与 論 島 の 仏 教 事 情

 

アガリディラ(東寺)

与論島への仏教伝来は、アガリディラ(東寺)と呼ばれている寺院の建立をはじめとする。
アガリディラについての事情は、破壊されてから百年余しか経ていないにもかかわらず、ほとんどが不明のままである。

<寺名について>

アガリディラという寺名については、通称であり正式の寺名が他にあったと思われる。寺名には二字用いるのが通例であり、また方向を示す語にはそれの対称となる物がある。
いつごろから、アガリディラと呼び習わされたのであろうか。
ウスクイキ(菅原池)の西北湖畔に菅原神社があった。菅原神社は、菅原道真公を祭神とする。東家六代喜久里氏が、薩摩に行った折に、今昆羅権現と共に分神を戴き、自宅で学問や健康の守護神として、祭って居られたのを、厳島姫命と合祀して神社として建立されたのが、菅原神社である。(厳島神社は石仁にあったとも伝わる。)そこで、菅原神社の建立に伴い、従来よりウスクイキの東方に在った円覚寺の末寺をアガリディラ(東寺)といい、菅原神社をイイディラ(西寺)又はイイミャー(西宮)と呼び習わすようになった。長年にわたり通称で言い習わしているうちに記憶が薄れ、更に廃寺によって記録が葬り去られたのであろう。尚、菅原神社は明治三十九年の神社合祀令により、明治四十二年に鹿児島より来島した、桃内音吉神職によって琴平神社に合祀されている。

<所在場所>

アガリディラは、琉球王国の円覚寺の末寺であるといわれている。場所は、朝戸牧里(現在の与論中学校プールの場所)にあったと伝わる。円覚寺は、琉球国王第二十代尚真王によって、一四九二(弘治五)年に先王尚円の菩提のために、首里に建立された。沖縄戰で消失するまで尚家の廟所であった。

<建立年代について>

旧家高井家の伝承によると、初代前兼久翁は与論主真三郎に従って、大膳役(司書)として來島し、円覚寺の末寺として寺院を建立し、初代住職に就いたと云われている。
『与論島郷土史』には、一四九四(明応三)年円覚寺の分派として拝戴し云々とあるが、花城与論主の統治とは三十年ほどずれる。アガリディラ以前に、寺院名年代とも不詳ではあるが、城字ゴシカに寺院があったという伝承があり、どのような関わりがあるのだろうか。

<大島郡内各島の寺院建立の時期>

奄美大島
観音寺 一六七五(延宝三)年に名瀬大熊に建立。その後一八一九年までの赤木名に移し、更に名瀬伊津部に移す。曹洞宗福昌寺の末寺。

喜界島
先内地蔵堂 一六九三(元禄六)年
先内観音堂 一六九七(元禄十)年
昌福寺 一六九七(元禄十)年 心海和尚

徳之島
諸田観音堂 一六七〇(寛文十)年、諸田に建立。一七〇四(宝永元)年破損のため、諸田から後に亀津に移転。一八七二(明治五)年廃寺。
弁天堂 一七一〇(宝永七)年 亀津
安住寺 一七三六(元文元)年、藩命により井之川に建立。 初代玄信 禅宗 一七四四(延享元)年亀津に移築。一八七二(明治五)年廃寺。
弁財天堂 一八一二(文化九)年 面縄

沖永良部島
禅王寺 一四七〇年頃 禅宗
弁財天宮建立(和泊村) 一七〇四年

与論島
アガリディラ 一五二五年頃 禅宗

与論島と沖永良部島の寺院の建立時期が、他の島よりも早いのは、琉球の寺院の末寺であり、大島や徳之島、喜界島の寺院は、薩摩の影響のもとに建立されたという歴史的背景による。沖永良部島郷土史資料によると「世之主時代に始めて仏教輸入せらる。平安統氏の記録によれば、首里天王寺より観音一体僧一人を招致して内城に寺舎を建つとあり禅王寺是なり」とある。天王寺は琉球王第十八代尚円王(一四七〇年即位一四七六年卒)によって建立されている。

