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2013/02/12 「無期転換ルール」が内包する問題点について
労働契約法が改正され、有期労働契約が5年を超えて反覆更新された場合には、労働者の申込みにより、無期労働契約に転換させる仕組み(労働契約法18条の「無期転換ルール」)が創設されたところですが、今回は、この規定に内包されていると思われる問題点について、私(島中)なりに3点ほど挙げておきたいと思います。なお、以下は、あくまで私の現時点における個人的な分析(見方)にすぎませんので、念のため。

1.自由権(契約の自由)との整合性の問題
この点に関しては、思ったほど話題にならなかったように思いますが、「無期転換ルール」は、「契約の自由」を侵害する側面を有するのではないかという点です。すなわち、有期契約にしているからには、「それなりの(無期契約にしたくない、ふさわしくない、すべきでない等の)理由があろうというもの」であって、それを「5年を超えて反覆更新されたから」という理由をもって、一律に否定してよいのだろうかという問題です。この点に関しては「入口規制にならなかっただけでもマシだ(使用者側意見)」といった見方もあるでしょうが、「出口規制」を含め、もう少し「自由権との整合性」について、検討・議論されてもよかったような気がします。

2.高年齢者法(の解釈と運用)との整合性の問題
おそらく実務上では、これが最大の問題となりそうですが、「無期転換ルール」については、「高年齢者法(の解釈と運用)」との整合性が取れていないという問題(これは「生涯雇用問題」とも呼ばれています。)があります。
高年齢者法(の解釈と運用)においては、60歳の定年後も65歳までは原則として継続雇用することが求められているのですが、この継続雇用制度においては、「有期契約」でも差し支えないとされています。つまり、高年齢者法(の解釈と運用)においては、60歳の定年を契機として、「無期を有期に転換すること」を認めていますので、「有期を無期に転換すること」を求める「無期転換ルール(労働契約法18条)」とは、基本的に相容れない(整合性が取れず、矛盾が生じる)のです。
例えば、60歳の定年退職者を1年毎の有期契約で65歳まで再雇用(定年後も継続雇用)したとしましょう。65歳で継続雇用が終了すれば、とりあえず問題は生じませんが、さらに(業務上の必要性等から)1年延長したりすると、労働者に無期転換申込権が発生し、無期労働契約を締結しなければならなくなります。つまりここでは、「無期を有期にした後に再び無期に戻る」という逆流現象が生じています(なお、実務上の対策としては、「クーリング期間を設ける」、「第二定年(70歳等)を設定する」等が考えられます)。さらに矛盾が拡大するのは、元々労働者が無期ではなく有期だった場合です。例えば、54歳のときに1年の有期契約で雇用された労働者が60歳になったときには、無期契約申込権が発生していますので、これを無期に切り替えることが可能になります。つまり、「無期の正社員が60歳の定年をもって有期に転換」するまさにその時に、「有期の非正規社員が無期に転換する」という逆転現象が生じ得るのです。
いずれにせよ、「無期転換ルール」が実際に始動するにはもう少し時間があるでしょうから、この「生涯雇用問題」がどのように展開するかについては、今後とも様子(行政や各企業の動向等)を注視していく必要があるでしょう。

3.実際上の有効性の問題
今回の労働契約法の改正は、大きく、「無期転換ルール(18条)」、「雇止め法理の条文化(19条)」、「有期契約であることによる不合理な労働条件(差別)の禁止(20条)」の3点ですが、この3つについては、それぞれ「過去の理念(18条)」、「現在の理念(19条)」、「将来の理念(20条)」を代弁しているように思えます。
まず、現在の労働契約法は、基本的には、「判例法理を条文化した法律」ですので、「19条(雇止め法理の条文化)」の規定がこれに最もふさわしく、従って「現在的」だろうと思われます。
次に「20条(有期契約者に対する差別禁止)」は、未だ「判例法理」として確立した内容とはいえませんが、「将来的には、判例法理にまで高まることが見込まれる内容」なのだろうという意味で「将来的」と思われます。
「差別禁止」の対象は、その(時代的)不合理性の程度に応じて(歴史的に)拡大してきています。「身分」、「国籍」、「門地」、「信条」、「労働組合活動の有無」などは古くから「不合理な差別」として禁止されてきました。近年、「不合理な差別」として禁止が定着してきたのは何といっても「男女差別」でしょう。そして、時代はさらに進んできており、「年齢」による差別禁止(今のところ入口規制)、「所定労働時間」による差別禁止(今のところパート労働法による部分規制)などと並び(又はそれ以上に)「契約期間」による差別禁止が普及・拡大する時代を迎えていると考えられるのです(今後は、「合理的な差別」はますます「職務内容と変更範囲」のみに集約されていくでしょう)。
これらに対し「18条(無期転換ルール)」については、(失礼な言い方になるのかもしれませんが)、「過去のもの」という印象を受けます。
「有期を無期に転換すべき」という主張の背景には、「有期より無期の方がめぐまれている(=解雇されにくい・労働条件がよい)」という、漠然とした、旧態依然の考え方があるように思います。しかし、実態や過去がそうであるからといって、「有期・無期の区別」と「雇用の安定度・労働条件等」に「理論(必然)的な相関関係」があるわけではありません。しかも、今回の法改正によって、「有期だからという理由で簡単に首を切ることはできないこと」は19条に、「有期だからという理由で労働条件を下げてはいけないこと」は20条に規定されてしまったわけです(となると、少なくとも理論上では、有期を無期にするメリットは、「締約更新の手間が省ける」程度でしかありません)。
派遣法など近年の法改正においては、ややもすると、「問題になっているのだから禁止して(できなくして)しまえばいい」という考え方が見え隠れしているように思えます。「存在している」からには「それなりの存在理由があろうというもの」ではないでしょうか。「問題があるから、存在そのものを消し去る」という態度ではなく、「存在を活かしつつも、そのことによってできるだけ問題(弊害)が生じないように改善しよう」という態度が求められているように思います。

2011/02/27 労使協定の効力
労使協定の効力については、次のような「有名な通達」があります。
「労働基準法上の労使協定の効力は、その協定に定めることによって労働させても労働基準法に違反しないという免罰効果を持つものであり、労働者の民事上の義務は、当該協定から直接生じるものではなく、労働協約、就業規則等の根拠が必要なものであること(昭和63.1.1基発1号)」
そこで、「労使協定の効力=免罰効果(刑事免責効果)・民事的拘束力なし」という図式が生まれ、これを「金科玉条」のごとく考えている人が見受けられるのですが、これは「だいたい」そうなのですが、「完全に」そうといえるものではありませんし、将来的には「ますます」そうとはいいきれないものになっていくだろうと思いますので、今回はその辺のお話をしたいと思います。

<労使協定の効力は、基本的には、「原則的な規制の解除効果」である>
例えば、労基法24条の条文の労使協定に係る言い回しをみてみましょう。ごく簡単にいうと「賃金は、その全額を支払わなければならない。ただし、(法令に別段の定めがある場合又は)労使協定がある場合には、賃金の一部を控除して支払うことができる」という言い回しになっています。従って、労使協定の効力は、素直に見る限り、「全額払い」という「原則的な(強行的又は一律的な)規制を解除(緩和)する効果」であるということができます。しかしこのことはまた、原則論からいうと「違法」である「一部控除」の「違法性を阻却(消滅)させる効果」であるということができますし、もっというと、違法性がなくなる以上罰則の適用もなくなるわけですので「免罰効果(刑事免責効果)」ということができるわけです。

<「免罰効果」と表現する背景には、「本来はしてはいけないものである」という考え方がある>
条文を素直に読む限り、労使協定の効力は、「原則規定の解除効果」とでも表現するのが妥当なところ、わざわざ「免罰効果」と表現する背景には、「本来はやってはいけないことなのだ」という考えがあるのだろうと思います。おそらく、冒頭に記した通達は、「三六協定」を強く意識しており、「三六協定」に限っていえば、この通達は「ぴったり」です。この通達を「心情的」に翻訳するとこうなるでしょう。「労働者を8時間を超えて労働させたりなんかしてはいけないのです。しかし、三六協定を締結すればそれが認められるのです。しかしやっぱりしてはいけないことなのです。三六協定があるからといって、堂々とやってもらっては困るのです。しょうがないから認めているだけなのです。ほんとは限りなく違法に近いのですが、だからといって「罰則の適用」まではしない(事実上の黙認)ということなのです。」(従ってまた、三六協定に拘束力を持たせようなどとは「とんでもない話」なのです)

