考えるヒント

システム・アナリストにとって、世界は練習の課題に満ちている・・

(c) 佐藤 知一


たとえば・・・

怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと (2017-06-18)

研究開発戦略へのシステムズ・アプローチと、モノづくり大国の貧困 (2017-05-25)

「理屈を言うな」という理屈 (2017-03-14)

設計の「なぜ」を考える (2017-03-06)

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事 (2017-01-14)

学ぶ人になりたいか、真似る人になりたいか(2016/10/31)

国際人として最低でも守るべきたった一つのルール (2016-09-12)

技術リーダーの出現をはばむもの (2016-09-05)

職人的であること、エンジニアであること (2016-08-21)

学ぶ時間をどうつくるか (2016-04-11)

見えない壁に突きあたった中堅エンジニアが学ぶべき、三つのこと (2016/04/04)

魚心あれば水心 − 最適なペアを決めるマッチング・アルゴリズムの話 (2016/02/02)

クリスマス・メッセージ:平和のレジリエンシー (2015/12/20)

“仕事が面白くない”症候群とたたかう三つの方法 (2015/09/30)

忘れない、という行き方 (2015/08/15)

好き嫌いということ(を論じて、知的理解の枠組みに至る) (2015/05/05)

ロボットとして生きないために (2015/04/04)

リーダーは組織の主人か? (2015/02/08)

クリスマス・メッセージ:幸せな人 (2014/12/24)

Critical Success Factors - 成功を説明する10の方法 (2014/11/04)

あなたは、どう考えるの? (2014-09-28)

情報とは何か、なぜかくも奇妙な性質を持っているのか (2014/08/05)

反応、感想、そして批評−−受け手にとってより良きリアクションを生むために (2014/07/14)

顧客の顧客を知る、上司の上司になって考える (2014/05/03)

新しい決意と、「今のお気持ち」主義 (2014/03/19)

ハイボールと、本質的安全設計の教え (2014/01/19)

問題症状を治してはいけない (2013/12/11)

システムとはいったい何を指すのか (2013/08/02)

デュルケーム『自殺論』に学ぶ、人間集団に必要な二条件 (2013/06/23)

それは知識ですか、スキルですか、資質ですか? (2013/06/02)

品質工学から見た日本の教育の問題点 (2013/02/16)

Tomorrow will be a better day -- 未来志向のマネジメントのために (2013/01/05)

決める力、決めない力 (2012/11/20)

休むのも仕事のうち (2012/08/08)

Structured Approachができる人、できない人 (2012/07/08)

心の中でヘリコプターに乗れ (2012/04/02)

設計思想(Design Philosophy)とは何か (2012/03/26)

耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い (2012/02/07)

2年後の日本を予測する (2012/01/09)

クリスマス・メッセージ: 地には平和を (2011/12/26)

問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推 (2011/11/10)

失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」(2011/09/18)

埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか (2011/09/10)

ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵 (2011/09/03)

ヒノモト家の人々 − マクロ経済学的素描 (2011/07/11)

今はまだ鎮魂の歌をうたえ (2011/04/26)

「正解のない問題」を考える能力 (2011/04/10)

試験は誰の責任か − 人材のサプライチェーンマネジメント再考(2011/03/05)

新しい販売マネジメント思想こそ、競争力再生の要点である (2010/11/21)

見えないパワーシフト − 生産から販売へ (2010/11/14)

人材のサプライチェーンを正すには (2010/10/16)

組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾 (2010/09/23)

組織のピラミッドはなぜ崩壊したか (2010/09/16)

あなたの上司はなぜバカなのか? − 矛盾したルールにしばられる (2010/07/27)

マネジメントにはテクノロジーがある (20910/07/13)

豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ (2010/07/06)

桜の園、または道具としての組織論について (201004/14)

専門化と総合 − 組織戦略の二つの方法 (2010/04/07)

超入門・問題解決力 − 問題とは何か、課題とはどう違うか (2010/02/19)

時間の中に生きる(2010/01/04)

超入門・ビジネス英語 (2) 発音と息と意思疎通 (2009/08/02)

超入門・ビジネス英語 (2009/07/26)

目標、計画、ターゲット(3)−共通言語をつくろう (2009/06/17)

計画の二重帳簿はなぜ発生するか − 目標、計画、ターゲット(2) (2009/06/09)

目標、計画、ターゲット (2009/06/02)

情報をデータにおとし込む (2009/03/15)

データを情報に変える (2009/02/15)

考えない方法 (2008/12/15)

メーラーを閉じろ (2008/10/18)

究極の管理学とは何か (2008/06/11)

課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)

課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)

頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)

ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)

睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)

睡眠時間の必要 (2007/08/06)

心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)

赤信号をわたる国 (2007/02/25)

なぜ信号機が必要か (2007/02/04)

Christmasメッセージ −−今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2) (2006/11/10)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む (2006/10/29)

ホワイトボードの謎 − 在庫の「見える化」の効用 (2006/09/12)

科学の子 (2006/06/04)

必要な人はいつもたった一人しかいない − その原因と帰結 (2006/04/01)

必要な人はいつもたった一人しかいない (2006/03/06)

Chirstmas メッセージ−−若さと成熟 (2005/12/22)

システムとは何だろうか? (2005/11/26)

頭の良いおバカさんたち (2005/10/23)

スケールアップの法則 (2005/09/29)

モノを買うのか、機能を買うのか (2005/07/21)

決めない人々 (2005/06/21)

英語のLetterとSpirit (2005/03/27)

理系でもなく文系でもない (2005/02/06)

Christmasメッセージ−−障害者とともに暮らす社会を (2004/12/24)

仮説検証のトレーニング (2004/11/06)

静寂の価値 (2004/08/20)

「わかる」ことと「知る」こと (2004/07/06)

SCMにおける意志決定のパラドックス(2)−−「合理的な」決定は可能か (2004/04/18)

SCMにおける意志決定のパラドックス (2004/04/11)

二重貨幣を空想する (2004/03/18)

システムが崩壊するとき (2004/02/06)

一点集中型アプローチの限界 (2003/11/04)

近似値としてのCoreaとJapon (2003/09/24)

ル・コルビュジェのサヴォア邸と自由度の難問 (2003/08/14)

さようなら、留学生相談室。(2003/07/16)

論理的だが、システマティックでない人 (2003/04/18)

リスクにつける薬 (2003/03/19)

資格はユーザーのためにある (2003/01/21)

誰のための資格? (2003/01/13)

海の向こうで戦争がはじまる (2002/12/05)

「英語」の向こう側 (2002/09/22)

ベネズエラの「痛みを伴う」改革 (2002/5/06)

「不況」の根源的問題(2002/3/18)

ぼくらに英語はわからない(2002/1/28)

カウンターベイリング・パワー (2001/10/13)

ANAに乗るおじさんの日記 (2001/7/23)

特別な我が社(2001/2/03)

e爺なる人々(2001/1/10)

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怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと (2017-06-18)

近所の通りを歩いていたら、信号が黄色から赤に変わりはじめたのに、交差点に突っ込んできた乗用車があった。強引に右折して進んでいく。歩道近くの歩行者たちは、あわてて身をひき、皆がひやりとした。車のドライバーは、年配の男性だった。みたところ団塊の世代くらいか。車種はそれなりの中型車だった。

何を怒っているのだろう。わたしは思った。あきらかに、何かに腹を立てているかのような、乱暴な運転だった。別に渋滞でもなく、忙しい通勤の時間帯でもない。だから別のことに腹を立てているのだ。

それにしても、彼は何に怒っているのか。立派な車も持ち、たぶんきちんと家庭もあり、年齢から見て、日本の高度成長の栄光と共に生きてきたはずだ。年金だって、それなりにもらっているだろう。多くの若い人から見れば、うらやむべき境遇ではないか。

もちろん、日常生活には腹の立つ場面はたくさんある。出がけに夫婦げんかでもしたのか、あるいは、好きなチームが夕べ大敗したのか。それとも愛する日本が国際競争力ランキングで先進国中、最下位になったニュースでも見たのか? だが怒りの原因が何であれ、いったん人前に出たら、それに飲まれない分別を身につけているはずの年配ではないか。別のところで腹いせするなど恥ずかしい??それが大人だろうに。

別の経験もある。会社帰りにある店に入ってカウンターに座り、好きなギネスの黒ビールを頼んで、本を読んでいた。すると突然、近くにいた男性(彼もたまたま団塊の世代のようだった)が、「貴方は明るい方ですか、暗い方ですか?」とわたしに問いかけてきた。わたしは一瞬、訳が分からず目をぱちくりしていたと思う。冗談めかしていたが、難詰する口調だ。すぐに、“こんな洒落た店なのに一人で暗く本なんか読みやがって”、と相手が思っているらしいことが見て取れた。余計なお世話ではないか。するとマスターが(その店のマスターが英国人だった)割り込んできて、「この人はこうして静かに飲むのが好きなんでしょう」と取りなしてくれた。

この男性も、わたしに腹を立てたらしい。だが、なぜ? 飲み屋で一人、本を読むのは彼の美学には適わないかもしれないが、迷惑をかけた訳でもない。彼は本当は何か別のことに怒っているのに、はけ口を、たまたまわたしに向けたのだ。

話を、ちょっとだけビジネス方向に向けよう。以下に紹介するのは、ITエンジニアが好む話題=『生産性』をめぐる問答だ。好むといっても、わたしの体験では、多くのITエンジニアは生産性というモノサシを信じていない。かわりに、「できる奴はできない奴の10倍、生産性が高い」「いや、30倍だ」「100倍だよ」「できない奴はゼロなんだから、無限大さ!」と言う風に、モノサシの客観性を無力化する会話を好む。仕事に費やす時間と成果は無関係、天才画家が一瞬のひらめきで創作するようなものだ、という逸話がいいらしい。

−−生産性が人によって10倍違うというお話ですけれど、では、参考までに具体的に測った個人別の数字かグラフを見せていただけませんか?

「そんなものは別にありませんよ。こういうのは感覚論ですから。」

−−そうですか。でも感覚論だけでは、こまる事もありませんか?

「ま、人の評価というか査定はね、やはり主観で決めるしかないと思いますよ。でも特に不都合はありません。」

−−査定はそうでしょう。ですが、顧客が画面を10枚追加しろと急に追加要求してきたとき、生産性の基準が無かったら、どれくらい余計に時間がかかるのか、現有人数で足りるのか、答えられますか?

「そういうのもケースバイケースですね。経験の問題です。」

−−ははあ。でも以前から、FP(ファンクション・ポイント)法とかCOCOMOとか、定量的見積手法が提案されていると聞いていますが

「そんなの実務には使えませんよ。ブレが大きすぎてね。」

−−うーん・・では、どうやってプロジェクト全体の期間や工数の見積をされるんですか。

「教えてあげましょうか。それはね、ウチの場合、営業マンが上の者と一緒に、表を作るんです。横軸に月数をとって、基本設計や実装といったフェーズごとに、毎月何人くらい動員するか、サブチーム単位で人数を記入して、掛け算すれば工数が出ますから。」

−−ああ、マンニング(配員)の表ですね。しかし、その表を作るにしても、システム規模から見て基本設計は3ヶ月でいいとか、設計SEは10人で足りるだろうとか、何か推算はされているはずです。その基準は何ですか?

「(とつぜん怒り出して)そんなの知りませんよ! 営業が勝手に見越して決めてくるんだ! こっちがどんなに苦労しているか知りもしないで、競争に勝てないからって無理に値引きまでして。いい加減にしてくれってんだ!」

日頃から我慢にガマンを重ねて不合理に耐えつつ、そのことを口に出せずに過ごしている人は、あるきっかけで急に怒り出すことがある。怒るなら、本当はその理不尽な上司だか営業だかに向かって訴えればいい。だが組織人ゆえに、感情を押し殺している。自分の気持ちを、見て見ぬふりをしている。そうすると、憤懣の感情が圧縮されたガスのように溜まっていて、直接関係ない方向、本来の理路を指摘した第三者に向けて、突然吹き出すのだ。

エンジニアの生産性を測定するのが難しいのは、事実である。そして多くの知的作業従事者は、自分の生産性を他者に規定されたくないし、ましてや、測って給与を査定してもらいたいとも、思うまい。

しかし、だから生産性は定義できないのだとか、測定しなくていいと考えるのは、プロジェクト・マネジメントの観点からは、全く別である。作業対象の規模のスケールと、生産性の基準が無ければ、工数の見積ができない。見積れなければ、マネーを稼ぐことができず、安定したビジネスが成り立たない。ビジネスが成り立たなければ、エンジニアが落ち着いて技術に打ち込む仕事ができないのも、道理ではないか。もし営業部門がバカでなかったとしたら、見積のブレは逆に、技術屋の側にふりかかってくるだ。

だが、どこかで、そういった「不都合な論理」は自分の心からシャットアウトして、考えないようにしてきたのだろう。自分の中でひそかに『思考停止線』を引いている人びとは、しかし、いつのまにか次第に、この世は理不尽だ、自分は不当に扱われている、と思い始めていく。

あるとき聞いた精神科医の講演によると、怒りには実は三種類あるらしい。3つのモード(様相)があるのだ、という。それは、一過性の普通の怒りと、蓄積された抑鬱性の怒りと、冷えた軽蔑の怒り、である。

最初のタイプの怒りは、イライラやムカッとした感情で、放っておくといつかは発散し沈静化する。これは普通の感情で、誰にでもあるし、生きものとして正常な防御反応であるとも言える。何か問題が生じていることを、自分や周囲に気づかせるのだ。

二番目の怒りは、とくに朝、顕著に生じるものらしい。ああ! また一日がはじまるのか。なんでこの世はこんなにしんどいんだ! 起きるとそう感じて、うめき声を上げる。継続的な恨みや怒りが原因となる抑鬱、暗さである。これは普通、怒りとは意識されない。また、起きて活動するのが非常に億劫である。だいたい鬱の傾向のある人は、朝が辛い。朝は調子いいのに、毎日午後から暗くなっていく人は、まず、いないのだそうだ。

三番目は、やたらと他人をバカにする軽蔑である。日常的・習慣的な軽蔑の態度が、薄められた怒りの一種であることは、はじめて知った。軽蔑は誰にもありうる感情だが、これは心の体温を下げていく性質がある。怒っているのに、自分が怒っていることに気づかせない、いつわりの感情らしい。そして心の病態としては、要注意なのだという。

こうした病態を持つ、怒りやすい人びとには、病識がない。つまり、自分の怒りがこじれてしまっていることに、自覚がない。この人達の心の中には、おそらく、自分は社会から正当に扱われていない、という怒りが伏流しているように思われる。(もっとも、「自分は社会から十分すぎるほど正当に評価されている」と感じる人など、世の中にほとんどいないと思うが、そこは程度の問題だ)

そして、少しずつ他者への攻撃性が高まっていく。普段の日常では栓をして押さえ込んでいるが、何かの機会で噴出する。聞いた話だが、ある種の不祥事を起こした企業がいると、そこの代表番号めがけて、直接被害を受けた訳でもない人びとから、大量の抗議の電話がかかってくるものらしい。とくにTVワイドショーなどで取り上げられると、クレーム電話は一層エスカレートする。なんであれ、他者に「不正義」があり、非難してもいい理屈がつくと、群がる人達がいるのだ。道徳や正義の顔をした、一種のいじめである。

それで、どうしたらいいのか。わたし達が怒りをこじらせないためには、何か手立てはあるのか。

わたしは専門家ではないし、人それぞれに状況は違うと思う。そこで、これから書くのは、わたし個人の考えであることをお断りしておく。

まず、自分の感情に注意を向けることが、第一歩だろう。あ、自分は腹を立ているな、と気づくことだ。これは、言うほど簡単ではない。強い感情の波は、たいてい自分自身を巻き込んでしまい、客観的な味方を難しくするからだ。それでも、練習すれば、少しずつは気づけるようになるのではないか。

また、そのためには、他人の感情にもよく気づくよう、練習するのも一法ではないだろうか。他人の感情に気づきやすくなれば、自分の感情に対する感度も上がるに違いない。

なお心理学者によると、女性の方が男性より感情的に見えるが、案外、自分の感情を見ているもう一人の自分が、心の中にいたりするらしい(わたしは女性の心理は全く不案内なので、受け売りである)。

そして、「感情は育てるものである」という認識を持つことが、第二歩ではないか。こういうことを、わたしは子どもの頃に教わったことがない。だが知的能力が育てるべきものであるのと同じように、感情も大切な心の働きであり、やはり育てるべきものなのだ。情操教育という不思議な言葉があるが、大人になっても、自分の情操を豊かにすることは、必要なのである。

そして三歩目。それは「感情をコントロールする能力」を身につける・・ではない。ここが、一番のキモなのだ。わたし達の文化では、感情は押し殺すものだ、と繰り返し(無言で)教え込まれる。義理や社会の掟に従うために、腸が煮えくりかえりそうでも、それを表に出さずに堪え忍ぶのが立派である、と。そういうドラマを、歌舞伎の「寺子屋」から東映ヤクザ映画まで、いろんなバリエーションで繰り返し提供される。

おまけに、西洋、とくにアメリカ流の近代市民社会の倫理が、「感情より理性」「感情的になってはいけない」と教えている。これをわたし達は近代に、直輸入してしまった。先生方はいまでも、学校でこの建前を教えている。さらに最近の米国流「ポジティブ・シンキング」は、怒りというネガティブな感情を忌避する傾向に、輪をかけている。

だが、わたし達は、あまりにこうした教えに従順すぎたのではないだろうか。押さえ込み、無視した感情は、心の深層に潜り込み、いつか爆発する時を待っているのではないか。わたし達は上手に感情をコントロールできるほど、まだ大人ではないのではないか。それを、素直に自覚すべきではないか。

怒るべきときには、怒るべき相手に、ちゃんと怒る方がいい。それがわたしの考えである。直接相手にぶつけるのが社会的に無理なら、そのあと一人になった時でも、あるいはその日、寝る前でもいい。心の中で、いったん止めてしまった感情を追体験する。正しい対象に対して、ちゃんと感情を解き放つ方が、人間らしい。そうすれば感情は一過性の波として、心の中を去っていく。変に感情を抑えようとすると、むしろろくな事にならない。

それでも気持ちがざわつくときは、ときに短い瞑想をすると効果的だ。心を落ち着かせ、短くても静かな時を過ごすことは、わたし達に心のレジリエンシーを回復させてくれると感じる。

わたしがこんな事を書くのは、わたし自身が、短気で怒りやすい人間だからである。とくにわたしは、利口なふりをして底の浅い会話、論理的なふりをして理屈の通らない説明が、大嫌いである。そういう場面にあたると、つい、強い尋問口調の問いかけをしてしまう。つまり怒ってしまうのだ。だが、自分が怒っていることを自覚できない。自分は正当なことを言っているつもりでいる。

でも、論理的なつもりで、じつは感情的になっている人間ほど、はたから扱いにくい者はない。こうして無用に、人間関係を傷つけてしまう。これで人生、どれだけ損をしたことか。まったく頭を抱えたくなるほどだ。

こうした感情的欠点に気づくようになったのは、本当につい最近のことだ。もっと前に理解していれば、もう少し尊敬される人間、いや、せめてもう少し親しみやすい人間になっただろうに。だから怒りについて、自戒を込めて書いているのである。

成長に価値を見いだせる人は怒りにくい、という。そうだろうな。怒ること自体は、わるいことではない。だが、上手な怒り方と、間違った怒り方があるのだ。目の前のことに怒るのではなく、自分の本当の問題原因に対して怒る方がいい。わたし達は情緒的な文化を持っているのだから、もっと感情という資源を大切にすべきだ。そしていつわりの感情に自分が振り回されるのは、避けた方がいい。だからわたし達は、感情に関する小さなスキルを身につけるべきなのである。自分の感情を、ひどくこじらせてしまう前に。

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研究開発戦略へのシステムズ・アプローチと、モノづくり大国の貧困 (2017-05-25)

「日本は、ものづくり大国だ」という言い方を、よく耳にする。モノづくり大国とはどういう意味なのか、わたしは正確な定義を知らない。GDPの中で製造業の占める割合が、すでに1割台に落ちている国に、ほんとに適切な形容なのかとも思う。だが、あまり正確に定義できる概念ではないのかもしれない。モノづくりが盛んで秀でているなら、「日本は技術大国だ」という言い方だって、同じくらいしても良さそうだ。しかし、なぜかそちらはあまり聞かない。そういう実感があまりないのだろうか?

