新政令指定都市(予定)「浜松市」区名私案

〜地名の歴史は未来へ続く(1)〜

 

浜松市区名投票希望」を作りました。内容一部重複。

 

2006年5月以降更新を休止しています

 

静岡県西部、天竜川浜名湖地域12市町村(浜松市・浜北市・天竜市・細江町・引佐町・三ヶ日町・雄踏町・

舞阪町・春野町・佐久間町・水窪町・龍山村)で、政令指定都市を目指して合併協議が進んでいます。

合併方式は浜松市への編入(2004.2.10決定)、新市名は「浜松市」と決まりましました(2004.6.10決定)

ここでは合併・政令指定都市が実現した場合に新たに誕生する行政区の名前を考えてみました。

 

新たに地名を選定すると、その後各種公式・非公式文書に多数登場し、

長きにわたって使われ記録され続けていくことになります。

我々の世代だけでなく、子孫曾孫・・・・に伝わっていく重要な選択だと考え、

浜松地域の地名に関する歴史と現在、それに基づく自分なりの区名案をまとめてみました。

新区名候補をひとつには絞らず、それぞれの根拠(これが重要)を示しています。

他地方の合併関連新地名選択の参考にもなれば、と思います。

浜松地域の地名よもやま話として見ていただいても幸いです。

 

おことわり

1.肩書きもない、専門家でもない一住民の資料提供・私的提案です。

2.私の記憶違いや、資料不備にて内容に誤りや説明不足があるかもしれません。(たぶんある)

3.図書館資料等に書いてあることも100%正確とは限りません。(が、通説には意味があると考えています)

4.文章を簡素化するため、細部・例外・異説を省略したり曖昧にしたり、話を代用している部分があります。

5.自治体名の前の「現」を省略してある箇所があります。6.旧字体を新字体にしている箇所があります。

7.情勢の変化、新資料入手などで内容は少しずつ修正しています。突然終了するかもしれません。

 

2004年7月8日の合併協議会にて区割り原案3件が示されました。

8〜9区分割案が消え、7区分割案2件+6区分割案1件となりました。

当コーナーでは当初、合併協議だよりVol.2(2004.1)掲載の区割り案3または4(7または6区分割案)を

想定していましたが、2004年7月時点での原案3(6区分割案)を想定することとして改訂しました。

ウェブサイト「天竜川・浜名湖地域合併協議会」に区割り原案(色分け地図)の記載があります。

8月9日の合併協議会で、区割り原案が1本化されました。原案2の7区分割案の修正形です。

まだ最終決定ではありませんが、この原案に沿うよう改訂しました。

2004年10月6日の合併協議会で、この区割り案で内定しました。

2005年7月1日、12市町村合併(形式は編入合併)で新・浜松市が誕生しました。

当コーナー内の「現」「旧」「新」の表記は修正途中です。一部記事の時系列が未修正です。

7月12日の行政区画等審議会で、区名は2006年3月までに答申を目指すことが決まりました。

8月9日の行政区画等審議会で、区名は9月5日から10月7日まで市民から募集することが決まりました。

広報はままつ全市版と市ホームページなどで告知予定とのことです。→告知中・募集中→終了しました

2006年1月に市民区名投票が行われます。この結果を参考に内定されます。


A区(浜松市中央・北・東・駅南・江西・江東・県居・西・佐鳴台・富塚・城北・曳馬・萩丘・花川地区)

人口241355人、面積43.93km2

地形等・・・平地(市街地)、三方原台地(市街地・畑)、佐鳴湖畔など

引馬城址(→浜松城米蔵址)

引馬城本丸跡。浜松城時代は米倉。現在は東照宮、周囲はビルと幹線道路(撮影地:浜松市元城町)

 

案1:引馬区

案2:引間区

案3:引馬野区

案4:曳馬区△+

案5:曳馬野区△

案6:敷知区△

案7:布知区△

案8:萩区△

 

万葉集巻一にある「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」が当地との説がある。

引馬野に・・・の万葉歌碑
浜松市文芸館にある万葉歌碑(浜松市鹿谷町)

当地域は平安〜室町時代の浜松荘の一部にあたる。鎌倉時代から中心部が引馬(引間)宿

引馬野(引間野)などと呼ばれて、各種文献・詩歌に登場する。室町〜戦国時代に引馬(引間)城

今川氏臣下の飯尾氏が入って当地域を治めた。一時斯波氏臣下の大河内氏が引馬城主となった。

引馬城主=浜松荘(荘園)の奉行という位置付けもあった。

引馬城主家の長男誕生を祝った凧揚げが、凧揚げまつり(浜松まつり)の起源とする説もある。(異説あり)

この頃は引馬・浜松併用。引馬は当時の浜松(旧浜松市中・南部)より狭い範囲(宿場・市場・城下)を示す

 

今川氏没落後、徳川家康が引馬城を本拠地としこれを大拡張、本丸の位置を変え浜松城と改名する。

(拡張・改名というより、新城築城に近い。が、旧引馬城も城内米倉などとして引き続き利用している。)

家康が地名を引馬から浜松に改名したという文章も見かけるが、「浜松」も家康以前から存在し併用していた地名。

ただし、家康が来た頃には浜松の名があまり使われなくなっていた可能性もあり、家康が復活させた地名かもしれない。

以降当地は浜松と呼ぶのが一般化。引馬・引間・引馬野・曳馬・曳馬野などは別称として使われる

「引馬」は旧市街地のみ、「引馬野」は台地上も含めた呼称だったのではないだろうか。(私見)

 

引馬城址内に「曳馬城址」と書かれた石碑があるが、この城の現役時代(室町・戦国時代)の

「曳馬」の字の文書は見つかっていない。江戸時代からなぜか「引」の字が「曳」に変わっている

 

明治の町村制に基づき、曳馬(引馬)北東部の村(島之郷・高林・中沢など)が合併して「曳馬下村」となる。

隣接して「曳馬上村」ができる動きがあったためこの村名となったが、実際にはできず、

曳馬下村は曳馬村と改名する。曳馬村は1916年に南部(中沢・八幡など)が分村して浜松市へ編入する。

残った浜名郡曳馬村は町制施行で曳馬町になった後、1936年に浜松市に編入。曳馬地区となる。

旧浜名郡曳馬町大字島之郷は旧町名を残すため、浜松市島之郷町とはならず浜松市曳馬町となる。

曳馬地区(旧曳馬村・町)のうち、北西部(三方原台地上)は戦後人口増加し萩丘地区となる。

旧曳馬村大字野口(現野口町@東地区)の地名の由来は「引馬野の入口」だという。

 

