社会全般

Tokyo

いまの東京にある、ある種の感覚。この感覚を「東京」と表記すると、江戸の都市文化につながる東京的なものが殺がれてしまいそうなので、あえて「Tokyo」と書いてみた。

1998/03/17

……いやその。項目を立てたときにはなにかカッコいいことを書くつもりだったのだと思うが、数ヶ月経ってからこのテキストを整理している時点ではすでにすっかり忘れ去っている。Tokyoに関して言うべきことはなにかとたくさんあるので、そのうちたぶんなんか書きますから。はい。

1998/08/22

「Tokyo」と「東京」の違いについては上に述べたとおりだが、このTokyoはN.Y.であってもHong Kongであってもいいのかもしれない。それどころかたぶん、ストックホルムにもエルサレムにも、ヴァイキングやシナゴーグとはまた別に、Tokyo的なるものが存在するのだ。東京からすでにフジヤマは見えずゲイシャは絶滅寸前であるのと同じことである。それを否定しても始まらない。すでにそこにはひとつの文明が存在しているのだから。
これはひとつには「近代=モダン」の存在を前提としているが、もちろん「ポストモダン」まで視野に含めている。そして、流行語としての「ポストモダン」ならばこれはとっくに終わっていて、さらに次の段階に進んでいるはずだ。もっとも、普通名詞としての「ポストモダン=脱近代」はまだ続いているはずだし、Tokyoにおいては明治から始まっている「近代」でさえ、まだ本当に終わったとは言えない。マルクスが死んだとは思えない状況すら存在するのだ。スターリンや毛沢東や、たぶんレーニンもすでに死んだのだが。共産社会を理想とするという意味ではなく、資本主義を前提とした現在の社会の限界が見えてきているという意味で。
限界は見えているが、代わりとなる理想の社会も存在しないことがわかっている。年金を払ったって返してもらえるあてなどないし、定期預金にしたところでどうせそのうち銀行が潰れる。本質的にはこの閉塞感が、あらゆる人々の行動を律しているのではないか。1960年代が実際うらやましいのは、わたしだけではないだろう。たかだか最終戦争の恐怖と引き替えにして、理想社会を訴えて学生たちは行動できたのだ。現在のインドネシアやビルマもうらやましいと思う。本当に。
「未来に期待を持てない若者」という語義矛盾めいた存在は、'70年代ヨーロッパにパンクスを産み出した。セックス・ピストルズが'90年代に再結成されたときの名セリフ、「メンバーの意見が一致した。金だ」に対して、かつてのパンク世代は猛反発したらしいが、これをかっこいいと思えない感性でなぜ彼らはパンクロックが理解できると思いこんでいるのだろう。
さてそうしたパンクスに対して、'90年代Tokyoはなにを産み出したのか。ひとつが「おたく的思考法」を含んだマンガ・アニメ文化であるのは間違いない。そして、援交のコギャルとナイフを振るう十四歳であり、オウム的なるものと「ゴーマニズム宣言」とワイドショーマスコミが切り取った毒入りカレーと児童ポルノ禁止法だ。たぶん、これらはどこかで繋がっている。――その隠されたシステムを読み解こうとする行為こそ、「オウム的」と端的に称されるのであるが。
この項、まだ続く。

1998/11/27

「まだ続く」とか上で書いていたのは1ヶ月半前のことで、もちろんそのあいだに書くべきことをいろいろ考えてはいたのですが、ひょんなことから宮台真司の本を読んだら、書きたかったようなことがすでにだいたいまとめてあるんだよなあ。もちろん、自分なりの言葉で表現したい、すべきこともたくさんあるんですが、感じていたもやもやと同じあたりに注目して表現していた人がすでにいたということで、感心が半分驚きが半分。まあ、いまさら「宮台読めよ」と勧めまくるのもどうかと思うのでやらないでおきますが。というか、いままで読んでなかった俺の方が不勉強だよな。
もちろん、自分なりに書きたいこともまだあるんで、そのうちゆっくり続きは書くと思いますが。

1998/01/11

Jap

日本国もしくは日本人を客観的に眺めようとしているため、この「CoCoNuts-Club」にもそういう記述が多くて、もしかしたら勘違いされているのかもしれないが、いちおうわたしは日本人である。少なくとも日本国籍を持っているし、両親も祖父母もその前も、いちいち確認したわけではないがずっと日本の本州の東半分あたりで暮らしていたはずだ。1500年ぐらいさかのぼればまた話は別だが。
だけど、日本人ってなんだろうね。数年前、プロスポーツ選手でもっとも日本人らしい、大和魂を持っているといえる存在が、相撲の曙太郎とサッカーのラモス瑠偉だということに気づいてちょっと驚いたものだが、もちろん二人とも日本人である。(ラモスも引退しちゃったんだねえ……)。ただし、ラモスに関してはワールドカップフランス大会のテレビ解説を見る前の印象だ。ありゃいくらなんでも極端だろう。「いちばん苦しいときに微笑みを見せる」のも大和魂だと思うぜ。
とりあえず、日本国籍を持っていればそれだけで日本人と呼べるはずだ。「日本国籍を持った在日コリアン」なんてバカげた言い回しをたまに大手マスコミでも見かけてびっくりするが、そういうのは「コリア系日本人」というんだろう。これは「日系アメリカ人」と同じニュアンスの言葉であるはずだが、ちょっとまだこなれない言い方なんで、その個人の主観によって「朝鮮系日本人」「韓系日本人」でもよろしい。これを分けるのは、単に民族の名称を朝鮮民族とするか韓民族とするかの違いだけであって、朝鮮民主主義人民共和国または大韓民国とはなんら関係ない。このデンなら、曙は「アメリカ系日本人」ではなく民族を重視して「ハワイ系日本人」だ。日本人として日本国籍を持っているんだから、元の国籍がなんだったかをわざわざ肩書きにつけなくてもよろしい。彼はハワイ民族(という呼び方はあるのかな。ポリネシア系ハワイ先住民の民族という意味だ)であり、同時に日本人である。こうした単純な事実を、多くの日本人は理解していないらしい。いや、ここで「多くの日本民族は」とすればいいのか。「民族」と「国籍」はまったく別の概念だ、というのは、こうして述べれば間違えることはないだろうが、ふだんあまり意識されているとは思えない。現に、ついいままで、わたしも混同して使っていた。
その一方で、ペルーの国家元首であり当然ペルー国籍を持っている人間がたまたま日本民族であるというだけで、まるで日本人であるかのように扱う。アルベルト・フジモリはペルー人だってば。だからいざ事件が起きたときには、日本の国益(たとえば強行突入は避けたいという面子)を無視してでも、自国の利益(テロリスト排除)を優先させる。あたりまえのことであって、非難する理由はなにもない。(人命尊重を最優先すべきだというのはひとつの正当な主張であって、それに基づいた非難ならしてもいいが)。
「日本民族」という言い方がよくないんだな。大ざっぱにいわれる「日本人」と区別するために使っているのだが、まだ混乱しそうだ。以降は「大和民族」で通す。「大和民族系ペルー人が日本国に対して」という言い方なら、面子を潰そうが戦争を仕掛けてこようが、べつにおかしな印象は持たないだろう。いやフジモリ大統領がそんなことはしない知的な政治家だということは知っているつもりなので、これは一般論である。
そういえば、英語でなにか書いたりするとき、"Japanese Language"と"Japanese People"の使い分けというのもけっこう苦労する。その前に他の単語覚えろよとかなんだあのめちゃめちゃな文法はといった感想をお持ちの方もいるだろうが、あれでわたしも精いっぱい努力しているんだっ。とにかく、わたしがつたない英語を書くのは日本語が判らない相手に対してなんとか意志を通じさせたいがためであり、その意志というのが日本語を使う理由だったり日本人の行動についてだったりするから、"Japanese"がやたらに出てくることになって、まことにややこしい事態になる。"Yamaton People"といった表現があると助かるのだが。いやまだダメだな。「日本人」と「日本語を使う人間」と「大和民族」はぜんぶ独立の存在だ。ほとんどが重なっているとはいえ、あきらかに日本人で大和民族なのに日本語が通じないやつってけっこういるからな。けっ。

