パラカス〜リマ

 ホテル・パラカスを午後12時10分に出発し、リマを目指した。海沿いを走り再びピスコへ。暫くしてパン・アメリカン・ハイウェイに入り、1時10分に料金所を通過した。暫く走っていくと、ちょうどお腹も空いて来たので途中のレストランに寄る事にした。2時である。レストランの名前はエル・ピロト(El Piloto)だった。外観は竹をふんだんに使った東南アジア風、熱帯ジャングル風だった。私はチチャロン・ミクスト(Chicharrón Mixto:ミックス・チチャロン)29ソーレス(約1,160円)、セビーチェ・ミクスト(Cebiches Mixto:ミックス・セビーチェ)29ソーレス(約1,160円)とエラード(Herado:アイスクリーム)4ソーレス(約160円)を頼んだ。チチャロンとはペルー風揚げ物、セビーチェとはペルー風刺身で、新鮮な魚介類をレモン汁でしめて、独特の香辛料をかけて食べる。私は辛いの駄目なので、
「ノ・ピカンテ・ポル・ファボール(No Picante Por Favor:辛くしないで下さい)。」
と注文した。

エル・ピロト
      エル・ピロト

エル・ピロトの料理2 エル・ピロトの料理1 アイスクリーム
    セビーチェ・ミクスト        チチャロン・ミクスト           エラード

 最初にセビーチェが出てきた。コルビーナ(Corvina)という白身の魚と、マリスコス(Mariscos:シーフード)のミックスで、コルビーナは脂がのってて美味しかった。シーフードは、タコ、イカ、巻貝、ホタテ貝柱だった。注文どおりあんまし辛く無く、食べ易かった。本場の辛さにしたら水ばかり飲むはめになる。次にチチャロンだ。白身魚の他イカ、タコ等のフリッターをタルタル・ソースに付けていただく。これも日本人の味覚に問題なく合う美味しいものだった。ペルー海岸地域コスタは新鮮な魚介類料理がやっぱり美味しい。デザートのアイスクリームはテニス・ボールくらいのが2つものっかっていた。少しゆっくりしたので出発する事にした。3時25分だ。
 レストランを出発してから暫くして、パン・アメリカン・ハイウェイから小さな町にガイドさんが向かっていた。3時35分、レストランを出てから僅か10分、セロ・アズール(Cerro Azul)という町に到着した。ガイドさんが、
「ノ・プログラム(No Program:予定外)。」
といった。ガイドさんの話だと、ここは日系人町だそうだ。旅行した1999年は日本人ペルー移住100周年の記念すべき年である。セロ(Cerro)とは小さな山、丘陵とかいう意味、アズール(Azul)は青という意味で、青山という意味の町になる。アルマス広場(プラサ・デアルマス:Plaza De Armas)で車を停めて町を散策する事にした。人口はどれくらいか分らないが静かな町だ。時々住民を見かけるが日本人の面影は無い人が殆どだ。移民当時から日系人同士で結婚していたらそうでもないが、ペルー人と結婚したりしたら日本の血が薄くなるのは当然である。歩いていたら、
「ハポネース?(Japones?:日本人か?)」
とセニョールに声をかけられ、
「シー・ヨ・ハポネース(Si Yo Japones:はい、私は日本人です)。」
と答えた。すると珍しいのか、何人か集まってきた。やばい状況になってきたかと思った。ガイドさんはアルマス広場の車の中だ。そんな心配も吹っ飛んだ。
「コンニチハ。」
と一番の老人がいってきた。日本語が話せるみたいだ。老人は日系2世で、少し話せるそうだ。2世の人達は少なく、もうみんな3世、4世以降だそうで、日本語も話せない人が殆どなのだそうだ。当時日本政府の政策で海外移民を奨励してきたが、その人達の子孫がここに集まって暮らしているのだ。彼らは日本の事はもちろん知らないだろうが、日本の事をどう思っているのだろう。彼らと写真を撮った。彼らは大変な親日家だと感じた。セニョールに数日後に移住100周年の記念式典があるから見ていってくれといわれたが、残念ながら日程的に駄目なので丁寧にお断りした。時間的に余裕があれば参加したいところだ。

アルマス広場1 アルマス広場2
               アルマス広場

日系人達1 日系人達3 日系人達4 日系人達2 
                                  日系人達

 彼らに別れを告げて先を行く事にした。そこで素晴らしいものを発見した。山の斜面に何と、ペルーと日本の国旗が描かれているのである。この山こそがセロ・アズールではないかと確信した。山の斜面を撮っていると1組の老夫婦が近付いてきた。御夫婦は日系2世で、吉岡御夫妻という。記念すべき年でセレモニーもある為にセロ・アズールに来たという。吉岡さんが、
「ニホンノドコカラキマシタカ?」
と聞いてきたので、
「群馬県です。」
と答えると、吉岡さんの息子さんが同じ群馬県伊勢崎市に勤めているそうだ。これまたお互いビックリした。何でか分らないが、群馬県は日系ペルー人、日系ブラジル人が全国でも多いらしく、群馬県でも特に中毛地域(前橋、高崎、伊勢崎)周辺が多いそうだ。群馬県の大泉町にいたっては町民の約1割が日系ブラジル人だという。日系ブラジル人の町会議員がいてもおかしくない状態だ。吉岡さんについては大変な偶然だった。私のローマ字書きの名刺を渡した。息子さんに連絡するといっていたが、今のところ連絡は未だ無い。

ペルー国旗&日本国旗  セロ・アズールにて1
  ペルー国旗&日本国旗          セロ・アズールの文字          セロ・アズールにて

セロ・アズールにて2 吉岡夫妻 吉岡御夫妻2
    セロ・アズールにて                    吉岡御夫妻

セロ・アズール セロ・アズール2
              セル・アズールの風景

 また暫く歩くと海岸に出た。夏は海水浴場になるのだろうか?目の前は太平洋だ。波打ち際では子供達が遊んでいた。海に向かって長く桟橋が伸びていた。桟橋の先に移民船がかつて到着して、多くの日本人が異国の地の降り立ったのだろうか?

