はじめに
自分の力も顧みず、John Macquarrie の“Principles
of Chrisrtian Theology”second edition
1977 を訳しWEB上に公開し続ける事にしました。神学校を卒業して20年になろうとしています。
マッコーリィも書いているように、ブルトマン、バルト、ティリッヒの後は、いかなる神学が、
教会の宣教と伝道を導き、支えるのかと言う問いを私も、ずっと持ち続けてきました。
解答はありません。ただ、私は、実践神学よりも、それを支え生かす神学を求めて来ています。
そして、昔の神学である、マッコーリィのいう弁証論(apology)が、今の日本には、まだ必要
かと思います。マッコーリィは、すでに何冊か訳されていますが、全て“適応神学”(実践神学
部門)です。根本の哲学神学を、どう考えているのか、田舎牧師も味わってみたいのです。
訳は、下訳の域にも達していませんが、だいたいの方向(ベクトル)は、当てているつもりです。
能力のある方が、立派な日本語訳を成されることを祈ります。
いつものように、私は訳で飯を食う者でないので、著作権は放棄です。引用に値しませんが、
気にする方があるのであえて、書きました。
今回は、1章の概説のみです。またおそらく1年後に第1部の“哲学的神学”の部門ができ
るでしょう。楽しみにしてください。訳の中に、数字が入っていますが、日付です。田舎牧師
の営みの跡です。気にしないでください。それでは、訪問者の上に、主の祝福を祈ります。
もし、おかしな訳に気づかれたら、教えてください。
祈 平安 田渕 亮 戻る
Principles of Chiristian Theology
『キリスト教神学の原論』 Second edition
John Macqarrie
ジョン マッコーリイ
Charies Screibner's sons New York
チャールズ スクライバアー サン 出版 ニューヨーク
To the reverend John Knox
Baldwin Professor of Sacred Literture
in Union Theoligical Seminary 1943-1966
ジョン ノックス 牧師へ
バールディンの聖書文学教授
ユニオン神学校 1943−1966年
序
キリスト教神学とは一貫した全体としての教会の信仰を考えることを求める。その目的は、キリスト信仰の内的な一貫性を示すことではなく、つまり、構築され一致したいくつかの教義がいかなるものか、を示すのではない。多くの違った信仰と現代社会に参与する態度とともに、信仰の一貫性を提示することにある。もし、この仕事が、達成されるならば、信仰は、知的に保たれ、人間生活の全領域を統合できるであろう。
神学的な仕事というのは、何度も何度も繰り返し、新しい問題、新しい状況、新しい知識とともに、なされなければならない。その道にそって多くの落とし穴がある。070126
ある時は神学者は、教会の生きた信仰から遠く離れた思索に夢中になってしまう。ある時は、遙かに過ぎ去った象徴や神話に固執してしがみつく。またある時は、“同時代性”と“適切性”の悲しい願いの下に、キリスト教信仰を、流行している人気ある哲学に何が起こっているかといった暗い省察へと減じてしまう。神学者で、このすべての落とし穴を避ける事のできる者はいない。しかし、すべての神学がいくつかの欠陥を持つということは、神学的な課題から逃げ出したり、キリスト教的な生活における神学の場所を減じたりする理由にならない。神学は教会にとって避けがたく、たとえ神学が失敗するにしても、苦しい神学としても、神学をせねばならない。神学から逃れる弁解や教会が神学なしに歩むことができると言った想像は、けっしてない。たとえば、私達はキリスト教信仰の特定の課題のためにのみ専心しなけらばならないとか、教会の中で、神学はある科学や心理学や社会学に取り替えができるといったことは、ばかげた事である。どれほど重要な課題があってもー私はもちろんその重要性を全く否定するつもりはないがー根本的な神学的な思考の必要性はごくわずかでも、取り去ることはない。キリスト教的な活動それ自身は明確な神学的な理解によって、照らされることなしには、無目標で、散発的になるであろう。
各々の神学者は自分自身の見通しで神学しなければならないし、それは様々な方法において制限されていくであろう。しかしながら、私は、この本に提供した表現が、キリスト教伝統の広い範囲の読者に役に立つであろうと希望している。なぜなら、私は多くの“極端”や“教派(セクト)”の立場をとらなかったし、キリスト教思想や体験において、幅の広い主要な流れの表現を試してみたからである。私が教授している神学校の創設者は以下のことを目的にしていた。つまり“穏健な見解と感覚をもつ全ての人が、党派的な争いから自由になり、全ての極端な教義的な思索や実践的な急進派や教派的な支配から遠ざかり、心から愛をもって討論しあう望み”を持っていた。私の属する宗教団体は英国国教会の中央の道(via
media Anglicana)をほめる事を望んでいる。もちろん、真理はいつも極端の真ん中にあるという想像は理不尽であるが、おそらく私の主張はかなりの多くの読者には、極端に思えるであろう。神学においては、ある種の弁証法がありうると言うことは決して無くて、それは人間存在の両極性の外に、起こっていると私は信じる。神学の歴史を貫く弁証法の効果というは、極端さや誇張的な観点を除外してきたのである。教会はその神学において、静性と動性の両方を必要としており、神学の前進があるとすれば、不統合や硬化であってはいけないのである。070127
しかしながら、率直に言わせてもらえば、私は全ての人を喜ばせようとは思わない。私は間違った種類の教会一致運動(ecumenism)は、つまり本物の違いを言い抜けするようなものは用いないし、真剣に受けとる限り、全ての観点は有効性を示唆しているように思える。この方法において考える人々は神学において真理とか虚偽とかはないのだ、と本当にに言い続けており;言い換えるとこのことは、全ての神学的な企ては、時間の無駄と言うことを含んでいる。私達は神学において、論争の余地があり、意見の異なる多くの問題があるという事実に直面している。あるものはより大切であり、あるものはそうでない。自然神学か、自然神学はないのか。キリスト教でない宗教に、神の真の知識はあるのか、その知識はないのか。幼児洗礼か、成人洗礼だけなのか。牧師は必要か、いらないのか。職制における女性は、男性だけなのか。神学者が決定できる問題と責任回避できる問題がある。私は率直にそれらのそれらの問題、他の論争の余地ある質問を扱って見た;しかし、その場合、私はその立場を取る理由を与えることを求めてきたし、どのように、その場所が神学全体の構造によって支持され、包含されてきたかを示してきた。そして私の望みは、選択されるべき観点のためのいくつかの概念を示すことにある。060129
最近のもっとも重要な教会一致運動(ecumenical)の発展はローマカトリック教会が他の団体になす新しい働きかけである。この本を書いている間、私は大きな関心を払ってきた。私は討議によってそれにおおやけに応答しようとしたし、私は、建設的に、マリア神学、教皇制、化体説といった想像するに異なる論議についても討論を望んだ。
同じように重要なのは、キリスト教の他の他の信仰との接触の増加である。世界において、私達は、全てより親密に生活しているのである。私が思うに私達はいくつかの古い排他的な態度を捨てねばならない時に来ていると思っている。なぜなら、キリスト教の一部に新しい寛大な精神が、古い偉大な世界宗教に対して、起こっている。従って、私はキリスト教神学の真理を示すことを試みるが、そのような寛大さを推進する様になしたい。070130
私はこの本において、多くの哲学の用語を借りている。特にマルチン・ハイデッガーの書物に恩恵を受けている。私は次のように思っている。彼の哲学の方法と彼が発展させた概念は、活力ある20世紀の哲学的(自然)神学を基礎ずけを準備し、今日の状況において、キリスト教真理全体の解明と発言のためによりいっそう用いられるべきと思う。これは私達がなしている神学が、わずかでも哲学に追従するべきと言うことを意味せず、過去の神学者を好むと言うことでもなく、そのような今日的な哲学的な仕事を利用できることであり、私達の時代の世俗文化に通用する言葉で、信仰を最もよく表現できるのである。
同時代の神学者のなかでは、私はカールラーナーがもっとも助けになると見いだしている。このようにも言える。私はほんの10年前までは、神学における指導者は、バルトやブルンナーやティリッヒのプロテスタントの巨人がいたが、今やローマカトリックの思想家に移っているのである。彼らの間で、カールラーナーは(彼自身ハイデッガーの弟子を貫いているが)目立っている。彼は達人のように:信仰と理性、伝統と新奇さ、権威と自由、その他のような、特別な弁証法神学を構成する拮抗した課題を処理している。070202
ルドルフ ブルトマンは私の新約聖書の理解に根本的な手引きを残してくれた。しかし、私は彼のいくつかの意見には、批評を加えないではいられない。新約神学においては、私は私の同僚のジョン ノックスのおかげで、特に教会の本質への深い洞察を得た。私は彼に他のこと、人間的な考え方以上の事を教わったし、感謝と愛において、この本のをあえて、彼に献呈した。
出版社がこの仕事を私に与えて4年間が経過してしまった。私は編集者の忍耐と思いやりにまた、いくつかの示唆を与えてくれた読者に感謝を示したい。
John
Macquarrie
ユニオン 神学校
ニューヨーク
第2版の序文
最初の版が出版されて10年が経った。私は、読者と校正を成す自分自身の両方に義務を負う。第2版には、新しい事柄への大きな取り組みを含んでいる。実際には、そこには、私が新しく考える必要の無いと思った事柄や新しい神学展開への注意による論題がようやくある。
私は多くの校正者、批評家、注釈者と私が望むよりももっと充分な本にしようと鼓舞してくれた友人、出版社の励ましに感謝をしたい。
Jhon Macquarrie
キリスト 教会
オックスフォード 070203
目次
序文
1章 概説 1
1.神学とはなにか
2.神学における形式的要素 4
3.教義の発展 18
4.他の学科との関係における神学 21
5.神学の方法 33
6.神学の区分 39
第1部 哲学的神学
2章 哲学的神学の課題 41
7.哲学的神と自然神学 43
8.自然神学への哲学的な批判 46
9.自然神学への神学的な批判 49
10.哲学的神学の原理あるいは新しい形の自然神学 54
3章 人間存在 59
11.人間存在とその両極性 59
12.個人と社会 66
13.存在における無秩序(混乱disorder) 68
14.自我(selfhood)と信仰 74
4章 啓示
15.啓示における一般的な特徴 84
16.啓示と思考と認識の様式 90
17.啓示と様式 96
18.啓示のより厳密な吟味 100
5章 存在と神 104
19.啓示の内容 104
20.存在の意味 107
21.神と存在 115
6章 神学の言語 123
22.神学と言語と論理 123
23.言語と神学の状況 126
24.神学論争の様式 130
25.真理への問い 145
7章 宗教と信心 149
26.宗教のいくつかの特徴 149
27.宗教とその批判 153
28.宗教の類型 161
29.宗教における参与と開示 170
第2部 象徴的な神学
8章 象徴的な神学の課題 175 070209
30.象徴的な神学の内容 177
31.象徴神学の方法 182
32.象徴的な神学の順序 186
9章 三一の神
33.伝統的な三位一体の教義 190
34.同一と三一としての存在 195
35.神の属性 202
10章 創造と創造物としての存在211
36.創造の教義への接近 211
37.創造の形態 217
38.自然 222
39.人間 226
40.聖なる天使 233
41.悪魔か悪霊 237
11章 神、世界、悪 239
42.摂理 239
43.奇跡 247
44.自然悪 253
45.罪 259
12章 イエスキリストの人性 268
46.和解と歴史的啓示 268
47.史的イエス 273
48.福音書の中における信仰のキリスト 279
49.主と言葉 290
50.真の神、真の人 294
51.存在の焦点としてのキリスト 300
52.イエスキリストの確定性 303
53.キリスト論と逆説 306
13章 キリストの働き(業) 311
54.キリストの働きの前提 311
55.贖罪論の古典的な見地 318
56.折り返し点としての贖罪論 321
57.贖罪論とその応用 324
14章 聖霊と救い 328
58.聖霊の人格 328
59.聖霊の進行 330
60.聖霊の働き(業) 332
61.キリスト教生活への入り口 337
62.キリスト教生活への成長 343
15章 終わりの出来事 351
63.終末論的な展望 351
64.宇宙と個人の運命 357
65.終末論的な考え方の根本的な解釈 362
第3部 適用(具体化)された神学371
16章
66.信仰と体現化した存在 373
67.適用された神学のための基準 378
68.適用された神学の主題(項目)382
17章 教会
69.教会における前提 386
70.祝福された処女マリア 392
71.聖人 399
72.教会の印とその体現 401
73.教皇 413
74.教会の権威 416 070210
18章 職制と宣教
75.神の民の一般的な職制 420
76.特別な職制:執事、長老、監督423
77.宣教の教会学校(collegiality)440
78.教会の宣教
19章 言葉と礼典
79.キリストの再出現 447
80.言葉 454
81.バプテスマと堅信礼 458
82.聖餐式 469
83.他の礼典 481
20章 礼拝と祈り
84.礼拝と存在 487
85.祈り 493
86.聖霊の多様性 497
87.キリスト教礼拝の形成 499
21章 世界におけるキリスト教
88.キリスト教と倫理 503
89.世界の変革 512
90.律法と福音 520
引用 527
1| 概説
1.神学とは何か
神学とは宗教的な信仰の反省を通して参与しつつ、はっきりした適切なことばにおいて、信仰の内容を表現することを求める研究であると定義されるであろう。
定義することは誤りをみちびくかもしれないが、それは大切な事ではない。なぜなら、いかなる研究の手法も、何を探求し、どのように探求しているのかといった内なる仮説に導かれたいかなる研究も、定義において仮説をはっきり示すことは有益である。神学へのいくつかの接近がある。すでに述べられた定義は、(このことは全ての定義に同様であるが)何を研究しなければならないかと言う事柄を、はっきりと私達に示している。この方法を取ることの正しやはっきりさせた定義の正しさは、完全なる神学を成し遂げたのちに、初めて分かるのである。070213;しかし、両面通行のような結果として、定義自身は形作られ、変容され、それ自身の明確性へもたらされる。なぜなら、以前の神学の分野のいくつかは、すでに打破されてしまい、ある方法は他よりもっと実りあるもので発見されている。
しかしながら、いくつかの仮の指標はここに、示されねばならない。私達の定義を解説しながら、また、まだ明確性を持たないかも知れないいくつかの内容を引用しつつである。
一番初めに述べたいのは、神学とは“宗教的な信仰の反省における参与を通して”進むという定義を含むという所見である。この説は神学とは信仰との連続性を持ちつつしかし、差異という両義性をもつとい含蓄を意図している。神学は信仰と連続している。なぜなら、信仰に参与し、信仰の見地から述べるからである。神学において、信仰とはある種の表現をもたらすことであり、しかしながら、もちろん同じように他の方法で信仰を表現する。神学において自分を表現する特別な信仰とは、一般的な信仰では無くして、歴史的な共同体の信仰である。この本はキリスト教神学を含むけれども、ユダヤ神学やイスラム神学の本とも同質であろう。しかしながら、神学はいつも特別な信仰から語るであろう。このことはまた、神学は共同体に参与していることを含むのである。疑いもなく神学者は、個人的な方法をもっており、ある範囲において、かれらは自身が発見する特別な挑戦的な課題をもち、取り組んでいる。しかし、彼が神学者であるかぎり、彼らは決して個人的な信仰を表明するのでなく、彼らの共同体のための代弁者であり、共同体の中で特別な責任を負っている。070217
宗教に参与しているそれらの指標が宗教哲学と神学を分ける事に貢献している。おそらく宗教の哲学者でさえも、いくらかの参与を必要としている。もし、彼が研究している事柄を理解しようとしており、彼の研究の本質が、神学者のうちに探求されていない無関心の方法を要求しているならば。それ以上に、ある宗教哲学者が自分自身をある特別な信仰に参与させている間は、私達は正しく彼に信仰の全ての形式の総括と、それについてのある特別な告白よりも、普遍的宗教現象の研究を、期待してよい。もう一度、神学者とは共同体の信仰を語り出すのであり、宗教哲学者は個人的な探求者なのである。070219
しかし、我々の定義は、神学が信仰に関係すると同じような参与で、反省を強調する。神学が特定の信仰に参与し、この信仰の外側から語り出さないように、信仰の緊急の体験からは、いわば後戻りはけっしてない。神学において、信仰は思考に従う。しかしながら、叙述的であり、解釈的であるにしろ、これは批評的な思考でありうる。聖トマスが“私の主よ、私の神よ”@John
20:28 と言った時、これは言葉における信仰の表現である。しかし、まだ、神学ではない。なぜなら、これは言葉の反省をしていない、そして実際、これは文法的に言っても、文章ではない。しかし、信仰の緊急の表現は、私達が聖トマスの言葉に見いだすように、神学のための一つの資料(datum)になり、反省を通して、それは、神学的表現の水準までもたらすかもしれない。
これらの指標は、今や、私達に知的な訓練としての成されている神学の次元を示す。定義の第2の部分は、神学の意図とは、“もっとも明確に、最も一貫した適切な言葉で”特定の信仰の内容を表現することであると言明される。信仰とは全人格的な態度である一方で、多くの着こなし、特に、行為や人生の道におけるそれ自身の表現であり、神学はその名前の含む通りでは、信仰の全生活において、根ざしているにもかかわらず、言語的な表現を目標としている。最大の明確性と一貫性を意図する言葉でありつつ、神学は全ての知的な企ての特性を供与する。なぜなら、神学は全て理解できることと一貫性を目的としているからである。神学はその線にそった何もかであるが、神学は理解の超越や、回避する事に反対して生じるのであり、理解のもっとも高い段階に到達する可能性をけっして止めることはできないのである。070220同じように、神学が目的としている堅実性と一貫性は単なる内的な堅実性でなくて、それが求められる限りは、人間精神の全ての他の知的な企てにおいての一貫性である。なぜなら信仰の言語的な表現を目的とし、私達の公の言葉を用いているので、神学は、人類のすべての知的な努力における場所を要求し、こちら側では、それは精神の別の訓練を伴い、同じ様に、あちら側では信仰との継続を見いだすのである。
私達の定義は、神学をあいまいに“研究”と語ったが、今や(これまで述べられてきたように)科学であるかどうかと言う質問に直面しているのである。聖トマス・アキナスはこまで最大の組織神学を構築したが、キリスト教神学(sacra
doctrina)は、科学であるかどうかを問い、そしてかれは科学であると述べている。ASumma Theologia,Ia,T,2.しかし、トマスはすぐに、科学は全て同じ種類でないと指摘しており、神学が、“科学”と呼ばれる時に何を意味するかをより明確に定義している。聖トマスの時代以来、何が科学を構成していいるのかと言う概念は、多くの変化を経験してきたし、現代英語における“科学”の単語は、よりいっそう自然科学へと制限されて用いられる傾向にある。今日の一般的な使用においては、“科学”として今日神学を語るのは、おそらく誤りを導くであろう。しかしながら、もし、ウイルヘム・ディルタイに従って、自然科学に沿った理解において、人間の心や霊的生活に関係している科学があり、時々それは“人間科学”(Geisteswissenshaften)
呼ばれるが、あえて、神学を“科学”と呼ぼう欲するかもしれない。とりわけ、ディルタイが、人間科学が扱うまさにその問題に参与することが、自然科学に結合した方法と異なる神学を区別する特徴であると考えたときにである。070223しかしながら、人は、神学とは、動物学のような自然科学よりも、歴史(これは実際科学であるが)のような“人間”科学により近いと見ることができる。しかしながら、何か“神的な”科学のであり、その明らかな名前において、特徴ある主張のために、信仰へのその関係のために、人間科学ともまた少しいまだ異なっているのである。
私達が神学を“科学”と呼ぶべきか否かと言うことは、それほど大きな問題でなく、宗教的信仰にともないその共同体から起こってくる他の科目と神学の間の違いを知り、認識可能と一貫性を要請する一般的な目的に寄与する他の知的な科目を伴う神学的ものをも、備える事が大切である。
2,神学における形式的な要因
神学の多くの本には、始めの近くに、いわば神学の“資料”と呼ばれる部分を含んでいる。その言葉通りの意味とはとうてい考えられない“資料”に、あまりにも違った項目が含まれている事に、気づかれるであろう。070224それで私は、神学における“形式的要因”について語る代わりのものを提供したい。それらは、みな同じような重要性を持っている訳ではないと言うことを認めがながらである。おそらく多くの形式的な要因が働いており、それらのいくつかは、気づかれないで作用しており、その結果、私達はそれに気ずかないことさえある。ここに私達は短く六つの要因を考慮するが、それは特別な注意を喚起されるべきであると思われるが、六つの要因は全て同じ水準としては認められない。それらは、経験、啓示、聖書、伝承、文化、理性である。これらは、神学において、ほとんど普遍的な働きを成していると思われる。しかしながら、私はここでキリスト教神学に参与するが、平行して他の宗教の信仰、それ自身が簡単に示唆することを示し、そして私は時折、他宗教の示唆に言及いたい。070226
形式的な要因のこの討論が、何か基本的なように思われるかもしれないが、私は急いで道を外れて、予備的な質問のみをここで、扱うような事は、しないつもりである。実際、それは、根本的な区別をなす、“原理的な”段階であり、それが続いて完成される時、その区別は神学の全体の特徴を決定するかも知れない。もし人が、神学の類型のようなものを構築しようと試みるならば、これは、形式的要因の他の部分かひとつの部分に当たる支配的な役割についての探求の基盤の上に成されるべきであろう。経験の神学と啓示の神学、聖書の神学と理性の神学、教会の教える伝承に従う神学と流行している文化の形にもっとも良く適応していく神学、がある。それぞれの場合に、個々の神学者の性格が、ある時は隠れて、ある時は明白に、より多くの影響を与える。070227
もし、曲解と誇張を避けようとすならば、あるいは最小限にしたいならば、おもな要因を始めに、平易に述べておくとこで、最大のことができると言える。その要因は、神学の構成において処理されねばならないし、その重要性によって、おのおの解明される。このことは、料理法(レシピ)の様な種類のものを決定するのとは異なる。“少し経験を取り、少しの啓示を取り、少しの理性を取り、すべてを一緒によく混ぜて・・・・”ではない。むしろ神学を構築する要因の間で、正真正銘な緊張を受けることを企てることであり、伝統主義や近代主義、聖書主義やそれに似たものとして、一面的な単純化を避け、それらの要因の間で、弁証法的な相互作用を考慮にいれることを企てることである。そこでのみ、公平にそれをまとめあげようとする要求に出会うことのできる神学が、構築されるのである。とりわけ、表現することを求め、なお、居場所を求める文化的な環境へも適切でもありえる信仰に、忠実であるべきとの要求に応えうるのである。070302
1,/体験/は、私たちの項目の最初にくる。それは、“経験主義”神学と言われると呼ばれるところのものがなしている他の要因を、支配しているでない。神学は宗教的信仰の参与を含み、実際に神学を動機付けしていると言える。他のいろいろな要因の中で、経験の領域において、私達は経験の“意味づけ”を探している。私達は、神学の業を、言葉においてはっきりと表現するべき信仰経験の内容をもたらす過程を通して、おこなうのだ。
私達の信仰生活の経験は、順番に信仰共同体の参与から来る。この経験の形は、しかなしがら、個人から個人へ、また、特別な共同体から別の共同体へと広く異なっている。あるものにとって、道徳的な葛藤に関係しているものがあり、他の者にとっては、知的な問いに関係しており、ある少数者には、おそらく、神秘的な感覚に、あるいは、審美的な感覚に関している。070303もう一度、宗教的な経験の個人的な質というのは、劇場的な、情緒的なことから静観的、瞑想性にいたるまで、広く異なっている。ここに、私達は、ウリアム・ジェイムスが教えた“宗教経験の多様性”と呼ばれるものに出会う。私達は、経験に誇張された強調をおく神学者は、あまりにも危険であると見る。なぜならば、その神学者はたやすく、彼らが出てきた経験の特別な類型によって、ゆがめられるし、最悪の事態には、かれらは、個人的な特質を普遍的な霊的な原理へと判断してしまうかも知れない。
多くの多様性を外観すると、しかしながら、ある基本的な要素が全体に共通していることに、気づかされるであろう。信仰の共同体においては、私達人間存在の様々の構成において、何を固有の探索とすべきか、と言うことに出会う。その探索は、話しかけ、裁き、立ち合い、更新するなどのこととして経験する聖性の次元において、出現することによって、出会う。この種の経験における根底を持たないで神学をなすならば、神学は抽象を扱い、単なるスコラ哲学(幻惑哲学)になる。しかし、もし、この信仰生活の経験を語り出す神学が、主観的、内省的、個人的にならないならば、考察するに、神学は、信仰共同体全体の経験を保たねばならず、さらに、この経験は、より客観的な他の形式的な要因と親密に関係を保つべきである。
これらの小論説において、考察するに、私は、特別な宗教経験を持ってしまっているが、その経験は確かに大切である。しかし、神学は人間経験の全ての領域を引き出し、とりわけ、多くの人々が、はっきりした宗教経験を言い表していない世俗の時期においても、引き出し、神学者は毎日の経験において、何が“宗教的次元”と呼ばれるものであるのかを、注意を払って引き出しているのである。特別な宗教経験は、いわば、要素に集中する。それは、有限性、自由、創造性、超越性やその他の意識としての経験領域の範囲において、散漫な現存として認められることのできるものである。070305J・G・デービスは、後に“聖なるものの次元の所有”として、“秩序ある体験から区別された何か宗教的な体験を語り出すことは、人々を誤りに導く”と言う限りにおいて、進んでいる。BEvery
day God,p.80. 彼は、人格内(interpersonal) 関係から、たとえば、政治的な参与、審美的な喜び、他の経験の領域から証拠を引いている。社会学者ピーター・ベルガーは、“人間に経験的に与えられた状況の中での超越のしるし”を認めることができるという様式により似ていると主張している。それはこのようにも言える。“通常の毎日の意識に属している”現象であり、経験状況を越えて、指摘して現れるのです。CA
Rumor of Angels,pp65-66.彼は儀式、劇、希望やその他を例証している。070306
もっとも広い意味において、その時、経験状況を越えるしるしは、神学にとって原初の資料を構成している人間の存在としてのあり得る体験である。まさしく宗教的な経験だからでなく、宗教的な次元において認められる全ての経験なのである。私が注目するのは、信仰は“私達の人間存在の中で、まさしく構成されたものにおいて、何を要求していると思われるか”という問いに出会うことを含むのである。しかし、私達はその質問を意識しているのみと言うことでなくて、その質問はより大きいこと含むのである。ある意味で、質問の根源は、彼らが、人間経験の形態かあるいはまさしく構造に属している事よりも先にある経験なのである。この点は、ラングドン・ギルキー(Langdon
Gilkey)によって良く言い表されている。何を“究極性”や“世俗性”と呼ぶかという要素を示すために探求する別の神学者が、世俗の体験の中にいる。世俗的な人にとって、究極の明らかな宗教体験を持たないことを知りつつ、彼は主張するのである。070309“究極性はそれによって消え去るのでなく、現代の体験においてもー消える事ができないー;反対に、それは人間の生活にいつでもありえるのである。土台として、根底として、私達は何も者かという制限として、また私たち自身の前提条件として、私達の思考や決定や行為としてである。”DNaming