だいぶ話がそれてしまったが、もともとは「日本国」について書くつもりだったのだ。「日本国籍を持つ者」という定義の「日本人」にとっては重要な存在だが、それ以外のことで別にこだわろうとは思わない。国家とは、税金を納めておけばその代わりにいろいろと保護を与えてくれ、国会という名の運営機関にこちらの意志を反映させることができる、ひとつのシステムに過ぎない。いうならば大がかりなサービス企業だ。違いますか。日本国が株式会社、ではちょっとまずいが、公益法人かなにかであって悪い理由を述べなさい(配点15点)。
こういうこと言うと、すぐ「国の誇りが」とか持ち出してくるやつがいるんだよな。公益法人には公益法人の誇りがあるだろうが(どんな組織にだってそれはある)、国の誇りってなんなんだよ。
たとえば「民族の誇り」というものがあって、これはよくわかる。『源氏物語』とか『越天楽』はその一例だろうし、『天孫降臨』もそうかもしれない。それを歴史的事実として信じるという意味ではなくて、こんなに面白いフィクションを生み出したという意味だけど、当然。いや最近『古事記』の上つ巻を読み返したんだけど、面白いよあれは。中学ぐらいのころよくオカズにしていたのを思い出した。
『歌舞伎』や『浮世絵』もそうだな。だいたい、日本文化で世界的に知られているのはゲイシャガールでもテンプラ・スキヤキでもホンダやソニーでも民間の活力から出てきたものであって、お上の保護を受けながら発展してきたものなんてほとんどない。江戸時代に当時を代表する美術というのは狩野派あたりだったんだろうが誰がそれを覚えているか。あと二百年ぐらい経ってからの「二十世紀後半の日本文化を代表する美術は」という問いに対する正解は、平山郁夫とか東郷青二じゃなくて手塚治虫か萩尾望都か大友克洋か天野嘉孝か鳥山明か、まあとにかくそのへんだろう。藤子・F・不二雄と宮崎駿と富野由悠季と押井守と庵野秀明と武内直子と八手三郎を加えてもいいが、いま世界で通用している日本文化ってこれだけなんだからな。どうでもいいけど、ATOK11ってこのへんの固有名詞ぜぇんぜん入ってないぞ。これは歴史の検証に耐えうる辞書ではない。「ヨシユキ」が149件かなり珍しい表記まで含まれているのに「由悠季」だけがないというのは、もしかしたら意図的に排除されているのかもしれない。あっ、「喜幸」までないぞ。もう、わざとやっているとしか思えん。民族の誇りを汚す行為だ。
さてそういうわけで民族に誇りがあることはわかったが、じゃあ国の誇りってなんだ。挙げてみろと言われると、わたしにはひとつしか思いつかない。『日本国憲法』の、特に前文と第二章、第三章だ。日本語として耐え難いほど下手だというのはともかくとして(その点に関してならわたしは改憲論者である。というかいますぐなんとかしろ)、その内容はたしかに国家として誇りうるものだろう。だいたい、(組織としての)日本国が成立している根拠というのは日本国憲法にある。その証拠に第四章から第八章までで国家のシステムを詳細に定義してあって、これは読んでいてちっとも面白くないのだが、必要なんだからしょうがない。国として、この成立の根拠である存在を誇れないのはどうかしている。第三章なんか読んでいて感動するぐらいなのになあ。これがぜんぶそのとおりだったら、どんなにいいだろうと思う。
このエッセイは、一部の、特定の主張を持った連中を批判しようと思って書きはじめたのだが、ちと散らかりすぎた。あなたに優れた洞察力があれば、だいたいなにを言わんとしているのか、連中とは誰のことなのか、たぶんお判りいただけると思う。歴史教科書を新しくすること自体には賛成なんだけどね、おれも。
さて、日本人なら当然日本国憲法を読んだことはあるでしょうけれども、この機会にもういっぺん読み返してみてはどうでしょうか。素直に読んでみれば、サービス企業としての日本国が定義されているのがよくわかりますから。

ところでこのコラムのタイトルだが、深い意味はない。面と向かって言われないだけで、アメリカあたりではどうも普通に使われている言い回しらしいので使ってみた。アダルトサイトの宣伝文句で、"Pretty Nice Jap Girls are Here!"なんてのをよく見かける。最初に見たときはさすがにびっくりしたが、ただの省略形であって、悪い意味で使われているのではなさそうだ。「アメ車」ぐらいのところではないだろうか。これだって差別語といえば差別語なのだが。

1998/11/29

国旗・国歌

さまざまな感情がそこに籠もっていることは承知した上で、単純に違う視点を提供してみる。国家という組織に、なんらかのシンボルは必要だろう。できれば、デザインとして優れたものが好ましい。幼稚園児でも画用紙とクレヨン1本で簡単に描けるデザインというのはなかなか捨てがたく、これ以上の説得力あるビジュアルデザインが提案されないかぎり、これはこれでいいんじゃないだろうか。
歌に関しては単純にそういうことが言えない。実力派の歌手が独唱するとかっこいい、ということに気づいたサッカー協会は偉いが、あれほど斉唱に向いていない曲というのも珍しく、正式なイントロが設定されていないので出だしが必ずバラバラになるのはなんとかならないものだろうか。メロディー自体はけっこう腹にずしんと来るし、わずか32音節(「さざれいしの」のところが字余り)というのは世界中の国歌の中でもっともシンプルなうちのひとつらしいので、国旗のシンプルなデザインとのマッチングもよいのであるが。さいわい、同じぐらい短く美しい詩が千数百年前から蓄積されているのだから、よく探せば良いものがあるんじゃないのかね。
やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし」(伝倭建命やまとたけるのみこと。「やまとは、もっともすぐれた国。折り重なる垣のような青い山々に包まれ、やまとは美しくも懐かしい」)は、物語の美しさとあいまってとても好きな歌なんですが、このへんでどうでしょうね。

1999/03/08

死刑・殺人・自殺・脳死

死刑

わたしは死刑廃止論者なのだがこう名乗るとかならず「遺族の気持ちも考えてみろ。おまえの愛する家族が通り魔に殺されたら、その犯人を殺してやりたいとは思わないのか」といったような反論が返ってくる。で、こんなもん反「論」でもなんでもない、ただの感情論だろうということをこれから書く。
とりあえず、先の問いに答えておこう。わたしが愛する家族を通り魔に殺されたら、その犯人を殺したいとは思わないのか。もちろん、そう思う。実際にそういう経験があるわけではないからそのときの自分の心理を推測しているだけだが、まあたぶん、なんとしてもこの手で復讐してやりたいと思うことだろう。
さて、わたしのこの感情は、死刑廃止論とどこで結びつくのだろう。「この手で」という言葉をわざと含めたのだが、お気づきだろうか。だが、要するにそういうことなのだと思う。復讐したいというのは「わたしの」感情であって、それを国家に(さらに具体的には一人の公務員である死刑執行官に)代行させたいとは思わない。それどころか、そんなことをされたらかなわないとすら思う。この手で復讐してやらなきゃ、復讐の意味なんかぜんぜんないでしょうが。自分の腹が減って飯を食いたいときに、その分を(それこそ愛する家族にならともかく)抽象的な概念である国家に腹いっぱい食わせてやりたいと思いますか。これは、比較として乱暴なものではない。復讐というのは、そのていどの原始的な感情だからだ。
原始的な感情で動くことを否定しているわけではない。国家という抽象概念が絡む問題に関して、そういう原始的な感情を持ち出してきて他人を説得しようあるいは言いくるめようとするのはおかしい、だまされてはいかん、ということを言っている。結論が正しかろうがどうだろうが、こういう論理の進め方は他人の不信を招く。「国のために戦った祖父たちの誇りを」という言い方と同じだ。
以上で納得できない方は、同じ状況に自分が立ったとき、目の前の犯人にいきなり神の怒りの象徴である雷が落ちてきて死んでしまった、という事態を想像してもらいたい。「あなたはそれで納得できるのか。この手で殺してやりたかったとは思わないのか」と問い返しておこう。まあ神じゃなくて交通事故でも心臓発作でもなんでもいいんだが、それで納得できるならたいしたものだ。相手が死ねばそれでいいと思っているんでもなきゃ、納得できないはずだよな。
感情論に基づいた死刑存続派の意見はこのとおり簡単に撃退できるのだが、しかしこれが存外多数派を占めているってことは、国家に自分自身のアイデンティティーを同一化させている人間がいかに多いかってことだよなあ。くわばらくわばら。

念のために断っておく、までもないと思うのだが、では敵討ちを公認しろとか、そういうことを言っているわけでもない。復讐するなら自分の責任でやれ、と言っている。どう違うかといえば、復讐のために犯人を殺した時点で、あなたも殺人犯になる覚悟をしておけ、ということだ。「犯人を人間として許せないと思ったから、自分も同レベルに堕ちることにする」という覚悟だ。なんだかこれも相手を言いくるめるときのレトリックだが、わたしはこういう言い方しかできないタイプなので申し訳ない。

