36.幕藩社会の構造

 中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経(た)っても一寸(ちょい)とも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟(はさ)まっている者も同様、何年経っても一寸(ちょい)とも変化というものがない。 ( 中 略 )

 こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児の行末を謀り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。

(福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂 福翁自伝』1978年、岩波文庫、P.11〜12)


●身分と社会●



@ いわゆる「士農工商」という身分序列はなかった


 身分制度というと「士農工商」という言葉が想起されます。この言葉は古代中国に由来し、江戸時代の儒学者が使用したことによって一般にも知られるようになりました。しかし、江戸時代における身分制の実態を正しく反映した言葉とはいえません。なぜなら、「農工商」を幕府や藩が呼ぶときには、農を「百姓」、工商を「町人」と呼ぶのが一般的だったからです。

 いわゆる「士農工商」における身分の上下関係については、従来、次のような説明がなされることが一般的でした。

 農民は年貢負担者だったので武士に次ぐ身分とされ、職人は武士が使用する軍需品や日用品を生産したり、城郭や居宅等の工事をしたりしたので農民に次ぐ身分に位置づけられた。商人は、農民や職人の生産した商品を売買するだけで利益を得、何ら生産に関与しなかったため、最下位に置かれた、と。

 しかし実態はかなり異なったものでした。結論からいえば、「農工商」は身分としては「百姓・町人」であり、そこに身分の上下はなかったのです。

 「農工商」という身分序列を示す証拠はありませんし、公式の場で百姓・町人が座る場合、むしろ町人の方が上座を占めるのが一般的だったという報告もあります。百姓・町人の中にも苗字帯刀を許可されたり、武士に準じた待遇を与えられた人々がいましたが、それはその人が百姓か町人かということでそうなったわけではなく、献金などによる藩への貢献度の大きさによってでした。

 江戸時代に書かれた著作には「江戸時代は士・農・工・商順の身分制社会」を主張するものがありますが、それはその学者の願望や私見であって、実態はそうではなかったのです(斎藤洋一、大石慎三カ『身分差別社会の真実・新書江戸時代A』1995年、講談社現代新書、P.29〜31など)。
 
 江戸時代における武士・百姓・職人などは、もともと職業によって社会集団を分類したものです。それぞれの社会集団に属する人々が、それぞれの「役」を負担することで、それぞれの社会集団を身分として認識していくようにはなりました。

 しかし、血統ではなく職業によって分類された社会集団でしたから、各社会集団間にかなりの流動性がありました(尾藤正英『日本文化の歴史』2000、岩波新書、P.143 〜P.149)。村の百姓が都市に出て商人や職人になったり、財を蓄えた商人が農村に土地を所有して地主になったり、武士をやめて商人になったりした例も多数ありました。

 たとえば、中村勧農衛(なかむらかのえ)という人物は、百姓から医者になり最後は常陸国谷田部藩(やたべはん)の家老になっています。商家出身の藤田幽谷(ふじたゆうこく)は学問の才能を認められて武士になり、水戸藩の彰考館(しょうこうかん。大日本史を編纂した水戸藩の史局)総裁・郡奉行(こおりぶぎょう)として活躍しました。


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A 支配する人々


 武士は支配階級の代表でした。ほかに天皇家・公家、上層の僧侶・神職らも武士と並ぶ支配階級に属していました。

 武士社会では、将軍を頂点とする階層序列が厳しく、それぞれの身分・格式に応じて服装から言葉遣い・手紙の作法(これを書札礼(しょさつれい)といいます)・行動等にいたるまで、煩瑣な儀式や取り決め・制約等がありました。こうした厳しい階層序列を守ることによって、武士たちは権威の確立をねらい、民衆の上に君臨しようとしたのでしょう。

 しかし、こうした厳しい階層序列は、大名同士のライバル意識を助長したり、同一藩内の武士の間で差別を生み出したりしました。たとえば、豊前中津藩(ぶぜんなかつはん)の下士の子に生まれた福沢諭吉は、武士社会の身分・格式の差別に苦しんだ父親を回顧して


  「門閥制度(もんばつせいど)は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝(ふくおうじでん)』)


