音声学と国際発音記号


 合唱で発音を学ぶ際,多くは口まねとカタカナに頼っている人が多くはないでしょうか.
 外国語の曲で,さあ歌詞をつけて歌おうという時発音を確認しますね.指揮者やヴォイトレの先生などが発音してくださるのを,後についてまねて発音し,発音が似てくるまで舌や唇などの状態を変えて何回も試行錯誤すると思います.発音を学ぶためには,模倣と試行錯誤は大切な手段です.たとえ知っている言語であっても,良い発音を聴いたり口の動き等を見て,自分の発音を調整することは大事です.
 慣れないうちは,教わった発音をその場で練習するとともに,後で思い出して自分だけでもできるように何かしらメモをすると思います.しかし,その発音をカタカナで書いてしまっては,決して正しい発音を獲得することが出来ません.カタカナで書き表すことができる外国語はないからです.
 例えば英語の "box" と日本語の「ボックス」を発音してみましょう. "box" の母音は,米語の場合 [] 英語の場合 [] です.どちらにしても日本語の「ア」や「オ」よりもあごは開きますし,舌の位置は奥まっています.さらに実際単語として発音すると b を発音した直後からあごを次第に開け始め日本語の「ア」よりもう一回り大きく開くところまで母音を発音し続けます.ということはこの母音は日本語の「ア」や「オ」の様にひとつの口の形が決まっているのではなく,口の形が変化していく母音ということになります.したがって,その音(おん)も変化して”ボアァ”のような感じに聞えるわけです.ところが「ボックス」は口の形は変化しません.さらに語尾は [] となるところが「クス」と母音がついています.このようにカタカナでは微妙に変化する母音や子音のみの発音を書き表すことが出来ません.
 したがって,正しい発音を身に付けるためには,どうしても綴り字をみて発音を思い浮かべられるようにする必要があります.しかし,慣れない単語などはどうしてもメモする必要が出てきます.その時は発音をそのまま記すことのできる「発音記号」が便利です.
 このように言語音や言語音の構成は言語によって異なるため,それらを科学的に研究しようというのが音声学です.模倣と試行錯誤に,この音声学の知識を利用していくと,より早く正しい発音を身に付けることができます.また,はじめての言語であっても音声学の知識があり発音記号がわかれば,ある程度正しくその言葉を音にすることができます.

 一般に発音記号といわれているものは,正しくは International Phonetic Alphabet (IPA),日本語では「国際発音記号」といいます.
 19世紀の終りに,発音記号を考案するために国際音声学協会が設立され,一般に使われているアルファベットのほかに新しい文字が追加されて発音記号が定められました.国際発音記号の文字は1文字が1つの発音を表わしており,言語や綴り字に左右されず,つねに同じ発音を表わします.アルファベットと同じ文字も使われるため,区別するためにカッコ[ ]でくくって表記します.
 次の表は,国際音声字母表です.子音は妨害音ですので,その妨害の位置,妨害の方法,声帯の状態(声帯が振動するかしないか)によって,それぞれの子音が決まってきます.表では横軸に妨害の場所が,縦軸に妨害の方法が示されています.2つの子音が同じ位置に入っているものは,前が無声音,後が有声音です.





歯 音
 と 
歯茎音





























閉鎖音                    
鼻音        
側音−摩擦                      
側音−無摩擦                
顫動音                  
弾音                
摩擦音    
               
半母音と無摩擦持続音       () ()    



             


     
( )
    
   
    
     
      
半狭 ( )
   
半広 ( )
   
()


