selichにこめられたメッセージ その1
ブラームスがドイツ・レクイエムで取り上げた聖句は,どれも死に接して悲しんでいる人々を慰めるような内容を持っているように思えます.そして今生きている私たちに語りかけてくる内容であるように思うのです.
もともと「レクイエム」というのは,カトリック教会で行われる死者のためのミサで使われる音楽をさしていて,死者の永遠の安息,死後の救済を願うもので,一定のラテン語の典礼文をもっています.ところがブラームスは,その典礼文を使うことなく,自らルター訳ドイツ語聖書の中から聖句を選んで歌詞とし,この曲を作曲しました.それはブラームスがプロテスタントを信じていたこともあるでしょうが,それ以上にブラームスは,カトリックのレクイエムがもつ「怒りの日」とか「最後の審判」,また復活の思想が,自分の感情からかけ離れていて,「死」というものを見つめ音楽にしようとしたとき,それでは表現できないと考えたのではないかと思われます.尊敬していたシューマンの死,愛する母の死などに接して,ブラームスは深く「死」について思索したのではないでしょうか.その結果,日頃慣れ親しんだルター訳の聖書の中から適切な言葉を選んで作曲する,という手法を選んだのでしょう.
後年友人にあてた手紙に,「私は喜んでドイツという語を除き,簡単に人間という語におきかえたいと公言してもいい」,と書いていています.この曲は死者の魂がどうのこうのというのではなく,今生きている人間に向かってのメッセージであるように思います.
そんなブラームスが,長い前奏のあと合唱団にselichと歌い始めさせ,合唱曲としてはとても長い全7楽章の音楽の最後でもう一度合唱団にselichと歌い納めさせているのは,これは絶対何かありますよね.この言葉に,ブラームスは何かを込めているとともに,全曲にわたる大きなテーマを含ませているのではないかと考えたのです.
先ほど書いたように,第1楽章の最初の 歌い出しの言葉がselichであり,第7楽章の最後の歌いおわりの言葉がselichです.このselichという語は,「この上なく幸せな,大喜びの,天福を受けた,至福の」などという訳語が辞書に出ています.これは原文(ギリシア語)では「ああ何と祝福されていることよ」という感嘆を表わしているそうです.「祝福されている」とは,「神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている」状態のことで,いわゆるキリスト教の「救い」の状態のことです.したがって,「幸いである」を「救いがある」と訳している本もあります.
「ああ何と祝福されていることよ」,この一言を聞いただけでも,この言葉でくくられたドイツ・レクイエムは神に祝福された無上の幸福=最大の慰めを歌っているように思えますね.
では,聖書の言葉を読み解きながら,もう少し詳しくこの言葉を考察してみましょう.
マタイによる福音書5章4節
Selig sind, die da Leid tragen, 悲しむ人々は,幸いである,
denn sie sollen getrostet werden. その人たちは慰められる.
この言葉は「山上の説教」と呼ばれるイエスの説教集で,山の上で弟子たちに教えた内容として書かれています.マタイによる福音の5章から7章と3つの章にまたがって幾つもの説教がまとめられており,その最初が有名な「幸いなるかな,心の貧しき者,天国はその人のものなり(文語訳)」です.この言葉に続いて全部で8つの「幸い」が語られていて,《至福の教え》あるいは《八福の教え》といわれています.
ちょっと長いですが,全部読んでみましょう.
《心の貧しい人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである.
悲しむ人々は,幸いである,
その人たちは慰められる.
柔和な人々は,幸いである,
その人たちは地を受け継ぐ.
義に飢え渇く人々は,幸いである,
その人たちは満たされる.
憐れみ深い人々は,幸いである,
その人たちは憐れみを受ける.
心の清い人々は,幸いである,
その人たちは神を見る.
平和を実現する人々は,幸いである,
その人たちは神の子と呼ばれる.
義のために迫害される人々は,幸いである,
天の国はその人たちのものである.》
(マタイ5.3-10)
これらの言葉はイエスが目の前の人々に向かって,直に語りかけた言葉です.
聖書には「イエスは(略)腰を下ろされると,(略)口を開き,教えられた.(マタイ5.1-2)」とあります.当時ユダヤ教のラビ(教師)は正式に教えるときには座って教えたのだそうです.つまり,イエスはこれから正式で,重要なことを教えるぞ,ということを人々に示し,心の準備をさせたのです.「口を開き」とは,これから大切なことが語られる,という厳粛な表現です.そしてイエスは,まずこの《至福の教え》から語りはじめたのです.
さらに日本語の聖書ではわかりませんが,原文のギリシア語では二人称で書かれているのだそうです.旧約聖書にも「これこれのものは幸いだ」という表現が出てきますが,これは三人称で,すべての人と時代にとって通用する法則として書かれているそうです.しかしイエスは二人称で,直接呼びかけられたのです.神の権威をもったイエスが,「あなたがた」と直接に語りかけているのです.「神はこう言われた」と,預言者とか,教師とかが語ったのとは違います.神が直接語りかけているのです.
そういう状況で語られた言葉として,《至福の教え》をみてみますと,すごいことがわかります.
イエスは「心の貧しい人々は,幸いである」あるいは「悲しむ人々は,幸いである」等としか言っていません.〈心の貧しい人々〉とは〈霊的に謙遜である人たち〉ということですが,ここでは自分を貧しいと感じなさいとか,へりくだらなければいけないとかいった条件は,一切言われていません.単純に〈貧しい人々〉は救われる,と言っているのです.〈悲しむ人々〉〈柔和な人々〉等すべて同じです.つまり,そういう状態にある人は,無条件に神さまの方から祝福しますよ,ということです.
