小さい国、ユダのことなど余り大事に思いません。バビロンはユダに何かの有利な条件も、優位なる地位も与えません。そこにエジプトの誘いがきます。ユダの王朝は、頼りにならないエジプトの力を過大評価し、エジプトに乗り換えようとします。これが23章19節「彼女はかつてエジプトの地で淫行を行った若いころを思い起こして、淫行を重ねた」です。そして、主なる神様の決定は、23章28節、第1の「主なる神はこう言われる」です。「私はお前が憎む者の手に、すでにお前の心が離れてしまった者の手に、お前を渡す」です。これが、いわゆる第一次、第2次と続くバビロン捕囚の出来事です。バビロンに媚びを売り、その目的が果たされないとすぐにエジプトに乗り換える身勝手さに、さすがの主なる神さまも又どうすることもできず、バビロンに自分の正妻を渡すしかないとするのです。エゼキエル23章32~34節には詩文があります。この詩は、姉のオフラのことを学ばない妹オホリバが、やはり同じように滅びの杯を受けるしかないことを示しています。自分から自分の身を売り、相手にされないと又きびすを返して、他の者に媚びを売っていく姉オフラと妹オホリバ、この2名の遊女の運命はどうなるのか。

 本日読んで頂いた46節から「主はこう言われる」は、まさにこの2人の姉妹を、どうするのかが問われています。会衆が招集されるのは、イスラエルでは会衆が裁く伝統があります。町の門のところで、会衆は集まり、そして罪を犯したものを裁きました。例えば、ヨハネ伝8章の姦通の現場で抑えられた女は、連れて来られて、会衆の真ん中に立たせられて裁判をされます。この時、イエス様がおられたので、イエス様の判断が問われていました。主は「裁かない」という愛の裁判をされました。
 ある意味でエゼキエルは、会衆を招集して、このオホとオホリバの裁きを宣言していると言えます。そしてオホラとオホリバ、サマリヤとエルサレムは、恐怖と略奪の的になり、会衆はオフラとオホリバに石を投げ、剣で切り倒します。それは姦淫の罪は、石打の死刑であったからです。レビ記20章10節です。遊女が正妻とされ、それにも関わらず、なお姦淫の罪を犯すとき、自分から身を売り、それに応えないとして、次の男に又姦淫をして行くとき、そこには石打の死刑があり、その不貞は酬いを受けねばなりません。そして49節に在るとおり、偶像による過ちの責めを負わねば成らないのです。

 しかしエゼキエルは、そこに「お前達は私が主なる神であることを知る」としています。裁きは主なる神さまにとって、裁きのみに終わらないということです。裁きは裁きの為になされるのではなく、主なる神さまが知られる為に、成されます。聖書では、私達はちょうど今「剣、飢饉、疫病」とされる神様の疫病の裁きの中にあります。私達は、神様がなぜ今このような疫病をされたのか、その理由はよく分かりません。そして神様は裁きをなさらないとして、これを疫病学や気候学や環境学の現象の科学だけの知見にだけに置くことも、足りないように思います。お医者さん、看護婦さんの医療の逼迫や保健所の全く休み無しの働きが伝えられます。ただただ祈ることしかできません。一般の私達は、何をしたらいいのかがわかりません。

 私達に何か足りないことがあったのか。傲慢になっていたのか。高慢になっていたのか。祈りの欠如か。これもいろいろ言われますが、本当の所は分かりません。ただ、もし具体的に何か悪いことがなくても、イエス様の十字架のようなことがあり得ます。また今の時代だけがとんでもないことを受けているとも思えません。私達の年代の父・母達の戦争の話しを思いだすと、それはもっと酷い時代だったと思います。それぞれの時代に苦しい悲しいことを私達は受けるのかもしれません。ちょうど昨日と今日は入試試験をしています。もっと良いコンデションで受けて欲しい気もします。北海道の教会いた時、ある方の入試の話しを聞きました。入試のその日が大雪で、試験会場までの交通機関が全部止まったそうです。しかしお父さんは、昔使っていた馬ぞりを小屋から出して、馬のある農家の近所を探し、自分を載せて試験会場まで引いたそうです。
 今、自分になせることを精一杯する。そういうことになるのだと思います。エゼキエルは裁きを「主なる神であることを知るようになる」としました。十字架の苦しみと贖いを知る私達は、イエス様を仰ぐとき、私達は必ず、意味を示されると信じます。今は主の恵みによってできることをひたすら行い、祈り、献げるのみです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。本当にどんどんコロナ感染が増えております。すぐ近くにあります。しかし主よ、あなたの守りを祈るのみです。医療関係の方、仕事を無くしている方、守ってください。あなたのなさることは今は、わかりませんが、真実と愛をなさっていると信じています。続けて病気療養の方、ご高齢の方お一人、お一人を、お守りください。子ども園、児童クラブの保育が続いています。子供達、先生方を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」


