2022年 説教
  いつものように著作権を放棄しています。
 どうぞ、イエス様の宣教の為に使ってください。
ただ、私は学者でないので、適当な引用や孫引きがあります。
 引用される時は、自分で原本に当たり、確認してください。
私の体験の部分はもちろん著作者ですので、引用ください。
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 説教       エゼキエル38章1〜9節     2022年8月21日
             「 備えをせよ 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。本日は本来、西戸崎教会の、鹿児島の教会にも数年いてくださった城 俊幸先生の宣教の日でした。すでにご連絡しましたように、先生から17日(水)日に電話が来て「コロナに感染したので、行けなくなりました」とのことでした。こちらでの本当の仕事である純心大学の明日からの短期1週間の特別講座もキャンセルになられたそうです。
 いろいろ聞いてはいましたが、まさかこんなに突然に感染になるものかと驚いています。もちろん幼稚園の先生方もなんか熱があると思って調べたらそうでしたと、突然なる方が多いです。いろいろな病気がありますが、普通は前日当たりから調子が悪いとか、兆候があるとかあってもいいと思います。しかし、コロナは突然の方が多いようです。ただただ用心しつつ歩むのみです。すでにご存じの通り、鹿児島では感染の増加が続き、17日の水曜から4500人以上の感染が続いています。昨日は4747人となっています。まだ第7波のピークが見えません。ただただ用心して歩むのみです。
 また新聞テレビが伝える通り安倍元首相の凶弾による死亡事件から始まる元統一教会と国会議員さんの関係が問われています。いろいろな事が言われますが、根底には、日本における宗教に対する考え方があるように思えます。それは、根本的には「神様を自分の為に使うのか」、「自分が神様の為に働くのか」のギリギリのところで突き詰めない曖昧さではないかと言われます。これはどこの国民もそうかも知れませんが、特に日本ではそれが強いのでないかと思います。神様を自分の幸福の為に利用しようとして、反対に自分で気づかずに利用されているという状況でないかと思います。
 カルト宗教との闘いは、十字架に付けられたイエス様、十字架に掛かられた神様、神様が人となってくださった大きな恵み、これに答えて私達が神様に仕えて行くことを、地道に証しし、歩んでいくしかありません。

 さて本来は、城先生の説教の先週の予告は、ローマ書2章1〜9節とあり、中にはローマ書2章を読まれて準備されて来ている方もあるかと思います。私も、ここは予告されたローマ書2章から説教した方が良いかと思いここから準備しようと思いました。しかし、城先生が折角準備下さり、その為に来てくださる予定でしたので、又いつか先生がここからお話しされるかもしれません。にわか勉強の私の学びで皆さんに語るのもどうかと思い、いつもの第3週の旧約ヘブライ聖書、エゼキエル書38章から聞いて行くことにしました。
 この38から39章は、エゼキエル書の中でも、難解中の難解とされる「マゴグのゴグの預言」とされます。エゼキエル書は、数名方から聞いたのですが、難しくて最後まで読めなかった、と言われることが多いです。最後まで読めそうにない預言のさらに難解の部分となると本当に困った聖書となりそうです。しかし、そんなに難しいなら聞いてみるか、というあまのじゃく的な発想も合って良いかも知れません。今の時代は、コロナ疫病の蔓延、ウクライナとロシアの戦争、さらに教会と同じ名前のつく教団の偽預言者の時代です。まさにある意味では終末の時代でもあります。神様の御心がどこにあり、何であるのか、地道に聞いてまいりましょう。

 1節にあるように、エゼキエルはいつものように「主の言葉が私に望んだ」と始めます。この言葉は、エゼキエルが預言をする時の前口上のような言い方です。しかし、このいつものことばも、改めて大きな力を思います。それは、私達人間の状態を越えて、悲惨な状態、罪深い状態、どうにも成らない苦難の状態を越えて、主の言葉は私に臨むのです。神の言葉は、私達の状態を越えて、私達の悲惨の状態にもかかわらず臨むのです。これは大きな恵みです。
 主なる神さまは、バビロンに捕囚されている預言者エゼキエルに「マゴグの地ゴク、メシェクとトバルの総首長ゴグに預言せよ」と言われます。その中身は、主なる神さまが「私はお前に立ち向かう」ということでした。私達はこの「マゴクのゴグ」とは誰のことかとまず問います。しかし、すでに聞いた方もあるかもですが、エゼキエル38章に出てくる固有名詞は、歴史的に確認できる地名からと全く空想の地名のチャンポンになっているのです。例えば地理的には、マゴグは歴史的なスキタイ人とありますが、ゴグは無いとされます。その反対を言う人もいます。5節のペルシャやクシュ(エチオピア)は、ありますが、プトやメシエクとトバルは、フルギヤ地方、カパドキア地方といわれますが、良く分かっていません。つまり、エゼキエルは現実と空想をわざとごちゃ混ぜにして預言しています。
 なぜ、こんなことをするのかですが、私達はヨハネの黙示録を毎月読んで来ました。そこから察するに、こんな奇想天外の様式はまさに黙示文学なのです。つまり、読む人によって、分かる人と全く分からない人を分ける様式なのです。まさにイエス様がたとえ話をされて「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたそのことです。例え話しに自分を入れて、自分が譬え話の誰かに投入しないと意味がわからないのです。
 エゼキエルはバビロンに捕囚された預言者でした。繰り返しませんが、エゼキエル1章1節には、バビロンのユーフラテス川の支流、ケバル川河岸にいて預言をしています。つまり、エゼキエルはバビロンのど真ん中にあって、とても直接的なバビロンの滅びは語れないのです。エレミヤは同時代の預言者で、エレミヤ50~51章の2章に渉る長編のバビロンの滅び預言をしました。これは、第2次大戦の真っ最中に「日本は滅びる」と言ったとされる無教会の矢内原忠雄さんのようです。直接に語れば捕まり逮捕され、迫害され、命が危ないのです。その時、その中で、語れない中で、どう語るのか。それが黙示録です。

 エゼキエルは、第1次バビロン捕囚で、イスラエルから連行された自分の住むバビロンに対して何を思い、どう考えていたでしょうか。エゼキエルの預言から言えば、バビロンによってイスラエルが滅びることは、神様の働きでありました。神様の守りと神様の力が弱かったからエルサレム神殿とイスラエルは滅びたのではない。イスラエルの偶像礼拝とイスラエルの不信仰と不義の罪のゆえに、神様がイスラエルを滅ぼしたのです。神様は、イスラエルをただ守る方でなくて、公正と義において守る方でした。エルサレム神殿は神様の足台だから滅びないという信仰はおかしかったのです。しかし、バビロンにいるエゼキエルの大きな課題は、この神の杖と道具となって、イスラエルを滅ぼしたバビロン自身はどうなるのかと言う問題でした。
 またエゼキエルと一緒にバビロンに連行され、第2次バビロン捕囚を逃れた人も、エゼキルの預言する神が弱かったからイスラエルが滅びたのでなく、神様がイスラエルを、その罪のために滅ぼしたというのを理解しました。しかし、それなら自分たちのいるこのバビロンは、どうなるのかと言う問いがありました。もちろん、多くのバビロンに捕らえられている人は、バビロン第2次捕囚の紀元前586年からおよそ47年後に、第一次捕囚から58年後に、バビロンはペルシャに滅ぼされます。紀元前539年には、イスラエル帰還の道が開かれるのです。そして、現実にエズラ、ネヘミアによって、第2神殿の建設に取組ことが赦されるのです。そして、紀元前515年にバビロンが滅び、ペルシャの支配になります。帰還して15年後には第2神殿が完成しています。つまり第一次捕囚から73年後に、第2神殿は完成します。エレミヤがバビロン捕囚期間は、70年と言った通りなのです。

 8節には「彼らは多くに国から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている」とあります。これは、ある意味で第2神殿を建築したイスラエルの安心した暮らしを示しているといえるでしょう。読みませんでしたが、38章11節にも「私は囲いの無い国に攻め上る。城壁もかんぬきも門もなく安らかに生活している静かな国を襲う」とあります。マゴグの地ゴクは、ここでは、安らかに安心している国に押し入って、そこを襲う国として、示されています。しかし主はそのマゴグのゴグを審判されます。
 エゼキエルはバビロンに捕囚されて、いつまで生きていることができたのか、よく分かりません。次の預言の40章1節には、捕囚されて25年とあります。紀元前573年の預言とされます。エゼキエルは、捕囚されて25年の預言が最後です。第2次捕囚から数年、バビロンに連行されて30年くらいは生きられたのでしょうか。エゼキエルは実際には、バビロンから帰還するイスラエルを見ることは出来なかったようです。しかし、エゼキエル40章からの新しい神殿の幻の預言は、エズラ、ネヘミアによって、立てられようとしている第2神殿の幻を見る預言になっています。

 エゼキエルは、自分たちエルサレムを陥落させ、イスラエルを滅ぼしたバビロンはどうなるのかという問題に取り組んだということになります。その時、黙示的に「マゴグのゴグ」という預言の言葉が与えられたのです。ここで初めてエゼキエルは、バビロンで、高らかに自分のいる国、バビロンの審判予言、滅びの預言を語れたことになります。この預言は、自分たちを滅ぼしたバビロンが必ず滅びる預言でもあります。予言者エレミヤはバビロンでなく、イスラエルにいました。エレミヤ50から51章にかけて、長々と又堂々とバビロン滅亡預言ができました。しかし、エゼキエルはできなかったのです。エゼキエルは、自分が連行された国で、自分のイスラエルの国の罪をまざまざと知らされます。そして、エルサレム神殿の完全な破壊を知らされ、その中で捕囚民と一緒にバビロンに生活し住みました。そして、バビロンの滅びを「マゴグのゴグの滅び」として、預言し、託すことができたのです。

 昨日は連盟の「沖縄から宣教を考える会」の研修会が那覇新都心教会からのズームでありました。講師が島田善治先生でした。教団は違うのですが、大学生の時に時々お世話になった先生でした。その当時は、あまり評判がよくなくて、付き合うのはどうかという先生というと怒られますが、あまり付き合わない方がいい先生と言われていたのです。ところが、あれから45年たっていました。島田先生は、普天間の基地の騒音訴訟問題の原告を3回もされ、今3回目の裁判をされています。82歳になられてまだ現役牧師でおられました。原告の主張は「沖縄の米軍基地は日本国憲法違反である」という主張です。素人が考えても勝てそうにない裁判です。しかし、沖縄生まれで、沖縄で救われた先生です。当たり前ですが、基地騒音問題訴訟を宜野湾の普天間で45年間もしておられたのかと驚きでした。先生の強調は「神様はおられる。諦めてはいけない」でした。そして「日本の教会に求めることは何ですか」のズーム者の質問に対して「日本の教会は、大人になってほしい」でした。意味はいかようにも取れます。先生は「神様を本当に信じて、政府や天皇制を畏れない教会になってください」と言われたように思います。十字架の主イエス様に答えて生きなさいです。

 マゴグのゴグは、必ず、神様から審判を受ける。「安らかに暮らしている民」を襲い、「略奪する民は必ず神が滅ぼされる」。エゼキエルは「マゴグのゴグ」は必ず滅びるという主の預言を胸に、バビロンの捕囚民に仕えて生きていたのです。

 祈ります。「天の父よ、コロナ感染の真っただ中にあります。ただ主の守りの内においてください。元統一教会に関連する政治家の関わりも続けて報道されています。疫病、戦争の中、偽預言者を否定し、イエス様の非暴力に歩む者とさせてください。主の十字架の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」

 説教       ルカ伝19章41〜44節       2022年8月14日
             「 平和の道 」 ―平和礼拝―
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。本日は敗戦記念日の前の日で、平和礼拝となります。すでにご存じの通り、鹿児島では感染の増加が続き、7月26日から2週間以上の3000人を越え、1昨日は2908人でしたが、昨日は3967人となっています。第7波のまっただ中にあります。ただただ用心して歩むのみです。また新聞テレビが伝える通り安倍元首相の凶弾による死亡事件から始まる元統一教会と国会議員さんの関係が問われています。岸田総理は、早めに内閣改造をされましたが、今度は交代された方も、やはり元統一教会の関係者が次々にでて大変のようです。宗教と政治はイエス様時代からの問題であり、現在の今もまだその利用関係が後を絶ちません。イエス様は「カイザル(皇帝)のものは、カイザル(皇帝)に、神のものは神に」とマルコ伝12章17節で言われています。知恵が求められるところです。

 さていつものように8月の第2週は、平和礼拝として守っております。いつもはマタイ伝5章9節からが多いですが、今日は平和の言葉のあるルカ伝19章42節から開いてみました。ここは、イエス様の生涯における最後のエルサレム入場のところです。本来なら平和のロバの子に乗ったイエス様の姿がメッセージされます。しかし、今日はロバの子に乗られたその直後にイエス様がエルサレム町と神殿を見られて「泣いて」言われたところです。ここは「泣いて」と訳していますが、原文は呻いてとか、悲しんでとかでも訳して良かったと思います。しかし、意味は神の子イエス様は、エレサレムの将来の姿を見て、泣いて、悲しんで、呻いて「もし、この日にお前も平和の道をわきまえていたら」と言われたのです。
 つまり、この時、エレサレムはつまりその住民達は、残念ながら平和の道をとることに失敗したという事になります。そして続けて「それはお前には見えない」とされ、人間の将来を見る力の限界を示されています。人間は、将来を見通すことができないのです。それは巻頭言にも書きましたが、人間の一つの能力というか限界です。トルストイの民話で最高傑作とされるのは『人は何で生きるのか』とされます。ここに出てくる元天使のミカエルは、靴屋で働くことになります。横柄に靴屋を侮辱する大金持ち紳士の靴の注文に応えて、死者の靴を作ってしまうのです。人間の将来を見ることができる天使と人間の違いを、トルストイは示しているのです。そして、人間が明日をも知らぬ存在であるので、謙遜に生きるしかないことを示しているのです。

 ところでイエス様がエルサレム入場される時の平和の道とは、どういうことであったでしょうか。すでにご存じの通り、イエス様は、父なる神様から遣わされたご自身の使命によって、私たちの罪を贖うために十字架につけられるためにエルサレムに来られました。それは、神の子として神のメシア・キリストとしての道でした。エルサレムの人々イスラエルの人々は、心からメシア・キリストとしてのイエス様を迎え、本当の王として、迎えるべく備えられた民であります。しかし、この神を迎えるために備えられた民は、神の御子、イエス様を迎えることを拒否し十字架につけるのです。

 私たちは旧約ヘブライ聖書を読んでいますので、備えらえた民が神様を心から迎えないことを、第2次バビロン捕囚において、紀元前587年のエルサレム神殿のバビロンによる破壊においてすでに知っています。主は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの予言者たちを準備し警告し、神さまに立ち返らず、偶像礼拝を続ける民は、必ず神さまによって滅ぼされるという予言を、何度も何度も語れました。しかし、エレミヤ、エゼキエルがあれほど警告しても、エルサレムとイスラエルは、神に立ち返らず、自分の腹を神として、バビロンによって、滅ぼされていきました。
 本来ならこの教訓を受けて、この歴史体験を糧にして、イスラエル・エルサレムは、心を入れ替えて、主に心から従う民になる道を通るべきでした。しかし、主が、予言者ダニエルを通して励まし、エズラ、ネヘミアを通して第2神殿を再建し、新しく歩みだす時、これは聖書にはなく外典・儀典になりますが、マカベア書にあるように、又神殿信仰になっていくのです。ここは不思議なことです。イスラエルは神殿信仰によって、自分たちの行いを悔い改めないでバビロンによって滅んでいったのに、又神殿は不滅である信仰が立ち上がって、また今度はローマ帝国により滅んでいくのです。
 神殿信仰とは、エルサレム不滅神話であり、神の足代とされるエルサレム神殿は滅びないとする信仰です。エルサレム神殿が守られ、支えられるのは、民一人一人が主なる神様に真剣につながってのことです。しかし、なぜかここがすっぽりと抜けるのです。自分たちの信仰が主につながっていないのに、エルサレム神殿だけはけっして滅びないというのは、ありえないのです。しかし、イスラエルはこの信仰の間違いを2回も繰り返してようやく学ばないとだめだったのです。

 「平和の道をわきまえない」とは、まさにバビロン捕囚のバビロンに滅ぼされた教訓を忘れ、今度はローマ帝国に滅ぼされていく道をまた辿るということです。イスラエルは、歴史の教訓の失敗、世界の失敗の人の標本のように、主から教えらえても教えられても、又同じことを繰り返す歴史の失敗の標本のようです。
 同時にこのことは、本当に何度も何度も歴史に繰り返されていくのでしょう。日本の私たちも広島、長崎の原爆、沖縄の地上戦、又各地の空襲を受けつつ、もう戦争はいやだとして、世界に誇る戦争放棄の憲法9条を作りました。しかし、なんのことはありません。解釈によって、1954年に自衛隊を増強し、2015年には解釈によって集団的自衛権があることになり、本当に戦争放棄になるのかどうか、だんだん怪しくなっています。そして、台湾有事のことを考えるといつでも参戦できる状態がいいとなりつつあります。しかし本当にそうなのかと言いたいです。

 42節にあるイエス様の予言は、ローマ帝国による紀元70年に起こったローマとユダヤの戦争で、エルサレムが2回目の陥落を迎える予言になっています。この出来事は、ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物に書いています。詳しくは語れませんが、ヨセフスは元々ユダヤの側の将軍でした。しかし、戦いの内にローマ軍の捕虜となりました。すでにご存じの方もあると思いますが、ヨセフスはローマの敵の将軍ですので本来なら直ちに処刑でした。しかし、後にローマ皇帝になるローマの総大将のティトスのところに連れてこられると何を考えたのでしょうか。突然「あなたはローマ皇帝になるべき人だ」と将軍ティトスに対して予言して言うのです。まだイスラエルとの戦いのただの総大将だったティトスは非常に機嫌をよくして、殺さなかったようです。それどころかなんとヨセフスを自分の脇におき、相談役にするのです。元々は敵の将軍で、今は皇帝の相談役の戦争記録です。今の戦争記者ですら、ここまで徹底して現場にいる戦争記録はめったにないそうです。ヨセフスの書いた歴史は、2000年たった今も第一級の戦争の歴史書として、認められています。

 なかなか全部は読めないのですが、ローマに囲まれたエルサレムの最後は、まさにイエス様の予言通りなのです。エルサレムはローマの堡塁に囲まれて陥落します。つまりローマはエルサレムを周りの木を全部切ってきて、完全な堡塁で囲むのです。最後はエルサレムに食料が無くなります。これはバビロン捕囚の時、エレミヤ哀歌の4章10節には「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」とあります。バビロン捕囚と同じように、ローマからの攻撃の時も、エルサレムの城壁の内にいる人は食料がなくなり、本当に自分の子供を煮炊きして食べるのです。これは身の毛もよだつ書き方です。しかし、どうすることもできない事実でした。飢餓になると人は自分の理性を失うのです。人は飢餓で狂ってくると言ってもいいでしょう。戦争の時は、このような事態になるのです。今のロシアとウクライナの戦争も、ブチャの虐殺で取り上げられていますが、死体を葬る余裕もなくなるのです。

 44節のイエス様の予言「お前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまう」とは戦争の想像の言い方でなくて、実際にそうなっていくイスラエルの姿なのです。神の子を心から受け入れない、「神の訪れてくださる時をわきまえない」時に、私たち人間がなっていく破滅の姿なのです。
 戦争の時は、なぜか良い人、悪い人がなくなり、敵であれば全部殲滅することになるのです。どうしたら、理性を保ち、戦争の時も、適正な振る舞いができるのか、さっぱりわかりません。祈祷会でも話したのですが、この前ズームの反核・平和セミナーに出た時、いくつかの本の紹介がありました。どれが読むべき本か分からずに、良さそうな本を取り寄せてみました。その中に、アメリカのマートン神父さんが書かれた『平和への情熱』という本がありました。この本の中に北欧のデンマークの話が書いてあります。デンマークは総人口が580万人強の小さい国です。九州がいま1400万人だそうですので九州の半分の人口の国です。ここが先の第2次大戦の時に、ナチスヒトラーに攻められました。なんと国王のクリスチャン10世は1日で降参、敗北を認めます。しかし、なんとそれから後は面従背反だったそうです。密かに国中のユダヤ人をノルーウエーに6000人も逃がし、大きな家を持つデンマークの国民はほぼユダヤ人を自分の家に匿ったそうです。とうとうナチス・ドイツは、デンマークのユダヤ人を捕まえられずに、ユダヤ人には黄色の紋章を付けよと命令すると「そんなこことをしたらまず国王がつけねばなりません」と国王の血にユダヤの血があることを取って従いませんでした。マートン神父さんは「なぜ、デンマーク人だけが、数あるヨーロッパの国の中でほとんどがユダヤ人を差し出しているのに、ナチス・ドイツに従わなかったのか。」そのように問います。そして、デンマーク人が特別信仰深いとか、優秀な民族ではない。デンマークはドイツやスエーデン、ノルーウエーと同じプロテスタントのルター派の普通の国だというのです。ただ、デンマーク人は頑なにまた素朴にマタイ伝22章39節「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に従ったのでないかと書いておられました。

 社会学的に、民族的に、人類学的に、どうこうでなくて、素朴に聖書の言葉に従う人が多い国だったのでないかと言うのです。私はこのマートン神父さんの判断の正しさを判定する何物をも持ちません。人口が少ないとか国王がユダヤ人の血を持っていたとか、いろいろな要素があるでしょう。しかし、素朴に聖書に従った人達が多かったというのは、あり得ると思うのです。イエス様の言われた「平和の道をわきまえていたら」に対応できる信仰であったかどうかなのです。こういうことは、神学の深さとか、奉仕がどうこうとか、そんなことでないように思います。祈りの力というか、もっと素朴はイエス様への信仰と服従のように思います。平和礼拝、平和の構築が祈りの継続力というと余りにも卑近な解決で申し訳ないのですが、基本はそういうところにあるのでないかと思います。

 祈ります。「天の父よ、本日は敗戦記念日を前に、平和礼拝を感謝です。ルカ伝19章42節のイエス様の予言の箇所から聞いています。私達は、神の恵みにより、支えられています、ただただ主の言葉に従って生きられますように祈るのみです。コロナ感染の第7波のまっただ中です。元統一教会に関連する政治家の関わりも知らされています。戦争を否定し、イエス様の非暴力に歩む者とさせてください。主の十字架の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナとロシアの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」

 説教       マルコ伝10章1〜12節        2022年8月7日
             「 2人は一体となる 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。広島と長崎原爆の間の礼拝となります。すでにご存じの通り、鹿児島では感染の増加が続き、先々週の火曜日からずっと11日間3000人を越え、昨日は3356人となっています。第7波のまっただ中にあります。ただただ用心して歩むのみです。また新聞テレビが伝える通り安倍元首相の凶弾による死亡事件から始まる元統一教会と国会議員さんの関係が正されています。ここから岸田総理は、早めに内閣改造をされるようです。宗教と政治は、イエス様時代からの問題であり、イエス様も「カイザル(皇帝)のものは、カイザル(皇帝)に、神のものは神に」とマルコ伝12章17節で言われています。簡単ではないのですが、お互いを利用しないように、きちんと線を引いていることが必要です。
 ただインドのガンジーさんの時には、イギリスへの独立抵抗運動は、ヒンズー教でしたが、宗教的な運動でもありました。義なる神、公正なる神、愛なる神様を信じることは、非暴力の正しい政治活動に導くこともまた確かだと思います。ウクライナとロシア、ミャンマーのクーデターも、根底には宗教もあり、難しいですが、平和を祈っていきたいと思います。
 さて本日は、8月の第1主日ですのでいつものように福音書から聞くという方針でマルコ伝を開いております。早いものでマルコ伝10章になりました。今日の聖書は、人類のというか私達の日頃と関係の深い結婚、離婚、再婚問題が取り上げられています。しかし、1,2節にあるように、本日の離婚、結婚、再婚問題は、残念ながらファイリサイ派の人々が、熱心な燃える求道心で聞いたのではありません。書いてあるように「イエスを試そうとした」とある通りです。問い方がひねくれていると答えもひねくれて出て来るので、残念です。でも、イエス様は問いが良くても悪くても、できるだけ神様の意思、御心は何で有るかを根底にされて答えられています。

 まず、1節にあるように、イエス様はいよいよガリラヤのカファルナウムを去り、エレサレムの十字架の道を進もうとされています。11章では、最後のエルサレム入場がなされます。群衆はいつものようにイエス様についてその教えを聞こうとしておりました。2節にあるように、その時ファリサイ派の人が、イエス様に近寄り「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」と聞きます。実はこれ、申命記24章1,2節に再婚の規定として、すでに答えが書いてあります。「離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」となっているのです。なぜ、ファリサイ派の人が、こんな分かり切った質問をしたのかが問われています。
 色々と言われていますが、おそらくこれはバプテスマのヨハネが、時の王ヘロデ・アンティパスの離婚、結婚問題について反対し、首を撥ねられ、処刑されたことが関係しているのでないか、とされます。つまりイエス様が、バプテスマのヨハネと同じように、ヘロデ王の離婚と結婚に反対することを直接言われれば、イエス様をうまく逮捕し処刑できることになるかもしれないということのようです。
 バプテスマのヨハネは、時の王ヘロデの結婚に対して、律法違反を語りました。ヘロデ王は、まず自分の妻を離婚し、それから自分の兄弟フィリポの妻ヘロデアと結婚しました。完全に政略結婚でありました。妻のヘロデアもなんとこの結婚を望み、うだつの上がらない夫と共にあるよりも、前の夫を離婚し、ヘロデ王と結婚したとも言われています。バプテスマのヨハネは、そもそも「自分の兄弟の妻と結婚することは赦されていない」とヘロデ王に語っていたのです。上流階級の結婚、離婚、再婚は当時から今に至るまで、2000年いやそれ以上の相変わらずの出来事でありました。

 いつだったか日曜日の午後の番組で、結婚制度は、社会のあり方に左右されるのでないか。ある社会は一夫一婦制、ある社会は一婦多妻制ではないかとかなり有名な方が、単に人間の制度であると言われてがっかりして聞いたことがあります。この方は真面目に一夫一婦制で生活されているようです。しかし結婚が単なる人間の制度であり人間が自由にできるのかとなると、どうかなと思います。もし単なる人間の制度であれば、こんなにいろいろな悩みがあり、苦労するのは、なんでかと言いたいです。

 3節にあるように、イエス様の答えは「妻を離縁することは、間違っている」とか、「妻を離縁するのは、正しい」とかではありませんでした。ここがイエス様のすごいところといえるでしょう。イエス様は法律、律法の適用や解釈よりも、もっと大切な律法と法の根底である神の御心、神の意志を問われます。これが「モーセはあなた方に何と命じたか」と言われた理由です。そして、ファリサイ派は、当然知っていることを当然の用に答えたのです。それが先ほどの申命記24章1,2節です。「モーセは離縁状を書いて離縁することを赦しました」となっています。ファリサイ派としては、「そのくらい知っているわい」ということでしょう。
 ここで私達は、マルコ伝10章17節以下のこの後、あのイエス様に金持ちの青年が質問したことを思い出します。「先生、永遠の命を得るためには何をしたらいいですか」。イエス様の答え「律法には何とかいてあるか」。青年の答え「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、盗むな、貪るな、父と母を敬え」です。イエス様は「それをしたらいいのです」。すると青年は「そんなことは子どもの時から守ってきました」と答えた姿によく似ています。この金持ちの青年が答えたように、ファリサイ派もまたそのくらいの事は知っているわいと答えたのです。
 そこで、イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けている者が一つある。行って持っている者を売り払い。貧しい人に施しなさい。天に宝を積みなさい」と言われたのです。まさに、このファイリサイ派にもイエス様は言われます。それが5節からです。「あなた達の心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのです」と前置きれます。つまり、モーセが示してくれた申命記24章の離婚手続きは、実は、本当に神様が望んでおられる姿でない。例外の規定であって、神様の望まれる本来の結婚の姿があるのです、と言うのです。
 これが6節からの答えになっています。すなわち「天地創造の初めから、神は人を男と女に造られた」と言われます。確かに人類学の見地がいうように、結婚の制度は社会や経済、歴史によって変わるのかも知れません。しかし、イエス様は、神様の創られた本来の人間の姿は、神様が人を男と女に創造された。ここから一対一というか、男と女が共に歩む姿を示しておられます。7,8節は「人は父と母を離れて、妻と結ばれ、2人は一体となる」としています。神様が創られた男と女は、父と母を離れて、つまり父と母つまり前の社会と氏族の庇護と守りを離れて、2人で一緒に協力して、一つの家庭を築いていくことが示されています。

 そして9節「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と宣言されます。これはある意味で、イエス様もまたバプテスマのヨハネが、ヘロデ王に言った結論と同じです。結婚は気に入ったので結ばれ、気に入らなくなったので離れるような人間の制度ではありません。政略結婚の場合は、まさに姻戚を結ぶことで、自分の家の安定を図り、社会の安定を図ったり、経済の安定を目指したりです。しかし、これは神が合わせてくだったものを、人間が勝手にあわせることになります。つまり、本当の結婚とは、とどのつまり神が合わせられたのか、そうでないかとなるのです。多くの離婚が現実にありますが、この場合の正しい判定は、神が合わせておられなかった。人間的に勝手に一緒になっていたということになります。
 この前、カトリックの神父さん達と一緒に集う交流会の牧師神父の会があって、新しい神父さんが鹿児島に派遣されて来られたのです。なんとこの神父さんは、信者さんから離婚を提出された時にそれを扱う資格を持っておられるのだそうです。つまり、神様が本当に結ばれた結婚であったかを調査する資格ということでした。具体的は易しくないでしょう。しかし、そうか、そこまであるのかという気もします。
 イエス様は、よく考えない人間の思いだけの結婚や、人間の思いだけ、また利益だけで離婚して、再婚するような働きは、やはり神様をないがしろにしているとされたでしょう。もちろん、結婚関係が現実には、破綻しているのに、繕って一緒になっている結婚もまた、よしされなかったでしょう。「神が合わせた者を、人は離してはならない」は、神の恵みにおいて、結婚が成立し、神の恵みにおいて、離婚がなされていく姿を示しているといえるでしょう。これは白黒をはっきりさせるような対話でなくて、本当に祈りつつ、粘り強く、中間を加味して、よく考えて、それでもできない無理だ、という具体的な作業になるでしょう。

 10節からは、イエス様は弟子達の質問に答えられています。このあり方も福音書ではいくつかあります。すでに、教えて答えがあるのですが、弟子にはやはり特別に教えられるのです。ここはユダヤ教の法体系以上のことがあるともされ、私達には理解されにくい所もあります。「妻を離縁して、他の女を娶るものは、妻に対して姦通の罪となる。夫を離縁して、他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。ここにはユダヤ社会では、考えることが出来なかった「妻が夫を離縁すること」が言われています。ローマ・ギリシャ社会になるとユダヤと違って、実際に女性にも財産権が与えられて、夫を離縁できる妻が多くいたとされます。
 しかし、実際には、夫が明らかに横暴の場合が多く、申命記24章1,2節では男だけが離縁状を出すことができました。そしてそれは信じられないですが、不貞を働いてというだけでなくて、料理を焦がしたとか、もっと美しい女性ができたとかの理由が認められたとされます。完全に男性社会でした。イエス様はこのような男性社会で、女性が虐げられることを、非常に憤慨、嫌悪されていました。ヨハネ伝8章の姦淫の現場でとり抑えられた女性の出来事も、なんで男はおらんのかと思われる女性の方は多いでしょう。男性は密かに逃がされ、女性だけが石打の刑になったのです。それでイエス様は「先ず罪のないものが、石を投げよ」と言われたのです。

 つまり結婚にしても、永遠の命にしても、離縁状がいいのか悪いのかとか、永遠の命は、人間の業で手に入るのか、入ら無いのか、でないのです。徹頭徹尾、神様の恵みだったのです。妻と夫はただ神様の恵みで、1人が結ばれ、1人が与えられるのです。永遠の命は、ただ神様の一方的なイエス様の十字架の贖いで、与えられるのです。自分が自分の業で手にした、人間がどうにもできるというのは、傲慢なのです。
 パウロがエフェソ5章25節で「夫達よ、キリストが教会を愛し、教会の為にご自分を与えてくださったように、妻を愛しなさい」と書きました。結婚を教会とキリストの間に譬えたのは、単なる思いつきでないのです。教会の救いも、妻と夫の関係も、キリストの恵みの次元で、神様の恵みの同次元であったのです。

 私達は、与えられた自分の妻や自分の夫を、改めて神様が合わせてくださった賜物、恵みとして受けて歩むことが赦されています。

 祈ります。「天の父よ、マルコ伝10章から恵みを感謝です。私達は、神の恵みにより、結婚が与えられています。感謝です。コロナ感染の第7波のまっただ中です。元統一教会に関連する政治家の関わりも知らされています。恵みに歩む者とさせてください。主の十字架の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」


 説教     第3ヨハネの手紙1〜4節       2022年7月31日
           「 すべての面で恵まれ 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。すでにご存じの通り、鹿児島では、感染の増加が続き、先週は火曜日からずっと3000人を越え、昨日は3019人となっています。第7波のまっただ中にあります。ただただ用心して歩むのみです。また新聞テレビが伝える通り安倍元首相の凶弾による死亡事件から始まる元統一教会と国会議員さんの関係も、次々と出てきています。選挙協力と献金が、こんなにあるのかと言うところです。選挙運動を一生懸命してくれる元統一教会員は、議員さんからみれば、本当に有り難く、さらに献金までしてくれるのですから、関係するなと言う方が無理かもです。
 宗教団体の方も、こんな有名な方が信者にいるのだったら間違いなかろうと思うのを利用するとは、なかなかです。本来、信仰は一人一人ですが、私達もついこんな偉い人が、わがバプテストにいるとか、いたとか、理由無しにやはり嬉しいものです。そしてそこを目標にして広告塔として利用するのは、罪が思いです。この前昼のテレビでは、ロシアのプーチンさんが、トルストイの『戦争と平和』が愛読書だそうです。『戦争と平和』のロシア人の愛国心のところだけ読んで強調し、戦争の悲惨さ愚かさの部分を読んでないとロシア文学の方が怒って語っておられました。読み方は自由なのですが、トルストイが戦争の肯定に用いられるとは、びっくりでした。

 しかし、歴史をみますとイエス様でさえ、11世紀の西洋の十字軍の時には戦争に用いられたのです。根が深いです。私達は、聖書をきちんと読む、聖書にきちんと聞く、福音書のイエス様の御心は、神様の御心は何であるのか、きちんと聞いていきたいです。たまたま先週は日本キリスト教団の友達に誘われて、反核・平和セミナーにズーム参加しました。講師の方は、スリランカでしばらく海外伝道をされた方でした。イエス様は完全な非暴力であり、しかしこれは無抵抗ではないということを、覚えてほしいと訴えておられました。イエス様の非暴力は、私達はどちらかというと受容的な忍従を強いる方向に受け止めます。しかし、講師はローマ帝国の圧倒的な軍事力の支配に対する積極的な抵抗が、実は非暴力である。「左の頬を向けよ、上着を取らせよ、もう一マイル行け」は、忍従・受容ではありませんと言われます。「敵を愛せよ」とは、積極的な抵抗なのですとも言われます。正直、ぽかんと聞きました。イエス様の言葉は改めて深く、もっともっときちんと理解しないといけないと思いました。
 さて聖書は、今日は第5週ですので自由に選ぶと言う方針です。余り深く考えずに、時には、全く聞かない、開かない聖書も読んだ方が良いかとヨハネ第3の手紙を選びました。この手紙は、おそらく皆さん注目して読んだ方は無いと思います。ただ実は1980年頃、韓国の先生が「3拍子の福音」という提唱をされて、福音を信じると「健康になる、金持ちになる、社会的な地位が上がる」と言うことで、この第3ヨハネの2節「すべての面で恵まれる」が取り上げられたことがありました。今も新興宗教はそういうことを前面にだすのです。さすがにキリスト教では、十字架のイエス様ですので、すぐに冷静になったと思います。

 このヨハネの第3の手紙はパウロでいうとピレモンの手紙のように全くの個人的な手紙です。実は個人的な手紙、コリント書やローマ書のように教会に充てられていない手紙が、なぜ聖書の正典になったのか、神の言葉として受けられたのかは、実はよく分かっていません。しかし、ピレモン書やこのヨハネの第3の手紙のように完全に個人的な手紙が、聖書とされ、受け止められたことは良かったと思います。それは、信仰とはどういうことであるのか、私達は個人的にも知ることが赦されるからです。
 ヨハネの手紙第3は、1節にあるように、本来的には「ガイオの手紙」でも良かったと思います。長老ヨハネは、ガイオという自分の愛する弟子に対して手紙を書きました。ガイオという名は実は聖書ではなんと4箇所も出てきます。言行録19章29節にマケドニア人のガイオ、20章4節にはデルベ人のガイオ、ローマ16章23節にも、又第1コリント1章14節にも出てきます。残念ながらこのヨハネ第3の手紙のガイオは、他の4箇所にでてくるガイオと全く違う人と言われています。つまり、ガイオとは日本でいえば、鈴木太郎さんや田中次郎さんのように、もっとも一般的な名前であったとされています。
 3節に、しかし、このヨハネの手紙の長老ヨハネは、ガイオが「兄弟達が来ては、あなたが真理に歩んでいる事を証ししてくれた」と書いています。私達は何のことか分かりません。しかし多くの聖書の解説書が、長老ヨハネが生きていた頃の1世紀を終わる頃の初代教会は、巡回伝道者が非常に多かったと言われます。つまり、国から国、教会から教会へ、家から家に福音を伝えて巡回している巡回伝道者の面倒というか生活というか、お世話をした人がガイオだったのです。
 この巡回伝道者を長老ヨハネは多数知っていて、そこからガイオの働きを聞いたという分けなのです。つまり3節の「真理に歩んでいることを、証ししてくれた」とは、長老ヨハネの知る巡回伝道者達が、ガイオが、しっかり教会を支え、特に読みませんでしたが、5節の「よそから来た人達」つまり巡回伝道者達を支えて、お世話をしてくれていたと言うことを聞いたのでありました。6節の「彼ら(巡回伝道者達)は教会であなたの愛を証ししました」と書いているのです。

 ここは、改めていろいろなことを私達に教えて、示唆します。まず、ガイオはこの時、教会の公式の務め、監督とか牧師とか教師、奉仕者とかの教会制度の務めを持っていなかったのです。もちろん、後の伝承ではガイオはテサロニケ教会の初代監督になった、つまり初代牧師に任命されたとか、あるそうです。しかし、この時には、残念ながらどこの教会か分からないですが、長老ヨハネが知っているある教会のただの一介の信徒であって、何も役職は持ってなかったのです。しかし、自分の教会に来てくれた巡回伝道者達を、誠意をもって支え、お世話してくれたのです。
 教会に来てくれた巡回伝道者のお世話をしてくれた。この事が、なんとヨハネ第3の手紙が、聖書に入れられた手紙となった原因となります。これは改めてすごいことでありました。ガイオは、巡回伝道者だった、牧師だった、伝道者だった、教師だったなら、なんとなく分かるのです。それならその自分の務めを果たしたとなるでしょう。しかし、教会で何も役職はないけれども、よそから来た人々にために、誠意をもって精一杯のことをしてくれたのがガイオだったのです。
 これは、改めて初代教会が信徒の教会であって、制度の教会で無かった。もちろん初代教会だから制度がないのが当然という見方もあるでしょう。しかし、自発と奉仕の心で長老ヨハネの知るある教会は成り立っていたのです。そして、この行為が長老ヨハネからみると「真理に歩んでいる」と3,4節に3回も書かれています。

 私達は、改めて初代教会がイエス様の言葉を本当にそのまま実戦しようとしていたことに気づきます。何度も引用してすみませんが、マタイ伝25章35節以下には、「飢えた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見まい、牢にいた時に尋ねてくれた」とあります。まさにガイオはここの「旅をしていた時に宿を貸し」でありました。ガイオがひたすら、イエス様の言葉に従い、巡回伝道者の世話をなし、宿を貸しを実戦し、そして、そのことを長老ヨハネは聞いて「ガイオは真理に歩んでいます」と非常に喜んだのです。
 私達はこうやって、初代教会が成り立ち、支えられ、イエス様の教会として、立って行ったのだと分かるのです。巡回伝道者のお世話をするのは、確かに大変だったと思います。ガイオは自分の家に連れて行ったのだろうか。ガイオは何か商売をしていて、大きな家か倉庫かを持っていたのであろうか。意外と金持ちでお世話が出来たのだろうか。使徒言行録を読みますと幾つかの例があります。言行録16章15節では、フィリピ教会で、リィデアという婦人が、パウロ一行を「自分の家に来てお泊まりください」と招いています。リデアは紫布の商人ですので、お金持ちだったと思います。言行録18章ではアクラとプリスキラが、パウロを自分の家に泊めています。これは同業者として泊まり込んだとあります。
 ガイオがどのように、巡回伝道者をお世話し、支えたのか書いてありません。しかし、自分の出来ることを、成したのでしょう。そして、私達は自分が出来ないことは求められてないといえるでしょう。出来ることを精一杯主に果たすということだと思います。できないことは出来ないのですから、神様にお任せするしかありません。

 本日は読みませんでしたが、第3ヨハネの手紙には、9節にはディオトレフェスが出てきて、12節にはデメトリオが出てきます。この2人は、長老ヨハネの指導を受け入れませんでした。聖書の面白いというか、すごいところは、きちんと教会の欠点を、書いていると言うことです。言行録2章44節には「信者達は皆一つとなって、すべての者を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とありました。確かに、初代教会はうるわしい兄弟愛で、自分の持ちを売り払って、人々を支えたと読めます。しかし、ヨハネの手紙は、実はそうでもなかった状態を伝えるのです。それは、初代教会は最初ペンテコステの時、紀元30年代と紀元1世紀頃の70年間の違いということもできます。しかし、時代がどうであれ、教会は、一致と混乱を持ちつつ、その中を神様の恵みを受けて歩むしか無いのだと思います。
 これらの同じ時代の反対の記述の平行箇所は、他にもあります。例えば旧約ヘブライ聖書で言うとヨシュア記と士師記の違いです。ヨシュア記では、どんどんイスラエルが土地取得をして定着して行きます。しかし、同じことを士師記ではなかなか土地取得が進まず、イスラエルが本当に苦労して、約束に地に入り、時に土地の民ペリシテ人と混じり合いながら、時に土地の民ミディアン人に支配されながら定着していく様子を伝えています。読む私達はどちらが本当かと言いたいです。しかし、歴史は、どちらも本当だ、つまりどちらもあったのだと思います。ヨシュアがどんどん約束の土地にいる町を攻め落とした。しかし、同時になかなか攻め落とせず、時には土地の民族に支配されつつしかし、それでもその民族の妻を娶り融合しつつ、主なる神さまの元に信仰を持って歩んで行ったと言うことです。

 長老ヨハネの教会も、具体的には何教会か示されていません。しかし、ガイオのような教会に何の役職もないのに、イエス様の言われた通り、巡回伝道者をお世話する人がいる。しかし、同じ教会にディオトレフェスのように、又デメトリオのように、そもそも長老ヨハネの言うことさえ聞かない人がある。でも、主イエス様は長老ヨハネの教会を愛し、守り、導きかれるのです。長老ヨハネも又14節には、お目にかかって親しく話したいとしています。長老ヨハネは実際にこれが出来たのかどうかも分かりません。でも、最善を尽くしたのだと思います。私達も、自分の場で最善を尽くして、十字架の主の真理に従って福音を伝え、歩み続けるのみです。

 祈ります。「天の父よ、第3ヨハネの手紙を感謝です。教会はいろいろな人の中で成長させられています。コロナ感染の第7波のまっただ中です。ウクライナの戦争に続き、元統一教会に関連する政治家の関わりも知らされています。真理に歩む者とさせてください。主の十字架の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」


 説教     エフェソ書4章17〜24節       2022年7月24日
              「 新しい人を 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。すでにご存じの通り、鹿児島では、感染の増加が続き、先週は水、木、金と2000人を越え、昨日は3番名の2,590人となっています。第7波に突入です。ただただ用心して歩むのみです。また新聞テレビが伝える通り首相であった安部首相が、演説中に凶弾に倒れ、こちらもいろいろと言われています。特に、お母さんが「旧統一教会に対して申し訳ない」と言われたことが、問題になっています。教団に1億円以上の献金をなされ、家庭崩壊を招かれて、なお元統一教会を守るとは、改めて信仰のすごさを知らされます。改めて、正しい信仰というか、聖書の信仰とはどういうことなのか。考えさせられます。
 イエス様が、聖書の信仰のあり方を、マタイ伝25章で「飢えた者に食べさせ、喉の渇く者に飲ませ、旅人をもてなし、裸の者を支え、病気の者を見舞い、獄屋にいる者を尋ねる」と教えてくださったこと感謝です。イエス様は、苦難と共にある者を助け、苦しみを持つ人と共に歩もうとされました。イエス様は時のユダヤのヘロデ王をルカ伝13:32ですが、「あのきつね」と揶揄して言われ、祭司長、律法学者と組むのは全くありません。つまり有力政治家達と全く組むことなく、ただ病気の人、困った人、苦しみを持つ人と共に歩まれたのです。イエス様のあり方にただただ感謝です。

