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2011年

★★★ 源実朝 吉本髢セ
2011/01/17

筑摩書房から出ていた『日本詩人選』の一冊。吉本髢セは批評家として、また反体制的思想家としてカリスマ的人気を一時は誇っていた人だが、わたしは若い頃の詩人としての仕事が一番良いと感じる。もともと詩人的資質をもって生まれた人で、東工大の応用化学を出ているといっても、あまり理科系的な文章を書く人ではない。

その詩人としての彼が、鎌倉幕府の三代将軍として生まれ、若くして暗殺された天才的歌人の詩論を書くのである。面白くないはずがない。古書店でたまたま見つけた本書であるが、集中して一気に読んでしまった。

実朝の兄、二代将軍源頼家はかれが物心つくころに伊豆修善寺で惨殺される。それも、かれを擁立した北条時政の刺客の手によってである。愚管抄や吾妻鏡の文章を引用しながら、吉本はこう書く。「頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別ものだとおもえるような条件はなにひとつなかったはずである。」(p.12)

それにしても、実朝たち兄弟はなぜ、執権である北条氏に一旦は将軍位につけられながら、後に捨てるように殺されなければならなかったか。吉本はまず、鎌倉幕府という奇妙な<制度>の構造分析からはじめる。鎌倉幕府は律令制の日本における国家内国家ともいうべき位相にあった。ところで、その「関東武門の固有制度ではどうしても血縁よりも惣領制のほうが重かった。(中略)この<惣領>は世襲ではなくて、一族一門のうち器量優れたものに<惣領>の指名によって継承される慣例がおこなわれていた。そして<惣領>は武力権と一門の祭祀権をあわせもつものであった」(p.37)は卓見であろう。惣領の支配が血縁の外にあるため、ともすると親子兄弟が互いにせめぎ殺戮し合う不安定性を内包していた。これを抑えるに、上位律令制の権威とのインタフェースとして源家の貴種性が当初は重要だった。しかし北条氏がライバルを次々と滅ぼし、鎌倉体制が安定化して行くにつれて、武家層は独自の倫理をつくりはじめ、やがて貴種は不要に、むしろ邪魔になっていくのである。

北条氏の飾りであることを自覚していた実朝が、我意を押し通したわずかな一つが、京都から貴族の娘を嫁迎えしたことである。当時、まだ「<一族>や<家門>の重さにくらべれば、<家族>はまだ比べものにならぬほど低い位置しかなかった。家父長家族が成立していたともいえず、また、妻女は実家の<族>に属しているといってよかった」(p.92)状態である。実朝という文学青年は、そのような境遇に生まれてしまったのだ。

吉本髢セはさらに、<和歌>とよばれる詩形式に論を進める。万葉の東歌「筑波嶺のをてもこてもに守部すゑ 母い守れども魂ぞあひにける」等は、上句と下句が明確に区切れ、かつ上句は下句を引き出すための隠喩(それ自体に強い意味はない)の形をしている。これは、対になった人々による掛けあいの和唱の場の即興のように生まれるもので、和歌の初原のあたりに近い、と彼は推測する。実朝の

 しら雪のふるの山なる杉村の すぐる程なき年のくれかな

などはこうした万葉調の古形を保持している。しかし

 秋ちかくなるしるしにや玉すだれ 小簾(こす)の間とほし風の涼しさ
 くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に 日の入るときの空にぞありける

などは、(単純な叙景だから)(万葉に類似の本歌があるから)というだけで「万葉調」と断ずるにははるかに遠いのである。事実、和歌は古今集の時代に入って明確に変容し、「雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ」のような<象徴>の地平にうつっていく。

 梅の花さけるさかりをめのまへに すぐせる宿は春ぞすくなき
 我が袖に香をだにのこせ梅の花 あかでちりぬる忘れがたみに

こうして並べてみると、実朝の歌が独特な心をもっていることがよくわかる。和歌はさらに『後拾遺集』で変容する。俗語の大胆な導入とともに、「詩的な<規範>のたががゆるんで、<象徴>性が崩壊しはじめたことを意味している」(p.197)と吉本は断ずる。いわばJ-POPの歌詞のように、平明だが単純な歌になるのである。「個々の詩人の感性に基礎をおくために、(中略)<景物>はほかにどんな習俗や伝承にしたがうものでもない」(p.198)ことになってゆく。和唱の場の共同体は不要となったのである。

こうしてとうとう和歌は新古今の岸辺にたどり着く。「吉野山花のふるさとあと絶えて むなしき枝に春風ぞふく」(藤原良経)「花は散りその色となくながむれば むなしき空に春雨ぞふる」(式子内親王)−−こうした秀歌は、すでに目の前の景色とは何の関係もなく、すべて詩人の繊細な心の内にあるものを、技巧的な形で彫塑したものである。

 このねぬる朝けの風にかほるなり 軒ばの梅の春のはつ花
 吹く風は涼しくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋は来にけり

十三歳で将軍職となって以来、実朝は鎌倉幕府の<象徴>的な頭領にすぎず、ただ祭祀権のみを履行する人形であった。かれが晩年望んだことは、宋に渡ることと、京都の律令王権から位階の昇進を得ることだけであった。そして二十七歳のとき、かれはとうとう右大臣に任ぜられる。その上は太政大臣しかなく、そうなると彼を取り除くことは困難になる。実朝が就任の拝賀のために鶴岡八幡宮に出たとき、だから彼を守る役目のはずの北条義時は「体調」を理由にそこに参列せず、かわりに兄頼家の子・公暁が暗殺者として木陰で待ち構えていたのであった。そうした顛末を、彼は何年も何年も前から、ある意味で心の中では見通していたともいえよう。

 神といひ仏といふも世の中の 人のこころのほかのものかは
 うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば 有りとてありと頼むべき身か
 萩の花暮々までもありつるが 月出てみるになきがはかなき

ところで、吉本が指摘しなかったことで、一つ気がついたことがある。それは、歌人実朝は非常に耳の良い人だった、ということである。たとえば百人一首にとられた有名な

 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも

は、たしかに吉本の言うように不安定な将軍職にうえにいるじぶんの<心>をあらわしていよう。ただ、それはこの歌の「な」「も」の音の繰り返す不安なリズムの上に、あやうく揺れている音が示しているのである。あるいはまた、もっとも有名な

 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

うっかり武家風だとか勇壮だとか誤解され、また詩人のひどく孤独な心が暗示されているようにも感じられるこの歌は、しかし下句の音をたどっていくと、まさに磯を打つ大波の低音の轟きが次第に周波数の高いしぶきに変わっていくさまを、見事に音自体で表象している。まさに、<和歌>という形式の中にこめられた、見事な<音楽>だった。そのような奏者を若いうちに失う事態こそ、日本における和歌の頂点の終わりを暗示していたのである。

★★★ リアル・シンデレラ 姫野カオルコ
2011/02/12

最近、いやこの10年間に読んだ中でもっとも優れた小説。読んで本当に良かった。強くお薦めする。

姫野カオルコという作家は誤解されやすい人だが、じつは知的で誠実なモラリストだと前々から思っている。本書は、その彼女の最新作だ。昭和時代の地方都市を舞台にした、ごく普通の人々による、魂の浄化の物語である。

それにしても不思議な小説だ。とくに何が起こるわけではないのに、なぜかひどくリアリティがあって強く引き込まれる。わたしはふだん電車などの移動中でしか本を読まないのに、最後の四分の一くらいは自分の部屋で集中して読み続けた。考えてみると、これはほとんど初めての体験だ。

帯の広告には、一人でも多くの人に読んでもらいたい、と書かれている。でも、もしかするとこの小説は、読んでも分からない人もいるかもしれない。わかる人には分かる、わからない人には決して分からない。−−いや、そんなことは作者自身がとうにご存じのことなのだろう。直木賞にかんする感想を読んで、そう感じた。それだけ、この小説は「思想小説」なのだ。

主人公・倉島泉の名前は「暮らしません」とも読める。つまり、倉島泉という人は、この世に暮らしていない、この世の外の人なのだろう。だからこそ、故郷の普通の人々は彼女の存在の不思議さに気づかず、ただクリエイティブな職種にかかわる人たちだけが、彼女を美しいと思った。審査員の宮部さんが直木賞の選評で書かれていたように、これは現代の聖女伝なのかもしれない。あるいは、書店という百円ショップに並ぶ宝石だろうか。

個人的なことだが、わたしも'80年代の初め、自分の修士論文の研究のために上諏訪の信州大学臨湖実験所に短い期間、いたことがある。当時の諏訪湖は汚染(富栄養化)がひどく、夏になるとアオコが発生して、決して快適な場所ではなかった。わたしは諏訪湖の生態系シミュレーションのために、実験データを取りに通っていたのだ。だから、もしかすると「リアル・シンデレラ」の登場人物達と、いや、それこそ泉さんと、どこかの小道ですれ違っていたかもしれない。そう考えると、不思議な気持ちになってくる。

Webで姫野さんの「あとがき」を読み、この長編が個人的にもっとも辛かった時期に書かれたことを知った。しかし、小説にはその苦難の片鱗も感じさせない。わたしもほぼ同年代なので、気持ちはわずかなりとも察することができるつもりだ。といっても、こうして感想を書いて応援するくらいしかできないが、また次の作品に期待している。

すばらしい小説を、どうもありがとう。

2010年

★★★ ブレーキング・ボックス アンドリュー・サター
2010/11/07

良書である。本書は「日経ビジネスAssocie」誌の連載をまとめたものらしい。たしかAssocie誌は若手ビジネスマン向けの雑誌のはずだが(わたしも一度依頼されて書いたことがある)、本書は社会人になって数年程度の人たちに読ませるのはもったいない。むしろ、ビジネススクールのMBA副読本にした方がいいくらいのレベルだと思う。

著者は1955年ニューヨーク生まれのユダヤ系米国人。ハーバードで物理学を卒業した後、カリフォルニア大のロースクールを出た国際弁護士である。日本では文系出の弁護士でも特許法に関わる仕事を手がけることができる。しかし米国では、ロースクールに入る前に理科系の四年制大学を卒業した上、特殊な試験に合格した「特許弁護士」でなければ、特許を申請することができないことを、本書で初めて知った。これでは日米の会社が特許をめぐって法廷でまともに戦っても、日本に勝ち目が薄いのは無理もない。

ともあれ、この著者は文系・理系の『複眼思考』を持っている点が、何より心地よい。こけおどしの言葉や概念にもだまされず、実証的であり、かつ法務も商務も熟知している。たとえば本書は、ビジネスにおける「メタファー」の話からはじまる。販売のストラテジー(戦略)やタクティクス(戦術)やウィン(勝利)といった言葉を使う場合、それはビジネスの概念を戦争になぞらえてメタファーを用いているわけである。無論、メタファーの適用範囲には限界がある(べつに販売の前線で人を殺すわけではないし)。だが、'99年頃のシリコンバレーでは、"Land-grab"(先に到着した西部開拓者が土地の占有権を得ること)などのメタファーが暴れ回ったあげく、結局ドットコム・バブルで多くの企業家を破産させてしまう。

あるいはバリューValueという言葉の氾濫について。マッキンゼー・コンサルティングの有名な企業価値判断のテキストを読んだ著者は、「バリュー・マネジャー」や「バリュー創造手法」といった表現のオンパレードに驚くが、よく読むと、バリューとは株価を、バリュー創造とは株価上昇を指していることに気づく。この株主価値(Shareholder Value)理念の旗振り人は、GE社のCEOだったジャック・ウェルチだった。ウェルチは20年間の間にGEのバリュー(株価)を30倍にしたといわれるが、利益額は5倍になったに過ぎない。ではなぜ「バリュー」の方はそんなに跳ね上がったのか?

じつはウェルチはR&D支出を大幅にカットし、11万人もの従業員を解雇した。そして従業員にサラリーを払うかわりに、約3兆円もの資金を使って、GE株の買い戻しを行ったのである。おかげで会社は「効率性」を増し、一株あたりの利益も増えた訳である。そればかりか、彼ら幹部役員のストック・オプションの「バリュー」も増大したのである。

M&A(企業買収)についても、専門家らしい複眼思考に満ちている。かつてソニーは米コロンビア・ピクチャーズを買収したものの、巨大な損失を出して体力をかなり落とした。この失敗事例のどこがまずかったか、著者はくわしく解説を加えて、異文化のM&Aがいかに危険な博打であるかを示す。ちなみにCisco社は戦略的M&A実行能力において、最高峰のレベルを持っていることが米国では知られており、本書でも、相手を文化的に統合するため専門チームを事前に派遣するやり方などを紹介している。しかし、日本で近年発行されているM&Aに関する本にはこうした成功手法はほとんど紹介されておらず、かわりに「サメよけ」だの「毒薬」だの'80年代に米国で流行した敵対的買収用語が乱発されている。日本の若いビジネスマン達が、M&A取引を「カッコいい」と感じているらしいのを知って、著者はショックを受けるのである。

著者は、数多くのM&A辞令から学べることの一つは「コストを削減したかったら、中央集権を進めよ、収益を拡大したかったら、地方分権にせよ」だといっている。これは非常に面白い指摘であるが、わたしの見聞きした事例ともよく合致する。欧米流を真似て、すべてを本社の司令室から取り仕切る経営を目指す企業が、日本でも増えているようだが、このようなやり方は一時的にはコストセーブにつながっても、長期的な収益にはつながりにくいと思う。

本書「ブレーキング・ボックス」は、経営とマネジメントに関心のある全ての人に勧められる良書である。中でも一番読んで欲しいのは、大企業の経営企画室にいて、買収や分社化や知財などの「戦略プランニング」にかかわっている人達であろう。こうした人達が、世に蔓延している固定観念や単純化された価値観に惑わされずに、自分の頭で考えてくれる事を著者は望んでいるはずである。

★★★ コストダウンが会社をダメにする 本間峰一
2010/03/20

副題は「スループットで全体最適」。著者は、みずほ総合研究所(株)の主席コンサルタントである。金融系のシンクタンクだが、主に中堅企業の経営改善分野を得意としている。

「企業が生き残るためには徹底的なコストダウンに邁進するしかない」というのが、今日の日本企業における主要なテーゼである。そのためには、経費節減・給与カット・外注化・海外調達・海外生産等をどんどん進めるべし、さもなければ企業は不況のどん底で赤字にあえぐしかないだろう−−そんな合意が産業界で成立しているかのようだ。

ところが、経営の指示の下、会社ぐるみでコストダウンに邁進した結果、儲かるどころかかえって減益になってしまう例が少なくない、と著者は言う。なにも、無理なコストダウンのための製品偽装、などといった違法行為の話ではない。適法な範囲で努力に励んだ結果、かえって業績が落ちてしまうのである。いったい何が起きているのか?

たとえば、「社内単価(時間賃率)と外注会社の見積単価を比べたら、外注の方が安かったから外注に出しました」という機械メーカーD社のケース。単純に考えれば合理的に見える。D社は工場を建てなおしたばかりなのだが、それまで工場内で行っていた機械加工の設備をなくして組み立て専門の工場とした。加工工程は外注の方が安かったからだ。しかしふたを開けてみると大幅赤字状態に陥ってしまったという。

なぜこうなったか。それは、社内単価(コスト)の計算に問題があるのだ。原価は会計部門が計算方式を決めるが、普通そこには人件費以外に間接費用・本社費用などの固定経費が『配賦』されて乗ってくる。これらは一種の仮のコストである。加工工程をやめても、その分は組立工程の直接労働時間に全部、再配賦されるだけで、どこかに消えて行きはしない。だから、社内単価を外部購入単価とは単純に比較できないのだ(計算のベースが違う)。だが、ライン部門の人は、いや経営者層でさえ、原価計算書のロジックまで突っ込んで理解せずに、数字だけで議論しがちだ。その結果、自社が加工で稼いでいた儲けの大部分を社外に出してしまう、といった間違った決断を下してしまうのである。

似たようなことは、ソフトウェア業界でもしばしば起こる、という。大手SI業者の人月単価は150万〜200万円が珍しくない。しかし別にSEが高給を貰っているわけではなく、経営者管理職など膨大な間接要員の固定費が上乗せされているのだ。中小ソフトハウスは間接部門がほとんど無いので、人月単価はSEの給料に近づき、100万円以下になる。だからといって、大手業者が受注したプロジェクトの現業のほとんどを外注に回してしまったら、その会社が得る差額=付加価値額はひどく薄くなるに決まっている。そして、どの会社も、その付加価値額の中から、社員の給与や設備など固定費を支払っていくのである。付加価値が小さくなれば、赤字になるに決まっている。

どうしてこんな間違いが起こるのか。それは、「賃率」や「製造単価」といったコスト要素が、固定した値だと思うからだ。実はこれらコスト要素は、会社全体の仕事量の関数なのである。たとえば、減価償却費が年200万円の装置があるとしよう。工場がフル操業なら、年に2,000時間稼働する。つまり加工時間1時間あたり、1千円が製造単価に乗せられる。ところが工場が50%程度しか受注量がなかったら、どうなるか。実働1,000時間である。ということは、時間あたり2千円が原価に乗せられることになる。売れなければ売れないほど、原価が高くなる計算なのである。

だから、誤解を避けるためには、固定費は固定費である、という単純な原則を再認識する必要がある。賃率や単価といった変動費風の見かけに計算し直すから、誤解が生まれる。これを避けるための単純で切れ味の良い管理手法が、本書のいう「スループット」によるマネジメントなのである。

受注額(販売金額)から、外注費や材料購入費など外部に支払う費用を差し引いた金額を、「スループット」と呼ぶ。この用語は、TOC理論で有名なゴールドラット博士の提唱した用語だが、流通業で『粗利』、製造業では『粗付加価値』と呼ばれてきた指標とほぼ同等だ。だから、落ち着いて考えれば、特に目新しくもないし突飛な手法でもない。

にもかかわらず、コンサルタントとして提案をすると、抵抗にあうことが多いと著者はいう。それは、残念ながら経営者やスタッフが、伝統的原価計算を頑固に無批判に信じ込み、木を見て森を見ない状態に陥っているからだ。「コストダウン」の語が、思考停止用語になっている。これを“値下げボケ”というらしい。こうして人件費の削減や、下請け企業に無理な価格を指し値することや、無理な海外生産がはやる。しかも、「コストダウンできるようになったから、これからは値引きして売れる」という営業戦略を展開するものだから、せっかく得たはずの利益も無くなってしまう。これが、昨今の電機業界で起きた現象だったのである。

スループット・マネジメントについては、これまで実務につかえる良い解説書がなかった。本書はその意味で、製造業のみならずサービス業や流通業などにも、とても参考になる。しかし、本書の一番面白いところは、最終章かもしれない。ここで著者は、GDP(国内総生産)とは、じつは「日本全体の付加価値総額」(つまりスループットの総和)になることを説明する。ということは、安易に海外生産に依存していくと、その分だけ日本のGDPは減少していくことを意味する。一部の企業が利益を出しても、日本全体の景況が沈滞していく理由はここにある。そこで著者は、スループット・マネジメントの立場から、日本全体のGDPを増やすための4つの処方箋を提案する。個別の企業経営のみならず、日本の経済全体について問題意識を持つすべての人にお勧めしたい良書である。

2009年

★★★ Q-Japan 飯塚悦功
2009/11/28

著者は東大工学部教授で、日本品質管理学会の元会長。「日本では、マネジメントは理工学的研究の対象とも思われていない。現に東大にも京大にも、理系のManagement Science系の学科が学部レベルでは存在しない」という意味のことを最近書いたが、著者の飯塚教授は、東大における、経営への理工学的アプローチの頭目ともいうべき人である(そしてこの方が化学システム工学科にいる事が、東大の不思議な点なのだ)。

本書は日本品質管理学会(JSQC)監修のJSQC選書の第1巻で、日本規格協会から出版されている。とはいえ、一般人むけに書かれており、薄くて読みやすい本である。

本書は、最初に、動燃のアスファルト固化処理施設における火災・爆発事故('97年)と、その『虚偽報告』の事件から出発する。ついで横浜市大付属病院の患者取り違え事件('99年)、雪印乳業集団食中毒事件(2000年)など、かつての品質大国ニッポンを疑わざるを得ないような事件が近年起こっていることを指摘する。

だが、以前の日本が実現した品質とは何だったのか。著者は「'60〜'85年といういわゆる高度成長期を一つの時代と見るのが適切ではないか」(p.23)とした上で、工業製品の大衆化による高度経済成長期にあって、その競争優位要因は品質であった、と見る。ここでいう品質とは、大量生産する品物の特性の安定性という意味だ(いわゆる“後ろ向き品質”)。「'80年代の半ばまで、TQCが経営者を惹きつけた理由は、質が経営に貢献すると言うことが非常に分かりやすい形で納得でき、魅力的だったからである」(p.68)。

この方程式が成り立たなくなったのは、成熟市場の社会に入った'90年頃からだ。消費者ニーズの多様化と、経済のソフト化・サービス化が進行するが、そこではニーズを具現化する“前向き品質”が求められる。かつてのTQC方法論では、この変化にうまく答えられなかった。

そこで著者が改めて提案するのが、「Q-Japan構想 − 品質立国日本再生への道」である。その内容は、(1)自立型精神構造の確立、(2)産業競争力の視点からの質の考察、(3)“社会技術”のレベル向上、の三本柱からなる。

ここで著者は、「組織は製品・サービスを通して、価値を提供する。質とは、価値の提供を受ける側にとってのニーズにかかわる、その製品・サービスの特性・特徴の全体像である」(p.69)と、あらためて再定義する(「品質」から、物品を連想させる「品」の文字が消えて「質」だけになったことに注意されたい)。この定義は、“ニーズに関わる”という目的志向の考え方、目的達成に必要な方法論の基盤をあたえるものだ。

著者は2005年12月に発行した「JIS Q 9005(質マネジメントシステム−持続可能な成長の指針)」でも中心的役割を果たす。JIS Q 9005では、満点のない自己評価を推奨している。だが、これが評判がわるい、と著者は言う。ほかと比べられないと非難されるのだそうだ。だが「自分であるべき姿を描き、その基準に照らして評価すればよい。なぜすべての会社を同じ尺度で評価しなければならないのだろうか」(p.53)と、企業に逆に問いかける。

さらに問題を抱える企業の経営者達に、自社の競争力のありかについてたずね、「それを可能にしている組織能力は何ですか、それを将来ももち続けるためにはどうすればよいですか、との問いに納得できる答えがないのである」(p.79)ことを見いだす。つまり、日本企業は自分の“あるべき姿”がわからないのである。これでは前に進むことが出来るはずがない。本書の後半は、JIS Q 9005のフレームワークに従って、これを見つけるための活動の仕組みについて解説する。

本書はまた、わたしの属するエンジニアリング業界に対しても示唆するところが大きい。「サービス産業においては、質と生産性の維持・向上に最も重要な、固有技術の可視化、構造化、最適化(標準化)が不十分」(p.111)だったためにTQCが成功しなかった、と著者は言う。しかしながら同時に、「日本人の面目躍如たる特徴は“未定義でも前進できる精神構造”ではないかと思う」(p.81)。 「コンカレントエンジニアリングを容易にしたものは、未定義でも進める精神構造をもつ関係者が価値観を共有できる仕組みを持ち、未定義でも進行し変更へも柔軟に対応できるプロセスを運営しているからである」(p.82)。これらは、まさに日本のエンジニアリング企業の強みの源泉でもあるからだ。

最後の章は、社会技術について充てられている。まず、「技術とは、“目的達成のための再現可能な方法論”である」(p.114)と定義する。その上で、「経済性という単純なインセンティブによって健全な発展を望むことが難しく、何よりもよしあしが社会に与える影響が大きく、社会全体として何らかの方法論をもっていなければいけないとき、その方法論の全体を“社会技術”と呼びたい」(p.119)という。そして、医療安全、交通・物流、製品安全など社会のインフラをささえる方法論について考察する。ここは、東大で社会医療システム講座を運営する著者の面目躍如たる部分であろう。

本書は、質マネジメントやJIS Q 9005に関心のある読者のみならず、経営の今日的課題について真剣に考えたいとねがう多くの人に示唆を与える、良書である。

 ★★ 不確実性のマネジメント  桑嶋健一
2009/11/06

医薬品の中には、1gあたりの価格が宝石よりも高いものもある。画期的な新薬の開発にうまく成功すれば、一品目だけで数年から十数年にもわたって、製薬企業の収益を支えることができる。まさに宝物である。

そのような画期的医薬品の代表例の一つが、三共(現・第一三共)の高脂血症治療薬「メバロチン」であった。1991年から2003年まで、13年間にわたって日本の医療用医薬品の売上高トップの座を維持した。しかし、本書によれば、メバロチンの開発は計画の線に沿って進展したプロジェクトではなかった。'73年にコレステロール合成阻害作用を持つリード化合物が発券されていたが、マウスによる動物実験ではまったく効果が出なかったという。しかし、飲み屋での偶然の出会いから、別の動物の非公認実験の協力者を得て活路を見いだし、'81年からは前臨床試験、そして'84年から人による臨床試験が始まる。認可を得て販売開始したのは'89年で、ここまでに16年の歳月がかかっている。また臨床実験では通常、数十億円の費用がかかる。

このように偶然や運が大きく作用する医薬品開発プロジェクトは、どのようにマネジメントされているのか。これが本書の研究テーマである。著者は筑波大の助教授(出版当時)で経営学者であるが、比較的読みやすく書かれている。

新薬開発の成功確率は、2006年の業界団体調査によれば、約1万2000分の1である。まさに一攫千金の宝探しと言っていいい。製薬企業のマネージャーの中には「医薬品の研究開発はマネジメントできない」という人さえいる。にもかかわらず、著者の調査による比較では、日本の製薬企業の間における新薬開発の生産性(成功率)に関し、歴然とした差が見られるのである。その差はいったいどこから来るのか?

「粘り強い研究が画期的な成功につながる」というストーリーは、しばしば聞かれる。しかしこれでは、逆に言えば「いつまでもプロジェクトを止められない」問題も生じる。

著者は、新薬プロジェクトを、上流(探索段階)と下流(開発段階)に分けて考察する。そして、継続か打ち切りかの「go or no-goの判断」が最重要である、との仮説にたどり着く。ところで、臨床試験段階に入ったプロジェクトは、すべて厚生労働省に申請して始める事が義務づけられている。すなわち、医薬品業界は、新製品開発プロジェクトの公的な統計が存在する、きわめて珍しい業界なのである(殆どの業界では、すべて秘密裏に進むために失敗統計が公表されない)。著者はこれを利用し、「生存時間解析」という手法を用いて、主要10社のデータを分析比較する。

その結果わかったのは、フェーズ2と呼ばれる有効性試験の途中で、明確に絞り込む事が最も効率がよいらしい、との事だった。そして、10社の中で最も成績の良い武田薬品は、まさにこのパターンの戦略にしたがっているのである。(余計な話だが、わたしはこの桑嶋氏のデータに対して、リスク確率に基づいたプロジェクト価値分析を行って、フェーズ2成功の価値貢献が最大である事を、2010年のスケジューリング学会で報告した)

本書の後半1/3は、優れた製品開発マネジメントの産業間比較にむけられる。そして、「市場ニーズの多様性」と「製品構造の複雑性」という2軸での整理による藤本・安本モデルをもちいた分析が行われる。

本書の主要な主張は、不確実性と運に大きく支配される製品開発においても、組織によるマネジメントはあり得るし、有効でもあるという事にある。その鍵は、意志決定と、勇気ある中断撤退にある。本書の副題が、「新薬創出のためのR&Dの『解』」であることにも示されるように、製品開発マネジメントとリスクについて興味ある人々にとって必見の書物である。

 ★★ エル・スール  アデライダ・ガルシア=モラレス
2009/10/02

ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』は、わたしの最も好きな映画の一つだ。画面全体に漂うみずみずしい詩情、小さな娘の目から見た、魔術師めいた父親の不思議さ(イタリアの名優オメロ・アントヌッティが好演している)、スペインの静かな激しさを描いて、強い印象を残す。本書はその原作小説であり、かつエリセ監督の元・夫人が著者ときいて、興味深く手にとった。

ところで、比較的短いこの小説を読んで驚いた。小説としてはとても緊密に、よくできている。だが、映画とまったく印象が違うのだ。原作と映画が違うのはよくある話だが(そして事実、主人公の女の子の名前も違う)、ここではストーリーやキャラクターの問題を言っているのではない。父と娘の距離感が、微妙に、しかし決定的に違うのだ。この小説では、娘はつねに父親に対して奇妙な違和感を抱いている。それが物語を回転させる原動力となっている。ところが、映画の方は、お父さんべったりに描かれるのだ。それは初聖体のお祝い(これはカトリック社会では子どもが一人前になる重要な通過儀礼だ)で、父と娘が踊る"En El Mundo"(「世界中で」)の美しいシーンに象徴されている。ところが小説では、そんな風に一体感をもっていない。かわりに、父の孤独と苦悩に謎を感じて、近寄りがたく思っている。

その謎は、やがて南部(エル・スール)の街セビーリャを訪れて、ようやく解けることになる。ここで、いわば別れた自分の半身と再開し、それを通じてやっと、亡き父とも和解しようと心が解かれるのだ。タイトルの意味はここにある。娘の側の、いわば成長の物語が本小説の主軸なのである。映画が娘の目を借りつつ、父を主題に描いていたのとは、非常に対照的になっている。映画では、(おそらく予算の関係で)このセビーリャのシーンの撮影ができず、それ故にやや唐突に、娘が突き放されたような形で結末を迎える。

同じ登場人物、同じタイトル、同じ地方の景色でありながら、小説と映画はこれほどまでに異なっている。著者とエリセ監督が結局別れることになったのは、このような解釈のすれ違いがあったからかもしれない。もちろん、どちらも素晴らしい作品ではある。ただ、片方は男が苦悩を描き、他方は女性が成長を語るのだ。

★★★ 新薬はこうして生まれる 森田桂
2009/06/27

著者は武田薬品工業の元・会長、それも研究畑出身で初の会社トップになった人の自伝だ。どこにも明確には書かれていないが、日経の「私の履歴書」の連載執筆に加筆したものだろうか。

医薬品業界は巨額の研究開発投資を要する業界として知られる。一つの新薬が生まれるまでに「10年の歳月と100億円の資金が必要」と言われる(最近は1,000億円とも)。しかも、10年というのは前臨床試験に入った後のことであって、本書を読むと創薬研究から10年では短すぎる、という。おまけに成功率は非常に低い。お金と時間がかかって、失敗リスク確率の大きな事業を、どのように舵取りするのか。マネジメント・テクノロジーの観点からきわめて興味深い分野である。

にもかかわらず、(というか、むしろ「だから当然」と言うべきかもしれないが)この新薬開発マネジメントに関する説得力のある論者は少ない。わたしは数年前に、経営工学会の雑誌「経営システム」で、『R&Dの経営工学』という特集を発案して責任編集したことがあるが、医薬品分野での研究方法論を具体的に語れる産業界の現役マネージャーを見つけるのに苦労した。本書はその後に読んだが、あのとき、この著者に頼むことができたらと感じた(無論、大物過ぎてとても無理だったろうが)。

たとえば、著者はこう書く。

「研究所という組織が大きくなればなるほど、研究目標は個々の研究者ごとに具体化され、効率の向上が要求され、加えて予算面からの締め付けが加えられる結果、まっ先に研究管理という大義名分の槍玉に上げられて犠牲となるのが、独創性を追求しようとする研究者である。私はかねがね、このタイプの研究者のことを『タイプT』、すなわち『スリル追求型』と呼んでいた。(中略)『タイプT研究者を窒息させるような組織を作るな』と機会あるたびに言い続けてきた。」(p.18)

あなたの勤務先では、『タイプT』の人は生きやすいだろうか? あるいは、著者はこうも書く。

「研究者が壁にぶち当たったときの悩みは深刻である。それは妻子に言えることでないのはもちろんのこと、友人の助けを期待することもできず、自分の力で切り開く以外に道はないのであり、そのためには時間がかかる。これらのことを無視して『研究の効率化』とか『研究評価の客観性』などという大義名分を振りかざして研究者を『役立たず呼ばわり』するような環境には、独創性の高い研究者は安住できないのである。」(p.101-102)

研究者社長らしく、本書の構成は、自伝の各章がそれぞれ薬で代表される。「パダン」「クロモマイシン」「アリナミン」といった具合である。また、20世紀の医薬品開発の流れを概観して、ペニシリンに代表される抗生物質の時代(30年代まで)→利尿剤・血糖降下剤の時代(40年代)→副腎皮質ステロイド(50年代)→向精神薬トランキライザー(60年代)→抗潰瘍薬シメチジン(70年代)→遺伝子工学技術とインターフェロン(80年代)→抗コレステロール薬(90年代)、と追いかけていくのも面白く、勉強になる。20世紀の医薬品の歴史はドイツ中心にはじまり、フランス・英国を経て、戦後はアメリカが中心となる。著者も米国のCenter fo Excellenceとして名高いNIHに留学するのである。

それにしても、著者は戦後の日本の学会について、こう指摘することも忘れない。

「(終戦直後の応用化学では)アメリカから輸入されはじめたプラスチックや合成繊維など新物質の講義が行われていた。世界の学会ではすでに認知されていることであっても、『本邦で初めて』であれば、新しい知識として受け入れられてきた。このことは、その後の日本の化学工業の発展には有害とさえなった。というのは、新製品や新技術を国内に紹介する能力に長じた学者が重用される傾向を助長し、ひいては独創性を重視する研究本来の姿を損なうことになった、と私は考える。」(p.57)

著者はやがて、研究所から本社に呼び戻され、一時は企画部門のマネジメントをする。この当時、武田薬品では中央研究所(学問分野別組織)とは別に550人規模の「医薬研究所」(研究プロジェクト組織)を作っており、本社の後は医薬研究所長として赴任する。つまり、R&Dのプロジェクト・マネジメントを動かす立場になった訳だ。当然ながら、科学的興味だけでなく、ニーズ中心で仕事を見ることになる。ところが、そうしてみるといろいろな不都合な点が分かってくる。

「アメリカでも日本でも、その他多くの国においても、病気を未然に防ぐという名目で薬としての承認を得ることができるのはワクチンに限られている。肥満という症状がいかに『万病のもと』であると主張しても、抗肥満作用だけで薬としての効能を取得することはできない。」(p.204)

医薬品行政は、典型的な規制業界の上に君臨する行政である。製薬企業は自社の製品の値段さえ、自分では決められない。発売も製造もすべて役所の許認可がいる。そのかわり、新薬の権利は一定期間守られ、利益を独占することができる(ジェネリックなど後発医薬品が許されるのは原則その期間が過ぎてからだ)。その結果、日本の多くの業界において保護行政の結果生じた事態に、医薬品業界も陥ることになる。国際競争力の低下と、成熟市場での急激な統廃合だ。

「国による新薬許可基準では、日本の施設で行われる動物実験や病院での試験臨床成績の添付を厳しく義務づけていたので、欧米の製薬企業の多くは日本企業をパートナーとして合弁事業を創立して参入するしか方法がなかった。その結果、日本の製薬企業は国内では保護され、その裏返しに海外進出が遅れることになった」(p.225)

(医薬品卸の統廃合は)「メーカーにとっては対岸の火事なのだろうか。答えは明白に『ノー』である。日本の医薬品メーカーの数もなんとしても多すぎる。一部上場の企業の数も30社に余るというのは、世界でも例を見ない。」(p.277)

本書は、醤油屋の息子に生まれ、大学で生化学を勉強した優秀な研究者が、敗戦直後から50年間、日本最大の医薬品メーカーで働いてきた記録である。それはまことに、昭和初年生まれの人らしい回想録であり、かつ医薬品産業の自叙伝でもある。戦後の半世紀の間に、何がどう変わり、どう進歩し、またどう停滞していくことになったのかが、科学者らしい正確で客観的な観点で書かれている。医薬品開発や産業史に興味を持つすべての人に勧められる良書である。

 ★★ 「日本が変わってゆく」の論―ああでもなくこうでもなく 3  橋本治
2009/09/21

橋本治が、今はなき雑誌「広告批評」に連載した巻頭時評『ああでもなく こうでもなく』の2001-2002春までを集成した本。

この連載は、過ぎ去った20世紀の葬列を送り出そう、という気分で書き始められる。橋本治はある意味、歴史主義者であり、歴史の推移や進歩というものを信じて、あるいは期待している。しかし21世紀に入っても、日本社会はちっとも20世紀を葬る支度に入らない。かわりに小泉政権と田中真紀子外相が新聞の表層を賑わせ、アメリカの「対テロ戦争」にぞろぞろ付き従っていく姿があるばかりだ。そこでいきおい論調は、「日本が理解し損なっているのは何か」という話になる。

