懐かしの モノスキー 写真館

 


大雪山黒岳スキー場   写真は、初めてゴールデンウィークに、黒岳を訪れた時の写真です。

大雪山黒岳スキー場は、 道内一早くオープンいたします。同じ大雪山旭岳スキー場は、

ある程度の降雪で、ハイ松 などの植物を傷めなくなるまで、雪が降り積もらないとオープン

いたしませんが、黒岳スキー場は、60cmの降雪で、リフト線下の狭いコースが、いち早く

滑れます。二度目は、11月に、札幌近郊に雪が降らず、雪を求めて黒岳に行きましたが

シングルリフトに、長蛇の列が出来ており1日で、4本しか乗れなかった記憶があります。

三度目も11月に訪れましたが、ゴンドラ券買所に、コースが狭い為、ボード系の

お客様は、ご遠慮くださいと張り紙がしてあり、ロビーには、もの凄い数のボーダーで

あふれかえっており、私達も滑れずじまいでした。唯一1本有るリフトが、2人乗りになって

いるはずですが、乗った事が無いほどの昔の話です。

 

 

大雪山旭岳スキー場  ここは、スノーボード禁止のスキー場ですが、モノスキーだけは、

許可されている変わった所です。(現在は、わかりません。)ゴンドラスティションで、必ず

呼び止められ、その板は、なんですかと尋ねられ、3分ほど事務所会議でOKが出ていました。

 現在は、1本のゴンドラで、山頂まで行けるように、なつていますが、

当時は、中腹駅を中継し2本のゴンドラで、姿見駅まで上がり、中腹駅(名前が思い出せない)

まで滑りおりて、帰りにだけ山麓駅まで滑って降りていました。またここは、自殺の名所でも有り

5月の雪解け時期には、姿見池周辺で自殺者が雪下から現れます。(最近は、そう言う話がありません。)

一度私たちの滑る前に、死体をのせた圧雪車がおり、コースが狭く後を滑って、ついて行くと

下の駐車場には、10台ほどのパトカーが待機していた事もありました。

また、ニセコひらふで、顔見知りになった千歳勤務の方が、土日営業していたキロロ スキー場で、

偶然遭い、6月6日最後の滑走を終えると、来週から旭岳 夏季営業始まるからジャー来週旭岳ね。

と言い残しいなくなったので、急きょ次の週は、旭岳に行った記憶があります。

 

 

私たちは、モノスキー インストラクター 佳代さんに、大きな影響を受けて、力をもらいました。

最初の出会いは、12月始めの中山峠スキー場で、モノスキーを滑っていると、同じモノスキーヤーの

女性から声をかけられ、私と妻(まだ独身)は、昨シーズン3月に、テレビ放映していたモノスキー特集で

優勝していた人だと、すぐに判りました。今年からMt.レースイで、インストラクターをしていますので、

遊びにきて下さいと言われ、夕張には、雪が無いので休み日に、イントラ10人で練習に来ていますと、

言っておりました。それ以来Mt.レースイに、モノスキーレッスンを受けに行ったり、Mt.レースイモノスキー大会

に出場したり、ゴールデンウィークに行なわれた、Mt.レースイレッスン会員とイントラで行く春スキーツアーに

別行動で現地集合し、同じホテルに泊まり、一緒に、ニセコひらふを滑っていただいたものでした。

それから4年間位は、佳代さんと旦那さんとモノスキー軍団で、ゴールデンウィークに1泊スキーで、

ニセコひらふを滑走し、夏は、キャンプに一緒に行ったものでした。

 

 

ニセコアンヌプリ頂上  当時は、ニセコ4大スキー場を登りつめると、必ずここへたどり付きます。

頂上避難小屋に、気象観測鉄塔が建っていましたが、風雪に負けて倒れてしまいました。2年間

この状態でしたが最後は、撤去となりました。

雲海から顔を出す羊蹄山。ニセコひらふリフト終着点にたどりつくには、リフト本数計算すると

4本縦に乗り継ぐ長さになります。この日リフト終着点までは、雲の中の濃霧状態で、

リフト終着点からは、雲の上に出て、青空の晴天です。そこから30分間、板を担いで登ると

やっとアンヌプリ頂上に、到着し羊蹄山が顔を出しています。

 

