2021年 説教
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 教会   説教   黙示録22章18〜22節     2021年12月26日
            「 主よ 来てください 」   最終礼拝
 本日は2021年の最後の礼拝を、集まって出来ること、主に感謝いたします。21年もまたコロナ感染に振り回された年でした。特に、8月29日から9月一杯の集まった礼拝・祈祷会を中止しました。どうなることかと思いましたが、主の守りの内に、9月末に第5波の感染は和らぎ、集まった礼拝も10月から再開できました。そして11月中頃は感染ステージが0になりました。12月20日から又レベル1になっています。鹿児島の感染は、感染者数が9122人で、19日に与論島で6人、21日と23日と25日に知名町と和泊町の沖永良部島で合わせて8人の感染がでています。
 感染はどちらも離島です。鹿児島市の感染は、26日間ありません。どうなるかです。ただし、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるとされ、オミクロンの株もできて、全体的には段々増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。続けて私達に出来ることは、マスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、アロンの孫であるピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 今年は、クリスマス礼拝と2年ぶりの昨日イブ礼拝が短縮ですができましたこと、ただただ主に感謝です。しかし、週報にも書きましたが17日(金)の夕方から18日(土)の朝にかけて、Y兄が召天されているのが、20日(月)にお風呂の中で発見されました。警察では病死ということで、金曜日の寒さが、Yさんの心臓を直撃したようです。Yさんは御家族との寄り合いが非常に悪く、どうなることかと思いました。検死が終わると御家族の方が遺体の引き取りに来られたと警察より聞きまました。残念ながら御家族の誰が、どこに引き取ったのかは、警察は教えてくれませんでした。そして、さらに残念ながら御家族からの葬儀の案内等は一切ありませんでした。私は月曜に、Yさんの遺体がすでに運ばれた後のアパートに行って祈り、月曜の夜の検死の際に検死室の玄関で祈るのが赦されたので祈りました。私も調書を取られて、特に他殺自殺等の可能性を聞かれました。
 神さまはすべての時を支配されている、とコヘレト伝道の書3章にあります。私達の死と誕生は、完全に主のみ手にあります。従って「すべての時は死ぬに良い時であり、すべての時は生まれるに良い時である」となります。主はYさんを主なる神ご自身が、よしとされる時に身元に引き揚げられたと信じます。この礼拝の後で、賛美歌と祈りを捧げたいと思います。

 さて、聖書は2021年の最後の礼拝になりましたので、黙示録の最後の節から聞いていきます。聖書の最後、黙示録の22章は7節、12節そしてここの20節にあるように「私はすぐに来る」というのが、3回も繰り返されています。聖書の終わりのメッセージは、まさに主イエス様が又「すぐに来る」ということで終わっているのです。私達は聖書の黙示録22章から、主イエス様は又来る、ということばが、聖書最後の言葉であるということがわかるのです。
 「私(イエス様)がすぐに来る」と最後の言葉にあるのは、通常これは、ヨハネの黙示録のおかれた状況からであろうとされます。黙示録は、長老ヨハネが宛先の7つの教会に書きました。この状況すなわち初代教会の抜き差しならぬ状態が「私はすぐに来る」を言わせたとされます。すでに何度か話しましたが、1世紀を終わり、2世紀を迎える教会は、3つの大きな難問を持っていました。一つはローマ帝国からの迫害です。キリスト教はユダヤ教と同じく、皇帝礼拝をしませんでした。そこで、ローマ帝国としては、帝国に反対するけしからん宗教だとしたのです。次に、ユダヤ教からの迫害です。自分たちの中から出てきてのですが、イエス様をキリスト、神とし、神の子としたのですから、とうとうユダヤ教ではキリスト教を異端にするしかありません。その最初のしるしが、創始者キリストを十字架につけるということです。
 そして3つ目の初代教会の大きな課題は、イエス様を人としない、神は人にならないとする間違ったキリスト教の立場です。これは聖書には名称はありませんがグノーシス・キリスト教と言いました。初代教会は、外にはローマ帝国からとユダヤ教からの迫害を受け、内にはグノーシス・キリスト教というキリストは人間にならない、神は人間にならないと言う違った教えと戦いました。外からも内からも、キリスト教は大きな課題を抱えていたのです。

 それは、確かに厳しい戦いであり、多くの教会の人々は混乱しました。長老ヨハネはこの状況の中で、黙示録という形で、7つの教会の信徒達を励まし、イエス様は真の神、神の子である信仰に留まるように手紙を書きました。その最後の教えが、「私(キリスト)はすぐに来る」という教えでありました。「キリストはすぐに来てくださる」。これは、確かにキリスト教会が内外に抱える問題にある時の励ましの言葉です。私達は子供が夜の暗闇を怖がっている時やよくしつけられた恐くない犬を子供が怖がる時には「恐くない、恐くない。私がここにいるでしょう」と言って励まします。「私はすぐに来ます。私は側にいます」はとても大切な励ましの言葉です。

 そして、大切なことは、確かに長老ヨハネは、教会が内外の大きな問題を抱えているのを見て「主イエス様はすぐに来られる」と励まし書いたのです。しかし、そのことを言うためには当たり前ですが、イエス様が「私はすぐに来る」と約束しておられたと言うことです。引用をする必要もないかもですが、主イエス様は、十字架に付けられ、その後復活され、弟子達と40日間ご自身が生きていることを証しさないました。そして、主が天にのぼられた時、天使は言行録1章11節に「あなた方から離れて、天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またお出でになる」と言われたのです。また、ヨハネ伝14章3節には「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」と言われました。更にヨハネ伝16章16節には「あなた方はもう私を見ることはなくなるが、しばらくすると、私を見るようになる」と言われています。主イエス様が又来てくださるという再臨は、イエス様のかねてからの約束でもあるのです。

 改めてイエス様の励まし方と言うのは、本当に簡単と言うか、誰でもわかるというか、独自なのだと思います。多くの宗教では苦しんでいる信徒、困難にある信徒に対して「信仰を強くしろ」とか「精神を統一しろ」とか「邪念を払い、信じることに集中しなさい」というと思うのです。心の状態を正しく、穏やかにして、困難や苦難に備えなさいというが、常套手段ではないでしょうか。しかし、ヨハネ黙示録は初代教会にかかる3方向からの迫害に対して「私はすぐに来る」というのです。これはある意味で、信徒を子ども扱いしていると怒る人があるかもしれません。先ほどいいましたように、暗闇を怖がる子どもを励まし、怖がらなくてもいいことを、怖がる子どもに言い聞かせるのと同じ方法といえるでしょう。
 もっと理知的な理性的な教えはないのかと言う方があるかもしれません。しかし、本当に苦しみ中にあり、痛みの中にある人に、理性的な理知的な解決法を示しても、なかなか受け入れられません。また実際にそれをすることができたら、元々と苦しまないともいえるでしょう。考えることができない、理性を働かせる余裕がないから苦しみ、悶えているのです。そこでの助けは、実際に共にある、実際に支え、実際に傍にいることがとても大切です。

 臨床心理の本の中には、実際に解決を示せなくても、実際にどうしたらいいか手段や方法が示せなくても、傍にいるだけで、話を聞くだけで、実は解決の一歩なのですというのがあります。そうなのだと思います。いろいろな実際の相談において、ほとんど牧師のすること、できることはないのです。しかし、それでも話を聞いていると、なんだかホットしましたと言う方があります。こちらは何も示しておらず「そうですか、それは大変ですね、どうしたらいいのでしょうかね」と言ってみればのらりくらり戦法ですが、それでも「なんだか方向が見えるように思います」という方があります。下手に「よし、これは自分に体験があるぞ、こうしてああして、こんな風にするのです」と言うと返って、うまくいかず苦難のずるつぼに入られる方もあります。

 ヨハネの黙示録が「私(イエス様)はすぐにきます」と言って、解決をこれから来られるイエス様に委ねるのは、本当は一番良かったりするのかもしれません。ましてや、私たちの問題は、短期決戦はそう多くありません。そもそも短期決戦の悩みは、生き方の悩みとは次元が違うのでないか。本当の悩みは、根源的ですので、やはりその人の生き方にかかってくるのでないかと思います。そうなると、これは解決を人から示してもだめなのでないか。自分で体験して、自分で考えて、自分で道を開くしかない。本当の解決は、神様がその人を導き、助けるのを祈るしかないのだと思います。「私は(イエス様)がすぐに来る」という励ましは、一番なのかもしれないのです。

 18,19節には「これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをそのものに加える。…何か取り去るものがあれば、神は…命の木と聖なる都からその者が受ける分を取り去る」と言われます。これは実は申命記の4章2節モーセが「あなたたちは私が命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」の教えの繰り返しと言われています。つまり、長老ヨハネは、自分がイエス様から受けた幻を、モーセの言葉のように、神様の教えと受けているということです。ここには、イエス様が真の神のみ子であり、イエス様の言われることはそのまま父なる神様の言われることである。言い換えると「私が父のうちにあり、父が私の内にある」ヨハネ14章11節の父と子の一致と言っていいでしょう。
 ここにおいて、新約聖書、イエス様の証言もまた旧約ヘブライ聖書の預言書と同じ同格であるということです。つまり、私たちは、なんとしても新旧の両聖書を神の言葉として重んじ、読み、研究し、聞いていくということです。そして、イエス様が言われたように、岩の上に家を建てる者として、聞くだけでなくて、やってみることです。委ねる、任せるというと、自分は何もしないで、神様がしてくれるのを待っていると捕える人があります。これは間違いです。委ねる、任せるのは、自分がなした行為の結果です。神様、イエス様によって示されたことを行ってみるは、私たちの責任・委託です。しかし、「委ねよ、任せよ」は私たちの行為の結果を、主に委ね任せることです。主の恵みと恩寵は、このことを私たちになさせるのです。
 2021年が終わります。自分が何を中心に生きて来たのか、自己であったか、イエス様であったか。問いましょう。そして、来る22年は「私は来る」と言われたイエス様に専心し、集中し、イエス様の十字架の愛を、恵みによって示され、行っていきたいと示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。2020年が終わります。導きを感謝します。来る2021年もまた、ひたすら主の恵みに生きるものとさせてください。コロナのオミクロン株がだんだん広がっています。お守りください。求道者、病気療養の方、ご高齢の方、伴侶をなくされた方支えてください。教会員の年末年始の移動をお守りください。子ども園、児童クラブを守ってください。会堂建築とミャンマーの平和をみちびきください。み名によって祈ります。アーメン。」


  Yさんの祈り

  「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。12月17日から18日にかけてYさんはあなたの身元に召されていきました。あなたは生と死をつかさどられる方です。Yさんの生と死をあなたは、み手においておられます。Yさんは今は、あなたの身元にあって、悩みと苦しみも取り去られて、絶対なる平安に入れられていることを信じます。Yさんは、頭の良い方でした。しかし、多くの欠点がありました。ご家族とも疎遠になりました。多くの方が、なにがしかの迷惑を受けております。しかし、そこからなんとか脱出しようともがいておられました。
 私たちも大なり小なり、欠点をもち、その是正に努力するものです。Yさんは途中にあって、召されていきました。Yさんは3年前にバプテスマを受けられました。毎週の礼拝も、最近は仕事の疲れで、休まれることが多くはなりましたが、精進されました。特に、毎週の夜の祈祷会は3年間ほとんど休まず、祈りと聖書の学びを続けてくださいました。Yさんが来られることが私の大きな励ましでした。
 「主は与え、主は奪う、主のみ名はほめたたえられれよ」。主は全知全能の愛をもって、Yさんを導かれました。今は主の身元で、あなたの平安にあることを信じます。どうか、残された私たちは、生前のYさんを思い、罪との闘いの大変さと生きることの難しさを示されます。でも、Yさんが自分なりに努力され、祈られ、支えらた姿において、歩みたいと示されます。主の恵みがYさんを支えられたと信じます。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」


 教会   説教   マタイ伝2章1〜6節      2021年12月12日
            「 拝みに来た 」    アドベント第3主日
 本日は、主に赦されて皆様と共に集まって礼拝ができますこと感謝です。鹿児島の感染者は相変わらず0が続いております。なんと20日間0になりました。鹿児島県はコロナの病床の使用者数も0ですから鹿児島県にはコロナに感染している人が数字上はいない状態です。鹿児島の感染者数は9103人で止まっています。ただし、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるとされ、オミクロンの株もできて、韓国は80%の方がワクチンを打ってもまた増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。続けて私達に出来ることは、マスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 本日は週報にありますように、イエス様の御降誕のアドベント待降節の第3主日として守ります。ここはクリスマスの出来事ではもっとも有名な博士の登場です。新共同訳聖書では、博士とせず占星術の学者としました。占星術とは、現代では占いの類で、余りよい評価はないと思います。時々、自分の星座はどうこうと言う話しは聞きますが、真剣に占星術の教えを聞こうと言う方は滅多にないのではと思います。
 しかし、これも教会に長い方はご存知のように、2000年前は地域によって違いますが、特にイスラエルの東のバビロンの方では、占星術士は、大切な仕事・職業でありました。つまり当時は今のような気象学や気候学、又農業は余り発達していませんでした。人々はいつ農業の種をまいたらいいのか、いつ刈り取りをしたら一番いいのか、いつ耕し、肥料をいれるのか、又いつ頃が狩りをするに適当な時期かを、占星術士に聞きました。この前シラスウナギの稚魚の解禁をテレビがしていましたが、あの時を誰がどう決めるかのような事です。また貴族や王達は、戦争の開始、国家の行事の開始様々な時間を管理しないといけませんでした。戦争は戦いの時期を間違えると自分たちが殺されるのですから、占星術は大変な重要な国の機関となります。雨期に橋を架けるとあっという間に大雨で壊されるわけです。

 これも語ったことがあると思いますが、沖縄県のアメリカからの返還の時、時の首相は日が決まっていたのですが、大安で無かったので、大安の日に変えたと聞いたことがあります。2000年前の占星術士を笑うだけのものを私達は持っているのか、ということになります。難しくいいますとフランスの哲学者レビ・ストロースの『野生の思考』では、全部読んだわけでないのですが、アメリカインディアンのトーテムポールの研究を通して、未開社会もまた現代社会の科学と同じようなシステムをちゃんと持っていると示しています。その次元や有効性の範囲が違うのみなのです。となると占星術もまた、農業や戦争やら土木事業では、必要な知識だったことになります。
 これらの占星術の人がイエス様の誕生の時に来たと言うことは、いろいろなことが考えられます。まず第1義的には、メシアの出現において、様々の王達がやってくるという預言がイザヤ60章3、6節にあります。これらの占星術士は王様ではもちろんありませんが、非ユダヤ人であり異邦人です。しかし、イエス様を王として又メシア、神として拝みに来たということです。さらに占星術は、聖書では禁じられた職業でした。星を見て時を決めるのは、神様の時間の支配を、人間が勝手に見て、判断することでありました。つまり聖書では神を差し置いて指示をなし、受け取るということになり、神をないがしろにする行為であり、禁じられているつまり罪とされているわけです。それをもっぱらとして仕事としてする人が、イエス様の所に来た。つまり招かれているのです。 
 私達は、ここに主は、まさに罪人を招かれる典型を見ることができるでしょう。自分は信じるに相応しくないと言う人が時々おられます。まさに、自分はイエス様を信じるに相応しくないと思える事、それ事態が実は、主に招かれるべき条件になっているともいえます。マタイ伝9章12節「医者を必要とするは病人です」なのです。

 2節をみますとさらに、この占星術士達は、自分たちは東の方でこの星を発見したといいます。どういうことだったのか、いろいろな説がいわれます。一番確からしいのは、木星と金星が地球からみて1直線に並ぶ天体の合という現象のことでないかというのです。木星と金星はよく光る惑星です。それが2つ近づくのは256~7年ごとに起こり、ちょうど紀元前6,7年ごろ起こっているそうです。占星術士がこれを見逃すはずもありません。もちろん木星と金星の合の天体現象が、メシアの出現となっていたのかは残念ながら分かりません。しかし、そこに何かあるぞと、なったことはあり得ることです。そして、東の占星術士達は、西を目指したのです。ですからこの占星術士は、占星術が発達していたバビロン地方かその影響のある文化圏で、パルテア地方という説もあります。
 しかしそれ以上に、この占星術士は、自分たちの発見を確かめるために旅をしました。言ってみれば、この占星術士は、真理の探究の為に旅をしたということになります。どういう状況だったのでしょうか。自分のキャリアを上げるための留学とかとはちょっと違っていたでしょう。自分たちの研究の延長であったのか。別に行かなくても、その報告を聞けばいいので、これも違うと思います。この占星術士のすごいところは、真理を自分で行って、自分で確かめたということだと思います。
 簡単いえば、多分彼らには、自分の家族があったでしょう。自分の地位もあったでしょう。当時の王達が、占星術士に自分の国を離れて、救い主、世界の王を拝みに行くことを赦すものであるか、分かりません。当時の旅の危険を考えると王は、よほどのことでないと赦さなかったのではないか。ネヘミア記1章には、王の献酌官のネヘミアがペルシャ王からエルサレムにいく許可を得る箇所になっています。いろいろな読み方がありますが、王の許可は、簡単でないように読めます。
 つまりこの占星術士は、家族をおいて、もしかして自分の国における占星術の地位を捨てて、メシア・イエス様の誕生を確認し、拝みにいくのではないかと思うのです。この占星術士達にとって、この星の出現はそれほど大きなことでした。私達はここに、真理を知ろうとして、自分のできる限りのことをする姿を見てよいと思います。イエス様は「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とマタイ伝16章24節に言われています。

 この前からルワンダの佐々木宣教師から古いけどガンジーさんを読んでいると言われて触発されて、私も文庫『ガンジー自伝』を読み終わりました。改めて、ガンジーさんのすごさはインド独立を成し遂げたことにもちろんあります。しかし同時にヒンズー教の立場ですが、ガンジーさんは最後まで祈りの時間をきちんと守りつつ暗殺されるまで、祈りの時間を取りつつ、インド独立の仕事を成し遂げておられるのです。ご自身としては、宗教の真理の探究と社会運動が同じレベルであると言われるのです。これには驚きと新鮮さがあります。私達は祈りは、なんだかあってもなくても、生活にあまり関係ないとしそうです。しかし、ガンジーさんにとって祈祷の祈りは現実であり、生活でありました。

 3節には、占星術士を迎えたヘロデ王の姿を書いています。聖書は一言「不安を抱いた」とあります。ここはまさに一言で全体を捕らえたといえるでしょう。当時のローマ帝国下におけるエルサレムの統治を委されたヘロデ王の残忍性やその横暴は、すでに聞かれていると思います。自分の地位を狙うとして妻を殺し、自分の息子も殺してしまう程の王でした。この王の元に、イエス様は生まれられた、というのは、なんたる歴史の皮肉かと思います。しかし、歴史は時としてこうなるようです。王としてはどうしようもない王、ローマ帝国に最大限の胡麻すりをして、最大限の賄賂を送って王となったヘロデ王の元に、謙遜で謙り十字架まで低くなる本物のまことの王、メシアが生まれるのです。
 ヘロデ王の最大の弱点は、ヘロデ王がイドマヤ人で完全な異邦人、ユダヤ人、イスラエル人でなかったことです。つまりイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ミカ、ダニエルと連綿と続く旧約ヘブライ預言者のメシア預言の列にどうなっても、ヘロデ王は絶対に入ることができないのです。ヘロデは本物のメシアが来られた時には、当然退けられる中途半端というか、正当性のない王なのです。私達はヘロデ王の境遇を知りつつ、イエス様を心から迎えられない事態を知るのです。

 4、5節をみますとしかし、ヘロデ王は仕方なかったとしても、ヘロデ王に仕えていた祭司長、律法学者は、どうなのかがあるのです。彼らは生粋のユダヤ人、イスラエル人です。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの契約を持ち、モーセ、ダビデの契約に繋がる者達です。6節にある通りに、きちんとイエス様の誕生地の場所を聖書で当てているのです。すごい聖書の知識ではないでしょうか。
 真理を知る彼らは、一目散に場所を知っているのですから、占星術士によって時が示されたのですから、救い主イエス様の誕生の場に行けるのです。場所だけだと遭うことができません。時間だけ分かっても、どこにいるのか分かりません。しかし、場所と時間が分かれば待ち合わせはできるのです。しかし、祭司長、律法学者は行きませんでした。これまたすごい皮肉です。生粋のユダヤの民、イスラエル人、神の約束を頂ける人達、この人達がその場に行かない。異邦人で、聖書の嫌う占星術をしている人、この人達が地位を捨て、家族をおいて、その場所に来るのです。
 これはやはり何年も何十年も教会に来て、自分こそは救いを得ていると思っている私達への警告でしょう。救いは、常に開かれているのです。6節の引用はイザヤ書7章14節であろうと言われています。しかし、実はこの引用はマタイがする時、間違ったと言われています。それは「決して一番小さい者ではない」となっていますが、イザヤ書7章14節では「一番小さい者」と肯定されています。つまりマタイは、ユダのベツレヘムは預言者イザヤは一番小さいと預言したが、イエス様を産んだところで、一番小さくない。神様に祝福され、神様が御子の誕生の地として選んだところでないかと示しているのです。これは間違った引用例だ、と言う人もいます。しかしマタイの気持ちが分かります。確かにベツレヘムは寒村で小さい村です。しかし、そこからダビデが誕生したように、イエス様が誕生された。マタイは小さくないとしたのです。

 信仰は、ある意味でこうして0からの出発、小さい所から、失敗からの出発をいつもしていくのだと思います。生粋の神の約束の民の祝福が落とされ、異邦人が受ける。その違いは真理を求めてやまない心、真の信仰を求めて止まない心でありました。クリススマスのベツレヘム出来事は、真理を求める謙遜を教えていくのだと思います。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染が大夫弱まりました。しかしオミクロン株が蔓延しそうです。どうか、守りと導きをおいてください。主の待降節を感謝です。どうか、心から御降誕を祝い、待ち、そして、神様に会う者とならせてください。続けて子ども園、児童クラブ守ってください。求道者されている方、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。ミャンマーとアフガンに平和をおいてください。本日から1週間、罪深い私たちの信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マタイ伝1章18〜25節        2021年12月5日
            「 迎え入れなさい 」   アドベント第2主日
 本日は、主に赦されて皆様と共に集まって礼拝ができますこと感謝です。鹿児島の感染者は相変わらず0が続いております。10月7日に感染レベルが2となり、11月25日から感染警戒レベルは0になりました。鹿児島県はコロナの病床の使用者数も0になっています。鹿児島県にはコロナに感染している人が数字上はいない状態です。鹿児島の感染者数は9104人で止まり、2週間変わらずとなっています。ただし、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるとされ、オミクロンの株もできて、韓国やイギリス、フランスではワクチンを打ってもまた増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達に出来ることは、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 本日は週報にありますように、イエス様の御降誕のアドベント待降節の第2礼拝として守ります。先週は世界バプテスト祈祷週間で、世界の宣教師達のことを覚えました。世界宣教が続けて支えられるように、またコロナ禍において世界の宣教はまずます難しいです。しかし、そもそも宣教が易しいというのは基本的には無いのだと思います。召された先生方の賜物が用いられ、支えらえるように祈るのみです。
 さて聖書は、今年マタイ伝のイエス様の御誕生から聞いていきます。イエス様の御誕生の詳細は、福音書ではマタイ伝とルカ伝で詳しいです。従って、クリスマス前の12月の宣教箇所は、毎年毎にマタイ伝とルカ伝を交替して聞いています。今年はマタイ伝の箇所となります。ルカ伝はマタイ伝よりもさらに詳しくイエス様の誕生の様子を書いています。しかし、マタイ伝はヨセフの事と東の国の博士の事と2つの出来事で伝えています。特に、ヨセフの記事は、本当に短く淡々と経過を伝えています。ある意味で私達は2年ごとにヨセフの信仰を聞くことになるのだと思います。そして、それは私達の信仰の養いにおいて大切なことだと思います。

 18節に示されているように、マタイ伝はヨセフとマリアが一緒になる前に聖霊によって身ごもったのだと伝えています。当時、婚約は結婚とほぼ同じと扱われました。従って、婚約中の身ごもりはどうしてもマリアに罪があること、つまり姦通の罪として受け止められました。しかし、続く19節に、夫ヨセフは正しい人この原文は義人ですが、義人であったのにマリアを表沙汰にすることを望まなかったと書いています。ここは、何度も語られますが、聖書の義人つまり正しい人の定義を変えています。通常、正しい人、義人とは、法律・律法に従って、ことを行う人のことなのです。何があっても、自分の状況が不利になっても、律法・法律に従って行動する人が義人正しい人なのです。ですから、本来ここはマリアに非があり罪があるとすれば、ヨセフはきちんと訴訟の手続きを取り、訴えることが、本来の義人・正しい人です。
 しかし、聖書では義人ヨセフは、それをしなかったとします。つまりマリアを訴えること、マリアの罪を問うことをしなかったとしています。反対に、密かに縁を切る方を選ぼうとしたとあります。ここには、ヨセフの愛の深さが示されています。訴えを取り下げる、訴えないことをもって、マリアを守ろうとしたのです。そして聖書はあえてこの行動を「ヨセフ正しい人(義人)であった」というのです。これは、本来なら愛の人だった、と言うべきです。しかし聖書は、「ヨセフは愛の人であったので、縁を切ろうとした」と書いてないのです。書いてあることは「ヨセフは正しい人(義人)だったので、マリアを密かに去らせようとした」というのです。つまり、ここでマタイ伝、聖書は義の中に愛を入れているということになります。

 実は、この前ルワンダの佐々木先生のオンライン講演会を聞いて、ガンジーさんをもう一度勉強し直していますと言われていました。佐々木先生はガンジーさんをキリスト教でないけど、イエス様の言葉の体現者と言われていました。妙に気になって調べると『ガンジー自伝』という本が、アマゾンの古本で80円で売っていました。80円なら買えますので買って読んでみました。ガンジーはあのインド独立の社会運動をする前は、18才から21才までイギリスに弁護士資格の免許とりに3年間留学しました。英語をほとんど話せなかったガンジーが3年間でイギリスの弁護士資格を取れたのですから、やはり頭は良かったのです。
 しかし帰ってきてから、ガンジーは、弁護士は原告と被告の裁判を進めるのではなく、弁護士の自分の仕事は、裁判に勝つことでなく示談させることだ思った、と書いています。つまりガンジーさんは、弁護士としてはあまり儲からず、ひたすら示談させる2流の弁護士の仕事を目指しました。私はこの箇所を読んで、ああこれはマリアの夫ヨセフのことでないかと思ったのです。弁護士と言う本来の法律の方は、本来は相手の義とこちらの義とどちらが勝つのかを競い、そして裁判に勝ってお金を貰うのだと思います。しかし、ガンジーさんは最初から示談専門の弁護士が本当ではないかと気づいているのです。そしてここは、ガンジーのその後のインド独立運動の要にも思えるのです。ガンジーさんは、義よりも愛を願う義人だったのです。
 これは義人ヨセフが、マリアの罪を、最初から密かに去らせる、言ってみれば示談に持ち込んで処理しようとしたと言うことではないでしょうか。聖書は、実は義人において、愛が先行する、愛が先行する人だと示しているのです。これはまさに、イエス様の十字架の体現とも言えます。どうも、主の十字架は、つまり育ての父ヨセフからイエス様が引きついだということにもなるのです。

 20節、しかし、ヨセフは示談をつまり密かにマリアを去らせることをしなくて良かったのです。書いてある通り、天使が夢に現れて、ヨセフに指示を出しました。それは、マリアが身ごもったのは聖霊によるのである。「恐れず、マリアを迎え入れなさい」つまり結婚しなさいということでした。聖書マタイ伝では天使が、人間に直接介入するのは3回あります。1回目、ここの主イエス様が誕生される時、次に2回目は、イエス様が悪魔の試みを受ける時のマタイ伝4章11節、そして3回目はマタイ伝28章のイエス様の復活の時です。つまり、天使が介入されるのは、誕生と悪魔の試練と復活の時のイエス様の転換点の3箇所のみです。
 つまり聖書は天使が介入されるのは、私達の人生の一大事の時という風に受けてもいいでしょう。私達が何か、超自然的なことや神秘を求めて「天使様、どうか現れてください」と祈っても残念ながら、天使は絶対現れないと思います。天使は私達ののっぴきならない現実、人生の苦難、艱難の時に、主なる神様から遣わされて、突然のごとくある時は夢に現れ、ある時は復活のように人間の一人の青年のような形をして現れるのです。私達を助けたり、指示を与えてくださったりなさる、そういう存在のようです。ヨセフは、マリアと結婚すべきかどうか、迷った時に夢で神様からの天使がきて指示を出したということです。
 21節をみますとなんとこの天使は、事細かにヨセフに指示を与えます。マリアの妊娠の原因を語るのみ成らず、天使はこの生まれる子の名前まで教え、さらにこの子の使命、生まれてくる目的までを語ります。それは「自分の民の罪を救う」という使命でした。生まれの原因、その名前、そして使命が語れました。これは、生まれてくるイエス様がどんな人であり、何をなさる方であるかを示します。そしてそれが罪の赦しにある時、その人生はもう大変なことであろうと察しがつくと言うところです。

 22,23節はこれを、預言者がすでに預言していたことであるとします。ここにはありませんが、この引用はイザヤの7章14節の預言であります。そして、このイザヤ書7章14節は、イザヤのアハズ王の時代、アッシリア帝国がエルサレムを攻めて来てくる時代です。エルサレムが風前の灯になった時、イザヤは「おとめが身ごもって、男を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる」つまりその子がその窮地を救うことになるというのが、第1義的な預言でした。確かに、エルサレムはアッシリアからは救われたのです。それは「乙女が身ごもった」子どもからでなく、イザヤの祈りから185000人の軍隊が、天使に打たれてアッシリアは軍隊を引かざるを得なかったからです。しかし、人々はイザヤの預言の真の成就「インマヌエルの人」はどういうことかと待ちに待ちました。当時のアハズ王の子、ヒゼキヤ王が「その名はインマヌエル」と思えなかったのです。
 そして、イエス様が誕生される時、ある意味でもしやこの人がそうでないかと期待したといえるでしょう。そしてその期待は見事にイエス様に的中しました。イエス様のその後の歩みは、病気を癒し、悪霊に付かれたものを解放し、神の国の教えをなし、まさに十字架において、民の罪・私たちの罪を背負い、赦し、イスラエルの人々と共に歩む真の神のみ子だったのです。イザヤ7章14節の「その名はインマヌエルと呼ばれる」はまさに、イエス様において的中し、成就しました。

 24,25節にある通り、ヨセフは眠りからさめるとその通りに、マリアを迎え入れます。これはマリアと結婚したということです。私たちは、胸をなでおろすのです。しかし、よく考えてみると、夢の中の天使のことばに従うというのは、大丈夫かとも思えます。私たちは、自分が困った時、どうしようもない時、どこまで夢の示しに従うのかと思うのです。なかなかあることでないでしょう。
 しかし、実際にはどうでしょうか。実は、ガンジー自伝をよんでいるとびっくりすることいくつもあります。インド独立の父、非暴力代表です。しかし、ガンジーは弁護士資格を得て、イギリス留学から帰ってくるのですが、なんとインドに仕事がないのです。妻と子供を食べさせるために方々をつくします。やっと英語の先生の道を見つけて、面談にいきます。なんと断られます。とうとう南アフリカの小さい会社が弁護士を求めていて、南アフリカに行くことになります。そして、なんとその仕事でなくて、たまたまあるアフリカの黒人の職を交代する支援の為に弁護士というより、代書屋さんのようなことをしてあげます。これが突然自分たち黒人のことを1人前に扱ってくれる弁護士がいるとして、有名になるのです。実はインド独立の父の始まりは、代書屋さんでアフリカの黒人に一目置かれた事だったのです。これが原点となって、あのスワラジ運動や塩の行進へとなり、インド独立となっていきます。
 ヨセフが夢の天使の導きに従って、マリアと結婚して夫婦の歩みをなし、これがイエス様のスタート、全世界の罪の赦しの始まりとなるのです。こうなってくると私たちは本当に注意深く、主の導きを受けていくことを示されます。クリスマスのヨセフの出来事は、このような具体的は、小さい信仰の歩みを積むことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染が大夫弱まりました。しかしオミクロン株が蔓延しそうです。どうか、守りと導きをおいてください。続けて子ども園、児童クラブ守ってください。求道者されている方、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。ミャンマーとアフガンに平和をおいてください。本日から1週間、罪深い私たちの信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   イザヤ書11章1〜5節    2021年11月28日
            「 ひとつの若枝 」   アドベント第1主日
 本日は、主に赦されて皆様と共に集まって礼拝ができますこと感謝です。鹿児島の感染者は11月21日に1名で、後は又6日の0が続いています。10月25日から感染警戒レベルは0になりました。鹿児島県はコロナの病床の使用者数も0になっています。鹿児島県にはコロナに感染している人が数字上はいない状態です。一昨日迄の鹿児島の感染者数は9104人で、1週間変わらずとなっています。ただし、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるとされています。オーミクロンの株もできて、韓国やイギリス、フランスではワクチンを打ってもまた増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達に出来ることは、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 本日は週報にありますように、イエス様の御降誕のアドベント待降節が始まります。またバプテスト連盟の世界バプテスト祈祷週間も本日から1週間世界伝道の為に祈ります。今、日本バプテスト連盟は掲示板にありますが、ルワンダの佐々木先生夫妻、シンガポールの伊藤先生、カンボジアの嶋田先生夫妻、そしてインドネシアの野口先生夫妻と4組をだしています。佐々木先生は厳密に言うと国際ミッションボランティアとなります。ちょうど休暇で嶋田先生夫妻と野口先生夫妻は、3か月帰国されて各地で報告会やズームでの報告会をなさっています。
 同じ事を何度もいいますが、日本伝道もさっぱりなのに世界伝道か、という意見があります。確かにです。しかし、そもそもいつも女性会が発表なさる最初のインドの宣教師ウイリアム・ケアリーは、イギリスのバプテストの主流ではなかったのです。小さいバプテストの団体であり、ケアリーがインド宣教をしたいと言った時、時の総会議長は「神様は必要な時は伝道をなさるから、あなたがしなくも良い」と言われたことが伝わっています。しかし、ケアリー宣教師はそれでも牧師仲間の言ってみれば牧師仲間の私的な宣教団体に支えられて、インドに出発しました。
 日本バプテスト連盟の最初の宣教師、ブラジルの戸上先生を思い出します。先生は1965年に年次総会にて決議されて、1982年迄17年間ブラジルに旅立ちました。しかし、当時は連盟の宣教師を支える体制ができておらず、今の様な簡単な送金もできず、先生の活躍とは裏腹に、個人的にはものすごい苦労をされました。最初の方は誰でもそうでしょうが、戸上先生のブラジル伝道が、私達の連盟の宣教師を送る時の大きな教訓と支えになっていると思います。

 さて、本日の聖書は世界バプテスト週間の世界伝道とは次元が異なりますが、しかし、ある意味で重なっているとも言えます。いつもクリスマスの待降節に読まれるイザヤの預言です。イザヤはこの11章の「エッサイの株」預言の他に、イザヤ9章5節には「一人のみどり子が私達のために産まれた」預言、そしてイザヤ7章14節の「インマヌエル預言」と3箇所の預言があります。預言は第1義的には、イザヤの生きた紀元前736年頃の召命から紀元前700年頃の預言です。エルサレムがアッシリの軍隊に囲まれ、イザヤの祈りで185000人のアッシリア軍が打たれて、救われた時までの神様の言葉です。しかし、その預言はその時代だけのメッセージにならずに、イエス様が十字架に掛かり、復活された時に「ああこれは、イエス様のことだった、イエス様こそこのイザヤの預言した真の王、神の子救い主だ」と受け取られたのです。つまり当時に人に、イエス様が真に神の御子だったと預言し証しする言葉になりました。

 1節にあるように、イザヤは当時アッシリ帝国が傍若無人に振る舞う紀元前8世紀に生きました。イザヤ11章の預言は、すでに北イスラエルの10部族は紀元前722年にすでに滅ぼされていたのでないかと言われています。北イスラエル10部族がすでに滅びて、エルサレムもまた風前の灯火状態でした。しかし、イザヤは「エッサイの株から一つ芽が萌え出で」と預言します。つまりアッシリアに囲まれた風前の灯火エルサレムは、ちょうどエッサイからダビデを出した状態であるとしたのです。
 ご存知の通り、ダビデは、イスラエルで最大の王であり、同時にもっとも神様に用いられ、罪を犯しましたが、悔い改めた王でした。詩編を読むと分かる通り、ダビデはイスラエルの領土をほぼ決定し、政治的な位置を固めただけでなく、神殿礼拝にも、多くの詩編が献上される王様だったのです。このイスラエルの基礎を築いた王はしかし、有力な部族や力ある氏族でありませんでした。ダビデ自身もまた、その召命のサムエル記上16章に在る通り、エッサイの7人兄弟の末っ子であり、サムエルが神様につかわさて、エッサイの子供から王を立てるとされた時には、エッサイはこの子は別だとサムエルの前に連れて来なかったのです。サムエルがもう一人いるはずだと言って、羊を追いかけていますとして、ようやく連れて来られました。
 言って見みれば、完全に傍流というか、親が見ても目にも掛けられない姿だったのです。しかしこのダビデが、なんとイスラエルの基礎を作る王になっていきます。そのように、今はアッシリアに囲まれて風前の灯火状態であるけれども、主はここからダビデを生んだエッサイの部族のように、してくださり、ここから「ひとつの若枝が育つ」とされたのです。

 2節をみますと最もイスラエルで小さい部族であったエッサイからダビデを起こし、成長させられたように、主は、やはりエッサイ株から新しい王を出されるというのです。そしてその方法は、まさにこれも繰り返される主の霊、主の聖霊が留まるという方法です。どの聖書解説書にもありますが、その霊の働きは3つありました。1つは、知恵と識別の霊、2つは思慮と勇気の霊、3つが主を知り、畏れ敬う霊です。これには多くの取り方があります。1つは、知恵と識別ですので理性を用いると言うことでしょう。このエッサイの株からの王は、目茶苦茶なことをする人でない。きちんと知恵と識別を持っている。理性、知恵を働かせる人です。次に2番目で、ここには思慮と勇気の霊となっています。これは1番目とどう違うのかと言われそうです。しかし、思慮と勇気は、実践的な知恵と識別であろうといえるでしょう。物事をなすには、それを理解するだけでは足りません。また理性的にこうなるのでないかと方向を付けることが大切です。しかし方向をつけたら、実際にやってみないと分かりません。実践の知識というか、お医者さんであれば臨床という分野があるのだと思います。実際に現実の人々に薬や手術の処置をしてみて、さてどうなるのかということです。これは会計でも料理でも、レシピや献立表はあっても、それと全く同じ材料が無いときには、それに変えるもので作ることになります。
 レシピに、砂糖をいれるとなっていたら、あらま砂糖がない、グラニュー糖がある、ザラメがある、そしたらそれでやってみるしかないということです。牛肉を豚肉に変え、それでもないならソーせージで作ってみることです。美味しいかどうかですが、やってみないとわからない知恵があります。こういうのは、思慮と勇気といえるでしょう。実戦の知恵、また臨床の知恵です。
 しかし、聖書は、理性や知性を働かせて、実戦の知恵、臨床の知恵だけでも成就しないことがあるのです。そこに3番目の霊、主を知り、畏れ敬う霊が言われます。これは言わずもがなですが、主なる神様を信じ、主なる神さまと共に歩む霊です。すべての事を主が支配され、主が導かれる。従って人間は出来るだけのことをなし、自分の力の最大をするのです。しかし、最後は主に委ね、主に任せる部分があるのです。つまり、最後の最後は、主がなさる。これに信頼するしかないとう次元があります。

 先週は、西南学院神学部主催のルワンダの佐々木和之先生の講演がズームでありました。先生は平和学という講義をアフリカのルワンダで教えておられます。そして先生がいわれるのには、今一番影響を受けているのは、インドのガンジーさんですとのことでした。ガンジーさんは今どこまでの人が知っているでしょうか。若い方はほとんど知らないのではと思います。65才になった私も、自分の先生方がガンジーを尊敬されている方があるくらいで、どこまで知っているかというと心許ないです。佐々木先生はもともと鹿大の農学部を卒業されて農業指導員として、アフリカに行かれたのです。最初は、その働きで多くの農作物がとれました。しかしなんと内戦が起こり、先生が指導した所はすべて破壊されたそうです。またちょうどルワンダの大虐殺事件を聞いたそうです。先生は、これは農作物の技術より平和に過ごす知恵が必要だと、学びの方向を変えられたのです。
 端折りますが、ガンジーさんの非暴力は、只の否抵抗でなかった。あの糸車の運動も塩の行進も、個人の経済的自立なくして、国家の自立はないという信念思想だったそうです。個人の経済的な独立、個人の自立なくして、国家の自立はないとあえて、糸車で糸を紡ぎ服を作る。海水を鍋に入れて渇かした塩を作る。それが非暴力の原点となっていきました。佐々木先生は、非暴力は否抵抗で無かったということを話されました。そして、信仰は違うけれども、霊の用いるイエス様の言葉の一つの体現者にガンジーがあると言われます。
 3節に、主を畏れ、敬う霊に満たされる、とあります。その結果は、目に見えるところ、耳にするところによって、裁きや弁護をしないということです。そして、4節に、このエッサイからの王は、弱い人、この地の貧しい人を公平に弁護することをなし、その唇によって、逆らう者を死に至らせるとします。聖書は、2700年前から真の王とは、弱い人、貧しい人を正当に裁き、公平に弁護する者だと示しています。

 ここ10数年、金持ちがもっと金持ちになることで、その分け前が人々に降りてくるとまことしやかに言われました。しかし、いつもなんか変だなと聞いていました。そして、いよいよ金持ちは金持ちになればなるほど、お金を回さないのが本当だと分かってきました。聖書もまた真の王、そして本当に力ある者は、弱い人、貧しい人を裁き、弁護するとしています。正義と真実をその腰帯とするからです。
 私達は、これの実現は、まさにイエス様しかないのだと思います。どうして全能の主、全知の主が、十字架に付かれたのか。しかし、復活されたのか。全能の主、全知の主は、弱い人、貧しい人を支える。これが十字架において象徴的に示されているのです。アッシリア帝国は、バビロンに、バビロンはペルシャにペルシャはギリシャに、ギリシャはローマに、強い国は当然ですが、強い国に滅ぼされて行きます。しかし、本当の平和は、主を知り、主を畏れ敬う霊に満たされる時に起こるのです。私達は主を畏れ、主を敬う霊に満たされ、クリスマスの主の御誕生を迎えて行くのだと示されます。私達も主のめぐみと霊により、一つの若枝に繋がって行きたいと示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染が大夫弱まりました。どうか、守りと導きをおいてください。感謝です。続けて子ども園、児童クラブ守ってください。求道者されている方、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。ミャンマーとアフガンに平和をおいてください。本日から1週間、信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   エゼキエル32章11〜16節    2021年11月21日
            「 私が主であること 」 
 本日は、主に赦されて皆様と共に集まって礼拝ができますこと感謝です。鹿児島の感染者は11月2日に1名で、後は17日間の0が続いています。10月7日から感染のステージは2ですが、鹿児島県はコロナの病床の使用者数も0になっています。鹿児島県にはコロナに感染している人が数字上はいない状態です。一昨日迄の鹿児島の感染者数は9104人で、1週間では今週も0人の感染者となっています。ただし、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるだろうとされています。韓国やイギリス、フランスではワクチンを打ってもまた増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達に出来ることは、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 本日は、第3週で旧約聖書から聞くということで、エゼキエル書32章を開いております。ここは、エゼキエルは29章から4章にかけてエジプトの審判預言となっています。どうして、また29章から32章の4章に渉っても、エゼキエルはエジプトの審判預言をしないといけないのか。私達は、エゼキエルの理解に苦しみます。そんなにエジプトが憎いのだろうかと言いたいです。同じ予言者でも、エレミヤはエジプト審判預言を、エレミヤ46章に1章のみとなっています。反対にエゼキエルはバビロンの審判預言をしていません。しかし、エレミヤはバビロンの審判預言が50、51章と2章に渉ってなっています。以上のようにエゼキエルのエジプト審判預言はその分量がエレミヤの2倍で極単に多く、非常に不思議な預言となっています。
 私は2つ理由があるかと思います。1つはそもそも、なぜイスラエル、エルサレムがバビロンに捕囚され、破壊されてしまったのか、です。それをたどるとやはりエジプトの干渉が上げられます。バビロンは第一次バビロン捕囚の時に、エルサレムを完全に滅ばさず、エルサレム神殿を残しました。バビロンの政策は、バビロンに恭順を示してくれれば、完全な破壊よりも既成の政治体制を用いて、治める方が楽なのです。最初からすべてを作り直すのは、時間と手間とお金がかかります。恭順であってさえくれれば、自治を認めて、管理するのがお金も手間もかからず便利です。
 このような政治的な知恵は、バビロンやペルシャから始まり、この政治体制を一番利用したのはローマ帝国とされています。バビロンの前のアッシリアは、全部殺し全部連行したりして、イスラエル12部族の内10部族は滅びました。ユダとエフライムのみが残ったのです。全部滅ぼしますので他国からの憎しみも多く、アッシリアはすぐに滅ぼされ、バビロンに交替します。宥和政策と厳格政策では、やはり宥和政策の方が長持ちするようです。教育でもスパルタ式とアテネ式があるとすれば、スパルタ式は確かに、短期決戦では戦争に強かったです。しかし、長期にどこが政治を発展させ、文明に力ある人物をだしたのかとなるとソクラテス、プラトン、アリストテレスを排出したアテネの自由方式、対話方式教育に軍配が上がるのです。

 エジプトは、エルサレムの貴族と組み、バビロンに反旗を翻させました。時のゼデキア王は、バビロンが立ててくれた政権でした。しかし、親エジプト派の貴族達にそそのかされてバビロンに反旗を翻したのです。そして頼りにならないエジプトは、本当に頼りにならず、バビロンを押しのけることは出来ませんでした。ただ、エレミヤ書37章11節を見ると確かに一時期エジプト軍は、エルサレムを取り巻くバビロン軍を撤退させたことがありました。しかし、なんというかそのために帰ってバビロン軍は装備を整えて、最強の状態でまたエルサレムを囲むことになります。エゼキエルは、このように、エルサレムを迷わせたエジプトに対して、エルサレム神殿を崩壊させた本当の犯人としてのエジプトに怒って審判預言しているといえるでしょう。
 しかし2つ目に、このエジプト審判預言は、どうもその強大な軍隊の滅びの姿からもしかしたら、エジプトの裏に隠れたバビロンがあると考えられます。予言者エゼキエルは、バビロンに連行されておりバビロンにいます。エゼキルはバビロンに真正面から批判し、バビロンの滅びの預言はもちろん抵抗預言をすることは出来ません。そんな事をしたらバビロンに直ちに捕らえられ、殺されるかもしれないのです。エゼキエルは、バビロンの敵であったエジプトを審判し、滅びを預言することで、実は自分たちを連行しているバビロンの滅びを、重ねているのでないかと思われます。

 私達は新約聖書に黙示録を持っています。これもまた、頓珍漢のチンプンカンの出来事を書いてます。しかし、実はローマ帝国の検閲をくぐり抜けて、自分の手紙をパトモス島から出して、7つの教会に届ける為でした。イスラエルの民、ユダヤ人はバビロン時代からいかにして生き、自分たちを伝えるのかを模索しています。8月頃でしたか、アウシュビッツに捕らえられ死んで行くユダヤ人達のお世話をしたユダヤ人達のドキュメントがありました。ナチスに協力したユダヤ人の人々です。この人達はユダヤ人でありながら、同胞ユダ人の殺戮の手伝いをしないと行けませんでした。しかし、この人達は自分たちの手記を残しました。同胞が皆ガス室で殺され死んでいく。そしたら自分たちが記録を残さないと誰もユダヤ人の殺戮の事実を知らないことになります。自分たちが記録を残さないと行けない。このナチス協力ユダヤ人は、なんとビンやカンカンに事実を書いた神を入れ、土に埋めます。それが最近になって収容所の回りの地面から続々でてきて、研究されていることでした。自分たちを連行しているバビロンの滅びをそのまま書くことはできない。その時どうするのか。エゼキエルは、バビロンの敵エジプトの滅びの預言に、バビロンを入れていたのでないか。それが、延々と続く4章にも渡るエジプト滅亡預言の正体でないかと思います。

 11,12節は、エジプトに対するバビロン軍の圧倒的な力の預言です。「諸国でもっとも凶暴な民」は、実はバビロンです。しかし、実はこのバビロンもペルシャに滅ぼされ支配は交替します。つまり軍事力の戦さは、次にもっと強いものが現れるとまた滅びて行くのです。アッシリアがバビロンに滅ぼされ、バビロンは次の時にはペルシャに滅ぼされ、そしてペルシャはギリシャのアレキサンダー大王を経て、ローマ帝国に滅ぼされます。エゼキエルは確かにエジプト審判預言をするのですが、それはただ力あるものが、次々に交替していく姿もでもあります。

 13、14節は、エジプトの滅びと水これはナイル川の事であろうとされます。エジプトの滅びとナイル川のエコロジーというか、ナイル川の清めを重ねています。エゼキエルがどうして、こんなナイル川の平定を預言していくのかよく分かりません。しかし、エジプトの滅びで、すべての家畜とすべての人、すべての家畜の蹄が水をつまりナイル川を濁さないというのです。14節には、エジプトが審判され、滅びた時には、ナイル川は澄んでおり、油のように流れるというのです。不思議ですが、エゼキエルは、自然の立場に自分をおき、ナイル河を濁らせたのは、人間エジプト人の飼う家畜であり、人間エジプト人であるとしています。そして、エジプトが審判される時には、ナイル川が澄み、油の様に流れているであろうと言うのです。

 そして、15節には、主がそこに住むエジプトに住む人を打つ時「彼らは私が主であることを知るようになる」と言われるのです。エジプトが打たれ、ナイル川が澄み、油のように流れるとき、人々は主なる神を認めるというのです。どういうことであるのか、よく分かりません。ただ、エジプトが打たれる時、実はナイル河が平定されるというのは、ものすごい視点であります。そして、これはバビロンにもまたそのまま当てはまるのです。バビロンが打たれる時に、やはりユーフラテス川は、澄み、油の様に流れるとなります。エゼキエルはナイル川の農業による灌漑施設や、同じくユーフラテス川の農業灌漑施設による自然破壊というとオーバーですが、それを見ているのかも知れません。
 私は地理学の先生が講義の時に「農業が一番自然に手を加えることであり、自然破壊をしているのです」と言われことを覚えます。その時は意味がわからず、なんて馬鹿なことをいう先生かと思って聞いておりました。17世紀の産業革命がつまり石炭と石油の使用が自然破壊の第1であろうと思っていました。しかし地理学の先生は、1番は人類が農業を手に入れた時で、2番目が産業革命ですとの事でした。エジプト審判をナイル川の平定に関連させることは、本当は意味不明です。今やエコロジーや生態学が言われると、どの視点にたって世界を見るのかを問われます。そしてエゼキエルは2600年前に、ナイル川からエジプトの滅びを見ていたことになるのです。

 16節は、嘆きの歌とイスラエルの葬儀の時に歌われた歌が示されます。エジプトが滅びる時に嘆きの歌が歌われるのというのです。嘆きの歌は、若い女性、娘達が歌いました。泣き女という取り方もあります。エゼキエル、エレミヤ時代において、葬儀で一番大切な務めは、泣き女達であり、嘆きの歌であったと言われています。考えてみれば、生死を司るのは主なる神であります。人間が出来るのは、主なる神のなさることをきちんと受けることであります。悲しみを表現する泣き女の務めは、非常に重要なのです。死者に対して人間ができることは、考えてみれば確かにきちんと死を悲しみ、死を心から受けとることです。

 ところでエゼキエルはエジプトの審判預言をしました。しかし私達はエジプトが今在ることを知っています。エゼキエルの審判預言は確かに、エジプトの国力の衰退預言になりました。しかし、エジプトの消滅には成らなかったのです。私達はここでエゼキエルの祈りが適えられないということを、重ねていいのだと思います。祈りを主が受けられないのはどういうことか。1つには、主が人間の祈りをそのまま受けるなら、それは人間の計画がなることであり、神様の御計画に成らないと言うことです。2つは、主は違った仕方で、祈りを成就されるということです。祈った通りに成らなくても、主は祈った目的にそって、私たちの祈りに応答されることがあるのです。
 ヨハネ伝2章にはカナの結婚式の奇跡があります。お母さんマリヤさんのが、イエス様に「ぶどう酒が無くなりました」と語りました。イエス様は、どうにもできたでしょう。しかし、主はあえて水をぶどう酒に変える奇跡をなさいました。すぐに増やしてもいいのです。しかし水からぶどう酒を造る奇跡をされ、これによって、水を汲んだ僕達はイエス様を信じることになりました。エゼキエルはエジプトの滅びを預言しました。しかしそれはそのままの形で成就でなく、小国として生き残ります。そして歴史に役割を果たしていきました。私達もそれぞれの計画があります。しかし、主は、その時は分からないのですが、私達に一番いい計画をなして行かれるのです。私達は、主の十字架の恵みで、淡々と主と教会に仕えていくのだと示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染が大夫弱まりました。どうか、守りと導きをおいてください。感謝です。備えさせてください。続けて子ども園、児童クラブ守ってください。求道者されている方、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。本日から1週間、信仰、健康、魂を守ってください。ミャンマーとアフガンに平和をおいてください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   ルカ伝18章15〜17節      2021年11月14日
        「乳飲み子までも」 ―幼児祝福式礼拝―
 本日は、主に赦されて皆様と共に集まって礼拝ができますこと感謝です。鹿児島の感染者は11月2日に1名で、後は10日間の0が続いています。10月7日から感染のステージは2になっています。鹿児島県は、コロナの病床の使用者数も0になっています。つまり今、鹿児島県にはコロナに感染している人が数字上はいない状態です。一昨日迄の鹿児島の感染者数は9104人で、1週間では1人の感染者となっています。ただし減少の原因がわからないそうです。大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると又増えるだろうとされています。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達にできることが限られております。
 感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 本日は、幼児祝福式礼拝として守ります。本日は昨年もそうでしたが、1家族2名の方が受けてくださいました。子供達の健やかな成長は、宗教と関係なくすべての人の願いと祈りだと思います。しかし、聖書は新約2000年の歴史と旧約ヘブライ聖書部分をいれるとまさに4000年の歴史をもって、さらに天地創造のところから言うと130億年の長さにおいて、子供の成長を祈り、願ってきたのだと思います。本日は幼児祝福礼拝で用いられるルカ伝18章のイエス様の子供の祝福の所から聞いて行きます。

 ルカ伝18章のイエス様の子供の祝福の出来事は、書いてあるようにその直前には「ファリサイ派と徴税人」の譬えが入っております。そしてなんとこの直後には有名な金持ちの議員の話が入っております。ファリサイ派という当時では立派とされていた宗教的な権威の方とイスラエルの国会議員、この前日本でも衆議院選挙がありましたがまさにその国会議員さんの話の間に、この子供の祝福の話しは入っているのです。結論からいいますと直前の話しでは、当時の宗教的な権威であるファリサイ派の人は神の国・天国に入れず、この直後の国会議員もまた、天国・神の国に入れないとなっております。そして、なんと本日の子供達が、子供のようにならないと神の国・天国に入れないとされ子供が模範として、天国・神の国の突入が約束されているのです。
 私達は、この宗教的権威のファリサイ派と政治的な権威の議員さんの間に、小さいまた乳飲み子と乳幼児がいる話しの仕組みに、聖書すごさを感じます。これは明らかに対比法というか、子供・乳児達の天国・神の国入りをはっきり明確に告げているということができます。そして、私達大人が天国・神の国に入るには、ただただ子供のようになるという事が、示されているのです。

 15節にあるように、突然のごとくこの出来事は起こりました。「イエスに触れて頂くために、人々は乳飲み子までも連れてきた」とあります。いつ頃のことだったのか、聖書には手がかりがありません。人々はおそらく乳飲み子とあるので親でありましょう。親たちが一斉にイエス様を見付けて、連れてきたのでありましょうか。子供を持つ親たちが、イエス様に回りにいる時期というのは、何か祭りでもあったのでしょうか。19章ではすでにエルサレム入場があります。ここは過越祭の前の時期でありましょう。地域によっては、小さい前準備の祭りを持って過越祭に備えたのでありましょうか。人々は、幼児・乳飲み子をイエス様のところに連れてきました。不思議なことに、この人々がなぜ、イエス様の元に乳飲み子を連れてきたのか、理由が書いてありません。実はマタイ伝19章、マルコ伝10章に平行箇所と言って同じような事を報告した記事があります。これらにも実は理由が書いて在りません。理由がないというは、当たり前過ぎて説明する必要がなかったのでしょうか。

 色々想像をたくましくするとイエス様時代は、乳児死亡率は30%であったろうと言われています。10人子供が生まれると1才まで育つのは7人となります。さらに当時は青年になるまで大きくなる率が、60%であったろうと言われています。乳児の時に3割が亡くなり、さらに16才までに6割が亡くなる。つまり10人の子供の内、16才になれるのは、4人くらいだった事になる時代になります。これは、当然子供を生んだ母にしても父親にしても、神頼みしたくなるのは当然でありましょう。何か、有名な人や神的な力のある人が来られたら、祈ってもらい、手をおいて頂き、安全や守りにあやかるのは、無理のないことであったでしょう。日本もまた子供の祝福式でもある7・5・3の行事は、確かにそれは、元は神社の神道かも知れませんが、神道以前の原始的な親の思いともいえるでしょう。

 ところが、人々おそらくは親たちが、子供を連れてイエス様のところに来たのですが、そこに12弟子達がいて、なんとこれを見て叱ったというのです。これもまた、何で叱るのかと思います。しかし、これもまた理由が書いてないのです。聖書は不思議なことに、この子供の祝福の場面において、親たちが連れてくる理由を書かず、また弟子達が、連れて来た親と子供を叱る弟子達の理由を書かないのです。つまり、聖書は、読む人の想像力に委ねるというか、先ほど言いましたように、もしかして当然のことだったのかも知れません。
 私達はこの出来事の2000年後にいますので、すぐには理由が分からないのですが、想像するに幾つかのことが浮かびます。まず、イエス様は多くの人々に神の国を伝え、病気を癒し、奇跡をなす権威ある方でした。そこに礼儀もわきまえない、子供達ここでは乳飲み子になっていますが、これが連れて来られる。これは、イエス様の権威もがた落ちです。衆議院選挙でも、高校生くらいまでは手を握って挨拶する候補者がテレビに映りますが、幼稚園や小学生の手を握っている議員さんはいるのかもしれませんが、テレビはまず映しません。選挙においては幼稚園や小学生、中学生は論外です。
 またもしかしたら、イエス様は次の場所に急いでおられたのかも知れません。しかし次の場所もまた、実は金持ちの議員さんに引き留められて、天国、神の国、永遠の命にはいる方法を聞かれています。ですから結果的にまた引き留められたのです。しかし、弟子達としては、次の場所に移動するこの忙しい時に、子供や乳幼児に係わっておれないというのがあったのかも知れません。またもしかしたら、これは余り考えられませんが、子供達が余りにもイエス様の近くにあり、自分たちもあんなに近くにイエス様に側におれないのにと嫉妬したというのもあり得ます。とにかく、弟子達は連れて来た親と子供・乳飲み子達を叱りました。

 16節にはしかし、とんでもない逆転が起こります。なんと弟子達は親と子を叱って遠ざけたのですが、イエス様は違ったのです。「子供達を私のところに来させなさい。妨げてはならない」と言われるのです。ここは強い否定構文で書かれております。「そのままにしろ」でもいいですし「邪魔するな」とも訳せます。正直言って弟子達の面目は丸つぶれです。「まあ、まあ、そう厳しくするな。来たらいいのだ」くらいでよさそうです。しかし、イエス様は直訳形で「子供達を来させよ、邪魔するな」と言われたのです。ちなみに昔の口語訳は「止めてはならない」となっていて、今の共同訳は「妨げるな」ですので、今の共同訳の方が強い訳かもです。
 そしてこの箇所では唯一理由が続くのです。実は、共同訳聖書は訳出しませんでしたが、原文には「妨げてはならない」と「神の国はこのような者たちのものである」の間に、きちんと「なぜならば」と入っています。つまり、なぜ親たちが子供を連れてきたのか、なぜ弟子達はそれを叱ったのかの理由が書いてありませんでした。しかし、イエス様は子供達を自分の所に来させるきちんとした理由「なぜ」がありました。それは「神の国はこのような者たちのものである」ということです。

 すごいですね。これはそのまま書いてある通りなのです。神の国は子供のもの、つまり子供の所有と言っていいでしょう。ここで私達は、自分の子育て体験を持ちだして、何言っているか。幼児・子供だって悪いことをするぞ、トンデモないことをする子がいるぞと、いくらでも反論されそうです。特に兄弟姉妹があるところは、いろいろな体験をお持ちでしょう。私のところは2人姉妹ですが、どうしてそうなったのか。姉が2、3才だったと思います。妹が生まれるとしばらくして、姉が物差しで寝ている妹を叩いていることがありました。まだ歩けるようになったばかりの姉が、物差しをもって、赤ちゃんを叩くのは、自覚がないと思いますが、何か、あったのかよくわかりません。しかし、こういうことはあるのだと思います。しかし、ここでイエス様が言われたのは、もっと心の中の深いことでありましょう。

