こんにちは。ルナの父です。私が息子、ルナと接していて思うことを述べさせていただきます。
ルナは、極小未熟児、先天性腹壁破裂として生まれました。産婦人科の医師からは、90パーセントはダメだろうと言われました。生後二週間で三度の手術をしました。そのストレスのため、脳に水がたまり、脳を圧迫されたために脳障害となりました。このように、始まりからして、健常児に対してマイナスのスタートでした。それでも初めは、極端に小さいことを除けば、見た目が赤ちゃんなので、障害があるようには見えませんでした。何より、90パーセントダメと言われたところを、なんとか生き延びてくれたことがうれしかったのです。今は遅れているけれども、そのうち健常児に追いつくだろうと、あまり深刻には考えていませんでした。
しかし、二歳になってもお座りもできないとなってくると、しだいに現実に気づき始めます。このままではいけない、と。そして、一冊の本に出会います。それはグレン・ドーマン博士の本で、脳障害児の治療の記録が書かれてありました。たとえ少ない可能性でも、少しでもルナが良くなればと思い、ドーマン法のプログラムを開始しました。ドーマン法のプログラムは、身体面の運動プログラムだけではなく、健康面、知性面のプログラムもあります。
知性面のプログラムでは、大きな字で書かれた単語や文のカードを見せたり、ビッツという、事実としての画像を見せます。事実としての画像とは、例えばイヌなら、イングリッシュポインター、ダルメシアン、ドーベルマンピンシャー、グレイハウンド、アイリッシュセッターといったイヌの写真やイラストを見せます。これらはインプットです。
アウトプットは、口でしゃべるなどですが、脳障害児は呼吸が悪く、自分で意図したとおりに話すことがなかなかできません。声を出すことすら難しい場合もあります。
そこで、ファシリテイテッド・コミュニケーションという方法を使います。ファシリテイテッド・コミュニケーションとは、なんらかの手段により、意志の疎通を容易にするものです。口でうまくしゃべれないなら、ワープロを打つのでもいいし、紙に五十音の文字を書いた文字盤を指すのでも構いません。空中に指で字を書く子もいます。とにかく容易にコミュニケーションをとれるようにするテクニックです。
今までインプットはされていても、スマートなアウトプット手段を持たなかった脳障害児の内面を、このファシリテイテッド・コミュニケーションによって知ることができます。多くの場合、他者が見る外見と、本人の内面とのギャップに気づきます。
ルナの場合──
ルナがファシリテイテッド・コミュニケーションを初めて行ったのは五歳の時でした。それまでは、彼としてはいろいろな声や音を立てて表現していたのすが、呼吸が悪いためにそれがスマートな日本語にはなっていなかったので、私たち親がそれを明確な言語として理解することができませんでした。本を見せても、見ているのだか、見ていないのだかわからない。楽しんでいるのか、つまらないのかわからない。本当に彼が理解しているのか、確信が持てませんでした。人は、楽しい時は楽しい表情をしますし、退屈な時は退屈な表情をします。ですから、私たちはルナに、その本がおもしろいのなら、楽しんでいる表情を見せてくれることを期待していたのです。その期待した表情が帰ってこないので、彼が理解しているのかどうか、わからなかったのです。
ルナは後に、「文字を知る前から意識があった」と言っています。見せられた単語カードや本はすべて読んでいたし、文字を教わる前から、周囲で起きている事をすべて把握していたと言っています。そうとは知らず、それまでの五年間をルナを「何もわからない子供」として扱っていたことを深く反省するのみです。彼はその期間を「沈黙の五年間」と形容しています。
J君の場合──
J君は孤児でした。孤児院では、子供が欲しい夫婦が、一番気に入った子をピックアップして養子にします。しかし、J君は斜視があったため、一目見て障害を持っていることがわかる子だったそうです。ですから、彼をピックアップする夫婦はいませんでした。
そこに神の手が差し伸べられたのです。数カ月後、いつもは自分の上を素通りする人影を見ているだけの彼の上に、アメリカから来た牧師さん夫妻が立ち止まったのです。彼は後に言っています、「それまで、私を抱き上げる人はだれもいなかった」と。彼はその間の意識を持っていたのです。
Y君の場合──
Y君は、見た目は障害があるのかどうか、わかりません。しかし、呼吸が悪いために言葉がなかなか出ないのです。本人はしゃべろうとしていても、結果としてアウトプットされてこないので、他者にとっては、話しかけても答えない子と映ります。彼はかつての呼吸の悪さを、こう表現しています。
「夕方の呼吸は、最悪で、死を予感するほど苦しいものでした」
「生きようとするほど苦痛になるなんて、お母さん助けてって小さな赤ん坊だった私は泣くしかありませんでした」
T君の場合──
彼も、自分自身の内面と、他者から見た外見とのギャップに激しく悩む一人です。彼も呼吸が悪く、うまくしゃべることができません。その彼がファシリテイテッド・コミュニケーションによってこう語りました。
「私は読みが早くできますが、私がろくに読めないと思っている人がたくさんいることです。何も知らないと思っている人がいることです。力がないからそれを知らせることができません」
以上の例は、脳障害児という極端な例です。脳障害児は呼吸が悪いために、身体を動かしたりしゃべったりということが、思うようにできません。そのために、周囲の人にわかるような、知性を示すしぐさ/表情をしないために、何もわかっていないと思われてしまいます。
ルナは精神薄弱と判定されています。その判定のしかたとは、こういうものです。例えば、丸/三角/四角の積み木のようなものがあり、それらがちょうど収まる丸/三角/四角のくりぬきのある木の板があります。丸い木は丸い穴に入れなさい、四角い木は四角い穴に入れなさいというものです。ルナは六歳になってもそういうことができませんでしたので、精神薄弱と判定されました。ルナは、呼吸が悪いために身体に硬直があり、自分の思ったように身体を動かすことが難しいのです。丸い木を丸い穴に入れるということはよくわかっていても、実際に自分の手をそのように動かすことができないのです。結局、六歳であれば当然に出きる事を言われてもできないということは、精神薄弱であると判定されるのです。
健常者であっても、100メートルを10秒で走れと言われても、オリンピック選手でもなければできませんよね。言われていることはよくわかる。でも、自分の足ではとてもそんなに速くは走れない。しかし、言われたとおりに100メートルを10秒で走らなければ精神薄弱と判定されてしまう。そんなようなものです。これは精神薄弱の検査ではなくて、身体障害の検査というべきですね。
さて、いくつかの具体例をあげてきましたが、あえて極端な例として脳障害児を出しました。本人の内面と、他者から見た外見とのギャップに最も気づきやすかったからです。何もわかっていないと思われていた子が、じつは教育を受ける前から意識を持っている。それは健常児でも同じです。表現というアウトプットが未熟なために、大人よりも知性が低いと思われ、見下されてしまう。問題があるのはアウトプットなのです。
子供は親の付属品ではありません。血はつながっていて、顔かたちは似ていても、両親とは別の人格を持った、一個の人間なのです。それを尊重する心は重要です。年齢も性別も国籍も社会的地位も、何も関係ありません。だれに対しても、相手を見下すような尊大な態度をとる必要はありませんし、また、極端にへりくだって、ウソ臭い営業スマイルをする必要もないでしょう。あくまで相手を、独立した人格を持った、一個の人間として尊重するのみです。人は皆、平等なのですから。
ありがとうございました。
1998年6月
>>> From Luna's Father (English)
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