美と哲学


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サザエ 径18cm 高11cm  大石作


貝の形。 「数式の美学」。 一度は語ってみたくとも、残念ながら偉業を成した物理・数学者にのみ許される言葉である。 物理学では、自然界に存在するあらゆるものに合理的、普遍的な数式があると考える。 分かりやすい例として「貝の形」を取り上げよう。 形状こそ様々であれ、その渦巻きは、n、nr、nr2乗、3乗 ・・・、と等比級数の描く幾何学構造をしており、nの値により細長い巻貝であったり、サザエ、あるいはアワビ(アワビも巻貝の一種)であったりする。 さらに言うならば、貝殻の主要成分である炭酸カルシウム(CaCO)を構成する原子レベルの化合比率は決まっており、その数値に準じて貝殻の渦巻きは増殖する。





美とは何か


 “美”は自然の内に、五感、素材、技術、精神の内に、あるいは偶然の中に潜む。 あらゆる要素が美を生む可能性を秘め、その組み合わせは無限であり法則はない。 それらは葉上の露のごとく結合し、成長し、美の化身となり、その形状はときに音楽、絵画、彫刻、詩歌、文学、舞踊、映像、築造物、あるいは工芸に姿を変え、私たちの心を浄化し、想像力をかき立て、思索に誘い、生命に“意味”といをもたら。 
 “美”が、なぜ美しいのか? 古代ギリシャ以来、心の不思議を解く根源的な問題として論じられてきたが、今なお明快な回答を得ていない。 しかし“美しい”理由の根拠はできるだけ客観的、論理的に明らかにされるべきだと思う。 なぜならば、自分が“善的”であり、“進歩”を促がすものでありたいと考えるのが人間であり、自らの行為に保証を求め、そこに“美”を必要とすると思うからである。 
 
 とはいえ、美・芸術を一般論でまとめようとする試みは、ほとんど無謀とも思える作業である。 なぜならば、その内容はあまりにも深く広範囲に及び、人間のみならず森羅万象そのものを問う根源的問題を含むからであろう。 果たして、芸術の中に、誰もが納得できる客観的、論理的法則というものを見いだすことができるのであろうか? もしそのようなものがあるとすれば人間は芸術を自在に操れることになる。 まるで夢のような話であるが、創作活動に関わる者にとり常に心に潜む素朴な願望であろう。 

日本においては、明治初期に入ってきた西洋の「Art」という言葉が哲学的考査を経ないまま「芸術」、あるいは「美術」と翻訳され、芸・美術の概念が規制されず、観念論、抽象論のまま今日に至っているように思えてならない。 欧米では「美学」は物事の本質的な価値観を問う形而上学、すなわち哲学と解釈し、「芸術」は人間の本質を模索する表現であり、明確に自然美とは区別するが、東洋では「美」を内包するあらゆるものを意味する。 

 そもそも漢字の「美」は「大きい」と「羊」の合成語であり、「大きな捧げ物、生贄(いけにえ)、犠牲」を意味する言葉である。 食いしん坊な人は“丸々と太った美味そうな羊”と解釈するかもしれないが、“危機に際し、自己を犠牲にしてでも所属の共同体を守る”、これが東洋における“美しい”の原義ではなかろうか。 



いずれにせよ、よく分からないことを論ずるよりも、分からない原因をハッキリさせる方が“美・芸術”を理解しやすいのではないか。 その主たるいくつかを挙げてみよう。 

   論争の対象となる“美”は人間の六感(眼・耳・鼻・舌・身・意)に善的刺激を与え、それぞれが複雑に連絡しあい“快”に誘う。 そのメカニズムが物理的・生理的なものか、精神的なものか、心理的なものか、思想的なものか、社会的なものか、時間的なものか、あるいは、それらが複合したものなのか、整理が困難。 

   地域、民族、歴史、文化、時代、因果関係によっても美・芸術の解釈は異なり普遍化が難しい。 また、鑑賞する個人の置かれた状況・感性・理性・悟性・教養・経験・思想・信仰などにも依存しており、美の線引きが困難。 

   “美”は今日まで主に人文科学の分野で扱われてきたために、自然科学のような厳密化,定義化の作業を怠ってきたように思える。 最近の傾向として、心理学、生理学、生物学などの進歩に伴い、当然ながら意識・認識のメカニズムという科学的視点から“美”を論じようという試みもなされている。 しかし、分析科学が進歩し、たとえ全てが解明されようとも、生命に「意味」を加え、あるいは見出すのは個々人の意思であり、結局、“だから何故?”という人間の心の問題に回帰する。

  意識は常に、より新鮮な「意味」、あるいは、「刺激」を模索しており、その意志が強く、方向性がハッキリしているほど求める対象と出会う可能性は増す。 自分の求めようとする未知なる対象を代弁する「媒体」に出会った時に心は洗われ、満たされる。 「媒体」、すなわち「芸術」とは知覚・感覚に作用し感動を喚起するが、あらゆるレベルの個人にとって常に予測できないもの、不確定なもの、未知なものであるが故に、抽象的な表現に止まらざるを得ない。 

