MISSA ORDINARIUM (ミサ通常文)の内容 3



CREDO(信仰宣言)
“Credo” 全体は大きく3つの部分よりできており,はじめの部分が父なる神について, 真ん中の部分が子なる神について,終わりの部分が聖霊なる神について語られます.さらに, それぞれの部分は大きく2つに分けられ,前半はそれぞれの神の性質・性格が,後半はそれぞれの神が何をしたか, 何にかかわっているかというような,神の働きが語られています.
 冒頭の“Credo in 〜” は「私は〜を信じます」という意味で,”unum Deum” 以下の全ての文にかかっています. このあと, “et in 〜” と始まる文が二回出てきます.この “et” は “credo” の意味で,クレド全体を大きく3つに分けた,それぞれの始まりの部分です.また, “in” のつかない “et” が何回も出てきます. “et” は英語の “and” の意味で,「私は信じます.○○と(et)☆☆と△△と‥‥‥‥とを.」という構文になっています.
 したがって,信じるのは唯一の神だけではなく,これ以下の全ての事柄を信じるのです.ですから, これ以後出てくる”et” は “Credo” の意味だと考えていいでしょう.“Credo” と歌うつもりで “et” を大事に歌っていくこと,また “et” が次の言葉と関連を持って1つのフレーズを作っていく ことに注意して歌うことが必要でしょう.(”et”のあとに休符が置かれていたり,”et, et 〜” のように 繰り返し出てくるような作曲がなされている曲がありますが,はじめの “et” が独立した,無表情な, ただ強いだけの歌い方にならないようにしたいものです).
 そしてこれ以降,キリスト教の信仰内容が1つ1つ具体的に述べられていきます.それぞれの言葉(文)の 意味だけでなく,その背景にある物語や思想を理解して歌いたいものです.

<父なる神>
 第1節は父なる神の性質が,第2節は父なる神の働きが語られています.

1) Credo in unum Deum.
(われは信ず,唯一の神)
2) Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium omnium, et invisibilium.
(全能の父,天と地,見ゆるもの,見えざるもの,すべての造りぬしを)


 キリスト教では,唯ひとりの神を信じます.
『聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。』(申命6:4)
イエス・キリストも,質問に答えて,第一のいましめはこの申命記の言葉であると言っています. (マルコ12:29)
『唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。 また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって 存在しているのです。』(第1コリント8:4-6)
 そして,その神はこの世,天地万物を創られた方です.
『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、 神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、 良しとされた。』(創世記1:1-4)
 この天地創造の様子は,聖書の一番はじめに書かれています.第1日が,今出てきたように光を造り, 昼と夜を分けました.第2日は,大空を造り大空の上の水と大空の下の水とを分けました.第3日は, 陸と海を造り,陸に草や実を結ぶ果樹を造られました.第4日は,昼と夜,季節を造り, 太陽と月とを造られました.第5日は,海の生き物と,水に群がる生き物を造られました.第6日は, 地の生き物と人間を造られました.こうして天と地と,その万象とが完成し,神は第7日に休まれました.
 しかし,この創造は,人が何かをつくるというのとはちょっと内容がちがいます.たとえば, 人間はビルを建てたり車を造ったりします.そのビルや車は,それを造った人の手を離れてずっと存在します. ビルが建ってしまえば建築業者は現場を離れますが,それによってそのビルが崩壊してしまうということはありません. ところが,神が創造したこの世,天地万物は,その一瞬一瞬が神によりささえられて存在しているのです. つまり,神の力のはたらきが無くなれば,一瞬にして天地万物は無となってしまうということ, 天地万物はその存在を神の力に依存しているということなのです.生きている人間のからだは, その人の命によって存続しています.命が無くなれば,人間のからだは土へとかえっていき, 人間のからだとしては存続しなくなります.からだが命によって生かされているように,天地万物は神の力により生かされ, 存続させられているのです.
 「すべての造りぬし」といっていますが,それは遠い過去神がこの世を創ったというようなことではなく, 今現在を生きているわたしたちと,大きなかかかわりがあることがわかります.

<子なる神>
 第3〜6節は子なる神の性質が語られます.第7〜12節は子なる神がこの世を救うためにどのように働くかが語られます.

3) Et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum.
(唯一の主,神のおんひとり子,イエス・キリストを.)
4) Et ex Patre natum ante omnia saecula.
(よろず世のさきに父より生まれ,)
5) Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero.
(神よりの神,光よりの光,まことの神よりのまことの神,)
6) Genitum, non factum, consbstantialem Patri: per quem omnia facta sunt.
(造られずして生まれ,父と一体なり,すべては主によりて造られたり.)