1998/12/16

殺人

もうだいぶ前のことになってしまうが、あるニュース番組で高校生を集めて意見を聞くというような特集をやっていたらしい。未成年者による殺人事件が話題になっているころで、番組側の識者とかそういった人々が生命の大切さなどお説教しているところに、ある高校生が質問を放った。
「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」
それに対して識者たちは答えもせず、あるいは「なにを当たり前のことを」という反応しか示さず、時間を理由に特集コーナーを打ち切ってしまったらしい。
この番組、ちらっとは見ていたのだが、ちょうどその部分だけ見逃してしまったのは残念だった。ご存知だと思うがこのやりとり、のちに大きな話題となった。なにしろ、最初に出てきた社会(あるいはマスコミ)側の反応が、「なにを当たり前のことをパート2」だとか、「『いまどきの若者』は生命の大切さというものすら理解していないのかこれは驚いた」といった、それこそ驚くべき代物だった。ちょっと見ていた範囲でのその番組の流れは、ようするにそうした既成観念によるお説教の連続であって、面白くもなければ意見を聞くために若者を呼んだ意味もない、じつに安易なものだったのだ。(だからわたしも、途中で見るのをやめてしまったわけだ)。そこへ、とっさに根元的な問いかけをできるほど頭のいい高校生がいるというのはじつに素晴らしいことで、『いまどきの若者』もまったく捨てたもんじゃない。こういうのは、思いついたとしてもなかなか言えないもんだよ。高校の生徒総会でなにか発言しようと思ってもできなかった、なんて経験を持っている人も多いことだろう。ましてや全国放送のテレビ番組である。
そのテレビ番組およびメイン司会者は、ふだんはかなりまっとうな意見や感覚での報道を行っている、まあ信頼に足るジャーナリズムである。ただそのときに限って(なのだと信じたいが)、根元的な問いかけの意味がとっさに理解できず、とんちんかんな対応をしてしまったのだろう。しかし数日、あるいは数週間後でも、この話題を取り上げて「いまどきの若者は」式の批判をしていた輩がいるというのは、繰り返すが驚くべきことだ。考えるための時間が一秒しかないときと三日あるときとで、どうして同じ反応しかできないのだろうか。
その質問をした高校生が、ふだんから「人を殺してもかまわない」と認識しているわけではないだろう。だが、それが「どうして」いけないことなのか、わたしも含めて、だれもきちんと教わったおぼえがない。「いけないからいけないんだ」といった理屈抜きの教え方しかされていないだろう。特に幼い、そうだなあ、六歳以前の子供に対してなら、「チョウチョでもトンボでも、むやみに殺しちゃいけないよ」と理屈抜きの教え方をするのはしょうがないし、それがいちばん有効かもしれない。だが、中学生や高校生に対して幼児と同じ教え方をするのは、明らかに間違っている。たとえば体罰論議でも、「三歳の子供は叩いてしつけるしかない。だから、中学生への体罰は正当だ」という恐るべき論法がまかり通っているのだが、こういうのをおかしいと思わない人間ってそんなに多いのだろうか。
件の高校生の発言は、そうした教育への異議申し立てであり、本当に生命の大切さを教えねばならないと主張するなら、少なくとも高校生に対しては理屈で説明するべきだという指摘でもある。そして理屈で説明するとして、殺人がいけない根拠は、たぶん三種類に集約される。

1.国家や社会といったシステムの成員を勝手に消耗させることは許されない。
2.他人の「生きる自由」を奪っていいなら、自分の「生きる自由」も奪われることになる。
3.宗教上の理由。

このうち3.に関しては、わたしは具体的なことをなにも言えないし、現代日本においては万人が納得する根拠にはなりえないだろうと思う。1.については、まさに国家というものが成立したときからの要請なのだが、どうもわたしには本末転倒としか思えない。個人の幸福のために国家が存在しているのであって、その逆ではないというのは、この場においては自明のこととしよう(「自明」の意味を問うているところなのだがね)。とにかく、この論拠ではやはり万人に通用する説明は難しそうだ。
すると残るは2.であるが、こうした説明は実際の教育の場において、これは広くマスコミなどによる社会教育も含めてだが、ほとんどされていない。理屈としてはこれしかないのではないかと思うが、この本質的な根拠に気づいていない人も多いのではないか。自分たちが気づいていないことにすら気づいていないのだ。この2.そのものを件の高校生が要求していたかはともかく、おそらく彼はそのレベルでの、なんらかの本質的な説明がなされることを欲していたのだろう。マスコミが、あるいはそれを象徴する件のテレビ番組が、そうした本質的な教育をしてこなかったことへの、これは鋭い指摘だったのだ。

1999/01/11

自殺

上で「殺人が許されない理由」を考えていて気づいたのだが、1.と3.は自殺を禁止する理由にもなっている。同じことの繰り返しになるので、これらについての感想は省略しよう。
だが2.は、自殺を抑止する理由としては無力である。「生きる自由」があるなら、「生きない自由」もあるはずだからだ。にもかかわらず、わたしは「自殺はいけない」と感じている。それも、かなり強固な信念として。いままでの教育のせいだ、ということもあるだろうが、教育を受けていた時期から現在までに、別の考えを持って、実行に移しかけたこともあるので、その後なにか、考えの変わるようなことがあったに違いない。(最近は極端な鬱になっても、考えが頭をよぎるだけで、実行するところまでは至らない。ふてぶてしくなっただけかもしれないが)。
「もったいない」。これじゃないかな。「この先生きていてもどうせろくなことがない、楽しいことより苦しいことの方が多いんだから」というのが自殺する理由の大半を占めているのだろうが、生きていないと味わえない楽しいことはたくさんあって、そういう楽しみを捨ててしまうのは、ほんとうにもったいない。まだ読んでいない本はたくさんあるし、これからだって出版されるのだろうし、音楽だってアニメだってなんだってそうだし、コミケで自分たちの本が完売した瞬間の力が抜けるような感覚とか、味つけも完璧に青椒肉絲が炒めあがった瞬間にご飯も炊けたぞとか、今年もキンモクセイの花が散り始めたその日は金曜日だったとか、そういう感覚を味わえなくなるのはつまらないし、もったいないことであって、1999年が来たからってそう簡単に死ぬわけにはいかない。日本代表がワールドカップで1勝するのを見るまでは死ねないしな、とりあえず2002年までは。フランスで惨敗した悔しさだって、未来の楽しみへの伏線だ。ドーハの悲劇があればこそ、マイアミの奇跡やジョホールバルの歓喜は大きかったんだから。
そうやって見つけた楽しいことをぜんぶ足し合わせると、どうだろう。苦しいことよりは大きいんじゃないかな。たぶん。

1999/02/14

脳死

自分にとっては当たり前のことすぎて、あらためて考えたくもないのだが、話題のテーマなのでいちおう触れておこう。
「脳死は人の死ではない」という意見が、どうしても理解できない。脳死判定における具体的な医学上の問題とかそういうのについては発言できないのでしないが、心臓死と脳死とどちらが本当の死か、ということなら結論は簡単なはずだ。
脳死は「人間の死」である。心臓死は「動物としてのヒトの死」である。人間が動物の一種であることはしかたないが、動物としてだけ定義されたのではかなわない。誤解されるのを承知で書くが、人間の本質を仮に霊魂と呼べば、霊魂が心臓に宿ると思っている現代人はいないだろう。どっかに宿っているとしたら、それは脳以外にないはずだ。
「脳死状態の患者を実際に見ると、これが死体だとは思えない」という反論がある。だが、本当にそうだろうか。たとえば、わたしは人工呼吸だけで生きながらえている患者をまぢかに見たことならある。すでに意識はなく、もはや回復の見込みがないことも、人工呼吸を止めれば即座に心臓死に到ることも、わかっていた。厳密な定義はともかく、脳死状態に非常に近かったわけだ。
その姿はたしかに「死体」には見えなかったが、かといって患者が「生きている」とは、わたしにはどうしても思えなかった。機械的に「生かされている」のではあっても。そう考えたわたしは、不人情だったろうか。

1999/03/08

メディア

別のところでも触れたが最近の小説では「沖縄逃げ」が流行っていて、これがたとえばサザンオールスターズまでが「平和の琉歌」なんてのを歌っているので困ってしまう。沖縄に行けばそれは心が安らぐだろうし、伝統文化が息づく姿にいろいろ感じるところもあるだろうが、それをそのまんま書くのは、小説とかそういうものではないだろう。
ちょっとでも歴史を調べれば、というのは日本史とその一部としての沖縄史ではなく、東アジア全体の歴史における琉球の位置づけを知れば、あきらかに一個の独立国である存在を明治政府が植民地化して現在にいたり、返還後もそのまま植民地としての負担を押しつけているという現状は見えてくるはずなのだが。で、書くならそれをメインのテーマに「しなければならない」という左巻きの意見を言いたいのではなくて、ちょっとぐらいは意識しなさい、ということなんだがどうだろうか。
田村由美は「BASARA」の中で、理想郷としての沖縄が凄絶なまでの決断で独立を守る姿を描いているのだが、やっぱり小説ってとっくにマンガに追い抜かれてついていけなくなっているんでしょうね。
ところで、アクターズスクールもあきらかに「沖縄の現実」のひとつなんだが、結びつけた話ってあまり聞かないな。見たいところしか見ていないんでしょうね。

