帝王の路

― 北京と香港を結ぶ水上の路 ―

 

 

はじめに

カリフォルニアに住んでいた時にEl Camino Realという道路がありました。北はサンフランシスコから私達の住んでいたサンマテオを通り、パロアルト、マウンテンビュー、サンタクララ、サンノゼを経てロスアンジェルスまで通じています。更にメキシコまでも通じているとも聞く長い路。El Camino Realとはスペイン語で王様の道路という意味です。

 

香港返還の直前、1997年の六月上旬に『China’s Imperial Way』(Odyssey Book)という本が香港、アメリカとイギリスで出版されました。著者は香港の南Y島在住(当時)のイギリス人の写真家、Kevin Bishopです。「Imperial Way」を私なりに「帝王の路」と訳しておきましたが、この三千五百キロに及ぶ道は基本的には北の都である北京と広州近辺の珠江デルタ地域(アヘン戦争以降は香港も含む)を結ぶ交通、貿易の路として19世紀後半まで中国で使われていた主要幹線道路(水路)です。

 

この「帝王の路」の北ルートは大運河です。この運河は北京から南下し、黄河を横切り、揚州(昔は楊州と記された)、蘇州を通って、杭州まで。南のルートは基本的に川を使用する水上の道、英語で言うとWaterwayです。Kevin BishopがこのWaterwayに沿い全体で3,500キロの行程を自転車で走りながら、各地の風景とか人物の写真を撮り、文章を加えて出来上がったのが『China’s Imperial Way』という本です。 私はこの本に掲載されている写真の中で中国各地の人々の写真が好きです。 この本を書店で見つけるのは難しいと思いますが、有名なインターネット書籍販売会社などでは扱っています。

 

私が書いたおおまかな中国の地図は次の通りです。

隋王朝の時代に大運河として初期的な完成を見て(この当時は回り道で2,400キロ)、最終的に元の時代に1,800キロの運河となった大運河。北京と杭州を結んでおり、京杭大運河と呼ばれています。万里の長城と並んで中国を代表する歴史的建造物です。南のルートは基本的に川の道です。揚州から揚子江経由で南昌に入ります。川を南下し、梅嶺関を越えて広東省に入り、更に水路で広州へ。赤色で表示したのは現在の北京九龍鉄道(通称京九鉄路)で走行距離は2,500キロです。「帝王の路」は基本的に水上の道であり、シルクロードと比べ目立たない存在でしたが、北の都と南の広州デルタ、途中の上海他の各地域を結ぶ重要な交通、通信の幹線道路、というか幹線水路であったのです。

 

私にとって運河と言うと何と言ってもイギリスのカナール(Canal)です。イギリス留学時の1975 - 76年にその圧倒的な魅力にとりつかれたものです。運河沿いの農家とかパブの姿は今も脳裏に刻み込まれています。イギリスの運河に比べると中国のそれは比べようもないほど大きく長い距離の地域を結んでいます。このように、私にとっては少しロマンティックな存在である運河ですが、ここでは中国の歴史的な幹線道路、幹線水路とその後の展開などについて抄録的に記しておきたいと思います。

 

初期的な試み

北京と杭州を結ぶ京杭運河は全長1,800キロ、万里の長城と並んで中国の歴史的な技術的遺産です。世界最長の運河として軍事、貿易、交通の重要な手段として1,000年もの間利用されました。ご承知のように中国の大河と言えば揚子江と黄河ですが、これら中国大陸を東西に流れる川を南北方向につなげるという試みが各王朝で繰り返されました。

 