『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、 初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』 (ヨハネ1:1-5)
 ヨハネ伝の冒頭に書かれた「言」とは,イエス・キリストのことだと言われています. すべてのものの初めに父なる神と共にあり,その言(子なる神)によってすべてのものができた, と語られています.言葉は人の意志を伝達するものです.したがって,神と共にあった「言」は, 神の意志を伝達するものであることがわかります.神の意志とは,万物の創造であったり,人の創造であったり, 人の救いのみ業です.新約の時代では,イエス・キリストによって救いの道や世の終わり,再臨などについて明らかにされました.
『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、 御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、 万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の 右の座にお着きになりました。』(ヘブル1:1-3)

7) Qui propter nos Homines, et propter nostram salutem, descendit de caelis.
(主は,われら人類のため,またわれらの救いのために,天よりくだり,)


 神は人類を二人の代表によって扱います.一人はアダム,もう一人はイエスです.人間の始祖アダムは, 失敗者の代表です.アダムは神の言葉を守らなかったばかりか,エゴイズムの殻に閉じこもり,神に対して隠し事をし, それがもとで全人類は神の前では失格者となりました.これが原罪とも呼ばれている罪で,エゴイズムの汚れと いうことができます.そしてこのアダムの罪人としての性質は,遺伝のように,人間の始祖からすべての人類に 受け継がれていきます.そこで神は,アダムが失ったものを回復させるための代表を備えられました. 神は真理そのものですが,人間はその真理と共に正しく生きるために生まれました.しかしアダムにより, そのはじめから正しく生きられない状態になっていたのが人類です.そこで神はその愛により,人類を本来の 姿(神と共に正しく生きる姿)にもどすために,イエス・キリストをこの世におくりました.そのため, イエス・キリストのことを,第二のアダム,新しい契約の仲保者などとも言います.
『死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる ことになるのです。』(第1コリント15:21-22)
 神の救いのみ業は,どの様に行われたのでしょうか。要点的に見てみましょう.
 罪は,その罪をおかした人がつぐないを行うか,もともとその罪を持っていない者が肩代わりしてつぐなうかしか, 帳消しにされることはありません.前者の場合は,人は死ぬしかありません.そこで神は,人が持っている罪を 持たない者を人間の肩代わりとするためにこの世におくりました.これがイエス・キリストです.信仰では, イエス・キリストは神のひとり子(つまり神です)ですから,人間の持つ罪は持っていません.しかし, 神が人間の罪を肩代わりすることはできませんから,イエス・キリストが人間として生まれる必要があるわけです.
 『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、 あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。』(ヘブル4・15)
 「大祭司」とは,イエス・キリストのことです.この方は,人間と同じ試練(疲れ,悲しみ,苦しみ,恐れなど)に あわれましたが,罪をもつ者ではありませんでした.
 イエス・キリストは,こうして人類の救いのために,神として人々を教え導きながら,人として人類と同じに生き, 人類の身代わりとして罪のないからだで十字架にかけられたのです.そして復活し天にあげられました. これと同じように,キリストを信じるものは,今は死すべき体であっても,後に朽ちない体に復活し, 永遠の命を得ることが約束されたのです.

8) Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine: et homo factus est.
(聖霊によりて,処女マリアよりおんからだをうけ,人となりたまえり.)


 イエスの母マリアは,聖霊(神の位格の一つ)によって身ごもりました.従ってイエスは, 神でありながら人としてこの世に現れたのです.
 ルカによる福音書より,イエス誕生までの物語を少し長くなりますが引用します.
『六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、 いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、 そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、 いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、 年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、 この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、 ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると 信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主で ある神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、 いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を 打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を 空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖に おっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに 滞在してから、自分の家に帰った。』(ルカ1:26-56)
 この,御使ガブリエルの知らせは受胎告知といわれ,最初のお祝いの言葉は,エリサベツのお祝いの 言葉とともに ”Ave Maria” (アルカデルトやグノーの作曲したものなどがよく知られています)という曲に 歌われています.また,マリアが処女であるにもかかわらずみごもったので,これを処女懐胎といいます. この辺の様子は,美術の世界でもたくさんの名画などが残されているので,ご覧になるといいでしょう.また, エリサベツに会ったあとのマリアの言葉「わたしの魂は主をあがめ〜」は,“Magnificato” という曲に歌われています.
 さて,この当時,結婚をしていない娘がみごもるということは大変なことでした.石打ちの刑により殺されて しまうような大罪です.しかし,「聖霊によってみごもった」という神からの御告げを信じたヨセフは,マリアを とがめることもなく無事妻として迎えます.
 神が人の形を取って生まれるために,聖霊つまり神自身と人間によって子をなすことが大切でした.処女マリアが, 聖霊によってみごもるということは,神の救いのみ業の第一歩として大変重要な出来事でした.
 マリアを訪問したエリサベツは,グローリアの解説に出てきたバプテスマのヨハネを産みます.ヨハネは, イエス・キリストが来るまでの間,人々を教え,イエスによる救いを人々が受け入れやすいように導く 役目を負っていました.バプテスマとは洗礼のことですが,ヨハネはヨルダン川の水で人々にバプテスマをほどこしながら, 『わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、 わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』(マタイ3:11)と人々に教えました.