と恨み言を述べています。

 武士は、苗字(みょうじ)を名乗り、腰に刀を差す帯刀(みょうじたいとう)の特権をもっていました(ただし、町人・百姓であっても、藩への献金額によって苗字帯刀を許可された例は少なくありません)。また、被支配階級の者が武士身分の者に対して、その名誉を傷つける過度な侮蔑(ぶべつ)行動をとった場合、武士の名誉を守るためには斬り殺してもしても構わないと考えられていました。これを「切捨御免(きりすてごめん)」といいます。ただし、その実例はきわめて少なかったようです。


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B 支配される人々


 支配される人びとの中で全人口のほぼ8割を占めたのが、村に住んで農業を中心に林業・漁業等に従事する「百姓」でした。町には多様な手工業に従事する職人や、商業・金融・流通等をになった商人らが住んでいました。幕府や藩はいわゆる「工商」を「町人」と呼んでいました。おもに「村に百姓」、「町に町人」が住みましたが、村にも大工・鍛冶などの職人がいましたし、町にも年季奉公などで百姓が居住したりしますから、必ずしも厳然とした分け方ではありません
(注)


(注)
地方の小城下町だった笠間(常陸国。現、茨城県笠間市)には、町方の家業がわかる史料(『町方軒別書上(まちかたのきべつかきあげ)』、延宝2(1705)年)が残されています。それによると町方464戸のうち、最も多い家業は「地作(じづくり)」で、114戸もありました(林玲子・大石慎三郎『流通列島の誕生 新書・江戸時代D』1995年、講談社現代新書、P.66〜69)。「地作」というのは農業従事者のことです。114戸は、全体の24.6%に相当しますから、笠間城下に住む町方の、4軒に1軒は農家だったことになります。しかし、彼らは「百姓」ではありません。笠間は城下「町」だったので、そこに住んでいる人間は「町人」身分でした。支配者が笠間を「町」と決めてしまったので、農民であっても「百姓」身分を認められなかったのです。

 
 上記以外にも、僧侶・神官・儒者・医者などの人びとがいましたが、えたや非人などとよばれた人々はひどい身分差別に苦しみました。

 えたは死んだ牛馬の処理や皮革細工などに従事し、人に嫌悪された死刑執行・死体処理等の仕事に従事しました。非人は刑吏の仕事のほかは定職を持たず、遊芸や物乞いで生計を立てていました。彼らを取り巻く差別のひどさを示すエピソードに、次のようなものがあります。

 1859(安政6)年、江戸山谷の真崎稲荷の祭礼で、1人のえたが殺されるという事件が起こりました。仲間が犯人処罰を北町奉行所に訴えると、町奉行は次のような断を下して訴えを退けたというのです。

「えたの身分は卑しくて、平民の1/7の価値しかない。ゆえに、えたを7人殺さなければ、平民1人の犯人を処罰することはできない」と。
  
 人命を軽んずる、何と非人間的な言葉ではないでしょうか。


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●村と百姓●



@ 近世の村



 村は、百姓の家屋敷が集まった「集落」、田畑などの「耕作地」、入会地(村の共有地)を含む山・林・野等の「林野」の三つ部分から成る共同体をいいます。

 中世までの惣村や郷村を、為政者が支配しやすい大きさに分割(これを「村切り」といいます)したり、新田開発によって新たな村が誕生することによって、平均石高400石余りの村々が、約6万3,000余りも生まれました。こうした行政的村落の名残りは、現在も住所表示の大字(おおあざ)に見ることができます。 

 村は、農業を主たる生業とする農村が中心でした。しかし、林業等が卓越する山村、海浜・湖畔等に立地した漁村、小都市化した在郷町(ざいごうまち)なども見られました。


《 村の自治 》 


 村の運営は、名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)からなる村方三役(また地方(じかた)三役)とよばれる村役人を中心とする本百姓(高持百姓)によって行われました。

 名主は現在の村長にあたります。関東では名主と称するのが普通でしたが、関西では庄屋、東北では肝煎りなどとよばれました。法令を伝達したり、年貢負担を割り当てたりするなど、村政全般を統轄しました。名主の多くは世襲されましたが、村によっては輪番制や入れ札制(選挙)によって選出されました。

