リマ
午後1時50分、フリアカ空港から久し振りにカリャオのホルへ・チャベス国際空港に到着した。久し振りのリマである。本来の日程ならば午後4時発でトルヒーヨへ向かうのだったが、事前の連絡で午後6時30分発に変更になった。予想外に長い連絡時間が出来て、これからどうしようか迷った。金城旅行社より流しのタクシーは使わないよう注意されていたので、金城旅行社と提携しているリマの旅行代理店ファール・ツアーの玉城エリアナさんの自宅に電話してタクシーを手配してもらおうと思った。お母さんが出て聞くと残念ながら不在だった。どうしようか悩んでいると、一人のセニョールが近付いてきた。
「オーラ!(¡Hola!:やあ!)。」
といい、何かスペイン語で言っていた。どうやらタクシー・ドライバーのようだ。当初リマの博物館やセントロは全然日程に入っていなかった。少ない滞在時間でどうするか考え、世界遺産にも登録されているセントロ(Centro:中心地、旧市街)のリマ歴史地区と、国立人類学考古学博物館に行く事にした。このセニョールはパブロさんといい、彼を信用して御願いする事にした。地球の歩き方の地図を見せて、セントロと博物館を指差し、
「ポル・ファボール(Por Favor:御願いします)。」
といった。ここでタクシーに乗る時に日本車の助手席に乗る感覚で左側のドアを開けたらパブロさんが驚いて、この人がユーモア溢れる人で、鍵を私に渡して運転どうぞといった。私も左ハンドルに気付き、笑ってハンドルを握るジェスチャーで、
「ハポネース・デレチョ(Japones Derecho:日本のは右です)。」
といった。タクシーに乗って値段交渉をした。ペルーのタクシーはメーターは無く、事前交渉だ。交渉の末20ドルで解決した。ペルーにしては破格の値段だが、彼の言い分は3時間余り私の為に専用とするので、これだけ欲しいそうだ。私も荷物も多いし安全を考えたり、日本でタクシーを3時間貸し切る事を考えたらだいぶ安いと思ったので承知した。先ずは国立人類学考古学博物館に向かった。車中では私の簡単なスペイン語での自己紹介などの会話をした。
国立人類学考古学博物館に到着し、大きな荷物以外はタクシーに残して博物館に入った。パブロさんは見学が終わるまで、路上駐車して待っているといった。心の中でパブロさんがとんずらしない事を願った。
博物館の見学を終わりパブロさんを探すと、昼寝をしていた。コンコンと窓を叩き、再び出発した。後から考えると私は運がついてると思った。流しのタクシーの中には人気の無い所に連れていって身包み剥がされたり、今回の様に見学中にとんずらするケースもあるという。パブロさんが良心家で良かった。結果オーライである。パブロさんの車はアメリカのパトカーの様なサイレンがなり、いい女が歩いていると盛んに鳴らしている。乗っているこっちが恥ずかしいくらいだ。推定年齢40代後半だが、かなりの女好きと見える。
暫く走るとやがてリマの旧市街セントロに到着した。ここセントロはスペイン統治時代のコロニアルな建物が建っており、道路は碁盤の目状になっている。1988年リマ歴史地区として世界遺産の文化遺産に登録された。サン・マルティン広場(プラサ・デ・サンマルティン:Plaza De San Martín)が見えた。ここはペルー独立運動に大きく貢献したサン・マルティン将軍を記念した広場で、中央には彼の騎馬像が建っている。サン・マルティン広場を抜けるとアルマス広場(プラサ・デ・アルマス:Plaza De Armas)に到着した。スペインが統治した街の中心には必ずアルマス広場があり、カテドラル(Catedral:大聖堂、中央寺院)や教会(イグレシア:Iglesia)が必ず面してある。リマの場合、カテドラル、大統領府(パラシオ・デ・ゴビエルノ:Palacio De Gobierno)、リマ市役所(パラシオ・ムニシパル:Palacio Municipal)、中央郵便局(コレオ・セントラル:Correo Central)が面している。大統領府は日本でいう首相官邸で、フジモリ大統領(プレシデンテ・フジモリ:Presidente Fujimori)(当時)が政務をとっていた場所だ。高い門から中を覗くと鮮やかな制服を着た衛兵が立っており、ピクリとも動かない。毎日午後0時と6時に交替式があるそうである。カテドラルはスペインの征服者フランシスコ・ピサロが自ら礎石を置いたペルー最古のカテドラルである。そのピサロも1541年6月、仲間割れしたスペイン人アルマグロの息子に暗殺され、その遺体がこのカテドラルに眠っている。何とも皮肉な事だろうか。ピサロによる1535年の起工はリマ建都の日でもあり、20年後の1555年に最初の完成を見た。その後1585年からフランシスコ・ゴンザレス・ベルトランの設計により増築されたが、1606年、1687年、1746年の大地震で打撃を受けた。1755年の修復後、現在に至っている。中には入らなかったが、金箔、銀箔をふんだんに使い彫刻が施された見事な祭壇が16もあり、14世紀からの宗教画などがあるそうだ。他にもちょっと路地を入ると古い教会があるのだが、時間が無く見れないのが残念だった。パブロさんに写真を撮ってもらっていたら、セニョリータ2人が近付いて来た。お土産売りだ。袋からいろんなお土産を出して盛んに勧めて来る。
「ノ・グラシアス(No Gracias:結構です)。」
といってもしつこい。仕方が無いので一人から買うと、もう一人が私のも買ってと勧めてきた。パブロさんが追い払おうとしてくれたがしつこいので、もう一人からも買った。私が、
「ペルアーナ・ボニータ・ムーチョ(Peruana Bonita Mucho:ペルーの女性はかわいい子がたくさん)。」
というと、
「ハポネース・ボニート・ムーチョ(Japones Bonito Mucho:日本の男性はかっこいい人がたくさん)。」
とお返ししてきた。強引で商魂たくましいが、ラテン系の明るい少女達であった。
そろそろ空港に戻る時間だ。タクシーはセントロの住宅街を走った。そこはさっきの官公庁街と違ってダウン・タウンだった。貧しい生活の様子が伺えた。以前はセントロは観光の目玉で、ホテルや旅行代理店が集まっていたが、最近は治安が悪く、宿泊も郊外の新市街のミラフローレスに移っている。貧富の格差がある現状をあらためて感じさせられた。無事に空港に到着し、パブロさんに20ドル支払った。パブロさんに、
「セニョール・パブロ・ムーチャス・グラシアス・ヨ・ムーチョ・コンテント(Señor Paulo Muchas Gracias Jo Muvho Contento:パブロさん、どうもありがとうございました。私は凄く楽しかったです。」
というと、
「デ・ナーダ(De Nada:どういたしまして)。」
といって握手をした。自分で搭乗手続きを済ませ、午後6時30分トルヒーヨへと向かった。
セントロの風景
大統領府 衛兵
カテドラル
アルマス広場 馬車
アルマス広場とカテドラル アルマス広場と大統領府
大統領府にて カテドラルにて パブロさんの名刺
パブロさん お土産売りの少女達 少女達と