このような経緯で現曳馬地区だけはでなく、その南・西の古くからの市街地と周辺が本来の「引馬」

(狭義では現曳馬地区の南隣、中世引馬宿推定地の浜松八幡宮〜早馬・常盤町付近)

旧引馬城支配地が引馬の範囲と定義することもできそうだが、細かいところは不詳。

この際、本来の漢字で「引馬区」とすれば、現在の曳馬地区との区別もついて都合がよい。

「引間」と書かれた文献も多いが、旧城下町・旧宿場町であり、字面でも「引馬」がよいかと。

 

現在、連尺町〜高町にかけて「曳馬坂」の名が残る。江戸時代にはここと、

天林寺付近(浜松城北東)の坂を両方「引馬坂」と呼んだらしい。

馬込川の旧名が牽馬川で、ここで少年期の豊臣秀吉が松下長則に出会ったとの伝説がある。

現在の曳馬川は、馬込川の小支流。

 

高校野球の伝統校・浜松商業高の校歌歌詞中に「曳馬の野辺に・・・」とある。

甲子園球場から全国に向け、何度かこの校歌がTV中継されている。おそらく浜松で最も有名な校歌。

そのほかにも、浜松市内のいくつかの学校校歌中に「曳馬」「曳馬野」があるらしい。

高校・・・浜松城北工業、浜松市立、興誠、浜松北(生徒の歌)

中学校・・・北部、八幡、曳馬、北星、丸塚

小学校・・・城北、東、船越、鴨江、上島、浅間、曳馬、萩丘

戦後新制校発足時(校歌制定時)に既に浜松市となっていた地域の学校に多い。

 

関連話。戦後、旧制浜松一中が新制浜松一高となったが、すぐに校名を変えることになり、

浜松北高に改名し現在に至っている。その時のもうひとつの校名候補が浜松曳馬野高だった。

地元最古の高校の名に、当地別称・旧称を使う動きがあったという話。信州の松本深志高と同じか。

「松本」の旧称「深志」が、現在は松本市内の一部を示す地名となっている点でも似ている。

さらに、旧制浜松高女(浜松市立高)の旧寄宿舎名が「曳馬野寮」だったという。

その他曳馬(引馬)という呼称は多くの場面(官・民)で使われてきている。

あまり浸透してはいないが、浜松市歌にも「引馬」は登場する。

浜松市歌(一部)
旧浜松市歌(一部)

 

細かいことはさておいても、元々この地は「ひくま」とも呼ばれていたということが

比較的知られており、引馬(引間、曳馬)という地名選択は順当なものと考える。

 

案6、1896(明治29)年に浜名郡に統合されるまで、浜松市中〜西部などは敷知(ふち)郡であった。

「敷知」は和名抄にも記載されており、律令時代から続く郡名。「布知」「敷智」「淵」と書くこともあった。

浜松市伊場遺跡からは「布知厨(ふちくりや)」と書かれた奈良時代の墨書土器が発掘されている。

さらに古く、西暦691年(持統天皇の時代)らしき「淵評」と書かれた木簡も出土している。

歴史の長い地名だが、現在は敷知・布知に由来する地名はたぶん残っていない。

敷知は本来当区割案のA区E区両域とB区西部を示す地名であり、一方の地名とするのは最良ではないが、

現在は「敷知地方」という呼び方はしないので、区名として復活するのも選択肢のひとつと考える。

A区E区どちらかということになれば、布知郡衙推定地(伊場遺跡)や敷知郡役所跡(高町)を含むA区か。

(訓の「ふち」が湖畔を示す言葉と解釈すれば、E区の方がよいということにもなるが)

「敷知」が難字とするならば、墨書土器の「布知」の字も繊維産業から近代化が始まった当地にはふさわしい。

 

案8、前出の「引馬野ににほふ榛原・・・」の「榛」は「萩」だということから、浜松市の花は萩。

合併新市の花は新たに決めるとなっているから、引佐郡三ヶ日町由来のミカンの花になるのかな?

萩は区名として後世に伝えるのはどうか。「曳馬」「曳馬野」同様、浜松市内のいくつかの学校校歌に「萩」はある。

浜松市歌歌詞中にも「萩原」がある。「萩原区」とする手もある。


B区(浜松市可美・新津・白脇・五島・河輪・芳川・飯田地区)

人口101229、面積47.55km2

地形等・・・海岸(砂浜)、天竜川、平地(市街地、田、畑)など

白羽湊跡推定地。左奥に目印の松(二代目)が見える。伊場遺跡出土木簡の「浜津」はここだろうか。 白羽湊跡伝承地の石碑

古天竜川(馬込川)河口付近に白羽湊があった。(撮影地:浜松市白羽町)

 

案1:白羽区○+

案2:中田島区

案3:都盛区

案4:長下区

案5:広瀬区

案6:音羽区△+

案7:浜津区△+

案8:可美区△

案9:萩区△

案10:敷知区△

案11:萱野区△-

案12:砂丘区△--

案13:鶴島区△-

案14:遠浜区△--

案15:海鳴区△--

 

正直言って、この形の区割りは予想していなかった。歴史的にもこの区割りは

江戸時代後期、浜松藩・井上家時代の「浜辺〔はまんべ〕組」あたりしか思いつかない。

◎を付けたい名は今のところない。やむを得ず、他でも使えてしまえる名も挙げてみた。

 

この区域で象徴的なのは、遠州灘(砂丘海岸)と天竜川・馬込川河口だろう。

凧揚げまつり会場中田島砂丘から「中田島」。そしてその旧称白羽浜から「白羽」をまず挙げてみたい。

日本三大砂丘とすることもある。現在は、侵食で往時より砂丘は小さくなってしまった。

白羽は付近では比較的古い地名で、南北朝時代の南朝宗良親王が漂着した場所とされる。(異説あり)

さらに古い万葉集の防人の歌「遠江白羽の磯・・・」が当地と推定され、中田島砂丘入口に句碑がある。

14世紀頃まであったらしい白羽湊が伊場遺跡出土木簡等の「浜津」で、これが「浜松」の語源との説がある。

当区は東西に長い形になっているが、中田島・白羽(現町名)はほぼその中央。

このあたりの田んぼでは白い鳥(鷺)をよく見かけるので、その意味でも白羽はよいかと。

昭和20年代後半に馬込川河口に港を建設する計画があった。

実現したなら7世紀ぶりの白羽湊復活となったのだが。

 