「村人の一人一人に、“自分はれっきとした代表権を持つ、この村の一員だ”という自覚が宿らないままでいる。その自覚がないから、自分もこの村の一員として、この村の統率理念を考える必要がある、という責任も生まれない。『村のこと』は分からなくて、『自分のこと』だけは分かる−−だから、村はおかしくなる」と橋本治は書く。「村人」とは無論、20世紀の日本人のことである。そして、その社会の退廃を明確にするため、「結婚」について、「労働」について、「家族」「消費」「党派」について書いていく。

「結婚している男女は、結婚を『所詮は自分達だけのあり方』としか解釈していない。その結果登場する『自分達の家』が『社会の中に登場する新しい単位』だという発想がなかったら、それは『肥大した子供の公認されたセックスごっこ』から出ないものになる」−−これが、福岡高裁判事の不倫妻脅迫事件についてのコメントである。

小泉の靖国参拝問題を論じては、こう書く。「日本には、『非業の死を遂げた人は“神”として神社に祀る』というシステムがある。明治天皇は即位式の翌日、(保元の乱で負けた)崇徳院の霊を(たたりを恐れて)都の神社に移す。同じその年、『明治維新へ至る時の戦死者を祀るため』招魂社(後の靖国神社)を作る。・・そういう意味で、『第二次大戦で非業の死を遂げた人の鎮魂問題』が抜けているから、靖国問題は不毛になる。」

20世紀は、宗教が復活したがった時代である、というのが橋本治の理解である。彼は宗教のすごさを理解していて、なおかつ、宗教は人間が自分自身の主人であると考える事を妨げる、と信じているようだ。そのような20世紀は、9.11の連続テロ事件で、突然に終わる。そして、取り残されたのは、『村の統率理念』を考えぬまま退廃の内に沈む日本人であった。だからこの本のタイトルは、本当は「日本は変わってゆくべし」の論、だったはずなのである。

  ★ フランス革命 (FOR BEGINNERSシリーズ)  ロバート・モウルダー&マーティン・マクロイ
2009/08/22

現代書館から昔出た、漫画的イラストを多用したFOR BEGINNERSシリーズの1巻。さしずめ今日風に言えば“サルにも分かるフランス革命”というところだろうか。もっとも、フランス革命のビギナーというのは意味が分からないし、サルが分かったからといってどうなるというものではない。

しかし、フランス革命というのは分かりにくいものなのである。その昔、高校の世界史の教科書で読んだときもちんぷんかんぷんだった。ディドロだのサン=キュロットだのジャコバン党だの、聞き慣れぬ固有名詞ばかりふんだんに出てくるが(わたしのパソコンは“ジャコ番頭”と変換してくれた)、その役割交替がめまぐるしくて筋書きが理解不能なのである。

理解不能なのは当のフランス人にとってもそうらしく、20世紀の歴史学の転換をリードしたアリエスは、19世紀終わりまでフランスの歴史学はフランス革命の検証と解釈ばかりに終始していた、という意味のことを言っている。じゃあこの本を読んで、筋書きが理解しやすくなるかというと、まあ答えはNonである。1879年のバスチーユ監獄襲撃から、清貧な独裁者ロベスピエールの恐怖政治を経て、ナポレオンのクーデターに至る革命の時刻表を追って、歴史の表層に浮かぶ泡沫のような出来事をなぞっても、深層流の動きはなかなか見えづらい。ことにフランス革命では極端から別の極端へと乱流のように方向が振れていくので、遠景で見る視点が必要なはずである。

日本の歴史教育は啓蒙主義的な観点がずっと強かった。だからフランス革命は一種の賛嘆すべき画期的出来事として教科書に記載されていた。ところが、フランス以外の欧州ではむしろ、避けるべき野蛮な出来事として位置づけられる。18世紀を通じてフランス王国は対外戦争や、アメリカ独立戦争への支援などで国力を消耗し続けた。そこに無能な国王の戴冠と啓蒙思想の波が訪れる。これが社会変革への背景である。そして、その背景には、農業と手工業を軸とした、余剰の富があったはずである。度重なる政治動乱と異常気象にもかかわらず、兵を動かす資金が社会に供給され続けた。これがフランス革命のDriving forceだったはずだ。この点を見ずして革命を理解しても、Beginnerでありつづけるだろう。マクロイの絵は工夫してあるが、けっして見やすくはない。

★★★ 禁断の市場 ベノワ・マンデルブロ&リチャード・ハドソン
2009/08/12
監訳:高安秀樹 訳:雨宮絵理 他

ずっと昔の学生時代から、なぜか冪乗分布に心を引かれていた。いわゆる、ランク-サイズ関係が負の冪乗になり、両対数グラフで直線に載る関係だ。英語の単語の使用頻度に関するジップの法則がその典型で、順位と頻度は-1乗、つまり反比例の関係になる。これは、通常の正規分布則などでは説明のつかない、ひどく片寄った現象であることを示している。一般的な統計学がよって立つ正規分布では、平均的な事象が多いはずだからだ。

そうした問題意識には、「無限・カオス・ゆらぎ―物理と数学のはざまから」(寺本英ほか)や「ゆらぎの世界―自然界の1/fゆらぎの不思議」(武者利光)など、一部の数理物理学や数理生態学の本で多少の折り合いをつけるしかなかった。そこに突如、燦然と登場したのが、マンデルブローの「フラクタル理論」であった。

フラクタル幾何学は数学の一分野として登場しながら、驚くほど応用範囲の広い考え方だった。「自己相似性」と「整数でない次元」の概念から導かれる諸法則は、またたく間に、CGから宇宙論まで、ありとあらゆる分野で−−より正確に言えば「ランダム」さを扱わなければならない分野で−−もてはやされることになった。マンデルブロ集合やコッホの雪片曲線などは、あっという間にTシャツのデザインに、またPCのスクリーンセイバーの図柄になった。

本書は、そのマンデルブローの一種の自叙伝、あるいはフラクタル理論誕生の伝記である。それがなぜ「禁断の市場」(原題:The [Mis]behavior of Market)なのかというと、じつは理論誕生のきっかけが純粋数学ではなく、金融市場の動力学的研究だったからである。

1998年の夏、ロシア経済危機の影響を受けてダウ平均は一日で6.8%下落する。これは、ビジネス・スクールで一般に教えられている金融工学の標準理論によれば、2000万分の一の確率(つまり10万年に1度の頻度)の事象であるはずだった。ついで2002年にはダウ平均が7.7%下落した日があった。その確率はなんと500億分の一だ。そして2008年のリーマン・ショックである。金融工学は、なぜこのようなリスクの予知に失敗したのだろうか?

マンデルブローは、ランダムさには「マイルド」「スロー」「ワイルド」の三つの状態がある、という。ちょうど物質に固体・液体・気体の三状態があるように。そして従来の金融工学は、市場を「マイルド」(つまり固体)としてモデル化してきた、と指摘する。本書の前半1/3程度は、バシェリエのランダムウォーク仮説、マーコヴィッツのCAPM理論、ブラック=ショールズ方程式などの標準理論と、その帰結(いかに現実に例外が多いか)をていねいに説明する。

第2部はいわば自分の理論の自叙伝である。マンデルブローは科学手法の道具箱の中に、新しい数学的ツールを導入することに生涯をかけてきた。それが「フラクタル」と「マルチフラクタル」である(フランス人が"マルチ"という時は、複合的というよりも"スーパー"的なニュアンスが強い)。

彼はIBMの研究所にいた時に、過去100年にわたる綿花価格の変動について調べる。そして、それが次数1.7の冪乗分布であることを突き止める。さらにこれがレヴィの安定分布の一変種であり、指数1.7はアルファ値という特性パラメータを意味することを発見するのである。これは経済学にとって一種のセンセーションとなったが、標準理論の根底に反するため批判も根強かった。

彼はさらに、ナイル川の水量変動のデータも調べる。そして、非常に長期の自己相関(現在の変化が遠い過去の値に影響される、いわば「長期記憶」を持っているかのような効果)があることを見つける。周知の通り、単純なランダムウォークをする変量は、時間の0.5乗に比例して変位が拡がっていく。これは化学工学や機械工学で拡散方程式を学んだ者には常識であろう。しかし、川の水量は違う。変異の幅が時間の何乗に比例するかを調べ、その次数をHというパラメータで表すと、H=0.5が単純ブラウン運動で、H>0.5の場合は次第に長期記憶が効いてくる(つまり「ワイルド」になるのである)。マンデルブローはこれを「非整数ブラウン運動」と呼んで、株価などの変動についてもHの値を調べていくのである。そして、最終的にマルチフラクタルのアイデアに至る。彼の分布モデルは、αとHという2種類のパラメータで、さまざまな変動現象を表現できる道具となったのである。

では、彼の理論を使えば市場価格の予測はできるようになるのか? 残念ながら、答えはNOである。冪乗分布は不連続な乱高下がまれに起き、収束しないのである。しかし、ボラティリティ(変動性)だったら予測可能である。いつ地震が起きるかは、予測できない。ただ、地震の起こりやすさは、指数化できる。これが市場経済におけるフラクタル理論の現在である。

本書は科学ジャーナリストのハドソンが共著者として協力しているおかげもあり、読みやすく、物語としても面白い。訳も、(ときどき固有名詞に首をかしげたくなることがあるが)こなれていると言えるだろう。ただ、マンデルブローのファーストネームBenoitの発音は普通だったら「ブノワ」じゃないんだろうか。もうベノワで普及しちゃっているから、しかたがないのかもしれないが。

★★★ 日本破産を生き残ろう 西村肇

2009/07/30

毎日出版文化賞を受賞した「水俣病の科学」の著者によって、本書が書かれたのは2003年。その時点ではまだかなり挑戦的だったこのタイトルは、今やほとんど現実味を帯びたものとなってしまった。若い人に向けて書かれたエッセイ集だが、テーマはほぼ一貫している。それは、「沈むかもしれない船にしがみつくより、自分で冷たい海に飛びこんで自分の力で生き抜く努力をしなさい」ということである。

日本の経済は戻らない、という認識が著者の出発点である。理由はソ連の崩壊と同じ官僚主義にある。官僚主義の致命的欠点は自浄作用がないことで、これが破産からの回復を不可能にする、と考える。そして、「上り坂の時代、人は団子になっていて、運命は似たようなものだったのに、下り坂では人はばらばらになり、運命は大きく違ってきます」という。

この運命を乗り切るために必要な力が、自分で考える能力、想像力、そして言語運用の能力である。そのための教育はいかにあるべきかが、本書の主要な部分だ。知識を教えすぎない教育、官僚国家に都合の良い「使用人」をつくらない教育。言語に関しては、英語をいわば第二公用語としてきちんと身につけるべきだと主張する(驚いたことに北一輝はエスペラントを第二公用語にすべきと考えていたらしい)。

著者は東大名誉教授だが、東大生に対しては辛口である。「使用人」タイプでいわれたことしかせず、正解を求める学生たちに、自分の頭で考える事を教えようと、授業に工夫を凝らす。ちなみに著者によると、「東大卒業生はR・S・Oだ」という。Rは「劣等感が強い」(これは意外だが、子供時代は秀才と自負していたのに、上には上がいることを大学で感じるからだろう)、Sは「損得勘定が素早くてバカをしない」、そしてOは「恩知らず」(優秀だから世間の特別な行為も当然だと思っている)の頭文字である。

東大出身のエリートは、典型的大衆だと、著者はいう。エリートは子供の時から基本的判断を他に頼って疑わないから、成績が良いだけのこと。もっとも大衆的な心理を持ちながら、自分は大衆ではないと思っている。こういう人たちは、大衆を操る独裁者を押しとどめる力はない。そして東大があるために、教育のあらゆる分野で思考停止が起きている。だから、東大は廃校にすべきだ、と巻末で結論づける。本書は挑戦的ながら、教育と今後の世代に関心のある人に勧められる良書である。

  ★ 音楽史の点と線 (下)  岩井宏之

2009/07/06

下巻はムソルグスキーにはじまり、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク、マーラーと進み、最後は武満徹と、中田喜直である。下巻に入って、著者の驚くべき主張のピッチはますます高まる。

チャイコフスキーについて。「(彼の)音楽は、われわれの間で、ちょっと微妙な立場にある。(中略)音楽経験を積むにつれ、チャイコフスキーに対する興味と熱意が急速に減退する現象が、たしかに認められ・・その聴衆の層は、広がりに乏しく、したがって質の点に偏りがみられる」。つまり、ちっとも音楽性が高くないという。

マーラー。もっぱら交響曲「大地の歌」について。漢詩のテキストと、マーラー自身をとりまく社会的状況の解説ばかりがつづき、最後に「極度に切り詰めた簡潔な作品はかけない人あったのである」と断じる。

ドビュッシー。「ベルガマスク組曲」など初期のピアノ音楽はサロン風の感傷に満ちていて、その独創力をそれほど信ずることができない、らしい。ストラヴィンスキー。「リズムの感覚的効果を追うのに急な余り、内面化された感覚の喜びにまで高めることができなかった。」・・・

上下二冊を読んで、作曲家達に関するさまざまなエピソードや社会的背景はそれなりに勉強になった。しかし、はっきり言えることが一つある。著者の内において、「好き嫌い」と音楽の「善し悪し」が、十分区別されていないことである。モーツァルトが好きなのはよい。チャイコフスキーが嫌いなのもかまわぬ。しかし、それと音楽の評価は別である。およそ学問というるからには、研究者個人の主観的趣向と、客観的な評価は分けて考えることができなければならない。音楽学は、少なくとも1970年代の時点の日本では、まだその域に達していなかったと考えざるを得ない。まことに残念である。

  ★ 音楽史の点と線 (上)  岩井宏之

2009/06/29

1973年か74年にかけて書かれた音楽史に関する解説的エッセイで、著者は音楽学者で武蔵野音大教授。バッハとヴィヴァルディからはじまり、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという風に一人一章のスタイルで書き続けられている。その歴史的な事柄に関する記述は、それが30年前に書かれた本であろうと、現在でも有用であるはずだと思う。しかしわたしは本書を読んで、あちこちでとても驚いた。

本書はパレストリーナの合唱曲についての短い感想からはじまる。著者はそれをレコードで聴いて、フランス人がしばしば芸術評価の基準にしているクラルテ(明晰性)の意味が体得できたという。イタリアの作曲家の作品を聴いてフランス語の観念を想起するのも不思議だが、そのパレストリーナの音楽に「存在感」が欠如しているのは、調性に根ざしていないのが原因、と著者は断じる。教会旋法に添って作られているため、調性音楽に特有の垂直的和声感が欠けている、との主張だ。で、最初の注目すべき調性音楽はカッチーニの「アマリリ麗し」だとする。

しかし今日的な観点から見ると、両者の違いは、ポリフォニー(多声音楽)かモノディー(単旋律音楽)か、という点に思える。そして、著者が「存在感」とか「調性音楽」と呼んでいるものの正体はホモフォニー(和声的書法)の感覚ではないかと疑わざるを得ない。

ショパンの章では、彼の作曲家としての純粋さについて触れ、「ポピュラー・ミュージックであろうとシンフォニーであろうと、音楽は音楽という考え方、あるいはジャック・ルーシェ・トリオであろうとグレン・グールドであろうと、バッハはバッハという考え方からは、ついに一人のショパンも生まれない」と書く。はあ、そうですか。また、ヴェルディの章では、「私は、イタリア・オペラ最高の作曲家として、ヴェルディではなくモーツァルトを念頭におく」と結ぶ。イタリア人が聞いたらさぞや驚愕するだろうなあ。

 ★★ バーナード 経営者の役割  飯野春樹・編
2009/06/18

経営学の教科書などを読むと、バーナードの「経営者の役割」は古典として位置づけられている。経営学は20世紀に入ってから形作られた学問で、テイラーの「科学的管理法」、ファヨールの「管理過程論」、それらに少し遅れる形で1938年のバーナードの組織理論が三大基礎と言えるだろう。この3人とも、学者でなく実務家だったのは注目に値する。技師長テイラーの理論はIE(Industrial Engineering)としてフォード・システムの大量生産に組み入れられ、アメリカ産業の発展に大いに貢献したし、仏の資本家ファヨールのライン-スタッフ機能やマネジメントを過程としてとらえる思考法は、現在の企業経営の中心にある。

これに対して、ニュージャージー・ベル電話会社の社長チェスター・バーナードの斬新な人間観とシステム・アプローチによって生み出された組織論は、ノーベル経済学賞を受賞したサイモンの理論に引き継がれているとはいえ、現在では忘れられかけているようにも思える。これはなぜだろうか。

バーナードは、『組織』を構成する三要件として、「共通目的」「協働意識」そして「コミュニケーション」を挙げる。このどれか一つでも欠けたら、組織にはならない。たとえば市町村など地域の住民には、行動における「共通目的」がない。予備校に集まる生徒達には「協働意識」がない。だからこれらは組織とは言えないのである。逆に、会社であれ、役所やボランティア団体であれ、この三要件が成立すれば「組織」であり、そこにはバーナードの経営理論を適用することが可能なのである。

バーナードの理論の基礎には、人間論がある。人間は自由意志と責任を具備した存在だと彼は考え、「個人には目的があるということ、あるいはそうと信じること、および個人に制約があるという経験から、その目的を達成し、制約を克服するために協働が生じる」と彼は書く。つまりここには、経済学が看過した『協働論』があるのである(伝統的「経済人」モデルからは競争論しか出てこない)。

さらに彼は「協働システム」の概念を発明して(システム工学などの現れるはるか前だった)、公式組織という抽象的分析の枠組みを構築していく。管理者の諸機能は、この組織をベースに導かれるのである。たとえば組織の能率とは、そのシステムの均衡を維持するに足りるだけの有効な誘因を提供する能力である。いいかえれば、個人にとって有形無形の利益が得られるほど、働く意欲も高まるわけだ。これは当たり前のように見えるが、目に見える金銭的インセンティブと罰則だけで人を動かそうとする今日的な大企業経営と、いかに隔たっていることか。

そもそも米国のビジネス文化を考える際には、あの国の産業がプランテーションから立ち上がったことを理解した方がいい。米国式のマネジメントは、だから、奴隷を使うプランテーション経営に少し似ている。アメと鞭で労働者を収奪し、使い物にならなくなったら別のと取り替える、という思想がどこかに残っている。こうした風土で、「組織は道徳的制度であり、管理は権限中心から責任中心に移行すべきである」と主張したバーナードの卓見は際だっている。

それでは、なぜ今日バーナードは忘れられつつあるのだろうか。それは、経営学が「人の理論」から「お金の理論」にシフトしたことと関係がある。バーナードの時代、株式は無論あったが、社会が富を生み出す源泉は主に工業の労働であった。今日では、端末でのクリックが巨富を生む金融業の時代である。産業の主従が逆転してしまった。金貸しに協働の理論は要らない。しかし、そうした夢がリーマン・ショックとともに泡とはじけてしまった今、彼の理論は再び重要性を取り戻すにちがいない。

 ★★ 街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道  司馬遼太郎
2009/05/25

四万十川としまなみ海道を旅行することになって、読んでみた本。この地域は、とてものどかで美しいところなのに、ガイドブックがほとんどない。むろん、この「街道をゆく」は何せ1978年に書かれたものなので、「観光ガイド」の役には全然立たない。しかし、地域性と歴史の特徴について、漠然とした印象を感じ取ることはできる。

本書の旅は松山から出発して、愛媛(この地名が明治になってから「古事記」を元に選ばれたことを初めて知った)を南下し、いくつかの古い町を通って宇和島に至る。宇和島は仙台伊達家の分家が藩主であった。その地の歴史に残る騒動をさっとスケッチして、さらに高知県の西側に足を踏み入れて終わる。

実際に旅をしてみてわかったのだが、同じ四国とはいえ愛媛と高知は気質がずいぶん違う。愛媛は穏やかで小綺麗を好み文芸をたしなむ。文字通り、女性的とも言える。他方、高知は荒々しく豪快で、武の匂いがする。この両者が接する宇和島が、かつては日本の鉄道の終点と言われたのはとても面白い。そういう、地方都市をめぐる小さな旅のお供に格好の書である。

 ★★ アルトナの幽閉者 J・P・サルトル サルトル全集〈第24巻〉
2009/05/20

じつに奇妙な筋書きの戯曲だ。サルトルという劇作家は、とても上手な、分かりやすい劇を作る人という印象がある。ある意味では、分かりやすすぎることが、かえって観客を一方的に誘導してしまう、そんな危うさを持っていて、難解な哲学や評論とは、その点で一線を画している作家だ。

ところで、この長い戯曲は、いささか分かりにくい。主人公は、ひきこもりの元軍人だ。ドイツの、かなり大きな造船業者の嫡子で、第二次大戦が終わって以来14年間、ずっと二階の自分の部屋に閉じこもっている(この劇の初演は1959年)。そして、正気を外れた演説を部屋の天井に向けて語り続ける。家の外のドイツは滅亡したと信じている(あるいは、そのフリをしているらしい)。彼に会うことができるのは年下の妹一人。先の短いことを悟った父は、家督をもう一人の息子に継がせたがるが、弟の方は逃げ腰だ。

この劇は古典フランス劇のような三一致の法則で、同じ場所、同じ日に完結するよう作られている。いうまでもなく、フランス人により作られた、フランス人のための劇である。にもかかわらず、この劇の登場人物はほぼ全員がドイツ人である。どうして正気を失ったドイツ人を主人公にした話をつくらなければならなかったのか。それはどうやら、フランスのアルジェリア戦争に関係があるらしい。第二次大戦では被害者で、最終的には勝利者で、正義の側であったフランスは、対植民地では全く逆の、加害者で、最終的には敗北者で、かつ道徳的にも敗退した側になった。その前線から帰還した仏軍兵士の沈黙をテーマに、しかしシチュエーションを換骨奪胎してドイツ軍下級将校のドラマに仕立てたのが、この話らしいのだ。

そういうわけで、この劇は観客にじりじりとした居心地のわるさを提供する。観客皆が、戦争の責任を逃れて、しかし内心では審判と罰を求めながら、閉ざされた世界の中を生き延びている「ひきこもり」をともに体験させられるのだ。ある意味で、とても今日的な芝居だと、再び言える時代になったのかもしれない。

  ★ 海馬―脳は疲れない  池谷祐二・糸井重里
2009/04/28

この本は非常に疑問のある本だ。たしかに脳科学者・池谷氏の話はまあ、面白い。しかし、たとえばタイトルにある「脳は疲れない」というテーゼは、どこにも論証がない。「脳は寝ている間も動き続けて、夢を作ったり体温を調節したりしています」という池谷氏の発言をとらえて、あとは糸井重里が勝手にはねあがってしゃべりまくるばかりだ。そして本のタイトルにまでしてしまった。本書の中では一事が万事、この調子で、糸井という人は池谷氏の発言の一を聞いて、十を語ってふれまわる。勝手に自分の願望をつけ加えて、十にするのだ。だから発言の量は、糸井重里の方が、ずっと多い。

池谷氏の研究対象は「記憶」である。だれの生活にも関わりが深い(とくに教育という名前の受験産業にかかわりのある人には)。だから、かならず世間の注目を集めるわけである。その「世間」の代表者格、知的だと自分では思っている人の代表として、糸井氏が質問を浴びせていく。とくに記憶を司る海馬は、脳の中で唯一細胞が数ヶ月単位で入れ替わり、増えることもある場所である。そういう意味で、とても興味深い研究対象である。しかし、“最先端の脳科学”を、「創造力豊かな聞き手」が聞き出そうとすると、こういう本しか生まれないのは、まことに不幸である。もっとオリジナリティのない、謙虚でフツーの人と対談してほしかった、と思うのである。

★★★ 雪 オルハン・パムク
2009/04/18

なんと素晴らしい小説だろう! これほどの物語に、批評や解説など要らない。みんな、本屋に走っていって、すぐに買い求めるべきだ。

オルハン・パムクは現代トルコを代表する小説家だ−−ということは、実はこの本を手に取るまでは知らなかった。トルコと日本は遠い。中東でありながら欧州、アジアでありながらローマ帝国の位牌を受け継ぐこの国は、とても複雑で分かりにくい。そのトルコの、東部辺境の小さな町「カルス」を舞台に、この現代小説は展開する。雪の降りしきる辺境の町。雪はトルコ語で「カル」という。そして、主人公の名前は「Ka」(カー)。三つの単語の響きは微妙に反響しあいながら、もつれた物語を紡ぎ上げていく。

それにしても、何という巧みな展開だろう。最初に、詩人で、ドイツから何年ぶりかで帰国した主人公Kaを三人称で物語る。雪で閉ざされた町では、イスラム原理主義の影、奇妙な少女達の連続自殺事件、そして軍のクーデター計画が進行していく。その中を、詩人Kaはかつての恋人と再会すべく走り抜けていく。ときどき作者は作者らしく『神の視点』で登場人物達の運命を予告する。それなのに、ある段階から突然一人称の小説に転じていくのだ。

トルコという国は、イスラム教徒が国民の大多数なのに、政教分離主義を国是としており、しかも憲法で軍によるクーデターを合法化している。かつ底辺にはクルド人やアルメニア人など少数民族問題がある。私たちから見ると実に難解な社会だ。しかし生きている人々の感情は、私たちと何ら異なるところはない。だからこそ、世界に通用する小説が成り立つのだが。

和久井路子氏の翻訳は、ときどき原文の倒置法の味付けを残そうとして、かえって分かりにくい表現になる場合もあるが、それでもよく翻訳されている。何より、藤原書店がこのような大部な翻訳小説を上梓した決断に喝采を送りたい。日本語訳が出た直後の2006年秋、オルハン・パムクはノーベル文学賞を受賞した。

 ★★ ホワイトヘッドの哲学  中村昇
2009/04/07

少し前から、ホワイトヘッドという哲学者が気になっていた。バートランド・ラッセルと共著で、記号論理学の金字塔「数学原論」を書いた人として知られている。だが、気になったのはその晦渋な数学基礎論ではなく、エッセーの方だった。たしか何人かの欧米の著者の引用で読んだのだが、その高いモラルと現実のバランス感覚とに、いたく感心したからだ。

そういう時にはまず、ホワイトヘッドの評論集を買い求めて読むべきである。しかし、ついいつものくせで、入門書を買ってしまった。というか、講談社選書メチエでこの「ホワイトヘッドの哲学」を見つけたので、そういえば、と思って衝動買いしたというのが正しい。

著者は言うまでもなく、大学の先生で哲学者である。だが、ホワイトヘッドの主著「過程と実在」を正面から読み解くような本の形ではない。ホワイトヘッドの時間論を主軸に、彼以前と彼の思想の見取り図を描こう、という趣向である。もちろん、柔らかな語り口で。このスタンスはとてもうれしい。

ホワイトヘッドは元々、英国の数学者である。それが、定年退職してから渡米して、ハーバードで哲学の研究者、それも形而上学(な、なんと時代遅れなターム!)の専門家になってしまうのである。数学基礎論と哲学は近いと言えば近いが、それでもずいぶん大胆な変身である。それだけ、この人には真摯な知的探求心があったといえるだろう。

ホワイトヘッドの思想は、今風に言うならば「プロセス中心」の視点である。西欧哲学が実在論をめぐって千年間も空転してきたのに、彼はあっさりと「もの」から「こと」への転換を進めてしまう。この点がすごい。すごいのだが、しかし本書を読み進めて理解する限りでは、嗚呼、ホワイトヘッドといえども、やはりプラトン的な“イデア実在論”からは自由になっていなかったと感じる(むろん、こんな断定は原著を読んでからすべきであることは重々承知している)。そこが、いかにも惜しい。それが、西欧哲学の限界とも言うべき境界面を示しているのだろう。だが、そこを知る目的のためだけでも、本書は読む価値がある。

★★★ 持続不可能性 サイモン・レヴィン
2009/04/01

原題は"Fragile Dominion"。『はかない住み処』の意味である。本書は、京都賞を受賞した数理生態学の大家S. Levinが、一般人向けに書いた(珍しく数式が一つも出てこない)生態学の集成である。

著者レヴィンの主たる業績は、空間生態学にある。従来は生物相の時間的遷移を扱う学問だった生態学に、空間分布とスケールの意味概念を計量的に持ち込んだ。彼の論文"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"は'90年代を通して生態学で最も広く引用された論文だと言われている。私は'80年代の後半に、米国東西センターにいて、生態学におけるスケールアップ問題を研究しており、このときの縁でレヴィン博士の知己を得ることができた。

さて、本書でレヴィン博士は、地球の生態系を「複雑適応系」だと定義している。『複雑系』の概念は、サンタフェ研究所が中心となって'90年代に発展し広く普及したが、彼はこの思潮に一役買っているらしい。生態系を機能と構造から考える、というのが米国の生態学の主流だが、ここに「目的論」の観点を密輸入する傾向が以前からある。彼はこれを警戒して、「エコシステムの生成は適応の結果であって、合目的な意志が働いている訳ではない」と繰り返し主張している。

長い年月をかけて織り上げられた、この地球のエコシステムは、しかし人間活動と欲望のために危機にさらされている。これが、原題『はかない住み処』の問題意識であった。彼は生態学(生物進化学を含む)の発展経緯と視点を丁寧に記述して、生物多様性とエコシステムのパターンが、生物の局所的な適応戦略から発生してくることを説明する。エコシステムを、安定性と自己修復性を持つ実体的な概念(つまり“生き物”)ではなく、パターンとして理解する著者の立場は非常に明瞭で、説得力に富んでいる。

しかし、彼のこのような研究のアプローチは、どこかで適応と進化の「ゲーム理論」的な生物観をもたらす危険性をはらんでいる。それは、彼の活躍してきたアメリカの知的風土においては、とても自然なものだったのかもしれない。じじつ、京都賞の受賞記念講演で、レヴィン博士は「囚人のジレンマ」の例を引き、生物行動のモラルの発生を突き止めたい、と言っていた。しかし、本当にそうなのだろうか。そこには競争原理はあれども、協働原理は存在しないのだ。

素人の私が、直感だけに頼って発言しても、何の意味もないことは重々承知している。ただ、本書の結論にある環境管理のための8つの提言の、奇妙なインパクトの弱さは、彼が見過ごしてきた協働原理の欠落によってもたらされたものではないか。彼の知性と、ユーモアに満ちた人柄に敬意を持つからこそ、この点についてあらためて考えてみてほしいのである。

★★★ 白鳥の歌なんか聞こえない 庄司薫
2009/03/09

ずいぶん久しぶりに、この小説を読み返した。折り返しの書き込みを見ると、ぼくが大学入試の直後、まだ発表の前に読んでいたことが分かる。この小説の季節も、ちょうど同じ3月だ。だからとても季節の印象が強く残ったのだろう。

庄司薫の4部作シリーズの小説の中では、第3作に位置する(ストーリー的順番では「赤頭巾ちゃん気をつけて」の次の2番目になる)。主人公の薫君は−−今気がついたのだが、この名前は光源氏の息子を思わせる−−1969年3月に日比谷高校の高校3年生で、受けるつもりだった東大の入試が大学紛争のために中止になった年代に当たる。この話は、その、無くなってしまった入試の直後の、何だか空振りに近い気持ちで過ごしていた若者の青春の話である。それをぼく自身も、ちょうど同じ高校卒業前の3月に読んでいたのだ。

このシリーズには、主人公の親友で小林という重要なキャラクターが出てくる(この「小林」という名前は、林達夫からとったのではないかと以前から想像している)。小林君は怜悧な知性を持った自信家で、ある意味、主人公の性格を補完する存在だが、この巻では彼は道化回しの役で、駆け落ちの騒動を演じたりする。

その間、主人公は幼なじみの女の子とともに、ある、巨大な知性を持ちながら世を去りつつある老人の存在(不在)に触れ、人生の有限さについて感じるのである。その、滅び行くものの美から、反発し自分を引き離す力が、自分の中の『若さ』だ(それがいかに未熟でみっともないものでも)、というのが中心テーマである。

庄司薫のこのシリーズは、とても良くできた風俗小説であった(時代の風俗を描く小説、という本来の厳密な意味で)。しかし、これを読むと、今から40年前の昭和の時代と、現代がいかに遠く離れてきてしまったかを感じる。自分の息子も今ちょうど主人公と同じ年齢だが、ここにあるような来るべき将来や知性への憧憬は、世代的に希薄である。かわりにあるのは、行き詰まり立ち枯れしかかった社会への困惑である。そういう意味で、もう一度「青春小説」が生き返る日を、ぼくら大人が用意しなければいけないのだと痛切に感じた。

★★★ まぐれ ナシーム・ニコラス・タレブ
2009/11/15

私の信頼する人が「面白い」といっていたので読んでみたところ、たしかに非常に面白かった。原題は"Fooled by Randomness"、副題は『投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』。経済活動における偶然の果たす役割について、非常に幅広い視点から論じた高級エッセイである。著者はレバノン出身で金融業界のトレーダー、同時に大学でも不確実性の科学を教えている。帯の文句には「ウォール街のプロが顧客に最も読ませたくない本!」とあるが、その通りかもしれない。

この本は、リスクに関する考察である。そして、リスクに対して思い上がった人間達の愚かさを痛烈に批判した本でもある。著者はそれを、身をもって業界の中で体験している。著者は博士号を持ち、MBAでもあるのだが、そうした高級な教育やキャリアが、人間の傲慢さを(矯正するどころか)増長させていることを、くりかえし指摘する。

経済活動や金融市場におけるランダム性というと、価格のランダムウォーク現象のことを書いているのかな、と思いがちだが、それは違う。投資家が完全な情報を有しており、適切に予想された証券の価格は正規分布的なランダムウォークをたどる、というのは経済学者サミュエルソンが1965年に証明した有名な定理であり、その後の金融理論の基盤となった。この定理は市場価格の平均値と変動の幅を予測することが可能だ、と主張する。しかし、それが本当なら、なぜ金融界はあれほどひどい乱高下やショックをしばしば経験するのか。なぜ標準偏差の10倍もの変動が1日に起きたりするのか(理論によれば10の24乗年に一度しか起きない頻度のはずなのに)。

タレブの中心テーゼは、明確だ。この世の事象には、予測しがたいランダム性がある。すくなくとも、今の標準理論では予測しがたい偶然性が。そして、もし確率的なランダム性があるのならば、一度や二度の短期的な結果で、ビジネス戦略のパフォーマンスを評価するのはおかしい。わずかなサンプル数で、成功の秘訣を理解したと思うのは馬鹿げている。そうしたおかしな事に気づかずにうぬぼれている奴は、すべからく愚かだ−−国や歴史を超えて該博な例証をあげつつ、彼はそうした愚者たちを冷笑するのである。“まぐれに浮かれてる”と。

彼はその例として、『伝説の』投資家ジム・ロジャーズの発言を引用する。「私はオプションは買わない。SECの調査によれば、オプションは90%の割合で損のまま行使期限が切れている。オプションを買うのは貧乏人への近道だ」−−この論理の、どこがおかしいかお分かりだろうか?

