このページについて

 このページはボク(田部正行)専用のページです。ボク自身の生活や趣味、思うことなど思いつくままに書いていこうと思います。気軽に、そして真面目に読んでください。今後少しずつ書きたしていくのでそのつもりで、どうぞ…!



タツノオトシゴ復活の記

ぼくの自称「タツノオトシゴ」とは……ぼくの生まれた年(1928年)が干支でいうとタツ(辰)年だったので、自分のニックネームとしてこの名を名乗っています。本物のタツノオトシゴと似ているかもしれません。70歳で迎えた正月の年賀状には「七十路に進むタツノコ車イス」という名句?を記したのですが、覚えていてくれてる人はお便りください。



(これはぼくがかかわっている「地域で生きる教育とくらしをめざす会」の機関紙「かっぱのへん!」の38号から52号にかけて書いたものの一部です。ぼくの人生の記録として読んでみてください。)
自己紹介…簡単に

 生年月日 1928年 11月25日(今年72歳) 広島市東観音町(現表示では西区東観音町)で生まれた

 主な経過 1945年 8月 原爆被爆(中区西川口町の屋内で)ケガは軽微、

1959年 脳性マヒ者の集い「ひかりの会」結成に参加。

      東京青い芝の会などとの交流も始まる。

1965年 山口県玖珂郡周東町に転居、自立。

1970年 結婚、1980年 つれあいと死別

1977年 広島青い芝の会に参加 1986年 会長に就任

1998年 障害者生活支援センター てごーす 結成に参加、代表に就任

2001年 てごーすのNPO法人化を経て代表にあらためて就任

      地域で生きる教育とくらしをめざす会 代表を兼任……

 趣味   文芸(歌謡詩など)、鉄道関係(特に路面電車が好きで、パソコンなどで毎日のように入ってくる電車の情報を楽しんでいます)、街歩きなど


「命びろい」?!

 ぼくが、頚椎手術とそれに伴う2年余りにわたっての入院生活から“復活”して6年が経とうとしている。現状は、寝たきり…座らされれば、座りきり…手は右手はちょぴり動く。以前、大いに腕前?を発揮していた左手は、入院中のリハビリの失敗(ぼく自身の不注意でもあったのだが)で肘の上の方を骨折した時に、応急手術で入れた副金(そえがね)が入ったままである。即ち、「筋金入り」なのである。

 「脳性マヒには、その特性から中年期以降(個体差はあるが)運動神経の急激な変調が起こって体が動きにくくなる場合が多い。」ということを以前から聞いていて、自分もいつかそうなるだろうかとは思っていたが、‘82年の春ごろから始まってきた首と肩あたりの激しく重苦しい痛みと前後して起こってきた、からだの変調はやはり激しかった。全身がたった4〜5日のうちに、まるで引力のとりこになった感じで、すごく重くなって、起き上がることも、寝返りを打つこともできなくなり、ものを持つことも、ほとんど拒否するようになったのであった。さすがに気になって、当時介護にきていた医学生に紹介されて、その医学生の先輩だという開業医に診てもらったり、青い芝の仲間の小林君(故人)に教えられて、市内の的場町にあるA医院に1ヶ月ばかり入院して頚椎への痛み止めのブロック注射を受けたりしていたが、いっこうによくならず、ついに、広大病院を紹介されて受診した結果、手術をしなければならないことになったのであった。

 手術は頚椎第5番と6番の間にできたヘルニアを削るという理由で‘83年の7月18日に広大病院の整形外科でやられたが、全身麻酔がよく効いて起きたらすっかり終わっていた。その麻酔の威力に感心するやら“手術は順調にいったよ、しばらく静かにしていればあとは治るばかりだ。首の固定バンドもそんなにきつくしなくていいよ。”などといった担当の久保田医師らの言葉にホッとするやら、とにかく一つのヤマを越えたという思いだった。(もっとも、このような麻酔の威力が悪用されたら大変だ。ひと寝入りしているうちに臓器や生命まで奪われてしまうのだから…)

 その後、聞いた医師の説明によると、当初考えられていた順番でいくと1ヶ月ほど後回しにするところだったのだが、それまで待たせると生命に関わるようになる惧れがあったので、順番を差し繰ったのだということだった。ぼく自身には、そんなに危くなっているような感じもなかったのだが…。頚椎のあの位置の異常が生命の維持装置たる延髄にそんなに影響するものだったのだろうか。もし、そうだとしたら、ぼくはこれで何度目かの命びろいをしたことになるのだが…。