the Whirlwing,p.296.私達が話してきた探求は、最初から経験の中に存在している。広い意味で言えば、探求は自己理解のための探求であり、経験の宗教的な次元を把握する広がりに対して、探求は、神学的な重要性を持っている。
2 次に私達は/啓示/について考察する。啓示は神学の原初的な資料であり、神学的思考の基盤的な形式(範疇)である。正確に、何が啓示の構造であるのか、また、啓示の様な事が起こった事を想像するために何の根拠を持ちうるのか、と言うことは、後から研究される質問である。現在にとって、私達は、啓示を通して何を知る事ができるのかという啓示の観念の本質は、贈り物に似た性格を持つと言う事に気づいている。一般的な言い方をすれば、もし、私達が、啓示において何が公開されたかと言うことを、聖性の次元で言うことができるとすれば、その時、啓示的な体験において、あたかも、啓示は“押し入って”来るものであり、人間を越えて、人間に向かっていく移行である。
世界の中のあらゆるものは、啓示のための契機でありうると思われる。自然現象は啓示的状況の次元を取りうるし、原初的な、古風な宗教に置いてはとりわけ、聖性は自然の中に自分自身を証明しうると信じられている。もっと知的な水準で言うと、聖性が自分自身を開示するところにおいて、自然は歴史や人間関係に置き換えられる。;070310あるいは別の意味で言うと、啓示の経験は全く内部化されており、聖性というのは、人間自身の心の心の深みにおける出会いなのである。キリスト教宗教において、人であるイエスキリストは啓示の使者なのである。
その賜物的な性格のために、啓示は、世界に知られている通常の事実の事柄より、違った秩序に属している。それで、啓示体験の受領を、描こうと試みるときに、通常の制限を超えて、いつもの言葉を拡張すること、また彼らが信じている聖なる現実が押し入るときに、その忘我的経験に参与するときに、全く空想的な語りの使い方をすることさえあるかもしれないことに、驚いてならない。しかし、そのような体験の多様性に驚き、彼らが時々叙述する法外な言葉にもかかわらず、ある完全な類型が、それら全てに走っており、啓示の基本的類型は、世界の全ての宗教に共通しているように思われる。砂漠におけるモーセに授けられた啓示の例EExodus3:1ff.やポニマンドレスFPonimanndres,Intorduction.の福音書に受けたグノーシス主義の作品、神クリシュナGBhagavadgita,.の顕現の受領であるアルジュナ(Arjuna)やその他の多くの他の場合において、非常に分離しているところにも、共通性をはっきり見ることができる。その根本的な類型は以下のように概観的に分析される。070317自己卑下の型、聖なる者の前における(ある時は畏れ、ある時は罪の意識、ある時は経験の現実性の嫌疑でさえある)、聖性のより限定された開示
の型、おそらく名前か、ある種の真理の目的の開示、(この要素は啓示の“内容”と呼ばれうるかもしれない);存在している感覚は、限定された課題や生活の方法に向かって、聖性において、呼び出され、委託されている。
ここにおいて“啓示”として述べられた事は、明らかに、“経験”の用語のもとに始めに述べられたこととよりよく、共通している。啓示は、宗教的経験のひとつの型であり、私達の聖性の体験は、裁き、支持、話しかけ、やその種のものとして、全ては、啓示的な要素を持つのである。人はそれ故に、堅くて太い線を、経験と啓示の間に引くことはできないし、その際、私の神学的思考において、これらの2つの形式的な要素を、保つことを望むべきである。私達は通常、“啓示”の名において、私達の1日1日の聖なる体験を威厳つけることはできない。おおよそ神学と呼ばれるものは、個人的な啓示の上に根拠づけられるものではない。なぜなら、すでに強調されてきたように、神学とは、共同体の信仰の表明だからである。しかし、その反対に、私達は、ある聖なる体験を私達自身が持ってしまったという事無しに、誰かに啓示の受領がありうるとは、決して信じてはならない。実際に、私たちが、啓示に対してある類似のものを持つ体験を最初にする事無くしては、啓示概念そのものは、完全には、私達に理解できないであろう。070319
“啓示”と呼ばれていることと私達が通常“宗教経験と言う用語のもとに理解していることの間の実際的な区別は、神学における形式的な要因として、相互依存しているが、以下のようにもっと良く述べることができる。神学が生起してる共同体のある信仰は、通常、“古典的な”あるいは“原初的な”啓示と呼ばれうるその宗教の歴史に戻って追認していくものである。共同体の設立者あるいはその起源に基づく限定的に開示された聖性の経験であるところの古典的な啓示は、その共同体において、聖性の経験のための、いわば、典型になるのである。信仰の共同体への影響力をもつ啓示と言うのは、その共同体で実り豊かになり、そして、いわば、共同体の経験を繰り返し、再演されるのであり、そのようにして、共同体の経験のために、基準になっていくのである。070321
しかし、現在の啓示の中にある更新し続けている原初的な啓示は、ただ、啓示であり得るのであり、化石化する啓示なのではない。(しかしながら、実際、それは啓示であることを止めるときもあるであろうし、過去への理解できない単なる好奇心という事もある)神学の構築において、重要な均衡が、経験と啓示の形式的な2つの要因において、維持されねばならない。啓示とは、神学を起こす共同体の信仰の範囲においては、経験であり、それは、私達に、原初的な啓示を啓示として認めることを得させる。;しかし、もし、神学が主観主義の危険から救われるとすれば、その共同体の中における経験の多様性は、共同体が設立した古典的な啓示の比較的客観的な内容に、従うべきものである。070322
もし、しかしながら、古典的な啓示が、その共同体の起源において与えられるならば、私達はいかにしてその啓示に今日近づくことができるのか?この問いは私たちを聖書と伝承という2つの要因を考察することに、導いてくれる。なぜなら、この両方のものが、原初的な啓示に私たちを取り次ぐからである。これらの要因は啓示への調和機能でなくて、啓示に服従するのである。
3,/聖典/あるいは、共同体の聖なる書物は、キリスト教宗教において、大きな部門の役割を担ってきたが、書物の所有ということは、主要な宗教の最も大きな特徴であり、このためには、大きな理由がある。ちょうど脳が、個々に記憶を持つ記憶細胞を備えるように、聖書や書かれた書物というのは、後を振り返り、過去を呼び出すある種の記憶装置を、共同体に備えるのである。
聖典はそれ自身は啓示でないが、聖典は(ただ一つのものでないが)共同体が基礎づけられた原初的な啓示に、近づくことを明らかに保つ信仰の共同体にとって一つの大切な道なのである。その書物は実際、私達の前に自動的に、啓示をおくのでは決してない。しかし、その信仰の共同体における聖性の現在の経験に関連して、その書物は生きており、いわば、原初的な啓示の内容である聖性の開示を更新していくのである。原初的な啓示の開示を、再度また、再提出してもたらす力は、その結果、啓示が、私達の現在の経験において、語りかけていることは、私達が聖書の“霊感”と語る時、その意味していることである。そのような霊感というのは、その言葉(それは“言語霊感”でないのだが)の中にはなくて、共同体における信仰の全生活の流れにおいて、彼らが参与した時のみ、霊感はその書物に属しているのである。070324もう一度、私達の注意は、その終わりに方向づけられており、しかし、その共同体の古典的な啓示の過去の場合と現在の経験との間に混乱があり、しかし信仰生活の構造のはっきりした観念を形成された後のでのみ、得られることのできるこの関係の充分な理解もある。
聖典は、原初的な啓示において与えられた開示を再び与える時、共同体の個々の気まぐれな体験に対抗して、安定性と平均したある種の客観性を与えるのである。共同体の聖典は安定性を維持するために大きな要因であり、その共同体自身の同一性を維持するための感覚でもある。070326それ故に私達は、聖典とはその共同体において、基準となると見いだしており、現在の経験から起こる陳述に、過度な強調をおきすぎるという過敏な主観主義に対して、伝統に沿うことで、安全装置を備えている。キリスト教共同体にとって、キリスト教神学を主張するいかなる神学も(幾人かの私的な宗教哲学から離れるときには)聖書との親密な実証的な関係を維持するのである。
神学者が聖書を軽んじる危険は、神学における形式的な要因として聖書を絶対化してしまうかも知れない危険よりも、多くはない。聖書は誤りがないという確信は、キリスト教世界のある部分においては、絶対死なない一つの確信である。私達が上記の事を断言するとき、聖書はそれ自身が啓示でない。キリスト教の啓示は人の中に起こり、本の中ではない。テキストの多様性は、かつての誤りのない本という観念を破壊しており、これは、神意により、そのままととどめられている。聖書誤謬説の観念は破綻していると言うことは始まりに過ぎない。聖書には、相違と食い違があり、ー単なる些細な詳しい質問だけでなく、たとえば、何頭の動物が箱舟にはいったのかや、何という婦人が、復活日の朝、お墓に行ったのかでなく、神学や倫理の質問においてもあるである。070327さらに、批評的な考察は、聖書の著者問題や様々な多様な冊子について著作の日付においの伝統的な見地に対して、多くの間違った場合と疑わしい場合を示している。その結果、モーセによる出エジプトやあるいは、マタイによるイエスの宣教の目撃証言を持つ代わり、私達は、実際に、匿名のおおくの事柄についての書物も持っている。それはそれらが起こったあとで、そう長くない時期に書かれており、歴史的な正確さは重大な問にさらされている。しかしこれで充分である。私は聖書を批判する事を試みるのでない(それより遙かに遠い!)。しかし、聖書を絶対化してしまう誤使用、また、それから、神学において、聖書を独占的な形式的な要因としてしまうこと(あるいは、聖書をそうする試み)をしないのである。聖書に対する誇張しすぎる扱いに抗して、聖書の批評的な学びと、神学において他の要因もまたその場所を持つという認識がある。これらは長期的には、聖書の教えに対するより正当な扱いをなし、道理をわきまえた霊感の教義を抱くことに、急ぎすぎることはないであろう。;なぜなら、このような態度は、聖書の前において、私達の責任を受けいれるからです。070330
これらの注意が、超ー保守的な聖書主義者に対して指示される間に、最近、非常に繁昌している聖書神学についてもまた、言わねばならない。神学におけるこの動きは、聖書の概念と象徴の理解を増加し、また単なる歴史的な批評的な研究と離れて、聖書の重大な神学的な研究へと私達を引き戻すより大きな貢献をした。しかし、時々、人は聖書神学の解釈者の中において、無茶な自負に出会うのである。全ての神学をそれで行い、聖書の範疇のみが神学的思考の主なものであるということを含む、聖書神学への拡大の傾向があるのである。人は、キリスト教信仰を理解しようとする幾人かの著者からさえ、その印象を得るのであり、人は、古代ヘブル人の心性を養うことを必要としているらしい。もし、このことが真理ならば、キリスト教は全く地方の時代的な現象であることを意味している。実際、キリスト教信仰は、それ自身、時間と空間に広がっており、なぜなら、自分自身を解釈する可能性が、新しい範疇にさえあるからである。私達は全て、神学というのはその聖書の源泉自身に親密に保たねばならないことに、同意するが、非聖書的な範疇を排除する試みは、不合理であると思う。070331
4./伝承/はキリスト教神学において、長い間論争の中心であった。カトリックはキリストにおける啓示を聖書と伝承の2つに伝えられるとし、他方、プロテスタントは聖書のみに伝えられるとする。今日、しかしながら、多くのプロテスタント教会のまた、伝承に対して積極的な役割を認めているように思われる。しかし、それを認めるかどうかでなく、事実、伝承というは、いつも、教義の決定を支持する場所とキリスト教共同体の実践の場所を持っているのである。その結果、それは主な理解において、伝承というのは、聖書の競争相手でなくて、補足して完全になるのに必要のなのである。聖書にとっては凍結した石化した記録でなくて、共同体の生活の前進を生かす、何ものかであり、最初は聖書の誕生を与え、次に聖書の教えを宣言し、解釈するのである。
初代教会の聖書は、伝承に先んじ、そして伝承に基礎付けられる。それは後世に伝えられ、順番に受け容れられた。それはパウロによってはっきりとなされている。HTCor.11:23;15:3 もう一度イエスは呼び出され、思い出され、それらが書かれた聖書の中においてだけではなく、教会の礼典において、とりわけ、イエスの(anamne-sis)ITCor.11:24
“思い出”としてはっきりと言われている聖餐式において、である。ドン・グレゴリィ・デックス(Dom Gregory
dix)は、次のように書いている。“正餐の礼拝は始まりから、聖書にのみ基礎づけられているので全く無く、ただ/伝承/に基礎づけられた”。JThe
shape of Liturgy,p.3. 070402
新約聖書の正典について結局、制定するは、共同体であり、それゆえに、安定しつつ何の書物が、権威あるキリスト教の聖典として認められるのかは、そしてその決定は、教会の伝統的な使用の上に、基礎づけられていた。聖典におけるただ曖昧な暗黙に表明される教義は、結果的に(それは数世紀なされたが)教会の教義的な宣言公告において、明白にされた。その結果、今日、私達は聖典を冷凍するのでなくて、伝統的な解釈の光において、聖典を読むのである。
このゆえに、伝承は、聖典自身と同じ様に、神学において、個人主義や熱球主義に対する別の保護柵なのである。聖典は、伝承の補完を必要とし、聖書の私的な解釈に対して守るためであり、なぜなら、ほとんど何でも聖書に読むことができるし、受け容れらる解釈を表現するときに、いくつかの制御は、教会の精神によって、試みられなければならない。誰も、伝承の影響から自由に、聖典を読むという受け容れられた解釈の精神に乗ることはできない。しかし、もしそれが可能であっても、賢い神学者はそれを成さないであろう。反対に、神学者はただ、彼の精神が啓蒙れる事をとても喜ぶであろうし、彼の知恵は一般的な知恵と教会の経験によって、方向づけられる。なぜなら、伝承が保護策であると言うことは、神学者が自分自身の制限された力に到達することを希望できるか、神学者自身のより制限された展望の何かよりも遙かに超えてあらねばならないからである。070406
時々、現代の思想のために、あるいは、正しく新約聖書に立ち返る(彼らが想像しているのであるが)がためにのどちらの伝承も破壊する熱狂主義者がある。あたかも、全ての発展の介在を除外するかのようにである。時々、その両方の失敗は同じ人物で起こる。070407伝承は、この熱狂主義に対して守ることを意味しており、なぜなら、このどちらの場合も、共同体の生活の破壊があり、むしろ、その共同体が捨てられ、ある新しいものの設立である。キリスト教神学というものは、聖典の面前でできるようには、伝承の主流において反抗することことは、できないものである。根本的な教義、たとえば三位一体のようなことを、否定するようなことであり;信条を拒絶することであり;まだ分ける事のできない初期の教会会議の信仰を脇に置くことである;ー主要な教理は、彼ら自身が色々な事柄を考えるときに、個人個人によって主張される時に、働いているのであり、単に、キリスト教神学において取り替える事はできないのである。なぜなら、それらは歴史の拒絶に帰する事になるし、それゆえにキリスト者が神学することを行ってきた共同体の同一性の維持の拒絶に帰することになる。「いつも信じられていることは、全てであり、すべてによる」と言う有名な言葉は、聖ビンセント・レリンス(Vincent
of Lerins)K commonitoriunm,U,3. であるが、共同体そのものを捨てる事なしには、無視できないのである。070408
しかし、聖典のところで私達が見たのと同じように、伝承においても、悪い神学を導くところの無批判な、過度の取り扱いがおこりうるのである。全ての人が知る伝承は、死ぬことも機械的になることもあり得るし、その結果、全ての成長と健全な発展が妨げられる。私はずっとその事例を議論してきた。なぜなら、伝承は正確に聖典にそっており、生きている伝承はその生活を聖典に与える根拠がある。しかし、もし、伝承それ自身が死んでいるならば、その時、私達は、ある固着した聖書主義が有害であると同じように、宗教的な信仰の神学的な表現の(他のものと同じように)融通のきかない固着を得てしまう。しかし、この必要は起こらない。ここで強調されている伝承の機能というは解釈であり、解釈というのは、何度も何度も繰りかえし成さなばならない必要を持つ。古代の信仰の解釈、それは、共同体の同一性のまさしくテキストの部分となったのであるが、たとえば、使徒信条や三位一体の教義であるが、共同体を破壊することなしに、無視することはできない。しかし、共同体は持続した再解釈を必要とする。070410この種の伝承の全ては伝承の言葉とまた、伝承の概念に関して、歴史的に条件づけられており、もし、単に機械的な方法で経過するなら、伝承は単に命の無いものとなる。各々の世代は、伝承を占有しなければならない。それを成すためには、古い形式を解釈し、あるいは、いつでもあり得る時は、伝承自身の思考範疇へ解釈しなければならない。このことは、伝承の歴史的な文脈において、定式は何を表現しようとしたのか、あるいは伝承に対して守る試みは何が間違っているのか、人が問わねばらない事を意味しており、その時、伝承自身の状況において、伝承を再考することである。再解釈は、単純に伝承を拒絶するよりもよりいっそう、洞察と忍耐を必要とし、そのような再解釈は、もし、伝承が批判的に、応答的にもたらされるならば、生きた成長する伝承として必要である。
5,いつも−再解釈するための必要についての留意点は、私達を、神学において、次の形式的要因である/文化/へと導く。この要因は信仰生活に属している全ての要因から遠いと見なされるが、文化の要因は、信仰への神学の“参与”と呼ばれる神学の定義の中で、その根本原理を表現している。070414しかしながら、私達は、今、1つの知的な訓練として、神学的な性格とかかわなばならない要因に向かいつつあるのである。“最も明確でもっとも首尾一貫した適切な言葉において”、070416その文化の要因の表現を見いだす意図をもって、私達の定義において使用している表現を用いて、それをなすのである。もし、神学が理解されるべきであるならば、言葉が理解される範囲の文化の言葉を用いる。実際、自分自身の文化の知的な思潮や心性の供給から逃れることができるものはいない。その結果、全ての世俗の影響を彼の考え方から除外しようとする神学者も、自分自身を欺いている。なぜならば、それら影響は無意識に作用するに違いないからである。私達が用いる最も一般的な言葉は、文化的な全背景を含んでいる私達の回りの内包を、集めてしまっている。神学者がこの思考において、文化的要因を認めねばならないこと、文化的要因と折り合わねばならないことは、つらいことである。
文化的な要因を認めることは、神学の最終の目的ではない。神学の仕事は繰り返し成されることを必要としている。なぜならば、神学の記述は、文化的に制限されており、それゆえに、文化的形式の変更として、再解釈を必要としている。新約聖書にある多くの表現は、宇宙論的に、心理学的に、私達の紀元の最初の世紀の社会状況において、理解できたが、しかし、今日の事柄を理解する現代の用語においてはできない。070420教会教父時代から使われてきた言明に使用されている“人格person"と言う言葉のようなものは、現在担っていることばの意味内包から、全く違っている。実際、初期の啓示が、残っている間は、私たちが見てきたように、聖典と伝承は、奔放な無責任な刷新を、保護することの監査として働いている。神学には、様々な要素があり得るし、神学は一般的な文化形式の言葉で、その時代と世代に対して、自分自身を語っている。たとえ、同時代の文化を越えている観念の使用と受けられる場合でも、深い洞察は、過去において過ぎ去った啓示の中に、獲得されていくのである。070421
もちろん、この文化を用いるという時に、神学者には、大きな誘惑がある。それは現代化のために啓示を現代化をする時、その時代の様式に啓示を適応させる時、文化の形式の中に、神学の啓示の内容を没入させる時である。その結果、神学は文化に従属し、そしておそらく、魅力に満ちた神聖を、文化の意図や制度のたぐいのものに投げ込み用いてしまうであろう。この神学の堕落にたいして、カール・バルトは、彼の初期の著作に勢力的に抗議を申し立てている。“形式はそれ自身、その内容の場所をとる可能性をもっている。人は聖なるものを彼の所有にしてしまうものである。;人は聖なるものを、人間の管理下に置いてしまっている。”13The
Word of God and Word of Man,p.68. しかしながらバルトの全く必然の警告に反対して、パウル・ティリイヒは、適切な文化から生じる形式において神学の表明の手順を守るため、人は自分の同時代の言葉を用いるとする。070424“私は、
文化への従属という方法は、キリスト教の使信の実体を失うかも知れないという危険性に気づかないのではない。しかしながらこの危険は、冒険されなければならないし、かつて、ある人が実現してしまったのであり、人はこの方向に前進しなければならない。危険は、重大な要求を避けるための理由とはならない。”14
Systematic Theology, vol.V,p.4.問題は、最終的な均衡を維持する一つとなることである。もし、知性と関連性のための要求が、出会うべきであるとすれば、その時、自律、ー判定的にいえば、原初の啓示の特徴をも冒す危険がありうるのである。;文化への従属は、世俗文化の形を変えることへのすべての方法にに反したそういう啓示の孤立化の危険に反対して、重要視されねばならない。すなわち、カプセルに包んでしまうことや、生活におけるすべての他のことから隔離するといったことである。これらの極端な危険性の中間の道を、見いだし得ないと証明することはけっしてできない。しかし、文化に従属することは、もし、私たちが、神学における文化的な要因に率直に気づき、その潜在能力の全自覚をもって、それを実行させようとするなら、もっとも良く成されうるであろう。もし、私達がこの要因を除外するならば、その時、無意識に文化への従属は働きくだろう。なぜなら、それは避けることができないからである。070427
6 最後に考えなければならない形式的な要因は、/理性/である。理性は、再び知的な学科としての神学的な性格に関係している要因である。神学において、理性の役割についての意見には、多くの鋭い違いがある。大まかに言えば、キリスト教の主流の思想において、教父たち、ローマカトリック、聖公会、多くのプロテスタントの神学もまた、理性について、積極的な態度をとり、啓示の味方として見ている。しかし、まさしく影響力のある多くの反対支流が、教父達の中に、中世の中に、流れており、保守的なプロテスタントの神学校のいくつかにおいては、そのもっとも活発な代表者を見いだす。この反対支流は理性に、非常に小さな役割をあてがうか、いくつかの極端な場合は、実際に、理性を、啓示の敵として弾劾している。この事柄に付いての討議は、暫定的にありうるのみである。私達が、哲学に対する神学の関係を見ており、そしてとりわけ、自然神学と哲学的な神学について、学ぶまではである。しかしながら、私は、聖書的な啓示にただ信頼し、人間理性を全てを排除する試みをなす神学者の極端な位置を、私達は正しく拒絶できる考える。そのような態度は、神学とは、知性的な学科であると言う主張を捨てていることと同じである。インマヌエル・カントは正しく観察している。“それが可能であるとして、聖書神学がもし、宗教的な事柄について、理性と全く関係をもたないとすれば、私達は容易に、一つの部門を失うであろうと予測できるのである。;なぜなら、理性に戦争を荒々しく宣言する宗教は、長い目でみれば、宗教として、保つことができないであろう。15
Religion within the Limits of reason Alone ,p.p. 070428
ほとんどすべての神学者は、理性にある程度の位置を占める備えをしているであろう。そして、この問題への問いは、形式的な要因として、理性が関わっている範囲の問題である。理性は大きく分けると思索的な理性と批判的な理性に分けられる。理性の思索的な過程において、理性は形而上的なあるいは理論的な現実を、構成することに従事している。思索的な理性において、私達は、よりいっそう、先験的(a
prioi)理論(聖アンセルムスの有名な神の存在証明)が純粋理性にのみ基盤をおいており、また、世界のどんな経験からも離れて、理性が属する概念に基盤をおいているのと;後験性(a
posterioi)理論(聖トマスの有名な“5つ方法”と同等のようなもの)世界の経験の基礎の上に、その理論を構成するところのものの間を、区別しなければならない。ある神学者は、この方法の形而上学において構成していることが、啓示の内容の堅持を提供していると捕らえている。しかしながら、ヒュームとカントの時代以来、形而上学は、理性の正当な検査としての嫌疑のなかに置かれており、今日的な哲学においては、強い反形而上学的な思潮がある。神学者もまた、形而上学者への依存から、自分自身を解き放つことを探し求めてきた。こうして、神学の間に、理性の思索的な役割に関しての嫌疑が広がっていると実際に言えるであろう。070501そのような嫌疑の事実があると言うことで、もちろん理性的な思索への正当性についての疑問は、据えられない。私達が、理性の事柄を見ていくべきなのは、当然の過程である。しかし、私達が文化的要因としてまた、適用される思考の反思索的な風潮に注意を払う限り、私達の時代に述べられる神学は、思索的な理性に、いかなる大きな依存をも避けるように求めるであろう。
しかしながら、理性から離れた諸点があるが、理性の思索的な課程に近かい、何か理性の機能があるように思われることを指摘したい。私は、精神に、私達が理性全体を作りあげ、理論を作り、観念の連結組織を作る構成的な理性の使用を持っている。しかし、それは、演繹的な議論によってではなく、むしろ、想像的な跳躍によってである。それは、いわば、内包全体において、断片的な要素を統合するのである。070504もちろん、そのような想像的な跳躍は、ただちに、試験され、精査されねばならない。しかし、この種のあるものは、もっと知的な訓練の内に進行しており、自然科学を内包している。このことは、理性の“知的体系”の機能と呼ばれうるし、それはなにか共通して、唯美的な感覚を伴っているように思われる。はっきりした良く構成された神学は、一貫した表現を目的としており、たとえもし、神学が、思索的な理性を避けるにしても、その神学の形の何かと一般的な構造を、知的体系の理性に、負うであろう。たとい神学者が、その理論において、理性に小さな地位しか許さないとしても、彼は、時々そのような神学の考案と混合体の神学的構造の建築家なのである。神学は、彼ら自身、偉大な知的体系そのものに匹敵する想像的な理性を、与えられていなければならない。カール・バルトは、明らかな模範である。070511
理性は想像力の使用に反対しないし、むしろ実際には、想像力を要請する。理性と想像は両方とも、理解のために知的な探索において、おのおの位置を持っており、おのおのは他方を必要とする。神学において、時々理性的な演繹は、信仰の真理の私たちの理解を広げることができるし、その時たとえば、ひとつあるいは中心的な教義から、周辺的な教義は推論される。しかし、中心的な教義というのは、それ自身、理性的な概念の範囲を越えて、私たちを指し示すところの象徴や寓話や想像的な隠喩の借用を通して、よりよい理解へと来ることができるのである。しかしながら、その時、想像性の豊かさと想像性の神話的な傾向は、理性的な批評によって、検査される必要があるかもしれない。070512