オプションを買うと90%が損になるとしても、損をしなかった10%の時に、どれだけ儲かるかを考えないと、この論理には意味が無くなる。著者タレブは'87年の大暴落(ブラックマンデー)の時に大儲けして、トレーダーとして名をあげた。彼は、希にしか起きないが振れ幅の大きな(=非対称なゆらぎの)仮説に賭ける人間なのである。

逆に彼が賢者として挙げる例は、確率論の中核を理解して、リスクにそなえる人々である。たとえば彼が仲間のローズと一緒に夕食をとり、勘定をどちらが払うか、硬貨を投げて決めたという。タレブが負けて支払をすませたとき、ローズはありがとうと言いかけて突然口をつぐみ、こう言ったのだ:「ぼくも確率論的には半分支払ったぞ」。

これこそ、まさにリスクに対する、正しい態度である。予測しがたいランダムな事象がある。だが、確率を想定する。そして、確率を織り込んで期待値を(あるいは期待コストを)自分で抱えるのである。そして、個別の結果には一喜一憂しない。誰かのせいにしたりもしない。それがプロとしてのプライドなのである。「武運つたなく処刑される時は、せめて一番上等の上着を着て、尊厳を保て。そして自分が、運命の女神の単なる奴隷ではないことを示すべきだ」−−これが著者タレブのテーゼである。

このような性格は、レバノン人が20世紀にたどってきた運命を考えると、少しは理解しやすくなるかもしれない。中東の宝石と呼ばれ、すぐれた知的文化と伝統を誇りながら、大国同士のチェスの駒として内戦に巻き込まれた、地中海東岸の小国。彼らの多くは運命に翻弄され、故国を脱出し、ただ己の知恵と才覚のみを武器に、湾岸諸国や欧米で生き抜いてきているのだ。

望月衛の翻訳は、著者の装飾と気取りの多い英語を、なんとか分かりやすい日本語にしようと努力している。Controled experiment(対照つき実験)を「制御された実験」などと訳すところは文系の人かな、とも思えるが、文系理系の枠を超えた本書を、興味深い本にまとめ上げている。

 ★★ 歴史の真実と政治の正義  山崎正和
2009/02/07

山崎正和といえば劇作家にして大学教授、しかし何より怜悧な批評家として知られている。彼はまた、'60年代後半から自民党の陰なるブレーンとして活動してきた。すなわち、保守派の代表的論客の一人であるはずだが、意外にも彼は、素朴なナショナリスト達とは一線を画す。

本書では、歴史のあり方を、普遍性を目指す「認識としての歴史」と、共同体の情緒的な結束を体感する「伝統としての歴史」に分析してみせる(これは、私自身の用語でいえば、「文明としての歴史」と「文化としての歴史」に対応する)。その上で、国家の性格自体が両義的なものであって、法による合理的で普遍的な組織と、家や村を拡大した共同体の両面を兼ね備えた存在、と規定する。この両者は19世紀から20世紀にかけて「民族国家」として矛盾をはらんだまま統合される。そこでは何より、学校という教育の形態を国家が制度化したことが大きかった、と山崎はいう。こうして歴史教育の政治化がはじまるのである。

しかし、山崎はあくまで、普遍的・合理的な法と制度の体系としての国家、というあり方を理想とする。そして、そのための具体的な一歩として、国家による初中等学校における歴史教育の廃止を提案するのである。このような彼の主張が、世間一般の保守派の主張といかに隔たったものか、驚くしかない。彼はまた、現代の金融資本主義の跋扈をとらえて、「はじめて共産主義ではなく資本主義が国家と対立しはじめた」と書く。知識と情報の相克を元に、「教養の危機」を論ずるのも忘れない。このように、彼にはつねに、現代日本人のもつ内部矛盾を直視し、彼の知的普遍性への志向を羅針盤として、進むべき方向を見据えようとする強い意志がある。そのような意味で、本書は非常に興味深い論考集である。

 ★★ 竜馬がゆく〈5〉 司馬遼太郎
2009/01/21

第5巻は、池田屋の変からはじまる。この時期、長州藩は一部の公家を取り込みつつも、次第に孤立していく。それを討ちにいく中心が、西郷率いる薩摩藩である。結局これは、天皇というコマの取り合いとも言える。政治力というより、大義の取り合いである。その対立は、蛤御門の変に発展していく。もはや勤王佐幕入り乱れての、内戦の一歩手前と言っていい。

そこに、勝海舟が現れる。勝は京都で西郷に会って、現在の日本の苦境を解決するには列藩同盟によるクーデターしかない、との知恵を授ける。結局、薩摩の人間であり続けた西郷に対して、勝は(この時代唯一の)日本人であった。しかし、勝の神戸海軍塾も、配下の竜馬たちの大暴れが元で、幕府から解散命令をうける。竜馬は窮迫のうちに大阪に出て薩摩藩邸に身を寄せることになるが・・・

いつものように、著者の余談混じり解説混じりの小説スタイルだが、話はしだいに序破をすぎ急に入る。それだけ、小説のスピードも増してきている巻である。

 ★★ はじめてのプロジェクトマネジメント  近藤哲生
2009/04/03

あるところでプロジェクト・マネジメントの簡単な講義をすることになって、何か参考につかえる本はないだろうかと探してみた結果、手に取ったのが本書であった。PMをテーマにした本は数多い。しかし、抽象的な教科書風の本やITプロジェクトを暗黙の前提としたものはたくさんあるのに対し、新製品開発プロジェクトの事例を、製造業を舞台に描いた本はあまりない。本書はそのわずかな例の一つであり、その意味では貴重かもしれない。

ちなみに、プロジェクト・マネジメントの世界で標準的な教科書のように思われているPMBOK Guideには、ひとつ大きな問題点があると私は考えている。それは、「受注型プロジェクト」と「自発型プロジェクト」の違いを区別していないことだ。というよりも、初期の版のPMBOK Guideは、米国の航空宇宙産業とエンジニアリング産業の人々が中心になって作ったらしく、「最初にスコープありき」でプロジェクトが開始する。その意識は版を重ねるごとに少しずつ薄まってきたが、それでも、最初に「プロジェクト憲章」と「作業範囲記述書(SOW)」のインプットで立ち上げプロセスがはじまり、そのアウトプットとして「スコープ記述書(暫定版)」が作成される、という記述は違和感を感じる人が多い。これは分厚い調達要求書と契約書が客先から渡されてプロジェクトがスタートすることを当然と信じている業種の人間にとってのみ、理解できることだろう。

受注型プロジェクトと、自社がイニシエーターとなって発案し進める自発型プロジェクトは,本質的にちがうものである。前者は行き先が明確に決められており、予算と時間の制約がきつい。後者は進むべき方向があるだけで、到着地点がどこかは定かでない。本書で例として取り上げている新製品開発プロジェクトは、後者の典型例だ。ここでは、『高齢独居者住宅用セキュリティシステム』の開発にチャレンジするセンサー製造開発の企業が舞台になり、ストーリーが進んでいく中で、プロジェクトの進め方の勘所を解説する、という構成になっている。

一般に製造業では、新製品開発には複数の部署がからむ。そうなると、プロジェクト・チームの組織や方向付けや権限関係が悩みのタネになる。複数部署から担当者が任命されて、プロジェクトを進める方式を、ふつう「マトリクス型組織」と言うのだが、これにはプロマネの役割や権限レベルに応じて、いくつかのバリエーションがある。プロマネがとくに指名されないタイプを「弱いマトリクス型組織」という。逆に、PM専門の部署からプロマネがアサインされ、マネジメントに専念するタイプを「強いマトリクス型組織」といい、私の所属するエンジニアリング業界でよく見られる。

ただし製造業での新製品開発の場合、マネジメント専業の人間をおくほどの余裕が無いことが多い。そこで、機能部門からプレイイング・マネージャーがアサインされる。これを、「バランス・マトリクス型」と呼ぶ。もっとも著者はこうした世間一般で使われている用語ではなく、タイプ編成型とかクロスファンクション型とか呼んでいるが、これはまあ言葉の好みの問題だろうからかまわない。

それにしても、私は本書を読んで心底驚いた。何に驚いたかというと、まず最初の章に、

「『プロジェクトはタコ壺であり骨壺だ。一度入ると生きては戻れない』−−こんな感想をよく耳にする」

と書いてある。さらに第2章のストーリーのはじまりには、

「立ち上げ段階では、集められたメンバー全員が、それぞれの立場で大きな不安を抱えている。過去の経験から、あるいはまわりの状況を見聞きして、『プロジェクトは人をつぶしてしまう、不幸にしてしまう』という固定観念をいだいているからだ」

と解説がつき、さらに追い打ちをかけるように

「プロジェクトマネージャーが目先の作業をこなし目先の進捗をもとめるだけでは、プロジェクトを支える大きな方針も示せず、リスク対策もできないままに、プロジェクトは無間地獄化していくしかない」

と説明される。ここに至って、あわてて著者略歴を見ると「日立製作所の情報通信部門にて、プロジェクトマネージャーとして数多くの立て直しを経験。2002年に独立して経営コンサルタントとなる」という。“そういう会社だったんだなあ”−−思わず、同社の知り合いの人たちの顔を思い浮かべて,考え込んでしまった。

その後も、私には意外の連続である。プロジェクトには、綿密な計画が必要だ、という。当たり前ではないか! テスト工程に入る直前になって、はじめてテスト方法について議論をはじめる。遅すぎないのか? また単体テストの実施率を高める方が工程の品質が上がるという“新発見”もでてくる。検査部門と開発部門とが合格品質基準の有無をめぐって激しく論争する・・どれも、私のように毎日「プロジェクト」でずっと生きてきた者にとって、想像もつかないような状況のパレードである。

ちなみに、本書に出てくるマネジメントのテクニックは、徹頭徹尾、にかかわることだ。モチベーションを上げる、メンバーの成長を促す、幹部を味方につける、問題の解決を皆で喜ぶ・・。一つ一つには、何の異存もない。しかし、ここにはWBS辞書もクリティカル・パスもEVMSもリスク管理表も、いわゆる近代的プロジェクト・コントロールの技法が一切出てこないのだ。理工学的なアプローチはほとんど皆無で、ひたすらヒューマン・ファクターの面のみに指導がいく。日経文庫なのに、これでいいのだろうか。たしかにEVMSだけで新製品開発プロジェクトはマネージできないと、私も思う。しかし、EVMSを知らないのと、知っていて乗り越えるのでは、大きな違いではないか。

本書を読んで、つくづく学んだことがある。それは、組織には2種類あると言うことだ。プロジェクトが“当たり前のこと”である組織と、プロジェクトが“珍しい厄介物”である組織だ。両者では、マネジメントのあり方がどこか質的にちがう。前者では、プロジェクトは家畜である。だから、体重や身長を計量し、毛並みをととのえて、育てようとする。それに対して、後者では、プロジェクトは野獣である。計ることなどとんでもない。踏み倒されずに手なずけられれば、上出来なのだ。そして、日本最大の製造業のOBが書かれた本書を勉強するにつけ、その差をあらためて思い知るのである。

 ★★ Beyond Culture Edward T. Hall
2009/01/19

「隠れた次元」などの著作でよく知られた米国の文化人類学者・ホールの、包括的な異文化論。彼はこの中で、"Context level"の概念を提示する。コンテキスト・レベルとは、その文化が内包している暗黙の理解度の高さを示す概念で、それはコミュニケーションのあり方を規定する。たとえばアメリカ先住民(インディアン)のコミュニケーションは、High contextであり、単純なメッセージが深い意味を運ぶという。ここで、読者たる我々は、日本の文化もまたきわめてハイ・コンテキストな、阿吽の呼吸で運ぶことを尊ぶ文化であることを思い出すにちがいない。

これに対して一般的な白人の米国人はLow contextな、すべてを言語化し明文化するコミュニケーションのあり方を当然として考えている。ドイツ、北欧はさらにロー・コンテキストだという。南欧やラテン・アメリカはこれよりやや高く、中国・日本やアラブ諸国はかなりハイ・コンテキストな社会である。また、長年連れ添った夫婦の会話はハイで、法廷の弁論はローである、という風に、同じ社会の中でも局面によってレベルがかわる。そして、こうした暗黙のレベルの認識の違いが、文化を込めて理解し合うことの困難さを生む原因なのである。

ホールはまた、時間感覚に対する文化的な違いにも注目する。一般に米国人は、何かに真剣に取り組むときは、一時に一つのことだけをやることを好む、という。彼はこれをMonochronic timeと名付ける。この傾向は、自然と「スケジューリング」を必要とする。一方、南米人やアラブ人などは、一度にいろいろなことを並行させて平然としている。これをPolichronic timeという。MonoとPoliの違いは、重要人物が来客たちと面談する際のやり方などに現れてくる。米国では法律相談所のように順番式で、南米ではレストランのように巡回式になる。しかし、Monochronic timeのやり方は、時間を小さなコンパートメントに区分して1主題に集中するため、context(長い文脈)を排除しがちになり、それは結局ロー・コンテキストにつながっていくのである。

このように文化とはシステムであり、要素がつながり合い互いに支え合って成り立っている。このことを十分理解し認識した上で、地球時代の我々は「文化を超えて」協力していかなければならない。1976年に書かれた本書は、まさに今日我々が直面する課題を予見していたというべきだろう。いささか学者的でハイブロウだが、良書である。

2008年

 ★★ 僕の昭和史 (1)  安岡章太郎
2008/12/20

軍医の一人息子として生まれ、外地(旧満州)に育った作家・安岡章太郎の自伝その1。幼少の頃から、慶応大学に入学し、さらに学徒動員で徴兵されながら終戦を迎えるまでの時期を描く。文章家らしく、さらりとした文体でかすかなウィットを交えつつ、あの困窮の時代での、困難な自己形成の時期を書いている。

この本を読んでいると、戦前の中産階級の暮らしがよく見えてくる。「軍縮」一つにとっても、ロンドン条約その他、近代史の出来事としての知識しかなかったが、職業軍人とその家族にとっては減俸や失業に直結する、緊急事態であった。私も、母方の祖父は軍医であり、母も外地で生まれているため、多少の親近感をおぼえつつ読み進めた。後半が楽しみな本である(現在は文庫本として合本で出ている)。

 ★★ 氷川清話  勝海舟
2008/12/11

勝海舟が晩年、筆記者に語った自伝的談話集。自由な語りなのでやや散漫に流れる部分もあるが、実に面白い。勝は旧幕臣として江戸城の平和的開城に尽力したが、維新後はすぐに政治から引退し、伯爵となって超然と世事を通観していた。

今日の我々にとって明治は偉大な時代であり、明治人もまた器の大きな苦労人だったように思える。が、明治30年頃のこの勝の座談を読むと、彼の目からはすでに「侯伯に俊傑なく、みな小私を懐いて公明正大を忘れ」ているという。土佐の脱藩浪人だった坂本竜馬を育てた勝にとって重要なことは、人材登用と誠意正心であった。

じじつ、彼の無私の誠意がなければ、江戸は幕軍と官軍の内戦の地となり、百万余の命が奪われたことだろうし、そうなれば革命後の疲弊と辛苦は何十年も残ったことであろう。列強の進入も防衛しがたかったにちがいない。われわれが近代国家として成長した社会で、今日のうのうとくらしていられるのも、まさに彼のおかげといわなければならない。

貧乏な下級武士の家に生まれ、実力で頭角を現した後も、幕府内の勢力争いのために何度も退職を命じられた勝にとって、人間の相場の上がり下がりは長くても十年はかからない、という。その十年の辛抱ができる人が豪傑である。まこと「豪傑」という言葉ほど、今日払底して久しいものはない。人物評、海軍論、外交論、文学論などさまざまな話題がでてくるが、何度も死生をくぐる体験をし、ただ天下のために尽くした勝の人物像に触れることこそ、まさに本書の最大の価値である。

 ★★ 二十世紀〈下〉  橋本治
2008/12/06

編年体で綴られる、橋本治の20世紀総括批評。彼は、日本の小説家としては不思議なくらい、世界の政治・経済・歴史の全体像が見えている人である。

20世紀後半は、冷戦と経済成長と、そしてその両方の崩壊の50年である。しかし、その興亡に群がり振り回されるだけの日本社会とは、どのような存在だったのか。それは、“思考の不在”である。「日本人は、占領軍のいうことを聞いたが、自分達の手で軍国主義者を追うことはしなかった。『占領軍がそれをやってくれた』と思う日本人は、それを自分自身の手でやらなければいけないものとは思わなかった。」と彼は1951年の章に書く。それは、“精神年齢12歳”の日本人にとって、少年法の適用を受けた、というような受け止め方でしかなかった。ここに戦後日本の無責任(社会に対しても、世界に対しても)の根っこがある。

1969年は、東大安田講堂の攻防戦の年、またアポロ11号の月面着陸の年である。「1969年に、『思想』はその役割を終えた。『思想』は『豊かさ』を作り、その豊かさの中で『思想』は不要になった」。これ以来、誰も大人になる必要がなくなった。昭和天皇が逝去しても、殉死する右翼もないに等しかった。当事者意識のないまま豊かになり、当事者意識の無いまま豊かさの終わりを迎えるのである。あの恐ろしい1995年、すでに「『生きる』ということを考えること自体が、『新興宗教的』といわれるような事態」がきていた。

あとがきにもあるように、これはきわめて橋本治の個人的主張の色彩の強い本である。そして、彼の主張は、見事なまでの社会史の鳥瞰から生み出されている。こうした本が、“変わった小説家”からしか生まれない私たちの社会の知的貧困さを、いかに嘆くべきだろうか!

★★★ レクイエム アントニオ・タブッキ
2008/11/26

現代イタリア文学をリードする作家・タブッキの小説世界は、なんと独特なのだろう。この人は、この短い印象的な小説を、ポルトガル語で書いた。舞台も、ある暑い日のリスボンである。そして、わずか一日のうちに、主人公が出会う様々な人々との会話と短いエピソードをつみあげて、ひとつの物語的情景を浮かび上がらせる。これは「インド夜想曲」などとも共通した、タブッキの技法である。

この小説を読んでいると、はるか遠いポルトガルの通りの気温や、風の匂いや、さざめく話し声が聞こえてくる。それに、各章に次々登場してくるポルトガル料理の美味しそうな様はどうだろう! この本を読んで、すぐ渋谷のポルトガル料理店に予約を入れたくなっても不思議ではない。

そして全編を通して漂う、失われた者に対する哀切の情感。まことに、小説らしい小説である。

★★★ ケセン語訳新約聖書 【ルカによる福音書】 山浦玄嗣(訳・朗読)
2008/11/23

マルコ福音書に続いて、ルカ福音書を読んで(聴いて)みた。こちらも朗読CDつきだ。そして、朗読をききながら、漢字仮名交じりのケセン語文を読んでいくのがいちばん楽しく、分かりやすい。朗読は、さすがに素人劇団を立ち上げた人だけあって、迫力があり、面白い。

ルカは4福音書の中で一番長く、かつ、ある意味でもっとも華やかにかかれた書である。エピソードも充実して美しい。洗礼者ヨハネの誕生、受胎告知につづく聖マリアの「マニフィカート」詠唱、東方の三博士の礼拝、ヨルダン川の受洗・・といかにも聖歌や劇になりそうなシーンがつづく。聖ルカは“最初のカトリック教徒”とあだ名されるのもわかる内容である。キリストの説教も、「放蕩息子の帰還」その他、有名なものが多い。

ところが、山浦氏の訳は、なんといっても土くささが身上だ。おまけに、氏のイメージするイエスは、大工の息子なのに宗教運動のために出奔し、子分達をつれて村から村へと歩く粗野で喧嘩っ早い男だし、マリアは活発で勝ち気な女丈夫で息子をガミガミと叱りつける、という人物像だ。どういう翻訳になるか、興味津々ではないか。

結果は、やはりなかなか素晴らしいものだった。この人は、ギリシャ語の原典を科学者らしく注意深く見るだけでなく、必要ならばヘブライ語の用法にまで立ち返って、従来あいまいだった文の意味をとらえ、さらにそれを心に響く東北のことばで表現できるのだ。

たとえば、「汝の敵を愛せ」という有名な言葉を吟味して、「愛」は明治時代に中国語訳聖書から持ち込まれた用語であるが、古来日本語においては上位の者が下位の者に対して自己本位的な行為の感情を抱くことを表していた、と断じる。昔のキリシタンは賢くも「お大切」という言葉を使っていたことをひき、「敵(かたぎ)だっても大事にすろ」と訳すのである。愛する、ではなく、大切にする・大事にする、という言い方。実に見事である。

あるいは、ギリシャ語の接続詞とヘブライ語の接続詞の対応関係をみて、「妻を離縁して他の女をを妻にする者は誰でも、姦通の罪を犯すことになる」と訳されてきた文章を、「他の女ォ女房にすんべって、われァ女房ァ追ん出す者ァ・・・」という風に、意味の通る論理関係に訳出する。こうした手腕は賛嘆に値する。

言い伝えによればルカは医師だったという(少なくとも教養人だったことはたしかだろう)。山浦氏も医師であり、同業者として親近感をもって訳したようだ。こうした心の通い方が、いかにも本書の価値をあげるのだと感じる。

★★★ 天才数学者はこう賭ける ウィリアム・パウンドストーン
2008/09/03

日本語の副題は「誰も語らなかった株とギャンブルの話」だが、原題は"Fortune's Formula: The untold Story of the Scientific Betting System that Beat the Casono and Wall Street"、すなわち「幸運の方程式 − 誰も語らなかった、カジノとウォール街に勝つ科学的賭け方の話」である。原題にいう幸運の方程式とは、『Kellyの基準』といわれる式で、賭の確率的エッジ(分)を知っている者が、手元資金に対してどうかけるのが最適かを示した理論である。この理論を提案したケリーは通信科学者で、この式は「資産の増加速度の最大値=エッジ情報の通信速度」という形で表記した。

本書は、わずか40歳で夭折したベル研の俊英ジョン・L・ケリーの発見が中心にはなっているが、しかし物語的には天才的な賭け師ともいうべき2人、すなわち通信理論の創始者クロード・シャノンと数学者エドワード・ソープ(後にファンドを創設し大成功した)の伝記を主軸に、さらにノーベル賞経済学者サミュエルソン、ニューヨーク連邦検事(後に市長)ジュリアーニ、電信初期のギャングたち、カジノ経営者たち、ファンド・マネージャーたちなど一癖もふた癖もある連中の逸話を配した、バロック的な構成である。これだけ様々な登場人物と広範な学術領域をカバーして、まとまりのある理科系的ルポルタージュを作り上げる著者パウンドストーンの力量には脱帽である(彼の著書では、以前『ライフゲイムの宇宙Recuresive Universe』という本を読んで、非常に面白かった記憶がある)。

ケリー基準とは、確率的な賭を繰り返し行う場合に、自分の持つエッジと、世間一般のオッズの比率の分だけ、自分の持ち金から賭けろ、という式である。エッジは期待値を掛け金で割った値で、オッズは配当金を掛け金で割った数から1を引いた値だ。自分の得ている情報と、世間一般の知っていることに差がない場合は、掛け金はゼロになる。ケリーの公式はきちんと証明されているにもかかわらず、現在の経済学からはなぜか異端扱いされている。その理由はサミュエルソン教授による執拗な攻撃のせいだ。彼はなんと、ケリー基準の支持者を論難するための論文を、すべて1音節の英単語だけで書いた(これは日本語で言えばひらがなだけで論文を書くようなもので、相手の知能程度はそのレベルだと暗示しているわけだ)。なぜ彼がかくも執拗にケリー基準を嫌うのか不明だが、本書にあるようにケリー基準は対数効用説によく合致するという理由かもしれない。

しかし、本書のもっとも衝撃的な部分は、そんなところではない。第1章と最終章は、米国を陰で動かした賭博者たちの群像にささげられている。第1章では、八百長競馬と電信で大儲けしたマフィアたち犯罪者集団。皮肉なことに、その金は現在の米国メディア界にかなり流れ込んでいる。そして、純真な数学者ソープの出資者でもあった。

そして最終章では、ヘッジファンドを率いる金融家集団。この章を読んだ者は誰でも、ファンド・マネージャーを目指すべきだと思うだろう。他人から集めた金で大博打を打ち、勝てば自分にも分け前をもらう。負けても金など返す必要はないのだ。さっさと店をたたんでアフリカに野生動物写真でも撮りに行けばいい。まことに、これほど良い商売はない。そして、彼らが世界最大の経済国の金融政策を動かしているのであるから。

 ★★ 高校数学とっておき勉強法  鍵本聡
2008/11/15

うーむ。この本を、自分が高校生のときに読んでおくべきだった。いや、むろんそんな昔には発行されていなかったのだが。しかし、自分の子どもに数学を教える参考のために本書を読んだが、むしろ発見したのは自分の若い頃の勉強方法の間違いだった。

数学の能力といっても、、数学ですぐれた研究をすることと、試験でよい点数をとることは違う、と著者はいう。前者はじっくりと考える態度が必要だが、後者は決められた時間内にいかに速く解決法にたどり着けるかが勝負になる。数学界が求めるのは前者だが、世間一般が評価するのは後者だ。そして、後者の能力を身につけるためには、当然ながらそれなりの訓練を必要とする。それは繰り返し問題を解くことによって、解法のパターンや公式を反射神経的に身につける訓練である。だから、数学の点数を上げたかったら、とにかく毎日問題集を解いていくしかない。その意味では、当たり前すぎる結論である。

しかし本書の特徴は、高校数学の範囲を分析して(いわば因数分解して)、相互に関係のある項と独立した項に分けてみせる点である。その中心にあるのは、当然ながら関数の解析学で、具体的にいえば二次関数・三角関数・図形と領域などである。準主役は数列・極限・微積分などで、計算の熟練がものをいう。その他に、確率・集合があるが、これらは他と独立していて、ある意味では日本語能力を問われるという。また、ベクトル・行列・指数・対数はまとめて「便利ツールの単元」と位置づけているのが面白い。また、きれいな試験回答の書き方(そのためには白紙のノートを使えという)など、実用的だ。

高校数学の参考書や問題集は山のようにあるが、本当の意味で『勉強法』を書いたものは少ない。その点で出色の出来である。ちなみに著者は理系大学院を出て、現職は塾の先生である。

 ★★ 国家・宗教・日本人 (講談社文庫)  司馬遼太郎・井上ひさし
2008/11/20

1995年に4回続けて行われた対談の集成。短くてさっと読めるが、内容はなかなか濃い。しかし、読んでいるうちに、どちらの発言が司馬でどちらが井上か、すぐ分からなくなる。それくらい、この両名は意見や発想が意外に似ている。

'95年はいうまでもなく、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の年である。そのときに、日本の宗教、昭和という時代、日本語、そして日本人の器量を問う。とうぜん、あちこちの話題が錯綜する。なかでも出色だったのは、司馬遼太郎が15年戦争から第二次大戦までを要約していう言葉である。

「第一次大戦は軍事革命でしたから、人も物資もトラックや船で動くようになり、軍艦も重油で動くようになりました。そうすると、石油のない国はもう終わりなんですね。そういって海軍も陸軍も手の内を明かせばよかったんです。それを、口をぬぐってファナティシズムに変えていった。それで結局追い詰められて、太平洋戦争を始めなければならなくなったときに、蘭領インドシナに石油を取りに行ったわけでしょう。」

これは、分かってしまえば実に単純な歴史の見取り図である。しかし、このことを、誰もいわない。誰も総括しない。そうして、「戦後」をはじめてしまった。そのことが、まさに'95年の悲劇を経て、現代の混沌と疲弊を生み出しているのだと、早く気がつくべきであろう。

★★★ 完全な真空 スタニスワフ・レム
2008/08/12

うーむ、素晴らしい。現代ポーランドを代表する作家・レムの、知的創造力の広大さを示す傑作だ。レムはSF作家として出発したが、70年代以降はむしろ文明批評家としての活躍が目立つ。1971年に出版された本書は、そのターニング・ポイントを示しているといってもいい。

本書は、実在しない、架空の本に対する書評集である。無人島に漂着した男が空想の中で召使いや侍女をつくりあげ、しまいには想像上の群衆で島が満員になってしまうという皮肉な小説や、南米奥地にナチス親衛隊将校が作り上げた奇怪なフランス風王国の宮廷物語など、空想的な小説本が多いが、これはまあ「レム自身が書こうとして書けなかったSF」の風刺だといっても良い。

しかし、人間誕生の確率を算定しようとする学者の抱腹絶倒な論文や、ゲームの理論によって宇宙の発生と物理法則の成長を説明するノーベル賞受賞学者の講演「新しい宇宙創造説」などの本は、いかにも医大出身で技術畑のキャリアを持つレムらしい、理科系的な構想である。また、架空の本の著者も、ドイツ人ありフランス人ありイタリア人あり米国人ありで、それぞれの文化の特色を示すような内容となっており、その配列や対比も面白い。

本書は文学と言うべきか、はたまたノンフィクションと形容すべきか、あるいはSFの趣向の一種と断ずるべきか、その位置づけもまた人々を困惑させる。きわめて機知に富んだ、楽しい書物と言うべきだろう。

 ★★ 男の子って、どうしてこうなの? スティーブ・ビダルフ
2008/07/28

男の子が育ちにくい世の中である。世の中の仕組みが完全にできあがり、かつ老朽化して制度疲労を起こしている我が国では、若い男の子が育っていくのに必要な「希望」というものが、ひどく見つけにくい。しかし事情は先進諸国では似たようなものらしく、著者の国オーストラリアでも自暴自棄な若い男の子の引き起こす悲劇がしばしば見られる、という。

今日の社会では、父親は多忙で家庭を顧みる時間がなかなかとれない。「20世紀は結局、確固とした父親像を築けなかった」と著者は言う。著者によると、男の子の成長は、誕生から6歳まで、6歳から14歳まで、そして14歳から成人に至るまで、の3つの段階がある。そして、第2段階以降の男の子は、父親を見て一人前の男になることを学んでいく。母親にのみ育児を任せておくわけにはいなかいのだ。

もう一つ。親は、信頼のおける他の大人たちの積極的な助けがなければ、十代の少年たちを育ていることができない。つまり、社会全体による助けがいるのだ。にもかかわらず、現代の社会が男の子たちに与えているのは無理な競争(勉強・スポーツ)や、脱落への恐怖ばかりである。

そこで、著者は男の子を育てるための九つの処方箋を書く。その中には、「男の子の就学開始年齢を女の子より遅くする」という素晴らしい提案もある(これには強く同調したい)。また、著者は男の子と女の子の性差を直視しろ、ともいう。そのために、テストステロン(男性ホルモン)が個体に及ぼす肉体的・心理的影響を詳しく報告している。セックスはいじめとともに、十代において最も困難な問題だからだ。

この本は、はじめて、先進国における男の子を育てるための課題について明らかにし、またその対処法をわかりやすい文章で書いている。男の子の親に広く薦められる本である。

 ★★ ビジネス脳はどうつくるか 今北純一
2008/07/21

今北氏は長年フランスで働き、ルノー公団やエア・リキード社のエグゼクティブを経た後、現在はコーポレート・ヴァリュー・アソシエイツという欧州コンサルティング会社のパートナーの地位にある。毎月、日本とフランスの間を往復されているわけだから、航空会社にとっては上得意にあたる。乗り込むと、キャビンアテンダントがつつとやってきて、「今北様、いつもご利用ありがとうございます」と挨拶してくれる身分だ。

ところが、食事の時間になると毎回、献立の好みを聞かれる、という。今北氏は機内ではつねに、食事をパスしてワインを一杯とチーズの盛り合わせだけで過ごす習慣なのに、彼女らはそのことに気がつかないのだ。あるいは、たとえ気づいても、そうした情報を申し送りする仕組みが欠けているのかもしれない。いずれにせよ、表面的な顧客満足はみたそうとしても、本当のニーズがどこにあるのかを推し量る想像力に欠けたまま、ビジネスをやっているわけだ。

本書のテーマは、そうした想像力をどう涵養するか、である。そのための手段の一つとして、「顧客のさらに顧客に会って、ニーズを知れ」という。鉄鉱石を産出する会社は、直接顧客の製鉄メーカーの言うことだけをきいていてはダメだ。製鉄メーカーの顧客である(たとえば)自動車メーカーのニーズや動きを注視していく必要があるし、それができれば需要の将来の動きを想像することができるようになる。

今北氏は顧客の潜在需要の底にある「絶対需要」を探知する想像力を、『左岸からの発想』と名付ける(パリを知らない人にはわかりにくいが、あの街はセーヌ右岸と左岸に分かれており、右岸は商業とビジネスの地域である。つまり右岸は大企業の押しつけ論理の発想を象徴している)。しかし今日のマネジメント層は、むしろ想像力を枯らしてしまう方向に動かされているようにも見える。そうした意味で、知的刺激に満ちた本である。ただし、この本のタイトルは(編集者がつけたらしいが)ちょっと誤解を与えそうな気もするのだが。

★★★ 戯曲 アインシュタインの秘密  カール・F・カールソン著 桂愛景訳

2008/07/14

これは素晴らしい。本書は翻訳書の体裁をとっているが、じつは先に批評を書いた「生命論」の著者・唐木田健一氏の変名による、戯曲形式の独特な科学論である。

アインシュタインは今では20世紀の天才の代表と言われているが、彼が初期の研究業績である光量子やブラウン運動の論文を発表したときは、ベルンの特許庁職員だった。大学に残りたかったのだが、優秀でなかったため職が得られなかったのだ。また彼は後にノーベル賞を受賞するが、相対論の業績に対するものではなかった。それは周囲のアカデミズムが愚昧だったためなのか? 必ずしも、それだけではない。そこには革命的な新理論の危うさ、科学と国家政治との関わり、そして科学者の地位を支える基盤、という問題点がある。本書はそれらの論点を、三幕ものの戯曲して、それぞれアインシュタインと共同研究者との対話の形で明らかにしていく。

とくに、第一幕での対話で、コペルニクスの地動説やドルトンの原子論という、いわゆる物理学史における革命的な理論が、登場時にはいかに強引かつ不正確だったかを克明に示す部分は、読む人間にとって新鮮な驚きを与えてくれる(観測事実を正確に表すという意味では、その前のプトレマイオス天動説の方がずっと精密だった)。これを語るのが、プロシア科学アカデミーから「相対論はユダヤ的」として攻撃を受けている最中のアインシュタイン自身である、というのがこの戯曲の趣向である。

ところで、アインシュタインの対話の相手は、第一幕はデービッドという大学院生、第二幕は実在の科学者インフェルトだが、第三幕は東洋人の科学者ヨッシュ・ヤンノートという正体不明の人物である。科学者という身分自体を問い直す、このヤンノートとは、実は山本義隆氏のことではないだろうか。著者と同年代で、東大物理学科随一の俊英とうたわれながら、東大全共闘の委員長として安田講堂を戦い、アカデミズムにも俗世間にも背を向けて去った、あの山本義隆氏である。だとすれば本書は、制度的科学のあり方自体を問い直す、メタサイエンティスト唐木田健一氏の真骨頂である、といえよう。



★★★ 木曜日だった男 G・K・チェスタトン著 南條竹則訳

2008/06/27

私が吉田健一訳「木曜の男」(創元推理文庫)を買って読んだのは、中学生の時だった。そのとき以来、この短くて不思議な長編小説は、私に最も長く影響を与えた本だった。独特の逆接と警句に満ちたチェスタトンの文体を日本語におきかえたその翻訳も、随所を暗唱できるほどくりかえし読んだものだ。

その古典に、光文社から新訳がでるという。英文学の御大・吉田健一に挑戦するわけだ。いかなる翻訳か、読む前からワクワクするではないか。そして、その期待に違わず、なかなか面白い訳に仕上がった。

まず、タイトルが直訳的になっている。ここに「だった」という過去時制が使われている点にミソがある、と訳者は考えているわけだ。ロンドン郊外の夕焼けを描いた有名な冒頭の文章も、地名が「サフラン・パーク」となっていて、なるほど、これは赤色を地名にかけていたわけだな、と納得する。この調子で、全編、比較的平明な、やや逐語訳的な、あるいは現代的な訳文に仕上がっている。また、ここには(創元推理文庫では略されていた)E・C・ベントリーへの献辞詩がついており、丁寧な訳注が付されている。

それにしても、この小説はまことに不思議な、文字通り悪夢のような幻想の輝きに満ちた黙示物語である。探偵小説でありながら形而上学的長編詩でもあるような本を、チェスタトン以外の誰が創造し得ただろうか? また、訳者が正しくも指摘するように、この本はまた、男たちが美味しいものを食べ、美味しい酒を飲んで(メニューも酒も細かく書いてあるのだ)、追いかけっこをするピクニック譚でもある。その白眉は、犯罪者が警察を追い、地上が無政府状態になる11〜12章であろう。しかし、最終章「告発者」のテーゼも忘れがたい。極色彩的なバロック装飾の文体に盛り込まれた哲学。これこそ、詩人にしてジャーナリスト、思想家にして探偵小説家のチェスタトン面目躍如たる小説世界なのである。



★★★ 生命を捉えなおす 清水博

2008/05/31

非常に面白い、知的刺激に満ちた本だ。著者は今は東大名誉教授だが、本書の初版が出た1978年にはまだ40代半ばの現役薬学研究者だった。その頃に、このように構想の大きな、ある意味ではアカデミズムの専門性の枠を踏み外した本を書くのは、勇気のいることだったかもしれない。しかし、おそらくこの本に書かれているテーマ、すなわち「生きている状態とは何か」を探求することこそ、著者が研究の道を選んだ原点だったに違いない。

近代科学は分析的方法を専らとしており、かつアトミズムに裏打ちされた分子生物学の方法は、「生きている状態」を括弧に入れたままで、生物の還元論的研究に邁進する道を開いた。しかし、マクロな視点に立つと、「生きている状態」と「生きていない状態」は一種の相として捉えることができる、と著者は考えはじめる。そこで統計力学にヒントを求め、自然の性質に「内部エネルギーの小さな安定状態と、エントロピーの大きな自由度を同時に求める傾向があり、一方ではこの二つが互いに相反した要求になっている」ことから、動的秩序の自己形成プロセスを調べていく。

その結果、化学レーザーに見られるような自己励起(自己触媒)プロセスにおいて、系が(ミクロには)不安定な状態に置かれているとき、ゆらぎが引き金として作用すると、秩序の自己形成が次々と進行することを見いだす。さらに著者は自分の専門領域である筋肉収縮について、流動セルと呼ばれる巧妙な実験装置を考案して、ATPを直接、一方向流動に変換する現象を発見する。これを説明する第5章が、本書の白眉であろう。このあと、著者の考察はさらに非線形振動の引き込み現象から、生体における「情報」の機能を探ろうとする考察が後半である。そして著者は本書の初版出版後、脳の研究にむかう。

