第1章 世界は何処に?


 私は生まれた。
 私が生まれた日、嵐が人々に振り掛かった。母には会えず、私は、救急車でマリアンナ病院の救急センターに運ばれた。私はすぐ箱に入れられ、手術の準備をされた。
 私は生きられるのだろうか?
 言葉にならない不安が心をよぎる。
 暗い世界から、光りあふれる暖かい世界にやっと出てきたのに!
 私の周りは急に騒がしくなった。たくさんの人が何やらわめいている。当時の私は、まだ日本語を知らなかったのだが、何か大変なことが起きているのはよくわかった。私は、痛くなかったが、自分の身に起きていることは知っていた。
 私は手術の間の記憶は無い。
 私は目を開けて周りを見た。僅かに見えたのは、管や看護婦さんの影だけだった。僅かに聞こえたのは、わけの分からない機械の音や看護婦さんの声だけだった。
 なんだろう?
 私は確かにここにいるのに、まるで私の存在を否定したくなるような感じ。
 なんだろう……?
 私は私の存在を、まだ感じられないでいた。私が私の存在をやっと自覚できたのは、母が、私に会いにきた時だった。
 私ははじける心を抑え、私がどうすべきか考えた。私は、ここが世界なのか確かめたかった。
 透明な四角い箱。
 世界とは、この中のことだったのだろうか? 私がイメージしていたのとは、だいぶ違っていた。おまけに身体(からだ)はだるく、お腹に吊された、なんともいえない奇妙な袋は私の自由を奪っていた。身体、手、足、あらゆるところが変な感じがした。
 私には、目に見えぬ脳細胞を守るべき手段を持てるはずもなく、私自身の運命をただ受け入れ、甘んじなければならなかった。私の脳細胞は、私の命と引き替えに消えて、世界を隠そうとしていた。

  世界、私を
  知識の海に誘(いざな)う。
  その道、悲しく、
  遠くに見た。
  暗闇まだ晴れず、
  暗黒の海に独り漂う私。
  名はまだ無く、小さき神の
  作りし子のひとり。
  母、Chifumi's Babyとしての
  存在。

 私は母と父を知っている。顔は見たことはないが、お腹にいた時その声を聞き、感じていた。
 今会った母の声。
 お腹にいた時聞いた声とは違っていたが、母であることはすぐに分かった。この人がきっと、私を世界へと導くのだということを、私は感じた。そしてそのことが正しかったと、後に分かることになる。
 私はすぐに、二人が私をLunaと呼ぶ声に気が付いた。
 私の名前はLuna。
 いちばん初めに覚えた日本語だった。
 私、私とは何者か?
 記憶はいつからあるのだろうか。
 お腹にいた僅か数カ月の間に、私は意識を持った。
 私は楽しみを持っていた。楽しみとは、私が世界を知ることだ。私が知っているこの心地よい暗闇を飛び出して、得られるはずの世界を持つ希望は、生まれる一カ月前に崩れた。
 私が私を意識するにはまだ程遠い水の中でのこと。私のお腹から細長いひものようなものが噴き出たのだ。
 何か変な感じだ。
 身体に当たるものがある。それが腸だと知ったのは、ずっと後のことだった。
 私は、“ヤバイ”と思った、と思う。
 きっと今ならそんなふうな言葉を選んだだろう。私の日本語はまだ私の脳にインプットされていなかった。
 私がヤバイと思ったのは、このままだと私は生きられないと、直観的に悟ったからだ。
 痛くなかったが、不安があった。慌ただしい人の波の中、不安を思い出していた。そしてその不安は、母に会うまで続いた。

  あなたは誰?
  私は知っている。
  私がついこの間までいた、
  ゆりかご、ママ。
  私に居場所を
  作ってくれていた人。
  虹色のオーラを持っている、
  私の母だ。

