道後温泉

 道後温泉は開湯より約3,000年余りの歴史があり、神代の頃からある日本最古の名湯である。開湯には様々な説があり、『伊豫国風土記』には、大国主命(おおくにぬしのみこと)が重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)を助けようとして掌に乗せて温泉に入れたところ、不思議とよみがえり、温泉の側にあった玉の石を踏んで立ち上がり、「真暫寝哉(ましましいねたるかも):暫く昼寝をしたようだ」と叫んで、石の上で舞ったと言われている。この伝承から、大国主命と少彦名命の二神を道後の湯の神として、道後温泉本館側の湯神社に祭祀してある。もう一つの開湯伝説として、白鷺による発見がある。宝永7年(1710年)に完成した郷土地誌『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりばんしゅう)』の鳥越山鷺谷寺(後の大禅寺)の条に、昔脛に傷して苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んで来てその中に脛を浸していた。暫くすると傷は完全に癒えてしまい、白鷺は完全に元気になって飛び去ったという。これを見た人達は大変不思議に思い、この温泉に入浴してみると爽快で、疲労を回復する事が出来た。また、病人も入浴してみると、いつの間にか全快する者が現れた。そこで地元の人達は、温泉の効能の著しいのに驚くとともに、盛んに利用するようになった。大国主命と少彦名命の逸話は神話の世界であるが、湯の精霊の人格化という点では興味深いものがある。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかある。

 
    大国主命と少彦名命           白鷺

 何でこの場所を道後というようになったかというと、大化改新(645年)によって律令体制に基づく中央集権的な統一国家を建設しようとする理想が高唱された。翌年には大綱が示され、そのうちの一綱目として新しい行政区画がつくられ、全国を国・郡・里に分けて地方体制の確立が図られた。それに伴い各国に統治機関として国府が置かれ、この国府を中心として、道前・道中・道後の名称が生まれた。伊予の国府の位置は、現在の今治市富田〜櫻井の地域とされている。当時の道後はかなり広い地域を指していたが、温泉周辺の限られた地域を指すようになったのは、近世に入ってからといわれている。
 古代の道後温泉は大和朝廷と深い関係があり、法興6年(596年)には聖徳太子が来浴。伊佐爾波の岡(現在の道後公園)に登って、明美な風光と良質の温泉を褒め称え、これを記念して、この岡に温泉の石碑を建立したと言われる。残念ながらこの石碑は発見されていない。その後、景行天皇、皇紀八坂入姫、仲哀天皇、神功皇后(応仁天皇御懐妊中)、舒明天皇、斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)も来浴されている。斉明天皇に供奉した額田王は、熟田津(にぎたつ:場所は定かでない)にて、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」という歌を詠んでいる。万葉集初期の代表作である。又、万葉の歌人として有名な山部赤人(やまべのあかひと)も来浴し、歌を詠んでいる。

 
       聖徳太子              熟田津

 平安時代には源氏物語の空蝉と夕顔の巻で、「伊予の湯桁は数が多い」と平安貴族が噂している話が登場するが、都では伊予の湯桁は数が多い事の例えになっていた。また、伊予の湯桁は、都人に愛された雑芸催馬楽という民謡にも登場している。


   平安時代の道後温泉

 鎌倉時代には、時宗の開祖一遍上人が道後の宝厳寺に誕生。伊予の国の豪族河野通信の孫だったが、10歳の時に母を亡くし、父である河野通広(出家後法名:如佛)の勧めに従い出家(法名:随縁後に智真と改め)した。数々の重ね、念仏によって人々を救済しようと全国を行脚した。一遍が51歳で亡くなる前最後に帰郷した際に、河野通有の依頼によって温泉の湯釜の宝珠に『南無阿弥陀仏』の六文字の名号を書いたと伝えられる。この湯釜は現存し、道後公園内に湯釜薬師としてまつられている。建武年間(1334〜1338年)に河野通盛は伊佐爾波の岡に湯築城を築いた。石手寺や温泉もある湯築城下は大変賑わい、今市や上市もこの頃に出来た。河野家は伊佐爾波の岡に温泉館(ゆのたち)を建て、管理していた。


南無阿弥陀仏と彫る湯釜の宝珠

 江戸時代に入ってからは、寛永12年(1635年)伊勢桑名藩より松山藩に転封となった松平定行が翌年温泉経営に着手し、浴槽を士族用、僧侶用、婦人用、庶民男子用に分け、その他に15銭湯、10銭湯、養生湯、その下流に馬湯を設けた。温泉は藩が管理していたが、後は石手寺末院の明王院が代々宿屋株の売買や他国からの入浴者の管理に当たっていた。多くの文化人も来浴しており、俳人小林一茶は寛政7年(1795年)と寛政8年〜9年の2度も道後を訪れ、「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」という句を詠んでいる。ことのほか道後の外湯の情緒にのどかな旅情を味わった句趣が感じられる。

