idle talk29

三井の、なんのたしにもならないお話 その二十九

(2011.5オリジナル作成)



 
 
恩師を送る
(追)


 
 
 今日(2011年5月14日)、私の学部時代の恩師である飯田鼎慶應義塾大学名誉教授のご葬儀に参列をしてきました。ご自宅に近い葬祭場で、先生の経歴や知名度、交友関係、地元での存在などに比べ、どちらかと言えば簡素な葬儀で、飯田先生らしく、静かに旅立たれた気がしました。慶大経済学部飯田研究会(ゼミ)で学んだ多くの同期生もこの場に足を運びましたが、もう飯田先生と言葉を交わす機会はないという寂しさとともに、先生の人柄と生き方がそのままうかがえ、先生の最後の教えなのかも知れないということをなんとなく実感したのは、私だけではないでしょう。
 
 この機会に、こんな文章など引っ張り出してみました。
 
 
 
 
 下記は飯田先生が慶大を定年退職された1990年に、ゼミ同窓会の記念誌としてS氏を中心にまとめられたもの、それに掲載をした三井の寄稿である。
 ここで1972年卒同期生を代表するのが私でいいのか、誰に相談をしたわけでもないが、まあ許されるのではないかと考えるうちに20年余が過ぎてしまった。
 ほぼ原文のままで再録をしたい。


 
 
 
英国の飯田先生
 
 
 飯田鼎先生のゼミでは、大河内一男氏や服部英太郎氏の「社会政策史」についての著作を読んだ。あまりに立派な著作ばかりなのでよくわからないことが多かったが、それに比べると正直に言って飯田先生の講義の方が面白かった。講義は「英国労働運動史」で、当然非常に専門的、学生のとんと知らないことから語られるものの、飯田先生の話は決して飽きさせることがなかった。健康にあまり自信がないという先生は90分の講義の間にいつも休みを置き、これも何かのどかであった。
 
 痩身で色白、いかにも学者らしい雰囲気ながら、「君らには負けられない」という先生の意気込みを利用して山のてっぺんまで引き出してしまったのは3年の夏合宿のことであった。夏の妙高赤倉に来たついでに、「先生、妙高山に登りませんか」と誘って、マージャン組を尻目に急な山道を真っ真ぐ登ること3時間、天気もよく眺めは絶景、頂上に立てた喜びはひとしおであったが、実は飯田先生が「もう戻ろう」といつ言いだすかヒヤヒヤだった。妙高では山に登ってやろうというつもりで私は登山靴も持ってきていたが、何せ先生は運動靴のままの軽装なのだから、今考えてみるとずいぶん無茶なところまで誘い出してしまったものである。そのせいか、登りでは元気で「いい眺めだね」と頂上に立った気分を満喫していた先生も、下りでは音をあげだし、急な岩場を下るところなど「足がもう前に出ないから」と後ろ向きになり山にへばりつくようにして降りる有様、日が暮れるまでに無事宿に戻れたことが幾らか不思議な思いがした。
 
 宿に着いてから「こんなに歩いたのは終戦の時以来だよ」と先生が実感を込めて述懐されたのに、申し訳ないというよりもおかしい気がしてきたのは不肖の弟子たるしるしの最初であろう。
 私が4年を迎える頃になってこれからどうしようかと考えた末、このまま大学を出ても何もないような気がし、大学院でもう少し勉強してみたいと決めたとき、先生はまたいつに変わらぬ様子で「まあそれもいいでしょう」と答えてくれた。先生はようやく念願の英国留学の機会を前にいろいろ忙しくされていて、こいつにはそんな無茶なことを選ばせず、人並みにまっとうな道を歩ませたほうがいいなどと考える余裕はあまり無かった様子であった。ただ、私のやりたいことや先生の御都合から進学後の指導はK教授にお願いした方がよいと言われ、留学の下調べの欧州旅行の際にパリ滞在中のK先生への私からの手紙をわざわざ届けてくださったのには、これも今思うと大変な御面倒であったのに、その時はろくろく御礼も申し上げなかったような気がする。重ねがさね申し訳ない限りである。
 