<時代は変わる・その1−「免罰効果」的発想から「労使の自主性重視」へ>
「三六協定」の場合は、「免罰効果」という表現が「ぴったり」ともいえるでしょうが、「二四協定」の場合は、あまり「ぴったり」ではありません。ガソリン代や寮費などを賃金から控除することは、どちらかというと「事務手続上の利便性」の問題であり、「違法性の側面」はさほど強くないからです。
労使協定の効力である「原則規制の解除効果」を否定的(消極的)に見ていくと「免罰効果」にたどり着くのですが、肯定的(積極的)に見ていくと、労使協定は、原則的(一律的)な規制を解除(緩和)し、その部分を「労使の自主的判断・協議に任せようとするもの」であり、近年はますますその傾向が強まっているといえるでしょう。
例えば、変形労働時間制の多くは、労使協定の締結を採用要件としていますが、これらの労使協定は、「1週40時間・1日8時間」という原則的規制を解除し、労使の自主的な判断や協議に委ね、もって労働時間の短縮を図る等の目的で締結されるもので、「やってはいけないこと」をやるというより「(状況によっては)むしろ好ましいこと」をやるためのものといえるでしょう。

<時代は変わる・その2−「私法上の効力なし」から「私法上の効力あり」へ>
「三六協定」の場合は、それに民事的拘束力{それがあることを根拠として、当事者を拘束(民事上の義務を課す)すること}を持たせることは、「とんでもない話」といっても過言ではないように思いますが、この対極に属するとでもいえるのが「三九協定(年休の計画付与)」でしょう。この「三九協定」の効力については、次の判例が「(専門家の間では)有名」です。
「会社と過半数組合との間で締結された書面による協定で、年休の時季指定が集団的統一的に特定された場合、その日数についてこの労働者の時季指定権と使用者の時季変更権はともに排除され、その効果は、協定の適用につき著しく不合理又は不公正な事情がない限り、当該協定の適用対象とされた事業場の全従業員に及ぶ(三菱重工業長崎造船所事件・平成6年福岡高判決)」
また、厚労省も通達で「計画的付与の場合には、労働者の時季指定権及び使用者の時季変更権はともに行使できない(昭和63.3.14基発150号)」としており、同様の見解をとっています。
これは、三九協定という労使協定は、「免罰効果(拘束力なし)」という次元を遙かに超えて、「直接に当事者を拘束する効力を有するもの」と解釈できるということであり、「私法上の(権利義務関係を生じさせる)効力」を有するものにまで「発展」してきたということです。
労使協定のこのような性格は、「育児介護休業法」における「労使協定」ではっきり現れるようになってきており、同法においては、「労使協定を定めることにより、事業主は育児休業の申出を拒むことができ、拒まれた労働者は育児休業を取得することができない」と規定される(「私法上の効力」がはっきり認められる)ようになってきています。

<時代は変わる・その3−「就業規則より下」から「就業規則より上」へ>
このように、労使協定の効力は「強化される傾向」にあるのですが、そうなればなるほど、その「法的地位」も向上してきます。この傾向がはっきり現れてきたのが「高年齢者雇用安定法」における「労使協定」です。
ごく最近の話題ですので、記憶に新しいと思いますが、今年の4月から、高年齢者の継続雇用に係る基準を「就業規則等」に定めてもよいという特例が使えなくなり、「労使協定」に定めなければならなくなります。ところで、これはどういうことでしょうか? 「就業規則より、労使協定の方が上位に位置づけられている(平たく言うと「偉い」)」ということであり、なぜそうなのかというと、「就業規則は使用者が勝手に決めるもの」であるのに対し、「労使協定は、労働者代表との協議の上で決めるもの」だからです。

<ついでに−すでに労使協定は労働協約より「強くなっている」ところがある(適用範囲)>
「労働協約」の場合、そtれは使用者とその労働組合の間に締結されるものですから、原則として(一般的拘束力により拡張適用される場合等を除き)、「その労働組合の組合員」にしか適用されません。これに対し、「労使協定」の場合は、その事業場全体の代表者と締結するという性格があることから、その事業場の「全従業員」に適用されるものであり、「(人的)適用範囲」からみると、すでに労働協約より「強力」な側面も有しているといえるでしょう。

<まとめ−時代の方向性>
これまでに見てきた「労使協定」の「効力やとらえ方の変遷」は、労働行政が「一律的・強行的規制」から「労使の自主的判断・協議に任せる」という方向性に動いてきているということであり、この延長線上に「労使委員会(衛生委員会)」の活用という、労使協定よりさらに民主的な仕組みの導入の模索が始まっているということです。また、これに応じて、これまでの、労使協定や労使委員会やその決議等と、就業規則や労働組合や労働協約等との「効力(上下)関係」も変わっていかざるを得ないでしょうし、その「折り合い」をどうつけていくかも課題となっていくでしょう。
ところで、最終的に私が何をいいたかったのかというと、実は上記に書いたこと自体ではなく、「労使協定」は「重要なものなのだ」という認識を、今後は強く持つようにしていただきたいということです。かつて「就業規則」に「きちんとした規定」がなくても「何とかなった(逃げ切れた)時代(当然「労使協定」はほとんど問題にならなかった時代)」がありました。しかし、今日は、「就業規則」が整備されていないと「とんでもない事態」に陥ることが多発する時代になっており、やがて「労使協定」についてもそうなるであろうということです。関係事業所では、きちんと労使協定が締結されているでしょうか? 過半数代表者の選出手続きは適法に行われているでしょうか? 従業員への周知はきちんとなされているでしょうか? 労使協定に書かれていることと実際にやっていることがぜんぜん違うものになっていないでしょうか? そろそろ一度再確認すべき時期が来ているのではないでしょうかね〜。

2010/12/20 労組法第7条の使用者 
これまで、派遣先と派遣労働者との間の「雇用関係」について、法人格否認の法理、黙示の労働契約、みなし雇用論と話を進めてきたのですが、この「オマケの話」として、「労働組合法第7条の使用者」の話をしておきましょう。
というのは、もし派遣先が労働組合法第7条[不当労働行為]に規定する「使用者」に該当するとすれば、派遣労働者は合同労組に加入するなどして労働組合を通して団体交渉を申し込むことが可能(派遣先は拒否できない)であり、もしそうだとすれば、団体交渉で直接雇用を要求することができるかもしれず、もしそれも可能だとすれば、(言い方が不適切ですが)「ゴリ押し」でなんとか派遣先に雇用してもらうという道も開けるというものだからです。果たしてそんなことが可能となるのでしょうか? これを少し考察してみましょう。

<労組法第7条には何と書いてあるか>
まず、労働組合法第7条がどのように規定しているかを確認しておきますと、同条は冒頭で「使用者は、次の各号に掲げる行為をしてはならない」と規定し、第2号に「使用者が雇用する労働者の代表者と団体交渉をすることを正当な理由がなく拒むこと」と規定しています。
従って、単純に読む限り、派遣労働者にとって派遣先は当該「使用者」に該当しないことになります。なぜなら、派遣先は派遣労働者を「雇用していない」からです(これは逆にいうと、例えば「法人格の否認の法理」等によって「雇用関係」が認められれば、当該「使用者」に該当してくるということでもあります)。