1999/03/08

上記、読み返してみると言いたいことがぜんぜんまとまってないので、いいわけめいた注釈。書きながら考えていくタイプなんですよ。
沖縄の現実の一面を切り取るのはいい。反戦、反基地、白い珊瑚礁を守れ、本質的に陽気な県民性、ゴーヤチャンプルー、琉球王国、アムロちゃん。ところが、そういう情報はみんなばらばらになって、東京に(あるいはヤマトに)伝わってくる。そういう複数の一面はそれぞれ理解できるんだけど、全体像がちっともまとまらない、ということなのだ。東京に住んでいればTokyoの姿はそれなりに判る。と同時に、たぶんそれぞれの地方にもTokyoは伝わっているだろうに。情報量だけの問題ではなく、それなりに多い沖縄からの情報が全く統合されていないことにいらだちを感じるのだ。
こんなこと言っているあいだに、いっぺん行ってみればすぐ判ることなんでしょうけどね。

1999/03/18

このコーナー、最初は「沖縄」というタイトルで公開していたのだが、じつはわたしが言いたかったのは、別のことであると気がついた。「メディアによって伝えられる情報と現場の空気の乖離」だったのだ。沖縄は、その点でひとつの象徴にすぎない。
たとえば、というとどうしても身近なところでコミケを例に取ってみたくなる。ある時期から毎回サークル側で参加しているわたしにとって、一般の人間がこのイベントをどう捉えているのかは永遠の謎だ。メディアによって伝えられるのは、昨今まず「コスプレの隆盛」であり、「著作権無視のエロ本が堂々と売買される場所」であり、「放火事件」でありするだろう。どうも、いいイメージがなさそうだ。コスプレ自体は良くも悪くもないものだが、一般からのコスプレのイメージは「子供っぽいなりきりっこ遊び」ならいい方で、たいていは「風俗産業の一形態」だろう。わたしはコスプレ自体には(プレイヤーとしても観客としても)関わっていないので、一般のひとがメディアから受けるイメージとしては正確なところをつかんでいるのではないだろうか。コスプレの実態がどういうものであるかを頭で理解していても、メディアからのイメージは(現場にいる者が当然感じるだろう反発とは別に)受け取れる。ここにも、メディアと現場の乖離がある。
コミケに話を戻す。参加者の中にも、コミケとはコスプレであり、著作権無視が許される場所であり、エロ本を売買する店であり、中には放火や火災報知器いたずらの対象であると認識している者はいるのだろうが、たいていの、少なくともサークル参加者が感じているイメージは違うはずだ。じつは一般参加者として、いわゆる買う側でコミケに行ったことがないので(コミケに限らずすべての同人誌イベントを通して、同人誌を買うために使った金額は8年間で一万円に達していないのではないかと思う。五千円以下かもしれない)、とくに最近の一般参加者の大多数がどう感じているのかは、じつはよくわからない。
だが、スタジオよこぐるまの責任者としてさまざまな経緯をへながら8年間参加してきた立場からすると、コミケというのはまず「自分たちの作品を見てもらう場所」であり、「商業誌にない表現を求める場所」である。ということはオリジナル指向だし(安東がときどき切れて妙なことをしているが。日下くんの創作活動についてどうこう言うわけではないしサークルへの参加を認めたのはわたしなのだが、実力はあるのだからオリジナルにも挑戦してみればいいのに、と思う)、表現として性的行為の描写が出てくるためエロ本とみなされるものを売りさばくこともある(相生氏はまた別の感想を抱いているらしいがわたしは関知しない)ものの、商業ベースのエロ本に携わっていたときの感覚とはかなり違う。手作りの小規模イベントとか、そういうものがコミケ以上にピンと来ないひとに説明するなら、学校の文化祭でマン研や文芸部が会誌を並べて値段を付けるのとたいして変わらないことをしているつもりだ。ただ、その場所に40万人が集まる、というだけである。
「アマチュアベースで40万人が集まるイベント」というのも(じつはこれは三日間の延べ人数なので、一日あたりではせいぜい15万人である。それにしたってたいへんなものだが)他にほとんど例がなく、ウッドストック(アメリカで開催された伝説的なロック野外ライブ)が一度に40万人だか集めたことに比肩されるのではないかと思う。しかもそれが年2回だ。ウッドストックの凄さは30年だか経った今でも語りぐさになっていてウッドストック世代という言葉もあるぐらいだが、そういう観点からのマスコミ情報はあまり見かけない。
のべ40万人が集まるというのはやはり想像を絶する事態で、現場にいるつもりのわたしがじつはすでにズレた感覚でしかいないのかもしれないが、創作の発表と新しい表現の場であるという、コミケの少なくとも一面は、大手メディアにほとんど報道されず、誤解が拡大生産されていく。

メディアは、あるいはここでマスコミはと言ってしまっていいのかもしれないが、「自分の伝えたいことを伝える」ために存在する。これに関しては最近、いろいろ実感させられることがあった。そうでなくても、もともとわたしはマスコミ側に近い人間で、上記の通り商業誌のエロ本に携わっていたこともあって、まだ青いところが残っているためたとえばインタビューなどでも考えていたのと違う結果が出れば素直に紙面に反映させているつもりなのだが、そういうのがひどく面倒に思えることはある。こういう方向で紙面を作ろうと決定しておいてそれに見合ったインタビューイを探す方がよほど簡単だということは想像してもらえると思う。それが少数派だったりときにはごく希少な例であったとしても、とりあえず定期刊行物の紙面をそれらしい記事で埋めるのが最優先、という錯覚に陥りやすい。とくに訴えたいテーマがあるとき、それがたとえば政治的なものに限らずえっちの世界で、こういうプレイはふつうなんだよ、この本は異常じゃないんだよ、だからもっと参加しましょう、というテーマを訴えたいのだとしても同じことで、テーマに合うデータを探してそれだけを報道したくなる。で、せっかく探した相手にインタビューしたら思っていたのと違う部分で紙面にそぐわないことを言われたときは、そこをカットすれば済むだけの話、ということにもなる。こうなるといわゆるヤラセに近くなり、そこからでっち上げまではあと一歩だ。繰り返すが、定期刊行されるメディアの現場にいるというのは、そういうことなのだ。いいも悪いもない、現実である。
記者の先入観として「40万人集まるのは異常なことだ。創作の発表なんて地味なことだけでこうなるはずがない」と思えば、それに見合ったできるだけ派手な例を探すことになり、コスプレというのはその好例である。伝えている内容、たとえばコスプレイヤーへのインタビューそのものは事実でも、それだけを拡大して伝えることで、記者の先入観を補強する形の報道は可能なのだ。そのとき、地味な本を並べて座っているだけの当日11000に及ぶサークルの大半は無視されてしまう。コミケは出展するサークルを中心に開催されているという現場の空気は伝わりようがない。それがメディアのしくみとしてやむを得ないのだとしても、困った話である。報道する側とされる側で自分の言うことが違っているが、そうしたギャップを含めて困った話なのだ。