<寺院活動>

与論島の葬送儀礼は、アガリディラの建立によって、往古より連綿と続いてきた習俗に、仏教の教義を取り入れて、仏教様式へと改められた。この様式で、一八七三(明治六)年に、アガリディラが破壊されるまでの三五〇年ほど行われていた。今日見られる葬送儀礼はこれを基幹にして、葬具の一部を神道の様式に改めて執り行っている。
なお、アガリディラの本寺であるとされている円覚寺は、禅宗寺院であるが、アガリディラの本尊の不動明王は、真言宗独自の重要な尊像であり、現在与論島で行っている祀りの所作の中には、真言宗の特徴が色濃くみられる。護国寺は琉球で真言宗寺院の中心的存在であり、不動明王を本尊としており、アガリディラは護国寺となんらかの関係があったものと考えられる。
また、ムカシイキントウに、グショウヌジョウヤイチジョウ、アミダジョウヤナナジョウ、スリアキティミリバ、ウヤヌイメイと謡われているので、浄土教の影響も受けている。
アガリィデラの往時の様子を、『与論島郷土史』の中で増尾国恵氏は次のように語る。
「アガリディラは寺守を置いていて、坊主ウプスウ(大主)と尊敬され信者も大勢いた。当時は死者が出ると必ず人を使って坊主のウプスウに申し出てその指事を受けねば葬儀をする事はできなかった。然し明治二年に廃仏に至るまでは信者も多く全島の死者の葬儀及びすべての祭式は皆仏式に行ひ寺守りを坊主大主と称して非常に尊敬し一々その指揮に従って祭事を行ってゐた死者あれば直ちに坊主大主の許に走りてその死を告げ坊主大主の指示によって出葬の儀を行ったそして坊様をお願いしてお経を上げしめ出葬の時刻を示さる例であった。坊主の祭祀を行う代償は死者の霊前或いは祖霊に供える餅米麦其の他の雑穀野菜豆腐酒一斗の供物一切を坊主に贈呈する例であってそのお供物の多少によって御経の長短があったといふ所謂物質的宗教の観があったので後に至り「坊主坊主カンカン坊主四十九の餅喰い坊主」と影口を云ふようになった四十九といふのは死者の死期七回一週間毎に七日祭りといふ祭祀を行ふ度毎に一度に四十九碗の餅を坊主に贈るからして四十九と名付けられた。」
基家の系図に戒名が記されているので、その時期と授与した寺院を見ると次のようである。
首里の埼山吉祥庵より、
一六七一(寛文一一)年、一六九三(元禄六)年、一七〇三(元禄一六)年などに、戒名が授けられている。
一七〇五(宝永二)年に鹿児島の寺院より、一七一八(享保三)年は沖永良部島の禅王寺より、一七二三(享保八)年には鹿児島の妙園寺より、一七四一(寛保元)年には鹿児島福昌寺より、一七四五(延享二)年に鹿児島福昌寺より各々戒名を授けられている。
福昌寺は山号を玉龍山といい、島津家七代元久公によって、一三九四(応永元)年創建された曹洞宗の寺院である。
薩摩藩は、一六一三(慶長十八)年に大島に奉行を置き道之島全体を管轄させ、さらに、三年後には徳之島に奉行を置き、沖永良部島と与論島をも管轄させている(鹿児島県史)が、このころの与論島は、依然として琉球との関係が深いことがわかる。しかし、一七〇六(宝永三)年に、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島の島民に、家系図の差出しを命じた(奄美史年表)頃から与論島でも琉球よりも薩摩との関係が強くなってきている。
基家の系図を見るかぎりアガリディラで戒名を授けた確たる証拠はないが、「ーーに改」とした戒名があるので、特別な地位にあったために、琉球や薩摩へ行った折に大寺院などで、重ねて戒名を授かったのだろう。、城跡の崖中腹にあるジシの入り口に、現在安置されている虚空菩薩と思われる石像の裏面に、一七六六(明和三)年の明記された個人の名前が刻まれており、島人は、アガリィデラで戒名が授けられ個別に位牌を作って、日頃お祀りしていたのは明らかである。このことの傍証として、一八七三(明治六)年の廃仏毀釈で、島内の位牌を一箇所に集めて焼却し、その折に今後これを神として拝せよ、と鏡を手渡された島民は、鏡に先祖の霊を託して祀るようになった。と伝わっている。また、ミジグヮーの位牌は作らないと言い伝えられている。今日でも、鏡をイペーと呼び習わしているのは、往時のなごりである。

<宗門手札改帳について>

宗門手札改帳とは現在の戸籍簿にも似たものである。当初は、江戸幕府の切支丹禁教政策に伴うものであったが、その後藩制に組み込まれ、寺院によって出生、結婚、死亡、相続、転居等を調べて藩庁へ報告することになっていた。宗門手札改は、沖永良部島では、弁財天宮に於いて行なわれている。奄美大島では、観音寺に於いて、徳之島では、藩命で建立された安住寺に於いてなされている。与論島でも行われていたのであろうか。或いは、島役人の方で任に当たっていたのだろうか。