 
   江戸時代の道後温泉           小林一茶

 明治維新後、松山藩所有の温泉の土地、建物は国有となり、町民の合議による温泉経営を行なった。明治5年には浴客の増加に伴って2階建てに立て直した。明治11年には神の湯東側に三層楼の新湯が完成、後の又新殿となる場所である。明治22年、町制実施とともに温泉の経営は町営になった。その後明治27年に道後温泉本館の元となる神の湯本館が完成、明治32年に又新殿及び霊の湯棟、大正13年に南棟及び玄関棟がそれぞれ完成した。平成6年12月、『道後温泉本館』として国指定重要文化財となった。この年は明治27年の築後100周年の年でもある。
 ここで明治以降の道後温泉の発展について意外と知られていない人物がいる。その人物とは伊佐庭如矢(いさにわゆきや)。道後湯之町初代町長で、文政6年(1827年)に道後湯之町に医者の三男として生まれる。若い頃は松山藩の重臣として、明治維新後は県の官史、高松中学校校長、金毘羅宮禰宜等を務め、明治23年初代道後町長に就任した。彼が行なった温泉改革の最初は、養生湯の改築である。江戸時代からあった養生湯は天保5年(1834年)に改築されたもので傷みもひどく、また規模も小さかったので今後増加する入浴客を受け入れるには手狭なものだった。彼は養生湯の改築を決意します。しかし、改築に伴って無料の浴場が無くなる等として住民の大反対を受ける事になった。彼は使える部材の再利用や無料浴場の別途建設等で住民との問題は円満に解決した。第2の改革は神の湯(現在の道後温泉本館)の改築である。江戸時代よりあった神の湯は明治5年に改築され二階楼になっていた。しかし彼はこれを三層楼に改築すると提案した。しかし松山城下を覗いても、遊郭以外に三層楼の建物は存在せず、その規模の大きさと破格の予算に住民は大反対した。また三層楼の上に振鷺閣迄付け加えるので、これまた反対派を刺激した。しかし彼は「道後は名湯だが、湯の量が少なく、地の利も悪い。付近にこれといって遊覧地もない。文明開化の波が交通の便を開きつつある時勢をにらむと、どうしても観光客の度肝を抜くような建物で世間の目を道後に向けさせる必要がある、それが引いてはこの道後湯之町の反映につながるはずだ」という強い信念を持ち、それは全く揺るぐ事は無かった。この後、振鷺閣については火の見櫓の役目も果たす等として住民を説得。結局彼の熱意と説得によって住民と円満に解決した。神の湯改築工事は棟梁に松山藩お抱えの城郭建築を得意とする坂本又八郎を起用し、明治27年神の湯本館は見事に完成した。翌明治28年には有志と作った道後鉄道株式会社(後に伊予鉄道に買収)によって道後〜一番町間、道後〜三津口間を開通させ、入浴客の増加を図った。第3の改革は霊の湯と又新殿の建設である。今迄あった新湯を改築し、特別湯の霊の湯とし、新たに皇室の御召し湯又新殿をつくることを提案した。明治32年、これらも見事な出来で完成した。明治35年、任期満了で勇退した。3期12年だった。彼が先見の目を持って任期中に行なった業績は100年後も大いに輝いている。