案3「都盛(つもり)」は延喜式(927年、平安時代中期)記載の津毛利神社にちなむ旧村名(現町名)。

津毛利神社は718年(奈良時代初期)、当時の海岸近くに遠州灘の守り神として建てられたものだが、

現在は海岸まで約4km離れており、当区は形成時期が新しいということがわかる。

近年の道路建設で縮小したが、海にちなむ古社は海岸沿いの当区にとって象徴的な存在だろう。

地名としては知名度が低いが、新区名だからその方がよいと考えることもできる。

 

長下」は奈良〜戦国時代の郡名(詳細はC区参照)。ただし東半分で、西半分は当時は敷知郡だった。

(可美・新津・白脇が旧敷知郡、五島・河輪・芳川・飯田が旧長下〔→長上〕郡、明治中期からは浜名郡)

 

ある程度広い地を示す旧地名では、他に旧荘園名の「川匂」(芳川・五島・河輪+磐田郡竜洋町)がある。

その遺称地である現在の河輪地区より広い地域をかつては指していた。

川匂荘は戦国時代には頭陀寺荘と呼ばれたという説があり、中心地が頭陀寺周辺と見られる。

室町以前の中心地は天竜川の流路が変わって消滅(水没)したと推定されている。

 

案5は平安時代の天竜川旧称「広瀬川」より。現在の馬込川は往時の天竜川(広瀬川)の流れという。

この川が土地を作った。治水ままならない頃は、この地を自由に川が流れ「広い瀬」を形成していただろう。

なお、かつて当地天竜川対岸やや上流に同由来の「広瀬村」(現・磐田市立豊岡南小学校区)があった。

 

案6音羽〔おとわ〕は伝説の音羽の松(小沢渡町)より。遠州灘を航行する船の目印になったという巨松。

明治時代に枯れた。浜名郡誌では浜松の「浜の松」はこの音羽の松としている。

広重の東海道五十三次「浜松」の松の絵はこれだろう。

「松」に関係があり、偶然ながら「音」の字が入っているのが浜松らしいと考える。

音羽は海沿いの通称地名でもある。

 

案8可美〔かみ〕は四方を浜松市に囲まれながら1991年まで独立していた旧村名。

大正3年(1914)からの、歴史の浅い地名だが「美しかる可き里」とした命名は、

根拠と必然性は弱いが、新地名の割には独自性がありセンスも良い方だと私は思っている。

ただし現在の可美地区は、当区の西端に位置することになる。

 

案9,10はA区参照。使うとしたらA区が最適だが、決定的な地名に乏しいB区でも候補となりうるか。

 

案11萱野〔かやの〕は、天竜川・馬込川河口一帯はかつて萱(茅)の生える野原だったことから。

天竜川河口付近の旧地名には、同由来と推定できる「茅野〔かやの〕があった。

 

案12砂丘〔すなおか〕は中田島砂丘付近にある小学校名ではあるが、歴史のない完全新地名。

元々地名は地形から採るものが多いことから、当区最大の地形的特徴をそのまま地名としてみた。

砂丘の地ならどこででも命名できてしまうが、今のところ使われていないのでまあよいかと。(消極的)

歴史はないが、井上藩時代の組名「浜辺」や、ましてや「南」なんぞよりは固有名詞として優れている。

浜辺は各地にあるが、この規模の砂丘は全国に4箇所ぐらいしかない。ただ、代表的な場所とはいえ

遠州灘砂丘の一部にすぎないし、そのまんまの名前はいまいち。「砂丘」の別表現とか古い言い方は?

 

区役所候補地(江之島)が発表されて急遽思いついたのが案13。区役所候補地付近の旧地名は

たぶん鶴島ではないかと。周辺は五島地区(旧五島村)なのだが「島」が付く現町名が四つしかない。

消えた五つめの旧地名が鶴島。現町名ではなく、縁起がよい名であることで賛同得やすいか?

かつて東北地方(?)でA町とB町の合併町名が決まらず、新町役場所在地の小地名Cを新町名にした

というのを思い出したのだが、どの町の話なのかど忘れしてしまった。

 

案11とともに消極的候補として案14、15も追加してみた。消極的なのに記載したのは

「遠州灘に面しているから遠州区、遠州浜区、遠州灘区」というのが予想されるため。

遠州(遠江国)、遠州灘沿岸の一部であるこの区域でこの名前を使うのは広域地名の僭称。

遠州灘にちなむならば、使われていない旧称または別称を使えば良いと思う。

それがないならば、遠州浜の省略形を創作してしまう方がマシということで。

「海鳴」は遠州七不思議の、「遠州灘の海鳴・波小僧」から。

古くからの伝承もある独特の海鳴りは、環境庁の「日本の音風景100選」に選ばれている。

ただし遠州灘全域のことなので積極的推奨はできない。


C区(浜松市蒲・和田・中ノ町・長上・積志・笠井地区)

人口120020、面積45.99km2

地形等・・・天竜川、平地(市街地、田、畑)など

「永田(長田)」の名を残す永田川。護岸工事中に白鳳時代の寺院の痕跡が発見された。ここが旧長田・長上郡衙跡との有力説もある。

「永田(長田)」の名を残す永田川。護岸工事中に白鳳時代の寺院痕跡が発見された。(撮影地:浜松市和田町)

 

案1:長上区

案2:永田区

案3:長田区

案4:蒲区△+

案5:羽鳥区△+

案6:碧海区△

案7:宮竹区△-

案8:市野区△-

 

1896年(明治29年)に浜名郡に統合されるまで、浜松市東部と浜北市の過半は長上郡に所属していた。

現在の馬込川は江戸時代以前の天竜川分流のひとつで、そこから現天竜川までの間はだいたい旧長上郡。

 

飛鳥時代(7世紀)、当地は「長田評」でありその後「長田郡」。709年(和銅2年)「長上郡」「長下郡」に分かれる。

現在の天竜川河口付近が長下郡だった。戦国時代以降「長下郡」が消え「長上郡」だけになる。

おそらく長下郡西部は長上郡へ、長下郡東部は豊田郡(後に磐田郡)に編入されたのだろう。

天竜川流路は何度も変わっているので、その影響などで境界が何度か小変更されたと推定される。

 

