29.実在していた幻の県

〜偽りの1万石の城址に絶叫マシン〜

(静岡県浜松市)

 

浜松市は地方都市としては人口・産業とも大きめですが、県庁所在地ではありません。

かつて存在した浜松県(範囲は遠江国全域)は明治時代に静岡県に編入されました。

そしてあまり知られていませんがもうひとつ、現在の浜松市内に小さな県があったのです。

 

本丸跡に観覧車 急流すべり

遠州地方を代表する観光地のひとつ舘山寺温泉の遊園地・浜名湖パルパル

東京・大阪のほぼ中間点であり、東名高速浜松西ICにも近く休日には多くの家族連れで賑わう。

 

この遊園地の北半分は室町〜江戸時代に存在していた堀江城の跡地を利用している。

かつてのこの城の殿様姫様も見た美しい浜名湖の眺めが楽しめる。

最高所の本丸跡(?)には展望を生かした観覧車、振り子系絶叫マシンもある。(左写真)

その東側には斜面を一部利用した水飛沫系絶叫マシン。(右写真)

 

斜面を利用したステージ 展望列車

西斜面を利用したステージではちびっこヒーローのショーが行われる。(左写真)

本丸跡推定地の一段下側を一周する展望列車もある。(右写真)

遊園地になる際にかなり地形が改変されている模様。

 

さて、遊園地内などをかなり歩いてみたが、城址であることを示す遺構や石碑、

説明板の類が見当たらない。これにはこの城と城主の経緯が絡んでいるのだろう。

 

このあたりは室町時代初期から大沢家の領地。堀江城はその本拠地だった。

徳川家康の遠州侵攻時にこの堀江城を攻められたが守りきり、和睦して徳川家に従う。

家康が、大沢家の家柄と堀江城での戦いぶりに敬意を表したのが和睦の決め手となった。

その後は名門家(藤原北家・持明院統の末裔)として、高い格式で徳川幕府に仕えた。

領地は1万石以下(5600石)なので「大名」ではなく「高家」の扱いである。

また堀江「城」は堀江「陣屋」となり、場所もその隣(御陣山)に移ったらしい。

室町から戦国・安土桃山・江戸時代を通じて領地が変わらなかった家は珍しい。

 

そして江戸から明治へ時代が劇的に変化したとき、「事件」は起こった。

大沢家は明治新政府に開墾により領地が10006石になったと申告した。

新政府は成立直後で混乱していたため調査をせず受理、大沢家は大名(→華族)となり堀江藩が成立した。

その3年後廃藩置県。徳川本家を静岡(駿府)に移すため他の遠江・駿河の大名・旗本はほとんど他に

移動させられたが、大沢家は名門大名ということからなのか、なぜか唯一移動を免れ堀江県が誕生。

浜名湖東岸に突き出す庄内半島とその付け根だけの超ミニ県。面積約16平方キロメートル(推定)。

当時の当主(堀江藩主)大沢基寿堀江県知事となり堀江陣屋(堀江城)は堀江県庁となった。

中央集権化のために、政府から新知事を派遣するのが廃藩置県なのだが・・・。

しかし、申告した開墾領地は浜名湖上であり虚偽であることが発覚!基寿は禁錮一年の実刑、爵位剥奪。

堀江県は浜松県(当時)に編入され消滅。わずか5ヶ月の歴史を閉じた。

 

こういった歴史からなのか、大沢家・堀江城に関する資料は少ない。「堀江」という由緒ある地名も消えた。

今では僅かに遊園地に隣接する旅館(ここも堀江城址)に「堀江の庄」という名を残すのみ。

 

遊園地(堀江城址)俯瞰

展望ロープウェイに乗れば城址の遊園地を俯瞰できる。

三方面を湖に面した適度な大きさの山で、城としても遊園地としても向いているのがわかる。

 

大草山展望台から旧大沢家領地を望む

内浦湾を隔ててそびえる大草山展望台から城址と温泉街を見る。

舘山寺温泉観光ガイド必出の風景だ。正面が堀江城址(遊園地+旅館2軒)。

右が浜名湖本体(幻の開墾地)。奥が弁天島方面。

手前から左が内浦湾。遊覧船とロープウェイが写っている。

写真に写っている範囲+αがかつての大沢家領地→堀江陣屋領→堀江藩→堀江県。

1955〜65年の間は浜名郡庄内村だった。中学校校区一校分。現人口は約11800人。

現在の庄内地区は、明治以降の浜名湖埋立で当時より面積が水増し増加しています。

 

明治以降の浜名湖埋立で、幻の一万石が一部実現した形になったが、

その埋立には大沢(藤原)氏が堀江城以前に本拠(または支城)としていた可能性がある志津城跡

(庄内半島先端付近)の土も使われた。現在志津城は、その原形を想像することすら不可能。

埋立地は養鰻場などになり、その後一部は2004年には浜名湖花博会場にもなった。

 

堀江県は虚偽の申告から生まれた言わば幻の県。しかしたった5ヶ月とはいえ正式に存在したのも事実。

旧堀江陣屋(堀江県庁)の一部はその後競売で他の場所へ移築されごく一部現存するそうです。(後日取材するかも)

明治新政府の廃藩置県は試行錯誤の連続で、堀江県の他にも過渡的な小県が全国にいくつか存在しました。

しかしここまで小さな県は他にはなかったのでは?最小でも一万石なければ藩・県にはなれないはずだし。

それはさておき休日に遊園地に来て、アトラクションなどに一切興味を示さず周囲の地形ばかり見て回った私はアヤシイ?

 

なお、浜名湖上の「開墾地」はそのとき埋め立て作業を開始しており、家臣が見込みで申告してしまったとのこと。

領民に課した埋め立て作業は過酷だったとの話も残っているから、とりあえず多めに申告して

調査に来るまでに何とかしてしまえとの目論見もあったかも?でも急に5000石近く増やせるとは思えない。

世の中がひっくり返ったこの時期、明治新政府も大沢家も混乱していたようです。

当主は高家の役割を果たす為京や江戸にいることが多く、領地のことはよくわからなかったのかも。

 

参考文献:「浜松歴史年表」、「庄内の歴史」、他

 

追加情報:遊園地隣接の観光ホテル敷地内に「堀江城址」の碑があるそうです。

追加情報2:堀江藩・堀江県には飛び地がいくつかありました。

注:文章簡素化のため、一部経緯と前後関係を省略してあります。

 

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