セロ・アズールの海岸1 セロ・アズールの海岸2
             セロ・アズールの海岸

 海岸沿いに明らかに日本を意識した名前の建物を発見した。SAKURA MARU、サクラマル(さくら丸)だ。何の建物か分らないが推測すると、飲み屋、レストラン、カラオケとかだろうか?

サクラ・マル 
              サクラマルの建物

 セロ・アズールには1時間の滞在だった。4時30分に出発した。ここでリマに向かうと思ったのだが、もう1ヵ所見せたい所があるそうだ。ナスカ方面に走っていた。パン・アメリカン・ハイ・ウェイから左折して綿花畑、トウモロコシ畑の中を走っていた。目的地の検討がつかない。4時50分到着した。そこは何と日系人の墓地(セメンテリオ:Cementerio)だった。ガイドさんの粋な計らいにまた驚かされた。中に入ると正面に大きな無縁供養塔があり、その周囲に色は真っ白だが形は日本の墓石みたいな墓が並んでいる。日本から渡り、異国の地で頑張って日本に錦の花を咲かせるつもりで結局日本の土を踏めなかった人達、ペルーに生まれて父母や祖父母の故郷日本を見る事が出来なかった人達などだろう。日本人観光客を代表して御参りをした。墓地の門の上枠の文字を見ると、日本人移住100周年を記念して作られたものだという事が分る。ペルーの地で日系人が迫害を受けた時期もあったが、そんな日系人がペルー経済の発展に寄与した事実は否定出来ない。ペルーの日系人社会は8万人といわれる。日系人から大統領も誕生したのだから。

日系人墓地1 
     日系人墓地入口

無縁塔 日系人墓地1 日系人墓地2
     無縁塔

日系人墓地3 
                    墓名


                         無縁塔の碑詩(スペイン語)


                             無縁塔の碑詩
          

日系人墓地からセロ・アズール方面望む

 今回の、セロ・アズールと日系人墓地の訪問は普通の観光では決してないだろう。バスで素通りしてしまう筈である。ガイドさんのノ・プログラムに感謝したい。私は海外の旅は親善大使の気持ちで行なっているが、今回の訪問は日秘親善大使になった感じがした。いい経験をした。5時に出発した。5時30分に料金所を通過、夕暮れが美しい太平洋が見えてきた。ここでガイドさんがハイ・ウェイで車を停めた。日本だったら違法だがペルーならどうなのだろう。ガイドさんが、
「レオン・ドルミード。」
とある岩を指差した。良く見ると何かがしゃがんでる様に見える。レオン(Leon:ライオン)・・・。やっと分ったライオンが寝そべってしゃがんでいるのだ。日本でいうなら『獅子岩』だろう。ドルミード(Dormido)とは寝るという意味だ。寝るライオンに見えてきた。最後まで楽しい車の旅だ。

レオン・ドルミード1 レオン・ドルミード2 レオン・ドルミード3
    レオン・ドルミード

 パン・アメリカン・ハイ・ウェイで向かえた日没も美しかった。5時55分にリマに入った。6時55分にミラフローレスの宿であるホスタル・トーレ・ブランカ(オスタル・トーレ・ブランカ:Hostal Torre Blanca)に到着した。2回目の宿泊である。明日はいよいよペルーを離れ、今回3カ国目のエクアドルに入国する。夢のガラパゴス諸島だ。リマの夜を楽しんだ。因みにパンアメリカン・ハイウェイの1区間の通行料は2.5ソーレス(約100円)だった。日本とは比べ物にならないくらい安い。

日没  
         日没            パンアメリカン・ハイウェイ領収書 

 日本に帰国してからだが、金城旅行社から清算書などの手紙が届いた。そこには日本人移住100周年記念の切手が貼られていた。私は急いで郵便局に行った。幸いにしてまだ在庫があって、必要数買う事が出来た。

 

発行データ

種 類 80円郵便切手
意 匠 リャマとマチュ・ピチュ遺跡とナスカ地上絵
印面寸法 縦36.5mm 横28.05mm
版式版色 グラビア6色
シート構成 20枚(縦5枚 横4枚)
発行枚数 1,800万枚
発 行 日 平成11年5月18日(火)
原画作者 下田弘一(イラストレーター)

下田浩一氏略歴(イラストレーター、日本グラフィックデザイン協会会員)

1946年 北海道釧路市生まれ
1969年 多摩美術大学デザイン科卒業
(有)伊東デザイン研究所入所
1972年 ディスプレイデザイン展銅賞受賞(ソニー)
1974年 (有)伊東デザイン研究所退所
フリーランス・イラストレーターとなる
1975年 カレンダー展入選(シチズン)
1978年 カレンダー展入選(シチズン)
1982年 ニューヨーク・パッケージ・デザイン展家庭部門金賞受賞(ダスキン)
1983年 第1回国際デザイン・コンベンション通商産業大臣賞受賞(広島1945)
1984年 アフリカ自然保護ポスター・デザイン・コンテスト入選
1996年 日本産業広告賞新聞第1部第2席(イワタニ)
1997年 東京湾アクアライン記念切手
1998年 多摩都市モノレール記念切手
1999年 日本人ペルー移住100周年記念
日本人ボリビア移住100周年記念



                  記念台紙 裏 表


                   記念台紙 中