では,人間の側には,何もすることがないのでしょうか.残念ながら,一つだけ条件があります.イエスの言葉を聞き,それを真剣に受け止める,ということです.イエスは一般的なことを言っているのではありません.「あなたは」と二人称で語りかけているのです.その言葉が成就するための条件は,その言葉を聞いて受け止めることなのです.神の語りかけを聞いて,他の何ものにも優って真剣に受け止める,ということをキリスト教では「悔い改め」といいます.キリスト教の原点は,神の言葉を神の言葉として聞くかどうか,だからです.
「あなたは,私のこの言葉を聞いて,その通りだと考えますか?」とイエスは問い掛けています.「ああ,イエスが私に語りかけてくださった.」と受け取る人には,神はその人の側に立って必要なものを与えてくれださいます.しかし,「えー,そんな事で救われるの?」と疑問をもちその言葉を受け取れない人の心には,神さまはもうそれ以上語りかけることができないのです.
さて,では「悲しむ人々は〜」について,もう少し詳しく見てみましょう.
肉親が亡くなって悲しんでいるのに,あるいはガンを告知されて悲しんでいるのに,「悲しんでいる人々は幸いです」とは,何とひどいことを言うのでしょう.とてもそんな気分にはなれません.といったようなことは,この言葉を読んだことがある人なら,感じたことがあることと思います.それに対して「悲しむ」とは自己の罪に対する深い悲しみのことだ,とよく解説書に書かれています.自己の罪とはもちろん宗教的な罪のことで,それは突き詰めて言えば神からの離反ということです.確かにクリスチャンからみれば,神さまと離反状態にあることは大いに悲しむべきことですが,イエスはそうは言っていません.「悲しむ人々は」と単純に言っています.ここに深い意味があると私は思います.
たとえば尊敬する先生が,悲しんでいるわたしの手を取って,「元気を出しなさい」と励ましてくれたら,先生の温かい心にふれて気持ちが落ち着くっていうことがあるでしょう.でも,高名な先生がテレビで「悲しんでいる人にも,必ず希望が訪れるんです.くじけないで頑張りましょう」なんて演説しているのを聞いても,なるほどなとは思っても本当に悲しんでいるときの慰めになるかどうかは疑問ですね.
イエスが語りかけられた言葉というのは,そうした手を取って温もりを伝えてくれる温かな心の先生の言葉なのです.だから,理屈ではなくて心が慰められるのです.
当時のユダヤ世界は,ローマの支配のもと,人々はかなり虐げられた生活をしていました.また,宗教的にも指導者を欠いて,混乱していました.正に人々は今この苦しい状態から救ってくれるメシア(救世主)を待望していました.イエスが山に登っていくのをどんな思いで人々は見つめていたでしょう.イエスが口を開いて教えられるのを,どんなに待っていたでしょうか.
私の経験談です.
高校の時一緒に合唱をしていた仲間が,卒業後まもなく病死したという知らせを受けお葬式に行った晩,私は一晩泣き明かしました.その時私はまだ頼まれて小隊(救世軍では一般に教会といわれる所を小隊と呼んでいます)にオルガンを弾きに行って間もない頃で,聖書のお話しは色々聞いていましたが,まだキリスト教を信じてはいませんでした.しかし泣きながら,いつの間にか「神さまなんで彼が若くして死ななければならなかったのですか」と,神さまに問い掛けていました.生まれてはじめて神さまにかかわったのです.今思えばこれは祈りであり,神さまの言葉を聞く姿勢が私の内に芽生えた瞬間だったと思います.
その時私はまだこの「悲しむ人々は幸いです」という言葉を知りませんでしたが,私の悲しむ心に神さまは語りかけをなさっていたのではないかと思います.私が神さまを受け入れるには,それからまだ数週間を要しました.私の心の中にまだかたくなな思いが残っていたのだと思います.しかし,このことをきっかけに確実に神さまが私に近づいてきてくださったことを,今では確信しています.
「悲しむ人々は幸いです」というイエスの言葉は,正に私の内に起こったことです.「神さまなんで彼が若くして死ななければならなかったのですか」という問いに,神さまは「これこれこういう訳だよ」とは答えてくださった訳ではありませんが,「その人たちは慰められる」の言葉通り,私に神さまに救われたという平安な思いをもたらして下さいました.
「悲しむ人々は幸いです」の言葉が,少しは理解していただけたでしょうか.
ブラームスは,正にこのような意味でこの言葉をドイツレクイエムの最初にもってきたのだなあ,とつくづく思います.長い静かな前奏,その中には,やさしく背中をとんとんたたいて慰めてくれるような低音の音の刻み,静かに語りかけてくるようなテーマが繰り返され,一つの盛り上がりを見せまた静かに落ち着いていった後,アカペラで合唱団が「ああ何と祝福されていることよ」と歌うのです.
低音の音の刻みは,イエスが山を登っていく足取りかもしれません.繰り返されるテーマはイエスのテーマかもしれません.山に登ったイエスは腰をおろして厳かに口を開きます.「ああ何と祝福されていることよ」.
こんな感動的な音楽は,なかなか演出できませんよね.ブラームスはすごい.これに続いて,聖句が次々に語られていくわけですが,これはもう「神とは何か」「生とは何か」「死とは何か」といったブラームス自身の説教と言っていいと思います.
そう思って改めてドイツレクイエムの内容を見てみますと,selichという言葉は,どうも全曲を通しての大きなテーマになっていると思われます.selichがどのように神からもたらされるのかを,7つの楽章を通して歌っているのではないかと思えるのです.
次回は,第7楽章に出てくる聖句から,selichを考察してみます.