<最高裁や通説の見解は?>
もっとも、これまで考察してみたところからも明らかなように「字面通りにはならない」のが「法律解釈の世界の常識」みたいなものですので、実際には、当該「使用者」はもっと広く解されています。
例えば、最高裁は、「労働組合法第7条にいう『使用者』の意義について検討するに、一般に使用者とは労働契約上の雇用主をいうものであるが、同条が団結権の侵害に当たる一定の行為を不当労働行為として排除、是正して正常な労使関係を回復することを目的としていることにかんがみると、雇用主以外の事業主であっても、雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的にとはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて、右事業主は同条の『使用者』に当たると解するのが相当である(朝日放送事件・最高小平成7.2.28)。」と判示しています。
また、菅野先生は(いくつかの条件や前提付きでそう述べられているのですが)「派遣先企業は、当該派遣就業の実態のなかで派遣労働者の労働条件に関し実質的な支配力(決定力)を有している場合には、そのような労働条件につき派遣労働者に対して団体交渉義務を負うこととなる(菅野和夫『労働法』)」と述べられており、これが通説的見解といえるでしょう。
(参考)
上記のほか、労働者派遣法は、第44条及び第45条に、労基法及び労働安全衛生法の適用に関する特例規定を設け、同法の一定の規定については、「派遣先」を「使用者(事業者)」とみなして適用することとしているわけですので、これを根拠に、少なくとも当該規定に関しては、派遣先についても団体交渉義務が発生するという考え方も成立します(有力説)。

<直接雇用の要求を交渉事項とすることができるか?>
判例や通説的立場に立つ限り、実質的な支配・決定力を有していると認められる(又は派遣法の特例規定の適用を受ける規定に関する事項であるような)場合には、派遣先といえども団体交渉義務を免れないということになりますが、さらに進んで、「直接雇用の要求」を「団体交渉事項」とすることはできるのでしょうか?
この問題については、団体交渉における義務的交渉事項は「労働条件その他待遇に関する事項」と考えられており、これには「採用」は含まれないとするのが最高裁判例や通説の考え方ですので、まずは「義務的交渉事項にはならない(派遣先は、直接雇用を要求する団交に応じる必要はない)」と考えておいて差し支えなく、この時点でこの「オマケ話(ゴリ押し作戦)」も「おしまい(頓挫)」になるのですが、実はこれにも更なる「オマケの話」がありますので、最後にその「オマケ話のオマケ話」をしておきましょう。
(参考)
上記に関連して最高裁は、「雇入れの拒否は、それが従前の雇用契約関係における不利益な取扱いにほかならないとして不当労働行為を肯定することができるなどの特段の事情がない限り、労働組合法第7条1号本文にいう不利益な取扱いに当たらないと解するのが相当である(JR貨物鉄道事件・最高小平成15.12.22)。」と判示(これはつまり、雇入れの拒否は、特段の事情がない限り、団体交渉の義務的交渉事項にはならないということです。)しています。

<労組法第7条の使用者の判断には「時間的な近さ」の判断も加わる>
派遣先が当該「使用者」に該当することになるかどうかは、「実質的な支配・決定力を有しているかどうか」、すなわち、「純然たる使用者(雇用主)」に対する「実質的な近さ」が判断基準となるわけですが、「時間的な近さ」が判断基準とされることも少なくなく、特に(私見では)労働委員会の判断においては、その傾向が強いように思います。
この「時間的な近さ」というのは、例えば「解雇直後(正確には解雇が成立したかどうか定かではない段階)」は、使用者側から見れば、すでに「純然たる使用者(雇用主)」ではなくなっているのですが、当然にも(そう認められていない以上)その解雇問題を交渉事項とする団体交渉に応じなければなりません。しかし、そういうことがなく長期間が経過していくと使用者性は次第に薄れていき、しまいには「使用者」として団体交渉に応じる必要もなくなるときがやってきます。
同じような(時間的な近さの)問題は、「採用」の場面でも発生します。例えば、労働者がそれまで雇用と再雇用を繰り返してきていたような場合、「次回の雇用の要求」には(相手が雇用していない労働者であるにもかかわらず)「使用者」として団体交渉に応じなければならない可能性が高くなります。
この点については、労働委員会の判断においてはさらに踏み込んだ見解が見られ、「労働組合法第7条にいう『使用者』とは、必ずしも当該労働者を現に雇用しているもの(雇用契約上の事業主)に限られるわけではなく、その者との間に、やがて(近い将来)雇用関係の成立すること(可能性)が現実且つ具体的に存する者(は雇用主と同視できる関係にあり)もまた使用者と解すべきである(日産自動車及びプリンス自動車工業事件・東京地労委命令昭和41.7.26/ヤンマー不当労働行為再審査事件・中労委命令平成22.12.13)。」とする命令例もあります。
何がいいたいのかといいますと、これは「派遣労働者」より「有期契約労働者」に対する場合の方がもっと大切なのですが、今時「変な(契約更新・再雇用・将来採用見込み等の)期待を労働者に抱かせる」言動(発言)をしてしまう(ある意味お人好しの)人事担当者(経営者・管理者)は、「人事担当者としては失格の部類に属する」ということなんですね(すみませんと一応謝っておきます)〜。

2010/12/15 みなし雇用論の続き 
前回は、主として「みなし雇用の類型」についてお話ししましたが、次は「みなし雇用制度を導入するとした場合の問題点」をみるところから始めてみましょう。

<問題点1−憲法違反の疑いが濃厚であること>
これは前回お話した通りなのですが、おそらくこれが最大の問題点といえるでしょう。

<問題点2−発動場面が不明確であること>
みなし雇用は、いくつかの「違法行為を行った場合」に発動されるのですが、実際には「違法行為に該当するかどうかの判断」は難しいのです。例えば「偽装請負を行ったとき」がこれに該当するのですが、「請負」と「派遣」の区別(境目の判断)は困難であり、実際によくもめているところです。あるいは「派遣制限期間を超えて派遣を受け入れたとき」もこれに該当しますが、この判断も困難です。というのは、もしその業務が「専門26業務」に該当するのであれば制限期間の適用を受けませんが、「一般業務(自由化業務)」に該当するとなると制限期間の適用があるところ、「専門26業務」と「一般業務」の区別(境目の判断・これに「付随業務」や「付随的業務」に該当するか否かの判断も加わります)は困難で、特に最近では行政指導の強化により、これまで「専門26業務(付随業務)」として通用してきた業務が「一般業務(付随的業務)」として指導される(しかもそれに必ずしも統一性がみられない)などして、一部で混乱が生じているのが実際のところです。
また、みなし雇用は、「違法行為を行った場合」でも発動しない場合もあり、改正法案では「善意(違法であると知らなかったこと)・無過失(知らなかったことについて過失がないこと)」をその要件(発動の解除要件)としているのですが、実際にこの判断をするとなると、これまた相当の困難が生じるでしょう。

<問題点3−みなし雇用後の契約内容の設定が困難であること>
みなし雇用として、派遣先との間に労働契約を成立させるからには、その契約内容(労働条件)を決めなければなりません。私個人的には、基本的に「その会社で同様の業務に従事する従業員の契約内容(労働条件)に合わせる」のが妥当なところだろう(そうしないと、その会社内での均等・均衡待遇が保てなくなり、場合によっては会社内における従業員の不当処遇という新たな問題が生じるのではないでしょうか)と思います。
そこで改正法案がどのように規定しているのか見てみますと「違法行為が行われた時点における当該派遣労働者に係る労働条件と同一の労働条件を内容とする労働契約の申込みをしたものとみなす」としています。これは、「その派遣労働者の時給が1000円であれば、時給を1000円として雇い入れる」とでもいいたいのでしょうが、正直「お粗末」という印象をぬぐえません。「労働条件」というからには、例えば「賞与や退職金」も含まれます。もし、その労働者が(場合によっては派遣元と組んで・しかも派遣先は派遣労働者と派遣元との契約内容を知らない−通知義務はありませんので−はずです)高額の賞与や退職金をもらうという労働条件で派遣元に雇用されていたのであれば、その高額な賞与や退職金を支払わなければならなくなり、派遣先の従業員間で待遇の著しい不均衡が発生することになるでしょう。あるいは、「契約期間」はどうなるのでしょう? 改正法案にいう「労働条件」に「契約期間」が含まれるかどうか条文を見ただけでは定かではありませんが、もし含まれるとして、そしてその契約期間が「無期(期間の定めのない労働契約)」であるとすれば、みなし雇用の際に「無期契約」を締結しなければならなくなり、これは派遣先にとっては受け入れがたいもの(その結果、かえって雇用が促進されないことになる)でしょう。
(参考)
派遣労働者が「無期契約」であった場合には、派遣元での雇用関係が安定している労働者について、新たに派遣先との雇用関係を成立(みなし雇用)させるわけで、いわゆる「引抜き」を行うことになり、国や法がこのようなことを助長(関与)してよいのかという問題も発生します。