  教会 説教   ヨハネの黙示録6章7〜11節   2021年1月10日
             「 静かに待つ 」
 本日も、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は2021年の2回目の礼拝です。すでに言われていたように、先週から東京都と関東3県は緊急事態宣言がでて、大阪、京都、兵庫も緊急事態宣言を要請されています。鹿児島は1190人となりました。1昨日は鹿児島市の感染の方が、38人ありました。宮崎県は1昨日でしたか1日に100名を越え、宮崎県独自の緊急事態宣言をだし、宮崎教会は本日礼拝できないのかなと思っています。もう、子ども園や児童クラブも私達の教会も、いつでてもおかしくない状況です。特に医療の現場が大変で、コロナの患者さんを受けられないだけでなく、普通の病気の人が、治療や手術が受けられない状態になっていくそうです。私達のできることが余りなくマスクに手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。選挙総会がありますが、時間が厳しいです。キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなし、できることをしっかりしていくしかありません。

 本日の聖書は、いつものように第2週を使徒の手紙から聞くととして、長老ヨハネの黙示録を読んで行きます。本日は、6章7〜11節で小羊イエス様が、7つの封印の内の弟4と第5の封印が解かれる所になっています。黙示録はネロ皇帝の散発的なキリスト者迫害とドミチアヌス帝に始まるとされれる国を挙げての政治的な迫害の終わりころ書かれていると言われています。紀元100年頃です。何度も語りますが、幻や夢、意味不明の幻覚のような事を書いていることによって、ローマの官憲の監視をくぐり抜けたとされています。つまり神様のことばは時代によっては、一見意味不明のことばで語られることがある。時代に時代に応じた語り方をされるということです。
 私達はですから意味が分からないようであっても、すぐに答えができないようであっても、しかしそのような語りを主がされることがあることを覚えておくことは大切です。つまり忍耐というか、そう言う面が信仰には問われることがあります。
 黙示録6章は7つの封印ですが、黙示録8章からは今度は7つのラッパになっており、黙示録16章からは7つの鉢となって、歴史の展開が幻想のような幻で語られていきます。封印、ラッパ、鉢となるごとに、段々神様の審判の強さが増しているようにも思います。黙示録は、細かいことを問うていきますと大変なことになり、ある意味で異端も一杯起こったのが黙示録からと言えます。ですから私達は細かいところ、聖書に解釈しすぎはないと言われるのですが、しかしあまり細かい解釈はさておき、全体の見通しをしっかりしておくことが大切です。
 それは、黙示録は長老ヨハネが7つの教会すなわち7を完全数とすれば、全ての当時の教会にまた過去・現現・未来の教会にも、迫害に負けず、小羊イエス様の歴史の支配、小羊の贖いをきちんと信じて立っていくことを中心において語っているということです。黙示録は、信仰を分からなくする書でなくて、信仰をひねくり回す書でなくて、様々な迫害に耐え、キリスト信仰を守る書ということです。信仰の励ましと継続のそこを中心に聞いていけば少々の解釈し過ぎや、ヘンチクリンの取り方も、なんとかなるのでないかと思います。

 7,8節には、弟4の封印を解く出来事です。すでに第1封印から第3封印まで、白い馬、赤い馬、黒い馬に乗った騎士が現れています。本日の弟4封印においては、青白い馬に乗った騎士が出てきます。その騎士の名は死でです。なんとも気味の悪い幻視です。そして死には次に来る黄泉あの世、地獄ともいうものが付いてきます。死は死で終わらない。死は次の世界にいく門であり、入り口とも言えます。
 キリスト者の死も、確かに悲しいです。体が亡くなります。見えず、触れなくなります。しかし何と言っても魂は、イエス様に会えるのであり、復活を待つ希望を持つことを、忘れてはなりません。そしてなんとこの第4の騎士は、地上の4分1を支配し、剣と飢饉と死とさらに野獣をもって人を滅ぼす、これは原文は「殺す」ですが、殺すことが赦されているのです。この幻で、長老ヨハネはネロ皇帝よりも、もっと酷い迫害が来るであろうということを、神様から知らされているのです。