 大学院では帰国後の飯田先生の演習にも顔を出させていただいていた。先生が帰国後まとめられた『労働運動の展開と労使関係』(未来社,)を輪読したりした。そんなところから先生のモチーフとしての日英比較研究という視点は私にもかなり影響を与えてきたようである。大学院という場にも呆れるほどの長居をしているばかりだったが、それも自分の非力を考えることなく飯田先生の真似をして「日英」二兎を追い求めてばかり、いっこうにまともな仕事をしなかったせいであろうか。
 息切れ気味で先生にも苦言を頂戴した挙句、結局思いもかけず私は「中小企業論」の研究者になってしまった。それから少し飛ぶが、勤務先の大学の金で私も英国で「在外研究」ができる運びとなり、いわば十五年ぶりの念願がかなう思いがした。実のところ生まれてこの方日本列島から一歩も出たことのない私にとっては、不安半分冒険心半分の旅立ちであったものの、飯田先生が長年の研究対象としてこられた英国の地を訪れられたときの感激を幾分なりとも追体験できた気持ちであった。
 
 ロンドン滞在中の87年の夏、飯田先生御夫妻が何度目かの英国来訪をされた。寄寓先の拙宅に御夫妻をお招きし、またコベントガーデン近くの中華料理を御馳走にもなり、英国生活の思い出や、前回の訪英の時のシベリア鉄道珍旅行記など、先生や奥様のお話しに夜のふけるのも忘れてしまったことは、私の英国滞在最高の思い出である。十五年来の恩師に海外で再会でき、楽しい一時を過ごせるなどとは、不肖の弟子の代表たる者には身に余る光栄と言うほかない。もっとも後で妻の言うには、先生の前で私はいつになくひどく緊張していたそうである。
 
 ロンドンで先生にお目にかかるのも思えば久しぶりであったのだが、私の目には十五年前に初めてお会いしたときと少しも変わらないのに驚かされた。痩身飄々、いかにも学者然として、いつも穏やかな笑みを浮かべておられ、話の隅々にまで「まだまだ君達には負けないよ」という意気込みと少年のような好奇心が溢れている印象を与えられる。先生の学問的関心が福澤諭吉と西欧社会科学との関わりに移られ、英国労働史の研究からちょっと離れられているのは、先生の影響か英国社会にいつまでもこだわってきたような私には幾分残念だったが、これも先生の旺盛な知識欲とチャレンジ精神の現われなのだろう。
 
 その飯田先生がもう慶應義塾での定年を迎えられる。
 先生にお会いするたび十五年という時間の隔たりを忘れて、大学3年生に戻ってしまう私には、到底信じられないような思いである。

 
 
 この文章を出してからすでに20年余、いま飯田先生を見送る立場になると、思いはあまりにも大きいものです。ここで「私の学部時代から15年」という記し方をしているのはかなりの逆鯖読みで、本当はそのときすでに20年近くが過ぎていたのでした。つまり、満86才にして亡くなられた飯田先生と私の最初の出会いからは、正確には41年近くが経過しているのです。そのときの飯田先生はいかに若かったのか、どうにもいまだ信じられない気がします。
 
 飯田先生が次第に歳を重ねられ、ついに世を去られたのが不思議に感じるのは、先生この40代の頃からかなり「老成した」雰囲気があったせいでもありました。うえの文に印したように、痩身飄々として、いつも学問に打ち込んでおられる様子、好奇心は旺盛でしたが、失礼ながら「若い」という雰囲気ではなかったのです。しかし不思議なことに、以来40年間飯田先生のお姿にはほとんど変化がありませんでした。ために、私を含めた卒業生らは年々にきちんと歳をとっていき、学生時代のかけらも残さないところへ「転落」していくなか、なにか先生に「追いついていく」ような実感を覚えたのです。奇妙なことです。腹が出る、頭が薄くなるないしは白くなる、顔には皺が増え、話のタネも「現実的」というか、俗な話題ばかりになっていく、そんな卒業生たちの「老いゆく」年々とは対照的に、飯田先生は同じところにとどまっておられる観でした。
 
 いま、棺の中に納められた飯田先生の瞳を閉じられたお顔には、老いて世を去るという雰囲気はやはりなく、物静かな笑みを少し浮かべておられるようでもあり、そしてバーバリーのジャケットや帽子、杖など英国紳士風な身の回り品が納められていました。そういった持ちものに「凝る」様子は見せずとも、それが当たり前のようなさりげない個性を醸しだし、「いかにも飯田先生」という姿は私たちの記憶のうちにあるものそのままでした。
 