 17節に続きますが、それは「子どものように受けいれる」ということです。子供は確かに時として罪深いことをします。しかし、受け容れる時は本当に受け容れるのです。それは知識がない、体験がないとかいろいろ理由はつくでしょう。しかし、その受入は徹底しており、時に犯罪に巻き込まれてそのまま命を落とすことさえあります。でも、イエス様は言われるのです。「神の国、天国はこのような(つまり子供、乳飲み子)者たちのもの(つまり所有)です」。子供達は神の国をもっているのです。
 17節には、さらにイエス様は、将来のことを言われます。今、子供達は神の国・天国を受けている、所有している。さらに未来、将来につまり私達が主の召される時に、子供のように神の国を受けて入れているのでなければ、入れないといわれるのです。私達はこの年になって、子供に学ばないといけないのです。

 ローマ書9章16節に「従って、これは人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです」とあります。救いは最終的に神の憐れみに係っているのです。私達は救いを自分の努力や修練や修業の結果にすることはできないのです。つまり、最後まで謙遜に係るというか、低くなって受けることにかかっているのです。まさに救いの受領は子供と同じなのです。この前ふらっと本屋さんに寄るとEテレの「100de名著」9月号がヘミングウエイをしていたようです。早速テキストを買って読みました。あのキューバの老人の漁師さんが一双の子船で巨大なカジキを苦労に苦労して1人で釣り上げて、港に帰るまでに、全部鮫に食われて骨だらけになってしまった物語です。たったこれだけのたった一つの短編小説でノーベル文学賞をとりました。この小説は「叩きつぶされても負けない」ことを、人類に示していると評価・解説されていました。
 私はこれを読んでいて、これは十字架のイエス様のことでないかと重ねました。イエス様もまた「叩きつぶされても負けない」姿ではないでしょうか。そして、何かができる大人でなくて子供、女性、病人、貧乏な人、虐げられている人が救われる道を開かれたのです。子供のように神の国、天国を受ける時に、そこに入れる道をイエス様は備えてくださったのです。ただ一方的な神様の恵みだったのです。感謝です。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染が大夫弱まりました。どうか、守りと導きをおいてください。感謝です。しかし第6波がくるそうです。備えさせてください。続けて子ども園、児童クラブ守ってください。求道者されている方、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。幼稚園ではクリスマスの準備をしています。今年はどうか、できるように、守り導きください。本日から1週間、信仰、健康、魂を守ってください。ミャンマーとアフガンに平和をおいてください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  ヘブライ書11章13〜16節   2021年11月7日
             「 天の故郷を熱望 」 
 本日は、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。10月3日から礼拝・祈祷会が集まってできています。鹿児島の感染者は0の日が多くなりました。10月7日から感染のステージは2になっています。一昨日の鹿児島の感染者数は9104人で、1週間では1人の感染者となっています。ただし減少の原因がわからないそうです。大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると又増えるだろうとされています。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達にできることが限られております。感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 本日は例年であれば、召天者記念礼拝として守る日でした。召天者の関係御家族は残って頂き、女性会で作って頂いたいつものちらし寿司を、一緒に会食しているところでした。しかし、執事会では今回までは、食べることはできないであろうと中止としました。この召天関係者の食事は楽しみにしておられる方があるのですが、やむを得ないところです。会食の時に、御家族や関係者の方から、生前のお姿やエピソードを聞くことは、いろいろなことで、その方の姿が偲ばれて、新しくそんな面があったのかといろいろ教えられることでもありました。
 確か、ドイツの哲学者のヤスパースでしたか「亡くなれた方のことを、よく知り、よく思い出すことが、生きている人が自分の人生を充実して生きる術である」という意味のことを言っておりました。死を思って生きることは、なんだか悲しみに包まれ萎縮してしまい、よい人生に成らないと言う方もあるでしょう。しかし、ヤスパースは、先に亡くなった方の生き方を知り、よく思い起こすことが、生きている人の良き人生に結びつくというのです。それは、あるのだと思います。私も父母を亡くして、母は10年、父は3年になりました。そんなに経ったかなと思います。段々記憶が薄れますが、しかしちっとも忘れないところもあります。

 くだらないことを思い出しまして、母は、私がポイとお菓子のゴミを捨てていたら、「道路はゴミ箱でない。拾いなさい」とまた拾って持ち帰らされたことをフッと思い出すのです。私は掃除がへたなのですが、なぜか思い出します。また父は、小学校の先生でしたが、中学は理科と技術家庭科目の免許を持っていて、何事も実験して確かめるところがありました。やってみないと信じないところがあって、これもまたフッと思い出して、一人でクスクス笑ったりしております。

 教会では、この4年間に7人も召天されていかれました。教会のあちこちを触り、動かす毎に、これは萩原さんの指示、これは橋口さんのもの、これは山足相子さん、出籠さん、吉永さん、右田さんと思い出されます。小澤さんのお葬儀の時には、親戚の方がここでの58年前の結婚式の写真を持って来られ、当たり前ですが58年前の講壇と今の講壇と全く同じであるのに、不思議な感覚を持ちました。良く生きるためには、亡くなった方のことをよく覚えることだというは当たっていると思うのです。

 さて、聖書は召天記念式でよく用いられるヘブライ書11章を開きました。ここは、すでにご存知の通りです。著者は先に亡くなった方をアベルからエノク、そしてアブラハム、イサク、ヤコブそしてアブラハムの妻サラまで上げています。そして13節から16節にかけて、一端まとめる形で、本日の箇所でアベルからアブラハムの族長達までのその生きてきた意味を省みています。17節からは、アバラハムとイサクの信仰、モーセの信仰、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者達のことを、書いて行きます。改めて神様の歴史は、こうして引き継がれており、このイスラエル民族を通して救い主イエス様が現れてくださり、十字架と復活をもって、私達、全人類の救い道を成就してくださいました。
 そして現在もまた世の終わりに至まで、いわゆる使徒言行録が書かれているのであります。私達は日本のその南の鹿児島で、罪にまみれつつも、イエス様に導かれ、聖霊に導かれて、使徒行伝、聖霊行伝を今も書き、紡いでいると言えるのです。

 13節には「この人達は皆、信仰を抱いて死にました」とあります。私達は生まれたら死んでいく存在です。生を与えられた者は、主によって帰って来いと言われる日がやってきます。長い方、短い方ありますが、確かなことは言われる通りに、必ず迎えの日は来ることです。人間の目によれば、充実した人生を歩まれたように思える方、短すぎてそうとも言えそうに無い方があります。しかし聖書は、これらの神様を信じて生きた人達を「約束されたものを手に入れない人生」であったと総括しています。ちょっとかわいそうで酷ではないかという人もあるでしょう。約束された者を手に入れない人生とは、中途半端で、未完成の人生でないかと言われそうです。
 しかし、ヘブライ人の手紙の著者は、この信仰をもって死んだ人達は、遙かにそれを見て喜びの声を上げ、自分達は、地上ではよそ者で、仮住まいのものと告白していたのだとします。このよそ者で仮住まいですが、前の1955年訳の口語訳聖書を思い出される方は「旅人で寄留者である」となっていました。正直言うと前の口語訳の方が、まだしっくりきます。主を告白しているキリスト者はこの世では「旅人、寄留者」なのです。ですからこの世に深入りできません。旅人はいつかその場所を離れるのです。いつまでもそこにおれないのです。寄留者に至りては、自分の基礎、基盤がそこになりのです。本籍はここにあらずなのです。

 今は本籍よりも現住所が大切です。しかし、意外と本籍が大事な事があります。10年くらい前になりますか、求道者の方で関東からこちらに引っ越されて来ました。自分の本籍は鹿児島があるが、娘は生まれたところが関東で、関東が本籍になり、鹿児島に何もとっ係りがなくて、就職がなかなか難しく、とうとうまた関東に戻られた方がありました。時々、思い出して何かよい方法がなかったかと思います。

 14節に「自分の故郷を探し求めている」とあります。人間は、生まれたところを求める以上に、心の古里というか、自分のしっかりした心の故郷、基盤が必要なのかも知れません。ハイデガーだったと思いますが、現代人は「故郷亡失」しているという考え方を提唱した人がいました。現代人が、近視眼的になり、イライラしており、利己心が極端に大きくなり、愛がなくなりつつあるのは、心の本当の故郷を失った状態かもしれないというのです。
 15節には、族長達アブラハム、イサク、ヤコブの故郷が「出てきた土地のことを思っていたら、戻るによい機会があったはずだ」としています。アブラハムはご存知、バビロンの地、当時はカルデアといいましたがウルという土地から出発しました。11章8節に在るとおりです。「自分が財産として受け継ぐ事になる土地に出て行くように、召し出されると」なのです。ここには「行き先を知らずに出発した」とあります。通常は、行き先も知らずに出発しないのです。この時、アブラハムは、行き先を知らずに主の召しに従いました。私達は時としてこういうことがあるのだと思います。どうなるか分からないけれども、やってみないとわからない。保証がないけれども、進んでみないと分からない。特に信仰はそうでしょう。そして、誰でも知っているようなことでも、実際はやってみて、向こうから問題や課題が来て、これと取り組むことしかできないことがあります。特に親は、子育てに関しては、その成長の過程で、子供に対して持つのは、失敗するかもしれない。けれども自分で選んで、自分で責任を持って、その方向に行きたいというのであれば、それはもう親からは半分以上駄目のようであっても、頑張れと言うほか無いということです。「戻るに良い機会があったはず」というのは、いつでもカルデラ、バビロンに戻る機会があったはずと言うことです。親の場合は、いつでも帰ってこいという立場だと思います。

 16節にしかし、アブラハム、イサク、ヤコブは、カルデラのウルには戻りませんでした。地上の故郷には戻らなかったのです。なぜなら天の故郷を熱望したからとあります。そして、この天の故郷は、地上の故郷よりもさらに優った故郷だったのです。天の故郷とは何かです。ここには、はっきりとありません。しかしおそらく、天の故郷とは、神の御心がなる故郷・神の国であるところでしょう。イエス様の主の祈りに「天に御心がなるごとく、地にも成させたまえ」と祈ります。この神様の御心になるところ・神の国は、どこでもアブラハム、イサク、ヤコブにとって、天の故郷だったのではないかと思いのです。
 もっというと、天の故郷は、主の十字架と復活の場所ともいえるでしょう。もっというと神の愛が成されるところともいえるでしょう。もっと言うと神の肢体、神様の部分として、主の愛に自由に、心から仕えるところとも言えると思います。面白いことに、ここには今度は「神が、彼らの神と呼ばれることを恥としない」とあります。普通は、ローマ書1章16節にあるように「私は福音を恥としない」という言い方をします。恥とするのは、人間が主語です。人間が有る出来事、ある者に対して恥となる、恥とならないと言うのが普通の使い方です。
 しかし、ここでは、神様が彼らの神とされることを恥としないと反対になっています。本当にすごいことだと思います。神様は、ご自身がアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれることを恥とされなかったのです。アブラハムはちっとも完全な人間ではありません。アブラハムはゲラルの王アビメレクに妻のサラを妹と言って、嘘をつき差し出しました。創世記20章です。イサクも然り、ヤコブに至りては、この人は、兄のエサウよりも狡猾です。ヤコブが兄エサウを騙して、長男の特権を奪うところは、これが信仰者であるのかと言いたいです。しかし、どうしてヤコブが選ばれて、エサウが捨てられるのか。人間の判断ではよく分からないところがあります。ただ、はっきりしているのは、人間的な弱さがあり、多くの罪があり、失敗が多いです。しかし、徹底して、主なる神様からこの3人は離れないのです。失敗しながら罪を告白し、間違いながらも、主に従い、聞き従っていくのです。またか、またか、これでもかこれでもかと主に従っていくのです。

 「神は彼らの神とされることを、恥じなかった。」これはある意味で十字架の神のことだと思われます。十字架に罪を赦し、弱さを負われた神様は、アブラハム、イサク、ヤコブの神、私達の神とされるのを恥と思われなかったのです。私達がどんなに失敗しても、主なる神さまはそれを恥とされないのです。主は、むしろ私達が主イエス様から離れることを、もっともお嫌いになるのだと示されます。先に召された方々の歩みを、思う時に「神は私を恥とされない」を改めて示されることです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日は召天者記念礼拝ではありませんが、召天者の名前を覚えて祈りました。コロナ感染が弱まっています。感謝です。しかし第6波がくるそうです。備えさせてください。子ども園、児童クラブ守ってください。求道者、病気と闘う方、ご高齢の方、伴侶を亡くされた方支えてくさい。11月にはいりました。どうか、守り導きください。本日から1週間、信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  エゼキエル書31章10〜14節   2021年10月24日
             「 驕り高ぶった 」 
 本日は、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。10月3日から礼拝・祈祷会が集まってできています。鹿児島は先週は感染者0の日が多く、主の守りの中、大夫第5波の感染は治まりつつあります。10月7日から感染のステージは2になっています。一昨日の鹿児島数は9099人で、1週間では5人の感染者となっています。1日1人以下となりました。先週は4日間感染発表が在りませんでした。
 ただし減少の原因がわからないそうです。大方の見方はワクチンの接種だろうと思いますが、そう簡単でないそうです。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達にできることが限られております。感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいました。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて本日は第4週ですので、いつもでしたら、バプテスト連盟の聖書教育誌の本日の箇所から聞いております。しかし、今回は第3週が村上先生宣教になりましたので、1週ずらしてエゼキエル書31章を開き、聞いていきます。エゼキエル書は、一ヶ月に一度は旧約聖書から聞くという方針で、1回1章のやり方で聞いております。エゼキエル書は旧約聖書の中でも難しいとされる預言書となります。そして大予言者の中でイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルと続きますが、エゼキエルが一番難しいとされています。しかし、反対から考えると難しいエゼキエルを読めれば、後はなんとかなるという取り方もできます。イエス様のたとえ話でマタイ伝12章29節「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を略奪することができようか」とありました。余り当てはまってない譬えですが、一番やっかいな聖書を読み解ければ、後はなんとか分かるのでないかと言う事ができます。

 さて、エゼキエル31章は29章から31章の4章に渉るエジプトのファラオに対する審判預言となっています。私達はどうしてまたエゼキエルがその預言において4章にも渉って、イスラエルではないエジプトの没落を預言しないといけないのかと思います。その答えは実際にはよく分からないのです。しかし、預言者の信仰は天地を創造された主なる神の信仰であり、預言者にとってイスラエルのみならず、すべての国の出来事が、神様の出来事であり、預言となるということです。何でもかんでもというと語弊があります。しかし、主が天地の創造主であれば、やはりすべてのことが神様の教えとなり、神様の導きとなり、神様の業となります。神様は自然界、歴史や人間界及び目に見えない霊界のすべてを用いて、主の御計画をなさり、導かれるということになります。
 本日読みませんでしたが、31章1節にはこの預言の日付が入っています。第11年3月1日とあります。エルサレムの陥落が、エレミヤ書52章6節に同じ第11年の4月9日に都の一角が破られたとありますので、まさにエルサレム神殿の破壊の1ヶ月前の出来事となります。ここもまた私達はどうしてこんなギリギリのエレサレム神殿のバビロンにおける破壊の1ヶ月前に、よりによってエジプトの破滅預言が必要かと思います。これもよく分かっていません。しかし、エジプト破壊預言がエルサレム破壊の1ヶ月まえであったということは、ある意味でエジプトとエルサレムの審判預言が、実は背後で繋がっているのでないかとも言われています。
 エゼキエルはエジプトの審判において、実はエルサレムの審判を重ねてなし、エルサレムの審判預言をしているようでいて、実はエジプトの審判預言をしているとも言えるのです。それはエレミヤ50,51章のバビロン審判預言が、実はエルサレムの審判でもあり、同時にエジプト審判預言でもあるとして聞くこともできるのでないかと思います。つまり預言書は、第一義的な意味がもちろん大切ですが、同時に2重3重にその意味をかけて預言している言うことができます。

 10節から聞いていきますが、ここにはエジプトが神の審判を受ける大きな理由が示されます。それはこれまでも何度もでてきますが、心の「驕り高ぶり」です。聖書は特に預言者は、この人間の最大限の罪である驕り高ぶりについて、何度も何度も警告します。エゼキエルは25章から33章の9章に渉って諸国民の審判預言をしていきます。その中で一番の審判理由はアンモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ティルス、シドン、エジプトと7つの国がありますが、ほとんどが高ぶりです。27章3節にティルスはいいました。「私は美しさの究み」、28章2節でもティルスは言います「私は神である」。こうして、本日の31章10節もまた「心は驕り高ぶった」と言うのです。
 驕り高ぶりと審判はある意味でいつも一緒にあると言えます。これは私達人間のどうすることもできない罪の原罪の現実なのだと思います。自分で自分のことが分かったつもりなのです。実際に分かってはいるのです。しかし、分かっていてもやはり犯してしまう罪なのです。パウロはローマ書7章に自分の罪の姿を書いています。7章15〜18節です。「私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするのです。・・・私は自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意思はありますが、それを実行できないからです」と書いています。誇り高ぶりは、滅びに先立つと知っていても、分かっていても、そうなってしまう私達の現実、罪の姿があるのです。

 31章のエジプト審判預言は、ストレートに審判の預言をするのでなく、またすでに滅びてしまったとして、死者を悼む哀歌形式の審判でもありません。エゼキエルの31章の審判預言は、当時パレスチナでもっとも良い木、最も素晴らしい木とされたレバノン杉の倒木の譬えの預言となっています。日本的に言えば縄文杉の倒木といったところです。なぜそうしたのかよく分かりません。しかし、当時の聖書の回りのバビロンやウガリット、また古代ゲルマンの古代神話には、世界樹木とされる神話が一杯あったそうです。その世界樹木という神話では、世界樹木は地の底に根を伸ばし、天の宇宙に枝を伸ばし、どんどん成長して、すべての生き物を包み込む樹木でした。
 その片鱗は13節にもあります。「彼の倒された幹には、空の鳥が住み、若枝の元には、野のすべての獣がやどる」とあります。これは倒れた木でもそのような力があるということを語ります。倒れた木でもその位の力があるのですから、倒れていない世界樹木は、本当に多くの動物植物を育み、すべての鳥、すべての野の獣が宿るのです。本来的には、エゼキエル時代の世界樹木の神話では、切り倒されるのはないでそうです。しかし、聖書では、主なる神さまが最高の権威と力と全能を持たれています。歴史の主であられます。すべての生物を生かし、野の獣、空の鳥、全生物を生かす木であっても、もし、その木が「驕り高ぶる」ならば、斬り倒されるのです。

 11〜12節はその倒れる時の姿です。主は、その木をつまりエジプトを、諸国の最も強い者に渡されます。12節には「諸国のもっとも凶暴の民である異国人が彼を切り倒す」とあります。この時は、この最も強い者とはバビロンのネブカドネザル王となります。主は、異教徒であるバビロン王、ネブカドネザル王を自分の僕、道具として用いて、エジプトを審判すると言われるのです。エゼキエルのこのエジプト王ファラオに対する審判は、イスラエル、エルサレムを破滅させた事実が大きいと思います。何度も語りますが、バビロン第1次捕囚の時、バビロン帝国は、エルサレムを残したのです。王や貴族や上流階級の人を連行してバビロン第一次捕囚をおこしました。しかし、完全な破壊はしなかったのです。それはゼデキア王を傀儡政権として残し、自治を認めるが、バビロンに恭順さえ示してくれれば、その自治を任せる統治をしていました。このままでイスラエルは生き残れたのです。

 しかし、最後の王ゼデキヤは、エジプトを頼り、無謀な反乱をバビロンに対してしてしまったのです。頼りにならないエジプトを頼ってしまったのです。歴史の判定は難しいです。なぜ、イスラエル、エルサレムは、反乱を起こしてしまったのか。しかも、かなり無謀な反乱をしたのか。ここには預言者エレミヤも語っていますが、エルサレムの不落神話であろうと言われています。神の都エルサレムは難攻不落であり、主なる神さまが守っておられる。従って最終的にはエルサレムは滅びないという信仰です。しかしこの素晴らしい信仰の陰で、実は搾取や虐げ、無実の人の血が流れていたのです。エレミヤ22章3節「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げられているものの手からから救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの血で無実の罪を流してはならない」。神の契約が守られ、民が主なる神に仕え、偶像礼拝を避けて生きているなら、難攻不落の信仰は意味があります。しかし、難攻不落に胡座を決め込み、貧しい人から搾取し、無実の人の罪を流し、外国人、孤児、寡婦を苦しめているエルサレムに、主は守りをおかれないのです。むしろ、主はご自身の計画を遂行する道具を、異教の民から起こされるのです。異教の国から異教の王から起こされるのです。エルサレムは主なる神さまの契約を守らなかった、自ら捨てた。だから滅びに渡されました。
 エジプトのすごさは、今でも海外旅行番組はほとんどエジプト関連です。この前も、またエジプトで新しいミイラや王の墓の発見があったとして、放映されていました。エジプトが世界樹木として、譬えられるのは当然かもしれません。しかし、エジプトの滅びは、確かでありもはや世界を導く国ではなくなりました。その根底に「高ぶり」があったのです。誰にでもある小さい「心の高ぶり」が、しかし実は、あの歴史と文明を誇る国を、陥落させて今はもう考古学の対象の国にしてしまった。これはいったいどういうことでしょうか。

 ある方は「キリストの十字架が、世界樹木である」といいました。つまり本当にすべての生き物に命を与え、生物に力を与え、生きる希望を与える世界樹木だというのです。キリストの十字架は私達の罪の贖いの十字架であり、神の御子が殺された所です。主の十字架は「我が神、我が神、なぜ、私を捨てたのですか」と死んで行かれたところです。私達の弱さがもっとも示されるところです。しかし、この十字架を見上げる時、私達は、罪を示され、赦しを示され、悔い改めを示され、また新たに生きる希望を与えられのです。十字架を受けたイエス様は復活されました。私達もまた、十字架を見上げて、聖霊に励まされて、復活へと導かれます。エジプト大帝国が、考古学の国となった。その原因は誰にでもある、どこにでもある「驕り高ぶり」であった。エゼキエルの預言から私達が示される大きな教えであり、悔い改めの示しです。私達は十字架の主のみ前に高ぶりを捨てて、歩むことを示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染5波がなんとか収束しつつあります。感謝です。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、伴侶をなくされた方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。先生方、子ども達、どうか感染が起こらないように、守ってください。又ミャンマーの平和をみ手においてください。アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  黙示録9章13〜21節       2021年10月10日
             「 悔い改めなかった 」 
 本日は、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。10月3日から礼拝・祈祷会が集まってできて感謝です。神様の守りにおいて、いよいよ第5波の感染は、治まりつつあります。いつものコロナの感染者数をみますと、警戒ステージは3から2になっています。鹿児島県HPによると県外からは沖縄と大阪以外は誰もでもいつでもお出でくださいの状態です。毎日報告される感謝数もこの1週間はいつも1桁です。一昨日の鹿児島は9071人で、なんと1週間で13人の感染者となっています。1日平均2名ということになりました。鹿児島県は自宅療養の方はいないそうです。
 ただし減少の原因がわからないそうです。私はワクチンの接種だろうと思いますが、そう簡単でないそうです。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。私達にできることが限られており、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞いてくださいましたので、続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第2週ですのでいつものように12使徒の手紙から聞くという方針でヨハネの黙示録9章を開いています。黙示録は手紙で無いという方もあるかもです。しかし3章までは手紙であり、全体は長老ヨハネの見た幻の手紙の延長ということができるでしょう。本日は第6の天使が第6のラッパを吹き、それに答えて地上でおこる出来事が示されています。すでに何度も語りますが、黙示録は奇想天外であり、本日も人類の3分の1が殺される幻で、これが聖書の福音かという方があるでしょう。しかし、長老ヨハネは、エーゲ海のパトモス島に幽閉されております。キリスト教はいよいよ2世紀に突入し、ローマ帝国からの組織的な迫害が待っており、一部は始まっています。黙示録というすぐには誰が読んでも分からないという手法をとったのは、手紙がローマの官憲の検閲を逃れるためです。

 神様は黙示録という奇想天外な書物を通して、1世紀から2世紀に移るキリスト者達を励まされ、迫害に備えさせられたのです。もしかして私達の中には、現代は平和だし、こんな分けのわかない黙示録を読み解く必要があるのかという方もあるでしょう。しかし、平和そうな現代ですが、ミャンマーは事実2月1日から8か月以上のクーデターが今も続き、反対する市民の方の犠牲は1200人を越えたと言われます。国分のマウマウタン先生の神学校の後輩の方も射殺されました。又アフガンもある意味で突然のアメリカ軍の撤退でありました。台湾も10月1日の中国の国慶節からずっと中国戦闘機の侵入が続いていると言われています。黙示録は難しいので読まなくてもいいという方は、ある意味の平和ボケかもしれないのです。長老ヨハネが神様から黙示で語られたことを聞くように、私達も一見平和ですが、突然の迫害や危機がいつ始まるかもしれないと誰が否定できるでしょうか。1日1日を、聖書を聞きつつ生きていく、主の恵みを確認しつつ1日1日を生きるということです。

 13節にあるように長老ヨハネは第6の天使の第6のラッパを聞きました。すると神のみ前にある金の祭壇の4本の角から声が聞こえました。なんで金の祭壇の4本の角から声が響くか、と言いたいです。もちろん詳細は分かりません。しかし、黙示録8章3節にて、聖徒達の祈りは、金の祭壇に献げられていたとあります。ここに、金の祭壇があるのは、この第6の天使の第6のラッパの音は、聖徒達の祈りの結果であり、聖徒達の祈りの応答であったと示しているのです。ですから、14節にこれからユースフラテス川のほとりに繋がれた4人の天使が解き放たれ、15節に人類の3分の1を殺すのは、確かにこんなことが福音かと言いたいです。しかし、確かなことは意味が分からなくても、どういう事態が起こっているのか理解ができなくても、なお、これは聖徒達の祈りに答えた主なる神様、小羊イエス様の応答であるということです。

 15節の後半には「天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていた」とあります。これも、金の祭壇と同じく、すべてのことが、神様の御計画の中にあり、神様の支配の中にあるということです。究極的には、ローマ帝国がどんなに迫害の手を伸ばしても、悲惨な迫害が展開されても、なおそのことは神様のみ手にあるのだと、長老ヨハネは神様の幻を通して、キリスト者達に言いたいのでです。
 すでにコロナ感染におきましても、なぜこれが起こったのか。中国説があります。また気候変動説があります。コロナウイスルを持っているコウモリに人間が接触したからという説もあります。しかし、私はノーベル賞の山中伸弥先生が言われたことが一番ピンときます。先生は「これは、人類がパンディミックがあるということを、忘れたことへの警鐘です」といわれました。これが一番だと思います。何でもかんでも人間が好き勝手に、人間の思うままに発展すればいいのでない。自然を支配したつもりは間違っている。自然は、私達の知恵や理性より遙かに上なのです。
 旧約聖書には、共同訳聖書では疫病が65箇所ほど出てきます。実は元々の疫病のヘブライ言語が2つあるので口語聖書、新改訳聖書、共同訳聖書ですべて数が違っています。共同訳聖書は、病気と訳して疫病としていないところがけっこうあります。おそらく70回以上ありそうです。しかし、私達は疫病について、それは完全に昔の話しとしてきたのです。中世から近代にかけて疫病はペストであり、ペストはネズミを媒介とするペスト菌の原因が分かると対処が出来るようになりました。しかし、当教会のメドリング宣教師が、1919年のスペイン風邪で突然亡くなられているように、疫病のパンディミックはスペイン風となり、次々と手を変え、品を変えて出てくるのです。今回のコロナが次々に形を変えるのが象徴的です。私達は、突然のパンディミックが来ることがある。自分の思う通りにこの世はならない。あまりにも大雑把ですが、しかし、大切な視点を教えらえるのです。

 16〜19節は、ユーフラテスから放たれた4つの滅びの天使が行う審判です。騎兵は2億です。当時は、もちろんいくらローマ帝国でも2億の騎兵を使うことはありません。そもそもこんな数の騎兵はあり得ませんし、使えません。騎兵の乗る馬が火と煙と硫黄を吐きます。何だか、ゴジラの怪獣映画かというところです。それに対応して騎兵は胸当てがやはり3種類あって炎色、紫色、硫黄色の胸当てを付けています。18節には、人間の3分の1が殺されるというとんでもない記述です。19節には、馬には確かに尾がありますが、この馬はその尾が蛇にようになっていて、頭がついていたようです。尻尾の先に蛇の頭のようなものがついた馬というのは、かなりグロテスクな馬になります。
 全体のとしては、これから起こってくるローマ帝国の迫害の要約ということになるでしょう。現代風に読み解くならば、火も煙も硫黄もイメージとしては暑さをもっていますので、これからやってくる地球温暖化の預言でしょうか。人類の3分の1の殺戮はあり得ないでしょう。これはオーバーだとなります。しかし、海面上昇は、確かに今の人々の住む場所は確かに使えなくなるのです。もし、鹿大病院を作る時に見つかった桜ヶ丘の貝塚まで海面が上がるとなるとこれは大変です。自分が生きている時はそうならないとしても、子供や孫の代はどうなっているのかです。

 20〜21節は、これらのことが起こった時の生き残った人類の姿です。読んで分かるとおりに、こんな酷いことが起こっても、2回繰り返される言葉は、生き残った人々は「悔い改めなかった」です。実は、第6のラッパとその応答の教えの目標は、この最後の2節であろうとも言われています。それは、人間は災いではつまり恐怖や恐ろしさや傷みでは、悔い改めないのです。そんなことがあるか。人間はなんやかんや言っても、恐怖と恐ろしさ、自分の死を突きつけられれば、どんな理不尽なことも、威圧者、為政者の言うこと、命令を聞くはずだと思うかも知れません。しかし、そうならないのです。
 教育の分野でいうと確かに中学くらいまでは力の教育ができるかも知れません。なんやかんや言っても、お父さんの力、力の強い教師の力で言うことを聞かない子を押え付けることができるでしょう。しかし、その子が高校になり、さらに自分で独立した時にどうなるのか。自分で自分をコントロール出来ないことが、ただ順番に上に上がっただけになるのです。余りにも威圧的な教育、威圧的な家庭はその時は非常に旨くいく家庭です。しかし問題はそこからです。あんなに良い子だったのにでなく、むしろあんなに良い子だったから、大人になって問題になり、問題を起こしたのです。
 信仰でいくと、よくいわれるやくざ伝道です。信じなければ、地獄に行きます。信じ無ければ、不幸がきます。信じなければ、お金が逃げていくのです、という伝道スタイルです。これで信じた人も確かにいると思います。神様は、どんなことでもご自身の御計画に用いてくださるでしょう。しかし、これでは福音にならないのです。
 そうでなくて、神は共にいます。主は、十字架にあなたの罪を贖ってくださった。主の恵みは今、あなたと共にある。今、恵みを受け、今、神様と共に歩みなさい。あなたの罪は主イエス様の十字架に完全に赦された。これに答えて歩みなさい、なのです。良き業をしなければ地獄にいきます。でなくて、すでにあなたは主の十字架に赦された。どうかこの神様の赦しの恵みに答えて、良き業に歩みなさい、なのです。主イス様の福音はここにあるのです。

 第6天使の第6のラッパは、確かに威嚇の律法です。しかしそこには、福音が隠されています。それは、金の祭壇からの聖徒の祈りの答えた幻でした。またその起こることが「年、月、日、時間が決められている」ことは、神様の永遠のみ手にあるのです。ですから私達は疫病パンディミックに答え、応答します。しなければ成らないことに従事します。怠慢やさぼりでなくて、自分の賜物を力一杯使い、主なる神様に献げます。マタイ伝25章の譬え、自分の賜物は人の5分の1、又人の半分でないかと言って、1タラントンを畑に行って埋めた僕であってはならないのです。又同じくマタイ伝25章、神様が、食べ物の無い者、飢えた者、旅をしている者、裸の者、病気の者、獄にいれられた者に出会わせられた時は、自分の足りない賜物で委託に答え、支えるのです。まずは十字架の主なる神様の前に、金の祭壇に献げる祈りから始めましょう。十字架の主が共に歩んでくださるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。礼拝が出来るようになって2回目です。コロナ感染5波がなんとか収束しつつあります。感謝です。続けて医療従事者等の対策の方々の守り支えてください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、伴侶をなくされた方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。先生方、子ども達、どうか感染が起こらないように、守ってください。又ミャンマーの射殺された牧師さんの御家族をみ手においてください。幼いお子さんがあるそうです。アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

  教会 説教  マルコ伝9章14〜19節       2021年10月3日
             「 連れて来なさい 」 
 本日は、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。コロナ感染による9月一杯の礼拝祈祷会休みも、とうとう10月1日にて終わりました。この先、いつまで続くかですが、なんとか集まった短縮礼拝で行きたいと執事会で決めました。先週は1桁の感染が続き、第5波はほぼ収束しかけています。しかし第6波は必ず来ると言われています。用心しつつ歩みましょう。

 さて、いつものコロナの感染者数をみますと、警戒ステージは4から3になっています。一昨日の鹿児島は9058人となっています。このまま行ってくれることを祈るのみです。私達にできることが限られており、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問が、あるかもですが、しかし、罪を告白しピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて聖書は第1主日ですのでいつもように、福音書から聞くということでマルコ伝9章を開いています。ここは、イエス様のところに汚れた霊に取り付かれた子供が連れて来られ、癒されるところです。しかし、書いてあるようにこの子供からのこの悪霊追放を、弟子達は出来なかったのです。弟子の失敗をわざわざ報告したのかという読み方もできます。しかし、ある意味でこの出来事はイエス様に必死に従っているようでいて、全く力のない教会の姿であり、またそれは私達一人一人の姿でもあります。マルコ伝は、確かに弟子達の失敗を報告したかったのかも知れませんが、なおこのことは、私達に信仰のあり方を教えているとも言えると思います。

 まず、この出来事が起こった前後をみていきます。するとこの悪霊に付かれた子どもの癒しの直前は、イエス様の山上の変貌となっています。つまりこの時、イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエス様の姿が変わるという素晴らしい体験をしておりました。信仰に長い方はおそらく、信仰的に良い体験をしたり、信仰的に良いことがあったりすると突然谷底に落とされる体験をされた方があると思います。神様は、素晴らしい体験の時に、どういうわけか谷底を置き、私達を訓練されていくのです。それは、霊的な高慢、傲慢にならない為でありましょう。
 今、コロナ感染が一端治まって、通常礼拝ができるようになりました。考え方によっては、ようやく主は私達の祈りを聞いてくださった、感謝というところです。ですから今こそ、さらにしっかりと罪を告白して、進むことを示されます。

 さて14節にあることは、ペテロとヤコブ、ヨハネがイエス様はすばらしい、まことの神の子であると本当に確信し、そのことが示された所でした。しかし、そこでなんと他の弟子達は、悪霊に取り付かれた子どもの悪霊を追い出せず、とうとう律法学者と議論している状態でありました。この議論はいったいどういうことであったでしょうか。弟子達は確かに、マルコ伝3章15節に「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」とあり、イエス様からその権能を頂いているのです。ですから主から頂き、主から貰っている賜物をうまく使えない状態になっていたと言えるでしょう。
 折角頂いた賜物を使えないということはどういう時に起こるのかです。一般的には言えませんが、一つはヤコブ4章3節にあります。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと間違った動機で願い求めるからです」とあります。従って、弟子達が悪霊に付かれた子どもを癒せなかったのは、自分の楽しみに為にそれを用いようとした、ということが1つ考えられます。もしかしたら、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがいない弟子集団は、誰が一番偉いのかと競争したり、あるいは賜物の優劣争いをしたりしたのかも知れません。残りのアンデレ、フィリポ、バルトロマイが「我こそは、子どもを癒しましょう」と思ったでしょうか。

 また、ユダは子どもを癒したら、いくらくらい献金が来るだろうかと皮算用したのでしょうか。律法学者がそこにいたということは、子どもをそこにおいたまま、イエス様の権威についての問答が始まったのでしょうか。律法学者は、イエス様が病人をいやされるとその病気が癒されたことよりも、それが何の権威で、また何の力で成されたかを問題にしました。酷い時には、それが安息日だったらその癒しは正しくないとまでも言いました。癒された人にとっては、それがどうしてそうなったよりも、癒されたことが大切でした。それは当然です。お医者さんが、病気で苦しむ患者さんを前にして、治療法の議論をしだしたら、患者はたまったものでありません。たとえそれが古い方法でも、漢方でも、一生懸命なおしてもらう方が大切だからです。

 16節にイエス様は「何を議論しているのか」と聞かれました。もちろん主はご存知だったと思います。しかし、聖書ではイエス様が当然知っていることを何度も何度も聞かれることがあります。有名なところは、ヨハネ伝5章5節です。そこには、38年間の病気の方に「良くなりたいか」と聞かれました。私達はそんな事当たり前で、どうしてこんなことを聞かれるのだろうと思います。病気の人を返って苦しめる事にならないのかと思います。しかし、主は、ことばにして自分の気持ちや考えをいうことを大切にされるのです。それはおそらく、私達がことばにして言うときに、自分の心も整理されるし、また本当に必要なことは何であるのかを、自分で気づいていくのだと思います。ことばにするのは、自分の自発性が係わっていると思います。
 17節には、群衆のある人が応えたとあります。これもまた、どうしてこの子の親が応えないのか。又この子を連れてきて癒してくださいと頼まれた残された弟子達が応えるべきでないかと思います。なぜか分かりません。親としては、もう駄目かな、弟子達ができないのだから、イエス様もできる分けがないと思ったのでしょうか。親に頼まれた弟子達は、自分たちができなかったので意気消沈していたのでしょうか。結局、第3者というか、群衆の一人が状況をイエス様に語ることになりました。
 でもこれも、けっこうあることかも知れません。当事者達は「どうしてできないのか、なぜうまくいかないのか」と真剣にその原因を探っています。つまり、暑くなって、客観的に報告できる状態にないのです。しかし、第3者というか利害関係の無い方がたまたまいて、状況を上手に伝えることがあるものです。アドバイザーとかサポーターというのはそのためにあるでしょう。

 17,18節の状況説明は、本当によくわかります。多くの聖書学者達がこの状況の説明のゆえに、これはあきらかに現代でいう精神的な疾患である「てんかん」の症状であると言われています。特に「泡を吹き、歯ぎしりし、体をこわばらせる」ところがそうであると言われています。現代からみてもこの病はなかなか大変な病と言うことになります。しかし当時は、霊の引き起こす病と本当に精神的な疾患による病を区別するは難しかったのでしょう。そして、体の病気から来るからであったからか、弟子達には、この病気をいやすことが出来なかったのです。弟子の信仰の限界というべきか、正しくイエス様から与えられた悪霊を追い出す権能の信仰を使えていないというべきか、です。
 しかし私達は、ここで弟子達の批判は全くできません。私達もまた全く同じことを繰り返しており、またそのような中にあります。コロナ感染にしましても、いろいろな出来事にしましても、教会としても、信仰者としても、できることの少ないこと、また全く無いように見えることです。聖書は、証しとしてのこの世への奉仕をキリスト者に示すと思うのです。イエス様は「私は仕えられるためにでなく、仕えるために来た」と言われました。そのために先輩たちは、幼稚園を創設し、また教会総会で7年前に児童クラブを開始しました。しかし、なかなかこれを持ってこの世の奉仕まで行っているのか、本当に心許ないです。何もしないよりは、ましであろう。この世に少しでも参与できているのでないか、と慰める次第です。

 また、76年前の第2次世界対戦の時、隣の韓国・朝鮮半島では、神社参拝を拒否して、多くの方が殉教していかれました。しかしその時に、日本ではその信仰を、支えることが出来ませんでした。神社は宗教にあらずという神学が流行りました。韓国・朝鮮のキリスト者の信仰をむしろ切ったといえるでしょう。癒しとは次元が違いますが、証しとして、奉仕として出来なかったことを、教えられることです。
 そして、構造はあまり変わらないのです。先週はミャンマーのチン族の牧師さんが軍に射殺されました。信者さんの家が焼かれてそれを助けようとされたと言われています。この方はマウマウタン先生のミャンマーでの神学校の後輩だったそうです。ミャンマーの難しい所は多民族問題を抱えていることです。マウマウタン先生のお国ですので、一日も早く平和になってほしいです。日本はせめてミャンマーと貿易を多くしているので、はやく民主化して貿易を頑張れ、そのためには政治の安定が一番と言って上げればいいはずですが、全く報道さえもありません。ミャンマーは民主化しないでそのまま遅れたままがいいのだ、としているように思えます。

 いつだったかの巻頭言に書いたのですが、毎週金曜日のミャンマー祈祷会で、在日ミャンマーの方が「日本で自分たちの国のために祈り会を毎週開いて祈ってくださり感謝です」と言われました。本当にこの祈祷会の祈りが力になっているのかといいたのです。しかし、そのように言われるのです。いつだったかは、在日ミャンマー人の方が「皆さん、祈ってくださって感謝です。祈りが聞かれないと思われるかもしれませんが、もしここで祈っていなかったらミャンマーはもっと酷い状態になっていたのです」と言われました。その純朴な信仰に驚きました。信仰の純粋さに教えられ、民衆の民主化の働きを心から祈ります。

 19節に、主は「なんと信仰のない時代か、いつまで私はあなた方と共にいるのか」と言われました。しかしこれは、イエス様は弟子達や群衆を責めて言われているのではありません。主イエス様は、十字架の主なのです。主は、自分もまた弟子達の不信仰を共にして下さり、その罪を十字架に受け止め、このように言われるのです。主の責める言葉は、ご自身の十字架を示すことばでもあります。そして解決はあるのでしょうか。主が示されるその解決は「その子を私のところに連れてきなさい」です。
 私達のできることはこれしかない。と言うか、いやこれがあるのです。主イエス様にすべてを持ってくる。これが具体的にどういうことかが問題です。しかしまずは祈ることからです。在日ミャンマー人の方がいわれるように「何の成果もみえないけど、日本人が祈ってくださるのが大きな力です」と言われます。この祈りの力を、私達も体験し、用いたいと示されます。今週も主のめぐみに生かされて歩みます。 

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が第5波はなんとか収束しつつあります。感謝です。続けて医療従事者等の対策の方々の守り支えてください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、伴侶をなくされた方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。先生方、子ども達、どうか感染が起こらないように、守ってください。又ミャンマーの射殺された牧師さんの御家族をみ手においてください。幼いお子さんがあるそうです。アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教  エゼキエル書43章1〜9節   2021年9月26日
             「 その栄光で輝い 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。コロナ感染による9月一杯の礼拝祈祷会休みも、とうとう最後の主日になりました。先週は1桁の感染の日もあり、第5波は収束しかけています。しかし第6波は必ず来ると言われています。用心しつつ歩みましょう。
 先々週の牧師会の時「教会が礼拝、祈祷会を休むのは、自ら『自分達は不要不急の団体です』と宣言したことにならないのか」という提言をされた先生がありました。なるほど考えさせられます。しかし、高齢者や基礎疾患のある患者さんが、コロナ感染は、死亡率が高いとなると、安全の為には休みは必要だったと思います。しかし、宗教団体は法人格を貰っていますが、どうなのかと問うことはできます。指導集団に権威を置くカトリックは礼拝休みを宣言できるでしょう。しかし、プロテスタントは、根本的に信徒は平等です。その人個人に礼拝執行を決める権威を与えることができたのでないか。改めて重たい問題をコロナは提供していると思います。

 さて、いつものコロナの感染者数をみますと、警戒ステージは4になっています。1週前に9000人を越えましたが、先週の前半から鹿児島は一桁の感染者になっています。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、感染が弱くなっても、なお自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問が、あるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて聖書は第4主日でので、いつものようにバプテスト連盟の『聖書教育』誌から聞くということで、旧約聖書から聞く方針で、エゼキエル書43章の前半を開いています。本日は、聖書教育のエゼキエルの学びの最後です。テーマは読んでも分かりますが、主の栄光の神殿への帰還です。預言の時間は43章にはありませんが、これは40章から続きです。したがって、40章1節にある「我々が捕囚になって25年、都が破壊されてから14年」の預言だったと思います。エルサレム神殿の破壊はBC586,7年とされます。したがって、この幻の預言はBC572~3年ごろとなります。
 祈祷会の時に話していますが、神殿礼拝から25年間とエルサレム神殿破壊から14年間の神殿礼拝の中止は重たいと思います。私たちは1か月半の礼拝休止ですが、どう表現していいでしょうか。昨年5月にも、1ケ月ほどの礼拝休みを体験しました。なんとも言えない気持ちです。物心ついてずっと礼拝し続けた方には、大変な思いだったと思います。祈祷会もまたずっとされてきた方、また他教派の方には、お宅はしていないのかとの打診も聞きました。もちろん少人数のところは淡々とされた教会もあります。この体験と感覚は死ぬまで忘れないでしょう。
 しかしこれがバビロンの捕囚民には25年間、エルサレム住民には14年間だったのです。神殿礼拝への希求と待望は、大変なものだったのでないか。またその反対に完全に希望を無くした方、信仰をすっかり失った方も多かったのでないかと推測されます。そんな時に、エゼキエルはとうとう新しい神殿の幻を与えられ、そしてその神殿への神の栄光の帰還が預言されたのです。

 これはすごいことだったと思います。というか、もしかしてこの預言が、エゼキエルの本当の務めだったのかもしれません。神殿礼拝を離れて25年、しかしそこからまた神殿礼拝の幻を示され、連行・捕囚民を励まし、希望を与えて、帰還の機運を創造していくのです。帰還して新しい神殿ができるのはエズラ、ネヘミアの帰還によってBC515年だったとされます。このエゼキエルの預言から59年後でありました。私たちの会堂が経ったのは1954年ですので、それから67年目です。新しい会堂建築計画は早いのか遅いのか、リフォームがいいのかといろいろなことが考えられます。大地震が大きな心配ですが、ただ一つ確かなのは一歩一歩進むということです。

 1節にあるように、エゼキエルは天使によって新しい神殿を幻にみて、それを測り縄と測り竿で測った後、主の栄光が東から来るのを見るのです。実はこれは主の栄光の帰還の幻もでもあるのです。実はエルサレム神殿がバビロンに滅ぼされる時に、私達はすでに、エゼキエル8,9,10,11章に神の栄光が、エルサレム神殿から出て行く様子を聞いてきました。エルサレム神殿の破壊の前のことでした。神の栄光はエゼキエル8章で北の門にあり、9章で神殿の敷居のところにあり、10章でケルビムの上に離れて立ち上り、11章には都の東の山つまりオリブ山にあって神殿から抜けておりました。
 この神の栄光が抜けたことで、エルサレム神殿は主の神殿でなくなり、バビロンの滅びの下に置かれたことになります。つまりエゼキエルは、神様の無能力と神の無知によって、エルサレム神殿が破壊されたのでない、とします。エルサレム神殿の偶像礼拝のために、破壊の前に、主の栄光はすでにエルサレム神殿を離れられたことを言うのです。しかし、この43章で主の栄光はエルサレム神殿が破壊され、幻の中で再建されて帰還して、戻って来られるのです。つまり、幻の中の神殿は、主の栄光の帰還によって、本当に主なる神さまの神殿とされるのです。4節には、幻の中ですが、主の栄光は、神殿の中に入ったとされます。
 私達はここに、これは単なる神殿の再建の示しだけでなく、イスラエルの民の再建のしるし、バビロンからの帰還の前触れと読むことができます。神様はちゃくちゃくとイスラエルの民の帰還を、こうして神殿再嫌の幻の中でも示しておられることになります。神殿は、神様の栄光が戻る、すなわち栄光が帰還することでまた本物の神殿となっていく。この幻は、イスラエルから離れて25年4半世紀たっているバビロンにいる連行・捕囚民に何か大きな希望を与えていると読むことができます。
 それにしても、神様は、何度も何度も繰り返しを用いる方であると思います。エゼキルの神殿再建の前には、実は出エジプトのモーセの幕屋の建築がありました。荒野の40年において、主はモーセに出エジプト25章ですが、幕屋建設の指示を出されています。ダビデ・ソロモン王の時もその神殿建築の指示を、列王記上5章から8章にかけてしております。そして今度は、エゼキエルに40章からはじめて、幻の中ですが建築再建の幻を見せておられます。

 神様は必要な時には、必要な指示をなさり、導かれ、支えらえる方であるのです。エルサレム神殿が破壊されてイスラエルの民は、意気消沈して、生きる希望も、生きるリアリティも、充実感も無くして久しかった。しかし時至りて、エルサレム神殿破壊から14年目にエゼキエルに具体的な神殿再建の幻、そして主の栄光の帰還の幻が示されたのです。神様は必ず導かれると言う信仰を示されます。

 2節と5節には、主の栄光が神殿を満たした、とあります。その時、「大地はその栄光で輝いた」とあります。主の神殿が栄光に満たされる時、大地は輝くのです。これすごいことです。根本、基本的には、主の教会が主の栄光に満たされる時、大地は輝くのだと思います。それはその地域の人は全く気づかないのかもしれません。しかし、主の栄光と大地の輝きはやはり関連を持っているのだと思います。
 今は、私達はコロナ感染という疫病を受けています。日本だけでも死亡者は、先週1万7千余名です。100年前の1919年T8年のスペイン風邪の時は日本で45万人の方が亡くなったとあります。当教会宣教師のメドリング先生も共に亡くなっておられます。当時の人口の0.8%だったそうです。今回は医療も進んでおり、そこまではならないでしょう。しかし、今回もまた大きな警告を含んでいるのでしょう。ノーベル賞の山中伸弥先生も、パンデミックに備える社会形成は全く思いつきもしませんでした、大きな警告です、と言っておらました。
 私達は今までは、成長成長で大きくなることを目標として来ました。もちろんそれではいけないと国連のSDG‘Sとか持続可能世界の確立とか言われています。しかし、なかなか言われるだけでは気づかないものです。豊かさの転換とか、心の充実とかかけ声はあったと思います。しかし、こうして、回りの方が病気に掛かり、多くの方が亡くなることで、ようやく私達は自分の生き方を問われて行くのだと思います。生の全体を意味づける価値、生きていることのリアリティに資するあり方、そのような生き方の使信、信仰が問われています。
 これらの事は、すべて主なる神様の問われることでもあります。2節の「大地はその栄光で輝く」時に、そのことが実現するのだと思います。具体的にはそれはよく分かりません。しかし、幻に示されてあるように、主の栄光の来られることは約束されており、示されています。

 7節には、主は「ここは私の王座のあるべき場所、私の足の裏を置くべき場所」とされています。そして、「ここでイスラエルの子らの間に永久に住む」と約束されています。これは第一義的にはエルサレムです。しかし、同時にエルサレムということはこの世であり、この地でもあります。幻でも、あの世でもありません。つまり、エルサレムはこの地の代表であり、その栄光で輝く地は、私達がいるこの地です。私達はこの預言の成就を、イエス様の受肉と派遣に見て良いのだと思います。主なる神さまは、このエゼキエルの預言の約束を踏まえて、イエス様を遣わしてくださったのです。それはまさに主の栄光の輝きです。そして、私達はその栄光の輝きを十字架に付けて、殺しました。
 しかし同時に主イエス様の十字架は、8節の「汚れ」の除去であり、9節の「淫行と王達の死体」の清めでもありました。エゼキエルの預言であるエルサレム神殿への主の栄光の帰還は、こうして主イエス様の十字架においても、また成し遂げられたのだと信じます。主イエス様の派遣が、その十字架と復活が「彼らの間に住む」という約束の成就です。主はイスラエルの罪を赦し、同時に、私達の罪を赦して下さいます。
 先ほど、ミャンマーの祈り会のフェイスブックで、ミャンマーのチン族のバプテスト教会の牧師さんが、信者さんの家が軍に焼かれているのを止めようして、軍から射殺されたというニュースが入っています。なんとも酷い世界になりました。在日のミャンマー人のキリスト者達の悲しみはいかばかりと思います。祈ることしかできませんが、しかし、神様はきちんと見ておられることは確かです。そして主なる神様は義の神様であり、愛の神様です。日本が民主化の支えになってくれればと思いますが、返って軍を支えているようでもあります。エゼキエルはエルサレム神殿の破壊から14年後に新しい神殿の幻を受けました。ミャンマーの平和も、アフガニスタンの平和も時間がかかるのだと思います。私達は、祈りを忘れず、高慢に成らず、十字架の主と共に自分のなせることをなし、歩むことを示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が弱まっています。このまま守ってください。医療受持者、保健所の方々、どうか続けて守ってください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、伴侶をなくされた方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。先生方、子ども達、どうか感染が起こらないように、守ってください。ミャンマーの射殺された牧師さんをみ手においてください。アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
教会 説教  エゼキエル書30章20〜26節   2021年9月19日
             「 腕を折った 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。執事会では8月13日に発表された鹿児島県独自の緊急時代宣言と蔓延防止法を受けて、9月26日までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。鹿児島県もこのところ50人名以下の感染になっており、10月には緊急事態宣言、蔓延防止法は解除されそうです。しかし医療機関の具合がまだだと言われています。医療に従事される方、保健所の方の守りを祈ります。もう完全には元に戻らないと言われていますが、用心して過ごしたいと思います。
 礼拝と祈祷会の説教の原稿を続けて教会玄関に置いています。どうか個人的に取りに来られてください。又ご高齢の方には、遅れるかも知れませんが、説教の原稿を郵送していますので用いてください。ライブ配信もしています。PCやスマホやIフォンをお持ちの方は、フェイブックですので、インターネットでグーグルを立ち上げ「フェイスブック 日本バプテスト鹿児島キリスト教会・中山伝道所」と打ち込みページに入れるとライブを聴くことができます。またライブが終わるとそのままの状態で、録画が残っていますので、聞き逃されたら又聞くことができます。未だ半月ほどありますが、なんとか守られ、これで過ごしたいと示されます。
 いつものコロナの感染者数をみますと、警戒ステージは4になっています。1週前に8800人を越えまして、この原稿が読まれる頃は9000人を越えているかもです。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもです。しかし、ピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて聖書は第3主日でので、いつものように旧約聖書からきくという方針で、エゼキエル書30章の後半を開いています。8,9月は祈祷会の聖書もエゼキエル書になっていました。本日聞かれる方は又もエゼキエルかと、エゼキエル漬けになっており、他の聖書を聞きたいと思われていると思います。10月からは晴れてエゼキエルから離れますので、最後のエゼキエルと言う事で聞いていきます。
 この30章は、29〜32章までの4章に渡るエジプトに対する滅亡の預言ところです。エゼキエルはなんと4章もエジプト預言をしています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモスと主だった預言者が、諸国民の預言をする事はすでに語ってきました。何度も繰り返して済みませんが、それは主なる神様が天地の造り主、全世界の創造者であるからです。今風に言えばキリスト者は宇宙についても、微細なウイルスについても、又地質年代の白亜紀の過去の恐竜時代においても、なお神様のみ手を求めて、探求すると言っていいのです。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス等の預言者が、自国イスラエルのことだけでなく、常に他国について預言していくのは、まさに根本的にはすべてのことが神様のみ手にあるからです。神様はイスラエルの神様だけでなく、エジプトの神様、バビロンの神様でもあるのです。今風に言えば聖書の主なる神様は、日本の神様、アメリカの神様、韓国の神様、中国の神様、ミャンマーの神様、アフガニスタンの神様でもあるのです。すべての事をみ手に置かれ、すべてを導かれる神様を、私たちは歴史を見ながら主なる神様のみ心を求めていくといえるでしょう。

 本日の20節には、第11年1月7日の主の言葉として始まります。これはエルサレムが陥落する3か月前であります。エルサレム神殿は、エレミヤ52章5,6,7節によると11年4月9日に陥落しています。もちろんエゼキエルはエルサレムでなくて、バビロンに連行されておりました。預言をしたのはバビロンでありました。しかし、なぜまた直線で1000q離れたバビロンにいて、このような預言をしていたかです。これは明らかに、エルサレムの状況とバビロンの捕囚民の状況が非常に似ていたことを前提としていいでしょう。ラジオもテレビも携帯電話もない時代ですが、それだけにベドウインや貿易商売人、軍人たちのもたらす情報は非常に重要であり、想像をたくましくして、ある意味でラジオ、テレビ、携帯電話以上に、現地の状況が聞かれ伝えられていたと言えるでしょう。

 21〜23節の完全なるエジプト王ファラオへの審判予言は、余りにも酷い、ある意味で過酷なエジプトへの審判となっています。ここまで酷くエジプトを審判しないといけないのか。何がここまでエゼキエルを駆り立てるのか。「強い腕と折られた腕を共に打ち砕く。その手から剣を落とす。」エジプトは全く頼りにならず、イスラエルを助けることができないことが明確に、はっきりと宣言されるのです。実はここには、バビロンに囲まれるエルサレムの住民たちとなおエゼキエルように、バビロンに捕囚された捕囚民の間にさえも、最後までエジプトへの期待があったのであろうと言われています。そのことを、如実に伝えている箇所がエレミヤ書34章にあります。ここには、バビロンに囲まれ総攻撃を受ける中でエルサレムに起こったことが書かれています。それは奴隷の解放です。詳しくはそこを読んでほしいのですが、端的に説明します。

 バビロン軍に囲まれたゼデキア王は、困ってしまって、神様との契約を思い起こします。それはイスラエルでは奴隷を6年働いたら7年目には解放するという申命記15章12節の奴隷解放の規定・契約です。これを実行しようとしました。これには貴族たちも賛同し、奴隷解放を行うことを約束します。困った時の神頼みではありませんが、バビロンの総攻撃を受けて、最後の頼みは主なる神様の守りであり、ゼデキア王はできる限り主なる神様の律法を守ろうとしたのです。
 ところが、なんと途中で、この奴隷解放政策は反故にされます。34章11節です。「しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身とした」とあるのです。つまり神様の助けをもう求めなくてもよい事態が起こったということです。多くの聖書解説者は、これは、エレミヤ37章5節にある「折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た」と言う事であろうとしています。つまり、神様の力よりも、実際にバビロンの軍隊を引かせたエジプトの軍を頼ったとされています。エジプトの軍隊が来て、バビロンの軍隊を追い払ってくれた。自分たちの解放はエジプトによってなされるに違いないとこう考えてしまったのです。そして神様との契約である6年働いてくれた奴隷は、7年目には開放するという契約を破ってしまうのです。目に見える軍隊を一時期追い払ってくれたエジプトを頼るのは、仕方ないともいえます。あまりにもその場しのぎ過ぎるとも言えます。しかし、これは私たちがいつも陥ってしまう出来事であり、罪であるともいえるでしょう。
 私たちは、簡単手に入る方法があれば、それが最終的には為にならないと知っていてもそれに手を出します。どんな時代にも、いつの時代にも、金融詐欺がおこり、こんなに金利の低い時代でも、というか金利が低い時代だからこそ、儲け話に引っかかる方が後を絶ちません。詐欺によって自分が大切にしていた自分のトラの子の財産を全部無くす話がいつもあります。
 エゼキエルがエジプトに対して、過酷なまでの裁きを語るのは、まさに、エジプトが最後の最後まで、イエスラエルを神様から引き話す要因になっているからです。事実、イエスラエルはエジプトに頼り、バビロンに反旗を翻して、完全な滅亡を受けることになるのです。

 24節には、エゼキエルは「私はバビロンの王の腕を強め、その手に剣を与える」と預言しています。確かにバビロンは新興国であり、まだ本当に強い国なのか、どんな政治をするか、よく分かっていません。しかしエゼキエルは、エジプトに頼り、主なる神様との契約をないがしろにするよりは、新興国バビロンに服従した方が良いとするのです。この預言は実はエレミヤもそうでした。エレミヤ21章9節には、「この都に留る者は、戦いと飢饉と疫病で死ぬ。この都を出て包囲しているカルデラ(バビロン)人に降伏するものは生き残り、命だけは助かる」という預言をしていました。エレミヤもエゼキエルも、神様から離反することになり、偶像礼拝に進むことになるエジプトに頼るよりは、エルサレムを捨てても、離れても、今はバビロン(カルデラ)が神様によって地上の支配を任されているのだとするのです。エレミヤの預言はある意味でエゼキエルよりもさらに過酷であり、エレミヤ25章9節には「見よ、私は私の僕バビロン王ネブカドネザルに命じる」と預言しています。異教の国の王バビロンのネブカドネザルは、神様の僕として示されます。そして、エレミヤ25章11節には「これらの国はバビロンの王に七〇年の間仕える」とさえ言ってイスラエルは70年バビロンに仕えるとします。