長田郡、長上郡の旧中心地(郡衙推定地)であり郡名にもなった長田(永田)郷は現在の浜松市和田町。

弥生時代の環濠集落跡や飛鳥白鳳時代の寺院跡など、古代から近現代に至る各時代の遺跡が多数存在する。

自動車街とも呼ばれ、自動車販売店が多い。環濠集落跡には昭和中頃まで市場があり、今は浜松アリーナ。

浜松アリーナの場所には各時代ごとの痕跡があり、「長田」と書かれた墨書土器も発掘されている。

2004年には付近(隣の大蒲町内)で、奈良時代初期の「大税出挙」「駅」関連文字が書かれた

木簡が発掘されている。当時の地方役所業務を示し、遠江国長田(長上)郡衙所在地が確実となった。

この場所は7世紀頃には長田(長上)郡だけではなく、遠江国全体の政治中心だったとする説もある。

中世〜明治中頃まで長上郡永田村で、その後合併により橋田村大字永田→和田村大字永田となったが、

浜松市編入時(1954年)に、旧和田村の名前を残すためもあってか浜松市和田町となり、「永田」は消えた。

皮肉にも旧和田村の主要地であったため、1200年の地名の歴史は一旦停止中。

 

「永」は未来に続く字であり、昭和中頃までは「田」園地帯。長田区は神戸市にあることから「永田区」を推したい。

永田の地名が現在は消えているのは残念だが、純粋に区名として復活できる(町名を兼ねていない)。

 

奈良時代から明治中期まで長きに渡り長上郡であった区域であり、「長上区」も有力と思う。

長上郡は浜名郡への編入時点ではB・C・D区にまたがるが、歴史上一貫して長上郡だったのはこのC区

その区域もほぼ一致し、長上の名を復活させてくださいと言っているかのようだ。

「長田」「永田」「長上」いずれも歴史あるが、わかりやすさではこの「長上」だろうか。

私の調査では、全国に「長上」という地名はない。この点でも優れている。

区域内には現在は長上公民館、長上交番、〇〇長上支店などがある。

現在の長上地区の呼び方は「与進地区」と変更する等の配慮が必要かもしれない。これは考えすぎかな。

長上地区は旧浜名郡長上村(1927〜1954年)に由来している。昭和初期の旧市野村と旧天王村の合併時に、

既に消えていた旧郡名を復活させた村名だった。「与進」は旧市野天王学校組合で論語にちなんで付けた校名。

本来の長上は現・長上地区(旧・長上村)より広い。長上地区内に「長上町」がない理由もこれでわかる。

 

天竜川河口近くに長田町があるが、「長十郎新田」の省略形で昭和の町名。旧長田郷と地名の関連はない。

ただし前述の永田→和田の地名変更理由のひとつとなったと思う。この長田町は浜松市編入が三年早い。

(もしかすると浜松市編入直後は長十郎新田のままだったかもしれません。)

 

案6は和名抄記載の郷名長上郡碧海(あおうみ)郷から。現在の中里町周辺説がある。他にも古代郷名

はいくつかあるが、あえて現在は使われていない名で、遠州灘と天竜川を連想できるものを選んでみた。

碧が難字とするならば、「青海」でも読みと意味は大きくは損なわない。

 

他に歴史的地名では、平安時代からの旧御厨名で源範頼(蒲冠者)出身地の「蒲」(蒲・飯田・和田)、

その遺称地である現在の蒲地区より広い地域をかつては指していた。

かつては蒲が当地全域の代表的植物であったことが証明できるならば、さらに有力根拠となる。

 

旧荘園名では羽鳥(笠井〜中ノ町地区、羽鳥公民館は遺称)、古代郷名で壱志(市野町付近?)などがある。

羽鳥は現在も野鳥が飛来する当地にふさわしく、未来へ羽ばたく意味を込められる。

 

案7の宮竹は永田(和田町)の西隣で、現在商業地(郊外型店舗)として急速発展している場所。

正確には隣の上西町内に大型店舗が多数あるのだが、なぜか宮竹店と呼ばれ代表的な地名となっている。

上西より宮竹の方が定着しているのは、上西が合成地名(上之郷+西在所)で、歴史が浅いからだろうか。

余談だが、消えた「上之郷」の名が最近分譲地名として"復活"したのは興味深い。

最近ではさらに離れた、天王町にある店舗まで「宮竹の方の店」とひとくくりに呼ばれることがあり、

「代表的地名は拡大利用されるの法則」(私が勝手に名付けた法則)に一致する。

注意:「代表的地名は拡大利用されるの法則」はその直近(この場合宮竹・上西・天王など)の住民にはあてはまりません。

交通の要衝でもあり、主要路線が交わる宮竹交差点付近は慢性的な交通渋滞地。

案8の市野は旧姫街道の宿場名で現町名。市があったとも、古代郷名の「壱志」に由来するともいう。

現代では特に交通の要衝ではないが、代表的な地名のひとつになっている。

市内交通案内表示、[←市野 ○km]という看板を見かける。

 

人口バランス・歴史的つながりなどを考えると、旧美薗御厨に属し、旧浜北市役所に近く、

浜北警察署管内である現浜松市積志・笠井地区はD区に所属する、という選択もあると思う。

当地の古くからの中心地は永田(長田)と書いたが、長上郡北部(現浜北市部をも含む)では中世以降は

笠井が商業中心で、市場・物資集散地となっていた。笠井街道沿いの街並みにその名残がある。

 

当地の過半は浜松東警察署管内であり、現浜松市東端にあたることから「東区」が

候補に上がることが予想されるが、12市町村合併後ならば、春野の方が経度で東。

他市に既存の区名でもあり、この名は避けたい。

仮称A区になる板屋町付近を東地区と呼ぶこともあり(この呼び方もどうかと思うが)、B区に東町があって

(ここは例えば「河輪東町」などとすべしとは思うが)、ややこしくもなる。

言うまでもなく方角は相対的なもので、視点によって東にも西にもなる。市役所あたりから見れば東なだけ。

そもそも、せっかく地名を長く後世に伝える貴重なチャンスなのに、「東」ではもったいないああもったいない。


消えていた郡名が政令指定都市の新区名として復活した例としては横浜市都筑区、福岡市早良区があります。

区名ではないですが、近隣では静岡県磐田郡豊田町(→磐田市豊田地区)の「豊田」は消えていた豊田郡の名を復活させたものです。


D区(浜北市)