 さて聖書は第4週ですので、いつものように日本バプテスト連盟が発行する『聖書教育』の本日の箇所から聞いていきます。1ヶ月に一度は、連盟の指定する聖書から聞きます。聖書教育の本日の聖書は、エフェソ書4章17~24節となっています。祈祷会に来られる方は、繰り返しになります。エフェソ教会の背景を少しだけお話します。
 エフェソ教会は、使徒言行録の19章にその町と伝道の様子が伝えられています。エフェソの町ように、伝道において起こった出来事が詳しく書いてあるのは珍しいです。同じ時期に伝道され、また書かれたコロサイ教会とコロサイ書は、言行録には何も書いていません。エフェソの伝道は、パウロの第3伝道旅行において紀元50~53年頃とされます。実はコロサイ書のコロサイ教会も全く同じ時期に伝道されました。さらに書かれた時ですが、言行録28章にあるパウロがローマにいて軟禁状態にある時とされ、時は紀元61~3年頃とされています。従って、エフェソの手紙は、伝道されて10年くらいのまだ若い教会に書かれていることになります。

 言行録19章を読みますと本当に面白いです。大きくいうと3つの出来事がエフェソで起こっています。まずバプテスマを受けたけれども、聖霊を受けていないキリスト者がいました。そんな馬鹿なと思いますが、パウロはその人たちの為に、聖霊を受けるバプテスマをしてあげたのです。次に、言行録19章の11節以下には、ユダヤ人の祈祷師がいたとされ、なんとパウロのように力ある業をしたいと知りもしないのに、イエス様の名を使って、悪霊を追い出そうとしました。すると悪霊に取り付かれた人が、祈祷師達に飛びかかり、この7人の祈祷師達は裸にされたとあります。よく知りもしない信仰を使うと怪我をするということです。

 最後に、19章21節以下に、エフェソにはアルテミス神殿があって、この神殿は当時世界7代不思議に数えられ、アルテミスの女神様は高さ17mあったそうです。これは奈良の大仏さんと同じ高さです。ここに銀細工人がいて、アルテミス神殿の模型を作り売って儲けていました。パウロがイエス様の伝道をすると「アルテミスの女神様の方が偉い」と絶叫して、パウロ達は町を追い出されそうになります。たまたま町の書記官これは、今でいえば市長さんみたいな人で、パウロを助けてくれました。
 こうしてパウロは、エフェソの町で2年間の伝道をするのですが、その町はアルテミス大神殿の町であり、ユダヤ人の祈祷師達が活躍する町であり、キリスト者はいるのですが、聖霊を知らないキリスト者と言った具合でした。パウロのエフェソ伝道は困難を極め、大変だっただろうと想像できます。この町を離れて、パウロは10年近く経過して、このエフェソの手紙を書いているのです。パウロは、エフェソの教会が10年近く伝道が続いていることに感謝し、こうして手紙を書きました。

 本日の所は、17節から読んで頂きましたが、直前のゴチック体の標題は「古い生き方を捨てる」とあります。パウロは、もう一度エフェソの人に、キリスト教の基本を教えているのです。本日の17節からは「古い生き方・古い人を捨てる、また脱ぐこと語り」、25節からは「新しい生き方」つまり新しい人、新しい人を着ることを語ります。エフェソは伝道されて10年たってはいるのですが、パウロは最も易しい言い方をしています。キリストを信じる前は、古い生き方で生きる古い人である。そして、信仰とは古い人を脱ぎ捨て、そして、新しい人に譬えて、新しい人を着る事として示しています。
 17節にパウロが強く勧め、証しすることは、キリストを信じることは、古い生き方を脱いだことになるといことです。「新しい人を着る、古い人を脱ぐ」というのは、信仰を説明するにとても分かり易かったと思います。ここで異邦人としていますが、エフェソの教会の状態から異邦人とは、むしろ神を神としない人のことでありましょう。18節には、異邦人として神を信じない人が示されており、3つの状態が書かれています。1つは知性が暗くなる。2つは心が頑なになる。3つは神から遠く離れるということです。神様を信じないことで起こる状況は、まず知性が暗くなること、心が頑なになることです。エフェソ教会の出来事でいえば、イエス様を信じた時に、聖霊を受けないでしまったことです。これは、詳しくなりだすと聖霊のバプテスマがどうのこうのが出てくるのです。しかし、単純に受けるとイエス様を信じることで、聖霊が受けられるということを知らなかったことです。これは初代教会だから仕方ないことかも知れません。でも聖霊によってイエス様を信じて行くことは、パウロは最初から導き、教えた事だったと思います。しかし、よく聞いていないということです。

 また心が頑なで、信じたもののやはり素直に受け止めないということもあるでしょう。また7人の祈祷師の事件のように、生半可の知識で、イエス様の名を使えば悪霊が出ていくという現象だけで、イエス様の名前を使って、返って悪霊から打たれることもそうでしょう。なぜそうなるのか、なぜ、イエス様の名を用いると悪霊が出て行ったのか、イエス様の名を用いる事はどういうことであるか。7人の祈祷師はやはり、パウロがそこにいるのですから、パウロから又聖書から学ぶべきでした。イエス様が悪霊を追い出すことがおできになったのは、やはりそこには悪霊に付かれている者達、病気を持つ者達に対する深い愛と同情と祈りがあったのです。

 19節には、無知と心の頑なさのゆえに神から離れた状態の姿が書かれています。ややはり3つあります。まず無感覚です。次に放縦な生活です。そして、ふしだらな行いです。放縦とふしだらはどちらかというと性的な罪に入ります。港町によくあるように、コリントの町もそうでしたが、性的な無感覚と放縦とふしだらが、エフェソの港町の特長だったのでしょう。
 性的な罪といえば、イエス様の教えに、マタイ伝5章27節「みだらな思いで、他人の妻を見る者は、誰でもすでに心の中で、その女を犯したのである」というのがありました。これは本当に厳しい言い方であります。健康な若い方であれば、何でとなると思うのです。幾つかの取り方があります。イエス様はあえて難しいこと、律法の厳しさを言われたという律法理想説という取り方があります。もう一つ、当時は女性は男性の所有物でした。「みだらな」というのは、法的な範囲を超えて他人の持ち物として他人の妻を扱ったということがあると言われます。しかし、もう一つ「姦淫するな」のモーセの十戒の適用を極端まで広げて、その不可能を示し、姦淫するなという戒めを用いて、男性に抜け道を造り、女性を支配する当時の男女の律法の適応のあり方を、イエス様は批判されたとも言われています。
 当時のエフェソに流行っていたキリスト教は、異端的でグノーシスキリスト教といいました。このキリスト教は、イエス様はバプテスマの時に、神のキリスト様が人間のイエス様に入り、神のキリスト様は十字架に付けられる前に、人間イエス様から抜け出したと教えたとされます。つまり、神の御子イエス様は十字架を受けず、苦しまず、神は何の害を受けなかったとしたのです。むしろ、イエス様は本当の神ではなく仮現の神であり、十字架に掛かった劣等の神であるとしたのです。そして、グノーシスのキリスト教は、真の救いの知識を知ることで、イエス様を越えることができるとしました。イエス様を越えることのできる知識ですので、これを受けた者は、何をしても大丈夫となります。ここからコリント教会のように、第1コリント5章1節にある近親相姦をしているような状況だったのです。統一教会が意思を無視した集団結婚式や教祖の血を受けるとよい子孫が生まれるとか言う教えは、原罪を無視した基本的に自分たちはキリストを越えるという類の教えです。イエス様を越えたと言った瞬間に、放縦とふしだらが生まれて来るのです。

 20節にあるように、パウロは、このような教えに取り囲まれたエフェソ教会に対し、キリストをこのようには、つまりグノーシス異端キリスト教にように学んでいないとします。21節「キリストに聞き、キリストに結ばれて学び、真理はキリストにある」のです。神のキリストが人間のイエス様に入ったのではなく、イエス様はマリヤより生まれた神にして人、人にして神の本当の神様でした。そして、十字架を受け、十字架を苦しみ、死んでくださり、私達の罪を贖って復活されたのです。

 22、23節にあるように「信じる前の古い人を脱ぎ捨て、心から新たにされて、新しい人を着なさい」と勧めています。そして、24節には「真理に基づき、正しく清い生活をしなさい」と書いています。「正しく清い生活」というと私達は品行方正な生活、道徳・倫理的な生活と取りそうです。しかし、基本は20節にある「キリストに聞き、キリストに結ばれ、キリストの内に生きる」ことです。
 巻頭言に少し書きましたが、キリスト教は改めて幸福宗教から離れて、キリストに仕える宗教であるということを確認したいです。確かに病気からの解放、健康は大切です。しかし、イエス様が十字架を受けられたのですから、最終的には病気が神様からものであれば、受けるしかありません。イエス様を信じれば、儲かり、財産が増えることに越したことはないでしょう。しかしそれ以上に、自分に与えられた財産、お金をきちんと管理すること、神様に向かって用いることは、もっと大切です。統一教会のように、多く献金すれば祝福を受けるは聖書にはありません。今与えられているお金を、自分の為に、自分の家族の為に、教会の為にきちんと管理することです。イエス様を信じれば、社会的に地位が上がり、一目置かれる。これは、日本ではまずないのですが、しかし、教会に行っている人は一目置かれることがあります。しかし、やはり基本はイエス様に仕えることであり、十字架に仕えることです。私たちは、神様や教会を利用するのでなく、自分が主に仕えるのです。元統一教会の今回の再来は、今一度教会のあり方を問うのだと思います。徹底して恵みに生きましょう。

 祈ります。「天の父よ、コロナの疫病とウクライナの戦争に続き、元統一教会に関連する方の凶弾によるテロまでおきました。主に聞き、主に学び、主の内に歩ませてください。主の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」

    説教  エゼキエル書37章1〜6節       2022年7月17日
           「 お前達は生き返る 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。すでにご存じの通り、鹿児島では、先週の火曜日から1500人代の感染が続き、昨日は1701人と最高記録です。一体、いつまで疫病は続くかと言うところです。また新聞テレビが言う通り首相であった安部元首相が、演説中に凶弾に倒れ、この犯人が、元統一教会で破壊された家族の方でした。また宗教は危険とか、のめり込むなとか、言われる時代になるようです。暫くはオウム真理教が取り締まりされた時のような状況になるのかも知れません。犯人の実像が段々分かるに連れて、やったことは酷いですが、そこに至った理由は同情が起こらざるを得ません。コロナ感染に注意しつつ、なお私達の伝道の使命を果たしていくしかないかなと示されております。

 さて聖書は第3週ですので、いつものように旧約ヘブライ聖書から聞くということで、エゼキエル書37章から聞いていきます。先月の36章の時に話しましたように、エゼキエルは37章から今までの審判の預言が、救いの預言、復興の預言となっていきます。1節には、エゼキエル書には4回出てきて、それぞれの場面が預言の転換点になる「主の手が私の上に望んだ」ということばで始まります。この言い方は、エゼキエル1章3節の「幻の開示預言」、エゼキエル書8章1節の「エルサレム陥落預言」そして、本日の37章1節の「エルサレムの復活預言」、そして最後は40章から展開される「新しい神殿の幻預言」とあります。エゼキエル書は、ある意味で大きく捕えるとこの4つの時、4つの「主のみ手の預言」で、構成されているとも言えます。
 37章1節からの預言は、今でいうところの瞬間移動から始まります。エゼキエルは、バビロンに捕囚されて、バビロンにいるのです。1章3節からは、エゼキエルは「バビロンの地ケバル川の湖畔」にいました。おそらくそこにユダヤ人達は集められて、ユーフラテス川の湖岸工事等に徴用される集落があったのでしょう。ちょうど戦後から1980年当たりまで、日本の至る所に連行されて来られた在日の朝鮮・韓国人の方が住む場所があったようにではないかと思います。

 エゼキエルは、こうしてバビロンにいるのですが、霊によってイスラエルにある谷の真ん中に降ろされます。するとそこには骨が一杯であったとあるのです。ここはおそらくバビロンとイスラエルが戦った古戦場であろうとされています。余りにも戦闘が激しく、死者が多かったので、もう弔いをなし、お墓を建てる余裕もなかったのです。死者がそのままになっていたということであります。聖書解説書には、いろいろな谷の名前の候補が出ています。しかし、私達にはエルサレム近郊のある戦いの激しかった大きな谷ということでいいかと思います。

 2節にあるように、主は、エゼキエルを霊のままであったのか、体ごと移動させられたのか分かりませんが、この周囲を行きめぐらされます。通常、旧約ヘブライ聖書のユダヤ教では、たとえばレビ記5章2節にあるように、死者に触れると汚れるとされておりました。ですからエゼキエルは祭司でしたので、骨のあるところは行き巡るのは汚れの為に不可能と思います。しかし、ここでは霊がエゼキエルを導いていますので、それが出来たのか、神様の導きですので、従ったのでありましょう。
 さらにこの骨は「甚だしく涸れていた」とあります。これは、幾つかの解釈があって、骨に湿り気があるとまだ命があるとされたようです。しかし、ここで甚だしく涸れていたというのは、もうすっかり水気がなく、誰がどう見ても、どうにも命のかけらもない。完全にカラカラの骨であるということを伝えていると言われます。私達は骨になったからには、湿った骨も、渇いた骨も変わりあるまいと思います。しかしユダヤでは、湿った骨にはまだ命が残っておると感じたようです。しかし、ここで主の霊は、エゼキエルにこの骨は完全に涸れてしまっており、もはや命のかけらもないと伝え、宣言していることになります。
 人間の骨が、野ざらしにされて、一体何年でカラカラの骨になるのか分かりません。しかし少なくても数年なし4,5年は係ると思います。そうするとこの預言は、バビロン捕囚のエルサレムの陥落がBC586〜7年でしたので、これから4,5年を引くとBC580〜2年当たりとなります。第4の主の手の預言「新しい神殿預言」が40章1節にあって、捕囚より25年との日付があります。これはBC573年当たりとされます。涸れた骨の復活預言は従って、BC580年からBC574年程の間となるかと思います。
 実は、今日は読みませんでしたが、37章11節にはこの涸れた骨の解説が預言されています。そこには、この涸れた骨は「イスラエルの全家である」と言われています。つまりエゼキエルが言いたいのは、バビロン捕囚を受けて、エルサレム神殿が破壊され、陥落してしまったイスラエルは、まさに涸れた骨であるということです。完全に神様の恵みの望が断たれ、再出発の願いは断たれ、完全に死に呑み込まれたということであったのです。ただ神殿という建物が無くなったのではなく、エルサレム神殿に係っていたいろいろな主なる神様の約束・契約が反古になったのです。
 主は、ダビデ王に預言者ナタンを通して、エルサレム神殿の準備をするように言われました。又主はソロモン王に、神殿の建設を許可されました。サムエル記下7章13節です。「あなたの身からでる子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者(ソロモン)が、私の名のために家を建て、私は彼の王国を永久に固く据える」と言われました。主なる神のこの約束・契約はどうなってしまったのか。「私は彼の王国を永久に固く据える」という約束、契約はこうも簡単に、反古にされていいのかどうか。つまり、エルサレム神殿の崩壊と陥落は、現実の建物の崩壊と陥落であると同時に、主なる神様の約束、契約の崩壊と破棄でもあるのです。

 つまり主なる神さまは、とどのつまりバビロンのマルドークの神様に力及ばなかった。主なる神さまは、バビロンの神様より弱かったとなるのです。これは、通常の状態では、列王記上11章33節にありますが「シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコム」は最終的に、バビロンの神マルドーク神にやられたとなるのです。ところが、主なる神さまは、女神アシュトレト、神ケモシュ、神ミルコムとも全く違っていた。そもそも現在、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロンのマルドーク神も文献にあるのみです。しかし、主なる神さまはマルドーク神にやられたはずですが、今や全世界の人々に知られ、イスラエルから一番遠い、極東の端、日本でもイエス様の名において知られている。おっとどっこい生きておれたのです。
 皆さんが聞いている通りイザヤ、エレミヤ、エゼキエルが預言した通りです。主なる神さまはバビロンの神マルドーク神よりも弱かったからエルサレム神殿を破壊されたのでない。イスラエルの民が、主なる神様に罪を犯し、他の神々を頼ったので、主なる神様はエルサレム神殿を破壊し、イスラエルに悔い改めを求められたのです。私達は、改めて預言者の預言の力に驚きます。自分たちの神様が弱かったから自分たちは陥落し、負けたのでない。自分たちに罪があったので、主なる神さまは自分たちを裁かれた。ということは、自分たちが罪を悔い改めれば、主なる神さまは、共にあり必ず自分たちをまた復興させ、再建してくださるとなるのです。
 改めてこれは、とんでもない信仰だと思います。自分たちの神様は弱かった。だから自分たちの町も神殿も守れなかった。これは誰でも体験できると思います。現実に聖書以外の民はすべてこうだったのです。しかし、自分たちの神様は義なる聖なる神様だった。だから、罪を犯した自分たちは裁かれて、バビロンの外国の神の支配を受けて、世界に散らばり、離散した。しかし、罪を悔い改めて主なる神さまに立ち返れば、主は又地の果てからでも集めて自分たちを復興してくださる。
 3節に、主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」。エゼキエルの問われた信仰はこういうことだったのです。涸れた骨は、もうどうしようもない。これから雨に流され、風に吹かれて、消えて無くなるしかない。しかし、主なる神さまがこの涸れた骨に係わる時、実際には聖霊を吹かせる時、涸れた骨はどうなるのかです。エゼキエルもまた、答えることのできるのは「主なる神よ、あなたのみがご存知です」でありました。

 4節にあるように、エゼキエルは、涸れた骨に向かって預言するように主なる神様に言われるのです。「涸れた骨よ、主の言葉を聞け」。涸れた骨は、もう命がありませんので、聞くことができないはずです。聞くことが出来ないのに「神の言葉を聞け」とはいかなることであるのか。具体的にはわかりません。しかしこれは天地創造の創世記2章7節の時、土から造られた人間に、鼻に息が吹きかけられて、生きるようになった最初に人間アダムの姿です。「主なる神は土の塵で人を形造り、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」です。息とは霊のことであり、聖霊のことであります。聖霊を受けると人は生き返るのです。

 先週は、南九州連合の青年読者会がオンラインでありました。当教会でバプテスマを受けた大牟田教会の鞠子太一さんが今責任をとっておられます。今回は『聖書考古学』という本でした。中公新書で私は例によってアマゾンの中古本を1円にて買いました。この本は長谷川修一先生という方が、旧約聖書の話しはどれだけ考古学的には、裏付けがあるのかという本です。アブラハムはどうか、モーセはどうか、ダビデは、ソロモンはという感じです。この長谷川先生は、聖書の出来事で一番大切だったのは、なんとバビロン捕囚でないかと書かれていました。
 私は、今まで多くの旧約聖書神学の本を読みましたが、一番大切は、出エジプトの出来事と言うのが定説でしょう。しかし、長谷川先生は、バビロンに神殿を破壊され、イスラエルの民が路頭に迷い、バビロンを初めとして世界に散らされた。これが、イスラエル民族をイスラエルとして、イエス様をこの世に送り出すユダヤ教の母胎になったのですと言われるのです。つまり、イスラエルが涸れた骨になったこと、十字架を受けた事が、実は復活を示し、イエス様を送り出す、イスラエルになったのですと言われるのです。これには驚きました。しかし、確かにとも思うのです。

 もし、イスラエルがぬくぬくとエルサレム神殿を持っていたら、イスラエルの神様は、まさにバビロンに滅ぼされたアシュトレト神、ケモシュ神、ミルコム神に成り下がったのではないでしょうか。バビロンに滅ばされた時、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが主に召されました。そして、根底から自分たちの使命、証明、委託を問うてくれたのです。ここからバビロンから帰還し、涸れた骨は、肉を付け、筋を付け、皮膚を付け、聖霊に導かれ、生き返り、イエス様を送るのです。罪を悔い改めることが、聖霊を受けることだと知らされたのです。私達は疫病と戦争の時代にいます。これから又宗教はとんでもないという時代になるでしょう。しかし、だからこそ、主なる神さまは、私達に罪を悔い、主イエス様の十字架に立ち返り、苦難を受けて苦難を生きて、復活して行く教会に、恵みでしてくださることを信じます。

 祈ります。「天の父よ、コロナの疫病とウクライナの戦争に続き、この日本で元統一教会に関連する方の凶弾によるテロまでおきました。しばらく宗教に注意しろとかが、言われる時代になるでしょう。どうか、この中にあっても十字架の愛を信じ、主の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」

    説教  黙示録11章15〜19節       2022年7月10日
           「 主は世々限りなく 」 
 本日も、主に赦されて集まってなせる礼拝を感謝します。すでにご存じの通り、鹿児島では、先週の火曜日からずっと800人代の感染が続き昨日は953人で、第7波に突入したであろうと言われています。また今日は参議院選挙の日ですが、新聞テレビが言う通り首相であった安部元首相が1昨日、演説中にテロというか背後から打たれて亡くなられました。いろいろな取り方が解説されていますが、元安倍首相は自民党の中でも一番日本の武器を強くし、国力を守るということを推進された方でした。この方が、なんと武器で打たれて亡くなるとは、なんと言ったらいいのでしょう。武器の力で平和を作りだすのでなくて、世界を本当に平和にするにはどうしたらいいのか。日本が世界の平和を構築できるように、争いを無くするようにただ祈るのみです。

 さて聖書は、第2週ですので、いつものように使徒の手紙から聞くと言う方針で聞いていきます。ヨハネの黙示録は、もちろん純粋な手紙ではありません。しかし基本は1〜3章までの7つの教会に充てられた手紙に、主・キリストが、長老ヨハネに見せられた幻を書いています。12使徒の自家の手紙とまで行きませんが、12使徒の手紙のような位置づけになるでしょう。今日は、黙示録11章で第7の天使が第7のラッパを吹くと言う幻から聞いていきます。
 9章13節に第6の天使がラッパを吹き、第7の天使がラッパを吹くまで、実は2つの幕間劇がありました。1つは10章1節からの小さい巻物の幻、次に11章1節からは2人の証人という預言の黙示がありました。そして、いよいよ本日は最後の第7の天使の第7のラッパが吹かれるのです。ここに黙示録は、前半の幻の終わりの幻を示したと言われています。

 すでに何度も語りましたが、黙示録は紀元1世紀が終るころ、長老ヨハネがエーゲ海のパトモス島に幽閉さされて、7つの教会に励ましの手紙を書きました。手紙はローマの官憲を潜り抜けて、パトモス島から出るために、手紙は本当に奇想天外の書き方をしなければなりませんでした。幸い、旧約ヘブライ聖書には預言書のゼカリヤ書がありました。ゼカリヤ書はやはりペルシャ時代に神のことばを、ペルシャ帝国に分からないように伝えるために、黙示文学の方法を編み出していました。長老ヨハネはこの預言者ゼカリヤ書を手掛かりとして、一見奇想天外な書物で、全く無害で、思想も哲学も伝えていないような手紙である黙示録の形式を用いたのです。

 6章から6つの封印の巻物を解く7つの天使達、8章6節からは7つの天使のラッパを吹く天使の幻を買きます。ローマの検閲官はとうとう長老ヨハネは、幽閉で頭がおかしくなったらしいということだったと思います。まさか、これがキリスト教の信徒達の信仰を強め、ローマ皇帝礼拝への抵抗の備えをなし、帝国の迫害を乗り越えて、キリスト教が伸びていくために、足腰を鍛え、信仰を高める手紙とは夢にも思わなかったでしょう。しかし、長老ヨハネは、一見奇想天外な7つの封印と7つのラッパの幻に、読む人が読めば信仰の力を与えてやまないメッセージを込めたのです。もちろんそれは、ただ読む人には、何の意味も無いおかしな手紙でありました。

 15節にいよいよ第7の天使が、ラッパを吹きました。すると天にはさまざまの大声がありました。この15〜19節には括弧にはいった個所があります。すべて初代教会の讃美歌であろうと言う説があります。その賛美は「この世の国は、われらの主とそのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」ということでした。この讃美歌は、預言的過去といわれる預言です。すなわち、まだそうなっていないのですが、長老ヨハネは、すでに世の終わりに立って、これまでの歴史をつまり歴史の経過をつまり歴史を振り返り、言葉を発しているのです。それは、全知全能の神がこの世を統治し、この世は確かに今はサタンの世ですが、必ず最後は神の世になる。つまり全知全能の父、小羊イエス様のものとなるという預言です。
 なぜ途中にあるのに、全部歴史が終ったかのように、長老ヨハネは、預言するのかです。これはつまり歴史の途中を、耐えるためだと思われます。私たちの歴史は、続きます。今は必ず過去になります。過去にならない今はありません。しかし、神様の全能性をもって歴史を見る。イエス様の観点で歴史を見る。するとやはり、最後の歴史が終る時があるとなるのです。その時、どうなっているのか。言わずもがな、歴史はすべて父なる神様の元に、小羊イエス様の元にあるのです。これは天地を創造された主なる神様から、罪をあがなう小羊イエス様の観点から見るとどうしても譲ることのできない確実な歴史の到達点なのです。

 長老ヨハネは、皇帝礼拝がいよいよキリスト教を迫害する歴史を予測します。圧倒的な力と軍事力は、皇帝礼拝を拒絶できない力をもって、キリスト教に迫ってきます。しかし、歴史の途中はそのような悪魔的な国家の力、サタンの力が働くでしょう。しかし、最後は父なる神様と小羊イエス様が統治されているのです。キリスト者は世に先んじて、世の最後を見せて頂く民になっているのです。
 この長老ヨハネの時代の出来事は、今も余り変わりません。ウクライナとロシアの戦争があります。今は止める要素が見当たりません。毎日兵士たちは亡くなります。ミャンマーのクーデターも、放映されないだけで何も変わっておりません。毎日、ミャンマーの市民の死者がでます。日本はなんとかなっていると思いきや、選挙運動のさなかのテロ事件で、凶弾に元首相が倒れます。日本は暴力の力になんとか耐えていると思っていました。しかし、目の前で根底からこれが崩されます。何をどうしていいのか。根底から安全が脅かされ、崩されている時代になりました。

 しかし、確かなことがあります。それはこれでも、父なる神はこの世を統治されており、小羊イエス様は、それでもこの世の主である。それは、今は具体的に見えません。しかし、信仰の目をもってみれば、最後は「我らの主とメシア(小羊イエス様)のもの」となった。私たちは心から根本的には、動揺するわけにいかないのです。もちろんこの世の現象は厳しく、ウクライナとロシアの戦争は止まず、ミャンマーのクーデターも終わらず。日本も簡単に元総理が殺されるテロの出来る国になってしまった。しかし、キリストを信じるものは動揺してはならない。稲妻が光、雷がなり、地震が起こり、大粒の雹がふっても、それでも、その現象を超えて、この地は天地を造られた主のものであり、メシア小羊イエス様のものなのです。

 16節から18節は、長老ヨハネの告白した幻、「この世の国は我らの主とメシア小羊イエス様のものとなった」を受けての賛美です。ここもまた初代教会の讃美歌であろうと言われています。そこには「今おられ、かつておられた方、全能者である神」が24人の長老から賛美されます。通常は、今おられ、かつておられる方の次に「来るべき方」となるはずです。しかし、もう来るべき方はありません。なぜなら、長老ヨハネは世の終わりに立って歌っているからです。世の終わり、最後の審判の時は、今おられ、かつておられた方がありますが、もう来るべき方はありません。今が、終わりの時だからです。その統治は、大いなる力、それはある意味で人間の想像を超える力で統治されるからです。
 18節は審判の様子とされます。異邦人たちの怒り狂いは、神無き者のしたい放題のふるまいです。おそらくローマ帝国からのキリスト者への迫害です。偶像礼拝を拒否し、ひたすら主なる神、小羊イエス様のみを拝み、神のみに頼る者への容赦ない迫害、無視、嘲弄、愚弄です。しかし、世の終わりに、主なる神、小羊メシア・イエス様は、神無き者の怒りに対して、ご自身の怒りをもって、対応される時が来るのです。
 続けて「死者の裁かれる時が来た」と言われます。死者が裁かれる時、ということは、生者はいないことになります。この時点は世の終わりの時点なのです。長老ヨハネは、世の終わりの死者の裁き、最後の審判の幻を伝えることになります。この時、「あなたの僕、預言者、聖なる者、み名を畏れる者は、小さい者も大きな者にも報いを与える」と言われます。「僕と預言者と聖なる者とみ名を畏れる者」の4種類の人がいるのだというとり方もあります。

 しかし通常ここは、主なる神を信じる者、小羊メシア・イエス様を信じる者が「あなたの僕、預言者、聖なる者、み名を畏れる者」と言われているとされます。主を信じる者、小羊イエス様を信じる者は、イエス様の僕です。又イエス様の預言者です。またイエス様の聖なる者です。そして、又み名を畏れる者なのです。まさに、主を信じ、小羊イエス様を信じる方は「僕、預言者、聖者、そしてみ名を畏れる者」なのです。イエス様はそのように、信じる者、私たちを見て、見なしてくださるということです。そして、この4つの名称で呼ばれる者に「僕、預言者、聖者、主を畏れる者」に、主は小さくても大きくても報いを与えると約束されます。「小さい者、大きな者」これは身分の高さ、身分の低さ、賜物の多さ、賜物の少なさ、財産の多さ、財産のなさにかかわりなく、全員のことです。主につながる者、主を信じる者、小羊イエス様の十字架を信じる者に、主は報われます。この報いはある意味で、救いといえるでしょう。神の怒りに対応した報いはとは、まず端的に救いです。救いとは、天国に繋がり、神の祝福を受け、主の幸いに繋がるものとされるのです。

 そして、主は地を滅ぼす者を滅ぼされます。滅びと救いは、こうして最後の審判において、明らかにされます。救いがあるということは、滅びがあるということであり、滅びがあるということは、救いがあるということです。滅びはないのだ。救いしかないのだと取る人もあります。しかし、聖書を読むと滅びと救いがあります。しかしこれは世の終わりの時に最後に啓示されることであり、人間は歴史の途中で判定することができません。人間は最後まで、最終の滅びの中に、救いがあるのでないか。救われたと言うその慢心の中に、滅びはないのかと問うことができます。滅びと救いは神様のみ手にあることであり、小羊のみ手にあります。人間である私たちは、最後まで救いを求めて生きることであり、救いを信じて、福音を伝えることであります。
 19節には、最後の審判に示されることが言われます。それは天の神殿が開かれて、その神殿にある契約の箱が見えるということです。実はモーセが頂いた契約の箱は、外典儀典ですが、第2マカベヤ書2章8,10節に、エレミヤが神殿から運び出して神の山シナイ・ホレブ山に隠したという伝承があります。そして最後の時に、神は今一度その契約の箱を見せてくださるという伝承があるのです。長老ヨハネはこのマカベヤの伝承を聞いていたようです。最後の審判の時「稲妻、様々の音、雷、地震、大粒の雹」と共にこれは神様の顕現のしるしですが、契約の箱を見ることができるとします。
 ローマ帝国の多くの迫害の中で、しかし、初代キリスト者たちは、神の箱を又見るという幻をもって、これに耐え、これを忍び、主イエス様を証していきました。私たちも疫病と戦争とさらにテロの時代に、それでも十字架のイエス様の愛を信じ、主イエス様を伝えて、主の恵みで歩んで行きたいです。

 祈ります。「天の父よ、疫病と戦争に続きこの日本でテロまでおきました。時代は本当に黙示録の時代です。しかし、私たちはあなたの支配、小羊イエス様の支配を信じます。どうか、この中にあっても十字架の愛を信じ、主の恵みを信じ歩ませてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブ、守ってください。ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデターを守ってください。1週間の教会関係者の健康、魂、信仰を守ってください。み名によって、祈ります。アーメン」

 説教   マルコ伝9章42〜50節        2022年7月3日
             「神の国に入るがよい」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。全国ではまたコロナ感染が上向きの状況にあります。また鹿児島県のコロナ感染は、全体的には少なく成りつつも、火水木金と4日間の400人代が続いています。昨日は470人でした。幼稚園は、このところ陽性者はなく落ち着いています。日々用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。毎日のニュースで、毎日兵士達の命がなくなっていることを思うと停戦を祈るのみです。戦闘の長期化は避けられず、小麦が輸出できず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。
 さて本日は第1主日ですので、いつものように福音書から聞き主の晩餐を受ける方針で、マルコ伝9章42節以降から聞いて行きます。ここは大枠では、第2回のイエス様の十字架預言と復活預言の後の教えとなっています。イエス様の十字架と復活預言は、弟子達にその覚悟と準備をさせる大切な教えでした。本日のテーマは罪への誘惑とまた躓かせるな、がテーマになっています。
 42節には「私を信じるこれらの小さい者に一人を躓かせる者は」と書かれています。これは読みませんでしたがその前に9章37節に「私の名のためにこのような子ども一人を受け容れる者は」とあり、子どもや小さい者を躓かせる、また罪に誘うことがテーマになっているといえます。イエス様は、イエス様を信じる者が、その信じた自由を自由奔放に用いることをよしとされませんでした。イエス様を信じることは信じる者にやはりある程度の規範というか、信仰のあり方というのを、求められたと言えるでしょう。特に、子どもたちや小さい者の一人に対する態度には、ある意味で慎重でまた厳しいものがあるといえます。

 ここで、子どもと小さい者のですが、もちろん年令が低い子どもも、何の力もない親の庇護無くしては、1日も生きていけない幼児・乳児を含みます。しかし、小さい子どもや小さい者たちは、比喩的に、見栄え無き者、面白くない人、押しのけられた人、見捨てられて人、退屈な人とか、社会的な弱者、孤児、寡婦達がはいりました。またイエス様のマタイ伝25章の最後の審判からは、飢えている者、喉の渇く者、旅をする者、裸の者、病気の者、牢にいる者となります。十字架と復活を預言されるイエス様は、これらの人々につまずきを与え、罪への誘惑を与えては成らないとされるのです。
 そして、それに失敗した時、イエス様は大きな石臼を首にかけて、海の中に投げこまれた方がいいと言われるのです。この表現は、日本にいる私達には、何だかユーモラスな誇張に聞こえます。しかし、ユダヤ人にとっては、死にいたる原因で、一番嫌なのが溺死であったとされています。イエス様はあえて当時のユダヤ人が一番嫌う死因を言われたことになります。主を信じる小さいものを躓かせ、又子どもを躓かせるの者は、正に溺死に価するといわれたのです。

 私達は自由な社会に生きていますので、自分の振る舞いによって、相手を躓かせることは余り気にしない社会に生きているのかも知れません。むしろ、そんなことが起こっても、私達は、むしろ躓く方もどうかしていると自己責任論をもって来るかも知れません。もちろん余りに気にしすぎて、自由を奪われ、何をするにもつまずきを気にしていたら、正になんのためのキリスト信仰かとなります。ガラテア書5章1節には「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」とあります。続けて「だからしっかりしなさい。奴隷の軛に二度と繋がれてはならなりません」とあり、自由は、キリスト者の旗印です。自由のないキリスト者とは、形容矛盾のキリスト者です。
 しかし、パウロは自由の行使については、注意深くありました。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と第1コリント9章19節です。実は、自由は福音宣教という制限の元にあったのです。できるだけ多くの人を得る、すなわちすべての人を救う。その為には、パウロは自分の完全な自由を制限しました。人を躓かせるなら自分の自由を使わない自由を、パウロは持っていたのです。

 先月は、アリステレスをNHKの「100de名著」でしていました。アリストテレスの言葉に「倫理は力である」があります。おそらくこの言葉は、今一番笑われる提言でありましょう。この戦争の時代に、倫理が何の役にたつか。嘘をつき、人を騙して、戦力を持つ方が圧倒的に有利で、力でないかとなります。アリストテレスは、しかし、倫理は力ですというのです。倫理は生活の習慣となり、習慣は生活を律し、最終的には、生活を導く倫理は、その人に幸福を与え、人生の力となっているといいます。
 信仰も生活と言う意味では、同じような面を持つと思います。信仰はそれ自身は力を持っていません。しかし、神様を信じそれにそって、御心を求め、忍耐し、希望を持ち、生活して行く時、それは大きな力になっているのです。パウロは、キリスト者の生活を語っています。「私達は人を欺いているようで、誠実であり、人に知られてないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されておらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべての者を所有しているのです」第2コリント6章8〜10節です。
 小さい者の一人、子どもの一人を大切する生き方、躓かせる自由を放棄し、躓かせない生き方を用いる時、それは実は、本当の自由に生きる、力ある生き方といえるでしょう。

 43節から47節は、3回同じことが繰り返されています。これはイエス様の独特の言い回しともされます。それは片手、片足、片目が、あなたを躓かせるなら、片手を切り捨て、片足を切り捨て、片目をえぐり出して、命に預かり、神の国に入れ、と言われています。余りにも厳しい譬えに私達は驚きます。しかし、もちろんイエス様は、実際に罪を犯させる片手、片足、片目をえぐり出せと言われたのではありません。極端ですが、これは比喩であり、譬えといえるでしょう。
 実際には、教会の歴史では、このようにしようとした教会ができたこともありました。しかし、長続きしませんでした。ご存知、有名な教会教父のテルトリアヌスは、エビオン派を作り、自分から去勢して、罪を犯さない体に成ろうとしたのです。しかし、人間の罪は去勢したくらいではどうにも成らないのです。完全に罪に染まった私達は、片手、片足、片目を取ったくらいでは、またたとえ去勢しても、まだ罪を犯すのです。ここでは何が問題で、何が言われているのでしょうか。
 イエス様は「すべての食べ物は清い」と言われたことがありました。マルコ伝7章19節です。ここでは、昔の人の言い伝えで、食べものには清い食べ物、清くない食べ物があると伝承されて来ました。しかし、イエス様は「外から人の体に入るもので、人を汚すことのできるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」とされました。今も、何々は食べては行けないという宗教があります。しかし、そのように外側から規定する教えは、ほどなくして、無くなっていきます。また偽善に陥っていくのです。
 どうして、何が問題かというと、神様がすべてのものを造られているのです。私達は体全体が神様から造られたものです。神様から与えられた手や足や目を自分から取り外してみても、ましてや去勢してみても、それは神様の御心に反しているのです。私達は、神様から全体としての体を創造され頂いており、神様の意思の元に、神様の御心にそって、手も足も目も、又体全体を、用いるべきなのです。
 片手、片足、片目でもなお命に至り、神の国へ入れとは、つまり神様を忘れるな、天地創造の、私達を見守り、導く方を忘れるなと言うことになります。新約聖書でいうならば、十字架に付いてまで、私達を愛された主イエス様と共にあれということです。主の十字架の愛を忘れるなということです。片手、片足、片目になっても、なお永遠の命に預かり、神の国に生きよ、ということです。

 48節には、イエス様が地獄に言及されています。地獄はあるのかどうか、地獄とはあるとすればどういう場所であるのか。いろいろ言われています。同じような問いに、人は、すべての人が救われるのか、それともある人は救われないのか。救われない人は予定されているのか。これもカルバンの予定論から始めて、ずっと議論され続けた問題です。イエス様が地獄を語られているのは、確かです。ただ、これは私達が通常いうところの地獄であるのか。消えない火の地獄とはどういうことであるのか。「イエス様は捕らわれた霊たちのところに行って宣教された」という第1ペテロ3章19節は、最後の最後まで、地獄の果てまで、救いは開かれているとも言えます。地獄と天国を完全に分けて考えるのは、神様に人間が手錠をかけて思考しているとう神学者がいます。神様は自由な方であり、私達が考える以上に、神様は私達を応答として取り扱われるのです。
 最後に50節には「塩に塩気が無くなれば、あなた方は何によって、塩に味を付けるのか」とあります。そして「自分に塩を持ち、互いに平和にすごせ」とイエス様は勧めてお言いでです。私達は自分に塩を持ち、つまり自分を制して、自分に厳しく、しかし、他人とは、平和に過ごして行くしかないのです。同じような言い方はパウロにもありました。パウロもまたイエス様のこのところから示しを受けていたのです。「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい」とローマ書12章18節に書きました。それは、続けて「自分で復讐せずに、神の怒りにまかせなさい」と続いています。ローマ書12章19節です。

 パウロは、人間の罪をよく知っていました。人間が復讐をせずに生きて行けないことをよく知っていたと思います。私達は、どうしても、目をやられたら、目を返す。歯をやられたら、歯で返す。どうしても、やられたらやり返すという生き方しかできないのです。しかしパウロは、やられたらやり返すの生き方では、イエス様の弟子としては失格になるのです。なぜなら主は十字架を受け、十字架を自ら受けて下さった方だからです。先生が十字架を受けて歩まれたのに、弟子が受けられませんでは、弟子になりません。パウロは、復讐をするなでなくて、復讐は神様がなさるとしました。それが「自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい」12章19節です。
 小さい者を躓かせず、小さい子どもの一人を受いれていくキリスト者の歩みは、罪を告白し、十字架と復活の主を見上げて歩む歩みなのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。本日はイエス様の「小さい者の人を躓かせるな」という教えです。私達はつい、油断して、躓かせることがあります。どうか、この罪を赦し、主の後に従う者としてください。
 すべては神様の内にあるのです。主のめぐみと選びとお取扱を受けるのみです。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みを導き、耐震リフォームの働きに係わる方を守り導きください。ウクライナとミャンマーを続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教   コロサイ書4章2〜6節        2022年6月26日
             「ひたすら祈れ」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。ようやく鹿児島県のコロナが全体的には少なく成りつつも、水、木、金と300人代が続いています。昨日は372人でした。幼稚園の先週は、陽性者がありませんでしたが、用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。先週はウクライナ兵が1万人以上、ロシア兵が1万5千人以上の戦死とニュースで流れていました。長期化は避けられず、港が封鎖され、ウクライナの小麦の輸出ができず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。
 先週は梅原兄が、月曜日の20日に召天され、21日(火曜)に家族葬になりましたが、葬儀式ができました。皆様の祈りを心より感謝いたします。巻頭言に書きましたが、御家族と数名の親しい方の中、自宅にて執り行うことができました。弔電やお花を有り難うございました。残された御家族への主から平安と慰めをお祈りください。

 さて、本日は第4週の礼拝でいつものようにバプテスト連盟が出しております『聖書教育』の本日の学びの箇所から聞いていきます。本日の箇所はコロサイ書4章の終わりのところです。コロサイ書は、ローマやコリント書のように15章を越える大がかりな手紙ではありません。エフェソ6章、コロサイとフィリピは4章と小さいです。エフェソとコロサイとフィレモンは、獄中書簡ともいわれて、パウロのそれぞれの教会の信仰を励ます手紙になっております。書かれた時は、それぞれの教会の事情があったのですが、2000年を経過しますとまさに、これは公同書簡のような誰が読んでも信仰を励ます手紙になっています。

 実はコロサイ書の書かれたコロサイ教会は、パウロ自身が伝道した教会ではありませんでした。コロサイ書1章7節に「私達と共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」と書かれています。コロサイ教会は、おそらくコロサイ出身と思われるエパフラスが伝道しました。エパフラスは、実はピレモン書23節によるとなんとパウロと一緒におそらくエフェソで投獄されたことがあったのです。この時、以来エパフラスは、パウロの無くてはならない仲間となってパウロの伝道を助けました。

 聖書学者達は、使徒言行録19章10節のパウロの第3伝道旅行の時、2年間エフェソに留まって伝道したことがあり、この時、エパフラスは自分の出身地であるコロサイ地方に伝道して、コロサイ教会ができたのであろうとされています。エパフラスが、エペソ刑務所の時に親しくなった人であったことは、私達はすぐにピレモンの手紙のオネシモと同じだと気づかれると思います。繰り返す必要なないのですが、ピレモンの手紙はやはり、コロサイ出身のピレモンの所にいた奴隷オネシモが逃げだし、しかし、ローマの警察にすぐに捕まって、こともあろうにパウロのいたエフェソ刑務所に留置されました。なんとパウロは、すぐにオネシモと親しくなり、オネシモはパウロの語る福音を、エフェソ刑務所の中で聞いてイエス様を信じてしまったのです。
 パウロはオネシモが刑を終えて出て行くときに、コロサイのピレモンに今度は奴隷としてでなくて、兄弟として受け容れてほしいとオネシモにピレモンの手紙を託しています。本当に不思議な関係ですが、コロサイ教会はこのようにピレモン、オネシモ、エパフラスが同じエフェソ刑務所で結びついて設立した教会であったのです。こういうことを聞きますと、もう偶然とはなんぞやと考えるしかありません。刑務所に入れられるという信じられない恥辱と落胆はしかし、神様にとっては大きな機会というかチャンスになっているのです。パウロは刑務所でエパフラスの人となりを知り、非常に親しくなった。これが元でエパフラスは、コロサイ教会を新規伝道し、コロサイ教会はなんとピレモンやオネシモまでも参加して盛立していったことになります。