 私たちは、エゼキエルやエレミヤの預言を聞いて、そのようにはっきりと世界情勢を知ることができるとは、ならないでしょう。今風に言えば、アメリカが神の僕であるとか、いやいや実は中国こそが神の僕あるとかは、残年ながら分からないと思います。突然、違った新興国が果たして出て来るのか、それも見えません。しかし、そのような時にはどう生きたらいいのか。
 エレミヤ34章にゼデキア王がしたように、神様との契約に生きると言う事です。ゼデキア王はエジプトの力を過大評価して、神様の契約(奴隷解放の道)に生き続けることを止めました。そしてそこにあったのは、完全なバビロンによる滅びでした。現代風にいうならば、アメリカを頼りすぎず、中国を恐れすぎない道はあるのか。北朝鮮の弾道ミサイルは、本当に日本の米軍基地を攻撃できるのかということです。
 ここには、本当に平和を求める知恵と力が必要です。そして、それは信仰で言うと高慢にならず、傲慢にならず、与えられた信仰において、十字架の主イエス様に仕えて歩むと言う事です。背伸びすることなく、今ある力で、今できることを、一つ一つしていくことです。ミャンマーの情勢にしてもアフガンニスタンの情勢にしても、なんと一般の私たちにできることが少ないことでしょうか。しかし、それでも在日ミャンマー人の方は、こうして日本でミャンマーの祈祷会(金曜祈祷会)があるだけでも励まされますと言われます。祈りは、現状に対する反抗の第一歩であると言われています。十字架の主のみ前に、できることをしていく。できることから祈っていく。まず自分の目の前のことから進めていく。私たちは隠れたもう神様を信じ、十字架のイエス様のみ前に祈りつつ進む。これが、私たちに示されることです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が少し弱まっています。このまま守ってください。医療受持者、保健所の方々、どうか続けて守ってください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、伴侶をなくされた方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。先生方、子ども達、どうか感染が起こらないように、守ってください。ミャンマー、アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  ヨハネの黙示録9章1〜12節     2021年9月12日
             「 額に神の刻印を 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。すでにご報告した通り、8月15日の執事会で、8月13日に発表された鹿児島県独自の緊急時代宣言と蔓延防止法を受けて、9月26日までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。鹿児島県もこのところ100名以下の感染になっていますが油断出来ません。又一時期、自宅療養の方が1500人の時もありましたが、先週は大夫下がり160人程になっています。正直、何とかして欲しいと祈るのみです。感染者の方は、どんなにか入院を求め、心細かろうと思います。在宅専門医との連携が言われていますが、入院にこしたことはありません。
 礼拝と祈祷会の説教の原稿を教会玄関に置いています。どうか個人的に取りに来られてください。又ご高齢の方には、遅れるかも知れませんが、説教の原稿を郵送していますので用いてください。ライブ配信もしています。PCやスマホやIフォンをお持ちの方は、フェイブックですので、グーグルを立ち上げ「フェイスブック 日本バプテスト鹿児島キリスト教会・中山伝道所」のページに入れるとライブを聴くことができます。またライブが終わるとそのままの状態で、録画が残っていますので、聞き逃されたら又聞くことができます。未だ半月ほどありますが、なんとか守られ、これで過ごしたいと示されます。
 いつものコロナの感染者数をみますと、警戒ステージは4になっています。1週前に8500人を越えまして、この原稿が読まれる頃は9000人を越えているかもです。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて聖書は第2主日でので、いつものように使徒の手紙から聞くという方針で、長老ヨハネの黙示録を開いています。黙示録は手紙ではありませんが、2,3章は手紙になっており、その後も手紙の延長として聞くことができます。長老ヨハネはキリスト教信仰のためにエーゲ海のパトモス島に幽閉され、そこで神様からの幻を見て、この黙示録を書いています。5〜8章までは巻物の封印が7回解かれて知らされます。8章からは今度は7つのラッパが吹かれてやはりその一つ一つのラッパ毎に、事態が展開する事の幻になっています。
 そして本日読みましたところは、第5の天使が第5のラッパを吹くところです。8章の1〜4節の天使の1〜4のラッパまでは、天地異変の出来事でした。しかし、いよいよこの第5天使の第5のラッパより、人間に対する苦痛の出来事になります。そして第6のラッパからは、6章15節に「人間の3分の1を殺すために放たれた」とあり、いよいよ人間の殺戮が展開されます。本日の第5のラッパのテーマはイナゴになっており、次の第6のラッパは馬になっています。奇々怪々なイメージが使われ展開されていきます。しかし、私達は詳細に捕らわれることなく、長老ヨハネがこの黙示録を書いている目的を忘れないようにしたいです。それは、ローマ皇帝による迫害がいよいよ始まるのであり、それに備えること、また今の偶像増礼拝から離れることです。どんなことがあっても、事態は十字架の主なる神さまのみ手の中で起こるのであり、十字架の主なる神さまのみ礼拝し、期待し、祈って歩むことです。ここを抑えて、黙示録は奇々怪々ですが、聞いていくことが大切です。
 さて1節にあるように第5のラッパの出来事は星が天から落ちてくることから始まります。なんだか、隕石の落下かと言いたいです。私達は地質年代の66000年前の白亜期後期に隕石が落ちて、恐竜を初め地球の70%の生物が死滅したといわれています。しかし、ここでは隕石の落下というよりも「底なしの淵に通じる穴の鍵があった」とありますので、サタン的なものか堕落天使なのか、天からの使者によって、この第5のラッパの幻が展開されます。

 2節には、底なしの淵の穴から煙がでて、太陽も空もそこからでる煙で暗くなったとあります。隕石の落下では、この煙ならぬ破砕断片で太陽光が遮られ、温暖化と酸性雨が降り、生物死滅の原因となっています。しかし、ここでは3節にこの煙の中からイナゴの群が地上に出て来たとあります。残念ながら私達は日本に住んでおり、中近東やアフリカ、中国のイナゴ・バッタの被害を体験したことがありません。私達の感覚ではイナゴやバッタが怖ろしいというのは全くないと思います。しかし、中近東やアフリカ諸国では、数年毎にイナゴやバッタの大量発生が起こり、時々テレビで中継されます。
 それはものすごい数であり、時には何十qの長さになり、数メートル先が見えず、緑のものをすべて食べ尽くすそうです。それは緑であればなんでもくらい尽くすそうで、人間の着ている服であっても緑の部分を食べてしまうとかも報告されています。少し調べてみますと実は、イナゴとバッタは、同じ種目ですが違っており、具体的に群を造り、緑を食べ尽くすのはバッタの方だそうです。イナゴは集まってもそういう習性がないのだそうです。ついでにイナゴは佃煮にすると美味しいらしいですが、バッタは美味しくないそうです。従って、聖書の訳は本当はバッタとした方が正しいかもです。
 イナゴ・バッタの災害は、出エジプト記10章にイスラエルが出エジプトする時に第9番目の災いとしてあります。エジプトを打つときの災いですので、その酷さが分かります。実は、出エジプトの際の第7番目の災いが疫病でこれは7節ですが、何とイナゴ・バッタの災いは、20節あります。つまり疫病の2倍以上なのです。中近東の人々にとってイナゴ・バッタの災いがいかに怖ろしく、大変だったことが分かります。
 聖書は寓話的な解釈はあまりよくないと言われています。しかし、黙示録のような書物には、寓話的に取ることは時として大切なことがあります。3節にはイナゴには、サソリの力が与えられたとあります。これは現実にはイナゴやバッタが、人を刺す毒を持っているとは聞いたことがありません。しかし不思議なことに4節には、このイナゴは、緑のものを損なってはならないが、「額に神の刻印を押されていない人」には、害を加えてもよいとなっています。さらに5節には殺してはいけないが、5ヶ月間苦しめることが赦された、とあります。そして、イナゴが与える苦痛はサソリの苦痛であったとあります。
 私は蜂に背中を刺されたことがありますが、まだその痛さを覚えています。小学生の高学年の時、間違ってアシナガバチの巣をつついてしまい、追いかけられて刺されたのです。その時の恐ろしさと痛さをよく覚えています。サソリは虫の毒で最も痛い毒とされています。何かの本で、生きていれば、さそりの毒が一番痛いと読んだことがあります。5か月とあるのは、イナゴの寿命らしいです。

 6節にあるように、この時人々は「死にたいと思っても、死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げていく」とあります。確かキルケゴールが「絶望とは死ぬ事ができない孤独である」とか書いていました。死のうと思っても死ぬこともできない。しかし、誰にも助けを求めることができない。そんな状態です。改めて死のうと思っても死ねない状態というと、本当に死んだ人しか分からないのかも知れません。そして、死んでくださった神、十字架に死んでくださり、その痛みと苦痛を体験され、知っていてくださる主イエス様を思います。これは愛の神、十字架の神様にして、初めて支えてくださることなのでしょう。そして、聖書でいうところの最高の絶望状態は、この全能で全知で愛の十字架の神から捨てられ、離されてあることです。つまり無神論の「神も仏もない」より以上に、実は神があってなお離され、苦しみと痛みがあり、その意味を知らされないことであります。死を望んでも死ぬことができない痛みと苦しみを、主イエス様は共にし、共にいてくださるのです。

 7節からはヨハネはイナゴの姿を詳しく記していきます。なぜこんなに詳しく書かないといけないのか。よく分かっていません。イナゴの姿は馬のようであったとあります。確かに、イナゴやバッタは正面からみると馬の姿なのかも知れません。頭に金の冠というはそういうイナゴやバッタがあるのでしょうか。顔は人間だったとあります。なんだか、エゼキエル1章の4つの顔を持つ4つの生き物を思い出します。さらに8節に髪の毛が女の髪の毛であり、9節に鉄の胸当てをつけています。さらに羽の音は、戦車の響きとあります。クマバチならまだしも、イナゴやバッタが、戦車の響きはないだろうと思います。10節には、このイナゴに尾と針があります。こうなってくると想像もできないグロテスクな形になります。再びここには5ヶ月がでてきて、5ヶ月間人を苦しめる許可が与えられています。イナゴの寿命は現実になっています。
 これらの事は何を意味しているのかさっぱり分かりません。おそらく天から落ちたサタンか堕落天使の超自然的なイナゴは、妖怪変化の自由自在の形を持ち、人間を痛め、苦しめることができるということでしょう。長老ヨハネはおそらくローマ帝国の迫害を前提していると思います。政治的な迫害の難しさ、逃れることの大変さを示しているとも言えます。ミャンマーのクーデターもアフガンの混乱も、アメリカの諜報機関の活動をもってしても、あまり予測は出来なかったようです。まさに1節の「一つの星が天から落ちてきた」と言うような、突然の出来事で、人間には知るよしもないと言うことでしょう。

 11節後半部分は、イナゴの名前が書いてあります。ヘブライ語ではアバドン、ギリシャ語ではアポリオンです。どちらも語源は「滅び」という意味だそうです。私達は、このように、災いの中にあります。そしてまさに今の災いはコロナ感染と言えます。ちょうどイナゴのように変幻自在に形を変えて、ワクチンでも対処は無理だろうと言われています。しかし、どうなのか。私達はこのような時代、コロナの疫病の時代だからこそ、本当に恐るべき方、本当に畏るべき事態は何であるかを問われているのかも知れません。それは「死を望んでも死が逃げていく」絶望です。つまり聖書からいうと罪だと思います。ダビデは罪を犯した時、神様に「戦争か、飢饉か、疫病かを選べ」と言われたことがありました。サムエル下24章です。人口調査の罪でした。つまり自分の力を誇る高慢の罪です。私達は、バプテスマのヨハネのように「自分はその方の履き物を脱がせる価値の無い者です」(マタイ3:11)という信仰、「私はしなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)という信仰に立つことを示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が少し弱まっています。どうか守ってください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。どうか感染が起こらないように、守ってください。ミャンマー、アフガンの平和を守ってください。今日からの教会員の信仰、健康、魂をまた1週間を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  マルコによる福音書9章1〜13節  2021年9月5日
             「 これに聞け 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。すでにご存知の通りに、8月15日の執事会では、8月13日に発表された鹿児島県独自の緊急時代宣言を受けて、9月26日までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。鹿児島県もこのところ100名以上の感染が連日続いています。又鹿児島県も自宅療養の方が増えて先週は、1500人以上になっています。正直、何とかして欲しいと祈るのみです。感染者の方は、どんなにか入院を求め、心細かろうと思います。在宅専門医との連携が言われていますが、入院にこしたことはありません。礼拝と祈祷会の説教の原稿を教会玄関に置きますので、どうか個人的に取りに来られてください。又ご高齢の方には、遅れるかも知れませんが、説教の原稿を郵送していますので用いてください。ライブ配信もしています。PCやスマホやIフォンをお持ちの方は、フェイブックですので、グーグルを立ち上げ「フェイスブック 日本バプテスト鹿児島キリスト教会・中山伝道所」のページに入れるとライブを聴くことができます。またライブが終わるとそのままの状態で、録画が残っていますので、聞き逃されたら又聞くことができます。未だ一ヶ月ほどありますが、なんとか守られ、これで過ごしたいと示されます。
 いつものコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は独自の非常事態宣言となり、蔓延防止法が発令中です。警戒ステージは4になっています。1週前に8000人を越えまして、この原稿が読まれる頃は8500人を越えているかもです。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて聖書は第1主日でので、いつものように福音書から聞くということで、マルコ伝9章になりました。ここは有名なイエス様の変容と言われる箇所です。イエス様がペテロとヤコブとヨハネの3人を連れて、山に登られるとその御体が、この世の地上のものとは思えないほどに白く輝き出したというのです。さらにモーセやエリヤがイエス様とご一緒にお話しをされていたという出来事です。これはマタイ伝17章、ルカ伝9章とヨハネ伝にはありませんが、共観福音書といわれる3つのすべてに報告されています。一体これは何を私達に教え、導こうとしているのでしょうか。
 まず、このイエス様の変容といわれる出来事ですが、マルコ伝8章の後半には、イエス様の十字架と復活預言の第一回目がなされています。これに引き続き、イエス様の変容のことが起こっています。従って、このイエス様の変容は何か、十字架と復活に関することを、私達に示そうとされているのは確かだと思います。実は、このイエス様の変容と言われる出来事は、よく聖書を読まれる方は旧約ヘブライ聖書のいろいろな場面を思い出されると思います。つまり、この出来事は旧約ヘブライ聖書のイメージを一杯込めて起こっているということです。
 まず、この高い山に登るです。これはシナイホレブ山にモーセが、主なる神さまの律法十戒を頂いたのが山だったことを思い出します。神様はもちろんいつでもどこでもご自身のことばを語られます。しかし主だった時には、こうして山において啓示されることもまた確かです。次に3節に、イエス様の姿が白く輝き変容されます。これは、出エジプト記34章29節以下のモーセの顔がシナイホレブ山から降りてくる時、輝いていたことを思い出されると思います。「自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っていた」とあります。脱線ですが、女性の方がよい肌を得るには神様と語ることが一番かも知れません。

 4節にエリヤとモーセが語っていたとあります。このエリヤとモーセは、旧約ヘブライ聖書では、神様に取り上げられて地上に死体がない人達です。本当はここ創世記5章24節のエノクがやはり神様に取り上げられて、生きたまま天に昇った人になっています。しかしエノクは全くの普通の人だったのでここにはないようです。とにかく、イエス様の変容のこの箇所は、旧約ヘブライ聖書が総動員されれたようなイメージが一杯あります。これは明らかに、この人間の体を持たれたイエス様が、只の人間ではなく、真の神であり、神の御子であることを、はっきりと証ししていると言えましょう。まさにここにモーセ以上の方であり、預言者の筆頭のエリヤ以上の方があると示していると言っていいでしょう。
 5節には、このイエス様とモーセとエリアが語り、イエス様の姿が変容したのをみて、ペテロが小屋を3つ立てたいと言いました。6節には、何を言っていいの分からなかったからだとなっています。余りにもすばらしい情景に、ペテロは何かをしたいと思い。弟子を代表して応えているのです。「小屋を建てたい」と言ったようです。しかしこの小屋もまた、旧約ヘブライ聖書からの背景を考えますと仮庵祭で、実際に毎年イスラエルの人々は小屋を庭先に造っていたとも言えます。しかし、これは日本的な感覚でいうと小屋というより祠と言うか神社ような姿を連想した方が良いかも知れません。神々しいものを祭るところという感覚です。
 そして、原文からいうとこの小屋は実はテントとなっています。いわゆる荒野40年間に神の箱が、幕屋と一緒に運ばれたように、あの神の箱を入れた幕屋を連想してもいいのではと思います。とにかくペテロは、このような神様の神々しいみ姿を見たからには、それに応えて、小屋をまた幕屋をイエス様とモーセとエリヤさんのために作りたいと申し出たのです。6節には「弟子達は非常に畏れたのである」ともあります。これもまた、シナイホレブ山での十戒の啓示の時も、畏れが満ちたとあります。

 すると7節にあるように、ペテロの言葉に応えるかのように、今度はイエス様でなくて、父なる神さまから、雲が弟子達を覆い「これは私の愛する子、これに聞け」と響きました。これもまた聖書を読まれる方には、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に、天からの声と同じだと気付かれると思います。マルコ伝1章11節でありました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」でした。
 こうして私達はペテロが弟子達を代表して、主イエス様に対して小屋、幕屋を作りたいとの申し出に対して、神様は、いいや、小屋や幕屋を造ることでなくて、このイエス様にとことん聞いていきなさいと言われいることを知るのです。つまりこの出来事は、十字架と復活を預言されたイエス様に対して、弟子達がいかにあるべきであるのか。いかに歩むべきであるのかを示しているといえるのです。
 私達に直していえば、わたしたちは神様、イエス様に応えて、あれをしたい、これをしたい、あれもしなければ、これもしなければと悪戦苦闘するかも知れません。自分の罪を赦されて、主が共に歩んでくださる。これもしないといけない。あれもしないといけないとなるのは、ある意味で当然と言えば当然であります。熱心であれば熱心であるだけそうなってしまうのは、仕方のないことです。しかし、この聖書は、それでいいのかと問いを立てているのです。

 全知全能で愛の主が、私達のところに来られた。しかも十字架を背負ってくださった。これに応える方法が私達にあるのか、です。ここが大切ですが、神様は私達が応答されることを喜ばれますが、しかし、その応答で、神様を喜ばそうとしても、それは限界があるのです。それはいろいろな奉仕がなされ、いろいろな良き業が試みられて当然でしょう。しかし、それによって神様に何か取り入ろうとか、神様に何かできる、できたというのは、どうなのかです。
 すぐに思い出されるのは、サムエル記上15章です。そこにはサウロ王がアマレクとの戦いの時、神様は戦利品をすべて捧げよといわれたのです。しかしサウロ王は、サムエル記15章10節にありますが「羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他なんでも上等の者は惜しんで捧げ尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ばした」とあります。そして、サムエル上は15章22節に「主が喜ばれるのは焼き尽くす生け贄であろうか。むしろ主の声にっき従うことでないか」と言われました。これに類することは、預言書にもいくつかでてきます。
 そして、新約聖書からこの教えを聞くならば、やはりルカ伝10章38節以下にあるマルタとマリアの出来事です。ここは説明の必要はありません。イエス様がマルタの家に入られた時、マルタは必死にイエス様の接待をなし、マリアはひたすらイエス様の足下に座ってみことばを聞いていました。マルタが「どうしてイエス様は、マリアに接待するように言わないのか」というと、イエス様は「マリアは良い方を選んでいる」といわれたのです。いろいろな解釈がありますが、ここは、御言葉を聞くことの大切さをあえて教えられていると言えるでしょう。「これに聞け」とは、すべてのことの前に起こることなのです。つまり、私は今どう生きるのか、私はこれからどう生きるのか。私は何であるのか。それはこの「これに聞け」から始まるのです。

 9節から13節は、続けて山から下りた時の話しが報告されています。主イエス様はご自身の変容を、復活の時まで言ってはならないとされます。そして11,12節には、すでにエリアは来たのだと言われます。ここでイエス様はバプテスマのヨハネが来たるべきエリヤだったとされているのです。そして、このエリヤがヘロデ王の誕生日のお祝い会の時に、妃にそそのかされた娘の願いによって、首をはねられ、祝宴の余興となるのです。この世でもっとも正しい義人、主の道を備える為に派遣されたエリヤであるバプテスマのヨハネに、人々は、誕生祝いの余興として殺すことをしたのです。このことはまさに「人の子は苦しみを受け、辱めを受けて」復活することの証しです。
 イエス様は、十字架と復活の預言をされた以後は、まさに十字架を背負って復活する。イエス様が十字架を背負って復活されるからには、その後に続く私達もまた、十字架が避けられないことを示しておいでです。山上で変貌を遂げられ、全知全能の愛の神を証しされた方は、十字架の主でもあるのです。

 聖書は、真の神の証しで自ら変容をされる方、全能の主が、十字架の神であり、十字架の神は、全知全能の全き愛の神であると示すのです。これは逆説の隠れたる神ともいえます。私達は今コロナ感染で、入院もできずに死んでいかれる方の報告を毎日聞きます。日本がこうなるとは、誰も予想しなかったでしょう。でも、神様がおられるのか、どこにおられるのかという中で、主なる神さまは十字架を通って、私達に自らを示されていかれると信じます。コロナ感染中、じっくりと祈り、自分に示される歩みをなしていきましょう。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が続きます。どうかみ手をおいて、罹患した方、医療関係の方、保健所の方支えてください。コロナ感染を収束させてください。求道の方、病気療養の方、特に療養の状態の悪い方、ご高齢の方の特別の守りを祈ります。子ども園、児童クラブの保育も続いています。どうか感染が起こらないように、守ってください。今日からの教会員の信仰、魂、健康をまた1週間を守ってください。ミャンマーノ守りをおいてください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  エゼキエル書29章1〜7節  2021年8月29日
           「 立ち返って生きよ 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。先々週の8月15日に執事会では、8月13日に発表された鹿児島県独自の緊急時代宣言を受けて、9月26日までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。鹿児島県もこのところ100名以上の感染が連日続いています。又鹿児島県も自宅療養の方が増えて1000人以上になっているそうです。正直、何とかして欲しいと祈るのみです。感染者の方は、どんなにか入院を求め、心細かろうと思います。礼拝と祈祷会は、説教の原稿を教会玄関に置きますので、どうか個人的に取りに来られてください。又ご高齢の方には、遅れるかも知れませんが、説教の原稿を郵送していますので、用いてください。ライブ配信もしていますが、PCやスマホやIフォンをお持ちの方は、フェイブックですので、グーグルで「フェイスブック 日本バプテスト鹿児島キリスト教会・中山伝道所」のフェイスブックに入れるとライブを聴くことができます。またライブが終わるとそのままの状態で、録画が残っていますので、聞き逃されたら又聞くことができます。一ヶ月半ほどありますが、なんとかこれで過ごしたいと示されます。
 いつものコロナの感染者数をみますと、もうご存知の通りで、ここで言うことはありません。鹿児島県は独自の非常事態宣言となり、蔓延防止法が発令中です。警戒ステージは4になっています。一昨日で鹿児島県の感染者数はすでに7000人を越えております。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて聖書は、先週に続いてエゼキエル書で29章から開いております。こんな時期にエゼキエル書を聞いている場合かと怒られそうです。しかし、聖書は全くの昔の昔、今から2600年前の予言者ですが、その預言はなんとも現代に合っております。コロナ感染に日本政府は、なかなか対応できず、入院できないで死んで行かれる方が出ております。ミャンマーのクーデターを祈っておりましたら、こんどはアフガンの情勢が突然変わりました。アフガンもカブール空港の中継をみているともう無政府状態かも知れません。タリバンは空港の状況を正常化する力を持たないのか、わざと無政府状態にするのか、よく分かりません。
 とにかく聖書の預言者達が、ここではエゼキエルですが、イスラエルの信仰の状態、イスラエルの王とその政治の状態、さらに個人の信仰の状態だけでなく、世界の審判をして行くのは、現代の感覚でも分かります。私達は、今2021年に生きていますが、改めて、個人は国や民族や氏族や家族あっての個人であり、国や民族、氏族や家族も又個人あって繋がっていると言えます。2600年前に預言者達がイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモスと主だった預言者が、世界の動きを預言して言ったのは、今私達が、否応なしに、ミャンマーの状況やアフガンの状況を知らされ、祈らされるのと同じだと思います。私達は一つの国だけで立っているのでなく、隣人が幸せでないとこちらも幸せになれず、又自分が幸せでないと、隣人の幸せを祈るような状況になれないという関係にあります。

 エゼキエル29章は、25章から始まる諸国の預言の最後の国、エジプトの審判となっています。すでに語ってきましたが、エゼキエルは諸国民の預言を7つの周辺諸国について語っています。7はおそらく完全数だからと言われます。アンモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ティルス、シドン、そしてエジプトです。今まで読んで行きましたがアンモン、モアブ、エドム、ペリシテ、シドンは非常に短く、ティルスは3章とそしてエジプトは4章に渡り、他国の預言を遙かに凌駕しています。それは、すでに語りましたが、エジプトがある意味で、関係の深い国であり、異邦人の国、異教の国の代表となっているからです。ここで本来はあるべきバビロンというエゼキエルが連行され、捕らわれている国がありません。本来は、バビロンについて語って欲しいです。しかしそれは自分がいる国であり、そう簡単に語れなかったのです。予言者達もまた時代の制約、自分の置かれた場所によって、預言ができることとできないことがあるのです。預言者もまた、地上に生きている人の子なのです。

 1節あるように、このエジプトへの預言は、第10年10月12日とされます。バビロン第2次捕囚のエルサレム陥落の半年前になっています。アフガンはあっとう間にタリバンの支配に服しました。しかし、エルサレムのこの時はエレミヤ哀歌にもあるように、非常な難儀な困難な戦いでした。エレミヤ52章では第9年10月10日にエルサレムはバビロン軍に包囲され、第11年4月9日に城壁が崩れたとあります。従って約1年半年戦ったことになります。その戦闘の死者はいくらか分かりませんが、エゼキエル37章の復活の章では、おびただしい骨とあります。またエレミヤ哀歌4章では、食料が尽きて、赤ちゃんが食べられたことまで書かれています。大変な戦争でした。
 そして、バビロンが優勢でしたが、なんとバビロンに立てられたゼデキア王は、第1次バビロン捕囚から6年目ごろからエジプトを頼り、バビロンに反旗を翻します。詳しいことはわかっていませんが、イスラエルには最後までエジプトに頼って国を強くする、国を復興する勢力がありました。またエジプトもそのような勢力と結び、イスラエルを自分たちの思うとおりに動かしたかったようです。何度か語りましたが、イスラエルの偶像礼拝の中に、エジプトの神々がでて来るのは、その証拠です。

 3節にしかし、主なる神様は「私はお前に立ち向かう」と言われました。それは、主なる神様は、エジプトに頼ることは常に、エジプトの神々に頼ることになるからです。神様と言うのは、常に全知全能の性質がつきものです。それは、どうしても実際の目に見える軍隊とか政治力、経済力になります。国が強ければ強いほど、その国の神様も評価され、強い神となり、最後は真の神となるのです。しかし、聖書は大きな逆説があり、強い神だけでは神とならず、義の神つまり正しさと愛の神、憐れみが問われました。主なる神は、強いだけの神を偶像として、「立ち向かう」とされるのです。
 ここには出エジプト以来の神様の信仰があるのだと思います。エジプトから脱出させてくださる神は、エジプトの神様よりも強い神様です。しかし、イスラエルを愛し、その奴隷を解放してくださる神様なのです。全能の力と全き愛が結びついて、そこに真の神様が示されます。これは隠れたる神とも言えます。全能と全き愛が神様において、結びつくのか。その結びついた逆説が、聖書の主なる神様です。

 3節に示される「ナイル川の真ん中に横たわるワニ」として、エジプトは示されます。これは当時からエジプトを示す言い方だったそうです。そして、このワニは「ナイル川はわたしが造ったものだ」と言っていました。ナイル川はもちろん自然が造ったものです。自然は神様が創造されたものです。しかしエジプトは、このナイル川に灌漑をほどこし、小麦の穀倉地帯を作り出しました。これをもってナイルは自分たちが造ったものとしたのです。本当は、ナイル川を上手に利用しただけですが、自分達が造ったというところに、エジプトの高慢が示されています。
 不思議なことに人間は、高慢になると自分から自滅していくことが歴史の教える教訓です。最近の自然でいうとカスピ海がありますが、ソビエト時代にカスピ海の水を灌漑に使うことをして、今やカスピ海は干上がる寸前です。もう元に戻らないらしいです。何キロも湖水が縮小しています。自然の力を人間がコントロールできると過信したつけです。
 主なる神は、ナイル川からワニに鉤をかけて引出し、5節には「荒野に捨てる」と言われています。人間のワニ漁を、エジプトの滅びに重ねて示しています。ワニが、ナイル川を造られた創造主に栄光を返さず、自分の住むナイル川を自分が造ったとして、自分を神の場所に置く時、エジプトは、ワニのように陸上げられ、地面に倒れたままになるのです。その時、ワニと一緒に上げられた魚もまた死んでいく。そして野の獣、空の鳥の餌となります。つまりエジプトの王だけでなくて、その高官たちも一緒に滅びるしかないということです。

 箴言16章18節の前の口語訳聖書では「高ぶり(高慢)は滅びに先立つ」とありました。人が人の子としての限界を知らず、自分が神の位置に来るとき、すべてが滅びの前兆です。イソップ童話に、サルが上手に踊って人に褒められたのを見て、ロバが猿の真似をして踊って、人間を踏みつけ、お払い箱になる話があります。自由を自分の為だけに使い、本当に主に仕えることを忘れると生きる意味を失うのと似ています。

 6,7節はエジプトの地位が、イスラエルによって測られています。エゼキエルが示したかったのは、これであるとも言われています。エジプトの価値は、世界の評価によって計算され、その評価が示されるのでないのです。イスラエルにとってどうかということが、エジプトの評価になるのです。これは、日本に住む私たちはよく分かりません。しかし、実は今もこの判定は正しいのかもしれません。それは、イスラエルはやはり神の民であり、この世における神様の存在を失礼ですが、あれでも示す国だからです。エジプトの評価はイスラエルによって測られ、イスラエルは又、エジプトから測られるのです。
 エジプトは、イスラエルにとって葦の杖にしかならないとされます。葦は、川の岸に生える風になびく高い草です。あまり使い道のない植物ですが、一番悪い使い道が、葦で杖を作ることです。そんな杖は役に立たないのです。重量をかけたら、葦の杖はすぐに折れるのです。エジプトはまさにそれだ、とここでエゼキエルは言うのです。エジプトは、イスラエルをバビロンへの謀反に導き、結局第2次バビロン捕囚は、完全なエルサレム神殿の滅びとなりました。言ってみればエジプトの誘惑が、イスラエルを滅ぼしたのです。もちろん、ここでだからエジプトの責任とはならないでしょう。反旗を起こしたイスラエルが悪いのです。責任を持つのです。しかし、エジプトの誘惑は大きかったのです。なぜ、ゼデキア王はバビロンに反旗を翻したのか。バビロンの傀儡政権だっただけに、余りに無謀な判断、その狂気の経過は分かりません。

 ただ、エルサレム神殿に最後までエジプト神々や太陽神が祭られていました。つまり偶像は狂気を起こし、冷静な判断を誤らせるのとも言えます。このコロナ感染の時代は、私たちは、何を祈り、何を神様に求めるべきであるのか。十字架の神様で、復活の主が何を求めておられるのか。全能の主が、感染に許可をされているように見える時代、私たちは隠れたる神様の意志を求めて、祈ることが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染が酷くなり鹿児島県の非常事態宣言と蔓延防止法とステージ4になりました。どうか守ってください。水害の復興が行われている所、み手を置いてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブの保育を守ってください。ミャンマーの平和、アフガニスタンの平和を導きください。1週間の教会員の信仰、健康、魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン。」

 教会 説教  エゼキエル書18章30〜32節  2021年8月22日
           「 立ち返って生きよ 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。先週の8月15日に執事会では、8月13日に発表された鹿児島県独自の緊急時代宣言を受けて、9月26日までの礼拝と祈祷会の休みを決めました。17日(火曜)は、252名となる感染者を出して、300人もあるのでないかと言われています。
 礼拝と祈祷会は、説教の原稿を教会玄関に置きますので、どうか個人的に取りに来られてください。又ご高齢の方には、遅れるかも知れませんが、説教の原稿を郵送していますので、用いてください。ライブ配信もしていますが、PCやスマホやIフォンの方は、フェイブックですので、「鹿児島教会・中山伝道所」のフェイスブックに入れるとライブを聴くことができます。またライブが終わるとそのままの状態で、録画が残っていますので、聞き逃されたら又聞くことができます。一ヶ月半ほどありますが、なんとかこれで過ごしたいと示されます。
 また雨の被害も多く、前線がこんなに長く同じ所に留まるのは、原因は分からないとされますが、地球温暖化がいよいよ本格的に起こっているのでないかと思わざるを得ません。ではどう生きたらいいのかが難しいですが、私達は、自然のとの和解というか平和もまた考えて生きなければ、やはり大きなしっぺ返しを食うことは確かのようです。10年に一度、50年に一度が、毎年や2年毎では話しに成りません。炭酸ガスやエネルギーの節約も本当に大切な問題となっています。

 いつものコロナの感染者数をみますと、もうご存知の通りで、ここで言うことはありません。鹿児島県は独自の非常事態宣言となり、警戒ステージは8月13日からステージ4になりました。一昨日で鹿児島県の感染者数はこの日曜日には6000人を越えているでしょう。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書は、エゼキエル書18書から読んでいます。実は、月に一度の連盟発行の『聖書教育』が7月8月をエゼキエル書としております。これにかかり、祈祷会、主日礼拝、そして実は次の第5週もまたエゼキエル書になっています。続くのはどうかとも思いますが、ある意味でエゼキエル書の達人とは行かなくても、かなり詳しくなるのは、良いことかと思っております。エゼキエルは特異な預言者であり、預言者とは、こういう人かと言うのが分かるのでないかと思うのです。
 エゼキエルはその40章1節には「我々が捕囚になって25年」と書いており、エゼキエルは改めて25年間以上に渉り、バビロンに連行されてバビロンで預言活動をした預言者でした。エゼキエルは難しく奇想天外の預言者で分かり難い預言者です。しかし、考えてみるとエゼキルの預言活動が、バビロンから帰ってくる帰還イスラエル民を準備したのです。エレミヤは実は29章14節において「私は捕囚の民を帰らせる。…そこから再び集め、…元の場所に連れ戻す」と言われました。しかし、エレミヤ書29章17節には、「エルサレムに残ったイスラエルは腐ったイチジクになる。…私がわが民に行う恵みの業に預かるものは一人もない」と言われました。
 私達は苦難を受けた民で、バビロンに連行された民が、帰って来て再びイスラエルを受け継ぎ、バビロンに連行されずに残された民は、そのために返って主の言葉から離れて、腐って行くことを知らされます。どうしてそうなるかと言いたいです。一つにバビロン連行の様な厳しい苦労や苦難もまた、やはり信仰を作っていくことです。ヤコブ書1章2〜4節には「いろいろな試練に出会うときに、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば完全で申し分なく、何一つ欠けた所のない人になります」との約束を書いています。
 エゼキエルは改めて、このバビロン捕囚連行された民に、主の御言葉を語り、エレミヤが預言した通り、イスラエルに帰還する信仰が与えられ、第2神殿を建てるところとなったのです。私達は改めて、ヤコブ書のいう約束が単なる荒唐無稽でなくて、イスラエルの歴史であったことを知ります。

 30節には、主なる神さまは「一人一人をその道に従って裁く」と言われました。実は、エゼキエル18章全体が祈祷会の説教にもありますが、「各人の責任」というテーマなのです。読みませんでしたが、18章2節にはその当時言われていたことわざ「先祖が酔いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と書かれています。ここには、自分たちのバビロン捕囚への連行を、自分たちの罪でなくて、先祖の罪、祖父の罪とする信仰があったのです。つまり運命論と言ってもいいでしょう。今も自分の責任を逃れるために、環境の責任、遺伝子の責任を言う人がいます。もちろん、反対に路上生活者を個人責任論で言う人もいます。今有名なユーチューバーが路上生活者の個人責任論を語り、路上生活者を支援する会の多くが、異論を掲げています。とんでもないです。いつもでも私達は、路上生活者に成り得るのです。社会が守る生活保護、憲法の語る基本的人権は不正支給が言われても、大切な保護の理念です。
 しかし、ここでは神様に対する関係が言われています。運命論でなくて、神様がイスラエルの民を捨ててしまわれたのでなくて、たといそうであっても、神様は悪人が死ぬことを望まれないのです。「すべての背きから立ち返れ」と言われ、「罪がお前達を躓かせないようにせよ」と言われるのです。エゼキエルはこうして、バビロンの民がいわば運命論に意気消沈しているときに「悔い改めよ」と語ったのです。運命論に対して、個人の役割、個人の意思を高めたのです。
 しかし現実には、本当にどうなのかは、言えるでしょう。現実に、環境が非常に悪くてどうにもならないのがあります。現実に、芸術の才能があったが、家のお金が続かなかったとかあります。しかし、ジャマイカのウサイン・ボルト選手のように、背骨が曲がってもともと陸上の100メートルに向いていない体だった。しかし、特別な努力をして筋力をつけ、それを克服したと言うのもあるのです。
 エゼキエル18章で展開する個人の責任は、確かに間違って使うととんでもないことになります。しかし、バビロンに連行され、もう自分たちの罪は赦されず、このままバビロンで滅びるしかないと思って連行された民には、全く新しい呼び掛けとなったのです。主にあって、恵みにより、また悔い改めて再出発できるのです。

 31節は、エゼキエルの呼び掛けです。「お前達が犯したあらゆる背きを投げ捨て、新しい心と新しい霊を造りだせ」と語ります。ここには、新約聖書と繋がる信仰があります。それは「新しい心と新しい霊」です。エゼキエルは確かに、行為・行動を問題にし、それが具体的な悔い改めの姿です。エゼキエルは、心情的に感情的に神様に繋がることはほとんど言いません。18章5節に正義と恵みの業があります。それは具体的に「山の上で偶像の供え物を食べず、…偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えたものに自分のパンを与え、裸のものに衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、私の掟に従って歩み、私の裁きを忠実に守る」と言っています。非常に具体的です。
 ここで私達は、マタイ伝25章の最後の審判の時、イエス様が言われた最後の審判の条件、羊と山羊、右と左に分けられる時を思い出されるでしょう。マタイ伝25章34節以下です。「天地創造の時からお前達に用意されている国を受け継ぎなさい」と言われて、その内容は「飢えていた時食べさせ、喉がかわいいていた時飲ませ、旅をしていた時宿を貸し、裸の時着せ、病気の時見舞い、牢にいた時尋ねてくれた」となっています。実際は、それをした人は、それを知らずにしていたのです。何か意識してそうなったのでなくて、もう困った人がいたらとにかく、手が先にでて助けてしまったということだと思います。
 つまり「新しい心、新しい霊」と言っていいでしょう。つまりイエス様はエゼキエル18章のこの預言を知っておられたのだと思います。知るというのはチャンと読んでおられたとか、覚えておられたというのでなくて、まさにエゼキエルの預言を生きられていたということです。ヨハネ伝16章13節にはイエス様は「その方が、すなわち真理の霊が来ると、なた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と言われました。新しい時代は、新しい霊と新しい心が必要であり、主は、エゼキエルの預言通りに、それを実現され、聖霊をいつも私達に注がれるのです。

 最後の32節は、主は「誰の死も喜ばれず、イスラエルが立ち返って、つまり悔い改めて生きることをお求め」ですとあります。主は私達がどこからでも、立ち帰ることをお求めです。エゼキエルより500年ほど前に士師記の時代があります。そこにはギレアドのエフタの誓いと言う話しがあります。エフタが神様にアンモン人に勝たせてくれたら、家から最初に出てきた者を主に献げますと約束した話しです。最初にでてきた娘が自分の一人娘でありました。そこはそこで大変なことす。しかしその前の段階で、実はエフタは遊女の子でした。正妻が子を産んでエフタは、追い出されます。エフタは仕方なく、ならず者を集めて暮らしていたのです。しかし、アンモン人が台頭して、イスラエルに戦争を仕掛けてきます。これに対応する人がイスラエルにおりませんでした。エフタは呼び出されたのです。そのとき、エフタは「あなた達は父の家から私を追い出したのに、今頃指揮官になってくれと言うのか」と文句をいいました。しかし、この務めを受けた話しがあります。
 エフタは、ある時は追い出し、ある時は指揮官になってくれというギレアドの人々の優柔不断にあきれます。しかし、神様の召しと受けたのだと思います。つまり問題は、いつでもどこからでも、又主に「立ち帰って、生きる」ことです。自分は何者であるか、自分は何をなすべきなのか。自分に信仰はあるのかと問う時があるものです。しかしその時は、その時もまた「主に立ち帰って生きる」のです。私達の歩みはそれの繰り返しと言えるでしょう。

 エゼキエルは連行され、バビロンに捕囚された民と共にいました。もうイスラエルに帰ることはない。もう神様は、イスラエルの国を建てることは無いと思っていました。しかし、エゼキエルは、どんな状況にあっても「主に立ち返って生きよ」と語り続けました。そして、ほとんど見える希望は無かったのです。しかし、最終的にはバビロン連行されたものが帰ってきて、エルサレムに残された者は第2次バビロン捕囚で完全に滅ぼされたのです。エゼキエルの外国での小さな預言が用いられたのです。私達も、いつでどこからでも、主に立ち返って生きたいと示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ。大変なコロナ感染の中に私達はあります。どうか守り導きください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブの保育を守ってください。ミャンマーやアフガニスタンにみ手を置いてください。1週間の教会員の信仰、健康、魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン。」

 教会 説教  エフェソの信徒への手紙4章1〜6節  2021年8月15日
         「 平和のきずな 」 ―平和礼拝―
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日戦後76年が経ちちょうど8月15日を迎えました。いつもの通りに平和礼拝として、先の戦争と平和について考えつつ礼拝を守ります。例年であればこの時期には戦争体験に基づくいろいろな記録ドキュメントがテレビで放映されます。いいものが多くそこからヒントを得て語ることが多かったです。しかし今年はオリンピックがありまして、どこの放送局も特別番組を組めなかったようです。新聞のテレビの案内をみても、戦争関連のドキュメントはほとんどありませんでした。
 どうしようと思ったのですが、思い付きみたいで申し訳ないのですが、先週から続くこの線状降水帯の発生による水害の報道を見てテレビは10年に一度とか50年に一度といいますが、鹿児島は今回は免れましたがほぼ毎年でないのか。やはり私は気候変動を思わざるを得ません。つまり私たちはミャンマーの平和や北朝鮮との平和また韓国との外交や中国の海洋進出やらの国際関係の平和があるのですが、そのすべての根底である自然との平和つまり環境との平和が大丈夫なのかと思わされています。コロナ感染もまた気候温暖化と関係があるのかないのかですが、根底には気候変動があるとすれば、自然の平和、環境の平和を、現代は考えるべきかもしれません。 

 さてコロナの感染者数をみますと、とうとう鹿児島県は独自の非常事態宣言となり、警戒ステージは8月13日からステージ4になりました。一昨日で鹿児島県の感染者は4990人となり、鹿児島県はこの1週間で743人感染者となっています。まさに感染爆発の状態です。東京はとうとう5000人を超える日々がでてきました。ほぼインド株に置き換わり感染力が増大です。このまま収まってくれることをただただ祈ります。私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は聞かれないのでないかと疑問を持つ方もあるかもですが、しかし、ピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。
 さて聖書は、平和礼拝としてエフェソの4章の平和のでてくる聖書を拾ってみました。いつもはなんといってもマタイ伝5章9節の「平和を実現するものは幸いである。その人は神の子と呼ばれる」と言う個所から聞いています。ここは何度読んでもすごいと思います。それは提示される平和の創造者、実現者のすごさもですが、そのなしたものの約束が「神の子と呼ばれる」となっています。8福と呼ばれるイエス様の山上の説教の中で最高の約束でないかと思うのです。

 さて本日の聖書はエフェソ書4章からです。エフェソ書は1章1節に「パウロからエフェソにある聖なる者たちへ」となっています。ただ最近の写本研究ではこの「エフェソへ」という所が、一番古い写本群ではないことが言われ、この手紙はエフェソに充てられたものでないのでないか、つまり多くのキリスト者キリスト者一般でないかとされます。それならエフェソの特別な事情をあまり考慮しなくて読んでもいいと言う事になるかもです。エフェソ書は宗教改革者のカルバンが好きだったと伝わっており、特にエフェソ書の語る教会とキリストの体の教えが、カルバンを導いたようです。エフェソ書を一言でいうとすれば「あなた方は主イエスの恵みによって、信仰によって救われた。だからキリストに結ばれて歩みなさい」となるでしょう。
 特に4章の前半部分は1節の表題に「キリストの体は一つ」となっています。一つである信仰が強調されています。1節には「招きにふさわしく歩みなさい」と言われています。4章1節をみるとパウロはこのエフェソの手紙を、囚人の時に書いたようです。実は3章1節にも自分が囚人であると書いています。パウロはどこで捕らわれてエフェソの手紙を書いたのかよく分かっていません。しかし今スリランカの女性の方が、入管に投獄されて病気にも関わらずお医者さんに診てもらず、亡くなられたことが、問題になっています。ビデオを見せられて、家族が泣き出したとか伝えられています。詳しく分かりませんが、入国管理局の人権感覚の低さが問題になっています。

 パウロはしかし2000年前の刑務所です。今でさえもこんなことがあるのですから、2000年前の刑務所は、どうだったのだろうか。ほとんど希望を抱くことは不可能だったのでないかと思います。しかしパウロは「主に結ばれて囚人となった」として、とても悲しんでいるように思えません。ローマ帝国の刑務所は、今よりしっかりしていたのでしょうか。そんなことはないでしょう。食べ物も十分でないでしょう。裁判もせずにいつ殺されるのか分からんでしょう。しかしパウロは、獄中でこの手紙を書き、しかも「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩め」というのです。
 パウロの力はどこからくるのか。それはこのキリストの召しでないかと思うのです。なかなか召しが力になることは少ないと思います。皆さんが苦しみに会う時、病気の時、うまくいかない時、自分は主に召されたのだから大丈夫と言える方は幸いです。パウロには確信がありました。それは何度も言いますが、パウロは自分がキリスト者の迫害者であったのです。言行録9章2節にある通りです。しかし神様はあえてパウロを選び召されたのです。これはパウロには大きかったのです。選びに値しないものを主イエス様は選ばれた。つまり召しには自分の罪の認識が深く関連していると思われます。キリスト教信仰は、罪の意識に比例するとも言われます。反対からいうとキリストの十字架が分かった時、実は私たちは、自分の罪が分かった時なのです。召された召しに生きなさい、これを深く生きたいと示されます。

 2〜3節は実はコロサイ信徒の手紙3章12節にもあります。コロサイ書3章では5つの徳目です。憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。しかしエフェソ4章では柔和、寛容、愛、忍耐となって4つになっています。コロサイとエフェソに共通しているのは柔和、寛容、愛です。そして4つの徳目が、平和の絆による一致となり、霊の一致と続きます。つまり柔和と寛容、愛は、平和の絆であることが分かります。
 先の戦争はあまりにも多くの犠牲でした。そこには、大量破壊兵器である原爆もあります。広島14万、長崎7万があります。しかし通常兵器での死傷者も沖縄戦20万の犠牲は9万の日本の戦闘員と沖縄の非戦闘員が9万で米兵その他が2万という数字です。数字だけでも本当に酷い戦いです。しかしタイムズ紙の統計では、お隣の中国は1130万、ソ連が2150万、ドイツ515万、ポーランド662万です。日本は310万となっています。ドイツとポーランドの死者数には、アウシュビッツのユダヤ人たち600万のホロコーストともいわれる人たちが入ります。山川出版の『世界の歴史』では、第2次大戦の死者数は世界では4865万だったのでないかとなっています。
 ものすごい数です。8月8日迄のコロナ感染者の世界の死者数は、435万だそうです。自分たちでなした戦争の方が、コロナ感染の死者数よりも10倍以上違います。つまり戦争はやはり人類の一番愚かな選択です。そして柔和、寛容、愛と言う平和の絆は一見弱弱しく、見栄えがしないのです。しかし振り返ると改めて本当はすごい働きであることが示されます。
 私たちはコロサイ書とエフェソ書が一致して語る柔和こそ、実はイエス様の山上の説教のマタイ伝5章5節の言葉であったことに気づきます。「柔和な人たちは幸いである。その人たちは地を受け次ぐ。」そしてこの柔和とは、単なる優しいとか、当たりが柔らかいという意味でなく、抑圧されても、圧迫されても、馬鹿にされても、主の召しに従い歩む姿であるとも言われています。つまりここにイエス様はご自身の歩みそのものを、入れられたとも言われるのです。

 パウロが、エフェソの手紙で、召しに歩む姿に柔和をもってきたのは、イエス様の山上の説教を弟子たちに聞いたことからでないのか。また自分自身が復活のイエス様から召しを受けたことから、自分こそイエス様の柔和の姿に従い、主の福音を伝えたいという事だったのでないのかと思います。パウロが霊による一致を目指したのは、何か一緒のことをするとか、同じ目標を目指すとかよりも、真の霊の一致を求めたのです。CSルイスの本に『キリスト教の神髄』という本があります。完全に賛否両論分かれる本です。私が一番この本で覚えているのは、アメリカのクリスチャンの軍人とドイツのクリスチャンの軍人が、ノルマンジー西部戦線で対面して打ち合いをした。アメリカの軍人の凶弾がドイツの兵の頭に当たり、ドイツ兵の凶弾がアメリカ兵の頭にあたった。2人は肩を取り合って一緒に天国に登って行った、というくだりです。ここでキリスト教はなんの役割も果たしていないという方があるでしょう。しかし、人間の限界の中で、それぞれを天国に入れてくださる神様がいるということもできます。キリスト教は何の役にも立たんと言う人と、キリスト教は人間の罪と限界を知っているという人に分かれるでしょう。ここで私たちはどう信じるかが問われるのです。

 最後に5,6節にパウロは「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべての父である神は唯一である」と書いています。そうです。神様は一つなのです。多くの神々があって争っているのではない。一人の唯一の父なる神様がいますのみです。神様は1つである。ただし、人間には父なる神様、子なる神様、聖霊の神様に見えるのです。しかし、3神があるのでない。神は唯一なのです。これは非常に大きいです。戦争もアメリカの神様、中国の神様、ドイツの神様、日本の神様が戦うのでないのです。唯一の神様の元に、私たちはあるのです。ここを外すとどうにもなりません。ヨブの苦しみは、サタンと神様が争っているのではないのです。神様がサタンに許可をしたのみです。私たちは唯一の神、主なる神、イエス様、十字架の神様から課題を受け、委託を受け、召しを受けてこの世を歩むのです。ここを信じて生きるのです。つまり良いことも悪いことも、主なる神様から頂くのです。良いことだけ受けるわけにいかないのです。

 個人と個人の平和があります。国と国の平和があります。そして今コロナ時代は、なんと地球温暖化という自然との平和が問われるのです。海面上昇のノアの洪水は、自分が死んだ後でいいからという訳にいかないようなのです。2030年の分岐点、ノーターニングポイント(自然が元に戻れない時点)が来るらしいのです。自然が元に戻れないかもしれないと言われるポイントがすぐに来るらしいのです。私たちにできることが限られていますが、それでも自分たちにできることが少しあります。エネルギーの節約です。戦争を避ける決断です。人と自然に対して平和に生きる決断です。7月28日に召天された右田さん、1昨年出席できる最後の辺の祈祷会に出てこられた時に「今一番自分が守りたい聖句はローマ書12章18節です」と言われていました。「せめて、あなた方はすべての人と平和に暮らしなさい」です。右田さんらしいと思いました。また平和を考える時、まず自分たちもここからだと示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染が酷くなり鹿児島県の非常事態宣言とステージ4になりました。どうか守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。お盆の守りを置いてください。子ども園、児童クラブの保育を守ってください。1週間の教会員の信仰、健康、魂を守ってください。ミャンマーの守りをおいてください。み名によって祈ります。アーメン。」

 教会 説教   ヨハネの黙示録8章6〜13節   2021年8月8日
              「 ラッパを吹いた 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は早いもので8月の2週目の主日礼拝となりました。2週目はいつものように12使徒の手紙から聞くということで、長老ヨハネの黙示録を開いています。ヨハネの黙示録は、ローマ帝国に逮捕されたヨハネが、パトモス島に幽閉され、ここで神様の幻を見て伝える手紙になっています。内容は奇想天外で本日の読んで頂いたところも、正直ここだけ読みますと7人の天使が順番にラッパを4回吹いて、その後に地上にいろいろなことが起こったのか、の印象くらいではないでしょうか。何かここから神の言葉があるのか、私達への神の御心、神の意思、又生活の指針がどこにあるのか、と言いたいです。

 しかし、ラッパは旧約聖書時代では戦争の出陣開始を告げ、それが転じて新約聖書では、天使の出陣と重なり、これは世の終わりの開始と結びついています。一番有名なのは、マタイ伝24章31節「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」とあり、世の終わりの始まり、最後の審判、復活の始まりと関係させています。本日の黙示録のラッパもそのまま世の終わりの出来事ではないのですが、7つのラッパを4番目まで吹かれて、世の終わりを準備していくのです。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は4247人となり、鹿児島県はこの1週間で299人の感染者となっています。先週は130人で先々週は54人の感染でした。1昨日は86人が感染され、とうとう鹿児島県は警戒基準を昨日からステージ3に引き揚げました。ただただ祈るのみです。オリンピックも開催中ですが、東京は相変わらずの毎日4000人以上で金曜日は4515人、木曜日は5042人になっています。オリンピックの大会関係者のご苦労はいかばかりかと思います。ただただ止まってくれることを祈ります。いつも繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書は、ヨハネの黙示録8章から聞いていきます。6節から13節の所を司会者に読んで頂きました。書いてある通りにここは7人の天使が、ラッパを吹き、第1天使から弟4の天使まで吹きます。そしてそのラッパの吹かれた事に応じて、地上に多くの苦難が起こると言う事が4回繰り返されます。実際には最後のラッパは11章までですので、第7の天使までこのような出来事が起こります。このような審判の出来事がなぜ次々に起こるのか、どういうことかと思われる方が多いと思います。このような次々と災難が起こるので、すぐに思い出されるのは、やはり出エジプト記のモーセよって神様が起こされた12の災いを思い出すことができます。ご存知、出エジプト記7章から12章にかけてです。第1番は、アロンの杖が蛇となり、2番ナイルの川が血の川となり、3番ナイル川に蛙が大発生し、次に4番ぶよが大発生し、次に5番あぶが大発生し、次に6番家畜が死ぬ疫病が発生し、次に7番にエジプト全土に腫れ物が発生し、次に稲妻と共に雹が降り、次にイナゴが大発生し、次に暗闇が襲い、最後が、初子が死んでいくという過越祭の起源になった出来事でした。
 神様がエジプトに次々の災いをもたらされたのは、イスラエルの民を、エジプトから脱出させるため、出エジプトの為でありました。そうなるとなぜラッパが7人の天使によって、7回吹かれて、災いが地上で起こされるのか。モーセの時と重ねますと主は、災いの為に災いをなさるのではない。ローマ帝国おける迫害からキリスト者を救うために、ある意味で出エジプトならず出ローマをさせるためになされていると言えるのです。では、出ローマとはどういうことであるのかが、私達に問われて行きます。それは結論からいけば、ヘブライ書11章1節にある「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」とも言えます。また「神は私達の為に、更にまさったものを計画してくださったのです」と言うヘブライ書11章39節になってくるでないかと思います。つまり私達は信仰により、この世のいろいろな試練を受けて、神様が備える神の国を仰ぎ、神の国に向かって自分生活を整えていくのだということになるのです。この世に、多くの仕事があり、しなければならないことがあります。しかしそれは神の国のひな形であり、神の国への備えであります。それは又もアフガンの中村哲先生に登場して頂くことはないのですが、しかし信仰によって「自分が必要とされているなら、自分がします」と言うことであります。食べ物に困り、今日生きる為に必要なことがあれば、お医者の傍ら、全く素人の土木工事の用水路作りを、されたような出来事なのだと思います。

 7節から第1の天使がラッパを吹くと、血の混じった雹と火が生じて、地上に投げ入れられます。どういうことであるか、具体的には何が起こっているのかよく分かりません。地上の3分1が焼け、木々の3分の1が焼け、すべての青草が焼けたとあります。ローマ帝国にそのような出来事が歴史にあるのかどうか、分かりません。ただ幻の記述ですので、私達はこれを膨らませることができるでしょう。すると地上の3分の1を焼くとは現代的には、原爆や水素爆弾のことであるのか。木々の3分の1が焼け、青草も焼けたとは、これから始まる地球温暖化のことであるのか、想像たくましくすることができます。8月6日は広島原爆の日であり、明日は長崎原爆の日です。今年はオリンピックで特別番組がありませんでしたが、それでも「2021年1月22日に核兵器禁止条約が国連で発効しました。日本は参加していません」とのニュースが流れました。日本は被爆国ですが、核の傘のために参加しないでいます。「血の混じった雹と火」はどういうことか分かりませんが、事実そのようなことが起こるかもしれないのは、想像できるのです。

 8節には第2の天使が、ラッパを吹きます。やはり火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた、とあります。又火が出てきました。実は、不思議な事に第1,2,3の天使のラッパの応答は、全部火が関係しているのです。火が海に入るとは、ローマ帝国時代はどういうことなのか。さっぱり分かりません。しかし私達は火が燃える山というと、なんだか恐竜が絶滅したとされる地球と隕石に衝突を、思い出します。これによって、地球の気温が低くなって恐竜は滅んだそうです。6600年前の白亜紀と言われる時代です。なんだか気が遠くなる話しで申し訳ありません。しかし、火の様な山が降るとは、荒唐無稽の事実無根でなくて、あり得ると言うことです。9節には、海に住む3分の一が死んだ、とありますが、隕石の衝突では、アンモナイトや植物性プランクトンも恐竜と一緒に滅んだとされています。

 10節には第3の天使が、ラッパを吹きます。すると松明の様に(これは松明は火ですから)、燃えている星が落ちてきます。こちらの方が隕石らしいと言えます。しかし、この落ち方が、川の3分の一と水源に落ちたというのです。そして11節では、その星の名は「ニガヨモギ」とされ、これが落ちたところは水が飲めなくなって、多く人々が死んだとあります。これも荒唐無稽な話しではなく、福島の原発事故を思い出します。放射能を含んだ灰が風下に流れて、そちらの山は汚染され続けています。まさに水が飲めないのです。日本では、放射能をすぐに測定できますので、飲める水と飲めない水が分かるようです。しかも放射能は半減期が非常に長く、半分になるのに、何千年単位になっています。水源を放射能で汚染されたら、本当にどうしようもないといえます。放射能の汚水の海への流出が言われています。
 こうして、第1から第3天使までのラッパの吹かれた時の地上での災いは、すべて火が共通しています。そして火が関連し、連想するのは、干ばつではないでしょうか。干ばつといえば地球温暖化は、海面上昇による一方では洪水ですが、他方では干ばつです。中村哲先生の用水路も、アフガニスタンの希にみない干ばつがあって、用水路の地域開発になったと伝えられます。アフガニスタンの干ばつが炭酸ガスと関係あるのかは、難しいらしいです。しかし、炭酸ガスの大量放出は、炭酸ガスをほとんど出さない国を、巻き込んでしまうところに難しさがあります。

 12節には、弟4の天使がラッパを吹いています。ここには、太陽の3分の一、月の3分の一、星の3分の一が損なわれたとあります。これも具体的には何を言っているのかよく分かりません。ヨハネが住んでいたローマ帝国において、パトモス島において太陽、月、星の3分の一が損なわれ、その光量が失われるとはいかなることであるか。よく分かりません。パウロが伝道した時代のローマ帝国は、ローマの平和と言われるくらい、戦争がなく、法律が徹底され、パウロは何度もローマの市民権の為に救われたりしています。投獄から市民権で脱出したことも書かれています。
 パウロがローマに来れたのも、パウロは捕まりましたが、ローマの市民権によって正しい裁判を受ける権利を持ち、ローマに護送されたからでした。ローマ帝国の制度は、キリスト教の伝道を助けてくれたのは確かなのです。しかし、段々とローマ帝国は周辺の国を征服するに連れて、ローマ皇帝礼拝で、まとめるしか無くなってきます。ちょうど近代日本に成る時に、宗教としての天皇制を利用したのと似ています。

 12節の「夜も3分の1の暗さを失う」というのは、ローマ帝国の制度が、もうパウロ時代のように、伝道の為の支えになるのではなく、暗さつまり妨げになっていくことだと思われます。13節には、1羽の鷲が空高く飛び、大声で叫びます。「不幸だ、不幸だ、不幸だ」です。鷲とは何かが言われます。ローマ帝国の象徴という説があります。エレミアはバビロンを鷲と言ったことがありました。エゼキエルの見た神様は、1章の姿では4つの顔があり、その一つが鷲であります。つまり主なる神様かも知れません。主は、長老ヨハネに、鷲の幻を見させて災いを語ることで、当時のキリスト者達に、これから来るドミチアヌス帝の迫害の準備をさせているとも取れます。