 組頭は名主の補佐に当たりました。現在なら助役に相当しましょう。組頭を年寄とよぶ地方もあります。1名から数名が選ばれました。

 百姓代は村民の代表で、現在の監査役に当たります。名主・組頭がおこなう年貢・諸役等の負担割合などに立ち会い、不正を監視しました。1名から数名が選ばれました。

 村政に参加できるのは本百姓のみで、彼らは五人組(ごにんぐみ)に組織されました。五人組は、年貢納入・犯罪防止に連帯責任を負わされました。また村落を運営するための経費である村入用(むらいりよう)も、五人組を通じて本百姓が負担しました。

 一方、耕作地をもたず小作や日用(ひよう。日雇)で生計を立てる水呑(みずのみ。無高)や、名子(なご)・被官(ひかん)・譜代(ふだい)・下人などとよばれる隷属農民は、村政に参加できませんでした。しかし、17世紀中頃から新田開発などにより耕地面積の拡大が進んでいくと、彼らの中からも単婚小家族(一夫婦単位の家族)を形成して耕作地・屋敷を獲得し、検地帳に記載されて年貢・諸役を負担する本百姓になる者も現れてくるようにようになりました。


《 結(ゆい)・もやい 》 


 村内には、一時に多人数を必要とする共同作業がいろいろとありました。田植えや屋根の葺き替えなどがその例です。こうした共同作業をおこなうために、「」とか「もやい」などと称する互助組織がつくられました。労働力を貸し借りするのです。労働力は等量交換が原則でした。


《 村八分(むらはちぶ) 》 


 村掟(むらおきて)や村の秩序に背くと、違反者には村人みんなが葬式・火災以外の交際を断って仲間はずれにする制裁が加えられました。これを村八分(むらはちぶ)といいます。


◆白川郷での屋根の葺き替え

 「白川郷(しらかわごう。岐阜県)・五箇山(ごかやま。富山県)の合掌造り集落」(1995年に世界遺産に登録)は、日本有数の豪雪地帯にあり、かつては周辺地域と隔絶していました。浄土真宗の信者が多く隣人同士の結束力が強かったこともあって、この地域では「結(ゆい)」による協力体制が発展しました。「結」というのは、田植え・稲刈り・屋根の葺き替え等、一時に大量の人手が必要な時に、労働力を貸し借りすることをいいます。労働力の貸借は、等量交換が原則でした。

 白川郷の家屋は3〜5階建てで、一般の日本家屋と比べて巨大です。農耕地が少ない当地域では、生計を立てるための養蚕・紙漉き作業用に、広い屋内空間が必要でした。また、明治時代まで大家族制が維持されてきたことも、家屋が大きかった理由の一つです。

 「家屋が巨大」ということは、茅葺き屋根もまた巨大ということです。屋根は30〜40年に1度、茅を葺き替える必要がありますが、家族のみではとうてい人手が足りません。しかし、「結」の慣行があった白川郷では、村民100〜200人が総出で、屋根の葺き替えにはたった1日しかかからなかったそうです。

【参考】
・世界遺産検定事務局『くわしく学ぶ世界遺産300』2015年第6刷(2013年初版)、P.48〜49


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A 本百姓の負担


 幕藩体制下の百姓は、年貢(本途物成)・諸役(小物成・高掛物・国役など)としてさまざま負担を負いました。これらの負担は、村全体の責任で納入しました。これを村請制(むらうけせい)といいます。本百姓のおもな負担には、以下のようなものがあります。


《 本途物成(ほんとものなり) 》


 田畑・屋敷地に賦課される本租で、本年貢(ほんねんぐ)・正税(しょうぜい)ともよばれました。米納が原則です。税率は初期は四公六民(40%)でしたが、享保頃から幕領では五公五民(50%)になりました。関東地方の水田よりも畑が卓越していた地域では、米納でなく金銭で代納する場合がありました。これを畑永(はたえい。永は永楽銭に換算するの意)といいました。関西でも本租の1/3を米ではなく、貨幣で代納する三分之一銀納(さんぶんのいちぎんのう)がありました。


《 小物成(こものなり) 》


 農業以外の副業にかけられた雑税の総称で、小年貢(こねんぐ)ともよばれました。米納または現物農が原則でしたが、次第に金納化していきました。山林・原野・河海の利用やそこからの産物などが対象とされました。