むろん日本の技術者のレベルは高い。そのことは、いろいろな国で仕事をしてきたエンジニアリング会社の人間として、証言できる。それでも「技術大国」という気がしないのは、なぜだろうか。技術大国という言葉でふさわしいのは、現在、どこの国だろうか。技術大国という以上は、少なくとも、技術者の待遇がよく社会的にも尊敬されていることが、必要条件だろうが。

1950年代から70年代頃までのアメリカは、世界一の技術大国だと自認していたはずだ。その自信が崩れはじめるのは、’80年代に入って日本の自動車産業や電機産業・半導体産業などに、追い抜かれはじめてからだった。当初彼らは、日本が円安と低賃金に助けられて、アンフェアな低価格攻勢をかけているだけだと、高をくくっていた。

だが、プラザ合意で円高にかわっても、日本の勢いは続いた。そこで、途中から彼らは考えを改めるようになる。技術面でも日本に追い抜かれつつあるのだと感じ、本気で対抗策を講じはじめるのだ。たとえばMITが中心になってまとめた、日本の自動車製造の実態調査と、そこから生まれた『リーン生産システム』という概念は、その一つだ。

リーンは赤身の肉のことで、贅肉のない、つまり余分な在庫を持たない生産方式を意味する。それまでの米国流で中心だった、大ロットの見込生産では大量の中間在庫・製品在庫が生じていた。これではせっかく大量生産で低コストを実現しても、在庫金利を生じて効果が減じるばかりか、需要の変化への対応速度が落ちてしまう弱点に気がついた。そこで、流通業のQR(Quick Response)をさらに拡大したSCM(Supply Chain Management)という概念や、APS(Advanced Planning & Scheduling=革新的生産スケジューリング)のツールが開発されるようになった。

もう一つ、日本ではあまり知られていないものに、技術研究政策の変化がある。米国には「国立科学財団」National Science Foundation = NSFという政府組織があって、大学などに学問研究の助成金を出している。このNSFは’80年代の半ばに、産業界のニーズにあった学際的な工学研究を行うセンターを、全米各地の大学に設置する構想をたてた。これがEngineering Research Center (ERC)プログラムと呼ばれる政策である。ERCは、大学と企業の実務家とが、持続的な提携関係を結ぶことを主眼とした組織だ。工学と言っても幅広いが、4つの柱があり、その最初が”Advanced Manufacturing”(先進的製造技術)であった。当時の米国政府の危機感がうかがえるではないか。

現在、NSFは年間約80億円の支援予算を17箇所のERCに支出している。金額もすごいが、わたしが最近知って驚いたのは、このERCの設立運営が、徹頭徹尾、システムズ・アプローチに従ってなされていることだった。世に出て産業界に役立つ技術成果は、単体ではなく、『システム』でなければならないと、NFS/ERCは考えた。システムとは(いうまでもないが)コンピュータのことではなく、構成を持った仕組みの意味である。この政策を調査した科学技術振興機構のレポートhttps://www.jst.go.jp/crds/pdf/2014/RR/CRDS-FY2014-RR-02.pdf を参考に、どんなやり方なのか紹介しよう。

たとえば、高効率の太陽電池用の素子の開発は大切だ。だが、それが電力網全体に重大な役割をはたすには、蓄電・変電・送電などの補助的要素の開発が必要になる。単発的な要素技術だけでは、世の中へのインパクトは小さいのだ。だが大学人は、とかく狭い専門分野を深掘りしたがる。それを防ぐために、ERCでは、「三層モデル」と呼ばれる図を各センターが分野ごとに作成し、研究がその中のどこに位置づけられるか、全体の中で生きるためにはどのような要求を満たすべきかを、つねに意識させている。

上の図は、米国NFSのEngineering Research Centers(エンジニアリング研究センター)のHP からの引用である。第1層は、「Systems Research システム研究」と書かれている面である。面の外側で、右にある楕円の要素は「Stakeholders ステークホルダ」(外部の利害関係者)で、もっと分かりやすく言うと関係する企業やその潜在顧客達や官庁などだ。ここからセンターに対して、要求がもたらされ、逆にセンターからは「製品とアウトカム」が届けられる。アウトカムという用語は日本でもようやく広まりつつあるが、プロジェクトやプログラムの活動が直接間接に生み出す効果である。

第1層の面の中には、「Testbed テストベッド」が並んでいる。ここで、下の第2層から上がってきた技術要素が、他の技術要素と組み合わされて、システム的に実証される。ここが肝心なところで、いくら米国企業の研究開発能力が高いと言っても、しばしばそれは単機能のベンチャー的なものが多い。それが世に出て真に役立つためには、他と組み合わさったときのパフォーマンスやリスクの検討を経る必要がある。これは単機能の企業だけではできない。そこに、大学や他企業と協働するためのERCセンターという仕組みの必要性が生じるのである。

だが、第1層のテストベッドで実証されたものも、すぐ世に出る訳ではない。面の右側には、「Barriers 障害」の箱が並んでいる。ここを通過してはじめて、デビューできるのだ。したがってシステム層では、テストベッドを作るだけでなく、障害が何かを同定し、対策を講じることが行われる。

真ん中の第2層は「Enabling Technologies イネーブラー技術層」である。Enablerという英語は訳しにくいが、何かを可能にする技術、問題解決技術、とでも言おうか。層の内部構成は上と似ていて、テストベッドが並び、そして右にバリヤー(障害)が書かれている。

一番下の第3層は「Fundamental Knowledge 基礎知識層」である。ここの面の中には、基礎研究とバリヤーが並んでいる。ここで生まれた成果は、「Fundamental Insights 基礎的知識」として、第2層に上がっていく(おい、insightは知識ではなく洞察とか見識だろ、と思われた方もおられるかもしれない。英語辞書的にはそうだ。だがinsightは、lessons learnt=教訓などと並んで、組織の中で共有可能なものとして扱われる。洞察や見識では個人に属してしまう。そこであえて知識と訳しておいた)。そしてこの層にもバリヤーが存在する。第2層と第3層には、第1層から「Systems Requirements システム要求」がおりてくる。

そして、ERC(エンジニアリング研究センター)の仕組みをマネージする立場の人達は、つねに自分たちの開発課題の全体像を、具体的な3層モデルの図として描くことが求められる。その中で、予算や人員を、どのレベルのどの課題に重点配分するかを決めていくのだ。また、全体像の図が描かれないと、ERCにはNFSからの予算が下りてこない。いやがおうでも、研究開発戦略をシステムズ・アプローチの中で捉えざるを得なくなる。

・・と、ここまで読んだ読者は、「アメリカの研究政策の話なんて、自分に関係ないから興味ないや」と思われただろう。いや、もう半分以上の読者が読むのを中断してサイトを離れたかもしれない(^^;)。そこで、ここまで読み進められた少数精鋭(?)の読者のために、一つだけ注記しておく。ゲーム業界の話だ。

研究開発とゲームソフト開発では、まったく別の世界ではないか? だが最近、読んで衝撃を受けた記事があった。

21世紀に“洋ゲー”でゲームAIが遂げた驚異の進化史。その「敗戦」から日本のゲーム業界が再び立ち上がるには?【AI開発者・三宅陽一郎氏インタビュー】

という記事である。わたしはゲームを一切やらない人間なので、記事の中の固有名詞はさっぱり分からないし、三宅氏の発言がどこまで正鵠を射ているのかも判断できない。だが、日本人が手元にあるリソースを上手にやりくりする職人芸で勝負をしているウチに、アメリカは集団で科学的に研究開発を進めて、サイエンスの力で一気に逆転していく、という説明には納得感があった。

才能ある個人の職人芸の集合か、それとも組織的で科学的なアプローチか。そこが基本的な問題意識のありかなのだ。

ERCの図の、一番下のレイヤを見ていただきたい。ここは、基礎研究が並んでいる。大学の基礎研究というのは、基本的に研究者が個人個人の興味と能力に従って、進めていく仕事だ。大まかな研究分野はきまっているだろうが、具体的な方向はバラバラ。能力もバラバラ。したがって、普通だったら、その組織からの研究アウトプットは、個人のアウトプットの足し算でしかない。これが普通の大学の組織だ。

この一匹狼の集団に、個人の総和よりも大きな仕事をしてもらうには、どうしたら良いだろうか? 米国NFSが考えたのは、こうした問いなのである。そして彼らは、「仕事のあり方をシステム化する」という方策を思いついた。外界から、システムへの要求事項が入ってくる。それを分析して要件を切り出し、複数のサブシステムに分割する。サブシステムの機能要件はさらに、個人レベルの要素まで落ちてくる。そして、それらは組み合わさって結合テストされ、さらに上位で総合テストにかかる。こうすることで、各個人の仕事のベクトルを、きちんとムダがないように方向付けたのだ。

一人ひとりが個別にターゲットを追いかけている場合は、成果は個人の足し算にしか、ならない。しかし役割分担を的確にして、組織的にダイナミックに動くことで、個人では捕らえられなかった大きな獲物を仕留めることができる。こうして、組織は単なる足し算を超えた能力を発揮する。また、個人個人のムラをなくした、安定した仕事の成果が得られる。ちなみにERCの仕組みは、決してあるスーパー研究者が独裁的リーダーになって、大勢を手足として使うためのものではない。それでは、組織のパフォーマンスは特定の個人の能力と気まぐれに依存してしまう。

最近、日本の大学研究者のアウトプット、とくに国際的なジャーナルに発表する研究論文数が、どんどん減ってきているという問題が指摘されている。多くの論者は、これを、文科省の大学政策(独立法人化や予算削減)に結びつけて論じている。たぶん、そうなのだろう。だが、ひるがえって、成果を個人の足し算以上にするにはどうしたらいいか、積極的な策が提案されているだろうか? 傍からは疑問に思える。

そしてもう一つ、書いておこうか。

組織の仕事のパフォーマンスは、個人の成果の単なる総和。こういう組織、どこかで見たことがないだろうか? ??そう。多くの企業の、営業部門のあり方にそっくりなのである。営業部門の業績は受注額ではかられるのが普通だが、営業マンはたいてい個人プレーで仕事をする。ときには凄腕の営業マンもいるだろう。だが平凡な者も大勢いるし、無能な奴だっているかもしれない。そして戦果は個人プレーの足し算である。

そして大学研究と同じように、日本企業は世界市場で次第に、販売競争力が低下してきている事実がある。円高その他、説明はいろいろあろう。だが、どうやって販売力を、個人の総和以上に高めるかという議論をあまり聞いた記憶がない。優秀な営業マンはいる。だが、有能な営業管理者がいないのだ。セールスの仕組みを、つまりシステムを構想し、作り上げる能力を持つマネージャーが見当たらない。まったく、わたし達の社会はどこを切っても同じ断面が見える。兵士達一人ひとりは勇敢だ。だが、組織を合理的に動かす将軍が、いつも不在なのだ。

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「理屈を言うな」という理屈 (2017-03-14)

15歳の時の4月。高校の入学式を終えたわたし達・新入生は、各クラスでの挨拶と簡単な自己紹介のあと、体育館に集められた。「オリエンテーション」という行事があると言うことだった。どういう行事かの説明はなかった。

新入生ばかり400人あまりが集められた後、体育館の扉が閉められたが、中には先生達の姿はなかった。壇上には学ランを着た屈強な上級生達が十何人か立って、両手を後ろに組み、胸を反らして立って、わたし達新入生をにらみつけた。どうやら『応援団』という存在らしかった。その中の団長格とおぼしき人が壇上の中央に立って、上半身を腰から前にかがめ、わたし達に向かって、かすれた声で

ウース

という声を発した。いや、正確には文字化が難しいのだが、とにかく強引に文字にすると、そういう音声だ。何事か、と驚いてきょとんとしているわたし達に向かって、壇上の、そして左右通路の応援団員達が、わたし達に口々に「返事はどうした!」「声が出てない!!」と大声で怒鳴りつけはじめた。どうやら壇上の人は「押忍(オス)!」とわたし達に呼びかけているのであり、わたし達はそれに対し、同じく「オス!」と大声で答えなければいけないのだ、という理屈が飲み込めるまで、たぶん10分くらい混乱の時間があった。

わたし達がようやく「オス」と声を揃えて返事することができるようになると、今度は校歌斉唱を命じられた。何人か固まって座っているブロックが指名され、校歌の一節ずつを歌え、というのだ。伴奏は応援団の大太鼓だけ。校歌と言っても、わたし達には簡単な歌詞のプリントが、入学手続きのときに、手続き書類の束と一緒に、渡されていただけだった。当然誰も歌えないし、覚えてもいない。無体な要求である。

だが立たされたものの口もきけずに黙っている新入生達に対し、応援団員は怒鳴った。「オリエンテーションまでに覚えろと書いてあったはずだ!」 たしかに配られたその紙をもう一度よく見ると、「オリエンテーションで校歌斉唱の練習をするので、その時までに覚えてくるよう、諸君と約束しておく」と書いてある。だが志望校合格に浮かれている新入生で、そんなものをまともに受け取った者はほとんどいなかった。

応援団員は恩着せがましく、では、一節ずつ我々が歌って示すから、お前たちはそれを復唱して繰り返せ、と指示した。かくて順繰りに新入生達は立たせられ、数節ずつ歌わされた。声が小さかったり、歌詞を間違えたりすると大声で叱られ、良しとされるまで、何度も何度も繰り返させられた。その間、回りの生徒がよそ見をしたり上の空だったりすると、すぐに通路の団員がとんでくる。体育館の扉は閉められ、出口にも守りを固めるように団員が立っている。実際に暴力がふるわれた訳ではないが、ほとんど脅迫的な雰囲気である。このような拷問に近い時間を、あとどれくらい過ごさなければいけないのだろうと、わたし達は思った。

ところで、あるブロックにさしかかって、うまく歌えないといって叱られた何人かの一人が、勇敢にも壇上の応援団員に向かって、必死の声を上げた。「たしかにプリントには『諸君と約束しておく』と書いてありますけれど、僕たちはとくに約束した訳ではありません。」 こうした火に油を注ぐような口答えに、応援団はどう反応するだろうかと固唾をのんだ。はたして、壇上にいる団長格の人は怒って、

理屈を言うな!

と一喝した。全員がしんとなる。そのとき、横に立っていた、もっと小柄で温和そうな人が彼を手で制して、言った(後で知ったが、実はこの人が団長なのだった)。

「たしかに理屈だ。だが、入学したら校歌を覚えるのは当然ではないか。君たちには春休みの長い期間があったはずだ。そんなに大変なことを、君たちに要求した覚えはないし、君たちから『約束できません』と言われた覚えもない。」

こう言われると、誰も反論できない。結局、オリエンテーションは2時間ほど続き、わたし達は校歌の1番はなんとか全員で歌えるようになった。だが校歌は全部で3番まである。明日もまた放課後にオリエンテーションの続きがあるのだ。わたし達はくたくたの心と体を抱えて、家路についた。

それにしても、理屈を言うな、という世界があるのか・・。帰り道、わたしは思った。本サイトの読者はお分かりと思うが、わたしは理屈っぽい人間である。だがわたしの高校は男子校だった。進学校ではあるが、古い高校で、バンカラの気質も残っていた。男社会で、しかも上級生下級生のタテ型序列の強い世界では、理屈を言うな、というセリフが通ってしまうんだ。理が通っても、力でねじ曲げられてしまう場所があるのだ。15歳のわたしは、このとき大きな教訓を得たと思う。

前回、「設計の『なぜ』を考える」で、わたし達は「なぜ」を問いかけたり答えたりするのがヘタだ、と書いた。だが、そもそもわたし達は、議論という行為自体が下手だ。そして、それは文化に多少根ざしたものだと、わたしは思う。理屈を言うな、は普通のノーマルな日本語である。賛成するにせよしないにせよ、意味するとことは誰にも通じる。だが、このセリフを外国語で言えるだろうか? とても難しいと思う。英語なら、”Don’t tell me your reasoning."といった感じだろうか。だが、あまりしっくりこない。イタリア語やロシア語で、これに類する言い方は可能なのか。アラビア語で、あるいはヒンディー語ならどうか。もしかしたら中国語や韓国語なら、似た言い方はあるのかもしれないが。

もちろん、どこの国に行っても、無体な要求、非道な連中は存在する。ただ西洋や中洋のように文化の根底が理屈っぽい社会では、そういう連中でも、自分たちが道理を蹂躙している、という自意識はあるのではないか。意識してやるのと、無意識にやるのでは、大きな違いがある。

理屈を言うな、というセリフは、どんなときに発せられるのか。それは、自分たちが共有している意思や熱情や気分に、水を差すな、という時ではないかと、わたしは考える。場を壊すな、といいかえてもいい。というのは、理屈というのは、自分と対象とを引き離すはたらきがあるからだ。『客観化』と呼んでもいい。自分と対象、自分と相手がほとんど一体化しているときには、理屈は無用で、入り込むスキマはない。たとえば恋愛に理屈はない。あるいはスポーツや勝負事で皆が一丸となっているとき、その行為の中に理屈を持ち出すのはヤボだ。そしてもちろん、上下関係の中にも。

理屈、つまり道理というのは、誰に対しても通用する。つまり公平である。万人に公平に与えられているのが、論理だ。こういうものは、上下関係の中の対話には、いささか邪魔なのだ。たとえば男子校の運動部のような場所では。あるいは一般に、タテ社会の中では。わたし達の社会における運動部(体育会)というのは、ある種、軍隊の中の人間関係を再現、ないし予習するための場所である。そこでは論理より熱情が優先される。

そして身分や立場の上下がある間柄には、議論はふつう成立しない。議論は一応、「対等」な間で行うものだからだ。

では、そもそも「議論」とはどのようなものだろうか。わたし達エンジニアが仕事の上で議論するとき、それはどのようなプロセスをとっているか、考えたことがあるだろうか? わたしの理解では、(少なくとも西洋社会では)議論は以下のようなプロセスを経る:

(1) まず参加者の共通の前提や目的を確認する。
(2) 議論の対象となる事実について、客観的・多面的に検討する。
(3) 問題となっていることや対策に関し、相互の意見を出し合う。
(4) 互いの視点や意見を組み合わせて発展させる。
 (ここで揉めたら、(1)や(2)に立ち戻って考え直す)
(5) 合意点を見つける。

つまり議論というのは一種の共同作業であり、一緒になにか建物を建てるような仕事なのである。まず(1)で共通の地盤を固める(ここが無いとそもそも議論にならない)。ついで(2)で、議論という建物の土台をつくる。事実というのはたいてい多面的で、見る人の視点によって見え方が異なる。だからここの部分は念入りに進める必要がある。そして、どちら側も「この上に建てて大丈夫」という風な認識を得るべく、客観的にものごとを記述することをつとめる。そして、このステップには自分の熱情や思い込みを持ち込めない。この『客観化』こそが、対象と自分を切りはなすような、“水くさい”部分なのだ。

その先も一応、順番に意見を応酬し合う、一種の共同作業である。互いにブロックを積み上げ合うような行為だ。そして互いに合意できる結論にたどり着く。それは建物の最上階に見晴台を築くのに似ている。これが議論のプロセス、あり方である。

だから、こうした議論では、基本的に「勝ち負け」がない。対等な立場同士の、共同作業だからだ。また通常の個人間の議論のみならず、学問上の論証も、ビジネスの交渉も、いや刑事裁判でさえ、こうした枠組みの中の『議論』の一種である、というのが西洋風のとらえ方だ。

まあ、議論に勝った負けたはないと言っても、もちろん人間だから、それぞれ途中や結果に対して不満もあり得よう。優位に立った方が、勝ち誇るような態度をとることもある。だが、原則として、議論は勝負ではない(和解に至らぬ民事訴訟やディベートという一種のスポーツは別として)。そしてもちろん、議論とは、どちらが頭がいいかの優劣を決める場でもなければ、言葉による喧嘩や暴力(口げんか)でもない。

こういう認識が文化(OS)の中で共有されていないと、意味のある議論ができなくなる。とくに、議論は口げんかではない、ということは早くから子ども達に教える必要がある。また、自分の意見に意固地にこだわらず、議論を通じて、オープンに変えていけるような態度を身につけさせなければいけない。

そして、議論とは広い意味で「学び」の一部である。なぜなら、「学び」とは考え方や知識や意見の変更をもたらすものであり、議論とはまさにそうした結果を生むためにするものだからだ。議論がきちんとできない組織では、認識も深まらないし、学びも行われない。そうした組織では、きっと同じような思い込みが受け継がれ、同じようなミスが繰り返されるだろう。

人間集団はいろいろな形で、不可避的に「上下関係」「優劣の順位」を作りたがる。それは一種、本能の一部なのだろうし、組織に一定の規律や効率をもたらすといってもいい。ただ、上の意見が下に対して絶対で、「理屈を言うな」という言葉で上下間での対等な議論を抑制してしまうと、組織は硬直化していく。理屈を含む議論はその解毒剤なのだ。少なくともわたしは、そう信じている。

私の高校が今でもあんなオリエンテーションという行事をやっているのかは知らない。たぶん、あんな野蛮なやり方は、今の時勢に合わないだろう。だが、15歳の記憶力はたしかに絶大だった。同窓会で集まると、いい歳したおっさん達が声を揃えて、今でも「こーしゃの、いーしずえ、動きなき〜」と校歌を歌うことができる。それと同時に、わたしはあの「理屈を言うな」という一言を忘れていない。あの一言はわたしに、偉大な教訓を与えてくれた。それは逆説的な仕方でわたしに、道理というものが弱い立場の者をまもる武器にもなりうるのだと、教えてくれたのだ。

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設計の「なぜ」を考える (2017-03-06)

まだ駆け出しだった頃、工場改善コンサルタントの話を聞いたことがある。それなりに面白い話がいろいろあったが、1番よく覚えているのはヘアドライヤーの話だった。このコンサルタントは、製造業、とくに電気系メーカーの設計部門を訪れた際は、必ずヘアドライヤーの冷風スイッチについて、尋ねることにしていると言っていた。

「ヘアドライヤーには、温風のスイッチのほかに、必ず冷風のスイッチがありますよね。御社の製品にも、ついていると思います。ではこの冷風のスイッチは、何のためにあるんですか?」

皆を集めてこう質問すると、たいてい誰も答えない。日本の会社は、皆そうだ。でも繰り返して尋ねると、中には元気のいい若手社員が手を上げて、こう答えたりする。

「はい。それは、あの、夏なんかの暑いときは、冷風で頭を乾かしたほうが気持ちいいからです。」

するとコンサルタント氏は続けて聞き返すのだそうだ。「それは本当ですか? じゃぁ、夏に冷風で頭を乾かしている人、手を上げてください。」実際には、手をあげる人はほとんどいない。そこで彼はとどめの一言を放つ。

「アメリカのメーカーに行ったら、こういう答えが返ってくるんです。『髪の毛は熱風を当てると柔らかくなるが、冷やすと硬くなる性質があるので、スタイリングをするときには最初は温風を当て形を作り、最後に冷風スイッチを使って固めるのです。』・・ところが皆さんはそれを作っているのに、なぜそれがあるかを知らない。」

アメリカの技術や製品を日本に持ってきたときに、何も考えずに形だけ真似するから、こういうことになる。何のためにあるんだか理解しないまま、機能をつけてしまう。そのためムダに設計も検査もコストが上がる。・・コンサルタント氏は私たちに、そう教訓を述べた。

もう一つ彼は例をあげた。「どこの工場に行ってもスパナって言う工具がある。知ってるでしょう? ところでこのスパナって、なんだか妙に握りが太くて持ちにくいじゃないですか。だから職場によっては工夫して、わざわざ細い棒を持ち手側に縛り付けて、持ちやすくしている」(彼は黒板に図を描いた)。「でも、なんでこんなことしなくちゃいけないんです?」??無論、わたし達は答えられない。

「それはね、最初にスパナをアメリカから持ち込んできた人間が、そのままのサイズで複製したんですよ。だからアメリカ人のデカい手に合わせた握りになってる。考えないでただ真似したんじゃ、工夫にならない。」

このコンサルタントの言うことがどこまで正確なのか、私はよく知らない。でもその時の私の頭には、『直輸入技術』の弱さ、脆さが刻み込まれた。それは「技術導入は麻薬のようなものだ」といっていた大先輩の言葉を思い起こさせた。外国からの技術導入は、最初は楽だが、次第に自分で考え、開発する力をなくしてしまう。

わたしはエンジニアである。最近はもう自分で設計する事はほとんどなくなってしまったが、それでもエンジニアだと思っている。なにか設計したら、結果は図面や仕様書に落とし込む。その結果が下流側部門のインプットとなって、関連する設計や調達や製造に使われる。それがエンジニアの仕事だ。

だが、エンジニアとして先輩の仕事に学び、自分の成長の糧とするときには、それだけでは足りない。設計の結果だけではなく、考えと仮説を学ぶ必要がある。先のコンサルタント氏による、冷風スイッチのエピソードは、そのことを示している。「技術を伝える」とは、結果としての形だけを教えるのでは不十分なのだ。「なぜ」そうなのかが大切だ。ノウハウ(Know How)より、ノウホワイ(Know Why)が大事だと、わたしの勤務先のトップマネジメントも、よく口にしている。

だから設計をするときには、設計の理由を記した設計ノートやメモやコメントを、なるべく作って残すようにしましょう。

・・というだけでは、実は話はまだ終わらないのだ。

なぜなら、わたし達は「なぜ」を問うたり、「なぜ」と問われたりするのに、文化的に不慣れだからだ。そうでなければ、どうして、誰かが大勢に理由の問いかけをしたとき、皆、遠慮したかのように答えないのか。間違っていても、推理を述べればいいではないか。間違いだったら、そこで学べばいい。別に命を取られる訳でもない。それなのに、「間違った答えをいうと恥ずかしい」という気持ちが先に働くから、誰も人前では答えなくなる。あとで廊下で講師をつかまえて、小声で確かめたりする。それで知識を共有できるだろうか。知らないことの方がもっと恥ずかしいはずなのに、皆が知らなければ、怖くないのだ。

「なぜ」の問答に不慣れなわたし達が陥りやすい「なぜの罠」は、何種類か考えられる。

説明1 「そういう慣習だから、昔からそうだから」
 よくある答え方である。上の冷風スイッチと同じだ。これでは理由を説明していることにはならない。

説明2 「目的はこうだから、機能はこうだから」
 なぜ冷風スイッチがあるのですか? それは、冷風を送れるようにするためです・・これは、質問のたんなる言いかえに過ぎない。その機能の目的が、使用者にとってどんな時どのような意義や利便を提供するか、の答えになっていない。答えのはるか手前で止まっているのに、なんだか答えたような気になっているだけである。

説明3 「それはこういう仕組みなんです」「こういう経緯でそうしました」
 ここのボタンを押すと裏で自動的にこのモーターが作動して・・とか、その機能はもともと別の形で実装する予定だったんですが経緯があって・・とか、詳しい説明が続く。だが、それは単に詳細化して説明するだけで、WhyではなくWhat, Howを述べているだけだったりする。こういう答えもありがちである。

説明4 「顧客が(誰かが)決めたから」
 いやあ、お客さんが(あるいは先輩が、他部署が)そうしろと言ったんですよ・・こういう答え方は、WhyではなくWhoを述べている訳だ。言われたことは忠実にやる。しかし言われないと自分では意見やスタンスがない。これは、受注型ビジネスにたずさわるエンジニアに広く見られる傾向ではないか。すなわち、設計へのオーナーシップの喪失である。本当は、これがけっこう深刻な問題だという気がする。

説明5 「自分のセンスで決めました」
 この自信に満ちた答え方は、言い方を変えると「なんとなく決めました」と同じである。設計者のセンスはもちろん、大事だ。設計という仕事は一種のアート(技芸)としての側面があり、設計者の感性を磨くことは訓練の一部と言っていい。センスがあまりにもない人は、ちょっとその仕事に向いていないな、と判断される場合もある。
 だが、感性に頼りすぎる仕事ぶりは、他者にうまく説明できないし、理解もしてもらえない。エンジニアは感性と理性のバランスが大切なのだ。そして、スティーブ・ジョブズ級の感性の持ち主ならともかく、普通クラスの会社員に「俺の感性を信じろ」と言われても、当惑するだけだろう。

結局、こうした罠に陥りやすいのは、設計という仕事において、「なぜ」をあまり問わず、考えない習慣にあると言えないだろうか。

いや! そんなことはない。我々は「設計レビュー」を要所要所で実施していて、そこできちんとチェックしているのだ、とおっしゃる論者もあろう。なるほど。それは素晴らしい。きっとそうした組織では、設計レビューの基準が(それもレビューの方法・手順や体制ではなく、基準が)明確なのだろう。

だが、設計レビューという行為は、しばしば設計書の記述ルールや整合性チェックにとどまる場合が多くないだろうか? つまり、IT分野の例を出せば、設計の「なぜ」を問う代わりに、以下のような項目の確認に時間を費やすのである。
・ネーミングルール
・エンティティ(要素)の洗い出し
・要素間のリレーション
・記述法とフォーマット
・図面間の整合性
・入出力の検証可能性
これはこれで、結構だ。だがこうしたレビューをいくら重ねたって、「いらない機能」「非効率な構造」をあぶり出すのに役に立つだろうか?