 私達はこの世に生きていますので、この世にある間はこの世に生きるしかありません。それは迫害あり病気あり、苦難ありで、大変なこともあるでしょう。しかし主は「すべて疲れた者、重荷を負う者は私の下に来なさい。休ませてあげよう」と言われました。そして「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」とマタイ伝11章28〜30節に約束されました。今や、私達は地球温暖化の大きな課題があります。2030年までに炭素を半分にし、2050年までに0にしないと間に合わないとも言われています。無理であるとも言われています。しかし、エネルギー的には、各家庭は1970年代の生活だそうです。70年の後半にはエアコンは家に一個はあったと思います。エネルギー節約は、目標があります。イエス様の言われた通り、日々罪を告白し、主の十字架を負い、主に従い、自然とも平和を造り出す生活に進みたいと示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が酷く、鹿児島もステージ3になりました。どうか守ってください。お盆帰省も難しいですが、み手を置いてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りを置いてください。児童クラブ、幼稚園の夏期保育を守ってください。1週間をみ手においてください。会員一人一人を、み手におてください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マルコによる福音書8章31〜38節   2021年8月1日
              「 全世界を手に入れ 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は早いもので8月の最初の主日礼拝となりました。第1ですので主の晩餐を受けます。先週は、ご存知のように、右田兄弟が、水曜日7月28日午前8時12分に召天されました。平安祭典にて、前夜式と告別式を致しました。皆さんのお支えと祈りを心から感謝致します。右田さんの葬儀式を終えて、まずは寂しくなるなと思います。このところは教会に来られて無かったのですが、それでも生きておられることは、何かいつかまた来られるかもしれないという期待がありました。また、改めて右田さんの病気のことを思うと、本当にいろいろな十字架を背負いつつ、それでも守られ導かれ、祈って教会を支えてくださったことを改めて示されます。
 また今日はマルコ伝を読んでいますが右田さんは「自分の命を得たいと思う者はそれを失い、私のため、福音の為に命を失うものは、それを救う」の体現者、証し人でもあったのではないかと示される次第です。火葬場で分かったのですが、右田さんの掃除上手は実は、掃除のプロ、清掃で給料を貰った時もあったのですよと聞いて、理解しました。そんなこともあったのかと右田さんの歩みを考えさせられました。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3948人となり、鹿児島県はこの1週間で130人感染者となっています。先週は54人で先々週は36人の感染でしたので、鹿児島もいよいよ又微増から増になっています。まだ1週間で100人単位ですが、このまま鹿児島県は警戒基準がステージ2でいくのか又3上がるのか、ただ祈るのみです。しかしオリンピックも開催中ですが、東京は相変わらずの毎日3000人以上で昨日は4000人越えの感染になっています。日本勢も健闘して活躍しておりますが、イランの選手でしたか、イスラエルの選手とは戦えないと不戦勝されたとかニュースで流れておりました。まだまだ政治の中で選手が翻弄されるのがあるようです。大会関係者の苦労はいかばかりかと思います。インド株の感染が心配で、このまま収まってくれることを祈ります。いつも繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書は、第1週ですので本日は福音書から聞いていきます。本日は、ある意味でマルコ伝の頂点とも言える、イエス様がご自身の使命をはっきりと告げられたとところです。本日31,32節にある通りです。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺され、三日目に復活する」と言うことです。これまでイエス様は、神の国の教えを、いろいろな譬えや寓話や比喩で語って来られました。それは、マルコ伝4章33、34節には「イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くの譬えで御言葉を語られた。譬えを用いずには語る事が無かった」とあります。しかし今やイエス様は、ご自身の使命、委託、働きを「明確に、はっきり」と語れたのです。それはイエス様の時がいよいよ来る、主の十字架の贖いの時がいよいよ来ることを弟子達に示される必要があったからです。
 32節にあるように、ペテロは、イエス様の事を「あなたはメシア・キリストです」とマルコ伝8章29節に、はっきり告白しました。これはもちろん弟子達を代表した告白でした。しかしこの告白は、イエス様の苦難の十字架が入っていなかったようなのです。ダニエルが預言し、預言者達が、すでに世の終わりの預言と神の国の到来の預言をしておりました。「人の子」はダニエル7章13,14節によると「見よ、人の子の様な者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、その元に進み、権威、威光、王権を受けた」とあります。しかしここには、イザヤ53章4,5節が預言した、「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の傷み…彼が差し貫かれたのは私達の背きのためであった」という苦難の僕が出てきません。ペテロ達弟子達が「イエス様を脇へお連れして、諫め始めた」のは、まさにダニエルの預言の人の子の姿はありますが、メシア・キリストは、権威と威光と王権を受ける姿だけで来るのではない。イザヤ53章の姿を持つ、ということの気づいていないのです。

 33節にあるように、これは私達ももし、ペテロ達と同じところにいたなら、なかなか気付けなかったのでないかと思います。私達はやはりメシア・キリストが病気をし、障碍を持たずに、健康に暮らし、死なずに、私達を導くと考えたいのです。しかし、33節にあるように、主は真正面からペテロを叱られます。「サタンよ、引き下がれ(直訳は「私の後に従え」です)。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」といわれるのです。ここにはたとい主を信じる弟子であろうとも、神のことを思わないで人のことを思うときに、権威と威光と王嫌のメシア・キリストしか考えることができないことを言っています。しかし、神の事を思うとき、神様の御計画、神の御心を思うとき、メシア・キリストは、病気をしない、障碍を持たない、死なない方でなく、病気を担い、痛みを負い、死んでくださるメシア・キリストであるのです。私達の苦しみ、悩みを直に知る方、体験しておられる方であります。ヘブライ書4章15節には「この大祭司は私達の弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる天において、私達と同様に試練に合われたのです」とある通りです。
 右田さんが言っておられた「病気が自分の信仰を深くしてくれた」は、本当だと思います。本来は、病気をしないで健康で、元気で信仰生活を送りたいです。しかしそうならない時、私達は自分の病気を受けるしかありません。そして、なんでもかんでも神様のせいにしてはいけませんが、それでも神様からのこととして受ける時に、やはり、前進できるのだと思います。誰の責任かと原因と責任追及するのは、警察や検察官に任せて、信仰は、私達はそれを引き受ける時に、前進するのだと思います。

 35節にイエス様は「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために福音の為に命を失う者は、それを救う」と言われました。ここは、命が、魂とも訳せることばですので、自然的生命と内的人格的生命と分ける人もいます。つまり自然的生命を無くすが、内的人格的生命は生きるという取り方です。しかし、すでにご存知のように、聖書世界ではギリシャ世界のように、きちんと精神、魂、命を分けて考えることが余りないのです。つまり魂は命であり、精神でもあり、霊でもある。自然的生命は内的人格的生命でもあり、内的人格的生命は、自然的生命であるのです。重点の違いはありますが、きちんきちんと分けられない。
 厳密にはいえないのですが、しかし、基本的に私達は自分の命や利益を死守しようとして、それを失い、反対にもう損していいかと手放したときに、帰って命や利益が来ることを体験することがあるのです。いつのことだったのか、どうような文脈であったのか覚えていないのです。しかしやはり右田さんが、ある時、腹に据えかねたことがあって、怒ろうとしたら、その時、たまたま聖書のイエス様のことば「7を70倍赦しなさい」が聞こえて来た。赦したらとても良い方向に話しが進んだ体験を、話されたことがあります。このような話しは、右田さんでなくても時々聞くのですが、右田さんが言われるのとまた特別に聞こえました。

 イソップ童話に「鶏と鷲」の話しがあって、雄鶏が自分の支配を伸ばそうとして、次々と自分の支配領域を広げます。とうとう、もう誰もこれと戦う雄鳥がいなくなって、言ってみればその地域の王になるのです。屋根に登り、勝利の雄叫びをあげていると、なんと鷲が降りてきて一瞬にして、その勝利の雄叫びの雄鶏をさらって食べてしまった、というのがあります。「ライオンと鼠」もまた、ライオンがネズミ捕まえて、食べようとすると「ライオンさん、私は子どもが沢山います。ここで死ぬわけには行きません。どうか赦してください、いつかあなたを助けることがあるでしょう」と言うのです。ライオンはがははと笑って「お前ごときに助けてもらうことがあるわけがない、しかしお前を食べても、腹の足しにもならん」と助けてあげます。するとなんとある時、このライオンは人間の網に掛かりどうしても逃げることができません。するとそこにあの時助けたネズミが、子ども達を引き連れて、網を全部食いちぎって、逃がしてくれたのです。
 少しずれていますが、イエス様の言われた「自分の命を救おうとするものは、命を失い。自分の命を失う者は、実は命を得る」ことが宗教的にことでなくて、具体的な生活の中にあるのです。ましてやイエス様の為に、又福音の為に悪戦苦闘する時は、もっともっとこれが起こることなのです。

 38節には、当たり前かもしれませんが、改めて、イエス様は「私と私のことばを恥じる者は、人の子も又父の栄光に輝いて聖なる天使達と共に、来るときに恥じる」と言われました。これは明らかに、「私」つまりイエス様と「人の子」は同定され同じ事を言われていることが分かります。イエス様はあえて、ご自身のことを人の子と言われたのです。そんな面倒なことをしないでいいのにと思います。しかし、たとえ話の時もそうでした。あえて直接語らずに、譬えに話にして語られるのはなぜなのか。それは、聞く者、読む者をその中に入れる為でした。「あれ、これはどういうことだ」と自分で考えることなしには、神の言葉は分からないのです。イエス様がいつも自分のことを私で言われていたら、私達は、真剣に聖書を読み、また聞かないのです。人の子と言われることによって、私達は、ダニエル書を紐解き、エゼキエル書を紐解き、人の子とは誰の事だ、何の事だと真剣に考え始めるのです。

 人の子は、ダニエル書では権威と威光と王権を受けた力ある方です。しかしエゼキエル書では、全く特権をもたない力の無い只の人間を意味します。エゼキエルは只の人間として預言活動をするように言われるのです。力ある人の子か、只の人間の人の子か、私達はイエス様がご自身のことを人の子と言われるときに考えさせられます。イエス様の十字架を通って復活しますという宣言は、改めて、イエス様の後に従うことは、病気がなくて、障碍も持たずに、死ぬこともなくて生きることでないことを示しています。キリストの弟子とは、病気を持ち、障碍者となり、死ぬことを示されつつ、しかし、主が頸木を負ってくださっており、歩むのです。ですからマタイ伝11章30節「私の頸木は負いやすく、私の荷は軽い」という約束が付いています。主が頸木を負ってくださっている。だから、自分の十字架を負い、主の十字架の後に従っていけるのです。右田兄が、多くの病気を抱えて、しかし、恵みを受けて感謝して歩んでくださったのは、このことだと思います。私たちも恵みで続きましょう。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。右田兄が28日に召天されました。寂しくなります。どうか御家族に慰めを与えてください。あなたからの平安を与えてください。オリンピックがスタートしました。選手や大会関係者をどうかみ手において、コロナ感染から守ってください。続けて、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。小羊児童クラブ、子ども園の働きも夏休み保育をしています。どうか、守ってください。続けて、会堂建築をみ手においてください。ミャンマーに平和をおいてください。子供達は夏休みにはいりますが、事故の無いように守ってください。教会員一人一人の信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   ヤコブの手紙5章7〜11節   2021年7月25日
              「 心を固く 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は早いもので7月も最後の第4主日礼拝となりました。いつもように、第4週は日本バプテスト連盟が出しております『聖書教育』という聖書の学びの箇所から選んでおります。本日の箇所はヤコブの手紙5章からです。ヤコブ書はさっと読みますとヨハネの兄弟でイエス様の12弟子のヤコブだろうと皆さん読んでいると思います。しかし、実はイエス様の弟子でヨハネの兄弟のヤコブは、使徒言行録12章2節で、ヘロデ王に殺されております。ですから手紙を書くことはできなかったのです。初代教会の歴史を書いたエウセビオスの伝承では、このヤコブはイエス様の兄弟で次男だったヤコブと伝わっています。イエス様の兄弟の次男の手紙を私達はこうして読んでいることになるのです。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3818人となり、鹿児島県はこの1週間で54人の感染者となっています。先週は36人の感染でしたので、鹿児島もいよいよ又微増になっています。このまま鹿児島県は警戒基準がステージ2でいくのか又3上がるのか、ただ祈るのみです。しかしオリンピックも始まりましたが、東京は相変わらずの毎日1000人以上の感染になっています。オリンピックの開会式も無観客となっていました。ただ拍手が結構あったので、多かったのだろうと思います。選手や大会関係者の感染もあり、大変そうです。インド株の感染が心配で、このまま収まってくれることを祈ります。いつも繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書はヤコブの手紙の5章から聞きます。ここはあまり難しいことはなく、具体的な生活の教訓になっています。言ってみれば聖書がいつも言っている「忍耐しなさい」ということがテーマです。忍耐の徳目は、現代人が一番不得意の徳目でないかと新聞か何かで読んだ事があります。しかし忍耐の勧めがヤコブの手紙にもあるということは、忍耐は、現代人が特別に不得意でなくて、2000年前の人々もそうだったのだろうと思います。もし2000年前の人が、忍耐が得意であれば、わざわざこの手紙を書かなかったでしょう。
 ヤコブ書の忍耐は、一つの特長があります。それは7節に在る通りです。その根底に「主が来られる時まで」という時間制限があるということです。つまりヤコブ書語る忍耐はいつでも、どこでも、どんな時でもない。主が来られる時までと言う限定がついています。8節には「主が来られる時が迫っているから」とまで書いています。通常、この主が又来られることを再臨といいます。この再臨信仰が、ヤコブ書には厳然と生きているのです。と言うか、再臨信仰はヤコブの手紙というおそらく1世紀の終わり頃の手紙なのですが、きちんと生きているのです。つまり又主が来てくださるという信仰は、キリストの教の根本信仰であったと言えます。
 キリスト教信仰は、時代によってある部分が強調されることがあります。ルターはただ罪の赦しを、カルバンは教会論を、ウエスレーは聖化を強調しました。そしてバプテストは水に浸かる浸礼を大切にしました。今のペンテコステ派は、異言を大切にします。それぞれその時代時代で忘れられていたことが再発見され、また確認されて、用いられます。神様はそのようにして信仰箇条を用いてくださるように思います。
 そして、再臨もまた非常に大切な根本信仰です。私達はいつまでか分からないで、守れと言われても、とてもできません。非常事態宣言も、何月何日までであるからそこまで我慢しましょうとなるのだと思います。そしてヤコブ書は、忍耐は主が来られる時迄ですと限定があるのです。しかし主が来られる時というのは、限定になるのか。いつまでか分からないではないか、と言われそうです。そして、第2ペテロ3章8節「主のもとでは、1日は千年のようで、千年は1日のようです」とあります。私達は信仰において1日を千年、千年を1日として忍耐していくのだと示されます。

 さてヤコブは、忍耐の模範例を3つあげています。1つは農夫です。今は自分の生業としてのお百姓さんが少なくなりました。しかし農業を趣味や生活の為にしている方は多いです。そして、そこで多くのことを学びます。ヤコブの手紙を受け取る時代は、もちろんキリスト教会はそれこそ町や都市にできていきました。パウロの手紙もローマはローマ帝国の首都、コリントは港町、ガラテアも今のトルコの内陸の町、エフェソもフィリピ、コロサイ、テサロニケもそれぞれ、ローマの軍隊が駐屯するそれなりの町です。しかし集められた人々はやはり農業、牧畜業に従事する人が多く、それこそ多くの人は、食べ物の為の農業をしていたと思われます。
 ヤコブの手紙を読む人々は、農夫が秋の雨と春の雨を利用して、種を蒔き、収穫を期待して行くことを知っていました。雨が降らないと農業は成り立たず、雨の降り方で、作物の育ちが違っていくのです。さらに牧畜業となるともっと時間の感覚が必要です。羊や山羊は、出産の時期が決まっており、羊は毛を切り取る時期も決まっております。この前たまたま見ていたテレビで、羊の毛を一頭分刈って貰うのに、1万円ですと言っていました。どんなに頑張っても1人では1日に3〜4頭しかできないそうです。羊を傷付けずにきちんと毛を刈るには、長年の修業が必要なのだそうです。この方はイタリアに修業にいきました、とか言われていました。
 大地の実りは、雨が降ることを待ち、太陽の光を待ち、時が来ないと実りはありません。種を播いてすぐに収穫は不可能なのです。忍耐してお世話をする時間があるのです。羊であればもっとです。何年も牧草地を探して食べさせ、出産させ、毛を刈り、屠殺して肉を取り、一連の作業の後に収穫が待っています。ヤコブは、祈りの成就には、時に対する忍耐を農夫や牧畜業から学ぶ様に言うのです。

 9節には、忍耐に続き「不平を言わぬことです」と続きます。忍耐と不平とどういう関係にあるのかと言いたいです。しかし、忍耐が強いられる所では、自分の思った通りにできないのですから、不平が出るのだと思います。不平と言う言葉は、原意は「呻く」と言う言葉になっています。私達は知らない間に一人ごとの様につい、呻いてしまうとも言えます。そして不平では、いつも思うのですが、不平は人を傷付ける以上に自分を傷付けていることです。なぜそうなるのかよく分かりません。不平を言った後に後味が悪いからでしょうか。ヤコブは「裁く方がすぐ近くにきておられる」から、不平を止めなさいといいます。しかし、それ以上に不平はすでに、その語る人を裁いているように思います。
 ヨハネ伝3章18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」というのがあります。何の災いも人に又自分の身に起こっていないのに、なぜ「すでに裁かれている」と言うかと思います。3章19節に「光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている」と続くのです。裁く、裁かれる前に、光を愛するかどうかが、私達に問われており、裁きに前に、私達がどうあるのか、どうありたいのかが問われているのです。イエス様はそこを問われたように思います。

 10節には、2番目の忍耐の模範が言われます。それは旧約ヘブライ聖書の預言者達です。ここは枚挙にいとまがないのでしょう。多くの預言者達が主に召されて、忍耐と共に神の言葉の宣教をしました。忍耐の預言者といえば、エレミヤとエゼキエルが筆頭です。どちらもエルサレムのバビロン捕囚時代の預言者です。エレミヤは何と言っても、涙の預言者という別名があるくらいです。エレミヤ20章7節には「私は一日中、笑い者とされ、人が皆、私を嘲ります」と語っています。同じく20章14節「呪われよ、私の生まれた日は。母が私を生んだ日は祝福されてはならない」と語っています。神の言葉を語り、民から1日中物笑いになっているであれば、預言者を辞めれば良いのにと思います。
 実際にエレミヤは20章8節に「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思った」とあります。しかし、なんと「主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められた火のように燃え上がります」と言います。エレミヤは語りたくないのです。預言者を返上したいのです。しかし20章9節「主の言葉が、骨の中で燃えているので、それを抑えるのに疲れ果ててしまいました。私の負けです」と続きます。これはどういうことでしょうか。もう教会にいくもの嫌だ、あんな教会なんかどうにでもなれ、潰れたらいいのだ、と思い実際に言っているのです。しかしなんと主日になるとやはり足が礼拝に連れて来てしまったのです。エレミヤは「もう語るまい」と決心したのですが、またエルサレム神殿の庭に来て、神の言葉の預言を語り始めるのです。
 エゼキエルはもっと酷いです。一番は、私は24章16節です。「人の子よ、私はあなたの目の喜びを、一撃を持って取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない」というのです。ここで、エゼキエルは奥さんの急死を告げられているのです。同時にエルサレムの神殿の破壊が重なっているのです。奥さんの死を持って預言しろと神様はエゼキエルに言われるのです。「神様、いくらなんでもそれは酷くはないですか」と言いたいです。これはもう忍耐を越えています。しかしエゼキエルは「口を開いて語り、もはや黙するな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らは私が主であることを知るようになる」を24章27節として受けるのです。

 模範の3番目はヨブです。ヨブの忍耐はすでに何度も語り、語られてきました。7人の息子と3人の娘を皆殺され、全財産を無くし、自分はハンセン氏病に係り、奥さんからは「神を呪って死になさい」とまで言われた人生でした。4人の友人がヨブを慰めに来ましたが、なんと一人もヨブの気持ちを理解する者はなく、悶々とヨブは一人神様の取り扱いを忍耐したのです。そして最後に、主なる神さまはヨブに直々に出会ってくださり、人生の逆転を告げられたのです。ヨブもまたギリギリですが、神の時を待ちに待った人生でした。

 昨日のオリンピックは、35才三宅宏実選手が引退を表明され、32才の内村選手がまさかの鉄棒落下でした。しかし2人ともよく頑張られた選手でした。おそらく誰も文句を言う方はないでしょう。訓練に訓練、忍耐に忍耐の人だったと思います。
 ヤコブの言うように、私達も又主が来られる時を待ち望み、今を忍耐して、神の国の一端でも担いたいと示されます。中村哲先生がいつも言われていた「必要とされていれば私がします」です。主の恵み、主の赦しを得て、歩みたいと示されます。

 「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。7月も4週の礼拝を感謝です。先週は、非常事態宣言の中、オリンピックがスタートしました。選手や大会関係者をどうかみ手において、コロナ感染を守ってください。続けて、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。小羊児童クラブ、子ども園の働きも夏休み保育をしています。どうか、守ってください。続けて、会堂建築をみ手においてください。ミャンマーに平和をおいてください。子供達は夏休みにはいりますが、事故の無いように守ってください。教会員一人一人の信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
 教会 説教   エゼキエル書28章20〜24節   2021年7月18日
              「 私が主であること 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は第3週の礼拝となりました。いつもように、第3週は旧約ヘブライ聖書から聞くという方針で、エゼキエル書28章から聞いていきます。実は、エゼキエル書の28章の大部分の預言は、当時のフェニキアという国のティルスという都市の滅亡預言でした。しかしティルスの預言は26章から28章で3章に渉っております。いくらなんでも3回もティルスの滅亡預言はなかろうと、28章の後半部分に少しだけでてくるシドンへの預言から聞いていきます。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3764人となり、鹿児島県はこの1週間で36人の感染者となっています。先週は38人の感染でしたので、鹿児島だけ取ると、今週も又微減になっています。このまま鹿児島県は警戒基準がステージ3からに2、2からさらに1になってくれるように祈るのみです。しかしオリンピックのある今週は、関東と沖縄は緊急事態宣言継続となり、東京では毎日1000人を越える感染となっています。オリンピックは無観客となります。私が第2回目のワクチン注射を受ける時に、隣の叔父さんが「もっと早く打っておけば、日本もアメリカの大リーグのように、お客さん何万人もいれてできたのに」と言われていました。イギリスのワールドカップサッカーもですが、ものすごい人だかりでしております。日本ではしかし、ワクチンを打っておれば、本当にできたかなとも思います。インド株の感染が心配で、このまま収まってくれることを祈ります。いつも繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて本日の聖書は、シドンの裁きの預言となっています。シドンはエルサレムから北へ直線距離で200q離れた町です。鹿児島からですと北へ鳥栖か久留米くらいの所にある町です。当時、シドンはそれほど重要な町でもなく、解説書には7つの国の審判預言をするために7の数合わせにシドンを預言したという人もいるほどです。すでに見てきましたように、聖書の預言者達はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセアと主だった預言者は必ず、自分の民イスラエルへの預言のみならず、アッシリア、バビロン、エジプトと言った当時の超大国のみならず、本日のシドンもそうですが、小さい諸国に至までその運命を預言しています。 
 すでに語ってきましたが、預言達はどうして主だった国のみならず、小さくさして重要でもなさそうな国の将来を予言するのか。それは、全知全能の天地の創造主なる神さまにとって、預言の対象にならない領域は無いからです。どんなに小さい取るにたらないことも、主なる神様のみ手に内にあると言う信仰です。イエス様の言い方では「あなた方の髪の毛一本残らず数えてくださっている」(マタイ伝10章30節)神様なのです。イエス様にとって、すべての出来事がどうでもいいことで無いのです。預言者エゼキエルのシドンのへ預言もまずそのような神の小さい国、小国と言えども主の摂理とご計画にある事を示しめします。

 20~21節にあるように、エゼキエルはシドンに自分の顔を向けて、語るように主なる神様に言われます。この預言の時間は、これはティルスの預言を引き継いでいますので26章1節まで遡ります。つまり、ゼデキア王の11年つまりBC586、7年になります。これはエルサレムの陥落の時でありました。不思議なことに主なる神さまは、ティルスとシドンの裁きの預言を、エルサレムの陥落と年になされたことになります。この2年前にはエゼキエル25章にアンモン、モアブ、エドム、ペリシテの審判預言がありました。ティルスとシドンを、エルサレム神殿の破壊された年に預言するはどういうことであるのか。理由がよく分かりません。
 ただティルスはその審判の理由がエゼキエル27章3節に「私は美しさの極み」と言い28章2節には「私は神である」と言っていた。つまり高慢と傲慢に中にあったことが示されます。ティルスは傲慢と高慢の極みの中で滅びて行きました。しかしシドンは、読みました通り理由が示されていない。つまりシドンの罪が書かれてないのです。罪を示されずに審判され滅びていくのは、シドンは言ってみればかわいそうです。

 22節を読みましても、一方的にシドンは、神様が「私はお前に立ち向かう」とされ、「私の栄光」が現わされ、主なる神様の「聖なる事を示す」と言われています。シドンは言ってみれば理由なしに裁かれることになります。理由なしに裁かれると言うと、テーマとしては、私達は旧約聖書のヨブ記を思い出します。ご存知ヨブは「地上に彼ほどのものはいない。無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」ヨブ記1章8節に言われています。しかし、ヨブは試練・試みを受けるのです。それも、サタンと神様のある意味で掛けのような試みです。
 これは、正直言って「どうして」と言いたいです。しかし理由がないのです。あえていえば神様の秘密ということになります。ヘブル書12章6節では試練に対して「主は愛する者を鍛え、子として受け容れる者を皆、鞭打たれるからです。…神があなたを子として扱っておられるのです」とあります。この前のミャンマーの平和を祈る祈祷会の証しでは、ミャンマー人で女性牧師をされている方の証しでした。意外と在日のミャンマー人が多いです。この方は「私達は神様を疑うことは罪だと思ってきました。しかし、神様は疑うことを通しても、信仰を鍛えられるのでないかと思います」と証しされ「自分たちは日本で御飯が食べられるけれども、自分の少数民族達は今、御飯が食べられているだろうか」と涙を流しておられました。確かにクーデターという余りにも理不尽な政変はどうしたらいいのか、祈ることしか出来ません。シドンの審判預言は、主なる神さまが主の栄光と主の聖なることを示すためであるといわれのです。しかしその具体的な形は、戦争であり、血であり、国の滅びであるのです。

 23節には、エゼキエルは、主なる神様が「疫病と血と剣が迫る」と預言しています。これをエゼキエルは何度も預言していました。疫病と血と剣は、神様の審判の道具です。本来はこれに飢饉がはいるとされます。エゼキエル14章ではさらに悪い獣が入る事がありました。しかし、シドンの時は飢饉と悪い獣はありません。エゼキエルは、シドンに置いては罪を示さなかったので、飢饉と悪い獣をはぶいたのでしょうか。
 それにしても、又もここに疫病がでてきています。そして私達はまさに疫病のまっただ中にあります。通常、聖書の疫病は昔からペストのことだと言われてきました。カトリック教会から宗教改革が起こっていくその段階にも、もちろんルターの改革思想、信仰が一番です。しかし、その背後には疫病ペストの流行があるとされています。何万人という死亡の中に、当時の人々は、歴史の転換、神様のみ手を見ざるを得なかったのです。教会はそれでも病人を看病して、優秀な真面目な神父さんや信仰深い信徒さんから初めて、ペストに罹患して行き、死んで行ったとされています。疫病が収まった後、粗製乱造の神父さん達に人々は愛想を尽かして、宗教改革が広まったという、嘘か真理とかが判明しないことが言われています。
 しかし、今回は、コロナウイスルです。すでに新聞テレビが言っていますが、コロナウイスルの流行には、地球温暖化と余りにも無謀な奥地の開発が言われています。コロナウイルスはもともと中国奥地のコウモリにいたのであって、中国の軍事研究に用いられ、これが漏れたのだとか諸説あります。しかし、人間が奥地のコウモリに接触しなければこのウイスルは人間社会に来なかったのです。

 疫病は神様の審判の道具であるのは、狂信的で問いにならないという方もあるかもです。しかし、重い記述です。主なる神さまは私達に何を言われたいのか。はっきり言えることは「オリンピックを人類が、疫病に打ち勝つ証しにしましょう」のかけ声は何だったのでしょうか。畏るべき方を畏れることを、示されて成りません。私達人間は、やはり感謝し、日々を祈って過ごすべきでないかと思います。今回の疫病は、つくづく人間の計画の限界、人間の知恵の限界を教えるのでないかと思います。パウロは自分の十字架の宣教を「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(第1コリント1章25節)として、十字架の宣教を選びました。「私の言葉も私の宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした」と書いています。第1コリント2章4節です。結局、御言葉求めつつ、祈りつつ歩むのが一番なのです。

 ファーブルの昆虫記の第2巻の後半部分は、ファーブルは少し遊んでいると思いますが、蜘蛛と蜂と喧嘩させたらどちらが強いだろうかと記述があります。つまり日本的に言えばスズメバチとアシダカクモと喧嘩させたらどちらが強いかです。自然界ではこの一本槍と短刀使いの名手の戦いは普通ないそうです。結論からいうとクモが強いそうです。しかし、なんと蜂の中には、クモを専門に狩りをする種がいるのだそうです。ファーブルは神様の創られた自然に驚嘆しています。普通は負けるのですが、時に反対の生業をする者がある。神様の導き、摂理は時として、人間の思いを越えるのです。

 24節に、主なる神さまはイスラエルの守りを言われます。しかしこの時、イスラエルのエルサレム神殿は瓦礫の山にされていたのです。エルサレムは、一度審判を受けないと行けない。神の民が偶像礼拝をし、神を神としなかった罪を問われないといけないのです。しかし、それを受けると「突き刺す茨と痛みを与える棘が臨むことはない」と約束されます。シドンの審判預言の特長はこの短い預言の中に3回も「その時彼らは、私が主であることを知るようになる」とあることです。シドンはその罪も告げられずに神の審判を受ける。しかしそのこと自体は「私が主であることを知るようになる」という3回の言葉で結論されます。主は栄光とその聖なることを現すために、主は事を成されるのです。
 主の栄光は、エゼキエルの大変大切なことばでした。すでに見てきた通り、なぜ全能の主の神殿、エルサレム神殿が異教徒バビロンによって滅ぼされるのか。エゼキエルの結論は、主の栄光が神殿から抜けたからであるでした(エゼキエル11章23節)。エゼキエルは神殿の形の中に、主の栄光を見ており、主の栄光がなければ、神殿はただの建物だったのです。仏教の中にさえ「仏、作って魂入れず」とあります。
 祈りつつ歩み、祈りつつ事をなす。「十字架の言葉は愚かであるが、救いを受ける者には、神の力である」のです。私達は十字架の中心を示されて祈り歩む者なのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。7月も3週の礼拝を感謝です。今週は、オリンピックがスタートします。どうかみ手において、コロナ感染を守ってください。続けて、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。小羊児童クラブ、子ども園の働きを支えて守ってください。続けて、会堂建築をみ手においてください。ミャンマーに平和をおいてください。子供達は夏休みにはいりますが、事故の無いように守ってください。教会員一人一人の信仰、健康、魂を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
 教会 説教   ヨハネの黙示録8章1〜5節   2021年7月11日
              「 香の煙 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。昨日は子ども園めぐみ幼稚園の第70回運動会ができました。お祈り感謝です。場所は、鴨池ドームの体育館であるので、雨が降っても大丈夫と安心しておりました。しかし、なんと特別警報が発令されると営業を停止するとのことで、昨日は冷や冷やしながらの運動会でした。警報は出ましたが特別警報は出ませんで、なんとか終えることができて感謝でした。しかし、コロナ感染のために一家族2人までで、お弁当の時間はありませんでした。私は小さい時はスポーツがへたくそでしたので、運動会の楽しみは、母が作ってくれた稲荷寿司と巻寿司でした。今もそんな子がいるだろうにと思うと気の毒です。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3728 人となり、鹿児島県はこの1週間で38人の感染者となっています。先週は42人の感染でしたので、鹿児島だけ取ると、やはり微減になっています。このまま鹿児島県は警戒基準がステージ3からに2、2からさらに1になってくれるように祈るのみです。ただし、関東と沖縄は又緊急事態宣言となり、関東のオリンピックは無観客となる決定されたようです。無観客のオリンピックとは記録会なのか、よくわかりませんが、守りを祈るのみです。インド株の感染が心配です。なんとかこのまま収まってくれることを祈ります。いつも繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。
 さて聖書は、ヨハネの黙示録8章から聞いていきます。第2週の主日は12使徒の手紙から聞こうと思っております。今日はその黙示録8章の前半です。書いてあるように第7封印が解かれるところです。しかし小羊イエス様が第7封印という最後の封印を解くのですが、中味は7つのラッパの付与が宣言されております。つまり第7封印を解くというのは、七つのラッパの吹かれる前哨戦であったとなります。正直言うとちょっと肩すかしを食らった気がします。しかし、ヨハネの黙示録は長老ヨハネが見ている幻であります。人間的に第7封印だからすごいことが啓示されるはずというのは、神様の御計画を人間が勝手に推測して、喜んだり悲しんだりしてもしょうがないといえるでしょう。私達は長老ヨハネが伝えてくれる幻を神のみ言葉として集中して聞いていくべきとなるのでしょう。

 1節にあるように、長老ヨハネが小羊イエス様の第7封印を解いたことを見た時に、天上に半時間ほどの沈黙、静けさがあったとされています。この沈黙、静けさとは何かが言われています。いろいろな取り方があって、この沈黙は地上の苦しめられている聖徒達の祈りと願いが神様に届くために沈黙、静かにして、声を響かせているのだと言うのがあります。なるほど天上では賛美が歌われていて、賛美の歌の中では聞こえないので、神様に地上の祈りを聞いてもらう沈黙というのです。しかし神様は静かにしないと私達の祈りが聞けないのだろうかとも思います。次に、エレサレム神殿では、香が炊かれる時は、すべての賛美を止めて静けさの中でなしたと言われています。その事だというのです。いやいやこれは世界審判が起こるのを天使達が見て、そのわななきの静けさだという人もいます。又、これは終末の審判後の静けさの前触れと言う人もいます。列王記上19章11、12節の預言者エリヤに主が顕現されるときのあの「静かなか細い声だ」と言う人もいます。嵐の前の静けさ、神様の審判の前の静けさでないかと言う方もあります。
 残念ながらこの沈黙、静けさの本当の所は分からないとされています。しかし、私は何か事が起こる時には、特に神様の出来事が起こるときには、その前に沈黙とも静けさとも言える何とも言えない何もない事があるのでないかと取りたいと思います。つまり、列王記上の19章のエリヤに顕現された神様のように、岩をも砕く大風の中にも、続く地震の中にも、燃える火の中にも、主はおられず、静かにささやく主の声があったのです。つまり沈黙の声、静かな声です。私達は、いろいろな試練に遭います。その時、静かにささやく沈黙の主の声を聞き取ることが問われるのでないか。そのとき、ヤコブ1章2節にある「兄弟達、いろいろな試練に遭うとき、この上ない喜びと思いなさい」の御言葉が成就していくのでないかと示されます。ヤコブ1章3,4節に続けて「試練は忍耐を産み、忍耐は完全で申し分のない、何一つ欠けたことのない人を造り出すのです」と続けています。試練の時に、沈黙の声、静かな声に耳を傾けることを示されます。

 2節にはその沈黙が終わるとなんと7人の天使が7つのラッパを持って、登場します。前に言ったことがありますが、ヨハネ黙示録は実はロシアのおもちゃマトリューシカになっているのです。第7封印を解いた。さあ何がでてくるか。なんと今度は、7つのラッパがでてくるのです。結論からいいますが実は7つのラッパが鳴った、さあ最後の審判はどうなるか。またマトリューシカになっていて、何と今度は黙示録16章から7つ鉢が出てくるのです。読まされる方はどんどん結論を先送りされて、イライラしてきます。しかしどうも黙示録は忍耐を教える聖書かも知れないのです。「そうイライラしなさんな。そう解答を急ぎなさんな。神様の深い、深いご計画をじっくりゆっくり見ておきなさい。ガタガタするな」ということです。何度も何度も答えを先送りされるロシアのマトリューシカの手法は、意外と短期決戦型の日本人には、最もいい聖書の教えなのかも知れません。私達は現代にいて、携帯やAIに慣れてしまって、手っ取り早く答えを知り、結論から知りたがる、虎の巻が好きな民族です。しかし、聖書は、そもそも答えはすでに神様の元にあるのですから、その過程をきちんと楽しみつつ、喜びつつ、祈りつつ、歩みなさいということかもしれないのです。ヨハネ黙示録は、どうどうと7つの封印の次は、7つのラッパですよと、7つの封印を解きその結論を聞くことを期待した私達に、肩すかしの言葉を語るのです。
 本当なら、2節の次は6節につながらないと行けないのです。なぜなら、第7封印を解いたのは、7つのラッパに繋がっていたのですから、本当は2節から6節の「7つのラッパを持っている天使達が、ラッパを吹く用意をした」と繋がるところです。しかし幻だからなのか。長老ヨハネはまたもここで回り道の幻を見ます。それが3〜5節になっています。3節に突然別の天使が来て、手に金の香炉を持っていて、金の香炉と天上の金の祭壇のことがでてきます。実はなぜここでヨハネは香炉と祭壇の状態の回り道をするのかよく分かりません。ただしすでに皆さん聞いた通りですが、すでに黙示録5章8節には「この香は聖なる者達の祈りである」というのが出てきました。ヨハネの黙示録はここで今一度祈りが香であることを示しているのです。
 金の香炉と金の祭壇、これは確かに出エジプト記には幾つかの祭壇の記述があります。一つは出エジプト20:25です。ここには「もし私の為に祭壇を作るなら、切石で築いてはならない。のみを当てると石が汚れるからである」とあります。つまり祭壇は自然石なのです。しかし出エジプトの後半には39章38節、40章5,26節になると「金の祭壇」となっています。また青銅の祭壇(38:30)もでてきます。なんと更に土の祭壇(20:24)、アカシヤ材の木の祭壇(37:25,38:1)もあるのです。祭壇は土、石、アカシヤ材、青銅、金となんと5種類あるのです。驚きです。香をたく祭壇、動物犠牲の時に羊、山羊、牛その他用と祭壇を用途に分けたのか、よく分かりません。

 しかし3〜4節にある祭壇は金の祭壇となっています。祭壇を作る材質よりも捧げものが問題だろうと思います。しかし、黙示録が、聖徒達、小羊イエス様を信じる者達の祈りの香は、金の祭壇にあると考えた可能性があります。玉座の前にある金の祭壇に献げたとあります。これはあり得ると思うのです。香が聖なる者達の祈りであるとすれば、これは金の祭壇であるとしたのではないか。もちろん土の祭壇、アカシヤ材の祭壇、青銅の祭壇でも祭壇です。もしお肉が、瀬戸物の皿、青銅の皿、金の皿に載せられても、栄養は変わりません。当然味も変わらないはずです。しかし、どうなのか。金の皿に載せたのは美味しく感じるのでしょうか。金の皿で食べたことがないので分かりません。しかし長老ヨハネは、祈りの香こそ、金の祭壇の献ものであるとしているのではないか。長老ヨハネは祈りの大切さ、重さをここで示しているのではないかと思います。それは黙示録以後、初代教会は、ローマ皇帝による組織的な迫害の時代に入っていくからです。
 何度もいいますが、キリスト教の迫害は、ネロ帝までは恣意的な迫害でした。皇帝が人々の関心を自分から邪教であったキリスト教に移し、自分への非難を忘れさせることにありました。しかし、キリスト教迫害はだんだんと組織的な迫害になり、皇帝礼拝を邪魔するものとされていきます。社会的な迫害になっていくのです。当時のキリスト者の武器は、今も同じですが「祈り」しかなかったのです。

 先週のオンラインのミャンマーの為の祈祷会は、ミャンマーの北方民族、カチン族の方が、日本に来てちょうどマウマウタン先生のように牧師をされている方の証でした。トエノ先生と言うのですが、日本の企業に勤めるためにビザを取得して日本こられるのです。来てみて日本の出入国管理局で、先生のビザが偽物をつかまされたと分かるのです。日本語もよくわからない、途方にくれた先生は、たまたまクリスチャンで祈ります。「主よ、私を日本で必要としているのでしたら、日本に入国させてください。だめでしたら帰ります。」なんと1ケ月管理局に留め置かれて、日本に入国させてくれたそうです。その後の日本語をなんとか取得されて、とうとう神学校を卒業され、牧師になられたのです。4節の香の煙、祈りの香は、主に上ったのです。そして主はそれに答えられたのです。

 5節には、天使は金の香炉を取り、それに祭壇の火を満たして、地上に投げつけたとあります。すると「雷、音、稲妻、地震が起こった」とあります。これはいろいろな取り方があります。1つには祭壇の火が地上に投げられたというのは、エゼキエル10章2節に、エルサレム神殿が破壊されるときに、やはり同じようなことがありました。つまりこれは地上の苦しみ、審判が神の審判であることを示す幻と言われています。これから長老ヨハネ達、すなわち初代教会に迫害がくるのは、神様の許可のもとであるのです。コンスタンチヌス大帝が、313年にキリスト教を公認するまで200年間、ローマのキリスト者たちは祈りの香を献げて進むのです。キリスト者たちは、苦難を神様からの来る試練、訓練として、これからの災いを受けていきます。その時、その試練は忍耐を産み、むしろキリスト者を鍛えていったのです。十字架の主がこれをなしてくださいました。私達も金の香炉、金の祭壇の祈りの香りを献げましょう。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。コロナ感染にありますが守ってください。昨日の第70回運動会の守りを感謝です。続けて、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。幼稚園と児童クラブを支え、会堂建築を導きください。ミャンマーに平和をおいてください。1週間、私たちの信仰、健康、魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マルコによる福音書8章27〜30節   2021年7月4日
              「 あなたはメシアです。 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は早いもので6月を終わり、7月の第1主日となりました。第1週の主日は、いつものように福音書から聞くと言う方針でマルコの福音書を開きました。通常マルコ伝は、本日の箇所がマルコ伝の前編の終わりとされ、次の31節からマルコ伝の後半とされます。本日の分岐点は、余り注目されませんが、マルコ伝にとっては、とても大切な分岐点のところなのです。短い箇所ですが、聞いていきます。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3690人となり、鹿児島県はこの1週間で42人の感染者となっています。先週は17人感染でしたので、東京ほどでないですが、少し微増になっています。しかし7月1日から鹿児島県は警戒基準がステージ3から2になりました。少し安心かも知れません。北海道から沖縄迄の10箇所の緊急事態宣言は、沖縄を除いて解除されています。感染往来の注意地域も、九州では沖縄と福岡を除き、他の県は外れています。隣県の熊本、宮崎の往来は大丈夫になりました。しかし、インド株が心配です。なんとかこのまま収まってくれることを祈ります。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。2回目のワクチンを打った方も多くなり、どうか、主の守りを祈るのみです。

 さて、聖書は、マルコ伝8章27〜30節から聞いていきます。ここは、ペテロの信仰告白と言われる有名な箇所です。共観福音書では、マタイ伝16章21節以下、又ルカの福音書9章22節以下にあります。そしてトマス福音書という外典偽典にも13節に同じような箇所が出来ています。つまりそれぞれの福音書にとって、また特にマルコ福音書にとって、このペテロの告白はとても大切な告白でした。ペテロの告白はある意味で、弟子を代表しての告白でもあります。
 信仰告白がキリスト教にとっていかに大切かは、パウロがローマ書に書いています。ローマ書10章9節です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と約束しています。日本的な文脈では、口でいちいち言わなくても、心で固く信じていればいいというのがあります。しかし、聖書は「口でイエスは主であると告白すること」を求めています。どうしてでしょうか。
 おそらく、聖書では、創世記1章3節にあるように「神は言われた『光あれ』。こうして光があった」となっています。聖書では言葉が只の音の空気の震動でなくて、何か実態を伴う事、何か現実を創造する力として、あるのだと思います。ですから、言葉で言うことが、実体を作りだすことになり、現実を造り出すことになるのです。イエス様もまた「お前達の心の中はよく分かっている」と言う日本のどこかの親分の様な言い方でなくて「お前達はどう思うか」と実際に口に出して言う事を求められ、それを推奨されるのです。

 27節に、マルコ伝ではこの信仰告白の場所を書いています。フィリポ・カイザリアという場所だったようです。信仰告白に場所が必要かと言う人があるかも知れません。ある意味でどこでも良いはずです。どこで告白するかよりも、何を告白するかの内容が大事だとなりそうです。しかし、ここにも幾つかの意味が重なっています。この町はイスラエルの北の国境の町だったようです。つまりここは分岐点が込められています。1つはそのまま戻るとエルサレムに行く道です。1つはそのまま行くとイスラエルを離れて、外国へ行く道です。日本は海に囲まれているので、こういう感覚がないかも知れません。坂元竜馬の伝記で、竜馬が高知から太平洋を見て「この海の向こうにアメリカがある」と言うところがあります。海を渡りたいという思いと、道を開きたいという思いが重なっています。
 イエス様に連れられた12弟子達はどうだったのか。このまま真っ直ぐに行って外国伝道へ、シリア・フェニキア伝道に行きましょう、だったのか、ここからまたエルサレムに戻るのか。そこには十字架が待っているのです。国境の町フィリポ・カイザリアで、主が弟子達に信仰を聞かれた。私達もある意味で本当の信仰告白というのは、人生の分岐点で聞かれるのかも知れません。小学生の時に信じた。学生時代に余り深く考えずに信じた。成り行きに任せて、信じた。ある方は、どうしてものっぴきならない、避けられない決断の時があって、信じたとあるでしょう。しかし、どちらに転んでも、分岐点でまた信仰を、主に聞かれていくのだと思います。

 主イエス様の問いは、初めに「人々は私のことを何者だと行っているか」でした。これは何度も聞き、考えると思いますが、楽ですね。人々はこう言っている。これはある意味で、うわさ話で良い分けです。噂ほど楽ちんはありません。自分の責任がない。あの人はこう言っていた、この人はこんなことを言っていた。聞いたことを言えばいいのです。時々それに尾ひれや葉ひれが付いて行きます。その様子は、28節にあるとおりです。まず洗礼者ヨハネ、バプテススマのヨハネのことです。この方はイエスさまにバプテスマを授けました。その時、イエス様を指さして「この方は神の小羊」と語りました。しかしバプテスマのヨハネは、聖書に従ってヘロデ王の結婚問題を摘発しました。兄弟の妻を横取りしたからです。聖書ではあってはならないことでした。バプテスマのヨハネは王だろうが大臣だろうが、神の律法に反することをしていたら、摘発したのです。そしてそれが元で刑務所に入れられて、殺されて行きました。しかし民衆はあの義人が死んだままに成るはずがないと信じました。そしてイエス様が神の国を語り、病気を癒す奇跡をなして、ユダヤ地方一帯に伝道をされた時、多くのイスラエルの人々は、イエス様をバプテスマのヨハネの生き返りと信じたのです。

 次にイエス様のことを「エリヤ」という人達がいました。言うまでもなく、エリヤは、預言者の筆頭です。実は聖書の預言者は、口述預言者つまり口で伝えられる預言佐と記述預言者と言って、文字が残りそこで伝えらえる預言者に分かれます。ご存知イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ミカ、ホセア等は預言書が残る記述預言者です。しかし口伝伝承に残る預言者がいます。ダビデに罪を告発したナタン、アハブ王に預言したエリヤ、エリシャです。この中でもエリヤは預言者の筆頭です。多くの奇跡をなし、アハブ王を戒め、そして何と言ってもその最後が、天に上げられその死体が無かったのです。人々はエリヤは天に上ったのだから、また天から戻ってくると信じたのです。次の預言者達は、説明の必要がないでしょう。先ほど上げましたように、イザヤから始まってエレミヤ、エゼキエル、ダニエル、アモス、ミカ、ホセアらのことです。イエス様は、その一人として来られた、と信じられたのです。
 さらに外典儀典ですが、トマス福音書にまであります。ここには、ペテロがイエス様に「あなたは義なるみ使いです」と言ったとあります。そして不思議な事にペテロだけでなくて、今度はマタイまで出てきて「あなたは賢い哲学者です」と言ったとあります。外典儀典はあまり信用なりません。しかし確かなことは、イエス様は当時の人に1目も2目も置かれていることです。バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者の一人、外典では「義なるみ使い」そして「賢い哲学者」とまで言われています。
 イエス様の人気というか、人々の支持はかなり強かったと言っていいでしょう。イエス様の行かれる所に、人々が集まったのは、うなずけるのです。そしてこれがイス様の十字架の殺害の人間的な原因の一つとなります。つまり祭司長、律法学者の妬みの元になったのです。ガリラヤ出身の賢者・知者で、只の大工ヨセフの子、それがなんだこの人気、上から下までの大人気。バプテスマのヨハネの再来、エリヤの再来、予言者の再来、義なるみ使い、賢い哲学者、冗談でない、となるのは目に見えています。思い出すのは、アフガンの中村哲先生の殺害理由に「日本の九州の田舎の町医者が、アフガンで用水路を造って、人気を博しているのは何事か」とあったそうです。どんなに立派な正しいことをしていても、妬みの前には、弱いのです。

 29節にイエス様は言われました。「それではあなた方は私を何者と言うのか。」今までは責任感の何もなく、噂話で良かったのです。しかし主イエス様はそれでは、と言われます。そして「あなた方は私を何者と思うか」と問われます。ここで噂話は吹っ飛びます。ここはある意味で弟子達一人一人の実存が係るのです。散々他人の話はした。噂話はもういい。問題は、あなたはつまり自分はどう思うのかです。人が何と言っているかの話は一杯した、しかし「お前たちは」です。ここにはイエス様の人間心理を掴んだ問いがあります。人は誰も、自分の責任のないことはどんどんしゃべります。噂も作り出します。しかし、それでは、あなたはどう思うのか。ここには神の前の自分、裸の自分と神との一対一があります。
 どんなに人がああ言おうとこう言おうと、問題は、私はどう思うのかです。最後には私たちは「お前はどう思うか」が問われます。それは、どうしても答えねばならない問いです。そして、私たちの一生はこのためにあるとも言えます。これに似ているのは、結婚の判断でしょうか。自分はこの人はいい人だと思う。しかし友人知人、親戚はやめておけという。この時に、自分の判断が問われます。反対に友人知人、親戚はいい人だ、と言っても、自分はちっともいいと思えない事があります。友人知人はこの人は間違いない、とても良い人だとしても、自分が話しているとちっとも信用が置けない。ちっとも安心感がない。その時は、どうするのかです。最後は他人の判断でなくて、自分で祈り、自分で判断しなければならない。
 他人はとんでもない人だという、しかし自分が見ている分には、なかなかいい人である。民族学と信仰の関係かもしれない。日本民族はこう考えてきました。民族にとって神様とはこういうものですと言います。しかし聖書の信仰は、主イエス様が私の前に立って「お前はどう思うのか」と問われるのです。民俗学はこういう時はこの民族はこう判断するのです。こう考えるのです、これが普通です、と言うかもしれない。しかし聖書は、主イエス様は「あなたはどう信じ、どう行動するのか」と問うのです。

 ペテロは弟子を代表して「あなたこそメシア・キリストです」といいました。独特の言い方です。最も権威ある高い力ある神の子と罪を贖う油注がれた僕、それが一緒に告白される方がメシア・キリストです。神の子にして、血を流し私達の罪を贖う最も低い人キリスト。十字架を担いしかし復活する神の子メシアです。天地を創造される方が、十字架に罪を贖なわれる方なのです。ここにはただただ感謝があるのみです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染が関東で又広まりつつあります。守ってください。求道の方の導き、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。会堂建築を導きください。子ども園はこの土曜日第70回運動会です。守ってください。児童クラブも保育が続きます。守ってください。ミャンマーのクーデターアは5か月となります。平和をおいてください。教会員の信仰健康魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   第1ヨハネの手紙5章6〜12節   2021年6月27日
              「 神の証し 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は6月の第4主日となりました。又本日は臨時総会も計画されています。第4週の主日は、いつものようにバプテスト連盟が出している『聖書教育』の本日の聖書から聞いていきます。1ヶ月に一度、全国のバプテスト教会が聞いている聖書を開くことは大切と思いっています。聖書教育では6月の学びをヨハネの手紙の学びとして、4回に渉って聞き学びました。本日はその最後の学びです。次からはヤコブ書となっております。どちらも公同書簡と言われて、12使徒達が大切と示されたことを書いております。福音書と並んで、大切な教えをなしています。鹿児島ではコロナも少し収まりつつありますので、どうか、水曜日の朝と夕の聖書の学びと祈りに参加されることを祈ります。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3648人となって、鹿児島県はこの1週間で17人の感染者となっています。先週は119人感染でしたので、激減です。もしこの状態がこの程度でいけば、鹿児島ステージ3から2になるのではと思います。北海道から沖縄迄の10箇所の緊急事態宣言は、沖縄を除いて解除されます。インド株が抑えられてなんとかこのまま収まってくれることを祈ります。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られており、自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。とうとう先週は、私にも1回目のワクチンの順番が回ってきて受けてきました。すでに打った方から痛くないと言われていたのですが、「あれ、痛いじゃないか」と思いました。接種する先生に「結構痛いですね」というと「それは針をさしてワクチンをいれますので、全然痛くないのは無理ですよ」と言われました。まずは、ひと安心です。

 さて聖書は、第1ヨハネの手紙5章からです。第1ヨハネの手紙は、ある意味で1つの教えの繰り返しの手紙と読むことができます。それは、キリスト者とは十字架の愛の神イエス・キリストを信じるのであるから、その信じた人は愛に生きざるを得ないということです。この一つのテーマをいろいろなバリエーションで、語り尽くしていると言えます。もともとヨハネのいた教会に、グノーシスという異端の教えが入ってきました。彼らは「神との交わりを持つ」「罪を犯したことがない」「神を知っている」「光の中にある」「神を愛している」と言っていました。しかし、その内実が無かったのです。良いことを言うのですが、行いを伴っていない。それはキリスト教のみならず、多くの道徳や倫理、またいろいろな宗教にあることです。
 言うことと行うことが違うというのは、いろいろな原因が考えられます。自分の職務としてそう言わざるを得ない方があるかも知れない。この前もテレビでしていました。アウシュビッツの中級管理職のアイヒマンは裁判で「私は一人のユダヤ人も殺していません」とどうどうと証言していました。600万人とも言えるユダヤ人を虐殺するその列車の配置・準備をきちんとこなす官吏でした。ヨーロッパ中からユダヤ人を集める仕事でした。確かに殺すことには従事していない。だから「殺してない」と言えたのです。しかし自分の計画で連れて来られた方が殺されていくのです。ドキュメントの解説者は、仕事を徹底して細分化することで、罪を感じないようにするシステムをナチス・ドイツはしたのですと言っていました。細かいことに気を取られて、全体が見えなくなるのは、よくあることです。まさかそれが殺人に利用されるのは怖ろしいことです。ある意味で、私達は全体を見ることを問われているとも言えます。

 6節に「この方は水と血を通って来られた方、イエスキリストです」とあります。次の「水だけでなく、水と血によって」とまた念が押されています。これは、先ほどのグノーシスと言われた知識主義キリスト教の人々が、イエス様が水を通って来られた方を認めたが、血を通って来られたことを認めなかったとされています。水と血とはまたどういう事かと思われます。通常水がバプテスマのヨハネがイエス様に授けた水のバプテスマのこと、血はイエス様が十字架に付かれて殺され、血を流されたことです。ヨハネは12弟子の一人としていつもイエス様と一緒にいました。ですから、イス様が水のバプテスマを受けられ、そして本当に十字架に付けられて苦しみ、血を流し、死んで行かれたことを見て、知って、触れて体験したのです。
 ヨハネにとって、イエス様は聞いて、見て、知って、手で触れた方です。水のバプテスマを受けられ、本当に十字架に付けられ、血を流され、殺され、しかし復活された方であったのです。グノーシスキリスト教の異端の人達は、水と血を分けて考えたようなのです。確かにイエス様はバプテスマのヨハネのバプテスマを受けた。しかし血を流すはずがない。神の子が血を流し、十字架に死んで行くはずがない。神の子は死を体験すること、死をその身に受けることをしないと考えたのです。宗教はある意味で、鰯の頭も信心からといわれるように、とにかく信じることが強調して言われることがあります。間違ってはいないですが、しかし間違うことがあるのです。
 水を通ったことは信じるが、血を流すところは信じない。これは人間が勝手に作ったイエス様になるのです。事実の本当のイエス様は、水を通り、血を通り、つまり十字架に血を流し、死んでくださるイエス様であります。どうしてイエス様が血を通ることが大切であるのか。それは、イエス様が血を通り、死を通らないなら、私達もまた死や血を避けても良いことになるのです。神の御子、イエス様が血を通られた。十字架と死を体験された。これは私達の体験する痛みや血や死が、神様のものであると言うことになります。つまり血、傷みや死や困難に、神の御子が確かに来てくださっているのです。罪の赦しの贖いの他にこういう現実があります。
 もちろんだから何が変わるかと言う方もあるでしょう。しかし、やはり大きく変わると思います。それは血を避け、十字架を避け、死を避けることが私達の本能かもしれません。しかし、どんな避けてもなおそれは私達にやってきます。その時に、避けることも、過大評価することもなく、神の御子イエス様もまた受けてくださったこととして、受けられるのです。「すべての時が生まれるに良き時であり、すべての時が死ぬるに良き時である。」伝道の書、コヘレトの書の言葉の時が完成し、生きるのは、まさにイエス様の十字架とその死においてです。

 9節には「神がみ子についてなされた証し、これが神の証しです」とあります。正に神様は証しをされました。それが、イエス・キリストの歩みであり一生です。いろいろな宗教があります。その中で、キリスト教は、主なる神が自らを証しする啓示する宗教であると言われます。人が何か勝手に神様を創り出すのでなく、神様が自らを示して行かれるのです。その時、主は肉を取り人となって、自らを証しすることを由とされました。上から指導する方法もあったかと思います。書物で導く方法もあったかと思います。しかし主なる神さまは、ご自身のみ子を使わして啓示する方法をよしとされたのです。ヘブライ書の冒頭1章1,2節には「神はかつて預言者達によって、多くの形で、多くのしかたで先祖達に語れた。終わりの時代にはみ子によって私達に語られた」とあります。
 主はみ子の語りを由とされたのです。預言者達や書物でなくて、まさに一人の人が生きて証されるのです。そうすると私達もまた、証のスタイルは基本的に主イエス様と同じと言うことになるでしょう。それは何かうまくいくとか成功するとは限りません。むしろ失敗し、散々な目に遭うのかも知れません。しかし結果や成果でなくて、そこに証が成立していくのです。証しは、その歴史であり、その事態なのです。
 私達は、証しのひな形として、バビロン捕囚時代のエレミヤやエゼキエルを見ていいでしょう。イスラエル、エルサレムは完全に陥落します。エルサレム神殿は助かりません。完全な瓦礫の山となります。しかしそこに働き、神のことばを担ったことによって、その生き方によって、私達は神様がエレミヤ、エゼキエルを本当に遣わされ、用いられたと知り、分かるのです。ヨハネが言いたかった、成したかった証しは、神の証しであり、その人つまり証し者として、ヨハネは立っているのです。

 10節にあるように、イエス様を信じるということは、この証を自分の内に持っていると言うことです。それは失敗するか成功するか、成果がないか、成果があるかに係わらず、その事態が証しとなることです。それはある意味で奉仕に似ているかも知れません。奉仕は、それが旨くいくこともあります。しかし奉仕そのものは、頑張っても、努力しても事態は旨くいかないかも知れません。しかし奉仕自体は、失敗、成功のどちらに転んでも主が見ておられ、知る人は知っているのです。
 最後に、ヨハネは大いなる約束を書いています。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人には、この命がありません」といいます。実は原文に近いのは、前の口語訳聖書の訳です。そこには「御子を持つものは命を持ち、御子を持たない者は命をもたない」とスッキリ訳しています。御子を持つとは、もちろんイエス様と繋がり、信じ、固くイエス様に結びついていることです。御子を持つとは、いかにも所有しているかのような響きがあります。一歩間違えると神の所有という異端的な教えになります。しかし、長老ヨハネはギリギリで、「持つ」と言いたかったのだと思います。

 ヨハネのいた教会は、グノーシスと言われる知識主義キリスト教に滅茶苦茶にされました。彼らはかっこのいいことを言いました。「神を知っている、神のとの交わりがある、罪を犯さない、光の中にある、神は愛である」。しかしその内実は兄弟姉妹を愛さず、馬鹿にして、離れ去って行きました。残されたのは、お人好しの純朴なキリスト者であったようです。神の知識には疎かったようです。水と血の区別と言われてもピンと来なかったようです。キリストは肉か霊かの議論も、肉と霊の関係はどうかの議論も、余り得意で無かったようです。しかし彼らは、愛である十字架の神様を信じたからには、十字架を受ける。愛である神様を信じるのであれば、最後までイエス様に従って生きて行く。泥臭いキリスト教だったようです。しかしヨハネは知っているのです。水と血を通って来たイエス様、バプテスマの水と十字架の死の血を通って来られたイエス様を持つ、主にイエス様に繋がる人は、永遠の命を持っている、命に繋がっている。それで良いのだということです。
 グノーシスの人達がどんなに深淵なキリスト教を説いても、スマートでかっこいいキリスト教を説いても、十字架に淡々と従って祈っていく姿に、主は祝福を宣言されるのです。ここに永遠の命がある。ヨハネは、ただそれを言いたかったのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染の中、主の守りを感謝です。関東では第5派の兆候と言われています。お守りください。ワクチンの接種をされる方、保健所を導きください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方守ってください。特に入院の方支えてください。本日の臨時総会守ってください。会堂建築を守ってください。子ども園、児童クラブの保育は続きます。どうか、子供達、先生方を感染から守ってください。健康、信仰、魂を守ってください。御名によって、アーメン」

 教会 説教   エゼキエル書27章1〜10節    2021年6月20日
            「 美しさの極み 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は6月の第3主日となりました。いつものように旧約聖書ヘブライ聖書から聞いていきます。旧約聖書は、エゼキエル書27章になっています。本日聞く預言は、26章から28章に渉る当時の繁栄した国家ティルスという都市国家の滅亡の預言です。3章に渉ってエゼキエル書が預言していることから、当時は影響力ある大きな都市であり、有力な国であったことになります。今でいうと日本からはアメリカやロシア、中国のような国であったといえるでしょう。
 しかし、この預言は、26章1節にはゼデキア王(ヨアキム王)第11年の預言です。これは実はエルサレムが、バビロンによって完全に滅ぼされる年BC586年になっています。つまりエゼキエルは、確かにティルスの都市国家の滅びを預言しているのです。しかし、実は自分たちのことをイスラエル、エルサレムの滅びを重ねて譬えとして語っているともいえるでしょう。ティルスと言っても日本のように全く西洋の文化になく、地中海から遠い私達には、全く関係ない都市国家です。そしてその滅びの姿と原因は、むしろ次の28章に詳しいのです。しかし、27章はティルスの滅びの原因を語らず、審判を語らず、淡々と滅びの事実を述べることによって、むしろ私達はティルスの滅びとは何であり、主は何を語っておられるのか、むしろ知りたく聞きたくなります。それが、エゼキエル27章の語る預言者エゼキエルの本意かも知れません。

 さてコロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3631人となっています。鹿児島県はこの1週間で76人が感染されています。先々週は179人が先週は119人感染されました。先週は1日に10人程で落ち着いてきています。北海道から沖縄迄の大阪、名古屋、東京地区10箇所の緊急事態宣言は、明日6月20日で沖縄を除いて解除されます。なんとかこのまま収まってくれることを祈ります。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。
 本日の聖書は、日本人にはと言うか、地中海世界に縁遠い私達東アジアの国民にとっては、ほとんど知らない古代国家ティルスという国の滅びの預言です。聞いた事も見たこともない国ですが、2600年前の地中海世界ではエジプト、バビロンと並んで地中海を制した国であったのです。26章の時少し説明しましたが、ティルスはフェニキアの都市国家の首都のような町でした。そしてティルスの強みはその地理的な位置と天然の良港と言われた海に突き出て、なお港を持ちその位置と突き出た島が、攻めるに難しく、守るに易しい、非常に良い位置をもっていたのです。聖書を持たれている方は、旧約時代の地図が後の付録にあります。地中海に少し突き出た地形の所にティルスと書いてあるのを見付けると思います。この町のどこがと思われるでしょうが、この町が紀元前の一時期、地中海を制したフェニキアの町ティルスだったのです。

 1節にあるように、主はエゼキエルにバビロンにエルサレムが陥落させられるその年にこの預言を語られました。2節には最初から「嘆きの歌を歌いなさい」といわれています。嘆きの歌とは、万葉集でいうところの挽歌となります。死者を悼む歌です。エゼキエルは当時の力のあるティルスの滅びの歌を歌いながら、同時に自分達の国、エルサレムの最後、陥落の挽歌を歌っていると取ってもいいでしょう。
 3節は27章全体のテーマになるかと思います。ティルスは、海の出入り口を支配した、多くの島々をめぐり、地中海世界のほとんどの国と交易をしたのです。そして世界の民と交易して、富を築いたティルスの言い分は「私の姿は美しさのきわみ」と言ったとあります。ヘブル語の原文をみますと「自分は完全な美しさである」となります。英語の聖書を比べますと、なんと「アイアム パーフェクト ビューティ」となっています。英語の語感は、私達はよく分かりません。しかし、自分で私は「パーフェクト ビューティ」というのは、日本的な感覚ではあり得ません。しかし、私達は確かに口ではパーフェクト ビューティと言わないかもです。しかし心はどうなのかと問うことは出来ます。私達は口では確かにいいませんが、それでも自分は結構やっている、頑張っている、人はなかなか評価してくれないが、自分ほどきちんとしている者は無いのだと、と意外と心の中でパーフェクトを言っているのかも知れません。

 4節にもう一度「お前の美しさを完全にした」とあります。ここも全く同じことばです。4節ではティルスの町を築いたもの、建築したものがパーフェクト ビューティにしたとなっています。高校野球の好きな方は、PL高校をご存知と思います。PL高校はPL教団の高校です。こちらはパーフェクト リバティは自由ですが、完全自由を、自分たちの宗教のモットーにしています。神道系の新興宗教のようです。横文字で成功したのかも知れません。HPに「あなたの身に起こってくる苦痛は、あなたの心の癖によるものなのです。これを是正し、神による生活の楽しさを味わいなさい。そうすれば救われます」と解きます。一見分かりやすく信じやすいかも知れません。
 本日は10節までしか読みませんでしたが、5節からはティルスの都市国家を豪華客船に譬えるかのように描いています。この譬えと比喩は、当時の文学の最高峰であったらしく、エゼキエルは祭司の訓練を受けた人ですので、どこかで習ったかわかりませんが、よく知っていたと言われています。聖書の文型で分かります通りに、3~10節が詩文、11〜24節が散文、25〜36節は又も詩文となっています。かなりの技巧を凝らしていると言われています。

 5〜7節は、ティルスに譬えらえる船の造りです。これは商船、交易船になるようです。これはかなりの造船技術と材料の知識が必要であるとされ、エゼキエルは引用したか、習ったかであろうとされます。セニルのヒノキが船の外板です。レバノン杉が帆柱マストです。バシャンの樫の木で漕ぐ櫂や舵が造られています。樫の木は堅いとよく聞いています。次に6節には、キテイムからとった糸杉で象牙をはめ込んだ甲板を造ったそうです。実はこれ私達にはよく分かりませんが、当時の造船の材料でもっとも良い最良な最高の材料なのだそうです。次に7節から10節は、船に使われる帆や旗、日よけの布、こぎ手の紹介、そして商船を守る人々が紹介されています。エジプトの麻は軽く、破れにくく帆として又しるしの旗としては最高品であったとされます。またエリシャの海岸から得た紫と赤紫の毛織物ですが、予言者エリシャのことかと言いたいですが、キプロス島のある海岸の名前だそうです。つまりキプロス島の羊毛は、品質がよく塩水に破れず、船の甲板の日よけの陰作りに非常に良かったそうです。8節にこぎ手のことがありますが、当時のローマ帝国の船はほとんど奴隷が船底の船倉に鎖で繋がれてこぎ手でした。しかしティルスの船は、シドンとアルファド(現在のルワド)の住民が、つまり自由民が水夫であったとあります。さらに9節はゲバル(今のレバノンのビブロスの町です)の一つの町の老練なものが、船乗りになったとされます。ティルスの商船は、奴隷が使われて船を動かすのでなく、自由民が誇りをもって、自由に動かせた船だったようです。紀元前5世紀のギリシャ史家ヘロドトスの『歴史』4巻に当時のティロスの船が、地中海を出て、アフリカ大陸を回り3年間で又戻ってきた記述があるとされています。10節には、ペルシャ、リュデア、プトの人々がこのティルスの船の戦士として乗り込んでいたことがわかります。つまりティルスは傭兵を使うことができた。当時、傭兵を雇うお金があったことになります。
 少し詳しく読み過ぎたかもですが、私達はティルスの商船が、非常に優れており、その操縦もこぎ手も奴隷でなく、自由民が誇りを持って担っており、それで地中海を制覇するだけの力を持っていたこと事が分かるのです。この力をもって11~24節はいかに多彩な貿易をなし、商品を運んでいたかを示しています。読みませんでしたが、17節には、ユダとイスラエルがでてきますが、当時は小麦、キビ、蜜、油、乳香が商品でありイスラエルとユダは、完全に農業国であったことがわかります。

 しかしなんとこのティルスは商船に譬えられますが、26節に「東風」の一撃で海に沈むのです。さらに25,26,27節には「海の真中で沈む」となっています。ティロスが最も得意として、最も自慢できるところ、自分の最も自信があるところの海の真ん中で沈みます。原因は、東風とありこれは別名シロッコ風と言われて、砂漠から吹く突風です。砂漠風とも言われ、ヨナ書では裁きの風となっています。しかし実は、シロッコ風は春に起こり、老練な水夫達は知っているはずです。つまりエゼキエル書27章は、ティルスは用心注意しておれば、大丈夫の突風に吹かれて、海の真中で沈んで行ったというのです。これは明らかに高慢、傲慢、怠慢から来る注意不足、注意散漫で沈んだのだ、と言いたいのだと思います。
 読みませんでしたが、27章32節には「誰が海の真中でティルスと同じになっただろうか」と哀歌と挽歌を商船の沈みを見て、歌ったとなっています。信じられない、予測もつかないことが起こったのです。それは結局「我こそは、パーフェクト ビューティだ」としたことにあったのです。2600年前の一つの古代国家の滅亡預言は、私となんの関係があろうかと言いたいです。しかしなんと現代的でもありましょうか。
 高慢と傲慢そして怠慢の後には、必ず滅びが来るという典型的な教えを、エゼキエルはなしているのです。しかし、それをイスラエル、エルサレムの敵、ライバルとしてあった敵国ティルスの滅びの姿において示し、実はイスラエル・エルサレムの滅びを重ねているのです。政治的にはバビロンという超大国の前に、頼りにならないエジプトを頼って、反旗を翻し、エジプトはもちろん助けを与えずにユダ・イスラエルは滅びました。しかし、その前にユダ・エルサレムは、自分達は神殿を持つとして、神殿のあることを神が共にあることと勘違いしたのです。神様を信じ、神様と共に歩むということは、高慢と傲慢を離れて、ひたすら祈り、謙遜の神と共に歩むことでした。新約聖書でいえば、十字架の主に、ひたすらしがみつき、十字架の主のもとに希望をもって祈りつつ歩むということです。

 『西南神学部報』が来て、実践神学の浜野先生が、アウシュビッツのフランクルの本のことを書かれています。コロナと重ねておられるのだと思います。アウシュビッツで生き残れた人たちの一つの典型に希望があったそうです。非人間的な扱いを受けて、食べ物もない。しかしそれでも殺されない限りは生きていた人たちがある。その最後の力は、体力でも健康でもない、頭の良さでもない。ただ希望だったそうです。いつかここから出て家族と共に生きる。いつか出られるという根拠のない希望でも、その人を支えたそうです。それは、人生への謙遜だと思います。パーフェクトビューティでなく、ただの罪人に生きれるか、十字架と復活を最後まで信じ抜くのかです。

 祈ります。「天の父主なる神よ、み名をあがめます。コロナが少し収束しつつありますがどうか最後まで守り導きください。接種される医療受持者と保健所を守ってください。求道者、病気療養の方、高齢者守ってください。会堂建築支えてください。子ども園、児童クラブの子供達先生型を守ってください。1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教    ヨハネの黙示録7章9〜17節   2021年6月13日
             「 小羊の血 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は6月の第2主日となりましたので、使徒達の手紙から聞くと言うことで、ヨハネの黙示録7章の後半部分から聞いていきます。ここはある意味で、黙示録の預言の最後、キリストの信徒達の最後の祝福を先取りした預言となっています。このように、黙示録は終わりの状態、天国の状態を時々示すことによって、今ある苦難に耐え、迫害、苦難を信仰の忍耐をもって全うしていくように、示すところがあります。それは私達もまた、時に自分の最後と、自分の天国や神の国での姿を描く事で、今を省み、今の苦難や苦しみに耐え、出来事を乗り越えて行く力を得ることに繋がるのだと思います。
 コロナの感染者数をみますと、一昨日で鹿児島県の感染者は3555人となっています。鹿児島県はこの1週間で119人が感染されています。先週は179人が感染されました。少し落ち着いてきています。北海道、沖縄、福岡、岡山、大阪、京都、名古屋、東京地区10箇所の緊急事態宣言は、6月20日まで延長されましたが、一応20日で解除の予定のようです。又熊本も蔓延防止法地区から抜けるようです。なんとかこのまま弱まってくれることを祈ります。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 聖書はヨハネの黙示録7章の後半から聞いていきます。ここは全体の大きな流れからいきますと小羊イエス様が封印を解かれる世の終わりの出来事7つの封印の内、第6封印と第7封印の幕間劇となっています。いろいろなお芝居には、私は実際には滅多に見に行ったことがないのですが、本命が出てくる前にこういう幕間劇というのがあるそうです。今の有名な俳優さん達も、若い時代は幕間劇のコントや漫才をしながら芸を磨いたことが、時々インタビュー等で流れることがあります。
 ヨハネの黙示録もまた最後の第7封印が開かれる前に、第6と第7の封印の間にこのような幻を見て書いたとされています。そして、実はこの幕間劇と言われるところに、本質というか、黙示録の本当の主張が隠れて示されるとも読めます。私達は封印の場面や幕間を見ながら、実際には読みながら、ヨハネ黙示録のみ言葉、主張に導かれて行く、神の言葉に導かれて行くといえるのです。

 9〜11節をみますと「数えることのできない大群衆が、白い衣を身につけて、手にナツメヤシの枝を持ち、玉座と小羊イエス様の前に行き」礼拝をしております。ここでナツメヤシの枝を手に持つということで、この礼拝は天上の礼拝、世の終わった後の終末の礼拝を象徴していると言われています。長老ヨハネは幻の内に、世の終わりの天国の礼拝を見ているのです。そして、この天上の終末の礼拝には「数えることのできない群衆」つまりもうイスラエルの部族とか氏族ではなく、全世界から集められた主の民が、礼拝していることを示しています。

 10節にあるように、天上の礼拝の賛美歌は「救いは、玉座に座る私達の神と小羊イエス様のもの」と賛美しています。長老ヨハネは主なる神さまと小羊イエス様が全く同質、同格の方であり、共に賛美を献げる方であることを示します。その理由は「救いが主なる神と小羊のものである」と言うのです。「救いが主イエス様のものである」というのが最初にでてくるのは、ヨハネ伝では4章42節のサマリヤの女の告白からです。サマリアの女はユダヤ人からは異邦人ですが、イエス様とヤコブ井戸で出会いました。そして、イエス様に自分が5人の夫を持ったことを預言されます。さらに「渇かない水から水を汲み、渇かない水を飲む」ことを言われたのです。その時「あなたは本当にこの世の救い主である」と告白しました。
 「救いは小羊イエス様のもの」である。これは、救いを人間の力や努力や精進、悟りに求める宗教には大きな躓きです。しかし自分の歩みの努力や悟り、自分の生涯を振り返り、自分の努力や力が、救いは人間の力や賢しらにないと気づいた人には、最高の喜びです。救いは小羊イエス様のものである。これは、余りにも排他的と言う方もあるかも知れない。しかしある意味で、親鸞証人の『歎異抄』を思い出します。そこには親鸞聖人が、自分は天台仏教を修めたけれども、全くものにならなかった。そして法然聖人に念仏を教えてもらった。もう地獄に堕ちても良いから自分の先生の法然さんの教えた「南無阿弥陀仏」に掛けてみる。なぜなら自分の力では、どうせ地獄なのだから、どっちに転んでも同じだ、と言うところがあります。
 まさに、小羊イエス様が救いを持たれる。そしたら自分はそれに掛けて、ただイエス様の後に従い、救いにただ入れて頂く。救いは自分の悟りや努力、修業にない。ただ小羊イエス様の元にあり、自分はそれを信じて歩み、生きていくという決意です。救いは、小羊イエス様にあり、という賛美は単なる賛美の歌ではなく、このように自分の決意、イエス様に自分を掛ける信仰を示しているといえるでしょう。

 12節の「アーメン」に続く、賛美歌とされる文章に、特長とされるのは感謝だそうです。確かに賛美、栄光、知恵、誉れ、力、威力は旧約聖書にもでてきます。しかし「感謝」は、詩編とイザヤ、エレミヤ書以外は余りありません。しかし新約のキリスト教では、感謝が一杯です。特にパウロの手紙に感謝が溢れています。ローマ書に6回、コリント1,2では15回、エフェソとフィリピで5回、特に多いのがコロサイ書で、一つの手紙にローマ書よりも多くて7回です。パウロは自分がキリスト教の迫害者であったことを一時も忘れなかったのだと思います。キリスト者の迫害者である自分が、キリストの為に働ける。これはパウロの喜びの根源だったのです。パウロが「感謝、感謝、感謝」と言っているのは、ちょっと違和感があります。パウロはどちらかというと「割礼不要、信仰のみ、信仰義認」と言っていそうです。しかしよく読むと「感謝、感謝」が圧倒的に多いのです。ヨハネの黙示録もまた、感謝を礼拝賛美に入れています。賛美の時の大切なテーマだったのです。

 13節には、礼拝していた長老の一人が「この白い衣を着た人がどこから来たのか」と聞いています。14節にヨハネは「それは、あなたがご存知です」と応えます。実はこの問答は、エゼキエル書37章3節からと言われています。エゼキエル37章は、涸れた骨の章といわれます。バビロン軍との戦いの第2次バビロン捕囚の時に殺されたイスラエルの人々の骨が散乱していた谷に、エゼキエルが連れて行かれた。おびただしい殺された人々の骨が散らばる谷で、主は、エゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と聞かれました。エゼキエルは「あなたがご存知です」と応えます。すなわち、全能の愛である主が、自由に行動してくださいと応えるのです。
 同じように、長老ヨハネもまた「あなたがご存知です」と応えてます。すると主は「彼らは大きな苦難を通って来たもので、その衣を小羊の血で洗って白くした者」と応えるのです。ここで、小羊の血で洗うが問題です。1つは、イエス様の十字架の贖いと言えます。イエス様の死によって、与えられる贖いの出来事です。ここでは、主体はイエス様であり、イエス様が十字架によって、私達に与えてくださる罪の赦しです。私達は自分の罪をどうすることもできません。神様が私達の罪を処理され、始末をしてくださるのです。イエス様が十字架についてくださり、イエス様が贖いを成し遂げてくださったのです。救いには、人間の努力や修業が入る余地がないのです。神様がすべてを成し遂げ、完了なさるのです。
 しかし同時に、ここには「彼らが大きな苦難を通って来た」とあります。イエス様が成し遂げてくださった十字架の道は、その通りの道を私達はできないのです。しかし、その主の後に従う、キリストの血において、成し遂げてくださった道に、私達もどこかで参与することが問われています。「その衣を洗った」のは、やはり一人一人のキリスト者、信じる者達が自分で洗うのです。長老ヨハネは、キリストを信じる者に、自分の衣を洗うことを、自分の手と足で洗うことを、示していると読めます。
 ある人は、自分に与えられた使命、委託に生きることかも知れません。ある人は、自分の病気かも知れません。ある人は、自分の性格やどうにもならない自分の習慣かもしれません。しかし、確かなことは自分の衣を洗い続けることです。一度洗う、しかし2度洗う。しかしそれでも駄目なら3度洗い4度、5度洗っていくのです。ある意味で世の終わりまで洗い続けるともいえるでしょう。その時、天上での小羊イエス様の礼拝に召されるのです。主に招集されるのです。

 15,16節に、その時、主は「その者に上に幕屋を張る」、これは共に生きて住むということです。そして、飢えることも渇くこともなくなるのです。ヨハネ伝4章のサマリヤの女に言われたこと「渇かない水、命の水、イエス様が与える水」を、主ご自身が提供されるのです。
 17節は、世の終わりの最終的な状態です。自分の衣を小羊の血で洗った者、自分の力、精神、魂を注いで主の十字架を担ったもの、自分に与えられた十字架の主からの使命、委託、召しになんとか応えようと歩む者。この者には「小羊が彼らの牧者となる」ことが備えられるのです。長老ヨハネの最終的な平安は、小羊イエス様が自分の牧者になって下さることです。それは聖書の最終目標ともいえるでしょう。聖書は、病気がないとか、物質的なこと経済的なことが恵まれるとかに、平安の根拠を置いていません。それはもちろん健康が良いでしょう。経済つまりあ金がある方が、恵まれる方がいいでしょう。しかし、そこに魂と体の最終根拠の平安をおくと、人間は魂が腐るのです。それは確かに大切ですが、本当に大切なものでないのです。

 主は言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる言葉によって生きる」。マタイ伝4章4節です。現実主義者、マルクス主義は、言います。「その前に、パンがないと生きられないではないか。」しかし、主イエス様は言われます。「まず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、必要なものは与えられる」マタイ伝6章33節です。イエス様は、神様において自分の道を力一杯果たして行けば、自分の賜物を発揮していけば、必要は満たされる。何でもいいから示された事に働いておれば、必要は満たされると言われるのです。ですから問題は自分の神様からイエス様からの道であり、自分の使命であり、自分への委託であり、召しに生きることになります。黙示録7章において、ヨハネは第7封印が解かれる前に、一つの幻を見ました。主の世の終わりの礼拝をみました。「小羊の血を受けよ」。「小羊の血を受けて」肉の力を殺し、聖霊に委ねて生きなさいと言われるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナウイルスの蔓延の中にあります。少し収まりつつあります。どうか、守りを置いてください。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。この中にあって、子ども園、児童クラブは保育を続けています。どうか、先生、子供達を守ってください。ワクチン接種の注射が進んでいます。医療従事者、これに当たる方守ってください。会堂建築計画が暗礁にありますが、主の導き守りを祈ります。1週間の歩みを導きください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教    マルコ伝8章22〜26節   2021年6月6日
             「 何か見えるか 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は6月の第1主日となりました。いつものように福音書から聞くと言うことで、マルコ伝8章を開いております。巻頭言には、今年は空梅雨でしょうかと書きましたが間違いで、一昨日昨日と良く振っております。いつものように土砂災害がでないように祈るのみです。
 コロナの感染者数をみますと鹿児島県はステージ3が続きます。一昨日で鹿児島県の感染者は3436人となっています。鹿児島県はこの1週間で179人が感染されました。先週は184人でしたので、ほぼ変わらずです。北海道、沖縄、福岡、岡山、大阪、京都、名古屋、東京地区9箇所が緊急事態宣言となり、6月20日まで延長されています。「パンデミックの中のオリンピックは本当はあり得ません」という報道が、言われています。私は尾見会長さんは御用学者さんでないかと思っていたので、正直な方で良かったです。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書はマルコ伝8章の目の不自由な人の癒しの報告になっています。聖書に親しんでいる方は、目の不自由な人や耳の不自由な人また体の不自由な人の癒しは良く報告されているので、又その報告の一つかと読まれる方があるでしょう。実はこういう私も、又マルコ伝に目の不自由な人の癒しの報告が出てきたかと読んでいました。しかしいろいろ読み聞きして行く内にこのマルコ伝8章の目の不自由な人のいやしの報告は、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の癒しの報告、奇跡と違って大きな特長があるのです。本日の目の不自由な人の癒しは、実はマルコ独特の報告になっています。何の変哲のない癒しのようでありつつ、良く読むと独特です。それはこの目の不自由な方の癒しは、イエス様のいつもの目の不自由な人、耳の不自由な人、体の不自由な人の癒しと違って、一回で良くなっていないのです。つまり神の子イエス様が奇跡をなされ、癒しをなされるに一度に終わらない、一回で直ちに癒されない。2回されている。2度目にようや癒される。そういう癒しになっているのです。
 読まれた通りですが、23~25節にある通り、まずイエス様はその目に唾をつけて、両手をその上におかれます。しかし書いてあるように、まず人が木のように見えたというのです。つまり近視の方なら分かると思いますが、最初の奇跡ではぼんやりと見えて人が人でない。木が歩いているように見えたのです。ここはなかなかむずかしいところがあります。つまりこの人はもしかしたら中途失明だったかもしれません。もし生まれつきでしたら、形がわからないですから、そもそもほんやり見えるのを、木のようだ、人のようだとは言えないかと思います。昔は見えていて、その見える姿が記憶にあったということになります。
 そして、イエス様は25節にもう一度、ご自身の両手をその人の目に当てられて、すると「よく見えてきて癒され、はっきり見えるようになった」と報告されています。つまりこの目の不自由な方は、イエス様にまず唾を着けられて、手を置かれて、次に両手を置かれて2回目に癒されたことになります。ここには、2つの応答があるかと思います。1つはこの目の不自由な方は、イエス様ともあろう方、神の御子たる方が、2度も処置をしないと癒されなかった。奇跡の大変さ、難しさを示している。これは、当時の福音書記者にもあったのでないか、と思います。
 なぜなら、このような段階的な癒しというか、2回も処置をして癒されていく姿は、他の福音書は書いていないのです。マタイやルカ又ヨハネの奇跡には、ほとんど段階的な癒しの報告はありません。イエス様はその神の子として力を用いて、ある意味で一回一発の処置で癒されるのが通常です。しかしマルコ伝はこのように、段階的ある意味で2段階で、癒されたことがあったことを、報告しています。私達はこれを見て、奇跡の大変さ、癒しの困難さを確かに見ることができます。

 しかし、他方でこれは単に奇跡の大変さや癒しの困難さでなくて、イエス様が違ったことを教えておられると聞くこともできます。つまり2段階の癒しにおいて、私達はイエス様の特別な癒しに重ねて、主の教えを聞くことができるのです。と言うか、罪ある私達は本当に一回で信仰を確立し、一回で十分な信仰になるのかという問いを重ねることができるのではないでしょうか。実は、ペテロを筆頭とした弟子達も、ヤコブ、ヨハネ達もまた果たして、イエス様に召されて、その時からずっと変わらぬ信仰を持ち続けたのかということです。
 聖書を読むと、実はイエス様の十字架の信仰にペテロ達がいつ到達したのかと問うことができます。実はこのベトサイダでの目の不自由な人の癒しの直後に、ピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白があります。今日は読みませんが、そこではペテロは確かに同じ頁ですが、8章29節に主イエス様に「あなた方は私を何者と思っているか」と聞かれます。その時ペテロは「あなたはメシア(キリスト)です」と応えています。これは確かに素晴らしい本質を突いた決定的な信仰です。これが基礎であり、基本です。しかしそれではこの信仰で、ペテロとヤコブ、ヨハネはこれからの一生を歩んで行けたのか。そこが問いになります。

 ご存知、イエス様はこのペテロの信仰を非常に喜ばれて、すぐに第1回目の受難と復活予告をされるのです。今日は読みませんでしたが、同じ頁のマルコ伝8章31節です。主イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子達に言いました。その時、ペテロは「イエス様を脇へお連れして、いさめ始めた」とあります。イエス様は振り返り、8章33節ですが、弟子達を見ながらペテロを叱って言われた「サタン、引き下がれ、。あなたは神のことを思わす、人間のことを思っている」。
 ここには、ペテロは確かにピリポ・カイザリアで良い、正しい、適切な信仰告白をしました。しかしその内容が伴っていなかったのです。つまり信仰は神様から与えられるものです。何度も繰り返して済みません。主イエス様は、ヨハネ伝15章16節「あなた方が私を選らんだのではない。私があなた方を選らんだ」と言われます。信仰はとどのつまり神様から与えられるものです。信仰は一度神様から与えられ、一度神様から与えられた本当の信仰は、聖霊によってその後、育ち育てられていくのです。
 しかし与えられた信仰は、やはり成長が問われています。もちろん聖書には段階的な信仰はありません。特にプロテスタントは司祭の信仰とか、平信徒の信仰とか言いません。信仰はモーセだろうが、サムエルだろうが、司祭だろうが、牧師だろうが、平信徒だろうが、ただ一回一つのみの信仰があるのみです。しかし、その内容は、人が木のように見えるぼんやりした信仰から、本当にはっきりと人が人として見える信仰があるのです。マルコ伝はピリポ・カイザリアのペテロの正しい信仰、それはヤコブやヨハネを代表していた正しい信仰の表明の直前に、こうして「何が見えるか。木が見える。人が見える」という信仰の深さとも、信仰の成長とも言える信仰のあり方を示したのではないかと聞くことができるのです。
 ベトサイダは、ペテロとアンデレ、ピリポの出身地だったようです。ベトサイダは、23節には村とありますが、イエス様時代は良く栄えた町であったとも言われています。しかしペテロとアンデレの出身地ですので、ガリラヤ湖で魚の漁をする漁師達を中心にした、漁業の町でもありました。そこには、深い絆で結ばれた村とも言える共同体があったと推測されます。目の不自由な人を「人々が連れて来た」と22節にあります。ベトサイダの人々は、この盲人の目の不自由さを知り、なんとか目の不自由さが癒されることを願っていた、祈っていたのです。

 イエス様の癒しの奇跡は確かに、一人一人の人に出会ってくださり、癒して行かれるイエス様の姿があります。しかし同時にこうして人々が目の不自由な人を連れてきて癒して貰うという姿もあります。マルコ伝には特にそれが目立ちます。マルコ伝2章3節には、カファルナウムというベトサイダの10qの西の町で、中風で体の動けない人を4人の人が担いで来た出来事が報告されています。マルコ伝2章とマルコ伝8書は呼応関係にあるかのようです。その人がどんな信仰を持っていたのか、この人がどんな人であったのか書いてないのです。信仰があったのか無かったのか。金持ちか貧乏だったのか書いてない。ただ回りの人が、自分が知っている人、自分が付き合っている人を何とかしたい。中風を治して貰いたい。目の不自由さを直して貰いたいと思ったのです。そして回りの人の信仰が、イエス様のところに連れてきたのです。
 私達の中にも、そんな人があるのだと思います。教会は確かに自分から来る人があります。色々尋ねて本を読んで、インターネットで調べて来る方があります。しかし、キリスト教のキの字も知らないのに、ある意味で来てみたらと誘われて、中には無理やり引っ張られて来る方もあります。義理と人情に巻き込まれて来る方もあります。親に引っ張られて、来たくもなかったのに気づいたらバプテスマを受けていたと言うのもあります。
 しかし、聖書はいろいろあるけど、最後は「あなた方が選んだのでない。私(イエス様)が選んだ」と言われるのです。つまり信仰の最終責任者は、イエス様なのです。「自分は信仰を捨てました」と言う人が時々います。「それは残念ですね」といいますが、しかし本当の問題は、神様はイエス様は、本当に捨てたかどうかなのかです。

 そして信仰は、木が見える信仰から、人が見える信仰に変えられていくのです。ペテロでいえば、サタン信仰つまり十字架を避ける信仰から、神への信仰、十字架を受けていく信仰へ、引き揚げられるのです。十字架はあってはならないという信仰から、十字架を受けて復活へと導かれる信仰です。聖霊に導かれる信仰です。信仰を受けるということは、やはりイエス様に応えると言うことだと思います。それは、十字架において、神様の召しと委託と使命を受けることです。

 最後の26節に、この目の不自由な人は「村に入るな」と言われました。自分のいたベトサイダに行くことを禁じられています。いろいろな取り方があります。これは、村に行って、イエス様の奇跡を言うなということだという取り方があります。それは、マルコ伝ではすでに他の奇跡でもありました。奇跡を言いふらすことは、イエス様の本当の伝道にならないのです。イエス様、神様は確かに奇跡を行う方です。しかしそれ以上の福音伝達があるのです。それが十字架です。「あなたはメシア・キリストです」という信仰は、十字架を担う信仰として初めて真の信仰になるのです。「木が歩く信仰から、人が歩く信仰」へ。それは十字架を受ける信仰だったのです。神様によって生かされ罪赦された者は、イエス様の恵みで召しと委託、使命に生き立てられるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。私達を木の見えるぼけた信仰から、人が見える真の十字架の信仰に導きください。コロナ感染の中、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方あります。守り導きください。続けて会堂建築支え下さい。子ども園、児童クラブの子供達先生方を守ってください。ミャンマーのクーデターとパレスチナの平和を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」
 教会 説教    言行録16章25〜34      2021年5月30日
        「 主イエスを信じなさい 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は5月の最後の主日となりました。第5週礼拝と言うことで、自由に聖書を選ぶという方針ですが、先週が第4週とペンテコステ・聖霊降臨礼拝が重なりました。それでいつも第4週で聞いている聖書教育の個所から聞いていきます。『聖書教育誌』は、5月は使徒言行録の学びになっており、本日はその最後の学びになっておりました。ここはパウロとシラスが、ヨーロッパ伝道に導かれた最初の伝道地の町、フィリピ伝道での出来事です。特別なことでなくフィリポの刑務所からの脱出物語です。しかし、実は、伝道の基本がいかんなく語られている箇所であると思い聞いていきます。
 いつものようにコロナの感染者数をみますと鹿児島県もステージ3がかなり長くなりました。一昨日で鹿児島県の感染者は3257人となっています。鹿児島はこの1週間で184人が感染されました。先週は260人代でしたので、少し低くなっています。しかし北海道、沖縄、福岡、岡山、大阪、京都、名古屋、東京地区は10箇所が緊急事態宣言となり、6月20日まで延長されています。オリンピックを前に、なんとか減少したいという考えのようです。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて本日は、25節から読んで頂きました。ここはペテロとシラスのフィリピ刑務所からの解放を扱っています。しかし投獄の個所は読みませんでしたので、少しおさらいします。パウロとシラスは、第2伝道旅行でフィリピの町に入り、ユダヤ人の会堂で宣教をしました。そこでリュデアという紫布を扱う女性の商人に出会います。当時紫布は、最も高価な布とされ、日本でいえば絹織物のようなものです。リュデアは非常に裕福な女性であり、多くの僕たちを雇って商売していたと思われます。神様が、リュデアの心を開き、ヨーロッパ伝道の礎としてくださったのです。
 いつもの通りにパウロとシラスは、ユダヤ人の会堂に行く途中で、占いの霊に付かれた女性の奴隷に会います。その女性はパウロとシラスの後からついてきて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」というのです。間違いではないのですが、パウロはたまりかねて振り向き、この女奴隷から占いの霊を追い出してあげます。これは良かったです。しかしこの女奴隷の主人は、占いができなくなった女僕をみて、パウロとシラスを訴えるのです。本来は、これは女奴隷にとっては、悪霊からの解放ですので良いことでした。しかし、金ずるがなくなった主人からは自分の商売の邪魔するものとなったのです。
 実は、福音が伝えられるところには同じようなことが、起こります。マルコ伝5章にはイエス様がレギオンという悪霊に取りつかれたゲラサ人を癒したことがあります。しかしこの時、豚2000匹が悪霊に入られて、ガリラヤ湖で死ぬことが起こりました。その地方の人々は、イエス様にこの地方から出て行ってくれと頼みます。なぜか、一人の人が悪霊から解放されたことを誰も喜ばなかったのです。福音はこうして、人々からは煙たがられ、人々に嫌われることもよく起こります。

 パウロとシラスはある意味で、良いことをしてあげた。一人の女奴隷を占の霊から解放し、自由にしました。しかし、訴えられてフィリピの刑務所に入れられました。しかし、パウロとシラスは、主の名によってしたことであったので、全くめげることなく、刑務所にあっても主を賛美しました。ここには私達キリスト者の在り方の典型が示されます。それは、結果がどうであれ、神様の為に、イエス様に為にしたことであれば、その結果が悪くても、主を賛美するということです。パウロとシラスに、私たちは主の為にしたことであれば、根底に主の名をあがめるためであるならば、たとい結果が悪くても、刑務所に入れられても、主を賛美して、主を信じて歩むことを示されるのです。

 26節にあるように、主は答えられるのです。フィリピの町は、マケドニアにあるのですが、実際に地震の多い地方だそうです。主は地震を用いて、パウロとシラスに答えられます。書いてある通りですが、このフィリピでの地震は、パウロとシラスの刑務所を襲い、なんと刑務所の土台が揺るぎ傾いたのか、どうしたのか。刑務所の戸口が皆外れ、開いてしまいました。さらにすべての囚人をつないでいた鎖まで解けたというのです。おそらく、囚人をつなぐ鎖は刑務所の壁に直接つないであったが、その鎖が繋いである岩が地震で割れるか、緩みが出てしまったのでしょう。フィリピ刑務所の囚人たちは、自由に逃げられるようになったようです。

 27節にあるように、その地震で看守が起きたのでしょうか。刑務所の扉が開き、囚人が逃げたのを見た看守は剣を抜いて、自殺しようとします。これは言行録12章19節にもあります。ペテロが天使によって、刑務所から出された時に、その時の番兵が殺されています。ローマ帝国では、囚人が逃げるとその責任を看守や番兵に有無をいわせず、押しつけました。
 しかしパウロとシラスは、全く逃げませんでした。そして不思議なことに、他の囚人たちも逃げて良かったと思いますが、逃げていません。これは理由がよくわかりません。パウロとシラスが、刑務所の中で賛美し、神様にしっかりと結びついている姿に、他の囚人たちは驚いたのでしょうか。刑務所という死を目の前にしたパウロとシラスが、全く死を恐れず、神を賛美している姿に、何か打たれたのでしょうか。理由はわかりません。
 28、29節にある通り、看守が明かりを持ってきて、刑務所の中を照らすと、囚人たちは、誰も逃げずにそこにいたのです。当時の看守からすると囚人が逃げられるのに、逃げないというのは、あり得ないことであります。ある意味で奇跡であり、信じられない出来事だったのです。看守は震えながら、パウロとシラスの前にひれ伏したとあります。この「ひれ伏す」は、もちろん人間が神の前になす礼拝のひれ伏すです。

 30節には、看守は2人を外に連れ出して「先生方、救われるためにどうするべきでしょうか」と聞いています。まず、先生方という呼びかけですが、原文は「主よ」の複数形です。看守はようするに何をどう言うべきかも、分からない状態だったと思います。そしてこれに答えたパウロとシラスの返事は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」ということばでした。
 私たちはここに、伝道の原風景を見る思いがします。福音の言葉がかけられる事態は、神の言葉が用いられる場面とは、普通の状態でないことです。地震が起こる、刑務所の戸や鎖が奇跡的に解かれる。そして、逃げるべき囚人が逃げない。その前に、もともと悪くない、いやむしろ良いことをしたパウロとシラスが、刑務所にいる。困難な目にあっているということです。困難と言うよりも飛んでもない目に合うと言ってもいいかもしれません。
 私たちは、パウロとシラスのフィリピ伝道において、福音伝達の状況と言うのは、どうも普通でない状態の中で起こることを教えられるのです。そして、普通の状態でないことは、ある意味でいつもの普通の状態の活動がなければ、普通でない状態はないともいえると思います。私たちがなす毎週の礼拝、毎週の祈祷会、当番として回ってくる清掃があります。しかしこれが、普通に行われて、普通でない状態が発生するのではないか。つまりパウロとシラスは、いつものように伝道し、ユダヤ人会堂を目指して福音を語るために、いつもの日々を過ごしている。その中で、神様は占いの霊に取りつかれた女奴隷に会わせてくださった、といえるでしょう。日々の普通の日常が繰り返されて、その中に、主はご自身の神様の時を置いてくださる。そして、このフィリピの占の霊に取りつかれた人の癒しが、また、ローマの一人の官吏である看守とその家族との出会いとなりその救いにつながっていったのです。

 こうなってくると私たちは「風が吹くと桶屋が儲かる」ではありませんが、改めて「人間万事塞翁が馬」ともいえる神様の配材、配慮、摂理を思うしかありません。つまり「突風で砂ぼこりが立つ、 砂ぼこりが目に入り、視力を失う人が増える、三味線を買う人が増える(※江戸時代では、三味線弾きは視覚障がい者の代表的な職業でした)、三味線の皮の材料として猫の皮が必要になり、猫が捕獲される、 猫が減るとねずみが増える、 ねずみが増えて、かじられる桶が増える、桶の修繕や買い換え需要が増え、桶屋が儲かる」となっていました。本来の意味は原因と結果の関連が薄いことの代表になっています。しかし「塞翁が馬」になってくるとさすが中国の知恵です。塞翁が馬。あるところに父と息子がいた。父と息子の飼っている馬が逃げ出した。人々は大切な馬がいなくなって大変だねというと、父はいやこのことが良きになるかもしれないという。しばらくするとその馬は違った馬と一緒になって帰ってきた。息子がその馬に乗っていると落馬して、足の骨を折ってしまった。人々はかわいそうにと言った。しかし父は、いやいやこのことが良いことになるかもしれないと言う。何とその地方に戦争が起こり、村の青年は皆兵隊にとられた。しかし足を折っていたので、この息子は、兵隊にとられず、命拾いをした、という故事です。
 これらの故事は、人間世界には、完全にただのマイナスはないということです。ましてや、神様を信じる者には、イエス様の十字架と復活を信じる者には、神様は必ず摂理と導きを置いておられる。十字架からの復活のように、主は働かれるのです。単純なただ「主イエスを信じなさい」に、すべてがかかっているのです。

 33節に、看守は、パウロとシラスの打ち傷を洗ってあげた、とあります。しかし、これは32節に「看守とその家族に主の言葉を語った」の後にあるのです。なんとパウロとシラスは、自分達の打ち傷を手当する前に、手当してもらう前に、主の言葉を語っていることになります。主の言葉の優先です。それでいいのではないでしょうか。「マルタとマリア」のルカ伝10章38節の出来事も似ています。マルタは一生懸命主のお世話をしました。マリアはただイエス様の足元でみ言葉を聞いていました。主はマルタに感謝しつつも、マリアの聞く方を「良い方を選んだ」と言われたのです。マルタがいないと教会は確かに進まない。しかしどうなのか。教会はみ言葉を聞くマリアの力を持って、マルタが生かされるのでないか。マルタは、マリアに支えられているのでないか。「主イエスを信じなさい」にすべてがかかっているのが教会の信仰です。パウロのシラスの賛美に、マルタを支えるマリアの聞く十字架の信仰を示されます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。コロナ感染の中にあります。どうか、医療従事者を守ってください。感染をおさえてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方、支えてください。このような中にあって、児童クラブと子ども園を守ってください。子ども達と先生を感染から守ってください。パレスチナの平和とミャンマーのクーデターにみ手をおいて、平和を置いてください。混乱の時はいつも女性たちや子供たちが犠牲になります。み手をおいてください。会堂建築を最後まで導き支えてください。5月が終わり6月を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教    ヨエル書3章1〜5節     2021年5月23日
        「 我が霊を注ぐ 」 ―聖霊降臨日礼拝―
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日は聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝として守ります。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日、聖霊降臨日は、教会の誕生日ともいわれます。主イエス様は十字架にかけられ、復活されました。しかし、未だ弟子達は何をどうしたら良いか分から無かったのです。しかし、言行録1章4節に「前から私から聞いた父の約束されたものを待ちなさい」との復活のイエス様のことばを信じて、じっと祈って待っていたのです。そして、主はこの約束に応えて、復活して50日目に聖霊を送ってくださったのです。私達もまた、ある意味で常に聖霊の降臨を待ちつつ、事をなしていくのだと思います。
 いつものようにコロナの感染者数をみますとすでにご存知通り、第4波が来ており、鹿児島県もステージ3となりました。一昨日で鹿児島県の感染者は3073人となっています。鹿児島はこの1週間で263人が感染されました。北海道、沖縄、福岡、岡山、大阪、京都、名古屋、東京地区の10箇所が緊急事態宣言となります。5月末までとされますがさらに延長されるようです。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書はヨエル書から聞いていきます。いつもは使徒言行録2章のペンテコステ・聖霊降臨の出来事から聞くことが多いです。しかし本日の聖霊降臨を、この聖霊降臨の出来事を預言したとされるヨエルという預言書から聞いていきます。この3章が聖霊降臨の預言に当たります。ヨエル書はすでに何度か、聞いて来ましたが「主は神なり」という意味です。ヨエルの「ヨ」というのは主なる神ヤーウエの「ヤ」という神様の短縮形で、エルが神様という意味です。「主が神なり」となります。いろいろな聖書学者が預言時代を考察していますが、預言者ヨエルは、おそらく預言者マラキ書やゼカリヤ書が書かれた時代であろうとされています。
 つまり、イスラエルの民はバビロン捕囚から戻って来てエズラ、ネヘミヤの活躍により第2神殿が建立されました。それから約100年経過し、いよいよ神殿礼拝が回復し整った時期です。そして神様の祝福がいよいよ増すと言う多くの期待が高まっている時でありました。ところがヨエル書1,2章では、イスラエル地方は、なんとイナゴの大群の大被害を受けたのです。ヨエル書1章4節に在るとおりです。「かみ食らうイナゴの残したものを、移住するイナゴが食らい、移住するイナゴが残したものを、若いイナゴが食らい、若いイナゴが食い残したものを、食い荒らすイナゴが食った」とあります。日本に住む私達には、イナゴの被害は余りピンと来ません。ただ中近東やアフリカの地方の報道テレビで、イナゴの被害を見るくらいです。まさに雲の様な大群でイナゴが襲ってきて、アッと言う間に野菜や植物を食い荒らす姿をみます。
 ヨエル1章には7節にぶどうの木が、10節にオリーブの木が、11節に小麦と大麦、畑の実りが失われたとあります。12節にはイチジク、ザクロ、ナツメヤシ、リンゴとすべての木が枯れつくされたとあります。13節に「祭司は粗布をとって嘆き悲しみ」、14節は「主の神殿に集まって嘆きの叫びを上げよ」となっています。

 イスラエルは神殿再建を果たし、バビロン捕囚前の神殿を中心とした生活がいよいよ本格的に軌道に乗り、戻りつつありました。いよいよ神様の祝福がまずます大きくなると言う時だったのです。その時イナゴの大群がイスラエルを多い、エルサレムを襲いました。ヨエル1章16節以下にはすべての食べ物が断たれ、牛の群がさまよい、羊の群が苦しみ、火と炎が、野の木をなめ尽くしたとあります。ヨエルはこのようなイスラエルのイナゴの大群に襲われた姿を見て、ヨエル2章1節に「主の日が来る、主の日が近づく」と預言しました。2章11節には「主の日は大いなる日で、甚だ怖ろしい。誰がその日に耐え得よう」といいます。そして、神殿再建という目に見える形の復興ではなく、心の復興、信仰・精神の復興に気づかされるのです。ヨエルは続けて2章12、13節に「主は言われる『今こそ、ここから私に立ち帰れ、断食して、泣き悲しんで。衣を裂くのではない。お前たちのこころを引き裂け』と」語りました。

 私だけでなく、多くに方々が、ヨエルのこのイナゴの大群の被害は、現代でいえば、コロナウイルスかも知れないと思われる方が、少なからずおられると思います。私達が自分の力で何でもできると思い、象徴的にいいますが「オリンピックをコロナに打ち勝つ人間の勝利のしるしにしましょう」と言われていた時、正直大丈夫かと思いました。まさに、コロナウイルスは、どんどん姿を変えて、確かにワクチンが有効ですが、簡単には克服出来そうにありません。コロナウイルスは、どこか、私達人間の高慢と傲慢に対する警告の役割を担っているかのようです。

 ヨエル書2章13節は続けて「あなた達の神に立ち帰れ、主は恵み深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」となっています。神様が悔いるかという方もおられるかもしれません。擬人化表現ということでしょう。預言者ヨエルは、神殿さえあれば大丈夫、神殿礼拝さえしておれば、何とかなるというイスラエル、エルサレムの「安心、安心」と言う人々に、今一度、心と信仰を神に注ぎ出せと預言するのです。そして、その時ヨエル書3章にあるように、1節「私はすべての人に我が霊を注ぐ」と預言して行きました。2節にはそれが徹底されて「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と預言していきます。

 3章からの「霊の注ぎ」の預言は、1,2章のイナゴの災いによる悔い改めの預言と違った場面だったかも知れません。しかし、私達はいくら「神に立ち帰れ」と言われ「心を引き裂け」と言われても、そう簡単に「神様に立ち帰ろう」とせず「心を引き裂かない」悔い改めない自分を知っています。私達はいかにして、本当に主なる神に立ち帰り、心を引き裂くのでしょうか。どうしたら、心から主の名を呼び求めるでしょうか。ヨエル書の預言は、それが聖霊の注ぎであるとするのです。
 聖霊が奴隷を含めて、民全体に与えられるという預言は、もう一つ実は民数記11章29節にあります。この時、イスラエルはシナイ半島の砂漠を、40年間さまよっておりました。そして、神様はイスラエルに、毎日毎日マナという砂糖菓子のような食べ物、マナ虫という昆虫が出す分泌物で、人々がマナという、食べ物を与えて食べていました。砂漠でも食料が得られるのですから、これは神様がなす奇跡でもあったのです。しかし、いくら奇跡の食べ物でも、毎日同じものを食べているとさすがに不満がでてきました。とうとうイスラエルの人々は肉が食べたいと言い出すのです。砂漠のど真中にいるのにどうやって肉を食べるのか。神様はどうやって、砂漠で肉をイスラエルに与えるのか。実はこの時、民の長老の内70人が霊を受けて、預言状態になったことがありました。
 その時、モーセの従者ヌンの子ヨシアは、70人の長老たちが聖霊を受けているのを見て、モーセに「やめさせてください」といいます。しかしモーセは、「あなたは私のためを思って妬みの心を起こしているのか。私は主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望する」と民数記11章29節に言っています。民がすべて聖霊を受けるのは、実はモーセの願い、祈りでもあったのです。それは文脈でいうと民の不満・不安が頂点に達した時、神様が与えてくださる打開策とも取れます。具体的には、このことが起こってから、うずらの大群が、イスラエルの陣営に留まり、民は鼻から血がでるほどにウズラの肉を食べることができるのです。シナイ半島はウズラの渡りの通り道になっており、時々そのようなことが起こるのだそうです。主なる神はこのような自然現象を用いて、イスラエルを養われました。
 しかしここで大切なのは、モーセが民の不満と不安に囲まれた時、神様は70人の長老に聖霊に満たして、民の不満に応えるようにしてくださったのです。預言者ヨエルがどこまで、民数記のこの事件を念頭に置いていたのかはわかりません。しかし、肉が食べたいという不満の答えに、聖霊がまず与えられた歴史は、ヨエルを動かしたといえるでしょう。そして、バビロンから帰り神殿再建ができた時に、これからという時に、イナゴの大群によって、食料がなくなり、牛や羊が死んでいき、すべての野菜や木々が食べつくされた時の食糧難において、預言者ヨエルは「心から神に立ち帰り、心を引き裂いて、神に立ち帰る」ことを示されたと言えるのです。

 3,4節には、イザヤが預言していた天と地のしるし、審判の主の日、最後の日が来るということを、ヨエルにイナゴの災害が思い出せてくれたということでしょう。言ってみれば、コロナウイルスに、もし、私たちが何か教えられることがあるとすれば、それは、人間がコロナに打ち勝てるということでないでしょう。むしろ審判の日、最後の日、人間の限界、人間の理性と知恵を超えたことがいつでも起こるのであり、人間は、自分の限界と自分の分を知って真剣に歩みなさいということでしょう。つまり私たちは聖霊を求めるというか、神様を求めて生きると言うことだと思います。
 5節には、主の日、審判の日、大いなる恐るべき日が来ても「神を信じる者は、救われる」とあります。この5節は、新約聖書ではローマ書10章13節に引用され12節から読みますと「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を求めるすべての人を豊かにお恵みになる」としています。そして、ヨエル書3章5節「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」がその根拠となる聖書になっているのです。この5節は、ある意味で新約聖書で最も大切な聖書となります。

 主の名を呼び求める者が、皆救われるとすれば、私たちの救いは、ただ主を呼び求めることになります。そして、主の霊が注がれる時、私たちは初めて、心から自由に魂から、主を呼び求めるのです。つまり私たちの救いは聖霊をきちんと素直に受けるのかということになります。モーセは聖霊をもって、民を導くことを切望しました。そのように、聖霊は自由に私たちが神に聞き、神に感謝し、人に責任を持ち、人に自由に信頼することをなさせてくれるのです。自由に神に聞き、自由に神に感謝し、自由に責任を持ち、自由に人に信頼していく。これは復活と同様に大きな奇跡です。聖霊降臨を主が起こしてくださった。人間の力でなくて神の力で、聖霊で教会が始まったのです。これはコロナウイルスの時代にあっても、なお、私たちを励まします。教会が、神によって始まったら、教会は、神によって支えられます。私たちはただ聖霊を受けるのみです。主の聖霊を受けて、私たちは自由に主に聞き、また従い、自由に主に応えることが許されています。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。聖霊降臨を感謝です。私たちは聖霊によって自由に主に聞き、感謝し、責任を持ち、信頼できます。聖霊を私たちと求道の方に与え導きください。病気療養の方ご高齢の方、支えてください。医療関係者、保健所の方支えてください。児童クラブ、子ども園の働きを支え、子ども達、先生方を感染から守ってください。パレスチナ、ミャンマーに平和を与えてください。会堂建築を支えてください。1週間、一人一人導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教    エゼキエル書26章1〜7節     2021年5月16日
           「 主なる神は言われる 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は、5月の第3週になりました。第3週は旧約聖書から聞くという方針で、本日はエゼキエル書26章から聞いていきます。本日の預言は、エルサレム神殿が陥落した正にその年の預言となっています。今、テレビ・新聞はパレスチナのガザ地区へのイスラエルの地上軍の侵攻があるかないかで、毎日イスラエルの名がでてきます。こんなことでイスラエルの名を聞くのは嫌ですが、私達はイスラエルのバビロン捕囚を聖書から聞いています。イスラエルが神の義にもとることをなせば、主は必ず裁きをなさるとしか言いようがありません。ミャンマーと共に平和をイスラエルとパレスチナの間に祈るのみです。
 いつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、第4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、ステージ3となり、12日木に51人、13日金に45人となっています。一昨日で鹿児島県の感染者は2809人です。この1週間で347人感染され一週前が338人感染されましたので、1週間300人代が続いています。北海道、福岡、岡山、大阪、京都、名古屋、東京地区は3回目の緊急事態宣言が5月末まで延長され発令されています。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 聖書はエゼキエル26章から聞いていきます。ここはすでに25章から聞いて来ましたが、諸外国に対するエゼキエルの預言となっています。25章でアンモン、モアブ、エドム、ペリシテと4つの国に対する審判を預言したエゼキエルは、26章からティルスが3章、シドンそして最後にエジプトが4章に渉り33章まで預言しています。ティルスとエジプトが3章と4章に渉る非常に大きな分量の預言となっています。これらは、エゼキエル時代のティルスとエジプトの国の力と影響力を示しています。

 1節にあるように、この預言が起こったのは、エホヤキン(ゼデキア)王11年のその月の第1日とされています。これは通常BC586〜7年とされるバビロンによってエルサレム神殿が破壊された年です。エゼキエルはバビロンにいますので、直接的にはこのエルサレムの破壊を後から知ることになります。しかしエゼキエルはおそらく幻で、すでにエルサレムの陥落が伝えられる前に、主によって陥落を示され、悟っていたと思います。
 2節からティルスの罪が示されます。そこには「ティルスがエルサレムを嘲る」とあります。実はティルスはフェニキアの首都としてあり、ガリラヤ湖から北東に60qほど行った地中海の海に突き出た港町でした。当時、難攻不落と町として栄え、地中海とフェニキアを支配したと言われています。そして、貿易においてはユダ、エルサレムのライバル・競争相手の都市としての位置にありました。アッシリアの時もそうでしたが、アッシリアは完全にはティルスを破壊できなかったとさます。そしてバビロンも又、エゼキエルの預言のように、一時期ティルスを滅ぼしますが又復興しています。ティルスが完全に破壊されるのは、ギリシャのアレキサンダー大王の時であり、また復興してローマ軍の遠征の時であったとされます。イエス様時代の地図にも、またティルスは復興して乗っているのです。自然的な条件に恵まれ、エジプトからギリシャへの貿易船の中継地であり、物量の拠点であったのです。

 1節にはエルサレムが「諸国民の門であった」と言われています。これもまたエルサレムが単に、神の選ばれた町のみならず、エジプトとアラビアから、北に向かってギリシャや黒海付近の諸国へ行くときの玄関のような中継の町の役割を果たしていたとされています。つまりティルスとエルサレムは、海上貿易と陸上貿易の違いがありますが、中継貿易の町として、ライバルだったらしいのです。それで、エルサレムのバビロンによる陥落は、「私(ティルス)は富み、お前(エルサレム)はすたれる」というあざけりを生んだことになります。ティルスの人々は、エルサレムがバビロンによって陥落させられて大喜びをしたというのです。
 しかし、本来はティルスとエルサレムは、エレミヤ27章3節によるとバビロンのパレスチナ侵攻に備えて同盟を組んでいたのです。エレミヤ27章3節には、「エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王の使者達に伝言を持ち帰らせよ」とあります。これはエルサレム陥落の5年ほど前だったとされます。もともとはバビロンという超大国のパレスチナ侵攻に向けて同盟を組み、なんとか一緒に持ちこたえようとしていた民たち、ここの民がエルサレムの陥落を喜びました。
 私たちも同じようなことがあるのかもしれません。自分と全く境遇の違った人の不幸は、余りにも差がありすぎて、何の感情も気にも止まりません。大臣や県知事さんと自分を比べる人はめったにいないと思うのです。しかし自分と近しい人の幸福や不幸は気になるというのがあるのではないでしょうか。エゼキエルもエルサレムのライバルであるティルスの滅びには、大いに関心を持ったということだと思います。

 しかし3節をみますと現実的なそのような人間的な思いだけで、エゼキエルがティルスの滅亡預言をしたのではありません。ここには「わたしがお前に立ち向かう」とあります。それはもちろん主なる神様がティルスに向かうということです。なぜかというと、実はティルスの今の状態が、非常に普遍的で具体的な人間の罪を示すからであります。実はその時その時にまた見ていきますが、次の27章3節にはティルスは「ティルスよ、お前は言う。『私の姿は美しさのきわみ』」と誇ったとあります。まさに自分のことを自分が褒める姿です。人間ですので、自己満足でしか生きられない時も確かにあります。しかし、グリム童話の白雪姫の王妃でもあるまいし「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは誰」と言って自分の名が告げられず、白雪姫が美しいと、鏡が答えると毒リンゴを食べさせるくだりがあります。

 27章では、ティルスは確かに港町として優れており、非常に素晴らしい港を持ち、世界中の船がエジプト、タルシシ、ペルシャ、ギリシャの人々が行き来しました。しかし白雪姫の王妃が自分の地位と自分の務めを忘れて、自分より美しい人を妬んだとたんに、王妃の滅びの車が回転しだすのです。ここは大きな教訓を含んでいるのです。せっかくの自分の大切な王妃の務めがあるのに、その務めを忘れて、妬みに身を焦がすときに、滅びの車は回転しだすのです。ティルスは確かに美しい、よい町でした。しかしエルサレムの滅びを喜んだ時に、滅びの矢はティルスに打たれるということになります。スポーツ選手の中にはライバルがいたから自分が成長できたのです、とのことを時々聞きます。しかし目標となるライバルがいなくなった時、自分の成長も止まったしまったことを知っているのだと思います。

 4節にあることは、現実的にはバビロンが、ティルスの城壁を倒し、その見張りの塔を倒すのです。そしてティルスを裸の岩にするのは、バビロンです。しかし、かつて同胞として戦い、同盟を結んだ国の滅びを喜ぶとき、実は、自分もまた滅びに進んでいることを悟るべきでした。エゼキエルは一見国と国の滅びの預言でありつつ、実は人間の罪を含め、象徴していると読むことができます。 
 次の28章も又実は、同じことが含められています。ティルスは難攻不落の港町で、どこからも攻めることがなく、攻められても、攻められても復興しました。エゼキエル28章2節にはティルスの人々が「私は神だ、私は海の真中にある神々の住処に住まう」と言っていたとあります。アッシリア帝国の攻撃にも全くどうぜず、アッシリア帝国の西の侵攻を食い止めたのが、ティルスであったと伝えられています。ティルスは自然環境に恵まれ、なかなか普通の攻撃方法では落ちなかったのです。アレキサンダー大王が初めてティルスを落城させたとありますが、なんと海を埋め立てて攻撃したという信じられないことが伝わっているそうです。
 しかしどうやって落城したかではなく、やはり神様が見ておられたのはティルスの心、精神、信仰の状態だったのです。ティルスはいいます。「私は神だ」。確かにティルスは神のごとく、難攻不落の港町です。しかしその他民族の攻撃への神のごとき守備力が優れていることと、「私は神だ」は違っているのです。「私は神だ」と言ったとたんに、滅びの車が回りだすのです。

 エゼキエルは28章3節で主なる神は言われています。「お前は人であって、神でない。ただ自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ」。続けて28章5節「お前の心は富のゆえに高慢になった」。高慢になるとき、人はなぜか自分の滅びの車を回しだすのです。どうしてそうなるのかですが、神様は人間をそうなるように創造されたのでしょうか。
 私たちはアダムとエバが、蛇によって「神のごとくになる」と言われて、神の戒めを破ったことを知っています。創世記3章です。聖書に詳しい人は、ダビデの息子アムノンとアブシャロムの兄弟同士の殺し合いが、アムノンの友人ヨナダブの知恵で、アムノンがアブシャロムの妹を手籠めにしてしまったことを思い出されると思います。サムエル下13章です。ダビデの司令官ヨアブは、アブシャロムの捕囚を終わらせようとしてある女を雇い、知恵を授けます。まんまとダビデ王はヨアブの思惑通りになるのですが、これがかえって司令官ヨアブの謀反を引き起こし、死へと導きます。サムエル下14章です。
 ティロスの「私は美しい」とする高慢さと「自分は神だ」という傲慢さは、こうして、最後は自分を滅ぼすのです。エゼキエルが、ティルスの滅びの預言を語っていくのは、単にバビロンによって滅ばされたエルサレムを、嘲弄したのみでない。ティロスは、バビロンによって滅びるだけでないのです。そこには、妬みと自分の知恵にのみ頼っていく人間の最後、哀れさをティロスの滅びに読み込んでいるからです。
 ティロスの滅びは、今は誰も知らない古代国家の絶滅の姿かもしれません。しかし、今も聖書に書かれることによって、私たちがどう生きるのか、何を見上げて生きるのか、何を根拠に生きるのかをいつも新たに示してくれるのです。私達は振り返り、イエス様の十字架の愛のすごさ、ただの人となって私たちの罪を贖ってくださったすごさに、おどろくばかりです。私たちはティルスの滅びを知らされ、高慢と傲慢の罪を知り、イエス様の謙遜と低さを知らされます。一見十字架の弱さは、実は強さであると知らされます。私たちは主の十字架の恵みに答えて生きるのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。コロナ感染が酷くなっています。主が守ってください。どうか私たちに改めることを示し、改めさせてください。医療関係の方を支えてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園と児童クラブを守ってください。どうか、子どもたち先生を感染から守ってください。ミャンマーのクーデターを収めてください。教会員一人一人をみ手においてください。会堂建築を支えてください。み名によって祈ります。アーメン。」