今や、私達は理性と批判的な理性とに割り当てられた2つの広義の区別の2つ目に向かうべきである。これはそれ自身、説明と矯正実行の理性に再分される。説明的な理性というのは、たとい彼の態度において、理性に対してかなり消極的である神学者においても、認められるであろう。理性の説明的な機能において、理性は、振るい分け、分析し、説明する。更に一般的に言えば、啓示の内容に光をもたらすのである。この理性の使用は、理性をもっとも低い状態に減じるところの神学者によると、一つの自律的な実行ではなく、啓示それ自身にまた、おそらく啓示の神的な啓蒙に従うべきであり、その結果、理性は啓示への全き従属なのであろう。;しかし、別の神学者は、一般的に解釈の導きによって、成し遂げる解釈学の原理と同じ聖典によって理性は啓示を解釈しなけらばならない事を保持しているであろう。070522理性の矯正的な使用は、神学においてより広い役割を指摘するが、しかし、まだ、思索的な理性に全くとどかないと言う人もある。(理性に補助的な機能を禁止する人々によって拒絶されている)矯正的理性は、啓示を導き、啓示それ自身を断言し、その信任を考査し、啓示を査定と批評に服させる。そして、矯正的な理性は、保たれている他の良く基礎づけられた確信と和解できない衝突を起こしており含んでいるかもしれない啓示内容を、除去していく。矯正的な理性の使用は、この本において、強く支持されるつもりである。なぜなら、矯正的理性なしでは、啓示が私達自身に担わしてることを探求し、いかに支持された啓示の主張でも、私達は、大きな犠牲をおわすことになるだろう。070525/理性/宗教の観念は、理性的な形而上学の上に基礎づけられたものとしての考えにおいては、不可能であるかもしれないし、望ましものでない。しかし、私達は決して、/理性/的な宗教の観念を放棄しないし、その宗教の内容は、吟味と批判的な理性の矯正的課程の元に従属するという意味においてである。私は心から、ウイリアム・テンプル(William
Temple's)監督の注意に同意する。初期バルトのように、批評において小さな役割しか理性に与えない時に、バルトは以下のように言明した。「啓示は、長い目で見なければならないが、迷信として公言されうる痛みがあるが、その主張を履行された理性によって、弁護することができる。」16
Nature,Man and God , p.396 後期の著作において、バルは、理性に高い位置をあたえと思われることは、本当であり、その結果、テンプル監督の批判は、今日、おそらくバルト自身よりも、バルトの弟子達のあるものに、より強く適用される。しかしながら、理性の軽視が見いだされるところはどこでも、どんな過度の理性の軽視も、嘆かねばならない。私達はこの問題について、後にもっと語るべきであろう。070526
その間に、神学における形式的な要因である理性は、主張をしていく。ー単に、説明的な理性のみでなくて、矯正的な、知的体系な理性としてである。思索的な理性への問いは、その疑念を私達は見てきたのであるが、より大きな討論にさらされなければならない。他の形式的な要因の場合のように、理性は時々、神学において、誇張された役割を演じている。そして、理性は啓示に従属させられる事さえできるし、経験は、あらかじめ横たわってしまっている硬直した理性に従属することができる。しかし、今日の流行の神学様式においては、理性のこの過大評価は、理性の場所を過小評価すべき事よりも、危険が少ないように思われる。 070428
3,教義の発展
神学における原則的な形式的要因のこの探索は、主題の複雑さを見るように、私達を導く。そしてまた、私達にいかに、そのように広く異なる神学の様式が様々な時代に、実践されて来たかを示し、しかしながらこの多様性は方法論の問いに関わっており、まだなお、熟考されているのである。一つのあるいは、他の形式的要因の誇張は、神学的な歪曲に導くにちがいない。経験にあまりにも大きな強調をおく時、個人主義、熱狂主義、最も酷い時は、狂信主義となる。啓示に、聖書に、またそれを媒介する伝承に、あまりにも厳密を強調する時には、反啓蒙主義、骨董主義、超ー根本主義を導く。文化様式へのあるいは、宗教の内容の研究を試みる時、それは、宗教的な経験や啓示から離れて、何が理性的に構築できるかの見地からであるが、このような適正な神学の指導からあまりにも遠く学ぶ人々は、特有な宗教内容を除去したところの浅い近代主義と理性主義に最後にはなってしまう。070601異端とは(その言葉の由来は“自分自身のために取る”いわば、“個人の優先”を意味していると思われるが)、他のものを犠牲にして一つの要素を誇張してしまうことからくる神学のゆがんだある種のものなのである。
その時、神学は、形式的な要因のなかで、緊張あるいは、良き均衡を保たねばならない。そして、このことは、立ち替わりほとんど不可能として、非常に困難と思われるかも知れない。しかし、その異端の危険の自覚は、危険を避けるための一つの段階である。それ以上に、神学的な自由が、制限の中で権利としてあり、それは、ある見地を強調し、状況において、強調することが必要と思われるところで、ひとつの方法を用いるという自由である。この自由は全く広いものであって、たとい、比較的に権威主義的な教会においても、しかしながらすでに示してしまった通りである。神学が、罪を犯すことができる時のいくつかの指摘があるが、それは、もし、キリスト教的な神学を止めることを解決しようとする時、私的な個人的な宗教哲学になる時のみである。しかしながら、まだ、自由は宗教への主なキリスト教哲学のなかにもある。070604議論の最中であるが、神学的な自由は、行使されつつあるという見地と神学的な前進は達成されたという見地の間に、進行している。
私達が、聖ビンセント・レリンス(Vincent of Lerins)の言葉“どこでも信じられてきていることは、いつでも、どこにおいてもである”を引用する時、これらの言葉は、キリスト教の教義は、静的で変えことのできないものであるということを、示唆している。しかし、同じ著者は、以下のように語っている。“個人において、大きな成長や精力的な前進があり得るべきであるように、同じ様に、全き教会においても、理解、知識、知恵において、時代と世紀において、進行すべきである”。17 Commonitorium,]]V,28たとえそこに、いくらかの最初のまた基本的な摘発があっても、一般的な合意はある。しかしながら、教義的な発達や神学的な前進が、与えられている所では、継続的な再構築がなされ、言葉において新しさが表現されている。しかし、このような発展の本質については、考慮されるべき不一致がある。070605
教義の発展の過程において、新しい真理は、純粋に明らかになるのであろうか。あるいは、発展とは、その起源において、すでに与えられていた真理を、はっきりさせる事柄のことのみであるのか。人は、正しく“発展”を語ることができるのか。あるいは、神学者の抗争を見つつ、世俗の知識の前進のとして、それを受け容れることをなすのか。すなわち、古い教義は捨てられ、それらは改革され、あるいは受容される目的で、もっと適切な方法で、再定義されるのであろうか。あるいは、おそらく、共同体において無反省に出てきた実践や信仰の為に、神学的な正当化を準備する理性化における実行なのであろうか。070609
神学の発展の問いには、単純な答えはない。しばしば教義は、偶然の課程で、発展したように思われるし、それらはある時は、文化の受容においてと思えるし、時々単に、合理化の時もある。しかし、合理化の問いにおいては、信仰共同体における信仰と実践の関係は、互恵的なものであることを忘れてはならない。時々、一つの洞察は、洞察の為の神学的な基盤が、はっきりと理解される前に、実践的な水準で得られる。そして、神学発展の根拠が後から理解されると言う事実は、それゆえに、神学の発展は単なる合理化であると言うことを意味することはできない。神学的な理解として、とぎれることなく前進し深まるという意味で、キリスト教教義の真すぐな発展が成されてきたとは、言明できない。しかし、神学の発展は、より多くの内的な力動と外的な影響の圧力としての与えられた啓示の創造性にかかって来たということは、同意されうるであろう。そして、そのような影響によって、以前呼ばれていたより異様な発展は、やがて、弱まる傾向にある。
神学的な発展において、どちらが純粋に新しく現れるのかとの問いにおいては、人は、ある種の継続性の糸を持つことなしには、“発展”について語ることはできない。マウリス・ウイレス(Maurice
Wiles)は、“教義における過激な不連続性の観念は、厳密には考えることはできない”18 The Making
of Chrisitian Doctrine,p.167 と注意している。神、罪、恵み、救いのようなそのような根本的な神学的な概念は、継続的な再考を必要としている。しかし、もし人が、まだ、キリスト教伝承において、あるいは、他の神学において語ることを主張するならば、再構築や再定義の可能性は制限がある。しかしながら、発展の制限において、純粋な新奇な洞察が現れうるというのは、正しい知識である。発展の制限において、信仰の共同体は、それ自身の出来事において、自分の信仰の発展の正当性が何であるか、何を受け入れ無いのかを、決定せねばならないのである。070611
人が神学の歴史を見る時、その印象は、しばしば、振り子のように、こちらの位置から反対の位置の道に、すべて揺れているように、見える。そして、その時、おそらく、後の時代は、再び後ろに揺れるのである。同じように、多くの学びを忘れてしまっているように、思われる。その結果、同じ昔の論争が再び現れるし、しかしながら、新しい用語に、騙されるのである。全て、ある意味でこれは避けられない。070612神学者というのは、神学の完成に寄与するために、様々な要因の均衡を保っていると堅く信じている。しかし、それにもかかわらず、彼自身は、いくつかの点で加重圧にさらされている。なぜなら神学者は、神学者が反応している神学において、理解されていると思われるからである。神学が進む時これらの重圧と緊張は、私達が、昔、休らう事ができる最終神学というものはありえないということを、かつて私達に、思い出せて突きつけている。ー聖書神学でもなく、聖トマスの組織神学でもなく、あるいはルターやカルバンの思想でもなく、しかしながら、実際それらすべては、永久的な、絶対不可欠な洞察を含んでいるにも関わらずである。しかし、全ての神学は、歴史的にまた文化的に条件づけれらており、その結果、なす事を望むことができる最高のものは、共同体の最初から主張されている信仰に参与することを通して、不等な誇張や省略また歪曲をすること無しに、それ自身の時代の為に“最もはっきりとそして最も一貫した適切な言葉”で、その信仰の内容を言い表すことである。070615
4 他の諸学科との関係における神学
ひとつの知的な学科としての神学は、人類の全ての知的な企ての部分である。そして、それゆえに、他の学科との関係の中に立たねばならない。知識の統一の観念は、実現できないかも知れないが、しかし、私たちは、可能な観念に近づくための接近への努力を止める事はけっしてできない。百科全書的な天才、アリストテレスやレオナルド・ダ・ビンチは、自分の時代を適切な知識で、包含できたが、その時代は、確かに過ぎ去った。そして、知識は、広がり、その断片と特殊化は、増加しているように、思われる。私達はしばしば、私達の時代は断片文化であると聞いている。だれも、この事柄の状態を健康と主張することはできない。この断片は、他の学科との関係において神学を熟考するときに、明らかである。なぜなら、共に、世俗の学問に触れることを失っているし、仲良しになったり、密教になったりしているように、思われるのである。私達は、いわば、日曜日の心性と週日の心性を持っている。私達は、それらに離れて保つことに成功しているかもしれなが、この方法において、私達は、ぱっと燃え上がるそれらの間の隠れたあつれきを、保護している。しかしながら、このことは、宗教を特殊化し、何か生活を希薄化する部門として、制限するという犠牲のもとに、成されているのである。一つの見地において、神学と他の学科との間の境界を説明することは、軋轢を動かすのみならず、もっと実証的に、互恵的な照明を得る希望において、もし、私達が、生活や文化の断片化に不満足であるならば、避けることのできない一つの課題なのである。070617
神学と他の学科への問いは、神学における形式的要因の間で、文化と理性を考慮したときに、すでに紹介されたテーマの1つの展開である。今や、私達は、いくつかの特殊な高度な部分の密接な研究を選びつつある。それは、神学と文化の間の要因が進んだときの相互作用である。4つのそのような部分を、簡単に討論したい。それは、神学が、哲学に入るときの関係であり、歴史、人間科学(人類学、心理学、社会学)であり、自然科学である。
1./哲学/に対する神学の関係から始めたい。なぜなら、全ての他の学科の中で哲学は、神学に最も近く立つ一つの学科のように思われるからである。表明された信仰の基礎において、神学は神について、人間、また世界についての確信を説明する。哲学の歴史の大部分の中に、哲学は同じ問題を扱って来た。しかし、それは信仰の基盤に付いてではない。070618;むしろ、哲学は理性と秩序的な哲学の導きための経験を主張している。どのように、2つの思考のより糸は関係しているのか。あるいは、本当に、すっかり関連づけられているのか。
初めから、神学者は、その関係の本質について違った見地を持って来た。そして、どちらにしろ、神学自身の科目と哲学の間の共通の基盤が、認められるべきである事が望ましい。神学における理性の場所に関する2つの見地は、前に述べたが、典型的に、哲学に対する神学の関係の特別な表現を、見いだしている。教会の初期の時代において、私達は一方で、神学と組織的な哲学の間において、同盟の擁護を見いだす。たとえば、聖ユスチン マーター(St.
Justin Martyr)は、プラトンやストア学派について語る時に、彼らは、言葉(logos)、これはイエスの中にあるが、これを共有していると語っている。“全ての人間の間において、どんなことも正しく語ると言うことは、私達クリスチャンの財産である”19 Second
Apology , ;また、アレクサンドリアのクレメンツ(Clement of Alexandria)は、哲学は“実証の道によって、信仰に到達する為のある種の準備の訓練として、真の宗教を主張している”20
Miscellanies,T, と言うことを保っている。070619反対に、 タチアヌス(Tatian)は、その哲学をあざ笑い、ののしり、時々、ぞんざいな仕方で、21
To the Greeks,-,,etc 一方、テルテリアヌスは、哲学者の考えを、“神的な本質と秩序を、早まって解釈するこの世の知恵、”12
On Prescription against Hertics, と同等視している。私達が、神学における理性を議論した時に、私は、教会の主な思考の流れは、理性への結びつきに好意をもっており、それゆえに、哲学にもである、と論じた。しかし、いつも生きた反対のあったことも容認した。しかしながら、私自身の見解は、理性と哲学への積極的な関係を、要請する主な流れに沿って、進んでいる。反対者は、批評的な精密さのもとに、関係を保ちながら、必要な仕事を成し遂げて来たことを、言わせてほしい。そして、時々神学や、時々哲学が無分別にあったと同様に、歪められてしまうことできる関係の悪い形に反対して、戦ってきた事を、言わせてほしい。070622
問題は、そのような同盟において、一つの部分が、他の部分の光を奪う傾向にあると言うことである。そして、正当な自由のある他方を、奪うかもしれない。中世的な総合においては、神学は支配的な仲間であり、哲学は、神学の手製作品となり、哲学の援助者になる傾向があった。しかしながら、観念論哲学の偉大な時代において、その状況は反転した。そして、神学は、思考構造の全てを奉するまさに、一つの部分になった。神学者は、時々理由無しに、信仰に関連している特有の啓示が、飲み込まれてしまうこと、そして、一つの同類の形而上学の中で、中性化され、歪められるかもしれないと恐れている。
神学と哲学の現在の様式は、疑いとよそよそしさの傾向にあり、各々は、その学科が受けたあるいは、他の手によって、受けてしまって与えられた傷を、思い出しているのだ。神学と哲学の両方は、自分自身の自律を維持しょうと決定されている。カール・バルトは、神学の持つべき事は、哲学というエジプトの束縛から解放であると語り、一方典型的な哲学者の観点は、文化を世俗化において見ているが、ギルバート・レイ(Gilbert
Ryle)によって、神学の導く糸から、哲学を解放すると表現されている。その結果、哲学は今や、自分自身の仕事に邁進して行くことが可能である。しかし、これらの独立宣言において、時々むしろ、狂信的な愛国主義がある。過去の関係を歪めてしまっているかもしれなという事実は、健康な関係ができないということ、あるいは、2つの学科は、すねた独立において、彼らの分離した道を歩まねばならない、と言うことを意味しない。私は信じているが、これは、不幸な事であり、現代文化の断片化を、まだより、高めているであろう。070623
私達が今日に状況を見るとき、神学と哲学の学科の間にあるよりよい関係が、確立されることができるという希望の基盤がある。私達はすでに形而上学が評判を落としている事を見ている。そして、新しい形の哲学が現れている。そのように、神学は形而上学の縫い糸になってまうという神学者の古い恐れは、哲学への積極的な関係においては、もはや一つの障壁では全くない。今日、いくつかの哲学者は、全てを包容する体系の構築に、従事しており、その優勢な傾向は、総合でなくて、分析である。一方、実際、ある伝統的な学派はまだ、次のように思っている。明白に20世紀に属している哲学的な動向は、形而上学から離れて立っている。/分析哲学/Logiocal
Analysis は、自分自身に、議論についての私達の違った様式への批判的な精密さを、含んでいる。;分析哲学は、哲学の偉大な問題として、何を使用して用いるのかという実体について、何も語っていない。むしろ、探求を目的として、どんな主題について討論するにしても、混乱を除去する形式的な学科をそれ自身、熟考している。/実存主義哲学/Existentialismは、分析と似ているが、しかし、実存主義は、哲学のためより実体的な内容を認めている。;分析されるのは何かが、存在の種々の様式における人間の存在であり、そして、哲学の目的は、人が自己理解に到達すべきであるということである。070628しかし、全ての実存哲学者は人間の力の限界について同意しており、そして、人は、形而上学において見いだされた理解可能な知識無しに生きねばならない、と言う存在のまさしく本質に属していることに、同意している。ある哲学者は/存在論/ontologyか存在の哲学を、実際に発展させており、この存在論は、いつも、存在の基盤の上に、かかっていることを主張し、理性の思索的な訓練によって、形而上的に構成されたものとは、異なると主張している。/現象学/phenomenologyの学派の影響のあるものも、また、同じことを言及されるだろうが、しかし、現象学は再び、形而上学から遠く離れたものであり、それは方法論であり、哲学的な問題への侵入を準備することを企てた叙述の技術なのである。070630
神学者は哲学的な企てのこの領域から離れることがあってはならない。なぜならば、ここには、神学者自身の仕事において、多くの偉大な価値があり得るからである。イギリスの神学者、イアン・ラムゼイ(Ian
Ramsey)のようなものは、いかに論理分析哲学が、より明確なより良い神学において、役立つことかを示しつつある。新約聖書のルドルフ・ブルトマンの解釈は、いかに多く、神学は、実存哲学の参与から、利益を得るのか、証明している。存在論と現象学は、パウル・ティリッヒにおいて、支配的であり、しかしながら、ティリッヒの場合、彼の心と彼の仕事に、古い形而上学的な様式を残しているというティリッヒの批評的な主張のいくつかは、ドイツ観念論の伝統によって形成されてしまっていることを、容認せねばならない。
哲学のいくつかの形而上学的な型というのは、また、以下のように、言及されてきた。彼らによって、まだ影響を受ける私達の時代の大切な神学者があるから、思考における形而上学的な様式は、言及する価値がある。/課程哲学/prcess
philosophyは、主にホワイトヘッド(Whitehead)の上に基礎づけられているが、経験主義や自然科学への近い類縁を持っており、アメリカの神学者において特別な影響力を持ち、有神論の再構築に重大な寄与をしている。/弁証法哲学/(dialectic
philosofy)は、ヘーゲルからマルクスを通り、ブロッホやマルクーゼのような現代思想家につながっているが、ドイツにおいては、その影響力を新しくしており、そしてその強い社会的な強調は、モルトマンやメッツ(Metz)の様な神学者に、実存主義の断言的な個人的な傾向へと訂正されているのを見ることができる。070702最後に、聖トマスの/永久哲学/(perennial
philosophy)は、最近受け容れられている。とりわけ、超越的なトミニズム(Thominism)として、その動的な形式においてである。それは、第2バチカン公会議に参与し、新しいローマカトリック神学の様式に力強く貢献したのである。私達は、私達の研究の最後の段階において、新しいカトリック神学に注意を払わねばならないであろう。
哲学においては、哲学の側において、神学に触れ続けることにおいて、何か得るものがあるのか。おそらく、神学者がなにか哲学の利益において企てる事は、生意気な事であろう。しかし、私は、神学は、哲学者が、現代の技術社会において見過ごしてしまいがちな経験の次元による気付きを、保持していると信じている。誰も哲学が神学に貢献すべきだとか、あるいは、哲学の自由を離れるべきとか、欲していない。なぜなら、哲学の文字通りの独立性は必要なのである。神学の必要が、哲学を歪めようとする批評的な圧力を維持し、もし、哲学が明快さと一貫性を探し求めるならば、である。しかし、同時に神学者は、哲学者が神学を厳密に受けとめてほしいと希望するであろう。実証性への傾向は、哲学は、実際、神学の手引きを、求めていると受ける事ができるであろう。しかし、哲学は、自然科学によって、支配されている新しい労役に落ち込んでしまったのである。070703
私は、積極的な神学と哲学の関係は、確かに神学に取って良いだけでなく、おそらく哲学にとっても同様であると言い続けている。この関係は、過去の時代にあった習慣的な何かとは違っており、私達は、類似に関してと同様に、健康的な緊張に関して考えなければならない。しかし、私は、どんな神学も、哲学的な弁護的な基礎なしで、構築できるとは信じないし、そして、どの有益な神学も、哲学との談話の義務なしに、逃れられるとは、信じない。これらの事柄についてのよりいっそうの言及は、私達が、哲学的神学の主題に来てから語るであろう。
2,/歴史/は、関係からみると神学が立つ所の別の学科である。そして、この関係は、キリスト教神学においては、とても大切のように思われるのである。つまり、その起源を日付のない神話や無時間の律法や哲学の真理におくより、むしろ一人の歴史的な人間の啓示に、持つからである。しかし、神学と歴史の関係は、非常に交錯したものであり、多くの分派をもっているように、思われるのである。ちょうど、哲学者が、形而上学から離れてしまったように、今日の歴史学者は、歴史へのどのような思索的な解釈にも疑いを持っている。070707歴史に対する私達の見地は、何かある確信を主張するこのとできる為には、あまりにも制限されているということを認めている。すなわち、私達は、歴的な出来事において、ある顕著な模範を識別できるということ、つまりある神的な完成の目標を目指して出来事の動きや備えられた計画を作り上げるといったようなことの模範の制限である。歴史の解釈を全て包含することは、特に、神学的な包含、すなわち、聖アウグスチヌスやヘーゲルによって提案されたものを私達が見いだす時、もはや関心にも価しない。シュペングラー(Spengler)やトインビーのもっとも近代的な歴史構成でさえ、今日、正当的な歴史解釈として、見なされる最も同時代の歴史家が、準備しているものから、遙かに遠く離れているのである。このように、今日の神学者は、歴史家に、歴史のある理解できる形而上学を、準備することを見ることはできないであろう。しかし、神学者は、神学と歴史が、全く限定され、制限され、外接してはいるが、相互作用している領域を考えることができるであろう。いくつかのそのような領域がある。070710
最初に、言及したいのは、一般的な/宗教の歴史/histry of
religion と宗教の比較研究は、歴史の基盤の上に、可能であるとされてきていることである。つい最近において、全世界の信仰の展開、すなわち生成と消滅の両方の追跡が、開始されたのである。神学が、信仰の起源と変遷の特定の信仰を解明して以来、宗教の哲学と同じ様に、世界の信仰の全変遷範囲を、それ自身で比較することは、不可能なのである。しかしながら、宗教の歴史が、他の信仰において、たくさんあることを示したことが、自分自身の信仰にも、多くの平行部分があると言うことに、注目しなければならない。宗教の歴史は、自分自身の宗教共同体の信仰が、一つの孤立した現象ではないと言うことを示す。この点における神学に対する歴史の影響は、唯一の規範的な状態を持つという、いかなる啓示の主張にも疑問を呈している。歴史の研究というのは、どんな領域においても、広がった効果を持ち、宗教の領域においても、少なくはないのである。ここに、相対主義的な傾向をさえ指摘できる様に思われるかも知れない。しかし、反対に、この相対主義は、神的な啓示の究極的な主張と相対の上に基礎づけられた信仰の衝突と思われるかもしれない。他の信仰に対するキリスト教の関係そして、キリスト教啓示は唯一の状況であるかどうか、あるいは、他の啓示へ状態への類似のひとつであること、あるいは疑わしい啓示は、時がくれば討議に上がるであろう。一方、私たちは気づいているが、この問いの出された一つの関連ある要因は、歴史によって出された証拠であるにちがいない。070114
/キリスト教の起源の歴史/は、神学にもたれかかっている歴史探究の別の領域である。私達は、すでにこの点において、注目したのであるが、いかに歴史的な探求と批評が、聖書へのある可変的な態度をもたらしてしまったか、ということである。ちょうど歴史探究と神学の直接的な結果が、聖書全体から無作為に選ばれた多かれ少なかれの“証明聖句”proof-textsと呼ばれる引用によって、決して、再び構成されないように、人は、宗教改革後の期間に、形成された信仰告白の中に、実践を見出すようには、できないと主張するかも知れない。しかし歴史的な探求は、すでに疎遠になっている。なぜなら、聖書への態度が問題となっていること以上に、新約聖書の含んでいる出来事の記録が、浸食されているのである。歴史的イエスへの私達の知識は、様式批評がその仕事をなした後で、何を残しているのか。いかに/神学にとって/歴史的イエスについての何かを、知るべきであることは、大切であるのか。イエスは、自分自身で決してメシアMessiah意識を持たなかったという多くの歴史学者の今日の主張は、何か/歴史的/な大切さがあるのか。これらの質問とそれに似た他のものは、私達がそれについて討論する主な場所に来るまで、延ばされなければならないだろう。しかし、それらは、ここに、神学者が、歴史家が何を言っているのかを、注目するべきところで、いかに神学と歴史が、一般的な関係の領域を見いだすことに結びついているか、再び言及されねばならない。070716
/歴史的な実存/と言う概念の一般的な見出しのもとに、何が含まれいるのかは、大切過ぎる問題である。しかしながら、歴史の思索的な解釈は、脇において、人は誰も、ある歴史概念を持つことなしに、歴史を学ぶことは、できない。;すなわち、哲学の時に見たのと同じように、私たちは、哲学の分析的な用法によって、形而上学を代用させることはできない。その結果、歴史の古い思索的な解釈は、もっと批判的な一つの試みによって、置き換えられている。それは、私達が“歴史的な出来事”によって何を意味しているのかを決める分析のある種であり、そして、いかに歴史的出来事が関係しているか、あるいは、私達が“自然の経過”と呼ぶことと違っているか、なのである。すべての人間存在が、歴史的な存在であることを認識することは、何を意味するのか。いかに、私達は歴史において閉じられた過去に関わるのか。全ての人間の思考と語りが全て歴史的な限界の中にあることは、何を意味しているのか。神学において、とりわけ、キリスト教神学において、そのような問いに、はっきり答えて行くことは、最も重要な事柄を、担っているのである。070717;なぜなら、キリスト教信仰において、ひとつの実際的な歴史的な実存は、啓示の運搬員であるとの要求が成されており、そして、この要求は、いかに昔の出来事が、今日生きている人に必要であるのか、というより重要な質問を起こし、ー“救済史”(Heilsgeschichete)と呼ばれるものは、今日、遠い過去の中に忍び込んでいるが、効果的な救いとして未だ理解される事ができるのか、との問いを出している。幾人かの歴史の理解者は、これらの事柄に対するキリスト教の教えを、理解しているように思われる。そして、この内在的な理解は、歴史的な実存の本質について、歴史の学生は何を学んで来たかに沿って、公表し、試すことを必要としている。
これらの救済史への問いは、現代においてはもはや生じておらず、しかし、なお、暫定的な方法であるが、問いを起こしたと言うことは、私達にあの救済神学を示したのである。もし、キリスト教神学が成しているように、歴史や歴史的出来事について語るとすれば、歴史家が、何を語っているのか無視できないし、哲学者について、その過去になしたようには、無視できないのである。神学は、これらの世俗の学科に、開かれなければならない。070720
