10.家康が殺してしまったホトトギス
〜篭城・全滅・悲劇の城〜
(静岡県引佐郡細江町)
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の織田信長に対し、徳川家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」であるとされています。
彼らの人生をよく表している名句ですが、そんな家康も若き頃はかなり殺してしまっています。生き残りをかけて。
浜名湖北岸の町、細江町。その中心地・気賀(きが)の集落を迂回するバイパス沿いに小さな森がある。
これが戦国時代の悲劇の城、堀川城址(跡川城址)である。
かつてこの地は今川氏が治めていた。
桶狭間の戦いの敗北にて今川氏が急速に衰え、代わって三河の徳川家康がこの地の支配を狙う。
住民は今川に忠誠を尽くし、町の南側の小さな城(と、いうより砦)で徳川に対抗した。
しかし、城は家康軍の攻撃のためあっけなく落城。当時の住民の約半数1700人が命を落としたという。
戦死した者だけでなく、捕らえられ首を斬られた者も多い。
家康が戦いにおいて皆殺しをするようなイメージがない。降伏した者を丁重に扱い、
旧敵を家臣に取りたてたりする。しかし、若き日の家康にはそんな余裕はなかったようだ。
遠州侵攻、そして浜松在城時代の家康は戦に明け暮れ内政を省みる余裕がなく、
地元住民にも多大な犠牲を強いることになった。
それを現代に伝える例、静岡県の二大都市、静岡と浜松はともに徳川家康ゆかりの街だが、
家康隠居の地の静岡では、「家康公」「権現様」と呼ぶことがあるのに対し、浜松では呼び捨て。
浜松周辺では、武田信玄との戦いに敗れたときの家康の逃げ隠れ伝説があちこちにあります。
家康を今ひとつ受け入れられなかった遠州の人の思いがそういう伝説を作ったか、
敗戦に謙虚に学ぼうとする家康がそういった伝説を許したか・・・。