<アガリィデラの住職について>

琉球より真三郎と共に来島した書記役が、アガリデラの初代住職であったと云う、言伝えがある。その後は与論島在住の特定の家系によって、世襲されていたのではなかろうか。
与論島の政治的支配者が、琉球より派遣されたのは、当初だけでああり、その後の支配は、その子孫となる与論島在住の限られた家系によって、行われていた。寺院においても、同様な事情が考えられる。
当時の政治事情を考えると、住職をその都度、琉球の本寺より派遣する事は難しく、その後に薩摩の支配下に移った時に、薩摩から派遣されたという事はとうてい考えられない。そこで一族の中でその任に当たる者は、琉球や薩摩に出向き本寺となる寺で仏道の研鑽に励み、与論島に戻って住職に就いたのであろう。
現在なお仏教思想が、与論島の習俗や文化の根底を成しているのを見ると、深い学徳を兼ね備えた往時の住職方の、島人への教化の多大な努力を、窺いしることができる。

<廃仏毀釈>

一八六八(明治元年)に政府より神仏分離令が布達され、これをきっかけとして全国的に廃仏毀釈の騒動が起こり、寺院、仏像などの破却や焼き討ちが各地で行われた。薩摩藩は全国的に見て最も著しく、藩主建立の菩提寺を破壊し、更には歴代藩主の戒名を破棄して、新しく神名に替えたりたりしている。
特に奄美大島諸島に対しては、離島にもかかわらず奄美大島十三社として高千穂神社が建立され、神社崇拝を強要した。旧習を打破するという名の下に、色濃く残っている琉球文化を、根絶する意図もあったのであろう。寺院の物理的な破壊にとどまらず、精神文化にも深く入り込み、当時行われていた祭り等も廃止され、祝女や巫覡は厳重に取り締まられ、着用していた法衣や法具なども悉く破棄させた。
与論島の場合は、一八七〇(明治二)年に、高千穂神社が建立され、翌々年には、シニュグ祭やウンジャン祭を廃止する。また各地のウガンを廃止し、合祀して地主神社とする。一八七三(明治六)年に沖永良部から、在藩所伊東仙太夫の命を受けて、鎌田常助氏が神官として来島して、廃仏毀釈を行う。
その時の状況を故老は伝える。
「東寺は破壊して仏像は首を打ち折り、仏具等と共に皆ウスク池に投げ込んだ。各家庭の仏具仏壇も皆集めて廃棄し、神道神棚にした。神職の指示によって東寺やその寺の仏像仏具を破壊してウスク池に投棄し、各家庭から集まった仏像仏具の破壊焼却等の作業をした与論島民の役場小使二人は、その後一人は血を吐き、口を押さえれば鼻から出、鼻を押さえれば口から出て死亡し、一人はクジリという大金久海岸の中程、大雨のとき、川のように濁流がすごく流れるため連なる砂丘が崩れたところの付近で落雷に会い死亡した。神職の人も沖永良部島に帰った後、災厄で死亡したそうだ。その家族も災厄続きで一家死に絶えたといわれている。と話した。(与論島の民謡と民俗 川村俊英)」
また、
「当時の状況を目撃した故老の言によれば不動明王の像魂は足戸の人(名前は聞いていたが忘れた)二名鎌田神官に命ぜられて仏首を打ち折り仏体も破壊してウスク池(菅原池のこと)に投げ込んだといふ然るにその二人は後に至り一人は盲目となり一人は暴風のとき変死し二人共跡絶へたといひ又鎌田常助氏は郷里沖永良部島に帰りて後狂人となり之も子孫跡絶へたといへり。(与論島郷土史 増尾国恵)」
沖永良部島より来島した当時の村長は、不眠が続き、こっそり与論島を抜け出して、島に戻り、道端のあちこちに「○○は死んだ」と立て看板をして山の中に入って暮らしたという。寺跡の地には、仏具等が昭和の初期ごろまで散乱していたと伝える。
与論島の葬送儀礼は、アガリディラの廃寺により、神道様式に一変したかの如く巷間では云われているが、明治当初より法名の刻まれた墓石が、茶花墓地に数基現存している。また、沖永良部島にだされた令達をみても明らかなように、ある相当期間渾然とした状態が続いていたことがわかる。
沖永良部島諸事改正令達要録の中の死亡者葬式の事に「先年来本島仏を廃し人民都て神葬祭となれり、終に近年に至り死者あれば全く自葬して牛馬を埋ると同一なり、その原因を尋ぬれば二つの訳あり。其一は神官葬儀に関せば神事に障碍ありとして之を為すを好まず、其二は死者を葬るの礼を弁知せざると又神官等に葬儀を依頼し謝儀を厭うの情あり仍て神官並人民へ葬儀は必神官に依頼すべし自葬は相叶はず御布告之旨を詳知説諭し、明治十一年の冬より一般の神官を以て葬式をなすに至れり云々」とあり当時の島人の心情を窺い知ることができる。なお、明治政府は一八七二(明治五)年に、自葬を禁じ葬儀は神官や僧侶に依頼することを命じている。
故老の語る、シマヌウヤエープジネーシ、トゥイムチシーヤッサシャーネー、シントウシハガダンチン、ブッキョウシハガダンチン、チケーティチムヌグトゥティチアラチタバージという言葉が当時の事情を物語る。
与論島の明治期は廃仏毀釈の混乱を始めとして、仏教様式の葬送儀礼から神葬祭への移行、風葬から埋葬への変換、痘瘡や津波等による自然災害など、多方面に亘り大きな混乱に見舞われていた。