《 高掛物(たかがかりもの) 》


 本途物成以外に、村高に応じて掛けられた付加税です。幕領では、伝馬宿入用(五街道の宿場経費)・六尺給米(江戸城中の賄方の給米)・蔵前入用(浅草にある幕府米蔵の維持費)などいわゆる高掛三役(たかがかりさんやく)を負担しました。金納の場合は高役金(たかやくきん)ともよばれました。


《 国役(くにやく) 》


 国役普請(くにやくぶしん)ともよばれました。幕領・私領を問わず、一国単位で道路・河川の土木工事の人夫や米を課しました。のち金銭で代納されました。


《 伝馬役(てんまやく) 》


 街道の輸送のために課された人馬の夫役をいいます。人馬が不足する場合には、あらかじめ指定された街道周辺の村(助郷(すけごう))から夫役を出すことになっており、これを助郷役(すけごうやく)といいました。助郷役は農村疲弊の大きな原因のひとつになりましたので、助郷役反対一揆も起こっています。


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B 為政者から見た百姓


 為政者側には「百姓は天下の根本なり」という認識がありました。それは幕藩体制が、経済的には百姓が納入する年貢米に支えられていたからです。端的にそれを示すのが「農は納なり(本百姓は納税者である)」という言葉でしょう。したがって「百姓は財の余らぬやうに、不足なきやうに」(『本佐録』)、または「郷村の百姓共は死なぬ様に、生(いき)ぬ様に」(家康の言葉と伝えられます。『昇平夜話』)、ぎりぎりまで租税を徴収するのが有能な郡代や代官ということになります。

 それでも江戸時代前期には、百姓の生活にも気が配られていました。たとえば、検地帳に記載された面積よりも、現地の面積の方が広いということがよくありました。これは、代官が「縄延(なわの)び」(検地の際には誤差が生じる) などと称し、百姓に余裕ある生活が送れるよう手心を加えた結果であると伝えられています。ドラマの影響で、百姓を虐げる「悪代官」のイメージが強い郡代・代官ですが、地方巧者(じかたこうしゃ。農村行政にたくみな者、の意)の役人で善政を行い、百姓から慕われた人びとも大勢いました。各地に残る彼らの顕彰碑が、そうした事実を物語っています。

 しかし、次第に財政が悪化してくると、幕府の方針も年貢収奪第一主義に変わっていきます。たとえば、享保の改革では、年貢率は四公六民(しこうろくみん。税率40%)から五公五民(ごこうごみん。税率50%)に引き上げられ、検見法(けみほう。作物の出来具合に応じて税率を決定する方法)も豊凶に関係のない年貢米確保を目指した定免法(じょうめんほう。一定期間の平均税率を固定化する方法)にかえられました。8代将軍吉宗時代の勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)は「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出る」とうそぶいたといいます。


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C 幕府の本百姓体制維持策


 租税徴収を確実なものとするためには、耕作者の人数と田畑面積がともに減少しないように、常に注意を払わなければなりません。つまり、本百姓の没落を防止し、年貢米の作付面積を確保することが、幕府政治の最重要課題となるわけです。


《 田畑永代売買の禁令(1643)と土民仕置条々(1643) 》


 1641(寛永18)年から42(寛永19)年にかけて、西日本では干ばつと虫害、東日本では長雨と冷害に見舞われました。その結果、大凶作となり、餓死者は5万人から10万人に及んだといわれます。これを寛永の大飢饉といいます。

 寛永の大飢饉に対処するために、幕府は1643(寛永20)年、田畑永代売買の禁令(でんぱたえいたいばいばいのきんれい)を発して土地の自由処分を禁止しました。富農への土地集積と本百姓の没落を防ごうとしたのです。しかし、実際には「質入れ」という手段により、土地の所有権は移動していました。事実上の売買と変わりません。

 また、本百姓体制を維持するために同年、土民仕置条々(どみんしおきじょうじょう)を出し、百姓生活の細部にいたるまでさまざまな規制を加えました。


《 田畑勝手作の禁令(1642、1643) 》


 1642年・1643年には田畑勝手作の禁令(でんぱたかってづくりのきんれい。作物作付制限令)を出し、検地帳に登録された本田畑で五穀(米・麦・黍・粟・豆)以外の作物栽培を禁止しました。寛永飢饉への対策として、当面の食糧確保を目的としたもので、商品作物栽培を恒久的に禁止したものではありません。