 私達は自分の計画や思いが、うまく行くことがあります。しかし、大失敗になることがあります。しかし、最終的には神様は刑務所を用いて、パウロとエパフラスを合わせ、オネシモをキリスト者にし、コロサイ教会の設立にピレモンが参加することになった。何をかいわんやです。刑務所への投獄は、人間的には大失敗ですが、神様はきちんと計画を持っておられるのです。主は悪を用いられる方なのです。

 前置きが長くなりましたが、2節から聞いていきます。改めてパウロは手紙を終わるに当たり「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈れ」と書いています。パウロがコロサイ書を書いたのは、使徒言行録28章にあるパウロのローマでの軟禁状態の時であったとされています。エパフラスが伝道してから約10年がたっていたとされます。パウロは、コロサイの手紙を締めくくり最後の挨拶の前に、手紙を要約したとされます。その第1に来る教えは、改めてただただ「感謝を込めてひたすら祈れ」だったのです。キリスト者とは何をする人か。キリスト者とは何を信じる人か。いろいろ答えはあるでしょう。しかし、パウロは「ひたすら祈れ」にすべてを込めたと思われます。これは又、他の手紙で特にテサロニケの手紙では何度も出てくる勧めでした。

 最終的にすべてのことを、主なる神さまがみ手においておられるとすれば、最終的に人間の出来る最大のことは、神の御心を求め祈ることになります。まさに、イエス様の最後の教えも、またゲッセマネの祈りであり、その祈りは「私の願うことではなく。御心のままに(なしてください)」マタイ26章39節だったのです。私達は改めて、キリスト者とは祈る人である。特に執り成しの祈りをする人である。キリスト者が祈るのは当たり前ですが、しかし、それでもキリスト者とは祈る人であり、コロサイ書の最後にパウロは祈りを勧めるのみであったと示されます。

 次に、3節に私達はこれもなんの変哲もなく「同時に、私達の為に祈ってください」という言葉を読みます。そして、その祈りの要請は3つあると読めます。1つは、御言葉の為に門が開かれること、2つはキリストの秘められた計画を語れること、3番目は4節にあるように、しかるべく語り、この計画を明らかにできるように、祈って貰うことです。

 しかし、その前に私達は当たり前のごとく、パウロはコロサイ教会にここは異邦人の教会で、エパフラスが伝道し、ピレモンやオネシモがいる新しい教会ですが、それでも祈りを頼んだ。執り成しを頼んだということです。これは大切です。祈りとは、やはり、自分が祈り又自分が相手に祈ってもらうことで完結しているのです。パウロはキリスト者の前は律法学者として、旧約ヘブライ聖書に精通していました。復活のイエス様に出会って、ローマの刑務所の留置は紀元62,3年とされます。もう律法学者とし20年以上働き、キリスト者としも30年以上働いて3つの伝道旅行を果たしていました。百戦錬磨のパウロなのです。しかしそれでも、まだまだひよこのコロサイ教会に、どうか祈ってくれと頼むのです。私は、パウロのこの謙遜さに驚きます。本当のキリスト者とはかくも謙遜なのです。お前達に祈って貰うようなことは何もないとは全く思わないのです。どんなによちよち歩きの教会でも、主イエス様を信じた以上、仲間であり、祈りの同胞、同士なのです。

 祈りの内容はかなり難しいです。1つは、御言葉の為の門が開くようにです。これは、パウロはローマ書15章24節、28節に「あなた方のところを経てイスパニアにいきます」と書いていました。パウロはローマ皇帝に訴えて、囚人として護送されてローマに来ました。しかし、それでも上を向いて、ローマの先をみていたのです。ローマから釈放されて、次はローマの西、当時の世界の西の果てイスパニア今のスペイン伝道を考えていました。パウロは本当に希望を持って、世界の果てにまでイエス様の福音を伝えたかったのです。

 2番目の祈りは「キリストの秘められた計画を語る」です。これは先の口語訳聖書では「キリストの奥義を語れるように」としています。原文は、口語訳の通りで、キリストの奥義、秘儀です。「キリストのミステリオン」となっています。「秘められた計画」は意訳になります。言いたいことは、イエス様において示された救いの計画すなわち十字架による罪の赦しと復活による神の子の証明と言えるでしょう。大工の子としてお生まれになり、人々を教え、癒し、人々に捨てられて十字架に上げられ、殺された方。しかし、死人の中から復活された方は、本当に神の子であり、真のキリストでした。真に人として来られた方は、真の神・神の子でした。これが救いの計画だったのです。私達はこのキリスト・イエス様を信じることによって、神に義とされ、救われ、導かれるのです。神の愛は、キリストの十字架に本当に示され、現され、これを信じることが救いの始まりでありました。キリストの救いの奥義は、改めて人間の理性を使わないといけませんが、理性だけではどうにも成らないとも言えます。

 ただ祈りの内に、祈りに示され、祈りに導かれて、祈りで受け止められる出来のみでありました。パウロは、キリストの奥義、神秘、秘められた計画が、ただ聖霊によってのみ受け止められると信じるのみでありました。だから、聖書に精通しているとかキリスト者の経験が長いとか、余り関係無かったのです。要は、福音が、人間の理性、経験を用いつつ、しかし理性と経験のどうにもならない所にあるのです。ただ祈りのみのところにあるのです。
 3つ目は「明らかにできるように」です。明らかにできるかどうか、は非常に微妙です。この前も語りましたが、喜劇王チャップリンは10代でお母さんに連れられて行った教会でのマイヤー牧師の説教に感心しませんでした。しかし、お母さんがマイヤー牧師の説教を解説してくれたその語りに感動しました。これはあると思うのです。言うことは同じでも、語る人によって理解できるかどうかが異なるのです。これはもう、聖霊の業と思います。どんなに下手な話しでも分かったと言う人がある。どんなに上手に語っても、分からんと言う人がいるのです。パウロは力一杯福音を解きますが、その効果は聖霊に委ねるしかなく、祈りによるしかないのです。パウロはそのことを知っていたのです。

 最後に「塩で味付けられたこころ良い言葉で語れ」です。料理の譬えです。イエス様もまたマタイ伝5章13節に「あなた方は地の塩です」といわれました。イエス様の最初の譬えが料理の塩の譬えです。塩は不思議です。料理に入れると姿を消します。しかし、塩のある料理とない料理は味が全く違います。今は、塩は健康との関係が言われて、塩が強いのは駄目です。しかし、塩が全くない料理はありません。パウロは何をここに込めたのでしょうか。
 塩は腐敗を止めます。やはり迎合主義、事なかれ主義を戒め、根本を正すと言うことだと思われます。表面上のやさしさや快さでなくて、事柄に即しているということです。これもまた祈りによるとしか言いようがないです。聖霊に導かれ、聖霊に示され、聖霊に完成させられることを祈りつつ前進です。十字架の愛による前進です。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。パウロは、ただただ祈れと手紙の最後に書きました。私達は、最後はただただ祈るのみです。すべては神様の内にあるのです。主のめぐみと選びとお取扱を受けるのみです。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みを導き、耐震リフォームの働きに係わる方を守り導きください。ウクライナとミャンマーに続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

  説教   エゼキエル書36章22〜24節     2022年6月19日
            「わが聖なる名の為に」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。新聞テレビが伝えるように、鹿児島県のコロナが全体的には少なく成りつつも1昨日は340人が昨日は、343人となっています。幼稚園も先週は先生子ども含めて5名の陽性者がでました。濃厚接触者はすべて陰性でしたが、用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、戦闘の長期化は避けられず、港が封鎖され、ウクライナの小麦の輸出ができず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。また、昨日から梅原兄が、危険な状態と聞いております。こちらも祈って歩みましょう。

 さて、本日は第3週の礼配でいつものように旧約ヘブライ聖書から聞くと言うことで、エゼキエル書36章から聞いていきます。エゼキエル書36章は大きな枠組みでは、「イスラエルの山々に向かって」となっております。そして言ってみればここまでがイスラエルの審判預言でした。しかし、37章からいよいよ涸れた骨の復活の章となって、いわゆる救いの預言と成っていくのです。そして36章は何の理由で、何の為に、何の根拠をもって、主はイスラエルを又回復されるのかを預言しています。それはある意味で私達の通常の理性、通常の考えでは理解出来ないことでした。
 読みませんでしたが、エゼキエルは36章1〜12節において、イスラエルがバビロン捕囚を受けて、バビロンのみならず周辺のすべての国からの攻撃を受けて、紀元前586,7年に陥落したことを語ります。その時、主は36章5節において「私の土地が取られた」と語られています。つまりイスラエルのエルサレム神殿が破壊され、エルサレムが陥落したことを、主は「私の土地が取られた」こととして、ご自身をそこにおいておられたのです。古代には、ある国が陥落し、滅びるということは、その国を守り、その国を支える神が力のないことを証明します。主は、エルサレムの陥落と破壊をご自身の土地の略奪としてご自身の出来事として受けられました。

 次にエゼキエルは、なぜエルサレムが陥落し、破壊されたのかに対して、36章17節において「イスラエルの家は、自分の土地に住んでいた時、それを自分の歩みと行いによって汚した」と示されています。36章18節には「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚した」として示します。私達は一つの国が滅び、破壊される時、それはその国が相手の国より弱かった。戦力が足りなかった。ひいては戦力を支える経済力がなかったとして受け止めるのだと思います。しかしエゼキエルは生まれた時から祭司であったこともあるでしょう。エルサレムの滅び、イスラエルの滅びは、イスラエルが自分自身で汚れてしまい、神様は捨てるしかなかったというのです。

 これはある意味で現代では非常に分かりにくい理由だと思います。近代を生き、現代に生活する私達は、国の滅びを汚れで考える人はまずいません。今のウクライナとロシアの戦争にしても、この勝負を決めるのは兵隊の数でもあり、戦闘能力であり、武器の数と武器の質であります。最初、戦争の仕方がロシアは下手であった、統制がとれて無かったとか言われています。しかし、段々と時間が経つと多勢に無勢です。国力の問題からして、ロシアに段々勢力がついてきます。ウクライナにはもちろんヨーロッパとアメリカの国が、自由を旗印に応援をしますので、そう簡単には倒れません。しかし、どこか時間との戦いの面があります。

 しかし、エゼキエルは、本日読みました22節の直前にあるように、36章21節にあるように、主は「イスラエルの家が、その行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」とあるのです。主はイスラエルをご自身の名を置く民として、受け止め、このイスラエルとご自身の名を一緒に考えておられるのです。これはもう私達の科学的な思考、数学的な、物理的な思考とはある意味でかけ離れているといえるでしょう。これは言ってみれば祭司的な思考、神話的な思考であります。

 しかしながら、新約聖書を読む私達には、その片鱗を知ることができます。例えば、すぐに思い出されるのは、パウロの回心の出来事です。すでに何度も聞いてきました。パウロは、意気揚々としてキリスト者を間違った信仰を持っている輩として、キリスト者を捕まえ投獄し、迫害しておりました。しかし言行録9章4節シリアのダマスコにキリスト者を捕まえに行く時、突然光の中からの復活のイエス様に出会います。その時のその声は、「サウロ、サウロ(つまりパウロ、パウロ)、なぜ、私を迫害するのか」と聞こえるのです。これにはパウロは驚くしか無かったのです。自分が迫害しているキリスト者は、キリスト者でなくて神の御子・イエス様だったのです。パウロは何度も聞き直したと思うのです。しかし、言行録9章5節に聞こえて来たのは「私はあなたが迫害しているイエスである」というはっきりした声でした。パウロは、自分が迫害しているのはキリスト者であって、神の御子・イエス様なんか迫害した覚えは全く無いのです。何度も打ち消したでしょう。しかし、復活のイエス様は「あなたが迫害しているのは、私(復活のイエス)である」とはっきり言われるのです。パウロはどうしようも無かった。自分の信仰、自分の生き方を変えるしか無かったのです。

 ここは、正に本日のエゼキエル36章22節「私はお前達の為では無く、お前達が行った先の国で汚したわが聖なる名の為に行う」を地で行っているとしか言いようがありません。主なる神はイスラエルとエルサレムを、自分の聖なる名とされています。それは何度も言うように、イスラエルが正しい国とか、エルサレムが聖なる民であるとかでありません。ただ神様の愛のゆえに、そしてただ神様の選びにゆえに、イスラエル、エルサレムは、神の民であり、主なる神の聖なる名を置かれた民であるのです。まさにこれが、キリスト者にもそのまま当てはめられているのです。十字架の主を信じた、主の罪の赦しの十字架を信じた私達は、能力があり、聖なる資質があり、選びに預かる何にものかが、私達にあるので全くないのです。

 パウロは第1コリント1章26節に「あなた方の召されたときのことを、思い起こしなさい。」と語り「人間的に見て、知恵のある者が多かった訳ではなく、能力ある者、家柄のよいものが多かったわけでない。」としました。そして「神は、知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学なものを選び、力ある者に恥をかかせる為に、世の無力な者を選ばれました」と(27節)続きます。「神は地位あるものを無力な者とするため、世の無に等しい者を、身分の卑しい者や見下げられているものを選ばれた」(28節)とするのです。主がその名をキリスト者に置かれて、名を惜しまれたのです。パウロにご自身を現わされたのは、ただひとえに、神の愛と選びでしかなかったのです。

 結論は「キリストは、私達にとって、神の知恵となり、義と聖と贖いに成られたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いて在るとおりに成るためです」と1章31節に結んでいます。イスラエル、エルサレムは、神の名を、偶像礼拝と地の上に流した血において汚がした。地の上に流した血とは、イスラエルの民が、弱い者を虐げ、社会的弱者をないがしろにし、寡婦や孤児を辱めたと言うことです。そのために地は汚れました。主なる神の名は汚れたとするのです。しかし、主はそのご自身の汚れ、自分の民イスラエルとエルサレムによって汚された名を、なんと惜しまれるのです。

 私達には理解しがたいこの汚れの信仰は、さらにパウロは第1コリント6章12節以下にもまた展開しています。第1コリント6章15節以下には「自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのか」と語り「娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、ということを知らないのか」(16節)と続き、なんと「知らないのですか。あなた方の体は神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のもので無いのです」(19節)と結んでいます。ここには、主を信じバプテスマを受けて、キリストの体に受け入れられた者は、聖霊が宿る神殿になっているという信仰です。従って、私達の体は、確かに私達の体ですが、同時にキリストの体であり、キリストの神殿でもあるというのです。

 エゼキエル書36章は、イスラエルによって、私の聖なる名が汚された。そして主はご自身の名を惜しまれた。それは、イスラエルが正しいとか、イスラエルに何か聖とされる資質があるとかでない。ただ、主がご自身の名を惜しまれるゆえに、つまり主の愛と主の選びのゆえに、主はバビロンに破壊され、周辺諸国に馬鹿にされ、嘲笑されたイススラエル、エルサレムを、また復興すると言われるのです。
 私達はここに完全に人間の力を越えた、人間の計画ではどうにもならない。ただ神の愛と憐れみによって、立って行くしかない信仰者の姿を見させられるのです。この前、多分ウクライナの戦争があっているからだと思いますが、ヒトラーとチャップリンのことを、NHKで取り上げていました。なんとチャップリンはその喜劇をもって、ヒトラーと戦っていたのだと言うまとめになっていました。どうして、そんなことをチャップリンはしたのか。気になって、チャップリン自伝の「若き日々」編を取り寄せて読んでみました。

 なんとチャップリンは離婚したお母さんに育てられるのです。生活が苦しくなって、お母さんも芸人として立っていたのですが、仕事がなくなり、得意の裁縫で生活をするのです。しかし、それでもうまくいかず、なんと当時のロンドンの下町FBマイヤー教会に母は通ったとありました。FBマイヤーは当時ロンドンで一番有名なバプテストの説教者です。私でさえもマイヤーの説教集を4冊も持っており、困った時のマイヤー頼みをしているのです。これには驚きました。もちろんチャップリンはバプテストの洗礼を受けたとか無いのです。お母さんはなんと家に帰るとマイヤーの説教を元にチャップリンに聖書の話しをしました。時にそれは1時間にも渉ったとあります。特にお母さんが上手に語ったのは、イエス様のピラトの前の裁判であり、ルカ伝の「イエス様の十字架の場面であった」とあります。あの最後のことば「はっきり言っておく。あなたは今日私と一緒に楽園にいる」というくだりをお母さんが涙を流し朗読する時、チャップリンには忘れられない場面として覚えられます。お母さんは貧しくて、子どもに何もしてあげられえず、しかし役者として朗読の力でチャプリンと兄を楽しませてくれたのです。それが、チャップリンを根底に生かしているのでないか。もちろん分かりませんが、お母さんがロンドンのFBマイヤーのバプテスト教会に行かれて、その節回しでチャップリンに聖書を教えたというのは、驚きでした。
 チャップリンはもちろん喜劇王として大成功します。しかしヒトラーとの戦いを忘れず、アメリカのレッドパージ赤狩りも全く動じないのは、なぜだったのか。ルカ伝を教えてくれた母の「今日、あなたは私と共に楽園にいる」が根底にあったのでないかと思うのです。エゼキエルは「主なる神はその名を汚されても、しかしその名を惜しみ、イスラエルを復興させる」と言います。これは科学的には分かり難い。しかし信仰の目、主のめぐみと愛と十字架を思うと受けるしかない。そして思わぬ所で、聖書が語られる所で、マイヤー牧師の説教・信仰が、チャップリンの母子家庭を支えたようなことが、今もあるのだと思います。十字架の主と共に歩みたいです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。主はご自身の名を惜しまれ、イスラエルを復興するとエゼキエルは約束します。すべては神様の内にあるのです。めぐみと選びを受けるのみです。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みを導き、耐震リフォームの働きに係わる方を守り導きください。ウクライナとミャンマーを続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

説教   ヨハネの黙示録11章7〜14節       2022年6月12日
            「ここに上ってこい」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。新聞テレビが伝えるように、鹿児島県のコロナが全体的には少なく成りつつも昨日は405人が続いています。用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、戦闘の長期化は避けられず、港が封鎖され、ウクライナの小麦の輸出ができず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は第2週の礼配でいつものように使徒の手紙から聞くという方針で長老ヨハネの黙示録から聞いて行きます。調べてみますと黙示録から聞いたのは2019年の8月19日から黙示録を開いております。4年間に渡っています。すでに大枠は何度も語っていますので、ご存知の通りです。長老ヨハネは、キリストを信じるという理由の為に、エーゲ海のパトモス島に幽閉されておりました。歴史的には何か悪い事をしたのではなく、ローマにとっての邪教を信じるだけで逮捕されたかは、実は難しいところです。ご存知パウロはキリストを宣伝し、信じ込ませるということで、ユダヤ人や異邦人から逮捕、また投獄されたのです。しかしこれらの理由は、キリストを信じるからではなく、信仰を進めるがゆえに例えばエフェソのアルテミス女神が売れなくなるとか(言行録19章)、占いの霊を追い出してあげて、その主人達から営業妨害で訴えられて逮捕されるとか(言行録16章)の形です。実は、純粋にキリストを信じるだけで、偶像礼拝の像販売の邪魔をしたとか、占いの霊を追い出して、占いができなくなったとか、具体的な損害以外で逮捕されるのは、聖書ではそう多くありません。

 しかし、だんだんとローマ皇帝礼拝が強くなると正に、信じるだけでそのキリストの名の下に逮捕され迫害されることが多くなってくるのです。この分岐点が紀元1世紀を越す当たりとされています。長老ヨハネもまた誰かに、ローマ市民に損害を与えててパトモス島に送られたのではなく、皇帝礼拝の邪魔する者、ローマの国体の批判者として、幽閉されたものと思われます。
 しかし、この長老ヨハネの逮捕とパトモス島への流しは、本当に不思議なことに鹿児島では、西郷さんの奄美大島の3年間の追放と沖永良部島への2年間の追放と重なるのです。不思議なものです。そして、西郷さんが無念の島流しを、2回の5年間も経験して、全く腐らずまた復活して活躍したことの背後に、譬えば川邊さんが自分のお爺さんから聞いた「西郷さんは、漢文聖書を川邊家にもって来て聖書の教えをなしてくださった」という西郷さんは聖書を読まれていた、という説に繋がって行くのだと思います。真相は確かめられないのですが、川邊さんがお爺さんの言葉をわざわざ覚えていて教会を訪ねられ、キリスト者に成られたのは、事実であります。

 脱線しましたが、パトモス島の長老ヨハネは1世紀を過ぎて、これからキリスト教会に襲ってくる迫害を予測し、幻を見て、1章1節にあるように「天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」でありました。黙示録の奇想天外の書き方は、島からの手紙が、ローマの官憲の検閲をくぐり抜けるためであり、旧約ヘブライ聖書にもゼカリヤ書では、やはりバビロンやペルシャの官憲をくぐり抜けて、手紙を伝える方法があり、黙示的な文学が発達したのです。残念ながら日本には黙示文学の文学類型がないとされ、黙示録をなかなか正しく読み解く方法が難しいのです。

 しかし、長老ヨハネも現代にいる私達も同じ人間です。なんとか想像をたくましくして、ヨハネの言いたいことを受け止めていくしかありません。11章全体は「2人の証人」という標題が付けてあります。2人の証人とは誰のことかは、千差万別の解釈があります。確かにペテロとパウロ説やモーセとエリヤ説や様々な取り方があります。しかし、改めて1節から14節までを読みますと、この2人の証人とは、誰か特定の人物というよりも、キリストに従い、真の神に従うキリスト者全体とも教会の姿とも言われています。

 7節から聞いていきましたが、2人の証人は、証しを終えると淵から上ってきた一匹の獣から殺されてしまうのです。神に従い、神様に仕え、神の証人として立ってきたのですが、闇の力は強く、8節には、2人は殺され、その死体は大きな都の通り遺棄され残されます。これは、福音書を知る私達には、イエス様のことだろうと思います。まさにこの2人の証人はイエス様のごとくに、11章3節によると1260日、すなわち3年半の活動が赦され、しかし、その期間が済むと殺されていきます。

 9節には3日半葬られることがなかったとあります。古代イスラエルではこれはイスラエルだけではありませんが、死体が葬られないとは、最大の恥辱でありました。敵の墓を荒らして、骨を掘り出しさらしものにするのは、最大の恥辱を敵に与えることでした。まさに、キリストの証人はイエス様の十字架のようにされるということを、ヨハネは示していることになります。10節には、こうして神の証人達が殺されて、晒し者にされることで、人々は大いに喜び、贈りものをやり取りする。すなわちこれは、祭りするということでないかと言われています。
 理由は、この2人の証人、預言者は、地上の人々を苦しめたからであるとあります。イエス様の活躍は群衆や民衆の人々には、歓迎されたのです。人々を苦しめるために律法があるのではない。「安息日の為に人間があるのでない。人間の為に安息日が制定された」とイエス様は教えられました。しかし、地上の人々の中には、イエス様の活躍と教えを心から憎んだ者がありました。ご存知、祭司長達と律法学者達でありました。彼らにとっては、安息日の為に人があるのであって、安息日をきちんと守ることが、人間が社会を正しく生きることだとしたのです。しかしそこには、穴に落ちた家畜を助けることも違反とされ、歩く距離や仕事の種類まで決められる不自由さがあったのです。神の教えは、その適用の仕方によっては、人々を締め付け、懲らしめることになる。イエス様は神の名によって人が不自由になり、平和から遠ざけられ、命を国に渡し、国の奴隷になり、宗教の奴隷になることを、禁じられたといえるでしょう。本当に自由に人間が育ち、幸福に暮らし、永遠の命に至るためにはどうしたらいいのか。イエス様の教えと十字架と復活は、人間の根本を問うて止まないのです。

 人間の自由を妨げることで最大の一番はなんと言っても戦争でありましょう。巻頭言にも書きましたが、たまたまNHKの映像の世紀で、ヒトラーとチャップリンをしておりました。全く何も知らずに偶然見たのです。ヒトラーとチャップリンはたった4日違いの生まれです。どちらも王の称号を貰いました。喜劇王と独裁者の王です。私はこの2人は全く別々の道を、全く違って歩いているとばかり思っていました。しかし、テレビの編集は、チャップリンがなんとかヒトラーと戦い、ヒトラーのユダヤ人虐殺、ポーランド侵攻、東欧への征服をやめさせようとなんと喜劇を用いて戦っていたのですとまとめていました。笑いで、戦争を止めることができるのか。笑いは武器になるのか。全く話しに成りません。しかし、時間が立つとどうなるのか。フランスを征服し、東欧を破壊し、ロシアを東に追い詰めたヒトラーは、今はいません。そして、チャップリンを受けいれたアメリカはレッドパージ共産党追放で、次の段階には、よりによってチャップリンを追放します。

 11節には、3日半経過して、命の息が神から出て、この2人に入ったとあります。2人の証し人は、人々に殺されますが、また神様の霊によって、復活させられるのです。3日半は、先月のヨハネ黙示録の話しをしましたが、完全数とされる7の半分です。つまり、神の時間を象徴させています。神の定める時間が来るとこの2人の証人は神の霊、聖霊によって又復活させられます。そして12節にあるように、天から神の声がかけられ、「ここに上って来い」と言われるのです。そしてその時、敵の目の前で天に上るのです。
 13節は、2人の証人が天に昇るときの地上での裁きになっています。大地震が起こります。都の十分の一が倒れて、7千人が死にます。十分の一と7千人を繋げて、つまり紀元1世紀のエルサレムは7万人の人口であったという学者もあります。7万人が1世紀のエルサレムにいたのかとされますが、妥当性のある人口ではないかもと言われます。当時のローマ帝国の主都の人口が、ローマの古代の人口が計算はむすかしいらしいですが、100万人だったとも言われている時代です。

 残った人々は、恐れを抱いて天の神の栄光をたたえたとありますが、これは長老ヨハネの以後の未来の事であり、1世紀以降の状態の事です。4世紀にローマ皇帝がキリスト者になり、このコンスタンチヌス大帝の回心を堺に、確かにキリスト教の迫害は無くなる事になります。しかし、これはキリスト教にとって良かったか悪かったかは、賛否がわかれると思います。

 14節には、神に敵対する勢力は、確かに追放されるのですが、またも今度は第3の災いが準備されているというのです。幻を見て、預言する長老ヨハネも大変だったと思います。イエス様のように、証しする期間が赦され、証しをする。しかし、証しに反対する力が現れて、証し者を殺し、十字架に付け、証しを取り消す、しかしまたも神様のからの聖霊がでて、証し者は又また立られる。しかし、なんとまたも次の災いがくる、というのです。結論は、時は神のみ手に必ずあるということです。
 ただこれは日本人には分かり易いかも知れません。まさにこれは鴨長明の『方丈記』「行く川の流れは絶えずして、しかしもと水にはあらず」に似ています。森羅万象が回転するに似ております。もちろん、神様の御計画が進むのですが、現象としては、くるくる回転に見えるわけです。長老ヨハネは何を言いたかったでしょうか。

 11章の部分は実は幕間劇であって、黙示録の本流である巻物の7封印でもラッパの7つの音の響きにも直接的には繋がっていません。しかし、実は幕間劇は全く別の方向からの黙示録全体を象徴するとも言われているのです。つまりこの幕間劇は、教会とキリスト者はイエス様と同じような反対と賛成の道行きを辿る。だから、失敗しても成功しても、自分の賜物を主に献げて、十字架を見上げて黙々と遅々と喜々と生きて行きなさい、それだと思うのです。
 この前、ウクライナとロシアの戦争を解説する人が「本来、戦争突入は政治政策の負けなのです。戦争を回避する為に最大限の努力をするのが、政治の知恵なのです」とぼそっと言われていました。ミサイルが飛び出してから国民を守りますは無理なのですと、いわれます。良心的な本物の解説者だと思いました。もちろん起こってしまったからには最小限度の死傷者で最大の達成を目指すしかないのでしょう。しかし、本当は戦争の起こる前の働きが政治ですと言われていました。ガンジーさんが、インド人に無抵抗、非暴力、不服従でイギリスと戦うしかないとしたのは、すごい知恵だったと思います。こちらからは攻撃しませんの憲法9条もまた今も信仰の知恵のように思います。しかし、始まって長期かする今は、ただただ停戦を祈るのみです。

 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が少し落ち着きつつありますが油断ができません。ウクライナの戦争もただ停戦を祈ります。6月も第2週です。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームの働きに係わる方を守り導きください。ミャンマーのクーデターも続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教   使徒言行録2章1〜13節          2022年6月5日
            「聖霊に満たされた 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。本日は2022年の聖霊降臨日礼拝として守ります。新聞テレビが伝えるように、鹿児島県もようやくコロナ感染が、昨日は400人代でしたが、ちらほら300人や200人代になりつつあリます。用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、戦闘の長期化は避けられないと言われています。港が封鎖され、ウクライナの小麦の輸出ができず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は2022年の聖霊降臨日礼拝となして、毎年聖霊降臨をお祝いし、迎えます。聖霊降臨日礼拝は、教会の誕生日とも言われています。それは、イエス様が復活されて、弟子と共に40日間いて、今一度教えを成してくださいました。そして弟子達の目の前で天に昇って行かれました。しかし、どういう訳か弟子達は、聖霊降臨を受けるまで、大胆にイエス様のことを語り出す事が出来ませんでした。聖書は時々、何でかと言うことがあります。例えば、イエス様の母マリアは、なかなかイエス様の本来の神の子としての姿を理解されないことがありました。自分の子だから分からないのか、余りにも近いとその姿が理解されないのか、よく分かりません。
 イエス様が復活された時に、その時は驚き、仰天するだけですが、理解されたら、弟子達は、伝道に勤しんでも良かったと思います。しかし、弟子達がイエス様のことを宣教し伝道しだすのは、40日目のイエス様の昇天を見て、それからなお五旬節の10日間を経過した本日の聖霊降臨を待たないと成らなかったのです。教会の誕生日は、本来はイエス様の復活の日となって良かったはずです。しかし、実際にイエス様のことを大胆に語り出すのは、聖霊降臨を待たねば成りませんでした。

 これは幾つかのことを私達に示します。一つは、これはイエス様御自身が弟子達に言われていた事でした。ルカ伝24章49節に「父が約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」です。弟子達は、復活を話したかったけれども、イエス様の約束、言葉を信じて黙っていたと理解することも出来ます。しかし、どうでしょうか。イエス様の約束を信じて黙っていたというのは、考えにくいと思います。
 二つは、やはりイエス様の宣教は、聖霊の力が必要である。上からの神様からの力があってなされる。人間の努力や計画では、いかんともしがたいことがある。聖霊降臨の出来事は、大きくいうと教会を誕生させたのは、教会が誕生するには、聖霊が必要であった。単なる人間の努力や精進や計画では無かったということです。もっと言えば、教会は聖霊によって誕生させられ、その本来の目的は、やはりイエス様の宣教であるということです。教会は礼拝をなし、祈りをなし、交わりをなし、困った人や大変な人を支え、助け、ある時は幼稚園、子ども園や児童クラブの事業をします。しかし、そのすべての目標は、イエス様の為であり、イエス様を伝える為にであり、最終的には、聖霊の導きによるということです。
 三つ目は、二つ目に隠れているのかもしれませんが、イエス様の伝道は、祈りの期間が必要だった。言行録1章14節には「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。イエス様のことを伝道するには、祈りの期間が、また祈りが必要だった。これは改めて神様の事を為す時に、祈ってなすということを教えているのだと思います。おそらく、主はイエス様の復活だけをもって、教会を出発させられなかった。これは、教会の出発・出来事は人間だけの力では何ともしがたいこと、このような聖霊による出発、始まりと終わりも聖霊によることを、私達に示し教えられたのだと思います。エリオットという詩人は「私は始まりの中に、私の終わりが存在する」と言ったそうです。聖霊によって始まったとすれば、聖霊によって今を行い、なし、また聖霊によって世の終わりを迎えると言う事になります。始まりが聖霊であれば、今もこれからも聖霊と共に祈りにあり、聖霊で終わるしかないと言うことになるのです。

 2章1節にあるように、イエス様の昇天の日から弟子達は「一同が一つになって集まっていた」とあります。ここには祈っていたというのは、ありませんが、現実的には集まって祈っていた時でした。2節にあるように、ことは突然起こりました。この突然が教会ではいつも大切なのだと思います。人間的に言えば、必然性が分からないのです。神様の時は、人間にとってはある意味で突然なのだと思います。こうしよう、ああしようという思いはある。ああでもないこうでもないといろいろ準備をしている。しかし、それがなるのは神様の時があって、突然としか言いようがない。色々なことを画策し、祈り、実行しているがそれがなるのは、やはり時が来る時です。小説家の方や音楽家で作品を作る方も、いろいろやってもなかなか構想が涌かない。しかし、ある時、突然示される。古い話で申し訳ないですが、北海道の三浦綾子さんの小説『氷点』も確か、いろいろ考えあぐねていて、構想が突然閃いたようなことを言われていました。あんな長い物語ですが、思いつく時は突然らしいです。

 3節には炎のような舌が分かれ分かれに現れた、とあります。残念ながら現実の形は分かりません。幼稚園にあるペテロの紙芝居には、一人一人の弟子の上に蝋燭のようなものを書いているのがあります。聖霊がそのように見えるのか、そういうことなのかどうか、分かりません。ただ炎は旧約ヘブライ聖書以来、神様の出現の象徴であります。4節はその時に起こった現象です。どんな原因があったのかよく分かりませんが、その結果の現象は分かります。それは書いてあるように、他の国の言葉で弟子達が語り出すと言うことでした。聖霊は、弟子達に色々な国の言葉を話すように、弟子達を導いたというのです。具体的にはここから説明がありますが、語った言葉は9節から11節までパルティァから始まって、アラビアまでの16地方の言葉とされます。そしてその語った言葉の内容は、11節には「神の偉大な業」となっています。

 これはどういう現象であったのかよく分かりません。ただほとんどガリラヤ地方の出身のイエス様のお弟子達でした。ご存知のように、イエス様時代のガリラヤ地方の庶民は、日本のように日本語しかしゃべれないというのはありませんでした。というのは、お弟子達ガリラヤの庶民は、家ではアラム語をしゃべり、神殿ではヘブライ語の聖書を聞き、取った魚や家畜の羊や山羊を売る商売をするときはギリシャ語を使い、そしてローマの兵達達とは、ラテン語を話しただろうと言われています。チャンとできたかどうかはありますが、必要に迫られて2,3カ国語は話せたというか、話さざるをえなかったようです。

 しかし、パルティァから始まり、アラビアに至る当時の地中海世界の東西の16地方の言葉を自由に話すのは無理です。ここはある意味で奇跡が起こったということです。この多言語を話し出す奇跡については、創世記11章のバベルの塔の出来事を思い出します。ご存知、人間は元は一つの言葉を使っていました。しかしある時、人間は、天まで届く塔のある町を建てようとしました。しかし、神様はそこに人間が神になるという罪の姿を見られ、人間の言葉を混乱させられました。まさにある意味で、聖霊降臨の働きは、この言葉の混乱のバベルの塔の混乱の修復が起こっているとも言われます。弟子達が、多くの言葉を語り出すのは、まさに神の偉大なみ業を伝えることで、多くの言語が、神のみ業で一つになることを目指すことでありました。

 7節にあるように、周りの人々は、弟子達の服装から判断するのか、ガリラヤの人々が全世界の言葉を話し出したということで驚き、怪しみます。ところで、どうして周りの人々は、ガリラヤの人々が世界の言葉を話していると分かったかです。これは8節からの説明があります。「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」ということです。私達は、エルサレムにいる人がなんで「生まれ故郷の言葉を聞くのか」となります。しかしこれは当時の事情がありました。聖霊降臨が起こった時代は、実は、アッシリア捕囚やバビロン捕囚で、全世界に散らばった離散ユダヤ人達がおりました。この離散ユダヤ人達は、最後の時、今でいうところの余生をエルサレムで過ごしたいということがあったのだそうです。従って、ある程度商売をして、小さい財産を築き、自立ができた離散ユダヤ人達は、自分の店をたたみ、自分の仕事に区切りをつけて、エルサレムに住んで、終わりを迎えるという習慣があったのだそうです。

 改めてユダヤ人すごさを思います。このユダヤ人達は、確かに生まれはエルサレムではありませんが、自分の生まれた国の言葉を話し、そしてエルサレムに来て住み、アラム語、ヘブライ語、ギリシャ語を自由に使えたようです。エルサレムは現代で言えば、学園都市のような様相であったともいえるのです。私は筑波学園都市にある筑波バプテスト教会を訪ねたことがあるのです。その時、友人牧師が「ここの住民はそこら辺の叔母さん叔父さんが突然ドイツ語を話したり、中国語を話したりで、びっくりするよ」と言っていました。なんでと聞くと皆外国に生まれたり、留学したりの人が筑波大学の先生を辞めて、この町に住んでいるのだよというのです。

 11節の「彼らが私達の言葉で神の偉大な業を語るのを聞くとは」とは本当にそうなのであり、言ってみればネイティブの人からチャンとした自分たちのことばだ、と評価され、言われたということです。これは大きな奇跡が起こったとしか言いようがありません。しかし、同時にこの奇跡の内に、私達は神のみ業は、ちゃんと自分の言葉で理解されるべきであるということを示されます。聖霊は、イエス様の福音を、私達に示されるのに、英語やフランス語やドイツ語でなくて、地方語である日本語で、ある時は鹿児島弁できちんと理解され、納得されることを目指すと言うことです。韓国の方であれば、韓国語で理解されるのです。ですから、聖書の言語のヘブライ語やギリシャ語できればそれはいいのかも知れません。しかし、聖霊は、神の偉大なみ業は自分の生まれた育った言葉で理解せよ、と言っているのです。

 西洋中世において、聖書はラテン語が正式とされました。しかしウイクリフが英語の聖書を翻訳し、ルターがドイツ語の聖書を翻訳して、分かることばが目指さました。日本語聖書も新共同訳からまた聖書協会共同訳がでました。付き合いきれませんと言う方があります。しかし、この努力は聖霊の働きです。余裕があれば、聖書協会共同訳聖書に挑戦されてください。
 最後に12、13節は、イエス様の時もそうでしたが、この神様の聖霊の出来事に二つの応答があります。それは驚き信じる人と嘲弄し酒に酔っていると相手にしない人です。私達はこのことを覚えておくことです。教会の誕生日に、信じる人と信じない人が出る。となれば今もそうなのです。私達が祈って、伝えても、奉仕しても信じない人と信じない人があるのです。最初の出来事は最後の出来事でもあるのです。そしたら、腹をくくるしかありません。イエス様に祈って、示されたら、前進するしかありません。聖霊の「突然」の取扱を信じて前進するしかないのです。主に罪を告白しつつ、十字架のめぐみを受けて聖霊によって前進です。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が少し落ち着きつつあります。ウクライナの戦争も停戦を祈ります。本日は聖霊降臨日礼拝です。感謝です。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームの働きを守り導きください。ミャンマーのクーデターも続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教   使徒言行録1章1〜11節        2022年5月29日
            「 天に上げられた 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。新聞テレビが伝えるように、鹿児島県はコロナ感染がなかなか落ち着きません。1昨日は又500人代、昨日はようやく400人代となり、2か月ぶりに熊本より少なくなりました。用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、こちらも戦闘の長期化は避けられないと言われています。港が封鎖され、ウクライナの小麦の輸出ができず、アフリカや中近東では飢饉が言われています。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は第5週ですので、特に聖書の個所を決めていません。しかし、来週がペンテコステ聖霊降臨日礼拝となっています。聖霊降臨日とイースター復活祭の間の出来事で一番大切なのは、本日読みました。イエス様が天に昇られた昇天の出来事です。本日は、余りなじみがないかもですが、イエス様の昇天の出来事から聞いていきます。イエス様の昇天の出来事は、ルカ伝24章51節が伝え、そして同じルカが書いた本日の使徒言行録1章が伝えています。イエス様が天に上げられていく出来事は、ルカだけが伝えた報告となります。
 ルカだけが詳しいイエス様の昇天の出来事を伝えるのは、なぜであるのか。よく分かっていません。しかし、ルカ福音書は世の終わりの出来事を、時間の観点からのみでなくて、空間の観点から伝えたかったのではないかと言われています。マタイやマルコ、ヨハネ伝がどちらかというと世の終わりがくる、終末が来るという時間のことに重点を置いた報告をしました。しかし、ルカ伝はイエス様の昇天のような世の終わりに際して、福音の広がりをもって、つまり地と天への広がりで、世の終わり、終末の準備として示したかったのではないかと言われています。
 良い譬えが見つかりませんが、ルターが言ったとされる「明日、世の終わりが来ても、自分は、今日のリンゴの木を植える」ということだと思います。いつ来るか、いつ来るかと思い悩むよりも、ルターは、今日しなければならないリンゴの苗植えをする。日本的に言えば「世の終わりがいつくるか、いつ来るかよりも、田んぼに水を張り、田植えをして稲を作り、畑を耕せ」と言う事になるのだと思います。ルカ伝が天国は、世の終わりは、いつ来るかに答えて、主が昇天された様子と伝えるのは、結論からいけば、11節の登った方は、又下る。いつかに答えるよりも、場所的に昇られたら、又下るはずだということです。昇ったら必ずまた下るでしょう。いつの時間にと備えるよりも、必ず天から戻って来られる場所に備えよと言う事です。

 6節から聞いていきます。復活のイエス様と40日間過ごした弟子たちは、イエス様に「イスラエルの国の復興は、この時ですか」と聞きます。このいつイスラエルは復興するのか、福音書では何度か出てきます。例えば、マタイ伝25章やルカ伝19章には、ある主人が自分の財産を僕に預けて、再び帰って来て、自分の与えた財産をどう使ったか、また使わなかったかを問う譬えがあります。タラントンの譬えとかムナの譬えと言われます。ムナは当時の貨幣の単位です。1ムナは100デナリオンで、成人1人が1日で稼げるお金が1デナリオンでした。ご主人は必ず帰って来られて、その主人が不在の間の僕の財産の使い方つまり生き方を、問われるのです。
 またルカ伝17章20節には、「神の国はいつくるのか」と弟子に聞かれたイエス様が「神の国はあなた方の心にある」と答えられたことがありました。ルカ伝24章21節以下には、エマオの途上のイエス様にクレオパという弟子は「あの方こそイスラエルを復興してくださる方と期待していた」と語っていました。イエス様が弟子と共に福音宣教をされていた時、多くの弟子たちが、いつイエス様はイエスラエルを復興され、世の終わりはいつ来て、預言者たちが預言していた「その日」というのは、いつなのか。大いに関心があったのです。
 使徒言行録は、このいつ世の終わりは来るのか、いつイスラエルは復興されるのか、いつ自分たちはどうなるのか、という根深いキリスト者の問いに、答えていると言えます。7節にある通り、その答えは2つあります。1つは、読んでの通りです。いつ終わりが来るか、いつイスラエルが復興するか、いつ自分たちは体と魂の完全な救いにあずかるのか。いつ天国は到来するのか。それは「父がご自身の権威をもって定めておられて、私たち人間は分からない」ということです。
 これは私たちにとっては死ということに置き換えてもいいかもしれません。わたしたちは、いつお迎えがくるのか。いつ命を主によって取られるのか。それは、命は与えられたら、必ず戻さないといけない。しかし、その時は、人間は分からない。父なる神様のみが、ご自身の権威で定めて、ご存じであるということです。つまり、ここでいわゆるある種の未来を当てる占いや、時間を予測する預言者は全く当てにならないということです。父だけが知る専権事項を、いくら人間がやってみてもどうにもならないのです。私達は自分に許されていないことを頑張って知ろうとしても仕方なく、そんな暇があるのなら、自分に許されていることを、一生懸命するべきということになります。先ほどの世の終わりの譬えにあるように、主に与えられたタラントンの賜物、また主の与えられたムナの賜物をひたすら生かすことを考えた方がましだ、ということになります。

 2つ目の昇天されるイエスさまの言葉は、聖霊が下り、力を受けると言う事です。イエス様は昇天されて私たちの目からは見えなくなる。しかし、聖霊が下るのです。私たちは、イエス様が見える形でずっといてくださり、さらに聖霊が下ればいいのにと思います。しかし、そうではない。イエス様の体が見なくなり、つまり肉の形では、見えずおられなくなる。しかし、霊の形で私たちと共にいてくださる。そういう形でイエス様は私たちを助けられるのです。これはたぶん自由と関係しているのでしょう。イエス様の肉体があって、ああしろ、こうしろと言う指示でない。霊のイエス様が共にあって、導かれる。それは、おそらく私たちが祈り、考え、そして自ら自由に実行する為と思われます。人から言われてなすのと自分で考えてなすのでは、同じなすでも違ってくるのだと思います。
 そして聖霊はやはり力なのだと思います。私たちは、自分の力だけでなく、神様からの力を必要としており、神様からの力によって、動かされるのです。自分の力だけでできた時と神様の力つまり聖霊の力によってできた時の違いは、おそらく感謝になるのだと思います。自分がやった、自分がしたという時の実行は自慢や高慢になります。しかし、聖霊によって動かされた時は、感謝になるのだと思います。

