畳 の 歴 史
このページでは畳の登場から、畳が一般的に庶民に普及していくまでの歴史を見ていきましょう。
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「畳」とは「たたむ」ことを意味し、折り返して重ねる意味でもあって、たためるもの、重ねられるものということから敷物全てを意味したものでもあり、これが「畳」という言葉の起こりであると言われています。
「畳」と言う言葉が歴史上に初めて登場するのは、「古事記」(太安麻呂撰・和銅五年<712年>)中巻の、
葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し
(神武天皇)
海に入りたまはむとする時に 菅畳八重 皮畳八重
きぬ畳八重を波の上に敷きてその上に下りましき
(景行天皇)
という記述です。これには「菅畳」「皮畳」「きぬ畳」と言う言葉が記されています。このように、上代には野生の草を八重に敷いて、氈茵などの類も「たたみ」と称されていたようです。
また、「日本書紀」(舎人親王他撰・養老四年<720年>)には「八重席薦」の記録、「万葉集」(奈良時代)には、「木綿畳」「八重畳」「畳薦」といった文字が見られます。
次に、「倭名類聚抄」(倭名抄ともいう。源順撰・承平七年<937年>)の座臥具第八十八の項には、
畳 本朝式(延喜式のこと)ニ云ウ。掃部ノ寮ニ長畳、短畳。唐韻ニ云ウ。
徒協ノ反、重畳ナリ。和名、太々美。
とあって、今の薄畳の類を称していたようです。また同書には圓座、筵、薦なども記述されています。
平安時代の文学書「枕草子」には、清涼殿内の描写があり、また「栄華物語」の清涼殿や弘徽殿内の描写の中に「たたみ」の文字が出てきていることから、すでにそのころには、畳は上流社会において部分的に使われていたことが想像されます。
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わが国におけるベッド(寝台)の歴史は古く、古墳時代の出土の家形埴輪にみられます。出土例としては、大阪府八尾市美園町の美園遺跡から出土の家形埴輪、その他堺市の大塚山古墳などがあります。また、大阪府高槻市清福寺町の弥生末期から古墳前期にかけての竪穴式住居の集落跡からは、ベッド状の遺構も出土しています。
奈良の正倉院には、聖武天皇<701〜756>が使用された「御床」(寝台)が残っています。長さ2370ミリメートル、幅1190ミリメートル、高さ385ミリメートルの檜製で、框の枠組の中に桟を簀子状に組み入れた堅牢な木組の台を二脚並べ、その上に真菰を編んだ筵のようなものを五〜六枚重ね、さらにその上に黒地錦縁の薄畳を二枚並び敷いてベッドとしていたようです。
現在、京都御所には、寝殿造の遺構としての面影を伝える清涼殿があり、平安朝の古制を残しています。
清涼殿は紫宸殿の北西にある御殿で、古くは天皇の日常の御居間でした。この御殿を「中殿」とも言います。御殿の中央が母屋で、南北九間(一間とは柱間をいう)、東西二間、その四面に廂があります。東が正面で、東廂の外側の孫廂は弘廂と呼ばれています。中の母屋は、南北九間が三つの部分に分かれて、北二間は東側に「萩戸」、西側に「藤壺上御局」、次の南の二間が「夜御殿」、さらに南の五間を「母屋」と呼ばれています。また、この母屋の北から第二間の中央に御帳台が東向きに置かれています。この御帳台は、天皇が寝御のときにベッドのように用いられたと言われています。
御帳台は、浜床(間口2082ミリメートル、奥行2106ミリメートル、高さ217ミリメートル)の上に繧繝縁の厚畳(長さ2182ミリメートル、幅1091ミリメートル、厚さ76ミリメートル、縁幅67ミリメートル)二枚を並び敷き、四隅に主柱のほか副柱各二本の八角柱を建て、小組格子天井覆をして、四方には帷を垂れ、その前面左(北側)に獅子、右(南側)に狛犬が置かれています。昔は内部に、さらに繧繝縁の厚畳一枚、その上に萌黄錦縁白綾の表筵を敷いたようです。いまは厚畳二枚を並べ敷いた上に紫宸殿の高御座と同じように御倚子(椅子のこと)を据え、剣璽の案を左右に安置しています。