<子音について>
 人間が言語として発している音(おん)のうち,呼気が妨害されることなく口や鼻から流れ出て音が発せられると母音になり,呼気の通り道のどこかで妨害されると子音になります.
 妨害される場所は,上下二つの調音器官が向き合って呼気を妨害するわけですが,片方が舌の場合は表に記載されていません.舌とその器官によって妨害がおこるということです.舌が調音に参加しない場合は,「両唇音」「唇歯音」のように両方の器官名が記されています.そり舌音は,舌先と歯茎または歯茎と硬口蓋の境目で調音されます.咽頭での妨害点は咽頭壁,喉頭での妨害点は声門です.
 妨害の方法は,以下のとおりです.
1.閉鎖音
 破裂音ともいいます.口腔と鼻腔で完全に閉鎖をつくり(息の流れをせき止め),続いて急に口腔の閉鎖を解放します.
2.鼻音
 口腔は完全に閉鎖し,同時に鼻腔通路を開けます.
3.側音
 口腔の中央を閉鎖し,その両側に通路を開けます.
4.顫動音(せんどうおん)
 調音器官が呼気の流れているときにふるえる運動をおこし,何回も向かい合っている調音点に接触します.
 この音の変形に1回だけはじく弾音があります.
5.摩擦音
 通過する空気が摩擦噪音を立てるほど口腔の通路を狭めます.また側音についても,両側の通路を狭めて気流を強めると摩擦音がで,摩擦側音といいます.
6.半母音
 半母音は [] [] [] の3つです.狭めがややゆるやかで,子音的な噪音が弱くなった音です. [] と [] は表では2ヶ所に記されていますが,これは音を作る時,丸められた唇と口蓋へ向かって上がる舌の2つの調音点が重要なはたらきをしているためです.

<母音について>
 母音は空気の流れを妨害することなく発せられた音で,舌や唇などによって口腔共鳴室の形の変化によって音色が変化し,それぞれの母音が形作られます.母音には口腔にのみ空気の流れる口母音と,鼻腔にも空気が流れる鼻母音があります.また,発音の最中に舌の位置が移動することによって二重母音ができます.

 舌の最も高く盛り上がった点がどこにあるかによって,前舌母音中舌母音後舌母音の別が生まれます.

 唇の形によって,円唇母音非円唇母音の別が生まれます.日本語の場合,円唇・非円唇の差はあまり大きくありませんが,ヨーロッパの言語の場合,円唇はしっかり唇を突き出して丸め,非円唇の場合は唇の力を抜くだけではなくしっかり横に引きます.

 あごの開き具合によって口腔が狭められたり広められたりしますがそれによって,狭母音半狭母音半広母音広母音の別が生まれます.歌唱の場合は会話に比べて響きが重視されるため,一般に会話の時のあごの開きに比べて指1本分ぐらい広めに開けることが多いようです.しかし歌唱の場合は,音程によって同じ口形でも響き方が変わってきますので,それぞれの音程で正しく母音の響が出せるあごの開け具合をみつける必要があります.

 母音については,これらの特徴を書き並べることによって,個々の母音を書き表すことができます.
  例:[] 前舌非円唇狭母音
     [] 後舌非円唇狭母音(日本語の「ウ」)
     [] 前舌円唇半広母音(ドイツ語の

《鼻母音》
 鼻腔への通路を閉鎖するところまで軟口蓋を上げないで母音を発音すると,空気の一部が鼻から抜けて鼻音化し,鼻母音になります.広母音・半広母音が最もはっきりと鼻音化します.
 鼻母音は日本人には意識の上でなじみがないので,難しく感じますが,調音の仕方さえわかれば割と楽に発音できます.実は日本人も会話では鼻母音を使っているのです.「ン」の後に母音がくる場合,その母音の前に鼻母音が現れます.というよりはその母音の鼻母音化したものが「ン」の代わりに発音されるのです.
  例:単位 [] ,田園 [] ,半音 []

《二重母音》
 二重母音に対しても日本人は別の意識を持っているのではないかと思われるのですが,これは舌の位置が移動する(唇の形が変わることもあります)長母音であって,2つの母音がただ並んでいるのではありません.音声記号では2つの母音を並べて書きますし,その音の聞えも日本人には最初と最後だけが知覚され,カタカナで書くとすると「アイ」「オウ」となるため,2つの音のつながりが意識されていません.しかし実際は,最初の母音から最後の母音に向かっていくわたり音(変化していく音)があるのです.つまり〈二重母音〉=〈最初の母音〉+〈わたり音〉+〈最後の母音〉です.したがって発音においては,舌の移動に注意を向けて,わたり音をはっきり意識して発音する必要があります.
 二重母音には次の3種類があります.
 1.舌が上に向かうもの [] [] [] []
 2.舌が下に向かうもの [] [] [] []
 3.舌がある母音の位置から中立の [] の位置に移るもの [] [] [] []
2.は学者によって二重母音とするかどうか意見がわかれているそうです.一般には [] [] [] [] と記され,半母音と母音の連続としてとらえることもできます.この見方でいうとフランス語は二重母音が無いということになります.




目次

前の文章

次の文章