<所詮は「無駄な試み」にすぎないのではないでしょうかね>
さて、これまで「みなし雇用の問題点」を考察してきたところですが、実は私は「みなし雇用論」は所詮「無駄な試み」にすぎないと思っています。「みなし雇用論」の背景にあるのは「雇用の安定」で、それは「有期契約労働者の雇用は不安定で、派遣労働者の雇用はもっと不安定である。従って、派遣労働者は直接雇用に、しかもそれは、有期雇用よりも無期雇用になるのが望ましく、そうすることにより、より雇用が安定する。」という考えだろうと思います。果たしてそうなるでしょうか?
ここに、派遣労働者50人、有期契約労働者(パート・アルバイト等)50人、無期契約労働者(正社員)100人の計200人で構成されている会社があるとします。この会社で受注が急激に落ち込み、70人をリストラしなければならない(そうしないと会社自体が倒産してしまう)事態に陥ったとします。一般的かつ単純に考えると、派遣労働者50人は全員「派遣切り」になり、有期契約労働者は50人のうちの20人が「雇止め」になり、無期契約労働者の「解雇」は生じないという計算になります。
では、ここで「構成割合」を変えてみましょうか? この会社が、「雇用の安定」を考えて、派遣労働者のうち40人を直接雇用(有期雇用)に切りかえたとします。そうすると、この会社の構成は、派遣労働者10人、有期契約労働者90人、無期契約労働者100人ということになります。そこで、全く同じ現象(受注減→70人リストラ要)が生じたとしてみましょう。すると、今度は派遣労働者10人の全員が「派遣切り」になり、有期契約労働者90人のうち60人が「雇止め」になる計算になります。ところで、派遣から直接雇用(有期雇用)に切り替わった40人の「雇用の安定」は保たれたでしょうか? 保たれなんかしないのです。40人は全員がリストラの対象になり、変わった点と言えば、「派遣切り」としてではなく「雇止め」としてリストラされたという点にすぎないでしょう。
つまり、リストラ(解雇)されるかどうかは、本質的に、リストラ(経済変動)の規模の大きさとその人のリストラ度の順位(会社からみた従業員としての有用性の低さの順位)で決まるのであって、従業員としての地位・身分(派遣・有期・無期)に変更があったからといって、その事情に変更があるわけではないのです。リストラ度(順位)50番目の人であるとした場合、リストラ人数が70人であればその人はリストラされるでしょうし、リストラ人数が20人であればその人はリストラされないでしょう。そして、このことと従業員としての地位は基本的に「無関係」(その人が派遣であるか、有期であるか、無期であるかは関係ない)のです。

<最後に>
さて、これまで「みなし雇用論」について述べてきましたが、結局のところ、私の見解としては、違憲性が高く、導入による混乱も大きく、また、どうやら雇用の安定に寄与するわけでもないようだということで、「やめておいた方がマシ」という結論になってしまうのですが、私も「策」を考えていないわけでもありません。例えば、「雇用確保(身分変更)」で対応するといった対応はあきらめて、フランスで事実上そうしているように「お金(補償金)の支払い」で対応するのが現実的だとも思いますが、私は「雇用保険制度に労災保険制度の仕組みを取り入れる」のはどうかと思っています。
経済変動(経営環境の変化)は必ずあるものですし、その大きさによっては誰かが「貧乏くじ」を引くことになるというのが現実であって、それに対して雇用形態をいじったところでどうなるというものでもない(そんなことをしても所詮、経済法則には勝てませんし、雇用形態や勤務形態を硬直化・均一化させればさせるほど競争力や自由度や多様性や創造性は低下する傾向がみられ、それはやがて企業の活力低下・競争力低下・弱体化をもたらし、長期的・結果的にはむしろ雇用能力を失わせる危険性が高まるとも考えられるのです。)わけですから、もっと前向きに(現実に問題にきちんと対応できるように)視点を変えて、「その危険(損害)をその貧乏くじを引く人に押しつけるのではなく、関係者全員が合理的な配分で負担する仕組み」を考えるべきで、私はその1つの手法としてこれを考えているのです。
具体的には、まず、雇用保険の適用業種を細分化し、失業者の発生割合(派遣切り・雇い止め・解雇等の発生割合)の実績に応じて、保険料率を毎年見直すようにするのです。派遣切りや雇止めや解雇を派手にやっている業界の保険料率(基本的には事業主負担分)は高くて然るべきです。さらに「メリット制」も導入します。各企業についても、失業者の発生実績によって保険料率を上下させるようにすれば、自助努力も期待でき、みなし雇用といったへたな罰則を適用するより効果があると思うのですが? はてさて、どうなんでしょ?

2010/12/14 みなし雇用論 
前回は、そもそも「請負業者の労働者や派遣社員」と「注文者や派遣先」との間には、「雇用関係」が「ない」のだけれども、それが「ある」と主張できる「理論(半分「ヘリクツ」と言ってよいのかもしれませんが)」があり、それが「法人格否認の法理」や「黙示の労働契約論」であることをお話し、最後に、「労働者と派遣先との間に労働契約を成立させるための、『より強力な別の突破口』」があることまでお話しました。今回は、その「続き(みなし雇用論)」をお話したいと思います。

<派遣元と派遣労働者に雇用関係を成立させるためには、どのような手があるか?>
これから先は、「注文主と請負業者の労働者」のことは脇に置いておいて(構図は同じですので)、「派遣元と派遣労働者」ということで話を展開します。
さて、「黙示の労働契約論」や「法人格否認の法理」を用いずに、「派遣先と派遣労働者に雇用関係がある」とするためには、もはや「新たに成立させる」しか手がありません。すなわち、「黙示の労働契約論」や「法人格否認の法理」が「派遣先と派遣労働者との雇用関係が「もともとある(成立している)」とするのに対し、(もともとどうなっているかはともかく)「とにかく成立するとする(成立させる)」のです。

このやり方としては、大別して「4種類」ほど考えられます。

<第1のやり方>
第1は、「違法行為の制裁として、派遣先に派遣労働者の雇用義務(又は雇用申込み義務)を課す」という手法で、平成20年の政府法案(自民党時代の改正法案)がこれに沿った考え方をしており、「派遣先が違法行為を行った場合に、行政が、派遣先に対し派遣労働者に雇用契約を申し込むことを勧告する」とするものでした。
この手法の最大の弱点は、「私法上の効力に欠ける」という点で、たとえ「雇用しなければならない(義務がある)」と派遣法に明記したとしても、一般的には私法上の効力を有するとまでは解釈されない(もっとも、そう「解釈できない」というわけではありませんが)でしょうし、強制力としてはおそらく「行政指導(指導・勧告・公表)に頼るしかない」ということになるでしょう。

<第2のやり方>
第2は、「無許可派遣元である場合に、派遣元事業主が存在しない(派遣元事業主と派遣労働者の間に雇用契約が存在しない)ものとし、それを根拠として派遣先との間に雇用契約を成立(擬制)させる」という、いわば「法人格否認の法理」と「みなし雇用論」の中間的な考え方にもとづくもので、「ドイツ」で採用されていると思われる手法です。
この手法の最大の弱点は、「適用範囲が狭い」という点で、無許可である場合でなければ(許可さえ受けていればよく、他の違法行為があったとしても)雇用関係を成立させることができないので、実際に雇用関係が成立する場面が圧倒的に少なくなるという点です。
(参考1)
第2から第4までが、いわゆる「みなし雇用論」というもので、「みなすこと=法令により、当事者が異なる事実を主張するること(例外や反証)を許さない(絶対的な)ものとして法律関係を確定すること(法律上の擬制を行うこと)」によって、「直接に私法(民事)上の効力(雇用関係)を発生させる」という点で、従来の派遣法や上記の第1のやり方(考え方)とは大きく異なるものです。
(参考2)
平成20年5月30日「第6回今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会議事録」では、「ドイツのみなし雇用制度」については、厚生労働省事務局から次のように解説されています。
「ドイツのみなし雇用制度ですが、要件として、無許可の事業主が派遣した場合に発動されます。この趣旨ですが、ドイツにおいては無許可の事業主が派遣した場合には、派遣元と派遣先の間の契約、派遣元と派遣労働者との間の契約が無効になると法律上規定されておりますので、法的帰結としてこういったみなし雇用制度があるということです。その際の労働条件ですが、労働時間はもともと派遣元と派遣先の間で予定されていた時間で、それ以外については派遣先の規定によることが原則とされております。この場合、正当な理由がある場合には有期雇用の形になります。備考に書いてありますが、許可事業主が違法派遣を行った場合には、みなし雇用規定を発動しないことになっており、派遣労働者を雇用していないにもかかわらず、念のため許可を取得する傾向が見られるということがあります。」