かくして、『機能しないレビュー会議』という問題が生じるわけだ(その証拠に、ネットで検索するといろんな関連記事が出てくる)。設計レビューを本当に機能させたければ、きちんと「なぜ」を問いかけ、まともに「なぜ」を答える習慣づけの必要がある。

そもそも、設計のアウトプットが、単なる工学計算の結果ならば、わざわざ誰も「なぜ」を問うことはしない。「この熱交換器の伝熱面積はどう計算したの?」「HTRIの推算式を使いました」「あっそう。」それだけの話だ。そこにはHowはあるがWhyはない。Whyが登場するのは、「この流体は一部が熱で気化して混相になるはずなのに、なぜ液相の伝熱計算式を使ったの?」というような、『判断』が登場する場合だ。

そして、設計業務の一番の肝は、判断(design decision)にある。設計のdecisionとは、本質的にトレードオフ間の決断である。われわれがなにかの設計時に直面するのは、
・安定性と俊敏性
・冗長性と効率性(燃費)
・頑健性と軽量性
・複雑性と保守性
・オマケ機能と製作工数
・品質とコスト・・
といった、「あちらを立てるとこちらが立たず」風の状況下において、どのようなバランスをとるかという決断なのである。そして、決めるためには、なんらかの仮説や推測が要る。「なぜ」の問いは、まさに、設計者の仮説を言語化するためにあるのだ。

設計という行為の中核がこのようなトレードオフの判断である以上、わたしは人工知能(AI)が将来、自動設計をしてくれてエンジニアの職をどんどん駆逐する、などという想像には組みし得ない。AIどんなに発達しても、機械だけでは決して設計問題を自動的には決められないだろう。

なぜなら、それは仮説設定と価値判断だからである。

設計の結論だけでなく、思考のプロセスと判断基準を示すこと。それがエンジニアの仕事であり誇りであってほしいと、わたしは思う。このことは、以前紹介したように、人に説明するとき「なぜ」からはじめるべき(Start with Why)という金言とも一致している。だから、「なぜ」にもっと真剣に向き合おう。

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好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事(2017-01-14)

この図形をいつ、どこで見つけたのか思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただしこの図は、眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、この図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、

を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

こうして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、

をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。よく考えてみるとまさに、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。「生きがい」にはなかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、わたし達は、上の4つの軸のバランスをはかりながら進んでいくべきなのである。

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学ぶ人になりたいか、真似る人になりたいか (2016-09-12)

先週の10月21日(金)に、わたしが主査を務めるプロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会(長いから以後はP&PA研究部会と略そう)で、「プロジェクト・マネジメント教育への新しいアプローチ」と題する報告を行った。P&PA研究部会では数ヶ月前から有志6名が集まって、(仮称)PM教育分科会をつくり、ディスカッションしてきた。その中間発表と、会員同士の意見交換が当日の主な内容だった。

「新しいアプローチ」とはどういう意味か? それは「教えない」ことだ。いや、より正確には「教えすぎない」ことというべきか。わたし達は、教育とは「正解の知識」を伝授することではない 、と考える。マネジメントという行為は、ほとんどの場合、正解のない問いに答えて決断していかなければならない。なぜ正解がないかというと、どのような意思決定であれ、それがプロジェクトにもたらす結果には不確実性がつきまとうこと、また複数の価値基準がしばしば錯綜してトレードオフが生じるからだ。

である以上、「正解となる知識を暗記してすばやく問いに答える」風の受験勉強では、役に立たない。ただ、わたし達がくぐり抜けてきた受験競争では、ほぼ全ての問いに『正解』があり、それにどれだけ近づくかで勝敗が決まってきた。この教育のやり方は、行きすぎるとさまざまな弊害を生む。わたしは大学で定期的に教えているが、よくそうした「教育の害」を実感する。

現代の学生達にとって、学ぶことは、しばしば「目の前に出される課題をなんとかやっつける」ことと同義語になっている。目前の課題を(教科書やネットや友達の答えを見て)なんとか真似てしのぐと、もう忘れてしまう。わたしは授業の初めに、前の週の復習をするのだが、少なからぬ学生の頭の中に、前回の記憶が残っていないので驚かされる。グループ演習で手を動かして理解させたはずの事柄さえ、印象は残っても、知識はきれいさっぱり抜けているのだ。見事なほどの記憶の断捨離である。

そういうことを何年か繰り返したので、わたしは最近では極力、教える知識の量を減らすことにした。WBSとかPERT/CPMとかEVMSとか、さすがにプロジェクト・マネジメントの授業なのだから、話さない訳にはいかない。しかし知識伝達の量はなるべく少なくして、授業の中で考える課題を出すことに腐心している。知り得た知識を自分で吟味し納得しないうちは、身につかないからだ。また毎回、「今週のGood Question賞」を発表して、なるべく良い質問を教師に出すことを奨励するようにした。

それにしても教育が知識の伝授でないとしたら、いったい何なのか。教育の目的とは、「自分の中の不足を知り、自分で『学ぶ力』を身につける」ことである 、というのが、現時点でのわたし達の共通認識だ。教えること(Push型)から、学ぶ力をつける(Pull型)に転換しなければ、少なくともPM教育は機能しないだろう。その観点から、

「教育とは、成長を支援するプログラムのマネジメントである」

と定義し、PM教育のシステム作りとは、PMに興味を持つ者の成長支援プログラムの『プログラム・マネジメント』として構想する。それがわたし達のアプローチである。

分科会のメンバーは現時点で6名、うち1名が大学教員で、残る5名が実務家だ。業種もIT、通信、建設、エンジと多岐にわたる。この6人で、本当に役に立つPM教育のためのシステム(仕組み)を構想し、モデル研修の内容をデザインしている。

後者については手始めに、初学者向けの二日間の集合研修カリキュラムを検討中だ。座学は半日で、残る1日半は「ミッション・インポッシブル」と題するグループ演習になる。詳細はまだ開発中だから省くが、対象者は、ようやく固有技術について目鼻がついてきて、これから人を率いてプロジェクトを進める立場につくような、若手中堅クラスである。業種分野は広く構えて、なるべく多くの専門に共通するPM技術を学んでもらう場としたい。

それにしても、わたし達はセミナー屋でもないのになぜ、こんなことを考えるようになったのか。それはもちろん、皆が職場でプロマネの教育養成に悩んでいるからだ。現代の企業は、教育ということに対する取組みが、ひどくやせ細ってしまった。「会社は教育機関ではない」という言葉も聞かれる。また「業務多忙なときに、教育に割いている時間はない」という事もあるだろう(不況なのに多忙なのはたぶん、人減らしが進んだからである)。そして「即戦力」を求める風潮も強い。

まあ、昔の日本企業はもっと社内教育が素晴らしかったのかというと、そこはまた別の事情もあった。昭和の高度成長時代には、先進技術は欧米から来るものであったし、皆が「先進国」の真似をして、追いつけ追い越せ、でなんとか成長した時代であった。その時代、欧米がまさに日本にとって「正解」であった。だから正解を知って真似ることが、大人から子どもまで国是だったのである。

そのような時代はおよそ20年前、バブル崩壊と共に終わった。欧米を追い抜いて世界一、と鼻高々だったその時、わたし達の前にはもはや、真似をすべき正解は消え失せていた。自分の頭で考えなければならない状況がやってきたのだ。その壁をうまく乗りこえられないまま、真似るべきロールモデル探しで、ずっと企業も役所もメディアも、時間を空費してきたのではないか。

わたしはここで、「学ぶ」ことと「真似る」こととを、区別して使っている。真似ることは、乳児の時からできる。脳にはミラー・ニューロンというものがあって、他者の動きをそのまま真似ることができる仕組みがファームウェアとしてビルトインされているのだ。真似ることで、赤ちゃんは運動能力を身につけ、育っていく。ただ、そこには本能はあれども、目的意識はない。

学ぶことや習うことには、目的意識がある。そして学びには、必ず言語による伝達が伴う(真似には言語は必須ではない)。

目的意識 + 基本的な概念理解(言語化)+ 繰返し練習

これが「学びの基本構造」だ。

学びは、自分の中の不足や未熟を自覚することで起動される。ただ、ここで気をつけなければいけないのは、「学ぶ」つもりで、無意識に「真似る」体勢になることだ。

たとえば、よく他の業界の方から「エンジニアリング会社ではどうPMを教育されているのですか?」とたずねられることがある。PMが確立された業種というイメージが強いからだろう。エンジ会社だってプロマネ育成に悩んでいる点ではかわりがないのだが、まあ、自分の勤務先を例に挙げて、まず、我々のところでは「プロジェクト・エンジニア」という、いわばプロマネの見習いの職種があります、その経験を何年か重ねて、はじめてプロマネに抜擢される訳ですが、もともとプロマネ志向を持って入社する人も多いから、若い段階からそうした職種に配属する訳です・・というようなお話をする。

するときいている人の3人に2人はため息をついて、「ウチじゃプロマネになりたいと思って就職してくる人間なんて皆無です」といわれる。ベースが違いすぎて参考にならない、という訳だ。そこで問いをやめてしまう。あるいは、問いをかえて、PM用のソフトウェアは何をお使いですか、といった質問になり、この業界ではデフォルトで世界的にPrimaveraですよ、英語版ですが、とお答えするとまた、問答は行き止まりになる。簡単に真似られる点が見つからないためらしい。

だが、学びたかったらそこから先が大切なのだ。たとえば、「じゃあ佐藤さんもプロマネになりたくて今の会社に就職されたのですか?」ときいてくる人は滅多にいない。わたしも設計部門に最初入ったのだし、プロマネ志向でない新入社員はたぶん半数以上だろう。そういう人たちを多数抱えてプロジェクトを回す仕組みはどうなっているのか、プロジェクトの効率性やモチベーションを維持するにはどう工夫しているのか、PMO組織はあるのか。そういう点こそ、探るべきだろう。そして、自社とどこが共通してどこが違うのか、何をすべきか考える。

つまり学ぶということには、「共通性を洞察し、言語化する力」が必須なのだ。「学ぶ力」の基礎は抽象化能力だといってもいい。ここが弱いと、学びが真似に陥りやすい。

自分の勤務先の話だと面はゆいから、別の例を挙げようか。たとえばあなたが製造部の人だとする(製造業に興味のない読者は、続く数段落は飛ばしてもいいが)。そしてトヨタかその直系の工場を見学に行ったとする。整理整頓の行き届いた工場、数々のカイゼンの工夫、極小化された仕掛在庫、そして噂に聞くかんばんや自働化やアンドン・・かなわないな、ウチとレベルが違うや、と思う。説明員の人は、壁に張り出された顔写真付き技能マップの前で、トヨタ生産方式の話をする。そして「仕事=作業+改善」という概念で、改善をしないと一人前の仕事をしていることにならないから、皆が職場の問題の見える化を進めて、解決できるようになるため「物づくりより人づくり」に取り組んでいるのです、等と語るだろう。

あまりにもレベルが違うから、一気に自社をその状態にもっていくことは難しい。その時、真似る人は、じゃあどうしようかと考える。そして、カンバン方式だとか、定位置停止だとか、あるいは壁への掲示物だとか、取り入れやすそうな技を真似ようと考えるだろう。

では、学ぶ人はどう考えるか。まず、トヨタは生産計画にもとづいて大枠を決め、平準化で日々の指示を出し、かんばんや自働化を使って日々の細かな変動に対応しているらしいと考える。つまり大きな構造をまず、見るのである。なぜ、ウチと違って、トヨタでは生産計画が成り立ちうるのか。それは自動車という季節性の小さい商品の特性、そして輸出を含む販売力により、出荷量が計画しやすいからだろう。おまけに、日単位の指示についてきてくれるサプライヤー群がいる。だからこそ、在庫を絞って問題を表面化するという曲芸みたいな改善方法が可能になる。

そして、それを支えるのは「仕事=作業+改善」の概念を人々に徹底化したことだと気づく。一方、ウチはどうか。個別性の強い受注生産だ。出荷量は月単位では読みにくい。おまけに、現場の人たちに問題解決をしろといっても、それだけの素地を訓練してこなかった。問題が起きると怒 られた。だから問題が表面化しないよう、むしろ沢山の在庫を抱えることを推奨してきたようなものだ・・。そういう所で無理にカンバン方式を導入しても、現場は回らなくなる。じゃあせめて、組立工程の能力と日々の指示をバランスするところからやってみようか。「ミズスマシ」までは無理としても、まず部品の配膳作業だけでも分業化して、生産の停滞が材料によるものか組立工の技量によるのかくらいは、分かるようにしてみよう・・

学ぶ人は全体の構造を見る。そして自分との違いを考えた上で、取り組むヒントを探す。一方、真似る人は、すぐ取り入れやすいものを探そうとする。つまり、学ぶ人は大技を学ぶ。そして、自分ならどうするかを考える。真似る人は、小技しか真似られないのだ。少なくとも、マネジメントの技術については、そうだ。

お分かりだろうか? マネジメントの分野で、学ぶ力を得るためには、「学び方を学ぶ」必要があるのだ。学び方は一種のソフト・スキルで、練習が必要である。集まって演習できる場が望ましい。だから(話を元に戻すと)わたし達はPM教育の場とカリキュラムみたいなものを構想しようと考えているのだ。教育の目的が、「自分で『学ぶ力』を身につけること」、とはそういう意味である。

そして、わたし達がこんな取組みをはじめた理由は、そもそも企業における教育がやせ細ってしまっているためなのだ。だとしたら、技術者の側が、自分の身を守るために手を結び、互いの学びの場を作っていくべきだろう と、わたしは考える。ベテラン技術者も、そうした動きを側面支援するべきである。

<関連エントリ>

 →「わかる」ことと「知る」こと (2004/07/06)
 →「プロジェクト・マネジメントの教育について」 (2014-01-27)

<参考>
 「“JIT生産”を卒業するための本 〜 トヨタの真似だけでは儲からない」 中小企業診断協会生産革新フォーラム・著

→「革新的生産スケジューリング入門」にもどる

国際人として最低でも守るべきたった一つのルール (2016-09-12)

じつをいうと、「国際人」だとか「国際的」だとかいう言葉が嫌いである。
(えーと、そういえばネットでは、何かを「嫌いだ」というセンテンスで文章を書き始めない方がいい、と聴いたことがある。好き嫌いは人それぞれだし、ネガティブな気持ちを発信すると、他人のネガティブな気分を引きつけるかららしい)
それでは、言い直そう。わたしは「国際人」とか「国際的」といった言葉が苦手である。・・ま、これで何かが変わったかどうかは不明だが。

でも、国際人とは一体、何を指すのか。わたしはそこが今ひとつ、分からない。ちなみに、国際人という言葉は、英語で何というのだろうか。International person? Cosmopolitan? どちらも、なんだか日本語で言う「国際人」とはフィットしないような気がする。たぶん、そういう概念は存在しないのだ。無論、”international"という形容詞はもちろんあって、意味も確立している。ただし人に対しては、あまり使わない。活動だとか、カンファレンスだとか、組織に対して形容することが多いと思う。最近は国際人と呼ぶかわりに「グローバル人材」という言葉が大はやりだが、こちらもGlobal human resourceでは何のことだか分からない。

さよう、その概念や実態はよく分からないのだが、そういうことを言いたくなる気持ちの方は、少しだけ理解できる。なぜなら、わたし達は、他の国と、少なくとも仕事の面では、随分違うからだ。

ご存じの通り、ちょうど1年前、わたしは「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」という著書を世に問うた。とくに海外プロジェクトの進め方について、勘所をまとめた本だ。幸い洛陽の紙価を高め・・とまでは至っていないが(笑)、それなりの評価はいただいている。でも、ときおり、疑問に思われる方もおられるようだ。なぜ、「海外プロジェクト」とひとくくりにできるのか、と。

海外といっても、アメリカ、中国、ベトナム、タイ、インド、英国、ドイツ・・とばらばらではないか。皆、それぞれに文化が違う。個性も癖もある。それを一括りに「海外」と言ってしまっていいのか? 同じ処方箋を書けるのか?−−そういう、もっともな疑問である。

だが、海外プロジェクトについては、ほぼ同じ処方箋で、どこでも適用できるのである。世界各国それぞれに個性的なのは事実だが、日本のビジネス文化だけは、他と飛び抜けて違うからだ。これは数字で証明できないが、長年それなりにいろいろな国で働いてきた、わたしの実感である。

ちなみにホフステッドという研究者は、多国籍企業IBMの従業員の分析を通じて、国民性が4つの次元からなることを明らかにした。その研究結果を見る限り、日本は他から飛び抜けて離れてはいないじゃないか、という反論が聞こえそうだ。

それは承知している。それでも、わたし達は違うのだ。どこが? それは、自他の関係性と、言葉に対する態度において、である。その結果として、契約取引に関する考え方が、ほとんど180度くらい違う。だからビジネス上では危ないのだ。比較文化論的には、全体の違いはたかがしれているだろう。だがビジネス文化だけを取り上げると、大きく異なる。

もう一つ。個人の対等性の概念が薄いのも、わたし達の文化の特徴である。この点は東アジアにある程度共通しているかもしれないが、個人間の鋭い対立を好まない特性とあいまっている点が違っている。その結果、わたし達の社会では、「場」とかグループ・団体への帰属と、人間の上下関係が、行動や判断基準の中心になる。これも自他の関係性のあり方から来る、一つの帰結である。そして、これはマネジメントのあり方に大きく影響している。「日本的経営」といわれる、タテ社会とコンセンサス(責任不在)によるマネジメント・スタイルである。だれもこれを、「アジア的経営」と一般化して呼びはしない。日本と他のアジア諸国とはかなり違っていることを、多くの欧米人は気づいているからだ。

という訳で先日も、サプライチェーン戦略研究部会で海外プロジェクトの進め方について講演した際、野村総研の方から「日本だけ、なぜかくもマネジメントのあり方が違うのでしょうか?」とご質問をいただいた。だが、それは質問する方が逆です、とわたしはお答えした。そういう質問はむしろ、エンジニアリング会社の社員が、シンクタンクのコンサルタントに聴くべき問いでしょう、と。わたしこそ理由を知りたいです、と。そう。この違いに気づいている人は、気がついているのだ。

さらに、他国をよく知らず、自国の枠内でのみ考えたがる点も特徴だ、という声もあろう。だから国際化が課題なのだ、と。だが、これは大きな人口と文化を抱えた大国なら、共通する特徴だとわたしは考える。アメリカだって、中国だって、大衆レベルでは似たようなものなのだ。だから日本のみの問題ではない。

だがそれにしても、もしあなたが国際人だとかグローバル人材にあこがれるのだとしたら、どうしたらいいのか? わたしは「国際人」や「グローバル人材」が何かはよく理解できないのだが、とにかく、日本の国境を一歩でも超えて活躍したいのなら、英語教育家の故・中津燎子氏が、かつて海外に行こうとする若い女性に与えたアドバイスを紹介したい。中津氏は、その娘さんにおっしゃったのだ。

「もし、朝食の席であなたのお母さんが、お茶か何かを食卓にいるあなたに出してくれたら、必ず『ありがとう』と口に出して言うようにしなさい」、と。

それはひどく単純な一言(行動)だ。だが、それを言うことで、母親は自分とは別の人間であることをあらわしている。感謝の言葉は、対等な人同士の時に使うものだ。それは、相手に対するディセンシー(謙虚さ)を示す。他人に何かをしてもらって、それで無言のままだったら、その行為は「あたりまえ」だ、という態度を意味している。いや、もしかしたら、内心ではあなたも感謝しているかもしれない。が、それは相手に確実には伝わらない(ついでに余計な話だが、「ねえ、わたしのこと愛してる?」と『言語による確実な伝達』を要求する^^;のは、ふつう女性の側だ、ということになっている)。だから、言葉にして伝えることを、自分のルールとする。 それを、習慣として自分の中に刻み込むのである。