人口84905人、面積66.64km2

地形等・・・天竜川、平地(市街地、畑、園芸地)、台地端など

美薗中央公園は西美薗の西端にあるが、本来の「美薗」の中央やや北、D区のだいたい中央にあたる。

西美薗西端にある美薗中央公園。浜北市のほぼ中央にある。(撮影地:浜北市西美薗)

 

案1:美薗区

案2:美園区

案3:浜北区

案4:伎倍区

案5:麁玉区

案6:荒玉区△+

案7:御薗区△

 

浜北市域がそのまま区になるのなら、浜北区というのはまず自然な流れである。

本州唯一の正真正銘旧石器時代人骨「浜北人」でも知られた名。

「浜北」の地名ができてから約50年。大半の浜北市民には充分馴染んでいる。

おそらくこの名が有力候補になるだろう。が、ここではあえて別の名前も考えてみたい。

新市名は浜松となるので「浜松市浜北区」は「浜松の北部」を連想させ難もある。

海にも湖にも面していないこの場所に、なぜ「浜」の字が使われているのか?

 

旧々5町村合併時に、当時の静岡県知事の裁定で「浜名郡の北部」という意味で「浜北町」になった。

母体となった旧村に「北浜村」(同じく浜名郡の北部という意味)があったからなのか、北浜ではなく浜北。

旧々5町村のうち、人口が多い浜名町と北浜村の漢字を組み合わせたとの話もある。

浜名町も北浜村も郡名から町村名をとったが、当時の浜名郡のごく一部で、浜名湖からも遠い。

 

かつて天竜川が大暴れした地であり、流村・亡村を繰り返し中心地がなかった。物資集散地は現・浜松市笠井。

江戸時代には細切れ領地だった。遠州鉄道開通後は、貴布祢・小松付近が中心的役割をある程度果たしたが、

浜松の衛星都市的な面もある。広域地名を付けるには困難な所なのだが、歴史を遡ると良い地名に出会える。

平安時代(西暦1145年)〜室町時代初期に美薗御厨(みそのみくりや)があった。

浜北市中部〜南部と浜松市積志・笠井あたりに相当。

その後美薗郷御薗郷美園荘美薗村と名が続き、現在は西美薗・東美薗という地名で続いている。

美薗御厨、御薗郷の範囲は一部不明だが、現在の西美薗+東美薗よりはるかに広い地域であった。

 

「美薗」は浜北町(→浜北市)発足時(1956年)に新町名候補にもなっていた。

(当時の新町名候補=北浜・浜名・浜北・美薗・天竜)

今更仕方がないが、このとき美薗が選ばれなかったのが私としては残念でならない。

美薗以外の候補名は、このあたりどこででも付けられる名前であった。天竜は二年後に隣市名になっている。

現代の西美薗・東美薗にとらわれて、美薗の歴史と本来の広さが伝わっていなかったのだろうか。

当時の新町名候補に、その時点では数ある小地名のひとつにすぎない(ように見える)

「美薗」が唯一エントリーしていたことは、当時からその名は理解され尊重されていたという証拠でもある。

そしてその詳細を、裁定者の県知事(当時)に正確に伝えられなかったということなのか。

 

美薗は、植木の町とも呼ばれ造園業者が多く、緑豊かな地(美薗御厨でなかった麁玉・赤佐・

中瀬を含む)に適した地名と思う。近年建設された「なゆた浜北」にも美薗御厨についての解説がある。

浜北市内中央部の「美薗中央公園」のネーミング、近年の(旧)浜北市で「美薗」は再認識されているかも。

現地名的には「西美薗の西端」にあるのに「美薗中央公園」となっているのは

かつての美薗御厨への敬意か、はたまた「美薗区」実現への布石だったのか?

 

過去文献では「美薗」「美園」両方あり、現在残る地名は「美薗」だが、漢字が平易な「美園」でもよいと思う。

難点とすれば、一見すると近年各地に発生している由緒のない新興地名と同類に見えてしまうことか。

「美園」は北海道などの新興地に多数あるが、「美薗」ならば全国でここだけ。

 

C区の欄にも書いたが、美薗区なら浜松市積志・笠井地区を含む場合にも最適な区名になると考える。

ただし、既に約50年間「浜北」を使ってきた浜北市民の多くは、「浜北区」を希望するだろう。

地名の歴史を考えれば50年というのは短いが、多くの浜北市民一人一人にとっては人生の大半

この地名(浜北)とともに暮らしてきたという事実があり、難しいところでしょうか。

「美薗」は仮に区名に選択されなくとも、当地一角を示す地名として長くその名と歴史を残してくれることでしょう。

 

万葉集に三首ほど登場する「伎倍(きべ)」も候補となるだろうか。西国中心の万葉集にて、東国にありながら

現在の浜北地域の歌が四首も読まれている、というのが当地お国自慢のひとつである。

「伎倍」は1991年に新設された小学校名となっている。ただし伎倍の位置には異説もある。

 

その他、古くから人々が暮らした「旧麁玉郡」、当地を分流していた天竜川古称「麁玉河

(奈良時代)にちなむ「麁玉(あらたま)区」もよいと思うが、「麁」の字が難読なのは当初のみ問題か。

「続日本紀」天平宝字5年(761)の条に荒玉(麁玉)河氾濫と堤防修復の記載があり、

当時の堤防の一部(天宝堤)が時を越え当地に現存し、市指定史跡となっている。

前述の「伎倍」と同じく、万葉集にも「麁玉」は記されており万葉の森を称する当地にふさわしい。

「伎倍」もそうだが他ではめったに使わない字ということで、独自性があると考えることもできる。

麁玉は現在の麁玉地区(麁玉村)のみならず、古代には浜松市有玉付近までを示す地名だったという。

「なゆた浜北」に掲示してある図によると、古代中世の麁玉郡は浜北市(D区)の多くを占める。

藤原宮跡(西暦700年頃)出土木簡には「荒玉評の文字があるから、「荒玉」でもよいと思う。

※「評」は「郡」(律令制)以前の地方行政単位

 