1999/03/21

もっとも、マスコミ情報を信用しない、あれは原則として信用できないものだ、というのは、少なくとも80年代以降に育った者にとっては常識なのではないかと思う。1965年生まれとしては青春を過ごした80年代的思考というのは根がらみのもので、しかしこれは考えてみたら1945年前後に生まれたものが60年代的思考からいつまでも抜け出せずにいるのをあざ笑っていたのと同じことじゃないかという気がしてきたがとりあえずそれは措いておこう。そのうち、1985年生まれにあざ笑われるんだろうなあ俺たちも。まあ、まだはっきりしたオピニオンを発表していない世代のことを心配したってしょうがないのだが。「すぐ世代論に持ち込むのがわれわれの世代の悪い癖だ」というフレーズもあったな、そういえば。
その80年代的思考というのはたとえばギョーカイくんブームに象徴されるような、「裏を読む」思考だ。テレビの画面に現れているものはこのとおりだが、その裏では別のことが起きている。画面に現れる事象をコントロールしている誰かがいる。それは「思考」というより当然の「感覚」であって、テレビがことさらにそうなのではなく、自分の外部にある世界そのものがそうやって成立しているのだ。
今となっては信じられないことだが、80年代においてアニメファンは演出家ファンでありアニメーターファンであった。素朴だった70年代や疲れ果てた90年代のアニメファンが、いずれも声優ファンのかたちをとっていることと、これは表裏をなすものかもしれない。90年代になってからアイドル声優を通してアニメファンになった者は、どうして演出家のインタビューがアニメ専門誌には必ず掲載されているのか、特定の監督の新作が過剰に注目されるのはなぜなのか、理解不能に違いない。声優もまあ裏方には違いないのだが直接の演技者という面が濃くアイドルとして売り出すスタイルをとることもあり、それに対して演出家やアニメーターはアニメ専門誌のインタビュー記事などを除けば本質的に表に出てくることがない。そうした「裏でコントロールしている存在に着目する」という感覚が、典型的あるいは古典的な「おたく的思考」のひとつである。最近のおたくは、ここでは単にアニメファンの同義としてこの言葉を使うが、ここでいうおたく的思考そのものには影響されていないように思える。あるいは80年代からのアニメファンは設定マニアでもあり、これも世界の裏を読もうとする行動なのだろうが、設定とその解釈だけに没入していると本当の意味で世界を構築することができなくなってきて、その結果は作品の貧弱さとして現れる。例を挙げればいくつも挙げられるのだが、まあやめておこう。現在アニメ業界で主流をなしている演出家や構成作家がここでいうおたく世代だ、ということだけ指摘しておく。
と同時にこれは、いわゆる「オウム的思考」とされるものでもある。世界を裏で支配しようとたくらむ者がおりそれに対して戦いを挑む、というのが、オウム真理教の大義名分あるいは洗脳手段だった、らしい。こうした陰謀史観を真に受けて狂気の行動に出るというのは、ことに我々より上の世代にとっては驚愕の的だったらしいが、信者たちと同世代の者にとってみれはその発想を理解することは可能だ。実際それを信じ込むかどうかは、さすがに別の話である。ここでいちおう念を押しておくべきだろうが、おたく的思考法の持ち主がそのままオウム的思考法へとシフトする、という当時流行った短絡は勘弁してもらいたいものだ。
もう一方で陰謀史観あるいはそれに類するものを信奉しているのが自由主義史観と称するものあるいは小林よしのり信者であり、そもそも「自由主義史観」という自称そのものが「陰謀史観」へのカウンターであることを表明している。小林はオウムと戦ったことを自慢するが、根本的なところでは同じ場所にいるのではないか。気づいていないところが、ギャグマンガ家としては天才である彼の不幸である。

1999/05/01

頭を使って生きようよ。

相生浩史がなにやら落ち込んでいたので訊ねてみたら、どっかのBBSで論争して、その結果がひどく不毛だったのだそうだ。彼の説明によるかぎりでは、小説の書き方というか作家の姿勢について議論を始めたつもりだったのに、議論は混乱したあげく相手から「不毛だ」と言われて打ち切る羽目になったんだとか。不毛だと言われたから不毛なのではなくて、小説を書く上で基本的なことについて考えようという提案を「誰も考えてくれなかった」ことに不毛感を誘われたらしい。
彼とは長年のつきあいで、頑固なくせに論理的な思考がなにひとつできない人間であることも知っているから、どんな議論が行われたのかは想像に難くないのだが(苦笑)、身内であることを差し引いてもその不毛感は理解できる。提案がだれにも理解されなかったことについて、責任の半分は相生にあるとしても、残る半分を担う大状況は無視できないだろう。
「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズが最終話を迎えたとき、おたく系ミニコミやネットワーク通信が大騒ぎになったことを思い出す。あの最終話で描かれたテーマに関する議論などまず見あたらず、手法に対する疑念あるいは感情的反発ばかりが噴出していた。劇場版で監督本人が嘲笑っていた、あのとおりである(あれ、感情的反発が嘲笑われていたんだよ。気づいていた?)。あの作品で提示されていたテーマは、思考実験としてでも考えれば考えるほど面白いinterestingものだったし、じっさい若手の評論家らがこぞって取り上げていたのを見てもわかる。これは権威主義で言っているのではなく、考えていた人間の例を挙げているのだ。
だが、ただ面白いamuseものだけを求める者たちは、ああした表現に対して感情的反発を抱く。そのことを指摘してやったとき、「理解できないものに反発するのは当然じゃないか」と返されて唖然とした記憶がある。こういう相手になんと説明していいのか、いまもまた考えては唖然としてしまって、説明の手段を思いつかない。「考えること」を拒否している相手に、そもそもなにかを「説明」できるものなのだろうか。そういう根源的なところからして疑問だ。とりあえず、そんなものは「当然」でもなんでもないのだ、ということからして教えてやらねばならないのだろうが、これは幼稚園の先生の仕事なのである。二十歳過ぎまでそういう態度で育ってきた人間にこのことを教えてやる方法って、あるのだろうか。
というわけで、わたしも不毛感に襲われてしまったので、ここで話は打ち切る。いささか中途半端ではある。わたしがなにを言いたいのか理解できない、と思ったら(たぶんそう思われるだろう)、ちょっとだけ「考えて」みてほしい。わたしだってこのとおり、論理的に考えるのは苦手なのに、それでもがんばって考えようとしている。それがあんたに無理だっていうなら強要はしないけどさ。

1999/03/30

この項はいちど独立した項目として目次に載せたのだが、ちょうど「メディア」で述べたことと内容がだぶるのでクラスを下げた。一体のものとして読んでもらえるとありがたい。

1999/05/01

児童買春・児童ポルノ処罰法

例の法案・成立までの経緯
(リンクページより移行)

法案の正式な名称は「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律案」です。
1998年5月に、当時の与党3党から衆議院法務委員会に、いわゆる例の法案として問題とされた児童買春・児童ポルノ処罰法案(旧与党案・マンガ等のフィクションも規制対象になり、単純所持も禁止される)が提出されました。それに対し、民主党による独自の法案の骨子(民主党案・マンガは含まれないが実写の多くは規制される・単純所持は処罰の対象にならない)が発表されるなどの経緯をへて、1998年12月より各党派の議員による折衝が行われました。そこで旧与党案の中にいかに民主党案を織り込んでいくかが話し合われ、第145通常国会での成立が目標とされました。
与野党間の折衝によって折衷案が作成されました。3月31日に旧与党案はいったん衆議院から撤回され、超党派による新法案としてあらためて参議院法務委員会に提出されました。
新法案提出とともに旧与党案は廃棄されたので、想像しうる最悪の事態だけは避けられたことになります。「絵」に関しては、新法案の文言からは外れましたが、実際に施行されたあと取り締まりを行う余地は残っており、予断を許さない状況だと思われます。
もし参議院の委員会で可決されると、続いて参議院本会議→衆議院の委員会→衆議院本会議という順序で審議が進み、すべて可決された段階で法律として成立することになります。本会議の審議では、法案の大きな変更は望めません。しかし仮にこのまま参議院を通過しても、衆議院ではまた一から審議されるはずです。今ならばまだ、あなたにもできることはあります。
(topic on 1999/03/19, rewrite on 1999/05/26)

法案は4月27日に参議院法務委員会を通過しました。さらに参議院本会議を通過し、5月14日に衆議院法務委員会にて全会一致で可決されました。
(topic on 1999/05/15, rewrite on 1999/05/26)

5月18日をもって衆議院本会議を全会一致で通過し、例の法案は法律として成立しました。今後、政令をもって成立から半年以内に施行されます。
(topic on 1999/05/26)

成立直前段階でのわたしの意見

他のところで、さかんに例の法案と称していたもののことである。正式名称はまた別にあって、もうちょっと長くなるのだが。法案成立に関わる経緯については、リンクのページでレポートしていたので、そちらを参照されたい。レポートの内容は法案の審議が一段落したらこのページに移す予定だ。
いま(1999年4月末現在)となっては、ほとんど新法案の成立は間違いないという状況になってしまっていて、多少なりとも反対運動に関わった身として個人的にはどういうものか敗北感が強い(同じく関わった人の中では、当初出された最悪な法案の成立が避けられたことをもって勝利に近いとみなしている人もいるようで、それはまあそのとおりなのだが、どうもわたしとしてはそういう気分になれない)。ただ、そろそろわたし自身の考えを総括してみる時期ではあるだろう。