<第3のやり方>
第3は、「違法行為の制裁として、雇用関係があるものとみなす」という手法(最も典型的で過激な「みなし雇用論」)で、かつての「3党(民主・社民・国民)法案」がこれに沿った考え方をしており、「派遣先が違法行為を行った場合には、派遣労働者は、自己の雇用主とみなす旨を通告でき、当該通告があった場合には、派遣労働者と派遣元との間の雇用契約は派遣先との雇用契約に移転したものとみなす」とするものでした。
この手法の弱点(欠点)は、2つほどあって、1つは、「採用の自由」という、重大な自由権を侵害し、憲法違反とも考えられるということであり、もう1つは、(基本的には同じことともいえるのですが)、合意のみられないところに強制的に契約を成立させており、「合意契約の原則」に反するということです。
(参考1)
「採用の自由」は、どのような考えが好きか嫌いか、どんなタイプの人と組みたいか組みたくないか等という「精神的自由」に直結(連結)してくる自由でしょうから、例えば「解雇の自由」などより高度に尊重されるべき(侵害されるべきでない)自由でしょう。俗っぽくいいますと、「○○だから(有責行為の制裁や責任や決定事項として)この人(好きじゃない人)と離婚(解雇)するな」が比較的通用しやすくても、「○○だから(有責行為の制裁や責任や決定事項として)この人(好きじゃない人)と結婚(採用)しろ」はそう簡単に通用するものではないということです。
なお、「採用」と「解雇」とでは「話(自由度のレベル)が違う」という点に関しては、最高裁は次のように判示しています。「企業者は、労働者の雇入れそのものについては、広い範囲の自由を有するけれども、いったん労働者を雇い入れ、その者に雇傭関係上の一定の地位を与えた後においては、その地位を一方的に奪うことにつき、雇入れの場合のような広い範囲の自由を有するものではない。労働基準法第3条は、前記のように、労働者の労働条件について信条による差別取扱を禁じているが、特定の信条を有することを解雇の理由として定めることも、右にいう労働条件に関する差別取扱として、右規定に違反するものと解される。このことは、法が、企業者の雇傭の自由について雇入れの段階と雇入れ後の段階との間に区別を設け、前者については企業者の自由を広く認める一方、後者については、当該労働者の既得の地位と利益を重視して、その保護のために、一定の限度で企業者の解雇の自由に制約を課すべきであるとする態度をとっていることを示すものといえる。」(三菱樹脂事件・最高大昭和48.12.12)
(参考2)
「フランス」では、この第3のやり方が採用されていると思われるのですが、日本で一般に言われているような、その後の継続雇用の拡大に寄与するような性格のものでもないのだろうと思います。これについても、平成20年5月30日「第6回今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会議事録」における、「フランスのみなし雇用制度」についての厚生労働省事務局の解説をあげておくと次の通りです。
「フランスのみなし雇用制度ですが、要件として、派遣期間の終了後派遣先企業で労働者派遣契約を結ばずに派遣労働者を就労させた場合、派遣先企業が利用事由や諸規定に違反して派遣労働者を利用した場合に発動することとされております。その趣旨は民事制裁で、労働条件については期間の定めのない労働契約とされることになっております。備考に書いてありますが、期間の定めのない労働契約とみなされた場合であっても、派遣先で引き続き働き続けるということではなく、結局解雇されて補償金を支払うことが多いということで、解雇法制の違いがあって、違法な解雇でも有効とされ、その場合に補償金を払うことがあるので、このような形で解決が図られております。」

<第4のやり方>
第4は、「違法行為の制裁として、雇用契約の申込みをしたものとみなす」という手法で、これが「現在継続審議となっている政府法案」において採用されている手法です。
この手法は、第3の手法の2つめの弱点(欠点)である「合意がない」に「配慮」したもの、すなわち、「使用者が雇用契約を申込み、それに労働者が応じる」ということで、まがりなりにも「合意」を形成させている点で、第3の手法よりよく考えられた(練られた)手法といえるでしょう。しかし、最大の弱点(欠点)である「採用の自由を侵害している(憲法違反の疑いが濃厚)」という点では変わりはないのです。

話が長くなってしまいましたので、この先の話(まだこれからいいたいことがいろいろあるんです。)はまた後日。

2010/10/17 黙示の労働契約 
最近の労働事件の判決で最も印象に残っているものは何でしょうか? 「みなし管理職問題」が問われた平成20年の「日本マクドナルド事件判決」と答える方も少なくないと思いますが、法律コンサルティングなどをしている方だと、「黙示の労働契約問題」が問われた、同年(平成20.4.25)の「松下プラズムディスプレイ事件・大阪高裁判決」と答える方も多いのではないでしょうか? 

この事件は、請負会社の期間工(派遣社員)と注文者(派遣先)との間に「(黙示の)労働契約(雇用契約)」が成立するかどうかが問われた事件で、一審の大阪地裁判決(平成19.4.26)では、これを否定したのですが、二審ではこれを肯定しましたので、結構「びっくり仰天した」関係者も少なくなかったのではないでしょうか{ほんとをいうと私もその一人なのですが。もっとも、最後は最高裁が再び否定する判断を示しました(平成21.12.18)ので、これは確定するには至りませんでした}? そこで今回はこの「黙示の労働契約」について述べてみましょう。

<労働契約の成立要件はどうなってたんだっけ?>
労働契約の成立要件については、現在では、労働契約法第6条に「労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する」と明記されています。つまり、労働契約は、「使用従属関係(使用者の指揮命令の下での労務提供関係+賃金支払関係)」があることが認められるだけでなく、その関係についての「明示又は黙示の合意」も認められなければなりません{古くは、「使用従属関係」のみで、労働契約(雇用関係)の成立を認める学説(事実的労働契約関係説)や判例もありましたが、現在ではほとんどこの立場を採る学説・判例はなくなったと考えておいてよいと思います}。

<ところで、そもそも、「請負業者の労働者や派遣社員」と「注文者や派遣先」との間で、労働契約(雇用関係)が成立するんだっけ?>
まず、業務請負(構内請負)の場合、労働者は、注文者の構内(会社内)で労働するわけですが、指揮命令は請負会社が行いますので、「使用関係」は請負会社との間にあり、注文者との間にはありません。他方、労働者派遣の場合は、派遣先の指揮命令の下で労働しますので、「使用関係」は派遣先との間にあります。しかし、業務請負(構内請負)の場合であれ、労働者派遣の場合であれ、労働者(注文者の構内で労働する労働者や派遣先の会社で労働する派遣労働者)は、請負会社や派遣会社との間に「雇用関係(労働契約関係)」があり、注文者や派遣先に「雇用」されている(注文者や派遣先との間で「労働契約が成立」している)わけではありません(「実態」はともかく、少なくとも「理論上」はそうなります)。

<上記の「論理」をひっくり返せますかね?>
ところで、あなたは請負労働者若しくは派遣労働者又はその友人であったとして、注文者又は派遣先との間に「労働契約関係(雇用関係)」が成立していることを主張したいと思ったとします。何か「妙案」を思いつきませんかね?