 教会 説教    ヨハネの黙示録7章1〜8節     2021年5月9日
           「 損なってはならない 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は、5月の第2週になりました。第2週はイエス様の12使徒の手紙から聞くという方針でいます。ヨハネの黙示録は手紙ではありませんが、弟子の長老ヨハネの使信ということで、聞いていきます。本日の7章は、黙示録はほぼ世の終わりの審判の教えですが、しかし珍しく神の守りの預言になっています。
 いつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、第4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、この数日は1日50人以上の日が続き、段々感染者が増えております。5月7日(金)から鹿児島県はステージ3になりました。一昨日で鹿児島県の感染者は2462人です。この1週間で338人感染されています。しばらく1週間で60人台でしたが、この先いよいよ増えていくでしょう。大阪、京都、東京は3回目の緊急事態宣言が5月31日まで延長され福岡、名古屋が入って発令されるとなっています。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、感染地域に移動しない、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 聖書はヨハネの黙示録7章から聞いていきます。この7章は、第6の封印と第7の封印の間におかれた預言となっています。本来なら、第6封印の次に第7封印が来て、つまり6章の次に8章がすぐに来るのでしょう。しかし、第1から第6までずっと審判の預言が続きましたので、小羊イエス様、黙示録はここで信徒の守り、主の保護の約束をされたのでないかと言われています。3節にあるように「我々が額に刻印を押すまでは、損なってはならない」という守りの幻・預言になっています。
 実は次になりますが9節から17節は、17節に「神が彼らの涙をことごとく拭われるからである」としています。つまり1〜8節は現在の状態の守り、9〜17節は未来というか世の終わりの時の天上の礼拝の守りとなっているのです。こうして7章は、小羊イエス様が今の信徒を守り、さらに9節からは世の終わりの時、信徒を守るとなっているのです。私達は第6封印と第7封印の間に、こうして主の守りと導きの約束の預言を聞き、主の守りと導きの確かなる事を知ることができるのです。

 1〜4節には、大地の4隅に天使が立っていて、大地に吹く風をしっかりと抑えていたとあります。ここでの吹く風が裁きの風であり、人々を裁きにかける風と言うことになります。4人の天使は、この風が吹かないように抑えているのです。実はこのような裁きの天使があって、又違う天使が地上と海と木を守るためにあるのは、エゼキエル9章のエルサレムの審判の幻の中にあります。エゼキエル9章では、エルサレム神殿に偶像が一杯となり、異教のタンムズ神、太陽神や、激怒を招く神があって、これを主なる神様が裁かれる幻になっています。
 長老ヨハネは、パトモス島において、ローマ皇帝ネロ帝に続く、ベスパニシウス帝におけるエルサレム神殿の征服と破壊を聞いたのでしょう。続けてキリスト者の迫害の様子を聞き、ティトス、ドミチアヌス、ネルバ帝の皇帝達の迫害に呻吟し混乱するキリスト者達を見みたのです。2節の「大地と海を損なう事を赦された天使」とは、このような情勢不安の中にあるキリスト者を見るときの幻でないかと思います。
 しかし3節に「我々が、神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なうな」とあります。このような迫害の時代に、それでも小羊イエス様を信じる信徒達が現れ、導かれる、守られていく姿であろうと思います。長老ヨハネから100年後にテルトリアヌスというキリスト教の教父(教える父のことです)がでています。この人は、自分の著作に「キリスト者達の殉教の血は、福音の種であった」と書いたと伝わっています。どうして迫害の時に、キリストの教えが広まるのか、おかしな出来事ですが、事実そうだったのであります。
 言ってみれば、今のようなコロナ感染の酷い時代に、それでもイエス様の教えが広まっているとも言えます。今のコロナの時代と1世紀の迫害下のキリスト者を比べるのは、おかしな話しです。しかし、中世教会の歴史が専門の西南神学部の片山先生が、「集まることが非合法であった初代教会と感染の為に集まることが非難され、はばかれる時代のキリスト者はどこか似ているところがあります」と書かれていました。本来比較でき無いですが、比較すると妙に似ているのが不思議でもあります。それぞれの教会が、分散礼拝、リモート礼拝、ライブ礼拝、説教配布礼拝といろいろな昔なら思いもつかないことをしています。感染にかからないで礼拝できないかと工夫し、いろいろ試されているのは、どこか「神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なうな」という小羊イエス様のことばが成就しているのかも知れません。

 エゼキエル9章では、主が、エルサレムを破壊する天使に、書記の筆入れを与え、神を信じ、偶像礼拝をしない者の額にしるしを付けたさせたとあります。エゼキエル9章6節では「老人も若者も、おとめも子どもも人妻も殺して滅ぼしつくさなければならない」のです。しかし、天使から額にしるしを付けられた者は、破壊の天使達にしるしのある者に「近づいてはならない」と言われるのです。具体的にどういうことであるのかは、よく分かりません。これは心理的な精神的なことではないのかと言う人もいます。
 しかし旧約聖書では出エジプト12章にやはり、似たような記述があるのです。それは、ご存知、過越祭の起源になったできごとです。主なる神は奴隷のイスラエルを出エジプトをさせてくれないエジプト王ファラオに対して、モーセによって、小羊の血を玄関の柱に塗ったものは、破壊の天使が通り過ぎる。しかし、それをしない者の家は、エジプト人だろうがイスラエル人だろうが、家畜から初めて人間まですべての初めて子ども、初めて胎を開いた動物をも取り去るとされました。主なる神の言葉は聞くに価しないとした者は、もちろん玄関の柱に小羊の血を塗りませんでした。しかし、主なる神様の言われたことを信じた人は、玄関の柱に小羊の血を塗りました。そして、正に神のお言葉の通りになったのです。信じて小羊の血を塗ったものは家に死者がでず、塗らなかったものは、家族に1人または家畜の1頭がなくなりました。
 この出来事は、ずっと神の言葉に従うことが、どういうことかを知らせる出来事であったのです。ローマ皇帝礼拝が吹き荒れる中で、それでも神の言葉を聞いて、皇帝礼拝を拒否し、キリストの愛の実践をなし、それを行おうとしたキリスト者があったのです。それにしても「額に刻印をおされる神の僕達」とは一体何をしていたのでしょうか。実は、使徒言行録には、ペテロやパウロと言った有名な人の活躍は報告されています。しかし、無名の人々が迫害下のローマ帝国に伝道し、どうして、200年くらいでキリスト教がローマ帝国内にほぼ広まってしまったのかはよく分から無いのだそうです。しかし、唯一の手がかりは、使徒言行録ですが、ここにはパウロの伝道は、パウロが一人でしていないことを改めて読むことができます。

 言行録9章には、パウロにバプテスマを授けたのはアナニアであったとあります。実はアナニアは、パウロにバプテスマを授けた程の人ですが、それ以外にどこも何も出てこないのです。まさにアナニアはパウロにバプテスマを授けるのみのため出てきた人です。また言行録11章にはバルナバと言う弟子がでてきます。このバルナバは、パウロをエルサレム教会に紹介し、アンティオケ教会の教師に抜擢した人としてでてきます。不思議なことにそれ以外の活躍は余りありません。つまりパウロと教会を繋いでくれた弟子なのです。つまり私達はそう言うことがあるのだと思います。取り立てて何が得意とか、優れているとかないのです。しかし、神様はアナニアやバルナバの働きがあって、パウロの働きがあるようにしてくださったのです。つまり1,2世紀の弟子達「額に刻印をおされた神の僕達」は、自分に示され、与えられたことを、淡々としていって、歴史を支えていたのでないかと思うのです。
 何をしたらキリスト教が、ローマ帝国のあの迫害の大風が吹き荒れる中に広まることができたのか。よくわかりません。ただモーセの十戒もひとつのヒントなるのでないかと思います。それはモーセの十戒は良く読むと「何々せよ」と言うが、2つしか有りません。後は全部何々をするなです。10の教えの内「せよ」は2つで「するな」が8つです。人倫の教えにおいては「父と母を敬え」だけが、することの命令です。言ってみれば母の日と父の日をしっかり覚えよです。しかし後は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」です。後は禁止だけで、これを又あれを「せよ」がないのです。これはどういうことか。神様はしてはいけないことをきちんと教えらえる。しかし、実は「何をしなさい、何かをなしなさい」は信じる者が自分で捜すのです。これはおそらく神様が私達を自由に扱うからだと思います。「せよ」と言われてするのでなく、自分がしたいと思うことが、やはり一番なのです。「これはする」との自分の決断が大切です。額に刻印を押された神の僕は、こうして自分で神様の御仕事を探し、限界の中、自分から神様の委託を受けて、受けた使命を果たしていくのです。

 4節から8節は、エホバの証人で有名になりました。この14万4千人になんとか入るために、伝道しなければならないと彼らは宣伝します。しかしこの14400人は全世界の象徴であるとされます。この系図から幾つかのことが示されます。一つは、本当は長男ルベンが一番ですが、4男のユダが1番に来ています。これはやはり小羊イエス様が生まれた部族がユダ族であり、神様がユダ族から救い主を起こすという約束があるからです。神の約束は、聖書の最後の黙示録に至りても真実を貫きます。
 もう一つは、実はこの12部族の系図には、旧約聖書にはいつもあるダン部族とエフライム族がないのです。これはいろいろな理由が言われています。しかし一番の理由は、ダン部族は士師記18章30節に、エフライム部族はホセア書4章17節に、偶像礼拝に走ったと書かれています。最後のイスラエルの部族表に名前が消されたのは、偶像礼拝が原因とされています。私達は、最後の聖書、黙示録で長老ヨハネは偶像礼拝に注意しろ、と言っていると聞くことができます。偶像礼拝とは、神を神としないことです。神以外のものに頼ることです。或いは、反対に言えば神以外のものを恐れることです。偶像礼拝からの解放は、真の神を恐れることです。神の守りがある。しかし偶像礼拝を避けよというのです。コロナ感染の真中にありますが、改めて、真の神イエス様を真に恐れ、愛によって生きることを示されます。感染に注意しつつ、しかし、今示される自分の委託と使命をしっかりと成していくことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染がまたも広まっています。九州も昨日は4県が最高感染者数です。福岡も緊急事態となります。守ってください。医療関係の方支えてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園と児童クラブを守ってください。どうか、子どもたち先生を感染から守ってください。ミャンマーのクーデターを収めてください。教会員一人一人をみ手においてください。会堂建築を支えてください。み名によって祈ります。アーメン。」

 教会 説教    マルコ伝8章11〜21節      2021年5月2日
           「 まだ、悟らないのか 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は、5月の第1週になりました。いつものように第1週は主の晩餐を受けて、福音書から聞くという方針で、マルコ伝から聞いていきます。
 いつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、第4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、段々感染者が増えております。一昨日で鹿児島県は奄美のクラスターがあり2124人となり、1週間で119人となりました。先々週は1週間で、63人の感染でしたので約2倍になっています。全国レベルだと鹿児島県は少し少ないかも知れませんが、この先いよいよ増えていくでしょう。大阪、京都、東京は3回目の緊急事態宣言が発令されました。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 本日は、人々はしるしを欲しがるというところと、それに対してイエス様が、ファイリサイ派とヘロデのパン種に注意せよと言われたところです。実は天からのしるしについての教えは、マタイ伝16章1〜3節とマタイ伝12章38〜42節とまたルカ伝11章29~32節以下に出てきます。つまりマタイ、マルコ、ルカの共観福音書に共通したテーマだったようです。マタイ伝12章とルカ伝11章の方は、マルコ伝よりも長く、ヨナのしるし以外は与えられないこと、また南の国の女王(シバの女王)がソロモンの知恵を聞きに来たしるし以外はないということを言われています。しかし本日のマルコ伝8章では、マタイ伝とルカ伝が書いたヨナのしるしと南の国の女王のしるしは書いてありません。言ってみれば、イエス様は12節にありますが「深く嘆かれて」続けて「今の時代の者達には、決してしるしは与えられない」ときっぱりとしるしの信仰を切られています。13節をみますと、きっぱりと切られたのみならずイエス様は「船に乗って向こう岸に行かれた」とも書かれています。言ってみれば去れて取りつくしまもないという形になっています。
 しかしどうでしょうか。私達は信仰の初心者の時、いやいや信仰が大夫長く、深くなっても、なお神様の存在や神様のお取り扱いのしるしがほしいと思うことがあるのではないでしょうか。天からのしるしと言うは、誰がみても神さまがおられるとしか言いようがない出来事や奇跡のことを言うようです。11節にはこのようなしるしを求めたのは、ファイサイ派の人々であり、さらにイエス様を試そうとしたとあります。しかし主イエス様はこの求めには一切応えられなかったのです。

 ここには聖書の信仰のあり方が示されています。もしここでイエス様が「よし分かった、神のしるしを示しましょう」と言われたらどうなるのか。そうです。主なる神様は、人間に応える神様に成り下がることになります。もちろん祈りに応えてくださる神様は非常に大切です。しかし、天からのしるしの奇跡を求める信仰に、人間がそれを要求し、神様がそれに応えたら、それは自動販売機の神様になってしますのです。祈りというコインをちゃりんといれたら、ガタガタ・ドターという音がして、欲しいものがでてくるのです。しかしこれは便利ですが、その人間は何も変わりません。イエス様は、私達が何の変化も対応もなく、神様が人間に応えるという信仰のあり方をよしとなさいません。これは奴隷の神様になるのです。
 13節に「彼らをそのままにして、船に乗って去っていかれた」。これは上から目線とか、冷たいイエス様とかでないのです。そもそもの信仰の形が、しるしを求め、議論を仕掛けて来る信仰は、本来、元々の求道の信仰でないのです。求め方が違う時、イエス様はそれに応えられないのです。ヤコブ書4章2節「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみの為に使おうと、間違った動機で願い求めるからです」とあります。神様への祈りは、必ず聞かれるとの約束があります。しかしその時、聞かれない祈りがあるとすれば、これは「自分の楽しみの為に使おうと、間違った動機で願い求める」ことがないのかどうか。主の祈り、マタイ伝6章10節にある「天に御心が行われるように、地にも成させてください」の中で、祈っているのかどうか、私達は問われるのです。
 彼らをそのままにして、向こう岸に行かれるイエス様は、確かに冷たく逃げるようです。しかし、そこには人間の求め方に対する審判があるのです。またこれは私達もまた、人々の願いや希望に応えられないことがある。人間である自分の限界を超えて、応えなくてはならないという教えだと思います。メシア・コンプレックスと言われて、何でも応えないといけないと信仰者の中には、強迫観念に取り付かれる方があります。イエス様も逃げて応えないことがあった。これは大切な信仰の一面だと思います。
 次に14節からのファリサイ派とヘロデのパン種の教えがあります。これもまた実はマタイ伝16章5節以下にあります。これはルカ伝にはなく、マルコ伝とマタイ伝に伝えられた教えです。マタイ伝とマルコ伝を比べますとマタイ伝ではフィリサイ派とサドカイ派のパン種となっており、マルコ伝はフィリサイ派とヘロデのパン種となっています。さらにマタイ伝では、弟子達が最後は「悟った」となっているのですが、マルコ伝では読みましたように「まだ悟らないのか」というイエス様が怒られ、嘆かれた形で終わっています。どちらが、本来の出来事かというのは余り実りがありません。ここは弟子達がなかなかイエス様の教えを悟らなかったということであり、伏線として、直前の天からのしるしの問題があります。

 14節に弟子達はパンを持ってくるのを忘れて、パンが一つしかなかったと報告されています。そしてイエス様は「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気を付けよ」と言われたのです。ここは前の天からのしるしの問いを考えるとファリサイ派のパン種とはしるしを求めて止まない信仰のことであり、ヘロデのパン種とは、立身出世のために手段を択ばない信仰という姿とも思えます。ヘロデ王は自分の地位を守るために自分の地位を狙っているとして自分の子どもを殺し、妻も自分の地位を邪魔するものとして、殺していきます。
 ローマ帝国の歴史をみますと、この時代の上流階級は、ローマ皇帝から初めて、最初はいいのですが地位に在る内に、段々精神に異常をきたし、とんでもないことになる皇帝が多いです。ローマ大火の責任を、キリスト者に押しつけて、ペテロとパウロを殺したと言われる皇帝ネロもまた、最初は賢帝と言われていました。セネカとかストア哲学者達の側近に囲まれて、よい政治をしていくのです。しかし、段々と自分の地位を狙う者がいるとして側近を容赦なく殺し、自殺に追い込み、妻さえも殺すことが多いです。ネロ帝もまた最初はいいのですが冤罪で、側近を殺し、妻を疑い、晩年は自分の家庭教師であったセネカに、自分の暗殺計画をしたとして、自殺命令を出しています。ストア哲学者のセネカもまた、自殺命令を受けて悠々と死んで行きます。ネロ帝の最後は、自分も自殺しています。紀元1世紀のローマ皇帝達をみますと政権と精神が安定しません。イエス様が生まれた時のアウグストウス帝が44年の在位の後は、イエス様が十字架に付かれた時のティベリアヌス帝が23年、ここまではなんとかですがその後はカリグラ4年、クラウデイウス3年、ネロ帝が14年、ベスパシナス帝が10年、ティトス帝3年、ドミチアヌス帝15年と言った類です。イエス様がヘロデ王のパン種と言われた時、側近を殺し、妻を殺した王の姿は、結局ローマ皇帝達の姿でもあったのです。ヘロデのパン種とは、自分を中心にしてしか考えられず、側近や妻でさえも、信用しない人間のなれの果ての姿です。側近や妻さえも信用しないのですから、政治は混乱し、民衆の生活は苦しくなるのは、仕方のないことだったとも言えます。貧しい者や苦しむ者に政治の目がいくわけもありませんでした。
 ファリサイ派のパン種は、すでにイエス様が今まで教えてくださったように、律法主義になります。安息日規定を、病気を癒すことにも適用して摘発して行く姿でもあります。手の萎えた者を癒し、目を開け、耳を開く。しかしそれが安息日であったとして摘発して行きました。律法は人を生かすためにあるのです。律法学者の手にかかると人を生かす律法は、人を殺す律法に成り下がるのです。現代では過労死があり「生きる為に仕事をするのか、仕事のために生きるのか」と重なります。当たり前ですが、生きる為に仕事があり、仕事が命を奪うのであれば、即座に辞めないと自分の命を守るのは、自分しかいないのです。

 17節にイエス様は「分からないのか、悟らないのか、心が頑なになっているのか」として、弟子達にファリサイ派の間違い、ヘロデの間違いのパン種を語られます。しかし、弟子達は相変わらず、パンの話しに気を取られて、パンに込められている思想、考え方、生き方に気づこうとしないのです。18節の例えは、もともとはイザヤ6章からの引用とされます。この「目があってもみえない、耳があっても聞こえない」は意外と多く聖書に引用があります。そのくらい、私達はイエス様、神様からの語りかけや導きに気付かないと言うことでしょう。

 19節から20節のイエス様のことばは、5千人の給食、4千人の給食の奇跡の事です。先ほど「天からのしるしは無い」と言われました。しかし、人間の側から求める天のしるしは与えられないのですが、神様が示される天のしるしはあるのです。神様は自由であり、人間の求めに応えて、天からのしるしをなさらない。しかし神様が必要とされたしるしは、神様は開示されるのです。5つのパンと2匹の魚から5000人が満腹する。4000人が満腹し、パンが余る。これ以上の天のしるしはないのです。
 十字架からの復活もまたしかりです。死人が甦る。本来、これ以上のしるしはないのです。これはある意味で最高の天からのしるしなのです。しかしこれに気付く信仰が私達に問われるのです。私達は5千人、4千人の給食を見て、十字架からの復活を示されて、そこから神様の存在と導き、摂理を知り、使命と委託を知らされるのです。それは私達の信仰が開かれることです。主の恵みに応えることです。最高の天のしるしは十字架における罪の赦しです。私達はこれを受けて、また再出発するのです。
 イエス様が十字架から甦り、今も生きておられる。だから私達もまた今生きているのです。私達の罪がイエス様の死によって、贖われた。だから私達は貧しくても、苦しくても、また前進するのです。全知全能の愛の神がおられる。しかし、私はなぜか、この苦しみにある。そしたら、そこに確かに何か意味があるのです。主の使命があり、委託があるということです。私達はイエス様に「まだ悟らないのか」と十字架の恵みの声を日々掛けられて生きる者なのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が酷くなっています。どうか守り導き支えてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。どうか、子ども園、児童クラブの先生、子供達を守ってくさい。ミャンマーのクーデターを守ってください。会堂建築を導きください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マタイ伝18章15〜20節    2021年4月25日
           「 私もその中にいる 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は、4月の第4週になりました。いつものように第4週は日本バプテスト連盟の本日の聖書教育テキストによって、聞いて参ります。聖書教育誌という学びのテキストは、祈祷会で4ヶ月間マタイ伝を学びました。不思議なことに、最後の学びがこのマタイ伝18章になっています。マタイ伝28章が最後でないかと思うのですが、そうでありません。いろいろなことを考えさせられます。2つの理由があるかなと思います。1つはマタイ伝18章は4つ福音書の中で唯一、教会という言葉がイエス様の口からでる福音書です。イエス様が教会のことを言われた。そして18節に「あなた方が地上繋ぐことは、天上で繋がれ、地上で説くことは、天上でも解かれる」と本来、イエス様が持っておられる権威を教会に与えられていることです。
 もう一つは、15節にあるように、あなた方の兄弟が罪を犯した時として、イエス様を信じてなお、罪を犯すという問題が書かれています。主を信じて罪を犯す。本来はあり得ない。しかし実際にはよく起こる。これをどう受け止め、どうしたら良いのか。マタイ伝18章は確かに実践的には、とても大切な章であります。

 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、第4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、段々感染者が増えております。一昨日で2004人となりました。この1週間で、63人の感染となっています。全国レベルだと鹿児島県は少し少ないかも知れませんが、いよいよ増えていくのかも知れません。とうとう大阪、京都、東京は3回目の緊急事態宣言が発令されました。ただ何度も繰り返しですが、私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて本日の箇所はマタイ伝18章から聞いていきます。最初に言いましたように、マタイ伝18章はかなり独特な、特異な教えになっています。それは兄弟が罪を犯した時にどうするのか。どう取らえたらいいのかという問題です。イエス様を信じたら、罪赦されてその感謝に生きる。もう2度と罪を犯さないように、決意して生きるのです。自分を中心せず、神様を中心にして生きていきますというしるしが、バプテスマであり洗礼だったのです。しかし、現実にはやはりキリスト者は罪を犯して生きていきます。知らないで気づかないで犯す罪があります。それは赦しが当然あります。しかし、知っていて故意に犯す罪はどうするのか。イエス様を信じ、礼拝し、祈る教会はいかに罪を持ちつつこの地上を歩むのか。難しい問題を抱えることになります。

 15節あるように、イエス様は言われます。まず「行って2人だけの所で注意しなさい」となっています。兄弟の罪に気付いた人が、まず行くのです。ここで中世の教会では、この15〜17節の手続きを、異端審問や破門の手続きととったようです。しかしここには教会指導者のことは一切出てきません。ここは一人一人のキリスト者が言われています。罪を犯した兄弟のところに1人だけでまず行く。これは次の1人また2人を連れて行きなさいと比べると分かります。ここは相手の悪や間違いや罪がまだ証人を立てる状態にないのです。客観性は次の問題なのです。まず1人で行きなさい。これは危険を伴うかもしれません。相手は自分が悪いと思っていないかもしれないのです。注意する兄弟から反対に自分が悪者とされるかもしれません。余計なお節介者とされるかも知れないのです。しかし、イエス様はまず一対一で、罪を犯した兄弟の所に行きなさいと言われるのです。
 ここには、教会では最終的には客観性や責任が問われるかもしれません。しかしその前に、和解が大切とされているのです。続く言葉は「言うことを聞いてくれたら、兄弟を得た事になる」です。罪を犯した兄弟の元に、一人の兄弟が行きました。そして、兄弟はそのことばを聞いてくれたのです。その時、イエス様は兄弟を得たことになるよ、と励まし、約束をしてくださったのです。私達は、教会はまず兄弟を得るためにあることを示されるのです。教会は罪を示し、責任は誰であるかは確かに大切です。しかしもっと大切なのは、誰がそれを引き受けるかなのです。イエス様の十字架は、このことを示します。

 16節にはしかし、兄弟は、聞いてくれませんでした。ここには「いいやお前が悪い、お前が間違っている」というやり取りが発生したのでしょうか。どちらが正しいのか、どちらの言い分が責任ある事か問われたのです。その時イエス様は1人か、2人か連れて行きなさいと言われます。これは実は皆さんご存知と思います。ユダヤの証人の考え方です。申命記17章6,7節、民数記35章30節です。ここには「一人の証言で死刑にしてはならない。2,3人の証言を必要とする」とあります。ユダヤでは、客観性がでるのは、2,3人の証言が必要だったのです。
 兄弟は罪を犯した兄弟の所に1人か2人を連れて行き、つまり全体で2人又は3人の証言となって、兄弟の罪を示し、協議することになりました。すると分かった、いいやそれでも違うと成ったのです。ほとんどの兄弟は、なるほどそうか、分かったと言ってくれるのだと思います。しかしそうでないことも又起こるのです。

 17節は、そして、イエス様はそれでも聞き入れられない時のことを教えられます。それは教会に言いなさい、すなわち訴えなさいということです。ここで初めて、事件、事案は公になります。ここから誰が間違っていたのか、誰が責任を取るのかが問われることになります。2,3人の証人が立てられ、客観性が問われることになります。私はここに至りても、教会は、なお共同体として、誰の責任か、誰が罪を負うのかを協議すると思いますが、なお最後は、誰がそれを引き受けるのかになるだと思います。
 そしてそれでも認められない、受け容れられない時が発生します。教会の判定が受け容れられない事がやはり起こるのだということです。その時、イエス様は「その人を、異邦人か徴税人と同様に見なしさない」と言われるのです。罪人と徴税人は、ユダヤ人にとっては付き合いをしない人の代表でありました。18節の続く言葉は「地上で繋ぐことが、天上でも繋がれ、地上で解かれることが、天上でも解かれる」ということは、主は、教会がなす権威を認めていると読むことができます。
 しかし、本当にここで、教会の言うことも聞かない人は、もう付き合いをせず、話しもしない人、罪人、徴税人として扱うのかというと、そうとも言えません。それは、イエス様が教会をどのように受け止められていたかです。イエス様は、もともと教会を、完全な人の集まり、罪を犯さない人の集まりと見ておられたかです。マタイ伝13章24節以下には、毒麦の譬え話しがあります。ご存知農夫が良い種を畑に蒔きまいた。しかしその後で、敵が来て毒麦の種を蒔いたのです。芽がでて実ると当然毒麦も育っていました。農夫の僕は「ご主人様、畑に毒麦も育っています。毒麦を抜き集めましょう」というのです。しかし農夫の主人は「いや、毒麦を抜く時に良い麦を一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで育つままにせよ」というのです。
 ここではイエス様が教会は、毒麦と良い麦の混成体として、この世では世の終わりまであると言われたことになります。確かに、自分が小さい時の学校の通学路に麦畑があって、クロンボウと言って、麦の中に実らないで黒くなる麦の穂があったのを覚えています。子ども達はそれをとって、黒い粉を友達と付け合いごっこをしたのです。成長の途中でそれを見分けるのは難しいです。しかし刈り入れの時はさすがに分かるのです。
 つまりイエス様は畑には毒麦と良い麦が一緒に育つことを前提とされています。そうすれば、ここでいう罪人や異邦人というのはイエス様がむしろ声を掛け、仲間となり、神の国に誘われた人達になります。つまり「異邦人や徴税人のように扱え」とは、まさに初心者、求道者として、何も知らない人として、初めからの人として扱いなさいとなります。愛と忍耐をもって、受け入れ、付き合いなさいとなるのです。

 次にイエス様は「あなた方の2人が地上で心を合わせて祈ること」を言われています。そしてその祈りの約束は「私の天の父はそれを適えてくださる」となっています。ここで示されるのは「どんな願いごとであれ」と願い事の範囲が無制限になっていることです。私達はどんな願い事もかと驚きます。しかし、教会の前提は、もちろんその祈りは、父の御心を求めての祈りであります。この祈りの要請で特長的は、この祈りの範囲、願いの無制限さともう一つはその人数と言われています。人数は、何と2人からです。本当に2人でいいのかです。実は、ユダヤ教では当時、10人が集まる時に、シナゴーグつまり集会の単位になるとされたようです。しかしイエス様はなんと2人からとされました。

 そして20節にはその時の主の臨在の約束です。実はこれも当時のユダヤ教・律法学者では「2人が一緒に座り、律法の言葉が2人の間にあるなら、主なる神は臨在する」という約束があったとされています。イエス様はあえて、このユダヤのことわざの律法の所に、ご自身をおかれて「2人又は3人が私の名によって集まる所に、私もその中にある」と約束されたのです。神の御子、イエス様ならではというか、神の御子の権威、権限において約束できることと言えるでしょう。

 実はここは、面白いことに、違った聖書の写本があります。20節の違った写本では、「私が2,3人を集めないところには、私はその中にいない」となっているのだそうです。すごいですね。2人又は3人が私の名によって集まる所に、主イエス様がおられる。しかし確かにこれは、2,3人の人間の力が、神様を顕現させるのかとなりそうです。しかし、違った写本の捕らえた方は2,3人であっても、主なる神様が集められるのだから、主なるイエス様がおられることになります。残念ながらこの写本は、5世紀以降から発見されているので、元々は、私達が持っている聖書の訳が正しいとされます。しかしなんと慰めに満ちた聖書の写本でしょうか。主が、集めてくださったから、2,3人が共にいるのである。召集者イエス様がその中にあるは当然であるとなるのです。主の名によって、2,3人であっても集まるのは、主が招集を掛けてくださったからとも取れます。そしてその時の祈りは「どんな願い事であれ」という無制限の祈りです。もちろん主の御心が大前提です。すごい、すばらしい臨在の約束です。私達はこの主の約束を受けて、1週間を歩むことを許されているのです。

 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染の弟4波が段々酷くなっています。どうか、医療関係の方、その阻止に働く方に、主の守りを祈ります。また、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方、続けてみ手をおいてください。私たちは主を信じていても、なお罪を犯す者です。どうか、弱い私達にみ手をおいてください。憐れみと赦しをもって、支えてください。このような中でも子ども園、児童クラブの保育が続いています。お守りください。ミャンマーでクーデターが起こり、3ヶ月になろうとしています。平和をおいてください。本日は臨時総会です。特に会堂建築に導きをおいてください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   エゼキエル25章1〜7節     2021年4月18日
              「 私が主であること 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返り、罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は、4月も第3週になりました。いつものように、旧約ヘブライ聖書から聞くという方針で、エゼキエル書25章から聞いて参ります。イースターを終えて、最初の旧約ヘブライ聖書がエゼキエルというのは、自分でもどうなのかと思います。しかしエゼキエル37章に「涸れた骨の復活」という章があり、エゼキエル書もまた復活を目指して、預言活動をしていた面があります。じっくりと聞いていきましょう。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、弟4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、段々感染者が増えており一昨日で1947人となりました。鹿児島県は少し落ち着きの1週間で、41人の感染となっています。今週の鹿児島県は少し良かったかも知れません。しかし大阪、東京を初め、10の都道府県に蔓延防止法が施行されます。再び緊急事態宣言が大阪は出るかもと言われています。ただ何度も繰り返しですが、ただ私達にできることが限られております。自分にできるマスク着用、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書は、エゼキエル書25章から聞いていきます。実はこの25章から32章の7章が、エゼキエルの諸国民の預言とされています。預言者達はイザヤが12章から、エレミヤが46章から、アモスが1章から、そしてエゼキエルは25章から主だった予言者は必ず自国ユダ・イスラエルへの預言だけでなく、回りの諸国民への預言をなすのです。私達はここでなぜ、諸国民への預言かと問います。いろいろな理由があります。しかし最高の理由は創世記にある通り、主なる神さまは万物、全世界の創造の神様であり、自分の国だけ、自分の回りだけでなく、宇宙、全世界に全てのことに、主はご自身を関連させておられるということです。

 今ミャンマー軍のクーデターが毎日放映されています。それでも日本ではミャンマーのことへの感心が低いとされます。私達はやはり島国であり、海を隔てて、なかなか遠いミャンマーのことが自分のことのようには、受け取れないのかも知れません。国分教会にマウマウタン先生がいないと私もこれほどミャンマーの出来事を見ただろうかと思うのです。
 しかし、預言者達は、自分の国と同時に、神様が導かれるしるしを、諸国の動きに見ているのです。エゼキエル25章から32章にはアンモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ツロのティルス、シドン、エジプトと7つの国について語っています。実はそれぞれの預言者によって、どの国について語るかが違っています。7つの国になっているのは、完全数であるからとされます。エレミヤもエゼキエルと同じ時代を生きていますが、7つの国に対する預言です。しかしアンモンは4番目になっており、一番にアンモンが来るのは、エゼキエルの特長です。エゼキエルの諸国民の預言でもう一つの特長は、自分がいる捕囚されたバビロンに対しては預言していません。エレミヤでは長い長いバビロンへの滅亡預言があります。エゼキエルがバビロンに対して預言しなかったのは、1つはバビロンはこの時、神様の用いるエルサレムを打つ杖であり、鞭であったということです。しかしもう一つは、預言者と言えども時代を生きているのです。自分達の住んでいる国に対しては、簡単に預言出来なかったのです。人間、預言者の弱さと言ってもいいですし、預言者は時代を背負って生きているともいえます。24章では、エゼキエルは自分の妻の死をもって預言しました。
 今のミャンマーの事で言えば、ある意味で本国よりも外国にいる方が言いやすいとも言えると思います。マウマウタン先生から「ズームでミャンマーのための祈祷会があります、来てください」とPCで開いて行ってみると毎週金曜日なのですが、多くの在日のミャンマーのキリスト者達が参加して祈っておられます。当たり前ですが、自分の国のことが心配なのだと良くわかります。

 さて、エゼキエルはどうして、アンモンを諸国民の第1の審判預言に取り上げたのかです。あらためて聖書を読むとイスラエルとアンモンの戦い関係が深いことが分かります。ざっと取り上げますが、まず士師記10章に第6番の士師エフタがいます。エフタは、じつはアンモン人との戦いの勝利に当たり、誓いを立てます。それは「勝たせてくれたら、最初に自分を迎えてくれた人を主に捧げます」と誓ってアンモンとの戦いにでるのです。その時、アンモン人に勝利をし、士師エフタを迎えてくれたのは、なんと自分のたった一人の娘だったとあります。アンモン人に勝利をする。しかしそこには誓いを果たし、自分の娘を神殿に捧げるエフタの姿があります。 

 次にサムエル上の11章にアンモンとの戦いが出てきます。その時、イスラエルをまとめ戦ったのがサウロ王でした。つまりイスラエルの王制の始まりは実は、アンモン人との戦いだったのです。次にアンモンが出てくるのは、なんとダビデとバテシバ事件です。サムエル下10章です。イスラエルがアンモン人と戦っている時、たまたまダビデはエルサレムにおり、午睡の後にウリアの妻バテシバを見て、自分の妻にしてしまうのです。ダビデの人生最大の他人の妻を奪う罪は、アンモン人との戦いの時に起こりました。これは予言者ナタンによって、審判され、生まれた子どもは死亡します。
 4つ目は、これはエゼキエルの生きている時の事件です。列王記下25章にあります。バビロン第2次捕囚後に、エルサレムには復興のために総督ゲダリヤが立てられました。ゲダルヤを中心に、イスラエルは復興を目指すのです。しかしこの総督ゲダリヤは、アンモンの王バアリスによって暗殺されるのです。バビロンにいた預言者エゼキエルはこのゲダルヤに多くを期待していたと思います。エルサレムを復興する最後の人でありました。しかしアンモンからすれば、ここでイスラエルが復興されたら、また自分たちの脅威になります。アンモン王バアリスは、時を移さず暗殺します。
 私達はアンモン人が、イスラエルの歴史の要所、要所にでていて、12士師の一人エフタの悲しみ、サウル王の王制の始まり、ダビデの最大の罪に関わり、そしてエルサレム復興の最後の望みのゲダルヤ暗殺に係わっていることを知らされます。

 3節に、本日の預言で、アンモン人が主なる神様の審判を受けるのは「主の聖所を汚し、イスラエルの土地が荒らされ、ユダの家が捕囚となったことを「あはは」と言って嘲った」とあります。6節には「アンモン人は、手を打ち、足を踏みならし、イスラエルの地に対する嘲りに満ちた」とあります。主は、イスラエルを自分の民とされるゆえに、イスラエルに対する嘲りは、主なる神ご自身への嘲りとなるのです。
 しかし考えてみれば、イスラエルの隣国アンモンは、言って見れば古代国家の習慣に従い、自分たちが力のあるときは、イスラエルに攻め込み、自分の土地を広げようとし、自分たちが危機に陥った時には、イスラエルに王が立とうとしている時、それを暗殺したとも言えます。倫理的には、国際関係的には、アンモンは何か、特に特別悪いことをした分けではないのです。しかし主なる神さまは、イスラエルとご自身を同化され、アンモンのイスラエルへの嘲りや仕打ちを、ご自分への嘲りと仕打ちとして受け止め、これに報復されることになります。

 本日の4節と7節に主の報復があります。それはアンモンを「東の人々に渡す」ということです。また「お前を国々の略奪に委ねる」ということです。それぞれいろいろな解釈があります。基本的には、アンモンもまたバビロンに滅ぼされるところとなり、諸国民から滅ぼされることになります。今のアンモンは、イスラエルの東にあるアンマンを首都とし、国としてはヨルダンにほぼ一致します。民族的には入れ替わりがあり、イスラエルのようには、アンモン人が今も続いているのではありません。アンモン人への筆頭の審判は、続くモアブ人、エドム人、ペリシテ人の代表として、書いてあるとも言われます。
 ところでアンモン人、モアブ人は創世記19章を読みますと、アブラハムの甥、ロトの子孫たちなのです。さらにエドムは創世記36章に、ご存知ヤコブの兄、エサウの子孫達であります。イスラエルはアンモン、モアブ、エドムと兄弟民族の中で、戦争をなし、領土の奪い合いをなし、暗殺をなして、形成されたとも言えます。つまり兄弟姉妹の民族争いで、鍛えられ、神の民として立てられて行ったともいえます。しかしその根底には、もともとの神の選びがあることになります。私達は神の選びというどうにもならない、完全な神様の主権と神の自由の前に立たされることになります。その秘儀と秘密は、私達の頭ではどうにも理解がなりません。
 アブラハムの選びは、全くもって理由を見付けることができません。なぜアブラハムと契約を結ばれたのか、聖書は書いていません。信仰が強かったのか、謙遜だったのか。力があったのか。理由がないのです。イスラエルに至りては、申命記7章7節にある通り「主が心引かれて、あなたたちを選ばれたのは・・・数が多かったからでない。あなた方はどの民より貧弱であった。主の愛のゆえに、先祖達(アブラハム)の誓いを守られた」となっています。

 私達はこの選びをどう受けて良いのか。さっぱり分かりません。ただ、私達は現実にいろいろな理由があって教会に来て、バプテスマを受けて信じてしまったのです。そして、主は罪の赦しのバプテスマを受けて、罪の赦しを信じてしまったからには、どんなことがあっても守りと導き置かれるのです。それはアンモンのように、イスラエルを馬鹿にし、嘲る者に対して、主が身代わり立ってくださるのです。それはバビロン捕囚という完全な滅びを持ってしても、神様の愛を切ることができないのです。イエス様の誕生は、このバビロン捕囚から帰って来たイスラエルからだったのです。
 言行録9章4節でいえば、パウロはキリスト者を、神を疎んじ、神の律法を破壊する輩として、逮捕し獄屋に入れていたのです。しかし、ある時主イエスは言われたのです。「パウロ、パウロ、なぜ、私を迫害するのか」。畏れとおののきとはこのことでしょう。パウロは全く予期もしなかったと思います。しかしキリスト者という神をいい加減にしているとパウロが思ったイエス様を信じる人々が、実は本当に主なる神イエス様がご自身の名を置き、守るその人だったのです。
 この主のこの現実を受けるとき、私達は、十字架の主に守られ、十字架の主に応え、この世の命のある限り、自分の務め、委託、使命を果たしていくしかありません。主の恵みがそれを成してくださるのです。ただ信じて受けるのみです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。十字架の主が、守り、導き支えてくださることを感謝します。私達は何の力も、何の能力ありません。しかし十字架の主が信仰によって、その名を置いてくださることを感謝します。どうか、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方、支えてください。会堂建築を導きください。子ども園の働き、児童クラブの働きを支えてください。コロナ感染を収束させ、あなたの民が一杯おられるミャンマーの政治を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マタイ伝10章26〜31節     2021年4月11日
              「 恐れるな 」 
 本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。先週はイースターでしたが、本日はイースターの次の主日となります。復活のイエス様は40日間、弟子達と一緒におられました。いつもその箇所から聖書を選び聞くことがあります。しかし今年は、今年の念頭に置く、主題の聖書から聞いていきます。定期総会の直前になって、固定資産税の課税が分かり、資金計画が根本的見直しとなりました。ちょうど定期総会の準備の時で、取るものも取りあえず「恐れるな」と語るこの有名な聖句となりました。正直言って、自分ではこれかしかないと祈ったところでした。今年の教会の聖句に選びました。改めて、主の守りと導きのあることを、聞いて行きたいと示されます。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、弟4波が来ており、鹿児島県も例にもれず、段々感染者が増えており1906人となりました。クラスターがあって1週間で64人の感染となっています。鹿児島もじわじわと増えています。近畿はすでに、関東地方は明日、蔓延防止法が施行されます。何度も繰り返しですが、ただ私達にできることが限られております。自分にできるマスク、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の詩編106編30節の守りの祈りをするのみです。

 本日のマタイ伝10章26節からのイエス様の呼びかけは10章全体が、12弟子達の派遣の箇所になっています。イエス様は12弟子を選び、召し、そしていよいよイスラエルの人々に神の国が到来することを伝え派遣し、宣教することになります。実際には、弟子達の宣教では、イスラエル人だけでなく、ご存知ローマ兵や異邦人の女性やサマリヤ人や色々な人がその神の国の福音を聞くことになります。しかし目標はイスラエルの失われた人達であったのです。
 そしてその宣教はマタイ伝10章16節によると「私はあなた方を遣わす。それは狼の群の中に羊を送り込むようなものである」と言われました。すごい譬えであります。狼の群に中、羊を投げ込んだら、たちどころにひき殺され、食べられてしまうでしょう。まさにそのような状態で主イエス様は、弟子達、私たちをこの世への伝道に遣わすと言われるのです。17節には、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるであろうと言われています。21節には「兄弟が兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すであろう」とも言われています。22節には「あなた方は全ての人に憎まれるであろう」とまで預言されています。今はそこまではいきませんが、しかし、改めて主イエス様を信じることは、そういうことなのだと思います。イエス様が言われるには「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という約束でした。

 23節にはその迫害を逃れるために「他の町へ逃げなさい」とも言われています。イスラエルは地続きなので、逃げると言う手があったのです。これは日本のキリシタンの歴史をみると、島国ですので簡単でありません。五島列島のすごい辺鄙な所とか、天草本土の西側の急勾配のおよそ人が住めそうにないところに、家を建てて耕作して住んでいる潜伏キリシタンの村があります。そして主は10章25節「弟子は師のように、僕は主人のようになればそれで十分である」とも言われています。
 その中である意味で最後の励ましと命令が、本日の「恐れるな」という教えです。26,27節にあるように、主は、人々を恐れてはならない理由を「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので、知られずにすみものはない」とされます。これは幾つかの取り方がありますが、やはり終末の最後の審判のことであるとされます。世の終わりの時、最後の審判の時、主のみ前に全てのことが明らかにされ、最後の審判が行われるのです。そして27節、最後の審判において、全てが明らかにされるとすれば、主が暗闇でいうことを明るみで、耳打ちされたことを、屋根の上で語ることになります。つまりキリスト者の生き方というのは、世の終わりに照準を当てて、歩むということです。
 世の終わりに全てが明かになる。だから今、明らかにする方向で努力し、宣教するわけです。ちょっと次元が違いますが、この前ラジオで、大学生にアンケートをして自分の働く会社で、社会的な不正が行われていることを知った。あなたは告発しますか、と聞いたそうです。すぐに内部告発するとしたのは、20%いなかったという話しをしていました。80%以上の方が、分からないと応えたそうです。ラジオの講師は、できれば大学生で若いし、もう少し多くに人に内部告発したいと応えて欲しかったとしていました。難しい問いだと思います。

 28節には続けて主は言われます。「体を殺しても、魂を殺すことのできないものどもを恐れるな」と言われています。ここには、魂を殺すという表現がでてきており、これはギリシャの考え方ではあり得ないとされます。それは、ギリシャの考え方では霊魂は不滅であり、魂を殺すことはできないという考え方なのです。しかし聖書では、続けて「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」と続きます。聖書では全知全能の愛の神が、全てを治めておられて、体も魂も滅ぼす事ができる方として示されています。しかしおそらくここの本来の教えは、最高法員であろうが、地方法院であろうが、人間の滅ぼす力は、体までであって、その先は何もなしえないと言うことです。人間が人間に与えることができる損害や人間の懲らしめは、どんなに頑張ってみたところで最高でも、体を殺すところまでであるということです。主は、体も魂も支配されており、物質界も霊界もつまり魂も霊も支配されています、ということです。
 そして、主は「魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい」といわれるのです。ここに、私達は畏れを克服する方法を示されます。イエス様が言われた「恐れるな」は、第一義的には、神の国の伝道の時に、遭遇する妨害、迫害、苦しみを受けるいろいろな出来事のことです。しかし、私達の畏れは、伝道のことだけに終わりません。私達は人生の様々の時に、どうしようもないことが起こります。それは自分が失敗して、自分が間違えて、自分が罪を犯して遭遇するのがあります。それは自分が何とかしないと行けないことがあります。しかしその時でも、やはり神様の支配と導き、守りは変わりません。やはり主が言われた「恐れてはならない」は妥当するのだと思います。

 すべてのことに主の導きと守りがある。ただし、私達は宗教改革者のツビングリが、当時の人々に「全てが神の摂理の守りであれば、それでは泥棒や強盗に遭った時も、神様の事柄として、耐えろと言うことか」いう質問に応えたことが残っています。ツビングリはその人に対して「それは全知全能の義なる、愛なる神様のことを全く知らない人の質問である」と応えたそうです。そうです。全き神様の守りは、自分がキリストの召しを受けて、そのために働き、その労苦を取っている時に適用されるのであって、思弁的な、一般的、普遍的な神様の支配の神学や哲学ではないのです。つまりこの全能の主の摂理の守り導きは、信じて前進する者、主の委託と召しを受けてそれになんとか応えようとするときに初めて適用される信仰となります。
 同時に、本当に畏れを取り去るためには、魂も体も滅ぼす方のできる方、真の天地の創造の主なる神を信じることによるのであると示されるのです。私は恐れを取り去るために「恐れるな、恐れるな」と自分の心に言い聞かせ、精神を奮い立たせてもあまり効果がないのです。すぐに恐れが頭をもたげて、取り込まれて来るのです。恐れを取り去り、恐れから逃れ、本当の安心を得るには、本当に体と魂を滅ぼすことのできる方を、本当に恐れる事からなのです。恐れるを取るには、本物を恐れることからというのはあるのだと思います。
 ちょうど神様に義とされるには、あれを守りこれを守り、あっちを保ち、こっちも保つことでない。律法のすべてを守らないといけないと必死にあくせくすることでない。神のみ子イエス・キリストを信じる信仰の義がある、と言うことと並行します。一つ一つの悪魔と対応するのではなく、天地創造の体も魂も創造された真の神と対応する。この方を心から恐れて生きるときに、本当に恐れから解放されるのです。主なる神様を心から恐れて、礼拝し、祈り、献げる時、真の平安が私たちに恵みとして与えられるのです。

 29節から主の守りと摂理の実例に、主は、雀と髪の毛の例えを語られます。イエス様は本当に実例を挙げるのが、上手というか、具体的に考えさせることの天才です。この2つは、イスラエルにおいて最も一般的な卑近な例えだとされます。雀は日本でいうと鶏肉の代表です、もっとも安いたんぱく源とされ、あるいはちょっと前の日本のイワシの目刺しと言っていいかもです。当時はどの市場にも売られ、一番安い肉だったとされます。髪の毛は言うまでもありません。人間誰しも髪の毛をもっているのです。2羽の雀は2アサリオンとされます。今に換算すると150円くらいと言われています。鶏肉は一切れであれば、大安売りで150円よりも、もっと安いのがあるかもしれません。目指しは150円あれば4匹くらい入っているかもです。言いたいことは、書いてある通りどこにでも売っている雀もまた、天の父のみ赦しがなければ、網の罠にかかり市場にでないということです。

 次に人間の髪の毛です。主は一人一人の髪の毛の数を数えておられる。そしてこれもまた父なる神の赦しがなければ、一本たりとも抜け落ちないのです。私たちがお風呂の排水口のところに無数の髪の毛があるのをみます。しかしこの一本一本が、神の赦しによって、抜け落ちているのです。これはたとえにしてもあまりにもオーバーのような気がします。しかしそれほど、神様の摂理の守りは確かですということです。
 そうすれば、私たちは、主にあって生きており、主にあって歩んでいるならば、これは、もう病気や大変なこと、苦しいこと、どうにもならないことがあるかもしれません。しかしこれは神の赦し、神の御心なくしてそうならないということになります。そうなってくると私たちは、確かに大変で、嫌になることもあります。しかし、それを受けて歩むしかありません。神様の顔が見えない、神様のみ翼がわからない。しかし私たちは神の摂理に守られている。私たちは雀よりも、髪の毛一本よりも大切なのは確かです。そうすれば、摂理を受けて、神のみ赦しにおいて、これがなっていると受けるのみです。自分の使命と委託と召しが示されたら、全力でこれにあたる。主の恵みももってこれに対応するしかありません。主はそのことを赦してくださるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。イースターを終え、復活の主と共に歩んでいます。コロナ感染が第4波を迎え、大阪、東京とまた地方にもどんどん広まります。どうか主よ、守りをおいてください。これからまた医療関係の方の働きを守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の支えを与えてください。会堂建築を導きください。中山の児童クラブ、子ども園の働きを守ってください。明日は子ども園の入園式です。どうか守りと導きを置いてください。み名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   マルコ伝16章1〜8節       2021年4月4日
          「 あの方は復活なさった 」 ―復活礼拝―
 イースターおめでとうございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日はイエス様のご復活イースター礼拝となります。本来ならゆで卵イースターエッグを準備して、礼拝の前には幼稚園と教会学校の子供達と共にイースターエッグハントの卵探しゲームをします。しかし今回は、卵探しで密になり、食べることですので昨年と同様にできません。礼拝だけの静かなイースターとなりました。しかし私達の状態がどうであれ、イエス様は復活してくださり、私達と共にいてくださいます。そのことを、心からお祝いしたいです。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、鹿児島県は、1840人となり、1週間で49人の感染となっています。鹿児島もじわじわと増えています。近畿と関東地方はすでに4波のリバンドの傾向とされ、蔓延防止法が施行されています。ただ私達にできることが、限られており、自分にできるマスク、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。またピネハスの疫病の守りの祈りをするのみです。

 さて聖書は、マルコ伝におけるイエス様の復活の報告の所です。ただ読まれて分かるように、4つの福音書でイエス様の復活を報告していますが、マルコ伝はその中で一番短い復活報告となっています。マルコ伝16章の9節から20節まであるではないかという方もあるでしょう。しかしこの箇所は大括弧に入っており、この9〜20節が出てくる聖書は8世紀の写本からとされます。つまりマルコ自身は8節まで書いたのだと言われています。しかし余りにも突然の終わり方に、様々な方が書き足したとされます。その理由がいろいろ言われています。しかし本当の理由は分からないとされます。一番有力なのは、当時のパピルスや羊皮紙は、擦れて最後のところがない写本が多く、もしかしたら偶然、紛失したと言う説まであります。しかし、マルコ伝はあえてこれで終わったと言う読み方もあるのです。神学校の先生が、天国に行ってマルコに会ったら「どうしてあそこで終わったのかと聞きたい」という先生がおられました。それほど難しいところです。しかし「怖ろしかったからである」と終わったマルコ伝の復活の章はそれなりに、私達にイエス様の復活を教え、導いているのだと思います。
 イエス様の復活の報告は、マタイとマルコの報告と、ルカ伝やヨハネ伝のようにいろいろな復活の出来事を書いているのとパウロが第1コリント15章に書いてくれた報告と3つの主な報告があると言われています。マタイとマルコは、ガリラヤでの復活のイエス様の出会いに中心があり、ルカ伝とヨハネ伝は、エルサレムでの復活のイエス様への出会いに力が入っており、パウロの第1コリント15章は場所は全く関知しない報告になっています。皆さんの中には、復活のイエス様は弟子達にガリラヤで出会って、それからエルサレムに行かれたのか、その反対か、と考えられた方があるかもしれません。実は順番はよく分からないのです。聖書はガリラヤで出会ったという報告とエルサレムで出会ったという報告を調和させずに聞いたままに書いいます。ここは、聖書の真理の捕らえ方によるのだと思います。憶測をいれずに、自分はこう聞いた、自分はこう見たと言うことです。まさにそれが証人の正しいあり方です。マルコ伝もまた必死にイエス様の復活はこうだったと自分が見て、自分が聞いたことを書いてくれたのだと思います。

 1,2節に書かれている女性達がイエス様のお墓に行くことは、マタイマルコルカヨハネに全て共通しています。誰がお墓に行ったのかは、マグダラのマリアだけが共通していて後は、それぞれ違っています。なぜ、お墓に行ったのかは、書いてあるように「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とあります。これも何度も聞かれたと思いますが、イエス様の十字架刑が、安息日の前の日の処刑であったと考えられます。イエス様は午後3時に息を引き取られています。お墓を提供したアリマタヤのヨセフや女性達が葬りの準備をする時間が余りないのです。当時の日付の変更は日没でありました。鹿児島市ではこの時期、本日は午後6時半日没です。3時間半しか動けないのです。イエス様は中途半端な埋葬で、墓に置かれるしか無かったのです。
 つまり今まで3年間教えを請うた女性の弟子達がなんとかせめて、きちんとした埋葬をして上げたいと思ったのは、当然だったと思います。2節にある週の初めの日は今の日曜日になります。安息日があけて自由に動けるようになったのです。さらに3節には、女性達が「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるか」と話し合っています。これも何度も言われ、語られる通りに、この女性達には、復活信仰は無かったのです。これも4つの福音書皆に共通しています。女性達はお墓に来るのですが、復活を期待して、復活の信仰を持っている女性は誰もいません。ただ、葬りの時、完全にできなかった。良き葬りをしてあげたい。その一心でありました。
 しかし、神様はそれでもいいと言うと変ですが、それでも用いられるのです。これも何度も聞いて体験する話しです。聖書では最初から全てのことが分かって、プログラムされていることは、ほとんどないと思います。ただ神様のみご存知です。人間は、ただ今しないといけないこと、今主に求められると思うこと、今主の御心だろうと自分が思うことをなしていくしかないのです。すると神様はそこに働き、そこから事を起こしてくださるのです。特に信仰におきましては、自分からするはなかなかない。誘われた、仕方ない、手伝ってやるか、付き合ってやるかで始まることが多いです。

 4節にあるように、誰があの大きな石を除けることができるのか、と話しながらお墓に来たのです。なんと来てみると石はすでに脇に転がしてありました。そして、5節にそこには、白い長い衣を着た若者が右手に座っていたのです。マルコ伝とルカ伝はなぜか、この人を天使と言いませんでした。しかし白い衣、ルカ伝の輝く衣は明らかに人間ではなく天使です。マタイ伝は何度も天使が語り、天使が指示しているのです。しかしマルコ、ルカ伝は天使ですが天使といいません。私はここに、天使を肩のところに翼をもち、空を飛ぶ、エゼキエルが示す天使のような形でなくて、天使はどんな形も取りうることを示しているように思えます。私達は、天使を一度は見てみたいと思うかもです。しかし天使はいわゆる天使として確かにある人には現れるでしょう。しかし、天使はいわゆる天使でなくて違った形で現れるかもしれないのです。それは、マタイ伝25章のイエス様が「飢えた人、喉の渇いた人、裸の人、旅をする人、病気の人、牢屋にいる人」の6つの形を取りますと言われたのと平行します。天使は、ちょうどイエス様がインマヌエルされるように、私達の側に普通の人のように、おられるとも言えます。

 6節にあるように、天使のメッセージは「驚くな、恐れるな」です。私達が神様に出会えるかどうか、神様に出会っているのかどうか。もし判別式みたいなことがあるとすれば、それは「驚き、恐れ」とも言われています。神様のお取り扱いを私達が受けるとき、そこには「驚きと恐れ」があるとされます。なんでこうなるか、なぜこんな事が起こるのか、そこには神様のお取り扱いのある可能性があるのです。
 若者の天使はいいます。「驚くな、あなた方は十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活されてここにいない」といいます。天使はきちんと指示を出せるのです。そして若者・天使が、イエス様の復活を示します。イエス様が誕生される時、ルカ伝では天使ガブリエルがマリアに誕生告知をしました。ある意味で、天使が復活の告知をするのは、イエス様の誕生と死においてだったことになります。すなわち、私達もまた人生の危機の時に天使に会わせられ、天使に扱われると言ってもいいのかも知れません。

 7節にあるように、若者天使は、弟子達とペテロを名指し、言葉を告げます。どうなっているのでしょうか。12弟子達と代表ペテロは、2日前に、イエス様を裏切り、皆捨てて逃げ、ペテロは主に「この人を知らない」と3度もいいました。しかし神様はそれでも、弟子としてまたペテロを含めて用いるとされるのです。そして、主イエス様は、先にガリラヤに行っており、そこでお目にかかれると言うのです。私達は人間的な思いでは復活のイエス様に出会うことができないことを知らされます。2日前に裏切り、知らないといったのに、イエス様はそれでも、と言うかそれだから12弟子に会いますと言われるのです。そこには常に罪の赦しがあり、主の一方的な愛があると言っていいでしょう。泣く者が本当悲しんでいるのではない、笑う者が本当に喜んでいるのではない。主はその心を知り、裏切った弟子達を用いられるのです。
 「ガリラヤに行かれる」ということは、すでにあまりにも有名です。なぜ復活の主はガリラヤで出会うのか。ガリラヤは弟子達の故郷で逃げる場所であったという説もあります。先回りされたという取り方です。しかし、多くの聖書解説書では、ガリラヤは12弟子の生活の場所であったというのが、一番大きいとされます。復活の主イス様に出会えるのは、自分の生活の場であるということです。日本では、神に出会うのは、何か高野山のような神々しい森とか、瀧に打たれるとか、高い山とかがあります。もちろんモーセが十戒を頂いたシナイ・ホレブ山はそれなりに高い山だそうです。
 しかし、復活のイエス様は、先ほどもいいましたが、飢え、渇き、裸で、旅をし、病気で、牢屋にいるとされるのです。当然、ガリラヤでは魚を捕り、大工をし、徴税人がおり、ローマの役人がおり、羊飼いがいる所です。そこに復活の主がおられると言います。それは信仰のあり方を教えているのだと思います。信仰は奇跡が起こった、空を飛んだ、病気が治ったではない。それもあってもいいでしょう。しかしそうでない。今日御飯が食べられた、今日眠れた、今日隣人に小さい愛を示せた。今日の仕事ができた。これが、実は一番の恵みなのです。そして辛い時も、神様のお顔が見えなくても、しかしなお神様の守りのみ手にあることを信じて、今日を力一杯生きることであります。先が見えなくても、神様の守りを信じて、今日1日のことをしていくことができることは、大きな恵みと奇跡です。空中を飛んだ、病気が治った、宝くじに当たったは、本当は奇跡でもなんでもない。今日が感謝で生きられること、今日を感謝して終えることできる事が、一番の奇跡、一番の恵みです。

 最後に8節に、婦人達は逃げ去ったとあります。余りの非日常の天使に驚いたのです。そして、何も語れませんでした。でもこの女性達もまた復活のイエス様が出会ってくださるのです。復活のイエス様との出会いは、神様からの召しでもあります。召しを聞き、これに応えて歩むのです。召しを受けることができることが復活のイエス様との出会いでもあるのです。1日1日を復活の主イエス様と共に歩むこと、このイースター復活祭に確認します。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、本日は主の復活祭です。主は死人の中から甦ってくださいました。私達一人一人がそのことの証人です。私の召し私の信仰が復活の主イエス様の証しです。どうか、この信仰を守り導き、支えてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の支えを感謝です。続けてみ手をおいてください。会堂建築をみ手においてください。21年度が始まりました。どうか、歩みをみ手においてください。御名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   マルコ伝15章21〜32節       2021年3月28日
          「 十字架につけた 」 ―棕櫚の主日礼拝―
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は教会の暦では、棕櫚の主日となっています。イエス様が十字架につけられる最後の1週間の始まりです。ヨハネ伝ではエルサレムの人々は、棕櫚の葉っぱを振って、子ロバに乗られたイエス様を迎えました。しかし5日後に十字架に付けたのです。次の主日は、イースターとなります。今年も、昨年同様に卵探しのゲームがありません。静かなイースターとなります。しかし静かな何もないイースターですが神の御子イエス様は淡々と十字架に着かれ、復活してくださいました。最終的には、十字架という最も悲惨な、せい惨な出来事が起こってもなお、主は、復活をもって歴史を、導き支えていてくださるのです。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、鹿児島県は、1791人となり、3月2日から12日間0でしたが、クラスターが1昨日起こり1週間で31人の感染となっています。近畿と関東地方は、4波のリバンドの傾向とされ、宮城、山形、沖縄で又多くなっています。すでに言われている通り、変異株のウイルスが増えると言われまだまだ安心はできません。自分にできるマスク、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。