 3番目は聖霊の力によってなされる一番のことは「私の証人となる」と言われています。私たちの一生は、何のためにあるのか。何のために私たちは生きており、生かされており、この世を召されるまで歩むのか。私達キリスト者の端的にいえば、生きる目的、生かされる目的は、イエス様の証人となることです。私たちのこの世で、また一生における最大の業は、キリストの証人となることです。それはユダヤ、サマリヤ全土、そして地の果てと言われています。
 地の果ては、昇天のイエス様から言葉を受ける12弟子にとっては、もちろん異邦人の地でありました。具体的に、イエス様の福音は、イスラエルの地、ユダヤからとうとうユーラシア大陸の一番東の端の日本にまできたのです。しかし、すでに地の果てに来た福音がさらに地の果てを目指すとすれば何か。これは、空間でいえば、私たちの命全体ということになるでしょう。私たちの思いや思想、動作や実行、しぐさや行為のすべてがキリストの証を目指すのです。

 9節には、このようにイエス様は昇天されつつ、言われて彼らが見ているうちに、雲に包まれて天に上げられて行きました。12弟子たちは、この姿をじっと見つめることが赦され、見つめるようにされたのです。これは、特殊な体験をせよということでしょうか。イエス様が天に上る。ここはいろいろな取り方があります。しかし、おそらく一番の使徒言行録が証したいことは、特別な力がイエス様にあるとか、空中に上がる力をイエス様が持っているとか、重力を打ち破るつまり自然を打ち破る力をイエス様が、持たれているということではないのだと思います。
 むしろ神様がこのイエス様の昇天にこめた意味は、復活の出来事の再確認だと思われます。つまり復活の追認と思われます。それは、人々に捨てられ、弟子たちに裏切られ、十字架の上に、罪人と共に殺された弱い方が、本当に神のみ元に、本当に受け入れられるということです。神様は12弟子に今一度、復活に続き、十字架に殺された方が、昇天され、神様に受け入れられ、神の子であったと証されたのです。十字架のイエス様が、昇天された。それは弟子たちの目の前であえてしてくださった。神の証は、十字架の主が、やはり本当の神の子であったということです。
 つまり、弱い私たちもまたどんなに罪が深く、どんなに弱く、どんなに取るに足りなくても、やはり神様は私達罪びとを、昇天させる。死に、打ち勝たさせると言うことです。イエス様の昇天は、聖霊の降臨に備えて、どんなに弱く、どんなに罪があっても、それでもやはり主は、共にあり、昇天させ、復活させるということです。

 10節には、復活と同じことが又起こりました。復活のイエス様が墓の中におられない時、マタイとマルコ、ヨハネもまた復活のイエス様の代わりに天使がそこにいて、復活を伝えました。今、昇天の後に突然2人の天使が出現しました。イエス様の昇天が、復活と同じ意味を持っていることを、2人の天使は伝えているのだと思います。そして、上を向いていた12弟子に、天使は下を向くように言うのです。上に上げられたイエス様を見た弟子は、もう上を見るのでなくて、また来られるイエス様を信じて、歩き出すのです。弟子たちは、これからは上ばかりでなく、下を又横を見て、歩くのだ、前進するのだ、と勧められるのだと思います。

 イエス様の昇天後の弟子たちの行動は、自分達のしなければならない裏切ったユダの交代の選びでした。選ばれた裏切ったユダの交代のマティアは、その後は余り活躍していません。しかし、聖霊降臨を迎えるきっかけになっていったのだと思います。マティアはある意味で、聖霊降臨の祈りの整えただけだったのかもしれません。しかし、それでよかったのです。12弟子が一緒に祈れる環境を整備した。それによって、聖霊降臨が起こった。ユダの交代マティアはそれだけでも十分な務めだったと思います。野球にはワンポイントリリーフというのがあります。たった一人抑えるために出て来てその人を抑えるとベンチに引っ込むのです。霊的なワンポイントリリーフと言うのがあるのだと思います。主が天に弟子たちの前で天に昇られた。そしたらまた天から戻って来られる。私たちは、再臨されるイエス様を信じて、恵みにより、私たちは自分の命を使い、主の委託に答えて、行くのだと思います。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が続き、ウクライナの戦争も長期化し続きます。本日はイエス様の昇天の出来事を聞きました。昇られたイエス様は必ず戻って来られます。この世は混乱のさ中ですが、希望をもって再臨を待ちます。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームの働きを守り導きください。ミャンマーのクーデターも続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教   使徒言行録26章19〜23節        2022年5月22日
            「 メシアが苦しみを受け 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。新聞テレビが伝えるように、鹿児島県はコロナ感染がなかなか落ち着きません。900人近くなり、1昨日は又700人代、昨日は699人と安定しません。低年齢の子供達がかかる割合も高く、心配です。用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、こちらも戦闘の長期化は避けられないと言われています。物量的にはロシア軍が圧倒的に強いです。しかし、ウクライナも徹底抗戦です。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は第4週ですので、いつものようにバプテスト連盟が使う『聖書教育誌』の本日の聖書の日課から聞くと言うことで、使徒言行録26章から聞いていきます。ここはパウロの第3回目の弁明になっています。皆さんも使徒言行録を読まれて気づかれると思いますが、パウロはなんと3回も自分の回心の出来事を語っています。9章、22章本日の26章です。使徒言行録に3回もあることは、パウロの回心の出来事、そしてそこでなした証しと宣教のあり方、内容がキリスト教の証しまた、宣教の基本になったからです。私達は、本日26章のパウロの弁明の一端を聞きます。まさにこれが、キリスト教の証し原型であり、また宣教の原型であった。使徒言行録は、あえて3回もこれを繰り返して、私達に示してくれたのです。
 19節からパウロの弁明を聞いていきますが「アグリッパ王よ」と呼び掛けています。実は本当はパウロの弁明は26章2節から始まっています。読みませんでしたが、余りにも有名なパウロの回心の出来事が12〜18節で語られます。パウロの回心は3回続きますが9章、22章そして本日の箇所で、少しずつ違っています。それは、証しをする相手が異なりますので違ってくるのは当然です。9章は実際の出来事をルカが伝えています。22章はユダヤ人のエルサレム神殿の境内にいる群衆に向かってパウロは語ります。本日は行ってみればローマ総督フェスツウス、そしてユダヤの王アグリッパ王の前での弁明です。

 本日のアグリッパ王は、イエス様の時のヘロデ王からみれば、10人の妻を持ったのですが、孫に当たります。正式名称はヘロデ・アグリッパ2世です。ヘロデ・アグリッパ1世は、言行録12章23節に演説をしている最中に「主の天使が、ヘロデを撃った」とあります。この息子です。パウロはこの26章でローマの総督とユダヤの王ヘロデ・アグリッパ2世という上流階級の人に証しをしていることになります。結論からいうと、パウロは群衆の前でも、上流階級のローマの総督とユダヤの王の前でも、その証しの内容はあまり変わりません。

 読みせんでしたが9章、22章、26章に共通しているのは、パウロはイエス様に出会う前はキリスト者の迫害者であった。しかし、復活のイエス様に出会って捕らえられた。そして、迫害者が、キリストの伝道者になったということです。私達が通常聞く、回心の話しと違うところは、パウロはそもそも心理的な葛藤を持っていて、その解決に苦労したとか、復活のイエス様に出会う前に、惨めな生涯を送っていたとかは全くありません。パウロには惨めさからの解放、心理的葛藤からの解放は余りありません。堂々とキリスト者を迫害し、それによって神に仕えていると確信していました。心理的な不安定は、パウロには無かったのです。しかし、主なる神様が、イエス様がパウロを捕らえられたということです。そして、迫害者を伝道者にしたのです。

 私達は、パウロの回心において、大切なことは、すべてが神様のみ手にある、神の導きにあると言うことです。パウロは、神様の導き、イエス様のとの出会いにだいぶ強制的な感がありますが、それでも、従ったということです。ここに、私たちは、イエス様のゲッセマネの祈りを思い出していいのだと思います。イエス様もまたゲッセマにおいて「この杯を去らせてください。しかし、私の思いでなく御心のままにしてください」と祈られました。私達は、自分の思いではなく、主の御心に従って行くパウロ、主の御心に従って歩むパウロを見るのだと思います。

 19節と20節の総督フェスツウスとアグリッパ王の前での弁明も全く同じです。「私は天からの示しに背かなかった」というのです。「示し」と訳されたのは、幻でもいいし、幻視とも訳していいです。神様からの示しは、人間を用いることもあり、出来事を用いることもあり、歴史を用いることもあるのだと思います。私達でいうと友人から、親戚から、親から、先生から、成り行きからと何でも示しになるのです。問題は、パウロが「これは、神様、イエス様からの示しだ」と受け止めたことです。パウロは神様からの捕らわれに従ったということです。パウロはイエス様のゲッセマネの「御心のままにしてくだい」の祈りを唱え続けて生きていたとも言えるでしょう。
 私達に大切なことは、正にパウロから示されることは、常に「主の御心にままにしてください」の祈りを生きることです。自分が自分がとああやり、こうやり、どうやってみても、どうしてみても、ただ疲れるだけです。又それは必ず失敗するでしょう。なぜなら神様の御心がなるからです。しかし「御心のままに」の祈りの歩みは、神様のみ心ですので失敗がないのです。というか「御心のままに」という祈りは、失敗したらそれが、主の御心になります。パウロは自分の使命、委託を、つまりユダヤ人と異邦人に「悔い改めて神にたち返り、悔い改めに相応しい実を結べ」と勧めるのみだったのだと示されます。

 21〜22節のパウロの弁明は、天からの啓示、天からの示しに従っていただけであったが、それで自分は逮捕されたといいます。パウロはただ預言者達のことばと、自分たちの先祖伝来のモーセの言葉に従って語って来ただけだというのです。ここには、パウロの用意周到な計算があるのかも知れません。ローマ帝国としては、自分の逮捕は不当であり、自分はユダヤ教の中で、聖書に従い一生懸命生きて来ただけだ、とします。つまりパウロは、自分は聖書の民であって、自分の逮捕はユダヤ教の問題であって、ローマ帝国の法にはなんら触れていませんというのです。
 23節には、パウロのキリスト教の信仰の核心を3点述べています。1つは、メシア・キリスト・イエス様が苦しみを受けたこと。2点目、死者の中から最初に復活したこと、3点目、ユダヤの民にも異邦人にも、光すなわちメシア・イエス様の教え、行いを伝えたことです。この3点はまさにパウロの信仰の核心であり、私たちの信仰の根底は、またこの3点にあると言っていいでしょう。
 メシアが苦しみを受けたことは、ユダヤ人にとっては受け入れがたいものでした。ある意味で今もまた同じなのだと思います。ユダヤ人は、メシアすなわち神の子が苦しまれるのはおかしいとします。もちろん私たちはイザヤ53章を聞き、知っています。イザヤ53章が示すメシアが苦しみ、その苦しみによって私たちの罪が赦されたことは、イエス様のことだと受け止めます。しかし、ユダヤ人にとって、神の子が苦しみ、敵の手に落ちて殺され、悪人と共に十字架に上げられたのは、どうしても受け入れらないのです。神が神であって、全能の主であれば、確かに神が苦しみ、敵の手に落ち、十字架に付けられるのは、あり得ない。しかし、パウロはそこを受け止めることができたのです。イザヤが示す苦難の僕が、やはりメシア・イエス様であり、神の子であった。神はご自身の全能と全知を皆捨てて、愛のゆえに十字架に付けられた。それは人間である私たちへの徹底した愛の業であった。神の子が十字架に下るほどに、私たちの罪は深かった。しかし、それ以上に神の赦しは大きかった。パウロは神の愛示され、神の愛をユダヤ人と異邦人に伝える使徒とされたのです。

 2番目のメシアは死者の中から最初に復活した。これもまた、受け入れるに困難を覚える信仰です。メシアは人間としてマリアから生まれ、幼児となられ、成人して大工となり、証明を受けて伝道し、弟子に裏切られて十字架に付けられた。このような真の人間が復活するのか。あるユダヤ人は言いました。「この復活の教えは、生まれた時から教会に行き、牧師や神父からずっと聞いていたら信じることができるかもしれない。つまり習慣の上に、定着するだろう。しかし、大人になって、初めてこれを聞いて、信じることができる人がいるのか。」なるほどですね。メシア・イエス様の復活は、私は19歳で初めて教会に引っ張られて聞きました。今も、不思議な教えをするものだと思ったことを覚えています。しかし、復活は毎日聞いておれば、習慣によって信じることができるかもしれないということでしょうか。

 言行録13章には、パウロの第1回伝道旅行における説教があります。ここにはユダヤ人パウロによる復活の論証があります。パウロは、ユダヤ教の側にいたのですが、復活を信じています。それは、言行録13章33節に詩篇2章7節を引用し、13章34節にイザヤ書55章3節を引用し、13章35節には詩篇16編10節を引用して、復活は神様の約束であったとします。最後にダメ押しのように4つめの引用を、ハバクク書1章5節を引いて「私はお前たちの時代に一つのことを行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとういてい信じられないことを」としています。パウロは4つの旧約聖書からの引用をもって、神様はメシアの復活、人間・イエス様の復活をなさると示すのです。パウロにとって、復活は信じるか信じないかよりも、旧約聖書の約束として、神の御心であるかどうかが問題でした。そして、パウロは旧約聖書に4つも復活のしるしがおいてある。まらば、神の導きを受けて信じますということだったと思います。ハバクク書1章5節はパウロを後押ししました。「人が詳しく説明しても、お前たちは到底信じられないことを」主は、この時代になされるというのです。

 パウロとしては、復活のイエス様に出会ったことが、キリスト者になったきっかけでした。パウロは回心即、伝道者でした。私たちは信じてから、伝道者になるか、違た仕事をするかの選びに時間があるのだと思います。しかし、パウロは回心即使命でした。パウロは、復活のイエス様から即自分を伝えるように言われたのですから、パウロにとって復活とは、信じる以上に、主の復活に捕えられたという体験だったと思います。パウロはガラテア書2章20節「生きているのはもはや私ではない、キリストが私の内に生きておられるのです」と書いているところがあります。これは、もう復活を信じるかどうか、を超えています。イエス様の復活に捕えられ、巻き込まれて復活者イエス様の手足となってひたすら生きるパウロを示しているのです。
 私達は、自分はそこまで信じていない、信じきれないというかもしれません。私たちの自我はパウロの時代とはだいぶ違うかもしれません。しかし、本当の所はどうでしょうか。イエス様のゲッセマネの祈りを私たちが知り、同感し、共感し、そしてそれを祈り、それに生きようとするならば、それは、もう復活のイエス様が自分の内に生きていますと言う事だと思います。パウロは「神の御心とは何ぞや」と問う前に、もう体が動いていたのでしょう。ゲッセマネの祈り「御心のままにしてください」とはそういう事態なのだと思います。

 私達はさすがパウロ、この短い宣教の中にキリスト教のエッセンス、本質が詰め込まれているのに驚きます。しかし、パウロのこの伝道をもってしても、ヘロデ・アグリッパ2世王とローマ総督フェストウスは、信じませんでした。読みませんでしたが、24節、総督フェストウスは「パウロ、お前は頭がおかしい」といいました。アグリッパ2世は28節に「短い時間で私を説き伏せて、キリスト者にするつもりか」と言っています。2人は、全くパウロの宣教に反応せず、イエス様の十字架、復活、その光の教えを、むしろ馬鹿にしたのです。パウロは、宣教しても、やっても弁明しても無駄だったのか。総督フェスツウスとユダヤ人王アグリッパへのパウロの証は無駄だったのか。そうでありません。パウロは、総督フェストウスとアグリッパ王が釈放してくれなかったので、ローマに、官費でつまりローマ帝国のお金でというか護送で、行けたのです。そしてローマで軟禁され宣教しました。つまり、神様は上流階級の2人が信じないことをもって、ローマにパウロを連れていってくれたのです。

 改めてどんな時にも最終的には、神様の導きの中にある。「パウロ釈放されず」の出来事はこれを教えてくれるのだと思います。私たちもゲッセマネの祈りをパウロの釈放されないこと、その主の恵みを通して、生きるのだと知らされます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が続きます。またウクライナの戦争も長期化し続きます。本日はパウロが釈放されないために、ローマ行けたところです。すべては主のみ手にあります。すべては、神の憐れみによると示します。ですから、この世は混乱のさ中ですが、希望をもって終末を目指して歩みます。しかし、愛の神の十字架を仰ぎ、混乱の中を歩みます。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームの働きを守り導きください。ミャンマーのクーデターも続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」


 説教   エゼキエル書35章7〜15節        2022年5月15日
            「 主がおられた 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。連休の後は、鹿児島県はコロナ感染が減少せず、300人代、500人代、900人、1昨日は700代、昨日は又600人と安定しません。特に10代の低年齢の子供達が係るのが、心配です。用心して生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、こちらも戦闘の長期化が言われています。物量的にはロシア軍が圧倒的に強く、ウクライナは徹底抗戦で、本当に戦争が終わりそうにありません。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は第3週ですので、いつものように旧約聖書から聞くと言うことで、エゼキエル35章の後半から聞いていきます。ここは「エドムに対して」と1節の前に標題と言うのですがゴチック体の説明があります。実は記憶の良い方は「あれ、これはどこかで聞いたぞ」と言う方があるかも知れません。全くなのです。エゼキエル書25章12〜14節に実は、諸国民の預言と言われるところに「エドムに対して」は一度、出てきているのです。旧約学の学者さんは、どうしてまた2回も同じ様な預言があるのか、たまたまたエゼキエル書の編集する方が、間違えてエゼキエルのエドム預言を2つに分けてしまったのか、というのもあります。しかし、エドムの預言は、聞いて行くと2回に渡るほど、やはり非常に大切だったと思われます。

 エドムの先祖は、ご存知のように本来は、ヤコブ(後でイスラエルとなりますが)のそのお兄さんエサウでした。エドムとヤコブの出来事は、旧約創世記25章のエサウとヤコブの誕生から始まり、36章のエドムの王国の報告まで繋がっています。そして、旧約預言者のオバデア書は言ってみれば、エドムの滅亡の預言書であり、さらにマラキ書1章にエドムとヤコブがあり、さらに詩編137編にも歌われています。旧約ヘブライ聖書のみならず、新約聖書に置きましても、ローマ書9章またヘブライ書11章と12章と3箇所にもでてきます。つまり、エドムとヤコブ・イスラエルの関係は、私達が思っている以上に、非常に大切な信仰の出来事だったのです。

 こうしてエゼキエル書35章の預言として、エドムが単独で取り扱われるのは、当然というか、大切な事でした。本日の預言は7〜9節がエドムへの審判であり、8〜13節がその理由を説明し、最後に14、15節が、エドムの審判における主なる神の認知ということになります。早速みていきますが、最初の単元は、エドムに対する主なる神さまからの裁きの宣言となります。書いて在る通りですが8節に「私は山々(これはエドムを示すセイルの山々のことです。)すなわちエドムの「丘も谷も、あらゆる谷間も剣で殺された者が倒れる」と預言します。9節には「わたしはお前を永久に荒れ果てた地にする。お前に町々には住む者がいなくなる」と徹底した審判預言を宣言されています。

 私達は、エドムの始まりは、神が選ばれたアブラハムの子イサクの子であり、ヤコブ・イスラエルの兄エサウであることを、知っています。2人兄弟のヤコブ・イスラエルのたった一人の兄なのです。しかし、このエドムがここまで完膚無きまでに、主に審判されないといけないのか、と思うのです。今ちょうどウクライナとロシアが戦争しています。私は又高校の歴史の教科書を取り出して読んでいますが、本当にロシアは、キエフ公国から出たとあります。ウクライナが兄で、ロシアは弟です。もちろん後からロシア公国が10世紀になると商売つまり貿易が上手でキエフ公国を圧倒して大きくなります。しかし、文化・宗教・経済において最初は、キエフ公国(今はキーフとなっていますが)ロシアの発展を支えているのです。今は兄弟喧嘩で、血で血を洗うといいますが、本当にそれなのです。

 10節からその理由が示されています。現行聖書は訳出しませんでしたが、原文には「なぜならば」とあります。なぜ、兄エドム国は永久に荒れ果てるのか。「それはお前がこの二つの国、この二つの土地は私のものとなる。我々はそれを占領する」と言ったからとあります。これはどういうことかです。これは、実は第2次バビロン捕囚が起こった時、BC567年頃の預言でした。北イスラエルはすでにアッシリアによって滅びて、当時は混血政策でサマリヤに主都を置き、南のユダはかろうじてエルサレム神殿を持って、二つの国となっておりました。これが、バビロンから滅ぼされ、エルサレム神殿が破棄された時、一番喜んだのがなんと兄弟国エドムだったのです。

 書いてある通り、エドムは、エレサレム神殿が滅びた時、北イスラエルと南ユダを一緒に占領できると考えたのです。この当たりの次第はエゼキエル25章12節にでてきました。「エドムはユダの家に復讐した。彼らはその復讐によって大いに罪を犯した」とあります。これはエドムがバビロンの側について、南からユダを苦しめたようです。また詩編137編7節には、エドムは、エルサレム神殿がバビロンから破壊される時に、「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで」と喜んだようです。

 エドムはイスラエルがバビロンに滅ぼされる時、バビロンの側に付き、エルサレム神殿の崩壊に手を貸し、エルサレムを助けるどころか返って、その滅びを喜び、イスラエルが自分達の占領するところになると喜んだようなのです。12節にはさらにエドムは「イスラエルは荒れ果てて、我々の餌食となった」とも言っています。バビロンによって弱体化し、エルサレム神殿を破壊されたエルサレムとサマリヤの北イスラエルは、そのまま自分達エドムの餌食になったのだと考えたようです。

 10節には、しかし、エドムが「しめしめイスラエルは滅びて、すべてがエドムのものになる、自分のものになる」と考えた時、実は一つの大切なことを忘れていたのです。それが「しかし、そこに主がおられた」です。人間的な考えでは、バビロンに加勢してつまり同盟して、エルサレム神殿すなわちイスラエルを滅ぼした。バビロンは当然、イスラエルの統治を一番近い自分たちエドム国に任せるはずだ。そうすれば、エドム国は北イスラエル、南ユダを含めてすべて統治できると皮算用したのです。理性的にはこれは最もな道理なのです。「しかし、そこに主がおられた」のです。

 つまりエドムは、人間の思いを越えて、人間の計画を越えて、歴史を実現し、歴史を導く生ける神があることを、考えることも、計算も出来なかったのです。考えてみれば、どうしてイサクの長男エサウ・エドムが、弟ヤコブに長子の特権を譲ったのか。あれは確かに個人的な出来事でした。創世記25章にあります。エサウは狩りから帰ってくるとお腹が減って、ヤコブに「お前の肉を自分に譲ってくれ」と言います。その時、ヤコブは狡猾といえば狡猾ですが「お兄さんの長子の特権を下さい」というのです。エサウは、まだ父イサクが生きており、長子の特権など何の腹のたしにも成らないと思ったのでしょう。長子の特権を、ヤコブに譲っても良いから肉が食いたいと言ったのです。我慢すれば良い時に、また余りにも不釣り合いのものですが、エサウは長子の特権とその時だけの食事の肉と取り替えます。

 ヘブライ書12章6節はこの時の出来事を「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」と書いています。時として、象徴的には私達は、本当に大切な者や事柄を、一時の腹の足しの為に捨てることがあるのです。神様の長子の特権すなわち神様の祝福とはそういうことだと思います。エドムの先祖エサウは、一杯の食物のために、永遠の祝福たる神様様からの長子の特権を軽んじたのです。これはどう受けて良いのか難しいです。しかしエサウはやはり、神様の事柄、霊的な事柄に関してあまりにも無関心だったと言わざるを得ません。

 確かに即効性もなく、何も今は得ることがない。捨てても何も損しないように思える。むしろそれを持つがゆえに、行動を束縛され、自由が奪われ、良いことがないように思われる。しかし、そうでないのです。霊的な出来事とはそういうことのようです。これはいわば礼拝や祈りや奉仕のことではないでしょうか。してもしなくて現実には、余り変わりそうにない。祈っても祈らなくても何も変化がないように、思われる。しかし長子の特権すなわち、神の祝福は、きちんと厳然と働いているのです。

 つまりエドムは「しかしそこに、主がおられた」を軽んじたのです。アブラハム、イサクの子でありつつ、神様の祝福の系譜にありながら、長子の特権を失った。確かに、長子の特権は、ヤコブに移りました。しかし、まだ神様のいろいろな祝福は、エサウ・エドムの元にあったのです。現実に、エサウはヤコブがラバンの元から帰って来たとき、非常に大きな神様の祝福を受けて、大きな族長となり、ヤコブが帰るまでの約束の地を守ってくれていたのです。創世記33章9節にヤコブの帰りを待つエサウは「弟よ、私のところには何でも十分にある。お前のものはお前が十分に持っていなさい」と答え、その裕福さを示しています。神様は、きちんとアブラハム、イサクの子であるエサウをアブラハムの契約のゆえに、祝福し、守っておられるのです。
 13節に「お前達は私に向かって大口を叩き、私に向かって多くの言葉を重ねた。私はそれを聞いた」と言われます。エサウの子孫エドムは、兄弟ヤコブ・イスラエルのエルサレム陥落を見て、大いに喜び、自分たちがイスラエルの土地を受け継ぐ時が来たと勘違いします。しかし、生ける神がイスラエル・エルサレム神殿の陥落していくエルサレムに、やはりおられるのです。エルサレム神殿を破壊し、審判された主が、それでもエルサレム神殿をみ手において、おられたのです。15節に「お前がイスラエルの嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、私もお前に同じような事をする」と言われるのです。そして、その時「彼らは私が主であることを知るようになる」と言われます。

 ここは本当に考えさせられることです。兄弟国、エドムはたぶんバビロン帝国の巨大な軍隊との経済力を見るに付け、また聞くにつけ、とても西に侵攻してくるバビロンに反抗し、その餌食になる兄弟イスラエルを助けることはできないと考えました。またできませんでした。バビロンと同盟して、自国の命を長らえるしかなかったと思います。しかし、生ける主がイスラエルにおられたことを、忘れたのです。エドム国のしなければ成らなかったことは当時にそこにいないので分かりません。しかし、10節にある今がチャンスだ「二つの国、二つの土地は自分のものになる」又、12節の「イスラエルは荒れ果てて、自分たちの餌食になるぞ」とは言っては行けなかったのです。15節「イスラエルの家の嗣業が荒れ果てるのを喜んで」は行けなかったのです。エドム国は、せめてアブラハムとイサクの子孫として、エルサレム神殿の破壊を悲しみ、兄弟の滅亡を悲しみ、何とか支える手立てを考え、手助けをするべきでした。それは、実際はバビロンに反抗することだったことになります。正面から無理だったのです。

 しかし、日本故事でも、面従後言とか、面従腹背とかあります。バビロンに対してその手が使えたのかどうなのか。分かりません。しかし、兄弟の国を簡単に裏切り、その破滅を喜んだ時、主なる神様はそこにおられたのです。そして、イスラエルのためでなくて、ご自身の名の為に、主なる神は、エサウに対して行動されました。14節の「私はお前を(エドム)を荒れ地とする。全世界はそれを喜ぶ」です。それは、ローマ書9章15節「私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」とあります。最終的にヤコブが祝され、エサウ・エドムが滅びて行くのは「人の意思や努力でなく、神の憐れみによる」とあります。

 最終的にエドムは何を間違い、何を失敗したのか。歴史進行は簡単でした。バビロン帝国は、エドムにイスラエルとユダの滅びた後を任せようとは全く思っていなかったのです。エドムはエルサレムのバビロン捕囚後の数年後には、同盟したバビロンから滅ぼされます。エドムの目論見はまったく現実を見ておらず、歴史全体を見ていなかったのです。バビロンはエドムと組みパレスチナを支配させるなどとは、考えてもいませんでした。エルサレムの滅ぼすために、エドムが加勢したことは、全く感謝もせず、目にもとめず、隙を見て、ただちにエドムも滅ぼしました。
 エドムの失敗、間違いは何だったのか。本当の所は分かりません。ただ、生ける神がある。アブラハム、イサクの神、愛の神の存在に思いが、信仰が行かなかったのです。エドム国は、エルサレムを支えても、そうでなくても、どちらに転んでも滅びたでありましょう。そしたらどう滅びた方が良かったのかになるのかと思います。どちらに転んでも死ぬのであれば、神様に従い、神様に委ね、愛する方に生きた方がいいのでないか。そう思います。私たちはここに、パスカルの賭けを思い出していいのだと思います。パスカルは、信じても、信じなくても、人間は死ぬしかない。そしたら、この世においてもあの世においても得をする神があるということに、賭けて生きるが良い、としました。

 兄弟国でありながら、弟の国の滅びを喜んで、自分も神様によって滅んだエドム、兄弟であるならば、兄ならば、弟国をできるだけ支えて、愛して滅んでも同じでなかったか。その方が、よほど良かったのでないか。私たちは、この世で、主の十字架をどのように選び、担っていくのか。改めて示されるエドムへのエゼキエルの審判予言です。主の恵みと愛によって、私たちはこの世の生を生きることが赦されています。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が続きます。またウクライナの戦争も長期化し続きます。エゼキエルは、すべては神の憐れみによると示します。ですから、この世は混乱のさ中ですが、希望をもって終末を目指して歩みます。しかし、愛の神の十字架を仰ぎ、混乱の中を歩みます。続けて求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームの働きを守り導きください。ミャンマーのクーデターも続けて平和をおいてください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教     ヨハネの黙示録11章1〜6節       2022年5月8日
            「 自分の2人の証人 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。連休が終わりましたが、いかがお過ごしでしたでしょうか。規制の係らない3年振りの連休で、多くの観光名所は人だかりだったようです。しかし、鹿児島県はコロナ感染が減少せず、300人代になったかと安心するとまた500人代、昨日は900人代になりました。幼稚園のお母さん方に、連休はどうされましたと聞くと、私の聞いた方は、全員が近場ですませました、とのことでした。やっぱし子どもの感染が気になります、とのことでした。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈ります。しかし、こちらも戦闘の長期化が言われています。ウクライナは降参しないと言っています。ゼレンスキー大統領は、徹底抗戦としています。本当に戦争が終わりそうにありません。戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は第2週ですので、いつものように使徒の手紙から聞くという方針でヨハネの黙示録を開いています。ここは、黙示録らしいといえばそれまでですが、ぱっと読んでも書いてある意味がさっぱり分かりません。ましてやここから神のことば、信仰の励ましのことばを、どう聞くのかと言われそうです。ちんぷんかんぷんになりそうです。しかし、今は返ってこのチンプンカンが大切というか、チンプンカンの中に、導きを聞くというかそういう時代のようにも思えます。ロシアのウクライナ侵攻は、多くの解説者が理性的は分からないとされます。プーチンさんの個人の戦争でないかとも言われます。この頃は、ロシアのスラブ主義というか、ソ連時代の古き良きロシア時代の夢見ているとかの説が解説されるようになりました。しかし、昔は自分の領土だったから今も、と言い出すとこれは切りがありません。どこかで折り合いを付けるしかありません。ただただ、祈るのみです。

 しかし、ロシアにしても、ミャンマーのクーデターにしても自分の分を守らないというか、力は正義であるという原理で進んでいます。力は正義であるとは、昔からのテーマであるにしても、これが露骨にでますと戦争になります。そして、黙示録はある意味で迫害と言った人間の理性の働きを越えた働き、情念といいますか、にどう対処していくか、を私達に示していると言えます。長老ヨハネは、7つの教会に自分の見た幻を伝えて、迫害下にある教会の信仰を励まします。ローマ帝国からの迫害は、皇帝礼拝を守らないキリスト者への迫害でした。それは、聖書からいえば理不尽な迫害です。しかし、この理不尽な迫害を通して、最終的には主が歴史を導かれている。主が与えてくださる信仰と恵みに立って、しっかり迫害に耐え、信仰を守っていくことを、ヨハネの黙示録は問います。

 1節からの「2人の証人」と言われる部分は、10章と同じく、第6のラッパと第7のラッパの間の通常幕間劇のような預言と言われます。つまり正式の黙示録の黙示・預言は第1のラッパから第7のラッパまでの歴史の展開です。長老ヨハネは、第1のラッパから第7のラッパの吹かれる幻を見て、それを伝えることで、これから起こる教会の大迫害の備えをしているのです。

 しかし、10章と11章は、ちょうど漫才でも落語でも良いのですが、真打ちが出て来る前とか間に弟子達がでてきて、それを引き立てるように小さい漫才や落語をするのです。私は見に行ったことがないですが、ボクシングなんかもメイエベントの前に小さい試合が幾つかあって、最後の仕合を盛り上げていくようです。つまり第7のラッパと第6のラッパの間に「2人の証人」という小さい劇があるということです。しかし、解説書ではこの幕間劇は、ラッパの主題からはそれている幻ですが、実は黙示録全体の方向性を示しているとも言われます。つまり、幕間劇の幻が、中間の休みの幻でありつつ、実は全体を見通す幻になっているというのです。

 1節に「物差し」がでてきますが、これはエゼキエル40章の預言からと言われます。神殿と祭壇を測り、礼拝者を数えるのは、神の守りの象徴とされます。これから大迫害があるけれども、主なる神さまはそれをきちんと測り、み手においておられるのです。ところで、2節では神殿の外の庭は測るなとされています。ここは、異邦人に与えられたとしています。異邦人とは通常はユダヤ人以外の民族ですが、ここでは神を信じない人々のことです。ここで主なる神様は、神殿と祭壇と礼拝者を守るけれども、神を信じない者は守らないということになります。

 そしてこの神を信じない人の赦された時間は、42ヶ月とあります。この42ヶ月は、いろいろな取り方がありますが、元々はダニエル書9章や12章からの信仰です。ここは、神に逆らう者は神様からその逆らう期間が決められているという信仰です。実は黙示録では13章5節に42ヶ月がもう一度でてきます。そして、42ヶ月は年になおすと3年半であり、年を日付で計算すると3節に出てくる1260日となります。黙示録を読むと42ヶ月とか3年半とか1260日とかでてきます。これはすべて、7という完全数の半分を、象徴的に使っているのです。

 ですから、きちんと3年と半年だ、と言うよりも、もちろんそのような意味を持ちますが、神様が決められた期間という意味を持ちます。私達は、神様がすぐに答えを出し、祈りを聞いてくださり、出来るだけ早く神に逆らう者、サタン、悪魔的な支配を脱出することを願い、祈ります。しかし、神様の方では御計画があり、ある一定の期間をもって、サタンに支配を赦し、それから神様の真の支配が来るという歴史の大枠が示されているようです。これはヨブ記でもやはりヨブはサタンの試みを受けて、3人の友人に悪態を付き、自分がなぜ、試みに合わないといけないのか、と問いを出します。そして、最後に主なる神さまはヨブに顕現してくださり、問いに答えてくださると言った具合です。ヨブに答えてくださった主の顕現が、本当に私達の問いの解決にもなるのかは、又問われます。しかし、時間的にはこうして、サタン的な者への一定の踏みにじる期間、ある一定期間の試み、試練、誘惑の時があるのです。

 4節はまた同時に、サタン的な者への限定された期間があると同時に、神の証人達にも1260日の預言の期限が限定されています。サタンにも、真の預言者にも期限が定められることは、残念ですが、現実なのだと思います。これは死を考えるとやはり、死はすべての人に人間である以上、平等であります。神様の与えられた限界は、良き人も悪い人も同じように死に至ることです。私達は限られた命の中で、主の恵みによって主に仕え、また恵みにもかかわらず、主を無視して生きていくのです。

 4節には、2人の証人とは主の前に立つ二本のオリーブの木であり、2つの燭台としています。5節にあるように、この2本のオリーブの木と2つの燭台は、主なる神さまから守りを与えられており、力も与えられています。そして、神様の赦される期間の預言をして行きます。古来からこの「2本のオリーブの木」と呼ばれ「2つの燭台」とも言われるものは、何のことかと言われてきました。長老ヨハネがこの黙示録を書いて、7つの教会に送ったのは紀元100年頃です。すでにパウロは殺され、ペテロも殺されており、エルサレム神殿もまたローマとのユダヤ戦争ですでに陥落していました。オリーブの木と燭台は、ゼカリヤ4章2,3節からと言われています。

 ゼカリヤはペルシャ時代の預言者でした。バビロン捕囚からイスラエルの民はなんとか帰還してきました。しかし、周りの国の反対もあってなかなか神殿建築ができませんでした。しかし、預言者ゼカリヤは、その中にあって、第5番目の幻で、2本の燭台と2本のオリーブの木を示されます。ゼカリヤ書を読むと分かりますが、それは、神殿建築に向けて、主が準備される総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアのことです。預言者ゼカリヤは「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」なせ、と言葉を受けるのです。有名なゼカリヤ4章6節です。

 全く不可能と思われた神殿建設が、この2本のオリーブの木と2台の燭台によってなされる。具体的にはゼルバベルとヨシアによってなされる、と預言していきました。長老ヨハネは、おそらくゼカリヤ書をよく読んでいたのだと思われます。実は不思議なことに新約聖書ではこの短いゼカリヤ書から20箇所の引用があるといわれています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルは大予言者で、それなりに新約聖書に引用がありますが、ゼカリヤ書という14章のマイナーな預言書から20の引用があるのです。つまり、初代教会はゼカリヤ書をよく読んでいた。重宝したということです。

 長老ヨハネは、バビロンから帰還して、不可能に思えたエルサレム神殿の再建が、ゼカリヤの預言で進められたのを読んでいました。同じように、ローマ帝国の大迫害を前にして、これを忍耐する導きを求めていて、ゼカリヤ書に思いが行ったのだと思います。2本のオリーブの木と2つの燭台を神様が示してくださるに違いないと示されたのだと思います。しかし、実はこの先の預言がありまして、実は、読みませんでしたが7節には、この2人の証人は殺されるとあります。まさに今のウクライナとロシアの戦争で、この先どうなるかわからない。武力ではロシアが圧倒的に優位ですが、問題はたとえ武力で統制しても問題は、本当のウクライナの統治が出来るかです。

 実はこの前の金曜ミャンマー祈祷会の第65回の祈り会で、祈り会の人々が立ち上げたミャンマーの支援団体の支援物質をミャンマーで配っている人が、現地で殺され、また地雷を踏んで、片足を無くしたことが伝えられました。人道支援団体にも容赦のない締め付けと迫害をしてくる国軍は、国軍とは名ばかりです。長老ヨハネもまた神様の働きをする2人の証人は、殺されると預言するのです。こうなってくると祈りは聞かれるのか、祈っても無駄なのか。しかし、その混乱の中で祈り、苦難を引き受けて、コツコツと工夫して福音を伝えて行くしかないのです。

 結論からいうと最後の第7のラッパが成る時、黙示録11章15節に「この世の国は我らの主とメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」が実現します。結論は見えている。主は統治される。しかし途中はどんな苦難があるかわからない。しかし、その中にあって、希望をもって祈り、自分のできることを引き受けて歩む事が赦されています。これは、パウロやペテロがなしたことであり、私達もイエス様のお弟子として、十字架の罪の赦しの恵みを頂きつつ、1日1日成していくことです。今日は母の日ですが、母の愛のように、子どもの成長を絶対見守る愛に、続きたいです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。鹿児島ではコロナ感染が続きます。またウクライナの戦争も続きます。黙示録が言うように、最後は、主が導かれ、支えられます。ですから、希望をもって終末を目指して歩みます。しかし、途中の今の私達は、混乱と右往左往の連続です。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りと導きを置いてください。めぐみ幼稚園、小羊児童クラブの園児、学童、保育教諭、支援員を支えてください。新年度の歩みと耐震リフォームを守り導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教     マルコ伝9章38〜41節       2022年5月1日
        「 その酬いを受ける 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。私達の鹿児島県のコロナ感染が良くないですが、木曜でしたか、1000名近い数字でしたが、昨日は300名代となりました。連休期間がどうななるかですが、用心しつつ祈って参りましょう。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈るのみです。ロシアはウクライナの東の地域をさらに支配するとし、ウクライナは徹底抗戦としています。本当に戦争が終わりそうにありません。本当に、戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。 さて、本日はあっとう間に5月になりました。本日の聖書は、第1週は福音書から聞くと言うことで、マルコ伝の9章から聞いていきます。ここはマルコ伝では非常に珍しくというか、ここ一回だけですが、ヨハネがイエス様に質問する所です。通常はペテロが弟子を代表してイエス様に質問することが多いです。しかし、ここではヨハネが、弟子を代表して聞いています。中味は書いて在るとおりです。
 38節に「先生、お名前を使って、悪霊を追い出している者を見ましたが、私達に従わないので、止めさせようとした」というのです。ここは、ヨハネは「よくやった」とイエス様に褒めて貰いたかったのでしょうか。「私達に従わない」とあるので、ヨハネは自分たちの仲間だと思って、何かを頼み、命令したのでしょうか。しかし、その人は、ヨハネに対して素っ気なく断って来たのでしょうか。しかし、そもそもイエス様は「自分たちのグループに従わない者はけしからん」という教えをされたことがあったでしょうか。おそらく無かったと思います。 このヨハネの質問の出来事は、どういうことでありましょうか。聖書解説書の中には、このヨハネの質問事件と民数記11章26~30節のモーセの僕、ヌンの子ヨシアの出来後を重ねる解説があります。旧約ヘブライ聖書を読まれた方は、覚えておられると思います。イスラエルの民が、出エジプトをしてシナイの荒野に入ったまだ間もない時のことでした。民は荒野にはいると「マナばかりで何もない。肉が食いたい」と言い出しました。モーセは、神様に問うとすぐにウズラを与えると約束くださいました。その時のことです。

 宿営にの残っていた70人の人に突然、霊が下って預言状態になったのです。これをみていたモーセの僕ヨシュアは言うのです。「わが主モーセよ。止めさせてください。」するとモーセは「あなたは私の為を思って妬むの心を起こしているか。私は主が霊を授けて、主の民すべてが預言に成ればよいと切望している」と答えています。つまり、ヨシアは、誰でもかれでも主の霊を受けて、預言しだしたら、イスラエルの共同体は混乱してしまう。やめさせてほしい、と言うことでした。これは、ヨシアとしてはモーセの指導体制を守る為にそう言ったとされます。しかし、モーセは指導者は自分だけでないとだめとか、指導の権威を自分たちだけにしておくとか、全く考えていませんでした。主の民イスラエルは、まさに全員が主の霊を受けて、自分で方向を定めて行く時、本当のイスラエルとなっていくのです。モーセの言われた通りにしておけば、主の民イスラエルがなるとは、全く考えなかったのです。

 これを念頭において、今一度ヨハネのイエス様への質問を見てみます。すると確かに、ヨハネには、主の名を使う集団に、イエス様の弟子集団に従わない人がいることに、危険を感じたのかもしれません。また、この人達は「お名前を使って、悪理を追い出している」とあります。これは直前のマルコ伝9章18節には「この霊を追い出してくださるようお弟子達に申しましたが、できませんでした」とあるのです。これは、確かにヨハネは自分たちにできなかったことを、自分達の集団でない他の集団が、しかし、イエス様の名を使う別の集団が優れていることになってしまうと考えたのです。これは完全に妬みだったかも知れません。私達はある意味で、非常に興味深い、しかも、これは初代キリスト教会のみならず、今も同じような出来事が起こっているのでないかと考えさせられるのです。

 つまり、同じイエス様の名を使いながら、同じ旗を掲げながら、こちらにはイエス様本人がいて、そこに仕えているのに、そうでない集団が上手に悪霊を追い出していたのです。つまり、現在の教派争いや教派の競い合いをここに読み込んでもいいのではないでしょうか。もっといえば、教会の内の指導権争いもまたこういうことがあるのかもしれません。イエス様の名を使って悪霊をおいだしているのに、本家本元のイエス様のおられる自分たちに従わないとは何事かということです。もっと言えば、会計執事と伝道執事の争いということもあるかもしれません。伝道の為にはこれだけ必要です。とんでもない。献金はこれだけしかありません。と言った類です。

 ちょっと脱線かもしれませんが、イエス様の名において悪霊を追い出している、しかし、真のイエス様がいる自分たちには全然従わない。これはいったいどういうことかというこことです。もしかして、これは、ウクライナのギリシャ正教とロシアのギリシャ正教と同じ東方教会の旗をあげているのに、歴史的には、こっちが本家だ。冗談じゃない、経済的にはこちらが絶対本家だということになります。

 39節にあるとおり、イエス様の答えは、はっきりしておりました。「止めさせてはならない。私の名を使って、力ある業(奇跡)を行い、そのすぐ後で私の悪口(反対)はいえないでしょう」といわれます。イエス様は億例追放は良いことだ、良いことをしているなら、こちらに従うと従わないとかどうでもいい。どんどん悪霊を追放をやらせてあげなさい、となります。イエス様は、本家論争はどうでも良かったのです。どんな状態であれ、悪霊が追放されて、そこに癒しが起こり、人々が解放されているなら、それでいいではないかとされるのです。イエス様の名において、神様の業がなされているなら、それでいいのだということです。イエス様の太っ腹に私達は驚きます。もちろん、カトリックとプロテスタントと東方教会に、キリスト教は大きくいうと3つに分かれるのです。しかし、イエス様の方針は、それぞれの方法で私(イエス・キリスト)の名を広めて、救いを伝達してほしいということになります。