「他人に何かをしてもらって」と今、書いたが、母親は他人だろうか? 他人とは、家族の外、身内の外、ムラの外をいうのだ、というのがわたし達の文化的習慣である。それに、そんなのいちいち水くさいじゃないか。

だが、たとえ親子で、上下関係があっても、なおかつ根本では対等な、別個の人格である。だから感謝の気持ちは、言語化して確実に伝えなければ伝わらない??こうした論理で、世界の8割以上の国の文化はできあがっている。

それと同じように、取引において、売り手と買い手は、根本では対等である。そういう論理が、多くの国ではデフォルトである。現実には、立場の強弱もあるし、多くの場合、買い手の方が強い。だが、買い手が王様のようにワガママで、売り手は奴隷のようにふるまうのは「フェアでない」(公正の原理に反する)、というのが西洋社会の通念である。だから、両者の権利と義務をはかりの左右において、公平を期す。それを言語化した「契約」をたてよう、ということになるのだ。

そんな「契約」を、なんと神様が人間との間においたりする。でもって、人間がさらに神様とネゴシエーションしようとしたりする。こういう神話的な物語を小さいときから学んで育ってきたのが、世界の多数派なのだ。まあ、アジアの東側やアフリカのサハラ以南では、そんな神話はあまり見当たらないが、しかし、そのかわりマネジメント層はたいてい欧米で教育を受けてきた人たちであることを忘れてはならない。だから結局、世界のほとんどは契約社会である、という風にできている。

じゃあ、家族に「ありがとう」と言ったら、それですぐ国際人になれるのか? もちろん違う。ただ英語を喋る前に、英語の根底にあるOSを理解しようと言っているのだ。私は礼儀やマナーの話をしているのではない。そうした振る舞いの根底にある思考や行動の習慣(OS)のことを言っている。何も欧米人が家庭でしている事を、そのまま真似ろと言っているのでもない。尊大で、家族に礼も言わない人間だって、きっと中国やアメリカにはごろごろいるだろう。そうではなくて、普段家族に礼を言う習慣がない私たちが、自覚してそれを習慣つけるといいと言ってるだけだ。そしてそれは、手始めに過ぎない。

上に述べた拙著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」では、わたし達が海外でビジネスに取り組む際、身につけるべきOSの要素として、

S+3K

をとりあげた。一番中心にあるのは、

ことである。それにつづいて身につけるべき習慣は、

である。システム・言葉・契約・計画の頭文字をとって、『S+3K』とよんだのである。この最初の2つのKが、今回の話に関係している。

わたしは、エンジニアにとって今後必要となるPM教育やリーダー教育に、こうしたS+3Kの要素をぜひ入れなければいけない、と考えている。誰もが遠くない将来、海外と何かの形で関わる可能性が大だからだ。そのときトラブルになってから、
「え? 目下のベンダーのくせに何で対等に要求してくるんだよ?」
「契約書に書いてあるって、あんなの形だけのセレモニーだったんじゃないの?」
などと、慌てふためいても遅いのだ。

だから、別段、国際人向けの教育コースなどをとらない人にも、申し上げたいのだ。小さな習慣から、自分の中に刻み込んでおいた方が良い。母親がお茶をくんでくれたら、配偶者がコップをとってくれたら、「ありがとう」と声を出して言おう。それで損することは、何もない。

(追記:中津燎子氏が上記のアドバイスをされた話は、「再び なんで英語やるの?」の中だったように記憶しているのだが、今、書棚にその本がないため確認できない。もしかすると 「未来塾って、何?―異文化チャレンジと発音」だった可能性もある)

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技術リーダーの出現をはばむもの (2016-09-05)

「最近の日本の経済はどうですか?」−−外国人と食事をしていると、よくたずねられる話題だ。先週、北米の関連会社から来たエンジニアと食事していた時も質問された。またその前の週にも、フランスで開かれたPM関係の国際シンポジウムの夕食会で、隣り合わせた顔見知りに、まったく同じ事をきかれた。彼は米国のビジネススクールの学部長だった。反対側に座ったインド人(彼は豪州の大学教授だったが)も、興味深そうに聞き耳を立てる。米国もオーストラリアも日本から見れば隣国のようなものだが、こちらの発信力が低いせいか、日本の状況はさっぱり分からないらしい。わたしは答えた。

−−良くないよ。GDPは成長どころか、じり貧だ。株価は一応保っているけど、最近の報道によると、日銀と政府系の年金基金はなんと、上場企業全体の7%もの株式を買って持っているらしい。つまり買い支えているわけだ。

「それはあまり健全じゃないね。でも、かつて日本はあれほど元気だったのに、なぜこんなに長い間、不調なんだ?」

その問いに答えるのは、簡単ではない。経済学者が10人いたら、たぶん10通りの説明があるのだろう。銀行の不良債権のせいだ、というのがかつての説明だった。だがそれが収まっても治らない。少し前には、通貨供給量の不足だ、といって金利をマイナスにまで下げた。法人税率が高すぎるのだ、という解説も聞いた。別の日に、ホテルの部屋で寝転がってCNNを見ていたら、「アベノミクスはなぜ失敗するのか」という題名の解説で、米国のエコノミストが「生産人口の減少が原因だ」と主張していた。だがそれなら、似たような状況にあるはずの欧州、たとえばルクセンブルクは、一人あたりGDPをなぜあれほど高く維持できているのか?

−−経済の専門家じゃないから真の原因はよく分からないけど(と、わたしは答えた)、ビジネスの世界にいる人間として、一つだけ言えることがある。

「なんだい?」

−−日本企業の収益力が全体に落ちていることだ。日本企業はわりと技術志向で、製造業を中心に成功してきた。そして欧米の背中を見て、追いつけ追い越せ(catch up)で走ってきた。だが、日本が世界のほぼトップに立ったとき、「その先」をリードする新しい技術が、あまり生まれなかったように思う。優れた製品も、少しはあった。だけど多くは不況とコストダウン競争の中で擦り切れていったんじゃないかな。

「だが、どうして新しい技術を創れなかったんだ?」

その問いに対する答えは、わたしにはなかった。帰り道にあれこれ考えてみる。ベンチャーキャピタルの不在のためか、大企業の技術的保守体質のせいか。それもあるだろう。ただ、前回書いた英国のブルーネル(「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」参照)のように、前人未踏の大きな構想を抱き、次々に実現していくタイプの技術リーダーが、'90年代以降のわたし達の社会には必要だったのではなかったか。もちろん小山稔氏(青色ダイオード)とか内山田竹志氏(ハイブリッド自動車)とか、幾人かはわたしも思いつく。だが、あまり多く育たなかったことは、たしかなようだ。そもそもそういう職種が必要なことさえ、あまり意識されていないのではないか。

ものづくりの世界では、エンジニアと職人と、どちらもいないと物ができない。ただ、技術リーダーがいないと、収益力のある、すぐれた製品やビジネスは生まれにくいのだ。もし技術リーダーが生まれにくいのだとしたら、エンジニアのマインドセットには、なにか欠けているに違いない。あるいは、企業の側のパーセプションに歪みがあるのか。

日本には大勢の技術者がいる。わたしもまあ、そのはしくれだ。では、技術者が目指すべきキャリアパス上の目標は、どのような姿であるべきか。その問題についてわたしはこのところ、ずっと考えている。「職人的であること、エンジニアであること」http://brevis.exblog.jp/24607574/ の中で、わたしは、[エンジニア] - [職人] - [技術リーダー]の三角形の領域を考えた。エンジニアのキャリアパスは、ある意味、この領域上にある。

三角形の領域の中で、右下から出発するエンジニアが、上の技術リーダーに向かわないで、多くの人がじつは左下の職人的なあり方に向かって、進んでしまう。ここで「職人的」というのは、別に肉体労働ではなくて、知的作業でも、職人的な働き方を好む人たちという意味だ。それは一体なぜなのか。なぜ、上辺に流れないのか。それを考える必要がある。

ただしその場合、この三角形の軸が一体何を意味しているのかを理解しなくてはならない。右の斜辺と、左下の職人の頂点を対比する軸はなにかというと、おそらくそれは、

 <個人> ←→ <組織>

だろう。右辺にいる人たちは、組織の中で働いて、組織というものの力をいわば信じている。しかし職人は基本的に、個人主義だ。日本の職人が個人主義というと、なんだか妙に聞こえるかもしれない。だが、あるいは過去20年間の不況と終身雇用制の崩壊を考えると、多くの技術者たちは、いつ自分が組織から切られても外で生きていけるように、自分個人の職能・商品価値を高める方向に動いた結果なのかもしれない。

では、左斜辺と右下の技術者を対比する軸は何か。意外かもしれないが、これは

 <感覚> ←→ <理知>

の軸だろう。つまり、技術リーダーとか職人的な人たちは、どちらかというと自分たちの感性を中心に物を考える傾向が強い。ところが技術屋とは、経験や勘もあるけれど、あくまでも科学原理にしたがって動くことを旨としている。だからこそ、技術とは移転可能だし、座学で教育可能なのだ。

ところで底辺と、上の頂点を対比する軸は何なのか? わたしはしばらく考えあぐねた。

こういう問題を考えるときには、三つの頂点の裏を考えてみると、ヒントが得られることが多い。裏とはつまり、三つの職種(技術者・職人・技術リーダー)が「行きすぎた形」「そこまで行ってはいけない形」を考えてみることである。

職人の「行きすぎた形」とは何か。それは『アーティスト(芸術家)』だろうと、わたしは思った。では技術者の「行きすぎた形」とは何か。それは『科学者』ではないか。アーティストと科学者は、それぞれこういう特性を持っている:

「アーティスト」

「科学者」

では、上の頂点にある技術リーダーの裏の姿、こうあってはいけない姿とは何なのか? 考えてみるとどうやらそれは、『出世主義者』ということになりそうだと気がついた。出世主義者とは、こういう特性を持っている人たちだ:

「出世主義者」

現実的であるべき技術者や職人が、アーティストや科学者を気取ってもらっては、いささかこまる。だがアーティストも科学者も、世の中全体にはもちろん必要である。それだけの価値があるから、わたし達の社会は彼らを支えている訳だ。では、出世主義者は世の中に必要なのか? わたしはそう思いにくいが、ただ世の中に一定数いるからには、何らかの社会的必要があって存在しているのだろう、とも想像する。

しかし、技術者が三角形の領域の上に向かって動こうとすると、どうもそこで出世主義者の像とかぶるような姿が感じられるのではないか。それが、技術リーダーの成長を難しくしているのではないか。

さて、三角形の底辺と、上の頂点を対比する軸は何だろうか。リーダーシップの軸? 地位の軸?

それは専門性(スペシャリスト)の軸ではないか、というのがわたしの仮説である。あるいは逆に、悪名高き<ジェネラリスト>の軸だといってもいいかもしれない。「自分の専門性を失うことに対する不安」が、おそらく技術者が上に向かう流れを阻害してるのに違いない。しかしわたしは、これを上向きに「インテグレーション能力の軸」と呼ぶことを提案する。ジェネラリストではなく、インテグレーション能力を持った人。事実、ブルーネルとはそういう能力を持つ人ではなかったか。

<インテグレーション能力>


<専門能力>

こう呼べば、技術リーダーも育成可能だとわかるし、自分で成長を目指すこともできる。なお、「リーダーシップの軸」と呼びたいと思う人もいるかもしれない。リーダーシップという言葉は受けが良く、人気が高いが、その内容については社会的・学問的合意がじつは存在しないので、わたしはあまり定義には使わないことにしている。あるいは「管理技術の軸」と呼びたい気持ちも多少あるが、この言い方だけでは誤解を招きかねないので、ここでは避けておこう。

わたし達の社会に必要なのは、このインテグレーション能力を明確にし、技術リーダーの職種を確立することだと思われる。

その職種名を何と呼ぶのか? 私だったら迷いなく、「プログラム・マネージャー」と呼ぶだろう。だが残念ながらこの呼び方は、日本ではほとんど普及していないし、理解もされないに違いない。じつは欧米には、別の候補の名前もあるのだが、長くなるのでここでは省略しておく。

この技術リーダー職種には、価値があるのだろうか? もちろんある。ただし、その価値は労働市場ですぐ取引出来るような価値ではない。だって個人個人で、その仕事の内容は大きく違うのだから。でも、あなたが19世紀英国の経営者だったら、ブルーネルをいくらで雇っただろうか? 相当な価値であることは間違いない。また、仮に、今のあなたの職場に、ブルーネルのような能力のある人がいたとしよう。彼を引き留めるために、あなたの会社はどうするだろうか? 彼のような人を育てるために、あなたの会社はどれだけの労力と投資を支払うだろう?

私たちの住む島国には、人しか資源はないと、小さい時からきかされてきた。だとしたら、わたし達はそういう人材を育てるために、どんな手を打つべきなのか、そろそろ考えるべき時なのではないか。

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職人的であること、エンジニアであること (2016-08-21)

ちょっと贅沢をして家族3人でお寿司を食べに行った。ネタの新鮮さでは界隈で一番という店である。期待通りの、いや期待を超えた美味だったし、いつもは寡黙なメインの寿司職人さんが、珍しくいろいろ話をしてくれた。包丁の入れ方だけでイカはどれほど旨みが変わるか、雲丹は塩水保存とミョウバンを使ったものでは口どけが全く異なること、などなど。サンプルと実演を混ぜて教えてくれた。寿司職人の勤務時間や修業時代についても、語ってくれた。お盆の連休前で、リラックスしていたのかもしれない。

帰り道に、息子が感心したようにつぶやいた。「寿司職人て、なるのはやっぱり大変なんだね。時間も仕事もきつそうだし。でも、それだけ修行したら、あの人みたいな腕になるんだ。」就活が一段落したばかりの息子は、たぶん来年からの自分自身も重ね合わせて、感じ入ったらしい。「それに、あのイカの味の差! すごい技術だよね。」

――技術じゃなくて、技能だな。
わたしは、軽く訂正した。

「技術と技能って、何か違うの?」

――違うよ。技能ってのは、あの板さんみたいに、その人の目や腕にいわば染み込んだ能力のことをいう。これは人についていて、他人にすぐには伝えられない。『属人的』な能力といえるだろう。

「ふうん。」

――ところが、技術というのは違う。技術ってのは、基本的に人に移転可能なんだ。技術の基礎は科学法則とか、経験知だけれど、それは言葉や数式や道具にして、人に伝えることができる。ここが大きな違いだ。

「そうなんだ。」

息子は再生可能エネルギーに関係した仕事を志望している。一応理系の学部を出て修士課程で学んでいるが、工学部ではないのでエンジニアの教育は受けていない。かといって営業とか経理など、事務屋になる訳でもない。では、どういう職種になるのか。どういう風に、腕を磨くべきなのか。そこが関心事なのだろう。そこで、わたしは続けた(誰かにものをたずねられると、いい気になってしゃべり続けるのが、わたしのいつもの癖である^^;)

――職人技と技術の違いを分かっていない人は、世の中に珍しくない。もちろん、どちらも大切なものだ。だけど、自分たちの会社の強みが、どっちで成り立っているか自覚していない企業も多いんだ。たとえば、精密な加工で、高性能な製品を作っている会社がある。そこの技術者たちは、自分たちの設計が良いから、高性能だと思っている。だけど、その精密加工は、じつは現場の職人の技能が支えているんだ。彼らが退職してしまったら、もう設計図どおりに製品を作れない。たとえ作っても、元の性能は出ない。だったら、その会社が大事にするべきなのは誰か。分かるよね。

「現場の人でしょ?」

――うん。あるいは、こういう例もある。超高圧に耐える製品を出している会社だ。微細なずれも許されない。だけど、その中核となる部品は外注先の中小企業が製造していた。その外注先がつぶれたら、あるいは経営者が高齢化で会社をたたむことにしたら、どうやってその製品を作り続けるのか。たずねてもはっきりした答えはなかった。不思議だと思わないか。技術というのは再現性のある結果を出せるから、技術なんだ。生産の継続性が保証できないのに、技術と言えるだろうか。図面を引くだけが、技術じゃないんだ。

「職人の仕事は、再現性がないの?」

――人によって違うだろ。さっきの板さんと、下っ端じゃ、同じ材料の刺身を切っても味が違う。

「なるほど。」

――まあ、大学を出た知的職業の中にも、職人的な仕事はいくらでもある。弁護士だとか、外科医だとか、音楽家とかは、同じケースを扱っても人によって結果が全然違う。だから、職人仕事が低級だとか、まずいとかいってるんじゃないよ。ただね、技術者はそうであってはいけない。同じ条件で設計したのに、材料の量が人によって3倍も違う、というのは技術になっていないんだ。

「設計の上手・下手っていうのはないの?」

――それは確かにあるよ。設計は与えられた条件の中で、科学法則に従いながら、問題を解決できる構造や形や機能を与える仕事だ。手際のよしあし、できばえの美しさや効率の良さ、というのは違いがある。とくに設計上の自由度が大きい、白紙のキャンバスに絵を描くような種類の仕事ではね。それでも、技術者はいつも普遍性を意識していなくちゃいけない。どんなときにも、一定のレベルで結果を出せなきゃプロとは言えないだろ? 経験知は言葉や式や道具にして他人に伝え、後輩の設計が下手なら、育成指導しなきゃいけない。そこまでやって、はじめてエンジニアの仕事は完結したといえる。

「ふうん。」

――ただ、一番良くないのはね、自己認識と、実際に自分がやっていることが、ずれている場合だ。たとえば、『自分はエンジニアだ』と信じながら、仕事のやり方はじつは職人的だ、という人がいる。職人は客観的な数字より、自分の五感を信じる。個人主義で、弟子以外の人に技を伝えるのを嫌う。原理や法則化も志向しない。だから、そういう自己認識のずれがあると、組織がだんだん歪んでいく。

・・そう説明しながら、わたしは職人的であることと、技術者であることの特徴的な違いを、頭の中で拾い出してみた。いろいろな類型化が可能だが、わたしがすぐに思いついた違いは、次のようなことだった:

職人

エンジニア

わたしの連れ合いの父、つまり息子から見ると父方の祖父は、職人あがりだった。だからイメージがつかみやすい。職人は、自分の目で見、鼻で嗅ぎ、手触りによる判断を大事にする。自分の五感を最も信じるのだ。また、職人は徒弟制度の中で育つが、その基本は実地教育であり、懇切丁寧に教えたりはあまりしない。むしろ「親方から盗むこと」「先輩の背中を見て育つこと」を期待される。

そして、職人的であることの何よりの特徴は、仕事に対する態度だ。それは、「自分が納得できる良い仕事がしたい」と強く思うことだろう。職人はもちろん、報酬のために働く。昔は出来高制だったから、たくさん働けば、それだけ良い収入を得られた。しかし、お金より大事なのは、「納得できる、良い仕事」なのだ。職人にとっては仕事の成果が自分にとっての最大の報酬である。逆に、お金は二の次で、自分の興味ある仕事に打ち込んでいくのが、職人的な態度だ。

ところで、わたしの父親は技術者だった。父は早く亡くなったが、それでも大きな影響を受けた(エンジニアリング会社などというところで働いているのも、その影響の一つである)。父は数学や科学的原理を大切にしており、またよく勉強していた。ただ、自分もエンジニアになって分かったことは、科学が十分に説明できない経験知も、非常に大きな比重をしめていることだ。ただ、そうした知識と数式が、技術者教育の基本にある。「移転可能であること」が技術だからだ。

もう一つの技術者の特徴は、「大きい仕事がしたい」と考える人が多いことだ。大きい、は一種の比喩であって、物理的には「世界最小の製品」だって、意味的には「大きな仕事」である。とにかく、先端的な仕事で実績を上げ、名を上げたいという欲求が強い。そこは一種の競争心である。そして、大きな仕事をするに当たっては、技術的な分業体制が必要になる。そのため、組織人であることに抵抗がない点も、エンジニア達の特徴だろう。組織に属し、組織のルールや制約にも黙って従う。そこは、自立心の強い職人たちとは、少し違っている。

では、ものづくりの仕事に携わる人は、職人と技術者の2類型に分けていいのだろうか。なんだか足りないものがあるな・・と考えて、気づいたことがあった。連れ合いの父も、わたしの父も、後年は人の上に立ち、人をリードする立場になっていた。つまり単なる職人や技術者ではない、別の職種になったのだ。人を束ねて、ものづくりを進める。経営者というと身分の話になってしまうから、ここではあえて「技術リーダー」という言葉を使うことにしよう。そう、以前紹介した、ワインバーグの使った用語である。では、技術リーダーとはどういう人たちか?

技術リーダー

技術リーダーはとても実際的な人たちである。彼らは現実感覚、もっといえば自分の直感や見通しを大切にする。同時に、人を束ねる仕事だから、協調性も大事だ。協調性とはいいかえると、「感情やパッションを共有すること」である。また、彼らは後輩の育成指導も大事な仕事と心得ている。こういったリーダーは、たんに素質を見いだすだけではなく、言葉でも教育し、かつ実地訓練で育つと考えられている。

技術リーダーたちが望む仕事は、価値があり、かつ、ちゃんとお金も儲かる仕事である。価値がなければ人々はパッションを失ってしまい、ついてこなくなる。しかしお金が儲からなければ、人を養うことができない。人を大切にし、かつマネーにもこだわる。これが技術リーダーだ。(なお、わたしはこういう人たちを『プロマネ』という言葉でよびたい欲求もあるのだが、そうよんでしまうとかえって狭く受け取られかねないので、このままにしておく)。

こう考えると、ものづくりに携わる人たちには、三つの類型があるように思える。職人と、エンジニアと、技術リーダーだ。三つの頂点が作る三角形の中に、自分を付置してみるのも面白い。そして自分の目指す方向も描いてみる。たいていの理系大卒の人間は、右下隅のエンジニアの卵としてキャリアをはじめる(わたしもそうだった)。その後、エンジニアであり続ける人もいるが、科学原理は脇に置いて、リーダーとして人を動かし、世に認められる(商業的にも)仕事を目指していく者もいる。また科学原理を離れ、職人的になって自分の感覚を頼りに、守備範囲を孤独に掘り下げていく人もいる。どれを選ぶかは上等下等というより、価値観の問題だ。

・・というようなことを考えつつ、さて、こういったややこしい図式を、ほろ酔い機嫌の帰り道で説明するのはなかなか至難だな、と思っていたら、しばらく黙っていた息子から質問があった。

「エンジニアに向いているか職人に向いているかって、会社ではどうやって決めるてるの?」

――それはね、本当はその人の資質で決めるべきなんだけど、たいていの会社ではいわゆる学歴で最初から振り分けているのさ。『技術員』と『技能員』という言葉で呼び分けている会社もある。技術員は大卒で、事務所で計算や図面引き、技能員は高卒で、現場で一生、力仕事、と。昭和時代には、大卒は「人事部」が管理して、高卒は「労務部」が相手する、という風に管理組織まで分けている会社があったくらいだ。

「え、人事と労務って、そういう違いだったの?」

――かつて、一部の会社ではね。そして、大卒はホワイトカラーとしてどんどん上がっていけるけれど、高卒は良くても課長止まり、という会社がほとんどだった。給料も全然違う。あんまりバカバカしいから、みんな子どもは大学に行かせるようになった。日本では90年代の初めに、高卒より大学進学者の方が多くなる逆転現象がおきた。結果として、現場で働く職人はだんだん減って、現場仕事の質は残念ながら、どんどん下がってしまった。その一方で、ホワイトカラーや営業職種は水ぶくれになって、生産性が上がらないことおびただしい。品質問題生産性低下。これが平成不況の症状だ。明らかに、間違ってるだろ?