最初の試みは紀元前5世紀、周王朝の春秋時代にさかのぼります。南の揚子江と北の黄河との間に淮江(Huai River)という川がありますが、この淮江と揚子江を結んだ最初の運河が鴻溝(Hong Gou Canal)です。春秋時代の呉の王様により軍事目的で掘られ、構築されたものということです。揚子江と黄河を結ぶ運河の構築はその春秋時代からほぼ1,000年後の隋王朝に行われました。南北統一を果たした隋は南で産出された米をはじめとする食料物資を北に運ぶために運河の建設に着手し、文帝の頃、都長安と黄河を結ぶ運河と淮江と揚子江を結ぶ運河が開溝。更に都を長安から洛陽に移した有名な煬帝(ようは火偏に陽の旁を組み合わせたもの)が洛陽経由で北は北京から南は杭州を結ぶ大運河を完成させたのです。洛陽は前掲の地図で見ると北京九龍鉄路と黄河が交差するあたりにある鄭州の近くです。従って前掲の私が書いた地図で見ると内陸に入っている分だけ距離が長く、大運河の全長は2,400キロにも及びます。この運河の建設は煬帝の業績の中でも有名なものと言われています。この運河の建設には550万人もの農民がかり出され、奴隷のごとく酷使されたと伝えられています。日本の聖徳太子が遣隋使を派遣した頃の話です。

 

その後、唐の時代(7世紀か10十世紀)、宋の時代(10世紀から12世紀)に貿易が一層盛んになり、大運河は北と南を結ぶ幹線水路として極めて大きな役割を果たしました。秦とか漢の時代には穀類は黄河周辺から集められていましたが、この大運河建設以降は南の揚子江地域の豊かな農業地帯で産出された穀類が北へ運ばれました。次第に南が重要になってきました。宋の時代も12世紀になると南の江蘇省、浙江省のあたりが重要な地域になり都も杭州に移されました。

 

元、明、清朝時代の運河

13世紀後半、金王朝を破ったのがジンギスカンの孫のフビライカンでした。1271年に皇帝になり、元王朝が成立しました。日本で言えば、鎌倉時代。2001年NHK大河ドラマの北条時宗の時代でしょうか。フビライは都を北京の近くに移しました。これまでの何代かの王朝はモンゴールなどの北の脅威に備えることもあり、また、南の食料を確保すると言うこともあって、南に居を構えたのですが、元王朝はもともとマザーランドがモンゴールですから都はまた北へ。元にとって南の各地との交通は大変重要で、フビライは隋の時代に完成した大運河の改築に取り掛かったのです。隋の場合は、自分達の都である内陸部の洛陽経由の水路を構築したので元にとっては遠回りで、効率が悪く、ショートカットを目的として新しい大運河が再生することになったのです。このようにして全長1,800キロメートルの北京―杭州大運河(京杭大運河)が出来上がったのです。運河に沿った道路もこの時代に敷石で舗装され、道路の両脇には木などが植えられたと言います。相当な大改善と言えます。

 

1368年に明が元を倒し、首都はまた南に移り、南京となりました。現在であれば上海から高速道路で蘇州、無錫を通って4時間くらい。このあたりを走ると、大運河の支流なのでしょうか、幾つもの水路がはりめぐらされているのが車から見え、さしずめ東洋のベニスの感があります。引き続き大運河は北と南との交通、貿易の幹線として栄えたのです。

 

南のルートについて簡単に記しておきたいと思います。この部分については文献も少なく、ここでは前掲のKevin Bishopの『China’s Imperial Way』の記述を参考にします。南京の手前の楊州で運河を降りて、ここから揚子江を上り、ポー陽湖(ポーは鄱と書きます)に入り、湖を越えて南昌に入ります。南昌からガン江を使い、この水路でガン州を通って広東省の省境まで、とても長い道のりです。有名な梅嶺関という峠を越えて南雄に入り後は北江を使って広州地域に入るのです。もう一つの路は揚子江を更に上り、有名な洞庭湖から湘江で長沙、桂林を通って西江から広州に入る路ですが、後者は長距離であり、あまり用いられず、「帝王の路」は前者の方を指すと『China’s Imperial Way』は述べています。いずれのルートも蘇州、杭州は通りません。

 

この「帝王の路」は1,000年もの間北京と上海、杭州を結び、そして揚子江地域と広州、珠江デルタ地域を結ぶ人、物、金そして情報の伝達の重要な手段として用いられてきたのですが、清の時代の後半、王朝の衰退と怠慢もあり、運河はメンテナンスの面で問題を抱えたまま、劣化が目立つようになりました。特に19世紀に入り急激に使われなくなりましたが、大きな理由は、主要河川の度重なる氾濫。特に1855年の黄河の大氾濫は運河に致命的な打撃を与えました。また、水上輸送に代わって海上交通が発達してきました。特に、沿岸地域の海上交通は一気にレベルアップ。1902年に清朝政府は運河担当部門を廃止、これで「帝王の路」にも終焉が訪れたのです。

