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2022年2月14日
昨日、ふと本棚から100de名著の『老い』をみてみた。
ボーボワールの本の解説であった。
解説は有名な上野千鶴子さんである。
最後の頁のところに、サルトルやボーボワールは
安楽死を認めただろうかという文があった。
結論は、サルトルもボーボワールも安楽死は
「ノン(だめ)」と言ったであろうとある。絶対的な自由を
唱えた2人であるが、やはりノンであろうと言う。
なぜなら、人は生まれて来る時、自分で決断して
生まれてないからという。
確かに生まれてくる時、自分で決断しなかったので
あるから、死ぬ時のみ、自分で決断し、結論するのはおかしい。
命は与えられたものであり、生きている限り、生かされて
いるのである。
なんとか、生きてほしい。
2021年12月28日
これは、自殺を留める力になるのかどうかわからないのですが、
書いておきます。
実は、インドの独立のガンジーさんの自伝に、自殺がでてきます。
そのとき、ガンジーさんは、ヒンズー教の輪廻転生を思い、
死んでもまた、生まれ変わるなら、死んでも同じでないかと
考えたふしがあります。
ヒンズー教では、悟りに達しないとこの輪廻転生から
脱出できないそうです。というか、死んで生きて、又死んで生きて
の輪廻から解放されるには、悟らないとだめのようです。
つまり自殺は、苦しみからの解放の解決に
ならないようです。なぜならまた生まれて苦しむことになるからです。
今を、懸命に生きるヨーガ(行為)によって、脱出
するしかないのです。
どうか、今そのものを生きてください。神様の十字架の守りを祈ります。
神様の時を待ってください。
2021年6月29日
今朝の南日本新聞にまた自殺の予防が乗っていた。
お医者さんのようである。堂園はるひこ先生と
あった。 自殺を脳の疲労とされている。
自殺の前に、鬱病があるとのこと。
まず、体を休める。とにかくすべてを休めとある。
次に、旅に出る。
次に、散歩する。
次に、心地よい、微笑みの機会を得ることを人生の
目的にしてほしいとあった。
2021年6月23日
沖縄慰霊の日である。
自殺と関係ない日かもしれないが、数日前に今、女性の自殺が多く
なっているとの特別番組があった。
AIを使って分析しているとのことであった。
しかしその統括責任者が「自殺対策はすべて事後対策なのです」
と言われていた。AIの分析も、すべて死んで行った人の分析であり、
今、苦難の中にある方には届かないのだ。
時間帯は、朝の自殺が多いこと、学生さんは放課後
が多いとのことである。
ある牧師の文集を見ていたら、牧師でも、教会を辞めて
次の教会が決まるまでの時、なかなか決まらず、自殺が頭を
よぎったとあった。
確かに、自分が必要とされてないということは、厳しい状況である。
あの中村哲先生も、自分が必要とされているからアフガンに
いるのです、と言われていた。必要というのは、大事である。
どうか、自殺を考える方は、自分を必要とする方があれば、どうか、
命を保ってください。子どもでも、仕事仲間でも、しゃべり友達
でも、いいのではないでしょうか。
そもそも自分が生きていることは、生かされてあることであり、
それは神様の必要の中にあるのです。
どうか、今は苦しくても、明日があることを、思いだして、
歩まれてください。祈ります。
2020年10月26日
自殺者が多くなっていることで、新聞にも多くの記事が載るようになった。
本日10/26の南日本新聞には、NPO法人 メンタルレスキュー理事長の下園壮太 理事長の
記事を見た。
自殺する方の1/3は、全く理由がわからない。1/3は自殺を考える程のものでない
が、小さい悩み体験が近くにある。 1/3は、確かにその理由と思われる、だそうだ。
そして、自殺の前にあるのが必ずウツ病だとある。
1番の対策はとにかく寝る。薬を使ってでも寝ることだそうだ。
2番は、相談する。だそうだ。
しかし相談の時に突然精神科を尋ねるのは、ハードルが高い。そこで、下園先生は、
地域包括センターに連絡をして、自分は精神科に係った方がいいのかを相談
するがのがよい、とあった。該当される方は、どうか、すぐに電話されてください。
099−813−0880(鴨池南)です。099−882−8825(鹿児島北)
2020年10月13日
先週は滅多に見ないのですが『ハートネットB面』という傷害を持った方のNHKのEテレを見ておりました。そこに脊椎損傷を突然患って、下半身から下の感覚を全部無くした方の語りがでてきました。自分は自分で歩けない。掃除もヘルパーの方がする。自分は何の役にもたたない。結婚も無理かもしれない。何度も何度も自殺を願い、決行しようとされたそうです。
その時「待てよ、自殺をしたいという思いは、本当に自分の考えか」と思ったそうです。「自分が役に立たないというのは、自分の考えでなくて、社会が自分にしている評価を、自分がただ取り入れて、苦しんでいるだけでないのか」と閃いたのだそうです。