 地上の4分の1が死ぬというのはオーバーな幻想という人があるかも知れません。しかし100年前の1918年のスペイン風邪の時は、世界の人口は20億人でしたが、感染者は5億人とされます。まさに世界の4分の1の感染だったのです。もちろん推定死者数は1700万人とも1億人とも言われています。100年前の統計で余りの誤差に驚きますが、日本でも38万8千人が亡くなっています。今、昨日でコロナの死は4.000人を越えました。しかしスペイン風邪の方が強力だったということになります。
 そして8節の4つの剣と飢饉と死と野獣ですが、実はこの死は疫病で有ろうと解釈されています。それはエレミヤ14書や21章、エゼキエル14章ではいつも「剣と飢饉と疫病」がセットになって神様の裁きの道具になっているからです。神様はエレサレムを打つときに、その偶像礼拝の罪、神を神としない罪を問われる時に、剣すなわち戦争と飢饉すなわち食料危機と疫病の死をもって、打たれるとするのです。神様は、滅びをもたらす神であるのかは、大問題です。十字架にご自身のみ子を十字架に引き渡される全き愛の神は、滅びをもたらされる神であるのか。

 これは神を信じない人には簡単です。ニーチェは、それみろ神はとんでもないことをなさる信じるに価しない神であるとなるでしょう。しかし神を信じる者、特に十字架に私達の為に死んでくださり、罪を贖い、復活してくださった小羊御子イエス様を信じる私達には大問題、大難問となります。解決方法は正直わかりません。本日、パンと杯を頂きます。私達には、事実歴史に起こった小羊イエス様、主の御体の十字架と流された血が目の前に示され、あります。そして今、第4の騎士に赦された疫病が猛威を振るっているのです。私達はその間に立っているのだと受け止めます。自分達に与えられた大きな課題として、受けるのみです。

 9節から11節は第5の封印が解かれます。この封印が解かれた時、長老ヨハネは祭壇の下に多くの魂をみます。その魂は、神の言葉に従い、自分たちが立てた証しで殺された人々です。これは具体的は、ネロ皇帝の時の殉教者達と言われます。ネロ皇帝は、自分がなしたローマの火事の原因を、当時嫌われ者のキリスト者に押しつけたとされています。そして、有名なパンと見せしめで民を操縦しました。見せしめにはハリウッド映画に出てくる円形劇場にて、生きたキリスト者をライオンに食わせて民衆に見せたり、十字架につけて生きたまま焼いたりしたのです。民衆の娯楽や楽しみに迫害をしたこと等が入ります。
 しかしこの魂は、ただ殺されていませんでした。天上の祭壇において、これは具体的にはよく分かっていませんが、天上には祭壇があり、その祭壇の下に殺された魂があったのです。そして、天上の祭壇のすぐ下にいるこれらの殉教者達は、すぐ下にいますので、小羊イエス様にすぐに呼び掛ける事が赦され、そしてその声はすぐに、小羊イエス様に聞こえることになります。

 10節にその声が「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私達の地の復讐をされないのか」と叫びます。ここには2つのことがあると言われています。1つは、殉教者達の忍耐が切れているということです。殉教者達はひたすら神様の言葉を守り、祈り、行動し、皇帝礼拝をせず、その信仰を守り遠しました。何度も引用しますが、使徒教父文書のポリュカルポスの殉教が有名です。官憲がポリュカルポスの年令を考えて「どうか、キリスト者を呪ってくだい、滅びろと言いなさい、キリストを呪いなさい、そうすれば釈放できます」といいます。しかしポリュカルポスは「私は86年間主に仕えてきたが、只の一度もキリスト様は私に対して不正をされなかった。今更キリスト様を冒涜できません」と言って、火あぶりの火刑を受けて行きました。
 血の復讐を求める殉教者達がいたことは確かであると思います。しかし、ここでルカ伝が伝えたイエス様の最後も思い出されていいでしょう。ルカ伝23章34節に主はご自身を十字架に付ける者達を見つつ「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか知らないでいるのです」と祈られたのです。復讐を求める殉教者と執り成し祈る十字架の上のイエス様があることを、私達は忘れてはならないでしょう。
 そして、復讐を求める殉教者がいることは、同時に殉教者はまた最後の審判を主に委ねている、とも言えると思います。イエス様は自分を十字架に付ける者の為に祈られたということは、同時に、自分を十字架に付ける者達の罪をも、受けておられる姿でもあります。
 11節は、小羊イエス様の2つの応えであるとされています。1つは、小羊イエス様は殉教者達の一人一人に白い衣を渡されたと書いています。白い衣は天上の住民の服とされています。キリストを信じる信仰は、天上で白い衣を渡される信仰でもあったのです。白い服を着ているとは、天国にいるということであります。

