私に宣言された病名。極小未熟児、先天性腹壁破裂、新生児痙攣、点頭癲癇、白内障、脳性麻痺。さまざまな名前が付けられ、青い花を開くように明らかにされる症状。症状は症状でしかなく、症状の解決にはならなかった。
初めて病院を出て、押したいと思った床は畳だった。不思議な感触、日本人の心、井草の匂い、まろやかミルク。動けないけど押してみる。むき出しの手足で押してみる。ほっぺでもついでに押してみる。固くて柔らか、気持ちいい。タオルはぐしゃぐしゃ顔に付く。やっぱり直接、畳がいい。
赤ちゃんであることは、時々とても辛く思えた。かわいいと言われ、気を良くしても、すぐに私を忘れ去る人を見ると、心が痛んだ。私のアイデンティティを見せなければ、私を人と見てはくれない。私はあくまで赤ちゃんなんだ。決して一個人にはなれない。流奈として生きたい。どうしたらそれが伝えられるのだろう。
私はいろいろな実験をした。
穴を作った。──なめてかじって洋服に。
泣いてみた。──身体震わせ全身で。
……気づいた人はいなかった。
なぜ、愛はサーっと過ぎようとするの? だが、居合のスピードほどではないけれど。私の試みは、ある意味では成功していた。そのスピード以外は。
私を愛して、遠くから見てないで。
私を感じて、愛を知りたい人は。
そう念じても、吐息をかけてみな去っていく。
私は誰?
流奈とは呼ばれてはいるけれど、私が流奈という人間である証拠にはならなかった。
世界は、退院してもまだ、私から離れたままだった。それどころか、背を向けてますます遠ざかろうとしていた。私を母に見つけてもらうには、意思の伝達が必要不可欠な条件であると私には知る由もなく、ただ悶々と実験を繰り返していた。
著しい脳の損失。手足とはこんなものと信じていたあのころ、明らかな違いに気がつかなかった。私は私が小さい子供であるための不便ささえ、成長とともに無くなってほしいと願える立場にはなかった。私など世界を知る必要は無いと拒絶にあった気分、そうした気分を味わうこともまだ無かった。
母はよくあちこちに連れて行ってくれた。子供のワークショップ、区でやる子供の遊びの会。私の知性を考慮してのことだった。しかし、私の身体は抗癲癇剤のために、意識ははっきりしないうえに無気力状態だった。そういう場所で、私はすぐに睡眠に突入するのが常だった。病院やリハビリセンターでさえ例外ではなく、どこに行っても、世界の扉のかけらさえ見つけられなかった。
世界はここにある。そう名乗りを上げたのは、ある一冊の本だった。
ああ、光! 私は本屋が光って見えた。ここはたくさんの記号の洪水だ。私の求める世界、出航を待つ船。私を乗せる準備はできているかしら? 母はついに見つけた。私を世界に誘う船になる本を!
私の哀しみかあきいろ
愛の中までかあきいろ
行方はどこか定まらず
港へ向けて前進す
どこの港と問われても
場所はどこだかわからない
けれど行き着く名前なら
私が言うことできまする
その名は世界、私の愛
まだ見つからないのはもどかしい
しかし船は旅立った
見つかったなら変わるはず
私の楽しみばらいろに
愛の中までばらいろに
私は私を発見す
あなたも私を発見す
夢を見ましょう真実の
夢は実現すべきもの
記号には法則があった。それこそが、私の世界を示すキーワードだった。法則、『文字』という法則。
乾いた空気、のどを抜ける。潤いが欲しい。ジュースの香り、果物のしぼり汁。かすかに湧く希望のように、脳いっぱいに広がるフルーティーな光。のどを潤すジュースと同じだ。『文字』、脳にいきわたるジュース。母が見つけたのは、文字を教える方法が書いてある本だった。それはドーマン法の一つ。知性のためのプログラムだった。
ドーマン法は、私の世界への扉となった。開かずの扉は開いた。探しているものは、世界! 世界とは文字を知ることにより広がる。愛すべき人々との接点が、今、開こうとしていた。
ああ! これは世界だ。人として生きるための世界だ。
母はまだ知らない、私がすべて理解できることを。父もまた、母以上に知らない、私の中にある記憶のすべてを。
プログラムの始まったその日、その記号が本当の意味を持つ言葉であることが、ただ、ただ、嬉しかった。時として、あまりに繰り返しが多く、退屈だった時もある。しかし、プログラムとは別に毎日読んでもらった市販の本は、私により多くの文字を与えてくれ、世界を広げてくれた。市販の本は、私が読むにはまだかなり小さかったが、読めないことはなかった。母の声は音楽のように響き、私の心を世界でいっぱいにした。私はその小さな読みづらい文字を、母の声で完全に知ることができた。補える声を持つのは母。早く、もっと早く私の世界を広げてほしい。