3,神学はまた、/自然科学/とも折り合わなければならない。それは、とりわけ、人間学、心理学、社会学のような研究である。これらの研究は人間の生活現象をとりわけ探求している。これらの研究は、自然科学のように、純粋に科学的にさえなることができるということは、避けられい部分でる。しかし、これらの目的はあきらかに、科学的であるということであり、それらは、観察、計測(静的か他かの)また、実験によってさえ、前進しており、それらの科学は、私達に人間生活の科学的な総体のあるものを、提供することに置いて、注目すべき差があるのは、はっきりしている。人間生活の現象にそって、それらの研究は、宗教を見いだしており、その結果、それらの研究のおのおのは、自分自身の観点から、宗教の総体というのを、提供している。一体、どのように、宗教のこれらの科学的な総体というのは、神学に関係しているか。
多くの研究の忍耐深い仕事を通して/人類学/は、宗教の起源について、また、宗教の進化の初期段階について、多くの光を掲げている。人類学は、斬新的な発展の課程、注目すべきことに、事実であるが、時代から時代への跳躍する前進、しかし、全体の一貫性を私達に示している。人類学は、今日の偉大な宗教が、原初的な信仰にから始まったこと、そして、それらのある特別の場合においては、その進化の過程を詳細に、たどれることを、疑いえないこととする。原初的な信仰には、無知、誤り、疑い、幼児的幻想、そいて、自己中心が、染みこんでいることを、示している。070723時々、大騒ぎをすることなしに、宗教の謙遜な起源は、宗教の起源を疑うに十分であると結論づけられる。おそらく、科学自身、部分的には、魔法や託宣(オカルト)の実践から、始まったのであり、しかし、この起源は、科学を傷つけはしない。科学と宗教の両方は、それらが今何であるかによって、判定される事に値し、昇ってきた所と同様に、降ってきたところからの発展の全過程を、適正に読むことによる。;いわば、宗教の場合において、高い出来事の始まりは、原初的な宗教の実践においてさえ、認めることができるように、同様に、発展した宗教において、野蛮な時代の遺産を、認める事ができるのである。070724科学としての人類学は、事実をもたらし、私達の注目する事実へのつながりを、もたらす。しかし、私達が事実を解釈しようとすれば、直ちに、私達は、人類学が、自分自身の科学の基礎の上で、判断できないという事実を、紹介しなけらばならない。しかし、神学者は、神学者の観点から、いくつかの解釈の提供を準備しなけらばならない。そして、神学者は、幾人かの人類学者によって保持される実証主義や自然主義のものにしろ、これが正当の観点であると示す試みをしなければならない。神学者の展望において、これらの事柄を見ることの試みは、私達がすでに、歴史と宗教の関係において注目したように、神学者が“啓示”によって、何を意味しているのか、再考しなければならないことであり、とりわけ、もしも、啓示が、発展の一貫性の過程へのつながりにおいての習慣的な思考でなくて、非継続的、孤立した現象としての場合においてである。
/心理学/は宗教について、多くのことを語り続けて来ている。そして回心や神秘主義のような現象に対して、理論を提供している。回心や神秘の現象にもかかわらず、不思議さのあることは、提示されて来てしまっている。人間の心的な生活の内的な要因によって、どんな超自然をおくこと無しに、人間を越えた要因の働き無しに、回心や神秘の理解から離れることは可能である。心理学は、その上、宗教的な態度と信仰の起源は、少なくとも、過去において、ある必要を満足させたと示す。070727この観点の極端な発展は、フロイドによって見いだされた。彼は、宗教を、快楽の原理の最終的な拠点として、考えており、快楽原理とは、私達に、満足が約束され、容赦のない現実から私達を守る幻想を提供するものとした。070824しかしながら、ここに再び、解釈は経験の証拠を、越えしまっている。なぜなら、フロイドが学んだ“現実”はこの苛酷を持ち、耐えられない性格を持っているということは、心理学から出たのでは、ないのである。このことは、私達が後から振り返らねばならない宗教の心理学的批評を、最小限に評価するのではない。神学者は、心理学の批評に、理性的に応答できることを、良く信じることができるし、そして、一方で、心理学が、宗教的な信仰の起源と歴史の理解を与えることができる間に、それらの信仰の価値についてやそれらの主張の真理であるかについての判断の問いの時には、私達は、心理学の外に出て行かねばならない。しかし、神学者は、心理学者が明らかにしてくれたところの知識に結びついており、幼児性や未成熟が、宗教のもとそれ自身を隠しているとの偉大な仕組みをはっきり示したし、神学は、そのような要素を、粛正されるべきである。
これらを越えて、神学者は、宗教の心理学的な研究から学ぶことができるのみならず、心理学が、全体として、人間の心的な生活の上に投げかけているもの、結論的には彼の行動への光から学ぶことができる。言葉で要約すると、心理学は私達に、私達が信じる事を好むことよりも、理性的なことは、重要でないと明らかにしており;再びフロイドの仕事は、無意識の説明において、また、いかに無意識の要求が、私達の各々の考えを形作るのかを示す時に、重要性を持ってきている。神学が、人間、罪、自由そして、責任について語る限りにおいては、神学は、現代心理学が、何をそれらのテーマについて発見しているかを、考慮にいれねばならない。070824
/社会学/もまた、神学との接触点をもっている。共同体の信仰において、注意はその共同体を作った信仰に方向づけられている。この信仰は、なにか超越的な性格を持っていると考えられる。;共同体の外側から見ると、世界の中の共同体として現れており、同じ共同体は、動的社会の全ての法律に従い、抑圧、必要、恐れ、安泰への欲望、そして、他の純粋な内的な要因に、従っている。幾人かの著作者は、注目すべきはマルクス(Marx)、違った方法のデュルケイム(Durkheim)であるが、宗教とは、それ自身、社会的な現象として説明できる存在として可能である、と信じてきてしまっている。この命題は、強調しすぎたものでもあり、科学的な社会学の限界を遙かに超えていっている。しかしながら、社会学は、人類学と心理学と共に、そのふたをとったのであり、神学者達によって注目されるべきであった共同体の信仰を、その科学的信仰の観点を通して、明らかにされるのである。たとえば、教会のどの教義も、信仰生活と呼ばれる仲間としての教会でなくて、ひとつの社会現象として、その状態として、扱わねばならない。070904
この三つの科学の代弁者は、上のことを短く討論したのであるが、しばしば神学に対して敵対しており、以下のことを主張してきている。それら自身の科学的に成された調査は、神学の神秘性を取り去ってきており、3つの科学は、宗教を、純粋な内的な現象として示しており、この接近のこの種のものには親密性がある、とする。神学者の側では、これらの科学に、疑いをずっと持ってきており、競争相手としてきている。確かに、もし、3つの科学が、宗教の報告を徹底的に主張するとすれば、そのような主張は、3つの科学が、実証的な自然的な哲学を採用した科学の断言を、越えてしまっていることを意味する。ーその時、神学者はこれらの主張と戦わねばならない。神学者は、宗教の実証的な報告というのは、抽象的であり、一方に偏したものである、と答える。そして、とりわけ、宗教的な信仰への参与を欠いており、その信仰を、神学はそれ自身が知り、そのように宗教は保持されつづけており、外側の観察者からは近づきがたい次元に、現れてくるのである。070907
しかし、もし、神学者が誇張された主張に抵抗することを、私達が“人間の科学性”と呼ばれる所のことのために、強要されるならば、人間の科学性は、神学者が言わねばならないことと科学自身の仕事において、誇張された主張を報告しなけらばならないことに対して、けっして聞く準備がなされるべきでない。これらの科学は、神学者に、宗教の現象は、曖昧(二律背反)の性格を持っている事を、示すのである。信仰の目による啓示というのは、まさしく一つの秩序をもつ出来事に見られるのである。私達が、人類学や心理学や社会学が宗教について言うことに、注意を払う時に、神学者は、信仰によって何が意味されているのか、信仰が認め、科学が観察できないところの宗教の現象の中の、この特別な次元は、何であるか、何が、科学者が宗教について与えることのできる理解できる報告であるか、もっと浸透して熟慮することを、強要されている。;なぜならば、もし、神学者が、これらの事柄の考察を望まず、できないならば、その時、実証主義は時代に勝ってしまうと思われるのである。070908
4,最後に、/自然科学/と神学的な啓示について、なにがしかを言わねばならい。ーそれは、一般的なテーマでは、“科学と宗教”と言われる。
全ての人は、科学者と神学者との間の過去の偉大な闘争の物語を知っている。コペルニクスとガリレオによって、発展させられた天体の新しい理論は、地球を、事柄の中心から外に押しだし、地球は動くとした。そして、これは、神学者の過去の啓示である地球中心の天体観を信じる神学者によって、酷く論争された。それから地質学の発見は、地球が百万年にわたり存在していることを示し、新しい論争となった。なぜなら、この時間の期間を延ばすことは、創造から下ってキリスト教時代への出来事の過程を、追跡するという“聖なる歴史”と喚ばれる枠組みを、ひっくり返すからである。おそらく、全ての闘争の最大のものは、生命の低い形態から人間の進化への問いであるダーウィンとその仲間との戦いであろう。なぜなら、これは、神学者の目には、キリスト教信仰へのさらなる一吹きだったのである。070911
全ての人は、これらの議論がいかに終わったのかは、知りすぎている。それらのすべては、神学者の退却において終わった。争う予知のない証拠によって指示された科学の発見は、受け容れられ、たいていの神学者は、彼らができた新しい状況と同様に、自分自身を、適合させた。
時々、私達は、この論争を、一方の側の勝利であり、他方の側の敗北として、考えるべきではないであろうとされ、むしろ、両方の側にとって、2つの学科の境界がどこに置いてあるのか、ひとつのはっきりとした理解をもたらしていると言われる。この見解は面子を保ち、しかし、それは真理である、という点に達している。古い論争は、表向きに、聖書によって、立てられ啓示された真理への科学的な対比として取り上げられてきた。今日の神学者は、現代科学の発見したものと拮抗する聖書における言明は、聖書が証言を負うところの啓示の部分ではなく、単純に、聖書時代に流行した科学の考え方の反映であると言うであろう。神学者は、科学によって導かれねばならない経験的な事実を、受けねばならないし、はっきりと言明するために告白した神学と啓示は、どちらも、そのような事柄については、何も、言うことはできないのである。反対に、科学は、経験世界に基礎づけられていない信仰の事柄に対して、発言できないと主張されてきている。070915
ある程度まで、科学と神学は、そのようにお互いに独立してきた。経験上の事実について、神学と科学が再び争うことは、ありそうにない。時間において、世界はいつ初ったのかどうか、とのそのような問いでさえ、今日は、科学的な宇宙観に向けられるであろう。電波望遠鏡の発達において、何百年前に起こった出来事を、私たちは認める事ができるし、この質問は、根本的に、経験的に解決されることのできるものである。
しかし、科学と宗教の間の戦いというそのような考慮からの結論は、終わったとか、宗教と科学は共存のために、関係を調整されてきたというのは、時期尚早であろう。これからの論争は、過去にあったそのままでないであろうが、緊張感の強調はもっと苛酷になるであろう。070921しかしながら、聖書と啓示に対する申し立てられた真理の矛盾という見せかけ上の古い論争にも、関わらず、多くの深い亀裂があった。私は、コペルニクス的な進化の真の衝撃は、単に、聖書の宇宙観に挑戦したと言うことでなくて、もっと根本的な水準において、保護された人間がかつて経験したところの最大の挑戦を提供したのであり、まだ全く完全に折り合うことのできない外傷経験を、保護された人間に負わせたのある。中心から移動させられた人間によって、いかにして徐々に、保護された人間の特権が剥ぎ取られ、荒野に入っていくと言うことが、始まったのである。時間の期間の拡大と進化の理論は、単純にこの道にそって進んでおり、ますます全宇宙における人間の取るに足なさを、はっきり、強調してきている。この故に、人間があるかもしれないそのような力に関わるべきであること、あるいは、科学者が特別な啓示を、人間に承認することと言うようなありそうなことは、衰えていくであろう。聖なる創造の歴史、堕落、あがない、最終的な成就といった人間への神の取扱を中心に置いて理解すべきであるという宇宙観の課程をみる古い思考は、感傷的に改良されるだろう。実際、信仰の本質的な真理が、現代世界の見解の流れから、再言明される場合もあるであろう。しかし、その課程において、深く修正することに失敗することは、できないのである。私達が、ブルトマンが、彼の表現を用いると、ある種の“非ー神話化”という、なした方法を受け容れるか、否かにせよ、成し遂げることは、始まっているのである。070925
世界が人間の必要のために立てられてきたという、人間の古代のまた幼稚的な幻想を破壊する者は、それは科学だけでない。それは、人間にもまた、自動調整の機械のように、その構造の中で、異なる事柄によって、各々の出来事が適切に起こっていることとしての宇宙として、理解され認められていると教えられねばならない。科学者は、宇宙の動きを保つために言明された“超自然的な”力を主張することを、ゆされているか、必要として認めるのではなく、あるいは特別な効果を達成することを、時々、介在させるのでは、ない。私たちすべては、時々あたかも、科学者の見地が、実際に訂正されたかのように、生きている。この明瞭性は、神学者にとって、新しい問題を起こす。なぜなら、世界の中に、神的な行為を認めることの古い方法は、奇跡や摂理やそのような似たものは、出来事の自然的な過程を分裂させ、また、破壊する超自然の促された思考は、しばしば混入しているのである。今日、神学者は、この状況に以下の知識をもって、答えねばならないであろう。それは、全ての出来事が世界内の内部の連続した出来事に属していると見られることができるのか、しかし、神学者は、科学が見落としている次元の出来事の中に、また見ることが可能であると主張できるかである。しかしながら、ここで、私たちは、2つの強調された態度の和解という神学と科学の関係における、最もやっかいな問題に対している。実際に、科学が見落とし、宗教や神学者が気づいている次元はあるのであるか?。いつ、神学者は、科学者に、経験的世界を断念させるのか。科学者自身が語るべき何か、他のものを残していないのか?。これは、かつて再び、実証主義の挑戦である。神学者は注意深い説明をもって、彼の経験と概念と彼の神学が基盤としているところの議論の様式との知識によって、彼の実際の神学の口火を来ることで、それに答えねばならないであろう。この方法において、神学者の神学的なものを見る方法が、科学と同様に、世界に対する合理的な接近であるということを、示す希望をもっているであろう。これが、この本において、適当な時期が来れば続けられであろう手順である。070929
神学と科学の関係は、それらがかつてあったようには、単純ではなく、その交渉は、直接よりも間接であり、その限りにおいて、科学と神学の両方は、私達の世界に、また、私達の生活に、違った態度を引き起こす事ができるのである。まだ、幾人かの作家は、より直接的な接近を試みるものがある。彼らは、特別な科学的な発見からにせよ、あるいは、世界への一般的な科学的な見地からにせよ、宗教的な結論を議論している。そのような接近をなすものは、いつも成功するとは限らない。なぜなら、経験的な事実の世界の内において、けっして属しているようには思われない科学の経験的な発見における出発点から、宗教的な確信へと導く合理的な道を見いだすことは、非常に困難だかである。しかしながら、科学と宗教に関するいくつかの論考は、たといそれらが、一つの“宗教的な世界観”の構成に失敗しても、難点を解決しようとし、科学と宗教の見地が一致することを示そうとする試みは、その役割をもつのである。神学は、科学の特別な発見においても、霊の調査においても、科学と闘争していることに満足できない。
私達はそれで、神学は、この部門において、討論される学科に、関係を持ち続ける義務を持ち、繰り返すことで、終わりたい。神学は、科学者から学ぶこと、また、科学者のもつものへ関係することにおいて、自分自身の見地を制限し、関わることの両方において義務を持つ。071001
5,神学的な方法
神学の本質についてすでに、語られてしまった全てのことから、また神学の中に入る形式的な要因と神学にもっとも近いと思われる学科への関係とから、私達の研究の方法を導くであろういくつかの公正なはっきりした原理が、随伴する。しかしながら、それらの方法的な原理が、何であるかをより明白にして開始させることに、残りの部分を用いるのは、価値のあることである。
ベルナルド・ローナーガン(Bernard Lonergan)によると、方法とは、“再流する正規の形式であり、異積し、前進する結果をもたらす働きに関係した作用”と理解できるとする。23Method
in Theology. P.5 彼の広く行き渡る研究によると、ベルナルドは、神学のみの方法を包含するのでなくて、複雑な神学研究の全体の方法論を、包含している。ベルナルドは、未来を確立し、歴史的な位置に神学を置くことを、探し求める時に、聖書学者の探求と共に、始めている。そして、牧師や教師が、違った種類の人々にキリスト教信仰を、理解してもらうことを、探求することとして、終わっている。はっきり言えば、いくつかのそれらの方法は、神学固有のものでない。聖書学者は、他の歴史家と同様に、古典学者や教理の歴史家と同じように、本文(textual)批評と同じ方法を用いる。071002 神学固有の見地からは、次の様に言うことができるであろう。この本において関わってきたような教義の解釈のようなもの、また聖書的な、歴史的な研究は、予備的な神学の仕事を構成し、神学自身の素材を準備するのである。;他方、神学教育や説教は、神学に従属する特殊な技術であり、そして、高い特別な状況から、神学の洞察と通じている。神学の特有な方法は、具体的な状況においては、主の晩餐の行為に対しての本文の確定からなる中世のその過程の中に、横たわっている。しかし、神学というのは、より親密にそれらの関連づけられた研究と多くの知的な学科に共通している方法から部分的に独立しているということの両方の側において、重きをおかない。しかしながら、神学的な方法の核心部分に置いては、注意を呼びかけねばならない。071005
神学において、他の学問もまた同じであるが、研究の方法論は、複雑なものの一つであると注意されねばならない。また、おそらく人は、いくつかの研究が互いに依存していることをよりいっそう言わねばならない。しかしながら、私達は、はっきりした方法論を持つ特別な神学者に賛意を表したい。ーそれは、非神話化を示したブルトマンであり、相関関係を示したティリッヒであり、弁証法を示したバルト等の人々である。彼らのはっきりとした手順は、それらの神学者の方法を、徹底して制定するということでは、けっしてない。彼らは、彼ら自身の完全な方法を強調するよりもむしろ、神学的な方法の構造の中で、強調したのである。そのために、3人の神学が言及されたものの間で、どれほど違っていても、私達が、3人を、以前の時代のドイツ自由主義神学に対照しておいて見ると、彼らの接近方法において、共通の何かがあることをまた、見る事ができるのである。
神学的な方法においては、実際は他の学問の方法においても同様であるが、様々な接近の手段と同格であり、各々のその強調の違いを帰する(内的にも、外的にも)横暴な理論的根拠/rationale/がある。これは、この章の初めの段階で言及したのであるが、その想像的なあるいは体系的な機能において、理性の構造的な役割と一致している。24
See above,P.16, 071008私達は、一つの独断的な前提として、あるいは全くの先見性(a priori)として、方法論的な論理的根拠(rationale)を考えるのではない。もし、一貫した線において、調査がなされ、正当に表現されているならば、理論的根拠は初めに、実際に、描写されるべきである。;しかし、神学的な問題を取り扱うところの光において、ほとんどの人が、試行錯誤と言うところにおいて、論理的根拠は形作られるであろうし、論理的根拠は、可能な限りしなやかに、融通を利かせて、留まるべきであろう。さらに、いかなる特別な方法の立証も、それが貢献しているその神学の類の中にのみ、発見されることができる。もし、理論的根拠が、一貫性を導き、信仰の共同体において、保たれているところの啓示の本物の内容を、認めているところの知的な表現であるならば、その時、神学の方法は、自分自身を立証するのである。このことを単純に言えば、方法と内容は、神学において、分離できないということである。方法論のどのような議論も、抽象的には、ただ暫定的であるのみである。
この作業においては、、方法論を強調する論理的根拠(ratinale)は、神学の内容に対する同等の主な3つの接近の方法の手段を、認め、求めるのである。短くそれらが何であるか述べよう。071006
T この本おけるひとつの大切な役割は、神学的な方法における一つの要素としての記述/descriotion/を提案することである。提供された記述のその種のものは、“現象学的“と呼ばれる。私は、フッサールと現象学の学派の継承者達からこの方法の価値を学んだ。このことは、私達があまりにも性急に、何か特別な現象学の技術に結びつく事を意図するのではなく、様々な他の学科と同じように、哲学のこの学派が、神学に提供する価値ある寄与を、認めることにある。
現象学は、注意深い分析的な記述である。;あるいは、別の方法による、同じ考えの表現である。可能な限り、隠蔽やゆがみ、それが実際にそれ自身に与えている現象を見ることを、妨げる何かあるものを移して、それ自身(現象)を示すことである。この現象学的な手順は、少なくも3つの主な有利さを持っていると思われる。
最初の有利さは、それは、現象それ自身と共に正しい場所から、始めると言うことである。私達が現象を研究する前に、ただあまりにもたやすく、私達の心を、すでに作り上げてしまっている。私達は、すでに準備された観念にそって、考えてしまうのである。たとえば、私達の負う固有の歴史の基礎あるいは、神学的な事柄についての、熟考した意見の初期の歴史を学んでしまってきた基礎においてもである。071012このことはある主題について私達が思い出す全ての観念を、私達の心から取り除く事ができると言う事はできない。あるいは、私達は、全く改めて出発することや、この事を試みるべきである事でさえも、言うことができない。誰も、仮定なしにあるいは、全く以前の思想に影響を受けずに、考えることはできない。私達は、実際、すでに神学において、伝承が形式的な要因にそって維持して来てしまっており、そして、クリスチャンは誰も、伝承の主流を拒絶できないのである。しかし、私達は、主張が、充当されねばならなiいし、あるいは、自分のものを作り、そして、批評と新しい解釈に継続的に従わなければならないと強調した。要求されていることは、仮説あるいは、歴史の哲学からくる観念、あるいは、現実に決して向かうことのないそのような広がりに私達の心を支配する神学を許さないのではなく、あるできあいの解釈と共に、内容が残るということである。受身的に、軽率に、引き継ぐ一つのできあいの解釈とは、純粋に専有されることはなく、現象を解明する代わりに隠すかもしれない。実際私達は、それが適切であるということから、ある解釈を受ける事を決定するであろう。しかし、私たちは、ただ、その現象を実際まさしく解釈したのだということを、見るための理由で、それをしなければならない。;そして、私達は、ただ、現象の前に、自分自身を可能な限り、前に置こうとすることによってのみ、このことについて、決定できるであろう。私達は、それらがそれら自身を示す事としての現象を見、可能な限りに見ることを試み、そして、偏見をねじ曲げる事なしに、それらが在るように、記述する。071013
現象学の第2の利点は、それが明晰性に貢献することである。どのような問題についても、人が何を語っているかを知ることは、役に立つのである。神学の中に投げ込まれ、そして、人間、罪、神、啓示、歴史について、それらの言葉が何を意味し、あるいは、いかにそれらは言及され、あるいは、何が、彼らが彼の家を持つ体験の文脈を叙述であるか、そう言われているのであるが、そうすることは可能である。どちらのそれらの言葉が指摘することを意図しているのかの現象の注意深い記述は、全てのもののはじめに、これらの言葉が理解できることばとして、借用される叙述を、助ける事ができるのである。そして、結果として、そのような叙述が真実でありそうか、間違いそうかのどちらかを判定することができるように、している。071019
第3番目の現象学の有利さは、演繹によってよりも、叙述によって進行するところにあり、ひとつのより世俗的な基盤に移される事である。いかなる演繹の方法においても、ひとつひとつの段階に、虚偽の可能性が、論理的虚偽の中にある。しかしながら強いある議論が現れるかもしれず、それは、論理的な欠陥を持つかもしれない。071023一つのこの良い例は、古典的な論議(彼らはこれを“証明”と呼ぶが)神の存在証明である。彼れらは、かつて、確信していたのであるが、しかし、今や論理的な欠陥の全ての種類のものが、曝されていまった。疑いもなく、叙述もまた、誤りやすいし、私達がすでに見てきたように、それは、無批判的な受け容れられる仮説によって、歪められることができる。しかし、現象学的な記述は、(その表現はほとんど冗長であるが)、少なくとも、注意深い差異を、目的としており、どんな学問のためにも、堅い基盤を置くつもりであろう正確さを目的としている。しかしながら、現象学は、証明を提供すると言う感覚においては、“証明”をしない。現象学は、ある事柄における、私達が満足するための断言あるいは、他のものが真理であることの状況に、光をもたらすのである。そして、現象学は、それらの状況がいかに、実際に、満足させるのかを、私達に判断させる事ができるのみである。071026
記述的な方法は、神学的な研究の基盤を置くことを、試みて来た至る所で、この本の初めの部分に置いて、とりわけ顕著である。しかしながら、私は、ある範囲においては、現象学的な接近は、この本にあまねく用いることを、続けたいと思う。
2. 言及を要する2番目の方法論的な立場は、解釈/interpritation/である。私達が神学において注目して来た形式的な要因の間において、一つの大切な場所は、啓示を選定することである。私達が見てきた原初の啓示は、聖書と伝承を通して、もくろまれてきた。そして、これらの3つの全て<聖書、伝承、啓示>は、多くの方法において、私達にとって不思議なものとして、過去から、私達に下って来た。その結果は、啓示は、聖書や伝承において、私達にくるのと同様に、継続的な再解釈を必要としている。私達の現在の経験でさえ、解釈を要求するかもしれない。そのように、また歴史もであり、そして同様に、同時代の文化の様式もである。理解のあるところではどこでも、解釈も又あるように思われる。私達がその意味を洞察することを試みる時、解釈のある種の公的なものが、受けいれられるように、言ってみれば、古代の詩において、非公式の、解釈のはっきりした種のものは、私達の日々の生活にいつも受け容れらとは、ならない。私達は他の人々の行為を解釈するときに、天気の兆候やその他のものをするように、解釈するのである。071030
解釈が慎重で、明白な仕事となる時、それは神学においてなされるのであるが、その時、もし、偶然の方法以上のものとして、成し遂げられるならば、私達はある限定された原理を必要とする。実際、解釈の科学、解釈学の科学が必要であり、人は、今日、解釈の良き取り扱いを聞いている。現在、いくつかの予備的な解釈における注目は、十分であり、再びもう一度、解釈は、いかなる特別な接近が要求されるのかという解釈の現実的な仕事の中に、あるのである。
解釈に対する注意への最初の点は、ある種の円環的な動きをいつも含んでいると思われる過程の無視できない複雑さである。おおざっぱに言えば、この動きは、知られているものから、知られていないものへ、そして、知られているものへ戻ると言いうことができるであろう。ディルタイ(Dilthey)は、以下のように、巧妙にその点を表現している。:“解釈は、もし、生の表現が、完全に知られないならば、不可能であろう。もしその中に、知らないことが無いならば、解釈は不必要であろう。それ故に、解釈は、それらの2つの極端の間に、存在している。”Pattern