生きている系には、動的協力性をもつミクロな要素(松岡正剛の命名にしたがって「関係子」と著者は呼ぶ)の相互関係が働いて、秩序を形成している、というのが著者の主張である。ここはまだ思弁と仮説の段階にある。とはいえ、いろいろな意味で、はっきりした問題意識と、明確な科学的手法による探求の結果生まれた主張がちりばめられていて、面白い。生命現象ならびに非線形現象に興味のあるすべての読者にお勧めする。



 ★★ The Little Schemer Daniel P. Friedman & Matthias Felleisen
2008/05/03

SchemeはLISPの一種である。LISPはFORTRANと同じくらい古い言語で、もともとは論理計算のためにあみだされ、のちに人工知能研究分野で注目され独自の発展をとげた。LISPは自らの構文や言語仕様を自分でプログラムし書き換えることができるので、方言がかなり出現した。それを最小公倍数的にまとめたものとしてCommon Lispがあるが、Schemeは逆に「最大公約数」というべきか、必要最小限の要素と、独特な計算時間最適化のための工夫を元に、Guy Steelという天才肌の人物が発明したものだ。

本書は、そのSchemeの、ごく一般人向けの入門書である。かわいいゾウさんのイラストでかざられ、Q&Aで読み進むことができる。しかしまあ、けっこう内容は濃い。私はLISPは全くの素人で、この本で入門すべく読み始めたのだが、なかなかそれなりに手強い部分もある。本書はあまり公式的教科書の定義や説明なしに話を進めてくれるので、そこは良い点だと思う(抽象的定義だらけだと学ぶ方がくじけてしまう)。しかし、全体として、どういう方向に話が進んでいくのか、よく見えてこないという面はある。

それで結局、最後の章では、LISPの中心プロセスであるEVALをSchemeでかく、という話になる。再帰的書式がLISPの最大の特徴であるからには、こうなることは予想すべきなのかもしれぬ。それはそれでいいのだが、ファイルの入出力も何もしないまま、ひたすら計算論理を追っていく本書だけで、プログラムが書けるようになるかというと、否である。そのためにはおそらく、続刊の"Seasoned Schemer"を読まなければならないのだろう。おもしろいし、読んでいて損はないが、まことにLISPへの道は遠し、である。

 ★★ 生命論 唐木田健一
2008/04/27

著者は理学博士で、外資系メーカーの研究所長を務めたひとである。また、同時に科学史家でもあって本名やペンネームでさまざまな著書があり、お会いしたときの名刺には「メタサイエンティスト」と書いてある。つまり科学基礎論が専門ということだ。

本書はタイトルからすると、生命科学を論じたもののように思えるが、じつはそうではない。本書全体の主張は、生物進化と(科学等の)理論進化の平行性にある。著者はそれを、自己と環境におけるさまざまな要素の統合を目指す「生命の原理」である、とする。それはすなわち、「実証性」(事実との対応=生物内外の環境との関係)、「合理性」(論理的矛盾のないこと=生物における首尾一貫した合目的性)、そして「普遍性」(一般性を有すること=生存可能な時間・空間をひろげること)、の3つに対応するのだ、というのが主張である。

現代の生命科学が、表向きは生物機械論にたち、目的論的解釈を排除しながらも、じつは「生命戦略」そのほかの言い方によって目的論を密輸入しているのは、確かである。したがって、生命の目的論を正しく定置して進めるべきである、という点では著者の主張に同意する。しかし、マイケル・ポラニーの哲学に触発されて書かれた本書の主張は、正直に言ってわかりやすいものではない。論証抜きで述べられているテーゼが多すぎるからである。それはとくに意識論・感情論のあたりに強く感じる。理論としては、この部分のより深い掘り下げが必要であるというのが、私の感想である。

 ★★ トップコンサルタントがPTA会長をやってみた 三谷宏治
2008/03/27

小学校の新入生100人を前にして、あなたなら、入学式で何を話すだろうか。相手は活発で、天真らん漫で、だが難しい言葉も知らず忍耐心も無い幼児たちだ。持ち時間は9分。何を話すか、だけでなく、「どう話すか」「どう興味を引きつけるか」が大事になる。

この著者は、ピンポン球1個と直径1mのゴム製大玉とで、PTA会長としての『入学式デビュー』を果たした。二つのボールを上下に積んで、同時に地面に落とす。そして起きるビックリ現象。これで、物理の不思議と交通安全という二つのメッセージを、子供たちの心に強烈にやきつけた著者のアイデアは素晴らしい。この人は天性の「コミュニケーター」にちがいない。

コミュニケーションの上手さは経営コンサルタントにとって最大の武器だろう。「教わる癖がつくから、俺は、教えない」と著者はいう。聞き手に「考えさせる」話し方は、人を動かす仕事では、とても大事だ。それは経営コンサルティングのみならず、セールスや部下への指示でもヒントになる。知的刺激に満ちた、魅力的な本である。

★★★ 日本軍国主義の源流を問う 星野芳郎

2008/02/13

著者の星野芳郎氏は1922年生まれ。2004年に本書を出したときは82歳だったわけだ。技術批評家としての生涯の総決算、畢生の大作という気概だったに違いない。

その気概にたがわず、本書はきわめて実証的かつ挑戦的な研究書に仕上がっている。タイトルは「日本軍国主義の源流」だが、むしろ日本と中国(清国)の比較近代史論ともいうべき内容になっている。両国の近代史は、政治や経済の観点から多くの本が書かれていたが、そこに綿密な技術史の視点を持ち込み、それを国家の近代化ならびに軍備拡張に結びつけたアプローチが、本書に独自のゆるぎない軸を与えている。

本書はアヘン戦争から始まる。英国は清国への阿片密輸で巨利を得て、それを摘発した清国政府に対し、戦争を仕掛けて莫大な賠償金を取った、典型的な帝国主義侵略行動である。ついでアロー号事件のあとにおきた、英仏軍合同の略奪行為である、北京の円明園の破壊にふれる。これは日本ではあまり知られていないが、たとえていうならば外国軍隊がヴェルサイユ宮殿に乗り込んで略奪・放火したような事件である。これが当時の東アジアをおそっていた状況だった。

しかし著者は、アヘン戦争の真の目的は、イギリス木綿が清国流通網の壁を破る突破口であった、と指摘する。そして、産業革命を経たイギリスの機械化綿工業が、中国の伝統的手工業をやすやすと打ち砕いて、阿片とは比べもににならない長期的収益を英国にもたらしたことを輸入量や紡績機の生産効率など詳しいデータで示す。

その状況を見て生まれたのが、洋務運動であった。清朝の重臣・曽国藩は近代軍事技術の必要を痛感し、中国史上初めて近代風軍工廠を設立する。とくに上海の江南機器製造総局は、今日の上海市の発展のきっかけを生むものだった。著者はこうした中国近代史の史料を、膨大な中国側文献に原語で当たって調査し、数字とデータを緻密に組み上げて記述する。この力量は敬服に値するものだ。

1860年代には、中国は明らかに近代機械化において、日本の先を走っていた。造船能力一つをとってみても10年以上の開きがあった。造船の背景には、製鉄所の能力の差もあった。それなのに、1890年代には、なぜ日清戦争で日本が近代軍事力で逆転してしまうのか?
ここで著者は維新後の日本の近代産業史について触れる。日本の西洋技術導入後の発展の速さを、著者は文化ならびに政治体制にふみこんで分析を試みる。しかしそれは、清国が専制君主制であるのに対し日本は疑似近代国家となった、という妙な説明でまとめられ、話はさらに日本の朝鮮侵略にむかって進んでいく。また著者は、福沢諭吉をはじめとする明治文化人がじつは、「遅れた」朝鮮を「解放/近代化」するという意義をとなえる、優秀な日本軍国主義のスポークスマンであったことを痛烈に指摘する。

本書の後半は、日本が日清戦争・三国干渉・日露戦争をへてアジアへの侵略にどんどん傾いていく経緯と、清国がいかに列強に利権をとられて半身不随に陥ったかを詳しく書いていく。それはそれで、事実の記述としては非常に面白い。しかし、読み進むにつれて、しだいに不満足もなぜか増していくのを感じずにはいられなかった。

その理由を考えてみるに、著者の近代史への四つの視点(技術・経済・政治・社会)のうち、とくに政治と社会(文化も含む)の分析において飛躍が多い点があげられる。技術・経済は数字を上げて緻密である。しかし政治社会になると、とってつけたような旧左翼的解釈が急にはびこりはじめる。著者の頭の中には最初から結論があって、論旨は前提の事実をジャンプしていきなり解釈に飛びついているとしか思えぬ箇所が多くなる。これは、おそらく著者の長年の思想信条がもたらした固着ではあるまいか。

本書は非常に面白い記述やデータに満ちていて、読んでいて実に考えさせられた。しかし、本書の一番価値があるのはそうした事実の部分であって、著者による解釈ではない。星野芳郎という人は結局、整理編集能力は高いが、思想家ではないのだろう。これだけ読ませる内容をもつだけに、その点がまことに惜しいのである。

★★★ 日本の弓術 オイゲン・ヘリゲル

2008/01/31

これは最近読んだ中でかなり衝撃を受けた本だ。ごく薄っぺらい岩波文庫で、しかもヘリゲルの講演録の部分はその半分、数十頁しかない。

しかし、哲学者で日本に数年間を過ごしたヘリゲルが、1936年にベルリンの聴衆を前に語った内容は、じつに驚くべきものだった。東北帝国大学に招聘された彼は、以前からドイツ中世の神秘主義に傾倒しながらも、その肝心の部分を実感できずにいた。そこで、日本で禅の精神に触れることを願い、弓道の師範について入門する。

ところが、阿波という師範は、彼に不思議なことを言う。弓を引くときに力を入れてはならない。丹田で息を吸え。意思を持って矢を放ってはいけない。的を見てねらって射てはならない・・・。これらはいずれも、西洋人の徹底して合理的・論理的思考からは理解できない、矛盾した指示であった。

ヘリゲルが師範に、無心で射ることは不可能だというと、師範は「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。」と指摘する。彼は「無になってしまわなければいけないと言われるが、それではだれが射るのですか」ときく(何と西洋人的な質問だろう!)。すると師範の答えは、「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたにはもう師匠がいらなくなる。経験してからでなければ理解のできないことに、どんな知識や口真似も、何の役に立とう。」というのである。

こうした禅問答をのりこえ、さまざまな迷いを経た後、師範が全くの暗闇で的を精確に2回続けて射るのを見てからは、彼は一切の疑問を捨てて、阿波師範にしたがう。そして5年の後、彼はたしかに「無になり」、「射られる」ことを会得する。免許皆伝、5段となって彼は日本を離れるのである。

この無心の体験こそ、日本文化の底流に流れ、ドイツ人も(そして今日の我々日本人も)近寄りがたい核心である。そこに近づくには近代精神は邪魔となる。意識して眠ろうとするようなものだからであろう。私自身も、これがどのような体験なのか、まことに想像しがたい。しかし、そこには確かに真実なことがあるらしい、いや、あるはずである、という確信を、本書を読んで強くした。そこに至る努力をせずに、いかなる知識を連ねても「何の役に立とう」。これはまことに、人間精神の神秘的な深さに関心のある全ての人が読むべき本である。

★★★ クレーの絵と音楽 ピエール・ブーレーズ

2008/01/25

たいへん素晴らしい本だ。画家パウル・クレーという天才と、音楽家ブーレーズの才気がかみ合って、静かな火花を散らしている。ブーレーズがクレーを好きだ、と言われてみれば、そうかもしれないとは思う。どちらもきわめて知的なタイプの芸術家だ。しかし、若きブーレーズが、クレーの画業や講義ノートから、直接さまざまな創造上の思考やアプローチを学んだ、と読むと、軽い驚きがある

クレーの絵が音楽のようだ、という感想はよく聞く。たとえばピカソという画家は一度も抽象画を描いたことがない(ピカソの絵は全て古典的な構図を持った人物画や静物画だ)。これに対して、クレーはしばしば、ある意味できわめて抽象的な絵を描く。対象の事物は画面のどこにもない。にもかかわらず、彼の絵はカンディンスキーのような「意図的な」抽象性や、モンドリアンのような幾何学性をあまり感じさせない。具象的なシンボル、ほとんどマンガのような諧謔に満ちた絵と、抽象画が並んでいても、まったく違和感もギャップも感じさせない点がクレーの特徴だ。それは、クレーの絵の中に、つねにみずみずしいリズムや、色の和音が満ちているからだろう。

ブーレーズの音楽はミュージック・セリエルから出発し、きわめて理知的で構成的な(したがって歌詞はあっても音楽としてはいたって抽象的な)ものに聞こえる。しかし、彼も創造においては意識による構成原理と、創造によるゆらぎとの間の拮抗に悩んでいたことがわかる。その彼に道筋を示してくれたのが、クレーの芸術観なのだ。ブーレーズに啓示を与えた「肥沃な国の境界に建つ記念碑」を賛美して、本書は終わる。絵画と音楽の双方に興味を持つ人に、必読の書である。

2007年

 ★★ スペイドという男 ハメット短編全集 (2)  ダシール・ハメット
2007/12/22

こちらはきわめて20世紀アメリカ的な小説世界だ。ハメットはハードボイルド的な文学作法を、推理小説の謎解きに結びつけるという見事な発明によって、米文学に全く新しい人気ジャンルを生み出した。その結果、模倣者たちが世界中に輩出した。

この短編集では、彼の推理作家としての苦心がいろいろと現れている。表題作など、いかにもアリバイ・トリックとしては気のきいた短編だ。しかし、小説として面白く読めるのは、「夜陰」「ああ、兄貴」といった、ミステリーの枠組みに無理にはめ込んでいない、人情もの的な短編の方だ。あるいは“非人情もの”といった方が、いいかもしれないが。それが彼の時代の文学の味なのだ。

 ★★ 廻廊にて 辻邦生
2007/11/21

不思議な後味の小説である。けっしてわるくはない。舞台はフランス、亡命ロシア人の主人公をはじめ登場人物は全て欧州人、中心テーマは芸術家の生涯、という道具立ては発表当時としてはずいぶん異色(カッコいい)と多くの人が感じただろう。「プルースト的」な心理小説をねらったのだろうし、それはある程度までは成功している。これは処女作としてのみずみずしさが生んだ効果だと思う。

辻邦生の小説は、ずいぶん昔に「背教者ユリアヌス」を読んだきりだ。あの小説は、NHKが大河ドラマにしたらよかんべ、というのが感想だった。退屈はしなかったが、主人公や主要な登場人物はみなハンサムか絶世の美女で、敵役は顔もゆがんでいる、という世界観はたいへん女性向けのロマンチックな消費文学に近いと思った。しかし、この短い小説では、そうした陳腐な面はまだ出ていない。この作家が、こんなにも「フランス」や「ヨーロッパ」を背負っていなければ、もっと好きになれたと思うんだがなあ。

 ★★ 旭山動物園の奇跡
207/10/13

旭山動物園は、北海道旭川市にある動物園である。近年、急速に有名になり、首都圏からもツアーの目的地になっている。私も札幌から行って見たことがあるが、たしかに工夫があって、面白い。あまりお金はかけていないが、しかし動物をいかに興味深く見せるかについて、皆が知恵を出し合ってつくりあげた動物園という感じが受け取れる。

本書は、この旭山動物園が、平凡な地方の小動物園からいかに変革を遂げて、今日の姿になったかをつづったドキュメンタリーである。とはいえ、その変革に至る道は平凡ではなかった。とくに平成に入ってからは、風評被害もあわせて入場者が激減し、10年近くも「長い冬の時代」を経験する。

そもそも旭山動物園は日本最北で気候は厳しく、また本州から遠いため人口圏が小さい。赤字続きだから低予算でスター的な動物もいない。白クマ、ペンギン、アザラシ、チンパンジー、ニホンザルなど地味な動物がほとんどだ。もしも全国の動物園が一つのチェーン会社だったら、本社の経営企画部は真っ先に廃止売却を決めるだろう。マーケティングのプロの目から見たら、どう考えても「負け犬」の領分としか見えないからだ。

それが今や入場者数は上野動物園を抜いて、日本一になった。それは数々のアイデアの功績で、その内容は本書に詳しく書いてある。しかし、こうしたアイデアはいつ、どうして生まれたのか。それは、「長い冬の時代」に、“でも、動物園はこうあるべきだ”という『べき論』の哲学を従業員全員が練り上げ、あたため続けたことで生まれたのだ。だから、きびしい逆境の時こそ、知恵と希望を捨ててはいけない、という教訓がここにはある。ひどく守りにくい教訓ではある。だが、哲学をもつ組織には、未来は必ずやってくる。この動物園が見せてくれた一番の展示物は、そうした人間たちの姿なのである。


 ★★ 湾岸戦争という転回点―動顛する日本政治 国正武重
2007/10/05

湾岸戦争とは私たちにとって、いったい何だったのか。私が言っているのは前回、91年のアメリカ(多国籍軍)対イラクの戦争のことだ。あの戦争は、私たち日本人にとって、どのような意味を持っていたのか。それを私たちは、正面切ってまともに総括していない。総括しないで、ただ言われるままに1兆2千億円支払っただけだ。総括していないから、今回のアメリカによるイラク戦争が再び成立したのではないか。

だが、書店に行って探しても、湾岸戦争を考えるための本はほとんど見つからない。あるのは、兵器オタクを喜ばせるための解説書ばかりだ。はっきり言うが、クズばかりだ。これが私たちの国の現実なのだろう。

そんな中で、「動顛する日本政治」という副題を持ち、'99年日本記者クラブ賞を受賞したというこの本は、多少なりとも期待を抱かせる書だった。しかし、読んだ感想としては、やはり日本の新聞記者にかけるのはこの程度までか、という落胆に近い気持ちだ。

本書は政治記者だった著者が、イラクによるクウェート侵攻のおきた90年夏から、日本が1兆2千億円の戦費負担に同意した91年2月まで、海部内閣の政府と国会で起きたことを順次記述したものだ。しかし、事実を編集列挙する視点に、独自の鋭さはあまりない。せいぜい、著者が信頼を寄せるらしき後藤田・元官房長官のコメントがはさまるだけだ。著者の問題意識は、96年の橋本政権で明確に始まった「日米軍事一体化」の原点が、湾岸戦争当時の小沢一郎・山崎拓の強引なリードによる自衛隊海外派遣の挫折にあった、という点にある。しかし、世界が日本をどう見たか、という視点がここには欠けている。

90年代は日本の失われた10年間と言われる。この失われた時間は、バブル崩壊後の不況がもたらしたと、多くの人は漠然と感じている。しかし私の見方は違う。それは、世界第二の経済大国であった日本が、何の見識も当事者意識もなく、ただ回された請求書を支払うだけの存在であると、世界に知れ渡ってしまったときからはじまったのだ。本書に出てくる政治家も外交官も、そして著者自身もみな、日本を視点の中心にして主観的にものを見ている。「あたしは綺麗かしら、みんなに好かれているかしら」とばかり考えている若い女の子のように。誰がそんな相手を大人扱いするだろうか? 本書は、中東における現実の危機を、自分の評判の危機としか考えなかった、そんな日本の馬鹿な大人たちの群像である。



★★★ The Organization and Architecture of Innovation by Thomas J. Allen and Gunter Henn
2007/11/16

イノベーション、すなわち革新的なアイデアを生み出すための組織と空間をどうデザインすべきかを論じた、画期的な本である。著者は、米MITスローン校(MITのビジネススクール)教授のであるAllenと、ドイツの指導的建築家Hennの二人で、このユニークな組合せが本書の性格を見事に物語っている。彼らはこれまで誰も手をつけなかった、組織構造と空間構成がイノベーションに与える影響について、緻密なデータと実績をもとに論じる。本書の知恵をうまく生かせば、知的生産性を倍にすることさえ、おそらく夢ではないだろう。

その実証例が、本書にも紹介されているBWM社の開発センターProjekthausや、シュコダ社の工場である。自動車工場のレイアウトなら日本がトップだと信じる人は、2本の製造ラインの中央部に管理部門を並べたチェコの工場や、オフィスの中をアセンブリーラインが貫通しているドイツの工場などを、日本の自動車業界トップが最近さかんに見学に行っていることを知るまい。その理由はまさに、労働生産性だけでなく知的生産性がものづくりの企業で重要問題となってきたからだろう。

イノベーションとは未知なるものの創造であるのに、それを産み出すプロセスをデザインできるのか? 誰しもそう疑問に思うにちがいない。その答えは『気づき』(awareness)と『コミュニケーション』にある。未知なるものを計画することはできないが、創造のきっかけを作り出すことはできる。そのための主要なツールが、組織構造のデザインと空間のデザインである。大学・企業・研究所など、イノベーションを求める機関はたくさんあるが、これまで組織と空間が知的創造性に大きな影響を与えるという問題意識は希薄だった。

(これは余談だが、近年、世界規模で医薬品企業の大合併が進行している。その目的はR&D組織を統合して知識を共有し、新薬開発のイノベーションを加速することにあったはずだ。しかし調べてみると、米国FDAへの承認申請は決して10年前に比べて増えていないという。単なる人と予算の足し算だけでは、知的生産性を加速することはできないことの証左になっている)

著者の一人Allenは元々ロッキード社の開発エンジニアだった。彼は製品の研究開発という手つかずで困難な分野を対象に、長年地道な調査を行ってきた。組織構造が企業内のコミュニケーションに影響を与えるだろうことは、だれしも容易に想像がつく。しかし彼は、空間構成とコミュニケーションの頻度に着目して、“50m理論”ともいうべき法則性を見いだす。それは、同一部署に属していても、物理的空間距離が50m以上離れた二人は、事実上コミュニケーションをとらない(たとえeメールでも)という事実である。

Allenによると、コミュニケーションには三つの種類がある。Coordination(調整)・Information(情報伝達)・Inspiration(ひらめき)の三つだ。このうち、イノベーションの決め手となるのは『ひらめき』であり、それは『気づき』のきっかけによって生まれる確率が決まる。組織や空間デザインはこれを左右することで、知的生産性を拡大もするし低下させもする。しかし企業の上級管理者達は、この事実にあまりにも無頓着である。

Allenはさらに、製品開発における組織のあり方について、機能別組織・プロジェクト組織・マトリクス組織の類別と特性を述べる。本章は、私がこれまで読んだプロジェクト組織論の中でもっとも優れた説得力のある解説であった。後半ではさらにHennが、建築的観点から空間構成に必要なspine(脊索)の概念と実例を説明する。美しい建築写真が並ぶが、本書は建築家向けの本ではない。むしろ、建築家が論理性ぬきで美的外観を追う愚を戒め、設計の背後には科学的法則に基づく論理が無くてはならないとの主張がある。

これは、イノベーションを求めながらそれを果たせずにいる今日の我々の盲点を教えてくれる、真に創造的な本である。英文は比較的易しい。また、最近邦訳がダイヤモンド社から出版された(知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する)。研究開発やものづくりにたずさわる、すべての知的職業の人に強く推薦する。



★★★ 北極ライフ 谷山浩子
2007/09/24

ナショナル・ジオグラフィックの写真家による北極動物写真(どれも驚異的な美しさのものばかりだ)からいくつかを選び、谷山浩子さんが短い文章をつけてストーリー仕立てにした本。薄いが装丁も印刷も美しく、メッセージも直截だ。いうまでもなく、地球温暖化で壊滅的な変化を受けている極地を守りたい、というメッセージである。

この本は谷山さんのコンサート会場で買った。売り手は、ナショナル・ジオグラフィックの編集者(本書の担当編集者)で、かつ谷山さんの音楽プロデューサーAQ石井さんの奥さんである。私もたまたま以前からお二人を存じ上げていたので、思わず買ってしまったのだが、誰が読んでも楽しめる、優れた本である。サイズの割に若干高いけど(笑)。



  ★ コンサルタントの道具箱 G・ワインバーグ
2007/9/19
残念ながらワインバーグの本は、年を追うごとに内容が薄くなっていくように感じる。期待して読んだのだが、本書は10年前に出された「コンサルタントの秘密」よりも密度に乏しい。ワインバーグ先生が歳をとって有名になりすぎたせいだろうか? 道具箱というよりも心構えを書いた本に近い。でも、これだったら彼が依拠する心理学者の本を読んだ方が勉強になりそうだ。「イーグル村通信」で『ロージーの返事』などを書いていた80年代の彼がなつかしい。



 ★★ 先を読む統計学 鈴木義一郎
2007/09/15

「情報量基準」AICに関する初歩的入門書。AICは旧文部省・統計数理研究所長だった赤池宏次が提案した手法で、統計モデルの現実へのあてはまりを評価する基準量である。著者は同じ統計数理研究所の教授で、これを初心者向けに1からわかるように解説したのが本書だ。

複雑な現実を説明するための統計モデルは、単純な線形回帰式からはじまって、さまざまなものが考えられる。通常はあてはまりを改良するために、いろいろなパラメータを追加していくのだが、それをやりすぎると今度はパラメータの藪の中に迷い込んでしまう。AICはこの問題を解決する。あるモデルにおける最大対数尤度をM、パラメータ数をkとすると、AIC=−2M+2k であたえられる。AICはモデルのあてはまりの悪さを示すので、モデルが複数ある時はAICの小さなものを選べばよい。この式の背後には、確率密度関数で与えられる二つの分布量の距離は、カルバック-ライブラーの情報量(エントロピーに似ている)で計量できるとする考え方がある。つまり、AICはモデル推定のエントロピーを与えているのだ、と強引に言えそうだ。

残念ながら本書は、けっこう式や数字の誤植が多い。Notationの記述も足りない。本格的専門書ではないとはいえ、こういう点が、著者の様々な工夫にもかかわらず、本書の足を引っ張っていると言える。少し残念である。



★★★ The Marriage of Heaven and Hell (Oxford Paperbacks) by William Blake
2007/09/01

20年ほど前、アメリカの大学で、ある芝居を見た。それは演劇学科の学生の卒業制作発表だったらしい。脚本と演出が、その学生の成果だ。役者も皆、学科の学生だったろう。タイトルは、"The Marriage of Heaven and Hell"。原作はウィリアム・ブレイクだという。非常に面白い芝居だった。今でも、そのシーンをいくつか覚えている。

その後数年してから、シカゴの書店で本書を見つけた。そのまま本棚に積んだままだったが、ようやく最近読み通した。念のためにいうと、むろんブレイクは戯曲など書くはずはない。本書は色刷りの版画による、絵のついた長編詩である。

ブレイクは、18世紀英国が生んだ異才だ。西欧ロマン主義の時代はある意味で中世趣味の時代でもあったが、ブレイクはその極北の一人ではないだろうか。幻視者、象徴詩人、神話の創造者、そして何よりも驚嘆すべき版画家だ。実物はそれほど多く見たわけではないが、一度見ると忘れがたい印象を残す。

本書は彼が神秘家スウェーデンボルグの影響から脱した時期に制作された。全27葉の版画を、原寸(小さい)完全カラーで復元され、さらにテキストに詳細な解説が付けられている。いかにもオックスフォード出版らしい本だ。既存の価値を転倒すべく想像力を賛美した彼の詩は、理解しやすいとはいわないが、とてもエネルギーに満ちていて魅力的である。



 ★★ 竜馬がゆく〈4〉 司馬遼太郎
2007/08/13

うーむ。2002年に読み始めてから5年で、とうとう4巻まで読み進めてしまった。なかなか面白い本である。勝海舟の門人となった龍馬は、神戸の海軍学校を拠点に、船隊をつくるべく奔走する。その間、土佐では政変が起こり、武市半平太は切腹。また京都では薩摩がクーデター「禁門ノ政変」をおこして長州藩を追い出してしまう。しかし、龍馬は東奔西走の結果、とうとう一席の軍艦を手に入れるところまでたどりつく・・・。

明治維新前夜、物語は既に急を告げている。この時代が面白いのは、すべての人が自分なりに考え、自分の手足を動かし、自分なりにリスクを負って(これを「覚悟して」という)行動しているからだろう。それは私たちの生きる今の世の中とは180度さかさまに見える。同じ日本人でありながら、世が違えばこれほどまでにふるまいも違うのだ。そのことを痛切に悟らせてくれる小説である。



★★★ ブッダ論理学五つの難問 石飛道子
2007/07/12

これはなかなか持って不思議な、かつユニークな本である。著者はインド論理学、とくにニヤーヤ学派を専門とする研究者だが、仏教学者ではない。その著者が、三年間かけてナーガールジュナ(龍樹)の著作『方便心論』にとりくみ、その結果として始祖ブッダの構築した論理学について解説した本である。そして随所に、現代記号論理学の論理式がとびかっている。それはある意味で、とても大胆な知的冒険の旅行記でもある。

インドにはきわめて精緻な論理学の長い伝統がある(我が国ではろくに知られていないが)。ブッダもまた、倫理を説くにあたり論理学と弁証をしばしばもちいたという。その論理学を、『方便心論』などを手がかりとして再構築してみたのが本書である。著者はまず、西洋の現代論理学がじつはこの世を説明するのには、実に不十分かつ不便であることを示す。たとえば命題論理では過去や未来時制を含む文を扱えない。とくに、著者はいわゆる「真理表」を検討し、2命題からなる16種類を列挙して、その中でP*Qとよぶ形式について説明がないことをいぶかしむ。このP*Qとは(私の目から見ると)PがQの十分条件であることを意味しているが、著者はこれを「因果」の表と解釈する。

この因果関係の真理表と時制を中心にしつつ、西洋哲学的な存在論を排した公理系をブッダは持っていた、というのがこの本の中心である。とくに、「生ずる性質のものは滅する性質のものである」を柱として、色形・作用など五蘊は自己ではない(つまり自己とは存在論で語れるものではない)というブッダの『五蘊非我』の論証にたどりつく。しかし、本書は内容の専門性にもかかわらず、非常に読みやすく、面白い。議論はいろいろあり得よう。しかし、まことに知的刺激に満ちた書物であることは確かだ。



★★★ 痴呆老人が創造する世界 安保順子
 2007/08/06

これはきわめて驚嘆すべき本である。著者は元々看護士出身で、今は大学で教えている。その著者が自ら、東北地方のとある老人施設を研究フィールドときめて、自分でフィールドワークを行った調査をまとめた結果である。認知症という言葉が普及して、痴呆老人という言い方は今ではもうしないが、この本の出版当時はまだ通常の用語だった。

この本のことは、たまたま雑誌『言語』で、著者が三浦雅士と対談している記事の中で知った。三浦が正しくも指摘しているように、これは認知症の老人達がつくるコミュニティについての文化人類学である。そして、著者以前には、誰もそのような人類学的記述や分析が成立しうる世界だとは創造もしていなかった。痴呆とは、人格や人間関係の崩壊の世界だと思われてきたのだ。ところが、彼女の詳細なフィールドワークの記録を読めば明らかだが、施設に集まる老人達は、ある種の驚くべき想像力によって、彼らなりの世界を構築しているのである。

それはたとえば、冒頭近くに現れる南川さんという品のあるおばあさんの話でわかる。南川さんにとって、デイルームの中央スペースは、自分の家がある地区の「公民館」なのである。そして、廊下の床模様が変わるところにさしかかると、「ここから奈川(地区名)だべ」といい、そして消火栓の赤いランプをみると、「駅前さ来た」という。さらに認知症が進むと、言葉の意味がどんどん失われていくが、それでも彼らは他者とのコミュニケーションをやめようとはしない。意味が抜け落ちても、「言葉を交わす」という行為自体は非常に良く保たれているのである。

この本を読んでいくと、人間にとって進化の原初の頃から保たれているものが何か、よくわかる。それは、空間的構造を持った世界と、人間関係からなる社会なのである。こうした根源は、言語以前からあり、言語崩壊後も残る。まことに、あらゆる文化人類学研究の傑作と同様、この本も「人間自身を知る」ためにまたとない知恵を授けてくれるのである。



 ★★ 読んでから死ね!現代必読マンガ101 中条省平
2007/07/29

別に読んでから死ぬ必要はないが、とにかく現代の傑作マンガを101選んで批評している。これは読書の水先案内としてはとてもすぐれた本である。むろん、著者の趣味で選んでいるから、それなりの偏りはあるが、大学教師だから優等生向けのマンガばかりという訳ではない。

現代日本において、もっとも豊穣な創作ジャンルでありながら、批評からはきわめて冷遇されているマンガに、正面切ってとりくんだ本として、なかなか得難い価値があると思う。



  ★ チーズはどこへ消えた? スペンサー・ジョンソン著・門田美鈴訳
2007/07/29

とてもよく売れた本らしい。古本屋の店頭に並んでいたのをかった。薄いので、1時間もあれば読める。読んで、なんとなく少し「賢くなった」気にさせる。その程度にはインパクトのある話になっている。中心は単純な寓話なのだが、最初と最後に現代人たちの会話による解説をつけているところも、また構成上の工夫だろう。

この本の中心テーマは、「変化」である。自分の生活を支える環境に、変化があった。それに直面したとき、どう行動するのか。自分もまた、新しい環境を求めて冒険に出なければならない。その場にとどまれば飢えるだけだ。・・せんじつめれば、そういうメッセージのこめられた寓話である。

しかし、この寓話を読むと、アメリカ人の頭の中が、私たちとどれほど同じで、またどれほど違っているかがよく分かる。彼らは、“どこかに約束の地がある”(それは誰か全能者が自分たちのために用意してくれている)から、冒険の末、それを発見すればいい、という風に世界を見ているらしい。まあ、そう思って新大陸に来たのだろうな。新大陸が満杯になったら、また外に出て行けばいい。そう考えて今もあちこちの大陸を攻めているらしい。なぜ自分たちだけが神様からそれほど優遇されると信じられるのか。まことに本書は、神聖なる古代国家で書かれるのにふさわしきベストセラーである。




★★★ MBAが会社を滅ぼす H・ミンツバーグ著 池村千秋訳
2007/07/26

カナダ・マギル大教授のミンツバーグは、経営学の大御所であるが、また異端の経営学者でもある。彼を有名にしたのは「マネージャーの仕事」という研究で、実際の企業の管理者のやっているワークは、経営学の教科書が想定していることと大幅に違っている、との事実を明らかにした。

その彼は、現代のMBAのあり方に疑問をもち、ビジネススクールで教えるのをやめ、この数年間は自らが中心になって「IMPM」という新しい企業マネージャー向けの教育カリキュラムを組織実践するようになった。本書はその彼の考えを述べたもので、前半は現代のMBA批判、後半はIMPMの思想を書いている。全体として学術書の体裁をとっているが、後半は自分の発案であり客観的にかくのは難しい、と率直に認めている。

ただしその分、前半の現代MBA論は広範多岐にわたって調査事実をつみ上げ、総合的批判となっている。歴史、教育内容、教育方法、受講者層、受講動機、企業内での処遇にわたって功罪を論じ、問題点多し、と結論する。

ミンツバーグの批判の根幹は、こうである。マネジメントの成功は、アートとクラフトとサイエンスがそろったときに生まれる。アートは構想力、クラフトは職人的スキル、サイエンスは分析力のシンボルである。しかし、実務経験の浅い数年の若い学生の集まるビジネススクールでは、結局サイエンスだけを身につけることになる。ハーバード型のケースメソッド教育も、スタンフォード型の理論中心教育も、実際にマネージャーをつくる役には立たない。その結果、“MBAになってビジネス世界で追越し車線に移りたい”と野心を持つ若い人間を、分析偏重の『計算型』かアーティスト気取りの『ヒーロー型』マネージャーにしてしまう。こうした連中が、米国だけで10年間に100万人も世に出されるのだ。

その結果生まれた現象は何か。米国大企業のトップの4割はMBAだ。しかし経営者としてのMBAたちの成績簿は、決してよくない。その理由は細々とした雑事を切り捨て、現場を無視して、解決策の方程式を振り回しすぎる点にあった、とミンツバーグは事例分析を通して示す。

それでは、良いマネージャーを育てるには、どうしたらよいのか。マネジメントの根幹には「人を動かす」ことがある。本書の後半は、より実務経験の深い受講者を対象にした、分散的かつ多文化的なプログラムによるIMPM教育の思想について述べている。私自身、このコースには非常に興味を持った。これが理想で最善の教育のあり方かどうかはすぐに結論できないが、ミンツバーグらの試みは、あきらかに経営学者が教壇から教えるよりも、ミドルマネージャーたちが相互に触発研鑽しあえる仕組みを作とうとしている点に特徴がある。

訳書のタイトルは攻撃的だが、原題の"Managers not MBA"は、もっと建設的だ。彼の建設的な提案を、我々の社会はどう遇するべきなのか、もっと考える必要があるだろう。日本が、米国流の計算型ビジネスに浸食され尽くす前に。



 ★★ マザー・テレサ―愛はかぎりなく 沖守弘
2007/07/08

著者の沖守弘氏は写真家で、とあるきっかけからマザー・テレサと彼女の修道会の活動を継続的にとるようになる。本書は、その記録となる写真集である。したがって文章は少ないが、写真の持つ力によって、むしろビビッドに活動の実態を見ることができる。