東京BBSにあるマンガ防衛同盟の会議室にわたしがはじめて書き込んだ(のちにNIFTY-Serveの同趣旨の会議室とまんぼうメーリングリストにも転載されている)意見から、すこし長くなるが引用する。
なお、ここで言っている「今回の法案」とは旧与党案のことであるが、指摘している問題点は成立が見込まれる新法案でも変わっていない。

わたしの意見

 今回の議論に参加してみたくなったのだが、各論にいちいちコメントしていくのは、かえって議論の邪魔になりそうだ。コメントとしてではなく、今回の法案にかこつけて自分の思うところを述べることにする。

 児童買春は解釈の余地がない犯罪であり、法によって裁かれるべきである。現行法に不備があるなら、そのための法律を制定して規制するのが妥当だろう。これ自体に、異論はないのではないかと思う。
 ではなぜ、児童買春は犯罪なのか。問題が複雑なので、金銭授受が伴う買春をいったん離れて、性的行為一般として考えてみる。
 児童が性的行為を行うことが犯罪なのか。
 児童に性的行為を行わせることが犯罪なのか。
 前者の場合、たとえば(児童を十八歳未満と定義した場合)十七歳の男女がたがいに愛し合い、性交によって結ばれるという美しい場面でも、彼らは相互に罪を犯したということになってしまう。もちろん、実際にはそれなりに穏当な処分になるだろうが、本来ならば刑務所入りに相当するような罪にあたるということになる。これは納得がいかない。少なくともこの例は、解釈の余地がない犯罪ではない。
 おもに問題になるのは、後者である。子供に性的行為を(同意ではなく)強制することが罪であるのは、おそらく言うまでもない。だいいち、こんなのは相手が子供だろうと大人だろうと関係がない。セクシャル・チャイルド・アビューズと児童売春の違いは、性的行為を強制する本人の性的欲求に基づくものか、金銭的欲求に基づくものかの違いでしかない。買春する側も、売春管理者に金を払ったから罪をまぬがれるというものではないのは明らかである。
 現行の売春防止法では、実は、売春行為そのものを処罰する規定はない。管理売春あるいはその虞れがあるものを取り締まるのが目的である。
 さらに考えてみると、これは「性の自己決定権」云々を持ち出すまでもなく、人間の奴隷化を禁止するという趣旨になる。あたりまえの話すぎて、これ以上なにも述べることはない。歴史学的な分析は面白そうだと思うが。売春する子供が自らその行為をしていると証明できない限り、児童売春/買春は管理売春であり、禁止されるのは当然だろう。
 なお、ここではあえて、売春させる側(「する側」ではなく)と買春する側を区別せずに扱った。相互取引である以上、同罪だと思われるからだ。

 上記いずれの例にも当てはまらない場合、つまり未成年者が自らの意志で売春する、いわゆる援助交際については、解釈しかねるものがある。売る側も買う側も、モラルとして最低だ、とだけ言っておこう。道徳とか修身という意味のモラルではなく、人間として恥ずかしい、魂に悪い、というような意味だ。だからといって、止めろと強制するほどの根拠にはならないし、したがって法的規制にもなじまないのではないかと思う。

 前置きが長くなった。
 今回の法案で問題視されるのは、児童買春の禁止ではなく、それに便乗するような形で規制される子供を題材としたポルノおよびヌードに関することである。
 以下の文中において、「ポルノ」は性的興味を中心とした表現、「ヌード」は必ずしもそうとは限らない、裸体を題材にした表現と定義しておく。ただし、ポルノとヌードを厳密に区別するのは意味がない。性的興味に基づかないヌード作品であっても、ポルノとして鑑賞すること、つまり性的興味をもって眺めることは可能だからだ。
 イリナ・イオネスコや沢渡朔の作品は、児童の裸体を題材とした芸術である。芸術という言い方が誤解を招くなら、表現である。そうした作品が発表される機会を法律が規制するならば、これは表現の自由の侵害に他ならない。たとえどんなに正当な理由が存在しようと、それが表現の自由の侵害であることには違いない。たとえば、懲役や禁固の実刑判決を受けた者は刑務所に収容され、行動の自由を制限される。正当な理由に基づいて行われることだが、彼が行動の自由を制限されているのは事実である。
 問題は、どちらが優先されるのか、だ。あまり適当な例ではないかもしれないが、交通事故防止のために、歩行者は道を渡る自由を制限されている。しかし、見通しのいい道で車が来ないことがわかっていれば、自分の意志と責任のもとに、赤信号で渡ってしまってかまわないのではないかと思う。
 法律というものは人間を護るために存在しているのであり、護られる必要がない状況で個人の行動が法律に規制される理由があるだろうか。
 わたしは表現者であり、社会に対してわたし個人が追求すべき最大のテーマは表現の自由だと思っている。もちろん、社会的な局面で自分の意見を最優先すべしと主張するつもりは毛頭ない。もしそれをやったら、自分も連中と(どの連中かは説明を略す)同じ穴の狢にまで落ちぶれ果ててしまう。ただ、わたしはあくまでもこの点に立脚して議論をするつもりだし、この立場は正当なものであると信じる。

 さてそれでは、子供のヌードを題材とする写真が規制されるとしたら、その根拠はなんだろう。表現の自由を規制してまで、なにかを護らなければならないということがあるのか。
 表現、あるいは芸術の名に値しない作品(あるいは代物)なら、保護されるべきではない、とする考えがある。もちろん、「表現の自由」を擁護する立場からは、この考えは否定される。イオネスコが芸術であり、力武靖が芸術ではないと主張する根拠はなにもない(芸術であると主張する根拠もないが)。たとえばヌードとポルノを区別して、ヌードならよし、ポルノは規制されてもしかたないと一括してしまうのは、表現者にとっては自らの首を絞める行為である。ただし、後述する類のポルノ、明確な被害者が存在する場合については、別に考えなくてはならない。
 個人的な考えというか信念を述べると、被写体の被害の上に成り立つ表現であろうと、表現としては認められるべきだと思う。ただしそれは、刑事罰を含めた社会的制裁を免れ得るという意味ではない。モデル小説が名誉毀損で有罪とされた例があるが、有罪は有罪としてその司法判断と、その小説の価値とはなんら関係がない、ということだ。法に違反する表現だから表現として認められない、という考え方は、あきらかにおかしい。
 だからといって、表現のためには他の法律を破っていい、ということにはならない。表現の内部では認められることだが、それをもって社会的に許されるという考えは成り立たない。現在指摘されているのは、被写体となる子供の権利を侵害している、という点だ。つまりこの問題は、表現の自由そのものとは切り放して考える必要がある。

 ここでいったん、子供を被写体とすることから離れ、ポルノ全般について考えてみる。
 ポルノと称されるものは、実は二種類ある。どちらも道徳に反するものであり(法に反するとは限らない)、一括して規制される傾向があるが、区別して扱うべきだとわたしは思う。
1.被写体と制作者の合意に基づいて作られるもの
2.被写体の合意を得ずに作られるもの
 また、まったく別の考え方として、
3.被写体が存在しないもの
 という例もある。話しはじめると非常に長くなるし、今回の法案では問題とされていないようなので、3についてはここでは触れない。実は、この場においてはもっとも重要な視点なのだが。
 まず1に関しては、道徳には反するかもしれないが、法で規制すべきではない。管理売春ではない売春を規制するべきではないのと同じ根拠による。法的規制になじまないのは、「被害者が存在しないから」という理由を挙げておけば充分だと思う。
 2については、また二種類に分けられる。
2−a.被写体の意志を確認できない状態で作られたもの
2−b.被写体の意志に反して作られたもの
 aは、たとえば覗きモノや流出モノが挙げられるかもしれない。これにも、プライバシー権の侵害という意味であるていどの規制が必要なはずだ。現在、法的規制がもっとも必要なジャンルは、このaではないかと考えられる。明確な被害者が存在し、かつ、現行法では規制が難しいからだ。
 明確なレイプ実録モノなどが、bに相当すると考えられる。被写体の人権保護が目的なら、成人女性へのレイプ実録モノも同時に規制しなければ片手落ちだ。ビデオを撮影などをするためにレイプというもっとも憎むべき犯罪を実行するわけで、これはもうさらに輪をかけた、解釈の余地のない犯罪である。
 そんなものが具体的に存在しているのかどうか。少なくとも明らかにそれというものを実見したことはない。だが、存在する可能性はあるし、存在するらしいと聞いたことはある。レイプを実録するためにはレイプを実行しなければいけないわけで、そうしたものが公開され、流通することは、間違いなく被害者への人権侵害に相当する。実際はそんな言葉では片付かないほど深刻な問題だが。