◆「田畑永代売買の禁令」と「田畑勝手作の禁令」という単独法令はなかった

 「田畑永代売買の禁令」と称する独立した法令はありません。寛永の飢饉対策のために出された二つの郷村仕置定(ごうそんしおきさだめ)にあるそれぞれ一か条を、総称して「田畑永代売買の禁令」と呼んでいるのにすぎません。その一つは「田畑永代の売買仕るまじき事」という条文。もう一つは「一、身上(しんじょう)よき百姓は田地を買取り、いよいよ宜(よろ)しくなり、身体(しんだい)ならざる者は田畠を沽却(こきゃく。売却)せしめ、なおなお身上なるべからず候あいだ、向後(きょうこう。今後)、田畠売買停止(ちょうじ)たるべき事」という条文。しかも、これらの「田畑永代売買の禁令」は、全国を対象としたものではありませんでした。前者は関東の幕府領・旗本領を、後者は関東の幕府領を対象としたものに過ぎません(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史@』2015年、岩波新書、P.217〜218参照)。

 同じく「田畑勝手作の禁令」も、単独法令の形で出されたのではありません。農村に出した法令の中に、「煙草を作ってはいけない」などの条文を書き加えたものです。こうした条文で、現在確認されているものはわずかに3例。しかも「勝手作」という言葉さえ使用されていないのです(本城正徳「田畑勝手作の禁」の再検証-近世前期幕府商品作物政策の実像-、『歴史と地理690・日本史の研究251』2015年12月、山川出版社所収による)。  


《 分地制限令(1673) 》


 1673(延宝元)年発令の分地制限令(ぶんちせいげんれい)では名主は20石以上、一般百姓は10石以上の者のみ分地を許可し、1713(正徳3)年の同令では分地の結果、分地高・残高ともに10石・1町歩(現在のほぼ1haに相当)以下になるものは禁止しました。農家の標準経営規模を明示して零細農の出現を防止しようとしたのです。

 百姓にとっても、田畑の分割は生産力の低下、財力の減少を意味しましたから、農家も武家同様、長子単独相続が一般的でした。たとえば、農村内で年貢を負担する高請地(たかうけち)の少ない百姓は、「(たか)が知れている」と低く見られました。そこで、「高」の減少を防ぐために、全財産は長男に継がせることが当たり前になっていきました。「猫の皿(椀)まで兄の物」という諺(ことわざ)がありますが、「価値があろうがなかろうが財産のすべては長男のものになる」という意味です。

 それでも、子どもかわいさのために、田畑を子孫に分割相続させる「田分け(たわけ)」行為が行われました。分割相続で持分(もちぶん)を分割すれば生産力が低下し、近い将来、生活が困窮するのは目に見えています。ついには本百姓身分を保てなくなるでしょう。こうして没落する百姓を、人々はあざけりの意味を込めて「田分け者(愚か者)」と呼びました。



◆慶安の触書」は出されたか?

 「米を食いつぶさないようにしろ」「美人でスタイルがよくても、大茶を飲み物見遊山(ものみゆさん)好きな女房なら離縁してしまえ」「年貢さえ済ましてしまえば百姓ほど気楽なものはない」など、とんでもないアドバイス(?)がつらつら書かれていることで有名な「慶安の触書」。

 しかし1649(慶安2)年に幕府法として「慶安の触書」なる法令が出されたという事実は、今日、ほぼ否定されています。たとえば、江戸幕府が編纂した『御触書寛保集成』(1615〜1743年の触書を採録)のどこを探しても、「慶安の触書」は載っていないのです。

 近年の研究に寄れば、甲斐(かい。山梨県)から信濃(しなの。長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事(ひゃくしょうみもちのこと)」をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩領において改訂された「百姓身持之覚書(ひゃくしょうみもちのおぼえがき)」が発令されました。この「百姓身持覚書」が、19世紀半ばに幕府学問所総裁林述斎(はやしじゅつさい)の手によって、「1649年発令の幕府法『慶安の触書』」として美濃(みの。岐阜県)岩村藩で木版印刷され、全国に広まったとされています。

