お気楽寺庭mama

帝京大学付属病院













  まず・・・・




  ぶんやが生まれるまで・・・




 文彌には2人のお姉ちゃんがいます。長女のあーちゃんと次女のみぃちゃん。




 文彌が生まれる前年・・長女は幼稚園年長、次女が年少。まだまだ小さいけど、オムツ




 の心配もいらず、赤ちゃんから卒業してくれたので、旅行も遊園地も十分に楽しめる 




 し、私もこれで、少しは楽になると思ってた・・・




  しかし・・・・








  寺という所は・・・・住職の舅も檀家さん達も、男児誕生を待ち望んでいた・・・




  この時、私は45歳になったばかりです








  今更、妊娠して0からの子育てなんて・・・・・考えられなかったよ。子供は娘達だけで




  十分だと思ってたし・・








  ただ・・・何かにつけて、後継者の話題が出ていて・・・男の子を生めな 




 い嫁は、「甲斐性無し」だなんて・・・舅が言うしさ・・・(冗談っぽくですが・・・・)



  せめて、あと五歳若ければ子作りにも励めたでしょうに(爆




  「年内、頑張ってみて・・・それでも妊娠しなかったら諦めて・・」と、盆に




  宣言したんです。本心は頑張る予定無し・・




  舅に対しての気休め程度・・・第一、盆棚  経参りでヘロヘロだった








  papaさん・・・・子供作る元気なんて無いし・・・  (^^ゞ




  当時、幼稚園の役員をしていた私。九月の運動会の時に、保護者の綱




  引きのメンバーが足りなくて参加したり、たくさんの機材を二階から園庭




  に運んだり・・・




  その夜に不正出血。




  そろそろ更年期障害の年齢だし・・・久しぶりに産科の門をくぐった・・・




  しかし。。。結果はナント妊娠七週 あやうく流産する所だった・・




 はあ〜 もしかして・・棚経の合間に?




 私も夫も覚えが無い・・・忘れてるだけ? とにかく、仏様 




 から授かった事には変わりない・・









 舅が一番大喜びした事は間違いない。




 予定日は翌年の五月(実際に産まれたのは4月)。





 妊娠七ヶ月の時に、超音波エコーで胎児にチンポコが付いてると分かり、





 舅は記念に?日蓮宗750記念もあったので・・・大きな事業も発足した。




 戦前に有った山門の復興。戦前に有ったものより、かなり立派な山門建 




 設を発注・・・それほど嬉しかったんでしょうね




 文彌が生まれました。




 平成13年4月吉日




 三回目の帝王切開で我が家の長男の文彌が誕生しました。生まれてす 




 ぐに、チアノーゼが出ていたので保育器に入り、酸素吸入・・・




 黄疸が長引いたりして家族を心配させましたが、二週間で退院できて。




 たくさんの方達に祝福されて、この子は世界一幸せな赤ちゃんだと思い




 ました。それほど皆の期待を集めて・・・




 名前は住職がつけました。文彌・・・戸籍上はぶんやです。




 家族の間では「ふみや」と呼んでます。




文彌に与えられた試練?




 すくすく何事もなく育っていた文彌。伝い歩きも出来るようになり・・・




 ホンマに可愛い盛りに突入したばかりでした。




 平成14年3月・・春休みが終わらないうちに家族で東京に遊びに行こうと




 papaさんが言い出した。言い出したのが木曜日、土曜日に法事があっ 




 たので、その夜に車で発つと決定・・・




 この出発までの三日間に文彌に大変な事が起きていたらしい・・




 原因はここでは控えるけど・・









 文彌はどこかに頭を打ったらしい・・それも、軽く・・・




 強く打っていれば、泣いたり嘔吐したりして気付くのですが・・・そんな事 




 は無かったので・・・  まったく気付くませんでした。




 土曜日の夜に富山を発ち・・・




 日曜日の早朝に東京の親戚宅に到着。文彌はコンビニで買ったおにぎり




 を美味しそうに頬張っていた・・・




 その数十分後に異変。まだ早いからと一旦ベットに寝かせたのですが、




 様子が変・・・私も一緒に横になったのですが、何度もパタパタと私の顔 




 を叩く・・・電気を点けると・・・目を開けたまま寝てる文彌・・・




 これから先はよく覚えてません。




 伯母が119番して・・・救急車が来た時は、そんな大事な事だと自覚して




 なかった・・救急隊員が診察して・・・お父さんも呼んで下さいと言う。




 おねえちゃんたちの事もあり、救急車に乗り込んだのは私と伯母でした。




 急遽、伯母とpapaが交代。




 この時、文彌の意識は無かった・・・左半身完全に麻痺。




 色々な病院を当たったけど、どこも文彌の状況を聞いて受
け入れてくれなかった・・・それほど最悪な状態だったので
す。




 でも、帝京大学附属病院が受け入れて下さった。




 若い医師、平井雅文先生。私たちにとっては命の恩人。




 偶然にも私と同じ道産子。




 この時の診断名急性硬膜下血腫・・・数日前から血管に損傷があり、血 









 液が少しずつ漏れていて・・・満杯になった血液が脳を圧迫していて・・




 「脳ヘルニア」を起してる・・・このままでは植物状態も覚悟しないとならな




 い、厳しい選択でした。モチロン、どんな状態でも命が大切・・・




 一時間後に大きな手術をしてもらいました。




 命は助かったけど・・・今後のリスクを説明された。




 左半身麻痺、言語障害、又脳の損傷により、情緒にも障害が出てくる可 




 能性もあると・・




 例え・・・どんな運命でも、真正面から受け止めて、文彌と一緒に頑張ろう・・・・




 それが私達親の務め。愛情だから・・・・





 この時、ICUに入院していて、本当なら身内でも見舞えない、見舞えても




 一日一回で15分以内と決まっていた・・・




 ただ・・私の場合は地元じゃないので、特別にいつでも会えるように配慮




 してくださった・・・きっと、毎日ICUの扉の外で朝から晩まで立って泣いて







 る母親を哀れに思って下さったのでしょう。




 十日後に一般病棟に引越し、本当は脳外科病棟なんだけど、まだ小さい




 ので小児科病棟の特別室に間借り(有料)・・・




               