一番てっとり早い「妙案」は、おそらく「請負会社又は派遣会社を消滅させてしまうこと」です。つまり、こう主張するのです。「あなたたちは、請負会社や派遣会社が『ある』といっているが、私は『ない』と思っている。請負会社とか派遣会社とか呼ばれているのは独立した存在とは認められず(形式上のものにすぎず)、実は、注文者や派遣先が、採用・賃金その他の労働条件・配置・解雇等のすべてを決めて(支配して)いて、事実上その一部(出先機関)にすぎないのが実態である。従って、私は、その『本体(背後の支配者)』である注文者や派遣先に雇用されているのである」

注)上記の論理のことを「法人格否認の法理」というのですが、これは元々は、商法上の論理で、例えば、親会社が事実上その一部門にすぎない子会社を倒産させて債務をチャラにしようと画策したような場合に、債権者が親会社の責任を追及する(「陰の首謀者であるあんたが金払え」という)ための論理なのですが、近年はこれを労働事件の論法として用いる事例が、しかも当初は「退職金等の支給」を求める事例が多かったと思うのですが、最近では「雇用関係の成立(従業員たる地位の保全)」を主張する事例が増えているのです。

そして、この論理は、注文者や派遣先が請負会社や派遣会社の「親会社」であるとか、これらが「グループ関係」にある場合(人的・資本的関係が密接である場合)には、結構「強力に通用」し、この論理で注文者又は派遣先との雇用関係を認めた判決も少なからず出るようになってきています(ナブテスコ事件・平成17.7.22神戸地判決等参照)。

<上記の論理(法人格否認の法理)が使えないような場合でもひっくり返せるのでしょうか?>
上記の論理(法人格否認の法理)は、逆にいうと、請負会社や派遣会社が、注文者や派遣先と全く関係がなく、「完全に独立した存在」と認められる場合には、「使えない」ということです。松下プラズマディスプレイ事件の場合、注文者(松下プラズムディスプレイ)と請負会社・派遣会社(パスコ・アクティス)とは、全くの「別会社」でしたので、おそらくほとんどの関係者が「労働契約が成立する(雇用関係が認められる)」ことにはならないだろうと考えていたところに、それを認める判決が出たので、少なからずの人が「びっくりした」わけです。

では、大阪高裁は、どのような論法で「ひっくり返した」のでしょうか。これが、(相当乱暴な論理展開をしているという印象を受けるのですが)「黙示の労働契約の成立論」です。

「黙示の労働契約の成立論」は、元々は、以上に述べた「法人格否認の法理」をベースとするもので、基本的には次のような論理展開をするものです。
1.労働契約が成立するには、使用従属関係が認められるだけでなく、少なくとも「労使間の黙示の合意(意思の合致)」が「推認」されなければならない。これを逆にいうと「労使間の黙示の合意が推認」されれば、「労働契約が成立」しているものと認められる。
2.「労使間の黙示の合意が推認」されるためには、「労働者が労務を提供するという意思を有し、これに対し使用者が賃金を支払うという意思」が「推認」されなければならない。これを逆にいうと、「労働者が労務を提供するという意思を有し、これに対し使用者が賃金を支払うという意思」を有していると認められる「就労の実態」があれば「黙示の合意が推認」される。これを換言すると、「労働者が労務を提供し、これに対し使用者が賃金を支払っているという就労の実態」があれば「労使間の黙示の合意が推認」される。
3.ところで、請負会社や派遣会社がそもそも企業としての独立性を有せず、注文者や派遣先の労務担当(賃金支払)の代行機関にすぎず、実質的に賃金額その他の労働条件を決定し、賃金を支払っているのが注文者(派遣先)であると認められるのであれば、上記2.の「使用者」とは、当該「注文者(派遣先)」ということになる。
4.上記1.2.3.を総合すると、「労働者が注文者(派遣先)に労務を提供し、これに対し、注文者(派遣先)が実質的に賃金を支払っているという就労の実態」があれば(「労使間の黙示の合意が推認」されるので)、「注文者(派遣先)との間で労働契約が成立」していると認めることができる。

さて、以下は私の独断に近いものになるのかもしれません(少なくとも私は以下のように考えています)が、この「黙示の労働契約の成立論」は、「法人格の否認の法理」を用いる場合と同じような論理展開になりますが、その特色は「『賃金を誰が決定し、支払っているか』を『決定的要素』に格上げしている」ところにあります。大阪高裁は、これを「突破口」にしたのです。すなわち、当該判決は「労働者に支払われている賃金の原資は請負代金であり、その額の決定は実質的に注文者が行っているので、賃金を実質的に決定し、支払っているのは、注文者である」と論理展開することにより、(上記3.の法人格否認の法理を用いることなく)「上記4.の結論」へと導いたのです。

以上の「論法」は、常識的に考えても「あまりに強引な論法」といえると思いますし、さすがに「最高裁で否定」されて「一件落着」となったのですが、私は、この判決を出した裁判官は、「そうなることがわかっていて、あえてそう判示した」のだろうと思っています。すなわち、私はこの判決には、都合のいいときには「正社員と同様」に使用しておきながら、都合が悪くなると「正社員と別者」として扱うという風潮を背景とし、請負会社は請負会社で派遣法や安定法違反行為を行い、注文者は注文者で労働者に対し報復行為(嫌がらせ)を行っていたという実態(倫理観の欠如)に対する「怒りめいたもの」を感じるのです。

<蛇足>
派遣労働の場合でいいますと、話に登場してくるのは、「労働者」と「派遣先」と「派遣元」の三者です。そこで何らかの論法(例えば「法人格の否認の法理」)で「派遣元」を「消去」してしまえば、そこに残るのは「労働者」と「派遣先」の二者しかありませんので、この両者を「くっつけやすく(雇用関係を成立させたり、損害賠償請求を認めたり)」なります。

これに関連して、実は、厚生労働省の「労働者派遣事業関係業務取扱要領」には、次のような「私にいわせると相当危ない解釈論」が書いてあります(カッコ内は私が追加した文章です)。
「派遣先が、労働者派遣契約による授権がない(派遣契約が切れている)中で、派遣労働者の指揮命令を継続している状態(派遣先が派遣労働者を雇用せずにそのまま使用を続けている違法状態)を前提として、以下のような法解釈が行えると考えられる。
(イ)派遣労働者が派遣元事業主との雇用関係を解除したり、雇用関係が満了する等派遣元事業主との雇用関係が既に終了されている場合(派遣元が「消去」されている場合)には、(もはや雇用先になるのは派遣先しか残っていないのだし、だいたい雇入れ勧告にも従わず違法なことやってるのだから)派遣先との雇用関係が成立していると推定でき、訴訟において、派遣労働者は、勧告の内容に従った雇用関係の確認や損害賠償請求を行うことができる。
(ロ)派遣元事業主との雇用関係が終了していない場合であっても、勧告の実施後派遣労働者が派遣元事業主との雇用関係を終了させれば(派遣元を「消去」すれば)、(イ)と同様の請求が可能である」

上記の解釈論(いわば「原始的な推定雇用論」)については、さすがに安西先生が「合意がないため無理な考え方である」と述べられており(「労働者派遣法の法律実務」下巻)、とりあえず「ごもっとも」というところです。しかし今になって思えば、当該解釈論は、すでに「法人格の否認の法理」や「黙示の労働契約の成立論」に続く、「労働者と派遣先との間に労働契約を成立させるための、『より強力な別の突破口』(みなし雇用論)」が形成(準備)されてきていることを「暗示(予告)」していたのであり、それはその後の「派遣法の改正法案」において、もっとはっきりと「現実化」してくることになるのです。従って、この話(突破物語の続き)はまた「別途」したいと思います。

2010/10/14 高年齢者雇用確保措置の法的性格
高年齢者雇用確保措置(少なくとも65歳までの雇用を確保しなければならないとされている、高年齢者雇用安定法第9条に基づく措置)について、当法人代表の小磯がコラムに書いていましたので、私(研究所)の方からも、少し話を展開(補足)しておきたいと思います。

<そもそも高年齢者雇用確保措置を講じなかったとしたらどうなるのか?>
高年齢者法雇用安定法第9条は、国が事業主に労働者の65歳までの雇用確保措置を導入すべき「公法上」の措置義務を課しており、事業主の法違反に対しては、厚生労働大臣による助言・指導、勧告の対象とされます。しかし、同法は、「私法上」の効力については何ら規定していません(労働基準法の場合であれば、例えば、第13条に「労働基準法に定める労働条件に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となった部分は、労働基準法で定める基準による」と規定されていますので、「私法上」の効力も発生させることができます)で、一般的解釈論からすると、この効力は認められないと考えられます(これを換言すると、労働者は、高年齢者雇用安定法第9条を根拠として、事業主に高年齢者雇用確保措置を導入しろと主張したり、裁判で争ったりすることなどはできないということです)。