  
100周年シンボルマーク  伊佐庭如矢

 私は松山で生まれ育ったので、幼少の頃より道後温泉にはよく入った。道後温泉本館には大きく分けて神の湯と霊(たま)の湯の浴室があり、また、神の湯は階下と2階、霊の湯は2階一般と3階個室とに分かれる。ちょっとややこしいが、神の湯階下は普通の銭湯と同じと考えればよい。私はいつも神の湯階下を利用していた。料金も椿の湯や市内の銭湯と同じ300円だからだ。神の湯2階になると何が違うかというと、2階の大広間でゆっくりと寛ぐ事が出来る。浴衣を貸してくれて、入浴後に輪島塗の天目台のお茶と煎餅をいただくことが出来る。大衆的な神の湯と比べて霊の湯はちょっと贅沢な観光客向けで、霊の湯2階一般は神の湯2階の座敷よりもこじんまりとした座敷で、浴衣の他にタオルと石鹸もついてくる。タオルは小説『坊っちゃん』にちなんで紅色をしており要返却。入浴後には輪島塗の天目台のお茶と煎餅をいただくことが出来る。霊の湯3階個室は最高級で、ちゃんと個室になっている。浴衣、タオル、石鹸はもちろんの事、入浴後の輪島塗の天目台のお茶と一緒にいただくのは坊っちゃん団子である。3階個室の一室に『坊っちゃんの間』があり、夏目漱石の胸像や写真、「則天去私」と書かれた掛け軸も飾られている。夏目漱石が松山中学校(現在の県立松山東高等学校)の英語教師として赴任したのは明治28年4月、道後温泉本館が完成した翌年の事だった。「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上り、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と道後温泉の感想を手紙で送っているくらい気に入っていたようだ。坊っちゃんの間は、漱石の娘婿松岡譲氏の命名で、漱石を偲んで作られたものである。私は帰省の際に初めて霊の湯に入ってみる事にした。思い切って個室にしようと思ったが、残念ながら満室で1時間待ちといわれたので、2階一般にした。料金は980円だった。浴室は神の湯に比べてこじんまりとしているが、浴槽には庵治石や大島石、壁には大理石が使われており、贅沢な浴室である。入浴後に出されるお茶と煎餅も美味だった。霊の湯の利用者は皇室専用の湯殿『又新殿(ゆうしんでん)』の見学も料金に含まれている。観覧料だけでも210円はする。又新殿は明治32年に立てられ、明治36年には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が来浴、大正11年には皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が来浴、昭和25年には即位後再び昭和天皇が来浴された。部屋は手前から玄関の間、御次の間、玉座の間となっており、その隣には警護の人が控える武者隠しの間がある。建築様式は桃山時代風の優雅なもので、畳は備後表の高麗縁、欄間には、しめどりやいかるがの浮き彫り、天井は高麗張りの桐の3枚重ね、襖には金箔に極彩色の枝菊が描かれ、建具は極上の漆が用いられた輪島塗と豪華絢爛である。浴槽は御影石の中でも最高級とされる香川産の庵治石が使われ、湯釜には大国主命と少彦名命の二神像を刻んだ宝珠がある。この又新殿は日本で唯一の皇室専用であり、一見の価値はある。残念ながら又新殿は撮影禁止である。
 道後温泉本館の周りを見ると北側には大国主命と少彦名命の伝説で知られる玉の石があり、また、随所に白鷺の姿もある。屋上には振鷺閣と呼ばれるものがあり、閣内の広さは約1坪、周囲の窓は赤いギヤマンをはめた障子でつくられている。格天井の天井から吊るされた太鼓は『刻太鼓』と呼ばれ、朝、昼、夕の3度鳴らされ、この刻太鼓の音が旧環境庁の残したい日本の音百選にも選ばれている。特に朝一番の太鼓の音は一番湯の合図であり、これを楽しみに毎日訪れる客もたくさんいる。私も朝湯を楽しんだものだ。温泉の成分はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で柔らかい感じで肌がぬるぬるするような感じがする。温度はちょっと熱めだが、入っていると段々となれて気持ちよくなってくる。いい湯である。

  
           表      道後温泉霊之湯二階入浴券    裏                     パンフレット

  
   道後温泉本館正面              南側                  北側

 
       北側破風              白鷺

   
       北側の柳                          玉の石                        松

  
      北側(又新殿)          東側角(又新殿)            ガス灯

 
               東側(又新殿)

 
         龍   又新殿玄関破風瓦 鳳凰と湯玉

 
             又新殿                   又新殿襖絵(白鷺)

 
                 振鷺閣

   
               坊っちゃんの間                           胸像と掛け軸

 道後温泉本館の玄関を飾る『道後温泉』の額だが、初めて本館に掲げられたのは昭和25年6月5日で、それまでは額がなかった。作家獅子文六氏が愛媛県津島町を舞台にした小説『てんやわんや』の映画化(渋谷実監督 松竹1950年公開)が決まり、道後温泉ロケの際に道後温泉の証となるものがどこにもなく、急遽松竹側より「本館玄関に古色蒼然たる扁額を掲げる」という案が出され、松山出身の村田英鳳画伯によって制作されたものである。映画化より月日が流れ大分額にも傷みが生じ、昭和61年、36年振りに村田画伯により2代目の額が制作された。私はてっきり著名な文人か皇族の筆によるものと思っていたが、意外なエピソードがあるとは知らなかった。この扁額こそ道後温泉のシンボルといえる。

  
 道後温泉本館玄関破風と額            新                          旧

  
             天目台のお茶と煎餅                霊の湯2階一般用広間

 夜の道後温泉本館も、情緒があって昼間とは違った感じでよい。100周年を記念して作られたガス灯の灯りが優しく本館を照らしている。


   夜の道後温泉本館正面

  
  夜の道後温泉本館東側               夜の道後温泉本館北側

 道後温泉本館から徒歩数分のところに放生園というのがある。昔は放生池と呼ばれる池があったが、今は埋められて放生園となっている。ここには1時間毎に上演される坊っちゃんカラクリ時計や、明治時代に使われていた湯釜、傷付いた白鷺がとまっていたといわれる鷺石がある。ちょっとした憩いの場である。

  
  坊っちゃんカラクリ時計                      湯釜

 放生園の前にはレトロな作りの伊予鉄道後温泉駅がある。ここから市内へ向かうことが出来る。

 
                道後温泉駅

 
       ホーム                路面電車

 道後温泉本館から少し散策すると昔ながらの街並みを見る事が出来る。立派な門構えの屋敷や石灯篭もある。

 
        屋敷               石灯篭

 昭和63年に建設大臣より、手づくり郷土賞 やすらぎと、うるおいのある歩道30選に選ばれた歩道も近くにある。この歩道を歩いて行くと、道後温泉商店街にたどり着く。当時の建設大臣は地元愛媛県出身の越智伊平氏である。

  

      受賞した歩道           蔵元の杉球            受賞記念プレート

白枠で囲まれた写真は、松山市発行の刊行物内の写真を使用したものである。