 そうするとルターは何をしたのか、カルビンは何をしたのか。バプテストの先達は何をしたのかとなります。ルターは、福音の義を鮮明にしてくれたと思います。十字架において一番大切なことは何だったのか教えてくれました。カルビンはカトリックの水も漏らさぬ教会制度でなくても、救いは必要最低限の教会で大丈夫と示してくれたのだと思います。そしてバプテストは、もう一度幼児から無理やりバブテスマするのでなくて、自覚的に、応答的にイエス様を信じる大切さを再評価してくれたのだと思います。

 私は救われて間もないころ、特別伝道集会に来てくださった先生の話を聞きました。その方は自分が救われる時の話しをしてくださいました。その方は自分も伝道集会ににでて「先生どうして、教会はプロテスタントとカトリックに分かれたのですが」と聞かれたそうです。その時、先生は「あなたはお魚が好きですか」と言われたそうです。その方は肉よりも魚が好きだったそうです。先生は「魚の料理には、焼き魚と煮魚と刺身があります。もし、焼き魚だけなら、どうですか」と言われたそうです。その方は煮魚が大好きだったそうです。そして「煮魚がないと困ります」と言われたそうです。先生は「神さまはその人にその人にあった教会をお造りになったのだと思います」と言われてそうです。これは歴史的には全くとんでもない説明だと思います。しかし、これはまだ教会の歴史を知らず、神学には余り興味のない人には、人間的な側から見て、良い答えだと思うのです。私達は、たまたま救われた所がプロテスタントだったということになるのです。選んで来たわけでない。しかし、プロテスタントで生活していると、いつでも変えられるけど自分はこれで良かったと思うのです。

 40節にイエス様は「私達に逆らわない者は、味方である」と言われました。ここで大切なのは、私達に「従うもの」はでないのです。「逆らわないもの」は、味方なのです。つまり、後は自由にやってくれだと思うのです。だからキリスト教は2000年間続いてきたのだと思います。それでは、キリスト教の最低限の締めくくりとは何になるか。おそらく「キリストは呪われよ、キリスト者は呪われよ」と言わない限り、皆仲間だということだと思います。自分たちに反対しない限り、主の名において、悪霊を追い出し、主の名において人々に仕えている限り、その人は、自分のいうこと、自分たちのグループの言うことを聞かなくても、絶対味方なのです。

 最後に41節です。イエス様はたった「一杯の水」に報酬を与えると約束されます。一杯の水を出す、というのはまた余りにもささやかな奉仕ではないでしょうか。主はコップ一杯の水を決して忘れない方なのです。第1コリント13章3節を思い出します。そこには「全財産を貧しい人に施しても、・・我が身を死に引き渡そうとも、愛が無ければ私には何の益もない」とあります。つまりパウロは、愛を行為の原点としない全財産の引き渡しまた殉教の死も酬いから外れることがある、と言っているのです。しかし、水一杯の行為を主イエス様は忘れない。酬いを求めて私達が生きる時、それが全財産の施し、命をかけた殉教になろうとも、神様は酬いをしないことがある。しかし、心からの水一杯のキリストの名による行為は、主は、絶対に酬いをもらさない。
 これは改めて、十字架の主の恵みにおいて完成されることでありましょう。酬いでなくて、十字架の罪の赦しの救いに答える、十字架の恵みに応答する。その時、自分では気づかす、主は応答してくださるのです。まさにこれは、1万人に対する5つのパンと2匹の魚です。何にも成らない。何の効果もない。しかし、そこで主が働き、導き、支え、守って下さり、主の業を起こしてくださるのです。私達はここに歩むことが赦されているのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。イースター復活祭を終えて、連休に入っています。親戚等の行き来を守ってください。鹿児島では、どうかコロナ感染が酷く、どうなることかの状況にあります。どうか、特に子どもの感染が多いので、守ってください。しかし、主よ、どうか、今年の歩みを導き支えてください。教会、こども園、児童クラブとそれぞれ新しい歩みが始まっています。先生方、園児、学童を守ってください。求道の方、入院される病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ウクライナとロシアがいよいよ2ケ月を越え、戦争をしています。停戦がなかなかできそうにありません。守ってください。ミャンマーのクーデターも1年3か月に入ります。平和をみ手においてください。1週間の私達の魂と健康を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教     ルカ伝24章13〜23節         2022年4月24日
        「 イエスは生きておられる 」
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。私達の鹿児島県のコロナ感染は治まったかと思うとまた700人代が続き、とうとう800人代が2日間となり、1昨日はなんとか700人代になりましたが、昨日も又789人で相変わらずです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈っております。しかし、状態は悪くなる一方です。マリウポリはロシア軍が掌握したと発表され、ウクライナの東の地域をさらに支配するとしています。ウクライナは徹底抗戦としています。本当に戦争が終わりそうにありません。本当に、戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日はイエス様のイースター復活祭を先週終えて、復活祭以後の出来事からルカ伝を読んでいます。本日読みましたルカ伝24章13〜23節は、本来は一気に34節まで続いています。通常ここはエマオの途上の出来事として何度も聞かれ、説教され、また皆さんも何度も自分で読まれたと思います。本日はちょっと長いので、23節で切りました。途中で切ったのですが、ルカ伝が伝えていることは、十二分に理解できると思います。ルカ伝のここでのテーマは、いかにしてイエス様の復活は理解され体験されていくのか、という問いであります。
 実は、今日は先週に引き続き、幼稚園の教職員の半分の方と児童クラブの任命式を致しました。この復活がどのようして理解されていったのかは、キリスト教が母胎となった施設でそれぞれ働かれてくださっている皆さんには、それなりに興味のある問いだと思うのです。仕事、働きとして、不思議な導きでキリスト教式の幼稚園や児童クラブの施設に働くことになった。しかし、こうして復活とはまた、へんてこりんな教えを、よく信じるものだと思われるかも知れません。実はルカ自身もまた、イエス様の復活は、たとい弟子達にとってもどのようにして信じられることになっていくのかというテーマを持っていたのです。

 13節から聞いていきます。ここには「ちょうどこの日」と始まりますが、この日はイエス様が十字架につけられましたが、死人の中から3日目に復活された日でありました。しかし、18節にあるクレオパともう一人の人は、イエス様の弟子であることは間違い無いのですが、復活が信じられないでいたのです。エマオと言う町は、エルサレムから60スタディオン、今で換算すると11qでありました。いってみれば、鹿児島に対して谷山というところです。このエマオに向けて歩いておりました。

 ここでエマオとはどういう町であったのか、クレオパともう一人は何をしにエマオに行こうとしていたのかは、余り問題でないでしょう。クレオパともう一人は、仕事に行こうとしていたのか、何か商売があったのか。イエス様の復活はエルサレムの最大の祭りである、過越の祭りの終わりの日でもありました。この2人はエルサレムの過越のお祭りに参加して、自分の家を目指しており、エマオはその途中の村だったのかも知れません。しかし、なお読み込みをすれば、19節によればイエス様は「神と民全体の前で行いにも言葉にも力ある予言者であった」とあります。2人はイエス様にイスラエルの救い、それはローマ帝国からの独立と自分たちの救いを重ねて掛けていたのだと思います。しかし、それがイエス様の十字架の死においてすべて挫折し、すべての希望が消えてしまったというところでしょう。

 ですからエマオというのは、ある意味で希望と計画が挫折し、結局駄目だった村であり、自分を慰めに帰る途中の村であります。又自分たちの希望がついえて、自暴自棄になって、しかし、精神と体を休めようとしたところと言ってもいいかも知れません。実はイエス様当時は、エマオには温泉があったという説もあります(霧島温泉)。17節の「2人は暗い顔をして立ち止まった」にこの姿が反映されています。少なくともエマオは、希望に満ちて進む村やここでひとつ再起を決意し、また元気を出して一儲けするかという村でないことは確かです。エマオとは失望の村であり、失敗の村であり、せいぜい休みを取る村だったのです。

 しかし、15節にあるようにエマオの途上で、なんと復活のイエス様は、すでにこの二人の後から付いて来られていたのです。自分たちの希望を掛け、自分たちの救いを掛けて来た方は、十字架に付けられて殺された。すべての希望と新しい計画を取り去られた。そう思っていたのです。しかし、そのイエス様はすぐ後に、付いておられていたのです。しかし、18節にはクレオパともう一人の人には、イエス様の本当の姿が見えません。書いてある通りに「目が遮られていた」とあります。聖書では、目は信仰の象徴の意味を持ちます。

 私達は、なんですぐそこに主イエス様がおられて、声を聞いて話しをしているのに分からんのかと言いたいです。しかし、聖書には時々こういう出来事が書かれています。ヘブライ書13章2節には「ある人たちは気づかずに天使たちをもてなしました」とあります。これは創世記のアブラハムや士師記のギデオンが天使をもてなしたことです。外典トビト書にもやはり普通の人と思って扱っていたら本当は天使だったというのがあります。つまり、時々天使や神的な存在の方は、全く普通の人として、私達の前に出現し、そして神様の導きを与えられるのです。

 つまり、ここで聖書ルカ伝が言いたいことは、すべての希望を断たれて、すべての計画が挫折しても、なお主イエス様は、全き普通の人、全き自然の形を通して、私達を導かれることがあるということです。この教えは、今のようにウクライナがロシアに侵攻されて、攻められ善戦した。けれども、やはり多勢に無勢で、あんなに損害を出しても、結局どうにもならないのかと言う時には、なんの慰めにもならないかもです。しかし、同じようにルカ伝24章は19~21節に「行いにも言葉にも力ある預言者が」結局権力の力の前には十字架に付けられるのみであった。自分たちは「イスラエルを解放してくださるのと望みを掛けていた」としているのと重なります。そして、事実、主イエス様は復活されて実は、もう2人の側にいてくださったのです。
 これはものすごい出来事だと思います。主イエス様は、約束通り御言葉通りに復活してくださっていたのです。しかし、事実は全くそうでないように見えます。事実は悪の力が強く「正義とは力成り」と悪は、どうどうと傍若無人に振る舞っています。しかし、実際は、主は復活されており、2人を導いておられたのです。つまり悪の力は、むしろ神に用いられて、復活の道具にされていたのです。

 23節にあるように、2人は信じられないのですが、復活されたイエス様の前で、天使が「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。復活された方に、復活を説明しているという坊主に説教のような皮肉の形です。しかし、主の復活とはそういうことなのだと示しています。人間は気が付かずに過ごしている。本当は、悪は負けているのですが、実際には勝っているかのように振る舞う。現実は権力と力の方が遙かに強いように見える。しかし、違っていたのです。悪は神様に用いられていたのです。

 本日は読みませんでしたが、それでは具体的にどうやって、2人は復活のイエス様に気づくことになったのか。これから先のことですが、29節にあるように2人は復活のイエス様と知らずに、この見知らぬ人と懇意になるのです。「一緒に泊まってください」と気づかれないイエス様は、2人と懇意に成られました。そして実際にこの見知らぬ方が、復活のイエス様だと気づくのは、見知らぬ人と一緒に御飯を食べた時だったのです。これは、主なる神様は、人間関係を用いられるという教えだと思います。

 31節に「目が開け」とあります。つまり信仰が開き、復活の主イエス様に気づくのは、その直前の30節に、2人が御飯を一緒に食べた時なのです。色々なことをここに重ねていいのだと思います。私が思いついたのは、ギリシャのアリストテレスです。この人は、人が幸福になるには、どんな方法があるのかと問うたことがありました。そして3つの形を語りました。1つ、人が幸福になるには、生まれつきしかない(これはどうしようもないです)。2つ、人が幸福になるには、学習がある。3つ、人が幸福になるには、訓練がある、としたのです。御霊の働きによって、私は、食事をした時に気づくとあるのは、聖霊による交わりの訓練かと思ったのです。つまり、復活のイエス様に気づくには、生まれつきは話しに成りません。かと言って、学習つまり聖書の学びみだけでいいのか、と言うのでない。聖霊の導きによって訓練される。つまり、教会の交わりの中で、神様が示してくださるということです。礼拝をなし、祈りをなし、いろいろな仕事や清掃や奉仕を成す中で、いろいろな交わりが形成されます。その時、後の復活のイエス様が、私達の前にはっきりと見えるようになるのです。私達の目が開かれ、後の復活のイエス様が、目の前の復活のイエス様になっていくのです。
 本日それぞれの任命をしました。それは、最初は食うための単なる仕事、働きかもしれない。しかし、もしかしたら聖霊による永遠の命、復活のイエス様に出会う訓練、交わりかもしれないのです。どうか、まず、新年度に自分の賜物を主なる神さまに献げて歩まれてください。主はどんなに貧しく乏しい賜物も、必ず用いてくださる方なのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。イースター復活祭を終えて、本日の2回目の幼稚園の教職員と児童クラブの支援員と補助員の任命式を感謝します。どうか、コロナ感染でいつものようには、何もできないイースターでした。しかし、主よ、どうか、今年の歩みを導き支えてください。教会、こども園、児童クラブとそれぞれ新しい歩みが始まっています。先生方、園児、学童を守ってください。求道の方、入院される病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ウクライナとロシアがいよいよ2ケ月に渡り戦争をしています。停戦がなかなかできそうにありません。守ってください。ミャンマーの平和もみ手においてください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教   ルカ伝24章1〜12節         2022年4月17日
       「 信じなかった 」   ―イースター礼拝―
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。コロナ感染は治まったかと思うとまた700人代がつづきました。昨日もまた735人で相変わらずです。又児童クラブの方で陽性者がでて、1日休みました。祈りつつ用心しながら進むのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈っております。しかし、状態は悪くなる一方です。また虐殺とされる戦争犯罪も伝えられています。ただ無差別殺戮は、日本の先の戦争でも、広島、長崎の原爆やそれぞれの町の空襲もそうでした。戦争の時は、どうなるかわからないのは、どこでもそうなのだと思います。本当に、戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、感染に用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日はイエス様のイースター復活祭となっています。また、今年は定期総会が遅れてしまい、いつもは4月の第1日曜にしています任命式も3週遅れになりました。コロナ感染でいつもの日付で出来ませんでした。イースターの復活祭と年度初めが一緒になるという7年毎に巡ってくる組み合わせが、今年は増えた事になります。年度初めのイースターは、復活の主イエス様と共に、年度が始まるという年となり、嬉しいことです。
 本日は任命式を致しまして、礼拝の後で、幼稚園の関係者にはいつも一言の抱負等を話して頂いております。時間をとりますので、イースター礼拝ですが、コロナ感染もあり、短く聖書からお話したいと思います。まずイエス様の復活は、当然ですが復活だけというのはありません。当たり前と言えばそうなりますが、イエス様は十字架に死なれて、殺されました。しかし、その死人の中から復活されました。十字架に付けられた方が復活されたのです。大切なのは、イエス様の復活は常に、十字架と一緒に語られます。これは意外と大切と思います。

 十字架だけの語りでもない、復活だけの語りでもない。イエス様の場合は、十字架に殺され、死なれた方の復活です。十字架だけでしたら古今東西多くの先例があるのだと思います。ギリシャのソクラテスは、アテネの人々に、正しい義、正しい真理はに何かを教えました。当時はソフィストという白を黒に、黒を白に、言論の力で出来ることが、正しい力のある市民と考えていました。市民は、知識の力を頼み、白を黒に、黒を白にする言論の技術を身につけることを目指したのです。今ウクライナとロシアが戦争をしており、改めて正しさとは何かが問われます。力で正義を通すのか、正義は力とは別の所にあるのか。いつも根本問題があります。

 現実はかなり難しいです。しかし、ソクラテスは義は義であって、白は白、黒は黒とします。正しい討論・言論において、真理を知るとしたのです。そして、無知の知という人間のあり方を示しました。しかし、ギリシャのアテネの民主主義は、ソクラテスを賛成多数で、死刑にしました。十字架だけの死をソクラテスは教えます。このような死は日本にも結構あり、戦争の時には、仏教徒、三木清や、天皇は神にあらずとしたキリスト者は国体に合わずとして、逮捕され、獄死していきました。

 復活だけの教えも、これは結構多いかと思います。これを信じれば、よいことが一杯ある。何が起こっても大丈夫という信心が宣伝されます。通常の状態では馬鹿馬鹿しいと信じませんが、大きな病気や大きな借金となると、そうは行きません。私の父は田舎育ちでほぼ日本の代表的な無神論者だったと思います。その父が、私が牧師になって数年後でしたでしょうか。大きな病気になり「人間は直らない病気の時は、やはり神様が必要だ」と分かったような分からんような事を私に言いました。復活だけの宗教というのはあるのだと思います。

 しかし、主イエス様は十字架からの復活であり、死人の中からの復活でした。十字架のみでない。復活のみでない。十字架を通っての復活なのです。十字架という私達の弱さと私達の罪を背負い、しかし、それを赦し、さらに共に歩んでくださる復活です。私達は自分の希望を胸に人生を歩みます。しかし、失敗し挫折します。しかし、主の復活に自分の希望を委ねるとき、失敗し、挫折したところからまた復活して希望が始まるのです。
 次にルカ伝が教えるのは、24章5節の「生きておられる方を死者の中に探すのか」という天使の言葉です。私達はどうも死人の中に、復活を探すようです。具体的に言えば、過去に捕らわれて墓の中に、復活の出来事を探すのです。もっと言うと自分の過去や自分の業績に、捕らわれて生きてしまうということです。ここには新しくめぐみ幼稚園で働いて下さる方が4人います。これは本当にしばらく振りだと思います。新しい方が4人もおられるのは、すごいことだと思います。

 しかし、もし、自分の業績や自分の過去にとらわれて、そこに新しいことや復活を探すとすれば、天使が言ったように「生きておられる方を死人の中にさがすのか」と神様に、怒られる、叱られるかも知れません。復活は新しい出来事です。従って、そこには新しい出来事が生じるところなのです。新しい人間関係と新しい先輩がいて、どうも馬が合わないとか、この人は馬が合うとかあると思います。しかし、基本は新しいことが始まるのだと思います。自分の過去があり、自分の能力があり、自分の限界があります。しかし、基本は、子どもの成長であり、子どもに神様が与えられた賜物を伸ばしてあげることです。

 過去の遺物にとらわれず、つまり死人にとらわれず、やはり新しい自分と新しい関係をたぐりだし、出発させてほしいです。復活は新しい存在ですが、それは言ってみれば新しい関係であるのです。たまたま幼稚園で共に新年度の研修を受けた時、講師の先生が「ストレスが溜まり、どうにも成らない時は、すぐに逃げろ」というお話しをされました。つまり死を決め込むことと、私は受け止めました。簡単に逃げられたら困るのですが、自分が壊れるくらいなら逃げるが勝ち、死んだが勝ちです。死んで復活することが必要です。イエス様は死んで復活された神様なのです。

 3つ目は、6節と8節です。ここには、今言ったことと反対だといわれるかもしれません。「ガリラヤでお話しになったことを思いだしなさい」とあり又「婦人達はイエスの言葉を思い出した」とあります。つまり、イエス様に言われた古い、古いことばの過去の思い出しです。主の復活を体験し、知るためには、主の言われた昔のことの思い出しが必要なのです。つまりこれはある意味で、本来の目的、根底、基盤だと思います。教会でいえば、礼拝、祈り、奉仕つまり魂の再生、新しい存在への導きです。幼稚園、児童クラブでいえば、子どもの成長、子どもの成長の引き延ばしです。そのための子どもの心の基礎を与えること、示すことです。実は、幼児期は基本的生活習慣をつけないといけないのですが、その前に心の根底、基礎の構築です。それは基本的信頼といわれるのです。何があっても、自分は受け容れられているという絶対依存感情です。叱られ、怒られ、反対され、馬鹿にされても、私は愛されているという依存感情です。ここをこども園、児童クラブは担当するのです。

 先週、バプテストの牧師さんで、3月にウクライナの視察に行かれた方のズーム中継と実際の講演会がありました。講師は日本バプテスト連盟のインドネシアの宣教師を10数年された木村先生です。講演は本になってもいいくらい内容がありました。この3月に行って帰って来られたのです。キリスト教の講演会でしたので、福岡の会場で、100名くらいの方が、集まって、最後に質問の時間がありました。ある方がいいました。「先生、このウクライナとロシアの戦争において、キリスト者として何かできる事がありますか」と会場から質問がありました。先生は、即座に「何もありません」と言われたのです。
 牧師としては「祈ることができます」とか何かいわれると思ったのです。しかし、先生は「何もありません」といわれるのです。そして、キリスト者のできることは「山火事に、バケツ一杯の水を掛けることくらいです」と続けて言われました。続けて「イエス様の時、小さい子どもが1万人の群衆がお腹を空かしている時に、5つパンと2匹の魚をもってきたでしょう。それで良いのです」と言われたのです。自分のできるところを力一杯、平和を祈りつつなしなさいと聞きました。神様はそれを用いるのですといわれたのです。山火事にバケツ一杯、何にもならない。1万人の群衆に5つのパンと2匹の魚。何にもならない。しかし、そこから始まると先生はいわれました。私達もそこからしか始まらないのです。新年度、教会も、幼稚園も児童クラブも、十字架の主にまずはバケツ一杯の水、5つのパンと2匹の魚で奉仕をしていきたいです。

 祈ります。「天の父よ、本日は2022年のイースター復活祭です。コロナ感染で何もできないイースターです。今年は新年度の始まりとなりました。主よ、どうか、今年の歩みを導き支えてください。教会、こども園、児童クラブとそれぞれ新しい歩みが始まっています。先生方、園児、学童を守ってください。求道の方、入院される病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ウクライナとロシアが1ケ月以上も戦争をしています。停戦がなかなかできそうにありません。守ってください。ミャンマーの平和もみ手においてください。み名によって祈ります。アーメン」

 説教   ルカ伝23章32〜43節         2022年4月10日
           「 知らないのです 」 ―棕櫚の主日礼拝―
 おはようございます。本日も、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。コロナ感染は治まったかと思うとまた700人代がつづきました。昨日も700人代です。沖縄は、連日の千人が続き第7波の開始とも言われています。このまま治まりきれないで、また増加に転じるとも言われています。用心しながら生活し、祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈っております。しかし、どの解説者はこの戦争は長引くかもしれない、と解説しておりました。また虐殺とされる戦争犯罪も伝えられています。ただ無差別殺戮は、広島、長崎の原爆もそれぞれの町の空襲もそうでした。戦争の時は、どうなるかわからないのは、どこでもそうなのだと思います。本当に、戦闘の停止と平和をただただ祈りつつ、用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日から受難週に入ります。今日もイエス様の最後の1週間から聞いて行きます。今年は次週4月17日が復活日となります。今年は、ルカ伝の十字架と復活の報告から聞いております。本日は、イエス様の十字架刑のところです。ルカ伝は、他の福音書と違って、独自なイエス様の十字架の姿を伝えています。それが、本日のイエス様の十字架上でのことばと、2人の犯罪人の応答と、またイエス様が一方の犯罪人に約束された「あなたは今日、私と共に楽園にいる」の約束です。

 早速、聞いて行きましょう。32節にあるように、イエス様の十字架刑の時は、他に後2人の犯罪人が十字架刑になりました。この犯罪人ことは詳しく書いてありません。死刑ですので、当時はおそらくたった一人のためだけに総督ピラトが裁判をするというのは無かったでしょう。3人くらいになったら裁判をしたのか、たまたまそうなったのか分かりません。ただ、イエス様の裁判はユダヤ人の祭司長と律法学者や長老達からなるサンヘドリン会議が、総督ピラトに願い出たとなっています。この2人の犯罪人は、総督ピラトの裁判のために、留め置かれていたのでしょうか。
 33節にある「されこうべ」という場所は、マタイ伝、マルコ伝では、ゴルゴダと呼ばれています。現在では、その場所の特定ができないそうです。ただエルサレムは神殿がありますので、死人は場所を汚すと考えられていたので、少し離れたところであろうとされます。そして、イエス様と共に2人の犯罪人が十字架に掛けられました。この2人は詳しいことは分かりませんが、単なる強盗や人殺しでは無かったと言われています。当時のユダヤはローマ帝国の植民地ですので、独立運動は常に起こっていました。この2人は、その独立運動に係わる中で、ローマ兵を危めたか、人を殺したかで、十字架刑になっていたと思われます。

 34節に主は、自分を十字架に付ける者に向かって祈りをされました。それは「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、知らないのからです」という祈りです。余りにも有名な祈りで、イエス様の十字架上のことばは7つあるとされますが、これは独特なものです。主は、ご自身が殺される時も、自分の使命、罪の赦しと贖いを淡々とされていると言えます。ただ、肉体の十字架の痛みを伴った中での祈りです。これは、本当に起こったのであろうかと疑問を出す方もありあす。

 34節は現行の聖書でも、括弧の中にいれてあります。それは実は一番古い写本群には、この34節がないのがあるのです。残念ながらどうして、初期の写本に34節の祈りがないのか、よく分かっていません。実はイエス様が十字架に付けられた後、40年後の紀元70年に、ユダヤ戦争が起こりました。バビロン捕囚の時と同じように、又もエルサレム神殿は、今度はローマ軍に破壊されました。聖書の写本の人達は、イエス様が十字架に、自分を十字架に付けた者つまりユダヤ人を赦されている。しかし、エルサレム神殿は又も破壊された。イエス様の赦しの祈りは聞かれなかったのでないかと心配した。写本をする人が34節を写本しなかったと言うのが一つの取り方です。それで、34節がない写本がでてきたというのです。難しいです。でも、イエス様は常々赦しを説かれていました。ここに使われている言葉は、すべてルカがよく使う言葉だそうです。この祈りは実際にあったと言えます。
 イエス様はマタイやマルコが伝えるように「我が神、我が神、どうして私を捨てるのですか」という言葉を言われたのです。しかし、この「彼らは、自分が何をしているのか知らないのです」もまた祈られたと言えます。そもそも十字架は、人間の弱さと罪によって、人間の原罪という根元的に神に反抗する働きによって、イエス様は拒絶され、殺されて行かれました。しかし、神様はこの人間の弱さと罪を用いて、救いのみ業、罪の赦しの業を成してくださいました。人間の罪が神様によって、罪の赦しの十字架を成し遂げて行くのです。ユダの裏切り、ペテロの裏切り、ユダヤ人のサンヘドリンの裁判、ローマ人の総督ピラトの裁判をもって、十字架は成されました。

 しかし、それは同時に神様の罪の赦しと贖いの御計画でもありました。「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、知らないのです。」は、まさに、すべてをご存知の真の神にして、真に人であるイエス様が始めて祈れる御言葉であると言えるでしょう。私達は、苦しみや痛みに出会うときに、その除去を願い、その意味を分からずに、神様を呪いたくもなります。正に「なぜ、私を捨てるのですか」と言いたくなります。しかし、同時にその痛みと弱さと失敗と間違いを通しても、主は、ご自身の御計画を遂行される。とすれば、私達は最後に「父よ、彼らを赦してください」との祈りができなくても、しかしその心を知ることができます。

 実際にこの後で、言行録7章60節、弟子のステパノは殉教の時「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」との祈りをしています。これは、イエス様の最後の十字架の祈り「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか知らないです」と言う祈りがなければ、不可能な祈りだと思うのです。イエス様の祈りに先導されて、ステパノは自分の死において、同じ祈りを祈ったのだと思います。
 私達も究極的に、同じだと思うのです。イエス様の十字架の死を受けて、罪赦され、本当の自分と真の存在に至る自分を与えられました。真の幸福と真の幸せをこの世にあって教えられたのです。私達の真の幸福は、イエス様のとの交わりにあるのです。この奇跡の一方的な恵みを知りました。私達は、自分の全力をもって「父よ、私達をお赦しください。私達は、あなたの御計画を全部知ることができないのです」と祈りつつ、相手を赦し、自分も赦され、この世を歩むのだと思います。

 35節からはイエス様の両側に立つ2人の犯罪人の姿です。先ほどもいいましたように、単なる強盗や殺人者でなくて、ローマからの独立を願う革命の士師でもあります。その中で殺人等を犯したのかも知れません。しかし、ルカはこの犯罪人に2つ通りあったと伝えます。不思議なことに、マタイとマルコ伝は、民衆もまたイエス様を罵り嘲笑するのですが、ルカは民衆や群衆の愚弄、嘲笑を書いていません。愚弄、嘲笑するのは、支配者である祭司長達やサンヘドリンの議員達、ローマ兵です。ルカは、民衆・群衆がイエス様への共感を持っていたことを示しているのかも知れません。
 さて、39節に十字架に付けられたもう一人は言います。「お前はメシアではないか。自分自身と私達を救え」です。全くです。イエス様は神の御子メシア・キリストです。全能の神様から遣わされた方です。この方が、なんで自分を救えず、十字架に付けられた自分たちも救えないのか。こんなメシア・キリストがあってたまるか、です。これはまさに、当時にあったローマ帝国からの解放の政治的なメシア・キリスト像です。外典のマカベヤ書にあるように、又ダニエル書にあるように、圧倒的な力をもって、この世の秩序を逆転させる真のメシア・キリストです。

 このメシアは、イスラエルの祈りに答えて、エルサレムを救い、イザヤの時のように、185000人のアッシリア兵を1日で退散させねばならいのです。列王記下19章35節です。ローマ兵を直ちにエルサレムから駆逐し、イスラエルを独立させるはずなのです。しかし、それは起こりませんでした。そして、紀元70年のエルサレム陥落の時もユダヤ人は、燃えるエルサレム神殿を見ながら、今か今かと主の御介入を待っていたとユダヤ人のヨセフォスは『ユダヤ戦記』に書いています。しかし、それは起こりませんでした。まさに、バビロン捕囚のエルサレム陥落の時と同じです。主は、もうエルサレム神殿を捨てられたのです。イエス様が十字架に死なれた時、神殿の至聖所の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けて破れました。こえは神殿の礼拝の終わりを示していました。もう神殿ではなく、イエス様の御名で礼拝するのです。

 40節からはもう一人の犯罪人がいます。この人は、ある意味でキリスト者の象徴かもしれません。この人もまたローマ帝国への革命運動で、人を危めたか、ローマ兵を殺したのです。そして捕まりました。しかし、この人はなんと自分の罪を認めます。41節に「自分たちは自分のやったことの酬いを受けているからと当然だ」と告白するのです。信じられません。もう一人の犯罪人のように、この人もイスラエルの解放を夢見て、メシア運動の一角をしていたのです。しかし、見事に失敗しました。その時、自分は自分の酬いを受けていると認めるのです。もう一人のように「お前が本当のメシア・キリストなら同じ同士でないか。メシアの力で、自分と自分たちをローマ帝国異邦人からの支配から救え」と言って良かったのです。しかし、言いませんでした。
 ロシアのドストエフスキーが『悪霊』という小説を書きました。青年達が帝政ロシアに対して5人組を起こし、しかし内部分裂して互いに殺し合い、目的は良かったが自滅する話しです。民衆の苦しみを見て革命を起こすのは良い。しかし、それはすぐに自分たち同士の殺し合いに変わるというのがドストエフスキーの見立てでした。一歩間違えると私達の義は、すぐに自分たち同士の非難仕合、殺し合いになるのです。
 イエス様の隣のもう一人の犯罪人は、自分の罪を認めます。もしかしたら、ローマ帝国への反乱と目的の威勢は良かったのです。しかし、本当のところは、自分の名声や自分の利益を見ていたのかも知れません。そして「イエスよ、あなたのみ国にお出でに成るときは、私を思い出してください」と言うのです。するとイエス様は十字架の上で「あなたは今日、私と共に楽園(パラダイス)にいる」と約束されました。ここには、端的に信仰とは、救いとは何かを示していると言われています。

 イエス様もこの犯罪人も十字架に掛かっています。無駄な会話はありません。信仰とは何ぞや、救いとは何か。まさに、端的に救いとはイエス様との交わりだったのです。この人は、信仰の業を何もしていません。礼拝も献金も良き業もこの人にはありません。しかし、主イエス様と会話をし、交わりをし、自分の救いの必要を知り、それを十字架の主イエス様に願ったのです。まさに悔い改めの表明です。その時、この人は楽園(天国)に入るのです。主の十字架の死は、この人を天国に繋ぎました。この人は、死の間ぎわに真の存在と真の幸福を受けたのです。十字架の恵みによる救いの原型です。私達の罪と弱さが、主イエス様を十字架に付けました。しかし、主は、これを救いの業に変えられるのです。私達は、主の恵みにただただ感謝し、その十字架の恵みに応答して今日を歩み、生きるのみです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。私達は棕櫚主日にいます。主の最後の1週間を覚えます。ウクライナの戦闘を停止させて平和を来たらせてください。求道の方、病気療養の方、高齢の方を支えてください。子ども園と児童クラブの働きを、先生と園児、学童を導きください。主よ、御心を私達に示し、私にできる十字架を担わせてください。み国・天国に入れてくださることを感謝します。今日からの1週間をまた導き、私達の信仰、魂、健康をお守りください。御名によって祈ります。アーメン。」


 説教   ルカ伝22章39〜46節         2022年4月3日
           「 御心のままに 」 
 おはようございます。本日は、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。コロナ感染は治まったかと思うとまた700人代が3日間つづきました。全国の状況も同じらしく、もしかしたら、第7波の開始かもしれないとも言われております。このまま治まりきれないで、また増加に転じるとも言われています。本当に祈るのみです。またウクライナの戦闘が早く終わるように、ロシアも含めて戦死者が出ないように祈っております。しかし、昨日の解説者はこの戦争は長引くかもしれない、と解説しておりました。なんだか祈るたびに、祈りが拒絶されているかのようにも思います。本当に、ただただ祈りつつ、用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。
 さて、本日は受難節に入っていますので、イエス様の最後の1週間から聞いて行きます。今年は4月17日が復活日となり、次週の10日が棕櫚の主日となります。今年は、ルカ伝の十字架と復活の報告から聞いております。本日は、最後の1週間でも有名なゲッセマネの祈り、イエス様の最後の祈りです。ここは余りにも有名で、私達はこのイエス様の祈りから多くの信仰の力・エネルギーを受けると思います。ところでルカ伝とマタイ伝やマルコ伝の伝え方は少し違っております。

 たとえば、先ほどいいましたがイエス様の最後の祈りは、通常ゲッセマネの祈りと呼ばれています。しかし、ルカ伝は皆さん気づかれると思いますがゲッセマネという固有名詞を使いません。元々は、油を絞るところくらいの意味だったそうです。「いつものように」とあるので、おらくオリブ山のゲッセマネの園が、イエス様や弟子たちの祈りの場所になっているは、誰でも知っているということをルカは前提しています。4節もまた「いつもの場所」とあります。

 さらに、他の福音書では、最後の祈りにイエス様はペテロとヤコブとヨハネの3人を、12人からまた選び、祈りの支援、援護を頼んでおられます。しかし、ルカ伝は書いて在るとおりですが、イエス様の最後の祈りは、ユダはすでにいなかったかもですが、弟子全員がイエス様の側で祈るようになっています。つまりルカ伝では、祈りは当然のごとく、弟子たる者すべてのものがイエス様の最後の祈りの支援、援護をするものだと示していることになります。こうして、改めてルカ伝は、いつものようにオリブ山のゲッセマネの園にて祈るイエス様、そして弟子達全員が、イエス様の最後の祈りを支える祈りをすることを示しています。

 さらに、これはルカ伝だけでないですが、すべての福音書で、イエス様は「石を投げて届くほどの距離」ですが、弟子を離れて一人で祈られています。つまりイエスさまは父なる神さまと独自の関係を持っておられる。祈りは、祈りの仲間の支援を必要とするのです。しかし、同時に父なる神さまのとの1対1の関係があるということです。つまり、私達は教会で全員で祈る。祈祷会のような仲間と祈る。そして、やはり神様と一人になって、1対1で祈ることが示されます。ゲッセマネの祈りは、こうして1対1の祈りの大切さを、よく教えてくれます。
 この中でも特に祈りは、祈りの支援というか援護を必要とすることです。よく祈りは「自分でなし、自分一人でするものだ」と言われます。しかし、イエス様でさえ、マタイ伝26章38節、マルコ伝14章32節とルカ伝ははっきりしませんが「共に目を覚ましていてほしい」と言われました。よく言われれように、祈りはイエス様の要請なのです。どうでもいいことでないのです。しなければそれでいいということでない。イエス様の懇願であり、お願い、要請です。イエス様に従いたいと思う者は、同時に祈りにおいても、やはりイエス様に従い、またイエス様のお願いに答えていくのです。

 40節にあるように、さらにゲッセマネの祈りは「誘惑・試練に陥らない為の祈りなのです。」これはすぐに気づかれると思いますが、主の祈りの第5番目の「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」の実戦でもありました。最初にいいましたが、コロナ感染の停止もウクライナ戦争の停止も、また1年2か月を経過したミャンマーのクーデターの平和も一見、祈っても駄目でないかと言う声が聞かれます。ミャンマーの夜の金曜祈祷会はとうとう先週60回目でした。幾人かの方が、祈っても聞かれないかも、という人もいます。
 疫病に関しては、多くの事が言われるようになり、オーストラリアのタスマニアの原住民の滅亡も、最近はインカ帝国の滅亡も、またカトリック教会が権威を落とし、プロテスタントになっていく契機になったのもルターの教説でなくて、14世紀の疫病ペストでないかとまで言われています。14世紀の疫病は、ヨーロッパの人口が3分の1になったと言われています。西南神学部の教会の教えの歴史を担当された教理史を教える片山先生が70才となれて退官され、退官記念の本が送られてきました。ここには、文化の伝承が保たれる最低の人数は、その文化の3分の1かもしれないと14世紀の疫病からヒントを得て言われています。
 先生は「試みにあわせないでください」はとても大切な祈りですと言われます。「なぜ突然のごとく疫病が発生するのか、疫病があるのかは、神様しかわかりません。しかし、人間がその時できるのは、疫病を記録することです」と言われます。中国文化やビザンチン文化もまた大きな疫病を受けたはずです。しかし、記録が残っておらないそうです。なぜか、西洋キリスト教文化は、疫病を延々と記録したそうです。そして「記録を残さない文化は、また同じ災害を受ける」と言われます。記録が残るとちょっとでも違った対応ができるそうです。「試みにあわせないでください」との祈りは、個人の事柄のみならず、大きな文化という観点もあるようです。

 42節からは、ゲッセマネの祈りの中味です。ここは、もう何度も聞かれた通りです。イエス様はまず「御心なら、この杯を私から取りのけてください」と言われました。ここは非常に大切です。イエス様は、英雄のように試みに果敢に対応されたのでありません。イエス様はスーパーマンではありませんでした。イエス様は私達と同じ、生身の人間、働けば疲れ、現実に疲労困憊される方です。44節には「苦しみもだえた」とあります。十字架を目の前にして、ちょうど死刑囚がやはり死刑に日にもだえて、取り乱すように、イエス様は悩まれたのです。イエス様は本当に真の人であり、真の神様であったのです。
 イエス様の悩みをみて、躓く方もあるかも知れません。死を恐れるとは、神の子としてはどうなのか、と言う方もあるでしょう。外典ですが、第2マカベヤ書6〜7章には、シリアの迫害を受けて、中味は豚肉を食えということですが、これを拒絶し、悠々と死んでいく大祭司エレアザルが書いてあります。また豚肉を食わなで、7人の子どもを全部殺され神を讃美するユダヤのお母さんが書かれています。これに比べるとイエス様は、なんとも心許ないです。イエス様の意気地のなさは何でしょうか。
 でも、なんという親近感でしょうか。イエス様が十字架の死の前に悩まれるということは、私達も死に臨んで弱音を吐き、逃げ、戸惑い、悩むのが肯定されています。人間は、死を前にして、弱音を吐き、戸惑い、逃げ、悩むのは、いいのです。それが人間の真の姿です。イエス様が十字架の前に、悩んでくださったことによって、私達は安心をもち、安堵を持つと思います。これはある意味で、イエス様が、人間のそのままを由とされた、高められたということでもあります。

 しかし、イエス様は次の祈りに進まれるのです。「しかし、私の願いではなく、御心のままになさってください」。ここに私達は、祈りの本質を知らされます。祈りは確かに自分たちの現状を訴え、私達の現状を神様に聞いて頂き、守りや平安を受けることです。しかし、同時に祈りは「御心を求め、御心に沿う」ことを求めることが入っています。つまり、ゲッセマネの祈りは、現状を訴え、現状からの救いを願っています。しかし、さらにもう一歩、それは神様の御心を示して頂き、そこに生きることでもあります。むしろ、イエス様に教えられることは、訴えことから御心を示して頂き、そこに生きることです。
 祈りをするということは、確かに現在の苦しみを訴え、現在の苦しみや苦悩を取り去ってもらうことです。しかし、そこには主の御心を行う、主の御心を示してもらうことが入っているのです。確かに祈る人は、弱い人、自分の現状に耐えられない人なのかもしれません。祈りの人は、現代では何か消極的な人、いつも守りを求めている人のように見え、映るのかもしれません。しかし、イエス様が示される祈りは、現状の訴えと打開と同時に、次の行動の御心の示しです。

 聖書では、有名な「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう」という聖句がマタイ伝11章28節にあります。これは一見、疲れた者、重荷を負って、人生をへとへとになっているものが、現状を訴えて、楽にしてほしいという祈りの姿です。しかし、まさにその解決は、次の11章29節に「私は柔和で謙遜であるから、私の軛を負い、私に学びなさい」と続くのです。
 変ですね。人生に疲れて、重荷を負い、疲れを負って、へとへとになっている。この人はイエス様に所にきて、重荷を降ろし、疲れをいやしてほしい。しかし、それは、なんと「イエス様(私)の軛を負い、イエス様(私)に学びなさい」とあるのです。「変だぞ、疲れて、苦しくてへとへとになっている人に、また主の軛を与え、主の学びをさせるのか。もっと苦しくなり、もっと大変になるのではないか。」と成りそうです。これはよく言われるところの「自分の命を救いたい者は、命を失う。私の為に命を捨てる者は、命を得る。」(マルコ8章35節)です。

 45節に、弟子達は「悲しみの余り眠りこけました」。しかし、弟子達もまた、イエス様の願いである祈りを理解出来なかったようです。しかし、主は、ここから出発させられるのです。祈りは御霊と共に働き、道を開いていくのだと思います。神様を信じ、神様の導き、神の神秘に委ねて御心を祈るのは、一見理性を失っているかのようです。しかし、どうなのでしょうか。今回のロシアのウクライナへの侵攻は、理性的には考えられないと多くの解説者がいいました。何か特別な力に捕らわれているのです。聖書ではこれは、サタンや悪魔になります。あるテレビで、プーチンさんが、最近占いに取り付かれていたとか報じていました。全く話しにならない根拠なき報道かもしれません。でも、占いは聖書ではもっとも神様が嫌われる出来事です。ロシアにはギリシャ正教(東方正教会)という伝統のあるカトリックと肩を並べる真のキリスト教が厳然とあるのです。
 聖書の信仰と聖霊の働きは、むしろ悪魔の支配、混乱から解放し、理性をきちんと理性として、働かせることに導きます。プーチンさんに、真のギリシャ正教に戻ってほしいです。理性を働かせてほしいです。これは全く話しにならない一介の祈りです。なんとか戦闘を止めてほしいです。受難節にはいり、私達の弱さを知るイエス様に導かれ、主のお願い、主の要請でもあった仲間の祈り、一人の祈りに歩みたいです。

 祈ります。「天の父、主なる神さま、御名をあがめます。コロナ感染は、第7波のスタートと言われ、ウクライナの戦争も長引くそうです。どうか、主よ、コロナと戦争も止めてください。私達を試みあわせないでください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。新年度が始まりました。子ども園、児童クラブとどうか、先生や新しい園児、学童を支えてください。続けて、1週間を導きください。耐震リフォーム、定期総会の準備を支えてください。私達の信仰と魂と健康を支えてください。ミャンマーを守ってください。御名によって祈ります。アーメン」

    説教  ルカ伝22章31〜34節         2022年3月27日
           「 3度私を知らないと 」   受難節
 おはようございます。本日は、皆さんと共に集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。コロナ感染は治まったかと思うとまた400人台がでたりで、まだまだ収まりません。このまま治まりきれないで、また増加に転じるとも言われています。しかし、蔓延防止法は解除されました。又コロナのことが気になっていましたら、今度は、ウクライナの戦争が起こりました。疫病、戦争ときますと黙示録では次は、飢饉です。本当に、ただただ祈りつつ、用心しながら祈りつつ歩みたいと示されます。

 さて、本日は受難節に入っていますので、イエス様の最後の1週間から聞いて行きます。毎年福音書毎に聞いていますので、今年は4年ぶりにルカ伝からです。本日はペテロの裏切り予告のところです。何度も言いますように、4つの福音書は4つともユダの裏切りとペテロの裏切りを書いていきます。4つともユダがまず裏切り、次にペテロの裏切りとなっています。そして最終的には、12弟子全員がイエス様を知らないと裏切っています。イエス様は、ユダヤ人の裁判、祭司長と律法学者の裁判で死刑とされ、次にローマの総督ポンテオ・ピラトの元に死刑とされ、さらにそのユダヤ人と異邦人ローマ人の裁判の間で、12弟子に裏切られています。
 どうして、4つの福音書全部が、イエス様の裏切りをこんなに詳しく書いていくのか、と思います。何度も言われるように、それは、私達人間が、ユダヤ人も異邦人ローマ人も、そして12弟子達も根本的に主を否む、神様を否んで行くということです。私達は、根本的に神様を否み、信じない性質、原罪をもって生きていることを、徹底して示しているのだと思います。