自殺は、自分の考えでなく、社会の考えだったのです。聖書で言う「命は神様が与えられた」というは、まさにこのようなことです。神様に造られた体は生きたいと言っているのです。社会や人の基準でなくて、神様の基準と愛に従うことです。
2012年8月5日
2年ぶりの更新である。自殺を考えている方が、もしこのページに来られたら、
死ぬ前に、フランクルの『夜と霧』を読んでからにしたらいいとお勧めします。
みずず書房で、1800円です。図書館に行ってもいいです。
死ぬ前に一度読んで見る価値のある本です。
人生には意味の無いことはないと書いてあります。
全てのものに意味があります。空の空はないです。
2010年8月15日 (戦争を契機に)
自殺防止の考え方。私が分からなくて死にたい方へ、
池田晶子氏が提唱されたように、「私」は2種類ある。1つは社会的な私。つまり、お金が無くなり、経済的に破滅し、
妻・夫を持ち、子供がいて、会社に責任を持つ私。 借金を抱え、どうにもならない私、自分捜しとしての私。
病気をもち、死ぬかも知れない私。
1つは、聖書の言う本当の私。池田晶子氏が言われる、形而上学の「私」。社会の判断を受けず、
妻や夫持ち、子供がおり、仕事を持つ私を見ている私。借金をし、病気している私を見ている私。
霊肉一元論の間違い。交通事故で、足や手を失っても私が変わらないのはなぜ。
唯脳論の間違い。脳はなぜ、私は私であると判断できるのか。物質だけだと矛盾する。私と「私」が違うからできる現象。
まだ、私も、分からないのに、死んだらだめです。本当の「私」は死にません。ただ神様の恵みです。
2010年5月5日記入
1年間も更新していない。先月このHPを見て、教会を尋ねて下さった方があった。
詳細は書けないが、会社が倒産して全てを失われた。とうとう自殺を思いつかれた。
ふとインターネット喫茶に入り、グーグルに「鹿児島 自殺」と打ち込んだら、
このHPが9ページ目にあったとのことである。最後に、牧師にでも
話をしてみるか、と思われたとのことである。
ずっとそのままであったが、グーグルでは、だんだん前の方に行くらしい。
それにしても、何もしてあげることがない。
借金には、自己破産を勧めるしかなく、
生活はとりあえず、生活保護を勧めるしかない。
本当に、牧師のできることは、限られている。
この方は、どうなったのだろうか。「なんとか また
やって見ます」と去って行かれた。
主の御導きを祈るのみであった。
2009年3月12日記入
先日、NHKの09年2月21日に大阪で行われたハートフォーラム講演会の要約を流してみました。
気づいたことを書いて、自殺しようとされる方の歯止めに成ればと思います。
1,自殺は、8割が鬱病であり、自殺は病死であると理解すること。
2,日常の苦しみから、鬱病となり、自殺へと進む。自殺は鬱病の結果である。
3,40度の熱を持っている人に、人は「がんばれ何とかなる」と言わない。まず直せという。
4,鬱病か普通の落ち込みかの区別は、2週間、いつも楽しいことをやっても、気が
晴れなければ、鬱病を疑い、診断を受ける。
*自殺体質者への助言
1,人生は、短距離走でなく、長距離走である。いつまでも続く方法で仕事をする。
2,優先順位を付ける人が下手な人が成りやすい。回りの人は、優先順位を語る。
3,相談することは、恥ずかしいことでない。
4,一人で抱え込まない。
5,体調と鬱病は連携している。とにかく睡眠時間だけは注意して取る。
2005年1月27日
自殺の動機に、やはり、「死ねば全て無くなる。」と言うのが、大きいそうです。
イエス様は言われました。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」マタイ10章28節
死んでも実は、死なないのです。だから、生きている間は、生きるのです。
存在は、物質だけでなくて、非物質も存在します。心、精神、感情は、存在するけど
物質でないのです。だから、生かされています。大丈夫です。 2005年1月27日
2004年9月15日
しばらく休みました。自殺について語るときに、チェチェンでは、500人近い子供が、殺され、大阪の池田小学校の
宅間殺人犯の刑が施行されました。私も、贖罪してから死んでほしかった方です。命が相変わらず軽いです。
最近、池田晶子さんの書物を読んでいます。彼女は、なぜ人の命が軽くなったのか、と問うて、言葉が軽くなった
のでないか、と提唱されています。自分とは、「自分」が「分かる」と書きます。池田氏の提唱です。
自殺する前に、自分を、分かる、自分を知ってほしいです。それからでも遅くないです。
自殺されるかたの多くの理由は、死んだら、楽になる、無になると考えられています。(私の相談体験から)
でも、聖書では、そしてヘーゲルの弟子(?)池田晶子さんも、死んだらおしまいか、と問われています。