 とにかく、これがぼくの復活へのスタートになったわけである。



僕の音楽史

 (1994年6月、尾道合同保育をすすめる会「渡船」に寄稿したもの)

 ぼくと音楽との関係は、記憶にあるところでは、5〜6才ごろからか、父が時々鳴らしていたマンドリンのメロディーとポータブル蓄音機とレコードで聞いた童謡から始まっているようだ。その蓄音機はなんだか音符を図案化したような模様のついた布張りの木箱に組まれたゼンマイ駆動のもので、いわばおもちゃに毛が生えたような感じのもの(それでも当時のぼくには高級なキカイ)だった。また、レコードでは重くて割れやすい高価なものもあったが、ぼくの家では子ども向きのものとして軽くて割れにくいボール紙製のものを多く買っていた。そのレコードにはもんしろ蝶のマークがついていた。そして、「電気吹込み」という表示がついていた。たぶん、レコードへの吹込みに、電気方式が実用化されたころだったのだろう。

 この蓄音機については、今では知っている人も少ないだろうから、もうちょっと説明しよう。これでレコードをかけるには、まず、クランク型のハンドルをゼンマイ軸に差し込んで捲くのだが、そのハンドルを30回くらい回すと、だいたいゼンマイの力が満タンになってレコード(28センチくらいの78回転)の片面が完了するまで動くほどになる。それと、レコード針を音響板に直結した差込穴にネジでセットするのだが、この針1本でレコード2面がかけられる。(針はそれ以上使うと磨耗して、レコードの溝まで早く磨耗させてしまう)そしてレコードをのせたターンテーブルをスタートさせ、レコードに針を置いて鳴り始める…ということになるのだが、ぼくはいつしかこの難作業を左手だけでなんとかやってのけるようになって、父の手製の台にのせた蓄音機にしがみつきながら、「音を楽しむ」ようになっていった。(針の交換が特に難しかったが、その後、父が2台目として買ってきた大型の蓄音機が針を交換するときに挿し穴が挿しこみやすい角度に回転する方式になっていたので、これには大助かりだった)こうして聴くようになった音楽は「鳩ポッポ」「あの街この街」「しょうじょう寺の狸ばやし」「俵はゴロゴロ」「ゆりかごの歌」などの名作童謡や小学唱歌、童話(イソップ物語など)…。それに、祖父からもらったレコードにあった当時の人気浪曲師 広沢虎造の十八番(得意なレパートリー)の国沢忠治や清水次郎長シリーズ、これも当時の人気漫才師 砂川捨丸・中村はるよコンビの問答シリーズ…、それに時代が時代だけに、軍国歌謡や「国民歌」なども加わってぼくの幼いミリタリズムを助長させていったのであった。

 次いで、ラジオが買われてきたのは、初めてのポータブル蓄音機が健在していたころだったが、スイッチ一つで鳴りだす威力はさすがに偉大だった。「愛国行進曲」や「少国民進軍歌」など当時の国民の戦意高揚のためにはやされた「音楽」を覚えていったのは、だいたいラジオからだった。それから、当時のこととして、よく思い出すのは、ぼくの散歩の時に乳母車を押しながら歌っていた父のハミングである。ぼくの弟妹はもちろんのこと、近所の子どもたちまで引き連れての散歩だったが、父のハミングは唱歌や軍歌などいくらでも続いていた。特に「出征兵士を送る歌」などは父の得意な歌だった。

 太平洋戦争が終わって、2ヶ月ぐらい経って、原爆の被害からやっと修理して聴けるようになったラジオから流れ出した音楽は、アメリカ調のジャズやスウィング調のものばっかりに占領されていた。それまでの軍歌一色に聞き慣れていたぼくの耳には、それこそ別世界に転がり込んだような感じで、変われば変わるものだと思ったが、それでも「リンゴの歌」「ハローOK」「黒いパイプ」などのラジオ歌謡シリーズを聴きながら、平和な時代がきたことを実感したのだった。

 いわゆるクラシック音楽はあまり好きにならなかったが「ペルシャの市場にて」とか「子犬のワルツ」「口笛吹きと犬」「ボルガの舟歌」「波涛をこえて」などの軽いものがぼくの好きな曲に加わっていった。