御帳台の南横には長さ1364ミリメートル、幅727ミリメートル、高さ394ミリメートルの大床子が置かれています。これは框桟が簀子組の台で、二脚置いて、その上に高麗縁白綾の御茵を敷き、菅の圓座を置いています。昔はこの大床子の御座で、晴の御膳(正式の御膳)をお召しになったと伝えられています。
清涼殿内の御寝所は、御帳台がある母屋の北側に位置する「夜御殿」がそれで、昔はここに御帳台があってベッドに当てられていたようです。いまは略式となって、部屋の中央に繧繝縁の厚畳(長さ2300ミリメートル、幅835ミリメートル、厚さ90ミリメートル、縁幅は58ミリメートル)を二枚並べて敷き、その中央上に繧繝縁の厚畳(長さ1900ミリメートル、幅950ミリメートル、厚さ103ミリメートル、縁幅は56ミリメートル)一枚を重ね敷いてあります。また、その東・北・西の三方は大宋屏風で囲ってあります。
南側には、女官の候ずる両面縁(竜皮縁ともいう)の厚畳(長さ1820ミリメートル、幅953ミリメートル、厚さ63ミリメートル、縁幅65ミリメートル)二枚を東西に長く並び敷き、屏風の北側には、小紋高麗縁(緯綿経絹小紋縁ともいう)の厚畳(長さ1870ミリメートル、幅850ミリメートル、厚さ68ミリメートル)二枚が並び敷かれています。屏風の東側にも繧繝縁の厚畳(中央の重ね御畳と同寸法)一枚が敷かれています。屏風の西側にほ紫縁(紫が退化して赤くなり、いまは紅絹縁、または緋曽代絹縁という)の薄畳(長さ3625ミリメートル、幅915ミリメートル、縁幅28ミリメートル)が敷かれています。
清涼殿の東廂、ちょうど御帳台前になる所の板敷の上に御座があって「昼御座」と呼ばれていますが「ひのおまし」とも言います。繧繝縁の厚畳(長さ1915ミリメートル、幅950ミリメートル、厚さ95ミリメートル、縁幅55ミリメートル)を二枚並び敷いてその上に御茵(布製、820ミリメートル角、厚さ20ミリメートル、縁は繧繝唐草模様で幅が130ミリメートル、中側は菊の九曜星模様となる)が一枚置かれ、儀式のときにのみ御座されたと言われています。
平安時代の延暦十三年<794>京都に都が定められ、やがて貴族の住宅である寝殿造が完成しました。
寝殿造は、寝殿(正殿のこと)を中心にしてその東西と北に対屋が置かれ、南には池のある庭があります。寝殿と対屋(たいや)は渡殿(廊下のこと)で結ばれています。東西の対屋からは、それぞれ南に向かって中門廊が延び、その中程に中門を置き、廊下の先端には吹放しの釣殿が池に臨んで設けられています。寝殿は入母屋造り、対屋は切妻造りで、屋根は檜皮葺き、母屋を中心としてその外側に廂(ひさし)や孫廂があり、廂の外側に縁高欄をめぐらしています。渡廊に出る所に妻戸や遣戸が取り付き、周囲は蔀戸(しとみど)が吊られ、御簾がかけられます。内部は板敷きで、要所に筵や畳を置き、屏風や几帳(きちょう)などで囲っています。天井は化粧屋根裏となっています。これが一般的な寝殿造とされる概要であり、姿態です。
現在、当時の遺例はありませんが、その姿が最もよく再現されたものとして京都御所の紫宸殿、清涼殿、飛香舎が知られ、その面影をいまに伝えています。
このように寝殿造の室内は、すべて板の間で「板敷」と呼ばれていました。平安時代の宮廷生活を描写した『源氏物語』(紫式部・長保3年<1001>〜覚弘年間<1004〜1011>)を主題として作られた絵巻である『源氏物語絵巻』(天治2年<1125>前後)の中に描かれている御殿の内部には畳が一部敷かれているのが見られます。また、当時の文学書『栄華物語』や『枕草子』の中の生活描写からも、畳はまだごく一部にしか用いられていないことが窺い知られます。
やがて、鎌倉時代から室町時代にかけて書院造が完成されました。この頃になると部屋全体に畳が敷き詰められるようになります。『法然上人絵伝』(舜昌・徳治〜延慶年間<1306〜1311>)の「浄土五祖像礼拝図」には畳が敷き詰められているのがみられます。しかし、普通小さな部屋では畳は敷き詰めですが、広い部屋では周囲に畳を追回しに敷いて、中央は板敷を残しています。『蒙古襲来絵詞』(鎌倉時代)にある武士の家の図、また、さきの『法然上人絵伝』の播磨の信寂房と対談している図には、畳を追回しに敷いている状況が描かれています。