 さて問題は、子供を被写体としたポルノはどのカテゴリーに分類されるのかということだ。もちろん、一般論では語れないのだが。
 まず、子供を被写体としたポルノにも、明確に上記2−bに相当すると見受けられるものが存在するようだ。これは言うまでもなく、規制なりなんなりが必要である。前述した、「規制されてもしかたがないポルノ」とはこれに相当する。
 そうではないポルノ、つまり上記1に相当する、子供を性的興味の対象として扱うが、本人も納得している場合はどうか。これは結局、子供の自己判断をどこまで認めるかという問題になる。成人の判断なら認められて、子供なら認められないとする根拠はなにか。
 そんな根拠は、存在しないのではないか。
 たとえば今回の法案では、被写体の年齢を「十八歳未満」とまで広げて適用されることになっている。十八歳なら認められて、十七歳で認めれらないというのは、現実に即して考えてみれば実に不合理だ。そして、十七歳を認めることにすれば十六歳はどうなる、と、あとは数学的帰納法によって〇歳まで認められることになる。〇歳というのは極論だが、仮に十三歳の判断が認められて十二歳の判断は認められないとするのも、上と同じような矛盾をはらんでいる。
 それにしても、上の極論のように〇歳児の自己判断まで認めるのは明らかにおかしい。どこでおかしくなったのかというと、上記2−aというパターンの存在を考えに入れていないからだ。つまり、〇歳児に対して意志を確認する手段がないのに、自己判断を行って本人が意志表示できることを前提にしているからおかしくなる。
 性的対象とされることについて本人が、自己判断と意志表示をできない状況だと客観的にみなされる場合においては、権利が侵害されている可能性が非常に高いため、規制する。年齢に関わらず、これには合理性があるだろう。
 意識不明のまま病院のベッドに寝かされている少女の裸体を見てオナニーした少年が、「俺って最低だ」とつぶやく。そういう状況まで、ここでは考えに含められる。
 逆に言えば、年齢に関わらず本人の自己判断と意志表示が明確にされている状況においては、これを禁止する根拠はないと考えていいはずだ。
 もちろん、未熟な判断だろう。周囲の状況、特に身近な大人の意見に強い影響を受けていることも考えられる。だがそれは、一般に成人の判断として認められているものと、なにが違うのだろう。三十年前なら、素人女性がヘアヌード写真を公刊することなど絶対に考えられなかった。社会通念という周囲の状況に影響されていたからである。現在はその状況が変わったため、素人ヌードなど珍しいものではなくなっている。
 子供に対して、ある種の誘導は強要と同じように働く。親(あるいは親に相当する大人)の言うことを聞かなければならない、親に嫌われたくない、捨てられたくない、認められたいというのは、子供にとっては第一原理だからだ。アダルトチルドレンが誕生するメカニズムである。
 だがそうした状況においても、それが本人の判断に基づくものならば、第三者が口をはさむことはできないのではないだろうか。
 さらに言ってしまえば、親からなんらかの価値判断の影響を受けずに育った人間はいない。そうしたものを含めて、自己判断という行為は成立している。成人においてもだ。それが間違っているかいないかは、本人がいつか、気付くのを待つ以外にはない。
 身近な大人の影響あるいは押し付けが、本人の判断を左右する状況については、単にヌード/ポルノ出演だけに限った問題ではない。もちろん、道徳的には強く非難されるべきだ。だがどのような影響であるかを判断するのは、法律の仕事ではないのではないだろうか。
 ただし個々のケースについて、単に大人からなんらかの影響を受けているだけなのか、直接間接に強要されているのかは、そのつど判断する必要があるかもしれない。

 長くなったので、結論を手短にまとめておく。
 表現する行為そのものは、法的規制に関わらず認められるべきである。
 人間を奴隷化すること、またそれを前提とした表現は、法的に認められるべきではない。
 本人の意志に反して被写体とすることも、同じく認められない。
 本人の意志が明確ではない、あるいは明らかになんらかの形で強要されている場合には、規制されるのはやむを得ない。
 被写体となる本人の意志が明確な場合には、その表現を法的に規制すべきではない。
 以上いずれも、年齢に関わらず適用されるべきである。

at 1998/04/21

この意見に対していくつかの建設的な批判あるいは不備を補い発展させてくれた意見があり、議論が深まっていったことは明記しておく。くわしくはマンガ防衛同盟の公式サイトにあるメーリングリストのログを参照していただきたい。ほんとに、世の中の議論がああいうものばかりならば助かるのだが。

わたしの基本的な考えは、ここで述べたことと変わっていない。ちょうど1年前ということになるのか。
いま、なにか付け加えようとしてみて、取り立てて述べるべきこともないのに気づいて驚いた。考えが変わっていないのは当然として、状況の方もなんら変わっていないのだ。新法案は、「『絵』に関する規制が条文から外れた(ただし、拡大解釈される余地は残っている)」「『健全育成』に関わる部分、すなわち古色蒼然たるモラルを押しつけるためのもくろみはかなり改善された」という面では前進しており、たしかにその点では規制反対派の勝利ではあるだろう。だが、表現の自由に関わる部分ではほとんど改善されていない、少なくともわたしが納得できるような形ではない、といっていい。
まあぶっちゃけた話をすると、まんぼう内部でも路線の対立のようなものがあって、これを仮に人権派と表現派と名付けておこう。具体的な行動を起こしているメンバーのほとんどが「表現の自由は基本的人権の一部であり、基本的人権の擁護がまず優先される目的である」と主張する人権派であり、「われわれの目的はまず表現の自由を確立することである」という表現派の方は、どうも分が悪かったようだ。だが――人権擁護のための運動は、必要な、とても大切なことなのだが、それは「マンガを防衛する」こととは、ちょっと違うんじゃないのかね。結論は、「子供の人権を守りながら作品表現の自由を最大限確立する」という主張は、たぶん同じだとしても。

1999/04/29

法律成立後のわたしの意見

いよいよ法律が成立し、個人的には脱力感にさいなまれている。これは、法案成立阻止に関わる具体的な運動をしてこなかったことから、予測されていた感覚ではあるのだが。いかに個人的事情があったとはいえ、集会などに参加するぐらいの行動はもうちょっと積極的に取るべきだったと、いまごろ後悔しているわけだ。そうしていたらしていたで、また別の敗北感を覚えたのかもしれないが。「勝利」と訴える方の気持ちも、わからないではないのですがね。
まず確認しておく。この法律の目的は、児童に対する虐待を禁止することである。そのための具体的な方策として、買春などを処罰しようというわけだ。これ自体はまったく正当なことであり、逆に今までそのような法律がなかったということの方がおかしいだろう。繰り返しておくが、この法律で海外を含めた児童買春行為が明確に禁止されたことについては、わたしも全面的に評価しているし、この目的について表だって反対している者はいない(不徹底だという批判、国内での拡大解釈を危惧する意見はあるが)。とにかく、虐待される児童を一人でも減らすための努力は、人間としての責務である。これが「児童買春処罰法案」だったら、ここまで紛糾はしなかっただろう。
問題になったのは、便乗して児童ポルノ(とみなされるもの)を処罰しようとしている点である。ポルノ制作のために行われる虐待を未然に防止しようという大義名分に反対はできないのだが、それに便乗して風紀矯正の目的を果たそうとする、言い換えれば自分たちの気にくわない表現を抹殺しようとする勢力がたしかにあって、そいつらの思うがままにさせるわけにはいかない。絶対に。
その典型的な問題であり、最大の争点になったのが「絵の規制」「単純所持の禁止」であった。ちょっと考えてみていただきたい。法律が施行されるまでは、単なるロリータヌード写真集は完全に合法なものであり、ものによってはそのへんの一般書店で売っていた。(施行後もすべてが違法になったわけではない。この点は確認しておく)。それを買って所持していた者が、法律が施行されたとたんに犯罪者になるというのはどう考えても納得いかない。
さらに理不尽なのが「絵」に対する規制である。虐待場面のリアルスケッチは別として(そんなものが存在しているのかどうかは知らないが)、絵は画家の想像力から生み出されるものであり、実在する児童への虐待はなんら前提としていない。それを規制するのは法律の趣旨から考えてまったく妥当性を欠く。つまり、法律に示された趣旨に便乗して、前述のとおり自分たちの気にくわない(いったいなにがお気に召さないのか不明なのだが)表現を抹殺しようとする目的があったとしか思えない。そこから逆に、児童虐待防止という趣旨すらもともとは口実だったのではないかという怖ろしい考えすら浮かぶ。さっきも述べたようにこれは人間としての責務であるものを、自分のわがままのための道具として利用できるという、そのメンタリティーがわたしには理解できないので怖ろしいのだ。
そしてこれが単純所持の禁止とくっつくと、紙と鉛筆一本でちょっと子供の裸体を描いて手元に置いておくだけで犯罪になるという、治安維持法なみの運用すら可能になるのだ。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、容疑者を家宅捜索して外してしまった場合に別件をでっち上げる、なんてのはざらにある話である。オウム真理教事件で世間がぴりぴりしているときに誤認逮捕に近いことをやらかした警察が、銃刀法違反などの口実をでっち上げた事件があったのは、ご存知の方も多いと思う。旧与党案の成立を「最悪の事態」と称していた意味がお判りだろうか。