and Meaning in Hisitory,p.77. 071102言明に含まれいてる事柄は、これである、すなわち、私達が出発した所から、ある最初の理解を持つ事なしに、私達はけっして何も理解できないであろうとういうことである。私達はこの前の理解をその課題にもたらし、そして、もし、私達がすでに理解した事に、解釈されるていることを、関係づけられないとすれば、その時、私達は無言の無理解の中で、その課題にぽかんと見とれるのみである。しかしながら、その事柄の最初の理解が、私達にために、現れて来ることが、解釈されたこととして、必要である間に、私達が始めるときに、一度これは現れて来ているのである。私たちは、広くなった、深い理解と共に、戻っており、解釈は、訂正された広がった理解あるいは、ある方法において、私達が開始した最初の理解を訂正しているのである。
具体的な例を示すことは役に立つであろう。私が古い愛の詩に対面していることを想像してほしい。私自身の経験から、愛へのある理解ということは、得られるのであるが、これは、詩の意味を私に解釈することを可能とさせる。しかし、もしその詩が何か大切なことを語っているとすれば、その時、かつて私は、その意味の中に入っているのであり、愛の本質への私の洞察そして、私自身の経験の解釈でさえ、非常に鋭くされて来ているであろう。
解釈についてのさらなる問題点は、いわば、平行して、表現の2つの違った形式(おそらく言葉、あるいはそのほかのもの)を用いる能力を、要請しているように思われる。表現の一つの形式は、他にとって変わる事はできず、おそらく取り変える事もできず、他の者が表現する全てのことを、表現するのである。071106しかしながら、他のものに光を投げかけ、その意味を明らかにするのである。しかし、解釈の円環的な性格に一致して、これは、互恵的な過程であり、その結果、各々の表現の形式は、他のものに光を投げ、そして、光は、他のものによって、解釈を投げられて、光を持つのである。たとえば作曲家が詩を音楽にする時、その音楽は詩を解釈し、そして同様に、詩の言葉は音楽を解釈するのである。誰も完全に、他のものが表現していることを、表現することはできず、各々は、ほかのものの意味を明らかにすることを、助けるのである。私達は後で、神学の言葉を討論するであろう。しかし、ここで、借用された解釈の方法のというのは、同時代の哲学から導き出された実存的なー存在論的なことばによって、象徴的な啓示の言葉を、明らかにすることを試みるであろうと言わせて頂きたい。しかしながら、この言葉は、次々と信仰の象徴によって、明らかにされるであろう。071109
解釈についての第3の点は、人は、解釈されている内容を、尊重していかねばならないということである。その結果、その言語を明らかにすることは適切な事であるし、そして、その言葉において解釈されたことにおいて、発見されてきた表現は、事柄のある種の表現を可能としている。このように、神学の場合に置いては、いかに、実存論的ー存在論的な言葉が、適切なものであるのか、宗教的な啓示の象徴において、あるの種の内容のために、示すことが必要であろう。
神学的な解釈についての最後の点は、その弁証論的な特徴である。このことによって、私は、語られてしまったこと全ては、言われたまま以上のものである、ことを意味している。;あるいは、再び、教義的な形式が提供されてきたほとんどのことは、新しい形式によって、訂正されることが可能であろうーまた、実際、そのような訂正が要請されている。私は、キリスト教の“逆説”を栄光化する神学者達に同意しないが、彼らが、一つの小さな最終的な解釈はありえないと認識していることは、正しいと認める事ができる。このことの理由は、すでに、部分的に、教義の発展における私達の批評において、明らかにしてきたし、最も深い部分においては、神学自身の最重要課題が、横たわっているのである。そこには、神と人との両方において、最終的に捕らえることのできない無尽蔵のものがあるのである。
ここに、記述されるその種の解釈は、明らかに、この本の中心部分の最大のものであろう。解釈学的な言語は、それ自身この本の最初の部分において、記述的な分析において見いだされるのであるが、信仰が自分自身を表現するところの象徴に直面することを、持ち込むにちがいない。071110
3. 私が言及する事を望む最後の方法論的な主流は、あとただ一言、二言である。神学は、その起源を、信仰の共同体の生活の中に持っている。そして、神学はその信仰を明らかにする事と信仰表現を理解することをもたらす。しかし、その時、神学は信仰の生活に返るのである。なぜならば、神学は、全体として、一つの解釈として考えられるかも知れないし、その時、何かの解釈に従属したある種の動きを示すのである。それ自身で終焉する一つの神学は、それが起こり、それが表現する事を意図した点から外れて、実存的な現実性の視点を失った希薄な学問的な思索に、たやすく堕落していくことができるのである。すでに前に言った以上に、強調してきたことであるが、一つの神学というのは、宗教の公平な哲学なのではない。そのように、たとえ神学が信仰の実存から前進したとしても、神学はこの実存に戻るのであり、その結果、信仰の共同体は、神学自身をよりよく理解し、自分の生活をよりよく秩序づけることができるのである。このことがいかに詳細に成されたかと言うのが、神学にとっての問題でなく、その一般的な原理が、神学的に特徴づけなければならないのである。
6.神学の区分
組織神学とは、体系的な理性によって統合されてきている全体的な神学的企てである。071113前に書いた事は、私達に、組織神学の構造の範囲内で、そのように同じであるところの多くの課題の観念を与えて来たのである。“組織”という言葉は、あまりに厳密に取り過ぎてはいけない。それは伝統的な言葉であり、その言葉を使う為の良い理由はなく、神から電子までの全てのことに、位置を与える形而上学的な何かを意味させようとすべきではない。組織神学は最も現代的な目的を持ち、凝集した全体において、神学の全ての構成要素を明瞭にすることを求める感覚において、組織であることをまさしく主張するのである。そして、組織神学は、神学のと関係を非常に近くに持つ学科と共に、人間の知識全体を作り上げる別の領域と共に、それ自身全体を明らかにすることを求ている。
方法論に関する前に書いた部分は、すでに、私が、組織神学は、三つの主な部分に分けることが、最も良くできると考えていることを、明らかにした。この主題のこの3つの区分というのは、この本の残りの部分の形式を決定しているのである。071119
最初の区分は、/哲学的な神学/である。これは、この主題のより古い扱いでは、/自然神学/として、概略的には、一致していると考えられるかも知れない。哲学的な神学は、私達は、これから必然的な過程により見ていくのであるが、演繹よりも記述的な存在として、古い自然神学の様式とは異なる。しかし、哲学的神学は、世俗の思想と神学特有の思想の間の結び目を備える機能を準備することを、遂行していく。哲学的神学は、根本的な神学概念を明らかにし、いかなる神学が可能であるかとの状況を、調べていくのである。哲学的神学をなすことにおいて、神学に苦言を呈する者への反対をも準備し、人間の経験と実存的な普遍的な構造において、神学は根拠を持つと主張できることを示すことができる。このように哲学的神学は、ひとつの/弁証apologetic/的な機能を持つが、しかし、それは、根本的な神学としての原初の神学に対しては、付随的である。弁証家というのは、神学の一つの分野ではなくて、神学の様式であり、主に、攻撃に対して神学を守る様式なのである。哲学的神学と/宗教哲学/との間にもまた違いがあり、なぜなら一方で、宗教哲学は、一般的な無私の宗教の研究であり、哲学的な神学は、神学的な企てに属しており、実際、理性的である事を主張するすべての神学の必要な部分なのである。26
P.2を見よ。071120
二番目の大きな区別は、/象徴的な神学symbolical/である。私は、この事柄に付いての慎重な思考のあとにのみ、この名前を選んだのである。そしてもちろん、象徴神学とは信条や信仰の告白やそのようなものを研究を意味し、この用語が用いられる時の“象徴”の狭い意味においては理解されないであろう。“象徴的な”神学によって、私は、偉大な象徴の解釈と表明を意味しており、三位一体、創造、人間の堕落、受肉、あがない、終末、また、キリスト教信仰の特別な信仰に属する他のなんでもを、啓示された信仰の真実の像として、意味しているのである。私達は熟考してしまった後にのみ、神学的な言葉の論理は、“象徴的な”神学の語りにとって、充分な意味を明らかにするであろう。しかしながら、象徴的な神学は、神学の核であり、大きな広がりにおいては、習慣的に/教義学dogmatic
theology/と呼ばれて来ているものに一致している。しかしながら、私には、その形容詞の“教義”は、神学が教義を廃するべきであるという通常の使い方においても、軽蔑的な意味を、獲得してしまっているし、たとえ、ある厳密な技術的な使用のために、名詞の“教義”を使うことが便利であるかも知れないにしても、そう思われるのである。どの場合においても、教義的な神学は、ここに展開されている象徴的神学よりも、いつも広い範囲を持っている。なぜならば、教義的神学は、また教会や礼典、この本において、はっきりとした区別をあてがわれる他の事柄を、扱っているからである。
第3番目の区別は、適用的神学である。071124これは具体的な実存において、聖職制度や、祭儀や、信仰生活の倫理的な見地における信仰の表現に関わるであろう。それは、しかし、実際には、詳しい事柄を研究することはしない。なぜなら、これは、実践神学(それは、牧会神学、修得神学、説教学やその他の多くの部門を持つ)に属しており、礼拝学、そしてキリスト教倫理、あるいはそれは道徳神学かもしれない。しかし、適応的神学は、それらの特別な研究から、その実践的な領域に移るという神学的な原理を準備するであろう。
弁証家達と同じく、/聖書神学/と/歴史神学/は、神学のはっきりとした部門ではない。しかし、熟考される神学的な問いの特別な方法とはっきりとした聖書と歴史の両方の神学的な発言は、象徴神学と適応神学の全領域について、注意深く考えられねばならない。神学の部門と様式を分ける境界の線引きは、厳格に考えられてはならないことを、おそらく加えねばならない。一つの領域は別の箇所に混入しており、実際に、それら全てが一緒になって、組織神学の統一構造が、可能であるとの確信がある。071126
第1部 哲学的神学
2 哲学的神学の課題
7 哲学的神学と自然神学
全ての神学は仮定の上に、前進していく。ある者はその仮定を、たやすく試験にかけるかもしれない。他の者は、多かれ少なかれ隠すかも知れない。たとえば、啓示についての何らかの語りは、私達自身について関わる真理、あるいは、世界を越える何かがあることを仮定しており、通常の事実の事柄の真理を学ぶようには、学ばれず、特別な方法において私達に伝達されるという仮定がある。再び、魂の不死性への信条は、何がひとつの自己を、また死の本質を、また多くの困難の事柄を構成するのか、との示唆を持っている。この本において理解される所の哲学的神学の仕事は、それらの仮説を明らかにして、(できる限りの範囲であるが)精密な哲学的な言葉で表現し、そしてそれから、どちらにその仮説が立つことができるのかを見る精査に、その仮説を曝すことである。なぜなら、基本的な神学的な観念ー“啓示”や“神”や“罪”やそれに似たものーは、いかなる特別な宗教の私的な財産ではない。しかしながら、これらの観念の内容は、一つの宗教から他の宗教へと変化していることは、疑いえず、哲学的神学は、いかなる神学においても、その可能性のなかに、一つの問いを置くことになるであろう。071127哲学的神学は、何が神学的な議論の基礎であるか、ーいかにそれは起源を語るのか、いかにそれは言及するのか、その前提は何であるのか、ということを私達に示すことを試みる。別の方法でこれを表現すれば、哲学的な神学は、神学的な議論の論理は何であるかを、私達に示すことを求めており、あるいはおそらく、哲学的な神学は一貫した論理を完全に持っているのかどうかを、私達に示すのである。これらの問題が探索された時にのみ、私達は神学の主張について判断ができる。そしてその時、私たちは、神学的な哲学が、私達人間生活の最も重要な事柄について、実際に語っているのかどうか、混乱と間違いの薄織物であるかどうか、また、占星術の偽科学のように、根拠のない紛れ物であるかどうか、を評価する確かなある基礎を持つのである。
私達がまさしく触れるところのこの問いは、“信仰と理性”の主題の元に議論されてきたものである。確かに、そこにはいくつかの危険があるが、主題に対する異議はない。私は信じるのであるが、最も真に迫る危険、それは、そのような形式が、信仰と理性を考えるのに、結果の同じ種類、言ってみれば、人間あるいは、宇宙、あるいは、なんでも存在しうるものへの前提へと、並列活動として私達を導いてしまうことである。;そして、これはあまりにも知的な信仰の一つの見地である。071201なぜなら、私達は、いかに細かく、信仰の構造をまだ、研究してしまっていないにもかかわらず、信仰とは、単なる認識の活動ではなく、一つの自己全体への態度である事を、強く示唆することを、おそらく充分に見てきてしまっている。そのような、信仰は確信以上のものとして、疑いなく、いくつかの信条を含んでいる。しかし、それれらの信条は、全体的な実存の態度に根ざしているので、信条は、合理的な演繹によって到達した信条からは、違った性格を持っている。ひとつの関係している危険は、私達がすでに、神学と主に、全ての事が、余すことなく合理的な形而上学に従属しているという哲学の関係を討論した時にもあったものである。
哲学と神学の関係の危険の故に、なぜ、幾人かの神学者が、彼らが信仰を軽視することからあまりにも遠いところの信仰の自律を、いつも非常な熱意で支持してきてしまっておるのか、しかしながら、私たちは、神学者が、理性に対するある役割を、たとえ、補助的なものとしても、否定できないでいることを、見てきてしまっている。071207
極端な位置つまりあまりにも多く理性を許すのか、また、ほとんど理性を許さないと思われることに反対して、私はこの本で、理性的な信仰の概念を、支持することを示してきた。言い換えると、理性によって証明されることができるという感覚において、信仰は、本当に純粋に理性的でなく、ーなぜなら、信仰は、すでに示してきたが、もっと広く基礎付けられておりー信仰は、それ自身を精査へとさらし、批評的な矯正手的な理性を試し、生き残ってきたのである。信仰は理性に従属するのではなく、理性と単純な婚約をするのではないであろう。;信仰は理性と両立できることが示されねばならないし、おそらく、理性によって、支持されねばならない。このことを示すことは、哲学的神学の機能に属する。
哲学的神学が、組織神学の最初の主な部分に言及される時は、この哲学的神学は、おおざっぱに言えば、多くの古い組織神学の最初の部分を形成する自然神学と一致する。自然神学は、信仰と理性の間を形成する伝統的な方法を準備した。この事は以下の事を示す。次のいくつかの章において、テーマとなる哲学的神学に発展のために、一つの良い出発点というのは、伝統的的な自然神学の簡潔な考察であろう。071211その時、私達は、いかに哲学的神学が、この本において提供されているかを、古い様式の自然神学を伴ういくつかの共同体において、ある主な点については、自然神学からは晴れているにも関わらず、見ることになるだろう。071214
今日、伝統的な自然神学が、正確に、何を成そうと試みていたのかについての考慮すべき討論がある。私達は、短くその点に帰るであろう。ここで、私達は、自然神学、は何を、なそうと支えてきたのか、単純に注目し、そしてこれは、神学が扱うところの事柄の現実性の理論的な証明を供給しているのである。自然神学は、神学的な議論の出発を得る事が赦されたとも、そのように言える。普遍的に受けいれられた前提から出発して、自然神学はある根本の真理を捜すことを求めてきた。たとえば、神の存在、神の情け深さ、魂が不死であること、そして、ほかの事柄である。このことは、啓示された神学が引き継ぐことができた基礎、またこれらの事柄の完全な理解への基礎、を準備した。ーたとえば、自然神学が、神があるということ、神が慈悲深いということを、示すことができるかもしれない一方で、啓示神学は、彼の三位一体の性質を拡大するのみであった。071217
自然神学のうちにおいては、理性の概念のみによって議論を進める種のものであるか、一般的な経験の事実から出発する種のものであるかの区別が、大切である。議論の最初の型のものは、聖アンセルムス1
Proslogium ,U-W.やデカルト2 Meditations ,X. そして他の者にもあるが、述べられていることとして、存在論的な神の存在証明と呼ばれている。そして、何か似たようなこと、魂の不死生のための存在論的な議論は、プラトンによって進められた。プラトンは、命を与える原理というのは、魂のまさしく本質であるので、死んだ魂の概念は、自己矛盾であると議論した。3 Pheado,100-106.
071217この種の議論は、理性主義をさらなるその長さへともたらし、しかしながらおそらく、その事において、自分自身を無効にする。神の存在の為の存在論的な議論というのは、私達が、完全な存在の概念を持つことを仮定している。つまり実存は、この完全の観念の本質的な一つの構成要素であり、そして、それゆえに、私達は一つの存在のそのような観念から、存在の現実性の主張へと進む事ができるのである。
これらの先験的な(a piori)の議論よりももっと近代的なあるものは、私達の世界の経験から始まり、この経験のある姿から、神の存在へと始めるものである。これの後験的な(a
posteriori)議論の古典的な主張は、聖トマス4 Summa Theologiae,Ia,2,3.
によって与えられており、おそらくこれは、自然神学本来のものである。すなわち、聖トマスの存在論的な純粋な理性神学から区別して、“5つの方法”は、2つの主な方向に沿って発展させられてきたのである。すなわち、宇宙論的存在証明は、有限性と世界におけるすべてのものが独立している状態から離れて、すべてのものは進行するのであるということへと戻り、ひとつの自己ー存在の根拠へと戻って議論することを試みている。目的論的な存在証明は、この世界における秩序と整列のうちに、知恵と目的を持つ創造的的な知性の証拠を見いだす事を試みている。071221 2つの方法の存在証明は、少なくとも、抽象的な観念からのものよりも、観察することに開かれていることにおいて、具体的な経験的な事実から始める有利さを持っている。しかし、それらがいかによく成功してるかどうかは、私達はしばらくの間、判定する必要はない。
しかしながら、私達は、自然神学は、神学の企て全体において、非常に有益なそして、おそらく欠くことのできない部分としてさえ、見なければならないのである。自然神学は神学者の世界と秩序だった経験の世界を繋ぎ、神学的な議論と日常の議論の間の接続を示すのである。自然神学は神学のための基盤を準備し、そしてこのことは軽視されてはならない。その上に、もし自然神学が、神の存在、神の慈悲深さ、そして人間の不死生を実際に示すことができたとすれば、その時、人は最も高い確率において、この神はご自身を、最も完全に現されたであろうと考えるであろう。そして、そのことは、神学が敏速な手始めを得たことを示めしている。しかし一方で、もし、自然神学が拭き取られるならば、啓示された神学とういのは、単なる余分なもの、そして孤立した現象として残るのである。そして、啓示神学が単なる幻想であるとの可能性は大いに増加することになる。自然神学がかなりほとんど拭き取られてしまっていると言う問題、そして、その現代の悲しむべき状態は、私達の次の部門のテーマとなる。071222
8,自然神学に対する哲学的な批判
長い間、今や、自然神学の注意深い構築物は、猛烈な火にさらされてきたし、そしておそらく、自然神学の現状を、荒廃として叙述するのは言い過ぎではない。幾人かの哲学者は、神の存在証明や、神学によって、基礎として要求される何か他のことを、理性的に証明できると信じている。多くの神学者はこの見解を共有して来ている。
私達は、ここで、古典的な神の存在証明の詳しい哲学的議論を提供することを目的にしない。すでに多くのその議論はある。5
Recent philosophical criticism of the proofs can be found
in H.J.Patron ,The Modern Predicament ,pp.174-221;R.w.Hepburn
,Christianity and Paradox,pp155-185,Philosophy of religion,pp.15-30.ヒュームやカントの時代以来、伝統的な議論は、批判的な精査に服されてきたし、多くの欠点や弱さが、暴かれてきた。071225しかしながら順番に、新しくまたもっと適した存在証明の議論が案提されてきている。多くの多様なまた、多くの分岐した問題を、追いかける事は、不可能であろう。そして、私達は、私は何を決定的な点として取るかという短い考慮をもって満足しなければならない。
神の存在の為の存在論的な議論は、“自然神学“よりは“理性神学“と呼ばれるのが良い。なぜなら、その証明は、全く神の概念の分析によっているからである。私達は神の存在を信じており、上のような扱いの引用において、聖アンセルムスの有名な節においては、“考えることのできる以上のものはない、それ以上のもの”としてある。しかしながらこの議論において、もし神が、私達の考えにのみ、その存在をもつならば、その時、私達は、おもに、現実において、存在し実存する、何かより優れたより大きいものを考えることができることになるであろう。このように、神の概念そのものが、アンセルムスが神を定義したように、定義した時、神の存在を伴って現れるのである。二者択一的に、神の存在は、必然的に神の概念そのものに、属していると議論されており、ちょうど、三面辺<three
sidedness>が、三角形に属しているようにである。071228
この議論に対する重要な異議は、カント6 Critique of
Pure Reason によって提出されたのであるが、彼は、実存や存在は、何かあるものの特徴を叙述することでは陳述でき無いと指摘した。あるものが存在することを主張することは、存在を一つの三面辺のような所有として、描写するのでなくて、何か現実として、存在をおくことなのである。ついでに言えば、存在は所有ではないという指摘は、私達の後の存在や神の議論において、非常に大切であることを証明するであろう。071229
理性神学から自然神学固有の論議に転じると、私達は、最初、神の存在の宇宙論的な証明を考察する。この議論は、世界にあるすべては、何かあるものによって、説明を要求されていると思われることから、始めらる。そして、世界それ自身は、神によって説明されると結論している。たとえば、それは次のように言われる。すべてのものは原因を持ち、しかし、原因の糸を戻ってたどると、私達は永遠に進むことはできない。そして、現実に、私たちは、自分自身に原因を持たない、あるいは、原因そのものである最初の原因に行き着く。そしてこれが、少なくとも“神“によって意味されている部分なのである。あるいは、私達が観察するものはすべて、単に付随的に存在すると言えるであろう。;世界はずっとあったのではなく、別な方法であったかもしれないのだ。しかし、必然的に存在する者なしには、すべてものが、付随的に存在しており、この必然性の存在が、“神”と呼ばれる何かであると主張されている。071231
これらの議論は、多くの困難を起こした。もし、最初の原因が継続を起こすものとして、最初の原因であるならば、なぜそれは、“神“と呼ばれねばならないのか。反対に、もし、それが、違った順序であるならば、因果関係から始まる全体の議論は、その正当性を無くさないのかどうか。再び、一方で、私達が、この宇宙のすべてのことが、偶然に存在すると思われることに同意したとして、これは、宇宙自身の真実性であるのか。しかし、この議論のもっとも徹底した拒否は、ニーチェやカミュのような急進的な有限論の哲学者から起こって来た。彼らは宇宙を、始めも終わりも、中心も何もない、そのまま終わりのない始めと出来事による偶然の塊状集積として見て、これを否定する理由を認めないのである。
この議論は、私達を、神の存在のための目的論的な議論へともたらす。その議論は、事実、宇宙は秩序づけられているという方法において、目的、知性、そしてさらに慈悲性の証拠があるということを保持している。ディビッド・ヒュームは、“設計(構想)からの議論”として呼ばれているものを承認したのであるが、それは、神の存在証明のすべてのなかで、最も強力なものとしていた。;そして、それは以下のものとして思われねばならないのである。その提案は、命と宇宙の規則性と植物と動物の驚くべき適応性の為に、地球の適合性を指摘せざるをえない、ということである。 010811
しかし、ヒュームは、最も批判を語った者の一人であり、宇宙は、人工物であるよりも一つの有機体に似ると指摘した。ーいわば、秩序の原理は、企画者から出てくるよりも、自然そのものの中に、内在していると思われるとした。7
Dialogue Concerning Natual religion,pt,XT. ヒュームの時から、自然科学の発展は、企画者の最も大事にされた証拠のいくつかを粉砕してしまった。神的な目的でなくて、手当たり次第の突然変異や自然の選択が、環境の大多数への生き物の適合を引き起こしてしまう作因として現れるのである。080112
全体の過程が、試行錯誤のひとつであったと思われる時、ヒュームの思索、“この体系が案出され、多くの労苦が失われ、多く実らない試みが、成される前は、多くの世界は、永遠に、継ぎはぎとしくじりつであろうと思われる。”8
OP.cit.,pt.]U.ということは、固くされている。
最後のいくつかの節において、哲学的な批評が短く始まっていることを、考慮する時に、その時、自然神学の主張というのは、破滅していると言う私の意見は、固くされているように、思われる。もちろん、もし、有神論の議論が混乱の中にあるならば、このことは、無神論が勝利したということを意味するのではない。有神論の証明は失敗してしまっている、しかし、その証明は、多くの試みられた反論を、もっているのである。080115さらに、様々な努力が成され続けており、いくつかの古い方法のある弱点を避けたかもしれない方法において、その議論をまだ、再構築してきているのである。9
For the Ontological arugument ,see Charles Hartshorne,The
Logic of Perfection ;for cosmological argument ,Austin Farrer
,Finite and Infinite , and E.L.Mascall,He who is ;for the
teleogical argument ,in conjunction with other arguments,F.R.Tenannt
, Philosophical theology , and Pierre Teilhard de Chardin,The
Phenominon of Man. しかし、この存在論的証明の議論を、再び述べることにおおよそ成功している人々でさえ、いつも、議論の為の証明の適切性を主張していないことがはっきりしており、そして、その議論を指摘する結論は、宗教的な信仰の充満には、はるかに届いていないのである。080122
しかしながら、存在論的な証明は、いくらかの有効性を残している。その存在論的な証明は、一つの神の概念か、完全な存在は、何か、人間の心における原初的なものであり、その結果、シュラエルマッハーの表現によれば、人は、“無限なる者のための感覚と味覚”を持っているのである。10
On Religion,p.39.宇宙論的な存在証明は、存在の神秘への気付きを明瞭に話すことであり、E.L.マスカル(Mascall)が、“黙想的な不思議さに気づく能力”と呼んだところから由来する。11
The Openness of Being ,p.141. 目的論的な存在証明は、私達の注意を、宇宙の驚くべき複雑な構造とそして、生き物や人格的な存在をも生み出したその潜在能力に引っ張りだす。;ヒュームが指摘した自然におけるこれらの潜在能力の内包は、神が、超越論的な用語において、想像された時に、一度に作られており、ある程度、世界への神の親密さの感覚が、回復した時には、大切でなくなるであろうと思われる。080125
このようにして、たといその証明が証明として失敗しても、それは、神への信仰は理由がないと言うことのために、累積した議論を形成する充分な残余の価値を持つかもしれない。バーゼル・ミッチェルは、“純粋に演繹的なまた帰納的な議論として扱われる時に、失敗の連続として受け止められて来たものは、ひとつの累積した事例への貢献として、よりよく理解される事ができるであろう”と書いている。12
The Jusutication of Religious Belief,p.39.
