パウロの思想


 "Jesu, meine Freude" の歌詞を読んでいくとコラールの部分では,イエスに対する熱い思いや,どんな苦しみがあろうともイエスの下にあって平安が与えられることを語っています.そして間に挿入されたローマの信徒への手紙第8章の章句は,肉と霊の法則について説き,キリストの救いの業の意味を解説しています.全体としては,霊によって生きることの素晴らしさが語られています.
 そこで,この「ローマの信徒への手紙」を書いたパウロという人が,どのような思想を持っていたのか,手紙で何を伝えようとしたのか等を見ていきたいと思います.
 ちなみに,この手紙の名称ですが,口語訳・新改訳聖書では「ローマ人への手紙」でしたが,カトリック・プロテスタント両者が歩み寄って訳された新共同訳聖書では「ローマの信徒への手紙」となっています.当研究所では,すべての名称を新共同訳に従って標記するようにしています.(中にはうっかり口語訳の癖が残っているところもあるかもしれませんが)



 パウロという人は,もともとサウロと呼ばれていました.パウロというのは,サウロのローマ読みした名前で,サウロがキリスト教に信仰を転回(回心)し異邦人伝道にたずさわるようになってからの呼び名となっています.

 サウロは,イエスと同じ頃にキリキアのタルソで生まれたユダヤ人です.ヘレニズム文化の教養を充分に身につけ,ローマの市民権を有していたサウロは,同時にファリサイ派に属し,エルサレムで当時のユダヤ教の優れた律法学者ガマリエルに学んでいました.従って,彼は律法に精通していたため,律法の遵守によって来るべきメシア王国に入る準備がなされるのだ,と固く信じていました.
 そこへイエスをキリストとする一団が出てきて,罪人や取税人を仲間にし,律法をないがしろにするイエスの教えを宣べ伝えていると聞いて,彼は反キリスト教の急先鋒となってイエスの弟子の迫害に乗り出したのです.彼は大祭司から,イエスの名を唱える者を見つけ次第男女の別なく縛り上げ,エルサレムに引っ張っていく権利を得ていました.そして,家々に押し入り集会を開いている人々を引きずり出しては,次々に投獄して教会を荒らし回っていました.
 サウロ自身のこの活動は,純粋に神の律法を守ることが第一であるというユダヤ教の強い信仰心から出たものでしたが,当時のユダヤ教の指導的立場の人々(律法学者やサドカイ派の人たち)は,急成長を遂げる教会への嫉妬と恐れで迫害をしました.サウロはそれらの人々に,いいように利用されていたとも言えます.
ファリサイ派〜ユダヤ教の最高位にランクされるのが律法学者で,その中でも律法に精通しているばかりではなく,さらに律法を厳密に実行して,「優れた人々」とあだ名されていた人々のこと.愛や暖かみのある配慮を犠牲にして,律法の厳格な遵守を冷たく要求しました.
律法学者〜高等教育を受けて律法について学び,律法を説明したユダヤ人の一階層のこと.法の権威者とか,ラビと呼ばれていましたが,司祭ではありません.
サドカイ派〜天使や復活などを信ぜず,基本的律法を大過なく行っていた人々で,民衆からは敬遠されていました.主に金持ちや教養のある者,保守的な者がこれに属していました.
 ところが,そのように迫害を続けていたサウロが変わるきっかけとなる事件が起りました.
 ステファノという,民衆の間でめざましい奇跡としるしを行っていた人がいました.そのステファノと議論して勝てなかった人たちが,民衆や律法学者などをそそのかして彼を捕らえさせ,議会に引っ張っていきました.ステファノは議会で弁明させられたのですが,その弁明にはとげがあり,居合わせた人々の怒りを買いました.そして遂に市外に引き出されて,石で打たれて殺されてしまうのです.サウロはステファノを殺すことに賛成しており,その処刑場に居合わせました.聖書には,ステファノの弁明に続いて,次のように記されています.
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(使徒言行録7:54-60)
 ステファノを殺すことに賛成していたサウロではありましたが,石で打たれながらも「この罪を彼らに負わせないでください」との言葉は,その心に焼きつき,後の回心のきっかけとなりました.

 さてその後,サウロはなおも教会への迫害を続け,ダマスコヘ向かっていました.その途上で,『突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(使徒9:3・4)』これは,イエスの呼びかけであったのです.イエス(主)は異邦人伝道の器としてサウロを選んだのでした.サウロはその天からの強い光で目が見えなくなっていましたが,ダマスコで主の弟子アナニヤにより癒され聖霊に満たされました.サウロは3日間目が見えなくなっていたのですが,それはちょうどイエスが死に3日間墓にいたように,その死にあずかりそして聖霊による洗礼を受け,新しい命に移されたのでした.サウロは数日を弟子たちと共にすごした後,直ちに会堂でイエスのことを宣べ伝え,イエスが神の子であることを説き始めました.これが,サウロの回心です.その後サウロはパウロと呼ばれるようになり,3回の伝道旅行の後ローマへ向かうことになるのです.「ローマの信徒への手紙」は,パウロがまだローマへおもむく前に,あらかじめ自分の宣べようとする福音を伝えようとして書かれました.