 それからしばらく経って、ぼくと音楽との関係は少し変わっていった。家に良く遊びに来ていた弟の同級生がハーモニカを吹いているのに刺激されて吹きたくなり、その中学生にコーチしてもらいながら、吹きよう吹きまねで練習を重ねて、「すずめの学校」「汽車」「みかんの花咲く丘」「荒城の月」「フォスター作品集」など次々に吹くようになっていった。そのうちにハーモニカ用の楽譜(数字によるリード符)も読んだり書いたりして、曲をつかむようにもなって、自作の歌謡詩につけられた曲(後記)も吹けるようになっていった。そんな中で「赤城の子守歌」や「湯の町エレジー」などのやや長いイントロが吹けるようになったときは嬉しかった。要するに、音楽を聴くことだけの関係から音楽を奏でる関係にも変わっていったのだった。

 また、それに嬉しいことが一つ重なることになった。ぼくはその頃(もう20代後半から30代になっていたが)ふとした思いつきで歌謡詩づくりを学ぶ同人グループ「新歌謡界」に加わって、その仲間(職業をもった健全者がほとんどだった)とのつき合いとともにヒットソング(?)作りに没頭していったのだが、その中からの作品のいくつかが、その同人グループの作品発表の時間として当時のRCCラジオのプログラムの中に設定されていた「広島スーベニア」(週1回15分間)に採り入れられて、一人前?の歌謡曲として(歌手も作曲者もアマチュアクラスの人たちだったが)歌われていったのだった。「広島スーベニア」のテーマ音楽、紹介アナウンスに続いて、作品の詩の紹介を混えた演奏を聴いているときの気分は、まるで体が宙に浮いたような感じで…。作者としての喜びに酔ったのである。(その作曲者の一人に宮本博さんという三原の深町に住む高校の先生がいて、手紙であいさつを交わしたこともある)「広島のガイドさん」「帰郷の歌」「がんす爺さん」など広島地方をテーマにしたものをしばらく作り続けていったのだが、そのうちに「ひかりの会」という障害者運動団体への関わりが忙しくなって、詩作を中断してしまったが、いつかまた作りたいものだと思っている。

 その他、広島県の障害児療育施設「若草園」が開設されたときに、そこに入った子どもたちに贈るつもりで書いた詩が若草園の「園歌」にされたことから、その後開設された広島県養護学校の校歌の作詩を頼まれたり…。もっともその頃のぼくは、養護学校について、どんな障害児にも学習を保障するものという期待感をもっていた。(養護学校はその後の義務化で在り様や所在地も変わって、校歌の意味をなさなくなったが、県の「公」のものとなっているためか、なぜかそのままで、修正もされないで使われているそうだ)……歌謡詩作品の二編「やっこ凧だよ」「瀬戸の水軍」がひょんなことから、多くの関係者の手を経て、(その経過の中には「障害者がせっかく作ったものだから…」という逆差別的な「善意」も動いていたようだが)かつての人気歌手、春日八郎さんの歌でレコード化されて、思わぬエピソードを生んだりしたことなど、ぼくの「音楽史」はぼくの人生をそれなりに彩っている。自分だけのことなのだが、やはり懐かしく楽しいものだ。数年前の「障害者と健全者の大交流サマーキャンプ(西部地区)」の最終プログラムで、みんなで踊った「やっこ凧だよ」を憶えている人は思い出してください。あれが、ぼくの音楽史での唯一のカタチある産物なのです。

 なお、またハーモニカを吹くようになりたいと思うのだが、手で支えることに代わる何らかの工夫がいるだろう。それでも「矢切の渡し」ぐらいはなんとか吹けそうである。 

 ―以上―

 ところで思いがけないニュースができた。先日、パソコンで故春日八郎さんの名前と「やっこ凧だよ」の関連を検索していたら、「やっこ凧だよ」が1991年5月にキングレコードから発売された“春日八郎/大全集〜歌こそ我が生命〜”というCD20枚セットの中の17枚目の9曲目として記録されていることが判かった。最近の音楽著作権取次ぎ会社シーセブンミュージック社からの連絡にも“著作権料(作品使用料)が一定額に満たない”というものばかりだったので、もう絶版されたのかと思っていたところだったので本当にこんな“うそのようなほんとの話”もあるものだと思った次第である。  我がやっこ凧は思わぬところで健在だったのだ。なんと、20枚セット5万円という値段もつけられて…!

レコードのジャケット(上)とボクの直筆の歌詞(下)

1970年当時のボクの自画像。こうやって書いていた!(写真も当時のボク)

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