私があること、自分があることの不思議さは、宇宙より、オカルトより不思議な事なのです。
「私は、生きている、と私は思っている。」この時、前の「私」と、後の「私」の違いが分かりますか。
後の「私」は、自殺して死ぬでしょうか。
人は、最後は、自分の思った通りにしか生きません。人間とはこんなもんだ、と言う人は、
こんなもんの人生です。人間は、すばらしいと思った人は、すばらしい人生に生きるのです。
理想が、やはり必要なんです。 今回は、説教になって済みません。 2004年9月15日
2004年11月7日 (ここから鹿児島教会に移転しました)
最近7人の集団自殺がありました。毎日新聞の記事を見ると、この7人のうち1人は、7人一緒に死ぬ
とメディアに取り上げられるのでないか、考えたらしいです。自分が死ぬのもメデアを意識しています。
どうも、メディアに取り上げられなければ、生きがいが、得られないようです。自分の人生を自分が生きる
ことは、メディアが取り上げようが、取り上げまいが、自分の人生です。自分の人生は、自分しか生きられません。
自分が死ぬことは、この世の犯罪になりません。しかし、聖書では、殺人の罪です。人は、どうせ死がきます。
どんなにがんばっても、死ぬまでしかこの世では、生きられません。癌でも死にます。交通事故でも死にます。
そして、自然災害でも死にます。 神様から頂いたこの命、死ぬまで生きましょう。 2004年11月7日
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人はなぜ自殺するのか。私の短い14年間の牧師生活において、今まで、4名程「死にたい」を訴え来られました。それぞれ、
生きておられますが、潜在的にはもっと多く、言葉で表明できた方は、まだ、恵まれた方でしょう。
ある本によると、自殺の主な理由は、以下のように、書かれています。
1、「どうして自殺しては、いけないのか」 「なんで生きなければならないのか」。これらの基本的な答が、未だに出されていない。
2、何をやっても、刺激が無い。最後は、自殺しか、ないのでないか。「延々と」「繰り返し」これでは、死にたい。
3、自分は、いてもいなくても、どうでもいい存在で無いのか。自分の命は、軽いのでないか。
4、もしかして、自分は、鶏のブロイラーのように、ただ、生かされて肉にされるのかもしれない。人生の意味があるのか。
2002年12月10日
これらの理由は、切実であり、ひとつひとつ、取上げていきたいと思います。なお、初めに結論を言いますが、これらの
答は、私は、カール・バルト著、『教会教義学』第3巻 創造論 4分冊 55節「生の自由」のP155−192の『自殺』からの
引用です。バルトは、「教会は、自殺を防止する言葉もっているが、しかしそれが、有効に働く為には、その言葉を、
もう一度語ることを学ばなければならない」P.181と書いています。
主の教会が、自殺防止を、いま一度語り直すこと、聴き直すことを、このHPにて、私なりに、実現したいと思います。
先ず、1、「どうして、生きねばなら無いのか。」これにつては、バルトは明確に、この問いが、前提が、間違っていると言います。
「あなたは、生きなければならない。」「がんばらなければならない」これは、間違いだ。
聖書が示す言葉は、「あなたは、生きることを、許されている」である。生は、神様から与えられた自由である。
この世の生の主権者は、あなたでは無い。あなたの生のために責任を負うのは、主であって、あなたでない。
あなたから求められているのは、神への服従である。あなたは、生きる自由がある。そのことに反抗しては、
ならない、と言うのです。次は、2、3、4と書いていきます。 2002年12月10日 記入
2002年12月15日
2、「延々」と「繰り返し」の人生に飽きた。刺激が無い。こう言う人も多いようです。しかし、この考え方は、今は少し下火かもし
れません。なぜなら、今は、イラクとアメリカの戦争準備があるからです。また、戦争まで行かなくても、今は、ぼっとしている
と会社はつぶれ、リストラの嵐が吹いているからです。窓際族は、今は昔です。今は、これは大丈夫と言う会社の形は、殆ど
ありません。むしろ多くの人が、必死で、生きています。しかし、反対に、今度は経済自殺が、多いようです。
ここでも、バルトの言葉を語りましょう。バルトは、「人間の真の生の支配者が、神様とすれば、一体誰が、『自分の人生は、
成功だった』反対に、『自分の人生は、失敗だった』と言うことができるのか、と言います。一体誰が、『自分の人生は、意味
が無かった』反対に、『自分の人生は、意味がある』と言えるのか」と言うのです。神様が、もしおられるとすれば、この最
終決断を下すのは、神様です。神様だけが、命を私たちに貸与された方が、最終判断を下されるのです。ですから、私たち
は、与えられた命を、自由に、生きましょう。 「私たちは、私たちのものでなくて、神様のものです。」(カルバン)