9) Crucifixus etiam pro nobis:sub Pntio Pilato passus, et sepultus est.
(ポンシオ・ピラトのもとにて,われらのために十字架に(まで)つけられ,苦しみをうけ,葬られたまえり.)


 過越の食事(最後の晩餐)を終えたイエスは,祈りのためにオリブ山にあるゲツセマネの園というところに 弟子を伴っていきました.しかし,祈り,弟子たちに話をしているうちに,裏切り者のユダがつれてきた,祭司長, 律法学者,長老たちから送られた群集によって,イエスは捕えられてしまいます.弟子たちは,一緒に捕えられることを 恐れてみな逃げ去ってしまいました.
 捕えられたイエスは,大祭司カイアファの邸宅に連れていかれ,議会に引き出されましたました.祭司長たちと全議会とは, イエスを死刑にするために不利な証拠を見つけようとしましたが,証拠はあがりませんでした.しかし大祭司の 「お前はほむべき方の子、メシアなのか」との問いに,イエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に囲まれて来るのを見る。」と答えられ,これによって神を冒涜する者として死刑が宣告されました. この時弟子のぺテロは,イエスの身を心配して邸宅の中庭まできていましたが,付近の人たちにイエスの弟子で あることを見破られそうになり,三度に渡って「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と否定してしまいます. その時鶏がなきます.ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」といわれた イエスの言葉を思い出して,外にかけだし激しく泣きました.
 さて,当時のユダヤ地方はローマ帝国の支配下にあり,死刑の執行権はローマが握っていたため,祭司長たちは イエスをしばってローマ総督ピラトのもとに連れていきました.ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」の問いに, イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答え,あとは何も言おうとしませんでした.ピラトは, イエスの立場を本当に理解してというわけではなく,総督という立場から考えて,ユダヤの王ということが罪で あるとは考えられず,処刑をためらいました.しかし,狂ったようにイエスの死を求める群集が,暴動を起こすことも, 総督の立場としては困るわけです.そこで,当時,祭のたびに人々の願い出る囚人をひとり釈放する慣例がありましたので, ピラトはイエスに恩赦を与えることを考えます.バラバという暴動を起こして人殺しをした者をかわりに引き出せば, 明らかに死刑に値するとわかるバラバより,イエスを許してほしいと人々は言うだろう.そうすれば,自分は政治家として, 無実の者を処刑したという汚点も残らないだろう,とピラトは考えました.しかし群集は,狂ったようにバラバの釈放を求め, 叫びをあげるので,ついにピラトは「群集を満足させようと思って」バラバを許してやり,イエスをむち打った上で, 十字架にかけるために引き渡しました.
 イエスは兵士たちに,王衣になぞらえた外套(紫の服)を着せられ,いばらの冠をかぶせられ,棒でたたかれ, つばきを吐きかけられ,さんざん嘲弄された挙げ句,十字架に付けるために引き出されました.疲れはてたイエスのかわりに, ちょうどそこに通りかかったシモンという者に,無理にイエスの十字架をかつがせ,ゴルゴタ(「しゃれこうべの場所」 という意味)の丘まで連れていき,イエスは午前9時ごろ,二人の強盗にはさまれた形で,十字架につけられました. 昼の12時になると全地は暗くなりました.この暗闇は,天地創造の際,神が「光りあれ」と言われる前に全地を おおっていた「やみ」と同質のものといわれます.その暗闇が午後3時まで続き,イエスは「エロイ,エロイ,レマ, サバクタニ(わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫んで息を引き取りました. この言葉は詩篇第22篇の冒頭の言葉で,詩篇第22篇は,メシアの苦難を歌い,おわりに神の壮大な救済の確かさを ほめたたえています.この時,イエスの死の様子を見ていたローマの百人隊長は,「本当に,この人は神の子だった」と 言った,と聖書に書かれています. (マタイ26・27章,マルコ14・15章,ルカ22・23章,ヨハネ17-19章)

10) Et resurrexit tertia die, secundum Scripturas.
(聖書にありしごとく,三日目によみがえり,)
11) Et ascendit in caelum: sedet ad dexteram Patris.
(天にのぼりて,父の右に座したもう.)