9,自然神学にたいする神学的な批評
私は、伝統的な自然神学の哲学的な批評を素早く素通りしたが、私が自然神学の神学的な批評にもっと時間をかける事は、正しいのである。なぜなら、哲学者と同様に、神学者も、自然神学から広く向きを変えて来てしまっている。080126幾人かの神学者は自然神学からの離反を、喜んでなしたし、他の者は渋々なした。しかし、多くの部分において、神学者は哲学者の批評の損害によって、印象ずけられてしまうことでなくて、自然神学のなかに、そのいくつかの要素に対して、重大な神学的な異議があり、少なくとも、自然神学において、異議があるということは、一般的に理解されるようになっているようだ。
カルバンからバルトにおいて、主張されてきているひとつの神学的な異議は、私は信じるのであるが、固く拒絶されねばならない。そして、私はその神学的な拒絶と共に、その方法の外に、方法を見いだすことを始めねばならない。これは、人間の堕落あるいは、罪的な状態が、道徳的な統合と同様に“健全なる知性”も人間から剥ぎ取ったとすることであり、意志と同様に、知性にも、人間の腐敗の広がりがあるという異議である。13
Calvin,Institutes of the Chrisitian Religion ,U,. なぜなら、たといこの世における得やすい証拠から、神の知識に達することが、私達の心でできるという方法がいくつかあるとしても、私たちはこの知識を通してはできないであろう。なぜなら、私たちのまさしく理性を行うことが、曲解されているので、私達は、間違いに陥るであろうし、そして神の観念に到達しても、とても誤り、ねじけているので、私達は、神についてのいかなる知識も持つと言うことは、できないにちがいない。080128もちろん、この見地には、真理の基準がある。私達は、私達の願望や野心に一致するものを何でも、また、私達の持つ自己中心を満足させる何でもを、信じる可能性がある。カルビンとバルトは、ここで心理学からもまた、支持を得ることができた。しかしながら、結局この支持は、彼ら自身の位置に反して、反応してしまったのである。なぜならフロイドと彼らに従う者達は、すべての神の観念は、おそらくそれが“自然”であれ、“啓示”であれ、現実の厳しさから自分自身を守る願望によって、導かれる私達の心の幻想であるとした。しかし、私達の知性を、まっすぐに考えることができないほど、曲解されていると取ることは、よりいっそうの討論を無意味にして、底なしの懐疑主義に、落ちいる。カルビニスト達は、彼ら自身は、選ばれた者のひとりであり、誤謬のこの海から救われてしまっており、彼の心は、聖霊によって照らされていると信じている。しかしながら、彼はこれは、神の行為であって、自分字自身のものでないとよりいっそう主張するかもしれないが、それにもかかわらず、彼の主張は、今までかつてなされたものの中で、最も傲慢なもの一つである。それは、まさしく神学に、真面目な人間の恥辱を、もたらすこの種のものである。実際に、すべての人が、この考えが、たやすく、利己主義によって、また、価値のない欲望によって、ねじ曲げられるのを知っており、ー宣伝の達人は、このことをもまた、良く知っているのである。しかし、この事が起こっている事を知る事は、すでに、これとの戦いの中にある。080129信頼できる思考の可能性への懐疑的な断念は、必要がない。(このことは、ある種の知識の自殺となるであろう);むしろもっと厳密に、もっと理性的に考えることのひとつの業績があることが必要である。それで、自然神学においては、克服できない障害として、私達の理性のねじ曲りを、指摘することは、支持されることはできないのである。自然神学は実際に、私達に危険性の警告を出しており、宗教の歴史は、神の知識のねじ曲がりの多くの実例を、示しているのである。しかし神の知識のねじれの実例を、全体の話しにすることは、避けなければならない一方的な誇張なのである。
より多くの伝統的な自然神学への確信された神学的な異議は、その立場を、人間存在の限界性の上に、持っている。限界性と罪は確かに関係しており、それはしばしば混同されている。;私達は、かつて、この限界と罪の区別を大切であると発見した以上に、私達は、近年、限界性と罪の区別を、明確化しなけらばならないであろう。080202しかしながら、なぜなら、その限界性と罪の存在は、私達を、過去の神学者がなしたより以上に、今日の神学はおそらく、人間存在の限定性を、認めているということを、注目させている。そして、このことは、私達の時代の多くの哲学における限定性の同じ様な強調を反映しているかもしれない。このように、人間の知性は堕落しているという基盤に立って、自然神学を拒絶したカルバンに一致しない神学者達は、人間の限定性と合いれないことに関係を試みようとする基盤に立って、自然神学への異議を、非常によく拒絶しているかもしれない。限定があるということは、危機と不確かさの中で、生きていることであり、そして、これが私たちの生活であるということは、日々の体験から私達にはっきりしているのである。この体験は、私たちが、すべての適当な環境の完全な知識なしに、政治的な行動に参与しており、また政治的な行為からでてくる結果よりは、自然神学への異議は、まだ、少ないであろう。080205この世にある私達の生活は、知識の確実性の上に基礎づけられているのではなくーこの世を生きようと試みる人間は、危険無しには、決して生きることはできないー人は信仰において出発せねばならない。私達の生活全体を理解する時に、人生の限定性は本当であるー私達は限定された自分自身の見地からのみ、人生を見ており、私達は人生の究極的な真理を、知る事はできない。このように、理性的な証明の保証された確実性を要求することは(たとえば、神があると言うこと、神は良いこと、魂は不死であることやその他の事)、自分自身の知識の限定性の拒絶であり、あるいは、自分自身の受容の拒絶である。聖パウロは、私達に、思い出させている。私たちは“顔と顔を合わせて”見ているのでなく、“ぼんやりとした鏡の中に”見ているのである。14
TCor.13:12.080218 もちろん、すでに、何度も主張したが、私達の信仰は、重要なすべての要素を勘定に入れた理性的な信仰でなければならない。人は批判的な理性の精査に、自分自身を置かねばならない。;そしてこの指摘は、理性は腐敗していると言う理由において、自然神学が拒絶されたことの拒絶によって、強化されてしまっている。しかし、私たちは、すでに、人間の生活とは、その途上で、信仰の基礎の上に、進んでいること、論証できる確実性の上でないことを、認めねばならない。その結果、理性的な証明を準備する試みというのは、根本的な限定と私達のようなひとつの実存の危機から逃避する試みであるという異議への受け入れである。
古い様式における自然神学への別の神学的な異議は、演繹的な議論における適切な用語の範囲内での神について語る事への妥当性に、疑問を呈している。080219この神学的な異議は、おそらく、経験から疑わしい超経験へのひとつの移行の論理に対する疑問であり、これは哲学的な疑問の写しでもある。とにかく、パスカルのように、その神学的な異議は、宗教的な信仰の神と哲学者の神の間に、鋭い区別をおくのである。私達が語っている、一つの議論の結論としての神は、宗教において、礼拝される神ではない。世界の中に認知されている対象の存在から演繹される存在を持つひとつの神は、それは感じられるのであるが、別の対象として自分自身を認めるべきであり、あるいは、観察された現象を総括する仮説として、仮定されるひとつの神は、自分自身を現象の連鎖の部分として、考察されねばならない。自然神学の闘士は、この批評に対して、抗議する。闘士達は、神が対象として取り扱われることやあるいは有神論の証明の中で処理されるものであることを、拒絶する。ジャック・マリタン(Jacques
Maritain)は、たとえば、聖トマスの5つの方法は、知性において神を捕え、あるいは彼を神に従わせるのに遠く、“神の前に跪くことによってのみ神は知られるようになる”15
The Degrees of Knowledge,p.225. と主張する。しかしながら同時に、マリタンは、その議論は、実際に証明でも、実証でもあるとする。その議論の詳細な本質については、ローマ・カトリックの学者においても、いくつかの不賛成があるように思われる。カール・アダムは、マリタンと共に、有神論的な証明は、いくつかの“不敬な質問”とは違っており、そして、尊敬と謙遜に特徴付けられている特別な“心的な態度”を持っている、と保持している。16
The Sprit of Cathoricism,p.54. 反対に、私達は、エティーネ・ギルソン(Etienne
Gilson)が、自然神学は、“この世のものである秩序と不敬と言った言葉の本来的な受容においての秩序”に属していると言う言葉を見いだすのである。17
The Spirit of Thomism,p.23.今、この2つの見地の違いは、ひとつの大切な見地であるように、思われる。080223もし私達が、尊敬とあこがれの精神をもって、自然神学の議論を進めると言う見地にを受け容れるとすれば、神は別の対象のように扱われる存在であると言う異議に、打ち勝つかも知れない。しかし、この議論は、いかに、私達が、“証明”あるいは、“実証”について、まだ語ることができるのか、ということを、見にくくしてしまうでろう。もし、自然神学の手順と“不敬”な議論の手順の間に“特別な違い”があるのならば、論理家は、この違いがまさしく何であるあるのか、そして、その違った方法において、自然神学の場合において、“証明”あるいは“実証”につて正確に語る事ができないと言うそのような違いは、どちらであるか、知りたいであろう。反対に、もし、私達が、有神論の証明が、“不敬な”議論と全く違がわないという見地を受け入れるとすれば、神は実際に対象として仮説として扱われると言うことを、いかに否定することができるであろうか。そして今、入れ替わって、これは神の超越性を侵害したということを、否定されることができるのか。
私達は、自然神学の議論をいかに正確に捕らえているのか、という問いに帰らねばならないであろう。しかし、その間に、古い様式の自然神学ーすべて他のものを、強調する一つの異議、に対するひとつのよりいっそうの神学的な異議に、注意を払いたい。その異議は、私達の神の知識にあるが、主導権は神にあるということである。神はご自身を私達に知らせるのであって、その結果、その運動は、神の側から私達にであり、私達から彼にではない。自然神学は、これに反対して、人間から神への方法を求めている。
私は信じているが、この異議は、幾人かのプロテスタント神学者によって、非常に強調されてきている。今だ、この強調には一つの大切な真理がある。この強調は、神と人間の距離は、人間が神の知識の純粋な積極的な受領になるというほど、そのくらい大きいとされた時に、成された。そして、互恵主義か、専有かという為の余地はないのである。080229理性的な、責任性のある、人格的な存在の水準の下に、弱い人間の指摘というのは、誇張である。しかしながら、その誇張の側に、私達の神の知識というのは、決して、世界におけるある事実に対する私達の知識と似たものではない。私達の世界における事実の私達の知識は、私達自身の積極的なそれらのへの発見によって、掴まれており、しかし、神は至高の生きた原理自身であるので、神は、私達の発見を待つことが無く、ひとつの生きた方法で、ご自身を証明し、現すのである。このことについて、もっと言われるべきならば、もし、私達が、活動的な、自分自身を知らせるのに、主導権を持つ方として、神を考えるならば、神の知識についての“自然”と“啓示”の間の境界は、ぼやけている。
バルトによって成された強調やいかなる神ご自身の知識も、神の主導権によるという他の神学者は、訂正されており、神は、自然の知識のように発見されることができ、神は神ご自身の知識を/付与する/という主張する神学思想への反対への抗議が、正当化されている。080301;しかしながら、これらの神学者の位置は、神学者が、神の知識を、(聖書的な、キリスト教の啓示)のような神学の部分として、単なる自己啓示の行為に、狭くする時、ねじ曲げられることになる。啓示理解の点において、神学者に反対したときに、伝統的な自然神学は、訂正されたし、より広いそして実際に、神の知識の普遍的な可能性は、その主張において、正しい。“一般啓示“というのは、その抽象性のゆえに、異議がある。神の知識というのは、いつも特別な具体的な啓示として、来るのである。しかしながら、“一般啓示”という注意は、“自然神学”と“啓示神学“の間の両方の主張を表すことを、求める限りにおいて、正しい。高い抽象性の真理の総体が、すべての特別な啓示に一般化されるのでなくて、むしろ、啓示の普遍的な可能性なのである。それは、順次、どんな啓示も、ある特別な場合であるかも知れないという状況である。啓示のそのような一般的な可能性の構造は、後になって、解説されるであろう。080314
それで私達は、古い様式の自然神学が、いかに、いくつかの壊れた打撃を支持してきたかを、見てきた。哲学者はいろいろな方法で、論理的な欠陥のあることを見いだしており、一方で、多くの神学者は、キリスト教信仰の見地から、人間の限定的な認識と神の超越性の知識の両方に、葛藤があることを、主張して来た。しかし、私達は、自然神学に対するあるより大きな法外な囲いの柵によっては、納得することはできない。神の現実、不死性、そして、神学の根本的な仮定において、含蓄され支持されるすべてほかのものを、証明しないということに同意しよう。このことは、私達がすべての自然神学と啓示された神学の自身の内容を、まさしく捨てることができることを、意味しているのであろうか。080318多くの神学者はこの見地を取り、しかし私には、これはうらやみに足りない意見であると思われるのである。080321神学者達は、今や、自然神学の古い支持が引っ張り出され、空中につるされて残り、いわば、ひとつの任意のそして、孤立した現象として残っている啓示と共に、残って来たのである。証明しようとする試みから離れて、古い様式の自然神学が、私達の日常の知識と世界の経験と神学によって明らかになっている信仰の内容の知識の間の架け橋として活動したことを、自分自身で思いだそう。この特別な橋は、いま揺れ動き、つぶれかけてさえいる。しかし、いくつかの橋は、もし、私達の/理性的な/信仰の観念が達成しており、もし神学が、固い信仰の基礎を持つべきであるなら、存在すべきである。さもなければ、神学は、幻想や迷信に反対する抗議をもたない単なる一つの孤立した断片である。080325
この状況において、私達は、いくつかの基本的な古い様式の自然神学の基本的な機能を越えた、しかし、その自然神学の弱さを克服することを試みるところのひとつの哲学的な神学をいかに構築するのか考えねばならない。この哲学的な神学は、“新しい様式の自然神学”と呼ばれるに違いない。実際、この名前は、あまりにも、“自然神学”と伝統的に呼ばれる所のものと密接に関係しているので、それを示唆するその限りにおいて、誤り導くであろう。しかし、反対に、自然神学の中に絶対避けられない大切な何かがあるという私達の認識と、すべての自然神学を向こう見ずに拒絶し極端な範囲に進む人、また、一つのおそらく啓示神学のみに応答する人へのたゆまない反対の両方が、はっきりされるであろう。
10、哲学的神学の原理、あるいは新しい様式の自然神学
多くの同時時代の著者達は、私たちが、伝統的な自然神学を理解しなければならないこと、とりわけ新しい方法における、有神論の証明の理解を試みるべきであると示唆してきている。たとえば、彼らは聖トマスの“5つの方法”が全神学大系の内容の中に、現れていることを指摘する。そして、5つの方法を外に出したり、分離して扱うのは間違いであるとする。いわば、5つの方法を凍らせる代わりに、理性的な人間の間に、普遍的受容的な前提から、いかにそれらが力強い証明になるかを尋ねつつ、中世の討論の文脈の中に5つの方法を置くことを試みるべきであるとする。080401聖トマスが、今日の神学者と同じように、理性と哲学を疑っていたということを、心に留め、理性と哲学と信仰の間のいかなる一致をも、確立しようと求めなかったであろうということを、思い出す必要はない。18
See Edward Sillem,Ways of Thiking about God,pp.31,97. かつて、私達は、その生じて来た状況の関係において、有神論的な証明を考察することをはじめたが、私達は、各々の場合に置いて、その証明における言及されることの全く別の根拠において、人が提供した証明というのが、すでに、彼自身に神の現実が確信されてしまっていると言うことを、見ている。;その証明というのは、神の確信の次に起こる思索であり、おそらく、懐疑論への異議に出会うためのものであり、おそらく彼の疑いを静めるためのものであり、あるいは、理性的な信仰への状態へと彼の確信を立ち上げるものであり、あるいは、信仰と理性の適合性を証明するものとして、私たちは、見ている。神の証明は、むしろジョン・ワイスダム(John
Wisdom)のよく知られた随筆、“神々(Gods)”に強調された手続きに似ている。19 Philosophy and
Psychoanalysis,pp.149ff. そこでは、有神論は、彼の世界の詳細をすなわち、彼の確信を支えている範例と接続を、追跡し強調しつつ、また、おそらく、彼の信仰に反対すると見なされる頑強な事実と裂け目を説明することを試みることを、越えているのである。080404おそらく有神論者から始まるまさしく有神論の確信は、他の方法ではずっと気づくことが出来なかったであろう接続に、有神論の注意を引き起こしており、あるいは、接続の欠乏と思われる別の点への苦い認識を引き起こした。長い目で見れば、有神論の構図は、曖昧であると言う認識でなければならず、その意味で、有神論によって彼の確信を支持する最終的な証明は、あるいは、それについては、有神論の構図において、別の要素に注意を起こしてきた無神論によっても、提供することはできない。しかし、有神論は、自分の確信を、私達の世界の観察できる事実の前にさらしており、少なくとも有神論の議論に矛盾していないということを、表して来た。080415
しかしながら、私たちは、最初の場所において出てきたその確信が、どこの場所にあるかの問いを残したままである。もし、有神論の確信の問いが、有神論の議論によって、作り出されたのでないならば、私達はすでに、有神論の議論の前にあったのであり、その結果、有神論の議論は、有神論の確信を明らかにし、確かにすることにのみ、仕えるのである。その結果、何を、有神論の確信で言えるのか。私達はおそらく、心理学に向かうであろうし、不合理な要求によって確信の自然神学の歴史をたどる。そして、私達は自分自身の内に深みのあることを望み、その結果、私たちは、空想的に造られた、望むべき世界の合理化を試みるのみとして議論を、その時見るのであろうか。あるいは、私達が何かを知ることができるようになる根本的な方法へ,探求を戻すのであろうか。そして、宗教的な確信のためのいろいろな価値を提供するであろう経験の根本的な構造と類型を、はっきりさせることを試みるのか。080418たとえ、私たちが、構造と類型の明確化をなしたとしても、根本的な曖昧性の状況にまだ直面するのであろうか。すでに人の限界の上にあるこの緊張から、曖昧性からこの世界のある結論的な理解へと逃れることはできないことを、私達は疑うかもしれない。しかし、私達は少なくとも、もし、一つの宗教的な確信が有効であるとして、獲得されるであろう状況を確かめる方向に、努力する事ができるであろう。その結果、私達は、その確信が、どのように理性的であり、不合理であるのか、あるいは、どのように大きく、どのように危機的な、信仰の跳躍であるのか、判断できるであろう。
この本の中で直視された哲学的な神学は、それゆえに古い様式の自然神学よりももっと根本的なものである。その限りで、哲学的神学は、伝統的な議論の背後にある確信を試す伝統的な議論を越えて、努力している。哲学的な神学は、違った方法をもまた、持っており、それは、/演繹的な方法/に変わって/記述的な方法/である。080422それは、神学的な方法における現象学の位置についての前に言われた事と全く一致する。20
See Above ,PP.34-36自然あるいは、哲学的な神学的なこの叙述的な型は、何も/証明/しないが、しかし、私達に/見せる/であろう。なぜなら、叙述的な型の神学は、信仰が根ざしているところの根本的な状況に光をもたらし、その結果、神学の主張が何であるかを、見る事ができるのである。ついでに言えば、この種の手続きは、理性的な議論によって、証明される古い試みよりも、一つの弁証としては、もっと効果的であろうということは、良くあることであろう。0080524あまりにも多くの人々が、伝統的な議論を理由として、キリスト者になることは、好ましいことでない。しかし、もし、私達が証明の方法でなくて、叙述の方法によって、進むのであれば、私達は、私達と共に/現象を見つめる事を申し出る/その人を、探し求め続けていく。ここには、一つの抽象的な議論が、純粋な宗教的な信仰の理解へと導く参与の量がある。なぜならば、この参与の量は、けっしていかなる場合においても、神学的な信念ではないのである。080527
新しい自然神学についての優れた点は、すでに多く注目において明らかになっている。ーすなわちこの方法とは、/理性的/な方法でなくて、/実存的な/方法である。もちろん/理性的/と言う言葉は、中世においては、今の場合よりも、より広い内容を持っていたことは、良く言われることである。21
See above ,p.52.私たちはこのことをすでに、示唆してきた。聖トマスは、企ての単なる業績ではなく、統合の要素である謙遜な、尊敬の精神において、“5つの方法”の形式に取り組んでいた。しかしながら今日、私達は理性を、全く狭い意味に考えており、範例的な場合には数学のように、知性の抽象的な神学的な操作としている。この純粋に抽象的な考えの種類のものは、人間の経験のいくつかのものを取り逃がす。;しかし、私達が見てきたように、感情的に、簡単に片づけられてはいけないのである。純粋な神学的な理由に属するよりも広い理解があり、そして、これは、世界における私達の全部の経験の範囲を起こしている広い理解であり、私達を宗教的な信仰の中に、ただ浸透することを助けることのできるものである。080531
新しい様式の哲学的神学と古い様式の自然神学の間に、3つの違いを、注意深く見てきた限りにおいては、おもに、新しい哲学的神学は、宗教的な確信の正しい資料に歩みよる事において、より根本的である。そして、その確信は、その方法論においては、演繹的よりも記述的であり、そして、理性的よりも実存的である。しかしながらこれらの違いは、自然神学において、かつて成されてきた仕事のように、この哲学的神学を誤り導くほどの大きさは無いであろう。むしろ私達が時々語る“新しい様式の自然神学”について語る方が誤り導くのではないか?。その違いは非常に注目されなばならないのは、真実である。言及された3つのものの第1は、神の知識の“自然性”と“啓示性”の間の古い区別の仮想(事実上)の放棄を意味している。なぜなら、その主張は、神に至る“第2の道”よりもむしろ、ひとつの一般的な啓示の可能性がありうるということである(この表現は“一般啓示”と言及されている)。それは、人間の自己証明としての側にあり続けるであろう。しかしながら、試みの方法としての理性的な反省を妨げ、あるいは、啓示的な経験の中に、与えられたところのことを固くすることを、妨げると言う、すでに言われたことからは、離れていることがはっきりしている。080613 もし、この放棄が、純粋な理性的な、論理的な接近を意味しているならば、2番目と3番目の言及された違いは、“不敬な”神学のの試みのいくつかの放棄を意味している。しかしながら、ここで、私達はすでに、幾人かの鋭いカトリックの注解者達が、自然神学を不敬な問いとして、受け止められることを否定していることに、注目してきたのである。080615
しかしながら、これらの違いにも関わらず、ここに上げられた哲学的神学は、古い自然神学として、同じ基本的な機能を、遂行している。哲学的神学は、私たちの毎日の思考と経験、そして、神学者が語るところの事柄の間の架け橋を備えようとする。;哲学的神学は宗教的な論義を、論議の全ての他の領域に、関連つけるのである。哲学的神学は、世俗の言葉において、叙述されることのできる日常の状況から着手することによって、この関連つけを成していく。そして、世俗の言葉から、信仰の生活の状況へと移動することを模索する。これらの叙述の過程において、明らかに宗教的なことばであるそのような“神”や“罪”“啓示”“信仰”は、自分自身の意味を与えられていくにちがいない。もし、私たちが、完全に開始しようとするならば、これらの言葉の全てを、私達がすでに使っていること、そして日常のことばを神学の言葉に関連つける事が必要であることは、真実である。今までのこれらの意味つけは、暫定的な方法によってのみ、上げられてきた。しかし、ながら、もし全く、哲学的な神学の一つの大切な課題が、私たちに、意味の地図において、いかに神学の言葉が、その場所を見つけるかを示すのであるならば、いわば、親密な普遍的な知られた状況から初める叙述の手順によって、関連づけが成されていくであろう。080627-ちょうど、伝統的な自然神学が、その最初に、全ての理性的な人間よって、受け容れられるとの前提から出発を試みたと同じである。
哲学的神学の出発点は、人間自身であり、世界の中で、私達おのおのに、人間存在が知られているという普遍的な人間性である。私自身の負う実存の分析は、宗教の根っこと信仰生活に横たわっているところのそれらの構造と経験に、とりわけ注意が払われるであろう。私達は、啓示的な状況を叙述しようとするし、“神”が語れる時に、何を意味しているか叙述しようとするであろう。ある者は、ここには、余りも、思考と知識の様式が、言われすぎるとするであろう。あるものは、ひとつの神学的な言葉の分析の提供を試みるし、何が根本的な言葉であり、どのように、神学は“意味を成す”のか、示すことを試みるであろう。これの熟慮は一つの一般的な自然のすべてあり、いかなる可能性において、いかに宗教や神学を造り出すのかという普遍的な状況を調査しているので、ある者は、最終的に、啓示の特別な場合に関連して、普遍的な啓示の可能性について、言わねばならない。そして、それで、その方法は、基本的な哲学的神学から、キリスト教信仰の特別な象徴的な神学へと準備するであろう。
これらの課題は、哲学的神学に献身するこの仕事の残された部分の章を占めるであろう。080628
3, 人間存在
11、人間存在と存在の両極性
私たちは人間に戻る。なぜなら、信仰おいて(あるいは、信仰なしで)生きるのは人間であり、信仰の展開としての神学を追跡するのも人間である。その結果、もし私達が、信仰と神学の基礎の何かの理解に達するとすれば、私たちは人間の研究を通して、理解を求めるべきであり、(私達が知っている限りでの)信仰と神学の現象のみで、自分自身を示すのである。080708しかしながら、信仰の人と信仰無しの人の両方は、一般的に彼らの人間性をもっているので、信仰が何であり、信仰の主張があるということを言うことのいかなる試みも、単なる独断ではなく、ある一つの供与された人間性の一般的な基礎から、言わねばならない。その結果、信仰は私達人間の実存のまさしくその構成に、根付いており、信仰の主張の中心もまた、同時に見られるのである。
しかしながら、いかに、私たちは人間が何であるかを、知りーあるいは、もっと具体的に人間を表現する時、私達は何ものであるか。最も初期の時代から、人は実際に自分自身を知ることを、求めてきた。そして、これが非常に困難であることを、認識してきた。本当の自己認識というは、非常に獲得することの難しいものに思われる。しかしそれは最も易しいものであるべきである。なぜなら、自分自身よりもより近い人間はいないからである;しかしこの非常な近さのゆえに、その知識は、どうでも良いことがらや一つの抽象的な神学の知識であることは、けっしてあってはならない。それで、存在における近さとは何であるのか、理解においては、もっとも遠いかもしれない。080711今日、私達は、人間とは何であり、人間とは誰であるかという、まさに一つの同意された理解の範囲に置いて、何が純粋な人間存在を構成しているか、と言う違った理解を反映する私達の時代の大きな矛盾した観念があると思われる。たとえば、その理解を、私達はヒューマニズムか、キリスト教会か、マルキシズムか、仏教か、平易な単純な思考のないヒンズー教かに見いだしている。
これらの矛盾する見地に直面して、私達は、現象学的な方法に従う事を試みるのみである。言ってみれば、私達の仮定や解釈をできる限り、横に置いて、その結果、私達は、存在が自分自身を示すところの人間存在の現象に、直面する。;そして、私達が自分自身を正直に、その現象にさらし続けてしまう時に、また、存在が自分自身を示す時に、それを叙述する時に、存在はとりわけ注意深く、私達が見ることを望まないかもしれないことを、省略しないのである。その時、私達は、解釈の問題へと向くことができるのである。しかし、なお、叙述の課題は、ここで、誤謬の可能性をはらんでいるのである。人間存在は、多様性であるばかりでなく、曖昧性と両極性を持ち、その結果、現象の叙述のみを何と主張するかということにおいてさえも、一方的になってしまう危険にある。080801この世の違った存在に置いて、人は何が違うのか、という質問によって、出発点が与えられる。実存主義者はこの質問に、人間の“実存”によって答えるであろう。世界の中で至る所で起こることが見つけられるようなそんな伝統的な意味においてでなく、“実存”という用語は、むしろ、“外に立つ“というその根本的な意味において理解されているのである。伝統的な意味において、人々や猫や木やそして岩は、全て同じように存在している。;しかし、もっと厳密的な意味に置いては、人々、猫、木、岩は全て/ある/が、ただ人間のみは、/実存/すると言われている。もちろん、私達がただ、“外に立つ“という意味で、/実存している/ということを、理解していることを言う限りは、その時に、実存とは、違った存在において、人は何が違うのか、を言うことである。それは、同語反復より以上のものである。私たちは、同時に、どのように、/人間は外に立って/いるのかを問わねばならない。080823
人間、猫、木、岩は全て/ 存在する/;それは存在を持つ。私達は、世界の中で、それらに出くわす。しかし、私達が知っている限りでは、人間のみが、彼の存在に開かれている。つまり、彼のみでなく、彼が/彼がある/と言うことを気づいており、そしてまた、同じ程度に、/彼が何であるか/を気づいていると言う意味においてである。人間は人間自身に開示されたその存在を持っており、この開示は知らされていくのであるが、理解においてあるのみでなく、世界における感情や動能的な存在の全領域を越えて、やってくるのである。“世界の中に”という表現は注目されなばなれない。それは、ある種の主観的な内省的な自分に開かれている生活ではなくて、彼の生活はすでに、事柄と人間の一つの世界を包含している。;いくつかの世界無しには、人間の存在のような存在は、あり得ることができない。080930もし、“実存”という言葉が、言及されるちょうどの人間生活の性格を、その時、指摘しているならば、“実存”の否定は、限定された特別の意味に置いて、岩や木々やその似たものに対して、明白である。実存は、もちろん、ひとつの“観念論”の見地と何の関係もなく、あるいは、物質よりももっと現実性のある心性への言及とも全く関係がない。一個の岩、あるいは他の無生物の対象は、自分の存在を自分に開示する事をしないという意味においてしか存在できない。それは、私達が/ある/ように、確かに/ある/。しかしその存在の様式は違っている。猫は確かに、何か岩と人間の間にいるようである。しかし、それでさえ、猫たちは、私達が存在するようには、存在しない。このことは、実存への注目が、分析において、満たされる時に、よりはっきりされるであろう。逆説的な方法であるが、一方で、現代の人間は、低い次元の動物や人間がある目的のための一つの部分として認められることのできるすべての自然に、類似関係をよりいっそう持つようになっている。081003しかしと同時に人間は、自然と人間が離れている隔たりの意識をさえ、よりいっそう持っている。人間の動物性を明らかにした同じ科学が、自然を世俗化してしまっており、物活論(アニミズム)のすべての痕跡を除いている。その結果、至るところで、素朴な人間は、彼の周辺の世界の上に、自分の思想と感覚を投影している。そして、自分自身にあるひとつの命のようなものによって動機つけられる事を、自然の力として支持している。現代人は自然の変遷を異邦人として、また、自分とは違うものとして、理解している。幾人かの哲学者は、人間存在(歴史)が、鋭くとがった反対物である宇宙的な過程(自然)に、立っているという徹底した二元論からそう遠くないところにいると思われる。081028
“実存”によって意味されていることを、もっと明らかすることを試みよう。実存はすでに、存在様式として特徴つけられ、その現存は、現存に開示された存在を持っている。そのような存在開示は、単に、一つの印象の積極的な受諾ではない。実存は現存に関係しているのである。その現存は、実存の為に、制限の中で、責任性において開示され、生成する。自然における人間の独特の地位は、人間において、進化の過程が、最初に(少なくとも、地上において)自分自身に透明となり、自己指示のある広がりが可能となったと言う事実にから起こっている。存在のこの特質は、別の方法によって主張されることができるかもしれない。すなわち、人間は自分自身の関係を持つと言いった言説によってである。私達はいつも、次のような表現を使うのである。“私はそれをなす自分を憎んでいる”、あるいは“私は私自身を喜んでいます”さらにあるいは“私がそれを言った時、私は私自身でなかった”。そして、私達はそれらの表現によって、何が言われているのかを、十分理解しています。しかし、もし私達がそれらについて考える時に、それらのことは一つの難問の何ものかであると見ている。まさしく“私自身”から区別されているその“私”とは誰であるか。私達はこの言葉を説明するために観察しなけらばならないのであるが、何が実存の複雑な構造であるのか。081118自我をいかにして説明するのか、後ほど言う必要があるであろう。しかし、しばらくの間、自分自身に関する現存する責任性として、実存の概念から出てくる2つの観点を示す事で十分であろう。最初の点は、自我は既製品ではないということである。いわば、自我はいつも自分自身の方法の上にあり、いかなる与えられた瞬間においても不完全である。自然における対象は、自分自身の所有を対象自身に与える。しかし、人間に“与えられている”何ものかは、存在の違った可能性の前に立っているところの一つの実存である。そして、対象物にあって、実存は、責任をもって、識別しなければならない。このことは、次の観点を私たちにもたらす。なぜならば、自我は、既製品の“自然”ではなく、所有の集合でもなく、責任をもって、現実化しなければならない一つの潜在性である。人間は、真性の自我に達することもできるし、失敗することもどちらもある。そして、人は、完全なる意味における正確に“実存“と呼ばれるある種の存在の下にそうして、落ちることもある。081205
私達がここで呼んできた“実存”とは実存哲学の用語に従っているのであるが、別の現代哲学が人間の“超越性“と呼ぶものと同じである。いくつかの観点において、この“超越性”への注目は、人間存在の動的な性格をよりよく表現している。ー超越は、まさしく人間の本質であり、人は、自分に与えられた状況のどんな段階をも、乗り越え、超越しつつあるのである。伝統的な言葉である“霊“も又、同じ概念である何かを表現しているのである。なぜなら、超越性とは、人に、創造的であり、責任的であることを、また、生活の低い水準を超えて立ち上がることを成させる霊を伴った寄贈なのである。しかしながら私達が、実存や超越あるいは霊を語ることは、私達がひとつの終わることのない、また、存在のある種の開かれたものとしての人間性を、持つ事であり、まだ展開する可能性に動いていることである。081209
“実存”という概念が、人間存在と対象や自然に属する存在との区別をすると同時に、それは人間と自然との緊張を引き起こしている。より詳しくみると、“実存”において包含されている事は、実存そのものが持つ緊張や両極性を表している。そして、実存と自然の対立は、実存そのものの対立の内に、同様のものとして示され、ー対立のあるものは、実存の運搬人としての人間自身が、実存によって、遠く引き離されていることを際だたせている。081226
実存の両極性において、私達は最初に/可能性/と/現実性/に気づくかもしれない。人間の可能性を強調する実存の考え方の上に立つ暫定的な解説がある。それは存在と行為のための潜在能力の前に立つ実存する者として、存在と行為の間に決定する責任を持つ者としてあり、その者は、ある限定された方策に、自分自身を関連させる。この視点は、実存における自由と責任にとって強調されている。その実存は既製品でなく、存在の可能的な方法の前に立ち、人間独特のものなのである。090120しかしながら、人間の可能性を語りつつ、存在の方法の間で、人間が決定することの自由を考える時には、私は“制限のもとに”とか“ある程度まで”とかのそのような限定する表現を、注意深く用いて来た。それは完全に明らかであるが、人間は決して不安な可能性には直面しない。人間は1つの世界に存在しており、人間の可能性は、人間の世界に関係している。人間がその世界にすでに自分自身を発見している特殊な状況以上にである。可能性からの実存の反対の柱に現実性がある。そしてこの現実性は、全ての“与えられた”特殊な実存を包含している。ーすなわち知性、民族、体質、そして人間が選ぶことのできない他の多くの要素である。090123環境や遺伝、歴史や社会における私達の位置は、私達が何ものかということに、多くの寄与を与えるが、その位置は、可能性の領域が削減され、ほとんど消滅すべき点と思われるのである。各々の自由は、ひとつの制限に対して均衡を保っており、おそらく、政策を成し遂げるところから私達を保護する力の制限は、あるいはおそらく、私達の意図を挫折させる知識の制限なのである。そのように実存は、いつも可能性と現実性の間、人間の自由と様々の制限の間の緊張によって、特徴付けられている。
一つの親密性に関係付けられた両極性は、/合理性/と/非合理性/の間のものである。合理性は、しばしば人間の特徴ある徴として、受け取られて来たが、その結果、人間は、“理性的な動物”として、定義づけられてしまった。確かに、審判、弁別、鑑別、理解、解釈の能力は、人間の印象的な一つの特徴である。私はすでに人間の理性を、理性を見くびるであろう人々から守って来た。もし、私達が人間の理性を否定するならば、その時何かを言うことにおいて、いかなる地点もありえない。なぜならば、理性はすべての議論のための公理として仮定されてしまっているからである。090124しかしながら私達は人間の理性にちょうど自由と同じような資格を与えねばならない。特に、フロイトの研究は、暗い不合理な力によって、私達の生活が支配されているという驚くべき広がりを、明らかにしてしまった。私達は完全には、私達の動機を知り得ない。私達は、なぜそれを成すのかと言う無知の中で時々それをなし、時々なぜそれをするのかと言うことで、自分自身を欺いている。私達の精神は真理の光の中に活動しているが、しかし同時に不真実、間違い、欺瞞の中でも動いている。それで、再び私達は、実存の中に、緊張があることを発見するのである。人間の理性は、秩序ある正しい生活の為に、人間の状況の改善において、ほとんど無制限な進展があり、人間の資質と非合理性を深めつつも、一つの基盤を提供するように思われるのである。同じように私達は、全ての秩序に対する粉砕への脅しと侵入を維持することを、余りにもよく知りすぎている。090126
一つのより大きな両極性は、/責任性/と/無能性/の間の対立にある。責任性への注目はすでに述べてきた。責任は実存の情報開示に属している。なぜなら、責任は一つの積極的な情報開示ではなく、裁定を要求する一つの表れなのである。私達の実存は、私達の理性と理解によって、情報開示されており、そしてまた、精神の情緒的な状況によって、示されていくであろう。しかし、責任性に最も親密性を持つ情報開示の様式は、良心である。良心の現象は、時々、良心を体験しているその個人の外側の要素によって、説明される。あるいは、警告し是認し、あるいは、立ち上げられている社会的な議会の神的な影響によって、説明され、いわば、警告し是認する似た様な超自我としても、説明されるのである。090130良心の現象が個人の外側と内側で起こるという両方の理論は、自分自身にいくつかの真理を持っているかもしれない。あるいは良心のある様式の結果であるかも知れない。しかしながらこの理論は、良心の中心的な現象を当てていない。すなわち“良心”という名が含むところのこと、それは自己理解と同類のものであるが、良心が良心自身にいかに達するかという自己の持つ警告性、いわば、存在のために良心が持つ潜在性の実現をもたらすことに、いかに遙かに失敗しつつ、また成功しつつあるかということである。しかし一方で、良心の召喚は十分にはっきりしているが、その召喚への服従の意志は、非常に弱いかもしれないことは、よく知られている。私達は責任性を認めるし、一つの状況における“義務性”を認めるけれども、私達自身は要求されている事柄を、なすことができないのである。090203この現実性と非合理性と個人性の要因は、全てを含んでいる。しかし、責任性の前における不能性は、十分に明確に、責任制のひとつの言及を必要としていると思われる。そのような不能性は、“ねばならない”の中に含まれる“できる”という道徳的生活への無感覚を成しているし、いくつかの熱望する価値の変化への無感覚を成している。090206
私は実存における“両極性”と“緊張”について語ってきた。しかしおそらくこれらの言葉は余りににも中性的である。よく知られているように。限定された可能性が世界に投げ出されているとして、哲学者達は無遠慮に、人間の実存は自己矛盾であると語って来ている。サルトルの有名な言葉によると人間は、“役立たずの熱情である”。1
Being and Nothingness,p.615. なぜならば、人間のまさしくその実存が、熱情や潜在性の無意味性を示すそのようなものだからである。そして、実際、私達はなお、死と言う最後の絵により、最後の一筆を加えなければならない。この人間の実存は、一つの実存は、人間の反対の極性の間の緊張に、完全に従属されている実存であるが、どんな場合でも、死において終わるのである。死における終末は、人間の限定性と否定性が、人間において示されている積極性と肯定性の存在が、いつでも輝いているのだという事に打ち勝っているように見えるのである。090210一つの矛盾の実存、最後は何もない死が来ること、ーこのことは不条理である。しかしながら私達にとって、私達の実存が、まさしく不合理やくだらないことでしかないことであることを受け入れるのは困難である。たとい実存の不合理を語る哲学者であっても、すぐに不合理を越える試みを発見するであろう。私達が生きて動いているという事実は、実存が意味を持つことであり、あるいは意味を持つことができるという深く、根付いた確信を証明するように思われる。090223
しかしながら、人間実存の生活性が根本的に問われと言う事実は、私達を/不安/と/希望/という又別の両極性へともたらす。ある意味で、このひとつは、別の全てを要約する。私達が叙述して来た両極性によって、生成された緊張の真ん中にある一つの生きられた生は、不安から、言い換えると、矛盾や消極性の脅しの感覚から決して自由なのではない。反対に、そのような生活は、どこか価値がある希望の基盤によってのみ、生きられる事ができる。不安と希望とは、雰囲気と感覚の両方であり、私達は後に、そのような効果的な言明において何かの役割を述べる事になるであろう。2
See below,pp.86-87,96-100.しばらくの間は、不安と希望とは、単なる主観的な感情ではなく、私達の為に、人間の性格を照らし出すそのような私達の環境に関係付けられた存在方法であると主張すれば十分であろう。サルトルの言葉によると“感動した主観と情緒的な客観は、ひとつの解決できない弁証法の中に結ばれている。感覚は、一つの確かな世界に対する理解の方法である。・・・一つの感情が何を示すかは、世界に対する人間の現実性の関係の全体なのである。”3
The Emotion ,pp.52,93.