 

アガリディラ廃寺以後の仏教

藩政期に取り締まっていた、一向宗の禁教令を解除し、信仰自由の布達が鹿児島県よりあったのは、一八七六(明治九)年である。それを契機に県内各地に仏教の復興気運が高まり、各宗派により続々と寺院が建立された。しかし与論島に於いては、廃寺となっていたアガリディラが再興されることはなかった。
大正期中ごろに、マスダ師(真言宗)が高野山より、布教に来島するが暫くして離島する。この間に、茶花小学校で採灯護摩を修している。
昭和十年代にハギハラ師(浄土真宗)が来島し、現在の茶花自治公民館辺に居住して、二年ほど滞在し布教活動を行う。
昭和五十五年に真言宗海圓寺が茶花に建立される。
平成五年六月に与論島出身で東京在住の、篤信家白井盛永氏が施主となって、琴平神社の西百メートル付近の洞穴入り口の側に、地蔵菩薩を安置して、島守地蔵(しまむいじぞう)と名付けた。洞穴は龍の口に当たるところである。島守地蔵とは、与論島の島内外の安全を、見守って戴きますようにという思いからである。また与論島を離れて異郷で暮す人々の、故里を慕う心に応えて下さいますように、という願いからでもある。そして琉球王朝時代に、琉球より与論島に渡って来られた人々の供養をする為に、故国に向けて建てられた。
近年では仏教系の新興宗教の活動も活発である。

 

与論島に現存する仏像について

城跡の南面の崖中腹にあるジシの前に、仏像が安置されている。形像は座像で左足を立て左手に宝珠を持ち、右手は伸ばして膝側面を押さえる。尊像と台座とも珊瑚礁で出来ていて、材料の特性を生かした見事なものである。故人の菩提の為に造立されたものであり、明和三(一七六六)年の年号が刻まれている。無傷のままで現存するのは、廃仏毀釈の難を逃れるために子孫によって保管され、後日改めてこの場所に安置されたものであろう。明治後期にジシを破壊して、強制的に埋葬に移行された折にも、難を逃れている。
もう一体は茶花海岸近くに、宝永六(一七〇九)年の年号のわかる合掌仏を刻んだ石碑がある。上部は四方打ち砕かれた跡があり、廃仏毀釈の嵐をかい潜ってきた事を物語るものでる。何故この場所にあるのかは不明である。今後の調査が待たれる。

 

今毘羅神社と今毘羅権現

東家六代喜久里氏は、薩摩へ行った折に、海上を守護する神である今昆羅現権と、学問の神として菅原道真公を勧請して、自宅で祀っていた。との言い伝えがある。いま之に従うならば、一八一三(文化十)年に薩摩に行った際に、二神を勧請して自宅で祀る。一八二四(文政七)年に、東家宅より樋口石垣上に、附役鎌田新之丞によって、今昆羅権現を移し今昆羅神社を建立した。この時期に、もう一神の菅原道真公は現中学校の西隣ウシク池の西北湖畔に菅原神社を建立して祀られた。一八三五(天保六)年に今毘羅神社を現在の琴平神社の地に移す。
今昆羅権現は、明治政府の神道政策による、神仏判然令によって、本来は仏教の神様であるからとして、大国主之命に全国的に変えられた。それに伴い社名も金刀比羅宮としたところが多い。与論島の場合は、一八七一(明治四)年に神社名が今毘羅神社から琴平神社へと変更されており、その時か或いは翌年の神官鎌田常助氏来島により今昆羅権現は、大国主之命に改められたのであろう。
金昆羅権現は、金昆羅さまと親しまれている。もとはインドのガンジス河のワニを神格化したもので、クンビーラといわれていた。このクンビーラを音写して金昆羅あるいは今昆羅と書く。それが「海の神」となり、日本に伝わって水を司る神として信仰されて、漁業や農業の神様となった。特に海上の守護神となって航海安全、漁獲大漁を祈る神様として馴染み深い。