マザー・テレサについて、我々は多くのことを知っている。コソボのマケドニア人家庭に生まれ、若くして修道の道に入り、志願してインドに赴くが、上流家庭子女の教育の途中で「招命」をうけ、校長の職をなげうって最貧民層に無一物で入って行く。それからの驚異的な活動は本書をはじめ、多く記録されている。その業績を否定できる人は誰もいない。

しかし、マザー・テレサの心中、人となりは、むしろ謎である。そこに近づくには、講演記録を読むよりは、むしろじっと写真の顔を見る方がいいのかもしれない。そして、私には、やはり謎にみえる。純粋だが実際家で、活動的だが思索家で、小柄な体に巨大な魂を宿すこの人に、私のような人間は簡単に近づけぬように思える。この本は、そんな、謎として投げ出された人の肖像写真集なのである。



 ★★ 西洋の着想 東洋の着想 今北純一
2007/06/29
著者の今北氏は日本企業をふりだしに、英国の大学教員、スイスのシンクタンク、フランスの国営企業等をへて、現在はコンサルタントとして日欧をまたいで活躍中である。たまたま私の研究室の先輩でもあり、時に懇談の機会を得るが、お会いするたびにその概博な知識と豊富な経験に裏づけられた話術に感嘆するばかりである。

今北氏の話や本が面白いのは、日本と欧州という対比の軸が的確だからだろう。日本人が「西洋」という場合、どうも米国ばかりを向く傾向ないし偏重がある。ここを正して、いわば三角測量のように我々に認識の歪みをとりのぞいてくれるからだ。

本書の末尾には、「ヒューマン・ケミストリー」の構想が出て来るが、これはその後、どのように発展したのだろうか。その先が楽しみなことである。



 ★★ 夏への扉 ロバート・A・ハインライン
2007/06/23

何かスカッとした後味のSFかなんかを読みたいな。そうだ。ハインラインの「夏への扉」がいい。そう思いついて本屋で買ってきた。そして、正解だった。なにせSF愛好家の投票ではつねにベストに入る傑作と評判の小説だ。ハインラインの作品としては、むしろ多少傍系に属すると思うが、事実とても面白い。この小説は猫好きが主人公なので、その趣味を共感できる読者には、なおさらたまらないだろう。

2007年の現在読むと、1970年という未来にすむ主人公が、さらに冷凍睡眠で2001年のめくるめく未来に脱出する、というプロットがなかなか時代錯誤的で楽しいが、そもそもSFなんてそんなものである。我々の時代の進歩は、けっして空想のように早くは進まぬ。そして、その間に、アメリカにおける技術者という人種の地位が、かくも見事に地盤沈下してしまったことこそ、まことに驚きである。そう言う意味で、この小説は科学と技術に未来を夢見た人々への、さわやかな後味を告げる子守歌ないし挽歌だといえるだろう。



★★★ 四人の申し分なき重罪人 G・K・チェスタトン
2007/06/09

チェスタトンの新しい短編探偵小説を読める。これほどの興奮、これほどの陶酔があるだろうか。

「誤解された男のクラブ」のメンバーが、それぞれ自分の物語を語る。こうした趣向は、初期の短編集「奇商クラブ」を思わせる。しかし1930年、もう晩年近くに書かれたこの短編集は、ずっと中身がこってりと重い。『穏和な殺人者』『頼もしい藪医者』『不注意などろぼう』『忠義な反逆者』の4編(短編というよりは中編に近い)はいずれも甲乙つけがたいが、なかでも私は老人の狂気じみた行動の背後に過去の意外な事実がかくされている『頼もしい藪医者』の趣向が面白いと思った。



★★★ ケセン語訳 新約聖書 【マルコによる福音書】 山浦玄嗣(訳・朗読)
2007/05/30

この本はおそらく、今年読んだ中でベストに入るだろう。それほど大きなインパクトを与えてくれた。

ケセン語とは、東北気仙地方の方言のことである。著者の山浦氏の本業は医師だが、同時に自らの住む地方の言葉を独立した「言語」ととらえ、その分析・保存と純化を使命とした活動を続けてきた(ちなみに独立言語と方言の違いは、学問的というよりも政治的に決まる)。

その山浦氏はまたカトリック信者であり、いわばライフワークとして新約聖書のケセン語訳に取り組んでいる。このマルコ福音書はその第2巻だ。もっとも、「マルコ福音書」という題名は現代日本のいわゆる標準語訳にすぎない。ケセン語訳では、「マッコァたより」となる。そして、ここにこの翻訳者の問題意識や姿勢が端的にあらわれているのが、わかるだろう。標準語風にいえば、マルコのたより、である。

「福音書」というのは翻訳の造語にすぎない。ギリシャ語の元の意味は、良い知らせ、である。これを漢語をかりて福音書などと訳しても、日常の感覚に届かないのだ。福音などという語彙は、ケセン語には無い。だから、ケセン語にある語彙で訳す。これが山浦氏の一貫したスタンスだ。ケセン語訳とは、極力「やまとことば」を使った翻訳ということになる。したがって、必然的に意訳のオンパレードになる。固有名詞も、ケセン語的な音韻体系のなかに組み込まれ、マルコがマッコになり、イエスはヤソになる。だが、これも正当なことだ。なぜなら、所詮音韻体系が違う言語間では固有名詞も近似値でしかありえず、変形は不可避なのだから。

そういう意味では、ケセン語の音韻体系も標準語とはちがっていて、東北方言に特有な「ち」と「つ」の中間の音などはかなではあらわしきれない。そこで山浦氏はさらに、ケセン語の特殊な音韻を表記できる、独自の「かな」と「ローマ字」を発明する。上記の音は、ちの横棒をとったような形の活字であらわされる(出版社の努力を思うべし)。そして、高貴なるケセン語を理解しないであろう域外の我々のために、標準日本語での訳注も添えられている。

それだけではない。本書にはCDもついていて、山浦氏自らの朗読がきける。これがまた、魂がこもっていて実に素晴らしい。ケセン語の劇団を立ち上げたという面目躍如である。本書の一番よい読み方は、氏の朗読を聞きながら、同時に眼で訳をおいかけることだろう。CDにはさらにおまけで、ケセン語の聖歌の合唱も入っている。

ところで本書のユニークさは、そうした形の上の面白さに留まらない。むしろ山浦氏の、新約聖書とその思想についての探求こそが本書の神髄である。その理解は、知と情の両面で見事なバランスを取っている。まさに、ギリシャ語や歴史・神学の知識と、やまとことば的な情感の世界とのかけ橋となる仕事から生まれたものだ。この点が、いわゆる学者の翻訳と大いに違う。

もともとマルコ福音書は、最古の福音書である。記述は簡潔にして劇的。あきらかにユダヤ地方に住むユダヤ人以外にむけてかかれている。マタイの謹厳もルカの美文もマルコがなければ成立しなかった。そして成人後のイエスの生涯だけを、一直線に追っている。処女懐胎も生誕劇もなし。三日目の復活と公現もなし。また、マルコ福音書ほど、12使徒の主な弟子たちの無能を徹底して暴いたものはなかった。わずかに、各地を布教中に、自分をだれと思うかとの問いにこたえて、ぺテロが「お前様ァキリストで居やりァす(あなたはキリストです)」という場面で面目を果たすだけだ。しかしキリストはそれをかたく口止めする。なぜか? そんなことをすれば、正統派からの迫害をまねくだけだからだ。

この本を読んでいると、そのイエスの物語がはっきりと見えて来るような気がする。ガリラヤから弟子たちを連れてエルサレムに向かう街道を歩きながら、この人には物語の結末が次第にはっきりとみえていたに違いない。それは、既存勢力との正面衝突と破局である。さあ、いよいよ首都決戦だ。エルサレムに革命だ、と気おい立つ弟子たち。気の荒いヤコブとヨハネ兄弟にいたっては、「先生、見事大願成就のあかつきには、自分達を右大臣と左大臣にしてください」みたいなことまでいい出す。

そのイエスが子ロバにのってエルサレムに入場する時、喜ぶ民衆のホザナのことばは、こうだ:
「尊でぇな! 
旦那神(だながみ)様の名代で
来やるお方ァ尊でぇな!
めでたぐも 今ぞ来る、
先祖ダビデの取りしきり
天の高みァ尊でぇな!」
この祝祭的な喜ばしさ、土俗的な力強さはどうだろう! これこそ翻訳というものではないか。

山浦氏の神学理解では、通常「神の国」と訳されているギリシャ語は、アラム語などを参照すると、領域的な国家ではなく、法の支配をさすはずだという。そこで「神様のお取りしきり」と訳される。それは空の上にある場所、いつかくる世界ではなく、今、目の前にあらわれることも可能な世界、人々の心のありようですぐにも実現される世界なのだ。イエスが民衆に叫んだのも、そうしたメッセージである、という。まことにこの本は、我々にとって新約聖書理解の根本からの再検討をせまる。

イエスという人物、宗教、そしてことばと翻訳の問題に関心のあるすべての人に強く薦めたい、良書である。






★★★ 脳のなかの幽霊 V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー著 山下篤子訳
2007/05/25

この本は今年前半のベストだろう。これほど面白く、しかも強烈な刺激を与えてくれる本は少ない。ラマチャンドランはインド生まれで英米で活躍している神経科医だが、この本は脳や神経の仕組みだけでなく、自己とは何か、外界と知覚とは何か、実在とは何か、といった哲学の問題まで真っ正面に切り込んでいく。それがまた多数の臨床事例をともなっているから、きわめてスリリングなのである。

この本は最初に、幻肢の問題から始まる。手を切断された患者が、失われた手の指などがまだあるように感じる現象である。あるように感じるだけではなく、ときにはそれがひどく痛んだりする。しかし、存在しもしない幻の指先の痛みを、医者はどうやったらなおせるだろうか?

ところが、おどろいたことに著者は、あることをきっかけに、実験と推理をくり返して、とうとう幻肢の感覚の正体をつかむ。そして、きわめて巧みな治療法を考案して、本当に幻肢痛をなおしてしまうのだ。この章だけでも、非常によくできた推理小説のように面白い。

しかし、それだけではない。この本の中には、およそ常人では想像もできないような、奇妙な神経医学的症状がつぎつぎと紹介される。自分の左腕を、自分の兄の腕だと主張する男性。視野の右側が全く見えていないにもかかわらず、その異常に気づかぬ女性(彼女は顔の左側だけ化粧をして平然としている)。視覚を失っているにもかかわらず、完全に正確に穴に物体を通すことのできる若者(彼は知覚しているのに認識できないのだ)。こうした奇妙な症状のオンパレードの中から、著者は一つずつ謎を解きほぐし、脳と神経の意外な振る舞いを見いだしていく。

そして最後に、著者は「意識」の場所として、脳の前頭葉ではなく側頭葉である、という推論を導き出す。その背後には、ヒンズー教の信念、すなわち自我は人間の主人ではなく幻であり、それをすてて宇宙と合一することが悟りである、との考え方がある(ラマチャンドラン自身は科学を経て、その伝統的思考に再度出会ったようだ)。本書はきわめて挑戦的な、脳と意識をめぐる臨床調査と思惟の記録なのである。



 ★★ ランゲルハンス島の午後 村上春樹・安西水丸
2007/05/14

いつものコンビによる、軽くて食べやすくサクッと口の中で溶けるエッセイ。村上春樹の文章については、特に何も言うべきことはないが、この本は安西水丸の絵が半分以上入っていて、こちらはとても見ていて楽しい。この絵を見て楽しむだけのために、買って損はしない本である。



 ★★ さよならダーウィニズム―構造主義進化論講義 池田清彦
2007/04/30

「構造主義進化論講義」と副題にある。近代生物学は博物誌と系統分類にはじまり、遺伝子による『種』の実在論に行き着いて、それが一種の学問的公理のようになっている。これはちょうど、イデアが実在すると考えた西洋古典哲学と相似形をなしている。一方、差異とか分類は絶対的なものではなく、関係でしかないと考えるのが構造主義だ。だから構造主義進化論とは、種の実在や系統論を相対化する考え方だろうな、と想像がつく。

現代の進化生物学の主流は、いわゆるネオ・ダーウィニズムである。これは、遺伝子の偶然的変動による分子進化の上に、環境からの選択淘汰圧が作用して、現在の姿の生物が生まれたと考えるテーゼだ。生物学の学術論文は、基本的にこのロジックの上に組み立てられている(そうでないと学会誌に受け付けてもらえないだろう)。しかし、これではうまく説明できない反例的が、ケアンズ現象をはじめとして、いろいろ見つかっている。

著者は、進化論の歴史をいったんラマルクとダーウィンにまでさかのぼって見直した後、ホワイト、キュヴィエ、今西錦司などの反主流派の学説をたどる。彼らにある程度共通するのは、生物進化は偶然の変異の蓄積だけではなく、何か全体的な構造変化をともなっておきるという考え方である。その上で、著者はソシュールの構造主義言語学などを参考に「システム」という概念を持ちだして、生物進化を説明しようとする。

しかし、残念ながら、その試みは成功していない。その理由は、著者が「システム」とは何かを、的確に定義できない点にある。かわりに構造だの解釈系だの分節恣意性だのといった言葉をいくつ並べても、十分な説明にはならないのだ。切り口や意図は面白いが、はがゆさの残る本である。



★★★ 算法少女 遠藤寛子
2007/04/21
江戸時代に出版された和算の書物「算法少女」をもとに、史実に忠実なかたちで創作された小説。神田に住む町医者の娘・千葉あきは、父の指導で算法(数学)の才能を開花させ、やがて、自身も算法家である久留米藩主・有馬公に見いだされるが・・。

元の和算書『算法少女』は1775年の出版である。江戸中期、すでに社会は安定し、逆に固定化されて、数学は発達しつつも純粋な知的趣味の対象となっていた。そしてまた、流派と家元制度にしばられ、まるで盆栽のような狭く偏った育ち方を強いられた時代でもあった。一方では、数学を、金銭を数える技術として卑しむ風潮もあった。

こうした中で、物語の後半に登場する本多利明という算法家が、数学は世の中が発展していくための基礎である、という新しい考え方を主人公あきに教える。それは、算法を壺中の天の楽しみと考える、あきの父とはまったく異なった思想である。こうして物語は、新しい世の中の、明け方に希望を託すかたちで終わる。読み終わった後で、ほっとする感情を読者に小説である。わずかであるが、算法の問題ものっていて、答えが書かれていない分、読者が自分で考える楽しみもある。挿絵も良い。

こうした『理系好み』の、しかし歴史と文学に根ざした小説が、インターネットの「復刊ドットコム」のリクエストに応えて文庫で出版される点をみると、私たちの世の中もまだ多少は捨てたものではないと感じる。



★★★ 肝っ玉おっ母とその子供たち―ブレヒト名作集 ベルトルト・ブレヒト
2007/04/17

ブレヒトの演劇など、もはや誰も演じもせず見もしない時代になった。それが単に、ソ連と東欧の共産党権力がベルリンの壁と共に崩壊したためだ、としたらまことに残念なことだ。社会主義というレッテルのついた物は一切合切、大急ぎでゴミ箱に捨てるべきだと現代人が信じているとしたら、愚かである。ブレヒトがドイツの社会主義プロレタリア演劇の騎手であったのは事実だろうが、何より彼の演劇は「面白い」のである。それも、ひどく面白い、といっていい。いや、偉そうなことを言っているが、私もこの戯曲集を読んで、はじめてその事実に気がついたのだ。

本書には、ドイツ30年戦争を舞台にした「肝っ玉おっ母とその子供たち」と、近代中国の四川(セチュアン)を舞台にした「セチュアンの善人」の二つの戯曲がおさめられている。どちらも喜劇である。歌も、たくさん入っている。役者は歌ったりしゃべったりして、観客に娯楽としての芝居を提供するよう、できている。そして事実、非常に面白い。

「肝っ玉おっ母」は30年戦争の混乱と荒廃のドイツで、女手一つで荷車を引き、あちこちの軍隊に雑貨を売りつけて商売する母親と子どもたちの物語である。彼女の名台詞の一つは、「勇敢な兵隊が要るってのはヘマな隊長に違いねえ。立派に戦のはかりごとがやれる隊長なら、並みの兵隊でたくさんでねえか。」だろう。戦争は利益を求めて行われるものだと彼女は認識しており、自分も利をえようと奮闘するのだが、あいにく運命は彼女から一人一人子どもをもぎ取っていく。「戦争から自分の儲けを切り取るには、大きなはさみを持たねばならない」と作者は後書きに書いている。

ブレヒトの喜劇の特徴は、役者が途中で観客と会話したりして、観客が「自分は劇を見ているのだ」と思い出させる点にある。そのために、観客は一方的に登場人物に感情移入し続けることが許されない。つねに、批評的に見ざるを得ないのだ。その特徴は、とくに「セチュアンの善人」できわだっている。これはナチスに追われて亡命先で書かれた作品で、きわめて寓話的な色彩が強い。3人の神々が、「まだ地上に善人が残っているならば地球を滅ぼすことはやめよう」と期待しつつ、セチュアンに現れる。セチュアンとは、“具体的な地名ではなく、人間が人間によって搾取されているあらゆる場所のこと”だ、と作者はいう。そこで出会った娼婦が、神々の期待にこたえて善と愛に生きようとするのだが、弱者は生きようとすればするほど、他の弱者を押しのけずにはいられないように、この世の中はできている。そして物語は最後に、結末を観客にゆだねるかのように終了する。これほど、笑いが口の中で乾いていく喜劇があるだろうか? これこそ、まさに現代の演劇というものだろう。



★★★ 奇商クラブ G・K・チェスタートン
2007/04/15
この本を買ったのは70年代だったと思う。奥付けを見ると、発行日は1977年6月初版だ。本書の構成は、メインの短編集「奇商クラブ」6編に、独立した短編「背信の塔」と中編「驕りの樹」が併収された形となっている。なぜかしらないが、買ってすぐ短編はすべて読んだものの、中編は手つかずのままとっておいたのだ。しかし、大好きなチェスタトンの作品集を全部読み終えてしまうと、もうあとがない、と感じていたのかもしれない。その頃は、創元推理文庫と早川書房しか、海外推理小説の出版がなかったのだ。

今回はじめて、全体を読み通して見た。いうまでもなく、とても面白い。この奇商クラブは、チェスタトンの探偵小説作家としてのキャリアの、かなり初期に位置づけられる短編集だ。いや、通常の意味では探偵小説とさえいえまい。犯罪事件が起きて、探偵が捜査するという形ではないのだから。この短編集は、裁判中に発狂して引退した元判事が、友人である語り手とともに、彼らの遭遇する奇妙な出来事の真相を突き止めるという形式になっている。そして、その真相は、毎回、いろいろな奇妙なビジネスが引き起こしていたものだった、と分かるのである。

探偵小説の連作短編は、その形式に一定の枠組みがはめられている点に特徴がある。私立探偵の元に依頼人が事件を持ち込み、それが解決される、というシャーロック・ホームズの形式は、ドイルの最大の発明品だろう。この形式で、どれだけの小説が書かれたことか。チェスタトンはしかし、この形式は決して用いずに、かわりに自分の独創による別の枠組みを用いた。奇商クラブはそのひとつである。

“現代文明につきあいきれずに狂気を発した”登場人物をしばしば使うのも、チェスタトンの得意技だ。これは中期の傑作短編集「詩人と狂人たち」にも通じている。狂気を発したというよりも、社会は彼を狂人として扱わざるを得なくなった、というのが正しい。本来、ゆがんでいたのは、利潤と科学のみを追究した社会(20世紀初頭のヴィクトリア朝英国社会)の方である。中編「驕りの樹」は、その歪みを、ガラス絵のように濃い色彩の上に描き出していてまことに見事である。



★★★ 見えないものと見えるもの 石川准
2007/04/01

医学書院「ケアをひらく」シリーズの一冊である本書は、『社交とアシストの障害学』というサブタイトルをもつ。著者は気鋭の社会学者で、私の旧知の友人でもある。全盲でありながら、彼はこの浩瀚な書物をわずか2ヶ月で書き上げた、とあとがきにある。

私はこの本で、「感情労働」という概念をはじめて知った。感情は人間という生物に生まれつき組み込まれたセンサーであるが、自由にオンにしたりオフにしたりできる装置ではない。そこで適切に感じるように(適切さの範囲は社会が「感情規則」というルールとして暗黙に定めている)、自分をコントロールする必要が出てくる。これを感情管理というらしいが、職務として求められる感情管理を、『感情労働』と呼ぶのである。

19世紀の工場労働者が肉体を酷使されたように、感情が商品となることが定着した今日、ある種の労働者たちは感情を酷使されている。その代表例は接客業や役者である。しかし、著者が本書で主題とするのはナース(看護師)たちである。なぜなら看護師たちは、専門職の労働者でありながら、同時に過酷な感情労働を裏側で要求されるからだ。

高度な感情管理を要求する社会では、本物の感情が希少価値をおびてくる。その行き着く果てでおこる感情労働の破綻は、人間を暴力的にさえする。そこでアシストと社交、さらに感情公共性と脱社交という概念をもちい、「高度に文明化された社会」、あるいは配慮の平等な社会、という青写真を提出して、本書はむすびとなる。

本書に述べられているのは、損得と目的合理性で人間を規定した非協力ゲーム理論の、いわば対極にあるもの、すなわち感情を持つ存在としての人間社会のあり方である。今日の経済社会にあって、障碍者をふくむ誰もが自由につつがなく暮らせる条件を模索する、読みやすいが極めて野心的な著作だといえるだろう。



★★★ ゲーム理論をよみとく 竹田茂夫
2007/03/14
本書の冒頭に、ゲーム理論がみちびく『戦略的思考』の象徴的なエピソードがのっている。それは米国のある女性政治学者が、某大学の「防衛技術センター」に研修にいき、研究セミナーやディスカッションに参加する話だ。そこに集う専門家(防衛知識人)たちは、ほぼ全員が白人男性で、知的で上品でユーモアのある魅力的な人々である。しかし、彼女はそこで使われる専門用語に違和感をもちはじめる。“第一打”(ミサイルによる奇襲攻撃)、“対抗力”(報復能力)、“クリーンな爆弾”(放射能をまき散らさない核爆弾)、“外科的にクリーンな打撃”(正確無比な爆撃)、“付随的ダメージ”(軍事目標の爆撃で「付随的に」人命が失われる)・・。

このクリーンな言語世界は、抽象理論を使いこなせるという感覚と、自分らは核兵器の犠牲者ではなく使用者であるという立場に支えられていると、著者はいう。本書のスタンスを明瞭に示す書き出しだ。理論経済学者である著者は、フォン・ノイマンが生みナッシュが成長させたゲーム理論、経済学をはじめ政治学・法学・生物学などに大きな影響を及ぼしているゲーム理論について、その特徴を正確に解説しつつも、根本から批判を行なおうとする。

ゲーム理論の枠組みとは、人間は、損得勘定(利得表)にもとづく合理的推論と操作によって行動する(はずだ)というものである。著者はこれを、有名な「囚人のジレンマ」にかりて『計算する独房の理性』と名付けている。初期のゲーム理論は冷戦の戦略研究の時代に、米軍のシンクタンクであったランド・コーポレーションで育てられた(ちなみに、プロジェクト管理のPERT手法も、ジョンソンのスケジューリング理論も、ランド・コーポレーションで生まれた。また近年ではラムズフェルドやウォルフォウィッツらもここの出身者だ)。

その後、ナッシュによる均衡理論が、ゲーム理論の数学的パワーを一挙に拡大する。90年代にはいると、さらにゲーム理論は生物学(進化論やネオ・ダーウィニストの集団遺伝学)に影響を与える。複製と増殖が、利得表の「目的」並びに「ゲームのルール」になるのだ。

さて、著者の加えるゲーム理論への批判は、3点だ。まず、「共通知識」(相手のプレーヤーも状況を共有している)の前提が、じつは無限の手続きを必要とするパラドックス。つぎに、損得に還元できない「非目的」的な行為(ことば・遊びなど)の存在。そして、理論から見れば手段にすぎない「暴力」の自己増殖(合目的性からの逸脱)を、ゲーム理論はいずれも説明できないという。イラク戦争などは典型的にゲーム理論が生み出し、そしてゲーム理論とともに行き詰まっている現象だ。

学問的立場からは、むろんいろいろな議論があり得るだろう。しかし本書は、今日のゲーム理論家たちの生々しい肖像画として、大きな価値がある。多くの生身の人々がいきる世界を、計算と操作の対象としてしか見ない、「戦略的知性」の醜悪な実像。何よりもそれこそ、ゲーム理論への最大の批判であると私は感じる。



 ★★ マネジメント改革の工程表 岸良裕司
2007/06/22

機知に溢れた、楽しい本である。正直言うと私は、(この気まぐれ書評を見てもらえれば分かるとおり)あまりビジネス書のたぐいを読まない。理由の一つは、書評には最初から最後まで全部読み終えた本だけを取り上げることにしているからだ。ビジネス書はしばしば、必要な箇所だけを参照するために買うので、全部を読み通すことがあまりない。さらにもう一つ、たいがいのビジネス書のスタイルが、肌に合わないこともある。理論の説明中心で教科書的になるか、あるいは雑誌記事的な事例と感想の羅列だけで、通るべき芯が通っていないか、どちらかのケースが多い。そしてユーモアが足りない。

さいわいこの本には、軽快なウィットがあふれている。これは著者の資質のあらわれなのだろう。著者の岸良氏夫妻には、昨年秋のシドニーのプロジェクト・マネジメント国際学会ProMAC 2006の席上でお会いしたこともある。察するに岸良氏は、理論家や伝道師というより、優れたファシリテーターなのではないか、という気がする。

そのセンスは、本書の装丁や用語などによく現れている。表紙には著者の言う「サバよみ虫」や「かねくい虫」など“会社の害虫”のイラストが描かれている。サバよみ虫とは、5日でできる仕事でも『10日かかります』とサバを読んで膨らませて答える奴らのことだそうだ(別に彼らは悪気ではなく、責任感が強すぎるためこう答えるのだ)。だから文中の『会社の害虫図鑑』によると、サバよみ虫は「人の責任感を栄養源にして急速に成長する。個別最適の組織と組織の隙間などに好んで生息する」と書かれている。

害虫には他にも、「くれない虫」(=外部への不満が強い)「べき虫」(=理想論だけ言う)「パーキンソン虫」(入った予算は全部使ってしまう)などがいるという。だがイラストを見ると愛嬌のある可愛い虫たちで、妙に憎めない。このイラストはすべて、まゆこ夫人の手によるもので、そのセンスだけで本書の魅力を2割以上アップしている。

本書のテーマは、クリティカル・チェーンを中心にした、プロジェクトの進め方である。クリティカル・チェーン・プロジェクトマネジメント(CCPM)とは、TOC(制約理論)の創始者で『ザ・ゴール』の著者ゴールドラット博士の提案した手法だ。プロジェクト・スケジューリング理論は、1950年代のおしまいに米国ランド・コーポレーションとデュポン社でPERT/CPMが開発されて以来、ほとんど半世紀の間、進展らしい進展がなかった。その停滞を破った画期的理論がCCPMである。

しかし本書は、いきなり正面からCCPM技法を解説するようなことはしない。むしろ著者の目から見た、日本の会社のマネジメント改革に蔓延している問題点を明確にするところからはじめる。その問題点とは何か。それは管理の未熟や不足ではない。管理過剰なのだ。

会社に問題が生じる、とする(どんな会社にも問題は必ずある)。改革プロジェクトがたちあがる。しかし他の仕事は減らないので、いきおい余裕がなくなる。目標も見えにくい。結局プロジェクトはずるずると遅れてしまう。すると経営幹部の支援も得られなくなる。こうして一つがこけると、他に悪影響が波及してくる。いきおい、目標管理や数値管理をもっと徹底しろ、ということになる。するとさらに報告作業が増える。そしてもっと余裕がなくなり、他のプロジェクトも軒並み遅れて・・・

では、その解決法だが、著者はここでクリティカル・チェーンを導入すると、すべて見事さっぱり解決する、という。そしてCCPMの中核である納期短縮とバッファ・マネジメントの話に進んでいく。しかし、ここはちょっと飛躍がありすぎるように感じた。

むしろ、その後の章に書かれている、「ODSCで目標を共有する」の方が、私にはオリジナリティが溢れていると思う。ODSCとは、Objectives(目的)・Deliverables(成果物)・Success Criteria(成功基準)の略だ。これを、全員参加のミーティングで最初につくっていく。さらに、このODSCからさかのぼってタスクを洗い出し、工程表を一緒に作成していくのである(ただしCCPMには階層的WBSという考え方はない)。

プロジェクト計画時に、目的/成果物を定義し、タスク・リストと工程表を作成すること自体は、PMBOK Guideにも書かれている、ごく当たり前の作業である。ポイントは、皆の参画意識を引き出す、そのやり方にある。著者にファシリテーターとして優秀な資質がありそうだと思うのはここの点だ。この章だけでも本書は読む価値がある。

ところで、エンジニアリング会社ではCCPMを使わないのかと、ProMAC 2006の会場でも私は聞かれた。CCPMは優れた手法で、私もときどき利用している。しかし、オフィシャルな答えはNOだ。その理由は、CCPMにはコスト管理の視点が全く欠けているからである。エンジ会社の受注するプロジェクトは、納期と予算とスコープにしばられている。そこでつねに直面するのは、コストとスケジュールの間の見合い判断である。機器を日本のメーカーA社から買えば納期は確実だが高い。東欧のB社から買えば安いが納期に不安が大きい。このときどちらを取るべきか? こうした問いに、CCPMは直接答えてくれない。

むしろクリティカル・チェーンの手法は、コストのほとんどの部分が社内人件費であるような種類のプロジェクト、すなわち社内改革プロジェクトに向いていると思う。これならば「納期」イコール「コスト」であるから、トレードオフ問題に悩まずにすむ。そう言う意味でも、タイトルにあるとおり、この本は「マネジメント改革」に直面している人におすすめである。



 ★★ 二十世紀〈上〉 橋本治
2007/03/06

橋本治は国文科出身の作家で、詩歌や古文の鑑賞を書かせたら当代一の才能だ。小説だって、まあまあ面白い。しかし、最近はなぜかエッセイストないし社会批評家としての仕事が主になっているようだ。事実、彼のように歴史や文明社会を客観的なパースペクティブから把握理解できる人間は、いわゆる文学者の中では稀少だろう。

この「二十世紀」という本など、その彼の特色が良く出ている。ちょうど21世紀になってすぐに出版された本書は、編年体で1901年から2000年まで(上巻は1945年まで)を数頁ずつ概観して解説する、不思議な本だ。不思議というのは、どんな読者層を想定しているのか、ちょっと見当がつかないからだ。しいて言えば、知的でリベラルな立場から20世紀の文明社会の歪みを直視したいと考える大衆だろうが、そんな人たちは今のこの国にどれだけいるのだ? みんな、20世紀についても現代社会についても、知ったつもりでいるのに。史実から自分なりに好きなところをつまみ食いして、分かったつもりになっているのに。

彼は例えば、20世紀の最初の年になくなった英国ヴィクトリア女王の孫は、一人は英国国王、もう一人はドイツ皇帝、もう一人はロシア皇后だった、という事実からはじめる。第一次大戦とは、そういう状況でおこったナショナリズム型戦争だった。そして、敗戦国ドイツの賠償金の始末のために、アメリカがドイツに金貸しをする。そのアメリカで大恐慌がおこって、すべてがガタガタになっていく。一方日本は、宣戦布告をしないまま中国と聖戦(侵略戦争)をはじめて、すぐケリが付くはずが1年もたたぬ内に余力が無くなり、「総動員」の事態になる・・。これが20世紀前半までの筋書きである。

「人間というものは、豊かさの中で破滅への準備をするものらしい。豊かさの中で、それを失うまいとして、足をすべらせて破綻へと至る」と、彼は書く。こうした認識の中で、彼は非常に不思議だった20世紀という場所の、立体的な肖像を描こうとするのである。



 ★★ 進化しすぎた脳 (ブル-バックス) 池谷裕二
2007/02/24

たいへん面白い本だ。かつ、これは“若い人が書いた本だなあ”という感想をとどめることができない。全体を通してみなぎる、自分は科学的真理の発見に重大にかかわっているという生の感覚、そして過剰なる自意識。初版が出たときは30代の半ばだったはずだが、この年代はまだ若いのだな、と思う。東大を出た俊英の脳研究者が、米国の慶應義塾ニューヨーク高校で講義した内容をまとめた本が、若さと自信をみなぎらせなかったら、たしかに不思議というものだ。

この本の中で一番面白いのは、第3章の神経細胞の微細構造とナトリウム・チャネルの説明のあたりだ。これは著者の専門領域なのだから当然だが、絵を含めてとても分かりやすく書かれている。また、脳が事象を一般化する「汎化」をわざとゆっくりと、あいまいに蓄えていくというのも、面白い見方だ。

しかし、この本全体を通して、池谷氏の思想あるいは中心仮説が何なのかは、あまり見えてこない。脳は非再現性(エルゴード的)な対象だ、ということはわかる。脳は複雑系だ、というのもまあ(言いかえにすぎないが)分からないでもない。知的な刺激に満ちた発見やエピソードがたくさん出てくる、楽しい本。しかしこの著者がどこに向かって進んでいこうとするのかは、読み終わっても見えないのだ。



★★★ ベニスの商人 W・シェイクスピア
2007/02/20

シェイクスピアという台本作家は、自分で一から話を創作するよりも、世の中にすでにある話の材料を組み合わせて、それに自分なりの味付けをするのが好きらしい。音楽に喩えるなら、メロディメーカーというよりも上手な編曲者と呼ぶべき芸術家なのだろう(その点、ちょっとだけバッハに似ている)。

ヴェニスの商人は彼の最も有名な喜劇だが、これもいろいろと下敷きになる話があるらしい。有名な裁判のシーンもそうだし、ポーシャの婿選びも、指輪をめぐる鞘当てのエピソードもそうだ。ある意味でこの戯曲は、そうした異なる話をパッチワークのようにつなぎ合わせてできている。それでもこの作品の人気が高いのは、いうまでもなくキャラクター設定の魅力にあり、それは何よりもすぐれた悪役、ユダヤ人高利貸しのシャイロックにあるだろう。この台本を読んで、シャイロック役をやりたいと思わない役者は少ないにちがいない。またポーシャにしても、「待て、シャイロック。当法廷は、まだお前に用がある。」という痛快な名ゼリフを、女優だったら一度は舞台で言ってみたいだろう。

歴史的な観点からみて、ヴェネツィアという地中海都市が東方貿易と国際金融ネットワークで栄えた商人の街であることは事実だし、そこでユダヤ人が規制と差別的扱いを受けながら一定の役割を果していたことも知られている(それをシェイクスピアがビビッドに知っていたかどうかは別問題だが)。そうした、様々な場所と民族と産業の結節点がこの話の舞台になっている。だからこのストーリーは、現代においても非常に面白く読めるのであろう。



 ★★ 赤髭王の呪い ポール・アルテ
2007/01/24

ふと「久しぶりに探偵小説でも読もうか」書店で手にとった本だったが、とても面白かった。作者ポール・アルテの名前も知らなかったのだが、近年注目を浴びている本格派ミステリ作家だと後で知った。

じつは中学生の頃、ディクスン・カーの探偵小説が大好きだった。密室ものを中心とした不可能犯罪と怪奇趣味と、奇妙なファルスの味が面白かったのだ。当時、創元推理文庫もハヤカワミステリも有名作品はほとんど品切れ絶版だったが、それでも古本屋を探して読んだりした。カーにはどうも、マニアうけする特徴があるらしい。それは昭和時代の日本だけではないらしい。アルテの出世作を読むと、この人もやはり少年時代、カーの大ファンだったようだ(じじつ、彼は私とほぼ同年代の生まれだ)。

それにしても、アルザスの作家の小説を真面目に読むのは初めてだった。そして、このアルザス=ロレーヌ作家協会賞を受賞した中編「赤髭公の呪い」には、アルザスという国ないし地方の悲劇的な歴史がひどく詰まっている。ドイツ文化圏でありながら、フランスという国民国家に属し、かつ19世紀から両大戦まで、二つの大国の分捕り合戦の場となったアルザス人の、複雑なアイデンティティ。その悲劇性が、妙に懐古的な舞台装置の上に、いかにもヨーロッパ的な陰鬱さとなって漂っている。トリッキーな本格探偵小説の知的ゲーム性の中に、そうした暗い表情がまじるところに、アルテの特色があるのだろう。



★★★ サル学の現在(下) 立花隆
2007/01/17

上巻はニホンザルからはじまっていろいろな種の研究紹介が続いたが、下巻は霊長類研究の横断的なトピックを中心に、子殺しとカニバリズムの社会学、化石による進化研究、分子生物学による進化研究、そして社会進化などがとりあげられている。