         
                 




         封印していた画像です。とても辛くて見る気がしてなかった・・・









やっと文彌の事を詳しく書けるようになったのは・・・・









彼の回復力が早かったから・・・・そして、私達家族も、新たな気持ちで









申年を迎えたかったから・・・・申年・・・・ぶんままは、来年は年女です。









 (平成15年記)














初めての言葉




 ぶんやがママ、パパ以外で初めて覚えた言葉が「痛い」です。




 母親にとって、こんな悲しい事はありません。




 文彌の太もも、腕には一年以上経過しても消えない、注射の跡が黒く残ってます。




病院での日々









 一般小児病棟に移ってからの事を少し書きます。




 私が寝起きしていた東京の親戚宅は足立区竹ノ塚です。そして文彌の




 入院した病院が板橋区の帝京大学附属病院。




 竹ノ塚からだとバス、電車(東武線)、山手線、バス・・




 田舎者の私にとって、とっても大変でした。都会の通勤ラッシュも経験し 




 ましたよ。朝の八時に親戚宅を出ても、病院に到着するのが十時過ぎ・




 ・・・面会時間は午後からだけど、特別に許可をもらってました。夜は完全




 看護なんで付き添えません。









 ましてや個室なんで、どんなに心細いかと可哀相でならなかった・・・









 事故防止の為、文彌は紐付きベストを着せられます。ベストに付いてる紐




 は、そのままベットの柵に縛られます。寝返りも打てない状態です。




 そして・・更にタオルケットの端には砂袋の重し・・・




 少ない看護婦さん達の知恵です。そう解っていても・・とてもとても




 それなら付き添わせてくださればいいのですが・・・・親が居るとダメなの




かな・・・治療上・・・・




 私が行くまで、そんな状態にされてる訳ではなく・・・




 朝食後にはナースステーション内のベットやラックに座ってる事もありました。









 初めての誕生日





 4/20が一歳の誕生日。1人病室で誕生日を迎えるなんて、可哀相過ぎ




 ると思ったので・・・19日の夜に泊まらせて欲しいと交渉。




 モチロンOKでした。




 文彌の寝顔を見ながらカウントダウンしましたよ。




 「・・・55、56・・・59・・・ぶんや、おめでとう〜♪」プレゼントは売店で求




 めた小さな絵本。papaからも内緒でメールが来たね。




 当日は病院からもケーキとメッセージ。



















 文彌はまだ食べれなかったので、ママが代わりに頂きました




           一歳になった文彌




     この当時はほとんど笑顔が消えてました。顔半分も麻痺していたので、





     笑うのが辛かったみたいです。




                                 





退院する日に撮影。表情がまだ硬かった・・・・







 退院する前日・・・・papaさんが富山から迎えに来た・・・・車で四時間・・・・




 いったい・・どれだけ飛ばしてきたのでしょう・・・・・




 その日はpapaさんと都内のレストランで食事した・・一旦は親戚宅に戻ったけど、




 1人暮らしの伯母の賃貸マンションは狭くて・・・・papaさんの寝るスペースが無くて、





 近くのホテルに泊まった・・・モチロン、私もついて行きました。




 翌日、早朝に病院へ向かう。




 「おうちに帰るよ」と、抱き上げると初めて笑った。




 文彌は病棟のナース達の人気者だったらしくて、次々とナース達がカメラ持参でお別れ




 に来て下さった。














 帰りは脳に衝撃が無いように、ゆっくり運転するようにドクターに言われたので、




 休憩しながら・・・八時間以上は掛かった・・・・




 車中でも一点を見つめただけの文彌・・・




 これから富山の病院に変わって・・・どんなリハビリが待ってるのか?




 どんな生活が待ってるのか、不安で胸が押しつぶされそうだった・・・・




お姉ちゃん達が一番の薬




 一旦家に着いた文彌・・・・家ではお姉ちゃん達と爺と私の




母親(北海道からお姉ちゃん達の世話をする為に一ヶ月も




前から滞在していた)。




 お姉ちゃん達の顔を見た文彌の表情が変わりました。




 とても嬉しそうな声を上げて、笑顔笑顔・・・・




 久しぶりに子供達三人を挟んで川の字になって寝ました。



                      




翌日、紹介状をもって富山県立病院の脳外科に受診。




事前に帝京のドクターから電話が行ってたので、説明しなくても話は通じていて・・・




文彌を見るなり、「思ったより元気だね」と、おっしゃってくれて・・・




このまま入院させるの可哀相だから、しばらくリハビリ施設に通ってみたらどうかと言わ




れた。脳外科の受診も通院でも可能だからと・・・・一応、ベットを空けて待っていて下さっ




たけど、嬉しい誤算でした。




どんな治療よりもお姉ちゃんたちと暮らすほうが回復に繋がる・・・




私もそう実感してました。
















 


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                        ☆ぶんやのリハビリに続く☆☆