広がった世界。私は喜びの反面、それだけで満足していない自分に気がついていた。
母がよく言っていた。早く日本語を喋ってと。私は声を出す。しかし、それは意味の無い音にしかならない。世界を知っても語るべき人はいない。失うどころか、得てもいないアイデンティティは、私には程遠いものであった。
私の声を聞いて。
私を感じて。
その願いがかなったのは、1995年、私が5歳の秋だった。
その夏に、私は新しいプログラムをもらった。私が最も望んでいた、会話の一つの方法、F.C.(ファシリテイテッド・コミュニケーション)。私を完全なる世界へ導く一歩となるはずの、会話を可能にする手段だ。
開かずの第二の扉が開きかけている。
ドーマン法については後に詳しく話すが、一言で言えば、脳障害児のための総合的リハビリプログラムだ。その診察を受けている私は、24時間をプログラムの中で過ごす。
母は他のプログラムが終わると、毎日大きな文字盤の前に私を連れていき、会話を試み始めた。私たちの会話は、初めなかなかうまくいかなかった。「はい」と「いいえ」で答える問いには答えられたが、会話にはならなかった。問題解決のプログラムでは、私が指す文字が違っても、母は私がわかっていることを理解してくれた。私が指そうとしていると感じてくれた。私は私の言葉を待つ母が嬉しかった。毎日読み取ってもらえないいら立ちは、あまり無かった。母は読み取れないことを私に謝りながら、私がわかっていることを知っていると告げた。私はそれだけでこの方法に希望を持てた。
ある日のこと、文字盤が小さくなった。私には、手が届く大きさになった文字盤が光って見えた。『文字』は、どんどん私を世界の中心へと導き始めていた。言葉にならない声は、文字盤を通して泉が噴き出すように溢れてきた。愛する人々と会話ができる。私は一生懸命文字盤を指した。
一文字ずつ確認しながら文章を造る作業は、30分以上かかった。あたかも、はめ絵がはずれたジグソーパズルを完成させる作業のようだった。私が指す字は少しずれていたため、母は何度も何度も確認していた。
「わ・た・す・さ・か・な」
母が気がついた。私が言わんとしていることを。魚を渡したかった。おいしい魚を、帰ってくる父に。母は歓喜して父を出迎えた。父は言った、
「ありがとう、流奈。いただくよ。」
私は満足だった。きっと、もっともっと伝わるのだろう。私は秋が楽しかった。私の言葉が初めて伝わった、その年の秋が。
その後、母は、プログラムの一つである手作りの本の、読んだ感想をきくことを心がけるようになった。
私はまず自分を差し示す言葉を探した。そしてその日、テレビで耳にした言葉を使ってみることにした。
「わ・ら・わ・は・な・ま・め・か・し・い・び・じ・よ」
エジプトの女性のミイラの本だったので、私は自分を「わらわ」と言ったのだが、思いっきり笑われてしまった。その本の美女になったつもりだっただけなのに、なぜ笑われるのかわからなかった。でも、今ならわかる。私は当時5歳の男の子で、自分のことは「ぼく」というのが普通だと知ったからだ。その後私は「わらわ」とは二度と言わなかったが、「ぼく」という言葉も使用していない。私は、「私」と言ったほうが自分らしく好きだったので、今でも使用している。
人は愛を全身で表わす。言葉は付属品に過ぎない。しかし、ただの付属品ではない。人間として生まれたからには、知性を示す重要な付属品だ。言葉を持つことにより、愛はますます高まった。私にとって言葉は世界そのもの。文字を綴ることにより言葉となり愛へと変わる。
私の畳は、私を押し返すことによって私と会話していた。私を感じた畳は、みな一様に優しかった。しかし私には、人の言葉の押し返しのほうが必要に思われた。大好きな畳よ、さようなら。私を人に戻した言葉よ、こんにちは。愛が深まり、病気の名など何の意味も無くなる日、私は私を再び発見するのだ。
漢字ひらがなカタカナを、
文字というんだ日本語は
私の世界はここにある
私の愛はここにある
すべての子供が持っている
可能性を見つけてよ
みんな心で叫んでる
私はここよ、ここにいる
私を早く見つけてよ
みんなを世界へ連れてって
私と同じ子供らを
それが私の願いです
Copyright © 日木流奈 1996, 1997. All rights reserved.
Copyright © SKR 2002. All rights reserved.