日本のサル学は今西錦司らがはじめたために、この本も半分以上は『今西学派の肖像』みたいな部分がある。上巻の最初がその泰斗・今西のインタビューにはじまったのはその象徴だが、下巻の最後はその後継者・伊谷純一郎でしめくくられる(余談だが、昔、私が米国で知り合った若い文化人類学者に今西学派のことについてたずねたら、伊谷純一郎がその中で一番すぐれていると答えたことを思い出した)。

今西は社会を作る共同生活者をスペシア(種社会)の上位概念として提案したが、伊谷は膨大なフィールドワークを通して、霊長類の社会進化を不平等原則と複雑化によって洞察しようとする。その中で、行動の類別概念(つまり動詞)の分類から「許す」「許さぬ」の文脈で整理される行動の総体が、社会構造をつくっていくという卓見にたどりつく。伊谷はある意味で体系思考の人だといえるだろう(今西はむしろ直感的思想家だ)。

今西たちが高崎山のニホンザル集団の餌付けと個体識別ではじめた方法論は、世界の霊長類学をリードしていった。しかし、彼らが初期に出した「ボスザルによるリーダーシップの社会」というテーゼは、その後のさまざまな研究によって根底から覆されていく。この社会観は、おかしなことに家父長的な今西錦司を中心とする京都学派のあり方に、よく似ていた。彼らは無意識のうちに、自己イメージをサル社会という鏡に投影していたとしか思えない。

だが、現実のニホンザル社会では、ボスが群れを捨てて出ていくことがしだいに分かってきた。そして、この発見と前後して、今西自身も霊長類学を見捨てて出ていってしまうのだ。「サルなんかいくら研究しても人間社会の起源はわからん。」と今西は言う。立花隆のこの本は、まことに不思議な暗合を含んだ、人間集団の研究の肖像なのである。



2006年



★★★ 女の子の大好きなお弁当 藤野嘉子
2006/12/29

私は料理本を読むのが大好きだ。著者の藤野嘉子という人は、昔NHKの子ども向け料理番組「ひとりでできるもん!」のスタッフの一人だった人だ。毎回、簡単ながらツボをおさえたレシピで、感心した記憶がある。その人の本を見つけて、年柄も性別もわきまえず、つい買ってしまった。

そして内容は、期待にたがわぬ出来映えである。単純で、センスがいい。お弁当は朝の忙しいさなかに作らなくてはならない。美味しそうで、お昼が楽しくなるような食事にしたい。しかも栄養のバランスも必要だ。この難題を、どうバランスしてつくるか。これぞまさにデザインとエンジニアリングの極致ではないか(って、関係ないかもしれんが・・)。

写真も、とても美しい。良い料理本は、やはり腕の良い写真家が本の価値の半分を決めると思う。のんびりとくつろいで、1頁ずつめくって眺めるのがとても楽しい本である。



 ★★ ゲド戦記2 こわれた腕輪 アーシュラ・K・ル=グィン
2006/12/16

ル=グィンはさすが女性を描くのがうまい。それも、大人の女の不気味さ・意地悪さ・冷酷さを、優しさや、はかなさと対比させてみごとに描写する。

この第2巻では、物語の初めから後半かなりの部分まで、ほとんど男らしい男が出てこない。神殿を守る巫女集団の中で育てられる少女の、ビルドゥングス・ロマンみたいになっている。序破急の急の段になってようやく、シリーズの主人公ゲドがあらわれる訳である。しかし、だからといって、二人の間にロマンスが生まれるとか、そんな安易な結末にはもっていかない。作者にとって、物語の奥はまだ深いのだ。分析心理学風に言えば、第1巻で自分の影と戦い、第2巻では神殿に閉じこめられていたアニマ(女性像)を救い出す。その先、いかなる統合と個性化への道が待っているのだろうか。



★★★ インド夜想曲 アントニオ・タブッキ
2006/12/09

まことに不思議な、幻想的な小説だ。といっても、べつに妖精や魔法がでてくる訳ではない。主人公の「わたし」が、失踪した友人の手がかりをたずねて、インドをあちこち旅するという、それだけの物語である。出てくる街やホテルや病院などもすべて実在の場所だ。

にもかかわらず、小説全体が、どことなくヴェールを透かしてみる風景のように、非現実的なリアリティを持ち合わせている。ここが小説家タブッキの力量なのだろう。主人公の旅路につれて、読者はしだいに、自分の心の中の迷宮を奥へ奥へとたどっていくような、奇妙な感覚にとらえられる。そして、重要な場面はすべて、夜である。登場人物たちはみな、舞台袖の闇からライトの中にあらわれて、また闇の中に消えていく役者のようだ。きわめて手応えのある、不思議な読後感を残して、物語自体も去っていく。これこそ小説というものだろう。



★★★ サル学の現在(上) 立花隆
2006/12/13

これほど面白い本を読むのは久しぶりだ。いかにも立花隆らしい、彼の良い面があらわれた仕事である。'90年代の本だから、その後もいろいろと学問的には進展があったはずだが、今読んでも新鮮で刺激に満ちている。

彼がこの本の仕事を始めたとき、「なぜサル学なんてのに興味を持つんですか?」とたびたびたずねられ、そのたびに「なぜあなたはサル学に興味がないんですか」と聞き返したという。まさにそうだ! およそ人間に興味を持つものなら、霊長類学に興味を持たないでどうするのだ。

それはなにより、最初の今西錦司との対話にあらわれている。この本の完成を急いだのは、もうかなり高齢だった今西との対談を実現させたいとの願望のためらしい。その期待にたがわず、今西のしゃべりは、素晴らしい。彼は昆虫の分類学者としてスタートしたが、その研究対象はカゲロウだった。これを見ても、彼が何とロマンチストなのかよくわかる。

今西は昆虫のような「単独生活者」と、鳥・ケモノのような「群れ生活者」の区別を出して、それをスペシア(種社会)よりも上位におく。群れ社会の成立は、言語の成立などと同じく、いきなり全体として出来上がったはずだと考える(そうでないと役にたたないからだ)。まさに自然科学を捨てて自然学を提唱した、今西錦司ならではの構想だろう。ただし、残念ながら立花にはこの独創性は分からなかったらしい。ガイア仮説だのホーリズムだのの単語を出してへごもごするだけで、ここが彼の知的限界だろう。

まあそれはおくとしても、ニホンザルの社会調査からはじまって、チンパンジー社会構造、その言語能力や脳の研究は面白いし、ゴリラの文節をもつ言葉や歌(ヨーロッパの民謡に似ている)、多層構造の社会をもつゲラダヒヒなどなど、どの研究も実に興味が尽きない。いずれも困難なフィールドワークの結実だが、それをささえている研究者たちの真摯な知的探求心にこちらも打たれるのである。何かというとすぐセックスの話を聞きたがる立花隆の興味の方向には鼻白むけれどもね。



  ★ マネジメントのための質問力 飯久保廣嗣
2006/12/07

最初の方はけっこう調子よく読めて、面白いのだ。とくに、ダメな上司のしがちな質問として「××はうまくできそうかね?」といった例をあげ、どこが問題かを示すところはいい。『EM法』による思考術だってわるくない。しかし、後半になるとどうもつまらない。架空の問答例の批評が続くだけで、具体的にどうすべきか、いまひとつ体系的に理解できない。この著者が国際ビジネスに通じている(つもり)なのは分かったが、そんなことを知りたくてこの本を読んでいるのではない。それに国際といったって米英だけではないか。

じつはこの本は、(欧米風)論理的思考術の本であって、質問術の本ではないのだろう。顧客との問答で、具体的にどういう質問のたてかたをしたらいいのか悩んでいる人(とくに販売や要求分析や設計にたずさわる人間)に、答えを与えてくれる本ではないらしい。そういう期待をこめて読み始めると、落胆するはずだ。



★★★ エレガントな宇宙 ブライアン・グリーン
2006/12/06

アメリカ物理学会きっての「超ひも理論」の若き俊秀B・グリーンによる、読み応えのある解説書。こうした素人向けの、しかし決して妙にレベルを落としたり読者に迎合したりしない科学書が数多く出版されることは、かのアメリカ社会の知的底力を示すものだと思う。大手出版社の看板雑誌にもめったに科学記事が載らないわが日本とは、残念ながら大違いだ。文系と理系が断絶している哲学的後進国をいつになったら脱出できるのかとさえ思ってしまう。

グリーンの文章は機知に富んでいて、かつわかりやすく面白い。とくに、一般相対性理論における重力と加速度の等価原理にたいする説明(メリーゴーラウンドの遠心力を、円周が直径のπ倍よりもわずかに大きくなることから空間の歪みとして説明する)など、私がこれまで読んだ中で一番みごとだ。それに、宇宙が現在のような多様な姿をしている理由が、核力と電磁気力の比から生じること(ただ、その比がなぜその値なのかをこれまでの物理学は説明できなかった)、ブラックホールが内部構造も個性もたないために表面だけで性質を語れること、などなど、蒙を拓かれる点が盛りだくさんだ。

しかし、超ひも理論それ自体について、素人なりにコメントさせてもらうなら、これは科学と言うよりも、数学的言語で書かれたスコラ神学に近いという気がする。なぜなら、仮定と数学的演繹ばかりがならんでいて、事実による検証や反省が一切無いからだ。そういう意味では、超ひも理論は新古典派経済学や理論生態学などとならんで、頭の良い人たちが集まって作り上げた空理空論の世界だということができるだろう。私は空理空論自体がわるいと言うつもりはない(中世スコラ神学だって私は評価している)。だが、それが空理であることを忘れた瞬間から、学問としての危機がはじまるのだということを肝に銘じるべきだろう。



★★★ 竜馬がゆく(3) 司馬遼太郎
2006/11/15

3年ぶりに第3巻を手にした。しかし、これが存外面白く、一気に読み通してしまった。とくに生麦事件のあと、竜馬が勝海舟に出会って海軍と開国に目覚めるあたりから、ぐんぐんと話がスピードにのってくる。これは実際、史実の展開が急加速したことにもよるのだろう。そこが社会変転時の歴史というものの面白さかもしれない。



★★★ 脳が言葉を取り戻すとき 佐野洋子・加藤正弘
2006/10/28

2006年後半に読んだ中でもっとも面白かった本だ。著者の佐野洋子氏(おそらく大半の部分はこの人が書いたと思われる)は長年、言語治療の臨床にかかわってきた人で、多くの事例から、失語症という状況のリアルな困難さがつたわってくる。なによりも、この本の素晴らしいところは、治療と快復にむけた強いメッセージがある点で、それは第三部「失語症者とともに生きる」にあらわれている。

それにしても、図らずも脳の障害によって失語症に陥ってしまった人々の事例からうかがえるのは、脳と言語の複雑精緻な関係だ。たとえば、一般に失語症者にとっては、かな文字よりも漢字の方が理解しやすいという。これは、学習の順序から考えるとじつに意外だ。だれでも幼少の古い記憶の方が残りやすいと考えられるからだ。また、語性錯誤という現象がある。語が指し示す「イメージ」から、逆に脳内辞書をアクセスしたとき、近隣のページにアクセスしてしまう症状で、「とうもろこし」と言おうとして「白菜」と言ってしまったりする。

文法障害についても、チョムスキー流統語論ではうまく説明がついていない。そもそも、言語機能の大脳皮質上の局在には、かなり個人差やばらつきがあることが失語症研究からわかってきたのだ。とくに感覚性失語症とよばれるタイプは、運動性失語症などと異なり、自分からは流暢にしゃべれるのに、言葉の意味理解の障害が重いため他人の話の内容がわからず、コミュニケーションが困難である。ことに文章のつながった全体理解がむずかしい。

著者は、失語症になってしまった人の社会復帰のために、コミュニティ全体が配慮と努力をおこたるべきではない、というテーゼを一貫して主張いる。だからこの本の価値は、とくに最後の「言語のバリアフリー社会を目指して」に現れている。言語と脳の問題を考えるすべての人におすすめできる良書である。



 ★★ ピープルウェア トム・デマルコ
2006/10/26

デマルコは構造化分析で有名な、ソフトウェア工学者である。その彼が80年代に書いて、その後また増補改訂したものの翻訳が本書だ。アメリカのこの種の本がそうであるように、知的で、ウィットがあって、しかも見失われがちな本質を痛打してくれる、楽しい本である。

彼が繰返し指摘するのは、ソフトウェアのデザインは精神的な集中を必要とする創造的行為であって、そのためには、それに十分な環境がなければならない、ということだ。それなのに、現代の企業はみかけだけ整頓された近代的ビルのフロアをキュービクルで仕切って、まるでブロイラーのようにエンジニアたちを遇している。巨大で耳障りなベルの音を立てて勝手に割り込んでくる電話というものを、はっきりと暴力だと指摘しているのも彼らしい。ソフトウェアをつくる工数を「500時間」などと測るのは適切ではない。正しくは「連続して思考に集中できる500時間」と測るべきだ、という主張は私も全く賛成だ。

本の厚さの割りにちょっとだけ内容に足りなさを覚えるのは、もっさりした翻訳のせいもあるのだろうか。米国の会社の例の間に、急に訳者たちの勤務先名がでてきたりするのも、ちょっとだけ違和感を感じたが。



★★★ さあ、気ちがいになりなさい フレドリック・ブラウン著、星新一訳
2006/10/21

ほぼ同世代のマンガ家・坂田靖子が巻末の解説に書いているとおり、早川書房の異色作家短編集シリーズから1962年に発刊された本書は、ほとんど手に入れがたい幻の傑作だった。収録されている作品のほとんどは、他にも翻訳で読むことができたが、まだ新進作家の頃の星新一の翻訳となると、どんな風になっているのか。50年代随一のアメリカの奇才と、日本のハードボイルドの名手(そんなことは誰も言わないが、星新一ほどクールで感情を排した描写をかける作家はいなかった)との切り結び。興味津々ではないか。

1ダースの短編が収録されていて、どれも面白いが、私が個人的に好きなのは「みどりの星へ」「電獣ヴァヴェリ」「シリウス・ゼロ」あたりである。ここにはアメリカ的なウィットと、ヒューマンな暖かさがブラウン独特の味をうまく引き立てている。電獣ヴァヴェリにみる、電気をすべて失った人類が帰っていく故郷のような懐かしい生活世界こそ、この作家の原点にある感情だろう。そして、表題作「さあ、気ちがいになりなさい」。これをみて読みたいと思わない人は、たぶんトリッキーなSF短編小説には縁のない人なのだ。もし、あなたが縁ある人ならば、書店に走っていって買いなさい。ブラウンも星新一も、もっと再評価されてしかるべき人なのだから。



 ★★ 免疫学宣言 安保徹・福田稔
2006/10/16

タイトルは大げさだが、中身はたいしたことのない対談である。免疫学者で『自律神経免疫治療』の提唱者である安保徹・新潟大教授と、その実践者である福田稔医師との、協力の経緯を回顧した会話を収録している。

気圧が高くて快晴の日は、なぜか重症の虫垂炎が発生する。この傾向を福田医師が発見し、安保教授が“気圧が低いとリンパ球が増え、高気圧になると顆粒球が増える”という関係性を見いだす。これを、交感神経の緊張をとおして活性酸素と炎症発生につなげて説明したところから、この二人の理論ははじまる。面白いことに、そのあとで安保教授は、リンパ球上のアセチルコリン受容体を発見する。自律神経系と、神経伝達物質と、免疫系との相互作用システムを実証できたわけである。

しかし、リンパ球と顆粒球のバランスだけで多くの病気を説明する段になると、それってどれだけ疫学的な数値をつみ上げて実証しているんですか? といいたくなる。自己免疫疾患は免疫抑制の極限でおこる、という主張も非常に面白いとは思う。現代医学が、患者の免疫系を抑制する方向にばかり動くというのも、そうにちがいないという気がする。しかし、それではどう治療すべきか、という指針がこの本にはない。だから、刺激的ではあるが言いっぱなしの放談を読まされたような読後感になってしまうのである。



★★★ 桜の園・三人姉妹 チエーホフ
2006/10/14

これほどの古典的な傑作に、今さら何を言うべきことがあるか。これまで読まなかった不明を恥じるか、あるいは、これまで知らずに今初めて読める幸運を祝うべきか。

チェーホフの劇は登場人物が多い。読み慣れぬロシア名前に、この人は男だったか女だったかな、などと迷いつつ読みすすめることになる。その7割以上が俗物で、さまざまな弱点をもつ人間たちだ。彼らが会話で織りなす模様の中から、舞台の外でおこった出来事を観客は想像で知ることになる。まことに、チェーホフの劇では、重要な“劇的な”出来事は、舞台の外で起きてしまって、登場人物たちは(観客も)直接体験することができない。そこが、なぜか、どこか遠いところで流れる運命によって翻弄されるという、奇妙な感覚をもたらす。甘いお茶で少しだけ薄められたような悲劇の塩味。

「三人姉妹」の三幕の中に流れていく時間の酷薄さには、ひどく心を打たれるが、それにしても「桜の園」を“喜劇”と名付ける最晩年の作者の心境には、絶句するばかりだ。この、ある意味で美しい、しかし救いのない話の底に、どこか流れるかすかな希望。夜明け前のほんのかすかな薄明のように、冷え切ってなお透明な人間性の真実に、読者は粛然と本を閉じるしかないのだ。



★★★ 自閉症 村瀬学
3006/10/06

長らく心身障害児の施設職員として働いた著者(現在は同志社女子大教授)による、実地体験に裏付けされた自閉症異論。「これまでの見解に異議あり!」という副題の付けられた本書は、順序・配列・記憶の仕組みという人間の認知の根元論にたちかえって、いわゆる自閉症の典型的症状を考えなおす。そしてカレンダーや地図などの覚え方、鉄道の旅路と記憶などを通じて「並んでいるものの関数」という理解の鍵にたどり着く。『序数』というものの発見が、人類の最も大きな知恵の一つであった、と著者は考えるのだが、このような視点から自閉症問題にアプローチした本が今だかつてあっただろうか?

それにしてもこの本は、具体性に満ちていて、とても面白い。なかでも、小学5年生との驚くべき「電車の旅」のエピソード(Kちゃんという自閉症児は駅順も運賃計算もすべてそらんじているのだ!)、映画「レインマン」のエピソード、そして山下清の放浪癖(じつは放浪ではなく正確に意図した巡回だったと著者は推理している)など、じつに興味深い。

そして、いわゆる旧来の「自閉症」観を生み出した精神医療のあり方を問い直し、自閉症概念自体の再考を即している。この本の底に流れているのは、「おくれ」をもつ人々への強い共感と愛情の念であり、それが分析にバランスと奥行きを与えている。思考と認知と教育に関心を持つすべての人に薦めたい良書だ。



 ★★ 村上朝日堂 はいほー! 村上春樹
2006/09/08

ま、いつもどおりの、スナック菓子のように軽くて気ままにつまみ食いできるエッセイ集。30台の半ばにかかれた雑誌連載の短い随筆で、まだこの人にも軽快なウィットがたっぷり残っていた時代の本である。だから結構笑える話が、たまにはさまっている。とはいえ、順に読んでいくと、やはり男性がしだいに若い人から中年になっていくのがわかるような気がして、ちょっとさびしい。

この人の話の中で、やはり面白いのは料理の話と外国語の話と音楽の話だ。それだけ集めたアンソロジーを、だれか作ってくれませんか。



 ★★ ゲド戦記1 影との戦い アーシュラ・K・ル=グィン
2006/09/01

ほんの2,3頁読んだだけで、ル=グィンは文章のうまい人だな、他の青少年向け冒険ファンタジーとはまったくちがう、と感じる。ストーリーとしても興味深いが、なにより小説の味わいがする。

そして、話のテーマも、ほとんどユング心理学の神話か原型のようだ。まさに、『影との戦い』なのである。世界は光と闇、生と死、表と裏側があって、互いに他を抜きにしては存在し得ず、両者が統一されるところに運命の意義がある。そんな風なことを感じさせる物語だ。

それにしても、さすがル=グィンは女性のキャラクターを描かせるとうまい。単純な女性は誰一人としてでてこないのだが、いずれも長い陰影を残す人物になっている。みごとな小説である。



 ★★ 脳はなぜ「心」を作ったか 前野隆司
2006/07/10

ロボット工学者による、「心」と、その中核にある「自意識のクオリア」の探求の書。心というものを、脳がつくりだしたものと前提した上で、知・情・意・記憶・意識・無意識の6要素からなる、と著者はとらえる。脳の働きについては、多数の小さな独立モジュールが動くモジュール仮説を採用する。

ところで、カリフォルニア大学で行なわれたリベット博士の有名な実験がある。自由意思で指を動かそうとした被験者の脳に、運動準備電位が生じたのは、指が動きはじめた0.35秒あとだった、というパラドクシカルな発見だ。著者はこれをもとに、脳は「意図」「意識」をモジュールの活動の結果として受動的に感じるだけだ、という『受動意識仮説』を提唱する。つまり、『私』という自意識のクオリアは、脳が受動的につくりだした錯覚にすぎない、との説である。また、意識とはエピソード記憶を可能にするために進化的に生じたものだ、と結論づける。

著者の説によると「私」というのは脳のつくりだした錯覚であり、霊魂の持続性を意味するようなアイデンティティを持たぬ、無個性で可換なものだ。著者はこれをコペルニクス的転換だとよぶ。まあ、欧米的な自我意識のオブセッションから、東洋仏教的な無我の境地への近代的水路と考えることはできるだろう。

しかし、著者の主張には2点ほど無理があるように思える。一点目は、「私」が脳の生み出した錯覚だとしたら、その錯覚を知覚しているのは誰なのか、という堂々巡りの疑問である。もう一点は、「心を持ったロボットは作れる」という著者の主張への疑問である。ことに、『感情』をどう実現するのか、具体的な説明はない。“感情らしきもの”を示すことはできる、とあるだけである。そんなこと、「たまごっち」だってできる。だが、たまごっちが感情を持っているなどと、誰が信じるだろうか。

心を知るためには、最低限、感情のアナトミーを理解することが必要である。著者は130ページで、感情とクオリアを相互参照的に定義しているだけに見える。刺激的な楽しい本だが、まだ深堀りが足りないようである。



  ★ 言語の脳科学 酒井邦嘉
2006/07/07

驚くほど論理的にずさんな本である。これで東大の先生がつとまるのだから、認知脳科学というのはいい商売だ。「チョムスキーに対する誤解を解き、言語の問題を脳科学の視点からとらえ直す」ことが本書の目的だと、著者はまえがきに書いている。しかし実現したのは、まさにその反対のこと、すなわち「チョムスキーのテーゼをそのまま信奉すると、脳科学はいかに神学に近づくか」だった。

著者のスタンスは、たとえばチョムスキーとピアジェの有名な論争(生得説vs.学習説)の紹介にあらわれれている(p.53)。チョムスキーはピアジェの議論を総括して、「可能な仮説だが、実際には大きな誤りである」という。しかし、客観的事実に基づく判定はどこにもないし、著者もそれを示すわけではない。一方の言い分だけを結論として紹介するのだ。これが公正な学問的思考のあり方だろうか?

脳の言語モジュールとして、著者が提示する候補は「ブローカ野」「角回・縁上回」「ウェルニッケ野」である。そして文法処理機能の局在場所として、ブローカ野の活動を示す実験結果を報告している。これ自体は一つの成果だろうが、だからといって別段、文法知識の生得説を証明したわけでもないし、意味と文法が独立したモジュールであるという、チョムスキー派お得意の奇抜な主張を裏書きしているともいえない(チョムスキーの文法観は語順偏重であって、著者もそれに影響されて実験方法を組み立てている)。

この本の中で唯一拾いものの箇所は、手話に関する第11章である。ここでは、異なる種類の言語である手話を獲得するために、自分も苦労してアプローチをかさね、また日本の手話をめぐる情況の問題点も明らかにしている。この部分だけは、読む価値があるといえよう。



 ★★ 孫子 金谷治・訳注
2006/06/14

孫子はいうまでもなく戦略論に関する中国の古典だ。兵学は最近のように世の中がきな臭くなってくると再評価されるが、本来は誰もが学ぶべき必須の教養だと思う。といっても、別にビジネスマンが市場で戦うにあたって参考になる、などの次元の話ではない。戦争のあり方についてよく知らなければ、平和を守ることもできないからだ。

そして孫子は、戦わずして勝つことが最上の道である、と信じる点においては、平和主義者だといっていい。戦争は敵味方とも、きわめて苦痛と損失の大きい決着手段であって、可能な限り避けなければならない。しかし、どうしても避けられない場合は・・・というのが彼の論法である。

彼の戦略論は概してかなり抽象的なものだが、それは具体的局面では個別に応用問題を解かなければならないからだ。しかし、兵站などの計数においては、とても具体的になる。ここが実務家たる彼の面目躍如たる点だ。

「学んで思わざれば、すなわち暗し。思うて学ばざれば、すなわち危うし」と古人はいった。今は危うき人がかなり多い世の中だ。せめて古典ぐらいは学ぶべきだろう。



★★★ 確率的発想法 小島寛之
2006/05/30

積年の蒙を開かれる本、とはこういう書をいうのだろう。天気予報で今日の降水確率が40%とは、何を意味するのか。かつ、この40%という予報が当たる確率は何%なのか。そういった疑問を感じた人は多いだろう。そんな疑問に対して、サイコロの目の数を場合分けする学校数学の確率論の知識は、たいした助けにはならない。

世の中にはそもそも、一回限りの出来事があまりにも多い。これに対して、フィッシャー流の統計的推定を使うのは居心地がわるい。そこで見なおされてきたのが、「主観確率」を基礎におくベイズ推計である。本書の前半は、この両者をおさらいすることで費やされる。

後半は、数学の世界から、「リスク」を軸にした理論経済学の世界に飛び出す。そこには主観的な判断に満ちた意志決定理論の沃野が広がっている。そして、足しても1にならないナイトの確率や、コモン・ノレッジの分析、ロールズの格差原理、中西準子の環境リスク・ベネフィット論への批判へとつづき、最後に「過去に向かっての確率論」への展望でしめくくられる。

本書はたぶん、自由市場経済至上派の人々には気に入られまい。厚生経済学、とくにロールズなどの思想的影響が色濃い。彼らは社会的不公正の問題から、情緒的側面を取り外し、あえて数学的アプローチだけで迫ろうというスタンスを持っている。そこで用いられるのが、知識の非対称性と不確実性(リスク)への考察である。著者の問題意識もこの線にそっている。おかげで、リスク判断と主観確率の関係についてもずいぶん勉強になった。タイトルはちょっとだけミスリーディングだが、お薦めできる良書である。



 ★★ あいまいさを科学する 林知己夫・坂本賢三他
2006/05/19

「トワイライト・カテゴリーへの招待」と、副題にある。これだけでは何のことか分からないので、章立てを見ると「直感と科学」(千葉康則)「ガンとはどういうものか」(森亘)「個体と集団」(中尾佐助)「動物の文化を考える」(芳賀良一)と並んでいて、いよいよわけがわからない。

数理統計学の大御所・林知己夫によるキーノートを読むと、彼は『限られた単純化された場において確率的因果律を見いだしていく』ことで発達してきた科学が、うまく手をつけられずにいるノイズの多い領域−−その典型が疫学や環境保護や世論などだが−−をトワイライト・カテゴリーと名付けているようだ。彼はこれを「生きもの性」と呼んでいるが、今日ならば「複雑系」とよぶところだろう。あいにく彼の問題提起は1982年と早すぎ、かつ彼が所長をしていた文部省統計数理研究所は、日本のサンタ・フェ研究所にはなりようもなかったので、この語ははやらずにおわってしまったらしい。

その問題意識に呼応して集められた研究者たちが、脳科学・病理学・生態学・動物行動学といった分野でそれぞれ知見を述べるのだが、うーん、ところどころ面白い話はあるものの、全体として何か新しい見方が生まれるような、火花の散るような発想は見当たらない。とくに最後の坂本賢三による哲学からの考察は、ひどく陳腐である。

結局のところ、分析的・実体論的・演繹的指向を軸とした科学の進め方について、強い疑念を表明する林の問題提起が、一番面白かった。とはいえ、この議論から四半世紀たった今、はたして我々は少しでも進歩したのだろうか? はなはだ疑問ではないだろうか。



★★★ あたらしい人生 北沢街子
2006/05/13

不思議な「絵本」だ。「わるいこの絵本 1」とカバーについている。だがシリーズがあるのかどうかは、わからない。

内容は、とても淡々としている。年齢も性別も不詳な「わたし」(たぶん若い女のこ)が、“泣いてばかりいる生活なんて もうイヤ”、と思い立って、荷物をまとめ、どこか別の街に行き、そこであたらしいへやを見つけて暮らしはじめる、それだけの話だ。ストーリーといえるほどのできごともなく、ひとこまひとこま、そのこのさびしい決心が少しずつ固まっていくようすを、ごく単純化された(でもとても上手い)絵で描いていく。なぜさびしいのか。それは、今までの自分との別れがそこにあるからだ。

鶴見俊輔や齋藤綾子が帯に推薦を書いている。こうした人たちがどんな経緯でこの本を手に取るようになったのかは、しらない。しかし、面白い応援者たちだと思う。本屋で見かけたら、手に取ってみて、気に入ったら、買ってみてほしい。



★★★ ガンジー自伝 マハトマ・ガンジー著、蝋山芳郎訳
2006/05/13

マハトマとは「偉大なる魂」「聖人」を意味する言葉だ。国民から授けられたこの尊号を、彼自身はしかし、重荷に思っていたらしい。彼にとっては、半生を通じて守ってきた彼の清廉と無私と献身は、もって生まれた性質ではなく、意識して選び取った「実験」なのだという。だからこの本は「真実をわたしの実験の対象として」という副題が付けられている。

本書の主要な部分は自叙伝として1928年に出版された。彼はインドの英国からの独立を導いたのち、1948年に暗殺されるのだが、この本は年代的にもっと前に書かれているため、インド独立も、有名な抗議行動である『塩の行進』も含まれていない。ガンジーが英国で弁護士資格を得て、南アフリカでインド人の権利運動に参画し、帰国して人民会議に身を投じる辺りでほとんど記述は終わっている。彼にとって人権活動こそが中心的関心であり、逆に政治活動は必要だがあまり好きではないものだったのかもしれない。

それにしてもガンジーは不思議な人である。20世紀最大の魂を選ぶとしたら、それはガンジー以外に考えられまい。先のヘッセ「荒野のおおかみ」(1927)には、主人公のハリーが自室の壁にガンジーの写真をかざる、という一節があり、すでにこの時点で西欧にかなり知られていた人物であることが分かる。とはいえ、自叙伝を書くのは西洋の習慣であり、アジアではふつう行われないことだった。彼がこの本を書かなかったら、ずいぶんと理解できない人という印象だったろう。

よく考えてみると、ヒンズー教徒の書いた本を読むのは私にとって初めてである。しかしガンジーの自伝にときおり書かれている神の理念は、けっしてキリスト教徒やイスラム教徒のもつ神概念から遠い存在ではない。また、彼の「非暴力・無抵抗・不服従」の思想が、いかに彼の神の理念から導き出されたものであるかも、この本を読むとよくわかる。

21世紀の今日、ガンジーの残した思想の重要性はさらに高まっている。こうした偉大なる魂の自己反省の記録が読めるのは、ほんとうにありがたいことだ。訳者は困難な題材に取り組んで、きわめて読みやすい翻訳を提出してくれた。膨大な訳注も、非常に価値が高い。




★★★ 荒野のおおかみ ヘルマン・ヘッセ
2006/04/28

これはまことに不思議な小説だ。全体として、ファンタジー小説、ないし作家の無意識からの表出で構成された幻想小説、といった趣である。現代ならばSFの意匠をとったにちがいないと思わせる。主人公は教養ある中産階層の人間だが、現代社会に適応できずになかばアウトサイダーとして放浪する、ハリー・ハラーという中年男性だ。彼のH・Hというイニシャルといい、50歳近い年齢といい、すぐさま作者その人自身を連想させる。

かりそめの居場所として選んだ街で知り合いとなった人間によって、彼の失踪後に発見された手記という形で小説は始まる。それほど驚くべき筋立てがある訳ではない。それでも、若い踊り子と知り合って、たまさか彼の自己分裂が癒されるあたりが小説の中盤だ(彼女の名前はヘルマンの女性形であり、すなわち内なる異性のシンボルである)。そして、後半3分の1は、ほとんどワルプルギスの夜を思わせる混沌に引き込まれるが、最後に魂の救い手として登場するのが、何とモーツァルトなのだ。私はヘッセの熱心な読者ではないが(いや、真面目に読むのはほとんど初めてだ)、ここらへんがこの作者の純真さでもあり、限界でもあるのかな、という気がする。

ヘッセは50歳になった1927年にこの小説を発表している。50にして天命を知る、と孔子は言ったが、彼がこの小説に描いて見せた大戦前のドイツの小市民的な世界では、それはいかなる意味を持つことなのか。機械文明に浮かれて次の戦争への準備をはじめる彼の故国においては、すでに作家としての地位を確立しながらも、つねに荒野の異端児であることを痛切に自覚していたにちがいない。これはそうした痛みを伴う小説である。



★★★ 『新約聖書』の誕生 加藤隆
2006/04/20

気鋭の研究者による、「新約聖書」誕生の物語。この、まことに不思議で空前絶後な書物の由来と歴史について、蒙を啓かれる良書だ。

ただし、学者の書いた本にしては、ちょっとだけ断定的にすぎ、もう少しリファレンスがほしいな、と感じるところがある。たとえば著者は、最初に書かれた『マルコ福音書』が、ギリシャ系ユダヤ人でキリスト教徒改宗者(「ヘレニスト」)たちのコミュニティから紀元50年代に誕生した、と書いている。だが、これはエルサレム崩壊後の60年代以降に書かれたものだ、というのが従来からの定説である。こうした点に著者の主張があるわけだが、だとしたらその根拠や、反対意見なども少しは触れておいてほしかったと感じる。

しかし、そうした点にもかかわらず、きわめて刺激的な啓発に満ちた本である。たとえば、イエスが現れるまでの約600年間にわたりユダヤ民族がおかれていた迫害の状況下から、自分たちを救ってくれる者は「ダビデの子孫」であり「神の子」であり「メシア=油注がれた者」である(王の即位式で頭に油を注ぐ儀式があった)、という観念が現れてきた。また、イエス自身はアラム語の話者であったにもかかわらず、アラム語のコミュニティにはほとんど福音書も使徒の手紙も残っていない事情を、“文字よりも口承を尊ぶ”伝統的感覚で説明する点もうなづける。さらに、ユダヤ戦争の前までに、キリスト教世界は主の兄弟ヤコブとペトロとパウロという指導的大人物を相次いで失っていた、という指摘も重要である。

新約聖書自体はローマ帝国迫害下の3世紀に、正典として確定する。それは「テキスト共同体」という、宗教史上きわめて異例なあり方を(西方世界では)形づくることになった。新約という書物に関心のある人には必読の書である。



★★★ 火星の人類学者 オリヴァー・サックス
2006/03/19
今年前半に読んだ中で、もっとも衝撃を受けた本。著者は「レナードの朝」で有名な神経内科医だ。本書もまた、彼の遭遇した奇妙な患者たちの記録だが、しかし登場する人々はほとんどが社会になんとか適応して暮らしている人たちで、患者という言葉は正しくないだろう。いろいろな意味でハンディキャップを負った人と呼ぶべきかもしれない。

たとえばその中の一人、「トゥレット症候群の外科医」は患者どころか現役の医師である。トゥレット症候群という病気はこの本ではじめて知ったが、突然わめいたり顔をしかめたり身体をよじったり奇妙な動作をしたりする、いわば非常に重いチックないし強迫行動をもつ性質だ。よく電車や広場で見かけるがあるが、本人自体は正気であり、それゆえ甚だしい苦痛を伴う。しかし、このベネット博士は驚くことに外科手術までやってのけ、自家用飛行機を運転して旅するのである。

また子どもの頃の故郷の視覚的風景を完璧に再現できる移民の画家、ひどく奇妙な色覚障害に陥った画家、脳腫瘍のために盲目になったのにその自覚のないヒッピー(彼は短期記憶しか持てない)など、信じられない症例が何人も紹介される。

しかし、中でも最も衝撃的だったのは、最後の章の、自閉症でありながら動物学の博士号をとってコンサルタント会社を経営している女性の話、「火星の人類学者」である。この人を見ると、自閉症というのは何と不思議な障害だろうかと感じる。知識と推理の点では完璧な知性を持っている。それでいながら、人間関係に影響する感情の微妙な、しかし重要な部分がまったく欠落しているのだ。だから、彼女は理性を高度に駆使して、いかなるシチュエーションでは通常人はいかなる感情的反応を起こすのかを、物理法則のように推測しながら、社会生活を営む。その高度な知性と倫理性、そして人間くさい感情の欠如、にもかかわらず生の意味への強い渇望をもつこと−−人間とは、こうした有り様の極北まで持ちうる存在なのかと、心底感動した。



 ★★ 生命と自由(再読) 渡辺慧
2006/03/21

この本は、先に出た「認識とパタン」に比べると、やや論理の筋が追いにくい。それは、「生物にとっての価値とは、エントロピー減少(=自由度の増大)にある」という彼の結論が、どこにも明確に書かれていないからである。

著者がエントロピーと言うとき、それは熱力学的な量と情報科学的な量の双方を指している。熱力学の側面で言えば、生物は外界に熱を捨てることによって形態の秩序を維持しているわけであり、それは見かけ上エントロピーの減少になる(むろん実際には系の一部分での減少にすぎない)。しかし、なぜ生物だけがそうなのか、あるいはそういう性質をもつのは生物だけなのか、そこの説明はやや不足である。

さらに情報科学的な側面で言うと、生命のもつ学習機能が、じつは非言語的な帰納的推論によっている、という主張はよく分かる。しかし、これが『自由』の概念とどう結びつくのか、いささか説明不足だろう。また、巨視的な(熱力学的な)系では因果律は厳密には成り立たない、との論法は渡辺慧のお得意の主張だが、これもやや説明が性急な感じを受ける。

そうした難点はあるが、この本は姉妹編「認識とパタン」で提起した価値論の問題を、さらに大胆に、自由に展開した、彼の思想の独白である。そういう点で、希少な価値をもつ本だといえるだろう。



★★★ 認識とパタン(再読) 渡辺慧
2006/03/14

学生時代に読んだ本を、ほとんど四半世紀ぶりに読み返したのだが、じつに読み応えがあって面白い著書だと再認識した。渡辺慧は理論物理学者でエントロピーや時間論が専門だが、戦後すぐの時代の「思想の科学」同人でもあり、かつ“頭脳流出”組の初期の一人でもある。米国で長らく研究し、この本を書いた頃はなかば引退してハワイ大学で教鞭をとっていたはずだ。

渡辺慧の立論は、“人間のパタン認識の能力は帰納的推論の一種であり、三段論法のような演繹論理と異なって、100%の必然性はない”との主張が中心になっている。しかし、この本では、まず目の網膜細胞に組み込まれた輪郭検出の仕組みの説明からはじまる。そこから周到な順序で、いわゆるカント的な認知論(人間は白紙の状態から認知を学習していくとの論議)を崩していく。そしてクラスタリングや、因子分析による次元圧縮の技法(現代では常識化している)などに進んでいく。パタン認識とは、空間の領域の識別ではなく、異なる座標軸の識別にある、というのは彼の慧眼だろう。

この本の白眉の一つは、有名な「みにくいアヒルの子の定理」である。ここで彼は、任意の二つの命題に共通する述語の数はつねに一定である、という定理から、あらゆる事物は類似性の点で同等である、という驚異の結論を導き出す。むろん、これは私たちの直感に反している。それはすなわち、我々は述語の重みづけを先験的に判断している、ということを意味するわけだ。また、エントロピーをもちいて要素間の構造を検出する方法を説明し、人間のパタン認識とは、エントロピー最小化原理による情報の圧縮にある、との結論を導く。薄くて読みやすい岩波新書だが、その含蓄は巨大である。認知論に興味のある全ての人にすすめたい、刺激的な良書である。



  ★ ダ・ヴィンチ・コード(下) ダン・ブラウン
2006/03/11

上巻では快適なペースで進んできたこの小説も、しかし、下巻に入って、コプトの福音書や死海文書の引用からキリストの生涯の隠された“秘密”を云々しだすと、話の展開は急に興ざめするようになる。ことに「シオン修道会」などの与太話が始まるに及んでは、とてもまともにつき合える代物ではなくなる。まあ、その歴代総長のリストなど、ある意味では抱腹絶倒なジョークではあるけれど。

それにしても、小説の悪役のネタにされたカトリック信徒組織オプス・デイこそ、いい面の皮である。私自身は、この超保守的な運動は好きになれないし、米国での政治がらみの布教活動にもなにかと批判はたえないが、だからといって情け容赦ない狂信者で殺し屋の元締めとして描くのはどうかと思う。この組織をモデルとした、フィクションとして描けば済むことなのに。

結局、この小説は扉に書かれた「宗教および美術関係の記述は全て事実に基づく」というステートメントが全体の鍵なのだ。作者はこのために、オプス・デイという実在の組織を使わざるを得なかったのだろう。そして、多くの読者も、このステートメントを額面通り信じたらしい。ダ・ヴィンチが自作の絵を『モナ・リザ』と名付けたかどうか、その一点からしても、おかしいと疑うのが健全なセンスと思うのだが。最後の晩餐でキリストの隣にいる人物が女性(マグダラのマリア)だ、という指摘も、面白いと言えば面白いが、だとしたら肝心の聖ヨハネはどこにいるのか? 食事は早々に映画でも見に行ったのか?