ということは、これをそのまま素直に考えると、「事業主は、高年齢者雇用確保措置を講じなくても、すなわち例えば『60歳定年でその後はナシ』にしても、(指導・勧告等の対象にはなるものの)私法上はまかり通る(60歳定年制は有効である)」ということになります{以下「有効説」ということにします。ただし、有効説(又はそれに近い説)を採る場合であっても、「不法行為として損害賠償の対象となる」という理論構成を採る(一定の私法上の効力を発生させる)ことは可能でしょう}。

ただ、実際には、考え方(解釈論)にもいろいろあるのであって、例えば、高年齢者雇用確保措置に関する規定は「強行法規であると解される」とか、「民事上の拘束力をも有するものと解される」などと主張してはいけないわけではないでしょうし、そこまでは主張しないまでも、「高年齢者雇用確保措置を講じない旨定めた就業規則は『合理性』がないので『無効』であり、それに基づく60歳での定年退職は『合理性』がなく『解雇権の濫用』に該当し、従って『無効』である」というような主張をしたり、「60歳定年制は、高年齢者雇用安定法の趣旨及び公序(均等待遇の理念)に反し『無効』である」といった主張をすることも可能でしょう(以下これらを総称して「無効説」ということにします)。

また、このようになんらかのかたちで「60歳定年制(その後はナシ)は無効」の主張をした場合にも、「その結果どうなるのか」について、さらに解釈は分かれるのであって、「定年制の定めはないものとなる(平たくいうと、合理的な理由がない限り何歳になっても解雇できない)」と主張することもできます(以下「無効説A」ということにします)し、「65歳までの雇用継続制度が導入されたものとする」と主張することもできます(以下「無効説B」ということにします)。

<厚生労働省や判例の考え方は?>
まず、厚生労働省の考え方ですが、同省は「Q&A(平成17年11月28日更新版)」において、「継続雇用制度を導していない60歳定年制の企業において、平成18年4月1日(改正法施行日)以降に定年を理由として60歳で退職させたとしても、それが直ちに無効となるものではない」と述べており、今のところ「有効説」の立場を採っています。

次に判例の考え方ですが、これについては、つい最近、下級審判決(西日本電信電話損害賠償請求・大阪地裁平成21年3月25日判決)が出されたところで、これは「高年齢者雇用確保法は、事業主に対して、公法上の措置義務や行政機関に対する関与を要求する以上に、事業主に対する継続雇用制度の導入請求権ないし継続雇用請求権を付与した規定(直接的に私法的効力を認めた規定)とまで解することはできない」「事業主である被告は、原告に対し、同条第1項に基づいて私法上の義務として継続雇用制度の導入義務ないし継続雇用義務まで負っているとはいえない」と判示し、同じく「有効説」の立場を採っています。

<今後はどうなる?>
このように、現時点では「有効説」が主流と考えておいてよいと思うのですが、いずれは「無効説」が台頭してくるのだろうとも推測されます。

というのは、かつては、定年は「55歳」が主流であったところ、高年齢者雇用安定法を改正し、「60歳以上」として義務化した(平成6年6月24日公布・平成10年4月1日施行)わけですが、当時厚生労働省が出した通達(平成7.3.31職発223号)は、「法に反して定められた60歳を下回る定年は民事上無効であり、事業主は当該定年を根拠に労働者を退職させることはできないと解されるものであること。また、この場合、当該定年は60歳と定められたものとみなされるのではなく、定年の定めがないものとみなされると解されるものであること」と述べており、先に述べた「無効説A」と「同様の理論構成」を採っているからです。

そして、その後の判決(牛根漁業協同組合事件・鹿児島地裁平成16年10月21日判決、同事件福岡高裁宮崎支部平成17年11月30日判決)においても、「この規定(60歳以上定年の義務を規定した高年齢者雇用安定法第8条の規定)は、強行法規的性格を有し、その施行(平成10年4月1日)により、60歳未満の定年制を定める就業規則等の規定は、同条に抵触する限度において私法上も当然に無効となり、その結果、当該事業主においては定年の定めがない状態が生じたものと解するのが相当である」と判示され、この解釈(無効説A)の立場が支持されています。

これを勘案すると、高年齢者雇用確保措置(65歳までの継続雇用制度)が普及し、一般化してくるにつれ、「60歳定年制(その後はナシ)」の「合理性」は失われる「運命」にあり、将来どのような解釈論が展開され、そのどれが主流になるにせよ、どっちみち「高年齢者雇用確保措置を導入しないことは私法上も認められない」ことになるのだろうと推測されるのです。

2010/10/07 就業規則の法的性格
就業規則の法的性格をめぐっては、様々な学説があるのですが、大きくは、一種の法規範として労働者を拘束するものであるとする「法規範説」と、労働者が就業規則に従わなければならないのは、雇い入れの際にそれに同意を与え、そこに契約が成立したからであるとする「契約説」とがあります。

そこで、最高裁がどのような判断を示したかといいますと、昭和43年の秋北バス事件判決で、「経営主体と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至っている」として、基本的に「法規範説」の立場を採ることを明らかにし(これも「契約説」を採るものであるとする主張もありますが)、ついでに「当該事業場の労働者は、就業規則の存在および内容を現実に知っていると否とにかかわらず、また、これに対して個別的に同意を与えたかどうかを問わず、当然にその適用を受けるべきものというべきである」と付け加えたのです。

就業規則は、その会社の「決まり」ですので、その法的拘束力を全く認めないというわけにはいきませんので、その意味では「法規範説」に立たなければなりません。一方で、就業規則は使用者がいわば勝手に作成するものですから、例えば国会で制定する「法律」みたいな効力(法的効果)を認めるわけにもいきません。そこで、最高裁は、とりあえず「事実たる慣習(みたいなもの)」として位置づけることとしたわけです。

しかし、この「事実たる慣習説」には2つほど大きな難点があって、その1つは、「就業規則を変更することによって、労働条件を(不利益に)変更することができるか」が問われたときに、「理屈」が通りずらくなることです。つまり、変更前の就業規則であれば「事実たる慣習」で押し通せたとしても、変更後の就業規則は「事実たる慣習」とはいいずらいので、その分押し通しずらくなるということです。

この点に関し最高裁は、同判決において「おもうに、新たな就業規則の作成又は変更によって、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として、許されないと解すべきであるが、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されないと解すべき」と答えるに止めました。

結局、これは、「就業規則の法的性格については、『事実たる慣習説』を含め、いろいろな学説やとらえ方があるだろうが、それを論じてもしょうがないところがあり、結局、『合理的かどうか』で、その効力(法的効果)を考えるしかないんじゃないの」という見解を示したものだと推測されます(その後最高裁は、もはや「事実たる慣習」というような言葉を使うことなく、昭和63年の電電公社帯広局事件判決のように「就業規則の規定内容が合理的なものである限りにおいて当該具体的労働契約の内容をなしているもの」と表現するに止めています)。

「事実たる慣習説」のもう1つの難点は、「全く知らされていないし、全く同意した覚えもない『きまり』によって拘束される」とされては、労働者としては「たまったものではない」という点です(もっともその当時は労務管理全体が「いいかげん」で、会社としても就業規則を整備しておらず、それがあったとしても使用者も労働者もそれに何と書いてあるかすら知らないような状況が『普通』だったでしょうから、これでも良かったのだろうと思います)。

この点に関しては、最高裁は、平成15年のフジ興産事件判決において「就業規則が法的規範としての性質を生ずるためには、その内容を適用を受ける事業場の労働者に周知させる手続きがとられていることを要する」と判示し、就業規則の効力(法的効果)の発生要件に「周知」を加えるという、事実上の修正を行っています。

現在では、以上の「判例法理」、すなわち、「就業規則は、その法的性格はともかくとして、『合理性』と『周知』を要件として、労働契約の内容となる(労働条件は当該就業規則に定めるところによるものとなる)」という法理は、法律に高められており、労働契約法第7条及び第10条に規定されていますので、ますますその「法的性格」を云々しても意味がないような気もするのですが、少し、話を展開しておきましょう。