当地代表地名を適用するという観点では、ここでは浜北駅(旧貴布祢駅)前の「貴布祢」

になるだろうか。地区最大の郊外型ショッピングセンターもここにある。

ただし、由来とされるの貴船(貴布祢)神社は分社であり、広域地名にはあまり適さないかと。

その旧名の「木船」は貴船神社とは無関係だったという説もある。

 

浜北市は当合併では浜松市に次ぐ規模であり、編入合併という形式ではあるが、

合併後も独自色をある程度維持したいという元市長の意向があった。

ならば相対的で苦肉の策的な市名を役目満了とし、正統固有地名で出発することを提案したい。

この千載一遇の機会を逃すと、次のチャンスは何百年先になるのか。


E区(浜松市篠原・入野・神久呂・伊佐見・和地・庄内地区、浜名郡雄踏町・舞阪町)

人口132043人、面積99.54km2

地形等・・・浜名湖畔、佐鳴湖畔、海岸(砂浜)、平地(市街地、畑)、三方原台地、丘陵(庄内半島)など

浜名湖と庄内半島

浜松・雄踏旧境付近より浜名湖庄内湾を望む。対岸は庄内半島。遠方は県境の湖西連峰。

 

案1:浜名区

案2:敷知区△+

案3:布知区△

案4:赤坂区△

案5:小文区△-

 

ここは浜名区でしょう。全域旧浜名郡または旧々浜名郡であり、浜名湖と縁の深い地区

弁天島温泉・舘山寺温泉・浜名湖たきや漁・浜名湖ガーデンパークなど観光的要素もある場所。

漁港や観光港もある。休日には浜名湖上に多くのレジャーボートやウィンドサーフィンが浮かぶ。

近年数は減っているが、浜名湖名産うなぎ養殖の場所。浜名なら対外的にも良い。

旧東海道を旅した先人も、東海道新幹線で行きかう現代人もここで浜名湖を見る。

狭義の浜名郡は浜名湖の西岸(東岸は時代によっては敷知郡)になるので、もし湖西市+新居町で

新市を作るなら、「浜名市」を名乗るにふさわしいが、その動きは今のところ弱いようだ。

浜名区とすれば、近い将来(?)の浜名郡新居町の合流にも違和感はない。

というか、新居町(または新居町+湖西市)が合流してこそ本来の「浜名」である。

新居町は12市町村合併成立後に新市に編入する方向で、町長が動いているが未だ流動的。

新居町長は「将来の浜松市との合併が前提であれば、湖西市との合併を考えても良い」とも。(04/10/16)

問題点は新居町の動向が未定の件と、「浜松市浜名区」は「浜」が重なることか。

 

なお、浜名は天平年間(8世紀前半・奈良時代)以来の郡名で、敷知郡から分立。

範囲は時代により何度か変遷し、合併直前の浜名郡は浜名湖南岸付近のみだが、

浜松市(都田除く)・浜北市(麁玉除く)なども市制施行前は浜名郡であった。

各種資料から、郡名の浜名は湖名より古く浜名湖は「浜名(という場所の)湖」となる。

 

対案として、浜名郡とは過去何度か郡境が変更された旧敷知郡より「敷知区」(A区参照)

「浜名」より古い当地最古級の地名であり、「ふち」は湖畔または台地端を示すと解釈すれば必然性がある。

 

そのほかには、浜名湖の旧称で遠江国(遠州)の由来となる「遠淡海区」。

赤土の台地西端部と推定できる古代郷名(現バス停名)から「赤坂区」。

そして、かつて短期間県名にもなったいわくつきの「堀江区」・・・これは無理か。

130年以上経過したので、これもひとつの歴史ということで。

※当サイト「遺跡!?」コーナー内■27■「実在していた幻の県」参照

 

古代郷名では海間あま(庄内半島か)・象嶋きさしま(舞阪付近か)・小文おぶみ(雄踏付近か)などがある。

 

当区域の新しい動きとしては、2004年春に雄踏バイパスと浜松環状線が志都呂で接続した。

環状線はさらに南進、念願の国道1号線との直結も果たしたのでここは一気に交通の要衝となった。

つい最近までは近隣住民以外には無名だった志都呂。2004年8月には県内最大級(定義によっては県内初)

のショッピングモール(イオン浜松志都呂)が開業し、周辺は他にも大型店舗が立地する動きもあり、

将来的に志都呂が当地域を代表する地名となることも予想できるが、現時点ではそこまでではない。

江戸時代の志都呂周辺は浜松藩領ではなく旗本五井松平領(55ヶ村5500石)で、志都呂陣屋があった。


F区(引佐郡三ヶ日町・引佐町・細江町、浜松市都田・新都田・三方原地区)

人口93945人、面積277.58km2

地形等・・・浜名湖畔、三方原台地(市街地、畑)、台地端、都田川、山林、みかん畑

引佐細江

浜名湖北東の入り江は、古代から引佐細江と呼ばれ歌枕となっている。(撮影地:引佐郡細江町気賀)

 

案1:引佐区

案2:京田区△

案3:橘区△-

 

引佐(いなさ)は和名抄にも登場する、奈良時代から続く郡名

今回の合併で、1200年以上の歴史がある「引佐郡」は消滅することになる。

万葉集に、「遠江引佐細江の澪つくし・・・」とあり、これにちなんだ「澪(みお)つくし橋」が細江町にある。

近年、浜名湖へ注ぐ都田川河口(細江町)付近で古代引佐郡衙(地方役所)らしき痕跡が発見された。

「引佐」と墨書された奈良〜平安時代の土器が多数出土している。

 

都田地区(旧都田村)も浜松市に編入(1955年)するまでは引佐郡だった。

浜松市の地図を見ると、都田地区がやや突出した形になっているのはその名残とも言える。

三方原地区(旧三方原村)は浜松市への編入(1954年)時点では引佐郡ではなく、※

D区麁玉地区(旧麁玉村)が引佐郡所属期があるが、ほぼ旧郡域≒区域となる。

江戸時代の三方原は引佐郡

※上図「伊能忠敬大図第百十一遠江三河」(1803年測量)では三方ヶ原は引佐郡になっている。

また、明治24(1891)年「郡分合ニ関スル府県地図静岡」(重文)で三方原付近は引佐郡である。

そもそも「三方原」の名は三地域の入会地であったことに由来し、うち現在の三方原地区は

都田と祝田の入会地であった地域であり、引佐郡域であったと考えられる。

 