 

大運河の改修と現代的な「運河」、南水北調プロジェクト

1949年から江蘇省で大規模な運河の改修工事が行われ、三十年間にわたっていろいろな試みが展開されました。海上交通に加え、道路、鉄道網も圧倒的な発達を見せていたので実用を目指した改修ではないのですが、災害を防ぐための水位のコントロールとか、黄河などが氾濫した時に水をどこかに逃がさなければならないということが目的であったのでしょう。採泥活動も行われ、北京杭州大運河の半分くらいは船が通れるようになったと言われています。中国についての案内書などによると、平均の水深は3m、川幅は9mということですので浅いつくりの船というか小舟が利用できるという感じです。

 

私はこれまで何回か蘇州の工場を訪問しましたが、その度に幾重にも分かれた運河の支流をぼんやりと眺めては運河の醸し出すロマンティックな風景を楽しみます。石造りの丸い橋を背景に小舟が走っている姿などは本当に絵になります。前掲のKevin Bishopの『China’s Imperial Way』に収められた蘇州近辺の運河風景の写真はとても見事です。昔、会社の誰かがこの辺りの風景をさして東洋のヴェニスと言ったことを思いまします。

 

最近の人民日報のインターネット版で関連情報を調べてみると、大運河の南端の杭州市が昨年自分たちの関係する部分18Kmの区間を整備するプロジェクトを発足させています。理由は杭州市の工場、公共施設、住宅等から排出される工業排水、生活汚水による運河の汚染が深刻な問題になっているということです。来年までに汚臭を消去し、両岸の整備を行うそうです。将来的には運河沿いに新しい観光地を建設すると書かれています。杭州の運河整備プロジェクトが運河汚染対応であるということを考えると、他の地域でも同じような動きが出て来ると思います。

 

最近、私は深刻な水不足に悩む北京など北部都市の水問題への対応の一つとして「南水北調」計画が検討されているということを知りました。南方の河川から水を引き、北部の水不足を緩和するというものですが、多額のコストがかかるということとか、洪水、干ばつ時の水量調整、黄河などの水質汚染などの問題も多く、現在対応策の検討中ということです。二十一世紀の大運河構想は別の局面を迎えています。

 

鉄道の建設と大運河の終焉                               

「汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として」。明治三十三年といいますからちょうど西暦1900年に出版された『鉄道唱歌』の一節です。文明開化、富国強兵ということで明治維新政府も改革を進めますが、鉄道建設も重要な政策でありました。 明治五年(1872年)に新橋と横浜間に日本で最初の鉄道が開通し、『鉄道唱歌』が世に出る頃までの間に一気に日本に鉄道網が構築されています。

 

この時期は中国では清朝末期。清は押し寄せる海外諸国の前に政治能力を失って来ていました。1840年から1842年がアヘン戦争。南京条約で香港がイギリスの植民地になります。1851年には平等主義を唱えイエスキリストの弟と宣言した洪秀全が貧農を集めて太平天国の乱を起こしました。外国勢力の応援で何とかこれを押さえつけますが、清朝はもうぼろぼろです。その後、やっと1876年から鉄道の建設に取りかかりました。最初の列車は天津、南京間。それから天津と北京が結ばれました。「帝王の路」北部ルート地域での列車の開通です。

 

二十世紀初頭には中国各地に鉄道が建設されました。「帝王の路」の南部ルート地域でも、香港と広州を結ぶ九広鉄路の建設が清朝末期の1906年に開始され最終的に中華民国になってから1916年に開通しました。現在、尖沙咀のスターフェリー乗り場の近くに残っている時計塔はもともと旧九龍駅のシンボルとして建てられたものです。

 

前にも述べましたが、このような鉄道建設の中で1902年に政府による大運河の管理組織がなくなり、実質的に北部と南部を結ぶ水上の路、「帝王の路」は終焉を迎えたのです。

 