 林述斎は、岩村藩主松平乗薀(まつだいのりもり)の実子で、1793年に幕府学問所総裁大学頭(だいがくのかみ)林信敬(はやしのぶたか)の養子となりました。そもその岩村藩とは縁の深い人物なのです。

さらに、明治時代になって活字印刷の『徳川禁令考』(司法省編纂)に収録されたことが、「慶安の触書」の知名度を高め、「全国的な幕府法」という認識の定着を促したと考えられているのです。

【参考】
・山本英二『慶安の触書は出されたか』2002年、山川出版社(日本史リブレット38)  


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●町と町人●



@ 城下町の発達


 近世には、城下町をはじめ港町・門前町・宿場町・鉱山町など多くの都市があり、それぞれ独特の発達をしました。

 たとえば城下町では、城郭を中心に武家町・町人町(ちょうにんまち)・寺町(てらまち)をその周囲に配置するという都市プランが採用されました。こうした配置は、城郭を守るための工夫です。敵の侵入を防ぐために、城郭の周囲に堀を幾重にもめぐらしました。また、「遠州浜松広いようで狭い。横に車が二丁立たぬ」とうたわれたように、あえて道路を狭く造りました。大軍の侵入を遅らせるためです。道路がかぎの手になっていたり、湾曲していたりするのは、敵の見通しを遮ったり、鉄砲を使用させないようにするための工夫でした。

 武家町の周辺には町人町が置かれました。武家町と町人町の境には木戸が設けられ、夜間の出入りは制限されました。町人町の内側は、各ブロックごとに同一職種の業者が集められて、それぞれ大工町・鍛冶町・紺屋町(こうやちょう。染色業者が集まった町)などを形成しました。

 町外れに寺町が置かれたのは、戦時に軍隊を広い境内や本堂に駐屯させ、城下町への敵の侵入を許さないためです。


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A 三都
(さんと)の発展


 江戸・大坂・京都を「三都」といいます。それぞれの都市の性格の相違は、「お江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)、大坂八百八橋(はっぴゃくやばし)、京都八百八寺(はっぴゃくやでら)」と表現されました。なお、「八百八」は数が多いたとえであって、実数ではありません。


《 江 戸 》


 江戸は「将軍のお膝元(ひざもと)」として幕府の諸施設や旗本・御家人の屋敷が建ち並び、また諸国大名の藩邸が集中する城下町でした。武家地には、大勢の大名家臣や武家奉公人たちが居住していました。彼ら巨大な消費者集団を支えるために、町人地には多岐にわたる種類の商人・職人・日用(ひよう。日雇)らの人々が集まってきました。「江戸は諸国の掃(は)きだめ」と称される所以(ゆえん)です。

 また、江戸で多く目につくものとして、


「江戸名物。伊勢屋
(いせや)、稲荷(いなり)に犬の糞(くそ)


という悪口があります。

 他国商人から「近江泥棒、伊勢乞食(おうみどろぼう、いせどろぼう)」と揶揄(やゆ)された伊勢商人の江戸進出はめざましく、江戸のどの町内でも商家の暖簾(のれん)の半分は伊勢屋だったといわれます(北島正元『江戸時代』1958年、岩波新書、P.111〜112)。

 また、稲荷は五穀豊穣とともに商売繁盛の神です(京都の伏見稲荷神社から、江戸に稲荷神社を最初に勧請したのは、三井越後屋呉服店といわれています。江戸の三囲(みめぐり)稲荷は、名前に三井の文字が入っていることから、三井の篤い信仰を受けました)。現在でもデパートの屋上などに、お稲荷様の小さなお社が祀られていることがありますね。稲荷神社が多いということは、それだけ江戸の商業が盛んだったことを意味します。

 しかし、町人地の広さは、江戸全域のわずか15%しかありませんでした(武家地は70%、寺社地は15%)。18世紀前半にはその狭い区域の中に約50万人もの人々がひしめき合い、「お江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)」と誇るほどに発展していたのです。