引佐郡引佐町は昭和の合併時に郡名を新町名としている。

もちろん引佐区は、引佐町ではなく歴史の長い引佐郡を由来とすることを明記したい。

難読ではあるが、漢字は簡単。全国に同名地名が無い点で秀逸

 

対案として、かつて姫様が多く通ったとされる浜名湖北岸を通る本坂道の通称名で「姫街道区」とか。

その他当地の古くから続く地名では、聖武天皇が遷都候補地としたという京田(都田)[みやこだ]

※これはおそらく後世のつくり話。ただし京田(都田)は奈良時代以来の由緒ある地名(古代郷名)。出土木簡もある。

井伊氏発祥地の渭伊(井伊)などがある。井伊はいい地名だ。でもこの区割りなら引佐が有力。

 

都田に関して補足すると、ここは古くから続く地名の場であるとともに、

浜松の未来にとって重要な先端技術産業の集積地(都田テクノ)でもある。

集積していなくても各企業で技術開発等進めているのだが、象徴的な場所ならここ。

NHK「映像の世紀・静岡県編」のエンディングで、浜松駅前のアクトタワーあたりではなく

この都田テクノを映したのは流石だと思ったものである。

サッカー好きには旧日本リーグ→JFLの強豪、ホンダサッカー部の本拠地

都田サッカー場の名前もある程度知られているだろう。

 

区割り原案1(7区分割案)では浜松市都田・三方原・花川・萩丘で1区としており、

歴史が長く、かつ未来志向の地でもある都田(京田)は区名候補として有力だろう。


G区(天竜市、磐田郡佐久間町・水窪町・龍山村、周智郡春野町)

人口41128人、面積943.86km2

地形等・・・山林、天竜川

秋葉神社上社入口

秋葉神社上社入口。ここから林道を上り、秋葉山山頂にある。下社は山の向こう側。(撮影地:天竜市雲名)

 

案1:秋葉区

案2:山香区

案3:天中区△

案4:笹岡区△

案5:高根区△

案6:壬生区△

案7:須知区△

 

ここの区域中央部に秋葉山秋葉神社・秋葉寺がある。

火防の神様として全国に分社がある秋葉神社の総本宮。創建不詳だが、飛鳥時代あたりか。

全国、さらに一部海外でも有名な東京の秋葉原も、秋葉神社分社にちなんだ地名である。

遠州地方には、秋葉山に向かうための道路(=秋葉道)が走り、秋葉神社常夜灯が各所にある。

秋葉神社上社(秋葉山山頂)は龍山村・春野町境。秋葉神社下社はその麓の春野町犬居にある。

当区の大半は山林であり、秋には紅葉の名所に多くの人々が紅葉狩りに訪れる。最適な区名と思う。

秋葉山西方(龍山村)には、秋葉ダムと秋葉湖(ダム湖)があり水源・観光スポットになっている。

国道152号線秋葉街道(信州街道)天竜市・龍山村境に2002年秋葉トンネルが開通した。

区域内に秋葉橋が2つ、新秋葉橋も1つある

秋葉山は天竜市外なのにもかかわらず、「秋葉」は天竜市が市制施行のとき市名候補にもなった。

 

案2の「山香」は西暦881年(平安時代初期)に磐田郡から分立した郡名。鎌倉時代まで続いた。

その後山香荘が成立、戦国時代まで続く。山香荘は山香郡より広く、天竜市北部・龍山村・

春野町・佐久間町・中川根町西部・水窪町あたりと推定され、当区域とだいたい重なる。

戦国時代に豊田郡(→磐田郡)と周智郡に分割統合。江戸時代の間、この名前は消えていた。

明治時代に山香の名は村名(磐田郡山香村、1889〜1956年)として復活した。

ゆえに「山香」は、狭義では龍山村北部+佐久間町東部山香小学校付近など、旧山香村)、

または龍山村+春野町(旧山香郡、ただし詳細不明)だが、広義(旧山香荘)ではもっと広い。

歴史的地名という視点ならこの「山香」が本筋だが、ここでは知名度の高い「秋葉」か。

 

「天竜」が候補となるかもしれないが、長大天竜川の一部流域でこの名前を使うのは控えたい。

当地の中心地は天竜市だが、この市名が生まれて45年経過、未だに地名としては

完全定着とまではいかず、「天竜」と呼ぶことは少なく「天竜市」または市内町名(「二俣」など)

を使うことが多い、と私は感じている。「天竜」はやはり川の名前だからか。諏訪湖まで流域の。

しかも天竜の名は上流部(長野県伊那・諏訪地方)にその由来がある説が有力。

当地にとって天竜川は重要だが、それはこの地区だけではないという視点が当時欠けていた。

静岡県地図ではなく、日本地図を見てください。

残念ながら一部に、旧天竜市〜佐久間町あたりを「天竜川上流」と言ってしまうのを見かける。

某社の「静岡産煎茶・天竜茶」では産地を「天竜川上流」と誤記されている。

流域のごく一部ながら既成事実化しているこの地名(市名)は、合併を機会に役割を終えられるか。

今度こそ、固有地名(地域内由来名)となって欲しい。至極当たり前な話ではありますが。

過去の決定に今更ながらの異議をちょっと唱えてみたが、

今時の流行で「みどり区」などとなるよりは遥かに良い、とも考えざるを得ないことが空しい。

「みどり」など他の多くの場所でも新たに付けることが可能な地名は、実のところ地名ではないと思う。

某人材派遣会社のCMで、八戒が「あのブタ」と呼ばれて悲しむ意味を考えて欲しい。

 

当地内での、天竜川の別称・旧称があるのならば、それらは使われておらず選択肢としたい。

奈良時代の天竜川旧称「麁玉」は旧麁玉郡域のD区、平安時代の下流旧称「広瀬」は

最下流域であるB区がふさわしいと思うので、ここは平安後期〜鎌倉時代の下流旧称「天中」はどうか。

ただしこの名前は「天竜川中流」だから、ととられかねない。中流なのか下流なのか微妙。

このほかにも、天竜川の別称・旧称があるかもしれない。

 

案4の笹岡は天竜市役所所在地(区役所推定地)にあった古城名+字名。

案5は近年水窪町が調査復元した古城名。

案6壬生(みぶ)は和名抄記載の磐田郡の郷名。天竜市ではこの古名を何度か活用している。

2002年に市民ホールの名前になった。天竜市二俣・光明説と、磐田市寺谷説がある。

 