この小説が欧米でも日本でもベストセラーになったという事実は、結局のところ普通の読者がいかに騙しやすい存在であるかを明瞭に示している。「この記述は事実だ」と書かれたら、そしてそれが知的でキザに書かれていたら、それを信じてしまうらしい。騙される人たちは、騙されたがっている人たちでもある。既存宗教が自分たちの魂を救ってくれなさそうだから、そいつの正体を暴こうという三文芝居に群がってしまうらしい。まことに、大衆操作の容易な世の中である。この幻惑のベストセラーの唯一の価値は、そうした現代社会の危うさを数字で浮き彫りにして見せたことであろう。



 ★★ ダ・ヴィンチ・コード(上) ダン・ブラウン
2006/03/04

電車に乗っていたら、中高校生とおぼしき男の子達が、キリスト生誕の話をしていた。定食屋で食事をしていたら、隣の席の若い労務者二人が、『マグダラのマリアってのは・・』と話している。マスコミに乗ったブームってのは恐ろしいものだ。その不正確さも。

面白い小説だと聞いて読んでみた感想は、“英米人って、つくづく聖杯伝説が好きだな”ということ。聖杯伝説の構造は、失われた貴重な物を探しに行って、冒険を続けるが、結局手に入れられずに終わるストーリーになっている。どうしてこういう話が好きなのか、ちょっと不思議ではある。

それにしてもこの小説は、その昔、米国でベストセラーになったS・S・ヴァン=ダインやエラリー・クィーンのミステリ小説に、よく似ている。スリリングなストーリー展開と、ペダンティック(衒学趣味)な味付けと−−これがアメリカのスノッブ読書階層に受ける秘訣らしい。それに、ロマンチックな風味も重ねてあるから、男性のみならず女性にも受けるというわけだ。

だから当然、この小説の舞台は欧州、それもパリにとることになった。おお、なんとロマンチックで知的でミステリアスな! おかげで、登場人物達にむりやり英語をしゃべらせるため、そうとう無茶な設定になっている。ことにダイイング・メッセージやアナグラムマで英語だもんなあ・・。それでも上巻は、それなりにサスペンス小説としてうまいテンポで読者を引っ張っていく。途中、随所に挿入される図象学的うんちくがいかにテキトーであっても、話が面白い間は目をつぶって読み続けられるのだ。



 ★★ チョムスキー入門 町田健
2006/02/28
町田健はソシュールの入門書も書いている言語学者だ。言語学にはいろいろな流派や考え方があり、百家争鳴状態だが、それほど研究対象としては複雑で難しいともいえる。しかし、少なくともこの人は、チョムスキーの理論には批判的らしい。

本書では一応、チョムスキーの思考の跡をたどって、生成文法の考え方を解説していく。著者によれば、生成文法は決して数学ではないし、理解するために数学の知識が必要なわけでもない、という。ずいぶんイメージと違うので、ほんとかな、とも思う。しかし英語を例に変形規則をくわしく追っていくと、まあそれなりに概観はわかる仕組みになっている。そして、チョムスキーが深層構造を捨てて最小主義プログラムに移るまでの軌跡を追っていく。

学者らしく、たくさんの文例を上げて、客観的に説明してくれるのだが、それでもこの本を読んでチョムスキーに心酔したくなる人は希だろう。なぜならあちこちでチョムスキー思考への嫌味が出てくるからだ。たとえば、文例は英語中心なのだが「生成文法は、何と言っても英語の文法なので」と『まえがき』にある。「チョムスキーは意味にあまり関心がない」という文句も太字で強調されている。

チョムスキーの言語学は70年代は全盛だったが、その後かなり下火になった。それなのに最近また、こうした解説書が出るようになったのはなぜだろうか。せめてそうした疑問だけでも答えて欲しかったと思う。



 ★★ こまった人 養老猛司
2006/02/12
「まともな人」につづく、月刊誌連載のエッセー集。あいにく、前作ほど面白くない。それは、この間に作者が『バカの壁』で大あたりしてしまったことと、無縁ではあるまい。前作の中には、あのベストセラーの原形が「わかってます」という題で入っていたが、そこにあった緊張感と、孤立感がここでは薄れてしまった。

それでも、虫取りに関係する話は面白い。四国の生態域がどこで変わるのかが、昆虫採集の結果わかったり、あるいはロンドンの自然史博物館の『原則自由』、つまり大人の社会の仕組みに感心したり、こうした体験した事実にもとづくエピソードがいいのだ。

しかし、この本を読んでいくと、ずいぶんこの2年間だけでも色々な社会的事件があったのに、どんどん記憶から過ぎ去っていくなあ、と感じる。記憶力もわるくなっているのだろうが、我々の社会のメディアは、なぜか親切にも、読者に重大事件を忘れさせようと努力してくれる存在らしい。だから章末の注釈を眺めていくと、自分たちが何を失っているのかがよく分かる。



 ★★ ブラック・マネー ロス・マクドナルド
2006/02/02

久しぶりにロス・マクの小説を読んだ。本書は、名作「さむけ」、秀作「ドルの向こう側」につづいて1966年に発表された、著者円熟期の物語だ。

とはいえ、ストーリーについては、とくべつ語ることはない。いわゆる“家庭の悲劇”シリーズに深く入り込んでいく時期の作品だけに、起伏やスピード感、サスペンスなどはやや薄くなっている。南カリフォルニアの架空の町・モンテヴィスタで、金持ちの(だが傷心の)青年から、自分の婚約者を奪った謎の外国人の正体を探ってくれと依頼されるところから、話は始まる。そしていつものように、隠された過去の事件が、現在まで暗い尾を引いている情況が見えてくる。ストーリーは、'60年代米国の家庭生活の中にひそむ秘密を、印画紙のように陰陽反転した形で、あぶり出していく。

ここらへんがこの時代のロス・マクの面白さでもあり、また限界でもある。こうしたゆがんだ社会の断面に対して、主人公である探偵リュー・アーチャーは、何一つ打つ手を持たないのだ。彼は観察し、真相を見いだすことしかできない。そうしている間に、アメリカはどんどんベトナムの泥沼に入り込んでいく。もはや探偵のピストルで夜の闇を晴らすことのできる時代は終わったのだ。だから、このあと次第にロス・マクドナルドは寡作になっていく。



★★★ 日本の地名 谷川健一
2006/01/30

孤高の民俗学者・谷川健一氏が岩波新書に書き下ろした本書は、まことに不思議な本である。タイトルだけを見ると、日本の地名についての百科全書的な総説を想像する。しかし、第1章「地名の旅」、第2章「地名と風土」、第3章「地名を推理する」、第4章「固有地名と外来地名」、といった目次からもわかるように、様々な事実がきままに並べられている。どことなく博物誌的な、なんだかファーブルの昆虫記を読んでいるような調子で、黒潮の流れ、中央構造線、白鳥伝説などと地名の関係を学ぶことができる。

しかし、恣意的に見える題材の選び方をしているにもかかわらず、この本は全体として、ある明確な問題意識をもとに書かれているという印象を与える。しかも、その中心主題ないしテーゼは、はっきりとはどこにも述べられないのだ。だから読者は、池のまわりをぐるぐる回りながら、その中心に何かがあるのを予感しつつ、どこにも到達しない感じをもつ。

その谷川氏の中心主題とは、古代日本の氏族社会と、それを強引に統合していった大和朝廷との桎梏であるらしい。そして、国家に押しつぶされつつも、土地の辺縁に生き延びている先住文化のかすかな痕跡を、地名に見いだすのだ。その博覧強記の探求法には、まさに舌を巻くほかない。たとえば、『物言わぬ皇子』の伝説から丹生の地名をたどって、水銀鉱脈と製錬技術を持つ氏族の物語を掘り起こす手腕は、まさに驚異である。状況証拠だけで、直接証拠のない探偵物語のように。

それでいながら、おそらく学者らしい慎重さで、中心主題については何の断言も行なわない。そのかわり、谷川氏は「日本の地名を守る運動」を、自治省主導の地名改竄に対抗するため自ら主宰する。そうした硬骨の精神が放つ、目に見えない矢が、読者の胸を知らぬ間に貫くのである。



2005年



★★★ ソリューション・セリング―賢い売り手になるための10の戦略  マイケル・ボスワース
2005/12/12

現代は製品がなかなか売れない時代である。市場の競合はきびしく、長かった不況のせいでユーザの財布の紐はかたい。

製品が売れないのはなぜか。うちの会社の営業マンが無能なせいさ、と楽観(悲観?)できる技術者は、あまり多くない。価格で競合製品と大差がない場合、ふつうは、製品に魅力がないのではないか、必要な機能が足りないからではないか、あるいはデザイン・センスに問題があるからではないか−−そう、技術者という人種は考えたがる。だから、どんどんと製品の機能は肥大化し、開発コストはかさんでいく。

この考え方は、裏を返せば、製品が良ければ必ず売れるはずだ、との単純な信念になる。だが、はたしてそうだろうか?

そうではないのだ、と著者・ボスワースは本書で主張する。たとえば、米国では腕の良いセールスマンはしばしば同業他社に引き抜かれる。すると、どうだろう? 彼(彼女)は、移った先の会社でも、やはりすぐれた売上成績を上げるのだ。そして、また別の会社に高給で転職したりする。すると、またまた、その新会社の製品をたくさん売るのだ。

これから分かることは何か。それは、よく売れるかどうかは、じつは製品の優劣にはあまり関係がない、という事実だ。では、売れ行きは何で決まるのか? それは、営業マンの販売プロセスであり、セールスが顧客の問題意識といかに連携しているかが、キーなのである。それは商品の物質的実体がないソリューション型商品では、とくに大きい、と著者は言う。

そもそも、「ソリューション」とは何か。ふつう、顧客は通常「ニーズ」を持っていると考えられている。しかし著者は、顧客は解決したい「ペイン」(痛み)を持っているのだ、と捉える。そのペインをどう解決すべきか、たいていの顧客はぼんやりとしか分かっていない。この解決手段に関して、具体的なビジョンが顧客の心の中に形成されて、はじめてニーズになるのである。そして、その解決手段のビジョンにマッチする商品が「ソリューション」である。

したがって、販売プロセスで一番重要なポイントは、顧客のペインを察知し、顧客の心中に解決策のビジョンが(自社の製品に合致する方向で)形づくられるのを、助けることなのだ。これがボスワースの主張である。そして、顧客のビジョンを誘導するために、“ナイン・ボックス”、“ペイン・シート”、“パイプライン管理”などの、非常に実践的なツールを用いる。これが「ソリューション・セリング」の仕組みである。

私はこの本を、大学時代の先輩から薦められて読んだ。この先輩は技術者で、博士号まで取った人だが、外資系の会社に転身するときに、「技術開発はつねに本国がリードする。外資系で上に行きたければ営業に徹するしかない」と考えて、営業職を選んだという。そして、「ソリューション・セリング」に書かれた技法をそのまま実践して、見事な成績を上げ、とうとう日本法人のトップまでたどり着いた人だ。

私もまた技術者だが、営業力の無さに苦心している。そして、ご多分にもれず、“良い製品なら顧客は買うはずだ”という過信に陥っていた。本書は、その蒙を開いてくれた。そして、顧客の中に具体的なビジョンを形づくることを、今は第一に考えるようになった。本書は販売に関心のある全ての人に薦められる良書である。

ただし、残念ながら、この日本語訳は今は品切れになっているようだ。私は古本で入手した。もっとも訳文はこなれているものの、ケアレスな点が目につく。原文はそれほど難しくないので、英語が苦にならなければ原書を読む方がいいだろう。



 ★★ アイデアのつくり方 ジェームス・W・ヤング
2005/12/13

60分で読めるけれど、一生あなたを離さない本、と帯に書いてあるとおり、とても薄い本だ。日本語版の解説などを取ってしまえば、短編小説1つくらいの長さしかない。しかし、この本は面白い。

アイデアの作り方には5つのステップがあると、著者は説明する。材料を集め、よく考え、いったん忘れて心の中で発酵させ、ひらめき、その生まれたばかりのアイデアを育てて展開する−−これがその5ステップだ。私自身の経験からみても、まさに重要なアイデアを生み出すプロセスはこのとおりだ。だが、そのプロセスを明確に意識したことはなかった。本書の良い点は、それを読者に自覚させ、納得させてくれるエピソードが豊富に盛り込まれていることだろう。

そして、一度プロセスを理解してしまえば、それをマネージしていくことは、さほど難しいことではない。得てしてアイデアは、突然やってくるものだから、いつ生まれるか予測できないと思われている。だが、それは間違いだ。良いアイデアは、しかるべき手順としかるべき時間をかけなければ、けっして生まれ育って来ないのだ。

著者は広告業界の人だが、プロセスは業界を問わず、真実だと思う。アイデアとは異質なものの組合せだ、との著者の信念は、しかし広告業界だからこそ自覚されたのだと想像する。



 ★★ 仏教が好き! 中沢新一・河合隼雄
2005/11/28

まあ、いつもながら中沢新一という人はジャーナリスティックな感覚が鋭くて、タイトルの付け方が上手い。「ブッダと長生き」「幸福の黄色い袈裟」「大日如来の吐息(科学について)」などなど。また、対談の中でも、じつにいろいろな博識なエピソードを取り出してみせる。東洋と西洋、あるいはインドとの対比論も、面白い。

しかし、肝心の仏教の中身の所が不在ですな。もともとのブッダの思考はどうだったのか。あるいは現代日本の仏教は何をどうとらえているのか。そこのところは、いくら読んでもよく分からない。キリスト教批判などは、さすがに信者の家に生まれた人だけあって鋭いのだが。

一番面白かったのは、初期仏教教団が、性に関していかなる戒律を持っていたかを、パーリ語『律蔵』の抄訳で示しているくだりで、じつに具体的事例がこれでもかと並んでいて、思わず笑ってしまう。

また、それなりに感心したのは幸福論のくだりで、西洋人は幸福を求めるが、仏教では「安心(あんじん)」が大事である、という部分だ。まことに今日の日本には、「そばにいるだけで安心できる」ような、地に根ざした人が少なくなったと感じざるを得ない。



 ★★ 気の発見 五木寛之・望月勇
2005/11/27

ロンドンを拠点に、欧州で活躍する気功治療家の望月勇氏を、作家(?)五木寛之がインタビューした本。どうみても、望月氏の方が8割くらい本の価値に貢献しているのに、五木寛之の本として出版されているのは不思議だ。

手をかざすだけで他人の治癒力を向上させる「気功治療」の原理はまことに謎だ。だが、それなりに実践家が存在して活動しているからには、なんらかの効用なり意義はあるのだろう。効く人と効かない人がいる、と望月氏も率直に告白している。しかし、科学信仰が強く、疑り深い英国人やドイツ人達を相手に(ときにはそのペットにまで)、結果を出してお金をもらっている望月氏の実力はただ者ではない。

面白かったのはヨガに関する章だ。ヨガはストレッチ体操だけでなく、呼吸法、ならびに瞑想(雑念の除去のために体に意識を集中する)の3つの柱からなっている。しかし、バレリーナのように、なまじ体が柔らかい人は、ポーズは決まるがヨガが深まっていかないという。呼吸や瞑想に移れないからだろう。呼吸法こそ、東洋系の心身論の中心にあるものなのかもしれない。



 ★★ 運がよくなる100の法則 上西聡
2005/11/11

装幀・文体とも、若い女性読者に向けて作られた本。若い女性は「占い」のたぐいがとても好きだ。おそらく、現在の世の中では、若い女性は自分の人生の主要な事項を「会社」「親」「男」などに左右されていて、自分で決めることができない。だから“運勢”が気になるのだろう。

でも、セレンディピティーに関する本としては、わりと出来がいい方だ。この著者も、『運のいい人』になる方法は、心の持ち方を変えて、生活に目標を強くもつことだ、と考えている。そのために、ネガティブな感情は心のエネルギーを損なうから、あまりとらわれるべきではない、と教える。また、他人との良い関わりが自分を引き上げてくれる、とも。

おそらく、我々の社会では、感情や他者との関係づくりの教育・訓練が少し欠けているのだ。女性は、それに気づきやすい立場にある。しかし、本当は、社会の中核にいる男性達こそ、読むべき本なのかもしれない。



★★★ ダメな会社ほど社員をコキ使う 宋文洲
2005/11/01

宋文洲氏は中国出身の元留学生で、今や著名な経営者である。創立した会社・ソフトブレーン(株)がまたたく間に店頭公開から東証一部まで上場したことで、経営者としてのビジョンがいかに正鵠を射たものであったか、皆が知るところになった。

しかし、宋さんは最近、そのソフトブレーン社の代表権を返上し、単なる会長職に退いてしまった。「上場した会社は公器だ。いつまでも創業者兼経営者が牛耳っているべきではない」との信念からだという。たしかに、一般にワンマン組織は、その経営者個人の器を超えて大きくなることができない。だから、この出処進退の見事さはさすがだ。だが、たいていの経営者はそれができずに、老害や後継者問題で会社をぐちゃぐちゃにしてしまう。宋さんができた理由はなぜかというと、おそらく彼は何よりも、自分の信じる理念・原則に忠実なのだ。理念原則に忠実というところこそ、工学博士号をもつこの人を理解する鍵だと思う。

その宋さんが書いた本書は、「やっぱり変だよ日本の営業」と同様、非常に面白い。その面白さは、表紙帯に描かれたマンガが象徴している。社屋ビルが描かれ、最上階では社長が「まかせるから失敗すんなよっ!」と部長に向かって怒気をあげている。中階の部長は階下の課長に向かって「おまえが責任者だから考えろっ!!」と怒鳴る。その課長は正面入り口から一般社員の背中を蹴りながら、「甘えるなっ、結果がすべてだっ!!!」と叫んでいる。これぞたしかに、ダメな会社の典型である。

それぞれのセリフはどこでも良く聞くセリフだ。では、どうしてダメか。それは、結果だけを命じて、方法を示していないからなのだ。このような思考方法を「根性論」あるいは「精神主義」と呼ぶ。精神主義と計画経済(=命令経済)の2つは、文革で若いころ辛酸をなめた宋さんがもっとも嫌うものである。

日本的経営に共通する特質の一つに、「情報」の軽視がある。そんなことはない、情報は重視している、との反論はあちこちから聞こえそうだが、はたしてそうだろうか。現代日本では情報という言葉に、どちらかというと『情け』『報い』を読みとりたがる。しかし、本来は「敵情報知」の略語だったことを、本書で初めて知った。そういう意味では、情報軽視と言うより、「データ」「客観的事実」の軽視と言うべきかもしれぬ。とにかく、敵情を知らずに作戦を立てるのだから、精神論に陥るのは必然だろう。方法や手順などのプロセスは誰も教えてくれぬ。

前著は主に営業の非能率に焦点を当て、プロセス改革をといたものだったが、本書はさらに生産計画や本社管理部門までが対象になる。そして最終的には、「ダメなマネジメント」論に到達する。“まかせるから失敗すんな”という社長は、じつは何もまかせていないに等しいのだ。とはいえ、「ダメな会社」の愚かさを真っ向から怒らず、笑いを武器にする点が何ともかしこいし、読んでいて楽しい。

こき使われる毎日で、ガンバリズムや精神主義にあきあきしたら、解毒剤に本書を読むといい。もっと有効なのは、たぶん社長室の前の廊下にわざと本書を落としておく方法だろう。もっともまだ私は試していないので、だれかやってみてから効果を教えていただきたい(^_^)。



 ★★ 「星の王子さま」をフランス語で読む 加藤恭子
2005/10/20

この本は、日本の大学でフランス語の初級クラスの教材として書かれた。だから、フランス語を正式に勉強したことのない私には、ちょうど良い難易度の本だった。むろん、この手引きがあったからといって、星の王子さまの原文がすらすら読めるようになる訳ではない。フランス語は話し言葉と書き言葉の距離が、英語などよりも遠いので、動詞の変化型などで意味の細かなニュアンスをつかんでいかなければならない。そうした点への注意も、この親切な本の特色になっている。

だが、そうした文法的解説を超えて、「星の王子さま」という物語の読み解き方が、主題になっている。たとえば、"serieux"という言葉(英語のseriousに当たる)が物語のキーワードになっていること、あるいは、王子さまが「私」の問いかけに対して、めったに直接答えないこと(つまり通常の意味の会話がじつは成立していないこと)、などは鋭い指摘だ。結局これは、子どもと大人の世界認識のすれ違いを描く物語なのだから。

それにしても、同じ物語を読んでも、感銘を受ける箇所はずいぶん違うものだと思わざるをえない。たとえば"Droit devant soi on ne peut pas aller bien loin.."(まっすぐ前といっても、そんなに遠くへ行けるものじゃないよ)という文章の意味を、著者はずいぶんと思い入れて書いている。若いときの純愛と猪突猛進と挫折感とを思い起こさせるかららしい。むろん、原著全体がひとつの詩であるとも言えるのだから、原文で少しでもその香りをかぐことができれば、十分この本を読んだ価値があると言えるかもしれない。



★★★ 星の王子さま サン=テグジュペリ著、内藤濯訳
2005/10/09
初めて読んだのは、中学1年生の時だ。国語の教科書の最初に載っていた。最初の単元「新しい目」だったと思う。冒頭の、象をのみこむウワバミの絵を、よく覚えている。

それから35年以上たって、ふたたび読み直して見た。これは「すべてのこどもと、こどもだったことがある人たちのための」本だが、今度は大人の立場になって読んだわけだ。大人でもやはり、面白い。ただ、前よりも、お話し全体がわかりにくいと感じた。エピソードひとつひとつは、絵の持ち味もあいまって、とても印象的なのだが。

わかりにくさは、王子さまとバラの花の微妙な関係にある。この、いかにもフランス女性的なバラの花の気持ちが重荷になって、王子さまは星の旅に出る決心をしたらしい。だが、地球に1年滞在し、「わたし」に出会った後、自分の星に帰る決心をするあたりが、昔よりも素直に読めなくなっている。どうしても恋愛小説を投影してしまうのだ。そのため、「一番大事なことは目に見えない」というテーゼが少し遠ざかってしまう。

もともと、「見る美・見せる美」はラテン文化の基調である。そこにとらわれている大人たちを解き放つための物語が、この本なのだ。しかし、この物語の美は、じつはサン=テグジュペリの手描きの絵に、おおいに依っている。そういう風にも読めてしまうのが、大人になることの悲しさなのかもしれない。

あるいは、この気高くわがままな花のいる故郷の星とは、著者にとってのフランスそれ自体を指しているのだろうか。サン=テグジュペリはこの本を、亡命先のニューヨークで1941年に書いた。その2年後に彼は北アフリカ戦線に戻って、そこで行方を絶つ。ちょうど物語の王子のように。“小さな王子”という原題を「星の王子さま」と訳した内藤濯の文章の力は、今も変わらずに、素晴らしい。



 ★★ 花にもの思う春 白洲正子
2005/10/01
上流階級に生まれついた品の良さ、というものがあるとすれば、それは著者の白洲正子がまさに体現しているものだろう。ここには、われわれ庶民階級が及びもつかぬ、のびやかさと感受性がある。その感受性は、何かの目的意識で曇らされていない。かすかな憂いと屈折を込めた繊細さは、だから新古今集の歌人達の世界と、ぴったり重なりあう。そして、その無内容(無目的)性とも。

著者は新古今集のなりたちからはじめて、代表的な歌人を一人一人とりあげ、ゆっくりと鑑賞して行く。けっして急がない。急いで解釈しようとすると、こわれてしまう繊細な世界が、そこにある。新古今集の歌人達に共通して言えることは、「分からない人には、分かってもらわなくてもいい」という感性である。彼らは、自分の感情が他者や世間に理解されないことに、すでに慣れている。それは、京の公家社会の末期に生きた、真に都会的な孤独な感性であった。だからこそ、新古今は江戸後期にはもてはやされ、明治には打ちこわしの対象になったのだ。

古今集が味噌吸い物だとすれば、新古今は澄まし吸い物だ、との比喩がこの本のどこかに書かれていたと思う。古今集の多様な豊富さ、新古今の繊細な透明さを、これほどぴったりと表わした比喩がまたとあろうか。

歌人の中では、私自身は藤原良経が一番好きだ。「み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり」「春霞かすみし空のなごりさへ今日を限りの別れなりけり」などの秀歌の中にあるのびやかで品の良い姿の美しさ、情感とかすかな諧謔にみる知性とのバランスが素晴らしいと思う。また式子内親王の押し殺した純粋さも心をとらえる。「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば 花にもの思う春ぞ経にけり」から、この本のタイトルは取られた。しかし、一般には藤原定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」や、後鳥羽上皇の「さくらさく遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」などが新古今を代表する名歌と思う人が多い。

あとは、西行だろうか。私は西行の無内容なナルシズムにはとてもついていけないが、この孤独な美男子でわがままな世捨て人には、女性的な感性をひきつけてやまないものがあるらしい。だからこの本は、彼の行きどまりの世界に迷い込んで、やや唐突に終わる。



  ★ 機械の再発見 中山秀太郎
2005/09/14
講談社ブルーバックスの一冊。それなりに期待して読んだのだが、ちょっと落胆させられた。この本の中には、ボールペンから永久機関まで、まさにあらゆる種類のからくりが、いささか雑多な分類のもとに取りあげられ、解説されている。それはちょっと、おもちゃ箱をかきまわしているような趣がある。

しかし、この本を読み通しても、「機械とはいったい何なのか」の理解にはちっとも至らない。てこは機械なのか。ラック・ピニョンは機械なのか。動滑車は機械なのか。部分品を積みあげても、仕組みの全体はできあがらない。だが、この本は部分の解説がずっと続くばかりなのだ。私は機械というものが理解したかった。まあ、機械工学という学問にはそんな気の長い問いに答える用意はないのかもしれない。ついでにいうと、本書には材料論も欠けている。機械の教授が書いたにしては、ふしぎな本である。



 ★★ ケルト巡り 河合隼雄
2005/09/04

河合隼雄がTVの取材もかねて、アイルランドのケルト世界を旅して、さまざまな景色や人々と対話した結果をまとめた本。内容的には薄いが、読みやすい。写真はさすがになかなかきれいだ(アイルランドという国が美しいのだ)。

ケルト文化は、今日のヨーロッパ文化にとって、一種の古層をなしている。その古層は、アイルランドやウェールズ、ブルターニュなどに少しずつ、顔を出しているが、まだ全容はつかめていない。しかし、その潜在的な力は、われわれ東洋人の心にも音楽や文様などを通じて、ダイレクトに働きかけてくる。そうしたケルトの魅力を知るには、適当な本だといえるだろう。



  ★ 人麻呂の暗号 藤村由加
2005/09/03
ひと昔前、ちょっと評判になった本だったように思う。だから古本屋の店先の平台にまだおいてあったのだろう。万葉集を、古代朝鮮語という光をあてて、読み直そうとする意図はたしかにわるくない。ことに万葉集最大の歌人、柿本人麻呂の、ある意味で謎に満ちた生涯を、彼の歌の再解釈で解明しようとするねらいは面白い。

万葉集を特徴づける万葉仮名は、奇妙な表記体系だ。やまとことばに訓読みされる漢字と、表音記号としての漢字が混在しており、読み方に自由度というか、ぶれがある(そのせいか、同じ「田子の浦ゆ」の有名な歌でも万葉集と新古今集収採のものではずいぶん違う)。それは書き手にとっても同じはずであり、どのような表記を選ぶか、かなりの誌的意思がこめられたはずだ。若い著者等は、そこに古代朝鮮語の音韻と、古代漢字の表意のエックス線をあてて、分析しようと試みる。たとえば枕言葉の起源について、言語的パラフレーズによる一種の重畳表現だとする解釈は、面白い。また「東野炎立所見而反見為者月西渡」の歌に草壁皇子の姿を見いだすあたりも、意外性がある。

しかし、その野心的なアプローチは、必ずしもつねに説得的にはひびかないように思う。ほとんど強引なまでの想像力で、彼の一連の騎旅の歌を解釈して、語の裏に暗号の如く秘められた悲劇の物語を「発見」していくのだが、言語的変奏技巧がいつから暗号通信手段に変わってしまうのか、そこの説明はない。古代への距離は、それだけ遠いのだろう。レントゲンに望遠レンズをつけてとらえた人麻麿の姿は、まだ陽炎のようにぼんやりとゆらめいている。



★★★ 世界史の見取り図 文明の発祥〜16世紀 荒巻豊志
2005/09/03

この本は、2005年に読んだ中で一番面白い本だった。一番衝撃を受けた本、となると「細川日記(上・下)」だが、面白さと知的刺激(読者にいろいろと考えさせる点)に満ちているのは、本書だろう。

長い間、世界史の本を書くのが私の夢だった。誰もが読める、わかりやすい、世界史の本。それは、大学受験生の参考書の形にしようと思っていた。なぜ参考書か。その理由は、記述の正確さと、論理の大胆さの両方を、兼ね備えるに一番適しているからだ。

その夢は、本書で見事に先を越されてしまった。本書は大学受験予備校の東進スクールから出版されている、「名人の授業」シリーズの1冊だ。著者はその講師である。しかし、これほど面白い受験参考書が、またとあろうか。

たとえば、「主権国家体制の成立」という節を見るといい。「ドイツ三十年戦争」終結後、ウェストファリア条約が世界で初めての国際会議で締結された。『国際というのは対等な国同士の関係を意味しています』と著者は書く。『これで国王同士にも存在した君臣関係=ヨーロッパ封建制度は完全に消滅しました。「主権国家体制」と呼ぶ新しい秩序が成立したからです』−−すなわち、今日の世界を覆い尽くしている主権国家とは、1648年のウェストファリア条約以降、約250年の歴史しかないのだ。

この記述の前段には、「帝国とは何か?」や「ヨーロッパ封建制の特殊性」や「皇帝の叙任権闘争」などの解説が伏線になっていて、主権国家の成立を立体的に理解できるように工夫されている。無論、イスラム世界の成立や、ソグディアナ地方の歴史などにも的確な視線を向けている。何よりも素晴らしいのは、“世界史は地理を理解することが重要”という方針のもと、数多くの適切な地図が挿入されていることだ。まことに見事な、まさに「名人の授業」とよぶにふさわしい、優れた書物である。世界史に関心を持つべき人々(ということはつまり現代に生きる全ての人だが)に強くおすすめしたい。



  ★ メトセラの子ら ロバート・A・ハインライン
2005/09/01

ハインラインのSFの世界を久しぶりに味わいたくなって買ったが、残念ながらこの本は失望の結果に終わった。作者本人としては愛着のある作品らしく、ずっと後になって続編『愛に時間を』を書いているほどだ。いわゆる「ハインライン未来史シリーズ」劈頭を飾る小説ということになっており、人類が宇宙に進出し広まっていく最初のエピソードを描いている。

メトセラとは旧約聖書に出てくる、千年近く生きたといわれる伝説の人だ。地球上で秘密裏に暮らしてきた「長命族」といわれる“死なない人々”が、社会に発見され圧政を恐れて、巨大宇宙船を乗っ取り脱出するところまでが前半のストーリーになっている。後半は彼らの漂流と冒険の話だ。

理性と勇気をかねそなえた男性的なヒーローが、社会の愚かさと英雄的に対峙する姿は、いかにもハインラインらしい。人間は欲望に動かされる愚かな連中と、それを抑えられるヒロイックな者達に大別される、というのが彼のテーゼなのだろう。そして、ヒーロー達の理性が支える武器として、科学技術がある。いかにも50年代アメリカSF的世界観だなあ。そのわりに、本書のストーリーは後半やや一貫性を欠いていて、方向性も分かりにくい。翻訳のせいも、多少はあるのかもしれない。



 ★★ ボクが教えるほんとのイタリア アレッサンドロ・ジェレヴィーニ
2005/08/17

イタリアの大学を出て日本に留学し、そのまま何年も日本に住み続けている若いイタリア人のエッセイ。彼の日本語は鮮やかで、舌を巻くほどうまい(誰かが校訂してあげているにせよ、もとが良くなければ、こういう小気味よい文体は生まれないはず)。そして、若きアレッサンドロ君の繰り出す、いともおかしきイタリアのエピソードの数々。中でも最高に笑ったのは、「その結果」「鰹」等の、ありきたりの日本語がイタリア人の耳にはどう聞こえるか、また赤ちゃんの産まれたイタリア家族の親バカぶり、などなどだ。