『安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、 イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、 目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、 白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、 ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。‥‥略‥‥イエスは週の初めの日の朝早く、 復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。‥‥略‥‥その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、 イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。 復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、 すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。‥‥略‥‥」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、 神の右の座に着かれた。‥‥略」(マルコ第16章)
 イエスが十字架上で息を引き取ったのが,金曜日の午後3時ごろでした.しかし,翌日が安息日(当時は, 神が天地創造の際7日目に休まれたことにもとづいて,土曜日が安息日といわれ休日でした.そして,この安息日には, 働くことが禁止されていました.)でしたので,イエスをきちんと葬ることができず,ただイエスを十字架からとりおろして 亜麻布に包み,近くに岩を掘って造った墓があったのでそこに納め,墓の入り口に大きな石をころがしておきました.しかし, 安息日が終わってイエスの墓を訪れた人たちは,墓が空になっていることを発見し,かねてから預言されていたとおり, イエスが復活したことを告げられたのでした.
『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、 律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け 始められた。』(マタイ16:21)
 現在,週の休日は日曜日となっています.これは,日曜日が主イエス・キリストのよみがえった日, つまり主の日(主日)として,この日に礼拝を守るようになっていったのです.そのため,それまで土曜日が 安息日として休まれていましたが,週の初めの日曜日が休日とされるようになったわけです.

12) Et iterum venturas est cum gloria judicare vivos et mortuas:cujus regni non erit finis.
(栄光のうちに再び来たり,生ける人と死せる人とを裁きたもう,主の国は終わることなし.)


 「主の国」は,聖書の中では「神の国」「天の国」または「いのち」「永遠のいのち」とも表現されています. 「いのち」とも言い換えられているように,「国」とはいっていますが,日本やアメリカなどように特定の地域や, 統治者と住民などの組織をさすのではなく,むしろ神が最高主権者となって実現する支配,神の支配の現実を そういっているのだと考えるとよいでしょう.支配というと,どうしても権力者に苦しむ人民,みたいな構図が, また誰かに操られるというような様子が思い描かれますが,神の国とは,決して神が人間に対していろいろなことを 強要したり,制限したりといった,この世的支配をするのではありません.神とは愛だといってもいいと思いますが, 「神の支配」の「神」を「愛」に置き換えてみますと,「愛に支配される」ということになります.権力の支配に抱く 印象とは正反対に,なんと素晴らしい印象を与えるでしょうか.親がその子どもを慈しみ愛情あふれる眼差しで 見つめるように,神の完全なる愛に包まれて一人ひとりが生かされる,そういう世界だと思っていただければ よいでしょうか.その世界では,人間もそのエゴはなく,互いに愛しあい尊重しあえる世界です.
 人間の歴史は,始まりがあるように終わりがあります.その終わりの日は,突如としてやってくると,聖書の各所に 書かれています.そして終わりの日には,キリストが栄光のうちに来臨し,死んでいる者も生きている者もすべての 人々を集め,正しい者とそうでない者とを分けます.正しい者には永遠の命が与えられ,そうでない者たちには永遠の 刑罰が下ります.永遠の刑罰のことを,聖書では第二の死とも表現されており,神との絶縁を意味します.神との絶縁, つまり神からもたらされる「愛」「喜び」「平安」などとは,いっさい無縁の世界にはいるということです. これが「最後の審判」と呼ばれるものです.神の国に入った者たち,つまり永遠の命にあずかった者たちは, 有限であった人間の歴史とはちがって,まさに永遠に,神と共に,神の愛の中で生きることになります.
『わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。 幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、 これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。 死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。 この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』(黙示録20:12-15)

<聖霊なる神>
 次の第13・14節は,聖霊なる神の性質が,第15〜18節は,聖霊なる神が信徒の活動の力として働く様子が語られています.

13) Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem:qui ex Patre Filioque procedit.
(主なる聖霊,生命の与えぬしを,聖霊は,父と子よりいで,)
14) Qui cum Patre et Filio simul adoratur, et conglorificatur:qui locutus est per Prophetas.
(父と子とともに拝みあがめられ,また預言者によりて語りたまえり.)