歴史の長い周智郡関連の名も捨てがたい。ただし周智郡森町を含まない上、

旧周智郡でない地域も多いので、周智そのものよりもその旧名・別名・別表記などを探したい。(探し中)

和名抄に書かれた訓の「須知」でも良いと思う。

磐田郡水窪町全域と佐久間町一部も昭和初期までは周智郡だったので、面積的にはかなりを占めた。

 

その他無理矢理絞り出せば遠州北部を示す「北遠」や、歴史は浅いが旧々村名の「龍川」も、

僭称の「天竜」や、どこにでも付けられる「緑」よりは若干良いと言えるでしょう。

 

と、いろいろ書いてはみたが、やはりここは秋葉または山香がよいと思うのです。

 

専門家の方は地名としての実績がある「山香」を推すかもしれません。

指し示す範囲がG区にほぼ一致する山香が新区名となればそれは素晴らしいことと思いますが、

住民投票があることを考えると、理解が得やすい秋葉の「当選」を目指すべきかとも思います。

秋葉と山香の「得票」が分散してしまうと、もしかすると取り返しのつかないことになってしまうかもしれません。

(そもそも地名を多数決で、というのは最良手段ではないと思いますが)

テクニカルなことを考えなければならないのは不本意ですが、ここで決まる区名は我々の一生より長く長く伝わるのですから。


新地名、私はこう考えています

必ずしも歴史的地名にこだわる必要はないとも思っていますが、当地に関する私案ではこうなりました。

現実的には、地名を新たに生み出すのは非常に困難であると考えています。

全くの新地名は、その根拠を明確に示すことと固有性の両立が特に難しいと思います。

結局記号的・相対的な東西南北中(区名)や、どこにでも使える抽象名・願望名・瑞祥名※1

広域地名を狭い地域に当てはめてしまう※2(市名)など、地域内の反対を避けるために、

その場しのぎになりがちなのが実情では。中には歴史的間違いとなっている新地名もある始末。

東西南北中単独やみらいわかばみどりなどは、固有名詞であることを放棄してしまっている。

人に例えるならば「○山△夫さん」と呼ばれるより「そこの人」と呼ばれるのを自ら希望している。

 

場合によってはやむを得ないでしょう。が、地名候補を充分出し尽くし、その根拠や経緯を情報公開し、

中立・長期的視野で検討しているのでしょうか。また、"中立"を誤解釈したり、

根拠を充分に調査することをせずに有力地名候補を見逃してしまってはいないでしょうか。

 

住民投票にする場合は、候補名の根拠をそれぞれ明確に正確に示しているでしょうか。

新市名募集をする場合も多いですが、あらかじめ専門家や郷土研究家などを動員して

当地の歴史文化などを詳細正確に調べ公開せねば、「歴史文化にちなむ固有地名」は出にくい。

地名の歴史と未来を考えれば、我々の一生は短すぎます。

 

地名は伝え伝えて長く使い続けるのが基本です。伝え続けて遠い未来でも使われたら、

そして遠い未来の人々が、遠い祖先の残した古文書にその地名を見つけられたら、

ひとりひとりの一生は短いけれど、長い歴史の一地点に参加できた喜びを感ずるかもしれません。

 

郷土史を調べ歴史的地名を提示できれば、決定的な現役地名がない場合でも選択肢が広がります。

地名というものの性格上、「過去にここで使われていた」というのは根拠として有力。

多くの場合、評・郡・郷・保・村・浦・荘園・御厨・宿・城・陣屋・組・御殿などの旧名が複数見つかるでしょう。

郡は古代から何度も変遷しているので、近現代の郡に適切なものがなければ、遡るといろいろあります。

近現代の郡名は、明治時代に合併で漢字を合成したものも多いので、その元を探ってみるとか。

過去と現在の通称地名・別称・総称も調査したい。それでも適切なものがない場合は、次善策として

寺院・神社(廃を含む)・山・川・湖・池・古跡の名など候補はいろいろあるはずです。

現役名よりも旧名・別名の方が、区別がつき地名としては適していると思います。

干拓・土地改良等で消えてしまった湖沼や川の名を復活させることも考えられます。

難字の場合は、過去に使われた別字、または現在一般的な漢字をあてはめるのもよいかと。

 

狭い地域の地名を広い地域に当てはめるのは、難点もありますがその逆の場合よりは常識的。

特に、域外から見た場合自然。その根拠(最古or代表地or有名etc)があればよいと思います。

当地の代表的な地名を、より広い地域名とするやり方は古今東西の地名の基本ですが、

大義名分が立つという意味でも、その地名の歴史(XX時代の○○という文書に云々、など)を

明確に示すことができるものが、より好ましいでしょう。

各地区の主張がまとまらない場合、使われていない(現代人にはなじみがない)旧地名をあえて使うのも

ひとつの手段かと思います。新地名で新たにスタートするのと感覚的には近く、

なおかつこの地の名であるという、正確な根拠を得ることができます。

常に移りゆく世の中、だからこそ基準となる地名はできる限り旧に拠る固有名詞で未来へ渡したい。

遠い昔から現代への流れを思えばこそ、子孫たちの未来を考えることができると思うのです。

 

また、平仮名地名候補も出るかもしれないが、正式名は漢字にした方がよいと思います。

状況に応じて平仮名にもできるから、というのも理由のひとつ。(正式名が平仮名だと漢字にできない)

また、日本語文中に平仮名名詞を入れると、助詞と混同しやすく速読が困難になります。

 

愛称別称は時代に合わせていけばよいのですが、正式名称は長く使い続けることを忘れないで欲しいです。

どうしても適切な名が付けられない場合は、自治体名≠地名として考えるしかなくなりますが、

外部から見れば自治体名は地名なので、なるべく避けたいところです。

 

長々と書いてきましたが(短くまとめたつもりなのですが)、全国の皆様に特に申し上げたいことは

調べればいろいろと固有かつ由緒ある候補はあるはず。

ということです。

思いつきや打算ではなく、論理的に考証されるようお願いいたします。

 

※1その土地ならではの抽象名・願望名・瑞祥名ならば容認されうるとも思います。

※2広域地名を狭い地域に当てはめる手法は、その地名の由来となった場所(旧郷など)を含む場合や、

その広域地名が現在はほとんど使われていない場合ならば、容認されやすいとも思います。

 

浜名湖庄内湾

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