 
 こうした大きな「節目」に立ち会わされると、否応なくおのが生き方と、恥ずかしきことのみ多い日々をあらためて思い出さされます。
 
 私は、大学院に進学したこと自体、うえに書いたように、飯田先生はじめとする諸先生方からいささかの期待も勧めも頂いたものでもなく、「自分で勝手に決めた」、それも明確な目標などあると言うより、あまりに「なにもなかった」学生時代への無念の思いの大きさ、反動ゆえという実感がいまも揺るぎなく記憶されています。もちろんその意味、自分の親からも理解はされませんでした。同じ大学教員という立場にあった父から見れば、まあ勝手にしろ、自分で悟るか、這い上がるかだろうくらいに突き放してみていたのでしょう。実際見事に、大学院進学後実に9年間も迷走を続け、これならどんな親でも愛想づかしするのが当然であったろうと、いまにして痛感するところです。近ごろの「自分探し」に悩み、曲折する若い世代を笑ってなんかいられません。まさに立派な「反面教師」です。
 
 飯田先生がそうであった(であろう)とともに、大学院での指導担当であったK先生、そして「バイト話」からみに始まり、思いがけず「研究」めいた世界に手ほどきをしてくれ、時には厳しく叱咤された、いまは亡きS先生、こうした、私は「恩師」と呼ばさせて頂きたい各先生方からも、当時は、なんてだめな奴、まっとうに歩けない奴と、おそらく私は見られていたはずです。なにより証拠、まだ定職もないのに結婚式だけ挙げた私がお招きしたこの三先生方からは、月並みな「ほめ言葉」美辞麗句の代わりに、誠に厳しいおしかりと率直なご批判が相次ぎ披瀝され、ためにその場に出ていた他の親戚関係等は、絶句と言うより、暗澹たる未来を予想したそうです、後日談として。
 それはそれ、文字通り「身から出たさび」、またこうした厳しい叱咤激励あってこそ、なんとか私も学問の世界で食いつなげる今があると、自分に言い聞かせねばなりません。まあ実際、飯田先生に大学院での指導をお願いしなかったのには、他にもっと優秀そうな人たちが前後にいたせいもあり、特に飯田先生が説く英国の世界に憧憬を抱きながらも、肝心の語学力英語力でとてもとても、という「自己評価」あってのことでもあったのです。そのことは、失礼千万にも飯田先生に「託した」、在パリのK先生宛の手紙にも記し、K先生からは「ともかく語学も勉強して下さい」というお返事を頂戴しました。推して知るべし、です。K先生の教えを受け継ぎ、その分野の大家として活躍している先輩後輩は多々いますが、私は9年間を過ごしながら実にものにならず、ついにまったく違う方向に軌道を外れる結果となりました。結局K先生には長年にわたり「酒の飲み方」、言い換えれば「飲んでもいいが、酒に負けるなよ」とだけ教わってきたような気がしてなりません。
 


 こんな半端者が、大学教員の一人として葬儀の場に並んでいても、飯田先生は喜んで下さったのだろうか、それは私には最後まで答えを出せない心密かな悩みです。学部ゼミ生の悪友らと、先生のお宅に押しかけたことはあったでしょうか。大学院時代、先生の軽井沢の山荘にお邪魔をし、いろいろお教えを頂戴したことはありましたが、それはそれ、でした。先生が慶大を去られたのち、ゼミ卒業生の熱心な人たちががんばり、近年は毎年定期的にOB会が開催されるようになり、うえに書いたように、おのれたちの老けゆく姿を顕著に実感させられるようになったわけですが、おおぜいの卒業生たち相手に親しく対話する飯田先生と私もそれほど「語り合う」べきこともなく、なんとなく終わっていたような気がします。まあ、飯田先生の「ご同業」になんとかなれたこと、そのおかげで他に学会等の場でごあいさつするのも珍しくないことも、理由ではあったでしょう。こうした機会にかこつけ、再会した同期生らの悪友同士語り合うのに力が入っていたことは申すまでもありません。
 