「決まり」には、慣習や協約などもありますが、大きくは「法」と「契約」とがあります。これをどのように整理するかは、その整理の仕方次第で、「決まり全体」を「契約」と捉えるのであれば、「法」も「契約」の一種(契約説)になりますし、「決まり全体」を「法」と捉えるのであれば「契約」も「法」の一種ということになります(法規範説)。

そこで、「法」と「契約」を考察してみると、「契約」が基本的に「一者(個人)対一者(個人)の関係」を基礎とする「決まり」である(個人的性格を有する)のに対し、「法」は基本的に「一者(国家等)対多者(国民等の集団)の関係」を基礎とする「決まり」である(集団的性格を有する)という違いがある一方で、両者とも「決まり」である以上(関係者に守らなければならないものとして守らせるために)は、「合理性(理にかなったものであること。これは主観的に表現すると『常識的に考えて納得できるものである』ということです)」が要求されるであろうという共通性があります。

「契約」の場合は、基本的に放置(自由に決めることに)しておいても、相当程度合理性(納得性)が担保されます。何故なら、それは、基本的に「対等な者(1者対1者)」が「合意(個別の同意あり)」の下で決めるものだからです。これに対し、「法」の場合は、このような合理性は、直接的には確認できません。何故なら、それは基本的に「対等でない者(強力な1者対多数の弱者)」が「合意が全くないか又は不完全な合意(個別の同意なし)」の下で決めるものだからです。

そこで、「法」が「法としての効力(拘束力・強制力)」を有するためには、実際には、それなりの「合理性(納得性)の担保(保障)がしてあること」が要求されるのであって、それは基本的には「民主的な決定の仕組みが導入されていること(=包括的同意性=何らかの合意性が見られるものであること)」を意味します。

例えば、「法律」は、為政者が自由(勝手)に制定できるようにはなっていません。国民の代表者の集まりである国会(議会)が制定するという「民主的な決定の仕組みを導入する(何らかの合意を得たかたちにする)」ことによって、それなりの「合理性が担保」されているのであり、その前提があるからこそ「法的効力(拘束力・強制力)」が生じる(国民に受け入れられる)のです。

「就業規則」を考察してみると、「1者(使用者)対多者(労働者)の関係」を基礎とするものですので、その意味では「法に属する」といえるのですが、「合理性の担保」がはなはだ不十分(使用者が勝手に決めることができる)ですので、「法的効力(拘束力)」を認めずらく、従ってまた「何らかの合意を要するもの(契約説)」とする主張も生まれるのです。これを逆にいうと、就業規則についても、例えば、法律を改正して「その作成又は変更については、労使委員会の多数決による同意を要する」などとするということであれば、その「合理性(包括的同意性)」も「法規範性(法的拘束力)」も格段に高まるのです。

<参考>
「法又は法的なもの」の「合理性を担保」するには、次の3つのやり方があります。

1つはすでに述べた「民主的な仕組みの導入(何らかの合意性(包括的同意性)をビルトインする方法)」で、おそらくこのやり方が最も望ましいであろう(「あろう」というのは、この仕組みには「衆愚政治」という「落とし穴」に陥る危険があるからです)やり方でしょう。

もう1つは、「対等な力関係の導入」です。例えば、労働者個々人は使用者より弱いのですが、団結させれば、ある程度強くなり、対等に近づきます。対等な関係で決まりを結べば(このような「決まり」のことを「協約」といいます)、その分合理性も高くなります(従って、「労働協約」の効力は、使用者が勝手に決める「就業規則」や使用者と弱者である労働者とで決める「労働契約」の効力に優先します)。

最後の3つめが、1つめも2つめも使えないか、又は使う必要がない場合に用いるやり方で、「法律で保障する(司法で救済する等)」という方法です。そして、就業規則の「合理性」は、現在のところ、このやり方で担保されているのです。

<蛇足>
ついでですので、少し哲学的な話もしてみましょうか。「契約説」の考え方というのは、「自我(意識・表層心理)」の考え方で、自由主義とか個人主義とか呼ばれる考え方でもあります。歴史は、この考え方が強くなる方向に流れています(それが進歩というものです)ので、例えば、最高裁の就業規則に対する考え方も「(「契約説」に立つ学者の側から)契約説に近づいている」などと主張されたりもするのです。

歴史は、中世以前と近世(近代)以降とでは大きく異なっており、最大の違いは、「自我」が眠っているか起きているかのの違いといってもよいだろうと私は思っています。中世までの歴史では、ギリシャ・ローマ人等(アーリア民族)の例外的な民族を除けば、自我がまだ目覚めていない(又はほとんんど眠っている状態な)のであって、従って、それまでの歴史は「自我」が造った歴史ではなく、「無意識(これは、「太古の記憶」といっても「良心」といっても「潜在意識」といっても「深層心理」といっても「必然」といっても「歴史法則」といっても「世界精神」といっても「絶対精神」といっても「天命」といっても「神」といっても−別名にすぎませんので−かまいません)」が造った歴史といえるのです。

一方、「自我」は近世になって初めて目が覚めましたので、いろいろびっくりしたり、不満に思ったりも、混乱したりもしたのです。「自我」の最初の言葉として最もふさわしい言葉といえば、デカルトの「我思う。故に我あり」という言葉で、これは何の意味かさっぱりわからないと思います(「論理的にわかる」といっている人は嘘つきだと思います)が、それもそのはずで、これを翻訳すると、「俺(目覚めた自我である私)は確かにここに存在してるじゃないか。ついては、今後はすべて俺が決めて俺が世界を動かす。納得しないもの(契約してないもの・合意してないもの)なんか絶対に認めないからな」という自我の「(神からの)独立宣言」みたいなもので、その意味では「論理性(屁理屈を唱えている彼にとっての屁理屈)はクソ食らえ(とにかく俺が正しい−俺が正しいと思う理屈だけが正しい−のだ)」といっているようなものだからです。

この目覚めた自我が目にしたものは、納得できないものばかりで、彼が知らない間(実は寝ていた間)に「国家」や「法」ができていて、(当然ながら)彼らはそれを承認した覚えなどなかったからです。「自我」としては、「契約していないもの=合意していないもの=押しつけられたもの=知らないところで決まったもの」など認めたくないわけですから、ロックみたいに「国家は契約によって生まれたのだ(社会契約論)」という主張をしたりもした(就業規則の法的性格について「契約説」を主張する人と心境的には近いものがあるのではないかと推察されますが?)のですが、ほんとをいうと、そんな契約をした「記憶」もなければ「記録」もなかったのです。

このような観点から考察すると、実は、「法」と「契約」には、歴史的な違いもあるのであって、(単に「秩序性」という観点からだけではなく)普遍性(真理性)という観点からみても、「法」は「契約」より上位の概念でもあるのです。

2009/03/26 日本マグドナルド賃金訴訟の和解について
すでにご承知のことと思いますが、日本マクドナルド事件訴訟(日本マクドナルドの店長が、「名ばかり管理職」として扱われ、残業代を支払わないのは違法として、同社に対して未払い残業代や慰謝料などを求めた訴訟)が、3月18日に、同社が和解金約1000万円を支払うことなどを条件に、東京高裁で和解が成立しています。

これは、指摘している人も少なくないだろうと思いますが、日本マグドナルド事件判決で、「この解釈の仕方はどうなのかな?」と思わせるのは、管理監督者の判断基準の1つとして「職務内容、権限及び責任に照らし、労務管理を含め、企業全体の事業運営に関する重要事項にどのように関与しているか」をあげている点です。

労働基準法の適用単位は「事業(事業所)」であって、「企業全体」ではありませんので、同法の管理監督者の解釈において、「企業全体の事業運営に関与すること」を要求するのは無理があります(このような解釈をすると、管理監督者に該当するのは、役員又は本社幹部に限られてくる−支社長や支店長はそもそも管理監督者に該当するような存在ではないということになる−でしょう)し、実際、通達でもそこまでは要求していません(通達は「部長、工場長等労働条件の決定その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者」としか言っていません)(平成20.4.1基監発0401001号)。

支社長・支店長等の「職務内容(責任と権限の程度)」を判断する場合は、その「支社・支店」の経営に関する権限・責任で判断すれば十分であり、「企業全体」の経営に関する権限・責任で判断すべきではないでしょう。


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