桃山時代から江戸時代へと移るにしたがい、書院造は茶道の発達によって軽快な書院造(本格的な書院造の格式張ったものでなく)となり、茶室の意匠や手法を取り入れた数寄屋風書院造となります。その代表的なものが修学院山麓の京都市左京区一乗寺竹ノ内町に位置する曼殊院の書院であり、京都駅の北側、京都市下京区掘川通り花屋町下ルに位置する西本願寺の黒書院であり、さらにそれの完成されたものが、洛西桂川の右岸沿い京都市西京区桂御園に位置する桂離宮の新御殿です。それらの書院に用いられる畳は、小紋高麗縁であり、中紋高麗縁であり、また萌黄絹縁の畳が敷き詰められています。
茶室建築から畳はやがて町家に引き継がれていき、畳が一般庶民のものとなったのは江戸時代中期以降のことであり、農村においてはさらに遅く、明治時代になってからであります。
昔は畳は座具であり寝具でした。平安時代の貴族社会においては、そこに座る人の身分や地位を表すために厳密な用い方が定められていました。それは、身分の高い人ほど座る畳も広く、厚さも厚く、そのうえ畳を重ねるなどして使われていました。また、畳の縁の色や文様を変えるなどして座る人の地位や身分を規制していました。
斉藤月岑旧蔵、國田百合子蔵の『海人藻芥』(応永27年<1420>)に、身分・位階による畳縁の使用規定が、
畳之事
帝王院繧繝縁也、神仏前半畳用繧繝縁、此外更不可用者也、
大紋高麗縁親王大臣用之、以下更不可用、大臣以下公卿小紋ノ高麗縁也、
僧中者僧正以下同、有職非職紫縁也、六位侍黄縁ナリ、
社寺諸社三綱等皆用黄縁云々、四位五位雲客用紫縁也
と記されています。つまり、畳が座具や寝具に使われて一般に用いられてくると、当然そこに、身分や地位を表示する方法が必要になり、畳の縁によって区別することになります。
天皇には、当時でも貴重な最高の織物である繧繝錦の繧繝縁が用いられていました。また、神仏の前に座す半畳にも繧繝縁は用いられていました。次いで親王や大臣は、大紋の高麗縁を用いていました。公卿は小紋の高麗縁です。僧正始め僧侶や故実家、非蔵人、四位・五位の人々は紫縁で、六位の侍、寺社や寺内を統領する三種の役僧は黄縁を用いることとして、身分や位階によって畳縁が定められ、畳縁は権力の象徴でした。
元来紋縁は、仏教の渡来と共に、朝鮮より渡来した美術織物の中の繧繝錦を禁裏の御座畳に取り付けたのが初めとされています。また、畳縁は、古くは「縁」を「はし」といい、「端」の字を当てていました。『海人藻芥』の文中には、「縁」と書いた脇に「端」の字を書き添えています。
『堤中納言物語』(平安中期〜末期)に、
(よしなしごと)
畳などや侍る 錦はし 高麗はし うげん 紫はしの畳 それ侍らずは
布べりさしたらむやれ畳にてまれ 貸し給へ
とあるように「はし」と読まれています。
また畳の種類は、長短、厚薄によって、長畳、短畳、狭畳、半畳、厚畳、薄畳などがあり、畳縁によって繧繝縁畳、高麗縁畳、紫縁畳(紅絹縁(もみべり)畳または緋曽代絹縁畳ともいいます)、黄縁畳、蘇芳(すおう)縁(茶縁のこと)畳、紺縁畳などに分け、黄縁までは絹、蘇芳縁から麻が用いられていました。また、縁を広く差した深縁、差筵、縁を狭く差した薄畳、貴人の御座所、寝所の上に重ねて敷く上畳などの種類があります。
京都市左京区銀閣寺町にある慈照寺は、将軍足利義政が、もと東山浄土寺の景勝の地に造営した山荘・東山殿の跡で、義政の没後に生前の意志にもとづいて禅院に改め、慈照寺と称し、別の名を銀閣寺といいます。