 聖霊は,神の働く力,神の息吹などと解釈されることもありますが,生きて働く神の位格の一つです. 聖霊は人間を教え,父なる神のもとに導いてくださいます.旧約の時代には,聖霊はおもに預言者(イザヤやエレミアなど)を 通じて人々に神の言葉を伝えました.そして新約の時代になり教会が形成されてくると,聖霊は直接神を信じる 人間一人ひとりに働きかけて,命である父なる神のもとに教え導きます.
『しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』(ヨハネ14:26)
『五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、 彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。』(使徒2:1-4)


15) Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam.
(一・聖・公・使徒継承の教会を信じ,)


『わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、 天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』(マタイ16:18-19)
 このイエス・キリストの言葉がもとになって,ペテロを最高指導者とする初代教会が立てられました. その後発展した形でローマ・カトリック教会が立てられました.カトリック教会の最高指導者をローマ法王と呼び, 初代教会の最高指導者であったペテロの後継者とされています.そして,罪の赦し(ゆるし)の権限が与えられました (解くとは赦すということ).また,十二使徒の後継者を司教といいます.司教と信徒の間に司祭(信徒より任命される) があり,こうした「司教−司祭−信徒」というヒエラルキア(位階制度)がカトリック教会にはあります. カトリック教会では,これらのことはキリストの制定であるとしています.
 歴史的には,マルティン・ルターによる宗教改革をきっかけにプロテスタントの教会が立てられ, いろいろな教派をうむことになり,一時は互いに自分たちの真理の絶対性を主張して,流血をみる争いもありました. これは,教会が神のため,信仰のためと考えながら,結果的に現世的な権力などと結び付いたり, 現世的な利益を求めるような活動をしまったためだと思われます.しかし,現代では,その非をみとめ, 教会一致の方向に進んでいます.神は一つですし,聖書は一つなのですから,結局カトリックとプロテスタントに分かれたり, プロテスタントの中にもいろいろな教派があるのは,それぞれの強調点や活動の仕方がちがうだけであって,真理は一つのはずです.
 また,教会とは,キリスト教の会堂のことだと思っていらっしゃる方もおられると思います.事実,教会へ行く, といえばその会堂へ行くことを表わしますね.しかしここで言う「教会」とは,信徒の集まりそのものをさします.
『ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から 救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。』(使徒2:40-42)

16) Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum.
(罪のゆるしのためなる唯一の洗礼をみとめ,)


『すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名に よって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」』(使徒2・38)
 バプテスマ=洗礼とは,キリスト教信者になるときに行う,一種の儀式です.受洗者の額に3度水をかける, 水の中に3度受洗者を沈める,というような形で行われます.キリスト教信者とは,イエスを神の子であり, 救主キリストであると信じる人のことですが,これは,キリストを信じると言う信仰を,目にみえる形であらわしたものです. 目にみえる形であらわすことによって,信仰が確認され,より強められるわけです.したがって,水をかけたり水に沈んだりする, その行為自体には特別神秘的な力が宿っているとか,そういうことはありません.そうでなければ, だれかれかまわず額に水を3度振りかければ,みんなキリスト教徒になってしまいます.そんなことはないわけで, やはりその裏に隠された意味が大切です.
 額に3度水をかけていただくことは,キリスト教信者にとっては,信仰を確認し,これからキリスト者として 生きていくんだという決意をかためる,大切な儀式ですが,本当の意味での洗礼は,イエス・キリストを救い主と信じ, 助け主である聖霊を自分の中に迎え入れることです.バプテスマのヨハネは 『たしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、 わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』(マタイ3:11)と言っています.「このかた」とは イエス・キリストのことです.
 水による洗礼をたとえうけても,その人がキリストから離れていってしまえば,もうその人はキリスト教徒とは 呼べません.キリストは,真実の信仰を持った人に,聖霊と火とによって洗礼を授けるのです.聖霊と火とによって 洗礼を受けた人は,神の愛に支配され,愛にあふれた生き方をします.そして,その人の罪はキリストの火によって 焼き尽くされ,すべての罪を許されて,罪から解放された状態になるのです.ですから,一般に教会では水による洗礼を 行うのが普通ですが,一部の教会では,形式にとらわれずより本質的な信仰を求めて,水による洗礼を行わずに聖霊と 火とによる洗礼を強調し大切にしているところもあります.

17) Et exspecto resurrectionem mortuorum.
(死者のよみがえりと,)
18) Et vitam venturi saeculi.
(来世の生命とを待ち望む.)

 終わりの日,「いのちの書」に名前のしるされているものは,よみがえり,主の国にはいって永遠のいのちを得ます. これこそが,すべてのキリスト教徒が願ってやまないことです.
『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、 主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、 わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。 このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。』(第1テサロニケ4:16-17)

19) Amen.(アーメン)


 神に認められ,神の前に正しい信仰告白です.力強く「そのとおりです(アーメン)」ということができます.





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