創業の年は遠く天明二年(西暦1782年)に名古屋城主徳川宗睦(尾張藩九代目藩主)が藩校として明倫堂を設立した時、既にその左官工事に従事していたという記録があり歴代当主は平兵衛を襲名し、名古屋大津町に居住していたので「左官太平」と商号していた。それ以来、幾多の時代の変遷を経ながらも絶える事なく次代へと継承されて現在の社長で十五代目を数えているが、その間に商号の変更はしているがこの長い歴史と伝統は、現在に至るまで保ち続けてきている。

 明治時代に入ってから職人及び弟子入り志望者が多く集まりしたがって、業績も著しく発展し名古屋地方の左官業界にその名を広め、中期に至って名古屋地方に西洋風の建築物が見られるようになり、左官工事の将来性と発展はこの西洋建築にありと予見し確信を持って、西洋建築の施工に積極的に取り組み常に研究努力をした結果、当社の存在は次第に建築界に認められ当時一流建築業社の成長期とあいまって、名古屋地方における建築左官業務を全面的に受注施工し、幸いにも高い評価と信用を得る事が出来た。

 それ以来、明治後期から大正年間に至る時代は、現在の基礎構成時代とも言うべきもので機構を合名会社組織に改め、堅実なる技術と熱心なる努力、さらには誠意を以って西洋建築における「壁」を対象とした研究を、いよいよ推し進めていったのである。

 その結果、創意工夫による「大和石(ストンブロック)」「国立石(テラゾオ)」という研究努力の結晶を得て、業界より多大な賞賛を得る事が出来た。

 大正十二年 東京地方一帯を焦土と化した関東大震災を一つの契機に地方進出の第一歩として、翌大正十三年東京出張所を設け引き続き昭和年代に入ると、静岡出張所を設置して建築界の好況という恩恵を受けた事にもよって当社の業績は飛躍的に発展し、竹中工務店・清水組(現:清水建設)・大林組・大倉土木(現:大成建設)等の大建築業界の下請左官工事はもとより総合請負の特命工事に於いても、共に見るべき成果を挙げる事が出来たのである。

 第二次世界大戦の勃発以来、終戦に至る間は致命的な打撃だけは免れ未曾有の戦争による災害を克服する事が出来た。

終戦後に至って、機構の充実と経理面の合理化を図るために組織を株式会社に変更し戦時中、閉鎖していた東京出張所を各得意先の御支援によって、昭和三十三年一月に再び開設し将来一層の発展を期するために、昭和三十三年一月 支店に昇格して現在に至っている。