 町方人口約50万人に武家・寺社らの人口約50万人を加えると、江戸の人口は約100万人だったと推計されています。18世紀前半の江戸は、日本最大の消費都市であり、世界有数の巨大都市でもあったのです。


《 大 坂 》


 大坂は「天下の台所」と呼ばれた大商業都市です。諸藩の蔵屋敷(くらやしき)が建ち並び、蔵物(くらもの)とよばれる年貢米や諸国の特産品(国産品)が、所狭しとその中に積み上げられました。大坂に回送された蔵物は、蔵元(くらもと)よばれる商人が管理を行いました。蔵物の売却は、掛屋(かけや)という商人が請け負いました。蔵物のうち年貢米が最大の商品であり、大坂の堂島などの米市場で換金されました。蔵物は、こうした商人たちを通じて、江戸をはじめとして全国に出荷されました。また、納屋物(なやもの)と呼ばれる民間商品も大坂に集荷され、各地に売りさばかれました。

 「大坂八百八橋(はっぴゃくやばし)」というのは、「大坂には橋が多い」という意味です。橋が多いのは、大坂に川や運河・水路が多いことを意味します。

 近世の都市は水漬けでした。この時代「物は水上(人は陸上)」を移動するのが一般的な原則でした。輸送量・スピード・費用等を比較した場合、陸上駄送よりも舟運の方がはるかにすぐれていたからです。たとえば、一般的な高瀬舟(たかせぶね。底が平らで浅い川舟で、さまざまな大きさのものがありました)なら一艘(そう)で米500俵運べるところ、馬1頭はわずか米2俵しか運ぶことができませんでした。こうして諸国の物資は海上輸送によって大坂に向かい、川や運河・水路等によって内陸へ持ち込まれ、またこれらの水路網と海上航路を通じて全国に発送されていったのです。

 大坂は「橋の多い」「水漬けの都市」として、諸国物資の一大集散地の役割を担いました。物資の輸送・売買そして金融に携わる人々が多く居住し、その人口は18世紀前半に35万人にのぼったと推計されています。


《 京 都 》


 京都は皇居の所在地で、伝統的な工芸都市です。平安遷都以来、長らく政治・経済・文化の中心でした。「京都八百八寺(はっぴゃくやでら)」というのは、文字通り歴史を有する寺社が京都に多いことを意味します。

 しかし、徳川氏が政権を握ったことにより政治の中心は江戸に、海に面せず全国物流を担う機能が乏しかったため経済の中心は大坂に奪われてしまいました。以後京都は、もっぱら「八百八寺」を有する宗教都市・観光都市として、また西陣織・染め物・刺繍等をはじめとする伝統工芸や学問・文化の中心地として発展することになります。18世紀前半の京都の人口は、約30万人と推定されています。


◆江戸の人口は2億4千万人?

 「18世紀前半、江戸の人口は100万人前後に達したと推定される」。日本史の教科書にはそう書いてありますが、果たして本当でしょうか。

 江戸の人口については、300万人説、140万人説など、かつてはさまざまな説が飛び交っていました。その原因は、江戸の人口に関する史料の不備に起因します。

 たとえば、1724(享保9)年と1815(文化12)の人口データを下に示しました。江戸の人口は江戸時代前期に急増し、中期から幕末までほぼ停滞していたといわれます。もしも「人口の停滞」が事実なら、@とAの人口データはほぼ一致するはずです。


  
@ 1724年の江戸人口(出典:『柳烟随筆(りゅうえんずいひつ)』)
     町 方     588,325人
     武 家      53,865人
     合 計      642,190人

  A 1815年の江戸人口
(出典:『甲子夜話(かっしやわ)』)
     町 方     532,710人
     出 家      26,090人
     山 伏      3,081人
     新吉原      8,480人
     武 家   236,580,390人
     合 計   237,150,751人



 Aの史料では、江戸の中に、何と2億4千万人の人々が住んでいたことになっています。現在の日本の総人口が約1億3千万人ですから、およそ2倍ですね。

 @・Aそれぞれの合計が異なる最大の原因は、武家人口の差にあります。参勤交代で武家の出入りの激しい江戸では、武家人口の把握が困難だったのでしょう。

 ちなみに町方の人口は、他の史料を見ても55万〜60万人前後です。ですから、町方人口は少なくとも50万人はいたはずです。そこで、武家人口も同数くらいだったろうと考え、50万人+50万人=100万人ということになったのです。