 偶然の一致と思われますが、日本でも死人の死に装束は仏教でも神道でも、昔は白になっています。浄土に旅立つので、純粋な白だろうと言われています。今は仏教もキリスト教も、生前に好きな服や姿で見送ることが多くなりました。決まりはありません。しかし聖書では、天上に行けば白い服を与えられることに成りそうです。キリストを信じて死に着いた人は、天国の服、白い服が与えられているという信仰です。
 次に、小羊イエス様は、兄弟達、仲間の僕の数が満ちるまで「しばらく静かに待て」と言われます。これは、最後の日、神の国の到来の日は、兄弟と仲間の僕が満ちる時に起こるという信仰です。これは、生前のイエス様もまた神の国の到来の時は、マタイ伝24章36節に「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけがご存知である」と言われました。知らないことは下手に解釈しないで、じっと待つ、という信仰ととも言えます。

 私達は「しばらく静かに待て」と言われて1900年が経過していることを知らされています。神様の暫くは長いのかと言いたくなります。しかし、第2ペテロ3章8節には主の来臨の約束がおそいと言われてペテロ書は「主の元では1日は千年のようで、千年は1日のようです」と応えています。そして、続く3章9節には「一人も滅びないで皆が悔い改めるように、あなた方の為に忍耐しておられる」とあります。私達は、主の来臨、主の日は遅いと言うよりも、一人も滅びないように忍耐される小羊を思うのです。主の忍耐の恵みを受けて、私達は主の十字架を証し、伝えて生きるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、年はあけて関東と近畿は緊急事態宣言です。どうか御心の通りになさってください。あなたにのみ仕えて生きる者にしてください。新しく来られた・・・さんを守り導きください。療養中の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さんを守り、塩井の回復を感謝です。子ども園、児童クラブの保育を開始しています。コロナ感染から守り支えてください。主にのみ仕えさせてください。会堂建築、選挙総会を支え導きください。御名によって祈ります。アーメン」









教会 説教    第一コリント1章4〜9節    2021年1月3日
             「 神は真実 」                -新年礼拝ー
 新年明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。本日も、お正月の1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は2021年の最初の礼拝になりました。すでに言われていたように、鹿児島はお正月をもって1000人の感染者を越し、大晦日には東京では1日で千人になるという記録更新になっています。とうとう東京は、緊急事態宣言を国に要請するとなっています。特に医療の現場が大変らしく、コロナの患者さんの為に、普通の病気の人が、治療や手術が受けられない状態になっていくそうです。私達のできることが余りなく、マスクに手洗い、密を避ける、良いものを食べて免疫をつけることくらいです。キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなし、できることをしっかりしていくしかありません。
 さて皆さんは、お正月はいかにお過ごしでしたでしょうか。できるだけ動ないでくださいとのことでしたが、近畿の奈良に住む下の娘が家に帰ってきました。今年は長崎帰省ができませんでしたので、こちらでお正月を過ごしました。娘はこちらに帰ってからは友達と会うこともなく、どこにも行かないでずっと家でしたので、将棋をしたり、チェスをしたりでありました。私はなかなか時間がとれないので、将棋やチェスの娯楽はできないのですが、まさに1年に一度のことで感謝でした。東京とか大阪とか感染状況が酷いところは動けない方が多かったと思います。お正月で比較的長い休みが赦されるのは、本当によい習慣だと思います。