 私は母の手を感じ、手術を早く終えたいと願った。私の腸は、まだすべて私のお腹に入ったわけではないのだ。初めの手術を入れて三度の手術が、数週間のうちに行なわれた。
 入院中、私はいつも気分が悪く、あまりいい気はしなかった。手術の後など、三回が三回とも目覚めが悪かった。私はたぶん眠ってばかりいたのだろう。しかし、愛する母が来た日は、なぜか気分が良くなった。
 手術、入院、私に起こる様々な出来事。私が生まれてから僅か数カ月の間に起きたことだった。
 手術の後、私は脳の中で異常が起きているのを察知した。頭が痛くなり、定期的にビクつくのだ。
 『誰か助けてー。』と叫ぶのだが、誰も気づいてはくれない。
 私はいろんな検査を受けたと思う。早く気がついてほしい。
 『辛い! 苦しい!!』声にならない叫び声を上げたけれど、私の声は日本語にはならなかった。
 そんな中、私は移動させられた。よかった。この四角い箱は世界ではなかった。鼻の管のみ離れず身体に残ったが、私はその箱から脱出して、世界への一歩を踏み出した。私は白い服を着せられ、小さなベッドに寝せられた。
 そこに移っても、苦しみは続いた。
 『誰か……! 誰かー!!』
 母が来た!
 『気がついて私を助けて、ママ。』
 私は母に抱かれている間だけ辛くなくなった。しかし面会できる時間は本当に少ない。母から離れると苦しさが再び訪れた。
 私は、看護婦さんに言われて、渋々帰る母の後ろ姿を追って泣いた。母は私の異常さを看護婦さんに聞いていたが、取り合ってはもらえず、帰されてしまったのだ。
 母の来ない日は、再び私を感じる事が出来なくなり、ただ辛く孤独だった。
 やな薬だが、当時の私にとっては必要なものだった。抗てんかん剤。そう呼ばれる薬を飲み始めたのが、いつからかは記憶に無い。ただ身体が楽になっていったのを覚えている。
 私のベッドには、身体が突っ張らないでお尻が下がるように、白いタオルが丸められ、置かれた。
 私は退院するまでには、かなり快適に日々を送れるようになっていた。あぁ、中でも、入浴が一番素敵だ。うっとりしてしまう。思わず漏らしてしまう声は、私の至福の喜びを表わしていた。
 初めの入院中の思い出は、白いレースのドレスで終わる。母が私のために買ったものらしい。女の子みたいと言われたが、私は気にしなかった。
 後で聞いたエピソードならたくさんある。父が、私の管だらけの姿を指を差して笑ったとか、相模大野の祖父母が、窓の外から私を見にきてくれたとかだ。
 私は愛されていたと思う。母が、私が生れる前に心配していたことなど、杞憂に終わるほどに。母は、「母さんはぼくを愛していないんだ。」と言って、私が不良になるのではと心配していたのだ。母の愛は少し変わっている。
 その話はおいおい話すとして、一回目の入院夜話はおしまいにしようと思う。

  愛は始まったばかりである。
  私はまさに、世界へとはばたこうとしていた。
  退院はその第一歩だ。
  きっと見つかるはずだ。
  世界への扉が。
  嵐が何度来ようとも、私は飛ぶのだ。
  広い大海原へ。
  青い大空へ。
  私は、私自身が飛ぶ船になれると知っている。
  人の精神(こころ)は自由なのだから。

  夢を見ますか?
  虚像ですか?
  それとも実像ですか?
  決めるのは私。
  選ぶのは私。
  私の夢は実現すべきもの。
  決して見るだけの夢では終わらない。
  明日も続く愛を始めよう。
  私が私であるために。

第1章 1996年2月〜7月執筆


※自伝『愛の中で・カオスからコスモスへ』は、『はじめてのことば』(日木流奈著 大和出版刊)に収録されています。


>>> 第2章

>>> 『愛の中で・カオスからコスモスへ』表紙



Copyright © 日木流奈 1996. All rights reserved.
Copyright © SKR 2002. All rights reserved.