しかし不安と希望は、お互いに矛盾に思われる。もし、不安と希望が、お互いを除外するならば、不安と希望はいかに、私達に人間の実存を語ことができるのか?幾人かの作家が(ハイデッガーやサルトルやその他であるが)、彼らの現象学的な分析において、不安を根本的であるとするように思われるのであるが、しかし、別の者は、死に直面した際の希望を、強調するのである。このように、パンネンベルクは書くことができる。“死を越えて希望することは人間の本質であり、自分自身の死について知る事は、人間における本質でさえある。”4
What is Man?,p44. 不安と希望の両方は、人間存在の中に、非常に深く根付いているように思われる。ポール・リクールは、これらの矛盾に思われる様式は、同じ関係を経験している2つの方法として、理解できるのでないかと示唆している。心配とは、制限された存在と人間が、そのように思われるのであるが、大切でない部分を持つ神秘的な全体性の間の/違い/の感覚である。しかし希望あるいは喜びは、全体性にある類似を持つ全体性への/所属/の感覚から起こっている。リクール自身は、2番目のもの、より肯定的な雰囲気のある種のものが、もっと根本的であり重要であると信じている。5
Fallible Man,p.161. 090223
一人の個人の生活の中にあることと一つの世代の雰囲気の経験の中にあることの両方は、予想できずに去来するものである。希望と不安はお互いに、心理学のテキストの中では、ほとんどひとつの曖昧な絵に似ているかも知れない。20世紀は、希望と不安に多くの揺れを持ってきた。ーたとえば、存在論的な不安の鋭敏さを全く持たない黙示的な絶望に対する真の希望にたいする謙遜を無くしているせっかちな無思想の楽観主義においてである。そして他の雰囲気もある。それは、カミュが全くの退屈に対して“形而上学の反乱”と名付けたところのことである。肯定的なまた否定的な傾向の両方は、自分自身によって、人間の実存についての重要性について根本的な問いを示している。そして、全く弁証法的な解釈のみが、現象の複雑さに対して、適切である思われる。090224
結局、おそらく、人間の実存は自己矛盾の不合理であると結論することにすぐに突進するよりも、“両極性”や“緊張”と言う中性的な言葉を保つ方が、利口なのである。中性的な言語は、確かに、ひとつの曖昧な性格を持つが、ただ限定され内包された観点から実存を見る時、制限された人間理解の領域のゆえに、おそらく私達は決して、曖昧さの最終的な解明はできないであろう。しかし、私達は急いで、曖昧さと不合理を同等のものと結論付けることはできない。その明らかな否定性にもかかわらず死でさえも、一つの曖昧な性格を持つということを、暴露するかもしれない。実存に自分自身が投げ入れられている私達は、曖昧の意味を作りだす試みを強いられている。存在することにより、私達は存在の問いを内包している。存在の問いは、確かに思索的なまた理論的な問いではないが、しかし、私達が非常な関心を持ち、私達のまさしく実存様式に関する一つの問いは、例え盲目であっても、一つの答えを与えるのである。090309もちろん、私が表してきた“存在の意味”への衝動は、まさしく幻想への願望の始まりであり、存在は実際に不合理であるという耐えられない真理を封印するための自暴自棄の逃げ口であると言われるかもしれない。これは一つの事例である。少なくとも、存在を忘れ去ろうと私達が決めてしまう前に、その事柄に発言の機会を与えたい。なぜなら存在の意味に対するこの問いは、存在自身における構成する要素があるかのように、普遍的であり、否定することができないのである。まだ、存在への問いは、宗教と信仰の根源である。090323
12 個人と社会
人間の実存にはまだ別の両極性がある。しかし両極性は遠くに考えられるものから一つの違った秩序に属しており、その秩序は一つの離れた、もっと広がった取扱をするに価するのである。全ての人間存在には/個人/と/社会/という両方の極があり、そこには時々鋭い緊張がある。090324
人間存在は孤立の中には存在しない。私達はすでに、人間とは世界の中に存在するのであり、そして世界は、事柄と同じ様に、人物によって構成されていることを、主張し続けて来た。いかなる人間存在も、自分自身を、別の人間の存在との相互作用のみによって、構成しているし、自分の可能性を実現している。ルーディッグ・フォイエルバッハによると““汝”のないところには“私”はない。”6
The Essence of Christianity,p.92.ーこの洞察は、マルチィンブーバーの人格相互の関係哲学によってより発展させられている。社会性はその時、人間存在の固有性なのである。;個人個人の構成員が集まった時に、何かがちょうど加わるというのでなくて、例えば、古い社会比較の理論が支持されようにある。実存とは、すでにひとつの社会存在として現れる。090328
フォエルバッハは、性別を人間存在の根本的な特徴の一つとして、性別が本質的な一つの社会存在を造り出すものとして、言及した。なぜなら、彼や彼女の体に関する点で、全ての人間存在は、生殖機能に関する限り不完全であり、各々は、反対の性の仲間を必要とする。もちろん、フォイエルバッハは気づいているが、性というのは、単に身体的な、生物的な違いではない。性別は人間存在の全てに浸透しており、このことは、社会性もまたそうであることを意味している。
言葉は別の根本的な人間の特徴である。;実際、言葉の能力はもっとも決定的に動物から人間を区別するものである。しかし、個人の言葉というのはない。なぜなら、言葉の機能は対話することにあるからである。このように、もし、言葉を使うことが人間性の本質であるならば、もし、何かの言葉が、対話者によって、鋭くされるならば、その時、私達は人間の本質的な社会的な特徴の証拠を持つのである。090331
おそらく、経済生活のもっとも単純な段階では、動物を生け捕るような生活では、人々の仲間の共同と言うのは、必要であった。確かに経済生活がはじまるとすぐに、多くの複雑さが始まった。経済生活は、ますます増加する親密な相互依存を、人間存在にもたらした。経済生活の機能が、よりいっそう人間の一体感を異なったものにするという矛盾を導き、別の者なしには、何もできないということもまた、非常に多くなっている。近代技術の発展は、人間存在に相互依存をもたらしてきているし、人間存在の集合化は今までの水準にない先例のないものになっている。090403
しかし社会性が人間実存の固有のものであると言う事実は、社会という概念あるいは、純粋な共同体が、独りでに成長するということではない。人間実存には別の側面があり、この別の側面とは、まさしく根本的である。各々の実存は、唯一である;誰もが所有し、繰り返しができず、取替ができないのである。各々の人間存在は、一つの特別な自我の見地から、その世界を見つめており、いわば、小宇宙を構成している。最も親しい友人や仲間によってでさえも、その彼らもまたよりいっそうしばしば覆う事もできず、誤解するのであるが、全く浸透できない各々の人間存在についての内密がある。少なくとも制限内において、個人の内密と自律は、尊敬されることに仕えており、人間の唯一性は、認められ、守られてきた。090427
私達が考察してきた他の事柄と同じように、社会と個人の両極性は、破壊をもたらす恐れがある緊張をもたらすであろう。実存のまさにその構造に対して、一つの平等な原始的な方法に属しているということは、共同体とある避けられない相互依存にとって必要である。すなわち、内密と共に、おのおのの実存の分離は、ある観点において、人間が、寂しさや孤立以外のものでしかないことを示す。ラインホルド・ニーバーの言葉によると“共同体は、個人的な生活を実現すると同様に挫折させる”7
The Nature and Destiny of Man,vol.U,p.320 とある。もし、個人が、自己探求によって、共同体を崩壊するならば、社会は、集合自我と制度上の不義によって、個人を抑圧するのである。090501
私達が人間の実存の“意味をなすこと”について問う時に、人間実存の潜在性の“成就”は、“完全性”あるいは“救い”さえも見いだすのであり、私達は心の中に、個人と社会の両極性によって、主張されている問題を保ち続けてねばならない。しかし、言わば、この1つのものは、他のものと秩序が違っているのであり、私は、神学から起こされる問題は、いつも、個人と社会という水準を見なければならないと定めてきていた。090605人間の仲間から離れて、また支えてくれる社会的な構造から離れて、個人にとっての完全性はあり得ない。しかし彼の属する構成員の統合なしに、健全な社会もあり得ない。時々宗教を考える者は、個人を強調し、ある時は社会を強調する。たとえばキルケゴールは、間違った集合主義に反対して抵抗し、信仰と救いを、個人の決断の事柄とした。私達の時代においては、人類の相互依存に私達はあるという意識から、私達は社会的な含蓄のある信仰に関わっている。
社会に対する個人の関係は、複雑なものの一つである。ある広い平行が確立されているべきである。個人における実存と超越性は、社会の歴史と進歩に大まかに一致する。個人における自己達成は、社会における認証された共同体の成就に関係している。個人の死でさえも、社会やその人類が全ての人間の終わりに直面するという黙示的な状況に平行する。しかし、社会はいつもその構成員の総体以上のものであり、その平行性は、単純ではない。090609
聖書において、個人の境界線は時々、曖昧でであり、その結果、個人が意図されているのか、共同体が意図されているのかどちらかをいうことは、難しいと言うのは、注目すべき興味あることである。最初の信仰の人、アブラハムは、時々明らかに個人として叙述されており、しかし、時々、その名は、共同体を叙述する。そしてある意味で、彼は両方なのである。新約聖書において、切りはいつも単純に、ナザレのイエス個人に同定されているとは言えない。イエスは、共同体とそして、イエスが伝授した自分の物語に溶け込み、そして、それは聖アウグスチヌスが、“頭と体は一つのキリストである”
De Trinitate,W,9. と言った通りである。
時々この本においても、私たちは、主に個人の実存を考えるであろうが、時々は社会の実存であり、時々は両方一緒であり、しかし、最後には、どちらの観点も無視できない。090612
13、実存の無秩序(混乱)
人間の実存を叙述する限りにおいて、人間の活動状況よりも、人間の存在の可能性の道が、示されてきた。私達は実存の両極性を見てきたのであるが、この事柄の観点は、実存は明らかにすることが不可能であるという矛盾の可能性を示唆している。しかし私達は何を見いだし、いつ私達は、検閲のために自分自身があるところの実際的な存在の実例に、注意を向けるのか?090629
もちろん、これらの問いに似ている一つの問いは、只、広い経験的な一般化によってのみ答えられている。そして、その一般化はいつも変える事ができるのである。おそらくしかし、私達が現実に人間の存在を見る時には、実存における大きくて重い無秩序、また全ての実存を通して広がっていると思われる病理学に、気づくということを、否定できないであろう。私達が共同体や個人を考察する時はいつでも、この混乱を無視できない。この広がっている無秩序のために、実存の存在性は、それがあるべき所として、現実化しないし、失われ、妨げられ、ねじ曲がっている。もし、上に書いて来た通りであるならば、利己心は私達に開示されている。利己心は現実に起こるだけでなく、その本来性の潜在性の中に起こっており、その時、私達は、私達自身の中にあることと人類一般の中に、一般的にある事の両方の2つを、分ける渦巻きに、気づかずにはおれないのである。この無秩序は、上に見てきたように、自己洞察の概略のようなものとして、特別に良心に属しているのである。090630
人間の実存の無秩序は、/不均衡/としてもっと詳細に定義されることができる。そして、それを、“病理学”と呼ぶことにおいて、私は、無秩序を暗黙の内に、肉体的な組織における不均衡と比較してきたのである。実存における極性の反対の間の緊張は、維持されていくのではなく、一つは他のものに打ち勝ち、そして、ある場所から手を引き、いわば、その結果、その全体構造は接続部分を捨ててしまう。そのような歪曲の可能性はおそらく無限である。しかしながら、一般的に、その不均衡が起こっているところの主な方向性に気づくことができるのであり、それにもかかわらず、両極端の両方は、一人の人間に、また、一つの社会に、違った観点で、お互いに交替することで、一緒によく存在するのである。反対から見れば、個人や社会のおいて、誇り、専政、天使主義、理想主義といったそのような無秩序は、すべてのそれらの多様性と混合を伴っているのである。090703これらの無秩序は、党派制や限定や一般的に言うところの人間実存の限界への知識や全き受容を拒否し、あるいは嫌う所から起こる。そして又、超人や神のような存在を持つと言うことを望むことから、あるいは、純粋な人間生活として離れることのできない制限から自由になるところで、起こるのである。もちろんしかしながら、人間というのは、実存の制限から逃れようと試みるものであり、人間は人間自身から逃れることはできず、それで、人間の試みる戦いは、今まで言及されてきたしまったそのような歪曲として、もたらされるのである。これと反対に、感覚的な寛大さ、他人や絶望への無感覚、集団主義への無責任としてのそのような無秩序がある。これらの無秩序は、可能性や決定権、責任や個人の負担、理性からさえもの退却として表される。これらの無秩序は、生きるために生きることや世話から逃げ出す動物のような存在の人間以下の様式の方向へ移っている。090725もちろん、ここに再び、人間は自分自身の持つ存在をすっかり放棄することはできない。人間は、完全な回復不能性や動物性又、世話することから逃れることに達することはできない。しかし、人間は一つの試みとして、自分の存在を歪めているのである。この無秩序の2つの種類のものは、同じ社会と同じ個人に並んで、発見される。しかし、二番目の種類のものは、これによって広い集団の特徴である。一方、最初のものは、自分自身の投球に、人間の持つ力において、魔法をかけたり酔わせるところの適当な2,3のことにおいて、届いていくのである。無秩序の最初の種類のものは、ある程度、全ての種類の人々の間に、存在することは、疑い得ない。それは歴史の偉大なる暴君の中に、その最も恐るべき証明を示しており、暴君の中に、おそらく私達は、最も無秩序な点で、実存を見ている。このゆえに、私達は、アウグスチヌスからライホルド・ニーバーまで、人間の理解は、人間生活の典型的な悪用の誇りの中に、見なければならないであろうと理解できるのである。090731
一方で、おそらく、実際にこの集団性と人間存在の無秩序の多様性があることを、否定する人は少ないであろうが、おそらく実存の乱用を克服する範囲において、考慮すべき討議があり得るのである。再び、その構図は曖昧である。よく知られているようにカルバンは、全的な堕落という教理を教えた。カルバンは、無遠慮に、“全てのことが、呪うべき人間の堕落した本質から起こっている”9
Insutitutes of the Chrisitian Religeion.U,と特徴付けている。この観点は通常の経験とは相克しているように思われる。なぜなら、人間嫌いでない誰かであれば、多くの事柄が、“呪うべき程”のものでない“自然な人間”から、起こっていることを、知っているであろう。神学的には響かないこの観点は、また、その時が来れば示されるであろう。090805しかしカルバンが、人間実存の混乱を強調するけれども、その強調は、人現生活における混乱の理解の傾向に反対して、ある弁解を持って来ている。つまりこの事柄への余りにも安易な見方を採ることに対して、また人間の存在能力への余りにも楽天的な予想に対してへの弁明を持って来ている。しかしながら、私達は、人間存在が/全的に/混乱していると言う概念を、間違いとして拒絶しなければならない。しかし私達はこの混乱がかなり深く浸透していると知らねばならない。混乱の浸透を知ることで、人間の状態の最も思慮深い分析の信念に進むのでない。人間についてのキリスト教的な信念は、聖書からなのである。090818
実存が全的に混乱しているということについての問いが、普遍的であることについては、議論の余地がない。その水平的な広がりの意味について理解されてきた。おのおのの社会は自分自身の不公平と不完全を知り、そして各々の個人は、彼が抑圧されるとき、彼自身の混乱と彼のより広がった混乱への参与を知る。そのように、個人というものは、混乱がすでに普遍しているところに投げ出されており、そのように初めから、人は悪の方に方向付けられている。人が成し、人が受け容れている統治の決定は、その混乱された状況に関係している。それで、私たちは、混乱が人間実存に普遍的にあると結論できるのである。090821
私達の実存を悩ます混乱の性格をもっと適切に述べることは、何かできないであろうか。すでに述べられた言葉では“不均衡”と言う言葉があった。これは実存の両極性の言葉であり、おそらくこの不均衡の表現は、私達は見てきたのであるが、最も有効である。これは利己心の概念にも結びついており、より発展させることのできる言葉のひとつである。しかし他の模範も、混乱の様相を照らし出すのに役に立つ。それは“堕落”と述べる事ができる。しかしながら、この特別な用語は、その起源を宗教と神話に持つ。その用語は世俗の哲学者、マルチン・ハイデッガー10
Being and Time,P.175によって、持ち込まれた。それは非常に有益であった。到達する事への失敗を含みつつ、現実化への不足の堕落、あるいは、一つの承認された可能性からの脱落、人が最初に到達したところからの過程なしに、その後、ただその次に堕落していくのである。090901別の範例をあげれば、“疎外”というのがある。これも又ハイデッガーによって、また多くの他の作家によって使われてきた。不均衡という多様性のある範例の叙述は、人間存在の一つあるいは、他の極性から離れているものとして、疎外を示した。その結果、この意味での不均衡とは、存在自身の範囲においては、疎外である。根本的な疎外は、全範囲において、自分自身の可能性と事実性から、また自分自身から離れる現実である。根本的な疎外は、代わりあって、別の実存から疎外へと導くのである。なぜなら、見てきたように、一つの極端である個人主義と別の極端な集団主義は、承認された共同体の代理をする。しかしながら次のようなことはありえないであろうか?つまり、疎外の第3の状態がまだあり、事柄の全構成から人が疎外されていることを感じる深い水準である。おそらくこれは、“喪失”と名付ける事ができるであろう。喪失というのは、人間自身の持つ本当の存在から、あるいは、別のものの存在から切り離されているのみでなく、全存在から切り離されていると言う存在の感覚であり、その結果、人間は、世界の内に“場所”を持たないのである。これが、実存の混乱から起こってくるところの確かな最も深い絶望なのである。090915
この点において、“罪”という言葉を紹介することが適切である。この哲学的神学の目的のひとつの部分は、神学的な宗教的な言葉とその主張が、その意味を持つところの状況を叙述することであることを、思い起こしたい。世俗的な用語において、私達が人間状況を討論してきたところから少し離れていこう。“罪”と言うのは、宗教的な用語である。そして、その言葉は、“罪責”とか“悪行”のような似たことばと違った内包を持つが、しかしながらおそらく、罪はそのような意味を内包している。しかしながら、罪において、特徴であることは、人間の混乱の論議において、その範例に私達が到達したところの最後の部分である。ーそれは存在の“喪失”という状態が、私達自身や他の実存から遠ざけるのみでなく、より深い意味において、全ての存在から遠ざけてきたのである。宗教的な人間は、この喪失を、神からの分離であると言うであろう。しかしもっと親密に神と言う言葉を私達が学ぶことのできる間は、神からの分離というこの主張を、側において置くことができる。その間に、叙述的に進むという哲学的神学の方法論に一致して、私達がいかに状況を叙述するのか、尋ねる事ができるということは、世界における私達人間存在の典型として認められることのできる一つなのである。090926自分自身や自分の隣人への自分の関係の観点からの“分離”あるいは“目標の喪失”あるいは“堕落”として理解されることのできる罪は、
おそらく普遍的に承認されるであろう。一つのより深い水準において、疎外として理解された事は、区別された宗教的内包の言葉において、主張されたことである。そして、私は、この宗教的な内包が、世界におけるあるいは端的に、自己理解における自分自身の存在の人間の自覚において、一般的に広く認められる要素に固く根を張っていることを示してきたのである。しかし曖昧な存在の自覚として、もっとも深い水準においては切り離されているけれども、かなり評価されているということの前に、もちろん多くの表明され、試さねば成らない多くのものがある。091002
しかしながらこの間に、人間の実存における無秩序への私達の議論は、人間の実存は意味を持つことができないという結論や人間に関する絶望の方向によりいっそう私達を導くかのように、思われるのである。すでに、私達は実存の構成(constitution)に入る際に、その緊張と両極性に注意を喚起してきたが、私達は欲求不満の可能性を示し、ある哲学者達の絶望的な見解を率直に、注意して来た。今、私達は、実際に存在しているが、いかに欲求不満と無秩序が、起こるのか、またいかに、普遍的な無秩序、不均衡、堕落、疎外があるのかにある。しかしながら次のことが私達に現れている。つまり私達はまだその段階に届いておらず、私達が“実存”と呼び、そして私達が人間の現象として知っているところのその不思議な存在に、意味のある可能性の希望はないと単純に言うべきかどうか、ということである。091020少なくとも、私達は、サルトルとサルトルのように考える人々の方が、科学と教育がより発達すれば、よりよい社会状況となり、共同体の病は癒され、より充実した実存が楽しめると信じるような自己満足した人間主義よりも、人間の状況の現実的な否定をする方に、より近いということを、示してきているのである。これらの人々は、まさしく実存的な緊張や無秩序の根本的な性格に直面していないのである。富裕になった社会の問題として、ますますはっきり増加しているものは、貧乏になった社会の問題として、まさしく同じように手におえないものとして、現れているのである。私達の分析は、むしろ、人間の無秩序の普遍性と結束のゆえに、その状況の問題に適切に打つ勝つ治療の手はないということである。091030
それで、私達は私達が直面しているこの二者択一の選択の問題は、鋭くなってきていると言う事ができる。私達はサルトルとその仲間達と一緒に行かねばならない。つまり生とは実際に役に立たない情熱であるという知識を持ちつつ、その結果、私達の希望する最高のことが、一つの点や別の点で、情熱の圧政を減じる事はあり得る。しかしここやあそこの状況を改善し、矛盾と投企thrownされた可能性( 11
ここに言う似た表現である“投企thrown”という言葉の使用は、私の本である“1つの実存主義者の神学 Ann existentialist
Theology”を参照してほしい)として、私達は、本質的に人間実存に属している欲求不満に実際に打ち勝つ可能性やいかなる希望を持つことなしに歩まねばならないと生きることである。そしてあるいは、私達は、もしや私達が人生に意味を求めるか、実存に秩序をもたらし、その結果実存の可能性が満たされる事が可能であるかどうかを探し続けるのである。そして私達は率直に、人間性は無秩序と共に浸透していたという、人間性そのものを越えて、支持を見いださねばならない知識を持つべきである。091109別の方法で考えてみよう(disjunction)。;私達が支配する能力のない一つの実存に、自分自身の応答性を見いだすという状況の矛盾を私達は認識し、そして私達は悪い仕事の最善をしなければならない。あるいは、私達は、意味に成就や秩序をもたらし、意味を支持する私達の限定された実存に、意味を与える事のできる方法において、私達に開かれた人間や自然の両方を越えた、深みや状況のより深い次元を捜しているのである。それで私達は、秩序や完成(fulfillment)の為に、実存における意味や感覚の探求が、今やもっと限定的に宗教的な性格を持ち始めていると見ているのである。人間の実存に意味をもたらすであろう人間を越えた所から、あるいは、実存の欲求不満を乗り越える支持があるが、私達はまだ、語ることはできない。しかし少なくとも、その概念自身は空虚な概念ではないと見ることができている。私達の人間状況の叙述的な分析は、実存の概念が位置を持つ事ができること、すなわち、実存の意味を指定できる言及(reference)の枠組み(frame)を準備てきたのである。実存概念を叙述する時の引用の宗教的な語彙は、“恵み”である。そして、今や、私達にこの言葉を紹介することが赦されるならば、この小節の最初の部分に現れた“罪”を加えたい。091121
14 自我(selfhood)と信仰
私達は人間の実存についての“意味の理解”を語り続けて来た。実存に“秩序”をもたらし、実存の挫折を“克服”し、実存の潜在能力を“満たす”ためである。これらの何か混ざった表現は、試される事が必要である。私達はもっと正確に、何が実存の意味理解であるか、言えないであろうか。私達はどんな状況が満たされたら、もしやこの“意味を理解し“秩序”を与え、その同じ事が起こらねばならいのであれば、見なければならないのか。私達は、どのようにして実存の理解が、宗教的生活の解釈の中に、導かれるのかを示すことができるのか。100112私達の議論は、“自己”についての概念(notion)の方向に向くであろう。実存とは、自己の中で自身を成就する。一つの真性の自己とは、一つの単一性であり、復元力を持ち、比較的に永久的な構造を持つ。実存の両極性が、均衡において保たれる構造は、達成(filfillment)をもたらす。その“自己”という表現は、単独の個人と言う考えに私達を間違って導く事はないであろう。なぜならば、真正な自己は、奴隷の共同体のみにおいて可能であり、私達はすでに、緊張の保たれている両極性の中に、共同体と個人があることを見てきたのである。私達は自己について語るのであるけれども、このことは個人的な方法において理解されることはない。 100115
それでは、この自己の構造はどのように構成されているのか。私達は、ギリシャ哲学にある様々な自己や魂についての理論を、思い起こすことから始めたい。それは、プラトンやアリストテレスが、私達に興味深い対照を示してくれるのである。プラトンは、“実体的な”魂の一つの代表(exponent)として、捕らえているに違いない。プラトンの観点によると、魂は体から離れて存在する可能性を持つものとして、捕らえられる。プラトンの教えでは、魂は、体と合一する以前に存在を持つこととして、主張されている。そして、体からの死滅の後も、存在することを続けるのである。それ以上に、この合一は、次々と多くの体と結合するかもしれないのである。これ反対して、アリストテレスは、その魂を、体の“形相(form)”として考えている。すなわち、世界における体の存在の主な機能として考える。しかしながら、アリストテレスは、理性や魂の優れた部分は、体から離れてても存在を続ける事ができ、全体としての魂というのは(生きている範囲の全体であり、人格的な存在全体)は、体から離れる事ができないと考えられ、その結果、人間は精神身体の合一であるとして考えられた。100119
この体と精神の歴史の多くのために、キリスト教神学はプラトン的な教えに従う傾向を持ってきた。魂は実体として、考えられたし、魂は自己との同一性や安定性、(あるいはまさに不死性)永久性を保証するものとして考えられた。私達が時間を通して、石を同じ石として見るように、そのように、私達は実体的な自己を、人格的な存在の運び屋として、(明白に一つの物質でない自己にもかかわらず)仮定しなければならないことを、支持してきた。そのような自己あるいは魂は、身体に“植え付けられたもの”を得ており、おそらくは概念において、死に至るまで体と合一して残り、死の後も、魂は自己の実体的な特徴の為に、体から離れての存在を続けることができるのである。100125