「何でそんな事になっちゃったのかな。」

――それはね、人間の職種を上下に分けて、それを学歴で振り分けたことだ。職人は肉体労働として卑しんだ。誰でもできて、代わりはいくらでもいると、高をくくった。自分たちの産業が、どれほど職人仕事に依存しているかも理解せずにね。そのくせ高学歴の自分たちは、無意識に職人的な仕事ぶりになって発展力を失っていった。

「技術の進歩で、職人仕事は減らないの。」

――ある種の単純な力仕事は、たしかに減ったさ。だけど確実に残る部分はある。さっきの板さんの仕事を、ロボットで代替できるかな? ああいう手先の細かな技能こそ、日本の宝なんじゃないかな。あの板前さんは大学どころか高校も出なかったみたいな話しだったけど、立派な技量を持っている。日本は学歴社会っていうけれど、じつは「入学歴」にすぎないだろ。

「そうだね。」

――18歳のある日の試験で、人よりたくさん正解を言えたからって、一生優遇されるなんて馬鹿げてる。お父さんの会社はさ、いろいろ問題はあるけれど、一つだけ自慢していいことがあるんだ。それは、大学を出ていなくても社長になれることさ。

「そうなの?」

――そうだよ。俺が入社したときの社長は、高専卒だった。それに、今から10年くらい前の社長も、たしか高専卒だったはずだ。それでいいんだよ、エンジニアリング会社なんだから。エンジニアは技術力がすべてだ。それは、その人が仕事でどれだけ学んできたかってことを示してる。さっきの板前さんの修行も同じさ。学歴ってのは、本当は『学んできた歴史』のことを言うべきだ。社会に出てから、どれだけ学んだかが、その人の本当の価値なのさ。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 (2016-04-18)
 →「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾」 (2010-09-19)

→「革新的生産スケジューリング入門」にもどる

学ぶ時間をどうつくるか (2016-04-11)

前回は、中堅エンジニアがモチベーションを失わずに成長するためには、自分の専門分野以外にも学ぶべきことがある、と書いた。ところで、ここに重大な問題が立ちはだかっている。それは、企業人の学ぶ時間が、次第にうばわれているという事実だ。

普通の企業人は、年間どれくらいの時間を「学び」にあてているのか? 平成23年度調査によると、正社員の延べ受講時間平均は39.5時間だ、という(「人事マネジメント」2012年11月号・門田政己氏の記事より)。
http://www.acroquest.co.jp/company/press/2012/img/20121206.pdf

年間に39.5時間ということは、月にわずか3.3時間だ。週に1時間もない。これでは「学び」どころか、技術やスキルの維持さえおぼつかないではないか。しかもこの数値には、新入社員の集合研修の時間なども含まれている。中堅層だけを抜き出したらもっと少ないに違いない。

この数値の元になっているのは、厚生労働省の「能力開発基本調査」http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/104-1.html である。調べてみると、一番新しい平成27年度では、OFF-JTを受講した者の延べ受講時間平均はのっていない。ただグラフから推算すると、平均24時間弱となり、4年前よりさらに少なくなっている様子だ。また、これは正社員の話で、非正規雇用者への研修時間はもっと少ない。別の政府資料では、20歳代を比較すると1/3程度しかないらしい(「平成25年度年次経済財政報告」 http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je13/h03_01.html)。

わたしが若い頃に聞いた話では、英語を満足に話せるようになるには、だいたい700?1,000時間の勉強が必要だということだ。もし年間24時間しか時間がないのなら、英会話を身につけるのに30年かかる計算だ。定年退職する頃、やっと海外で英語の仕事ができるようになるのでは、まるきり遅いではないか。

もっとも、上記はあくまでOFF-JT、すなわち座学による研修だ。これ以外にOJT(On-the-Job Training)を実施していると、企業側はいうかもしれない。ただしOJTの計画性はどうかというと、平成23年度調査で63%の事業所が「計画的なOJTを実施していると回答」したのだそうだ。逆に言うと、1/3の企業は計画性なきOJT、つまりまあ「俺の背中を見て育て」式の教育をしている訳だ。

こうした統計から分かる事が、一つある。それは、企業に人材教育をする余裕がなくなっている、ということだ。

人が成長するには、時間がかかる。年単位の時間がかかる。昨今の企業は、それを待てなくなっている。だから「即戦力」などという言葉が飛び交うのだろう。それを大学教育に要求したりもするのだろう。大学教育の側にもいろいろな問題はあろうが、マクドナルドのような作業標準化・マニュアル化の努力もせずに、自社の業務にさまざまな特殊性や例外を残したままで、外部労働市場に「即戦力」を求めるのは、どうかと思う。

こまったことに、研修費用を減らしても、バランスシートではすぐ分からない。株主もあまり文句を言わない。だが、それは組織の自滅への道である。まさに、貧すれば鈍す、だろう。

では、どうするか。答えは、自分で学ぶしかない、ということだ。

自分で仕事について学ぶ行為には、『自己啓発』という用語が使われたりする。ちなみに、さきの能力開発基本調査H27年版によると、正社員では年間に「『10時間以上20時間未満』 が20.7%と最も高い」のだそうだ。月に、平均1時間半程度である。これで十分だとは、みな思っていないだろう。だが自己啓発は自己負担が原則である。そんなお金は出せないよ、が正直な気持ちだろうか。

ところで、複数の知人に聞いた話では、米国ではよく大規模なベンダーコンファレンスが開催され、チュートリアルや研修セッションも同時に行われるが、こうした行事に自費で参加する米国人が、けっこう多いのだそうだ。通常は3?4日で、参加費も高い。飛行機代・ホテル代もあわせれば、軽く2千ドル(20万円)以上はかかるだろう。それを自費で? ちょっと信じられない気持ちだが、彼らにとっては、それが自分の能力の保証になるから、なのだそうだ。まあそれがゆえに、多くのセミナーでCertificate(受講証明書)だのPDUをだしたりするのだろう。それが転職時に有利になるのかもしれない。

つまり、彼らは「学び」を自分への投資と考える訳である。株を買ったりするかわりに、自分に投資する。そして、学びに優る投資なし、とも言えるだろう。

わたし達は、なぜ学ぶのか。それは自分への投資だから、である。自己の価値を上げる唯一の方法だから。ここでいう自己の価値は、「社内の地位」とはまったく違う。会社に関わりなく、客観的に評価できる能力の意味だ。

では、何を学ぶのか? これについてはすでに書いた。専門分野も継続した学びが必要だ。そして、それ以外に三つ、視野に入れるべきことがある。

そして、どう学ぶべきなのか。ここでは、学ぶ時間に関して、いくつかのヒントを書いておこうと思う。

1.学ぶ時間は細切れにしてはならない

これが、第一の原則である。スキマ時間に学べる事には、限りがある。断片的記憶はすぐに忘れやすい。だから、集中して時間をとることが必要なのだ。

それを、何日間か継続すること。もし週1,2回しかとれないならば、何週間か継続する。また、本を読むときは、同じ分野のものを何冊か続けて読む。これはわたしが恩師から教わった事でもあった。

思考の成果の質は、集中して考えた累積時間に正比例する。集中できる1時間を2回確保するのと、5分間のスキマ時間を24回分つかうのでは、まったく結果の質が異なる。この原則を理解した方が良い。

2.学ぶ時間は自分で自分を予約する

いいかえるならば、「この日この時間は、学びのためにつかうぞ」と、カレンダー上であらかじめマークしておくのである。学びを、余った時間の中でやろうとしてはいけない(決して余らないからだ)。このやり方を、わたしは同僚のA氏に習った。時間の「天引き」という面白い表現を使う人もいる。給料の天引きと同じように、そこはもう自由裁量の中に入れないのだ。

これを実行するのに一番良いのは、先生について、先生の時間を予約することだ。そうすれば、自分の都合や気分だけでは簡単に変えられなくなる。あるいは、勉強会のような仲間との時間でもいい。一人だけでどうにかしようとするから、結局時間が確保できなくなるのだ。

3.学んだ時間を記録する

つまり、日誌をつける、ということだ。日誌は「日記」ではない。自分の時間の使い方、その実績を記録するのが日誌だ。そこに予定時間と実績時間を記録すれば、なおいい。こうすることによって、(空想ではなく)現実の自分を知ることができる。念のために書くと、これはちょっと恐ろしいよ。“俺ってこれだけしか役立つ時間をつかっていないのか”と、分かってしまう。食べ過ぎた後で体重計の上にのるようなものだ。だが、事実を見ることからしか、改善はスタートできない。

わたしは日誌をつける事を、自著『時間管理術』 (日経文庫)にも書いたし、いろいろなところでおすすめしている。日誌は一種の、時間の家計簿である。時間管理を上手になりたかったら、記録し対面することが不可欠だ。

ただし、時間管理の目的は、時間に吝嗇になる事ではない。それは「何もしない」時間をつくること、いいかえれば、学び考えるための時間を自分につくってあげること、である。その点を間違えてはならない。

最後に、わたし自身の体験をすこしだけお話ししよう。

わたしは2007年に、博士号の学位をとろうと、心に決めた。その動機については、いつか別の機会に書くこともあるかもしれない。テーマはPMである。

そのために社会人大学院に通うという方法もあったが、そうではなく、自分一人で論文をかく、論文博士の道を選んだ。これは、学位取得が会社の命令ではなく、まったくのプライベートの意思だったからである。そのため、平日に大学に通うなどもってのほか。すべて土日と、夜の時間にやるしかなかった。

ただしまったくの我流、徒手空拳ではさすがに難しい。月に一度、大学の先生のところに夜かよって、指導してもらうことにした。予約の時間はたいてい夕方6時半か7時である(まったく迷惑な人間だ^^;)。そして、自分が調べ考えたことを説明し、ディスカッションしてもらう。1回に1時間半程度。それから、学会誌の論文の書き方も指導してもらった(最低でも2本以上ないと、学位審査は通らないのだ)。

これを実行するために、自分用の時間記録のツールをあらたに作った。Excelマクロで、改良しながら今も使い続けている。日誌は以前から書いていたが、こちらはToDoリストと会議出張等の予定時間管理を融合させたツールである。

最初の1年は、インプット学習とアイデア創出だった。
次の1年は学会誌の論文投稿。つまりアウトプット学習である。
(言い忘れたが、学びには「インプット学習→アウトプット学習」の二段階がある。最初は知識を獲得し、つぎにそれを自分で使ってみて、はじめて身につくものだから)

最後の1年は学位論文の総まとめと執筆だった。3年目は勤務先でアルジェリアのプロジェクトにアサインされたり、法政大学の非常勤講師を依頼されたりして、けっこう繁忙だったが、なんとかやりとげることができた(まあ、ラッキーだったと思う)。

この間、わたしはできる限り、毎日机に向かうことを自分に課した。できれば一日1時間。酒を飲んで帰ってきた夜も、たとえ10分でも机に向かう。このために睡眠時間を削るのは本意ではないが、たぶん平均30分程度は減っていたと思う(わたしは7時間眠るのが理想だが、平日は6時間半が平均で、このときは6時間程度だった)。ほかに、自分がついムダに時間を使ってしまう「時間どろぼう」を見つけては退治し、やりくりしていた。

では、学位を取って、何かいいことがあったか? 会社のポジションや給料が上がったか? 答えはNOである。だってプライベートなチャレンジだったのだから、それは最初から承知の上だ。ただちょっと驚いたのは、博士号が会社の奨励資格リストに入っていないことだった。PMP資格を取得したり、TOEICで良い点を出すだけだって、奨励金が出るのに、ドクターは価値ゼロなんですかと、エレベーターで鉢合わせた人事部長にイヤミを言った記憶がある。

ただ、それでも学位取得後は、不思議な巡り合わせがいくつかあって、研究部会をはじめたり、出張先で思わぬ出会いがあったり、部署がかわったりと、公私ともにそれなりに大きく変化したのは事実だ。それが資格に直接関係するとは思わない。だが、自分の得た学びに、なにか機縁があったらしいと感じるのだ。それは学びの修了ではなく、新たな学びへの出発点だった。それと、家族の理解と精神的なサポートもあったことも特筆しておこう。

そうだ。だから、大事なことを最後にもうひとつだけあげておく:

4.応援してくれる仲間や家族をもつこと

一人だけで、学びは達成できない。わたし達は、お互いに成長を支え合うべき存在なのである。

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見えない壁に突きあたった中堅エンジニアが学ぶべき、三つのこと (2016-04-04)

先週の4月2日(土)に浜松市で、合同シンポジウム「サプライチェーン戦略とプロジェクト・マネジメント」を開催した。主催はOR学会・日本経営工学会・スケジューリング学会で、その配下にある「サプライチェーン戦略研究部会」(主査・日本IBM 米澤隆氏)と、わたしが主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」が実行主体だ。

講演者には、倉庫管理システムiWMSの開発元として有名な(株)フレームワークスの渡辺重光会長と、ヤマハの曽根卓朗主席技師のお二人をお招きした。お二人の話はどちらも非常に興味深いもので、渡辺氏はロジスティクスとIoTの広範な展望を話され、曽根氏は通信カラオケの製品開発を題材に、生々しい体験をお話しいただいた。最後にパネル・ディスカッションを行い、わたしもパネラーとして参加した次第だ。

幸い大勢の方に来ていただき、立ち見が出そうになったので椅子を補充したほどだった。製造業の街・浜松でのこうしたテーマへの関心の高さを感じるとともに、遠方からおいでいただいた方々にもお礼を申し上げる。

ところで、なぜ「サプライチェーン」と「プロジェクト・マネジメント」という二つのテーマで、合同シンポジウムを企画したのか、その理由について少しだけ補足説明しておきたい。それは、このところずっとわたしが考えている問題と関連しているからだ。その問題とは、

中堅エンジニアがモチベーションを保って成長するには、何を学ぶべきか

という問いである。わたしはたまに、頼まれて、社会人向けの研修セミナーをすることがある。対象者の多くは、中堅のエンジニアである。実際には技術系に限らず事務系の職種も混ざるが、ここでは「エンジニア」と総称しておく。

中堅とは、年齢で言うと30代から40代くらいまでが中心だ。そろそろ「リーダー」的なポジションにつく頃である。たとえ課長係長といった中間管理職ポストではなくても、自分一人だけでなく後輩や部下を采配し、あるいはときに上司や関連部署を動かして、仕事を達成していかなければならない立場になる。

それは同時に、自分の持つ固有技術だけで勝負できにくくなる年代でもある。20代の若い内は、技術が身につくこと自体が面白い。できなかった計算ができるようになり、分からなかったことを知るだけで成長を実感できる。しかし、同じ技術職を5年、10年とつづけるうちに、ふと不安に駆られるようになったりする。不安とは、今の職場から外に出ても、業界で【専門家】として十分通用するか、といったことだ。その年代はまた、人を使うことの難しさにだんだん気がつくときでもある。

それでも、ユニークな上司や、理解力あるトップに恵まれれば、面白い仕事ができ、力を尽くせる可能性はある。曽根氏の製品開発など、まさにその例であったろう。中堅エンジニアこそ、まさにイノベーションの担い手である。

ただ、それはいつでも、誰にでもあるチャンスではない。中堅の取り組みは、しばしば上司や会社の仕組みという壁につきあたる。あなたが今の仕事をもっと良くしたいと考え、たとえば外部のセミナーなどに聴きに行ったとしよう。刺激的で、ためになる話を聞き、感激して上司に報告する。するとどうなるか?

あなたの上司は、あなたから学びたいとは思わないものである。部下が外で学んできた知識は、むしろ自分の「指導力」にとって脅威となる、とさえ感じるかもしれない。どんなに素晴らしい知恵を仕入れたとしても、それが上司のものの考え方や世界観にあわなければ、はじき返されるだけだろう。かりに上司がそれを受け入れてくれたとしても、会社のルールや習慣にあわない可能性もある。かくて、仕事のやり方を良くしたいという、あなたの意欲は満たされぬままとなる。

では、中堅エンジニアがモチベーションを失わずに、成長するにはどうしたら良いのか。専門技術を掘り下げるだけでは十分でなさそうだと、この層の人たちは感じている。だったら「リーダーシップ」や「人間力」を身につけろ、というのが世間の答えらしい。だがそれは、どうやったら身につくのか?

もっと年配層のベテラン達なら、「そんなのは理屈じゃない」「俺の背中を見て育て」、みたいなことを言いそうである。そいつはご遠慮するとしても(笑)、じゃあどうすべきか。ドラッカーでも読むべきなのか。だがそれも、一足飛び過ぎる。経営者でもないのに、経営論を読むのは面はゆい。それに、世に流通するリーダー像は、有名企業の経営者か、あるいは外資系コンサルタントとかベンチャー経営者ばかりだが、コンサルや起業家をめざすだけが人生なのか? あるいは、出世して経営者にならない限り、面白い人生はやってこないのか。誰もが社長になれるわけではないのに、経営者にならなければやりがいは満たされない、だから出世を目指せ、という人生観は、どこか間違っていないだろうか?


よく会社のトップは、「T字型人材」を求めるという話も聞く。T字型とは、縦と横の二本線からなる形だ。縦の棒は専門分野を狭く深く身につけ、横の棒はいろんな分野を広く浅く知っている状態を表す。つまり、一つの専門分野をきちんと習得しスペシャリストになった上で、異なる分野についてジェネラリストたるべし、ということらしい。これは(理由は長くなるので書かないが)日本の組織が求める一つの典型的人材像である。だが、横の棒を張り出すための勉強は、どうやるのか? まさか百科事典を、はしから読むわけにもいくまい。

これが、現代の日本の中堅エンジニアが直面している、典型的な問題ではないだろうか。自分は個人として成長し、また組織人としてもキャリアを伸ばしたい。だがなんとなく、仕事で見えない壁に直面している。自分は何を、どう学ぶべきなのか。

日本の産業を実際に支えているのは、中堅エンジニア層である。日本を元気にしたかったら、この人たちに元気になってもらうことを考えるべきだ。モチベーションを維持し、成長する方途を示す必要がある。

わたしは、中堅エンジニアが学ぶべき二つのことがあると考えている。

一つ目は、仕事に対するマクロな視点、「仕組み」の理解を持つことである。自分の専門領域というミクロな視点だけではなく、自部署や自社を含んだ、モノとサービスと情報の流れる大きな仕組みを、理解する能力。すなわちサプライチェーンの理解である。わたし達が問題や壁に直面したとき、目を近づけてミクロに解決の穴を探すより、ずっと上から大きな視点で問題構造を理解し、無意識に抱えていた余計な制約条件を外した方が、より根本的な解決策を得ることが多い。だから、サプライチェーン(生産管理や生産計画なども含む)を知ることで、マクロな仕組みを見る力を養うべきである。

もう一つは、仕組みの変え方、人の動かし方の視点だ。こちらは、プロジェクト・マネジメントの理解である。プロジェクトとは、新しいことにチャレンジする際の、人と協働するための方法論である(もっと厳密に言うと、「プログラム・マネジメント」の領域も関連するが、その話は省略する)。ちなみにヤマハの曽根さんは社内的に不本意な状況にあったとき、通信カラオケという(ある意味で卑俗に思われる)製品開発プロジェクトに取り組むことで、自分のモチベーションを維持した。そしてパートナー企業からプロジェクト・マネジメントの技術を学んだことで、自らのリーダーシップを強化できたという。

サプライチェーンと、プロジェクト・マネジメント。エンジニアは、固有技術を一通り身につけたら、この二つを学ぶべきなのだ。だからこそ、この二つをテーマとする合同シンポジウムを、製造業の街・浜松で企画しようと思い立ったのである。

さらにいうと、三つ目の要素もある。それは、一種のソフト・スキルで、わたしが「チャレンジのOS」とよぶものである。OSとは、体系化された思考と行動の習慣、という意味だ。近著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書(副題:グローバルなチャレンジを成功させるOSの作り方)では、これを「S + 3K」と表現したが、中核のSは『システムズ・アプローチ』である。

ただし、こうした知識は、読む・聞くだけでは十分ではない。実践しないと身につかないからだ。実践すれば、必ず問題にぶち当たるだろう。それをどう超えていくか、ここをサポートする方法論が必要だろう。目に見えづらい問題、正解のない問いに取り組んでいくためには、自分の問題を言語化して、他人と共有する場があった方がいい。問題を他人に話せるくらいに自分の頭を整理できれば、解決に半分近づいたようなものだから。つまり、中堅エンジニアのための、互いの学びの場が必要だということだ。

シンポジウム開催は、その一つの取り組みだった。わずか半日のシンポジウムで得られる知識の量は、限られているが、むしろいろんな人と出会える機会の方が貴重である。こうした場を作り続ける努力が必要なのだろう。高井英造先生が東工大CUMOTで主催されてきたサプライチェーン・マネジメントに関する社会人研修コースも、その取り組みの一つだろうし、わたしが今年度から客員教授としてお手伝いすることになった、静岡大学の大学院MOT(事業開発マネジメントコース)もその一つではある。

ただし、継続的に大学などに通うには、時間も金銭的にも負担が大きい。こうした形以外にも、もう少し取り組みやすい形が必要なのではないか。また以前も書いたように、成長のための仕組みには、『報償系』の存在も大事である。MOTによる修了証書授与以外に、なにか考えられないか。

それがどのような仕組みであるべきかは、わたし自身もまだ模索中だ。ただ、わたしのこのサイトが、なぜプロジェクト・マネジメントとサプライチェーンの二つのテーマを中心としているのかは、お分かりいただけると思う。わたし自身もまあ、会社員として何度も壁にぶち当たる経験をしてきた訳だが、このサイトで文章を編み出しながら自分の考えをまとめることで、少しずつではあるが自分を精神的に保ってこられたように思う。

わたしのこのサイトは、そうした意味で、これから新しい仕組み作りにチャレンジする人、仕事のあり方をかえたいと願っている中堅エンジニアのために、役立つものとなっていきたいと考えている。そのためには、本サイトの構成も、さらに変わっていくべきかもしれない。SCMもPMも裾野の広いエリアにもかかわらず、具体的に、生産管理とは何かとか、WBSはどう作るかといったコンテンツを提供しているサイトは、意外なほど少ないからだ。

そしてシンポジウムの最後でご紹介したように、わたし達は研究部会で「PM教育のためのシステム」構想にとりくむつもりである。わたしが『システム』 というときは無論、コンピュータ・ソフトだけではなく、それを含む大きな「仕組み」のことである。こうした模索に対し、心ある方々の応援や協力をいただけるならば、これほど心強いものはない。

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魚心あれば水心 − 最適なペアを決めるマッチング・アルゴリズムの話 (2016-02-02)