 

  いずれにせよ地球上のあらゆる地域に文化が存在する以上、形・表現こそ違え、人種・思想にかかわらず人間には最初から精神に刻印された“美”を感じ、表現する超越的直感が具わっている、と考えられる。

   どのようなものでも切れる刀が唯一切れないものは刀自体である。 “美”は感覚器官による心象であり、認識主体である「自己」が何故それを“美”とするのか、生理学と精神現象の界面“クオリア”の正体は依然不明。 その解明は人類の英知が目指す究極の回帰点であり、そこにおいて、物理学・哲学・芸術は合流する。 芸術論を煮詰めてゆくと、必ずこの哲学的・化学的難問に突き当たる。 



このような不明の因子を解消する為に、人間は“Why?:何故美しいのか”から“How?:何が美を演出するのか”に発想を転換した。 古代ギリシャでは「美は対象物の持つ固有の特徴である」として数値的に証明する事が試され、最も美しいバランスとして黄金比(1:1.618)を見出し、パルテノン宮殿などを設計したといわれる。 また、対象物を幾何学的に分解し、「遠近法」などを用いて美を組み立てようとする試みも行われた。 レオナルド・ダ・ビンチ(イタリア:14521519)は作品を幾何、数理的に構図し、「最後の晩餐」や「ウィトゥルウィウス的人間」を描いている。 

エドムント・フッサール(Husserl Edmund 18591938 現チェコ生まれ、心理学、哲学、数理学者、現象学の創始者)は、 「文化は意味である」と唱えた。 文化を芸術と言い換えても説得力を持つ。 ある対象物に意味を見出して、あるいは、意味を加えることで、初めて文化・芸術たり得る、というわけだ。 猫に小判、馬の耳に念仏。 対象物に“意味”を見出せない者たちに芸術は存在しないということであろう。 なるほど! さすがフッサール師匠、「芸術は意味である」、たった八文字で芸術の何たるか、その一面を的確に言い当てている。 

この考え方を膨らませて人間自身に適用すれば、“無機から無機に至る有機的存在”、つまり生命の中に“意味”を見出そうとする機会が人生、という理屈も成り立つ。 そのように解釈すれば、一度きり与えられた人生というステージで、どのような脚本を描き、どのように演ずるか、誰にでも芸術作品の主役たる機会は与えられている。

ピュタゴラス(BC582〜496年、古代ギリシャの哲学者・数学者)は “万物は数値に支配されている”という有名な言葉を残した。 あらゆる物事を数値化することにより、科学技術が私たちに今日の繁栄をもたらしたのは、まぎれもない事実である。 日常生活も経済という“数値”に拘束されているのは間違いない。  

しかし、数値至上主義は往々にして唯物論に傾きがちであり、マルクスは“意識が人間の存在を決定するのではなく、社会的存在が人間の意識を決定する”と言う。 一面の真理には違いなかろうが、しかし、そこに美や感動を見出すことは難しい。 
 唯物視観では、太陽は古来より信仰の対象とはいえ、存在の何たるかを問うても、ほとんど意味を持たない。 太陽に地球生命を慈しむ意志があるとは考えられないからである。 東から昇り、熱と光を供給し、結果的に多くを(はぐく)み西に沈む。 それだけの事である。 うーん・・その通りかもしれない。 が、しかし、それを言ったら身もフタもないではないか。 植物や動物と同じことで、繁殖に励み、受動的存在を受け入れて、話は終わりである。

 それでは済まないのが人間ではないかと思う。 人間は挑戦する生き物であり、向上を目指す、という習性を持つ。 人間を他の動物と区別する決定的な違いとは何か? 二足歩行をする、道具を作り使用する、火を制御する、いろいろ思い浮かぶ。 しかし、それらは他の生物たちも種保存のために大なり小なり具えている技術的な特性にすぎない。 決定的な違いとは? それは、「創造力を有する」こと、と「抽象概念を理解する」ことではなかろうか。 創造力とは、空想を想像に、想像を理想に、理想を確信に、確信を実現に導く能力のことである。 抽象概念とは、存在・時間・空間、あるいは。芸術・信仰・精神・理性・意志・情緒など等、人間の心に作用する無形の諸要素を指す。 

自然界を支配する“数値”はあらゆる動植物にとって、絶対の“おきて”である。 しかし、人間は上記のような特質を持つが故に、絶対であるべき数値を自分たちの都合の良いように置き換える能力を身につけてしまった。 その能力は不完全なるが故に、時として暴走し、計り知れない惨劇をもたらしてきたし、今後さらに悲惨な結果を生む可能性を大いに秘めている。 反面、理想とか名誉、使命、愛情といった、数値に換算できないもののために自己犠牲をもいとわぬ行為は、人々に大きな感銘と教訓を与え、これまで芸術に多くの素材を提供し、これからも多くのドラマを生むに違いない。