 

左が私、真中が、満井さん、この方がモノスキーの先生佳代さんの一番弟子です。

彼は、当時では、珍しかったスノーボードに乗っていましたが、佳代さんとの出会いで

次の週には、モノスキーを購入し、かって住んでいた静内町から中山峠や、ひらふで滑り方を

伝授してもらったそうです。静内の満井さんは、週末ニセコのペンション住まいの為

土曜日の夕方など美笛峠で、時折対向車線で擦れ違い、車のブレーキランプやパーキング

ランプを使いバックミラーの中で挨拶をしたものでした。

一番右の女性は、妹です。ニセコひらふアルペンスキー学校の4月最終日一級検定を雨の為

中止となり涙を飲んで、次の年からアルペンリフトのリフトマンとなり、スキーの一級を目指しました。

この写真の時は、アルペンスキー学校インストラクターをしていた頃で、後には、スキー場の

レストランに、長く働いておりました。冬季間だけや麓の倶知安町に住み着いたり、スキー場で

7年ほど仕事をしておりました。 下の写真は、スキー場中腹ひらふアルペンセンターヒユッテの

屋外ジンギスカンです。佳代さんと旦那さん、春の屋外ジンギスカン担当の妹もいます。

 

 

6月初旬、冬季間閉鎖のニセコ〜岩内線途中にある、チセヌプリ登山道入口から

残雪を求めて登山スキーです。この時は、私達のほかに、4名スキーに来られている方がおりました。

この頃は、雪さえあれば5月も土日リフト営業していたスキー場も数箇所あり、11月から

6月まで8ヶ月間スキーをしていた時期でした。当時のスキー滑走表を見ると

1月の13日滑走を最高に、8ヶ月間で、私が43日滑走、妻は、48日滑走となっております。

 

 

スキーチームギャギャンドゥ。かつては、フロームAの頃、北海道で15分番組を

3回ほど深夜に放送され、うまい滑り方とは言えませんが、エアーパフォーマンスと度肝をぬく

集団滑走など今まで見た事の無い新しいスキー番組でした。必ずニセコひらふで撮影しており

ファンクラブに入会して、ひらふで撮影の時は、追っかけをして、ゲレンデ内で、バックフリップや

コース外の崖飛びなど生で見る事が出来ました。 その後、5年間冬季番組として北海道でも

放映されていました。彼らのウエァーは、限定100着を11万円で販売しておりましたが

値段が高く買えませんでした。

下の写真後ろに見える花園リフト終点は、リフトが設置する2年前からコースが出来ており

白樺の木が転々と井の字に積み上げられておりましたが、コース外ロープ越えで

誰も滑っていない深雪花園コースをリフト半分ほど滑り降り、真横へトラバースして

見晴しヒユッテ裏へと出てくる謎のコースなどありました。

 

 

背中には、DURETの刺繍ワッペンを付けニセデモのふり、この後のスキーウエアーには、

ネーム刺繍屋さんで、ウエアーの胸にDURETの刺繍を入れてもらつていました。

私の板ビンディング前部に、弾丸エアロスポイラーを取り付け、雪を裂いて滑り

ブーツには、蛇顔を描き林のなかを蛇のようにウエーデルンで、滑っておりました。

また、ストックには、子供用自転車のパフパフクラクションを取り付け応援グッズとして

使っておりました。

ニセコひらふアルペンでは、七飯町、函館市の方が多い探検隊チームに、お世話になり

何処で雪崩が起きるか、コース外で、これ以上進入すると命が危ない所や自分達が経験した

話など二セコのいろはを学びました。また、春滝スキースクールと言う謎のスキーチーム

小樽系のリーダーがいて、悪雪や誰も滑れない斜面を滑り自分なりに評価をするチームで

どちらにもモノスキーを乗る人がいて、仲間に入れてもらっておりました。

  

 

6月のチセヌプリで、ジャンブ台を作り昼食には、炭火焼きを食べて帰りには、

麓の国民宿舎雪秩父温泉で汗を流して、硫黄の臭いプンプンで帰ってきました。

6月

 