Apple初期にMac OSを開発した中心メンバーに、アンディ・ハーツフェルドという伝説的なプログラマがいた。Appleを退社後、独自にSwitcherというユーティリティ製品を開発するのだが、これはシングルタスクだったMacOS上で、複数のアプリを同時に動かせるという独創的なソフトだった。ところで以前、彼のインタビューをよんでいたら、彼が人生で最初に作ったプログラムが、高校のダンスパーティーの男女ペアを自動算出するものだったと書いてあり、笑ってしまった。世界中どこにいたって、魚心と水心の組み合わせは、つねに揉め事の種なのだ。

男女のお見合いから、研究室の配属、そして就活の就職先選びまで、世の中には「求める側」と「与える側」の組み合わせ問題に満ちている。あるいは、デマンド側サプライ側、と言いかえてもいい(男女のどっちが供給側かはともかく)。その典型は、サプライチェーンであろう。需要と供給をどうマッチングさせるのが最適なのか。最適とは、ここでは「お互いに満足度が高い」という風に規定しておこう。

「部分最適から全体最適へ」というのは、SCMの標語でもあった。では、最適なマッチングを具体的に決めるには、どうしたら良いのか? こうした問いに答える研究分野があることを、恥ずかしながらわたしはつい最近、初めて知った。

それを学んだのは昨年11月に、沖縄で開催された経営情報学会に参加したときである。たまたま「マーケットデザインとその周辺」というオーガナイズドセッションに講師として呼ばれ、そこでご一緒した大阪大学の安田洋祐先生と、電通大の岩崎敦先生から、「マッチングメカニズム」論の初歩と、ゲール=シャプレイ・メカニズムとよばれる仕組みのお話しをきくことができた。さらに、こうした研究の業績によって、シャプレイ教授は2012年にノーベル経済学賞を受賞したこともうかがった。そこで今回は、その時の印象的な講義をふりかえりながら、おさらいのために少し一緒に勉強してみたい。

ゲール=シャプレイ・メカニズムとは、マッチング問題を解くための基本的なアルゴリズムである。マッチング問題は、パーティでの男女の組み合わせに象徴されるように、デマンド側とサプライ側が互いに相手への好みを持つ場合に、より満足度の高い組み合わせは何か、という問題だ。ゲール=シャプレイ(GS)メカニズムは、その最適解を生成する手順である。

ここで、まずマッチング問題の前提を少し整理しておこう。まず、何らかの場があって、そこに
- デマンド(需要)側
- サプライ(供給)側
が同数いる。ここでは仮に、男の子がデマンド側で、女子がサプライ側としておこう。それから、誰もが相手に対する好みの順番(『選好順序』)をもっている。が、それは相手側には直接、分からない。また、この選好順序は、ジャンケンのような循環順序ではない、とする。満足度は数値化できないかもしれないが、とにかく優劣は決められるのだ。そして、他に特段の制約条件はない、とする。つまりお金持ちの子が最初に相手を選べるとか、貧乏人はペアを組めない、といった例外はもうけない、フェアな世界だとする。

GSメカニズムの基本的手順は、以下の通りである:
1 デマンド側が、自分にとって最高順位のサプライ側にマッチングを申し込む
2 サプライ側は、自分にとって最高順位のデマンドを「キープ」し、あとは拒否する
3 デマンド側は、拒否されたら次の順位のサプライ側にマッチングを申し込む
4 サプライ側は、より選好順位の高いデマンドが来たらキープ相手を変更する
5 デマンド側がすべて受け入れられた状態になったら完了
この手順が最後まで行き着いたら、結果は自動的に最適状態になっていることが、数学的に証明されている。最適状態とは、どのペアを取り替えても、これ以上満足度の増える組み合わせが存在しない、というほどの意味だ。

非常に単純・明快な手順ではないか?

ゲールとシャプレイは、「大学入学と結婚の安定性」(1962)という、ちょっとふるった名前の論文で、最初にこの研究成果を明らかにした。この問題は、学問の地図でいうと、経済学という大国の中の、ミクロ経済学州にある、ゲーム理論という大都市の中に位置する。そこには数学国出身の賢そうな人々が多く住んでいる。わたしのように化学工学という小国出身で、今はプロジェクト・マネジメント論というもっとマイナーな地方都市にうつり住む者にとっては、縁遠い土地柄である。ま、自分が知らなかったことへの妙な良い訳はともかく、50年も前の知見を、今ようやく学んでいる訳だ。

このGSメカニズムは、現実の制度への豊富な適用事例をもっているのも特徴だ。たとえば日本では、2003年度から、臨床研修医を病院へ配属するためのマッチングの仕組みとして実際に使われている。また、 早稲田学院から早稲田大学の各学部への配分メカニズムも、そうなのだという。もっとも、わたしはGSメカニズムの仕組みをきいて、思わず触媒表面上の活性点で起きている分子レベルの化学反応メカニズムを連想してしまった。とういことは、自然界でも、これに似た仕組みがあちこちで動いているように思える。さすがである。

なお、マッチングが1対Nで、定員があったりする場合、GSメカニズムは次のような手順になる。
2 サプライ側は、定員まで「キープ」し、あとは拒否
4 新たにデマンド要求があった場合、サプライ側は選好順序に従って「キープ」を入れ替える

ところで上記の手順、きいてしまえば当たり前な内容、にも思える。どこが独創的なんだ? 数学的な証明はたしかに簡単じゃなさそうだけれど、普通、こうしてるじゃないか?

ところが普通は、上記のGSメカニズムとは、ちょっとだけ違うことをやっているのである。そして、そのちょっとだけの違いが、大いなる影響を生み出しているのだ。

世の中で普通にやられているのは、希望順位優先方式とよばれる方法である。別名を、「ボストンメカニズム」ともよぶ。ここでは、就活生の企業への就職を例にとって説明しよう。簡単のため、世の中に学生は全部で5名、企業は3社だけとする。世の就職関連業者がきいたら泣き出しそうなほど、シンプルな社会である。 学生の名はA・B・C・D・Eで、成績もこの順番である。企業はX社、Y社、Z社とする。なお、X社は大企業なので、募集定員は3名である。YとZ社は1名ずつだ。

希望順位優先方式(ボストンメカニズム)では、次のような手順で、就職者を決める。
1 全学生の第1希望において定員を満たすまで、企業は成績順に内定を決める
2 内定されていない学生と、定員の残る企業で、次の希望順位について1を繰り返す
シンプルだし、現実に、ほとんどのケースではこのようなマッチングが行われている。

だが、この手順ではまずいことが起きるのだ。それを「戦略的選好」とよぶ。

いま、学生の就職したい企業の順番(選好順序)は、以下のようだったとする。
Aさん、Dさん、E君:  X>Y>Z
B君、Cさん: X>Z>Y

ボストンメカニズムを適用すると、こうなる。
第1ラウンド:全員がX社を志望する。そこでX社は上位3名の、A・B・Cの採用を決め、内定を出す
第2ラウンド:DさんとE君は、第二志望のY社に志願を出す。Y社は、成績が上のDさんを内定する
第3ラウンド:E君がZ社に内定して、完了。
この結果、E君は、自分の希望順位では最低のZ社に就職することになる。

それが競争原理・弱肉強食のこの世の宿命だろう、って? ところが、である。E君はここで奸計を思いつく。彼は内心を隠して、自分の選好順位は「Y>X>Z だ」という風に振る舞うのである。

するとどうなるか? 上記の手順をあてはめると、こういう結果になる(読者の皆さんも紙の上で、ご自分で追いかけてみてほしい)。
X社:Aさん、B君、Cさん
Y社:E君
Z社:Dさん
おわかりだろうか? E君は次善のY社に就職し、正直だったDさんが割をくうのだ。

つまり、希望順位優先方式(ボストンメカニズム)は、嘘に弱いのだ。嘘をついた者が得をして、正直者が損をする。これを「戦略的選好」の問題とよぶ。この例では、嘘をついたことによる利得は所詮たいしたことが無いが、もっと深刻な例だって考案することができる。このような制度設計をしてはいけないことは、社会的に明らかだろう。

ところがGSメカニズムでは、「本音を言う」のが最適戦略になるのだ。ためしにGSメカニズムで上の例を追いかけてみると、E君が本音を言おうが嘘をつこうが、結果としては
X社:Aさん、B君、Cさん
Y社:Dさん
Z社:E君
となることを確かめてほしい。

GSメカニズムでは「戦略的操作」(つまり嘘)は有効にならないことが、数学的に保証されている。なぜ、その違いが生まれるかというと、GSメカニズムでは「仮にキープ」するが、後になってひっくり返すことを認めているからである。つまり、『内定取り消し』が公式に許容されているのだ。ボストンメカニズムでは、決定は先着順であった。ここが違うのである。

もっとも、GSメカニズムにも、弱点が無い訳ではない。たとえば、意図して嘘をつく訳ではないが、自分の選好順位とは反する選択をするような、非合理な人間が出てくると、うまく機能しなくなる。好みに反する選択をするとは、すなわち、自分が何を志望し、何をしたいのか、自分でもよく分からない人たちである。

いや、若い内には、そもそも自分が本当に何をしたいのか、何に向いているのかなど、自分でも分からないのが当たり前なのだ。いわゆる「自分探し」である。そして、むしろ周囲の方がよほど客観的に、向き不向きを見抜いていたりする。しかし、当たり前のことだが、いつまでも「仮決め」でふらふらしていると、肝心のパーティーでダンスが踊れなくなる。誰とも踊らないうちに、歳をとってしまうだろう。それに魚心あれば水心、一緒に踊っている内に、相手への選好順序がせり上がったりするのも、人間の心理なのだ。

ゲール=シャプレイのアルゴリズムはすばらしい数学的成果である。だが、それは各人の選好順位が固定したものだという前提の上に成り立つ、一種のスタティックな最適化手法だといえよう。わたし達が現実からいろいろなことを学び、それによって価値観が変化していくような、ダイナミックな場合の最適なメカニズムデザインは、まだまだこれから考え抜いていかねばならないのだ。

参考

安田 洋祐:「経済学で理想のパートナーを探そう! ゲール=シャプレーアルゴリズムを合コンのマッチング問題から考える」 東洋経済オンライン 
上田 俊(九州大学):「ゲーム理論 アドバンスドトピック

→「革新的生産スケジューリング入門」にもどる

クリスマス・メッセージ:平和のレジリエンシー (2015-12-20)

Merry Christmas !!

以前、社内のPMO(Project Management Office)にいた頃は、毎月、社内のプロジェクト・マネージャーから上がってくるPMレポートをレビューするのが仕事の一部だった。レポートは形式が決まっており、最初にナラティブな文章による状況報告がある。それからスケジュール・進捗・リスクなど各種の計量的なステータスがついている。

このレポートは本来、プロマネが、自分の後見人であるプロジェクト・スポンサーを経由して、経営層に提出するものだ。そして上の人は助言をつけて返す。だが同時に、ラインの横にいるPMOにも配布し、PMOがレビュー・コメントを行う。その目的は、縦のレポーティング・ラインだけでは見逃されそうな予兆や問題点をウォッチするとともに、別のプロジェクトで発生している問題点などをプロマネにフィードバックして、対応策を社内的に共有・横展開することにある。さらに、社内のプロジェクトに関する実績データをPMOが集積する目的もある。同じようなことは、わたしの業界内では広く行われている。

ところで、PMOとしてレポートを読んでいるうちに、気がついたことがある。それは、プロジェクトは二種類に分かれやすい、ということだ。どんどん良くなっていくプロジェクトと、だんだん悪くなっていくプロジェクトである。いい方のレポートを読むと、前々月は設計でこういう進展があった、前月はこうして問題を事前に防止できた、今月はサプライヤーにうまく発注できて予算を抑えられた、という具合に、毎月明るいニュースが並ぶ。一方、まずい方のレポートは逆である。前々月は、こういう障害で設計が進まなかった、前月は思いもかけぬ問題が発生し対応に追われた、今月は発注先からのクレームで赤字がさらに膨らんだ、という具合で、毎月、読むたびにため息が出る。

不思議なのは、良くなったり悪くなったり、というレポートがあまり無いことだ。前々月はよかった、でも前月はまずいことになった、今月はまた良くなった、といった風にアップ・ダウンのあるプロジェクトには、滅多にお目にかからない。これは一体、どういう訳だろうか?

ひとつには、レポーティングに関する心理的態度というものも、関係するかもしれない。プロマネだって皆、会社員だ。普通は、なるべく良いことだけを上に報告したい。そうすれば上の覚えもめでたく、自己の評価も上がるだろう。だからしばらく良いレポートが続く。しかし、プロジェクトの途中で次第にトラブルが大きくなり、やがて増員などの面で、上の支援を仰ぐ必要が出てくる場合がある。危険性をアピールしないと本気にされない。そこからは問題レポートが続く、と。

だが、PMOは文章だけでなく、計数的な部分もチェックしている。そして他の類似プロジェクトの実績値や、社内的な標準数値とも比較し、おかしなことが起きていないか見ている。最初の楽観的な文章と、後半の数値に齟齬があれば、PMOとして先に矛盾に気づく。自分も、そう心がけて仕事をしてきた。だとしたら、プロマネの心理的態度以外に、何か理由があるはずだ。

わたしが次第に持つようになったのは、「プロジェクトのダイナミクス(動力学)は、本質的に不安定である」という仮説だ。プロジェクトはある目標を目指して進められる、活動の総体である。納期や予算、スコープ(責任範囲)といった制約条件の中で、それを進めなければならない。そしてプロジェクトを構成する設計とか調達とかテストだとかいった活動(Activity)は、互いに連鎖し関連し合っている。つまり、プロジェクトというのは一種の動的システムであり、それを制御するのがプロマネの仕事だ。

プロマネがきちんと計画を立案し、上手にチームをコントロールしていれば、諸活動はほぼ予定通り進んでいくだろう。ところが、人間はすべてのことは予期できない。予期せぬ問題が一部の活動で発生した際、それをうまく抑え込めないと、関連する活動間の調和を壊してしまう。するとその影響は伝播し拡大していって、さらに大きな問題となっていく。

たとえばボールを凹んだ谷間の底に置いたとしよう。多少の外乱があってボールの位置がずれても、ボールはまた元の位置に戻っていく。これを「安定」な状態と呼ぶ。ところがボールを山の頂上に置くと、外乱でボールが左右どちらかに揺れた場合、元には戻らずに、左右どちらかの方向に加速度的に転げ落ちていく。

プロジェクトとは、山頂に置いたボールのように不安定な存在だ、というのがわたしの仮説だった。ただし、まったくの不安定なシステムかというと、そうではない。ある程度の外乱の範囲内ならば、プロマネは乗り切っていける。そのときにカギとなるのが、予算でいえば予備費の存在、スケジュールでいえばバッファー(フロート日数)、さらに余裕ある遊撃手的な配員の存在だ。専門用語でいえば、Contingency Reserveである。

予見しなかった問題が発生したとき、担当者やプロマネは、自分が持っている予備費やバッファー日数の範囲内で、遊撃手を動かして対応策をとることができる。いや、むしろ予算や時間に余裕があるときは、問題が起きる前に、予防的対策が打てるのだ。こうして、プロジェクトは良い方向に進んでいく。

だが、外乱があまりにも大きかったとき、あるいは、出発時の制約条件がきつすぎて、プロマネの持つ予備費やバッファー日数や配員があまりに乏しいときは、発生した問題を抑え込めなくなる。そうすると負の連鎖反応が起きて、プロジェクトはもっと大きなトラブルに直面することになる。

プロジェクトでは必ず問題が発生する、というのが長年このビジネスに関わってきたわたしの実感だ。どんなに最善の計画を立てても、思いもよらぬ外乱(あるいは、ミスなどの内発的問題)が発生する。これを乗りこえていくためには、なんらかの余裕・あそびが必要である。そして余裕に比べて外乱があまりに大きいと、コントロール可能な範囲を超えていって、プロジェクト全体が制御不能になる。ただ惰性で前に進むだけの存在になってしまう。ちょうど、金属製のバネのようなものだ。バネを引っ張ると、弾性の力で元に戻る。しかし、材料の「降伏点」を超える力をかけると、バネはぐにゃりと延びきってしまって、もう元には戻れなくなる。

『レジリエンシー』という新しい言葉をあちこちで見かけるようになったのは、この数年のことだ。Resiliencyという英単語は翻訳しにくいが、「復元力」とか「抵抗力」みたいな意味を持つ。3.11の恐ろしい災害で東日本のサプライチェーンが寸断され、それが国内産業全体に少なからぬ影響を及ぼして以来、この概念が注目されるようになった。

以前、統計数理研究所の丸山宏副所長によるレジリエンシー研究の講演を、自分の主宰する研究部会できかせていただいたところによると、
「レジリエンシー = Resistance(事前対策) + Recovery(事後対策)」
といった理解になるらしい。

<関連エントリ>
 →「稀な危機 vs ありふれた失敗−リスク対策の優先順位を考える」 (2013-10-20)

トラブル事象が小さい内は、Resistance(事前対策)の方が費用が小さくすむが、あまりに大きな「想定外」のトラブル事象に対しては、もうRecovery(事後対策)を考える方が経済的である、というのが丸山博士の説明であった。それならば、どこかで最適な組み合わせがあるはずだ、との予測が成り立つ。

その最適な組み合わせや、プロジェクトの「降伏点」は、プロマネが持っている予備費やバッファー日数などのContingency reserveから導き出せるのではないか、ということを当時は思った。

しかし、その後わたしの考え方は、少しかわった。まず、プロジェクトの降伏点というのも、一点ではなく、多段階あるのではないか。いったんは大きく乱れても、また何とか復元する力が働くときもある。

もう一つ。いったんはトラブルを経験しても、そのことが「人材が育つ」結果をもたらす事もあるのだ。むろん、それは程度にもよるだろう。だが、まったく問題を経験せずに、温室栽培か無菌培養のような環境下で育つより、ある程度の問題に否が応でも巻き込まれ、立ち向かった経験の方が、はるかに人は成長するのだ。むろん、トラブルが過酷すぎて、人をつぶしてしまうこともあり得る。ただ、そうした「人材の降伏点」は、決してその人が持つ資金だの時間だのといった、機械的なファクターだけで決まるのではない。

では、何で決まるのか。それは、その人の持つマインドセットであり、また、その人を支えて協力する周囲の態度やマインドセットでもある。その周囲がちゃんとしていれば、問題経験はむしろ、人を育てるのだ。

野口整体の創始者である野口晴哉氏は、「健康とは、風邪を引かないとか、病気にかからないことではない。健康とは、病気になってもちゃんと回復する力を身体がもっていることである」という意味のことを、たしか名著「風邪の効用」で書いていたと記憶する。この発言も、最初読んだときにはよく分からなかった。しかし、この頃、もしかしたら野口晴哉という人は、「健康」を、無病という静的な状態ではなく、「身体のレジリエンシー」という動的な感覚でとらえていたのかもしれないな、と思うようになった。

プロジェクトというのは、人間がやる営為である。プロジェクトには確かに、費用や時間や生産性など、計数管理できる・計数管理すべきテクニカルな尺度がいろいろある。そして計画し事前対策できる範囲が大きい。だが、それと同時に、問題が起きたときに乗りこえていく力、火が吹いても消火していく能力として、やる人たちの目的意識がそろっていること、感情がメンバー間で共感されていること、などの面も大きい。テクニカルとマインドセットは車の両輪である。どちらが欠けていても、人々が一緒にやる仕事はうまくいかない。

そして、日々の仕事から目を外に向けていくと、戦闘状態の続く西アジアでも、その他の地域でも、わたし達の社会はいろいろな問題によって挑戦を受けていることに気がつく。人々が争わず、お互いに事を荒立てずに暮らせれば、一番いい。しかし、たとえ一度は対立し火が噴いたとしても、それを短期間のうちに鎮火し、お互いに解決できる仕組みと能力を持つことの方が、ずっと現実的で重要だ。それはもちろん、兵器の数だとか予算だとかいった、テクニカルな尺度だけで測ることはできない。喧嘩をしても冷静に戻る能力、お互いの目標と感情を共感できる仕組み、が必要なのだ。

たとえトラブルに巻き込まれても、人間がそこから学んで成長できると期待し、信頼を置くこと。難しいことだが、こうした態度をつちかうことこそ、世界がひととき静かになるこの季節、平和のレジリエンシーを高めるために、わたし達一人ひとりに求められることではないだろうか。

→「革新的生産スケジューリング入門」にもどる

“仕事が面白くない”症候群とたたかう三つの方法 (2015-09-30)

まず、絵をちょっとご覧いただきたい。モネの傑作「日傘を差す女」(1891年)である。

陽光の降り注ぐ戸外に、すっと立つ若い女性を下からのアングルで描いている。青空と白い雲をバックに、白いドレスと青いスカーフの立像。背景と人物に同系色を使いながら描き分けて、全体にちょっとドラマチックな階調を生み出している点が、この画家の手腕だ。顔はわざと表情を描いていないので、登場人物の内なる情念ではなく、ただ光と風の中に立つ喜びだけが、肌身の感覚として伝わってくる。

ところで、足元の草をよく見てほしい。もし手元の端末で拡大可能なら、画像を大きくして見てみるとよく分かるが、全体として夏草のように見えながら、個々には赤や水色や紫や緑など、ずいぶん原色に近い色彩が、まちまちな形に、ほとんど粗っぽい筆遣いで置かれているだけだ。そして彼女の来ているドレスも、よく近寄って見ると、本当の白地はほとんどなくて、赤や青やその中間色が多彩に塗られていることが分かる。

それでも、普通の距離を置いて絵の前に立つと、ちゃんと白いドレスを着た女が草原の上にいるように見える。クローズアップして見ると、バラバラな原色なのに、カメラを引くと、ある色調があらわれる。このことを、モネという画家は意識して描いている。

ここで話は(例によって)飛ぶ。あれは入社して何年後のことだったろう。まだわたしが中堅と呼ばれるようになる前、ほんの駆け出しだったころだ。部の忘年会で、今年のふり返りや来年の抱負などを、皆が順番にしゃべっていた。そこでわたしは、「来年はまた面白い仕事がしたい」と言ったのだ。面白い仕事。それは、2、3年に一度くらいはめぐってくるはずだ。わたしはその時、そう考えていた。前回の面白い仕事から、もうしばらくたつ。だから来年はまた面白い仕事に巡りあいたいと願ったのだ。

前回の面白い仕事とは何か。それは、病院の患者数予測システムを作る仕事だった。わたしの勤務先は主にプラントや工場を作る仕事だが、病院とか研究所とかいった技術的に複雑な建物も作っている。病院を建てたときの来院患者数の予測は、計画と設計の基礎だ。そこで入手可能なデータの分析を行って 予測モデルをつくるのがわたしの仕事だった。別に医療は専門でも何でもないが、そこは素人の蛮勇、なんとか現実データを説明できるモデルを見いだした。そして地図情報システム(当時はまだホスト・コンピュータに高価なグラフィック端末をつないで表示した)の上で、地域の人口分布をメッシュに切り、交通工学の手法で移動時間を算出して、来院数を計算するシステムを開発したのだ。

その仕事は幸い、ある東北の小さな新設病院の仕事に結実したし、それ以降、わたしの勤務先が顧客を開拓するツールになった。これはちょっとした、わたしの誇りだった。たしかに途中はかなり労力も使い、数値のモデル化に迷いもして大変だったが、最終的には「面白い仕事」に感じられたのだ。

しかし、面白い仕事がしたい、と考えることは、現在の仕事はつまらないと思っていたことの裏返しだ。いや、その時、自分が「今の仕事は面白くないな」と意識してはいなかったかもしれない。だが、忘年会の席上で、ふとそうした感情が泡のように浮かび上がってきたのだろう。普段は意識下に押さえ込んでいたはずなのに。

さて。話は、再度飛ぶ(す、すまない・・)。

今月初めのことだが、PMAJのシンポジウムで、慶応大学大学院システムデザインマネジメント(SDM)学科の専攻長である前野隆司教授の講演を聴いた。教授は元々キヤノンのロボット技術者で、後にアカデミアの世界に転じた方だ。昔、脳科学と認知をテーマとした本を1冊読んだことがあった。結論は必ずしも納得できないが面白い考え方の本だった。しかし、講演によると、前野教授はロボティクスの研究から始まって、しだいに認知論や脳科学に範囲を広げ、イノベーション方法論を経て、さらに最近は「幸福学」の研究もされている、といい、著書も紹介された(「幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)」)。

人間の幸福感情については、心理学を中心にこれまで多くの研究が積み重ねられてきた。その知見から、物・金・地位による幸福感は、たいして長続きしないことが分かっている。金や地位を得れば、一瞬は幸せになるが、やがてすぐにもっと欲しくなって飢餓感が生まれてくるのだ。前野教授は長続きする幸福の事例をいろいろと分析し、「成長・自己実現」「人とのつながり・利他」などの4つのカテゴリーからなることを見いだしたという。

非常に面白い見方だ。とくに、人間が幸福感を感じるメカニズムを解明し、それを最大化できるような社会システムや組織デザインを考えようという工学的アプローチは、わかりやすい。

しかし、家に帰って反芻し考えるにつれ、また少しずつ分からなくなってきた。そもそも感情というのは移ろいやすい。今、恋人と一緒で幸福でも、離れたらすぐ孤独や猜疑心にさいなまれる。そして会えばまた幸せになる・・そんなものではないか。だとすると「幸福である」とは、どの瞬間に測ったものなのか?

