第四十一回
今年2月28日、父が永眠いたしました。『永眠』という言葉を使いたくなるような最後でした。亡くなる前日のお昼前頃から、入浴後、昏々と寝続けて、声をかけても起きませんでした。そのまま時間が過ぎ、朝方、隣で寝ていた母が父の「あ、あ…」という声に気が付き「パパどうしたの?どこか痛いの?何か飲みますか?」と言いながら父の手を両手で握り、手の甲を優しくさすると父は安心したようにまた静かに眠りについたそうです。
しかしそれが、父の最後だったのです。手を握っていた母はその時が父が亡くなった瞬間だともわからないほどに静かに深い深い眠りについたのでした。あの時父が言いかけた「あ、あ…」は、きっと母に「ああ、ママ、俺は逝くぞ。今まで本当にありがとう。」だったのではないかと思います。ここ1・2年、年齢的な認知症が進み、30分ほど前に食べたことも忘れ、また9年前に家が全焼し建て替えたことすらも忘れてしまうような状態でしたが、家族のことはしっかりと理解しており、母にはいつも「ありがとう・ありがとう」と言っておりました。90年間一度も浮気もせず、唯一母だけを愛し続けてきた人生でした。母もまたその父の愛情にこたえるように誠心誠意父に尽くした人生をおくってきました。
そんな母に対しては穏やかな父ですが、子供にはとても厳しく、私が大学に通っていた時も門限があり、夜8時には家に帰り着いていなければひどく叱られ、学校にも通わせないと言い出すほど頑固でした。私が通った大学は家から片道2時間半ほどかかるので、学校を5時過ぎには出ないと門限に間に合わない毎日でした。
幼いころ兄と喧嘩をした際は喧嘩両成敗で二人とも拳骨をくらい、罰として父のアトリエの床を雑巾がけさせられ、真剣に床を拭いていないのを見透かすと「今拭いた所を舐めてみろ!」と兄の頭を床に押し付け、舐めさせたこともありました。(私は妹だから舐めさせられたことはないのですが…さすがに横で見ていて喧嘩した相手である兄が可愛そうに思えるほどでした。)
父は大正生まれで戦争にも行っており、軍隊で上官からしごかれた日々をおくったせいか、私や兄を叱るときも、「いいか、歯を食いしばれよ。」と言ってビンタをしたものです。(歯を食いしばっていないと顎がはずれるそうなのです。)今の時代でしたら虐待だといって教育委員か福祉の方が飛んでくるかもしれませんね。
兄は東大時代、父に殴られ網膜剥離になったことは兄自身『ボクの履歴書』の中でも記載し、知っておられる方も多いと思いますが、兄は手記のなかで、鉄アーレで殴られたとありますが、兄の進級に心配をして電話をくださった先輩に対して、電話に出ない不誠実な態度をとった兄に父の堪忍袋の緒が切れ、父は何も持たず、ただ怒りで拳骨を固く握りしめながら「克己!!!」と怒鳴りながら兄の部屋に飛んで行った様子が未だに脳裏に焼き付いております。殴った瞬間は見てはおりませんが、わが子の人間としての不誠実さに父の怒りは爆発し、力の加減も忘れて拳骨で兄のこめかみを殴ったのだと思います。実際に鉄アーレを使ったかはわかりませんが、私は父の拳骨がまるで鉄アーレのごとく、固く大きく握られていたのではないかとおもいます。(兄は鉄アーレだと最後まで思っていたようですが…)
そんな厳しい父ですが、心の底では兄を応援しており、学生大会に始まり、国内で行われた大会はいつも兄に見つからないように、家を出る時間もずらして、欠かさずこっそり観戦に行っておりました。父が撮った写真を後で見せてもらうといつも望遠の一眼レフで撮影しているはずなのに映っているのが兄なのかわからないほど、小さく映っているのです。多分兄に見つからないように会場の一番後ろの席から撮影していたんでしょうね。
兄が家を出て愛犬たちと一人暮らしを始めた時も兄が食事に困らないように差し入れを持って行くように私に言うのも父でした。兄に対して厳しかったけど可愛い我が子だからこそ厳しさも増していったのだと思う今日この頃です。
今日は兄の命日8月3日です。17年前のこの日、兄の様子を見に行くように言ったのも父でした。父が私に行くように言っていなければ、兄の最後に立ち会うこともできませんでした。
今、精神世界で父と兄は仲良く一緒にいるんでしょうか。お互い心の底で尊敬し、深い愛情でいつも気を遣いながらも、表面的にはそんなそぶりを見せず、ただ兄はボディービル、父は彫刻やデッサンに夢を追い求めていた似た者同士の父と兄。