イタリアの国と文化は'90年代以降、日本では驚くほどポピュラーになり、人気が出た。それ以前の状況を覚えている人間にとっては、信じられないほどだ。しかしながら誤解や幻想や贔屓のひきたおしも、たくさん見かけるようになった。若き著者がそうしたズレを正したいと考えるのは、とうぜんのことだ。でも、それをユーモアとウィットでくるみながらやれるところが、彼の頭の良さを示しているのだろう。まことに面白い。



★★★ 供述によるとペレイラは…… アントニオ・タブッキ
2005/08/02

現代イタリア文学のトップランナー、タブッキの'94年の傑作。幻想的ないつもの作風とは異なり、リアリスティックな叙述で人間の生死と意思、そしてファシズム下の社会をまっこうから描いた本作は、伊文学最高のヴィアレッジョ賞を受賞している。

舞台は(なぜかイタリアではなく)ポルトガルのリスボン、それも、サラザール首相が長期独裁政権をはじめた戦前のリスボンだ。隣国スペインでは共和国軍とフランコ将軍が内戦に突入している。そして社会全体を、ファシズムの不気味な影が覆い尽くそうとする時代だ。そのさなか、主人公の中年新聞記者ペレイラは肥満と持病の心臓に悩みながら、社会とは無縁の文芸面の主任として、紙面作りのために大学出の若い助手を雇おうとする。しかし、その助手と彼の婚約者との出会いは、ペレイラの運命を大きく変えてしまうことになる・・

ファシズム前期の社会とは、表向きは法と秩序と民主主義が支配しているように見えながら、じつは情報隠蔽の下、権力者のための暴力的別働隊が、警察の見て見ぬ振りの協力のもと、気に入らぬ人間を文字通り抹殺するために隠然と動く社会だ。タブッキはその不気味さを、落ち着いた筆致の中で描いていく。主人公の疑問に対して、大学教授の友人も、信頼する神父も、満足できる答えをくれない。ヨーロッパで何が起こっているか、隣国スペインで何が起こっているか不安に思わないのか、との問いに、「だいじょうぶ、ここはヨーロッパじゃないからね」と答える友人が象徴的だ。

この小説は、典型的な序破急の展開になる。最初はゆっくりと穏やかにはじまり、しかし半ば頃から主人公は目に見えぬ何者かに心を乱され、最後に物語は疾走する。心臓を気にしてずっとレモネードを飲んでいたペレイラが、決意の日、カフェで辛口のポルトを飲み干し、亡き妻の写真を鞄に入れて出発するシーンは感動的だ。彼と似た時代を生きる今日のわれわれにとって、必読の小説である。



★★★ モモ ミヒャエル・エンデ
2005/07/23

素晴らしい。この名作に、これ以上なにを言うべきことがあるか。

「時間がない、時間がない」と口癖のように悩む大人たちがどんどん増えているのは、『時間どろぼう』が時間を盗んでいるせいだ。この物語は、その時間どろぼう達にたたかいをいどんで、みごと彼らをうち倒す少女モモの活躍を描いている。しかし、時間どろぼうが活躍しはじめる前の第1部で、エンデはたっぷりと、この不思議な孤児の魅力を書く。これが物語に奥行きを与えてくれるのだろう。

そして、時間どろぼう達の手口と、その最初の犠牲者となる床屋とのやりとりの面白さ。モモの伴侶として活躍する亀のとぼけた味。どれもじつに面白い。あらゆる多様な人間を、均質な経済原則で平らなのっぺらぼうにしていく、今日の文明スピードの不気味さが、この物語の基調音として鳴っている。あいにく私たちの現実世界には、どこにも無敵の少女モモはいない。だからこそ誰もが、自分の心の中にいるモモを掘り当てるべきなのだろう。世界中のすべての大人と子どもにとって楽しめる、また読むべき一冊である。



 ★★ 死のフェニーチェ劇場 ドナ・M・レオン
2005/07/20

'91年度サントリーミステリー大賞に輝く本書は、ヴェネツィア在住のアメリカ人女性の作品だ。そのヴェネツィアの由緒ある歌劇場の名前が、フェニーチェ劇場である(本書の出版後に火災で焼けたが、現在はまた再建されている)。「椿姫」の上演中、幕間に世界的指揮者が急死する。ヴェネツィア警察のブルネッティ副署長がその謎を追求していくうちに、次第にオペラ関係者の私生活の秘密が暴き出されていく、といった筋書きだ。

本書の最大の魅力は、ヴェネツィアに住んで暮らす人々の、具体的な日常や感覚が描き出されている点だろう。推理小説としては比較的小味だが、主人公を初めとする人物像の魅力が、ゆっくりとしたストーリー運びを支えている。もっとも、オペラという、芸術と興行と理想と欲望とが交差する、ぎらぎらした世界の内幕を詳しく描いているわけではないから、オペラファンは多少失望するかもしれない。この小説の中心にあるのは、7万人の市民と、その倍以上の外国人住民からなる、奇妙な共和国の、オフシーズンの冬の姿である。そこでは警察もボートに乗ってやってくる。ただし本の中には地図が一切ないから、固有名詞の中で迷いたくなければ、別に地図を用意しながら読みすすめる方がよい。




★★★ 細川日記(下) 細川護貞
2005/07/01

下巻では、東条英機内閣崩壊後、一時のつなぎでしかなかった寺内内閣の組閣、鈴木内閣への政権移行、そして終戦の聖断と処理を巡る顛末を記して、ようやく敗戦後の宮様内閣・東久邇首相の日本に至る。しかし、著者・細川の叔父であり、また政界へのリード役でもあった近衛文麿は、占領軍に新憲法の素案を上申したその直後に、戦争犯罪人として召喚を受け、自殺してしまう。そのあたりから細川の日記は急に生彩を失い、空白の日が続くようになって、昭和21年秋に唐突に終わる。

細川日記の下巻を読み通してつくづく感じるのは、日本中枢を牛耳る上層部の無能と優柔不断と無責任が、降伏の判断を遅らせ、無意味に国民の被害を増大させたことである。昭和18年の末には、じつは日本の戦況不利は様々な観点から明らかだったのだ。しかし、首相・東条と陸軍統制派の独走を誰も止めることができない。そして、昭和20年に入ってからの8ヶ月あまりで、東京・大阪など主要都市の大空襲、沖縄戦での住民の殺戮、広島・長崎の原爆投下、満州移民や南方前線の兵士の見殺しなどで、100万人近い犠牲者を出してしまった。この人たちの命は、日本国家が少しでも有利な状況で敗戦を決めれば、失われずに済んだのだ。

その責任は、むろん直接には東条英機と、彼を擁護した木戸内大臣にある、と細川は考える。東条は十数億円の政治資金(阿片密売で稼いだ金)を中国に有し、飛行機で日本に運ばせた、とも書いている。それが彼の政治力の根幹にあったらしい。また、頑迷な陸軍、優柔不断な海軍の責任も重い。御前会議で何も意味ある発言をしなかった重臣たち、東条が首相と陸将と参謀本部長を兼任する明瞭な憲法違反に反対しなかった政治家たちにも責任がある、と彼は断ずる。

陸軍は、終戦の聖断が下りた後にも、「天皇制の護持のためには昭和天皇の命令に背くことも可」という、驚くべき倒錯した思考のもと、ポツダム宣言受諾の妨害と戦争継続のためにさまざまな工作をしたことが書かれている。ただし、細川の批判は、東条に信をおいて重用した昭和天皇自身には、決して及ばない。これが彼の属した階層の、あるいは時代の、限界なのだろう。

下巻には、細川日記に登場する多数の人名解説が索引として付されており、これは非常に資料的価値が高い。しかし、この細川日記と人名索引を読み進むうちに、つくづく感じたことが一つあった。

それは、この日本国を動かしているのは、細川日記人名索引に出てくる、ごく一握りの特権階層に属する人々なのだ、という感覚である。そして、それは今現在でも続いているのだ。現に、細川の息子も首相になっているではないか。だから、もし索引の中に、あなたの祖父や、あるいはあなたの伯母の婚家の名前があるのなら、あなたは日本の中枢にいる可能性が高い。しかし、そうでないのなら−−あなたも私も、日本社会に属してはいるが、日本を動かしてはいないのだ。



★★★ 細川日記(上) 細川護貞
2005/06/21

これはまことに驚くべき本である。戦争中の昭和18年11月、細川男爵家の嫡子である著者は、叔父であり、かつて秘書としても仕えた前首相・近衛文麿から、秘密の依頼を受ける。その依頼とは、この戦争に関する実際の情報を内々裏に集めて、昭和天皇の弟君・高松宮殿下に報告することであった。時は東条英機内閣で、政治の要所は陸軍統制派が押さえ、また東条に好意的な木戸内大臣が宮中を仕切っているため、戦争に悲観的な情報は決して天皇には上がらぬ状態になっていた。そこで高松宮経由しか、正確な状況を天皇に伝えるルートは残されていないと近衛は考えたのである。

驚くべき事は何かというと、開戦後2年を経たずして、すでに日本の中枢部の人間が殆ど全員「この戦争は負けだ」と予測していたことである。そして、この戦争の『戦争目的』は何かについて、まだ論争していたことだ。「いかなる負け方がもっとも被害が少なく、将来に希望を残せるか」を検討していた者も軍の一部にいた。

にもかかわらず、それは最高意志決定者である昭和天皇には伝わらず、国民はさらなる苦難を強いられていた。東条は気にくわぬ人間がいると、軍に召集して前線に送り込んでいく。東条内閣のもとでは、召集はすでに名誉でなく懲罰なのだった。

細川は軍・学・政・財界をまわって、数字や事実に基づいた情報を周到に集める。また外電をもとに欧州の戦局を克明に分析し、陸軍と海軍の間の戦略の亀裂にも注意を向ける。彼は非常に知的で明晰な人物だったようだ。「今日の世態は誠に奇態なり。戦争を学びたる軍人は銃後にありて政治経済に従事し、政治経済を勉強したる学生が交戦に従事しおる也。」「昨今の世情は実に共産主義的なり。衣食住につきても皆殆ど悪平等なり」と彼は書く。

しかし、半年経ち一年経っても日本政府の戦争方針は変わらず、次々と海外の拠点を失い犠牲が増えてゆく。細川は、この責任はあくまで東条首相と木戸内大臣にあると考え、ついに、時局を打破するためにはクーデターを起こすしかない、とまで思い詰める。そのとき、「絶対国防圏」なるフィクションが連合艦隊の大敗とともに破れ、ついに東条内閣が崩壊するところで、この日記の上巻は終わる。



 ★★ 野口体操 感覚こそ力  羽鳥操
2005/06/21

故・野口三千三(のぐち・みちぞう)は芸大の体育学の教授であり、「野口体操」と呼ばれるきわめてユニークな活動の創始者だった。「体操」といっても、“体を鍛える”“筋力をつける”などの目的とは無縁な、きわめて独自なからだの動きの探求である。ある意味で野口体操は、それ自体が目的であって、オリンピック的運動能力や根性論などの他の目的に奉仕するものではなかった。本書は、助手として野口を長年サポートした羽鳥操さんによる、ライブ講義記録のまとめである。

野口自身は「原初生命体としての人間」「野口体操 からだに貞く」などの著書の中で、自分の心身観や思想をかなり詳しく述べている。たとえば、“人間は液体を容れた袋であって、内蔵はその中に浮かんでいる”とか、“脳は体がその必要に応じて発明した従者である”といった考え方(感じ方)である。野口は体育の先生としては珍しいくらい思考型の人だったし、また自然科学への理解も深かった。

彼は「体の動きの契機となるのは重さ(重力)である」「次に力を入れたい場所は、現在は力を抜いていなければならない」といった原理をもとに、それを実感し育てるからだの動きをレッスンしていく。私には、野口体操はどこかで、竹内敏晴氏の声のワークショップや、中津燎子氏の英語発音のレッスンに通じるものを感じる。人間は、からだを通じてしか、魂に近づくことはできない。言語思考や、競争的スポーツ観は、むしろその妨げになることが多い。心身の問題に興味を持つ人にとって、きわめて示唆に富む本であると思う。



 ★★ 中空構造日本の深層 河合隼雄
2005/06/07

著者の1970年後半から80年頃の論考・論文をあつめたもの。河合隼雄の中空構造論は、日本社会では統合ではなく均衡で成り立っており、そのため中心は必ずしも力を持たないものがその位置を占める、と考え、その証左を日本神話の中に求める。これに対して、西洋的社会は、中心者が思想原理で全体を統合する構造となっている。そのモデルの違いを理解した上で、両者の比較論を行なうべきだという主張である。

しかし、この本の中で面白いのは、むしろ児童文学や昔話の心理学的解明や、最後の「フィリピン人の母性原理」などの、事実やフィールドワークに基づく論考だ。河合隼雄という人は、あまり理論的思考に向いているひとではなく、臨床というバックグラウンドから知恵や想像力を得るタイプなのだろう。そういう意味で、あまり抽象的な学術論文に近づかない方が、面白いのだと思う。



 ★★ フィレンツェ 高階秀爾
2005/05/29
ルネッサンスの光がイタリアから発したことは誰もが知っている。とくに、その初期の輝きは15世紀のフィレンツェから生まれた。この黄金の世紀のことを、イタリア語ではQuatrocento(1400年代)と呼ぶ。本書はそのクアトロチェントのフィレンツェ美術について解説した本である。

15世紀、つまり中世末期のイタリアは、沢山の都市国家と教皇領から成る、いわば群雄割拠の戦国時代だった。織物と貿易で栄えたフィレンツェ共和国は、実質的には銀行家のメディチ家が支配していた。メディチ家は狡猾な圧政のかたわら、教会建築をはじめ、彫刻・絵画など具体的に目に見えて残る美術に惜しみなく金をつぎ込んだ。さらに、フィレンツェ市独特ののコンクール制度などにより、技能と名誉心に満ちた若い人材が、職人層から『芸術家』として育つことになった。

イタリア・ルネッサンスというと、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロなどの名前が思い浮かぶが、彼らはどちらかというと16世紀に入ってから活躍した人である。初期フィレンツェを飾るのはブルネレスキ(建築)、フラ・アンジェリコ(聖画)、ドナテルロ(彫刻)、ギベルティ(工芸)、マサッチオ(絵画)、そしてボッティチェリ(絵画)などだ。本書は彼らの作品と人となりを丁寧に解説していく。ただしボッティチェリを除けば、これらの人の作品は現地に行かないとほとんど鑑賞できない。そのせいか日本では比較的無名だ。本書は1966年に書かれたが、40年近くたっても状況は変わっていない。

フランス軍によるイタリア侵攻と、トルコ帝国の東地中海制覇によってもたらされた共和国の経済的地盤沈下とともに、フィレンツェ美術の絶頂期はあっけなく終わり、優秀な人材はローマその他に流出していく。ある意味で、フィレンツェという種子がはじけて、イタリア全土で花が実を結んだとも言えるだろう。イタリア美術史の理解を深めてくれる一冊である。



 ★★ 悪人正機 吉本隆明・糸井重里
2005/05/22

糸井重里による、吉本隆明のインタビュー。ただし対談形式にはなっておらず、糸井の短い質問に対する吉本の回答(それぞれ数ページ分)をまとめた形になっている。だから吉本隆明の独演会を聞いているような雰囲気もある。

吉本という人が、60年安保の時代から今日まで、これだけ長い年月を、ずっと現役の『思想家』でいつづけられるのは驚異である。まあ、彼の一番良い仕事は、初期の詩人としての仕事で、文芸批評も詩論も思想論も、それほど素晴らしいものではない、というのが私の意見だ。

しかし社会批評家としての威勢のよさは見習うべきものがあり、それが「情況」などの論評の魅力になってきた。マルクスやらサルトルに頼るいわゆる左翼と違い、彼は常に自分の頭で考えてきたし、また(自分でも認めているように)テレビを通して現代の習俗につねに関心を持ち続けてきた。たいていの日本の知識人は自分の頭で考えたりしないから、彼の異色さがきわだつのである。

糸井重里という人は頭の鋭い人で、インタビューの相手に切り込んでいく角度とスピードがすばらしい。彼の質問を得て、吉本は「どんな仕事でも10年間やり続ければプロになれる」「現代で一番困っているのは中学生と大学生だ」などと、面白いコメントが次々飛び出してくる。あまり内容的な深さの突っ込みは無いが、その分、手短に断章的に読めて、面白い本である。



 ★★ 気流の鳴る音 真木悠介
2005/05/13

真木悠介は、東大社会学で教鞭をとっていた見田宗介氏のペンネームだ。本書は副題を「交響するコミューン」といい、全体にカッコつけた雰囲気が少し鼻について、長く読まずにきた。しかし、友人が「今でも読む価値はある。面白い」とすすめてくれたので、文庫本を手に取ったわけだ。

本書の冒頭部分では、南米の比較的未開の民族のエピソードから、異なる社会では異なる時間感覚や自己のあり方があるのかもしれない、という話で始まる。しかし、本書の相当部分は、カスタネダの「呪術師ドン・フアン」4部作の内容紹介と解説に費やされていて、著者自身の体験にもとづく話ではない。

カスタネダはアメリカ人の若い文化人類学者で、メキシコの呪術師をフィールドワークの対象として選ぶのだが、しだいに調査対象のドン・フアンという人物に圧倒され、傾倒するようになる。ドン・フアンは、自らは自然の動植物と直接対話できる能力を身につけており、また、人からお金を取ってまじないをするような連中を「にせ呪術師」と呼んで軽蔑している。彼の世界観と、カスタネダのアメリカ的世界観との間には、果てしないギャップがある。

ドン・フアンが、カスタネダの野帳(ノート)を指差して、“これがお前のまじない道具だ”と指摘するのが面白い。ノートに記入することで、事物は分類されラベルで整理されてしまうのだ。著者はドン・フアンの世界観をとりあげて、これこそ近代のわれわれの世界観を相対化するものだ、と主張する。しかし、読みすすめる中で、私はむしろドン・フアンの思想が、(本来の意味での)禅の目指す世界に案外近いと感じた。言語的媒介や意味づけを排し、心身の鍛錬を通して事物の直接性に近づくアプローチ。

いわゆる「共同体=コミューン」は現代にもさまざまなものが存在し、そのあり方を構造分析してみせる手並みはなかなか鋭い。しかし、近代をのりこえるために、こんなに回り道をしてお勉強しなければならないのだろうか。その点に、疑問を感じた本だった。



 ★★ インストール 綿矢りさ
2005/05/11

史上最年少・17歳で文芸賞を受賞し、話題になった小説だ。とても良くできた、良質の風俗小説だと思えばよい。この「風俗小説」という言葉は本来、同時代の世の中を活写した小説という意味で、フーゾク=性産業とは関係ない。が、たまたまこの小説はその風俗産業にネット経由で女子高生と小学生が関わり合う、というプロットだ。

10代の女の子を受賞させたのは、出版社側の話題作りの意図によるものだろう。若い女性作家だから、感覚だけで書いているように思われがちだが、この小説はとても巧く書かれている。ことばの選び方も自然で、読みやすくなるよう意識しているようだ。この国の女流文学の伝統を甘く見てはいけない。

ストーリーはさらさらと、淡々と進んでいく。それは主人公の女子高生の部屋の中のように、余計なものが一切無い。表面は何事もなく、しかし深層では乱流状態、というのがこの話のテーゼなのだ。副主人公の小学生の男の子(ある意味では著者の分身だろう)が、ときどき人間に対するリマークをしゃべるが、そこだけはちょっと本音くささを感じさせる。しかし、のっぺらぼうで手がかりの無いこの社会で、自分自身の中に何か確実なものをインストールしようと無意識にもがく若い女性を描いて、見事な小説である。



 ★★ 話を聞かない男、地図が読めない女 アラン・ピーズ+バーバラ・ピーズ
2005/04/21

この本は、「リビジョニスト」の本だ。男女は違う性質を持っており、お互い、自分と異なる価値観と性癖をもつ人種であると心得てつき合う必要がある。そう、この本は説く。著者らは夫婦だが、なるべくそう実践しているのだろう。

この本の主張は単純で、男性は空間認識と論理性と瞬発力にたけており、女性はコミュニケーション能力と感情と持久力に長じている、と。その逆が短所になる。だからタイトルにあるがごとく、“男は話を聞けず、女は地図を読めない”のである。長い進化の過程で生じた脳の構造の違いが、これらの特性の差を生み出す、という(女性脳の方が左右の脳の結合度が高く、局所性が小さい)。

こうした二分法の思考自体が男性的なものだが、両者は連続的なもので、男性的な女性もその逆も存在すると著者らは言う。本書の途中に「男脳・女脳テスト」質問表が入っているのはそのためだ。まあ、その科学的な理屈づけは、かなり怪しげなものだが、男女の特徴の例示は、細かなエピソードを重ねて、かなりうまい。そして可笑しい。

こういう見方は、当然ながら「男女は本質的に同一であり、平等に扱われるべきである」と主張する人たちには、ウケがわるいだろう。とくに、フェミニストに対してはそうにちがいない。

私も、「男女の性質の差は後天的なもので、社会が植え付けたものだ」と長いこと信じてきた。その信念が揺らぎ始めたのは、自分に子どもができてからだ。何も誘導していないのに、長男は機関車などのメカニカルなおもちゃに興味を示し、砂場では競争的な遊びをしたがる。何より、母親のお腹にいるときからすでに、男の子は女の子よりあばれんぼうなのだ。こうした性質の違いは、かなり先天的なものと考えざるを得ない。

本書は、同性愛もまた、大半は生まれたときに決定づけられているという遺伝学者の説に同調している。妊娠初期のある時期に、胎児の脳は性ホルモンを集中的に浴びる時期があり、このときの状況によって、ホモセクシャルやレズビアンの傾向が生まれる(その比が8:1程度で偏っていることも、説明可能になる)。この主張は、同性愛が自分の自由意志の結果である、とするゲイ運動家を憤らせることになるだろう。

男性と女性のつきあいはひどく難しい。両者は性質が違うのに、相手も自分と同じ感覚を持っているはずだと無意識に思うところから、問題は発生する。違いを認識するところから、相互理解は始まるのだ。理由づけはともかく、この本の中に書かれている、相手とつき合うときの心構えやレシピは、それなりに役立つし、それに面白い。もしもあなたが異性とつき合っていたり、同居しているのなら、一読の価値はある本である。



 ★★ 南蛮のみちU 司馬遼太郎
2005/05/06

旅の後半はスペイン・カスティーリャを通って、ポルトガルをめざす。

大航海時代は、スペイン・ポルトガルの「南蛮」2国が突如、世界史の中央に躍り出た時代だった。その地ならしとなったのはアラブ系ムーア人からイベリア半島の支配権をとりもどす「レコンキスタ」運動で、これを通じてイスラムの優れた学術技芸がキリスト教ヨーロッパに流れ込んだ。

その最盛期は以外と短く、スペイン無敵艦隊の敗北以降は下り坂の連続だった。マドリードやトレドの人々と偉大な建築物の風景を通して、もはや過去に属する南蛮文明の姿を淡彩に描いていく。

最終地ポルトガルでは、大航海時代の口火を切った航海王子エンリケの肖像と、かれがポルトガル南端のラゴスに創設した航海学校跡を見る。修道的なテンプル騎士団に属し、終生独身を保ったエンリケ王子が遠洋航海を目指さしていなければ、大航海時代の黄金期も来なかったかもしれない。個人的には、この部分が最も印象に残った。こうした歴史の不思議さを感じながら、小石を岬に捨てるところで、この旅行記は終わっている。



 ★★ 南蛮のみちT 司馬遼太郎
2005/04/15

「街道を行く」シリーズの1冊。この人の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいになりがちだが、随筆の方は多少の演出があってフィクティシャスに感じる。不思議な小説家だ。

日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。

そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

しかし、この旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、司馬遼太郎が楽しんでいる旅行記と言えるだろう。




 ★★ WBS入門 Gregory T. Haugan著
2005/04/09

WBS(Work Breakdown Structure)はプロジェクト・マネジメントの根幹をなす基準情報だ。プロジェクトの遂行に必要な全てのワークを階層的に構成したもので、通常はそれに整理番号を付番する。WBSはプロジェクトの計画段階で作成し、ワーク・スコープと、コスト見積と、作業期間(工数)見積のベースになる。そして遂行段階では、作業指示と進捗コントロール(コスト・スケジュール・スコープ変更)のマスタ・リストとして用いられる。終結段階ではWBSはデータ収集と分析のキー情報となる。

それくらい重要な概念であるWBSは、にもかかわらず良い参考書に恵まれていない。WBSが生まれたのは1960年代だから、ずいぶんと長いこと空白時代が続いていたわけだ。プロジェクト・マネジメントの標準的教科書PMBOK Guideも、2000年版まではWBSについてほとんど何も語っていない。したがって、本書が訳出されたのはまことに時宜にかなったことではある。

本書の長所は、原則論とチェックリストをきちんと押えた、教科書的な作りになっていることだろう。その原則はある意味ではシンプルで、たった2つしかない。それは、
「100%ルールを守れ」
「レベル2にプロジェクト・マネジメント要素を置け」
というものだ。100%ルールとは、ワークの親子関係をトップダウンで分解定義していくときに、子レベルのワークを全て集めたものは、親レベルのワークを100%カバーしていなければならない、という原則だ。東京都を23区に分解したら、区の合計は都のエリア全部をカバーしていなければならぬ訳だ。

レベル2にプロジェクト・マネジメント要素を、というのは、少し説明が必要だ。まず、この著者はプロジェクトをレベル1、その直下のワーク(「フェーズ」に相当する場合もある)をレベル2と数える。これは、WBSをレベル0から数えはじめるエンジニアリング業界などとは少し違う流儀だが、まあ習慣の問題だろう。そしてプロジェクトの最初のレベルに分解する際、忘れずに「プロジェクト・マネジメント」という作業を入れなさい、と説く。これはまことに正統な指摘だろう。というのも、実はこれを忘れるケースが、わが国でも非常に多いからだ。

つい最近も、日本を代表する大手企業のWBSを見せてもらったことがある。レベル1−4まで定義された詳細なものだったが、どこにもプロジェクト・マネジメントという仕事が見あたらない。思わず、「御社ではプロジェクト管理はなさらないのですか?」などと口走ってしまった(こんなことを口にするから、私は仕事をもらえないのだ)。まあ、WBSのどこにもプロジェクト・マネジメントが無かったら、上手にPM管理ができている訳もないのだから、ある意味ではつじつまが合っている。だが、そういう自覚のない大企業がこの国には山のようにあるのだ。

ただし、この本の読者は、著者が「WBSは成果物の階層分解を基本にせよ」という思想を基本にしていることに注意すべきである。そもそも、WBSの世界には、『成果物中心主義』と『作業(プロセス)中心主義』の二つがあって、長らく神学論争を繰り広げてきた歴史がある。著者Hauganは航空宇宙産業で、米国防総省相手のプロジェクト管理にたずさわってきた経歴の持ち主だ。MILのスペックは個別受注品の調達にフォーカスを当てた作りであるため、どうしても成果物中心主義になりがちである。

その点は著者も自覚していると見えて、プロジェクトを主目的によって「成果物」「サービス」「結果」の3タイプに分類し、それぞれに適したWBSのスタイルを提案している(「結果」タイプというのは、組織変革プロジェクトなどのように具体的な産出物が存在しない種類を指している)。そして、「サービス」「結果」タイプではプロセス的な要素を置いていい、としている(というか、そう置くしかないのだが)。

しかし、成果物をBOMのようにブレークダウンしていっただけでは、プロジェクト・マネジメントのような横断的要素が欠落してしまう。したがって、「レベル2にプロジェクト・マネジメント要素を置け」という要請が出てくるのである。

『成果物中心主義』と『作業(プロセス)中心主義』が論争を続けてきたということは、逆にいうと、そのどちらかだけではプロジェクトの記述は不十分なのである。これを克服するための方法は一つしかない。それは、成果物とプロセスの二次元のマトリクスを作成して、その平面の中でワーク・パッケージを作成する方法である。残念ながら、本書ではそこまでは書いていない。そもそも、そんな高等な技術を実行できる企業は、世界のエンジニアリング業界だってほんの1,2社しかいないのだから、まあ無理もないことだが。

本書は、WBS作成の入門者にとっては、それなりに実用的な参考書だ。ただし、原書にない日本版の「付録」が、180ページの本の4割を占めているのは、親切といえるのかどうか。経済産業省のCIO補佐官(外資系コンサル会社)のインタビューなど、なぜWBS入門書のおまけに付いているのか、少々原因不明である。また、付録2にはプロジェクト・マネジメントの初歩的な用語概念の解説もたくさんついているが、ちょっと中途半端であろう。用語の選び方を見ると、そもそもこの本がIT業界の人間をもっぱら読者として想定していることは、よく分かる。監訳者の伊藤衡氏も外資系ITメーカーを転々とした人のようだから、版元の翔泳社のねらいは明白である。翻訳の文章自体はこなれたレベルだが、細かな用語の選び方などは、若干不注意な点が見られて、ときどきちょっと惜しまれる。



 ★★ 都市ヴェネツィア フェルナン・ブローデル
2005/03/19

フランスの歴史家ブローデルによる、肩の凝らない(しかし正確な)ヴェネツィアの歴史案内。地中海世界の専門家らしく、この小さな、しかし巨大な都市共和国とその領土を、歴史と地理の中にあざやかに定置してみせる。それは、さながらムラノ島のガラス細工のように多面的で、さまざまな角度からの光と反射に満ちて、美しい。

写真家クイーリチによる本書の写真も、とても美しい。もともと、きわめてピクチャレスクな水の街なのだ。しかし、その瞬間をフィルムの上に捉えるのは、別の力量である。

とはいえ、訳者・岩崎力のあとがきや細川周平の解説は蛇足であり、がらくただ。この名著に何の価値もつけ加えていない。



 ★★ 釈尊の生涯 中村元
2005/03/14
1963年刊行の本書は、現在、平凡社ライブラリーの一冊として新書版で手に入る。出た当時は、かなり革命的な内容の本だったにちがいない。にもかかわらず、日本の仏教界がこれで大論争に巻き込まれたとか、刷新運動に展開したとか、あまり聞いたことがないのは、不思議なほどである。

著者は初期の仏典や関連資料をよりどころに、仏教の開祖であるシャカ族のゴータマ・シッダッタ、尊称ブッダの出生から出家・悟り・布教・臨終までを、ていねいにたどる。そこからは、一切の誇張や神秘や奇跡的エピソードが、後世の附託としてすべて除外され(ここが第一に論争的なところだ)、等身大の人間としての姿に描かれる。

また、ブッダ自身の思想的な深化も、数々の教典を歴史順に逆にたどるような手法で、その地層をより分けていく。たとえば、苦行を放棄して中道の悟りに至った、とふつうは言われているが、これも後世の仮託であるという。著者の立場は、

「仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした」

「ゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった。彼の説いたのはいかなる思想家・宗教家でもあゆむべき真実の道である。ところが後世の教典作者は右の詩に接続して、仏教という特殊な教えをつくってしまったのである」

という説明に集約されている。こうした意見までをも容認する日本仏教というものの懐の深さに感心すべきなのか、こうした異見さえも無視する日本仏教というものの鈍感さを心配すべきなのか、私のような異教徒には、なかなか定かではないのである。



 ★★ 翻訳語成立事情 柳父章
2005/03/03

「社会」、「存在」、「権利」。現在われわれがごく普通に、基礎概念としてつかうこれらの言葉は、もともと中国語の漢籍には無かった。これは、文明開化の時代に、日本で造語されたものだった。西洋の文献や議論を翻訳するために、先人たちのさまざまな苦心や紆余曲折を経て、単語として定着したものだ。そして、これらは漢字の本家・中国に逆輸出されて、使われている。おそらく現代の中国人は、これらの用語が日本発の外来語だという意識はないだろう。われわれ日本人にも、これが近代の発明になるものだとの自覚がないように。

「近代」もまた、近代日本が発明した言葉だった。「個人」などと同様に、漢籍には多少見えるが、今日のような翻訳語の意味では全く使われていなかった。これが「自然」や「自由」となると、もっと話は複雑だ。自由は本来、『勝手気まま』の意味で、よくない言葉だった。自然(じねん)は仏教用語で、natureとは対比できない概念だ。

「美」は翻訳語成立の時代において、日本語にあった『美しい』という形容詞とは異なる、もっと硬質の概念の訳語となった。「近代以前、日本では『美』ということばで、今日私たちが考えるような『美』の意味を語ったことはなかった」と、著者は断じている。「恋愛」もそうだ。「恋愛」の概念が、実は西洋の心身二元論の枠組みの中にあって、それは伝統的日本の「恋」や「愛」のあり方とは別物であるとの指摘も鋭い。「彼女」が日本の造語であって、女性人称代名詞として以外の意味に発展したのも興味深い。

このように、本書はわれわれ現代の日本人が当然のことのように前提している用語と概念の枠組みを、明治の翻訳語成立事情からひもときながら、再検討するよう読者に迫ってくる。われわれの、二階建て思考の構造を自己チェックするためにも、有用な本である。



 ★★ 首のない女 クレイトン・ロースン
2005/02/26

古本屋の店頭でみつけた幻の傑作。ロースンといえば、J・D・カーと並ぶ不可能犯罪や密室トリックの巨匠で、という風に紹介される。それはそれで間違いではないが、両者は(二人とも米国出身の作家だが)ずいぶんと作風が違う。ロースンの奇術趣味は、いかにもアメリカらしくショービジネスの香りがしており、おどろおどろしいカーの怪奇趣向と全く異なる。

しかし、何よりもロースンは、カーよりもずっとモダンである。不可能犯罪の謎解きにおいて、「いかにして実行したか」だけでなく、「なぜそんな方法をとったか」という動機の面からの推理をしているのだ。その点が、必然性のない密室趣味とは完全に一線を画している。この「首のない女」も同様で、いかにも推理小説ファンならば想像しそうな『顔のない死体』トリックを据えながらも、“なぜ犯人はそんな犯行方法をとらなければならなかったか”が、犯人推理の中心になっているのだ。

ロースンの奇術趣味は、主人公であるマーリニが冤罪で閉じこめられた牢獄から脱出してみせるシーンなどで本領を発揮している。しかし、この小説は、1940年代の米国の娯楽の中心であったサーカスというビジネスの実態を、風俗として見事に描写している。そういう興味からも、とても面白い小説である。



★★★ 現代ヨーロッパの内幕 ジョン・ガンサー
2004/02/13
ベルリンを東西に分かつ壁がたてられた直後の1962年に、この本は出版された。著者のジョン・ガンサーが描いて見せる「現代」とは、そういう分断と緊張と不安の時代だ。第二次大戦の煙塵はどうにか静まったが、平和と豊かさの回復基調のなかに冷たい武器の金属音が混ざって聞こえる冷戦の時代だった。

ガンサーは「内幕もの」といわれるシリーズの創始者だ。ただしケチな対象物の内幕ではない。「アメリカの内幕」「アジアの内幕」「ソ連の内幕」「アフリカの内幕」「ラテン・アメリカの内幕」と、彼のレポートの対象はつねに大陸規模だった。ちなみに本書は、第二次大戦前に出版された「ヨーロッパの内幕」の続編として書かれている。

冒頭、「1930年代、ドイツの首都ベルリンはヨーロッパの燃える心臓であった。したがってこの本もまずドイツからはじめよう」とある。そして東西に切り裂かれた心臓としてのベルリンから始まる。この本を読むと、アデナウアーはかつてルール地方の(ドイツからの)独立運動家だったとか、ド・ゴールは戦前は目立たない士官だったとか、ポルトガルは長らく「善意の」独裁制にあったとか、意外な事実をたくさん学ぶ。

それにしても、ガンサーのようなスケールの大きなジャーナリストが居ないのは、今日の我々の不幸だ。対象に対する客観的で多面的な、しかし暖か味のある視点。何万マイルの旅を惜しまず、何百人もの有名無名の人々とインタビューして疲れを見せないエネルギッシュな取材力。該博な知識と文明観。こうした良きジャーナリズムの伝統が、今日のアメリカからまったく消え去ったとまでは言わない。しかし極めて層が薄くなってしまった。かわりに存在するのは小数の企業グループに支配された、権力になびくメディア屋ばかりだ。

暴れん坊のソ連書記長フルシチョフが、じつは緊張緩和と平和に賭けている、とガンサーは本書で的確に見抜いている。そのフルシチョフが64年に失脚した時、今では信じられないだろうが、『少年サンデー』に「世界平和はどうなる」という記事が載ったのを、小学生だった私は今でも覚えている。それだけ世界政治はビビッドな問題だったのだ。我々の世界がリアリティを失いつつある今日こそ、ガンサーのような著者が求められているのである。



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