 ではパウロはこの回心の後,どのような信仰・思想を獲得したのでしょうか.「ローマの信徒への手紙」の中から,"Jesu, meine Freude"に取り上げられた8章前半の章句に至る思想の流れを追ってみたいと思います.
 8章の言葉は7章までの解説を受けて書かれていますので,まず7章に書かれている事柄を見てみましょう.
 7:15に『わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。』という言葉が見えます.サウロはファリサイ人として律法を徹底して行おうとしました.しかし,その律法を行い切れないという矛盾を抱えていたのです.そして,律法によって罪を教えられたのでした.
では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。(7:7-10)
 律法に義を追求したパウロは,人間の生活が肉の生活である限り,罪の軛(くびき)から逃れえないことを痛いほど感じていました.そして肉の命とは,まさしく死すべき命以外の何ものでもないのです.では,そのような状態にある人間は,どのようにして救われるのでしょう.そこで,キリストの復活ということが出てくるのです.「コリントの信徒への第一の手紙」の中で,パウロは次のように語っています.
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(1コリ15:12-17)
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(1コリ15:42-44)
 パウロは,律法ではついに得ることができなかった,肉を離れた霊の命をキリストの復活に見出したときに,罪と死との法則からの解放が成就されるのを感じ取ったのです.創世記において,神の霊のはたらきが人を生かしました.そしてこの霊のはたらきは,キリスト・イエスにおいて愛のはたらきとして捉えられます.「コリントの信徒への第一の手紙」で,パウロはさらに語ります.
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。(1コリ15:45)
「最後のアダム」とはキリスト・イエスのことです.
かくして
次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1コリ15:54-57)
 このようにして,復活のキリスト・霊の命の中に救いの根源を見たパウロは,いよいよ8章を書きます.
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:1-2)
 実は律法は,人間の力のむなしさを自覚させ,心をキリストに向かわせるためにありました.罪に満ちた性質をもつ古い自己の力を頼るのではなく,キリストにあって新しい力を得れば,そこには命と平安があるのです.そして,肉体的には死ぬ(死とは神から切り離されること)かもしれませんが,その霊は神によって生かされるのです.
 「ローマの信徒への手紙」第8章は,この手紙の中の最高峰であり,新約聖書全体の中心をなしている部分ともいわれます.パウロは『従って,今や』と7章までのメッセージを大きく転回します.『今や』とは,罪のもとにあった過去に対して救われた今,現在のことです.『キリスト・イエスに結ばれている者』とは,キリストによって救われ,「キリストのからだ」なる教会に入れられた者のことです.その者は,『霊の法則』によって『罪と死との法則』から解放されたため,もはや『罪に定められることはありません』と宣言されます.『霊の法則』は御霊のはたらきのことで,キリストによって命を与えられる,つまり神の賜物として命が与えられる法則です.
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。(8:3-8)
 御子キリストは人間の罪を救うために,人間と同じ姿でこの世に来ました.そして十字架の死によって罪の罰を受け,人間の罪をあがないました.このキリストを信じる者には神の霊がはたらき,それまでたとえ『肉の思い』によって罪に定められ死につながれていても,そこから解放され命と平安を獲得することができます.
 ここで『霊』と言われているものは,この後出てくる『神の霊』『キリストの霊』『復活させた方の霊』『内に宿っているその霊』とまったく同じもので,《聖霊》のことです.それに対して『肉』は人間をさして使われる言葉です.しかし,『肉』に従わず『霊』に従って歩むといっても,肉とまったく関係がなくなり肉体を離れて天使のような存在として生きているのではなく,やはりクリスチャンといえども肉にあって生きています.そこで次の言葉が生きてくるのです.
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(8:9-11)
 『肉』にあって生きてはいても,『霊』の支配があればよい,ということですね.したがってパウロは,キリストの霊を内に宿すことの重要さを説きます.キリストの霊によって,死ぬべき体の人間が今現在その場所で,永遠の命にあずかることができるのです.将来永遠の生命が与えられるだろうといっているのではありません.今現在ここで『“霊”は義によって命となってい』るのです.(この“霊”は,人間の霊をさします)
 しかしこの命の状態は,信仰ゆえに神によってそうみなされる,ということですから,その人間が神から離れてしまえばもちろん元の死と罪の法則のもとにかえってしまいます.だから,クリスチャンは常に救いの完成を祈り求めていかなければならない責任があります
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(8:12-17)
 『霊によって体の仕業を絶つ』とき,人は真に生きます.『霊によって』というところが大事です.聖霊は助け主ともいわれるとおり,クリスチャンが『体の仕業を絶』とうとするとき,手を差し伸べ助けてくれます.『肉の思い』にまともに立ち向かっても,かなうものではないことは,7章でパウロが充分解説してくれました.したがって『霊によって体の仕業を絶つならば』とは,神の助けを祈り求めることにほかなりません.
 その結果,『神の霊によって導かれる者は皆,神の子なのです』との宣言を受けます.なんと素晴らしい宣言でしょう.キリストは神の子といわれていますが,それとまったく等しい位置が与えられるということです.
 私の女房は,私と結婚するときに和田家(私の父母)の養子になりました.これは和田家の遺産を相続するためです.クリスチャンは,キリストを花婿とした婚姻関係にたとえられますが,正に神の養子になるということです.したがって神を「お父ちゃん」と呼ぶことができ,神の国を継ぐ相続人となるのです.『アッバ』とはアラム語で「父」という意味ですが,その発音そのものに懐かしさやあたたかさがあるような感じがしませんか.日本語では「お父ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ感覚だと思います.

 『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。』
これこそ,神の福音です.パウロが宣べ伝えようとした信仰の本質です.つまりキリスト教の本質でもあります.


「ローマの信徒への手紙」第7・8章(新共同訳)を通して読む



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