◎柔道家村井顕八氏の実像は?
<敬称は略させて頂きます>

村井顕八は生没年不明。八光流誌『護身道』から僅かにその雄姿(八光流師範として演武をしている写真)と、村井のその後を物語るエピソードをいくつか拾う事が出来る。
以下、村井のエピソードを箇条書きにて紹介する。

@北海タイムスという地元新聞に武田惣角の記事が掲載された際、小樽高商の柔道部を背負っていた村井が、札幌にある惣角の宿舎を訪れ、得意の首〆で惣角を〆落としている。
※新聞紙上で惣角が柔道の悪口を言ったのが出来事の発端。『奥山龍峰旅日記』に記載有。
Aその後、講道館本部付きとなった村井は、当時、同じく五段だった三船久蔵とも対戦、首〆で三船を〆落としている。その後、三船に義兄弟を強要し、契りを結んだと云われている。
※当時の三船は、自分を〆落とせる者はいない、と豪語していたそうである。
B植芝盛平と棒術対柔道の試合を行う。植芝は狭い場所で思うように棒を操れず村井五段に投げられる。
C村井、八段の折り、嘉納治五郎館長に段位を返上。単身満州に渡り馬賊の頭領となる。終戦の年の二月、銀行を通して東京の留守宅に二百万円もの巨額の金を送金している。
※当時の小学校の校長の月給が百五十円前後の時代。後に、平和条約の発効後、政府が海外送金の補償をする事となったので、宙に浮いていた大金は奥山龍峰を保証人に立てる事でその一部が村井の元に戻された。
D昭和三十年頃八光流師範となる。九十歳位まで板橋区で健在。(昭和三十年代末?)

●講道館柔道有段者として記録が残っている可能性が有る。又、大きな大会・公式の試合結果などの記録が発見されれば、氏の実力を客観的に推測出来る筈である。

●上記、@ABは村井本人が奥山龍峰に語ったものである様だ。つまり、客観的証拠が無く、証人もいない。
●CDは事実である事を奥山龍峰が確認し、客観的にその事実が証明されている。

★考察

『奥山龍峰旅日記』の初版は昭和三十三年。当時、武田惣角の名を知る者は現在よりも可成り少なかった筈。
武田惣角の名声と武勇伝、大東流合気柔術が広く知られる様になったのは、昭和50年以降。松田隆智氏の著作や合気ニュース等の影響が大きい。
当時、村井氏が惣角翁を〆落とした事を公言しても、その名声に箔が付く事は無かったであろう。従って、しばしば言われる、村井氏の「売名行為」という見方は的外れ。
現在、惣角無敗伝説を信じる者は多い。
「惣角が柔道に負けるワケがない」という見方は、晩年に不自由な躰で巨躯の柔道高段者と立ち会い、これを破った事が新聞に掲載される等の事実があった事にもよる。
今日、柔道というと、細かいルールに制約された中でチマチマとポイントを稼いで相手に勝つ、いわゆるスポーツ柔道のイメージが強いが、惣角の時代にはコンデ・コマ=前田光世の様な実戦柔道家も多く存在した筈である。
村井は明らかに他流試合を苦にしない実戦柔道家タイプであろう。後の名人三船十段とも互角以上の勝負を展開し、八段まで昇段した事が事実であるとすれば、その技量は前田光世に匹敵、或いは凌駕するのではないだろうか。


【記述の追加 H19.11.4】
村井の生年は明治22年(1889年)11月8日であることが後日判明した。
戦時中、つまり50代の半ばで既に講道館柔道八段であって、しかも、6歳年上の名人三船久蔵と同時期に五段であったという事実から、氏の並外れた技量が推測出来る。


【追記】H26.5.6

今回、『柔道年鑑』によって村井氏の段位について検証を試みた。
(『柔道年鑑』は国立国会図書館のサイトで閲覧出来ます)

●大正11年
村井顕八=三段
三船久蔵=六段
●大正14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段
●昭和14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段

ネット上では大正11年から昭和14年までの検証しか出来ないが、村井氏の講道館段位に関しては「三船氏と同時期に五段だった」というのは、明らかな間違いである。
三船氏が大正11年からたった3年で9段に昇段している事から、村井氏が昭和14年以降八段にスピード昇段した可能性もゼロではないと思うのだが・・・ネット上では検証不可能。

村井氏の段位については、今後も検証を継続して行きたいと思う。


    ↓写真は村井氏80歳代の雄姿




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