しかし一つの実体的な魂というこの教えは、初期に考えられた自然神学に似ているのであるが、現代哲学における破壊的な批評に従属している。具体化しない魂や個人という概念は、非常に難しい。なぜなら、私達が他の自己と共に、一つの世界にあるという具体化された存在を通して、すでに注目されたことであるが、ひとつの世界や他の自己を離れては、自己は存在しなということは、正しいのである。それ以上に、経験的な水準で言えば、私達は、人間存在の心的な物質的な方向に結びついた体を離れては、魂を経験することはできない。一つの“人格”によって、私達は、目に見えない、触れることのできない、非物質的な魂ー実体を意味することができないし、いつもその世界にある一つの具体的な自己を意味することができるのみである。体に“宿っている“幽霊のような心像でのみ理解するのでなくて、魂の概念はまさしく、有り余り、混乱しているのである。100201
とにかく、ある手哲学者達が指摘しているように、自己を実体として理解する試みは、実際に自己の最も抽象性において、自然主義的な還元主義者の凡例となる。実体の徴を理解する模範と典型は、岩を一つの例えとして引用するように、固い永遠的な事柄のものなのである。しかしながら、ものであると言うことは、自己であることの一つの啓発的な凡例であることはできない。自己において何が特徴であるかは、人格的な存在であり、私達は、実際に生命のない副人格的な存在(subpersonal)な用語におけるひとつの主な概念を得ることに、期待できない。しかしながら、その概念は、実体としての自己を展開することを、私達が見いだす時に、私達が試みようとしている事は正しい。この概念は、自己を具体化しており、自己をものとして扱い、しかしあると考えられているかも知れないものを詳論していたのである。このことは、自己に対して正当に扱っていない、根本的に自己に対する物質的な理解なのである。人格的な存在における自己は、動的なものであり、複合体であり、一致における多様性であり、内部的にものであるという用語においては、決して表現されることはない。例え私達が、この概念を、“実体性”という用語をもって、自己を尊ぼうとすることから離れようとしてもである。100209
実体的な自己の概念の征服は、神学者にとって、何か外傷体験(traumatic)のひとつであるように思われる。なぜなら、神学者の多くは、実体という哲学的な考えは、あるキリスト教的な教義のひとつの本質的な前提であったからであった。反対に、その攻撃は、聖書神学の復興によって、柔らかくされた何かを持ち、聖書は実体的な魂という概念を、魂は、体から離れているか結合しているかどちらにせよ、多くを働かせていないようであると思われる。むしろ、聖書は、人間をはっきりとした精神身体の合一として、例えば、体の復活の教義からくるように、考えている。100223
実際に、実体的な魂の概念の減退は、私達が魂とは単純ないわばヒュームが主張したように、単純な経験の連鎖のような物質的な外現象(epiphenomenon)であると結論せねばならない事を意味しない。私達は再び、プラトンの教義に対して二者択一として提供したアリストテレスの教義を、見ることができる。すなわち、私達は体の形相(form)としての魂のしるしは、私達にひとつのもっと適切な自己(selfood)の概念を、与えるようなそのような方法において、発展させられることができるのである。そしてすぐに、私達はプラトンの指摘した観点を越えた、アリストテレスにおけるひとつの有利を認めることができる。しかるに、生活の初めにおいて体の中に、侵入し植えられた実体的な自己の概念は、いわば、体の組織がなすような、ただ成長しなければならないという何か既製品を示唆している。形相(form)としての自己のしるしというのは、自己は既製品で与えられるのでなく、実存の過程の中で造られていかねばならないという考えが、よりよいということを示唆している。そして、実際に真正の自己(selfood)は、完全には到達しないのである。最初に与えられたことは、ひとつの適合した実在でなく、自己になっていく為のひとつの潜在性なのである。100315
そのような自己理解の模範(model)は、実体的あるいは物的(thinghood)ではなく、むしろ時間的である。過去現在、未来という3つの次元は、“実存”を可能とする存在の本質(kind)を作るが、それは時間的である。私達はすでに実存の構成の基礎が、(未来への解放と言う)可能性であり、(何があったかという)遺産の事実性であり、現在である過去と未来の緊張にその実存は立っていると言うことを、見てきたのである。実存の無秩序(disorder)と不均衡は時間的な次元における根本的には、不均衡として、理解されることができる。例えば、一つのより早い分析において13
See above ,PP.69-70言及された無秩序(disorder)は、天使論や空想論や一般的な誇りの罪、つまり語ることに失敗した未来に住むことから、過去から相続している実際的な状況へと起こされ、一方で、無責任の罪は、過去に住んでおり、未来の危機と開放性を避けているのである。100416
実存あるいは人的な存在を構成するものは、固有な複雑な時制の連鎖(nexus)であり、連鎖は過去、現在、未来の3つの次元を一致へともたらしている。人は事柄あるいは、ある種の動物を、それは現在気付かれなくても、未来に参与し、過去に記録される限りにおいて、区別している。実存の時制の根本的構造は、聖アウグスチヌスにおいて、正確に気付かれていた。アウグスチヌスは、精神(mind)について語り、“精神は期待し、考え(直視し)、記憶します。”そして、“精神が期待するものは、精神が考(直視し)えるものを通して、精神が記憶する所のものへと移って行くのである”14
Confessions,]T,xxviii.と言っている。散らされ、中断される一つの実存において、実存は、自分自身を、一つ或いは、別の時制的な実存から切り離す。そして、彼の実存は、事柄あるいは動物に属するある種の存在の方向へと傾くのである。人が自分自身を失うことができないという過程を通して、いわば、存在の全く非人間的な方法においてである。これと反対に、存在の潜在性を満たしている実存において、その3つの次元は共なる一致へと保たれ、存在の均衡と緊張は持続されている。これは、キルケゴールからハイデッガーまでの実存哲学者書いていたところの“瞬間”(moment)であり、両方に開かれた存在を通して、過去や或いは未来にもどちらにも閉め出されることのない真の現在は、一致に向けて存在を造り出す。100507
真実な自己(selfhood)は実存の達成されたことを含んでいる。実存の潜在性は、一つの順序正しい方法によって実現され、そこにはずぼらな終わりとか疎遠な領域とかはない。自己の達成というのはそれゆえに、程度の問題である。この自己というのは、けっして既製品ではないことは、はっきりしているし、自己の統一は、全く物のそれとは違っていることははっきりしている。物というのは、時間を通して、同じ物として、持続しており、それゆえに、今何であるかは、何であったかと何であろうとするかと言う決定要因の両方において、決定される。しかし、物に属している時間を通しての統一は、過去、現在未来が、単に外部的に、原因を持って、関係しているところの1つである。そして、これは、人格的な実存の瞬間へ、集中していく時、時制の3つの次元の親密的な固有の関係とは、全く違っているのである。100511
私達はもっとはっきりと真実の自己に属しているこの統一(unity)が何であるのかを見る事ができるだろうか。絵画における遠近法の統一の存在として、おそらく考えられるであろう。実存の可能性と事実生(facticity)という両方の観点において、実存の様々な要素である統一(unity)は、一つの点に収斂して、その結果、その絵は意味を持つ。統一のこの種のものは、実存をもたらし、真の自己に到達するであろう。この状態は、参与(commitment)と受容(acceptance)の両方が存在すべきであると思われる。参与と言うのは、この統一の予期された観点であり、なぜならば、この統一は、実存の可能性を伴って、未来に関係せねばならないからである。ひとつの参与された実存とは、あるすぐれた(master)可能性をもくろんだものである。100531この主要な可能性において、一貫してその可能性を指示していくことの中に、この命の別の可能性が主要な可能性に従属しており、そしてその移行は、統一に向かう自己(slfhood)なのである。このような一つの参与の欠如は、ある実存においては、ひとつの緊急な可能性から次の可能性への跳躍、また、機会の環境の恵みにおいて、自己あるいは統一の単なるより低い階級を持つこと、或いは欲望を変えることをもたらすのである。しかし受容とは参与と全く同じ必要なのである。受容とは自己統一の回復の見地である。なぜなら、自己受容とは、何かであり続けるかに、また既に獲得された私達が私達自身を見いだした状況において、関係しなければならない。もし、統一された自己のような何かが、到達しているならば、その状況の事実性(facticity)は、揺るんだ終わりの拒絶でなく、そっくりそのまま受容されねばならない。単に、もし、この開示があるならば、順番に参与できる全受容は、一つの現実的な受容である。なぜなら、まさにいかなる参与も、統一された自己を導くことはできないのである。事実性(facticity)の状況のひとつの受容に関係しない空想的な参与は、崩壊するしかないであろう。100608
考慮の中に取り入れなければならないことは、もし、人間実存の事実性の状況の完全な受諾のようなものがあるとすれば、死である。なぜなら、私達の前に、私達の実存の最も根元的な限定もたらす以上のものは、死の他には何もない。そして、実存は死の光において、全ての可能性を評価されねばならない。しかし死は、全てのものを無効にするものであると言ういい方と同等であろうか?もし、実存の終わりとしての死が、実存理解の中心に置かれるとすれば、すべての実存の努力や願望は、無効とならないのか。私達は以前、人間の実存を意味づけする方法において、最終のものまた、恐るべき障碍として、短く言及したことを思い起こす。15
P.64,を見よ。そこには表面上全く消極的でありながら、死こそ、両義的な性格をもっていることを判明させる(turn out)のである。両義的な性格は実際にその状態である。なぜなら死は実存おいて積極的な肯定的な役割を持つことできる。日常的な思考や判断の状態においてさえも、死は潜在性を持つということが認められる。死が望まれ受け容れられる所では、なぜなら一つの達成となり、なぜならいくつかの場合は個人の持つ良い存在(well-being)よりも偉大である。そして例外的な場合は、一人の個人の死の方法というのは、ある程度、彼の生活の責めのない行動のあがないとして、さえ理解されれることができるのである。100621
死において、その積極的な潜在性は、長い間認められて来ている。しかし死における潜在性は、ハイデガーにより、哲学の言葉において、特別な洞察において説明されている。17
Being and Time ,P.236ff.死は、ハイデガーの分析によると各々の実存の事実性(factical)の遺産において、最も重要な要素でもあり、また未来を閉ざさない展望としてもその両方において現れる。その結果、全ての私達の可能性は、死を前にして始まるものとして、見られることができるのである。死は、終末(eschaton)となる。そして、死は、実存に、一つの責任をもたらし、さもなければほとんど持てない重大さをもたらす。一つの破壊的な意味を持つ死は、別の創造的な意味において、統一性、責任のある自己、終わりに直面して秩序付けられる関心(concerns)なのである。その上に、死はまた、私達の関心(concerns)を判定するための基準ともなるのである。100712
死は人間がその活力を費やしている多くの野心や鼓舞の皮相さやつまらなさを、暴露する。ハイデッガーが“日常性”の実存と呼んだところのことは、しばしば、以下のことからの逃避である。それは、責任性や死や限定を覆い隠し、ひとつの緊急の関心から、何の考えもなしに、次の関心へと飛ぶことであるようなことからの逃避である。この関心に結びつきつつ、私達の実存は、統一と全体性のある程度の基準のための潜在性をもっているのである。
あまりにもしばしば十分に、これは、錯覚している安全のための問いなのである。私達の人間実存の両極性の論考は、すでにこのことを、明らかにした。101001言ってみれば、人間実存の関わりを導く、感覚的な楽しみや自己の増大(self-arrandizement)は、より劇的な流儀で、潜在性と事実性(factisity)の全領域を考慮にいれることができない人間の達成の特徴が、つかの間で役に立たないことを明確にした。
これらの注意点は、以下のことをよりいっそう示唆するのである。すなわち、自己は、彼自身の自己の制限を見過して、また安定し、統合されたそのような自己を創造する主要な関心が準備された時の限りにおいてのみ達成されるのである。人間は、彼の実存、彼の制限、つかの間性、死すべき事の事実的な観点の受容に対して、準備されねばならないし、未来に対して自分自身を考案する潜在性の中に、これらのことを取り上げねばならない。このことは、事実上次のことを意味する。つまり、自分自身を見過ごすことによって、あるいは、私達はこういえるかもしれないが、自分自身を殺すことによって、自分自身になるということである。これらのことは宗教においてよく知られた逆説(paradox)である。そしてそのような言い方は、以下のようにである。人は“生きねばならない”時に、“誰でも自分の命を救おうとする者は、命を失い、そし誰でも、私の為と福音のために失う者は、命を得るであろう”17
Mark 8:15,である。101011 自己を越える事によって達成される本当の自己実現と自己保護の関心の狭い制限の中に求めていく幻想の実現の間の対比は、以下の問いによって表現される。それは、“人が全世界を勝ち取ることができても、自分自身の命(thn
phuchehn autou) を失ったら何になるのか”17 Mark 8:35.である。101102
しかしこれらの考慮は、死が、積極的な創造的な方法において、理解できうることを私達に示すであろう。取るに足りない程度であるが、この考慮は死の否定、あるいは現象の曖昧性を除去しない。もし、死が私達の関心の多くの事柄の無益さを暴露するのであれば、死は全ての事柄を馬鹿らしく見せるのであろうか。私達は全ての人間の活力の意味が減じられるある種の虚無主義に、押しやられることはない。つまりサルトルが示唆した限りであるが、孤独な大酒飲みの生活と偉大な政治家の生活が、同じく無意味であるとしたようなことである。19
Bing amd Nothingness,p.627, 人間実存の矛盾性の主張は、この状況の事実において、比較の方法によって、宗教的な態度は何であるかの理解を助けるであろう。101108宗教的な状況は、サルトルがなした見解よりも実存の事実性の一つの受容が、根本的には少なくないことを含んでいる。すなわち、ちょうどサルトルが成した多くこと以上に、宗教的状況は、(事実的に与えられている遺産としての)人間の資源と(明らかにされている潜在性としての)私が責任を担うべき命令の間の深い渕(gulf)を見ている。実存はこの位置に置いて意味を捜しており、実存の中に意味があると言う状況は、(実存の極として)与えられている存在が、(可能性の極として)命じられている存在を共なう1断片であることを、見ているのである。101109お互いに永続した失望させる衝突において、偶然に結合し、運命つけられているのでなくて、実存と可能性の両極は、両方が、人間が人間存在を持つ限り、より広い存在の文脈の内に根拠ずけられる。人間存在は意味を持つことができるのである。もし、実存と可能性のより広い存在が、人間存在の潜在性を満たすことを励むように、私達の限定された乏しい遺産を、支え補足するならばである。聖アウグスチヌスの言葉を受け容れて、人間実存は、もし、存在が命じている事を認めるならば意味を持つのである。すなわち、もし、私達に、資源を越えたところの資源が、私達の実存そのものが私達の上にあるところの主張を満たすように助けるならばである。
この記述された態度は、信仰的な人間が呼ぶところの“信仰”なのである。信仰とは単なる信念ではなくて、実存的な態度なのである。私達は既にこの態度は、受諾や参与を含んでいることを見てきた。しかしこの態度を宗教的な信仰となすことは、人間が自分自身の存在を持つ事における文脈において、私達がただ単に、“広い存在”(wider
being)と呼んできたことへ言及する宗教的な論及なのである。101227広い存在とはその時、存在における信仰である。そのような信仰とは明らかに信念を含んでおり、この信念は明らかに思索的な学究的な世界観点ではなく、一つの実存的な態度から出てきたある信念であり、受諾や参与によって生まれた一つの自己理解なのである。宗教的な信仰の態度と信仰無しに人のなす態度の違いもまた、はっきりしている。存在における信仰としての宗教的な信仰は、私達の実存が支持されることを命じる範囲内での広い存在に頼っている。私達の実存はすでに実存の中に与えられている実存の意味を発見するのである。その二者択一すべき態度は、自分自身の持つ資質に応えねばならない人間を越えて、支持のない事を求める。人間は、自分が持つことのできる何かの意味を彼の人生のために、自分自身で創造しなければならない。110222
しかしながら既に言われてきたことであるが、孤立の中にある人間実存は意味を持たないし、最も先鋭の無神論の哲学者はそおそらく絶望の哲学者である。私は信じているが、このことは真実である。しかし、私は、全てか無でなければならないという印象を与えることを望まない。人生はそのように単純ではない。黒か白かと言う平易な選択をもってあるのでない。たとえ絶望を語る哲学者でも、いつも自分自身を打つではなく、哲学者がそう語る“約束engagement”のある制限された領域を見いだしているのである。宗教的信仰を持たない多くの人々は、サルトルがなしたよりも、人間的な実存の楽観的な見地よりも酷く受け止める。しかしながら、率直に言わなばならないが、サルトルよりも重く取るその人々の多くの者は、サルトルが見いだした同じ公平無私をもって、より汚れた実存の観点に直面しないのである。信仰の人間は、自分の側にとって、満足して自分の信仰に碇を降ろすことを考られることができない。なぜなら名を持ついかなる信仰も、試みに曝されるであろうし、永久の所有とならず、継続した更新の一つの態度であるからである。110326
信仰のある人間であるか、あるいは(私達はこの表現を使わせて頂くが)信仰のない人間のどちらであっても、確実性(certitude)をもっていない。確実性のないことは、私達の限界性の部分である。私達はひとつの世界に投げ出されており、私達は世界の内部でのみ世界を見るのである。もし、私達が確実性をもって、なぜあるいはどこに私達の実存があるのか、あるいは、私達が何か意味のある型に属しているのか、意味のない過程に曖昧にひっかかった条項であるのか知りたいならば、私達は私達の世界から外に出なければならないであろうし、存在の全領域を知らねばならないであろう。しかしそれは不可能である。しかしながら人は理性的な証明できる客観的な確実な形而上学的な体系を構築しながら、不可能を成そうとしてきたのである。しかし一方で、私達は確実性をもって、人間存在の謎に答えることはできないし、いかに私達が自分自身を理解しつつあるのかのある決定に至ることを助けることもできない。なぜなら、私達は存在しなければならず、行動の政策を受けねばならず、目標を求めねば成らず、一つの道あるいは別の道において、すでに私達自身を理解していることを選んでしまっているところの意味ある標準を選択しているからである。この限界性の事例は、ひとつの極端において、宗教的信仰と私達が呼んできたものであり、また他方において、不合理へのサルトル的な受容と思われるのである。恐らく人類の大多数は、自分自身を、何か今、一つの極に引かれ、又今、他の極に引かれる間のこととして、見いだしている。110328
しかしもし確実性がなく、人が受け容れる態度を決めるただの銭投げがあるのであるのか?多くの者は理性的な信仰について語って来た。しかし多くの人はこの世における私達の存在の曖昧性についてもまた語って来た。その時、信仰とはまさしく暗闇の中での跳躍であるのか?
この事に対して2つの応答があり得るかもしれない。最初のものは、少なくとも信仰的な態度とは、人間存在のまさしくその構造そのものから起こるのであることを示していることである。信仰とはひとつの贅沢品ではなく、自己や実存の意味への先天的な要求から起こるのである。結論的な重要性がこの点にあるのではないが、しかし、信仰は人間の本性の緊張した乱用ではなく、私達のものである一つの実存に現実的に属している私達自身に残っている価値なのである。110621
今日、信仰を価値であるとするこの主張に挑戦するであろう者がある。その人達は、たとえかつては、宗教的信仰の方に自分自身を傾かせる必要を自分自身の内に持っていたとしても、このことはもはや本当でないと言うであろう。現代人は、“存在における信仰”と私達が呼ぶところものの必要から大きくなり過ぎてしまったのである。そして現代人は、むしろ自分自身の熟練や技術に自身の信仰を置くのである。その人は、彼の問題の最も良い解決を、自分自身の努力に見いだし、日々の世に彼の注意力を制限することで満足するのである。その人は、自分自身の価値と意味と、社会的構造と経済的組織やそのようなもの、さらに、彼は自分自身の存在が置かれたところのより広い存在には、もはやかかわろうとしないのである。110802
もちろん、かかわろうとしないことにおいて、ある広い真理の基準はある。“人類の教育education of the human race”と呼ばれるかもしれない過程においては、子供的な信仰が、超自然において、残り続けるし、そして、問題解決への近道を本当に求めるそのような種類の信仰もまた、残り続ける。しかしながら、私達はーアウグスト・コント<フランス社会学者>のようにー私達は実証主義に戻らねばならない、つまり、人は自分自身を自律と考えねばならない、とか“存在における信仰”は、人間性による信仰によって置き換えられると言うことには、従わない。実際に、宗教的な信仰はけっして、コントの批評が示唆するように、そのように未熟ではないし、聖書的な信仰はコントのいうようなものでなかった。存在における信仰は、参与と受諾として理解されたし、存在の恵みや審判に対する人間存在の服従として、自分自身の成熟性を持ち、私達は主張するのであるが、聖書的な信仰とは、ある限定された人間存在の構造からの要求であった。つまり存在の緊張を伴いつつ、古代あるいは現代の混乱や疎外、そして今だに、自我、総体(wholeness)そして意味からの問いの要求を受けているのである。110805
私達はどのように、つまり宗教的な信仰によって問われた主張は、私達の実存の外から起こっており、同時代の人間は宗教的な必要を持つことがないという反訴が、成されているとの論争の間を解決するであろうか?これは一つの判例であろうか。つまり、一つの世代が別の世代にまさしく反対されることであり、あるいはまた違った人々が違って構成されているのであろうか?明らかにこの証明を提供することはできない。明らかにこの解決手順はこの章において続けられてきたことの一つであると思われるのである。私達はできるだけ注意深く私達の人間実存を記述してきた。私達はこの記述を見て、他の者に問うたのである。そしてその記述が、私達自身の持つ実存の本当の姿として認められるのかどうかも見てきた。私達はおそらく、とりわけ、人間実存の混乱としてのそのような批判的な事柄に対して、注意を払って来たのである。そして存在から私達を疎外すると思われる“喪失”の気付きにも注意を払って来た。私達はこの種の解決手順が、自己満足として、人間を受諾することの不適当を示し、人間を越えた現実性において、信仰へと私達を導く所の存在の多くの次元を開くであろうと希望したい。110809
私は、人はもっと直接的に、“時代に由来するcome of age ” 人間が、自律や独立を考察しなければならないと言う信念に挑戦してほしいと思っている。私達の自律の主張は、成熟よりもよりいっそう典型的に思春期のしるしである。シュラエルマッハーは、彼が“完全な独立”を語る時に、彼自身の主張する“文明化された宗教の軽蔑者cultured
despisers religion”よりももっと未熟なのであろうか。ティリッヒやニーバーやバルトは“未熟”として分別されるのであろうか。なぜなら、様々な方法において、彼らはすべて、人間は自律しているという見解に反対しており、彼らは自分の生を恵みから解釈しなければならないとしているからである。私は、人間の“独立”のような言葉は、余りに一方的過ぎると思われる。この本では、むしろ存在と共なる人間の共同という用語を語っており、なぜならこれは、よりいっそう人間の本物の責任性を認めるのである。110813しかし、人間の地位が、決定的に従属しているということ、そして彼の効果的な共労というのは、恵みによって可能とされているというのは、十分にはっきりされている。結局、カールハイムが私達に思い出させたように、もし、地球の歴史が100万年として、24時間の中に縮小して考えるならば、その時、私達は人間は真夜中の22秒前に現れたに過ぎないと言わばならない。20
Christian faith and Nature science,p11.この事実は、人間をこれまでの企てにおいて、何かある一人の頼りない仲間とするのである。
人間の自律についてのこの遊覧的な考え方は、信仰は暗闇におけるまさに一つの跳躍であるかどうか、という問への応答への道を起こす。そして私達は2つの答えを約束してきた。二つのうちの一つは、人間実存の謎に対する宗教的な答えの問い(Quest)の根底のみを、考察し続けることである。そして、私達は非常に形式的な方法でずっとなして来た。形式的な方法は、哲学神学のこの様式のために置かれた線上のこの手順に全く係っている。しかし、今や宗教的信仰の内容にもっと注意を払うべき時が、来たのである。111011私達は“存在における信仰”を曖昧に語って来た。“恵み”とか“裁き”という言葉が、存在が組み込まれた広い存在(wider
being)から人間の実存が持つであろう支持や命令を示唆することを紹介し続けて来たことは事実である。しかしながら全てこのことは、必然的に、存在についての先験的に(a
priori)また何か技術的な性格を持ったのである。宗教的な人間は実際、自分の存在に全く根ざしている恵みと彼を信仰の態度へと導く恵みへの問いを、まさしく気づいている。しかしながら問いに気づく人は、全てが空虚で曖昧である暗い道に沿って、自分の道を手探りするようには、自分自身を考えないのである。その結果、最後には、問いに気づく者は、任意の一つの選択をもって、暗闇の中に飛び込むか、あるいは、彼がいるところに留まるかである。それ以上に、この問いには一つの弁証法がある。弁証法とは、恵みから分離できない命令と審判の事実に直面して、ある時、存在からの一つの飛翔(flight)になると言うことである。111031宗教的な人間や信仰の人は、彼が出会うこの問いの対象としては、彼の問いをそう多くは語らない。あるいは、それ以上はまだである。つまり、彼は、彼が方向付けられている一つの探索の対象になる。その主張は彼自身を越えて実現する。一方、彼自身の内に根を持っているその信仰というのは、彼が捕らえられた時にのみ、すなわち、彼が、暗く無知の中で捜していることによって、設立するのである。
それで、私達は私達の探求を、よりいっそう後の方に、つまり宗教的信仰の源泉であるところに、持って行かねばならない。私達は恵みによって、人が触れ、提出する体験や不信仰よりも信仰を、彼が選ぶ現在の判断を、叙述しなければならない。111128
4章 啓示
15節 啓示の一般的な叙述
私達は今やもっと注意深く、宗教的な人間が、主張することによって、意味されることができることを考察せねばならない。彼の信仰は、彼の信仰が方向付けられる主導において作られることが、可能であるのか。あるいは、同じ点を違ったように示すと、すなわち実存感覚のための問い(quest)は、実存感覚の賜物(gift)によって、結合するのかである。彼はいろいろな道において、彼自身を越えた所からこの主導を経験するのである。主導を支え、彼の経験を強くし、主導の断片化と潜在性を乗り越えることを助ける限りにおいて、彼はこの賜物を、彼に来る”恵み”と呼ぶ。恵みが彼を要求し、彼の実存のねじれが曝される限り、実存は”審判”と呼ばれるかもしれない。審判は彼に新しい理解をもたらし、すなわち彼自身と彼が持つ存在のより広い存在の両方(それは相互に相関しているのであるが)の理解をもたす。その限りにおいては、その時、彼の存在は、”啓示”と呼ばれるかも知れない。”啓示”という言葉は、それ故に、とりわけ経験の認識要素と示される。160704