【参考】
・大石慎三カ『江戸時代』1977年、中公新書、P.113〜117 


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B 町人の統制


 町人というと、武士・百姓と区別されて町人地にすむ人々を連想しがちですが、これは「広義の町人」です。厳密には「地主・家持として町政に参加する人々」に限られます。したがって、宅地を借りてそこに家を建てて住む地借(じがり)や、家屋を借りて住む借家(しゃくや)・店借(たながり)は、町人とは見なされませんでした。

 落語でいうと「大家さん」(地主・家持で、長屋まで経営)は町人ですが、長屋住まい(店借)の「八つぁん、熊さん」は町人ではないということになります。

 江戸の場合、町奉行の支配下にあった町人統制を図示すると、次のようになります。町触の伝達は、この上意下達組織を通じて行われました。


    町役人…町年寄(ちょうどしより)、町名主(ちょうなぬし)、月行事(がつぎょうじ)
      |
    町人(地主・家持)
      |
    地借・借家・店借


 江戸では、住民の約70%を地借・店借が占めました。本当の意味(狭義)での町人(地主・家持)は30%しかいなかったのです。

 町奉行の支配を受け、町法による町の運営に当たったのが町役人でした。町役人の筆頭を町年寄といいました。家康の江戸入府以来、奈良屋・樽屋(たるや)・喜多村(きたむら)の三家がその地位は世襲し、町政のトップに君臨してきました。町年寄の下には、1町から数町の支配を担当する町名主が約260人いました。町名主は、各町の家持をたばねました。

 家持らは五人組を編成し、その中ら選出された月行事(がつぎょうじ)が毎月交代で町の政務をつとめました。また、家持らは、町政運営に必要な町入用(ちょういりよう)・町人足役(ちょうにんそくやく)を負担しました。これらは事務担当者の給料、下水道の管理、祭礼・道路普請等の経費に使われました。 


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C 町人の生活


 町人には家屋・衣服をはじめとする身分上の制限や差別がありましたが、運上・冥加等のほかには課税もなく、江戸や大坂などでは地子(地租)が免除されていました。百姓に比べるとはるかに優遇されていました。職人、商人の生活のあらましについて、次に述べます。


《 職 人 −徒弟制度(とていせいど) 》


 職人の場合、大工・左官・鍛冶などの親方(おやかた)のもとへ、10歳前後で徒弟(とてい)奉公に入りました。親方の家に住み込み、修行は10年前後に及びました。その間、日常の雑務・親方の手伝い等をしながら技術の体得に励みました。奉公期間中の衣食は保障されましたが、無給でした。奉公の年季が明けると、営業鑑札を与えられて渡り職人として修行しました。独立に際しては親方は当面の資金・諸道具等を分与して、職人を支援しました。独立後も主家・分家関係が継続しました。これを徒弟制度といいます。


《 商 人 −丁稚奉公(でっちぼうこう)→手代(てだい)→番頭(ばんとう)→独立へ− 》


 商人の多くは商家に住み込みで働きました。店内には番頭(ばんとう)、手代(てだい)、丁稚(でっち)といった階級がありました。10歳前後で丁稚と呼ばれる雇用人となると、衣食は保障されるものの、数年間は無給で雑用に使役されました。10代後半になると手代(てだい)になりました。衣食や給金が支給され、商売の手順をおぼえることになります。年齢と経験を重ねていくと商売取引きや店内仕切りを行う番頭(ばんとう)になりました。主人から認められれば「暖簾分け(のれんわけ)」を許されて独立しました。

 商家の場合は、経営者としての能力のあるなしが、店の盛衰・存続に直結しました。武士や百姓のように、「能力のあるなしに関わらず長男にすべてを相続させる」などと悠長なことを言っていたのでは、店が倒産してしまいます。そこで、商家では女子相続が一般的でした。息子にはまとまった財産を与えて好きなように生活させ、娘には番頭・手代の中から最も有能な者を選んで婿養子(むこようし)に迎えて店の経営を委ねたのです。財産権は妻が握っていましたから、働きが悪い夫は離縁されることもありました。


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