かつてMt.レースイで、12月31日に、一度だけ行なわれた年越し女子プロレス

30分前まで雪がパラパラと降っており、冬の屋外プロレス中止かと言う時に、雪がピタット止み

予定通りセンターハウス前で零下の気温の中、プロレスのコスチュームで3試合行い、

終了後、恒例のタイマツ滑走がありました。

 

 

チームマルタケ。 最初は、レースイカップ、モノスキー部門に出場の為、私達2人から

始まり、次の年、モノスキーインストラクターの佳代さんから千歳から来ている2人組みが

いるので、一緒に滑ってあげてと言われた二人組がチームに加わり何時の間にか

毎年10人程度の大所帯が4、5年続いておりましたが、徐々にモノスキーが下火になり減ってしまった。

最初の頃の4人が常に最強部員で、4人共、長野県戸隠で行なわれた日本モノスキー協会

大会に出場経験があります。

 

 

手稲にウオータージャンプ場が始めて出来た年。オリンピア駐車場(二年目から)では無く、もっと

山下の雑草の生い茂った臨時駐車場の奥まった斜面にあり、ようやくバス会社の方に、聞いてやっと

見つけ出すほどの位置にありました。第1回大会には、エアリアル、モーグル、ボード部門があり

左の写真は、大会ではありませんが、審査員にもなったプロボーダーの木村シモンさん

右の写真は、当時モーグルワールドカップを転戦していたコザックの伊藤篤さん岩渕兄妹

ツキタ姉弟、原ダイゴさん本間さんなど当時のスゴ者が見学に来ていました。

 

 

長男3ヶ月半でリフトに乗る。スキー場中腹のヒユッテに、抱っこ紐で、一緒に食事に行きましたが

知らないおばさんに、赤ちゃん抱っこしてスキー滑るんじゃないと、怒られまた。俺は、滑ってないぞ。

ただ食事に登ってきただけです。この頃は、子守りをしながら交代で1人ずつ滑っていました。

 

 

この年は、レースイモノスキー大会で初めて夫婦ダブル優勝になった時です。

下の写真は、本州チームカラカサがMt.レースイ遠征してきた時の合同写真

 

 

長男1歳3ヶ月二セコひらふアルペンで遊ぶ。

 

 

長男1歳4ヶ月1日中雪上(チセヌプリの残雪)に居た為、雪目になり、

白目が赤く、目の周りが2日間腫れあがりました。

 

 

長男2歳2ヵ月ターンも出来ず、スピードコントロールも出来ず、唯一ハの字に開いたり

閉じたりのみでニセコに挑む無謀なチャレンジ。

なぜか私達を見かねて、見知らぬ道東から来たお爺さん家族が、内の3才の孫は、これで

滑れるようになったと言うカーボーイが使う輪投げ紐をくれて、長男の腰に、装着

長男は、ひたすらハの字で落下し紐を持った親が、ハの字で必死にブレーキコントロール

コース外に出そうになると、自分の行きたい方向を見ろと指示すると50%の確立で

曲がってくれました。この紐おかげで進歩です。

 

 

長男3才1ヶ月初心者の練習には、Mt.レースイが最適です。ネジレのない大きなバーン

緩やかな斜度のコースも複数あり、常に凹凸のない圧雪斜面が、練習に最適です。

まずは、フイールドへ行き、ハの字のままスピードコントロール直滑降、斜度が緩いので、

すぐに色んな事が出来るようになり、ワインディングコース練習で、ターンも自由自在に

練習いたしました。  昨年まで使っていた長さ1mの板を止め、ターンしやすい用に

テールを20cm切断し、ビンディングの位置を付け替え長さ80cmの板へと改良いたしました。

 

 

3才3ヶ月私の妹が働いていたひらふアルペン1000m小屋まで行き、自力で滑走して

降りられるまでに、成長いたしました。距離摘には、リフト3本分を2本滑ると体力の

限界で、雪の無い駐車場で遊びとなります。

3

 

これ以後は、本文を参考にして下さい。


2005/4/28