 あと、私が「本業」の方の調査で何度も訪問をした岐阜の企業のユニークな社長が、飯田ゼミの大先輩であったとは、かなり後で知りました。最後の訪問の前にはこのことを前提に、社長(当時は会長)と飯田ゼミ論議で親しく盛り上がりましたが、翌年に先輩社長は亡くなり、ともに飯田先生と語りあう機会は失われました。   
 しかしそれ以上に、八十を超えられた飯田先生には目に見えての衰えが見られるようになりました。身体と言うより、精神力の方だったのです。特にお悪いところもないと伺っていましたが、なにより、うえに書いたような旺盛な好奇心と、「若い者には負けない」意欲といったものが感じられなくなり、かつての飯田先生からは想像もできないような生気の乏しさが否応なく見えてきてしまったのです。そういったもろもろ、「飯田先生が心配」といった噂にどうにも黙っておれず、OB会を待たずに一人でお目にかかる機会を求めました。ちょうど、先生のご自宅に近い信用金庫の研修所というところで話をする機会があるのを利用して、あえて足を運んだのです。
 
 幸い先生はお元気であり、ご自分の「著作集」刊行のことなど語られ、また多くの卒業生や研究者仲間の噂など話題となり、お孫さんの相手する日々なども披瀝してくれました。たくさんご馳走になりました。ただ、あの聡明でまた滔々と説く飯田先生らしい語り口ではなく、訥々と、途切れ途切れに、時には話しが戻ってしまう、そうした会話にはいささかの心配を覚えずにはいられませんでした。よく伺うと、メンタル面に問題があり、投薬を受けているという、そのせいなのか、いくら80代を迎えられた先生とは言え、これでは、という思いを抱いてお宅を去りました。
 その後、ゼミOB会に出てこられた飯田先生はだいぶ生気を取り戻したようであり、私の心配もいささか杞憂、出過ぎたことであったかと反省も致しました。以来、特にこの二年間は他の所用との重なりなどで、実は私はOB会にも出ていなかったのですが、飯田先生お元気だったですよという噂を聞き、安堵している中だったのです。ただ、そこで世界や社会を論じるといったかつてのような迫力はもはやない、足を運ばれ再会できるだけで先生も出席者も嬉しいという範囲のこと、とも聞きました。

 
 そうしたおりの訃報です。喪主としてのご子息のご挨拶などによれば、直前までお元気で外出などされておられたこと、朝、静かに息を引き取られ、ご家族になんの苦労もおかけすることなく旅立たれたそうです。「父らしく、ダンディでスマートな最期であったと感じます」と話されました。
 先生の86年の人生においてもおそらく空前に近いものであったろう大震災、あまりに多くの犠牲と損失、先の見えない原発危機への恐怖、そうした騒然たる世のもとで、飯田先生は静かに旅立たれました。なにより、毎年のOB会の開かれていた九段会館はこの震災で死傷者を出し、ついに閉鎖に追い込まれ、今年の会はどうなるのか、皆が心配をしている中のことでした。あまりに運命的でもあります。

 
 最後に、不思議な符合を記しましょう。
 飯田先生の亡くなられた同じ日、私は別の慶大関係の大先生と会う用があり、その場でひとしきり飯田先生談義で盛り上がりました。そして翌日、地震で雪崩れたまま、いまだまだ完全に片付かない自分の研究室で積まれた本や書類をちょっといじっていたら、なぜか「飯田鼎著作集」の一冊を偶々手に取っていました(申し訳ないけれど、滅多にないこと)。訃報をもらう直前のことでした。先生もなにか私に伝えたいことなどあったのでしょうか。前月にお手元にお送りした、今さらながら外国研究をまとめている拙著を先生が目にして下さったのか、もしそうならどんな感想を覚えられたのか、それが私には心残りです。あるいは、「キミの本に目を通したけれど、もっと勉強は要るな、何ならこの著作集をよく読んでみなさい」と告げられようとされたのでしょうか。



後日談

 飯田先生ご自身の意向だったのでしょうか、葬儀を含め、新聞やweb上にも訃報が出ることはありませんでした。ただ、そこで検索をしているうちに、このようなblogを発見しました。

 飯田先生のご人徳がそのままうかがえる、本当にいいお話しだと思います。先生の教えに励まされ、勇気づけられた人たちがたくさんいます。いまさらながら、私など足元にも及ばないと実感させられます。




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