人間の感情は重層的だ。「面白い」とか「うれしい」とか「やりがいがある」という感情は、個別の局面ではすぐに阻害されやすい。たとえば上に述べた、わたしの最初の本格的な仕事は、実際には大変な作業も多かった。患者数の予測など、本当にできるかどうか、誰にも保証はない。山ほどのデータを解析するのに、(今では信じられないだろうが)ホスト・コンピュータでいちいちプログラムを書くしかなかった。当時はPCなどというしゃれたものはなかったし、そもそもExcelというソフトの誕生以前の話だ。

終わってみて、それなりに無事成功したから、ふりかえって「あの仕事は面白かった」と思う。それは、多少の距離を置いたから言えることだ。そのさなかにいる時は、面白いと感じる瞬間は少ない。だとすると、「面白い仕事」であっても、実際には数%の面白さと、90数%の徒労感のまじった、まだら模様の時間ではないか。結果が失敗したら、その数%の時間だって記憶の前面から消えてしまうかもしれないのだ。

しかも、こまったことに「面白い仕事」とは、失敗するかもしれない仕事でもあるのだ。なぜなら、そこにチャレンジの要素があるからこそ、自分の成長につながり、やりがいやおもしろさを感じるのだ。結果が見えてしまうような、何のリスクもない仕事は「つまらない仕事」でもある。

だからといって、仕事に対する感情は、かりそめのものに過ぎない、などと言うつもりはない。感情は、わたし達の時間を豊かにし、人間に生きる価値を与える一つの源泉である。そのことは、事故などで感情機能を喪失した人の症例を見ればわかる。働く者の感情を無視して、ただ命令と統制だけで動かそうとする組織は、必ず長期的にパフォーマンスが落ちていく。「仕事は会社として必要なんだから、面白い・面白くないなどと言わずに働け」と上司が命じたら??そんな感情を押し殺したような灰色の続くシステムに、誰も長く耐えられるわけはない。

それでは、どう考えたらいいのか。わたし達は、仕事に対する感情に、どう向き合ったらいいのか? 

そこで、冒頭のモネの絵を思い出してほしい。足元の草も、ドレスの色も、じつは単色ではなかった。ローカルには赤や青などの原色が置かれながら、全体としては、ある形と光の階調が生み出される。モネはこれを、「網膜上での混合」と呼んだ。当時すでに、白い光は異なる色の混合であることは知られていた。しかしパレット上で色絵の具を混ぜ合わせても、鈍い灰色になるだけだ。逆に原色を斑点のように置くことで、見る者の眼の中で、あるいは脳内で、光が感じられるようになる。モネの発明したこの技法が、印象派の「明るさ」を生み出したのだった。

この一筆ごとの原色を、その時点その時点での自分の感情だと思ってみてほしい。個別には喜怒哀楽の、いろいろな感情がある。だが、全体の中でそれがうまく位置づけられ、形と意味を持てれば、より高次な「面白さ」を感じられるようになる。人間の感情は認知によって方向が与えられ、形が作られていく。こういう意味で、人間の感情は重層的なのだ。ただし、そのためには、いったん「目を遠ざけて」見る努力が必要になる。

わたしは以前、古代の異国に生きた一人の女性についてふれて、「幸せであることと、価値があることとは、すこし違う」と述べた(「クリスマス・メッセージ:幸せな人」2014-12-23 )。動乱と困難の時期を生きた女性が、自分の人生を不幸だと感じなかったとしたら、それはなぜなのか。幸せであることは大切だが、自分のしていることに価値があると思う方が、もっと大切だと。

そこで、わたしは自分への自戒も込めて、こんな風に考える。仕事に対する感情を、よりポジティブに保つためには、三つのことをすべきだと:

第一に、自分の感情に気づいて向き合うこと。自分の感情を押し殺したり否定してはいけない。つまり、感情をバカにしてはいけないということだ。そうすれば、退屈や嫌悪を含めて、個別にはいろいろな感情を自分が持っていることを知るだろう。自分の感情を対象化し言語化できれば、人はその感情に対処しやすくなる。これほどつまらないのはなぜだ。どうしたら面白く、あるいはせめて楽になるのか。そういう工夫の余地が生まれる。感情を言語化できないうちは、人はその感情に支配されて奴隷状態になりやすい。それは議論の場などで、けっこう怒っているくせに、自分は論理で話しているだけだと思い込んでいる人を見れば、よくわかる。

二番目に、少し離れた視点から、現在の仕事の意味や価値を考えること。これは、なかなか難しいことだが。仕事の渦中にいると、どうしても離れがたくなる。その時には、自分の信頼できる先輩なり上司なり、あるいは家族友人でもいいが、そういう人たちと話してみるのがいい。すると、自分で気づかなかった仕事の全体像や、意義に気がつくこともある。むろん、そんな良い上司に恵まれないから、こんなに不幸なんだ、と思う人もいるだろう。ただ少しずつでも、億劫さを乗りこえて、話す努力を続けることは、決して無駄にはなるまい。

それでも誰とも話が通じず、壁に囲まれていると感じたらどうするか。そのときにおすすめしたい第三の方法がある。毎日、ありがたいと感じたことを日誌に3つずつ書くことだ。これを、3週間続ける。それだけである。わたしはこれを、ショーン・エイカーという人の「幸福と成功の意外な関係」 (TEDTalks) というエントリーで学んだ。あの震災の直後のことだったろうか。それ以来、毎日実行している。どんなつまらないことでもいい、必ず3つ書く。今日は昼食が美味しかった、iPodがシャッフルで好きな曲を続けて選んでくれた・・何でもいい。

この習慣は、わたしが自分の毎日を見る認知の仕方を、確実に変えてくれる。エイカーは、わたし達が「成功したら幸せになれる」と考えているのは逆で、幸せに感じることこそ成功の源である、という。そして、上記の簡単な習慣化で、脳の認知の仕方をかえることができると主張する。

これを知って以来、4年あまり実行してきて、成果はどうだったのか? 佐藤は少しでも楽天的になったのか? 自分では、それはよくわからない。ただ、苦虫をかみつぶしたような、近寄りづらい自分はやめて、せめて少しは「にこやかな自分」であろうと思うようになったのは事実だ。実現できたかどうかは、周囲の評価に任せよう。ただ、知性だけではなく、そういう感情面が大切だと考えるようになってきた。だからこんなあやしげなエントリを書いているのだろう。

理知的な働きのすごさを、人は「頭がいい」とよぶ。しかし、感情的な働きも伴ってこそ、はじめて「賢い」とよばれるのではないか。わたしは自分が成功したかどうかは知らない。ただ、少しでも「賢さ」に近づきたいと、願うようにはなったのだ。

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忘れない、という行き方 (2015-08-15)

ある日、あなたは福島県から来た企業家に会って、こんな話を聞く。
「震災から4年余りが経ったが、地域の復興はなかなか進まないばかりか、世間の人はもう忘れたがっているようにさえ見える。あなたは東大で環境の研究をしておられるそうだが、東北の環境浄化や自然エネルギー活用のための斬新な案をお持ちではないだろうか。もし良いアイデアがあれば、わたしも事業の傍ら応援したいし、資金獲得のお手伝いくらいはできると思う。」

あなたは「環境再生ないし自然エネルギー活用による、東北地域復興プロジェクト」の案を考えて提案することを約束した。
プロジェクトの総予算は3億円とする(ちなみに復興庁の今年度予算は3.9兆円で、「再生可能エネルギー」関連だけで計23億円ある)。また、必要に応じてクラウドファンディング(「セキュリテ被災地応援ファンド」等)でも公募できる。

・・・これは、東大の大学院・新領域創成科学研究科でわたしが教えている「プロジェクトマネジメント特論」の、グループ最終課題として今年出題した問題である。受講する院生はほとんどが環境学系の所属のため、このようなテーマ設定にしてある。グループ編成は、5?6名。班の中で、プロマネ・APM(アシスタントプロマネ)・チーフデザイナー・プロジェクトコントローラーなどの役割分担を決めて、約1ヶ月半で事業構想とプロジェクト計画を作る。発表は、8分間の動画ファイルを作り、それを皆の前で提示してもらう。

なお、これはプロジェクト・マネジメントの授業なので、事業コンセプト(概略イメージ)だけでなく、予算・期間を提示してもらう。プロジェクト計画は、以下の図表と説明を入れるよう義務づけている:
・ActivityリストとWBS構造図
・ネットワーク・スケジュールとガントチャート
・予算表 (自分たちの人件費は時間あたり2,000円。他の費用は「月刊積算資料」などを参考にする)

採点はわたしがするのではなく、出席者全員に採点表を渡して、他の班を採点してもらう仕組みにしている。内容の良さ、そしてプレゼンテーションの上手さ。両者の評点を集計して、総合評価を決める。プロジェクト・マネジメントは知識だけあってもしかたがないので、学期末のペーパーテストやレポート提出ではなく、グループ課題での発表にしているのだ。

採点はわたしがするのではなく、出席者全員に採点表を渡して、他の班を採点してもらう仕組みにしている。内容の良さ、そしてプレゼンテーションの上手さ。両者の評点を集計して、総合評価を決める。プロジェクト・マネジメントは知識だけあってもしかたがないので、学期末のペーパーテストやレポート提出ではなく、グループ課題での発表にしているのだ。

今年の最終発表会で一位になったグループの案は、『阿武隈ダイヤモンド・ チャコールプロジェクト』というタイトルのものだった。プロジェクト実施の場所は福島県浜通地方にある川内村。この村は1960年代までは、豊かな森林資源を活かし、日本一の木炭生産量を誇っていた。しかしエネルギー革命で電気や石油が燃料の主役になってからは、住民は里山を捨て、原発産業などに従事するようになった 。そこに、東日本大震災である。現在の川内村は、仕事を失い、人が戻れない状況にある(村の東部は避難指示地域)。そこでこの班は、製炭業を復活させ川内村を再建するプロジェクトを提案する。

そのキーとなるのが、高品位な木炭(チャコール)という訳である。これを『阿武隈 ダイヤモンド・チャコール』と名付け、世界一のブランドを川内村から作る!という。この班は実際に教室に木炭を持参して、皆の前で簡単な実演をした。炭と炭を打ち合わせると、高級な木炭はカンカンという硬質な良い音がするのに対して、量販店で売っているBBQ用の安い炭はボソボソッという音しか出ないのだ。百見は一聞に如かず、である。単なる木炭にも、ずいぶんと品質ランクに差がある事が分かる。良い木炭は当然、用途も広いし単価も高い。

この班は製品の試作・分析から量産準備までをプロジェクトとしてとらえ、3億円の投資で、IRR=10%が可能であると試算した。経済性評価ではちゃんと感度分析をしている。またスケジュールも、クリティカル・パスを求めただけでなく、モンテカルロ・シミュレーションを実施して、工期の達成の幅まで検討している。まあ限られた期間内の院生の仕事だから、計画の精度は高くないが、プロジェクト計画のアプローチは、下手な上場企業よりもずっとしっかりしている。

2位になった班は、畜産廃棄物(家畜糞尿)からのバイオガス発電のプランを出してきた。売電による収益で畜産農家を支援するという案だ。プレゼンテーションは地味だったが、他の受講生からの評価はなかなか高い。きちんとPREET/CPMでスケジュールを作成し、コンティンジェンシー・リザーブ(予備費)によるリスク対策もみている。ほかにも面白い案がたくさんあったが、紹介しきれないので割愛しよう。

こうしたプロジェクト・プラン立案のグループ演習を課すのは、班で共同作業すること自体がちょっとした「プロジェクト体験」にもなるからだ。そのためには、アイデアが宙で空回りしないよう、予算規模の制約をつけるとともに、地に足がついた具体的な地域性が必要になる。だから福島県を選んだのだ。

いま、なぜ福島県か。それはもちろん、「忘れないため」でもある。

課題発表会の直前、わたし自身も東北を旅行した。震災から4年後の現在、現地がどうなっているのかを、少しでも見ておきたいと思ったのだ。最初に福島県の郡山に入り、それから二本松、土湯温泉、さらに飯館村を通って福島県の浜通地方に出る。そして国道8号線沿いに、被害の最もひどかった太平洋岸の浜通地域を通る。このときはボランティアのバスに同乗させてもらい、カリタス原町センターのスタッフの方に案内していただいた。そのあと、岩手に抜け、最後に宮城県の涌谷町・仙台市を通って帰ってきた。

浜通地方の原発事故被害にあった地域は、今もまだ多くが避難指示区域で、立入り制限ないし居住制限下にある。居住の制限された区域は、昼間のみ、地域に入れる。実際、多くの除染作業従事者が入って働いており、除去した表土などは黒いビニール袋(通称「トン袋」)に詰めて、空き地などに並べている。わたしたちの乗ったバスは国道8号線を走ったが、「帰還困難地域」に入ると、道の両側に鉄のバリケードが並ぶ。国道からそれて、中に立ち入れないよう制限しているのである。山野も町も、道の両側の建物も、ほぼそのままの姿で残っている。青葉は陽光に輝いている。だが、住む人がいないのだ。この異様さは、実際に走ってみないと分からない。制限区域をすぎて、南相馬市の人の暮らす地域に入ると、なんだかほっとする。人がいることが、こんなにも安心するものなのか、と思う。

福島県ではあちこちに、空間線量計が立っている。二本松市の幼稚園の庭に立っているのを見たときは、なんともいえぬ困惑を感じた。幼稚園の庭には砂場があるのだが、鶏小屋のような屋根とプラスチックの囲いがつけられている。子ども達はどうしても砂遊びがしたい。砂はもちろん新しいものに入れ替えてあるが、周囲を取り囲む山野は除染ができない。だから、砂が風雨にあたらないようにつけてあるのだ。線量についていえば、わたし達の通った国道8号線で最も高い場所は、8μSv/hr以上あった。一応参考までにいうと、従来の放射線管理区域の目安は、約0.5 μSv/hrである。周知の通り、放射線の健康影響にはいろいろな議論がある。だが、8μSv/hrとなると、率直なところあまり無用な長居をしたい気分になる場所ではない。

写真を2枚だけあげよう。上は、常磐線富岡駅前の光景だ。4年前の津波にえぐられたままの商店街の建物が、今も手つかずで残っている。ここらはまだ除染作業も進んでいないため、撤去修復にも戻れないのだ。下の写真は、南相馬市の常磐線小高駅の自転車置き場である。4年前の3月11日の朝、通勤・通学の人達はここに自転車を駐輪して、常磐線に乗っていった。そしてそのまま、誰も取りに戻れずに日々が過ぎたのだ(かりに帰還しても、自転車は汚染している可能性が高いから引き取れないだろう)。列車もその日以来、動いていない。ここではまだ、時間が全く止まってしまっている。

郡山市では、「ふくしま心のケアセンター」所長で、精神科医の昼田源四郎先生にお目にかかった。昼田先生とお会いするのは2年ぶりである。震災後、岩手・宮城・福島の3県にそれぞれ「心のケアセンター」組織が立ち上がった。昼田先生は福島大学を退任されたあとすぐ、所長として臨床心理士などの職種のスタッフを集めて組織されてきた。しかし震災後3年経ち、4年経っても、まだ相談件数は目に見えて減っていない。そればかりか、「ハサミ状格差」「支援疲れ」などの具体的な事例をあげて、まだ困難が続いている事を語られた。

こうした心のケアセンター組織は、阪神淡路大震災以来の教訓として作られたものである。昼田先生によると、阪神・中越大地震のいずれのケースも、心のケアセンターは約10年で役割を終えたという。そして、岩手県や宮城県も、おそらく10年程度で完了できる。しかし福島県の場合は、自分の見たところ30年か40年かかるのではないか、と言われた。長年、精神科の臨床に携わってこられた専門家の洞察とはいえ、まるきり一世代分の時間である。福島の問題の難しさが浮き彫りになっているといえるだろう。

このような困難を抱える地域に対して、わたしが復興のために何かとびきりの名案を持っている訳ではない。たぶん、誰にもないだろう。学生達の示した案もまた、かりにフィージブルだとしても、福島県全体を救える訳ではなく、広大な東北地方から見れば「点」のようなものである。

しかし、小さな点と点をつないで、少しずつ状況を改善し続けるしか、道はないのだとわたしは思う。だから昼田先生は30年かかるといわれたのだろう。

ただ、有用な策を考えるためには、現実がどうだったのか、そして現在どうなっているかを知る必要がある。ところで震災後4年もたったのに、あの東日本大震災は何だったのか、その被害状況はどうだったのか、具体的な全体像を多面的・客観的にまとめた書籍や研究は、いまだに決定版がほとんど見当たらない。たしかに、途方もなく大きな事象ではあった。だが、個別の専門家達による、群盲象をなでるかのような分析やレポートはあるが、全体像が分からない。全体像が分からないと、どこから優先して解決に手をつけるべきかも見えないことになる。ポートフォリオ・マネジメントもなく、プログラム・マネジメントもなく、ただ個別のプロジェクトが動いているきりなのだ。

どうやらわたし達の社会は、大きな出来事を、カメラを引いて全体を冷静に認識・理解する能力が、欠けているのではないか? わたしの中で、そんな疑問が大きくなってきた。リスク・マネジメントの語は、震災前後から流行語になった。しかし、リスク・マネジメントの中核にあるのは、「学ぶ能力」である。自分たちの過去の経験を直視し、教訓を学び取る能力。自然災害はいつでも起きうるし、人為ミスの災害も完全には防ぎ得ない。である以上、わたし達は、痛い思いをした経験に学んで、少しずつ賢くなるしかないのだ。その賢さを、次の世代に伝えなければならない。

もちろん経験の中には、あまりに傷が大きすぎて、思い出すことさえ苦痛であるような記憶もあるだろう。だからといって当事者が、それを忘れられる訳でもない。そうした記憶は、おそらく他の多くの人が共有することでしか、薄めることができないのだろう。深く傷ついた人びとは、周囲が支えなければならない。他者がかわりに記憶することで、たぶん当事者は心にふたをしていけるのだ。

福島の人達が、「忘れないでください」と言い続けているのは、そういう意味なのだと思う。わたし達は、忘れやすい。過去は水に流して、未来志向に生きていく方が、ポジティブでカッコいい。だが、マネジメントを学生達に教えている以上、忘れない工夫と技術も、わたし達には必要なのだ。

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好き嫌いということ(を論じて、知的理解の枠組みに至る) (2015-05-05)

わたしは残念ながらモーツァルトが嫌いだ。ファンの人には申し訳ないけど、めったに楽しく聴けない。自分はまあ比較的、クラシック音楽を聴く方の部類だと思う。聴き始めたのは十代の頃からだが、その頃は一応素直な人間だったので、先輩先人の教えに従い、偉大なる天才作曲家モーツァルトもいろいろ聴いてみた。

だが2、3年ほど経ったのち、いつまで聴いてもちっとも楽しくないことに気がついた。気づくならもっとサッサと気がつけばいいのに、そんなにかかるのが、わたしの鈍感なところなである。あるいは、伝統的な教導の強さと言うべきかもしれない。ただし、わたしは心の広く公平な人間であるから(笑)、モーツァルトにもたまには良い曲があることは認めてよう。たとえば晩年のクラリネット協奏曲とか、同じ楽器だがクラリネット五重奏曲は素晴らしいし、あるいは音楽劇「魔笛」などにも良い部分がある。

ともあれ、自分の好みに気がついて以降は、彼の音楽を聴くのを避けるようになった。音楽好きの知人とも、モーツァルトの話はしない。好き嫌いのことでケンカしても仕方ないからだ。それは、こんな風になる。

「佐藤さんは、どうしてモーツァルトが嫌いなの?」
−−彼の音楽は、なんだか内容のないツマラナイお喋りを、耳元で延々と続けられるような気がするんです。
「なんてことを。楽しい音楽が嫌いなの?」
−−ぼくにはちっとも楽しくないです。
「あんなに純粋で、天上的な美しさにあふれているのに! それに旋律がきれいでしょう?」
−−旋律の美しい作曲家は他にもたくさんいますよ。彼の旋律は息が短い。それに、カンタービレが決定的に欠けていると思いませんか。
「そうかなあ。純正で調和がとれているし、その上にウィーン的な洒落っ気もある。」
−−ウィーン古典派ならハイドンの方が好みです。それにオシャレって言うけど、あの半音階的でおしゃまな装飾はカンベンしてほしいです。
「あれがいいんじゃない。 趣味の分からない人!」

という訳で、平行線である。どうして平行線になるかというと、こちらは好き嫌いをいっているのに、相手は良し悪しの同意を求めているからだ。

音楽や美術にとって、何が「良い作品」であるかを言うのは簡単ではない。その問いのために、美学という学問の全体系があるといってもいい。それでも、ごく大雑把にまとめてしまうと、「より多くの人々、より長期の時代に、鑑賞に堪える」ことと関係する。シェークスピアだってJ・S・バッハだって、死後は何十年も忘れ去られていた。それでも復活して、今は広く好まれ、典範として仰がれてている。秀れた点が多いからだ。