 31節から早速みていきます。まず、イエス様はペテロに2回呼び掛けています。「シモン、シモン」です。これはペテロのユダヤ人の間の名前です。これからイエス様を裏切っていくペテロです。しかし、イエス様は2回続けて、ペテロに呼び掛けてくださいました。イエス様から名前を2回呼ばれたのは、この他には言行録9章の「サウロつまりパウロ」とルカ伝10章の「マルタ」の3人のみです。イエス様は、確かにペテロに裏切られます。しかし、改めて、2度の呼びかけは、イエス様は大いに、ペテロに期待しておられ、気にしておられたと言えます。
 次に、イエス様はペテロの裏切りを「サタンが小麦のように振るいかけることを願って聞き入れられた」と言われました。つまり、ペテロの裏切りは、ある意味旧約ヘブライ聖書のヨブ記のようです。ヨブは、なぜ試みられたのか。すでにご存知のように、ヨブは罪を犯したことがなく、いつも神様のことを思って生活しました。自分の家族の為にさえ罪の為の生け贄を捧げている人でした。しかし、ご存知の通り、全財産を無くしました。10人の子どもを亡くしました。さらに自分は不治の病に冒されました。通常なら「神を呪って死になさい」とヨブの妻が言ったように、神を呪って死んで良かったのです。そして、聖書はヨブのような信仰に厚い、心の清い人が、試みを受ける背後にまさにサタンがいたと伝えます。サタンが、神様にヨブを試すことを申し出て、そして神さまはなぜか、それを赦すのです。

 ちょうど同じように、ルカ伝はペテロがサタンによって、イエス様を裏切ることを願い、それを受け容れられたのだとするのです。なぜ、そんなことを神様は赦すのか、私達人間はさっぱり分かりません。理解できません。しかし、改めて、神への反逆と神の否認は、人間だけの力でないことを、ここは教えるのだと思います。全く反対になりますが、ここに私達は信仰における自由意思と神の恩寵の関係を考えてもいいのだと思います。
 なぜ人は、神様を信じるのかという古代からの大問題があります。すでにご存知のとおり、古代から2つの答えがありました。1つは、人間は自由意思をもっており、自由意思によって、神を信じるとしました。もう一つは、人間は神様を信じることはできない。ただ神の恩寵・選びによって、神を信じることができるのみであるとしました。この2つの主張は、極端にすると全く変なことになります。
 人間は、自由意思だけで神様を信じることができる。もし、これが本当だとすれば、人間は、神様の必要ありません。神様は人間の思う通り、決断の通りの神様になります。人間は神様を取り換えひっ換え、自分の好きな神様を信じることになるのです。しかし、反対に神の恩寵・選びのみによってしか信じられないとします。この時、人間は神様のただのロボットになります。現実は「同じ説教を聞き、同じ奇跡を見ている」のに、ある人は信じる、ある人は信じないということが現実なのです。現実は、神様の恩寵・恵みが、私達に向けられ、私たちは、これを恩寵によって自由意思で受け止めて信じて行くのだと思います。

 サタンとは誰かですが、サタンの試みにも、同じことがいえます。サタンは私達を試みるのです。イエス様を信じるな、神を信じるな、信じたら命が危ない、お前もローマ兵に捕まるぞと言うのです。「信仰、希望、愛」は、そんなものは絵に書いた餅だ。そんなものは、人生に何の役にもならんと言うわけです。しかし、そこで、それを受ける人と、いいや自分は信じる、自分は信仰と希望と愛に生きると決断する人がいるのです。神の国の幸い、主イエス様の祝福を考えたら、今、たとえこの世に損しても、神の御言葉に生きた方がいいと決断するのです。
 サタンにそそのかされるのか、神に従っていくのかは、大変な分かれ目です。それは、人間の決断だけでなく、人間を越えた何かの大きな力が働き、それに巻き込まれる。意志によってそれを払いのけて、やはり神様のみ心に生きるのか、問われていきます。そして、ペテロはサタンにそそのかされると当時に、自分もまたその弱さの為に裏切りを決断していくのだと思います。

 32節に主は、なんとペテロの裏切りを預言しつつ、なおペテロのその後の預言をされているのです。これは信じられない恵みです。イエス様は、ペテロは裏切るつまりサタンに魂を渡すのです。しかし、イエス様はペテロの為に祈り、その祈りは聞かれるのです。そして「立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい」と言われるのです。つまり、イエス様は、ペテロの裏切りを預言すると共に、裏切った後に、信仰を失わず、ペテロの生き方を示して下さったことになります。
 つまり聖書のルカ伝は、ペテロは確かに裏切る。けれども、その裏切りの体験はきっと用いられる。イエス様は、むしろペテロの失敗・間違いが、兄弟達を助けるのに役に立つとするのです。これは、すごい視点です。つまり、私達は失敗しないように、間違いを犯さないように生きていきます。特に日本では失敗しない、間違いを犯さないというのが、至上命令になることがあります。良く言われるに、日本の特にある程度の大きな会社では、新しいことをして失敗するよりも、何もしないで失敗しないで生きる方が会社に認められ、出世すると言われています。これでは、まさに経済的に沈滞ムードになるのは目に見えています。

 イエス様はペテロの為に祈り、つまり信仰が無くならないように祈られます。そして、その祈りは応えられ、ペテロはむしろ失敗を通して、イエス様への裏切りの失敗を通して、兄弟を支えるのです。まさに使徒言行録のペテロはそうだったといえるでしょう。すでに、ヨハネ伝の21章15節以下では、ペテロは復活のイエス様に出会い、復活のイエス様はペテロに3度も「私を愛するか」と聞かれました。これはすでに何度もいわれるように、ペテロが「3度主を知らない」と言ってしまったことに対応し、重なっています。
 失敗して信じていくのと、失敗しないで信じていくのは、比べることはできません。基本的には、失敗しない方がいいでしょう。しかし、これは人生の体験からいくと、やはり失敗した人の意見というのは、含蓄があります。これはもうトントン拍子に人生を歩んだ人と、あちこち遠回りをして歩む人とどちらが、指導や教えが上手か、と言うことになるかと思います。それは一発で試験に合格したら良いのです。しかし、3回目に5回目に受かったよというのは、私達はどちらに、耳を傾けるのかとなると、5回目の人に聞いてみたいのではないでしょうか。一発で受かるのは頭の良さは示しますが、聞いてみたい体験談、知恵にはならないと思うのです。

 ペテロの主イエス様への裏切りと失敗は、実は用いられる。サタンはイエス様を裏切ることを、ペテロに吹き込んだのです。しかし、実はその体験で、ペテロは、その後の弟子達をよく指導できたのです。そうなってくると、サタンは何をやっているのか。結局神様に用いられたということになってしまうのです。

 33節をみますと、ペテロは、イエス様が言われる自分に対する裏切り預言を全く受けいれることが出来ません。ペテロは「ご一緒に牢に入っても、死んでもよいと覚悟しています」と応えています。ペテロらしい、素晴らしい力強い確信です。ペテロは根っからの自分に自信がある人です。自分は絶対裏切らない。そう決めて、疑いません。しかし、不思議なことにこの「自分は絶対裏切らない、自分は絶対信仰を捨てることはない」という確信は、不思議なことに現実には弱いのです。「牢屋に、死んでも良い」とはよい決断です。しかし、これは人間的な決断であり、限界があるのです。
 反対の人を、私達は思い出します。第2コリント10章10節には、パウロについて「手紙は重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で、話しもつまらない」と言われています。私はここを読む度に、くすくす笑ってしまいます。パウロは、手紙と違い、見るからに弱々しい人でした。確かに深い深淵な神の御計画のローマ書の手紙を書いています。しかし、話し言葉は下手だったようです。パウロは実は弱々しく、なよなよしており、話しつまり説教は、つまらない人だったようです。パウロはおそらく政治家には全く向いていないと思われます。
 しかしそんなパウロはなんと3回も大伝道旅行をするのです。話し下手の伝道者といのは、形容矛盾ですが、あり得ると思うのです。そして、パウロは見るからに弱弱しかったのです。ペテロのように「ご一緒に牢に入っても、死んでもかまわない」と大げさなことは言いませんし、言えません。しかし、淡々と第1,2、3の伝道旅行をなして行ったのです。とうとうローマまで来てしまったのです。これはあるのではないでしょうか。全く目立たないけど、パッとしないけれども、振り返ってみると多くのことを奉仕し、成し遂げていたという人です。

 34節にイエス様ははっきりとペテロの裏切りを言われます。「鶏が泣く前に、3回知らないと言う」と言われました。イエス様がこう言われたことによって、ペテロに、自分の決断を確認させ、自分の弱さを知らせるためと思われます。そして、自分の決断が遂行できず、イエス様を知らないと3回もいうペテロは、自分の弱さと限界をはっきりと知りました。今度は、もう自分の決断でなく、パウロのように、弱さを誇る信仰、自分はできないけれども「主の恵みならば、主の御心ならばやってみます」という信仰で歩みだすのです。私達もまた主イエス様に祈られる信仰で、又主によって与えられる信仰で歩むことを示されます。

 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、み名をあがめます。ウクライナとロシアの戦争が1ケ月に入りました。毎日心が痛く、狼狽し、見ておれません。主よ、なんとかならないでしょうか。1日も早く終わらせてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブを支えてください。1週間を導きください。信仰と魂と健康を支えてください。ミャンマーのクーデターも守ってください。み名によって祈ります。アーメン」


    説教  ルカ伝22章1〜6節         2022年3月20日
           「 サタンが入った 」 
 おはようございます。本日は、皆さんと共に集まってなせる礼拝を感謝致します。コロナ感染はまだまだ収まりませんが、蔓延防止法は解除されました。本日は、礼拝後すぐに避難訓練を予定しています。これまでした方がいい、しないと行けないと言いながらとうとう出来ずにきました。しかし、会堂も古くなりましたし、耐震性も弱いです。火災も地震もいつくるか分かりません。一度皆で実際の動きをしてみないことには、分からないと言うことで、本日に実施となりました。消防署の連絡も、訓練に入っており、時間が決まっていますので、本日は短く説教を致します。
 本日はすでに週報にあるように、4月17日がイースター復活日となっており、すでに3月2日(水)から受難節に入っております。本日を含めて4回の主日を過ごしイースターということになります。いつものようにイエス様の受難週の出来事を中心に、4回の主日をイースターに備えたいと示されます。例年一つ一つの福音書を取り上げて、イエス様の最後の1週間の出来事を聞いております。順番から今年はルカ伝から聞くということで、本日は22章のユダの裏切り預言の所です。

 すでに祈祷会の聖書では、受難週の聖書から学んでいます。ユダの裏切りは、新約聖書でも難問中の難問とされます。しかもユダの裏切りを筆頭にして、次はペテロの裏切りが預言され、最終的は12弟子の皆が主を裏切りました。つまりイエス様は最終的には12弟子すべてに裏切られて、十字架に付けられます。神の御子、真の神の姿にしては、余りにもふがいない姿です。多くの人が、イエス様は神の子だったのだから裏切りが分かっていたのなら、そうならないように出来ないのかと言われます。しかし、これはおそらく、天地創造の際に、アダムとイブをどうして、罪を犯さないように創造されなかったのかと同じ問いとなると思います。

 罪を犯さないというか、罪を犯す自由がないアダムとイブは、ロボットになります。主なる神様は自分の思う通りに動くロボットをお造りになりませんでした。自由に、自分から進んで神様に従い、自分から進んで喜びをもって、主なる神さまに従う、自由な人間を創造されたのです。12弟子もまた同じです。12弟子は自分から弟子になったのでなく、イエス様の恵みの召命でした。イエス様はこの12弟子達に心から、自ら進んで自主的に仕え、自主的に働き、委託に喜んで働く弟子を期待されたのです。

 1節にルカ伝は、その時期を書いています。書いて在るとおりに、イエス様の最後の1週間は、イスラエルのユダヤ教の過越の祭りの真最中でした。すでに教会に長い方はご存知ように、エジプトから脱出したことを記念した祭りが1週間の過越際でした。そのメイエベントは、出エジプトの時、小羊が屠られたことを記念して、小羊を屠り、種なしパンと一緒に食べることです。そしてご存知のように、この過越の小羊とイエス様はご自身を、神の小羊として、重なって受けとられることを由とされといえるでしょう。

 2節には、このイスラエルがエジプトから救われた祭りの時に、いよいよイエス様を殺害する計画が進みました。祭司長や律法学者は、イエス様を殺すことを図るようになったのです。理由はすでに語られてきました。人間的には一界の大工の子が、12弟子を引き連れ、神の国の教えをなし、民衆の支持を得ていたということです。祭司長も律法学者も、神の教えをなし、民衆を導く務めを持っていました。しかし、イエス様は彼らの偽善と間違いを、安息日規定や律法の遵守のあり方に、余りにも愛がないとして、訂正と是正を言われたのです。つまり、殺害の動機は、祭司長と律法学者達の完全な妬みだったと思われます。

 しかし、主なる神さまは、この人間的な矮小な動機に、もっと大きな御計画を置かれておりました。それが、イエス様が神の小羊として、すべて信じるものの罪を贖う十字架の死ということでした。人間の矮小な思いと妬み、しかし、それを用いて、全人類の罪を贖う計画をなさるのです。主なる神様のみがなせる、誰も思いつきそうにない大計画だったのです。

 3節には、イエス様の裏切りの始まりが、つまり十字架の始まりが、「イス・カリオテのユダ」の中にサタンが入ったとはじまります。私達は、このサタンが入ったという報告に、心理的ないろいろなことを読み込みます。すでにご存知の通りですが、ユダはその名前から「イス・カリオテ」がカリオテに属する人という意味から、ローマ帝国からの解放を求める団体にいたのではないかと言われます。ユダは、イエス様にローマ帝国からの解放の革命的なメシア・キリスト期待したと言われています。

 又、ユダは、イエス様の様々な奇跡にも期待したと言われています。イエス様のなさる奇跡的な力で、ローマ軍を蹴散らすことが出来るかもしれないと考えたとも言われます。また、ユダはイエス様の預言者としての力にも期待したと言われています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルのように、イスラエルの解放預言をなして、やはりローマ帝国からイスラエルを解放すると期待したようです。ユダは、12弟子達の財布を預かっていたという報告が、ヨハネ伝13章29節にあります。会計係りは回りの人の信頼がないと出来ません。ユダはその誠実な能力と計算の能力、お金に明るい能力をもって、イエス様と11弟子達を力一杯支え、仕えたのです。

 しかし、いつまで経ってもイエス様はその力を発揮されませんでした。イエス様は民衆に人気がありました。しかし、それはいつも「誰にも言うな」という口止めがありました。奇跡を起こされました。しかし、それはいつも貧しい人々、病気の人々の為でした。預言の力もまた、革命の力と言うよりも、人々に仕え、罪を贖う為の預言でした。ユダは段々、イエス様に愛想尽かして行ったと言えます。これらのユダのいろいろな要因の働きを総称して「サタンが入った」のだと取られています。

 しかし、改めてそうなのか。そういう心理的なイエス様への失望と期待の裏切りをサタンと言っていいのか。それは確かに現象です。しかし、本当の原因は何であるのか。実は、ヨハネ伝13章では、イエス様は明らかユダが裏切るとご存知でした。知っていて、主の晩餐のパンを渡して「しようとすることを今すぐにしなさい」と言われました。これはもう、イエス様はユダがサタンの使いになっていることを前提されています。ユダの裏切りは神様の御計画に入れられていたとしか言いようがありません。

 「サタンが入った」と言うのは、単なるユダの心理的な現象の説明の用語でないだと思います。ユダは本当に、正義に反する支配、神に反する支配、理性に逆らう力に身を委ねたのです。まさに悪霊であり、サタンの支配に捕らわれたのだと思います。こう言うと今のウクライナとロシアの戦いを思います。ロシアのウクライナへの軍事進攻はどの解説者も学識が優れていればいるほど「考えられません」と解説しました。どこをとっても中長期的にはロシアに不利だというのです。しかし、ロシアはそれを選び実行しました。現実にそれがなされており、多くの市民がまた子供が命を失って25日経っています。理由はよく分からない悪霊と闇の力です。

 ウクライナの戦争が起こってからの牧師会や同窓会がズームでなされました。幾人かの友人牧師が、プーチンさんが尋常な目をしていないと言われていました。なるほどそういう風にも見えます。聖書の言葉で言うとまさにサタンに渡されるというか、サタンに入られたということでしょうか。しかし、なおイエス様は、ユダがサタンに渡されることを承知で、12弟子とされ、主の晩餐の最後の晩餐を共にされました。なぜ、ユダと共に主の晩餐を共にされたのか分かりません。ただ、確かなことは、ユダは神様のご計画の中にあるということです。ルカはユダの最後を言行録1章18節に書きました。ユダはイエス様を裏切ったお金で土地を買います。しかし、後悔し「首をつって死にます」。その土地に「その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたが皆出た」としています。ルカは言行録1章20節にユダの裏切りを詩篇の成就としました。マタイ伝27:9はユダの最後をエレミヤ書の預言の成就とします。

 ユダの裏切りは、サタンの仕業としか言いようがないのです。しかし、それでも聖書はそのユダがエレミヤと詩篇の預言の成就として神のご計画に中ですとするのです。ユダは、神様のご計画を遂行したことになります。ユダが救われるのか、は大変な議論があります。ただ確かなことは、ユダは神様の救いの計画を担ったということです。

 私達はミャンマーにしても、ウクライナの戦争にしても、正直分からないのです。しかし、確かなことは、神様は確かに明らかにされるということです。十字架の愛の主は確かに見ておられることです。義と正義と愛の神は、きちんと見てくださり、導いてくださることです。私たちは今できることと今できる祈りを、十字架の主に献げるのみです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。コロナ感染が少しずつ弱まっています。このまま守り、導きください。新聞テレビが伝えるように、ウクライナとロシアの戦争が25日目に入りました。毎日心が痛く、狼狽し、見ておれません。同じ民族と同じ宗教の方が命の取り合いをしています。主よ、なんとかならないでしょうか。1日も早く終わらせてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。子ども園、児童クラブを支えてください。1週間を導きください。信仰と魂と健康を支えてください。ミャンマーのクーデターも守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

    説教  ローマ書1章16,17節      2022年3月13日
           「 福音を恥とせず 」 
 本日は、私の甥の結婚式で、本当に申し訳ありませんが、朗読説教にて、礼拝奉仕を務めさせて頂きます。私は、2人兄弟ですが、北海道にいた時から兄らしいことを、全くできませんでした。この度は、弟の3人の子供の最初の結婚式となりました。とうとう65歳にもなりましたので、少し力を抜いて、執事会に「参加したいがどうだろうか」と相談すると「行ってきなさい」となり、心から感謝しております。
 聖書の個所は、本来なら3月2日(水)から受難節に入っておりますので、イエス様の最後の1週間の出来事から聞くかと思いました。しかし、受難節の最初の説教が朗読説教と言うのも申し訳なく思います。パウロの手紙で、その一番の中心とされるローマ書1章16,17節から福音の真髄を聞こうと思った次第です。

 すでにご存じのように、ローマの信徒への手紙は、パウロの最大の手紙であります。しかも、パウロはローマにこれから行こうと計画しております。当時のローマ社会の首都のローマ教会に、パウロは自己紹介をしたと言われています。しかし、内容は通常の自己紹介とはだいぶ趣が違います。言ってみれば神学的な自己紹介といえるでしょう。しかし、伝道者パウロですので、自分の信仰の真髄をローマ教会に知っていただき、イスパニア今のスペインですが、そこに向けて伝道拠点の土台を築きたかったようです。本日読んで頂いたところは、いろいろな取り方はあるのですが、ほぼ多くの聖書解説者が、1章16,17節こそがローマ書の中心テーマであり、これを起点に16章に渡る手紙をパウロは書いたのだと言われています。
 16節にあるように、パウロはまずどうどうと「私は福音を恥としない」と書くのです。「恥とする」というのは、日本人もユダヤ人のパウロもそう変わらない感覚かと思います。恥が一番の問題になったのは、もうだいぶ古い話ですが、戦後すぐにルース・ベネデイクトという軍人さんで日本の研究家が『菊と刀』という本を書きました。実は、アメリカは日本と第2次大戦を戦ったのですが、すごいと思うのはアメリカは爆弾の物量や兵器がすごかっただけでなくて、日本文化を研究する部門があったのです。意外と知られてないのですが、アメリカは日本と戦うに文化まで研究して戦ったのです。正直、日本が鬼畜米英とかいって、アメリカ文化の研究を禁止したのと雲泥の差です。脱線ですがこれでは勝てるわけがないです。その研究部門の軍人さんの一人がルース・ベネデイクトさんでした。

 ルースさんは、日本人は恥の文化で、欧米人は罪の文化であるとしました。つまり、日本では、隣人の顔を立てたり、顔を伺ったりしながら自分の人生を決めていく。しかし、欧米人は、神の文化であって神様を心の中心において、余り人の顔や恥を考えないで生きて行くのだとしています。しかしどうでしょうか。アメリカ人はそんなに立派な人ばかりでないぞと言う方があるかもしれません。しかし、同時になるほど、日本の自分の生き方は、いつも他人の顔ばかり見ているぞと言う方もあるかもです。

 しかし、ユダヤ人パウロは、ちゃんと「恥としない」と書いています。神様を自分の心におくユダヤ人パウロもまた「恥」と言うことばを使っている。つまり他人を意識して、他人の顔を見つつ、それでも恥としない、という生き方なのです。パウロは現実的だと思うのです。主なる神様を見上げる。それと同時に隣人、他人をも見ている。そして、結論は「恥としない」というのです。
 共同訳は書いていませんが、実は原文には「なぜならば」という言葉があります。「なぜならば、福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じるすべてに救いをもたらす神の力だからです」と続きます。パウロが福音を恥としないのは、福音こそ「神様の力」だからです。実はここの「神の力」だけでもう五万の本が出版されてあるのです。いちいち説明してもしょうがありません。

 端的に「力」というのはすべてを動かずエネルギーのことです。すべてが寄って立つ源泉のことです。そして、福音とはまさに「主イエス様の十字架と復活の出来事」です。ローマ書の手紙はパウロのほぼ最後の手紙ではないかとされています。パウロはおそらく30歳くらいの時でした。シリアのダマスコの近くで、キリスト者を捕まえ迫害する為に祭司の許可書をもって乗込もうとした時でした。復活のイエス様に出会いました。「サウロ、サウロ(これはパウロのユダヤ人名です)、なぜ私を迫害するのか」という声を聴いたのです。晴天の霹靂(へきれき)でした。自分は力一杯主なる神様に仕えているつもりで生活してきました。しかし、実際はなんと主なる神様に逆らっていたのです。パウロはここから神様に捕えらます。そして、イエス様を信じる者を迫害する者から伝える人になりました。そして、第1次伝道旅行、第2次伝道旅行、そして第3次伝道旅行をなしたのです。
 十字架にかかり、復活されたあのイエス様が、真の神、真の人としての救い主キリストだったのです。パウロは、キリスト者の迫害者である自分を用いる神様の不思議さを思ったのです。その恵みの大きさを知り、心から従ったのです。ここには「信じる全ての者に救いをもたらす」とあります。しかし、そもそも主なる神は、信じていなかったパウロを、用いられたのです。

 ましてや主を信じ、慕い、頼る者を主は、用いて余りありです。「神の力」はパウロの体験です。主イエス様を迫害し、全く信じない自分を、主は用いてくださった。ならば、主に頼る者、信じる者をどうして主が用いないはずがあるでしょうか。パウロは自分の救われた原点、ダマスコ体験を思い起こすたびに、神の力、神の支配の中に捕らわれたと言わざるを得なかったのです。私たちも一緒です。私たちもまた中には優れた人もあるでしょう。しかし、根本的には取るに足りない者です。そして「神は知恵あるものに恥を与えるために」、「力あるものに恥をかかせるために」、「地位ある者を無力なものとするために」、世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれた、と第1コリント1章27節に書いています。つまり私たちは自分の罪と弱さを知れば知るほど、神の力を体験できるのです。反対から言えば、神の力を体験せず、神の支配を経験できない時は、実はまだまだ自分の知恵、自分の力、自分の地位に頼っているのという事になります。自分の知恵、自分の力、自分の地位を十字架に付けた時、主は、ご自身の主の力を私たちに示し、体験させるのです。

 17節にも、共同訳は訳出しませんでしたが、実は「なぜならば」と最初あります。つまり、ここも神の力の説明になっているのです。「なぜならば、福音には神の義が啓示されている」ということです。ここはもう教会に長い方は何度も聞かれたでしょう。「主の十字架と復活の業」が、神の義なのです。パウロはイエス様に出会うまで、神の義とは、自分が一生懸命律法をなして、成し遂げることと理解しました。良いことを一杯して、神の御心を一杯なして、これが神に受け入れられる。そして、神に義とされ、天国と祝福が与えられると生きてきました。モーセの十戒を一生懸命に守り、成し遂げ、完成させることが、神の義を得ることであるとしました。

 しかし、イエス様が来られて十字架に付けられ、復活された時、神の義はイエス様によって成し遂げられたのです。罪ある人間は、どんなに良いことをしてもそれは罪の贖いにならないのです。罪のないイエス様のみが贖いをすることができるのです。パウロはこれを示されたのです。では人は、良き業に励まなくていいのか。いいえ、主によって罪赦され、主によって、深い恵みを与えられた信仰者は、感謝をもって、主に応えるのです。信仰で、主にひたすら仕えるのです。

 パウロはこのことを「初めから終わりまで、信仰を通して実現されるのです」と言います。人が恐れや強制によって動くのでなく、感謝をもって働くのは、信仰の働きです。確かに人間は恐れと強制、脅しによってある一定の時間は動かし、働かせることができるでしょう。今ウクライナとロシアが戦争しています。あるテレビの解説者が「ロシアは圧倒的な軍事力で、軍事的には最後は戦闘に勝つでしょう。しかし、本当に戦争に勝つ国はどちらでしょうか」と言われました。私は聞いていて、すごい解説者だ、と思いました。「戦闘に勝って、戦争に負ける」があるのです。
 それは、これだけの憎しみと恨みを買って、果たしてちゃんとしたウクライナの統治・政治ができますか、ということです。ガンジーは「本当に良いことは、ゆっくりとしか進まない」と言いました。初めから終わりまで信仰を通して実現される。それは回り道のようでいて、恐れと強制と脅しとではなく、本当の自由と喜びで、主に従っていく道なのです。

 パウロは、初めから終わりまで信仰を通しての実現を「正しい者は信仰によって生きる」と言う引用で基礎づけをしました。これは旧約聖書ハバクク書2章4節です。実はあまり注目されませんが、ハバクク2章4節は、新約聖書ではなんと3か所も引用される聖書です。ここのローマ書1章17節とガラテア5章5節、そしてなんとヘブライ書10章38節なのです。なぜ、ハバクク書という余り読まれない小さい旧約聖書が、3回も新約聖書に引用されたのか。
 実は予言者ハバククは、予言者エレミヤの少し前の人で、ヨシア王時代に活躍した預言者とされます。ヨシア王は、神殿から原申命記(今の申命記の原型)を発見します。列王記下22章8節です。そしてこれに基づきイスラエルの宗教改革をなした王様なのです。その働きは、一生懸命でエルサレム神殿にあるシドン人の神アシュトレト、モアブ人の神ケモシュ、そしてアンモン人の神ミルコムとほとんどの神々を退けたのです。列王記下23章13節です。しかし、なんとエジプト王パロ・ネコとの戦いであっけなく戦死してしまうのです。

 預言者ハバククは、神様にために全身全霊を捧げたヨシア王が、エジプト王によってあえなく殺されてしまう現実を見たのです。神はこの世にあるのか。あったとしても力ない神様でないのか。悶々とした日々を過ごします。しかし、その時「神に従う人は信仰によって生きる」という啓示を頂くのです。「正しい者は信仰によって生きる」は、預言者ハバククの苦悩の中で、示された神の言葉です。神様は何をしておられ、神様はイスラエルの祈りに答えてくださるのか。答えは「義人は信仰によって生きる」なのです。先はどうなるかわからない。ヨシア王のように、神の御心を行う王が、突然の戦闘で命を奪われることもある。しかし、義人は信仰によって生きる。つまり人は、結果を目標にするのですが、結果は人間には分からない。となると結果を捨てて主に委ねて、今を一生懸命に主に生きることになります。「義人は信仰によって生きる」これは今示されていることを、結果を捨てて、主に委ね、前進することになるのです。私たちは目の前にあることを、信仰によって、恵みにより生きることになるのです。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。コロナ感染の中にありますが、集まってなせる礼拝の開始を感謝です。パウロは『義人は信仰によって生きる』ということばを、ハバククから聞いて、自分の信仰の指針にしました。私たちもまたコロナの疫病に続きウクライナやミャンマーの戦争によって、混乱した中にあります。しかし、なお信仰によって生きたいと示されます。どうか、聖霊によって守り導きください。22年の受難節にあります。主イエス様の十字架と復活を心に留めさせてください。震災の方々と子ども園と児童クラブを守ってください。求道者、病気療養の方、ご高齢の方をみ手においてください。3月は報告と計画の月、決算と予算の月です。どうか、定期総会の準備を守ってください。1週間をみ手に委ねます。私たちの信仰、健康、魂を聖霊によって守ってください。ミャンマーも守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教  マルコ伝9章30〜37節      2022年3月6日(日)
            「 すべての人に仕える者 」   
 本日は、鹿児島の蔓延防止法の延長を受けて、本日まで礼拝祈祷会の集会を休み、オンライン・リモートの礼拝となりました。繋ぐことのできない方もありますが、主に礼拝を献げて参ります。来週13日はいよいよ集まって礼拝を致します。一昨日までの鹿児島県の感染者は32,935人となり、先週は26,591人でしたので、3,062人がこの1週間で感染されました。先々週が1週間で3,282人の感染でしたので、先週は1週間で前より220人減少して感染されました。小さいピークが鹿児島県では来たのかなというところです。感染警戒段階はステージ2のままです。新聞、テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしいですが、段々10才未満や高齢者に広まっており、高齢者の死亡者が増えています。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第1週ですのでいつものように、福音書から聞いていきます。本日は、マルコ伝9章の通常は2回目の受難予告と言われるところです。実は、イエス様はマルコ伝を始めマタイ、ルカの共観福音書では、ご自身が十字架に付けられる前に3回の十字架と復活の予告をされています。マルコ伝では、8章31節と本日のマルコ伝9章31節、そしてマルコ伝10章34節の3回です。どうして、共観福音書は、3回も十字架を予告する必要があったのかです。改めてイエス様のご生涯においては、十字架と復活こそが、その教えの中心であったということを示されます。

 それにしましても全能の主なる神、そして神の御子が、私達を救うのに、ご自身が十字架に付けられ、罪の贖いをなし、罪の身代金を払うとは、なんとも不思議というか、とんでもない方法です。神様の全能性からいけば、別に御子を死に渡さなくても「分かった全部赦す」という決断でも良かったのでないかとも思われます。もう少し分かり易い、神様に相応しい救いの方法はなかったのか。イエス様が十字架で苦しむ方法でなくてはいけないのか。ご存知11世紀にイギリスのカンタベリーのアンセルムスという人がいます。彼は、中世神学の基礎それはつまり今のキリスト教の基礎を築かれたのですが「なぜ神は人となられたか」という有名な本を書きました。これは当時の修道僧や熱心な信徒達の質問が大きかったと言われています。

 つまり当時の人々もまた神の子イエス様が十字架について、人の罪の贖いをされるのは、なかなか理解しがたいものがあったと言えるでしょう。アンセルムスは、私達が知っているルターやカルバンが受け止めた罪の贖い為つまり代理的刑罰を第1としなかったようです。アンセルムスは「キリストは父と聖霊と共に、自身の全能の崇高性をまさに死を通して、世に示そうとした」「神の正義への従順であり、十字架は神への負債を返還する行為以上の善行である」としたそうです。「人間はその身に罪を負い、神に自分の負債を返還することができない。罪のないキリストは贖い以上をなし、つまり代理的な善行をなし、これが多くの人間の罪の贖いになった」とします。

 返ってややこしくなったかもですが、人間が支払うべき罪の負債を支払わないことには神の正義が赦さない。しかし、人はそれを支払う能力がない。神が人となり、人間の負債を支払ったと受け止めたのです。私達はここにイエス様が真の神にして、真の人間でないと十字架がなりたたないことを知らされます。イエス様の十字架は、改めて私達の生きるあり方と、神の赦しのあり方、神と共に歩むあり方を示し、成し遂げる姿であります。
 30節にこの2回目十字架予告に対して「イエス様が人に気づかれるのを好まれない」と32節に「弟子達はこの言葉がわからなかったが、恐くて尋ねられなかった」としています。十字架の意味がなかなか理解されず、その本来の姿、神の正義への従順さらに罪の代理的刑罰となると、弟子達は確かにこの時点で十字架を理解しろというのは難しかったと思います。主が復活されて、改めてイザヤ53章の贖いの死の預言、ダニエル7章の人の子の天からの到来預言が示されて、聖霊の導きによって弟子達に理解されて行ったと思われます。これは信じて理解する出来事であり、理解して信じることはできない、といえるでしょう。

 私達もまた、主の十字架を示されて、自分の罪の重さを示され、救いを示され、信じて行くように思います。ただアンセルムスが言う「神の正義への従順」は、今のウクライナとロシアの戦争をみますと考えさせられます。皆さんも見られたかもですが、ポーランドで列車から娘と奥さんを降ろして、自分はこれからウクライナに戻り、義勇兵になりますというお父さんをインタビューしていました。戦争のむごさと示されます。これは、神の正義とまでないかもですが、攻めて来られたら戦うしかありませんというスラブ人コサック兵の心意気を示されます。イエス様の十字架とまた次元が違うのですが、十字架は、神の正義への従順というアンセルムスの取り方も、あり得ると思います。

 33節からは2つのことが書かれています。それは実はこのことは後からまた繰り返されますが、誰が一番偉いのかという弟子の論争と子どものように私を受けるものが、私を受け、神を受けるという教えです。不思議なことに、この2つの教えはまた繰り返されます。弟子のうち誰が一番偉いのかは、マルコ伝10章35節以下に、ヤコブとヨハネの願いという形で、出てきます。ご存知、ヤコブとヨハネは、イエス様に「栄光をお受けに成る時は私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ10章37節)と言っています。本日とほぼ同じ出来事です。イエス様が十字架の預言をされ、十字架にご自身の命を私達の為に献げ、十字架に神の正義を遂行されようと決心されている時に、弟子達は、完全にこの世の思いにとらわれています。

 何でかなと思います。しかし、これが罪ある人間の偽らざる姿です。ミャンマーでもクーデターが起こってとうとう1年1か月になりました。マウマウタン先生が繰り返し言われるのは「1軍人の名誉心のために、つまり大統領になりたいということに為に、こんなに多くのミャンマーの若者が死なないといけないのかと思います」と言われます。単なる名誉心でないかもですが、意外と真相はそうなのかも知れません。プーチンさんもゴルバチョフさんやその前の偉大なブレジネフ書記長以上に成りたいという名誉心でウクライナ侵攻をしているのかも知れません。そんなことはないと思いますが、意外と真相がそんな低次元にあるのかも知れないのです。

 先生イエス様が、ギリギリの決断で十字架を担う。ゲッセマネにおいて、祈りに祈られて、主の杯を受けることに決断される。しかし、弟子達は心そこにあらずで、誰が一番偉いのか。神の国の到来の時には、誰がイエス様の右と左につけるのかと議論していたのです。神の国がすぐにでも来るという期待の信仰はたいしたものです。しかし、しかしその内容はただの名誉心でした。

 35節にこれも後でまたでてきますが「一番に成りたい人は、すべての人の後、すべての人に仕える者となれ」と言われます。これも何度かお話ししましたが、まだ救われたばかりの沖縄にいた時です。当時教会の中年の看護婦さんが「アメリカ人は酷かったが、返還前まで県立病院にいたアメリカの院長は偉かった」と言われます。どうしてですかと聞くと、朝礼の度に「『私はあなた方の僕です。どうか、病院をよくすることは何でも私に言いなさい』と言っていました。返還されて東大の先生が就任されて来て、威張りちらし、病院内が険悪になりました。とうとうあだ名は天皇です。」と言われるのです。私は、この沖縄返還までいたアメリカ人の院長先生はクリスチャンだったのだと思います。すべての人に仕える者になりなさいは、本当に力のある方は、本当に実戦されているのです。

 36節には、イエス様は実物、象徴教育といいますが、突然、12弟子の前に子どもを置きます。そして手をとって、私は手を置いてつまり按手でないかと思うですが、そうされます。そして「私の名の為にこのような子どもの一人を受け容れる者は、私を受け容れる」と言われるのです。ここも教会に長い方は聞かれていると思います。イエス様時代の子どもは、今とは全く違いました。今は、子どもも又人格をもった一人の人間であるとして、国際子ども憲章をあげるまでもなく、誰でも知っています。しかし、当時、子どもは全く親の所有物でした。子どもが大人の回りをうろつくのは、全く許されませんでした。特にローマ法では親は子どもの殺生与奪の権を持っており、殺すも生かすも自由だったのです。有名な記録では、戦争に出ていたローマ兵が、自分の妻に「今度生まれて来る子はすぐに殺すように」という手紙が残っています。滅茶苦茶な時代なのです。
 しかし、なんとイエス様はこの子どもを弟子達の前に立たせて、抱き上げ「この子を受け容れる者は、私を受け容れる」と言われるのです。同じように、マルコ10章13節には「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入れない」と言われました。この子ども観は、当時としては革命的でありました。今は当たり前かも知れません。本当はどうでしょうか。子どもの貧困が言われています。親の経済力で子どもの教育が決まる傾向がだんだん強くなっていて、なかなか是正が出来ません。イエス様の革命的な子ども観が、今こうして虐待や相対的子どもの貧困が問われるようになった基盤ではないか。そう言うことまで示されます。

 最後に、イエス様は「私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受いれる」と言われました。これは、ヨハネ伝がもっとはっきり語ります。ヨハネ14章6節です。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことはできない」です。又同じくヨハネ伝14章10節「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」とあります。父と子は同じ同格の神様であるということです。又最初に戻りますが、やはり「なぜ、神は人と成られたのか」です。なぜ、十字架という難しい道を取られて、私達の所に来られたのかです。もっと神様に相応しい方法があったのでないかです。しかし事実、イエス様は十字架の受難を通して、私達のところに来ることをよしとされたのです。そして神の道を示されました。これは神様の必然ではありません。そうする必要は無かったのです。しかし、神はその自由の愛のゆえに、十字架を受けられ復活されました。私達はただただこれを受けて感謝し、罪の贖いを受け、神の正義に歩もうと恵みによって生き、歩むのみなのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ。あなたの御名をあがめます。とうとうウクライナとロシアが戦う事になりました。どうか、平和を来たらせてください。コロナ感染がで本日まで集まる礼拝を休みました。次週からの集まる礼拝を守り導きください。医療関係者を守り、係った方に癒しを与えてください。子ども園、児童クラブを続けて守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ミャンマーに平和をおいてください。1週間の教会関係者の守りと導きを置いてください。私達の信仰、魂、体を守ってください。主のみ名によって祈ります。アーメン」

  教会 説教  マルコ伝11章12〜19節    2022年2月27日(日)
            「 葉のほか何も 」   
 本日は、鹿児島の蔓延防止法の延長を受けて、3月6日迄の礼拝祈祷会の集会を休み、オンライン・リモートのみの礼拝となりました。繋ぐことのできない方もありますが、主に礼拝を献げて参ります。さて一昨日までの鹿児島県の感染者は29,873人となり、先週は26,591人でしたので、3,282人がこの1週間で感染されました。先々週が1週間で3319人の感染でしたので、先週は1週間で前より37人減少して感染されました。これではまだまだピークが鹿児島県では来たとは言えません。今だ危ない中にあります。感染警戒段階はステージ2のままです。新聞、テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしいですが、段々10才未満や高齢者に広まっており、死亡者が増えています。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第4週ですのでいつものように、連盟の発行する聖書教育の中の本日の箇所から聞いていきます。聖書教育の本日の箇所は、読みましたように、マルコ伝11章12〜19節になっています。ここは福音書の中では一番分かり難いとされる箇所です。それは読まれて「なんだこれは」と気づかれたと思いますが、イエス様がイチジクの木を呪われ、しかもその理由がイチジクの季節になってないのに、実が無かったと書いているのです。これはここだけみると本当にこれが聖書か、これがイエス様の振るまいか、言動かとなります。例えば、私達はイチジクに似ていますが、ミカンが夏になり、冬になるまで実をつけることを知っています。ミカンの木に近づいて、春にまだ実がなっていないと怒る人がいるとすれば、これはミカンの木が悪いのでなくて、怒っている人がおかしいとなります。どうして、イエス様がこんなことをされたのか、さっぱり分けがわかりません。しかし、聖書はよく読むとこのイチジクの木を叱った話しのすぐ後に、イエス様のエルサレム神殿での働きが書かれています。

 ここにはイエス様が神殿の庭で、売り買いしていた人々を追い出した、とあります。具体的には、両替商人や鳩を売っていている人達の机をひっくり返されたとあります。ここも、どうしてこんなことをされたのか。よく分かりません。というのも、両替商人も鳩を売る人達も、ちゃんと必要があって、それをしていました。すでに、教会に長い方は聞かれていると思います。イエス様時代のお金は、ローマ帝国が発行していました。そのお金には歴代のローマ皇帝の肖像が彫ってあったのです。そして、イエス様時代には、だんだんとローマ皇帝は皇帝礼拝がなされるようになっていたのです。ローマの皇帝礼拝が一番酷くなったのは、ヨハネの黙示録時代のドミチアヌス帝の時でした。しかし、イエス様の生きておられた時代の皇帝アウグスツスからすでにあったと言われております。ユダヤ人は偶像礼拝を禁じられていたので、偶像の彫ってある貨幣を、神殿に献げることはできません。それで、偶像のないシリアのお金に両替して神殿に捧げたのです。つまり礼拝の為にしていたことなのです。

 また鳩を売る商人です。これもイエス様の御誕生の時、マリアとヨセフは、イエス様の誕生の時に、ルカ伝2章24節では「山鳩ひとつがい、家鳩の雛二羽を捧げた」とあります。おそらく、ヨセフとマリアさんは、ガリラヤからエルサレムまで献げものの鳩をずっと生きたまま持ってくることは出来なかったと思います。この神殿で鳩を売る商人から山鳩と家鳩を買われて、そして神殿に捧げられたのです。つまり、両替商人も、鳩を売るつまり献げものを売る商人もそれなりの神殿礼拝に必要があって、商売をしていたのです。

 こうなって来るとますますイエス様が、この両替商人や鳩を売る商人を追い出したことがよく分かりません。しかし、後から段々と分かりますが、どうもこの商人達は、当時は祭司達と組んで場所代を払い、場所代は神殿に捧げられるのではなくて、祭司の懐に行ったようです。つまり、礼拝に必要な仕事のように表面上はありますが、敬虔な理由を示しつつ、しかし、実は祭司の私腹を肥やすことに使われていたことになるのです。多くのイスラエルの庶民達はそのことを知っているのです。しかし、権力のある祭司には正面切って逆らえなかったようです。おかしいと言えなかったようです。18節には、通常は仲が悪いとされた祭司と律法学者がそろって、イエス様の殺害を謀ったとあります。よほどこのイエス様の振る舞いは、つまり神殿の両替商と犠牲の鳩を瑠人の追い出しは、祭司と律法学者をいらだたせたようです。しかし、イエス様の人気は高く、簡単に捕まえて、処刑することは出来ません。普段は仲が悪い律法学者まで祭司達と一緒にイエス様の殺害の行動するのは、大工の子が弟子をとって、神の道を勝手に教えている輩として、妬みがあったのでないかと思われます。

 ところで、どうしてイエス様がこんなことをされたかです。17節に在るとおりです。イエス様は、神殿で商売する人を見られて、すぐにおかしいと気づかれました。それは「私の家は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである」という聖書の言葉です。これはイザヤ書56章7節の引用です。イザヤ書のその箇所を読むとわかりますが、イザヤはエルサレム神殿が将来的には、ユダヤ人だけが礼拝するのではなく、異邦人と共にすべての人が主なる神さまを礼拝していく姿を預言していました。