 さて聖書は、2021年の年頭に当たり、どこがいいのかと思いましたが、神の真実に根拠を置くパウロのコリントの手紙を開いてみました。すでにご存じの通り、コリントは使徒言行録によりますと、パウロの第2回目の伝道旅行において、伝道された教会でした。言行録18章にその伝道の記録が書かれています。パウロはギリシャのアテネにおいて伝道したのですが、よい結果がえられませんでした。そこでパウロはアテネを後にしてコリントへ来たとあります。そして、コリントでアキラとプリスキラという同じテント職人でイエス様のことを伝えている同労者に出会います。そして、一緒に仕事をしながら、主日ごとにユダヤ人の会堂に行ってイエス様の事を伝えたのです。言行録18章8節にはユダヤ人の会堂長クリスポが一家を上げて、主イエス様を信じることになったとあります。
 コリント教会の伝道の成功は、このアキラとプリスキラというテント職人の助けと会堂司というユダヤ人たちも一目置く、重要人物が信じてくれたことが大きかったと思います。新興宗教は、広告塔と言って有名人を自分の宗教につなげることをします。すると他の人は安心して、信じやすいということがあるそうです。さらに言行録18章9節には神様もまた「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。…この町には私の民が大勢いる」とパウロを励ましてくださったのです。11節には、パウロは1年半年コリントで伝道できたと書いています。1年半で教会ができるのは、中山伝道所が30年になっていますことと比べるとうらやましくもあります。しかし神様のご計画においては可能なのだと思います。しかし早い伝道の成功は、ユダヤ人のねたみを買い、コリントのユダヤ人から18章13節に「この男は律法に反することを伝えている」と訴えられます。パウロはコリントを後にして離れ、アンティオケに戻ったようです。伝道はこうして、3歩進んで2歩下がるみたいことがよく起こります。

 パウロが去ってからのコリント教会は、いろいろな問題が山積しました。そしてコリントで起こった問題ついて、パウロは数年後、第3伝道旅行で、エフェソにいた時、これに答えて、コリントへの手紙を2つ書きました。すでに読まれた方はご存じですが、第一コリントの手紙5章ではキリスト者の間に近親相姦の罪があったことを書いています。6章には、キリスト者同士で裁判に訴えることもあったようです。7章では結婚について書いており、8章では偶像に備えられた肉について書いており、11章では礼拝の仕方について、また主の晩餐の制定について書いています。ある意味でコリント教会がいろいろな問題を起こし、多くの質問をパウロにして、パウロがこれに答えてくれた。それによって、私たちは、今の教会の指針を持っているともいえるでしょう。コリント教会の問題は山積ですが、パウロはむしろそれを大いに活用し、教えやたとえに持っていくことの天才であったとも言えるでしょう。

 4節にあるコリント教会が「神の恵みを受けたことを感謝します」というのは、基本的に、解決があるとか、うまくいっているとかでない。そういうこともあるのですが、むしろ問題が起こったことで、信仰が鍛えられ、本当に見るべきこと、知るべきことが示されていくことを見ているのだと思います。5節には「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と書きました。実際は正反対であり、コリント教会こそ、問題が多く、近親相姦あり裁判沙汰ありで、どうにもならない教会だったのです。しかしパウロは、そのような実際の現象を見つつも、その問題の根底と本質にある神様の恵みと主の召命をしっかりと見ているのです。

 7節もまた「あなた方は賜物に何一つ欠けることがない」としています。賜物に何一つ欠けることがないなら、どうして、コリント教会は問題ばかり起こるのかと言いたいです。しかしパウロは、コリント教会が、多くの賜物に満ちていることが見えています。パウロに言わせれば、実際にコリント教会には、賜物に満ちているのに、それが教会で用いられないのです。力はあっても知識があっても、それが埋もれて用いられないなら、無いのと同じです。しかしパウロはコリント教会を立ててくださったのは、主なるイエス様であると知っているのです。必ずいつか主が、教会の賜物が用いられることを信じて疑いません。
 娘が帰ってきて、牧師室の引っ越しを手伝ってくれました。「なんでこんなに片付かないか」と言って「どこに何があるのかわからないなら、それはどんなに大切でもごみと同じです」といいます。「どんなに古くて大したこともないものでも、すぐに場所が分かり用いることができるなら宝だ」と言うのです。なんでお前はそんなことを知っているかというと「自分は今、会社では片付け係ばかりしている」というのです。なるほどと考えさせられます。しかし、パウロも又コリント教会の様子を聞いて、改めてコリント教会の人々が、賜物に満ちていることに気付いたのです。そして、その賜物は、主イエス・キリストの現れを待ち望むことにおいて、一致していくと希望を持ったのだと思います。