国宝の慈照寺東求堂は、もと東山殿内の持仏堂として文明18年<1486>に建立された南向きの平家建てで、南面五間、北面三間、東面二間、西面三間、周囲にクレ縁をめぐらし、屋根は入母屋造りの檜皮葺きです。堂内の北東角に四畳半、その西に六畳の畳敷きの部屋があります。四畳半の部屋は、北側の東に一間の付書院、西に半間の違棚を構え、部屋の中央に半畳の畳を置き、付書院の前に畳を一畳置いて、あと右へ廻し敷きにしています。この部屋は、書院造の初期の形式を示すもので、「同仁斎」と名付けられてます。また、義政の茶の湯所として用いられた四畳半茶室の藍觴(らんしょう)としてこの部屋は一般に伝えられてきました。畳は小紋高麗縁の畳が敷き詰められています。
『南坊録』(南坊宗啓・文録2年<1593>)巻之三 四畳半置棚等の項に、
四畳半座敷は、珠光の作事也、真座敷とて鳥子紙の白張付、
杉板のふしなし天井、小板ふき、宝形造、一間床也
と村田珠光(茶道の始祖<1422〜1502>)の時代に四畳半ができたことを伝えています。なお、同書には、
紹鴎に成りて、四畳半座敷所々改め、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、
障子の腰板をのけ、床の塗ふちをうすぬり、又は白木にし、
之を草の座敷と申されし也
と武野紹鴎(堺の茶人<1502〜1555>)の時代になって、四畳半は壁や格子や障子などを改変して、一層数寄屋風の茶室になったことが記されています。
昭和51年<1976>7月22日の京都新聞夕刊「現代のことば」の文中、千宗室(茶道家元)氏は、「室町時代に足利義政が栄誉結構な書院式の茶の湯を流行させたのに対して、一般の人々は風流を求め、ざっくばらんな茶の湯を催すのだが、その時の場所が必要となってくる。そこで維摩の居室である方丈をかたどった十八畳の広間を四つに分け、それを屏風で囲って、ちょうど四畳半の広さの場所ができる。そして、その囲いのなかで栄誉結構な、書院式とはまた異なった自由の茶を味わったという。その囲いが茶室の前身なのである。そして利休好みの四畳半の茶室が生まれるころには、こうした<囲い>の精神に春夏秋冬を四畳にみたてて、半畳を土用とし、茶室の東西南北の四方に対して、陰陽を中心とした対座という思想がそなわった。だから四畳半は座敷の中心となるべき寸法で、それ以上を広間、それ以下を小間と区別して呼ぶ。しかも四畳半は広間と小間の両方の使いわけができるので、それだけ重宝な立場にあったのである。日本人の生活の知恵や、それをささえる精神は、すべからく四畳半から生まれているといっても過言ではあるまい。」と四畳半について簡潔に説明しています。
畳という言葉の語源が古いためか、畳に関係のある故事や諺、また「畳」という文字を用いる諺は結構あります。
『故事ことわざ辞典』(野口七之輔編・昭和41年<1966>によりますと、
起きて半畳、寝て一畳
これと同様の意味のものに「起きて三尺、寝て一畳」という諺もあります。これは、どんなに広大な御殿に住んでいても、一人の占める面積はわずか一畳か半畳であるという意味です。
千畳敷に寝ても一畳
これと同じ意味のものに「千畳万畳ただ一畳」という諺があります。これは、千畳敷の大きな部屋に寝ても、実際に身体を横たえるのに必要な広さは、たった畳一枚あれば足りるという意味です。
畳水練。(あるいは畳の上の水練)
これと同じ意味のものには「畳の上の陣立て」という諺があります。これは、畳の上の水練では、理論には詳しくても実際には役に立たないことをいうのです。つまり「机上の空論」と同じ意味です。
女房と畳は新しい方がよい
これはよく使われる諺であるが、真意は多分に誤解されて伝えられている嫌いがあります。女房(妻)と畳の新しいのは気持ちがよいものである、との意味からいわれるもので、女房はいつまでも新鮮であって欲しい、という願望が込められているのです。
悪人は畳の上では死なれぬ
残酷なようですが、悪人は刀の試し斬りの材料にされるのが当然で、普通の人と同じ扱いはできない、との意味から使われました。
陽関三畳
これと同じ意味のものに「陽関の曲」という故事があります。王維(中国の盛唐の詩人で画家でもあります。)の詩の中に送別の時に歌う詩があり、後にこれを「陽関の曲」といって、送別のとき三回繰り返して歌う習わしがありました。唐人は人を見送るのに、この陽関三畳で送別の宴をはったといわれています。