1911年の辛亥革命で清朝は滅び、翌年中華民国が誕生します。鉄道建設は続けられ1949年までに中国全土で二万キロの鉄道網が出来上がりました。1949年に成立した共産党支配の中華人民共和国の時代から今日に到るまで四万キロ以上が新しく建設され、現在では六万キロを越える鉄道ネットワークが出来上がっています。しかしながら中国は大変広大な国土を有する国であり、まだまだ不便です。

 

1991年から数年をかけ北京と香港と結ぶ中国版の「新幹線」である京九鉄路の建設が行われました。1996年の秋に北京西駅から深セン駅までが開通、この時点では全長2,500キロ強を48時間で走行、大変ゆっくりとしたものでした。最終的に香港返還の年である1997年に香港の九龍駅(現在のホンハム駅)までの全長2,530キロが結ばれ、時間も38時間、その後新しい車両も導入されて、現在での北京、香港の所要時間は約28時間です。ちなみに北京、香港間の料金はHard Sleeperで600香港ドル前後、一番デラックスなDeluxe Soft Sleeperで1,191香港ドルです。

 

おわりに − 帝王の路、南水北調、オリエント急行

1975年夏にロンドン大学留学でイギリスに出かけるということで、前の年から英語のにわか勉強をした時期があります。急にイギリスの本を読み、「発音に慣れるのだ」とか言いながらイギリス映画を観ました。多分1975年春の頃だと思いますが、イギリス映画「オリエント急行殺人事件」(アガサクリスティーの原作は1934年の出版)を観に行きました。エルキュール∙ポアロにふんしたアルバート∙フィニーの名演技。異国情緒タップリのイスタンブールから始まる列車の旅、国際列車の旅に憧れたことを昨日のように覚えています。実際、1975年の12月の冬休みにロンドンからパリに電車で出て、ヨーロッパ大陸を三週間かけてTEEという国際列車で旅しました。

 

「走る貴婦人」の異名を持つオリエント急行。1872年といいますから明治五年、新橋、横浜間を日本で始めての汽車が走った年に、ワゴン∙リ社を始めたベルギー人の青年がパリとウィーンの間を寝台車で営業開始。その後紆余曲折を経て一世を風靡したオリエント急行。現在のオーナーはアメリカ人で会社の名前はベニス∙シンプロン∙オリエント∙エクスプレス社といいます。イスタンブールとベニスが六日間、ベニスとロンドンが五日かかります。東南アジアでもシンガポールとバンコックの間をイースタン&オリエンタル∙エクスプレスが二泊三日で走っています。

 

一ヶ月ちょっと前South China Morning Post紙にこのオリエント急行が香港と中国の主要都市を結ぶ路線を走る計画があるということで、欧州のベニス∙シンプロン∙オリエント∙エクスプレス社が九広鉄道社(KCR)と中国の鉄道省と話し合いを始めたとの報道がありました。検討されている路線は香港―北京、香港―上海、香港―西安(桂林、雲南経由)。シルクロード沿いの路線の運行も議論されています。何と言ってもWTO加盟とか2008年の北京オリンピック開催とかで世界の注目を集めている中国です。とかく話題性に欠けている香港の観光業界も元気づきます。

 

香港―中国各地を結ぶオリエント急行。実現すると世界の観光客の注目を集めることは間違いありません。私は北京と香港の間を走るオリエント急行に特に興味があります。多分現在の京九鉄路の上を走るのでしょう。鉄道については需要がキャパシティを超えており、まだまだ増強が必要な中国です。

 

水上の道である「帝王の路」も部分的には江蘇省地区の運河ようにまだ現役として活躍しているところもあり、杭州のように十年くらいかけて運河の改修、改築工事をする都市も出てきています。杭州の場合は公害対策が出発点とはいえ、いろいろ可能性を秘めた取り組みです。北京地域等北部の水資源の確保に運河の水を利用しようという大計画もあります。

 

鉄道、飛行機の発達で中国の各地を結ぶ交通も新しい時代に入っていますが、歴史的に長い間北京と珠江デルタを結ぶ重要な役割を果たして来た大運河と川を結んだ水上交通路、「帝王の路」に思いを寄せ、その展開と現状について抄録的に記しましが、今回はこれで筆をおきたいと思います。

 

                                                               (2003