 さて聖書は、毎年のことですが、受難週の始まりの主日はイエス様の十字架に付けられる所から読んでいます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと順番に聞いていますので4年ごとに同じような箇所が回ってきます。今年はマルコ伝から聞きますが、マタイ伝とマルコ伝は非常に似ていますので、記憶力の良い人は毎年同じようなメッセージを聞いている雰囲気になられるかもしれません。しかし、何度も言うように、聖書という神の言葉は全く同じでも、聞く私達が時間によって変わりますので、同じ言葉が同じにならず、聖霊によって違った意味を与えるのです。本日のイエス様の十字架刑のところもまた、聖霊によって新しく聞いて行けるように祈ります。
 さて21節にあるように、イエス様の十字架刑の脇役の筆頭は、私はこのキレネ人のシモンと本日は出てきませんが「この方は真に神の子であった」と告白したローマの百人隊長であろうと思います。マタイマルコルカは、3つともこのシモンとローマの百卒長を書いています。ヨハネは書いていませんが、又違った出来事を書いています。

 21節から聞いて行く前に、イエス様は総督ピラトの裁判が終わり、死刑が確定するとローマ兵達の侮辱・嘲弄が始まったことを伝えています。すでに知られている茨の冠をかぶせ、紫の着物を着せられ、葦の棒で頭を叩かれ、唾をはきかけられたとあります。イエス様はローマ兵の侮辱と嘲弄を受けて、疲労困憊でありました。
 そしていよいよ十字架の刑場ゴルゴタに行かれるのです。この時は、もうすでに自分の十字架を背負う力は残っておられませんでした。通常の十字架の絵画には、本当に十字架になった木を担いだ場面があります。しかし、歴史的にはすでに縦棒は地面に立てられており、受刑者が運んだのは、横棒の部分だったと言われています。ですから重くてどうしようもないことは無かったとされます。しかし、イエス様はそれさえも担ぐ力はなく、担ぐ事がおできになりませんでした。
 そこでこの十字架の受刑人の列はストップしたことになります。多分イエス様はローマ兵によって鞭打たれ、「立て、運べ」と命令されたと思います。しかしどうにもなりませんでした。ローマ兵は強制徴用の権利を持っていましたので、たまたま通りかかったキレネ人のシモンを、イエス様の十字架を運ぶ人にしたのです。シモンにはいろいろな推測が成されています。キレネというのは、北アフリカのカイロから更に西に400qの町です。イスラエルからはずいぶん遠いのです。このキレネの町には、すでに紀元前3世紀くらいから、ユダヤ人が入植してたとされています。従って、このシモンは、過越祭の祭りに巡礼にきていたと言うのが一番ありそうです。ユダヤ人ですのでもちろん聖書も読んでおり、北アフリカから巡礼に来るくらいですから、そこそこの旧約聖書の信仰をもっていたと思われます。エジプトから更に400qほど西にある町の出身ですので、巡礼の気持ちが強かったと思います。
 当時はローマ兵の強制徴用を断るのは難しかったと思います。仕方なしなしにシモンはこれに応じました。自分が身代わりにイエス様の十字架を背負う事になりました。ここで「無理に担がせた」となっていますが、これはマルコ伝8章34節の「自分の十字架を背負って私について来なさい」の「背負って」と「担がせた」は同じ言葉になっているのです。初代教会の人々は、イエス様の言葉に、最初に従って十字架を背負って・担いだ人として、このシモンを覚えたのです。そして不思議なことに、シモンはどうしてそうなったのか全く分かりませんが、この後マルコのいた教会の教会員になったものと思われます。そうでないとアレクサンドロスとルフォスの父シモンと紹介したマルコ伝の意味が通りません。
 私達は、初代教会の人々が、イエス様の十字架を最初に担いだ人、そしてイエス様の「自分の十字架を背負って(担いで)私について来なさい」の言葉を本当に実現したシモンに、自分たちの信仰を重ねたのです。そうでないとマタイ、マルコ、ルカの3人が書くはずもありません。そして、正に私達もまた、このシモンのように突然のことから教会の仕事を受けたり、たまたま教会に導かれたりするのです。それは確かに一番良いのは、自分が神様のからの召しであると受け、これは神様から自分がしないと行けないという自発の心です。また親しい教会の友人が倒れてその後を嗣ぐとかあるでしょう。しかしマルコが書き福音書が書いているシモンの出来事は、まさに強制みたいなことです。私も、友人に教会に誘われた時、迷惑だったことをよく覚えています。しかし毎週車で迎えに来られては、日曜の朝何もすることがない学生の私はとうとう断れなかったです。親戚の誘い、親の誘いを断れない。しかし聖書を読んで行く中にとうとう信じる所まで来て、とうとう奉仕まで来るのはやはり有るのだと思います。その時、初代教会がシモンを思い出し、語り継ぎ、自分をシモンに重ねて、これが福音書に書かれたということになるのです。神様、聖霊の導きだったのです。

 次に、十字架の場面で示されるのは、イエス様への嘲弄・あざけりです。イエス様の嘲弄、嘲りで特に示されるのは「自分自身を救え」と「十字架から降りて来い」です。ここにイエス様の神の子の嘲弄・嘲りは収斂していくのだと思います。この自分自身を救えないメシア・キリスト、十字架から降りられないキリスト・メシアとは何なのか。まさに余りにも弱い、余りにも頼りないメシア・キリストです。祭司長、律法学者のみならず、これはエルサレムの一般民衆にとっても、どうしようもないイエス様をメシア・キリストとする時の大きな躓きです。

 26節に罪状書きがあってそこには「ユダヤ人の王」とあります。ヨハネ伝はこの罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれたと書いています。ラテン語はローマ人の言葉、ギリシャ語は当時の商売人の言葉、ヘブライ語は本来はアラム語ですが、ユダヤ人の言葉です。新約聖書はギリシャ語で書かれました。聖書はもともと商売人のことばだったのです。つまり世界共通語として、聖書はもともと置かれたことになります。3つの言葉の罪状書きの史実はどうだったのか、難しいらしいですが、罪状を掲げるのは当時のローマ帝国の習慣とされます。
 そしてまさに主イエス様は、政治的な王でなくて、本当のメシア・キリストとして、世界の王だったのです。ちょうどアブラハムが全世界の祝福の基であるように、ここのユダヤ人の王とは、まさに全世界を救う基の方でした。実は28節がなくて、27節から突然29節になっているのに気づかれると思います。実は最近の研究から28節は元々のマルコ伝の聖書にはなく、初代教会は、イエス様の十字架を解説する言葉を書いていたのですが、それが写本する人に拾われ書書かれて、それが伝承される時に、本文と同じように受け止められたと言われています。
 ですから昔の口語訳聖書を持たれている方は、まさに28節が十字架刑のその意味になります。そこには「彼は罪人の一人に数えられた、と言う言葉が成就した」とあります。これはイザヤ53章12節の言葉です。主は神の子として「自らを投げ打ち、死んで、罪人の一人に数えられ、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをされたのです」とあります。イエス様は降りて来れなかった、のでなくて、降りられなかったのです。イエス様は、自分を救えなかったのでなくて、自分を救っては駄目だったのです。そうしないとイザヤの預言、罪の贖いの預言、罪人の一人に数えられ、多くの人の過ちを担う苦難の義人にならないのです。主イエス様はこのように十字架に死なれることで、執り成し、すなわち贖いをされたのです。十字架に棄てられ、十字架に掛かったままでないと神様の御計画がならないのです。十字架の苦しみを受けないと御計画が成らないのです。
 十字架から降りて、自分を救ったら、確かにイエス様は超人であり、偉大な方になったかも知れません。世界に希にみる偉人、超人だったとなります。しかし、私の罪を贖い、いつでもどんな時でもインマヌエルされる真の神の御子にならないのです。つまり救い主にならないのです。主は、十字架から降りず、自分を救わないことによって、私達の救いの基になられたのです。これはあり得ると思います。私達もまた、誰からも理解されず、認められないけど、最終的には必要である仕事があるものです。

 32節には「一緒に十字架に付けられた者達もイエスを罵った」とあります。同業相哀れむでないのです。同じような体験をし、同じような苦しみを負っている。しかし相哀れまないのです。主はまさに一人で孤独に、十字架に付けられ死んでいかれたのです。祈祷会で紹介しましたが、ルツさんという方の聖書解説書では、ワルシャワのユダヤ人が、ヒトラーのホロコーストの収容所にガス室で死んでいった方を紹介しています。その方は、ユダヤ人でガス室に殺されていきます。しかしこの方は、収容所の壁の隙間に、紙に鉛筆で「全ての同胞は神を呪って死んでいきます。しかし私は、神を信じて死んでいきます」と書いて挟み込んでいたそうです。ワルシャワのユダヤ人収容所が解体される時に偶然見つかりました。正にそういうことだと思います。
 誰も神を信じない。同胞も神を信じない。むしろ神を呪って死んでいく。しかし自分は一人信じて死んでいきます。これは、何の力になるかという方もあるでしょう。しかしイエス様はここからの出発だったと示されるのです。神様に委ねると言うことは、そういうことであると信じます。主はその信仰を見てくださるのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日からイエス様が十字架につけられた受難週が始まります。どうか、十字架を心にとめて歩む1週間としてください。福音書はたまたた十字架を担いだシモンを書いています。私たちも又たまたまに巻き込まれることが多いです。しかしそこから主の十字架が始まります。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。会堂建築を続けて導きください。子ども園、児童クラブの新学期も導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マルコ伝14章66〜72節       2021年3月21日
             「 そんな人は知らない 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日はイースターを迎える受難節の第6週になっています。次が棕櫚の主日、次の次4月4日がイースターです。本日は、何度も読まれ語られ聞かれて来たペテロの裏切りの場面のところです。この報告もまたマタイ伝26章、マルコ伝14章、ルカ伝22章、ヨハネ伝13章と4つの福音書全部が報告しています。ペテロの失敗をこのようにきちんと書いているところに聖書のすごさがあります。通常は、このように12弟子の筆頭であり、自分たちの教会の指導者の失敗を書かないと思います。それでも書いているのは、全てのことが主のみ手にあり、全てのことを、主はご存知であるという信仰があるからです。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、鹿児島県は、1767人で3月2日から12日間0でした。それから4名の感染となっています。関東地方の緊急事態宣言も今日で解除です。このまま感染線者が少なくあってほしいです。しかしすでに言われている通り、変異株のウイルスが増えると言われまだまだ安心はできません。自分にできるマスク、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。

 さて聖書は、有名なペテロの裏切り場面です。先週の出来事からいくと主は、弟子達と共にゲッセマネの園にて、最後の祈りをされ、そしてペテロの裏切りを預言されます。その後イエス様は逮捕されて、まずユダヤ人の裁判を受けられ、次にローマの総督ポンティオ・ピラトの裁判を受けられるのです。ペテロの裏切りは、このユダヤ人の裁判の中で起こりました。2回の裁判があるのは、2000年前にも3審制ならぬ2審制の裁判制度があったのか、でないのです。ローマの植民地になっていたイスラエルは死刑の判決が、ローマ帝国の総督でないとできませんでした。結果的に2審制のような形になったのです。

 66節にあるように、ペテロはユダヤの裁判がなされる大祭司の中庭にいました。裁判の時期は、今の頃3月の終わりか4月の初めでした。外は未だ寒く、照明のために松明が、たき火は暖を取るためにあったのです。そこにペテロはいたのです。私は、確かにペテロは裏切り、主を拒否したのを見ます。しかし他の弟子達がチリジリバラバラにいなくなっていた時に、なんとかイエス様の裁判の行方でも知ろうとして、そこに留まったペテロの勇気はたいしたものだと思います。先生が捕まったら自分たちも捕まる。一目散に逃げるのが常套手段です。しかし、ペテロは踏みとどまっています。マタイ伝26章58節は「ペテロは遠く離れてイエスに従い」と書いています。遠く離れて従うというのは、非常に日本人的というか、真正面に出ないけれども、きちんと遠くから見ている姿があります。いくらでも批判はできますが、遠く離れていても行方を見守る姿勢にいたのです。

 67節に、しかし、女中がじっとペテロを見つめていました。この女中はおそらく裁判の行方とか、イエス様の罪が何であるとか、全く知らなかったのでないか。ただ12弟子の一人の中に、ペテロの顔をたまたま見かけたのでないかと思われます。それで「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言ったのです。この人は女中であり、今からは考えられませんが、女性は当時裁判の証人になれなかったと言われています。しかもここはペテロの裁判ではなく、女中さんは証人ではありませんでした。ペテロは全く無視しても良かったし、その場を離れても良かったのです。そして「そうだよ」と応えても、何も起こらなかったのでないかとも言われています。つまりペテロはここで、68節に応えていますが、応えなくても良かったし、応えても何も起こることはなかったのです。しかし「あなたは何を言っているのか。私には分からない。見当もつかない」と応えています。人間とは不思議なもので、かしこまった裁判の席では何でもないと流すことでも、このように四方山話というか、談笑の時間、休み時間の馬鹿話のどうでも良い時につい本音が出てしまうものです。ペテロは書いてある通りに、ナザレのイエスと共にいたことを否定するのです。女中さんは「あなたはイエス様の弟子だったとか、イエス様を信じていたはず」とか、聞いているのでない。ましてやペテロの尋問がなされているのでない。「そうだ、一緒にいたことがある」と言っても何も起こらない。罪に問われないのです。しかし「何も知らない」としてしまうのです。
 私達はここに、イエス様への信仰の難しさというか、信仰の表明の大変さを見るのでないかと思います。正式の場でなく、ちょっとしたことでイエス様が馬鹿にされている、宗教が軽んじられている。しかしそこでいや自分は信じている。宗教は大切だと思うと言えず、つい黙ってニコニコとやり過ごしてしまうのです。ペテロの失敗は、ペテロの失敗ではなく、弟子達の失敗であり、信仰者の失敗であり、また私達の失敗の代表になっていると言えます。
 68節に、ペテロは中庭から出口に方に出て行こうとしました。ここもいよいよペテロは逃げるのかと思いますが、逃げ出したのでありません。この女中さんから遠ざかり中庭からその出口付近に移動し、まだ「遠くからイエス様に従う道」を諦めていないのです。女中さんに言われて恥をかいて、馬鹿にされてもなおイエス様の後からついていく。その姿勢をペテロに見てもいいのではないでしょうか。聖書は一回目の「鶏が鳴いた」をここに入れています。どうもペテロは、イエス様の裏切り預言をまだ何も気づいていないようです。ペテロの弱さと言うか、ペテロの記憶はまだ呼び覚まされていません。このような鈍感なところも、ある人は耐えられないかもしれません。しかし、凡人の私はペテロさんがまだ自分の失敗に気づいていないところに、なんだかものすごい親近感が涌きます。

 69節に女中さんは、今度は、回りに人に言い出します。先ほどは一人でペテロに言いましたが、今度は回りの人に言い出しました。ここは女中さんがペテロに自分が無視されたと取ったのでしょうか。女性は裁判の証人になれない。そしたら男性を巻き込もうとしたのでしょうか。詳しいことはわかりません。しかしたとえそうだとしても、女性は証人なれなのですから、ペテロは無視できたのです。別に回りの人達が騒ぎ出しても、裁判の中心はイエス様にあり、ペテロがここで仲間だということで、捕まるまでは無かったのではないでしょう。すでにユダヤ人の裁判でイエス様は死刑になったので、ペテロは恐れたのかも知れません。

 70節にペテロは、再び打ち消したとあります。どんな言葉を使ったのか。1回目と同じ言葉だったのか、違うことばだったのか。しかし、どうも自分で自分のぼろを出すというか、弱点を出したようです。居合わせた人達は、ペテロのことを全く知らないので。その女中さんとの問答を聞いて、この人がガリラヤ出身だと分かったのです。イエス様がナザレのガリラヤの人であることは皆知っています。そこにガリラヤ訛りの人がいる。当時は、今のような交通の便がないので、日本でこの人は東北地方だとか、名古屋かなとか、広島だとか、九州だ、鹿児島だという以上にすぐに分かったようです。居合わせた人々は、言葉からペテロがガリラヤ出身と分かり「確かに、お前はあの連中の仲間かも」と言い出したのです。ある意味で、ここでペテロの本当の危機が来たと言えるかもしれません。しかし、ガリラヤ出身だからイエス様の仲間かもしれない、というのは余りにも飛躍です。ペテロは当然、否定することができたし、ここで肯定しても、果たして捕まったのかという問いが残ります。71節に、ペテロは危ないと思ったのでしょうか。呪いのことばを口にしながら、誓い始めて「そんな人は知らない」と言ってしまったのです。仲間である、信仰者であるが問題でありましたが、ペテロはここで「そんな人は知らない」という知人、友人関係をも否定したことになります。

 72節に鶏が、もう一度鳴きました。ペテロは、ようやくここでイエス様が言われた「鶏が二度鳴く前に、3度否定する」ということばを思い出しました。遅いともいえますし、イエス様の預言のことばが、ペテロに気づかせたとも言えます。そして、いきなり泣き出した、とかいています。ここはいろいろな聖書で微妙に違った訳をしています。直訳するとすれば「呻きに投げ込まれた」という訳ができます。共同訳の「いきなり泣きだした」は、ペテロの後悔の深さ、悩みの切実さが少し足りないかなと思います。しかし、現象としてはまさに周りの人からみれば、大の男の大人が突然泣き出したということです。私たちはペテロの失敗を何度も聞いて、今年もまた聞いています。いくつかのことが言われます。まず、ユダの失敗とペテロの失敗の違いです。私たちは裏切ったペテロ、裏切ったユダを比べると、どちらも裏切りに代わりありません。ペテロは3度「この人を知らない」と言い、ユダは「イエスは、この人だ」と祭司長、律法学者にイエス様を示しています。「知らない」でも裏切り、「この人だ」でも裏切りです。しかし違うのはその後です。ペテロは、わんわん泣きました。ここにはいろいろな意味があるのでしょう。絶対に裏切りませんと言った自分が、3度も知らないと言ってしまった。その自分のふがいなさに気づいたともいえるでしょう。ペテロは、自分の弱さと罪の深さに気づけたと言えます。
 しかしユダは最後まで自分でその責任を取ろうとしました。自分で自分の首をくくって主を裏切った罪の責任を取ったのです。つまり神様に委ね、神様の判定を聞かなかったのです。人間的な責任論からいえば、明らかにユダが立派で正しいと思います。明らかにユダが立派で勇ましいです。しかし、神様は違っていました。わんわん泣いて、どうしようもない自分をさらけ出したペテロをまた用いてくださるのです。ここがペテロの裏切りの教えだと思います。聖書は4つの福音書全部がペテロの裏切りを書いて報告した。なんで自分たちの先生、指導者、12弟子の代表の失敗をわざわざ晒すのか。それはまさに4つの福音書が、このペテロのような時代にいるからです。

 マタイマルコルカヨハネは、それぞれの強弱はありますが、実際にローマ帝国の皇帝礼拝拒否者の迫害の中にありました。まさに福音記者の教会は一人一人がペテロの誘惑に立たされているのです。その時、その迫害を勇敢に受けるのか、ペテロのように逃げ惑うのか、選択を迫られていました。しかし福音記者は、ペテロは失敗した。しかし、その失敗を神様に委ね、ユダのように自分の責任を自分では取らなかったと伝えるのです。日本的には全く人気がありません。しかし聖書信仰からはどうなのか。そもそも人間は自分の失敗・弱点を自分で全部引き受けることができるのか。ペテロは、絶対裏切らないといいつつ完全に裏切った。しかしその失敗を、主に委ねたのです。自分で処理しなかったのです。私たちはペテロの失敗に続くものでありたいです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染の中の受難節を守ってください。求道者、病気療養の方、高齢者を守ってください。本日の定期総会を守り、会堂建築の導きを守ってください。子ども園、児童クラブを守ってください。年度末のいろいろな取り組みを導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   マルコ伝14章27〜31節        2021年3月14日
             「 私の家は祈りの家 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。先週は東北大地震の10周年の記念式典が多く放映されていました。亡くなられた2万2千人の方と御家族の守り祈ります。本日はイースターを迎える受難節の第5週になっています。今年はマルコ伝の最後の主の1週間からイースターまで聞いていきます。本日は、イエス様の裏切りの預言と言われています。イエス様は、弟子達が皆ご自身を裏切ることをご存知でした。しかしその裏切りの中で、十字架のみ業は進んで行きました。ある意味で、イエス様の救いの計画は、弟子達の挫折によっても、イエス様に死によっても中断されることなく、前進して行くともいえます。私達は神様の御計画が一つ一つ成し遂げられるその歴史の中にあるといえるでしょう。基本的には、イエス様の最後の1週間も又、雀一羽、神の毛一本、神様の赦しがなければ、落ちず抜けないと言うことの証しということができるでしょう。

 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、すでにご存知通り、鹿児島県は、1763人で3月2日から10日間0となています。このまま感染線者が0であってほしいです。しかしすでに言われている通り、変異株のウイルスが増えると言われています。まだまだ安心はできません。自分にできるマスク、アルコールの手洗い、密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことを示されます。油断せずに歩みましょう。
 さて聖書は、最後の主の晩餐が終わり、いよいよゲッセマネの最後の祈りの前の出来事になります。イエス様と12弟子達は主の晩餐を終え、直前の26節では、賛美の歌を歌われて、オリブ山に向かったとなっています。聖書解説書の中には、この26節の賛美の歌を歌ったというところから、ペテロの裏切りの予告としてまとめているのがあります。しかし共同訳聖書が示すように、イエス様の裏切り預言は、歌った後のオリブ山の付近ではなかったかと思われます。

 27節にあるようにイエス様は突然のように思えますが「あなた方は皆私に躓く」言われました。この弟子達の裏切り預言は、マタイ26章、ルカ22章、ヨハネ13章とこれまた4つの福音書がすべて報告しています。ですから弟子達が裏切る前に、イエス様は弟子達の裏切りをご存知であったのは確かのようです。イエス様は弟子達の裏切り預言を、そこにあるように、旧約聖書のゼカリヤ13章7節から引用されました。つまりここもまたイエス様がロバの子にのって、エルサレム入場されるように、実は旧約聖書に預言されているのだ、という信仰があります。ただゼカリヤ書を引用されて、裏切り預言を語るのはマタイ伝とマルコ伝のみです。ルカ伝とヨハネ伝は裏切りを伝えますが、そこでゼカリア書の引用はありません。
 つまりマタイ伝とマルコ伝は、イエス様の弟子の裏切りが、旧約聖書にも預言されている確かな避けることのできない。事実なのだと言いたいのだと示すのです。旧約聖書に預言されているか、どうかはそんなに大切なのかという問いがあるかと思います。預言されていなくても、起こることは起こります。天気予報とは違いますが、天気予報があっても無くても雨は降る時は振るのです。しかし予報があれば、それに準備ができます。もちろん地震のように知っても準備ができないのもあります。分かっていてもどうしようもない余りにも大きな力もあります。3/11の10年目の東北地震を見ても、予報はありましたが、原発周辺では、真剣に聞こうとしなかったと言えます。

 しかし、イエス様の裏切りにおいては、裏切りの預言があるということは、これが神様の御心であり、神様の御計画であることが示されます。神の御子が裏切られ、弟子達に棄てられて行く。それでも神様のみ業は進められて行く。私達はちょうどエルサレム神殿が滅ぼされる時のイスラエルのように、エレミヤ、エゼキエルのように神の足代が破壊されても、なおそれが神様の御心と知れば、それを受け止めて生きていく術と力を示されていくのです。神様を信じる力というのはそう言うことなのだと思います。
 28節にしかしイエス様は弟子達の裏切りを預言しながら「復活して、あなたがたより先に、ガリラヤに行く」といわれました。不思議なことに、イエス様はまた聖書は、時々、審判の側に恵みというか、守りを置かれます。そうしないと困難に耐えられないともいえます。また困難の中に、少しの光があることが、困難苦難を耐える力のなると言うことが言えるかと思います。

 イエス様は棄てられて、裏切られ殺されて行く。しかしそこには復活があって、ガリラヤに行くことが約束されています。これは弟子達はどこまで当時理解できていたのか。おそらくさっぱり分からなかったと思います。しかしその時はさっぱりわからなくても、後から分かることがあります。弟子達はその時、イエス様が復活されてからそう言えば、イエス様はあの時、皆が裏切ると言われた時「復活がある、ガリラヤに行く」と言われていたと思い出したのかもしれません。
 ガリラヤへ行くとは、弟子達がイエス様を裏切って、自分の故郷であるガリラヤに逃げ帰るということだと言われています。しかしその逃げ帰ることをもって、イエス様は預言としてくださっています。そして逃げ帰るところに、イエス様がいて下さると言われたのです。これはまさに失敗して逃げていくところに、主がいてくださることです。主が弟子達の弱さと裏切りのところにいてくださって、それを支えて又変えてくださるのです。

 3/11においていろいろな番組がありました。見るとは無しに見ておりますが、今度の一番の印象も余りにも強い津波に、本当に人間は何もなすすべがないということを思い知らされます。2万2千人方の命を奪うものすごい力です。信仰におきましては、何かの御計画があるのだという取り方、しかし余りにも無惨の中で、何の計画かと言いたいです。しかし新約学の大貫隆先生が「あの津波の中で、イエス様も一緒に流されておれるのです」と書いておられます。すでに何度か紹介しましたが、津波と一緒に流されている神様というのは、何の役に立つのかとなりますが、しかし共に流される全能の神様というのは、すごいと思います。
 地殻変動という神様の地球の創造の仕組みから、地球にいる以上、津波は避けられない出来事です。しかし同時にその津波と共に流され、苦難を共に受けてくださる神様なのです。私達は地球にある以上、津波という現実と共に生きるしかないのです。イエス様が弟子の逃げ帰るガリラヤに先に行かれるというのは、イエス様また一緒に逃げて下さるとも取れます。弟子達はイエス様を棄てて逃げてきたのに、又イエス様に逃げた先で出会うというは、びっくりだったでしょう。しかし、ものすごい安心を得たのではないでしょうか。ここにもイエス様がいてくださるのかという感動です。
 29節に、突然ペテロは「皆が躓いても、私は躓きません」と言いました。自分だけは違うという決断とも言えます。イエス様にとっては、嬉しい決断かも知れません。勇ましい言葉でもあります。しかし心理学的には、不安感が強いと、わざと心は反対のことを言うというのがあります。不安の故のいさましい言葉があります。実力からくる本当のゆとりの言葉とは違ったようです。弟子達を差し置いて、自分だけは躓きませんというのも、ペテロらしいと言えばペテロらしいとなります。

 ある聖書解説書に、もしここで、ペテロが「私は不安で一杯です。私は先生が言われたように、裏切るかもしれません。主よ、どうか、その時はお助けください」と言ったらどうなったのか、というのがありました。本当にどうなったでしょうか。神様の全体の計画からいくと、イエス様の十字架は避けられません。解説書には、ペテロは「私はこの人の弟子です」と言って、一緒にいたペテロはイエス様の一緒に捕まえられ、キリスト教は3本の十字架でなてく、4本の十字架となったであろうと書いていました。そして、人々は、もっともっと、主に仕えたかも知れないという方がいます。
 しかしどうでしょうか。私はこの裏切りが、むしろペテロや弟子達を支えたのかも知れないと思うときがあります。というのは、マルコが書かれたのは、60~70年と言われています。実は、マルコ伝はローマ大火の責任者としてのネロ帝に殺されていくペテロの殉教を知っていたと思います。そして、ヤコブやヨハネが、福音のために苦労していることも知っていたと思われます。イエス様の弟子のヤコブは晩年の事は伝えられていません。マルコが福音書を書いている時、ヨハネは長老として、パトモス島に幽閉される前だったと思います。そしてヨハネはネロ皇帝の迫害を生きながらえて、最後まで主の証人として生きたようです。

 つまりペテロもヤコブやヨハネ達は、確かにイエス様を裏切り、皆逃げ去りました。しかし同時に復活のイエス様に支えられたのです。ペテロに至りては次に学びますが、イエス様の弟子たることを否定するどころか、イエス様のことを知らないということになります。弟子であることを否定しても、せめて知っている人ですと言っても逮捕されなかったと思うのです。しかし、全然知らないといいます。しかしこの大失敗は、イエス様が復活され、また弟子達に現れてくださった時、すなわちガリラヤで出会ったとき、本当の信仰の力になって行きました。そう言うことがあるのではないでしょうか。
 大きな失敗が用いられて、次の時には、また用いられるのです。ペテロが自分は躓きませんということ、皆が躓いても自分は躓かないという決断は、確かに尊い決断です。しかしそこには、やはり人間的な決断でした。人間が決断するのですから、人間的な決断であっていいのです。しかし、信仰においては、やはり聖霊の守り、主の守りに内に決断していくということがあるのだと思います。自分の決断の限界、自分の力を限界を知りつつ私達は生きて行くのだと思います。

 ペテロの「皆がつまづいても、自分はつまづかない」は正しい、勇敢な決意です。しかし、人間には絶対が言えません。言えるという人もいるかもしれませんが、人間は罪と限界と弱さを持って生きています。何度か言いますが、ある神学者が「キリスト者は、真剣さの一歩手前の真剣さで生きる者です」といいました。最後をイエス様に渡して、委ねることをおいて、真剣に取り組むということです。最後は、神様の御心がなる、神様の御心の空間を置いて決断し、生きるしかないのです。
 ペテロは頑張りました。心は正しかった。イエス様に真っ直ぐだったのです。しかし、自分の力に頼り過ぎで、自分の力でなんとかなると受け止めました。罪に気づかなかった。しかし不思議なことにこういう時は強い人が弱く、弱い人が強いのです。主に隙間を埋めて貰う。主の働きの空間を空けておく。ペテロはそれを教えてくれます。
 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、御名を賛美いたします。・・・御名によりアーメン」


  教会 説教   マタイ伝21章1〜11節        2021年2月28日
             「 主がお入り用 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第4週ですので、いつものようにバプテスト連盟の本日の聖書から聞くということで、マタイ伝21章から開いていきます。実は本日は、先々週2/17日からイエス様の受難節、四旬節ともいいますがレントになっております。毎年この時期にはイエス様の最後の1週間の報告から聞いています。本日は、イエス様のエルサレム入場は受難節にぴったしの聖書となりました。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1759人となり、この1週間では15人の感染、水木は2日連続の0人になっています。緊急事態宣言は東京と関東地区を除いて、明日から近畿圏、名古屋、福岡では解除になります。ただただこのまま行ってくれればと祈ります。私達のできることはマスク着用、アルコールの手洗い、密を避ける、睡眠を取り、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 さて本日は、皆さんが毎年、受難節毎に一度は読まれている聖書になるかと思います。又かという思いで聞かれる方もあるかもです。また今回は祈祷会の聖書箇所と同じです。祈祷会では本日の3節「主がお入り用なのです」が教会の殺し文句だよねと話したものです。多くの方がこの「主がお入り用なのです」に、自分の非力や能力の無さを越えて、教会の奉仕をなされ、また受けて来られたのだと思います。また自分も牧師ができるかと言う時に、はやりこの聖句に力づけられたのです。結論からいいますと本日のこの聖書の箇所の最後のメッセージは「主よ、私をこの子ロバにしてください、私を主の子ロバにしてください」それなのだと思います。

 さて1節から見ていきますが、イエス様ご一行は、最後のエルサレム訪問に来られました。ヨハネ伝から主は公生涯つまり伝道の生涯において3回、エルサレム訪問をされたようです。したがって主イエス様の伝道活動は3年ほどであったと言われています。これも何度か話しますが、私の学生時代の私の先生は「田渕君はクリスチャンになったそうだが、イエス・キリストは何年間伝道されたのか」と聞かれたことがありました。「先生、3年間らしいです」と応えと「え、たった3年か」と言われたものです。確かにたった3年間で、こんな大きな社会の問題、世界の宗教の問題になるのですから、人生は改めて長く生きればいいとか、長く務めればいいとかではない。与えられた使命をきちんと生きるの問題なのかもしれません。
 イエス様一行は、オリブ山沿いのベトファゲに来られます。マルコ伝11章を読むとベトファゲは、ベタニアの近くで、まさにエルサレムと言っても良いほど、エルサレム門前町のような位置だったようです。その時、イエス様は2人の弟子を遣わし「向こうの村に行き、繋いであるロバとロバの子が見つかる。それをほどいて私のところに連れてきなさい」と言われるのです。マルコ伝11章、ルカ伝19章、ヨハネ伝12章と4つの全福音書がこのエルサレム入場を書いています。ヨハネ伝だけは弟子が派遣されたことを書いておらず、イエス様ご自身がロバを見付けられたとなっています。
 イエス様に言われた弟子達は誰だったのかは書いてありませんが、半信半疑だったと思います。でもいつものようにペテロが「お言葉ですので、網を降ろして見ましょう」ルカ伝5章4節のように、2人の弟子は行ってみたのでしょう。するとイエス様の言われた通り、2匹のロバが繋いであったのです。そして3節には、もし誰かが何か言ったら「主がお入り用なのです」と言いなさいとなっています。マルコ伝とルカ伝は、続けて「すぐここにお返しになります」と書いていますが、マタイ伝にはありません。マタイ伝は全てのものは主のものであり、主に属するとの信仰があり、またこの所有者は主イエス様にロバを提供するという信仰だったのです。

 マタイ伝では、21章4節にはこのことが起こった聖書を書きました。マルコ、ルカ伝にはありませんが、引用された聖書これはイザヤ62章11節とゼカリヤ書9章9節の合作引用になっています。ここにロバとロバの子に乗るとあるので、マタイ伝は、連れて来たロバが2匹であって、ロバと子ロバが連れてこられたと7節には書いています。不思議なことにマルコ伝とルカ伝では1匹で「未だ人を乗せたことのない子ロバ」と説明を入れています。
 私達は、事実はどうだったのかロバは一匹だったのか、2匹だったのか。イエス様は2匹に同時に乗ることは出来ないので、子ロバに乗られたのか、親ロバか。果ては最初は子ロバに乗られて途中で落とされたか、疲れたかで、親ロバに乗り換えられたかと想像たくましくすることができます。福音書が一致しておらず、どちらにも取れるときは、福音記者は読む人の想像に任せるのだと思います。そして最初はまだ人をのせたことのない子ロバに乗られて、子ロバが疲れて動けなくなり、親ロバに交替したのかも知れないと思うと、まさにこれは教会の出来事でないでしょうか。何も分からずしてしてしまった新しいキリスト者の奉仕の出来事を、古いキリスト者が知恵と知識で乗り切ると言った類です。「主がお入り用なのです」はいろいろな所で用いられていくのだと思います。
 さらにこのマタイ伝の引用からは、5節の「柔和」が注目されています。柔和とは通常は、優しい人の意味で使います。しかし聖書では少し次元が違います。特にマタイ伝ではこの柔和がマタイ伝5章5節と11章29節に用いられております。そして本日の箇所で3回です。マタイ伝5章と11章からは単なる優しい人ではなく、抑圧されても抑圧されてもめげることなく、主の御心を探り、辿っていくイエス様の姿が重なります。柔和さとは、民数記12章3節では、前の口語訳では「モーセの人となりの柔和なこと、地上の全ての人に優っていた」となっています。共同訳では「謙遜」と訳しています。しかし、モーセの柔和さは民の罪を見て、神様から頂いた最初の十戒の刻んであった石を叩き割ったとあります。表面の柔和では、実はピンと来ないのです。しかし聖書の柔和さには、神の御心を求めて止まない姿があるのだと思います。謙遜と取るにしても、徹底した神様の御心への謙遜になるかと思います。
 モーセの姿は、その根底にいつも、神様の御心を求め、実践したいという謙遜があり、これが柔和となって示されるのです。一見ただの優しさの中に、実は神様のからの謙遜がある。そこを生きていくのが、イエス様を信じたキリスト者の姿ともいえるのです。

 6節以降は、ロバの子に乗られたイエス様をどう歓迎しているのかを報告しています。7,8節の服を道に敷いていくのは、当時の王様を迎える儀式のようです。木の枝を切って道に敷いたことから棕櫚の水曜日の出来事や棕櫚の木で、イエス様を歓迎する習慣が欧米ではあるようです。イエスさまはこのように群衆によって王様として、迎えられます。しかし実際にはもしこれが公になれば、ローマの総督ピラトが近くおり、不穏な動きとしてとり抑えられたかも知れません。過越祭にはこのような騒ぎの祭りのようなことがあり、総督ピラトも何かの馬鹿騒ぎと判断したのでしょうか。
 この群衆とは誰なのかです。私達は、イエス様がエルサレムに入られて、迎えられているのでエルサレムの住民かと思います。しかし、時は過越祭でした。いろいろな諸国から、ちょうどイスラム教のメッカの礼拝のように過越祭、仮庵祭、7週祭(ペンテコステ)の年に3度は、エルサレム神殿に来て礼拝するのを、イスラエルの民は習慣としました。いろいろな説がありますが、11節に「この方はガリラヤのナザレから出た予言者だ」という人があり、イエス様のことを、ガリラヤのナザレから出たと知っています。これはどうも、ガリラヤから来た人々の群衆の可能性が高いです。

 そして10節には「都中の者が『これは一体どういう人だ』と言って騒いだ」とあります。都中の者とは、エルサレムの住民としていいでしょう。するとちょうど、クリスマスの時、救い主イエス様の御誕生を尋ねて来た東の国の博士が来た時を重ねることができます。東の国の博士が救い主の誕生を探し当てて来た時、エルサレムの住民はヘロデ王と一緒になって、マタイ伝2章3節ですが「不安になった」とあります。救い主の誕生が起こったと聞いて、誰も喜ばないエルサレム住民とは一体どういうことであるのか。モーセ以来、ずっと救い主を待っているのに、その方が来られたと聞いて喜ばない。不安に思い、騒いだとされるエルサレムの住民とは一体何であるか。エルサレムの住民達は、神の民の信仰の使命を忘れ、ただ現状維持で、本当の救い主、真理を求める気持ちが無かったと言えるでしょう。

 言行録7章52節にステパノの殉教の時の演説があります。ステパノはイエス様を信じて反対する群衆からエルサレムで石打ちの刑で殺される時「いったいあなた方の迫害しなかった予言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは正しい人が来られることを予言者した人々を殺しました。そして、今やあなた方がその方を裏切る者、殺す者になったのです」と言いました。そこに重なるのです。
 私達は正しいことや本当の救い主が来られた時には、いつでも迎える姿勢でいたいものです。そして「主がお入り用です」と言われたらまず受けることです。もちろん全く自分に力が足りない奉仕もあるかもしれません。ピアノやオルガンを触れたこともない人に、主は、奏楽してくださいとは、主は言われないと思います。しかし私は、前の教会で、私の前の牧師さんの時に、奏楽者が転勤していなくなり、ほとんどオルガン・ピアノをしたことのない60数才の方が、一本指で奏楽しようとされたことを聞いたことがあります。青森出身で、戦争寡婦で5人子どもを看護婦をしつつ育て上げた方でした。やりすぎかもしれませんが、教会の奉仕は、それでいいのではとも思います。専門家でなくていいのだと思います。
 出エジプト記35章か36章にかけてモーセの幕屋建設の準備が書いてあります。不思議なことに、これに携わる人は「すべて進んで心から献げようとする者は」という自発の言葉が5回でてきます。幕屋建設は確かにモーセが進めたのですが、本当は進んで心から捧げようとする者達の集大成でした。それは「主がお入り用に応えようとしたもの」と言うことだと思います。そこには余り専門家はいらないように思います。マタイ伝は2頭のロバだったと報告しました。事実はマルコ、ルカ、ヨハネのように子ロバ一匹だったかもです。しかし、マタイはその側に親ロバが待機していたのを見たのでしょう。子ロバは親ロバがいつでも交替してくれるから、また最後までイエス様を運べたのでしょう。私達もそのように祈って行きたいと示されます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染が少し弱くなり、関東を除き、明日から緊急事態が解かれます。このまま行ってくれることを祈ります。続けて病気療養の方、ご高齢の方、入院の方支えてください。本日の建築の臨時総会を導きください。子ども園、児童クラブの先生、支援員、子供達を守り導きください。御名によって祈ります。アーメン。」

教会 説教   エゼキエル書24章15〜24節     2021年2月21日
              「 泣いてはならない 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて皆様と共に礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第3週ですので、いつものように旧約聖書から聞くということで、エゼキエル24章から開いていきます。本日は、エゼキエルのエルサレムの陥落の最後の預言と言われ、エゼキエルの妻の死を伴った預言になっています。予言者エゼキエルは、こうして自分の妻の死をもっても、イスラエルの民に語らなければ成らない預言者でした。主の召命とはいえ、本当に大変なことでした。しかしエゼキエルは、主に言われた通りにするのみでありました。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1744人となり、この1週間では38人ほどの方が感染になっています。先週で鹿児島の感染状況は、ステージ3から2に段階を下げています。病院のクラスターがありましたが、なんとか減少しています。緊急事態宣言も来週に、近畿圏では解除を要請すると言われています。このまま行ってくれればと祈ります。私達のできることはマスク着用、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 さて15〜16節にありますように、突然主の言葉がエゼキエルに臨みます。24章1節によるとこの預言は、第9年10月10日の事であったとあります。バビロンの最後のエルサレムの攻撃が、列王記下25章1節にありますが、まさにこの時、第9年の10月10日となっています。つまりこのエゼキエルの妻の死の預言は、バビロン王ネブカドネツアルが、エルサレムに最後の攻撃を仕掛けた時であったのです。列王記下25章によるとエルサレムのイスラエル軍は、総攻撃を2年間耐えました。しかしちょうど2年後の10月9日にエルサレムは陥落しています。つまり妻の死の預言、16節にある「私はあなたの目の喜びを、一撃を持ってあなたから取り去る」の預言は、まさに総攻撃の預言と重なり、エルサレムへの最後の預言となったのです。余りにもぴったしの時間であるので、これはエゼキエル書が編集された時に、総攻撃の時間と妻の死の時間を同じ時にしたのだという学者もいます。しかし、私達はイエス様の遠隔奇跡を知っています。イエス様が直ったと言われた時に、遠く離れた僕が直ったというのです。エゼキエルにもちょうどは、あったと思います。
 それにしても、神様はどうして、エゼキエルの妻といわずに「あなたの目の喜び」と言われたのか。いろいろな解釈があって、エゼキエルの妻はたいそう美しかったという説もあるそうです。しかしこれはエゼキエルの妻が美しかったかもしれませんが、そういうことを言っているのではないとされます。実は哀歌2章4節とホセヤ9章16節に同じ言葉がでてきますが、そこでは「愛している」と訳してありま。ここも「愛する者を取り去る」ということの意味です。

 次に主なる神様は「一撃をもって」エゼキエルの妻を取り去ると言われています。すごく厳しい言葉は、その訳の通りで、正に一撃なのです。ボクシングにボディブローというパンチがありますが、英語ではここをブローと訳されることもあり、正にその一撃です。民数記の他の箇所では、民数記14章には「疫病」と訳され、民数記17章では「災害」と訳されています。疫病と訳されるのである聖書学者は、エゼキエルの妻は、長いこと病気があり、それがこうじて死に至ったと取る人もあるそうです。しかしこれは間違いであろうと言われています。理由は分かりませんが、現代風に言ってみれみば、蜘蛛膜下出血のように、一撃で命が取られたのです。預言者エゼキエルに取っては一瞬の出来事であったのです。
 次に主は、妻の一撃の死について、3つの否定を命じます。それは「嘆いてはならない、泣いてはならない、涙を流してはならない」です。エゼキエルはBC597年の第1次バビロン捕囚で、バビロンに連行されて、バビロンにいる捕囚民の中で、祭司として働いていました。おそらくイスラエルの捕囚民は、ユーフラテス川の河川敷に長屋を作ってバビロンの奴隷として川の河川工事に、働いたと思います。エゼキエルは祭司として、バビロンにいながら、神様の御言葉を伝え、捕囚民のいろいろな出産、誕生、成人式、結婚式、葬式と祭儀をしていたと思います。それはおそらく妻の働きが非常に重かったでしょう。その妻の死亡に際して「嘆くこと、悲しむこと、涙を流すこと」を禁じられました。

 17節にある事柄は、当時の葬儀式のかずかずの悲しみの動作です。死者の喪に服すな。頭のターバンは当時のイスラエル人の服装であり、仕事着のようなものです。「ターバンを巻け」は普通の恰好をせよ、ということです。「足に靴を履け」というのは、死者が出たときには、裸足になって悲しみを表しました。しかしそれをするなと言うことです。口ひげを覆うとは、やはり死者が出たときに、イスラエルの人は口ひげを覆い、調度今私達がマスクをしていますが、そういう恰好になったのです。エゼキエル時代は、マスクはまさに近親者に死者がでたという印です。そして嘆きのパンは、日本でいったら精進料理です。死者が出たときに食べるパンです。これらのことは、死者が自分の親族に出た時には、必ず人々がなし、おそらくエゼキエルは祭司として、皆にそれを教える立場にありました。そして悲しみを共有して言ったと思われます。しかしエゼキエルは、まさに主なる神にこの悲しみの動作、所作を禁じられました。エゼキエルはただ一つ「声をあげずに悲しめ」という事だけしか赦されなかったのです。

 神様はどうして、エゼキエルにこのように彼の妻さえも用いての預言をさせるのか。エゼキエルは、自分の家族を用いての預言者になるのか。預言者の使命の重さにただただ驚くばかりです。最終的には、24節に「エゼキエルは、お前達にとって、しるしとなる」と言われています。つまりエゼキエルはその家族を、自分の妻を用いての象徴預言をしていることになります。私達はこれをどう受け取ればいいのでしょうか。当時、バビロンにいたイスラエルの民は、残されたエルサレム神殿とその残りの民の動向が一番心配だったと思われます。それは譬えてみれば、第2次大戦の時に、仕事でアメリカにいて戦争を迎えた人々を想像することができます。日本はこれからどうなるのかという心配と重なると思います。バビロンにいる捕囚民は、エルサレムがどうなるのか、エルサレムから帰ってくるバビロンの軍隊に様子を聞きます。又バビロンの王宮につてのある同胞からバビロン王宮が、エルサレムをどうするのか、僅かに流れてくる情報に一喜一憂したと思います。
 列王記によると第1次バビロン捕囚の後、バビロン傀儡政権のゼデキア王は、最初バビロンに恭順を示しました。しかし、エジプトの力がついて、時々バビロン軍をエルサレムから追い払うことがありました。エルサレムのゼデキア王の貴族の中に、親エジプト派の力がついてきます。そしてなんとゼデキア王の最後の統治時代には、親エジプト派に動かされて、破局にむかうのです。エジプトの力を過信し、バビロンに反旗を翻します。それはバビロンにとっては自分たちが建てた傀儡政権に反抗されるということでした。バビロンは全勢力を用いて、エルサレムを攻撃します。確かに2年間持ちこたえました。しかし、その反撃も空しく陥落します。
 そして、これはエレミヤもエゼキエルも言っている通り、エジプトの勢力に頼むことは、エジプトの偶像を多いに取り入れることであり、回りの国と交易を結べば結ぶほど、偶像がエルサレム神殿に持ち込まれ、満ちることになります。これは、モーセ以来のイスラエルの建国の精神、主なる神さまに反抗することでした。しかし、バビロンに連行された人々は今の様なラジオもテレビもありません。ちょうどミャンマーの軍事政権が通信を遮断するように、情報がイスラエルからやってくる商人や軍人に聞くしかありません。わずかの情報において、バビロン捕囚民の知るところは、もしかして、バビロンとの戦争に勝てるかもしれないということだったようです。

 それはエルサレム不落神話と言われて、エゼキエルから100年前に、予言者イザヤの時代に、エルサレムを囲むアッシリアの18万5千人の軍隊が滅び、(ペスト発生とされますが、列王記下19章35節でした)、エルサレムが奇跡的に救われた歴史でした。エゼキエルは、主なる神様から100年前の出来事はもうない。悔い改めない平安の予言者の預言は偽りであり、エルサレムは裁かれる、と聞いていたのです。エゼキエルは、バビロンによる完全な陥落預言を主なる神さまに聞くに付けて、妻の死をもって、預言していくしか無かったのです。

 19節にバビロンの捕囚民は、エゼキエルに妻がなくなり、喪にも服さない、葬儀の手続きを何もしないエゼキエルの様子を見て言います。「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と聞かれます。そしてエゼキエルは最後の預言、エルレムは完全に陥落する。神の裁きは成される、エルサレムに残っている民と息子、娘達は皆殺されると言う他無かったのです。

 これのことを私達はどう受けていくでしょうか。私は、キリスト者は、信徒、宣教師、牧師を含めて全て象徴預言に用いられるということだと思います。2つほど思い出します。1つは、戦争直後、宣教師達が、日本に一杯来ました。ある牧師の回顧録だったと思います。宣教師のお宅にいくと冷蔵庫があり分厚い肉が一杯入っていた。当時日本人は食べるのが大変な時代であった。これは一体何だと思った。これは大いなる躓きです。しかしこの牧師さんは、最後は福音を受け容れて、この事態を書いています。冷蔵庫に肉の入った宣教師さんは用いられたと思うのです。
 もう一つは、10年間前に肺ガンで亡くなれた作家井上ひさしさんです。面白い小説を一杯書かれました。自分の体験を書いておられます。この方は東北の方で、なんと父母が貧しく、弟さんと共に東北のラサール会の救護院に預けられました。なんとそこの修道士は、本国から送られてくる修道服を皆、自分たちは着ないで、子供達の服に仕立て直して着せてくれたそうです。井上さんは、後に信仰を捨てる棄教宣言をされるのです。しかし修道士達のその姿をみて、洗礼を受けたと書いておられます。
 冷蔵庫に肉が一杯はいって宣教された方、自分の服を全部子供服に変えて支えてくれた修道士、どちらも象徴預言だと私は受け取ります。ある福岡の牧師さんは、ガンの宣告を受けて、生きている内にとそれまで迷惑を掛けた方を尋ねる旅行を組み、それを済ませて天国に行かれたそうです。それを聞いてそこまでするか、と思いました。しかしこの先生の象徴預言だったと思います。私達はエゼキエルのように、主の恵みよって、性格も家族も、神様によって皆用いられていくしかないのだと思います。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。東北に地震が起こっています。どうか被災者を守ってください。コロナ感染が少し弱まりつつあります。守ってください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブの働きを支え導きください。御名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   黙示録6章12〜17節          2021年2月14日
              「 誰が耐えられる 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第2週ですので、いつものようにイエス様の弟子、使徒の手紙から聞くということで、長老ヨハネの黙示録6章を開いています。本日は、7つの封印を解く最後の6番目の封印の出来事です。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1706人となり、この1週間では53人ほどの方が感染になっています。金曜日の感染は13人が鹿児島市になっています。幼稚園のお母さんが「自分の職場で陽性者が出ました。私は部署が違うので濃厚接触者になりませんでした」と教えてくださいました。今私達は、本当にいつ感染してもおかしくない状態です。緊急事態宣言がでて全国的にも少しよくなっていますが、このまま行ってくれればと祈ります。私達のできることはマスク着用、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 さて本日は黙示録6章12節以降の後半部分で、7つの封印の内の第6番目の封印を解いたところです。この後、第7封印が解かれ、次に7つのラッパが吹かれ、さらに7つの鉢が地上にこぼされます。封印、ラッパ、鉢と次々にでてくるヨハネの幻は、ロシアのおもちゃのマトリューシカを思います。おもちゃを開いても、開いても、次々がでてきて、最後はどんなものがでてくるのか分からない。期待させて次々と先に進むというか読ませる技法かと、ヨハネの黙示録の幻の構成に驚くばかりです。
 12節にあるように、小羊イエス様が第6の封印を解かれると大地震が起こり、太陽が頭の毛のように黒くなり、月全体が血のようになったとあります。これらの出来事はすでにイザヤやヨエルや旧約聖書の預言者達が示していたものです。つまり世の終わり、最後の日のしるしとして起こる出来事を示しています。第6の封印では、まず天地のしるしが12~14節でしるされ、それから15節〜17節では、世の終わりにおける人間のあり方が書かれています。
 私達は世の終わりがまず、大地震、太陽と月の宇宙的な異変によって知らされることをここに読むことができます。巻頭言にも書きましたが、世の終わりの預言は、聖書の教えの中でも最も受け取りがたい、読みはするけど避けてしまう教えではないかと思います。幾つかの理由があると思います。1つは、世の終わりと言われましても、確かに宇宙的には、宇宙の年令がビックバンから135億才とか太陽の年令が後50億年迄とか、科学的にいわれます。しかし余りにも長すぎて、それは始まりがあれば終わりはあると思いますが、とても真面目に取り組む必要を感じません。そして2番目は世の終わりを言う前に、自分の寿命、自分の終わりが当然先に来るわけです。地球や自然界の終わりよりも、自分の終わりが確実に早いので、世の終わりと言われても、どう捕らえて良いかわかりません。
 そして、私達は何よりも最後とか終わりについては余り考えたくないのだと思います。自分のできることがほとんどないし、何をして備えるのかが分からないのだと思います。しかし、たまたまですが先週の日曜日の夜にNHKスペシャルで『未来の分岐点』というのをしていました。地球が滅びるとか言う前に、私達は自分たちから食料の分配に失敗して、飢餓を迎えて滅びるらしいです。持続可能な成長というか、SDGィーズに示される17の基本方針を実践していくことを唱えていました。それがどこまで妥当するかは、私はわからないのです。ただ世の終わりが天文学的にでなくて、意外と私達の身近にあるのは確かのようです。また思わぬ所から世の終わりが来るらしいです。それが、ある見識の経済学や科学で、計算できるらしいです。
 イエス様が世の終わりについて、4つの福音書全部に言われているのはなぜか。古代イスラエルの伝統の中に、イエス様は人と成られたので、イスラエルの伝承を担って世の終わりを語られていた。私も余り真面目に世の終わりについて聞くことは有りませんでした。しかし、第2次大戦でも日本が原爆を受けた時、広島の人も、長崎の人も原爆を知らなかったのです。戦争中でありましたが、原爆は突然落とされました。広島、長崎にとって原爆は世の終わりでした。イエス様の世の終わり、黙示録の世の終わりは、そういう類比があるのかも知れません。ドイツのユダヤ人虐殺のホロコーストの時も、一般ドイツ人は隣人のユダヤ人がなぜか突然いなくなっているとか、空き家になったとか、おかしいとかは気づいていました。しかし大量虐殺がなされているのは、政府の人しか知らなかったようです。

 13節には、「星が落ちる、それがイチジクの青い実が落ちるように落ちる」とあります。星が落ちるはずがないと私達は思います。しかし「当たり前のことが当たり前にならない出来事」と置き換えますと、私達の回りには、確かに当たり前のことが当たり前にならないことが多くなっているようにも思います。14節の「山も島も皆その場所から移される」とあります。これもまたエレミヤ4章、ナホム1章、エゼキエル38章に似たような預言があるのです。しかし、旧約の予言者達の世の終わりの預言を踏襲して、イエス様は引き継ぎ語っている、では足りないのでないかと思います。
 これらの世の終わりに一番近い現象は、やはり地球温暖化が考えられます。コロナ感染も元々は地球温暖化が原因かもしれないという人がいます。今は、非常に少ないですが、段々突き止められていくのだと思います。地球の温暖化は確かに、人間の罪であるかどうかは難しいです。しかし、欲望や便利さの追求がどうしても、炭酸ガスの増加となり、地球を暖かくする方向になるのは確かのようです。

 15節からは、これらの地球環境、天と地の異変に応えてなす人間の振る舞です。そこには7つの種類の人がでてきます。書いて在るとおり、王様、高官(貴族達)、千人隊長これは将校達です。富める者、力ある者、これらは政治を支配する者といえます。しかし残りの2つは、奴隷も自由な身分の者もあるとのことで、この世の終わりの現象を被るのは、自分の好き勝手している王や貴族、将校達、商人や権威あるものだけでありません。奴隷も入ります。全人類が同じように、この天地の異変の被害を受けるのです。これもまた、地球温暖化の被害と似ています。先ほどの世の終わりの飢饉の話しですが、確かにお金持ちは食料難の飢饉の被害をお金の力で最初は免れます。しかし時間の問題です。金持ちは、高い食料を買えるうちは良いのですが、無い食料を買うことはできません。先進諸国の人々は、相対的に食料が身近にあるので、実は全体的に食料が無くなっていることになかなか気づかないのだそうです。

 16節の山と岩に向かって「私達に覆い被さり、神様と小羊の怒りから私達を匿ってくれ」といいます。実はこれもイザヤ2章、19章、ホセア10章の預言にあります。御座に座る神様と小羊イエス様の怒りから、逃れられると思うか、予言者達のその時の思いはどうだったのかと思います。もともとパレスチナでは、戦争から逃れる方法は山に入って、岩の洞窟に潜むことでした。クムラン教団が、ローマ帝国との戦争からのがれるために、洞穴に逃げて、そこに聖書の写本を隠し、戦争が終わった後に、その場所が分からなくなりました。19世紀になって羊飼いがたまたま洞穴に石を投げる遊びをしていたら、カーンと瓶が鳴って、おかしいと行ってみたら見つかったという嘘のような本当の話があります。クムラン洞窟の聖書のイザヤの写本は有名です。
 ですから実際に戦争が起こると洞窟に隠れ、岩の隙間に逃げ込むという習慣があったのです。しかし黙示録では、これは神様の最後の世の終わりの時です。本当の世の終わりの時です。17節に有るとおり「誰がそれに耐えられるのか」はもちろん「誰も耐えられる者はない」ということを言っています。神様が来たらせる世の終わりの審判には、誰も耐えることのできる者はないのです。
 私達はこの第6の封印が解かれたら、まさに最後の審判の直前であり、最後の日にかかったということになります。しかし不思議なことに、第6封印は最後のそのものがありません。山と岩に向かい「自分たちに覆い被さり、神様と小羊の怒りから逃れさせてくれ」との願いはあるのですが、審判そのものの事態がないのです。つまり仏教で言うところの地獄絵、針の山や釜ゆで状態、火炎の中の状態がないのです。

 私達は次に、最後の第7封印を読むことになります。今日は読みませんが、黙示録7章の第7の封印を聞くことになるのです。黙示録7章3節には「我々が神の僕達に刻印を押してしまうまで、大地も海も木もそこなってはならない」となっています。つまり第7封印の世の終わりの最後の封印は、神の僕が刻印を貰うまで留め置かれるのです。ところでこの刻印ですが、やはり旧約エゼキエル9章4節にあるのです。ここには「あらゆる忌まわしい事のゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」となっています。そして6節「あの印のあるものに近づいてはならない」と主はエルサレムを破壊する天使に言っています。奴隷制度のあるところでは奴隷に焼き印をおして、所有者を明らかにしたと言われます。そのように、神様は自分の所有を明らかにするために刻印を押されるというのです。初代教会ではこの刻印を、主イエスの名によるバプテスマと受けとめました。
 私たちは改めて最後の日を創造される方、最後の審判をされる方、神の小羊は、神様が私たちを愛し、十字架についてくださった神であることを知らされます。最後の審判は、十字架に付かれた主がなさるのであります。つまり聖書の神の審判は「ある者たちに報い、ある者たちを、裁いて罰すること」でないのです。聖書の神の裁きは、むしろ「秩序を造り、破壊されたものを回復する」働きです。ですから一見黙示録の裁きは、第6封印を見ると報いて、裁き、罰するように書かれます。しかし第7封印においては、神の僕たちに刻印を押されるまで、大地も海も木も損なわれません。

 神様の審判道具、剣と疫病と飢饉すなわちコロナ感染は、最後は人類を滅ぼすことができないのです。主は、コロナ感染を何かの秩序を造り、何か破壊されたものを回復するために用いておられるのです。世界で、すでに1億人以上が感染し、236万人がなくなっていいます。しかしコロナは人類を滅ぼすことはできません。なぜなら十字架の主、イエス様をこの世に送られた神様が、すべてをみ手に置かれているからです。主なる神と小羊イエス様の怒りは、世の秩序と破壊の回復のための裁きなのです。私たちは疫病を通して、何かを受けるのだと思います。コロナ感染と戦う医療関係者、そして手配をする保健所、罹患して病気と闘う方、その為に祈ります。私たちはこの時期、なすべきことをきちんとして、主の取り扱いを信じ歩むことが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。主は世界審判の主です。しかし罰を与え、報いるための審判をなさいません。創造の秩序と破壊の回復の為になさいます。感染が少し収まりつつあります。どうか、戦っている方を守り、導き、支えてください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブを支えてください。み名によって祈ります。アーメン。」


 教会 説教   マルコ伝8章1〜10節          2021年2月7日
              「 賛美の祈り 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第1週ですので、いつものように福音書から聞くということで、マルコ伝8章を開いています。また短縮ですが主の晩餐も受けて行きます。
 さていつものようにコロナの感染者数をみますと、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1653人となり、この1週間では54人ほどの方が感染になっています。非常事態宣言がでて全国的にも少しよくなっているようです。このまま行ってくれればと祈ります。いつもいうように、私達のできることはマスク、アルコールの手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、感染対策をなし祈りつつ歩みましょう。