また、『故事ことわざ辞典』とは別に、次の諺も一般に知られています。
新しい畳でも叩けば埃が出る
畳は、ワラや藺草で作ったものであるから、新しくとも叩けば埃が出るので、真面目そうな人でも、見かけだけではわからない。見かけだけで人を判断してはいけない、の喩えです。
畳の四つ目は縁起が悪い
畳の角を四つ正確に合わす仕事は難しく、大変な仕事であって、畳屋にとっては分の悪い、つまり縁起の悪い仕事である、との意味からこういわれています。
畳を作る職人のことを、今は畳職人(畳工)といいます。また、畳の製作が機械化することによって、畳職人がいる家のことを畳屋というようになり、畳職人を「畳屋さん」と呼ぶようになりました。それでは、絵巻物や古典にでてくる畳職人の名称はどのようなものだったのでしょうか?その変遷を見てみましょう。
絵巻物において職人歌合わせの先駆をなすといわれる「東北院職人歌合絵巻」(建保職人歌合ともいう、国宝・曼珠院蔵、建保二年<1214>)には「筵打」が描かれています。
「鶴岡放生会職人歌合」(鎌倉時代後期)には、
七番左 畳差云々
というように「畳差」の名称が使われています。これが一番古い文献にでてくる畳職人の名称です。
それより少し後の「七十一番歌合」(土佐光信画、東坊城和長卿、室町時代)の畳差の条に、
畳差 九条殿に何事の御座あるやらむ。帖をおほくさゝせらるゝ。
というように「畳差」の名があり、そこに描かれた風俗画「畳差」の図には、烏帽子を冠り片肌を脱ぎ、小紋縁を合わせている畳製作の図が描かれています。
しかし、「実隆公記」(文明六年<1474>から天文五年<1536>に至る三條実隆の日記、室町時代)の長享二年<1488>正月四日の条に、
早朝退出、院聴信直、綱所、中山相公羽林、壽官入道等入来、畳大工、檜皮大工、壁大工等来
とあるのが「畳大工」という言葉の初見で、また、永正四年<1507>十二月二十九日の条に、
畳大工面替二帖申付之
とあります。
江戸時代に入り、「隔冥記」(寛永十二年<1635>から寛文八年<1668>に至る鳳林承章の日記)の寛永十九年<1642>四月二十一日の条に、
畳屋甚左衛門師弟両人来、上台所之畳指(刺)合也。
とあって、ここでは「畳屋」と呼んでいます。また、正保五年<1648>閏正月二十日の条に、
自今日、北寺畳之面替之也。畳屋甚左衛門来、弟子三人来也。
今日畳之面替四畳出来也。甚左衛門会帰宅也。
畳刺三人今日亦刺畳也。(同月二十一日)
畳刺今日亦三人也。(同月二十二日)
畳刺今日亦刺畳也。(同月二十三日)
畳刺今日亦刺也。(同月二十五日)
と畳の表替について畳職人を「畳屋」と呼び、あとは畳職人を略して「畳刺」と作業動作のみを記しています。また、畳床は藁を糸締めして作りますが、床を作ることを床を刺すといいます。
「人倫訓蒙図彙」(元禄三年<1690>)には、
畳師 畳といふハ今の薄縁をいふもの也、畳置て是を敷ゆへ也、
今時禁裏御畳屋烏丸通八幡町の下大針加賀同通四条ル丁
伊阿弥筑後油小路六角下ル丁同長門大坂道修町道頓堀京堀川中立売の下其他所々にあり
と「畳師」を説明しています。ここでは畳職人を「畳師」といい、その家を「畳屋」と呼んでいます。
明治時代になると、「風俗画報」(明治二十六年<1893>の新撰百工図其三十一に「畳職」として畳のことを説明しています。しかし、明治二十七年<1894>一月の「桂離宮古書院修繕ニ付畳表替注文書」および同月十月の「桂離宮楽器之間其他畳表替注文書」の投票人は、畳工何某というように指名者の、あるいは請負者の頭にそれぞれ「畳工」と記されています。また、「和洋建築工事仕様設計実例下巻」(明治四十一年<1908>田中豊太郎編)の畳仕様書の中には、
手間 畳職四分
というように「畳職」と記されています。この呼び名は昭和期まで続き、昭和十二年<1937>九月の「桂離宮其他各所各建物大掃除用畳職供給請負金額明細書」にも、
大掃除用 畳職 四拾弐人
とみられるように「畳職」と呼ばれています。戦後は、最初にも書いているように「畳職人(畳工)」と呼ばれ、現在に至ります。
参考文献 「畳のはなし」 鹿島出版会