 これはとても大切な預言でした。それは、イスラエル民族はアブラハム、イサク、ヤコブの神から出発して、ヨセフの時代にエジプトに滞在しました。そして、いよいよモーセの時代にエジプトを出発して、イスラエルの民としてダビデによって建国していきます。その目的は、真の主なる神、天地の創造の神様を異邦人に、つまり全世界の人々に伝えることだったのです。アブラハムが最初に主なる神さま聞いた通り、イスラエルの民は「諸国民の祝福の基となる」民だったのです。創世記12章3節に主なる神さまはアブラハムに言われました。「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される」です。これはまさにイスラエルを通して、主なる神が全世界、全異邦人に伝えられて行く基盤となる聖書です。

 つまりイスラエルの民は、モーセ、ダビデを通して、さらにバビロン捕囚からの帰還を通して、第2神殿を再建するのです。それはひとえにこのエルサレム神殿が、異邦人とユダヤ人との共なる礼拝の為だったのです。しかし、イエス様時代のエルサレム神殿は、折角第2神殿として、神殿礼拝が成されつつも、相変わらず異邦人とユダヤ人が別れ、さらにそこには商売人が巾をきかせて、神殿の庭で商品(犠牲の鳩や羊)をもって自由に横断するような状態でありました。そして、それが赦されたのは、祭司が商人から場所代をもらい、私腹を肥やしている状態だったからです。
 これではイザヤの預言した「私の家は祈りの家である」から遠かったのです。さらにイエス様は、17節に「あなた方はこれを強盗の巣にしてしまった」と言われました。これも又実はエレミヤ書7章11節の預言です。このエレミヤ書の神殿は、バビロン捕囚前のソロモンの立てた第1神殿のことです。このエルサレムは神殿には、すでに多くの偶像礼拝が持ち込まれていました。その様子は、エゼキエル書6章、8章、14章に詳しいです。主なる神の神殿に、偶像礼拝の山がある。これでは話しに成りません。モーセの第1戒から3戒に有るとおりに、主なる神様は「私の他に神々があってはならない、私の為に偶像を造ってはならない、主の名をみだりに唱えてはならない」と言われていました。しかし、本家本元がそうなっていないのです。

 エレミヤ7章の強盗の巣の預言の直後の7章14節には「私の名によって呼ばれ、お前達が寄り頼んでいるこの神殿に、そしてお前達とこの先祖に与えたこの所に対して、私はシロのようにする」と言われました。つまりシロとは、エレサレム神殿が造られる前に、イスラエルの神殿として、モーセの契約の箱が安置され、預言者サムエルが仕えた神殿です。それは、サムエルの子供達の傍若無人の振る舞いによって、すでに破壊され、ダビデの立てたエルサレム神殿にとって変わられたのです。つまりエレミヤは、エルサレム神殿がその使命、すなわち全世界の人々の祈りの家とならなければ、又預言者サムエルが仕えたシロの神殿のようになる。破壊され荒れ地になると預言していたことになります。つまり、エルサレム神殿の主の使命からの逸脱、その契約不履行は、つまりすべての民の祈りの家からの逸脱、祈りの家の使命からの逃亡は、そのままエルサレム神殿の破壊と荒廃を預言していたのです。

 先ほどのイチジクの木が呪われ、枯れることと、このイエス様のイザヤ書56章とエレミヤ書7章の引用を見る時、私達はイエス様が時季はずれのイチジクの木を呪われた理由が少し分かります。イエス様は預言者、メシア・キリストとして、使命から外れたエルサレム神殿の破壊と荒廃を預言されたことになるのです。すでに預言者エレミヤは自分の奇行を通して、預言することをしておりました。エレミヤ13章には「麻の帯の預言」があります。ご存知、エレミヤは麻の帯をユーフラテス川の河川敷に行って、そのまま雨ざらしして、ぼろぼろになった麻帯をもって来て「イスラエルはこのようになる」と預言しました。またエレミヤ19章10節には神殿の庭で壺を割って、「イスラエルはこのようになる」としました。また、偽預言者ハナンヤもまたエレミヤ書28章10節に、同じくエレミヤの首に掛かった軛を割って「エルサレムはこのようになる」と言いました。もちろんこの預言は外れて、エルサレムはバビロン捕囚を受けたのです。イエス様はまさにこのエレミヤのように、イチジクの木をもって象徴預言をされたのです。私達は、どうしてイエス様がイチジクの木を枯らすという不思議な又、稚拙なことをされるのか、理解不能の事をされたのか理解出来ません。しかし、ここに改めて預言の象徴預言としてメシア・キリストとしてご自身を示されたと受けることができるのです。

 ところで、この当時の神殿の姿ですが、私達の教会の歴史でも同じような事がよく起こるのです。例えば、バプテスト派が起こった時、幼児洗礼の間違いを言いました。バプテスマは自覚的信仰と結びつき、信仰の自覚のない幼児や嬰児に授けるのはおかしいとしたのです。今は、当然として受けられます。しかし、当時は理解されませんでした。宗教改革主流のルター派やカルバン派からも相手にされなかったのです。理由は、嬰児や幼稚から受けさせないとキリスト教の一体が保てないとされたのです。つまり伝統に負けたのです。しかし、バプテスト派は頑張って、自覚的信仰を語り続けました。そして今は幼児洗礼をする教会も信仰の自覚性をかなり大事にしています。イエス様が言われたすべての国民の祈りの家が神殿である。これは今も、すべての人の祈りの家が、教会であると受け継がれています。私達は、教会が祈りの家であることを、忘れては成らないのです。つまり教会において祈りはやはり根幹であり、大切なのです。私達は、祈り続ける教会であることが赦されています。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。コロナ感染がなかなか泊まりません。しかし、どうか、守り導きください。医療関係者を守り、係った方に癒しを与えてください。子ども園、児童クラブを続けて守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ウクライナに平和を、又ミャンマーに平和をおいてください。1週間の教会関係者の守りと導きを置いてください。私達の信仰、魂、体を守ってください。主のみ名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教  エゼキエル書34章23〜31節    2022年2月20日(日)
            「 一人の牧者 」   
 本日は、隣接の子ども園でコロナ陽性者が出ために、先週と本日の20日の主日をオンライン・リモートのみの礼拝となりました。繋ぐことのできない方もありますが、主に礼拝を献げて参ります。さて一昨日までの鹿児島県の感染者は26,591人となりました。先週は23,272人でしたので、3,319人がこの1週間で感染されました。先々週が1週間で4,092人の感染でしたので、先週は1週間で前より773人減少して感染されたことになります。おそらくピークが鹿児島県では来たかも知れません。感染警戒段階はステージ2のままとなっています。新聞、テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしいですが、段々10才未満や高齢者に広まっており、死亡者が増えています。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第3週ですのでいつものように、旧約聖書ヘブライ聖書から聞くと言う方針で、エゼキエル34章から聞いて行きます。34章の前半部分は、イスラエルの牧者の章として、時々、祈祷会や説教で取り上げられることがあります。神様がイスラエルの王様達を審判され、これがバビロン捕囚になった原因・理由としてエゼキエルは示し預言します。しかし、34章の後半部分はあまり開かない様に思います。本日は、34章の後半部分からエゼキエルの預言を聞いていきます。

 この34章の預言の時期は、前章の33章21節に「捕囚の第12年10月5日に、エルサレムから逃れた者が、私の下に来て言った『都は陥落した』と」とあります。バビロンにいるエゼキエルにとうとうエルサレム陥落、エルサレム神殿破壊の知らせがきたのです。従って、BC586-7年が終わってからと推測できます。当時の通信の速さはエルサレムからバビロンまで早くても3ヶ月はかかったであろうとされます。
 しかしエゼキエルは、エルサレム神殿が破壊されることを聞き知ると、ここまではエルサレムの審判と破壊を預言し続けてきたのですが、ここからは、救いの預言に変わっていくのです。これはあるのだと思います。まだエルサレム神殿が立っている時は、悔い改めを求めて審判預言をもって望む。しかし、一端破壊され陥落したら、次は神様の赦しとその再建の励ましを伝えていく。預言者の務めは、ある意味でイスラエルの民の状態において、適切な預言と神様からの言葉を聞いて行くことになります。
 エゼキエルはもちろん、エルサレム神殿の破壊は免れないと思っていたと思います。祭司エゼキエル本人は、第一次バビロン捕囚で、バビロンに連行されて来ました。しかし、エルサレム神殿の状態は、もう悔い改めるには余りにも、酷い状態でした。それは6、8、14章にエルサレム神殿の中に偶像礼拝の偶像が満載している告発があります。神殿本体に偶像礼拝が溢れている。これではほとんど回復の見込み、主の恵みを受ける見込みがありません。しかし、エゼキエルはそれでも審判予言をなし、悔い改めを預言していきました。しかし、いよいよエルサレム神殿は、主の言われる通りに、陥落していきました。つまり神の裁きを受けていったのです。そして今度は、34章20節にありますが、主が「私自身が肥えた羊とやせた羊の間を裁く」と言われます。

 23節はその時、主はイスラエルにどうされるのかを預言しています。まず、主は、裁かれ、陥落して破壊されたエルサレムの為、またイスラエルの為に一人の牧者を起こし、彼らを「牧させる」と言われます。そして、それはわが僕ダビデであると言われるのです。ここである読み方は、神様はダビデを復活させるのか、とあります。しかし、そうでないでしょう。ここは、ダビデの子孫から王を起こすということです。神様は確かにイスラエルの牧者つまり王たちの為に、バビロン捕囚の神の審判が起こったとします。しかし、それではダビデの王制そのものを、主は否定されるのか。そうでないのです。自分の羊たちをきちんと牧さない牧者は裁きを受ける。しかし、だからと言って、ダビデの子孫から出る王を全部否定するわけではないのです。

 2つのことを考えます。それは「産湯を捨てる時に、赤ちゃんを捨ててはならない」という言葉があります。産湯は使っているうちに汚くなって、入替しないといけません。しかしその時に、間違って赤ちゃんを捨ててはならない。産湯は赤ちゃんを育てるに必要なお湯なのです。神様を信じるに、教会は邪魔だと言う人がいます。では、教会を捨てるとどうなるのか。神様がいなくなることがあります。間違った教会は改革していく必要があります。ゴチゴチの制度の教会は柔軟さが必要です。しかし、勢い余って教会を必要ないと捨てると神様を捨てしまうことになりかねません。教会はキリストの体ですので、これでは元もこうもないのです。
 もう一つは、エゼキエルはわが僕ダビデと言っています。ここで大切なことは、ダビデはダビデでも、神の僕のダビデということです。神様がダビデの子孫を用いるのは、預言者ナタンの約束、契約と言われます。サムエル記上7章16節に主は「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに据えられる」としました。これが真実になっていくのは、サムエル記上12章のナタンの叱責というところです。有名な話ですので簡単にいいます。ダビデはある時どうしても一緒になりたい人がでてきます。しかしその人はウリアと言うダビデに忠実な部下の妻だったのです。いくらダビデ王でも、律法を曲げて他人の妻を自分のものにできません。そこで、ダビデは夫のウリアを戦争の前線に出して殺させ、そして、その妻バテシバを自分のものとしたのです。その時、主はしかし、ダビデ王に預言者ナタンを遣わし、その罪を責めます。なんとダビデ王は王にも関わらず、自分の罪を認めて、ナタンに自分の罪を告白します。王様でしたので、すぐに預言者ナタンを殺し、無視できたでしょう。しかし、そうしなかった。ナタンを遣わした主を信じたのです。この出来事は神の僕ダビデの信仰を示す出来事です。
 エゼキエルは、ダビデの子孫を捨てない主なる神を示し、同時に、ダビデの子孫は神の僕であるとしたのです。24節にこの僕ダビデを通して、主は、イスラエルの神となり「わが僕ダビデは彼らの真ん中で、君主となる」と語ります。私たちは、この預言はなかなか成就せずに、最終的には、イエス様まで待たねばならないことを示されます。イエス様が来られた時、私達は、エゼキエルの預言した「わが僕ダビデが彼の真ん中で君主となる」を体験することになります。

 25節から29節は、主が、イスラエルと平和の契約を結ぶことを言われます。ここの平和の契約は、エゼキエルが祭司出身の預言者であったことをよく示しています。通常契約というと人間対人間であるわけです。しかし、25節からの平和の契約の内容は、悪い獣、荒れ野における平安、森の中の眠りです。26節には、季節に従っての雨です。さらに27節には、野の木の実、地に産物、さらに奴隷にした者の手からの救いだしとなっています。ここで契約の相手が人間なのは、最後の奴隷にした者の手から救い出すところだけです。
 エゼキエルが示す平和の契約の相手は、獣、荒野、森、雨、木の実、地の産物まで、すべて自然なのです。これはどうなっているのかです。しかし、これは実は旧約ヘブライ聖書の伝承にあるのです。実は、ノアが洪水から守られて、箱舟から出てきた時、神様が虹を見せて、虹の契約を結ばれるところがあります。そこには創世記9章15節には「私は、わたしとあなたたち並びにすべての生き物、すべての肉なる者との間に立てた契約に心を止める」と言われます。そして、レビ記26章3節以下には「あなたたちが私の掟に従って歩み、私の戒めを忠実に守るならば、私は時期に応じて、雨を与える。…作物を実らせ、…野の木は実を実らせる。5節、…あなたたちは食物に飽き足り、6節、国の内で平穏に暮らす。安眠することができ、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない」とあります。

 つまり、主が平和の契約を結ぶと言われる時、その範囲は、まさに人間だけでなくて自然をも相手にしていることになります。これでは、仏教や神道かと言われそうです。まさにここは、現代のキリスト教が落としていた視点かもしれません。しかし、よく考えてみると神様は天地の造り主つまり自然の造り主でもあったのです。現実に神様は自然もを創造されており、自然もまた神様の契約の相手でもあるのです。
 エゼキエルがなぜ、バビロン第2次捕囚の荒廃の中で、平和の契約を人間だけでなくて、多くが自然に対しての契約を示しているのか。不思議と言えば不思議です。しかし、考えられることはバビロンとエルサレムの戦いは、特に第2次バビロン捕囚の戦いは、ある意味で自然を巻き込んだ戦いになっていたのかもしれません。もちろん、今の自然破壊と比べたら話になりません。しかし、ある研究ではエルサレム周辺の砂漠化は、長年の戦争で、木を伐りすぎたかもしれないという説があります。

 今ちょうどSDZsが言われています。持続可能な生活・成長です。炭酸ガスの排出制限も言われます。これは言ってみれば、自然との契約でもあります。私が説明する必要もないのですが、魚も植物・野菜も動物の肉も人間のほしいとする欲望のままにするともう、今や次の世代はそれを食べることができないのです。人間の欲望をコントロールして、魚も植物も動物も次の世代が生きることができる分で間に合わせないと、次の世代は生きられないことになります。29節の凶作の終わりと諸国民からの搾取の終わりは、連動しています。
 エゼキエルにSDGsを読み込むのは解釈しすぎです。しかし、神のことばですので、聖書に解釈しすぎはないとも言われます。神様のみ心をどんな分野にも、求めてやまないことは、大切な聖書を読む姿勢です。しかし、平和の契約の相手に自然が入ることを考えると30節の「私は彼らと共にいる主なる神である」は、そのような大きな広がりを示されます。コロナ感染と自然破壊の関係も言われます。共にいる主なる神様は、私たちの罪を、単なる対人間の罪のみならず、対自然界との平和、罪の問題にも問われているとも言えます。

 最後の31節もこれまでのまとめで、繰り返しとも読めます。しかし、「お前たちは人間であり」は、改めて私たちの原罪を示します。私たちは、神ではなく人間である。自分が中心でなくて、自然を入れた全部が、神様と私たちの平和の契約の相手方です。私たちは謙遜を求められるのだと思います。神様の契約相手はもちろん人間の私達ですが、そこには自然界があるのです。そこを忘れる時、第2次バビロン捕囚は、本当に持続できない自然界と重なります。次の世代に今の自然と環境を渡せないことになります。イエス様の十字架の恵みと愛、その復活は私たちに罪を示し、欲望から自由にして、自然界を含め、今の課題に真剣に取り組ませるのだと思います。

 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、恵みを感謝です。私たちは、コロナ感染の中にありますが、どうか、かかかった方には、癒しと守りと導きを置いてください。子ども園、児童クラブを続けて守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。ウクライナに平和を、又ミャンマーに平和をおいてください。1週間の教会関係者の守りと導きを置いてください。信仰、魂、体を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」
教会 説教   ヨハネ黙示録10章8〜11節      2022年2月13日
            「 食べてしまった 」   
 本日は、めぐみ子ども園でコロナ陽性者が出ために、教会は本日と次の主日をオンライン・リモートのみの礼拝となりました。繋ぐことのできない方もありますが、主に礼拝を献げていきます。さて一昨日までの鹿児島県の感染者は23272人となりました。先週は19180人でしたので、4092人がこの1週間で感染されました。先々週が4153人の感染でしたので、先週は1週間で前より61人減少して感染されたことになります。まだまだピークが鹿児島県では見えません。感染警戒段階はステージ2のままとなっています。新聞、テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしいですが、段々10才未満や高齢者に広まっていると言われます。近くの小学校や子ども園にもどんどん感染がいわれ、こちらの園も出た形です。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて本日は第2週ですのでいつものように、使徒の手紙から聞くということで、ヨハネの黙示録10章の後半部分から聞いていきます。ここは、すでに前回でお話ししていますが、長老ヨハネが第6のラッパと第7のラッパの災いを聞きます。その幕間劇と言われる部分です。9章13節に第6のラッパが吹かれ、11章15節に第7の天使のラッパが吹かれます。その間の出来事となっています。ここは第6のラッパの内容としても良さそうに見えますが、独立しています。どうして幕間劇のようなものがあるのか、よく分かりません。落語や漫才では、真打ちといって一番技量の高い出演者が出る前に、前座があってこれが若い方やお弟子さんが務めるとされます。第7のラッパが吹かれ、12章からがいわゆる黙示録の中心ともいわれる啓示、黙示ですので、その前準備と言って良いのかと思います。

 10章の前半部分では、4節に小さい巻物を持っているのですが、そこには「それを書き留めては行けない」とあります。しかし10章7節では「第7の天使がラッパを吹く時、神の秘められた計画が成就する」とあります。ここは神の御計画を人間が書くべきか、知らせるべきか、そうでないか。長老ヨハネが、迷っていることの反映でないかと思われます。つまり神様の御計画を知ると言う信仰に対する謙遜というか、人間の限界と言うか、そういうことの現れと言えるでしょう。神の啓示、神の黙示を人間は扱えるのかという遜りと恐れの信仰ともいえるかも知れません。
 8節になりますとしかし、天から聞こえたあの声、これは小羊キリストのことでないかとされていますが、この声は「開かれた巻物を受け取れ」と言うのです。ここは、今一度長老ヨハネに啓示を受け、黙示を聞く者として立ちなさいと言う、預言者としての召命と委託の再召命、再委託ということができるでしょう。すでに1章11節において、長老ヨハネはパトモス島にローマ帝国によって幽閉されております。そこで、霊に満たされ「あなたの見ていることを巻物に書け」と言われ、預言者、黙示者として立てられまた。そして7つの教会に手紙を書くことになります。そして黙示録4章1節では7つの教会への手紙が終わると最初の声がおそらく小羊イエス様と思われますが「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われるのです。長老ヨハネはここでまたエゼキエルの見たような4つの生き物を見ることになります。そして、黙示録5章では巻物を開くことができるのは、小羊イエス様であることが示されます。そして、この黙示録10章ではこの巻物を長老ヨハネが、受取り、そして語る召命、使命と委託をもう一度受けていることになります。
 召命と委託が何度も繰り返されるということは、この務めの困難さを示すのだと思います。またこの黙示や手紙を受け取る側にも、この手紙は本当に信頼して受けて良いのかという疑問も有ったのだと思います。今もまた福音が語られ、宣教がなされます。それは、上手に分かり易く語ることは当然でしょう。しかし、その上にその権威が本当か、その正当性はあるのか、と言うのが常について回るのではないでしょうか。それはちょうどパウロが第2コリントの手紙を書いて、自分がキリストの本当の使徒であることを、証明し明らかにしないと行け無かったのと似ています。パウロはイエス様が生きておられる時の使徒ではないので、パウロはいつでも本当に使徒であるのかが問われていたのです。私達も又語る時、又何かを成す時に、本当にこれはキリストの弟子の業であり、自分が受けた言葉が、本当に十字架の主イエス様からであるのか、そういう確かめる信仰が問われています。

 8節に長老ヨハネは「小さい巻物を下さい」といいます。すると天使は「受け取って食べてしまいなさい」というのです。これは、ここだけ読むと何のことかとなります。しかし、巻物を食べる、神の言葉を食べると言うのは、エゼキエル書2章8節から3章2節にかけて、またエレミア書15章16節において、それぞれの召命の時に起こった出来事でした。つまり長老ヨハネは、黙示録という奇想天外に見える書物を書いているのですが、その表現は改めてエレミア、エゼキエルの伝承の中にあるのです。長老ヨハネは、エレミアやエゼキエルのように、巻物を食べさせられる、すなわち預言者、黙示家として立てられるということです。私達は預言者の召命や委託において、旧約ヘブライ書の伝統が綿々と続き、長老ヨハネはこの伝統の内に、預言者として、黙示家として立てられていることを知らされます。私達は黙示録の「巻物を食べる」ということにおいても、きちんと旧約聖書エゼキエル書、エレミア書が繰り返されていることを知らされます。つまり、私達はやはり聖書をきちんと読んでその伝承に中に、その御言葉に中に生きていくことを教えられるのです。聖書を毎日少しずつでも読むことの大切さ、その伝統の中に自分を置くことの大切さを示されます。

 10節には、この巻者を食べた時、不思議なことがおこります。それは「口には密のように甘いが、腹は苦くなる」という出来事です。これもまた一体全体何が起こったのかよく分かりません。しかしこれもまた、エゼキエル書3章3節に「私がそれを食べると、それは密のように口に甘かった」とあります。巻物つまり神の言葉は食べる時には甘い、しかし、腹には苦い。これは旧約ヘブライ時代からそうなのだといえるのです。私達は、比喩的にはいろいろな教えをここに汲み取れるでしょう。それは神の言葉は食物のように、食べられて、形を変えて、その人の血となり肉となっていくということです。食べるということは、実際の体の中にいれて、それを咀嚼し消化して、自分のものとなります。正に神の言葉もそうです。単なる言葉の繰り返しでは、だめでしょう。自分で神の言葉を生きる、心から具体的に生きると言うことです。食べる事にはいろいろな意味を込めることができます。しかし、このような比喩的な取り方だけでないでしょう。神の言葉が甘いとは、やはりキリスト者に対する神の守りがきちんとあるということです。長老ヨハネがいた時のドミチアヌス帝はローマ皇帝の中でも、自分を神格化し礼拝させることをしました。皇帝礼拝を拒絶せざるを得ないキリスト者は、目の敵にされます。これは今も又、起こることがあります。

 今ミャンマーの軍事政権がクーデターを起こし、とうとう1年目になりました。国軍とは名ばかりで、民主化運動をどんどん破壊し、自分の民を虐待していきます。先日の2/11集会の講師はミャンマー出身の国分のマウマウタン先生でした。この迫害というか軍の破壊活動が一番酷いのはキリスト者が人口の90%を占めるミャンマーのインドの国境付近のチン州の人達の町や村だそうです。もちろん仏教寺院やイスラムのモスクも攻撃され、破壊されているそうです。しかし、やはりキリスト教が多いそうです。それは、キリスト教は簡単に国軍の言いなりにならない。きちんと批判していく。スーチーさんの政権の時の副大統領がチン州出身とかあるらしいですが、それだけでないでしょう。講演では質問の時間に、韓国の出身の先生が「自分たちもずっと軍事政権と戦ってきました。ミャンマーも時間がかかるでしょうが、必ず民主化されると信じ祈ります」と言われていました。韓国もクーデターや色々な軍事政権時代が長かったのでした。しかし、とうとう今は、民主化されています。

 つまり、歴史は必ず主が導き、支えてくださるので、最終的に神を信じ、神の御心を求めて生きる者は、必ず導かれ、勝利を与えられるのです。これはやはり口に甘いと言えます。しかし、腹には苦い。つまりその甘さを得るためには、苦難の時代がどうしても起こるのです。神の守りが必ずあり、神の歴史が進み、御心が天になるごとく、この地上にもたらされるのです。しかし、それが本当に実現するには、主を信じる者一人一人の苦難が問われるのです。神は必ず守られる。しかしその栄光の道が開けるには、主の恵みによって苦難に持ちこたえて、祈りを続けて、邁進しなければならない。初代教会は、長老ヨハネ達の黙示録の啓示により、小羊イエス、主の勝利を信じてドミチアヌス皇帝の皇帝礼拝の迫害をくぐり抜けて生きて行きました。

 もちろんこのような社会的ことだけでもないでしょう。長老ヨハネにとって、神の預言者、黙示家として生きることは、やはり喜びであったと思うのです。ドミチアヌステア帝の政策で、パトモス島に幽閉された。しかし、これは一つの証しでもあります。ガンジーさんの自伝を読んでいるとガンジーさんは南アフリカでも、インドでもよく政府に捕まって投獄されます。しかし、最終的にはガンジーさんが捕まっていることが、独立運動や抵抗運動の人々の旗印になって返って励ましになっている所があります。実はパウロも又、フィリピの手紙2章14節に「私が捕らわれるのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」とあります。これも又パウロは捕まって、返って人々に覚悟を促し、福音を広めたのです。ガンジーさんには、なんと聖書のフィリピ、ピレモン、エフェソ、コロサイの手紙と同じで『獄中からの手紙』と言うのがあります。読んでいますと、全く政治的なことは書いておりません。真理を求めること、愛すること、禁欲をすること、自立することと等で、言ってみれば道徳の本になっています。でも道徳の本の体裁でいて、実はインド独立を促す本なのです。ガンジーさんはヒンズー教徒ですが、聖書をよく読まれたと伝わっています。もしかしたら、黙示録の手法を取られた。つまり、体裁は道徳の本で、中味の主張はインド独立の奨励の本だったのです。

 長老ヨハネの黙示録の体裁は奇想天外でさっぱり分けが分からない。しかし中味は、ドミチアヌス帝の皇帝礼拝の迫害に耐えて、キリストの勝利を待ち望み、絶えず祈り、迫害に耐えて再臨を待て、だったのです。すぐに来られるイエス様に備えさせたのです。私達もまた、コロナ感染のまっただ中ですが、礼拝をなし、祈りをなし、次の来たる世に備え、主の再臨に準備していくことを示されます。主の十字架の恵みと復活の導きがそれをなしてくださるのです。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。幼稚園のコロナ感染の為に、礼拝を2回休みます。しかし、どうか主よ、導き守り支えてください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支え、導きください。子ども園、児童クラブ守ってください。2月はまとめ・決算、計画の月です。導きを置いてください。ミャンマーのクーデターに、どうか平和を置いてください。北京の冬のオリンピックの選手たちを守ってください。み名によって祈ります。アーメン」


  教会 説教   マルコ伝9章20〜29節       2022年2月6日
            「 信仰のない私 」   
 本日も蔓延防止法の適用によって、分散礼拝として守ります。まずは集まってなせる礼拝を、心から主に感謝致します。さて一昨日までの鹿児島県の感染者は19180人となりました。先週は15027人でしたので、4153人がこの1週間で感染されました。先々週が3340人でしたので、先週は1週間で前より813人増えて感染されたことになります。まだまだピークが鹿児島県では見えません。感染警戒段階はステージ2のままとなっています。新聞、テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしいですが、段々10才未満や高齢者に広まっていると言われます。近くの小学校や子ども園にもどんどん感染がいわれ、こちらの園や児童クラブもいつ感染者がでてもおかしくありません。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて本日は第1週ですので短縮主の晩餐を受けます。また福音書から聞くという方針で、マルコ伝9章の後半部分から聞きていきます。実は10月の第1週に聞いた続きですので、もう大夫忘れておられると思います。14節の前にあるように、全体は「汚れた霊に取り付かれた子どもを癒す」奇跡となっています。しかし、この出来事は、単なる癒しの奇跡ではなく、聖書はどこでもそうですが、いろいろな教えが込められています。まず今日は読みませんで、10月の時に聞いたのですが、ここには幾つかのテーマがあります。1つは、直前の19節にありますが、弟子達が癒すことが出来なかったということです。ここには、イエス様が弟子達に悪霊を追い出す権威を与えられたのに、なぜできないのかというテーマがあります。マルコ伝3章15節と6章8節にはっきりと12弟子達に「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」とあります。そして実際に、6章13節には、12人は「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」とあります。しかし、この9章ではこれが出来ませんでした。私達は弟子たちに癒しの信仰が与えられているのに、その信仰を用いることができなくなることがあるのだと知らされるのです。

 19節にはイエス様は「いつまで私はあなた方と共におれようか、いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」と嘆きを言われています。なぜ、弟子達は悪霊を追い出す権能が与えられていたのに、癒しが出来なかったのか。この弟子達の癒しが出来なかった出来事から自分達の信仰のあり方をただされるように思います。
 21節にあるようにイエス様は、弟子達が癒せなかった子どもを自分の所に連れてくるように言われます。そして、イエス様は子の父親に「このようになったのはいつ頃からか」と聞かれるのです。何でもそうかも知れませんが、何か不都合のある時は、まず、現実というか状況を知るは基本中の基本です。何がどう悪いのかも聞かずに、病気もまた、どんな不都合も直すことはできません。まず現実に何がどう悪いのか、きちんと確かめる。スタートはそこからです。イエス様もまたそのことをされています。私達は意外と早とちりして、本当の悪い所、本当に直さないといけないところを間違えて、直そうとすることがあります。
 またガンジーさんの話で申し訳ないですが、ガンジーさんは結果的に英国に留学されて弁護士になったのですが、本当はお医者になりたかったと書いておられるところがあります。しかしガンジーさんは考えるのです。お医者は本当に、人々を幸せにするのかと考えるのです。つまり病気になってお医者に行き、薬を貰って治療する。しかし、それでその人が本当によくなるのか。薬を飲めばまた直ると考えて、自分の病気の根本原因である暴飲暴食の生活をやめようとしない。これは、人をよくしているのかと考えるのです。つまり病気の中には、治療しないで、その人の生活がそうならないように指導するべき病気があるというのです。よくぞこんなことを考えると思いますが、なるほどと思わされるところもあります。病気になった時、もちろん重篤の場合は手術とかすぐに薬で治さないと行けないのです。しかし、生活を変えなければならない病気もあるのです。ガンジーさんらしい考察です。
 22節にあるように、悪霊は何度も、子どもを火の中、水の中に投げ込もうとしましたと応えています。これは典型的なてんかん症状です。突然起こりますので、まさに火の近くであろうと、水の中であろうとてんかんが起こると大変なことになります。そして、父親は「おできになるなら、私どもを憐れんで、助けてください」といいます。ここに父親のこれまでの苦悩がみて取れます。父親は、いろいろな医者や預言者、また民間の治癒者に息子を連れて行ったのです。そしてこれで大丈夫きっと直ると確信してその処方に任せて来ました。しかし、一行に直らなかった、癒されなかったのです。父親は、段々直らない時の為にもう最初から心を武装して、直らない時もある、でも試して貰おうと来ていたということになります。

 イエス様の噂をきいて、弟子達の所に連れてきた。しかし駄目だった。弟子達がだめだったのだから、当然、先生であるイエス様も駄目であろうと思うのは仕方のないことだったと思うのです。もう直らない時の落胆を味わいたくない。これは父親の信仰が悪いとか、心が弱すぎるとかでなくて、心が自分の心を守る為の防衛手段でないかと思います。ちょうど宝くじを買うときに、どうせ当たらないけど当たったらいいなと自分の心に言い聞かせて、宝くじを買うのだと思います。私はちっともお父さんを責める気にはなりません。何度も何度も、幾人も幾人もち予言者や治癒者を尋ねて、どうにもならかったことをむしろ知らせるのです。

 しかし、確かに信仰とは「おできになるなら」という信仰はありません。信仰とは、全き信頼であり、全き委ねです。結果を含めて主に委ねて信じること、信頼することだからです。お父さんは、息子を何とかしたいと連れてきたのです。しかし、失敗するかも知れないという結果を予測して、心の予防線を張ってしまったのです。結果を含めてまで、主に委ねる事はしませんでした。譬えは悪いですが「私は心で信じています」と言って「でもバプテスマは受けません。でも信じています」というのと似ていると思います。信じるのが誠実で、真実であれば、当たり前で主が受けられたバプテスマに進むのです。しかし、信じているけど、バプテスマはかっこ悪い、社会的体裁がよくないと言われるのであれば、残念ながら主を信じているとは、言われません。もちろんいろいろな例外はあると思います。

 「おできになるなら」はなかなか奥が深いです。これは日本的には、奥ゆかしさでもあります。また、相手の気持ちを推し量り、こちらの意見を無理に押しつけないというなかなか良い人間関係の良き態度かも知れません。しかし、これは神様に対する信仰の態度ではありません。信仰は結果を予測してはいけないのです。もちろん人間ですからそうしてしまうのです。しかし、結果を含めて神様を信じるのであれば、これは機械仕掛けの神様であり、自分の思った通りに、神様がしないと神様を呪うことまでしてしまうのです。信仰とは、結果を含めて神様に委ねることであります。自分の思った通りの結果にならなくても、なお、神様の事柄として受けて立つことです。こういうのは老人の方が上手かもしれませんが、そういうことです。
 23節に、イエス様は「出来ればというのか。信じるものは何でもできる」とお答えです。これは何度かイエス様は言われています。マタイ伝21章22節には「信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」や「人間にできることではないが。神は何でもできる」マルコ伝10章27節です。イエス様はこの病気の子をもつ父親を励まし、力づけておられるといえるでしょう。「信じる者にはなんでもできる」は言葉としては、簡単です。しかし、神のみ子イエス様だけが言えることばでもあります。これは人間である私たちが他の人に言っても、語っても、権威の何もありません。むしろ馬鹿にされると思います。しかし、主なる神様が、その全権をもって、この父親に又私たちに語り掛ける言葉であり、主の大いなる恵みです。

 24節に父親は、イエス様の言葉に励まされて、すぐに応答されます。何か、迫りを感じられたのだと思います。書いてあるように、お父さんは「叫んだ」と書かれています。そして「信じます。信仰のない私を助けてください」というのです。これは全くの矛盾です。「信じます」と言うのなら「信仰のない私」は意味がありません。「信仰のない私」であれば、「信じる」はずがありません。しかし、これが本当の信仰だと思います。「信じます。しかし、信仰が無いのです。」「信仰はありません。でも信じます。」なんともこれは合理的に考えると全くナンセンスです。しかし、まさにこれが生ける人間の実存の信仰でしょう。私は何度も「先生の言っていることはさっぱり分からんけど信じる」と言われたことがあります。「全然意味がわからんけど、聖書は真実と思う」。これは原罪を持ち弱さを持つ、私達人間の現実だと思います。

 パウロはローマ書4章5節にこれと全く同じ信仰を書いています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きが無くても、その信仰が義と認められる」。これは真面目に読んだら意味が通じません。不信心つまり信じない方を義とされる方を信じる人、はあり得ません。そもそも信じない人をどうして、義とするのか。不信仰の人がなぜ、義とされると信じるのか。これは十字架の贖い、イエス様の死をもって考えないと意味が通りません。イエス様が私たちの不信心・不信仰をも身に受けて、ご自身の小羊の血で贖ってくださると信じるしかありません。
 そしてその通りに、イエス様は病気の子をもつ不信仰な父親の信仰に答えてくださるのです。「この子から出ていけ」という主の言葉一言で、悪霊は出ていきます。何と言う恵みでしょうか。不信仰の信仰をイエス様はきちんと受けてくださり、答えてくださる主なのです。私たちも同じです。根本的に私たちもまた不信仰です。しかし、「不信仰な私を助けてください」という信仰には、主は答えてくださる。無視されないのです。弱さを主に告白し、罪を主に告白し、不信仰を主に告白して、主によりすがる時、主はみ手をおいて起こされるのです。おれは信仰がある、おれは確かな信仰を持つと言う人は、主に徹底して遠ざけられるのです。

 最初のテーマに来ました。なぜ、弟子たちは悪霊を追い出せなかったのか。イエス様から悪霊を追い出す権能を授けられながら、なぜできなかったのか。29節にあるように、祈りがなかったのです。ここでの祈りは、もちろん祈り倒す業・業績の祈りではありません。自分が何者でもない。自分の信仰は無きに等しい。このことを自覚し、不信仰を常に自分の体に覚える祈りです。自分の無力とただ主の御心を行う時に主が働かれるという全き信仰のための祈りです。主の十字架を常に覚える祈りです。主の十字架を我が身に覚える時、私たちは祈りなしに何の業もできないのです。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、コロナ感染のただ中です。どうか、み手をおいて守ってください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支え、導きください。子ども園、児童クラブ守ってください。2月はまとめ・決算、計画の月です。導きを置いてください。ミャンマーはとうとう1年のクーデターになりました。どうか平和を置いてください。北京の冬のオリンピックの選手たちを守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

教会 説教   ルカ伝2章41〜52節       2022年1月30日
            「 父の家にいる 」   
 本日は蔓延防止法の適用によって、分散礼拝となりました。しかし集まってなせる礼拝を、心から主に感謝致します。さて一昨日までの鹿児島県の感染者は15027人となりました。先週は11687人でしたので、3340人が1週間で感染されたことになります。1週間では先週の約2倍になります。鹿児島県の感染警戒段階はステージ2となっています。テレビが言いますようにオミクロンは少し毒性が弱いらしく欧米では、マスクの義務や人数制限をしないで対応にするそうです。隔離期間も短くなり、また神奈川では検査しないで陽性扱いして、自宅療養する方法も伝えられています。近くの小学校や子ども園にも感染がいわれ、こちらの園や児童クラブもいつ感染者がでてもおかしくありません。用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第5週ですので、特に聖書を選ぶ方法を決めておりません。今回は余り語れない12歳のイエス様の様子を伝えるルカ伝2章のみが伝える聖書の箇所から聞いていきます。ルカ伝は、イエス様の誕生の次第をマタイ伝と一緒に詳しく伝えています。そして2章22節にイエス様が神殿において、捧げられ、その時にシメオンと言う人が、歌を歌ったことが書かれています。その後、マリアとヨセフはイエス様と共に、エルサレム神殿からナザレに帰られました。そして、ルカ伝のみが12歳になった時のイエス様の姿を書いているのです。これはマタイ伝にはありませんし、マルコ伝、ヨハネ伝にはもちろんありません。ルカ伝だけがどうして12才のイエス様の伝承を知っていたのか。残念ながら理由は分かりません。ただルカ伝1章3節にはルカは「すべてのことを、初めから詳しく調べています」と書いています。ルカの一生懸命の資料調べの時に、12歳のイエス様の様子を伝える資料が見つかったとしかいいようがありません。

 41節にあるように、当時のイスラエルでは過越祭という祭りの日は、エルサレム神殿でお祝いするという習慣でした。聖書では年に3回、太陽暦では3,4月になる過越祭、5,6月になる7週祭、そして10,11月になる仮庵祭と3つの祭りはエルサレム神殿に行くようにとなっています。たとえば、申命記16章6節には年に3回イスラエルの男子は「主のみ前、主の選ばれる場所にでねばならない」となっています。日本流に言えば、お正月とお盆は古里に行くのと形は似ております。ただルカ伝はヨセフとマリアは過越祭には毎年行くとありますが、7週祭と仮庵祭のことはありません。ヨセフとマリアはですから、裕福では無かったのです。年に3回エルサレム神殿に行くとなっていましたが、年に一度の過越祭に行っていた。つまり最低限のイスラエル人としての務めを果たしておられたということです。これは、やはりすごいことだと思います。イエス様は裕福な家にお生まれでなかった。本当に年に一度の巡礼に行く最低限の務めを果たす家だった。後は毎週の礼拝、安息日礼拝はナザレの近くの会堂礼拝に行かれてされたのだと思います。
 これは私達も多いに信仰生活の参考になるのではないでしょうか。完全な信仰生活があるのかどうかですが、言ってみれば年に3回のエルサレム神殿礼拝を年に一回行かれていた。しかし、3回のところを一回しか行けない。だったらもう1回も止めたでないのです。自分の達のできる信仰で、年に一度を守られたのです。実はルカ伝1章24節に、イエス様の誕生された時に、神殿の献げものに「山鳩ひとつがい、家鳩の雛2羽を捧げられた」とあります。これは皆さんも幾度か聞かれたことがあると思いますが、イスラエルの貧しい家庭の規定です。お金があれば、羊を献げるのです。しかし、ヨセフとマリアはそれが出来なかった。しかし、貧しい人のささげものの規定を守られたのです。私はここにヨセフとマリアの堅実な信仰を示される思いです。見栄でお金持ちのする献げものをしない。しかし、自分たちは貧乏だから何もしないでない。貧乏なら貧乏なりに、年に3回のエルサレム神殿礼拝が規定なら、自分たちのできる1回のエルサレム神殿で神様に応えて行かれたのです。この家庭にイエス様がお生まれになった。マリアとヨセフは、見栄を切らずしかし、貧乏に腐らない。まさに神の御子が誕生し、その少年時代を過ごすのに最適な家庭であったと思うのです。

 43節にいよいよ過越祭から帰ることになりました。この時、事件がおこります。それはマリアとヨセフは、イエス様が自分たちについて来ていると思い、帰り支度をし、帰りはじめたのです。当時、祭りの期間はなんと1週間あったそうです。日本では1週間も祭りをやっているのは珍しいのではないでしょうか。ただ2000年前の京都の祇園祭とかは、1週間くらいはあったかもしれません。しかし、鹿児島一のおはら祭りでも今は土日と2日間です。もちろんマリアとヨセフが、まるまる1週間のすべての祭りに参加されたのか、これも不明です。もしかして途中で帰られたのかも知れない。意外と途中で参加されて、全部が終わる最後まで見られたのかも知れません。
 書いて在るとおり、マリアとヨセフは、帰る旅の一行にイエス様がいないのに気づかれませんでした。私達はなんと不注意な親だ、自分の子がいないのに気づかないのかと言いたいです。しかし、当時の巡礼は町単位で動いたという説があります。つまりイエス様一行は、マリアとヨセフの家族単位で、巡礼に来たのではない。ナザレ村のご一行できているのです。イエス様は12歳ですので、何か小さい子を見る役目とか、何か旅の為の水とか食べ物とか運ぶ役目だったかも知れません。どうして、村単位で行動したかですが、やはりナザレからエルサレムまでは、直線で80qあります。強盗から襲われたり、何か危険が迫ったりの時、村単位で動くのは心強かったとされています。

 44節に「一日分の距離を行ってしまった」とあります。当時の歩行の1日分の距離は24qだったと言われています。ですからおそらく3,4日の旅でナザレについたものと思われます。さすがに、エルサレムから24q離れると回りは田園風景となり、自分たちのナザレの一行の旅全体が、曲がり角等で見えたのでしょう。そして、どうもイエス様がいないと気づいたのです。マリアとヨセフは、ナザレ村の一行が一緒に帰る時に、どこかにイエス様が自分の役割を果たしつつエルサレムから離れていると思われたのです。実は、このエルサレムの巡礼ですが、イスラエルの成人は13歳からでありました。つまりイエス様は未だ12歳です。マリアとヨセフは、どうも1年前に、イエス様を巡礼に慣れさせる為に連れて来られたようです。貧しくて正規の律法の規定の通りにはできない。しかし、それでもイエス様を1年前に巡礼に成らすためにエルサレムに連れて来られた。ここには本当に貧しくても堅実なマリアとヨセフの信仰が見て取れます。

 そして、当時のエルサレムの人口は5万人とされ、過越祭では2倍の10万人になったとされます。今もあのイスラムのメッカの巡礼が時々テレビに映ります。あのような感じとは又違ったでしょうが。いつもの町の2倍の人口になったエルサレムですので、イエス様がいるものと思って、帰途についたのは仕方のないことだったと思います。44節に、親類や知人の間を探したとあるのは、もともとナザレ村の単位で旅をしているからです。そして46節は、3日目に見つかりました。なんとも時間が掛かったものです。いつもより2倍の人口となるエルサレムですので、探しながらは3日間掛かったようです。見付けた時のヨセフとマリアの喜びは分かるように思います。

 46節には、この時のイエス様の姿です。なんとエルサレム神殿の境内で、律法学者達の真ん中に座って、話しを聞いたり、質問したりしていたとあります。この「座って」とは、まさにエルサレム神殿の学びの様子です。律法学者達は、エルサレム神殿の境内に座り、質疑応答をして、律法の学びを深めました。そして、47節には回りで聞いていた人々は、イエス様の質問と受け答えに驚きました。12歳で、旧約ヘブライ書37巻を理解し律法、諸書、預言の書の質疑応答ができるだろうかと思います。しかし、有るのだと思います。思い出すのはもう17年前にめぐみの年長さんでバプテスマを受けてくれた2005年3月27日に6才でバプテスマを受けてくれた、澤康一兄であります。又2年前に中2でバプテスマを受けた西平良兄です。きちんと全能の神、愛の主とイエス様の十字架の罪の赦しを、信じ捕らえて告白してくれたのです。
 48節にマリアさんはイエス様に自分たちの心配を伝えると、イエス様は、49節に「私が父の家にいるのは、当たり前だと知らなかったのか」と応えています。日本だったらこんな答えをしたらひっぱ叩かれるかも知れません。しかし、50節にあるように、その時、マリアとヨセフはなんの事やら分からなかったのです。「言葉の意味がわからなかった」としています。叩く以前の問題だったのかもしれません。余りにも突飛な応えで、何をしようも無かったのかも知れません。