 本日の箇所は、マルコ伝8章のパンの増加、4000人の給食と言われるところです。実は6章30節以下に5000人の給食がありました。つまりマルコ伝は2回続けて、イエス様のパンの増加の給食の出来事を報告していることになります。実は5000人の給食と4000人の給食はマタイ伝にも14章とマタイ伝15章と2回なされております。そしてルカ伝9章では5000人の給食のみ報告され、ヨハネ伝6章でも5000人の給食が報告されています。つまりイエス様がなされたパンを増やされる奇跡は、マタイ伝2回、マルコ伝2回、ルカ伝とヨハネ伝に1回ずつで福音書に全部で6回もあることになります。つまり福音記者は、少し強調していえば、このパンを増やされる給食の奇跡を、十字架と復活よりも十字架と復活の出来事としてはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのそれぞれの一回ずつで4回ですので、それよりも多く報告したという事になるのです。まず改めてどうして、なぜ、福音記者マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは、このパンを増やされる奇跡をこれほど大事にして、報告したのかが問われます。
 正直言って、現代にいる私達は、イエス様がパンを増やされ5000人、4000人が満腹する奇跡が、そんなに大事なのかがよく分からないのです。もちろん戦中派の方や戦後の混乱期の食糧難の記憶のある80代や70代後半の方は、これはすばらしい奇跡だと素直に感動されるかもです。しかし私は1956年、昭和でいうと30年代の生まれです。正直家族や親戚がパンがなくて困っているという体験がほとんどありません。むしろ今、子ども食堂の働きに象徴されるように、もしかしたら今こそ、子どもの貧困問題が言われており、パンを満腹に食べた事がない子ども達が、実は身近にいて、このイエス様の奇跡に感動を覚えるのかも知れません。

 1節にあるように、この奇跡が起こったのは「群衆が大勢いて、何も食べるものが無かった」となっています。2節をみますと何と群衆は、3日間、イエス様のお話しを聞いていたようです。イエス様と弟子達の近くにいたと報告されています。3日間というと、昔の私の信じたころの45年前の教会の伝道会、伝道集会は、金曜日の夜から始まって土曜日、日曜日の主日と確かに3日間、教会に来られた先生の話を聞きに行きました。しかし今は土日、いや日曜日だけが多くなっています。金土日と3日間するところはもう余り聞いたことがありません。そして45年前は、伝道会は夜だけでした。時々、土曜日の朝の集会があって、青年会やら女性、壮年会の集会があったくらいだったでしょう。ですからお話しを聞くと行ってもせいぜい賛美歌や交わりをいれてもせいぜい2〜3時間くらいだったでしょう。その時間以外は自分の家に帰り、また仕事のある人は仕事が終わってきたものです。
 しかしこの4000人の人々は、イエス様の話を3日間、3節には「遠くから」、4節には「人里離れたところ」から来て、イエス様のお話しを聞いたのです。まずこの熱心さに驚き、3日間もイエス様のことばを聞こうとする当時の熱意というか、霊的な飢え渇きに驚きます。私達はこの4000人の給食の報告で、聖書の言葉を3日間ぶっ続けて聞きたいと思うのか、とまず自分が問われます。そして、このような熱心さはもう今は期待できないのでないかとも思います。しかし、そうでもないかも知れません。今、橋口姉がインストラクターをされている親業会の方が3名、聖書の話しを聞きたいと言われて、3回目の学びを終わりました。私は、実は1,2回でもう良いですが、と言われると思ったのです。でも4回目と5回目の日程を決めました。子ども食堂の子供達はこの奇跡が分かり、喜びが分かるかもしれないといいましたが、聖書を改めてきちんと聞きたいと言う方も、神様は起こしてくださるのです。

 4節にあるように、イエス様は「空腹のままに家に帰らせると途中で疲れきってしまうだろう」と言われました。実は、マルコ伝6章の5000人の給食の所では、弟子達がマルコ伝6章36節に「人々を解散させてください。そうすれば、自分で回りの村や里で何か食べるものを買いにいくでしょう」と言っています。つまりパンを与える奇跡の主導は、5000人の給食の方では、弟子達になっていますが、4000人の給食ではイエス様であり。私達はイエス様が主の祈りを教えられる時に言われたマタイ伝6章7〜8節「異邦人のようにくどくど祈るな、・・・あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知である」ということを思い出します。この4000人給食においては、イエス様の方から「空腹のままに帰らせてはならない」と必要を知り、言われて奇跡を準備されていることが分かります。
 しかし弟子達はすでに5000人の給食を体験しているにも関わらず、前の時と同じように「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるのか」と言っています。5節にイエス様は「パンはいくつあるか」と聞かれて、弟子達は「7つあります」と応えています。ここの対話も5000人の時の給食と同じです。5000人の時もイエス様が「パンはいくつあるか」というと弟子達は「5つあります。それに魚が2匹です」と答えていました。比較しても余り意味がありませんが、5000人の時は5つのパンと2匹の魚から男ののみ5000人が満腹し、4000人の給食の時は7つパンと少しの魚から男女の4000人が満複していることになります。奇跡の力としては、5000人の方が大きいとは言えます。

 6節からは奇跡の場面です。ここも5000人の給食とほぼ同じです。イエス様は人々を座らせて、7つのパンを取り「感謝の祈り」を唱えて、弟子達に配らせます。ここにはイエス様から弟子達へ、弟子達から群衆へというパンの動きがあります。7節は、魚に対する奇跡になって、これも5000人の給食と同じです。まずイエス様が魚を今度は「賛美の祈り」をなされ、それから弟子達に配らせています。実はこの感謝の祈りと賛美の祈りですが、いつも使う主の晩餐の制定句の第1コリント11章23節からのことばとほぼ全く同じになっています。つまりパウロは、このイエス様がなさった4000人、5000人の奇跡を元にして、主の晩餐を伝承していると言えるのです。つまり主の晩餐は、その名の通り十字架に引き渡される前の夜の出来事ですが、実はその背後にはさらに主イエス様と共なる4000人、5000人との給食があったのです。主の晩餐に4000人5000人の給食があるということは、そこに群衆が皆弟子達と共に、イエス様と食事をすること、そして奇跡を体験することが入っていたと言えます。もっと言うとこの4000人、5000人の中にはまだイエス様のことをよく知らない、しかし3日間も、み言葉を求めている人々がいたということです。主の晩餐を受ける資格があるとすれば、実はこの熱心とも言えるのです。今日の出来事は主の晩餐の受領の境界線をどこに引くのかがかかっています。しかしこれはまた別の問題とも言えます。

 8節にあるように、イエス様の増やされたパンを食べ、その増やされた魚を食べて、その残り物を集めると、7つの籠になりました。いろいろな意味が言われています。しかし単純に4000人が食べてなお余った。すなわちイエス様の祝福は4000人に一杯で、なお有り余る祝福であることを、示し証明しています。そして9節には、4000人の人がいたとあります。6章の5000人の給食の時は「男が5000人であった」とあります。ですから6章の方は男女合わせると1万人になったかもしれません。6章では男だけ数えて、8章では男女を数えるのはなぜか。またもしかしたら8章は書いてないけど男だけの4000人だったのか。よくわかっていません。当時の習慣からは、男だけで4000人だったかもしれません。しかし主の福音の性質から「神の前に男も女もない」からは8章では男女を数えたともいえるでしょう。そうなると6章の給食よりも、8章の給食はだいぶ規模が小さかったとも言えるかもです。

 しかしそれにしても、なぜ、マルコ伝は又マタイ伝もそうですが、2回もイエス様のパンを増やす給食を報告したのかです。2つのことが言われています。1つは、やはり主なる神様イエス様の圧倒的な奇跡の力です。イエス様は本当に神の子の力を持っておられて、まことの神であり、その力を示されたのです。神の子であることを5000人と4000人の給食で示されたということです。パンを増やすのは、マタイ伝4章3節のイエス様の荒野の誘惑では、最初の試みでした。サタンは言いました「これらの石がパンになるように命じてみよ」。これは、パンの問題を解決できれば、これは神の子であるというのは、サタンが言わなくても、いやサタンが言うように大切な神の子のしるしなのです。そして、イエス様はモーセがマナをもってパンを降らせたように、今ここで必要なしるしをされたということです。

 もう一つは、このすぐ後に問題になっていますが、弟子の無理解、無信仰です。なぜマルコは2回も同じことを書いて、2回目もほぼ一回目と同じ奇跡なのに、同じ不信仰が何日も経たないうちに起こっているのに、弟子たちが全くイエス様の力を悟らず、その力と権能を信じないのか。その不信仰は全く不思議です。しかし事実、現実です。ここのパンの増加の給食で私たちが知るべきテーマは、不信仰であるということです。私たちは不信仰を生きているのです。私たちは常にいつまでも高慢であり、いつまでも不遜であるのです。私たちは罪の中に生きているのです。
 私たちはコロナの感染の中にあります。理由はわかりません。科学的な理由は、WHOの調査班が中国の邪魔を通ってなんとか出すかもしれません。しかし本当の理由は何であるのか。神様は、天地を創造されたら機械仕掛けの神であって、そのまま自然界の法則に委ねて、このコロナ発生には全く自ら責任をもっておられないのか。確かにこの信仰は、神様を守ることができます。しかし私は足りないと思います。ヨブ記によると神様の赦しなしには、何も起こりません。たまたま祈祷会ではマタイ伝10章26節以下でした。そこには「雀一羽、髪の毛一本が、神の赦しがないと落ちず、抜けない」とあります。神様は摂理の神様です。これは危ない信仰かもしれません。しかし、全精力をもって神様を信じる時には、はずせない信仰と思うのです。十字架の神様の語り掛け、恵みの主の語り掛けを私たちは、今、聞いていくのだと信じます。

 祈ります。「天の父、主なる神様、み名をあがめ讃美します。主は力ある主です。求道の方を支え、コロナ感染の中で、医療関係の方、保健所の方、また職を失った方を支えてください。教会の病気療養の方、ご高齢の方、弱っている方支えてください。会堂建築を支えてください。子ども園、児童クラブの働きを守り導きください。み名によって祈ります。アーメン」
 教会 説教   ヨエル書3章1〜5節          2021年1月31日
              「 残り者はそこに 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も御言葉に聞きつつ、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第5週ですので、自由に選ぶ聖書という方針で、ヨエル書3章を開いてみました。特に大きな理由はないのですが、先々週YMCAの運営会に参加して「老人は夢を見、若者は幻を見る」が、非常に示されました。80を越え、80近く成られても、このコロナ感染下でも鹿児島にYMCA運動を広めたいという運営員の方々の熱い信仰に感心したところです。

 さて新聞・テレビが伝える通りですが、鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1599人となり、1週間では101人ほどの方が感染になっています。鹿児島はステージ3になりましたが、鹿児島は少し良くなっているように思います。沖縄の宮古島のクラスターが放映されていて、島は病院が限られており、大変だなと祈るのみです。私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。

 さて聖書は、ヨエル書3章を開きました。ヨエル書は、旧約ヘブライ書の中では12小預言書に入ります。ホセヤ書、ヨエル書、アモス書と続きますので、私達は滅多に読まないと思いますが、それでもその位置はホセアとアモスに挟まれており、重要性が大きいです。実際に新約聖書では、言行録2章17〜21節に引用され、ペンテコステ聖霊降臨を預言した聖書となっています。又、なんと言っても本日の5節は、パウロのローマ書10章13節の「主の名を呼び求める者は全て救われる」に引用されており、パウロの信仰義認の根拠となる聖書になっています。旧約聖書ヘブライ聖書は、もともとキリスト・イエス様の出現をその時は、預言の形でしか知らなかったのです。しかしイエス様が来られてみると、このヨエル書は、使徒言行録の聖霊降臨の預言とパウロの信仰義認の預言となり、改めて当然ですが、新約聖書からは無くてはならない預言者であった事になります。
 私達は改めて、ヨエルの預言がどのような時代の預言であり、どのような未来、将来を描いていたのか、聞いて行きたいと思います。しかし12預言書の中でも、実はヨエル書は、その歴史性と預言者ヨエルの人となりが、全く分かっていないのです。アモスは羊飼いの預言者、ホセアは北イスラエルのレビ人説があります。しかし預言者ヨエルはその人となりが全く分かっていません。というか4章しかありませんので、そこからヨエルの人となりを見ていくのは難しいのです。さらに旧約聖書を読み解くには、時代背景が必要なのです。しかしこれもなんと紀元前7世紀のそれこそアモスやホセア時代の預言者とする説と、なんと5世紀の預言者マラキやゼカリヤ時代の第2神殿時代のさらに後において、ヨエルが最後のマラキよりも後の預言者だとして紀元前4世紀に置く説もあります。ヨエル書の書かれたのは、最初から最後まで300年の開きがあるのです。これは正直困ります。

 しかし、こういうあまりにも謎の多い預言者は、返って神の言葉としては、良いのかもしれません。下手にこの人は、羊飼いだ、レビ人だ、祭司だと分かるとそれに捕らわれ、そこに引っ張られて聞いてしまうことがあります。時代もよく分からない、何をしていた人かも分からない。となると私達は、ヨエル書そのものを読むしかありません。しかしこれは、伝道でも同じことが言えるかもしれません。皆さんも、伝道会、聖書講演会等に出た時に、私はこうして救われました、こんなことがあって救われました、こんなことがあって導かれました、と聞いて驚き、びっくりして、神様は素晴らしいと帰ってきます。しかし、聖書のことばは何も覚えていない。イエス様の言葉もイエス様の業も何も語られなかったということがあります。
 ぼそぼそして、眠たかった。ちっとも面白い話しでもびっくりする話しも無かった。でも、イエス様がああされた、こうされた、聖書はこう言っていることがちゃんと頭に残ったとなると、これはもちろん後者の方が、神様は喜ばれると思うのです。ヨエル書は、確かにその時代やその人となりの話しができない。それは具体性を欠いていて面白くない。しかし、神様はこう言われるが残った、それでいいのであります。

 1節にあるように、ヨエルは突然「私は全ての人に我が霊を注ぐ、息子、娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見、2節、奴隷の男女にも我が霊を注ぐ」と言いました。前後関係がよく分かりません。1,2章のとの関連でいくと、いつの時代であるのか、イスラエル地方は時々イナゴの大群に見舞われています。そのどこかの時代のイナゴの大群が押し寄せた時でした。ヨエルはこのイナゴの大発生で、イスラエルが被害を受けた時、イザヤが預言していた終わりの日と、イザヤが預言していた聖霊の注ぎを示されたのです。つまり預言者ヨエルは、イナゴのイスラエルのへの大襲来を、神様の世の終わり、神の日の到来のしるしとして主に示され、受けました。
 そして、本日の「霊を注ぐ」ですが、これもまたイザヤ32章やイザヤ44章にあります。終わりの日に、神様は聖霊を注がれるというのも、実はイザヤの預言にあったのです。ある意味で、私達はコロナ感染の疫病の時代の中にあります。これもまた、取りようによっては、神様のしるしともいえるでしょう。もちろん現実に医療関係者は大変な状況にあり、苦しむ人々に保健所や公的機関でコロナ感染に対処している人々があります。私達はできるだけ対策に協力し、祈り、感染の収束を祈ります。しかし一方で、神様のしるしは何かと問うことは残ると思います。
 イエス様のお弟子さん達は、このヨエル書の霊を注ぐ預言を、自分たちに注がれた聖霊降臨の出来事と受け止めました。そして、神様が新しい業をなされ、新しい時代を開始されると受け止めたのです。そしてそれまで、隠れて自分の部屋や自分の所に留まっていた弟子達は、ここからイエス様の十字架と復活の出来事を伝えよう、罪の赦しの福音を伝えよう、主がいつもインマヌエル共にいてくださることを伝えようと出て行ったのです。ヨエルの預言は、聖霊降臨を神様のものとして、神様の計画として受け止める道を示しました。ヨエル書の預言によって、聖霊降臨は教会の誕生日になったとも言えます。
 私達は聖霊降臨日以後にいます。そして今一度ヨエル書開くとき、特に2節の「奴隷となった男女の僕にも」とあるところを読みます。神様は改めて、聖霊を注ぐに何の区別もされない。本当に全ての人に聖霊が下ると読むことができます。そして聖霊は、老人も若者も奮い立たせるのです。教会は若い人がいないという嘆きが、どこに言っても聞かれます。しかしどうなのか。旧約聖書においては、アブラハムは75才にて、モーセは80才にしてそれぞれの自分の故郷を出発し、自分の使命を受けています。聖書の場合は確かに長寿で、今の年令とそのまま一致させて良いのかがあります。しかし、それにしても族長たちの姿は老人です。モーセの弟子ヨシュアは110才迄働いて召されて死んでいます。110才まで働かせるな、と怒られますが、確かに健康や記憶や気力、体力の衰えは仕方ないです。しかし、もし主に用いて頂く賜物が、まだその人にあるのであれば、75、80,110才もまた主が用いてくださるといえるでしょう。私達は「自分はもう何歳になりました。もう賜物を用いることを止めさせてください」という祈りでなく「主よ、ここはまだ主に献げられそうです、どうか足りませんが、使ってください」という祈りになっていくのだと示されます。

 次に3~4節には「天と地にしるしを示す」とヨエルは言います。しるしは、常に神様を知らせる出来事です。続けて「血と火と煙の柱」とありますが、これは出エジプトの時のしるしです。血は、過越祭のはじまり出エジプトの最後の奇跡となった小羊に血を玄関の柱に塗ったことです。これを無視したものの家の人間から家畜に至まで初子が殺され、イスラエルが奴隷状態から、自由へと出発したことです。火は、シナイ・ホレブ山において、モーセの十戒を受けたことです。神様は私達人間が、また被造物がいかに生きていくべきかを、モーセの十戒を通して示されました。それは一言でいうとイエス様がまとめられた「神を愛し、隣人を愛せよ」ということでした。
 十戒において教えられてみると他愛のないことかもしれません。しかし「神を愛し、隣人を愛して生きる」ことが、この世において私達が幸福を満喫し、主に召されるまでにこの世で果たしていくことであります。次の煙の柱もまた、イスラエルをシナイの半島の砂漠の中で導いたしるしです。主はイスラエルの民が迷わないように、雲の柱、煙の柱となって導いてくださるのです。これらはまた主の十字架の贖いの血でもあり、主の教えの火であり、また聖霊の導きである柱ともいえるでしょう。主イエス様の十字架の血に委ね、モーセの火の律法に教えられ、具体的な聖霊の導き雲の柱を受けて、この世において、主を告白しつつ歩み、進むとも言えます。

 その時、4節のように、太陽は闇に、月は血に変わる天変地異が起こっても、私達は恐れることはありません。ちょうど今コロナ感染の最中です。現実に怖ろしいです、いつ自分が罹るかもしれません。ただし、恐れることはありません。主がインマヌエルしていてくださり、たとい感染して召されたのとしても、なお、主が共にいてくださるからです。

 5節には「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」とあります。パウロはこれをローマ13章10節に引用しました。パウロはここを信仰義認として受けて、何の業もしておらず、何も功績がなく、何もなしていなくても、なおキリスト信じることただそれだけで、主は義としてくださるとしました。「口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」としています。私達のあり方を、深く見つめる時、自分の罪を見るとき、自分の業は何も誇るものがなく「私はふつつかな僕です。なすべきこと成したにすぎません」とただ主がさせてくださったと感謝しか言いようがないということです。

 最後にヨエルは「主が呼ばれる残り者がそこにいる」としました。残り者の信仰は、聖書ではとても大切です。イザヤ、エレミヤ、ミカ、ゼカリヤに良くでてきます。神様はイスラエルを裁きに置きます。アッシリアにバビロンに、シリアに、ローマ帝国、イスラエルはいつも滅ぼされ掛けます。しかし、そこに残り者があるのです。そして主は、アッシリア捕囚、バビロン捕囚、シリアの文化政策、ローマの支配の時も、いつも残り者から再出発されるのです。残り者はいつも信仰が熱いとは限りません。信仰はギリギリの時もあります。しかしそこから主は聖霊を送り、また信仰を起こし、導かれます。私達もまた、この時代に主の聖霊を受けて、主のめぐみに歩むことが赦されているのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。コロナ感染の中にありますが、どうか、コロナに関わる関係者を守ってください。罹った方を支えてください。教会の病気療養の方、ご高齢の方々支えてください。会堂建築を守り導きください。子ども園、児童クラブと保育が続いています。先生方、子供達を守り、み手においてください。1月が終わり、明日から2月の歩みになります。どうか、2月の歩みをみ手においてください。御名より祈ります。アーメン」



 教会 説教   マタイ伝8章5〜13節          2021年1月24日
              「 これほどの信仰 」
 おはようございます。本日も、主に赦されて礼拝ができますこと感謝です。本日も1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第4週ですので、いつものように連盟の聖書教育誌の本日の聖書から聞いていきます。連盟の聖書教育誌では、今年の1〜4月までマタイ伝を学ぶ事になっています。こんなに長い期間一つの書の学びは珍しいですが、マタイ伝という大切な聖書だからということだと思います。
 さて新聞・テレビが伝える通り、とうとう鹿児島県も昨日から警戒レベルをステージ3にしますとのことです。関東や近畿、、名古屋、福岡のような緊急事態宣言ではないですが、それに近い警戒を行ってくださいとのことです。鹿児島県は一昨日で感染者の合計数1498人となり、1週間では165人ほどの方が感染になっています。しかし他県に比べると鹿児島県は、コロナ病床の使用率とか重傷者数は、かなり低いです。しかし用心に越したことがありません。私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。

 さて聖書は、マタイ伝8章5~13節の百人隊長の僕を癒すという出来事になっています。ここは大きく分けると遠隔奇跡と言ってイエス様が遠くにおられて、人々の病気を癒される奇跡のところになっています。この百卒長の僕の癒しは、ルカ伝7章にもほぼ同じ報告が成されており、またヨハネ伝4章46節以下にもカファルナウムの王の役人の息子の病気の癒しが、やはりイエス様による遠隔奇跡で報告されています。イエス様がカファルナウムでなされた出来事が、よく覚えられていて、マタイ、ルカ、ヨハネと伝えられたようです。ただマルコ伝には伝えられておりません。
 又、良く読むとルカ伝7章とマタイ伝8章は違うところもあります。マタイ伝では5,6節に、百人隊長が直々にイエス様に「自分の僕を癒してほしい」と懇願しています。ところが、ルカ伝7章では、百人隊長が直々にイエス様に懇願するのでなくて、ユダヤ人の長老達を、使いにやってイエス様に懇願しています。どちらが本当だったのかは難しいです。直々に百卒隊長が頼んだとすれば、その並々成らぬ気持ちが伝わってきます。しかし百人隊長は、ユダヤの慣習を良く理解していたとすれば、異邦人である自分が、直々にイエス様に近づき懇願するのは、自分の汚れをイエス様に移すことになるかもしれないと用心して、長老達を介して頼んだかも知れません。
 7節には、イエス様はこの百人隊長の願いを聞いて、まさに直ちにすぐに「私が行っていやしてあげよう」と言われています。イエス様らしいというか、すぐに躊躇なく行動される主イエス様の姿が現れています。しかしルカ伝では、長老達がイエス様に「あの方はそうするに相応しい方です。私達ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と進言しています。この百人隊長は、ローマ人かシリア人か分かりませんが、ガリラヤ地方に赴任させられ、軍人としてユダヤ人の生活を見ました。そして、ユダヤ人の律法を理解するに連れて、毎週の礼拝とその生き方に感動し、会堂までも作って寄進してくれたようです。歴史上、ユダヤ人に成らないがしかし会堂の回りに信仰をもって同情をもって生活する人々を「神を恐れる人」と呼んでいました。そして実はこの人々が、イエス様を信じて行ったのです。
 ユダヤ人は西洋の歴史では『屋根の上のバイオリン弾き』やセークスピアの『ベニスの商人』にあるようにユダヤ人ゲットー(集まり)を作り、回りの人々になじまず、嫌われ者です。しかし、それでも歴史に生き残って来たのは、聖書を生活の中心において、毎週礼拝を献げ、一生懸命人々を助け、聖書の示す隣人愛の生活をしていたことが、やはり異邦人には一目おかれたと言われています。ルカ伝7章からはそのようなユダヤ人の姿が、浮かんできます。

 8節には、マタイ伝ではすぐにイエス様の答えを遮る形で百人隊長は「私はあなたを自分の屋根の下におむかえできる者ではありません」と応えています。そして「一言、おしゃってください」と言っています。ルカ伝の方では、イエス様は暫くこの百人隊長の家に近づいて歩み行かれます。そしてその家に近くなってから、百人隊長は気づいて「私はあなたを自分の屋根の下に迎えることのできる者ではありません」と答えています。ルカ伝の記述ですと百人隊長は、まさかイエス様が直々に来てくださると思いも寄らず、遠くから来られるイエス様を見て、びっくりして言ったということでしょうか。ルカ伝の報告もまた同じように「一言おっしゃってください。そして僕を癒してください」となっています。
 どちらにも共通しているが「一口、言ってください。そうすれば僕は癒される」です。ここには、全くの信頼をイエス様に置いていること、イエス様の一口で、全てがなるという信仰を持っていること、この百人隊長の信仰が明かです。百人隊長は、創世記1章の「主は、光れあれと言われた、すると光があった」を思い出しているのでしょうか。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは全て添えて与えられる」マタイ伝6章33節を思い出しているのでしょうか。「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」マタイ伝10章30節を、思い出しているのでしょうか。ともかく百人隊長は、神様の摂理と神様の揺るぎない支配を、すっかり信じ、すっかり頼んでいるのです。

 9、10節には、隊長の信仰告白といえるでしょう。「自分も権威の元にあるです。」と答え「自分の下に兵隊がいます」としています。「一人に『行け』と言えば行き、他の人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えばします」と答えています。百人隊長は全く自分の体験から、権威の元にあるもののあり方から神様のあり方を推測しています。皆さんも聞かれたことがあると思いますが、ローマ帝国は確かに、黙示録ではバビロンと言われ、野獣と言われ、蛇や龍と言われて、淫婦とさえ言われています。聖書では、全く良いところ無しの帝国のように聞こえます。紀元70年にはユダヤ戦争がおこり、エルサレム神殿はバビロン捕囚から再建されましたが、又も破壊されました。
 しかしローマ帝国は実はローマ法という法をもって国を支配する歴史上最初の国として起こりました。マタイ伝8章の百人隊長は、ローマの軍隊の中でもイスラエルのガラテア地方を治める末端の軍隊です。言ってみればローマからはまさに極東の端と言うことになります。しかし、それでもローマ人兵として、ガリラヤに派遣されたならば、このようなきちんとした上下関係を持って動いていたのです。
 そして、この百人隊長は、自分のその体験をもって、神様の支配を推し量り、イエス様が神の御子とすれば、全宇宙、全世界がその支配の中で動いていると理解しているのです。ある意味でこの百人隊長の信仰は「生ける信仰」とかと思います。生ける信仰と言えば、私が導かれたのは、沖縄の首里教会でした。何度か語りますが、私を導かれた、お菓子問屋を生業としている一人の兄弟がおられて、祈祷会の常連さんでした。沖縄のさらに南の宮古島というところの出身でした。この方がある時、救いの証しをしてくださったのです。導かれて、教会に集うように成った時にある新興宗教からの誘いを受けた。もし断ったら商売ができなくなる。仕方なしに集会について行った。すると折伏(しゃくぶく)が始まりました。この方小学校しかでてないので言葉は得意でないのです。「お前の信じている神様は外国の神様だろう、おかしいのでないか」と言われた。その時、まだ教会に浅かったのですが、聖書で聞いたか、牧師から聞いたか、ひとつの言葉が出てきたそうです。「私は生ける神イエス様を信じているのです」と答えてしまった。するとなんということでしょう。それに対して誰も反論できず「生ける神」という言葉が、その宗教には無かったらしいのです。
 偶然と言えば偶然かもしれない。どうしようも無かったかもしれない。学歴はない、地位もない。言葉も知らない。だけど、最も肝心のことを知るというのはあるのだと思います。この百人隊長もまた、イスラエルのガリラヤ、カファルナウムに派遣されるくらいですので、もしやローマで何かやらかして左遷だったかも知れません。とてもローマ兵の昇進街道のまっただ中では無かったと思われます。しかしユダヤ人の黙々とした毎週の礼拝を横で見た。ユダヤ人なりの聖書の実践と隣人愛を見ていたのだと思います。そして、自分たちローマ人よりもよほど幸福に暮らしていると分かったのだと思います。そしてユダヤ人に会堂を寄進して上げたのです。

 私はいつだったかアフガンの中村哲先生が、イスラムのモスクを作られている姿のテレビ映像をみたことがあります。「イスラムの長老達に頼まれた」と言われていたのが印象に残っています。キリスト者なのにけしからんでなくて、モスクがアフガンのこの土地の人達に必要だと思われたのだと思います。

 そして、異邦人ローマ人の百人隊長の言葉を聞いて、イエス様は「イスラエルの中でこれほどの信仰をみたことがない」と言われたのです。そんなことはない。イスラエルはモーセの時代から聖書を読み、聖書に従い、神様を証ししてきました。百人隊長は異邦人でまだユダヤ人にもなっていない。聖書の知識もほとんど無い。しかし生ける信仰を持っておられたのです。
 11、12節は信じられない宣言です。「東から西から大勢の人間が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着いた時、み国の子らは(これはイスラエル人です)、外の暗闇に追い出され、泣きわめき歯ぎしりする」。これは信じられない宣言です。これは全くあの良きサマリア人と同じ響きです。ユダヤ人は倒れた人を助けない。蔑まれたサマリヤ人が倒れた人を助ける。しかも、お金を宿屋において助ける。隣人はサマリヤ人だった。これはまさに典型的なイエス様の教えになっています。本当に信仰のあることとはどういう事かを、イエス様は問われているのです。
 聖書をほとんど知らない異邦人。たまたまガリラヤに配属されてユダヤ人を見ることになって神を信じたローマ人。しかし、自分の軍隊の体験からイエス様に全てを委ねることをよしとして、イスラエル人に信仰を教える形になったローマ人です。主イエス様は「行け。あなたの信仰の通りになる」と約束されたのです。私達もまた同じ異邦人です。ただ主の恵み、十字架の主を受け、応え、復活の主と共に歩みます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。とうとう鹿児島もクラスターが続きステージ3となり、さらなるコロナの感染注意になっています。どうか、守ってください。続けて、新しく来られた・・・さんを守り導きください。療養中の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・守ってください。子ども園、児童クラブの保育を開始しています。コロナ感染から守り支えてください。主にのみ仕えさせてください。会堂建築を支え守り、導きください。御名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   エゼキエル書23章46〜49節  2021年1月17日
           「 私が主であることを知る 」
 おはようございます。本日も、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は第3週ですので、いつものように旧約ヘブライ聖書から聞いていきます。本日はエゼキエル書23章の後半部分です。さて新聞テレビが伝える通り、東京都と関東3県に引き続き、近畿の1府3県と名古屋、岐阜、福岡まで緊急事態宣言がでています。鹿児島県は一昨日で1333人となり、1週間では140人ほどの感染になっています。とうとう児童クラブでは親御さんの会社の方が陽性となり、児童クラブの子どもの御家族がPCR検査となり、陰性ということで事なきをえました。すべて保健所の指示でした。これだけ広まるといつなってもおかしくない状態です。しかし、私達のできることが余りなくマスク、手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。できることをしっかりしていくしかありません。又キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなしていくしかありません。油断をしないで、祈りつつ歩みましょう。。

 さて聖書はエゼキエル23章ですが、ここは23章全体がオホラとオホリバという姉妹の物語で、完全に寓話の物語になっています。このように1章全体が寓話になっているのは珍しいとされます。寓話やたとえ話、隠喩や直喩と幻と聖書には多くの語りがあります。細かいところになると区別が難しいですが、寓話というのはイソップ童話のように、狐や羊がそれぞれの人間の役割を担わされ、一対一対応ができることが特長とされます。つまり本日の箇所は、2人の姉妹オホラとオホリバの裁判の判決の部分ですが23章全体が、オホラとオホリバの姉妹の姦淫の出来事になっています。結論からいうと姉のオホラがサマリヤを首都とした北イスラエルであり、妹オホリバが、エルサレムを首都とした南ユダのことです。オホラとは「彼女の天幕」と言う意味であり、オホリバは、「私の天幕は彼女の中に」という位の意味です。天幕をもじって姉妹の名にしているのは、天幕が出エジプトの砂漠時代に神様の住まいだったこと、また異教の礼拝の場所でもあったことが言われています。

 23章のオフラとオホリバの全体の設定は、エジプトで遊女をしていたが、不思議なことに、主なる神様の妻となり、しかしイスラエルに来ると2人共に又も姦淫を働き、主が離れられ、滅びていくという物語になっています。そもそも私達は、なぜ、主なる神様が、エジプトの遊女を妻とするかといいたいです。主なる神さまに対して、とんでもない発想です。しかし、実はこのような設定はエゼキエルより150年前の預言者ホセア、預言者イザヤよりも前の、預言者アモスよりも後の預言者ホセアも又、同じ設定を使って預言しています。ホセア1章2節は「主はホセアに言われた。『行け、淫行の女を娶り、淫行による子らを受け入れよ』」となっています。ここも又どうして、と言いたいです。しかしホセアとエゼキエルは、イスラエルの主なる神への裏切りは、まさに、淫行の女が愛によって正妻として娶られたのに、しかしそれでも忠実な愛の夫を、又も裏切ったイスラエルとなっているのです。
 そもそも淫行の遊女を自分の正妻にするというのは、古代ではありえません。しかし主の愛はそれをなしました。つまりエジプトからイスラエルの民は、モーセによって導かれてイスラエルに来ました。これが主なる神さまが、遊女イスラエルの民を正妻とした事実です。しかしその大きな愛を裏切って、また姉オフラはアッシリアと淫行をなし、妹オホリバはバビロンと淫行をなしたのです。さすがに忠実なる愛の夫、主なる神は一旦イスラエルをバビロン人異邦人の手に渡すことにされたことを語ります。姉オフラと妹オフリバの物語は、信じられない主の愛への又信じられない裏切りになっているのです。

 今回は分量が余りに多く全部を読みませんでしたので、説明説教になって申し訳ないです。エゼキエル23章は「主の言葉が私に臨んだ」に始まり、22節、28節、35節と本日の46節と4つの「主はこう言われる」の預言によって構成されています。最初に23章1〜4節に全体の説明があります。それはエジプトに2人の女性がいた、この女性はエジプトで淫行を行った。ここで突然淫行とでてくるのでびっくりです。しかし聖書の淫行、姦淫は常に偶像礼拝のことでもあります。オフラとオホリバは、エジプトで淫行をなす者、偶像礼拝者であったというのです。4節に、なんとこのエジプトの淫行の女を、主なる神は妻として迎えて、子どもが与えられます。この子どもとは、ダビデ、ソロモン王を筆頭とする北イスラエルと南ユダの王国とされます。
 しかし5節に、遊女を妻とした主なる神の元にありながら、姉オフラはアッシリア人に欲情を抱きます。これは北イスラエルが自分の地位を保とうとして、アッシリと同盟を組む姿です。何度も語りますように、古代社会の国と国との同盟は、常に自分たちの神様を相手の国に持ち出し、また相手国の神様をこちらに移入して拝むことから始まったとされています。23章7、8節にある「その偶像によって身を汚した」と「彼女はエジプト以来の淫行を離れなかった」とはこのことです。しかしなんと自分から身を売ったアッシリアは姉オフラを優遇しませんでした。結局自分の方から身を売ったのに、朝貢を求められ属国扱いであり、なんらの優遇処置は無かったのです。
 そして世の常かもですが、自分から身を売ってきた女の愛に、飽きたアッシリアはひとたびイスラエルが自分の意のままにならないことを悟ると、一気に滅ぼしにかかったのです。23章10節です。「彼らは彼女の裸をあらわにして、彼女の息子、娘を奪い、ついに彼女を剣で殺した。」BC722年に起こったアッシリア捕囚の事です。イスラエル10部族は、アッシリアに連行され、周辺諸国の民がサマリヤに移植され、混合の民ができました。これが、イエス様時代のサマリヤ人の発生です。

 23章11節からは、この姉オホラの出来事をじっと見ていた妹オホリバがいました。しかしこれもなんということでしょう。姉オフラの現実から妹オホリバは学ばないのです。何と言うか人間というは、魂や精神の次元では、学ばないというか、学べないのかも知れません。全く同じことを、姉オフラのしたことを妹オホリバもしてしまいます。すでにご存知のようにオフラの情夫がアッシリアとすれば、オホリバの場合は、情夫はバビロンです。南ユダはバビロンの力を見るとその力で保護して貰うことを計ります。自分の方からバビロンに近づき、朝貢をなし自分の優位なる立場を作ってもらうことを伺います。つまりバビロンの神々を受け入れ、偶像礼拝をなします。

 しかしバビロンもまた、中近東の小さい国、ユダのことなど余り大事に思いません。バビロンはユダに何かの有利な条件も、優位なる地位も与えません。そこにエジプトの誘いがきます。ユダの王朝は、頼りにならないエジプトの力を過大評価し、エジプトに乗り換えようとします。これが23章19節「彼女はかつてエジプトの地で淫行を行った若いころを思い起こして、淫行を重ねた」です。そして、主なる神様の決定は、23章28節、第1の「主なる神はこう言われる」です。「私はお前が憎む者の手に、すでにお前の心が離れてしまった者の手に、お前を渡す」です。これが、いわゆる第一次、第2次と続くバビロン捕囚の出来事です。バビロンに媚びを売り、その目的が果たされないとすぐにエジプトに乗り換える身勝手さに、さすがの主なる神さまも又どうすることもできず、バビロンに自分の正妻を渡すしかないとするのです。エゼキエル23章32~34節には詩文があります。この詩は、姉のオフラのことを学ばない妹オホリバが、やはり同じように滅びの杯を受けるしかないことを示しています。自分から自分の身を売り、相手にされないと又きびすを返して、他の者に媚びを売っていく姉オフラと妹オホリバ、この2名の遊女の運命はどうなるのか。

 本日読んで頂いた46節から「主はこう言われる」は、まさにこの2人の姉妹を、どうするのかが問われています。会衆が招集されるのは、イスラエルでは会衆が裁く伝統があります。町の門のところで、会衆は集まり、そして罪を犯したものを裁きました。例えば、ヨハネ伝8章の姦通の現場で抑えられた女は、連れて来られて、会衆の真ん中に立たせられて裁判をされます。この時、イエス様がおられたので、イエス様の判断が問われていました。主は「裁かない」という愛の裁判をされました。
 ある意味でエゼキエルは、会衆を招集して、このオホとオホリバの裁きを宣言していると言えます。そしてオホラとオホリバ、サマリヤとエルサレムは、恐怖と略奪の的になり、会衆はオフラとオホリバに石を投げ、剣で切り倒します。それは姦淫の罪は、石打の死刑であったからです。レビ記20章10節です。遊女が正妻とされ、それにも関わらず、なお姦淫の罪を犯すとき、自分から身を売り、それに応えないとして、次の男に又姦淫をして行くとき、そこには石打の死刑があり、その不貞は酬いを受けねばなりません。そして49節に在るとおり、偶像による過ちの責めを負わねば成らないのです。

 しかしエゼキエルは、そこに「お前達は私が主なる神であることを知る」としています。裁きは主なる神さまにとって、裁きのみに終わらないということです。裁きは裁きの為になされるのではなく、主なる神さまが知られる為に、成されます。聖書では、私達はちょうど今「剣、飢饉、疫病」とされる神様の疫病の裁きの中にあります。私達は、神様がなぜ今このような疫病をされたのか、その理由はよく分かりません。そして神様は裁きをなさらないとして、これを疫病学や気候学や環境学の現象の科学だけの知見にだけに置くことも、足りないように思います。お医者さん、看護婦さんの医療の逼迫や保健所の全く休み無しの働きが伝えられます。ただただ祈ることしかできません。一般の私達は、何をしたらいいのかがわかりません。

 私達に何か足りないことがあったのか。傲慢になっていたのか。高慢になっていたのか。祈りの欠如か。これもいろいろ言われますが、本当の所は分かりません。ただ、もし具体的に何か悪いことがなくても、イエス様の十字架のようなことがあり得ます。また今の時代だけがとんでもないことを受けているとも思えません。私達の年代の父・母達の戦争の話しを思いだすと、それはもっと酷い時代だったと思います。それぞれの時代に苦しい悲しいことを私達は受けるのかもしれません。ちょうど昨日と今日は入試試験をしています。もっと良いコンデションで受けて欲しい気もします。北海道の教会いた時、ある方の入試の話しを聞きました。入試のその日が大雪で、試験会場までの交通機関が全部止まったそうです。しかしお父さんは、昔使っていた馬ぞりを小屋から出して、馬のある農家の近所を探し、自分を載せて試験会場まで引いたそうです。
 今、自分になせることを精一杯する。そういうことになるのだと思います。エゼキエルは裁きを「主なる神であることを知るようになる」としました。十字架の苦しみと贖いを知る私達は、イエス様を仰ぐとき、私達は必ず、意味を示されると信じます。今は主の恵みによってできることをひたすら行い、祈り、献げるのみです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、御名をあがめます。本当にどんどんコロナ感染が増えております。すぐ近くにあります。しかし主よ、あなたの守りを祈るのみです。医療関係の方、仕事を無くしている方、守ってください。あなたのなさることは今は、わかりませんが、真実と愛をなさっていると信じています。続けて病気療養の方、ご高齢の方お一人、お一人を、お守りください。子ども園、児童クラブの保育が続いています。子供達、先生方を守ってください。御名によって祈ります。アーメン」


  教会 説教   ヨハネの黙示録6章7〜11節   2021年1月10日
             「 静かに待つ 」
 本日も、1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は2021年の2回目の礼拝です。すでに言われていたように、先週から東京都と関東3県は緊急事態宣言がでて、大阪、京都、兵庫も緊急事態宣言を要請されています。鹿児島は1190人となりました。1昨日は鹿児島市の感染の方が、38人ありました。宮崎県は1昨日でしたか1日に100名を越え、宮崎県独自の緊急事態宣言をだし、宮崎教会は本日礼拝できないのかなと思っています。もう、子ども園や児童クラブも私達の教会も、いつでてもおかしくない状況です。特に医療の現場が大変で、コロナの患者さんを受けられないだけでなく、普通の病気の人が、治療や手術が受けられない状態になっていくそうです。私達のできることが余りなくマスクに手洗い、密を避ける、良いものを食べ、免疫をつけることくらいです。選挙総会がありますが、時間が厳しいです。キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなし、できることをしっかりしていくしかありません。

 本日の聖書は、いつものように第2週を使徒の手紙から聞くととして、長老ヨハネの黙示録を読んで行きます。本日は、6章7〜11節で小羊イエス様が、7つの封印の内の弟4と第5の封印が解かれる所になっています。黙示録はネロ皇帝の散発的なキリスト者迫害とドミチアヌス帝に始まるとされれる国を挙げての政治的な迫害の終わりころ書かれていると言われています。紀元100年頃です。何度も語りますが、幻や夢、意味不明の幻覚のような事を書いていることによって、ローマの官憲の監視をくぐり抜けたとされています。つまり神様のことばは時代によっては、一見意味不明のことばで語られることがある。時代に時代に応じた語り方をされるということです。
 私達はですから意味が分からないようであっても、すぐに答えができないようであっても、しかしそのような語りを主がされることがあることを覚えておくことは大切です。つまり忍耐というか、そう言う面が信仰には問われることがあります。
 黙示録6章は7つの封印ですが、黙示録8章からは今度は7つのラッパになっており、黙示録16章からは7つの鉢となって、歴史の展開が幻想のような幻で語られていきます。封印、ラッパ、鉢となるごとに、段々神様の審判の強さが増しているようにも思います。黙示録は、細かいことを問うていきますと大変なことになり、ある意味で異端も一杯起こったのが黙示録からと言えます。ですから私達は細かいところ、聖書に解釈しすぎはないと言われるのですが、しかしあまり細かい解釈はさておき、全体の見通しをしっかりしておくことが大切です。
 それは、黙示録は長老ヨハネが7つの教会すなわち7を完全数とすれば、全ての当時の教会にまた過去・現現・未来の教会にも、迫害に負けず、小羊イエス様の歴史の支配、小羊の贖いをきちんと信じて立っていくことを中心において語っているということです。黙示録は、信仰を分からなくする書でなくて、信仰をひねくり回す書でなくて、様々な迫害に耐え、キリスト信仰を守る書ということです。信仰の励ましと継続のそこを中心に聞いていけば少々の解釈し過ぎや、ヘンチクリンの取り方も、なんとかなるのでないかと思います。

 7,8節には、弟4の封印を解く出来事です。すでに第1封印から第3封印まで、白い馬、赤い馬、黒い馬に乗った騎士が現れています。本日の弟4封印においては、青白い馬に乗った騎士が出てきます。その騎士の名は死でです。なんとも気味の悪い幻視です。そして死には次に来る黄泉あの世、地獄ともいうものが付いてきます。死は死で終わらない。死は次の世界にいく門であり、入り口とも言えます。
 キリスト者の死も、確かに悲しいです。体が亡くなります。見えず、触れなくなります。しかし何と言っても魂は、イエス様に会えるのであり、復活を待つ希望を持つことを、忘れてはなりません。そしてなんとこの第4の騎士は、地上の4分1を支配し、剣と飢饉と死とさらに野獣をもって人を滅ぼす、これは原文は「殺す」ですが、殺すことが赦されているのです。この幻で、長老ヨハネはネロ皇帝よりも、もっと酷い迫害が来るであろうということを、神様から知らされているのです。

 地上の4分の1が死ぬというのはオーバーな幻想という人があるかも知れません。しかし100年前の1918年のスペイン風邪の時は、世界の人口は20億人でしたが、感染者は5億人とされます。まさに世界の4分の1の感染だったのです。もちろん推定死者数は1700万人とも1億人とも言われています。100年前の統計で余りの誤差に驚きますが、日本でも38万8千人が亡くなっています。今、昨日でコロナの死は4.000人を越えました。しかしスペイン風邪の方が強力だったということになります。
 そして8節の4つの剣と飢饉と死と野獣ですが、実はこの死は疫病で有ろうと解釈されています。それはエレミヤ14書や21章、エゼキエル14章ではいつも「剣と飢饉と疫病」がセットになって神様の裁きの道具になっているからです。神様はエレサレムを打つときに、その偶像礼拝の罪、神を神としない罪を問われる時に、剣すなわち戦争と飢饉すなわち食料危機と疫病の死をもって、打たれるとするのです。神様は、滅びをもたらす神であるのかは、大問題です。十字架にご自身のみ子を十字架に引き渡される全き愛の神は、滅びをもたらされる神であるのか。

 これは神を信じない人には簡単です。ニーチェは、それみろ神はとんでもないことをなさる信じるに価しない神であるとなるでしょう。しかし神を信じる者、特に十字架に私達の為に死んでくださり、罪を贖い、復活してくださった小羊御子イエス様を信じる私達には大問題、大難問となります。解決方法は正直わかりません。本日、パンと杯を頂きます。私達には、事実歴史に起こった小羊イエス様、主の御体の十字架と流された血が目の前に示され、あります。そして今、第4の騎士に赦された疫病が猛威を振るっているのです。私達はその間に立っているのだと受け止めます。自分達に与えられた大きな課題として、受けるのみです。

 9節から11節は第5の封印が解かれます。この封印が解かれた時、長老ヨハネは祭壇の下に多くの魂をみます。その魂は、神の言葉に従い、自分たちが立てた証しで殺された人々です。これは具体的は、ネロ皇帝の時の殉教者達と言われます。ネロ皇帝は、自分がなしたローマの火事の原因を、当時嫌われ者のキリスト者に押しつけたとされています。そして、有名なパンと見せしめで民を操縦しました。見せしめにはハリウッド映画に出てくる円形劇場にて、生きたキリスト者をライオンに食わせて民衆に見せたり、十字架につけて生きたまま焼いたりしたのです。民衆の娯楽や楽しみに迫害をしたこと等が入ります。
 しかしこの魂は、ただ殺されていませんでした。天上の祭壇において、これは具体的にはよく分かっていませんが、天上には祭壇があり、その祭壇の下に殺された魂があったのです。そして、天上の祭壇のすぐ下にいるこれらの殉教者達は、すぐ下にいますので、小羊イエス様にすぐに呼び掛ける事が赦され、そしてその声はすぐに、小羊イエス様に聞こえることになります。

 10節にその声が「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私達の地の復讐をされないのか」と叫びます。ここには2つのことがあると言われています。1つは、殉教者達の忍耐が切れているということです。殉教者達はひたすら神様の言葉を守り、祈り、行動し、皇帝礼拝をせず、その信仰を守り遠しました。何度も引用しますが、使徒教父文書のポリュカルポスの殉教が有名です。官憲がポリュカルポスの年令を考えて「どうか、キリスト者を呪ってくだい、滅びろと言いなさい、キリストを呪いなさい、そうすれば釈放できます」といいます。しかしポリュカルポスは「私は86年間主に仕えてきたが、只の一度もキリスト様は私に対して不正をされなかった。今更キリスト様を冒涜できません」と言って、火あぶりの火刑を受けて行きました。
 血の復讐を求める殉教者達がいたことは確かであると思います。しかし、ここでルカ伝が伝えたイエス様の最後も思い出されていいでしょう。ルカ伝23章34節に主はご自身を十字架に付ける者達を見つつ「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか知らないでいるのです」と祈られたのです。復讐を求める殉教者と執り成し祈る十字架の上のイエス様があることを、私達は忘れてはならないでしょう。
 そして、復讐を求める殉教者がいることは、同時に殉教者はまた最後の審判を主に委ねている、とも言えると思います。イエス様は自分を十字架に付ける者の為に祈られたということは、同時に、自分を十字架に付ける者達の罪をも、受けておられる姿でもあります。
 11節は、小羊イエス様の2つの応えであるとされています。1つは、小羊イエス様は殉教者達の一人一人に白い衣を渡されたと書いています。白い衣は天上の住民の服とされています。キリストを信じる信仰は、天上で白い衣を渡される信仰でもあったのです。白い服を着ているとは、天国にいるということであります。

 偶然の一致と思われますが、日本でも死人の死に装束は仏教でも神道でも、昔は白になっています。浄土に旅立つので、純粋な白だろうと言われています。今は仏教もキリスト教も、生前に好きな服や姿で見送ることが多くなりました。決まりはありません。しかし聖書では、天上に行けば白い服を与えられることに成りそうです。キリストを信じて死に着いた人は、天国の服、白い服が与えられているという信仰です。
 次に、小羊イエス様は、兄弟達、仲間の僕の数が満ちるまで「しばらく静かに待て」と言われます。これは、最後の日、神の国の到来の日は、兄弟と仲間の僕が満ちる時に起こるという信仰です。これは、生前のイエス様もまた神の国の到来の時は、マタイ伝24章36節に「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけがご存知である」と言われました。知らないことは下手に解釈しないで、じっと待つ、という信仰ととも言えます。

 私達は「しばらく静かに待て」と言われて1900年が経過していることを知らされています。神様の暫くは長いのかと言いたくなります。しかし、第2ペテロ3章8節には主の来臨の約束がおそいと言われてペテロ書は「主の元では1日は千年のようで、千年は1日のようです」と応えています。そして、続く3章9節には「一人も滅びないで皆が悔い改めるように、あなた方の為に忍耐しておられる」とあります。私達は、主の来臨、主の日は遅いと言うよりも、一人も滅びないように忍耐される小羊を思うのです。主の忍耐の恵みを受けて、私達は主の十字架を証し、伝えて生きるのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、年はあけて関東と近畿は緊急事態宣言です。どうか御心の通りになさってください。あなたにのみ仕えて生きる者にしてください。新しく来られた・・・さんを守り導きください。療養中の・・・さんを守ってください。ご高齢の・・・さんを守り、塩井の回復を感謝です。子ども園、児童クラブの保育を開始しています。コロナ感染から守り支えてください。主にのみ仕えさせてください。会堂建築、選挙総会を支え導きください。御名によって祈ります。アーメン」









教会 説教    第一コリント1章4〜9節    2021年1月3日
             「 神は真実 」                -新年礼拝ー
 新年明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。本日も、お正月の1週間の歩みを振り返りつつ罪の悔い改めをなし、1週間又今日を導く御言葉を聞いていきます。本日は2021年の最初の礼拝になりました。すでに言われていたように、鹿児島はお正月をもって1000人の感染者を越し、大晦日には東京では1日で千人になるという記録更新になっています。とうとう東京は、緊急事態宣言を国に要請するとなっています。特に医療の現場が大変らしく、コロナの患者さんの為に、普通の病気の人が、治療や手術が受けられない状態になっていくそうです。私達のできることが余りなく、マスクに手洗い、密を避ける、良いものを食べて免疫をつけることくらいです。キリスト者としては詩編106編30節のピネハスの祈りをなし、できることをしっかりしていくしかありません。
 さて皆さんは、お正月はいかにお過ごしでしたでしょうか。できるだけ動ないでくださいとのことでしたが、近畿の奈良に住む下の娘が家に帰ってきました。今年は長崎帰省ができませんでしたので、こちらでお正月を過ごしました。娘はこちらに帰ってからは友達と会うこともなく、どこにも行かないでずっと家でしたので、将棋をしたり、チェスをしたりでありました。私はなかなか時間がとれないので、将棋やチェスの娯楽はできないのですが、まさに1年に一度のことで感謝でした。東京とか大阪とか感染状況が酷いところは動けない方が多かったと思います。お正月で比較的長い休みが赦されるのは、本当によい習慣だと思います。

 さて聖書は、2021年の年頭に当たり、どこがいいのかと思いましたが、神の真実に根拠を置くパウロのコリントの手紙を開いてみました。すでにご存じの通り、コリントは使徒言行録によりますと、パウロの第2回目の伝道旅行において、伝道された教会でした。言行録18章にその伝道の記録が書かれています。パウロはギリシャのアテネにおいて伝道したのですが、よい結果がえられませんでした。そこでパウロはアテネを後にしてコリントへ来たとあります。そして、コリントでアキラとプリスキラという同じテント職人でイエス様のことを伝えている同労者に出会います。そして、一緒に仕事をしながら、主日ごとにユダヤ人の会堂に行ってイエス様の事を伝えたのです。言行録18章8節にはユダヤ人の会堂長クリスポが一家を上げて、主イエス様を信じることになったとあります。
 コリント教会の伝道の成功は、このアキラとプリスキラというテント職人の助けと会堂司というユダヤ人たちも一目置く、重要人物が信じてくれたことが大きかったと思います。新興宗教は、広告塔と言って有名人を自分の宗教につなげることをします。すると他の人は安心して、信じやすいということがあるそうです。さらに言行録18章9節には神様もまた「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。…この町には私の民が大勢いる」とパウロを励ましてくださったのです。11節には、パウロは1年半年コリントで伝道できたと書いています。1年半で教会ができるのは、中山伝道所が30年になっていますことと比べるとうらやましくもあります。しかし神様のご計画においては可能なのだと思います。しかし早い伝道の成功は、ユダヤ人のねたみを買い、コリントのユダヤ人から18章13節に「この男は律法に反することを伝えている」と訴えられます。パウロはコリントを後にして離れ、アンティオケに戻ったようです。伝道はこうして、3歩進んで2歩下がるみたいことがよく起こります。

 パウロが去ってからのコリント教会は、いろいろな問題が山積しました。そしてコリントで起こった問題ついて、パウロは数年後、第3伝道旅行で、エフェソにいた時、これに答えて、コリントへの手紙を2つ書きました。すでに読まれた方はご存じですが、第一コリントの手紙5章ではキリスト者の間に近親相姦の罪があったことを書いています。6章には、キリスト者同士で裁判に訴えることもあったようです。7章では結婚について書いており、8章では偶像に備えられた肉について書いており、11章では礼拝の仕方について、また主の晩餐の制定について書いています。ある意味でコリント教会がいろいろな問題を起こし、多くの質問をパウロにして、パウロがこれに答えてくれた。それによって、私たちは、今の教会の指針を持っているともいえるでしょう。コリント教会の問題は山積ですが、パウロはむしろそれを大いに活用し、教えやたとえに持っていくことの天才であったとも言えるでしょう。

 4節にあるコリント教会が「神の恵みを受けたことを感謝します」というのは、基本的に、解決があるとか、うまくいっているとかでない。そういうこともあるのですが、むしろ問題が起こったことで、信仰が鍛えられ、本当に見るべきこと、知るべきことが示されていくことを見ているのだと思います。5節には「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と書きました。実際は正反対であり、コリント教会こそ、問題が多く、近親相姦あり裁判沙汰ありで、どうにもならない教会だったのです。しかしパウロは、そのような実際の現象を見つつも、その問題の根底と本質にある神様の恵みと主の召命をしっかりと見ているのです。

 7節もまた「あなた方は賜物に何一つ欠けることがない」としています。賜物に何一つ欠けることがないなら、どうして、コリント教会は問題ばかり起こるのかと言いたいです。しかしパウロは、コリント教会が、多くの賜物に満ちていることが見えています。パウロに言わせれば、実際にコリント教会には、賜物に満ちているのに、それが教会で用いられないのです。力はあっても知識があっても、それが埋もれて用いられないなら、無いのと同じです。しかしパウロはコリント教会を立ててくださったのは、主なるイエス様であると知っているのです。必ずいつか主が、教会の賜物が用いられることを信じて疑いません。
 娘が帰ってきて、牧師室の引っ越しを手伝ってくれました。「なんでこんなに片付かないか」と言って「どこに何があるのかわからないなら、それはどんなに大切でもごみと同じです」といいます。「どんなに古くて大したこともないものでも、すぐに場所が分かり用いることができるなら宝だ」と言うのです。なんでお前はそんなことを知っているかというと「自分は今、会社では片付け係ばかりしている」というのです。なるほどと考えさせられます。しかし、パウロも又コリント教会の様子を聞いて、改めてコリント教会の人々が、賜物に満ちていることに気付いたのです。そして、その賜物は、主イエス・キリストの現れを待ち望むことにおいて、一致していくと希望を持ったのだと思います。

 8節には「主は最後まで、あなた方をしっかり支えて…非の打ちどころのないものにしてくださる」と書いています。コリント教会は他のガラテヤ教会やテサロニケ教会等と比べますとどちらかというと性的な問題がこんがらがっています。だいたい性的な問題と信仰の問題が絡み合うと解決はなかなか難しいと思います。しかし、パウロは余り悲観しておりません。「主は最後まであなた方を支える」と言うところに立っています。「主が支える」と言われのであれば、これは私たちが諦め、手を放すわけにはいきません。主が支えると言われているのに、自分は知らんとは言えないです。たとい微力であっても、何もできそうなことがなくても、せめて後ろからでも支え、主についていくしかありません。
 イエス様が十字架に付けられた時、マルコ14章51節には、素肌で亜麻布をまとって、イエス様について来た人がいたことを書いています。人々が捕えようとすると亜麻布を捨てて裸で逃げたとあります。これはマルコ自身であったという解説があります。私はここが好きです。素肌に亜麻布をまとうのは、なぜなのか。言ってみれば、路上生活者の真似をしたのでしょうか。最低の最下層民の姿をして、イエス様の後について行った。誰も咎めないという作戦だったでしょうか。しかしおそらく「お前は誰だ」と言われて、恐ろしくなり、他の弟子と同じで逃げたのだと思います。しかし、ペテロのように「私はこの人と全く関係ない」と3回言うのと、後からついて怖くなって亜麻布を脱いで裸で逃げるのとどうなのか。自分は裸に亜麻布を着て、後ろからついて行き、咎められて逃げだすマルコは、好感が持てます。

 9節には、パウロの信仰が語られています。パウロは教会とも言えない教会であるコリント教会を召命し立ててくださったその根拠、根底を知っています。それは、神の真実だと言うのです。パウロの信仰の根底には、神の真実があります。パウロはなぜ、主の晩餐をきちんと守れないめちゃくちゃなコリント教会が恵み受けたというのか。パウロはなぜ、性的混乱を持つコリント教会でキリストの証が確かとなったというのか。パウロはなぜ、どうにもなりそうにないコリント教会が賜物に何一つ欠けたことがないというのか。パウロはなぜ、偶像に備えた礼拝の肉を食べている教会を、非の打ちどころのない教会になるというのか。すべての根底に神の真実があります。
 パウロは神様の真実を知り、それを確信するのです。今は確かに駄目でも、キリストの日に、主が変えてくださると信じることができるのです。それはおそらく、パウロ自分の体験なのだと思います。パウロはご存じ、キリスト者の迫害者だったのです。パウロはおそらくキリスト者を迫害し、そうするつもりがなくても、殺したことがあったと思います。第一テモテ1章13節には「以前、私は神を冒涜する者、迫害するもの、暴力をふるう者でした」と書いています。テモテの手紙はパウロが直接書いてないと言われていますが、根も葉もないことは書けません。さらにパウロは第一テモテ1章15節に、自分のことを「罪人の頭です」(口語訳)共同訳は「罪びとの中で最たるものです」と言ったことがあります。
 パウロの場合の罪は、観念的な概念の罪や、頭の中の操作の罪のことでなくて、実際にキリスト者を迫害し、殺したことでした。しかしそれなのに主なる神様はパウロを用いるとされたのです。パウロにバプテスマを授けたアナニアは、主なる神に「行け、あの者(パウロ)は異邦人や王たちに、又イスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」言行録9章15節と言っています。

 とどのつまり神様の真実に戻ってくる、かかってくるのです。おそらくコロナ感染も日本の子供の7人に1人は貧困である、の問題も、神の真実にかかっているのだと思います。神様の真実を受ける。イエス様の十字架をきちんと受け止める時、その死人からの復活を受ける時、私たちは課題が与えられ、神の真実に応えて生きる生き方が示されていくのです。この1年間、私たちは神の真実、十字架の愛を受けて、主の復活を信じ、これに答えて生きることが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。2021年が明けましたが、コロナ感染の酷い状態と共に歩みます。医療関係者の方を守ってください。医療崩壊しないように支えてください。また貧困家庭が一番あおりを食っている状態です。支えてください。会堂建築を導きください。病気療養の方、ご高齢の方、また一人暮らしの方支えてください。続けて子ども園、児童クラブの児童、学童、先生、支援員をコロナから守ってください。お正月の守りを感謝です。どうかまた今日からの1週間を導きください。み名によって祈ります。アーメン」