 8節には「主は最後まで、あなた方をしっかり支えて…非の打ちどころのないものにしてくださる」と書いています。コリント教会は他のガラテヤ教会やテサロニケ教会等と比べますとどちらかというと性的な問題がこんがらがっています。だいたい性的な問題と信仰の問題が絡み合うと解決はなかなか難しいと思います。しかし、パウロは余り悲観しておりません。「主は最後まであなた方を支える」と言うところに立っています。「主が支える」と言われのであれば、これは私たちが諦め、手を放すわけにはいきません。主が支えると言われているのに、自分は知らんとは言えないです。たとい微力であっても、何もできそうなことがなくても、せめて後ろからでも支え、主についていくしかありません。
 イエス様が十字架に付けられた時、マルコ14章51節には、素肌で亜麻布をまとって、イエス様について来た人がいたことを書いています。人々が捕えようとすると亜麻布を捨てて裸で逃げたとあります。これはマルコ自身であったという解説があります。私はここが好きです。素肌に亜麻布をまとうのは、なぜなのか。言ってみれば、路上生活者の真似をしたのでしょうか。最低の最下層民の姿をして、イエス様の後について行った。誰も咎めないという作戦だったでしょうか。しかしおそらく「お前は誰だ」と言われて、恐ろしくなり、他の弟子と同じで逃げたのだと思います。しかし、ペテロのように「私はこの人と全く関係ない」と3回言うのと、後からついて怖くなって亜麻布を脱いで裸で逃げるのとどうなのか。自分は裸に亜麻布を着て、後ろからついて行き、咎められて逃げだすマルコは、好感が持てます。

 9節には、パウロの信仰が語られています。パウロは教会とも言えない教会であるコリント教会を召命し立ててくださったその根拠、根底を知っています。それは、神の真実だと言うのです。パウロの信仰の根底には、神の真実があります。パウロはなぜ、主の晩餐をきちんと守れないめちゃくちゃなコリント教会が恵み受けたというのか。パウロはなぜ、性的混乱を持つコリント教会でキリストの証が確かとなったというのか。パウロはなぜ、どうにもなりそうにないコリント教会が賜物に何一つ欠けたことがないというのか。パウロはなぜ、偶像に備えた礼拝の肉を食べている教会を、非の打ちどころのない教会になるというのか。すべての根底に神の真実があります。
 パウロは神様の真実を知り、それを確信するのです。今は確かに駄目でも、キリストの日に、主が変えてくださると信じることができるのです。それはおそらく、パウロ自分の体験なのだと思います。パウロはご存じ、キリスト者の迫害者だったのです。パウロはおそらくキリスト者を迫害し、そうするつもりがなくても、殺したことがあったと思います。第一テモテ1章13節には「以前、私は神を冒涜する者、迫害するもの、暴力をふるう者でした」と書いています。テモテの手紙はパウロが直接書いてないと言われていますが、根も葉もないことは書けません。さらにパウロは第一テモテ1章15節に、自分のことを「罪人の頭です」(口語訳)共同訳は「罪びとの中で最たるものです」と言ったことがあります。
 パウロの場合の罪は、観念的な概念の罪や、頭の中の操作の罪のことでなくて、実際にキリスト者を迫害し、殺したことでした。しかしそれなのに主なる神様はパウロを用いるとされたのです。パウロにバプテスマを授けたアナニアは、主なる神に「行け、あの者(パウロ)は異邦人や王たちに、又イスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」言行録9章15節と言っています。

 とどのつまり神様の真実に戻ってくる、かかってくるのです。おそらくコロナ感染も日本の子供の7人に1人は貧困である、の問題も、神の真実にかかっているのだと思います。神様の真実を受ける。イエス様の十字架をきちんと受け止める時、その死人からの復活を受ける時、私たちは課題が与えられ、神の真実に応えて生きる生き方が示されていくのです。この1年間、私たちは神の真実、十字架の愛を受けて、主の復活を信じ、これに答えて生きることが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。2021年が明けましたが、コロナ感染の酷い状態と共に歩みます。医療関係者の方を守ってください。医療崩壊しないように支えてください。また貧困家庭が一番あおりを食っている状態です。支えてください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方、また一人暮らしの方支えてください。続けて子ども園、児童クラブの児童、学童、先生、支援員をコロナから守ってください。お正月の守りを感謝です。どうかまた今日からの1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」