ともあれ、そうした最悪の事態だけは避けられたわけだが、じつは問題は今後の運用にかかっている。法律で規制されるポルノの形態は「写真、ビデオテープその他」とあり、これはたとえば「CD-ROM」と明記してしまうとDVD-ROMが抜け道になるようなことを防ぐためにはやむを得ない記述なのだろうが、これが拡大解釈のために使われる可能性がある。
もちろん、第三条に「この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」と明記されたことは大きな前進であり、これが歯止めになってくれることを願うしかない。
……願うしかない。うっかり書いてしまったが、これは違う。願っているだけでは、心の中で思っているだけでは、見たこともない神様ならともかく、現実の、リアルな人間社会には、なにも通じない。願う以外に、するべきこと、できることは、まだあるはずだ。
これはわたしがあちこちで繰り返し述べていることだが、この法律について正しい知識、正しい認識を持っている人が非常に少ない。旧与党案がそのまま成立したと思っている人、あるいはさらに拡大解釈したデマを信じ込んでいる人を、いままでも見かけたし、また後を絶たない。そうではないのだと、まず自分が知ること、そして知らせることが大切だ。正しい知識、とくに法案の趣旨に関する正しい知識を持たなければ、その趣旨をねじ曲げた運用がされないか監視することはできない。
日本国の法体系は、「知らなかった」が通用しないことになっている。「あるアニメのタイトルロゴがかっこいいので同人誌の表紙にそのまま使ってみました。これが商標権侵害になるとは知りませんでした」とか、「直輸入のノーカットポルノ本を、ただ持っているのはいいけど友人に見せびらかしたらその時点で違反になるとは知りませんでした」とか、そういういいわけは通用しない。だからってすべての法律を熟知しておくことは不可能なのでその点に矛盾を感じざるを得ないが、自分の生活(仕事上の生活、趣味的な生活)に関わることならば、最低限のことは知っておかなくてはいけないし、知らなければ調べておかなくてはならない。
かく言うわたしも、新風営法で同人誌の通頒やWeb上でドネーションを要求することがどう規制されるのか、実際に施行されるまで調べようとはしなかったのだから、偉そうなことは言えない。(当サイトは現状で、明確な法律違反を犯してはいないつもりです。専門家の意見を聞いてみなくては本当はわかりませんが)。

まず、知ってください。自分で努力して、調べて、知識を持ってください。
そして、仲間を増やしてください。対話して、自分の誤りは修正して、仲間がなにか誤っていたら教えてあげてください。
面倒がらずに、まず対話と、そして知識の吸収と普及を、続けてください。
今ならばまだ、あなたにもできることはあります。
そしてそれは、あなたにしかできないことなのです。

1999/05/26

アジテーション

「敵がやってくるぞ!」

青年の視界には、常に「敵」が存在する。
「敵」は彼の周囲を取り囲み、彼が一歩でも進もうとすると とって喰わんとばかりに襲いかかってくる。

'60年代から'70年代にかけての「敵」は、ずいぶん判りやすい存在だった。 ああいや、それ以前から連綿として(たぶん明治の民権運動あたりから) 同じようなものが「敵」として存在していたのだろうけど。
ところが'80年代以降、つまりおたくが成立してからこっち、具体的な 「形としての敵」は存在せず、その姿を潜伏させている。
それでも「敵」が存在するのはたしかなんだ。俺は知っている。 だって見たもん。聞いたもん。被害を受けたもん。具体的にどういうものから どういう被害を受けたのかは説明しづらいけど、「敵」が存在するのは 間違いないんだもん。俺の魂がそう言っているんだもん。
俺は、その「敵」と戦って、倒さなきゃいけないんだ。

日本では岸田秀に代表される精神分析学派は、「敵」の正体を「父親の投影」と みなしている。が、この発想はたぶんジグムント・フロイドという男の個人的な 経験を一般論に敷衍しただけで、全面的に当たっているとは思えない。
精神分析の用語を使うなら、単に「超自我に対する自我または前意識の反抗」と するべきだろう。香山リカあたりの若い世代の精神分析医は(彼女が具体的になんと 言っているかは不勉強にして知らないが)たぶんこのへんの解釈をするんじゃないだろうか。
ま、上で書いたような書き方だと、ただの関係妄想なんですけどね。

いずれにしてもこれは、人間の、あるいは少なくとも青年の意識のかたちから 「敵」の存在が自動的に導き出される、ということである。 まず「敵」という概念があって、それから具体的な対象に結びつける、という 作業を無意識に行っているのだ。

'80年代以降の青年、といちいち書くのはめんどくさいので以下「おたく」という記号を 採用するが、おたくの世界認識もやはり、「敵」の存在を認識することから始まる。 でも、「敵」の正体は見えない。'70年代まで「敵」であった存在が「敵」としては 認識できなくなってきたり(これは団塊の世代の挫折と、それ以上に彼らがメディアを 通して挫折体験を声高に語りすぎたあたりに由来するところが大きいと思うのだが)、 本来なら超自我を象徴すべき社会的権威の失墜が(ロッキード事件以降)激しかったり、 そうした混迷あるいは近代的価値の喪失がもたらしたものだ。安易な結論だが。
ここで「まったり生きる」という'90年代的渋谷的おじゃる丸的な価値観を 採用できる者は幸せであって、いちど「敵」の存在を認識してしまった者は、 その闘争から、'80年代的コミケ的十兵衛ちゃん的価値観から逃れることができない。 (うっかり書いてしまってから思ったのだが、おじゃる丸的価値観にはもしかしたら 超自我が存在していないのだろうか。彼らにわたしが感じる違和感のゆえんは そのあたりなのかもしれない)。

そこでおたくは、具体的な「敵」を探さなくてはならなくなる。
児童ポルノ法は具体的な被害を受けるおそれがある、非常にわかりやすい「敵」だった。 だが、こうした対象が明確に存在するのはむしろ「もっけの幸い」であって、 とりあえず一段落してしまうと、またなにをしていいのか、となってしまう。 なにかきっかけがあれば、たとえば自虐史観を槍玉に挙げるとかそうしたアイディアが 見つかれば、そのアイディアをうまくアジテーションに乗せてやれば、あっさりと 付和雷同してくれるに違いないのだが。

突き詰めてみると、「敵」のもっとも有力な候補は無自覚な大衆であり彼らが生み出す 無責任な潮流であり、それはすべて自分個人に返ってくるものではある。 しかし上では述べきれなかったが、その現状を認識しながら具体的な方策を 見いだせないという閉塞感こそがおたくを誕生させた、という言い方もできる。
そして、おたくが持つもっとも有力な戦法が、アジテーションではないのか。

(主観による一面的な)現状分析終わり。引き続きアジテーション論。
アジテーションとは「無根拠あるいは主観的根拠による感情への訴えかけ」である。 この定義は、考えてみると小説と同じだ。「感情への訴えかけ」が主眼であって、 それに説得力を持たせるために、たとえば文章の力を磨いて読者を感動させようと企み、 あるいは論理的であろうとなかろうと根拠らしきものをこじつけて強引に読者を 納得させようとくわだてる。その強引さは詐欺師の口上に似ている。
小説というのは本来そういうもの、それだけのもので、そこにこめられた思想が云々と 論じるのは文学の役割である。小説と文学の関係は、素粒子と物理学の関係と同じで、 一方は気ままに振る舞い、一方は観察し記録し分析する。もっとも不確定性原理が 教えるように、観察者が対象に影響を与える場合もないわけではないが、 それはむしろ例外的事象だろう。
無根拠であることをもって文学の立場から特定の小説を否定するのは、素粒子の軌道が 予測から外れているといって怒る物理学者と同じぐらい、ナンセンスだ。 無根拠であり、アジテーションであることが、小説の特権なのだから。

とりあえず小説と書いたが、もちろんマンガでも映画でも絵画でも同じだ。 ピカソの『ゲルニカ』がなんの根拠もなく鑑賞者を感動させ、アジテーションの 目的を果たしている、というのを例に挙げておく。

というわけで以上、nutsとしては小説を書くのと等しいアジテーション活動でした。

1999/09/09