4.水野さんのお城
〜徳川家康の実母出生地、緒川城址〜
(愛知県知多郡東浦町)
愛知県は戦国三傑(信長、秀吉、家康)の出身地ゆえ、彼らにゆかりの史跡が多い。
今回は、徳川家康生母の出生地を訪ねてみた。
徳川家康生母「於大の方」は戦国時代知多半島北部東側のあたりを治めた小豪族水野忠政の娘として生まれた。
水野氏の当時の本拠地が緒川(おがわ)城である。(後に刈谷城に本拠を移す)
城址最高部には石碑が建つ。周囲は宅地で痕跡はわからなかったが、地形的に城に適した所だというのがわかる。
本丸跡?と思われる削平地に古城ちびっこ広場と於大の方生誕地の碑がある。
於大の方と三河岡崎城主の松平広忠(家康の父)との結婚はもちろん政略結婚であった。
結婚当時新郎16才、新婦14才。家康は於大の方15才のときの子供。
2年後実家の兄水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別。
19才のとき近くの阿久比城主久松俊勝の後室となる。
これまた政略結婚で俊勝は水野氏と同盟するため前妻と離別したのである。当時の武家の女性は難儀だ。
実家の水野家は周囲の織田、松平(徳川)、今川の間で激動の日々を送った。
その後、家康の縁続きということもあり、江戸時代を通じて代々譜代大名として各地の藩主となる。
天保の改革で知られる老中水野忠邦はこの子孫である。
水野家(忠邦の系統)は山形藩主として明治維新を迎えた。
余談だが、水野忠邦が浜松藩主に国替えになってから老中に出世したことなどから、
浜松城を別名出世城と呼ぶ。浜松銘菓「出世城」ってのもある。
そして、緒川城の直下(城内?)には「水野さん」が多い。少なくとも5軒見かけた。これは驚きであった。
緒川城廃城から約400年。本家筋などは移住し廃城となったが、ずっとこの地を一族が守っていたのだろうか?
水野氏の苗字発祥の地はここから35km程北の春日井郡水野(愛知県瀬戸市中水野付近)ともいう。
名字の過半数は地名から来ているそうだ。由来となった地名が消滅している場合もあるが、
思わぬところに自分の名字のルーツを見つけられたらおもしろい。
城といっても、近世城郭(江戸時代の城)と中世城郭(鎌倉〜安土桃山時代の城)とでは大きく性格が異なります。
政治的拠点としての近世城郭に対し軍事拠点としての中世城郭。
中世城郭は規模も小さく遺構が少ない。建造物はほとんど残っていない。山の上にあったりして行くのが大変。
文献資料が少ない。しかし、数は多い。そんな中世城郭をこれからも追いかけていきます。
おまけ話
於大の方と再婚相手の久松俊勝との間には5人の子があった。
うちひとりは家康の異父弟ということで大名に取り立てられ、松平姓をもらって伊予松山藩主となった。
「久松松平家」と呼ばれることが多い。本家は代々、名城松山城の主として明治維新まで続いた。
明治に入ってから本家筋は久松姓に戻したという。松平姓のままの分家もあった。
俊勝と前妻との間の幼子は、於大の方が大切に育て、成人後は父の跡を継いで阿久比城主となった。
前妻は阿久比から一山越えた集落でひっそりと暮らしたという。