 51節には、イエス様はマリアとヨセフに仕えて一緒にナザレに下り、一緒にお暮らしになったとあります。つまり、次の召命、バプテスマのヨハネからのバプテスマの時、天からの声マルコ1章11節では「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞くまで、じっと母に仕えられました。私達はこの12才のイエス様の様子を聞いて、イエス様がご自身の召命を改めて黙々と生きられたことを知らされます。そして、それは狂信でも、あきらめでもなく、着実なことであったと示されます。
 イエス様は12才の時から、神の子であるという確信がありました。しかし、それはまだ確実なことでなく、暖めることが必要な召命でありました。このように確実では無いが、しかし、確実に自分の心に育っていることを、どう生きるべきであるのか。一つの示唆を与えていると思います。それは、大工のヨセフの子として、30才まで両親に仕えて大工の家業を継ぎ、そして次の召命を待つ姿勢です。ご存じように、ヨセフはイエス様が12才のこの出来事を最後に聖書には出てきません。病気で亡くなったのか、仕事の事故で亡くなったのか。分かりません。この後しばらくしてマリアは寡婦となり、イエス様は兄弟姉妹の為にも大工として働くことになります。そして、30才まで、母マリアと兄弟姉妹達を支え助け、暮らされるのです。
 そして、30才時、バプテスマのヨハネと出会い、自分の本来の姿、神の子であること神の小羊として、人々の罪のために十字架に上げられることを悟られます。そして神の声を聞き、神の子として、捧げられる神の小羊、罪の生け贄となることを悟られることになります。私達は、12才のイエス様を知らされ、自分の使命と召命を、一つ一つ成し遂げて、歩み行かれる姿をみます。神の子と私達の姿は、もちろん余りにも違うのです。しかし、自分に示された召命、課題、そして委託を一つ一つ成し遂げていく姿を、知らされます。基本的には、私達も主のめぐみによって、主のみ後に従って召命を求めつつ、召されるまで、歩んでいくのだと思います。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。日本全国が、コロナ感染の中にありますが、どうか、守り支え導きください。特に医療関係者を守ってください。どうか、子ども園、児童クラブの子供達と先生方を守ってください。転入の宮内さん、求道の方、病気療養の方、ご高齢の方の守りをおいてください。会堂の耐震リフォーム、1年になろうとするミャンマーの平和を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   マルコ伝6章30〜44節       2022年1月23日
            「 食べて満腹 」   
 本日は、集まってなせる礼拝を、心から主に感謝致します。さて、いよいよ第6波が来たようです。一昨日までの鹿児島県の感染者は11687人となりました。先週は10169人でしたので、1518人が1週間で感染されたことになります。鹿児島県の感染警戒段階は1つ上がり、ステージ2となりました。又明日、鹿児島県は蔓延防止法を要請するとなっています。ただテレビが言いますように、オミクロンは少し毒性が弱いらしくフランスでは、マスクの義務や人数制限をしないで対応にするそうです。続けて用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、ピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第4週ですので、いつものように連盟が出版している聖書教育の聖書の学びから聞いていきます。本日はマルコ伝6章30節以下からとなっています。ここは余りにも有名な5000人の給食のところです。教会に長い方は、何度も何度も聞いて来られた箇所です。ですから又か、と言う方は一杯おられると思います。しかし、この5000人の給食はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書全部にきちんと書いてある出来事なのです。通常は共観福音書と言ってマタイ、マルコ、ルカに共通する報告が多いです。しかし、ヨハネを含めて4つ全部となると主の十字架と復活は当然ですが、次はこの5000人の給食なのです。つまり、福音書記者達は、この出来事5000人の給食の出来事はどうしても福音書の報告としてはずせないと考え、どうしても伝えたい出来事だったことになります。神の言葉としてどうしても伝えるべき出来事だったのです。早速聖書に従って聞いて行きましょう。
 30節にあるようにこの出来事が起こったのは、12弟子、使徒達が自分たちが行った事や教えの報告をしていました。そしてその時にイエス様は「あなた方だけで、人里離れた所に行って、しばらく休みなさい」と言われます。ここは読み飛ばしてしまいそうです。しかし、イエス様は弟子達に休みを命じておられるのです。これは大切です。私達は、休みに遊びと同等で何もしないことに、何か意義を見付けることは難しいです。特に、日本の社会では、一生懸命働くことが前面にでます。休むのは、罪悪感が伴います。今、働き方改革が言われています。個人がそれぞれに合わせ休めば良いのですが、なかなか出来ません。ラジオで経済評論家が、日本で皆が休みを取るためには、公休日を増やすしかないと言っていました。皆が休まないと自分も休めないというのが日本的な性格なのだそうです。
 しかし、イエス様は休みを命じられる主です。これは、おそらく主なる神様が6日間で天地創造の業をなされ、そして7日目にきちんと休まれたことから来たのだと思います。休みは神様の命令であり、神様の召しでもある。休みは非常に大切な働きというとおかしいのですが、休みは休みとしての役割をもっているのです。イエス様がこんなところで、弟子を休ませるのは、私達もまた休む時には、休むということで神様の使命と召しを受けることを、教えられるのです。

 33節にはしかし、民衆はそれを赦しませんでした。人里離れたところを目指している弟子達一行の行き先をすぐに突き止めて、先回りして待っていたことになります。私達は舟で行った方が早いのでないかと思います。しかし事態は、舟はガリラヤ湖畔を岸辺に平行して移動し、民衆もまた一緒に移動したということのようです。

 34節に民衆に迎えられたイエス様と弟子達一行がいます。この民衆を主は見られて、主は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とあります。この深く憐れまれたとは、実は旧約ヘブライ書に幾つかでてきます。1つは、民数記27章17節です。ここには、モーセの祈りがあり、モーセは自分が亡き後にイスラエルを羊飼いのいない羊の群れにしないでください、と祈っています。そして、この祈りの応えて与えられたのが、後継者のヨシュアになっています。モーセは、与えられたヨシュアに手を置き、職に任じています。実はここから牧師の按手礼式というのが起こったとされる聖書です。
 次に、2つ目はエゼキエル書34章5節です。ここはイスラエルの牧者の章になっています。ここで牧者とはイスラエルの王様達のことです。エゼキエルはイスラエルの王達が、主に立てられているにもかかわらず、イスラエルの人々を飼う者のいない羊のようにしてしまった。これがバビロン捕囚の破局を招いたとしています。そして、今度は主がイスラエルの王様達に立ち向かい、主ご自身が、牧者の口からイスラエルの民を救い出し、彼らの餌食にしない、と言われています。民数記とエゼキエル書の預言を見ますと、正にここでイエス様が民衆に「飼う者のいない羊」を見られたのは、イエス様がご自身をモーセの預言した後継者であり、エゼキエルが預言した真の羊飼い、牧者であることを示しているといえるでしょう。この流れにおいて、私達は主がパンと魚を増やされて、民衆の5000人を養われたことを示されるのです。

 35から38節にはイエス様と弟子のやり取りが書かれています。イエス様はあえて弟子達にパンを自分たちで与えるように言われています。これは、色々な取り方がありますが、大きな流れとして、イエス様はご自身のなさるパンと魚を増やす奇跡の準備といえるでしょう。イエス様は、弟子達に、ご自身を神の子を信じる信仰を求められたといえるのです。しかし、弟子達は全くそれに気づきませんでした。書いてあるとおりに、ある意味で合理的に、ある意味で考え無しに、ひたすらどうしたらパンをこの付いて来た人々、先回りして歓迎してくれた人々に与えるのか計算しました。計算の結果は、200デナリオンのパンがあれば、何とかなるのでないかでした。
 しかし、ここでイエス様の弟子たちへの期待はどういうことであったのか、よく分かりません。また私達がこの時の弟子であったなら、やはり同じようなことをしたでしょう。今何人くらいいるのか、この人達にパンを与えるとしたらいくら掛かるのか、一生懸命計算したように思います。イエス様は弟子達が、一生懸命人々の数を数え、どのくらいのパンが必要か頭を抱えて計算しているところを、見られたでしょうか。イエス様は弟子たちに「イエス様、私達はどうしたらいいでしょうか、分かりません」と聞かれることを期待されたのでしょうか。弟子達は、一生懸命計算して、どうも200デナリオンつまり200万円ほどかかり、自分たちは200デナリオンのお金もないし、とうてい無理であると結論したようです。
 37節の「食べさせるのですか」は疑問形です。もしかしたら、弟子たちのイエス様への避難の意味が入っていたのかも知れません。とうてい無理なことをなぜ、イエス様は自分たちに要求されるのかということです。しかし、一生懸命事に当たっている時は自分たちの状態は分からないものです。イエス様は38節に「パンはいくつありますか、見てきなさい」と言われています。ここにはいろいろな取り方があります。1つは、弟子達が準備していたパンがあったのかも知れません。弟子達は、いつも12人とイエス様で行動していました。お金を預かる会計係のユダがいたとされています。自分たちに必要なパンは準備していたのかもです。

 しかし、その他には、イエス様一行は多くの人から献金や寄進で、生活されていました。「見て、来なさい」には、どのくらいの献金があるのかということかも知れません。今、どのくらいの自由になるパンがありますかということでしょうか。ご存知ヨハネ福音書6章9節には「子供が5つのパンと2匹の魚を持っています」と応えています。これもいろいろな取り方がありますが、この子供は弁当を持ってきており、それがパン5個と魚2匹であったとも言われています。つまり、ヨハネ伝では、子供がイエス様と弟子達一行の対話を聞いて、困っている弟子たちに自分の弁当を差し出したということも考えられます。

 聖書解説書の中には、この子供が自分の弁当を差し出したので、他にも持っている人がいて、子供が差し出した弁当をみて、自分も差し出したのでないかと書いているのがあります。しかし、これもおもしろい信仰的な取り方ですが、イエス様一行を湖岸にそって追いかけてきた民衆が弁当を持つ準備をしていたかが疑問です。

 ここはやはりイエス様はモーセの祈った後継者、エゼキエルが預言した真の牧者そして真の神の子として、奇跡を起こされたということでしょう。食べ物を増やす奇跡は、実は旧約ヘブライ書聖書では、幾つかあります。ご存知出エジプト記では、何と言ってもモーセが、シナイホレブの砂漠において、40年間天からのパンであるマナが与えられたとあります。列王記上17章16節には、シドンのサレプタのやもめが、予言者エリアによって、壺の油と壺の大麦の粉を、増やされる体験をしています。予言者エリアの弟子、エリシャは列王記下4章43節に、献品された大麦パンの20個を、召使いによって100人の人々に配り、なんと余りが出たとあります。イエス様の奇跡もまたモーセやエリア、エリシャと肩を並べ、またそれを凌ぐ奇跡でありました。荒野に男で5000人、女性と子供がいたでしょうから1万人はいたはずです。これらの皆が満腹されたのです。
 もちろんここで満腹というのは心理的な表現であり、パンを一個食べても嬉しいパンは満腹となり、怒りのある時は10個食べても満腹にならないというのがあるのだと思います。1万の人が食べきれない程のパンであったと正確な物理的な分量を言う必要はないでしょう。しかし、ここではイエス様は確かに、34節に教えをなされ、それと一緒に満腹を与えられたことも確かな事実です。私達は福音とは、単なる教えに終わらないことをここに聞いてもいいのだと思います。皆さんも実際に、福音を語った人が本当に困っている時には、都合を付け、なんとか支えるのだと思います。それがイエス様の示す信仰だと思います。それは甘えかしとか、自立を損なうとかあるでしょう。しかし、福音は言葉だけに終わらない。これはこの5000人の給食が教えていることです。これは「人はパンだけで生きられない」と「人はパン無しでは生きられない」の出来事は切り離せない出来事であることを教えていると思います。

 教会でいえば、やはり鹿児島教会が伝道の為に最初から幼稚園をなし、今は子ども園となり、中山伝道所は児童クラブを持つと言うことは、主の福音の一部だと思うのです。実際にここからバプテスマに至る人は少ないかもです。しかしあるのです。そして、主のパンの働きであるといえるでしょう。コロナ感染の中、エッセンシャルワーカーの事が注目されました。前から言われていたことですが、コロナは疫病で悪い事態です。しかし、いろいろな事を気づかせてくれた小さな効用もあるのです。コロナ感染の中、主に示された使命と、主から委託されたことを、1つ1つなしていくことを、祈ります。

 祈ります。「天の父よ、御名をあがめます。とうとう第6波がきました。鹿児島も昨日は370人だったようです。どうか、子ども園、児童クラブの子供達と先生方を守ってください。特に医療関係者を守ってください。転入の宮内さん、求道の方、病気療養の方、ご高齢の守りをおいてください。子ども園、児童クラブの保育を守ってください。会堂の耐震リフォーム、1年になろうとするミャンマーの平和を導きください。み名によって祈ります。アーメン」

 教会 説教   エゼキエル書33章1〜6節     2022年1月16日
            「 血の責任 」   
 本日は、集まってなせる礼拝を、心から主に感謝致します。さて、いよいよ第6波が来たと言われています。一昨日までの鹿児島県の感染者は10169人となりました。先週の12日の水曜に114人、木曜日にも114人、13日の金曜日は140名となりました。昨日が166人(鹿児島市68人)でした。ただし、まだ感染者の7割は離島ということで、鹿児島県の感染警戒段階は今だステージ1のままです。奄美大島には緊急事態宣言がでていますが、オミクロンは少し毒性が弱いらしく離島以外では、医療が鹿児島市等では逼迫していないということだと思います。続けて用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、アロンの孫であるピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。

 さて本日は第3週ですので、いつものようにエゼキエル書から聞いていきます。エゼキルもとうとう33章まできました。ここは1節の前に「見張りの務め」とあり、エゼキエルがイスラエルに対して見張りとして立てられて、預言することが伝えられています。実はこの33章の内容は、3章16節以下には「予言者の務め」とあり、さらにエゼキエル18章にも「各自の責任」と標題がついており、本日の33章とほぼ同じ内容の預言が取り上げられています。つまり予言者の見張りの務めは、3回も繰り返して書かれたことになるのです。ある意味で、エゼキエルのバビロン捕囚民への預言のあり方、預言の仕方を示しているとも言われています。旧約学者によると3章の預言と18章の預言の元々はこの33章の預言の単元にはいっていたかもしれないとする学者もいます。しかし、こうしてエゼキエル書として書かれた時には、3箇所に書かれたとされています。

 1節から分かりますように、預言の書、特にエゼキエルは上手な譬えを使います。この伝統はもちろん、イエス様の譬えを用いられた宣教に多いに引き継がれました。本日の33章の見張りの譬えは、解説の必要がないほど、分かる安いと思います。イスラエルのみならず、当時の中近東の町は、城壁に囲まれた住宅地と市街地、そしてその外に、畑や放牧地がありました。したがって貴族以外の多くの農業や商業に携わる方々は、城壁の外に出て畑を耕作したり、羊を放牧して飼ったりしたのです。商業の方も当然ですが、その売り物にする物資は、城壁の外にでて、仕入れて来るのであります。
 その時、これまた中近東の町はどこもそうですが、外敵が攻めて来たり、或いは盗賊の集団が攻め来たりのことがありました。その為にそれぞれの町には、町から任命された見張りが置かれていました。彼らの使命と仕事は非常に大切でした。見張りは、外敵が攻めてきたり、強盗の集団が来たりするのを見付けて、直ちに角笛、これは羊の角を加工したラッパであったそうですが、それを吹きました。
 この角笛のラッパの音を聞いて、城壁の外にいた人は、いちもくさんに城壁の内に隠れたり、また創世記では井戸の中に隠れたりと、自分の身の安全を図ったのです。そして、4節に在る通り、見張りが角笛を吹いてもその音を注意深く聞かず、又聞いても軽んじて、逃げず隠れない場合、その人は外敵に殺され、また強盗の集団に、裸にされてすべてを取られたのです。その場合は当然ですが、その責任はラッパの音を聞いても音に対処しなかった人、逃げなかった人にあります。しかし、6節にあるように、もし見張りが剣が来るのをみても、つまり外敵や強盗の集団がくるのを見ても、たいしたことはないと判断して、ラッパの角笛を吹かない時、その責任はラッパを吹かなかった見張りにあるのです。これは別に説明の必要がなく、城壁の町という伝統とがほとんど無い日本の私達でも想像力で十二分に理解できることです。

 ところでこの33章エゼキエルの譬えは、このような中近東の町の見張りの譬えを用いつつ、独自のところがあります。気づかれると思いますが、2節に「一人の人を選んで見張りとする」とあります。これはあり得ません。見張りは夜中中の見張りですので1人では負うのは不可能です。しかし、ここには1人とあります。そして、本日は読まなかったのですが、7節には、なんと「私はあなた(つまりエゼキエル)を、イスラエルの家の見張りとした」とあります。この見張りは、主なる神さまに任命されたエゼキエル当人であると最初から示されているのです。私達はイスラエルの見張りとされたエゼキエルの働きをここに知ることとなります。

 さて33章は全体が、このエゼキエルが委託された見張りの務めが書かれています。33章は33節までなる長い章になっています。しかし、ここにエゼキエルがバビロンに捕囚された捕囚民の見張りとして立って行き、また預言して行く姿とその宣教の原型があるとされます。バビロンに捕囚されたイスラエル捕囚民は、だいたい4つのグループがあったろうとされます。1つは、イスラエルからバビロンに連行されて、もうすべてを諦め、エゼキエルから何を言われも聞き逃す諦めグループです。次に、エゼキエルが何を語っても、自分たちの運命を嘆いて、すべてを疑ってかかる懐疑のグループです。次に、このバビロン連行の破局の時こそ、モーセの律法を守り、聖書をきちんと読み、聖書の伝道を厳格に守っていこうとするグループです。そして、1番目に似ていますが、絶望して挫折して流されるがままに生活するグループです。
 エゼキエル書の難しさは、このようにエゼキエルの対する人々が、エルサレムにいるエレミヤと違って、余りにも広範囲に広いことです。何を語っても聞き逃す人、すべてを疑って係る人、今こそ厳格に律法を守ろうとする人、そして完全に絶望して、何もしない人達です。これらの人達にそれでも、神のことばを語っていくことを委託されたエゼキエルは、確かに難しい預言者でもあり、難しい見張りの務めをもった預言者であったのです。
 これらのバビロンの捕囚された人々にエゼキエルは何を語れば良かったのか。旧約聖書には、ヨナ書があって、イスラエル10部族を滅ぼした、アッシリの首都ニネベに伝道するように言われた預言者がいます。ヨナ書は神様の使命から逃げだした預言者で有名です。しかし、実はそのヨナ書の本来の役目は、イスラエルの10部族を滅ぼすアッシリアに主の御言葉を語るのか否かが、大きな課題でした。そして預言者ヨナは、最初は神の務めを拒絶します。しかし、魚のお腹の中で悔い改めて、アッシリアの首都ニネベで「ニネベは滅びる、悔い改めよ」と神の言葉を伝えるのです。すると、ニネベの人は何と家畜から人間まで、主を信じ、悔い改めたのです。

 エゼキエルはしかし、このヨナのように、ただ神様の言葉をそのまま伝えるだけの預言はできなかったのです。と言うよりエゼキエルの人間味と優しさは、そうできなかったのです。エゼキエルは、同胞イスラエルに神の言葉を伝えるのであり、それは、ただ繰り返して神の言葉を語るのみ、審判を語る分けにはいかなかったのです。なんとしても、バビロンに連行されたイスラエルを救いたいのです。エゼキエルは、33章18、19節のことばをもって、バビロンのイスラエルに向かいます。それは「正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ、19節、また悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それ故に彼は生きる」です。
 これは一見当たり前ですが、その背景があります。それはバビロンの捕囚民は、もう神に捨てられた、もう神は共にいない、自分たちには死という審判があるのみだという絶望にあります。しかし、正しい人でも悪をなせば審判され、悪人でも悪を離れてまた正義と恵みを行うなら、主なる神は生かし、祝福されるということです。別の言い方をすると33章11節です。「私は悪人が死ぬのを喜ばない。悪人がその道から立ち帰って、生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前達の悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前達は死んでよいだろうか」です。

 私はここを読みますと、エゼキエルの預言の恵みというか、最後まで主への「立ち帰り」を求めて止まない予言者の姿を見ます。これは、この前から読んでいますガンジーさんの生涯に平行がありました。ガンジーさんの運動が広まり、いよいよインドが独立する時、ヒンズー教とイスラム教の対立が激化し、にっちもさっちも行かなくなり時がありました。ガンジーさんは、ヒンズー教とイスラム教の間に立って仲介をしますが、受入られません。ガンジーさんは「たといインドが独立しても、イスラム教とヒンズー教が、喧嘩しているインドの独立はいらない」とします。そして1922年、何と断食をするのです。今では考えられません。そして最終的にはガンジーさんの願いは、パキスタンの独立によって、ヒンズー教とイスラム教は分かれた国となります。しかし、ガンジーさんの生きていた時には、ガンジーさんの断食で、原理主義のヒンズー教と原理主義のイスラム教は、ガンジーさんが断食している、争いはやめたとしてなんと一時期、争いを本当に止めるのです。正直あり得ない話しですが、事実の実際の歴史の話しで、これでインドは実際に独立に成功したのです。

 ここまでくると私達は、真理というのは、そう言う事なのだろうと思います。これはまさにイエス様の十字架の方法でもあると気づかれるのです。十字架は結局、人間と神を和解させ、共にあることができるために、イエス様がその命を、落とされた姿です。イエス様は断食でなくて、十字架だったことになります。それはエゼキエルで言うと、絶望するバビロン捕囚民に、たとい捕囚されてもまだ遅くない、最後まで「立ち帰れ、立ち帰れ」を連呼しての預言であったのです。これはヨナの方法とは違うのだと思います。預言者はこうしていつも、十字架を伴うのです。そしてそこから、主が共にあるということが、理解され、信じられて行くのです。エゼキエルはイスラエルから1000q離れたバビロンでも、しかし主なる神は、異国の地に共にいます。エゼキエルは主なる神様によって見張りとして立てられ、見張りは神の言葉をただ語るのでなく、十字架をもって語ると言えるでしょう。そこには、いろいろな失敗があり、いろいろな失望・絶望があります。しかし、それらを用いて、主は語られるのです。
 イエス様の召された私達一人一人が、実は、様々な人々に対しています。神を全く無視する人、狂信的に御言葉を信じる人、完全に絶望している人。その中にあって、神の言葉がどのように伝わるのか。聖霊のみぞ導かれるのです。しかしその聖霊の導きには、それぞれの私たちに与えられた人生の十字架をもって、証しして行くしかないのだと示されます。無視する人、狂信的な人、絶望の人があります。しかし私たちが十字架を背負って、語るとき、聖霊はそれを用いてくださるのです。コロナ感染の中、なお主なる神さまへの希望、イエス様の十字架と復活の力を信じて歩むことを示されます。この時、私たちは隣人に対する血の責任を果たしていくのだと信じます。

 祈ります。「天の父よ、み名をあがめます。鹿児島も昨日は166人の感染です。いよいよ第6波の中にあります。今度のコロナは少しだけ毒性が弱いようです。どうか、酷くならないように守ってください。特に医療関係者を守ってください。転入の宮内さん、求道の方、病気療養の方、ご高齢の守りをおいてください。子ども園、児童クラブの保育を守ってください。会堂の耐震リフォーム、1年になろうとするミャンマーの平和を導きください。み名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   ヨハネの黙示録10章1〜7節     2022年1月9日
            「 秘められた計画 」   
 本日は、2022年の2回目の礼拝が集まってなせる礼拝を、主に感謝致します。本日は礼拝後に、臨時総会・選挙総会があり、2022年度の執事・責任役員と監事さんの選挙をします。どうか、相応しい人が選出されますように、主に祈ります。
 さて、いよいよ第6波が来たと言われています。鹿児島は先週の5日の水曜に19人、6日の木曜日には61人、7日の金曜日は110名となりました。昨日が180人でした。ただし119人は奄美大島です。一昨日で9325人の感染となっています。離島が非常に多いと言うことでしょうか、鹿児島県の感染状況段階は今だ1です。明後日11日には改定されるとされています。続けて用心して歩むのみです。私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、アロンの孫であるピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて本日は第2週ですので、いつものようにヨハネの黙示録から聞いて行きます。本日は黙示録の10章の前半から聞いていきます。ここは黙示録9章13節に第6の天使がラッパを吹き、11章15節に第7の天使がラッパを吹いています。その第6と第7のラッパの間の出来事となります。実は、どうして黙示録では、第6の天使がラッパを吹き、すぐに第7の天使がラッパを吹かないのか、と言いたいです。私はどちらかというと気が短く、待つのが嫌いなタイプです。美味しいものを食べる為に並んで待つというのは、一度もしたことがありません。ここが美味しい店と聞いて、そこに行って人が並んでいるとだめだこりゃと、近くのすぐ食べることのできる店に回ります。並んで美味しいものを食べるという考えがないのです。ですからこの黙示録で天使が第6のラッパを吹いて、本日の箇所のように、第7のラッパを吹くまでの言ってみれば幕間劇ようなのが長く続くのは、なんでか、どうしてかと思ってしまうのです。しかし、聖書は神の言葉ですので、この幕間劇様な間の出来事にも、主は又大切な意味を持たせておられるのだと思います。

 1節にあるように、長老ヨハネは、第6のラッパが吹かれて、起こる出来事を書いています。それは、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から下ってくるという幻です。この時「頭には虹があり、顔が太陽であり、足は火の柱であった」とあります。全く分けがわかりません。しかし、旧約ヘブライ書をよく読まれている方は、雲をまとい、頭に虹があり、顔が太陽、足は火の柱となると預言捨ダニエル7章13節の「雲に載って来る人の子」やノアの洪水の虹、また太陽の顔や足が火であるというのは、エゼキエルが1章で見た神の栄光の4つの生き物の幻と似ている所があります。
 2節にはこの天使は、右足が海にあり、左足が地を踏まえたとあり、これはこの天使が地上のすべての事に係わるということを象徴するとされています。この天使が、小さい巻物を持っていました。小さいと言うとどのくらい小さいのかです。なんと本日は読みませんでしたが、9節には「食べてしまえ」とあります。食べられるくらいの小ささだったことになります。今はミニチュアのものが何でもあり、昔は自動車とかでしたが、ドール人形のセットには、冷蔵庫やテレビや机や本棚の細かい精密で小さいのがあります。あんなものだったのでしょうか。長老ヨハネはそのような小さい巻物を見たことになります。ただし、ここにはその小さい巻物に、何が書いているのか、それを長老ヨハネが読んだのかは一切書いてありません。小さい巻物が渡されることが大切です。実は8節には、開かれた巻物があって、この小さい巻物との関係もよくわかっていません。しかし、8節には、海と地の上に立っている天使が、開かれた巻物をもっていますので、8節のこの開かれた巻物は、本日の2節の小さい巻物のことであろうとされています。

 3節には、面白いことに、地と海に足をかける天使は、獅子がほえるような大声で叫び、その時、7つの雷がなったとされています。雷は旧約聖書にもよくでてきます。しかし、7つの雷が鳴るのは、ここだけとされます。4節を見るとこの7つの雷が鳴るだけでなく、語ったとされます。まずもって、雷が語るものであるのか。不思議千万ですが、この当たりは黙示録の黙示録たるゆえんとなるでしょう。何度も語りますが、ヨハネ黙示録は、長老ヨハネが紀元1世紀終わりに係る時、迫害に苦しむ7つの教会を励ますための手紙です。まずはヨハネの捕らえてられているエーゲ海のパトモスト島から、この手紙は脱出し、7つの教会に届かないといけません。ローマの検閲を潜らないといけないのです。雷が語ったとか、海と地を股にかけた怪人が、太陽の顔と火の柱の足をもっていたとか。ローマの検閲官は「ははん、とうとう長老ヨハネは投獄で頭がおかしくなったぞ、かわいそうに」というところです。
 いつも語りますが、今毎週金曜夜に、ズームのミャンマーのクーデターのための祈り会があります。とうとう2月1日で1年間になろうとしています。この前は、民衆派の人々が1万人ほど刑務所に入れられていますが、その刑務所からの手紙が語られ読まれていました。司会者は、この手紙は絶対SNSで広めないでください。この手紙が軍にばれるとこの著者は酷い目に会うでしょうといわれます。刑務所を無事に脱出した手紙には「なんとしてもこの革命を成功させてほしい、くじけないでほしい、頑張って戦ってほしい」と日本語訳にはありました。民衆派の戦いは革命とは全く違うのでないかと思います。軍のクーデターに反対する手紙が「革命の勧め」になっているのは本当はどうかなです。しかし、もしかして、黙示録的なカモフラージュかもと言えます。これは、軍への反対ではありません。どこかの国の革命のお話しではないですか、と逃げることができるのでしょうか。

 4節には、長老ヨハネはこの7つの雷の声を書き留めようとしたとあります。しかしなんと、天からの声は「雷が語ったことは、秘めておけ。それを書き留めてはいけない」でした。「あれ、どうなっているのか」と思います。長老ヨハネは、天使からのまた神様からの又屠られた小羊からの啓示を、皆に知らせるために、幻を見せられたのです。しかし、天からの声はその反対で「雷の語ったことは、秘めておけ。それを書き留めては行けない」というのです。私達は多いに混乱します。なぜ、ここで黙示録は、神の幻の啓示であり、神のことばの語りであるのに、これを「書き止めてはならない」すなわち言い広めてはならないのか。長老ヨハネは困ったと思うのです。何の為に自分は立てられ、何の幻であるのかとなります。長老ヨハネは何の為にパトモス島で召されたのかです。しかし、これはあるのではないでしょうか。そしてこれが現実ではないでしょうか。旧約聖書にはいくつかの例を挙げることができます。まず、預言者の筆頭イザヤです。イザヤは召命された時に、有名なイザヤ6章9節が語られます。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」となっています。これでは、イザヤは何のために召されたのですか。神の言葉を語れと召されました。しかし、民は理解するな、民は悟るなというのです。召命を受けたイザヤは、はたと困ったと思うのです。

 また、せっかく一生懸命努力して、仕事をしているのに、全く理解されず、皆に干されて、馬鹿されて、何のための仕事なのかというのがあります。その自分の存在意義が全く感じられない仕事があるものです。自分よりもはるかによくできる人が、この仕事をしないで、こともあろうに全く不向きで、その賜物もないのに、それに当たることがあります。このような時に私たちは、どうしたらいいのか。何を考えたらいいのでしょう。実際どうしたらいいのか分かりません。ある方はもうやめたとなるでしょう。ある方は適当にするしかないとなるでしょう。ある方はそれでもじっと我慢して、食うためだ仕方ないとしてそれでも続けるかもです。キリスト者は、幸いなことにイザヤと長老ヨハネを知っているというか、示されていると言っていいでしょう。イザヤはそれでも、預言者として立っていきました。誰も信じてくれない預言者と言うは、預言者であるのか。私たちは誰も信じてくれない預言者をどう見るでしょうか。

 そうです。イザヤは生きている時は、言ってみれば誰も信じてくれない預言者として預言活動をしたのです。それは、神様が召されたというそこに集中したのだと思います。もしかしたら、神様はイザヤが預言の成果や結果ばかりを気にして、本当の預言者から脱落しないように、あえて誰も信じない、誰も理解してくれない預言者として立てたのかもしれません。もちろんイザヤはその生涯の終わり近くに、アッシリア軍がエルサレムを囲んだ時に、見事に185000人の軍隊を祈って撃退させました。しかしある意味でこの一見の最後の大成功は、いってみれば、預言活動40年間の誰も信じてくれない預言活動の最後の成果かもしれないのです。
 5,6,7,節をみると、長老ヨハネはどうしたのでしょうか。聖書は、天使が右手を上げて、これは誓の動作とされますが「世々限りなく生きておられる方、つまり屠られた小羊、主なる神に対して」誓ったのです。その方は又「天と地と海とその中にあるものを創造された方」に誓いました。7節にあるように、その誓いは「もう時がない。第7の天使がラッパを吹く時、神の秘められた計画は成就する」です。つまり、これは長老ヨハネの見る幻は成就します。つまり、秘められた計画は、実現するということです。7つの雷が語ったこと、書き留めてはいけないと言われたことは、実は皆に知らされ、皆の前になされ、実現しますということになります。

 私たちはここで、イエス様が奇跡をなさるごとに「このことを誰にも言うな」と言われたことを重ねていいのだと思います。イエス様は福音を語るために、十字架において私たちの罪を背負い、私たちの弱さを背負うために来られたのです。これは最も大切な福音であり、誰にも知らせられるべきことです。しかし、イエス様は弟子たちに「語るな」と言われます。最も知らせなければならないことは、秘められなければならない。いろいろな取り方がありますが、やはりこれは正しく受け止めるということ、正しく語ると言う事が入っているのだと思います。それは十字架において語るということです。「自分の僕である預言者」が語る福音、秘められた計画は成就し、十字架において語られるのです。福音は十字架において語られ、広められるのです。
 それは、ミャンマーの民主化が多くの犠牲において、築きあげられていくのと並行するのだと思います。「秘められた計画は必ず主にあって成就する」。それは平和の計画も同じです。しかし、そこには多くの十字架があるのです。教会の出来事はいつも十字架と共に「書き留めてはならない、しかし、書き留めなければならない。」「伝えてはならない。しかし、伝えていかねばならない」主の委託です。そういうイザヤや長老ヨハネが直面した出来事においてなされます。結果や成果を離れて、示されたことをなしていく。主の恵みの十字架の信仰において、明らかにされていくのです。共にいてくださる主の恵みを信じて、又1年間自分の委託をなしていきます。

 祈ります。「天の父、主なる神よ、み名をあがめます。とうとう第6波が来ています。どうか、大きな感染にならないように祈ります。これからの選挙総会を守り導きください。求道者、病気療養の方、ご高齢の方守ってください。子ども園、児童クラブを感染から守ってください。会堂建築の守り、ミャンマーの平和を導きください。罪多い、私たちの1週間を守り導ください。み名によって祈ります。アーメン」


 教会 説教   創世記1章1〜5節           2022年1月2日
            「 初めに 神は 」   新年礼拝
 新年明けまして、おめでとうございます。本日は2022年の最初の新年礼拝を、集まって献げられますこと感謝です。コロナ感染は25日に沖永良部島での感染が2名ありその後は、29日と30日に一人ずつの感染となり、大みそかと元旦はなく9124人となっています。警戒感染レベルは未だ1の状態です。東京、大阪は徐々にふえていますが、大感染とまではいってないようです。何度も言われますように、大方の見方はワクチンの接種の抗体効果がなくなると増えるとされ、オミクロンの株もでき、全体的には段々増えております。ただただこのまま行ってくれることを祈るのみです。続けて私達に出来ることはマスク着用、アルコールの手洗い、3密を避け、睡眠を取り、免疫をつけて歩むことなどです。油断せずに歩みましょう。神様は祈りを聞いてくださいます。続けて罪を告白し、アロンの孫であるピネハスの疫病の収束の祈り、詩編106編30節の守りの祈りをなしていきましょう。
 さて、私も2月ごろに第6波のピークが来るでしょうということで、今回は父方と母方のお墓詣りと親戚周りと今がチャンスと行ってきました。また弟にも会ってきました。それぞれに、感染に注意されて生活されていましたが、やはりお世話になったそれぞれの本家の親戚のお墓詣りは、感謝です。心が落ち着きます。2年ぶりでしたので、それぞれの親戚のお年を召した方は老人ホームや介護施施設に入っていました。ホームや介護施設はさすがにまだ、はいれませんので、それぞれの従妹たちの話を聞く程度でした。しかし、それぞれの親戚の動向が聞けるのは嬉しいものです。召天された叔父さん叔母さんたちの姿を思い起こし、迷惑をかけたことやいろいろな話を聞けたことを思い出すのも、また嬉しいひと時でした。これからコロナ感染はどうなるのかですが、第6波が来ることは確かでしょう。できれば、第5波のように大きくならないことを祈るのみです。

 さて、聖書は新年礼拝ですので、年の初めに関係のある所を思い、久しぶりに創世記1章を開いてみました。ここは聞かれたかもですが、同志社大学を設立した新島襄がこの聖書のこの箇所を聞いて、教会の門を叩いたと伝えらえています。それほどに読む力というか、感受性の高い方は、ピンとくるのだと思います。私たちはそこまでいきませんが「初めに神は天地を創造された」。そこには、いろいろな思いが交錯するのだと思います。
 現代に置きましては、宇宙の誕生が進化論というか、自然が自分の力で今の状態を造りだしたという事がまことしやかに言われます。この立場では、神が天地の造り主であるというは、子供にも時々馬鹿にされるのかも知れません。しかし、私たちは自分の人生を歩んでいくと、複雑な人間関係の中にありますと、自然科学の説明がすべての現象を説明するのかとなるとどうもそうとは言えません。返って、昔からの言い伝えやことわざの方が的確に、現象を捕らえていることがあります。宇宙の生成の科学的な説明から、聖書の記述はおかしいと言っても、次元が全く違うわけです。
 例えばここに私が今立っていますが、これは私の足の骨と足の筋肉や足の筋が緊張して、私を支えているのです、というのが科学的な説明になります。しかし、本当の説明は「私は、聖書を説き、皆さんと共に新年礼拝をするためにここに立っている」というのが、正しい説明だと思うのです。天地創造を神に帰するのはおかしいと言っても、神が創造されたというのが、一番よく現象を説明し、それに意味を与え、生きる力を与えるとすれば、これは科学的な説明だけでは足りないのです。

 実は、この創世記ですが、この部分が伝承され、ここが神のことばとして真剣に受けとめられるようになったのは、旧約学者がいうには、バビロン捕囚の時であろうとされます。もちろん伝承的にはモーセの伝承になるのです。それがきちんと神のことばとして、イスラエルの人々に受け止められたということです。つまり、天地創造の信仰は、バビロンに捕囚され、バビロンにエルサレム神殿が破壊され、イスラエルの歴史のどん底において、その時に初めて、モーセの天地創造の伝承が、本当に神のことばだと受け止められたというのです。
 これはそうではないでしょうか。私たちが本当に聖書のことばを読み、聖書から自分の指針を聞き、真理を聞き、自分のこれからの人生の方向を探る時はいつか。それは確かに自分が苦しい時であり、自分が苦難にあっている時であり、自分がどうしていいか分からない時だと思うのです。順風満帆で、生きる方向がはっきりしており、何の悩みも、苦労もない時に、私たちは聖書のことばを、神のことばとして聞くでしょうか。なにか伝説として、伝えられた貴い伝承として聞くかもしれない。しかし、聖書を神のことばとし、自分の人生の指針とする時は、これはやはり自分の方向に悩み、自分が大きな病気を抱え、どうしていいかわからない時であります。

 「神が天地を創造された」とのみ言葉は、やはり、エルサレム神殿が破壊され、自分たちはバビロンに連行され、今までの自分たちの仕事が全部0にされた時でありましょう。生きる基盤や信じてきたものが、全く信用できなくなり、どうしていいかわからない時、今までの信仰ではどうにも対処できない時であると思います。「神が天地を創造された」は、科学的な天地の宇宙的な発生や現世界の現象の解明ではない。自分がいかに生きるべきか、これからどうするのか、その指針ということになります。

 聖書は「地は混沌であった」とします。混沌は、いろいろな意味をこれまで聞かれてきたと思います。一方に空という意味があり、他方に混乱の意味があります。実はヘブライ語でこの混沌は「トーフー」と発音しますので、だじゃれの好きなヘブライ語の先生は、豆腐のように柔らかくて、形がくずれるということだ、とまで言われたことがあります。実は、天地は私たちが住んでいるこの地球の基盤ですが、なんのことはない。軟弱な基盤なのです。それは地震の説明の時に、私たちの地面が実はプレートの上にあって、動いており、地震は地球の構造からは当たり前のことであると聞かれた通りです。

 そして、これは単に私たちが立っているこの地上の基盤のみならず、私たちの心や精神もまた心理学的には、かなりあやふやであるともいえると思います。それは、あんなに元気だった方がふとしたことで崩れ、不眠症となり、不安症になるのを聞く通りです。あんなに仲の良かった夫妻が離婚されると言った具合です。いったい誰が、自分は絶対大丈夫です。自分は心だけは頑丈ですとか言えるでしょうか。私たちは、基盤の地球にしても、なんと自分の心にしても、まさにヘブライ語のトーフー(混沌)であり、これは日本語の豆腐のように、ある程度以上の力が働くとあっというまに壊れるのです。豆腐は地面に落とすとたちどころにその形が崩れるのです。

 イスラエルもまた、モーセ、ダビデ、ソロモンと来て、神殿を作って、主なる神を中心にした神政一致体制を作れたかのように見えます。何のことはない。その背後に偶像礼拝がはびこり、信仰は形骸化し、主なる神様の与えられた恵みのノアの契約、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約は、ことごとく破棄されていくのです。イスラエルは全世界に主なる神を伝えるどこころか、自分たちは神の民として、いばりちらし、神様の特権の階級に自分はあるとしたのです。予言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの活躍もその時は、良いのですが、すぐに忘れ去られていきました。
 その時です。「神は天地を造られた。地は混沌であった」そして、さらに聖書は「闇が深淵の表にあった」と響くのです。何と神さまの造られた天地は闇に覆われているというのです。私たちは今、これでもかこれでもかとコロナに始まる闇の中にあります。さらに追い打ちかけるのかのように、アフガンやミャンマーの出来事、さらにロシアとウクライナ、さらにアメリカと中国といったところで、不安定材料と闇の材料は事欠きません。まさに今は闇の中にあると言っても、後の時代の人は、否定しないと思うのです。これは、イスラエルのバビロン時代と状況が似ているのです。まさに、混沌であり闇でもある。しかし、まさにここに主の言葉が発せられるのです。

 3節に「主は光あれ」と言われます。私たちはここに、混沌と闇は、人間の力ではどうしようもないということを聞いていいのだと思います。この混沌と闇の解決、その導きの指針は、神から発出される神のことばです。「光あれ」のことばは、空気の振動でないのです。神の言葉はことを起こすエネルギーであり、ことがらを起こす出来事です。「光あれ」のこの言葉は、人間が考え出したことではありません。主なる神が言われ、歴史に介入されたことです。人間は「光あれ」を言うことができないのです。つまりこれは全くの上からの神様からの恵みです。
 神の言葉の「光あれ」は、実際に「光」を創造しました。神の言葉は状況や現象を起こすのです。もちろん言葉のすごさは、ヨハネ伝1章1節がここを引用して「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」という普遍的、敷衍的な説明もあります。本当に考えれば考えるほど、言葉の不思議さを思います。言葉によって、わたしたちは事態を認識します。言葉がなければ、自分も私も、他人も関係も何も分かりません。言葉が世界のことを私たちに知らせてくれるということは、言葉は神であると言っても過言でないでしょう。人間は言葉を使う動物であるとはよく言ったものです。言葉が確かに人間と動物を分けているところが大きいです。

 しかし、ここでは、光あれという言葉によって、光がある。つまり事態が収束され、混沌と闇は、その位置と場所を与えられるのです。混沌と闇は、光が与えられることで、自分の位置を示されるのです。つまり、神の言葉でわたしたちは混沌と闇を理解し、これと対峙できるのです。やみくもに戦うのではなくて、方法をもって対処し、戦うのです。神様は恵みによって、光つまりことばを与えて、私たちに自分の位置を示されるのです。何をやってもうまくいかず、何をする気力がなくなる。その時どうするのか。どうしたらいいのか。何か、方法があるのか。
 聖書、創世記は「神が天地を創造された」ところを示すのだと思います。そして、その創造がなおうまくいかない時、主なる神様は言葉を発せられるのです。「光あれ」です。そして、わたしたちはこの光がすでに、イエス様として光ったことを知らされています。そして、光であるイエス様は、神がよしとされた事態なのです。

 今はまだ光が見えません。全部が混沌と闇にあるように見えます。しかし、神の光は発せられ、主の十字架はなされ、復活は起こりました。私たちは常に原点に復帰し、信仰に戻れと示されているのです。結果は良くなかった。結果はとんでもなかった。しかし、インマヌエルの神、主なるイエス様は、なお1タラントンを使えと言われるのです。私たちは、最後の最後まで、1タラントンを用いて生きるのです。結果を主に委ね、2022年も十字架の恵みに応えて歩みましょう。

 祈ります。「天の父よ、主なる神よ、み名をあがめます。コロナ感染はいよいよまた第6波を迎えそうです。主よ、どうか、大きな波にならないように抑えてください。続けて22年も歩みを導きください。求道の方、病気療養の方、ご高齢の方支えてください。こども園と児童クラブを支えてください。主のみ前にただただ謙遜に歩ませてください。十字架の主の恵みに応える1年としてください。アフガン、ミャンマーの平和を来たらせてください。み名によって祈りますアーメン」