「じゃあ、どうしてモーツァルトが嫌いなのか? 良い作曲家だと皆が認めているじゃないか。」−−だから、好き嫌いは理屈ではないのだ。わたしが鴨肉は好きだがネギは嫌いだというとき(事実だ)、それを十分に言語化して伝える方策はない。理屈をつけて説明しようと努力することはできる。だが、完全には説明できない。その証拠に、相手は納得しない。事実は(たとえば「2015年5月3日は東京は晴天だった」というなら)他人は同意できる。だが、5月3日は気持ちいい日だったというなら、それは感受性の問題で、説得力が薄い。

好き嫌いと良し悪しは別である。良否は議論可能だが、愛や嫌悪は説得も押し付けもできない。それは個人単位の感覚だからだ。こんな当ったり前の事を今さら書いているのは、この「当たり前」が学校で教育されていないばかりか、社会で共有もされず、ときには蹂躙されているように、思えるからである。

姫野カオルコ氏はエッセイに、タレント誰某はハンサムだと思う、と人にいうと、「えっ、あの人が好きなの?」と聞かれてこまると、たしか書いていた。美醜の判断=好き嫌い、と直結している人が多いからだ。モーツァルトのファンと話をしたくないのも、そのためである。わたしが嫌いだと言うと、たまに怒りだす人がいる。作品の出来がひどいと言ってる、と誤解するためだ。短絡的なのである(全員ではない。たまに、である)

逆に言うと、短絡的でない人、心の広い人とは、「自分の好き嫌いとは別に、相手の良い点を認める度量」のある人だ。公平な人、といってもいい。たとえ自分が嫌っている、いや戦っている相手であっても、秀れた点は認めらる人は、器量が大きい。自分の感覚や感情をいったんカッコに入れて保留し、他の見方もあると受け止める能力。

図に書く方が分かりやすいかもしれない。横軸に、自分の好き嫌いをとる。縦軸に、良い・まずいの判断をとる。そして、いろいろな作品や対象や事柄について、その人の好き嫌い感覚と判断結果をプロットしてみる。散布図である。短絡的な人々は、「好き嫌い=良し悪し」だから、すべての点が斜め45度の直線状に並ぶ(図左)。判断は手軽で、効率もいい。だが度量が広がるにつれて、両者はあまり相関しなくなり、しだいに点はばらつくようになるだろう(図右)。両者が全く無相関な人は、さすがにいないと思うが、点の広がりが、見る目の公正さを示している。自分の主観をいったん離れて、物事を客観的に見る能力を示している。

好き嫌い=良し悪し、という態度は、とても無邪気でいい。だが、人が無邪気であって良いのは、15歳までだ。15を過ぎたら、人を動かす必要が出てくる。あるいは、その前に、他人が自分を動かそうとするのを、やり過ごしたり押し返したりする必要が出てくるだろう。そのとき、コミュニケーションのスキルとともに、客観性・公平さの能力が大事になる。

人を動かそうとするときの論拠は、事実・ルール・価値などである。「日曜から開店だよ」は事実。「下校時にゲームセンターなんか寄っちゃいけない」がルール。「学生の本分は勉強だろ」が価値観。そして反論の難しいのも、この順である。「だって、好きなんだもん」では自分の好き嫌いをいっているだけで、反論にならない。好き嫌いは人によって違う、のが大人の常識だからである。

個人差を超えた共通性の高さが、論拠の強さを示す。だから「事実」の説明力が最強で、「ルール」がそれに続くのだ。である以上、自分がなんとか他者と対抗する武器にできるのは、価値しかない。価値観には、多少のゆらぎがあるからだ。「よく学び、よく遊べ、って言うじゃない。人間には瞬間的な決断力が必要なんでしょう? ゲームは判断力を育てるんだよ。」

人間の心は、一種の同心円構造になっている。中心には、単純で原始的な、快・不快の感覚がある。これを囲むように、好き・嫌いがある(ここらへんは脳の中の扁桃体が決めているらしい)。非常に個人差の大きい領域である。勝ち負けや、損得、敵味方の感覚も、この愛憎に密着している。その周縁には、より複雑な感情がある。そして、感情を内部にくるむように、知的な働きがあるのだ。客観的な認知や、自己の好き嫌いへの反省は、知的な機能である。ものごとを、自分の好き・嫌い、愛憎の面だけでなく、少し異なる善し悪しの面からとらえ直す能力だ。そして言うまでもないが、言語というのはこの知的な働きの上に成り立っている。

短絡的な人は、たとえば批評とか分析といったことが理解できない。批評とは褒めるか・けなすか、どちらかの行為だと思っている。中学生がラジオを聞いたら、番組のDJが自分の好きなミュージシャンを批評していた。あいつはほめなかった、けなしたといって、いきり立つ。これが短絡である。

批評とは、より深い理解を得るための、補助線のようなものだ。対象を他と比較し、あるいは過去と比較し、良い点はこれこれで、まずい点はこれこれだ、その理由はこうだろうと推定する。これが優れた批評だ。優れた批評は、複眼的である。だが、わたしたちの社会では、中等教育で「自分の好き嫌いをいったん脇に置いて、対象を理解し評価する」という作業をあまり訓練しない。その結果、いつまでも中学生みたいに短絡的な大人が大勢、世に出てしまう。そういう人たちがビジネスを動かすようになると、ひどく単純で短絡的な論理ばかりが世の中にはびこることになる。これはなんとか防ぐべきではないか。

ダイバーシティというカタカナ言葉が、ビジネスの世界で流行っている。多様性を意味し、性別とか人種国籍とか年齢など従業員構成にバラエティを拡げるのが「良い」ことだとのニュアンスで使われる。ビジネス界は不思議なところで、「違法行為はいけない」と言うかわりにコンプライアンスなる言葉を使い、「あるべき姿を目指そう」と言うかわりにリスク・マネジメントなどと言いたがる。まともで通じやすい日本語は恥ずかしいから避けて、カタカナを使うのである。ダイバーシティはだから、「男女や肌の色での差別は良くない」と口にしないで済むように広まったのだろう。そう、推論したくなる。

それはともあれ、ダイバーシティ=多様性はもちろん、公正さの証である。ただし、多様性はそれ以上の積極的な意味を持つ。創造とは異種のものの組み合わせから生じる事を思い出してほしい。単一化した人間集団からは、新しい発想は生まれない。それに多様性はコミュニケーション能力を、否応なしに高める。すべてが阿吽の呼吸で通じる社会には、良質なコミュニケーターは育ちにくいからだ。

そして最後に、多様性の増大は、われわれの物事に対する知的な理解のベースを強めるだろう。たかが音楽談義なら「モーツァルトが嫌いなんて、変わり者ね」で済ませていい。だがことが複雑化した世界の行方に関わることなら、なるべく多面的な見方を持つことが必要なのだから。

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ロボットとして生きないために (2015-04-04)

フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(1968年)は、映画「ブレードランナー」の原作にもなった名作だ。小説の舞台は『最終世界大戦』後の、人間以外の生物がすべて稀少となった2020年の地球(あとたった5年だ)。主人公リックは、逃亡したアンドロイドを破壊してお金を稼ぐ、賞金稼ぎである。この時代、人間はアンドロイドを使役しながら、なんとか社会を維持している。アンドロイドは機械製だが、人間そっくりの外観と、知性、そして意思までを持つ。ただ一つ違うのは、アンドロイドには感情が全く無い点だった。主人公リックは、火星から逃亡してきた6人のアンドロイドを見つけて破壊し、賞金を得ようとする。彼はその賞金で、本物の生きた羊を買うのが夢なのだ。生物が稀少なこの地球では、ふつうはロボットの動物しか飼うことができないからだった・・。

この小説の妙味は、アンドロイドを識別するのに、『感情の有無』しか主要な手がかりが無い事だ。物語の中で、主人公はしだいに協力者や取引相手が、本物の人間であるかを疑いはじめる。この小説にはさらに「感情オルガン」という機械もでてくる。ダイヤルをあわせれば、自分の心理的ムードを明るくも暗くもかえられるのである。だがそれは結局、人間が他人に持つ共感力を減じていく。だから次第に、主人公自身も、自分が本当に人間なのかアンドロイドなのか、自信がなくなってくる。彼が本物の羊を所有する夢にこだわるのは、命を持つ生き物に対する愛着こそ、人間をアンドロイドの領域から区別する、最後の砦だからだ。

アメリカのSFは、奇妙でねじくれた架空の世界を、確固とした意思を持つ主人公が戦い抜く、という物語が多い(「スター・ウォーズ」がいい例だ)。客観的でリアルな世界像と、強固な自我。そして主人公を助け、あるいは敵対する、組織とシステム。これがアメリカ人の好むストーリーなのだろう。だが、P・K・ディックは、そもそも自分を取り巻く世界が、はたして本当の現実なのか、誰かの主観の外延なのか分からず、混沌状態に陥る話をよく書く。その中で、自分の信じる価値や善悪や感情も、はたして本当に自分のものなのか、定かでなくなるような話を。だから彼の小説は、決して単純な勧善懲悪にならない。

わたし達を取り巻く社会は、とてもがっちりとしたシステムとして、できあがっている。就活では、「自分はどういう仕事をしたいか、何になりたいか」ではなく、「たくさんある企業のどこを選ぶか(どこが選んでくれるか)」という形の問いしか、今は存在しない。わたしが社会人になったのはもう、はるか昔だが、その頃すでに「自分で仕事をつくり出す」ではなく「できあがった仕組みのどれを選ぶか(選ばれるか)」になっていた。社会は自分の外側に厳然と存在していた。学生アントルプルナー(起業家)は今も昔も、ごく少数だ。大半は組織の中に組み込まれ、競争して生きるわけだ。「どうせ歯車になるのなら、せめてギザギザな歯車になってやろうぜ」という広告が流れたのは、いつ頃だったろうか。

このサイトは『計画とマネジメントのための技術ノート』である。マネジメントという視点から言うと、組織の仕組みやシステムというものは、(繰り返し書いていることだが)誰が担当してもまあまあの及第点がとれるように、仕事の手順ややり方、インプットやアウトプットを設計していくのが、望ましい。もちろん、能力のある人にぱっと任せてしまう方が楽だし、効率的なのは確かだ。だが仕事のあちこちが属人的で、誰か特定の人がいないと定常業務も先に進まないようでは、システムとしての頑健性がおちる。だから、多少余計な手がかかっても、仕事をマニュアル化し、主観的な部分を排除していくように、システムは「進化」していく。ルールが規定され、ルール集は次第に分厚くなっていく。

だが、そのような十分に発達した組織のシステムは、その中にいる人間を交換可能な「部品」として扱うようになる。命じたことだけやればいい存在としてしか、見なくなる。古風な言葉を使えば、『人間疎外』が起きるわけだ。部品化された人間の側は、「言われたことだけやってりゃいいんだろ」という雰囲気になる。少なくとも、そんな組織の中から、自発的で斬新なアイデアやイノベーションなど、生まれようがない。ロボットに創造性など、要求されないからだ。

ここで、経営学の用語を一つだけ勉強しよう。「X理論とY理論」だ(あ、二つの単語だった)。D・マグレガーという米国の経営学者が、1950年代に提唱した用語で、世の中のマネージャー達が抱いている漠然とした仮説・思い込みを、二つの類型に分けて、それぞれに「X理論」「Y理論」と名付けた。

「X理論」では、労働者は基本的に怠け者だ、と考える。だからアメと鞭、報酬と罰則でしばらないと働かない。また、平均的な人間は命令されることを好み、自己責任を回避することを望んでいる。したがって、組織はルールと規律、命令と統制(Command & Control)で動かす必要がある。逸脱したら罰するか追放(失業)で脅す。人を働かせるためには脅し続けること。これがX理論だ。

「Y理論」は対照的である。人は生まれつき労働が嫌いなわけではない。それがもし自己実現に結びつくなら、自発的に働き、自分で責任を引き受ける。そして目標へのコミットメントと努力を惜しまないだろう。だから組織の目標と個人の目標の統合(Integration)が必要である、と考える。そしてマグレガーは、伝統的に信じられてきたX理論よりも、新しいY理論の方がよいと考えた。彼が活躍したのは、米国の経営学がモチベーション理論に熱中しだした時期でもあった。

さきほど説明したように、組織のシステムが進化すると、機能分化が進み、しだいに構成員を命令と統制で動かすようになっていく。つまり、企業が成功し大きくなっていくと、必然的にX理論がはびこるようになってしまう。それは、空前の発展と成長期にあったアメリカ経済界の姿でもあったろう。だがその成長の中には、必然的に従業員をロボット扱いにする疎外と空洞化がひそかに広がっていく。それを、目標管理で乗り越えようとしたのが当時の主流派経営学の思想であった。この目標管理は、やがて『成果主義』人事制度につながっていく。

ところで日本ではよく、X理論とY理論を、「性悪説」と「性善説」にたとえて説明される。わたしも最初に講義で学んだとき、講師からそう聞いた。東洋では二千年も前から知っていたことを、アメリカ人は20世紀の半ばになってやっと気づいた、とも。だが、ずっと後になって、その説明は間違っていたことに気がついた。少なくとも、部分的にしか正しくない。X理論は、単純な性悪説ではないのだ。

X理論は、たしかに労働者は強制しないと働かない存在だと考える。監視しなければ怠けたり盗んだりする、性悪だと。こうした労働者間には、かつて黒人奴隷を使ってプランテーションを経営していた頃の米国の価値観さえ、うっすらと感じさせる。だがX理論には例外があるのだ。東洋の性悪説は、「すべての人間は性悪だ」と信じる。一方、西洋のX理論では、労働者を使う側、マネージする側については何も言わないのである。むしろ組織を動かし、システムを考える側の人々の追求するものは、善であると考えている風情さえある。それを総称して『リーダーシップ』と呼ぶ。

もし自分に強い意志があり、できあがった社会の中で勝利を得たければ、部品として使われる側ではなく、リーダーの側になりなさい。それがロボットとして生きないための唯一の道だ。−−これが、上記の思想が導く結論である。そして、有象無象の群衆の中から抜け出してリーダーになるための学校として、ビジネススクールがある。そこでは、生まれついて優秀なものだけがリーダーになる資格がある、と教えられる・・

あなたは、この思想に賛成だろうか。

わたしがひとつだけ言えるのは、こうした考え方と、日本人の伝統的な感受性とは、どこかで決定的に食い違うということだ。日本文化は情緒的なものを重んじる文化で、その性格は良かれあしかれ、この社会で育った者に深く刻み込まれている。大多数の人間がロボットのように感情の乏しい生活を送り、せいぜい享楽的なショッピングか賭博か宗教に救いを求める日々、といった状況は耐えがたいに違いない。たとえ経済全体がいかに裕福であろうとも。

そこで、スーパーエリートでも業界リーダーでもないわたし達は、どう考えるか。ロボットとして生きないために、いいかえれば、「あきらめて生きないために」どうしたらいいのか。世界はもう、できあがっている。すべての組織が明日からY理論に変わってくれるなど、望み薄だ。

ここで鍵となるのは、問題の立て方だろう。すなわち、「存在し出来あがっている社会と、意思を持つ個人との対峙」という問題の立て方自体が、ずれていなかったか。そうした問題では、支配する側に立つか、支配される側に立つか、二つに一つだ、との答えしか出てこない。

わたし個人の経験を考える。わたしはずっと、プロジェクトばかり仕事にしてきた人間だ。成功したものも、失敗したものも、楽だったのも辛かったのもある。だが、自分のキャリアの変曲点、自分にとって勉強になった、成長したなと感じられたプロジェクトでは、必ず他者の協力と助けがあった。プロジェクトは自分一人でやるものではないからだ。たとえプロマネの地位にあっても、単にチーム・メンバーを命令し統制しただけではなかった。設計に悩んだとき、問題が生じたときに、良い知恵を出してくれたり、心理的に助けてくれた仲間があったのだ。プロジェクトとは、複数の人間が協力しながら共に成長するための枠組みなのである。そしてプロジェクトとは、毎回毎回が、ユニークな存在であり、チャレンジである。

だから、出来上がった社会と個人、という問題ではなく、変わりうる社会と自分たち、という見方が必要なのだ。あたりまえだが、 周囲の人が変わらない限り、自分の境遇や感情が変わるわけがない。ユーザーや顧客を変えない限り、自分たちの仕事が好転するわけがない。では、世界を変えるために一番確実で、早い方法は何か。それは自分が変わることなのだ。だが、おかしなことに、人は自分自身だけで変えることができない(それができるくらいなら、古今東西、宗教なんていらない)。自分が変わるためには、人の手助けが必要なのだ。だからこそ、誰とつながるか、が大切になってくる。

そしてもう一つ。自分が変わるため、自分が成長するためには、現在の延長とは違うところに、未来のビジョンをもたなくてはならない。月に行こうと思ったら、飛行機に乗り続けてもダメなのだ。ロケットを開発し、テスト飛行や月の周回飛行を経て、月面に降り立つまで、順序だったチャレンジがいる。飛躍的なビジョンを持つこと。そのビジョンを夢見るだけでなく、一つ一つの行動で勇気を発揮すること。そうした勇気は、自分一人では持ちづらいが、協力する他者がいれば維持しうる。

複数の人間が協力して行うチャレンジには、定石があり、一定のやり方、いわば『OS』がある。それについてはここでは説明しきれないし、別に本も準備しているところだから、今回は略す。だが、覚えておいてほしい。一個人が出来ることには限りがあるし、それを無理に拡大しようとすれば、大勢の人間をロボット化することになるだろう。自分の希望や感情を奪われたその人々は、表面的にはショッピング・賭博・宗教などに生きがいを求めるかもしれない(いずれも個人単位で熱中する点に注意してほしい)。だが、いつしかリーダーに(漠然とした)復讐心を持って生きるようになる。そんな社会が長続きするわけがない。

ちょっと大げさな話になった。だが、本心である。ロボットとして生きないためには、良きつながりを他者と得る必要がある。それは職場でたまたま隣り合った人かもしれないし、あるいは職場とは全く関係のない場でのことかもしれない。そして協力して、何か新しいことに取り組む。それを通じて、成長できることを実感する。

人間にできてロボットにできないのは、成長することである。それはP・K・ディックの小説にもあるとおりだ。そうでなければ、どこに働く意味があるだろう。

というわけで、新社会人の皆さん、入社おめでとう。どうか働くことが、成長の機会となることを祈る。これが、ずいぶん長い間、会社員をやってきた人間からの、正直な期待なのである。

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リーダーは組織の主人か? (2015-02-08)

年末、友人に誘われてコンサートを聴きに行った。曲目はバッハの「クリスマス・オラトリオ」。気鋭の指揮者の元、オケと合唱団が一丸となり、複雑な後期バロックの音楽をきびきびとリズミカルに歌いこなしていく。友人はその合唱団でバスを歌っているのだった。長大な曲なのに長さを感じさせない、良い演奏だった。会場を埋め尽くした聴衆も、音の響きに満足しているようだった。

ところで聴いている内に、ちょっと妙な感想が心に浮かんだ。この演奏会は、たしかに指揮者がリードしている。だが、指揮者が主人なのだろうか、それとも合唱団が主人なのだろうか?

指揮者は、プロの音楽家だ。対する合唱団は70人以上いたが、アマチュアだ。舞台に乗れるかどうかは、オーディションをして、指揮者が決めているという。だが、会場の聴衆のほとんどは、この合唱団員の人たちが知り合いなどに声をかけて集めたはずだ。わたしもその一人だった。その動員力はさすがで、長年、歌を趣味としてきた人たちが多いと思われる。

ちなみに器楽を演奏するアンサンブルも、20数名いたが、ほぼ全員がプロだと思っていい。ただ、常設の交響楽団と違い、年に1・2回、演奏会の時に指揮者に呼ばれて集まるが、普段は皆、別の仕事を持っている。こうしたプロの音楽家達には、当然ながら、演奏のギャラが支払われる。むろん指揮者にも、である。で、そのギャラは、誰が払うのか? 実質上、合唱団が負担するのだ。アマチュア音楽の世界では、演奏会収入だけで、会場費とギャラと宣伝費をまかなうことは難しい。チケット代を安く設定せざるを得ないからだ。だから通例として、合唱団員は演奏会分担金のようなものを支払う。自分の楽しみのために歌って、自分で費用を出す。まあ、すべからく趣味とはそういうものだ。

つまり、純経済学的に見ると、このコンサートでは合唱団が指揮者を雇っているのである。皆、指揮者の魅力に惹かれてこの団体に集まり、指揮棒のリードの元に歌っている。だが、指揮者は合唱団員に雇われているのだ。

ここで話は、急に飛ぶ(いつものことですが)。学生時代に、野口三千三の「原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論」という本を読んだ。野口三千三は、東京芸大の、体育の教授だった人だ。え? 芸大に体育科なんてあるの? いや、もちろん体育学科はない。だが必修科目としての体育の授業は存在する。彼はその教授だった。そして、「野口体操」と呼ばれる、非常にユニークな身体運用のトレーニングを発明した。

クリエーティブな仕事は頭だけでやるものだ、と勘違いしている人は多い。だが、どっこい、絵を描くのも彫刻を彫るのも音楽を奏でるのも、すべて極めて身体的な作業である。アタマと身体がスムーズにつながっていないと、本当は創造的な仕事はむずかしい。しかし、従来のいわゆる「体操」は、アタマとは切り離された肉体を、ただ鍛えることに集中していた。それは兵隊の教練の思想も影響している。屈強な身体が、命令を聞いたらただ反射神経的に動く。自分で何か感じたり考えたりするのは余計なこと。それが教練である。野口は戦後すぐからこの限界に気づき、独自の工夫と理論化で、クリエーティブな心とからだの統合方法について探求した。

主著「原初生命体としての人間」は、その結実である。野口体操は、従来の体操とまったく発想を逆にしている。アタマが考え、動きを決め、指令を発し、それが神経系統を通じて筋肉に伝わって、身体が動く−−これが従来の体育観だった。あくまでアタマが主人・リーダーであり、カラダはその子分、あるいは奴隷である、と。この発想は、西欧の心身二元論にも通じている。プラトンやデカルトなどの、精神と肉体を峻別し、前者が後者に宿り、支配するという考えに、とても相似形だ。

だが、古くからの日本人の知恵は、そんな二元論ではなかった、と野口は考える。そして、からだを主体の中心に据え、からだの構造と、「重さ」(地球の重力)との対話のなかから、自発的に動きが生まれるような体操のシステムを組み立てた。

脳が身体の主(あるじ)である、という発想は間違いだ、という意味のことを野口は書いている。生物の進化の歴史を見よ。原初の生命体には、脳などなかった。それは多細胞生物、とくに他を捕食して生きる動物が、身体の体制を複雑化する中で、あとから必要に応じて発明された器官にすぎない。今でも植物には脳などない。それでもちゃんと生きて、豊かに繁殖している。脳はからだが生み出した道具で、からだこそ脳の主人である。−−この考えを読んだとき、わたしは天地がひっくり返るほどの驚きをうけた。でもじっさい、頭が痛かったり、肩がひどく凝ったり、いや単に歯が1本痛むだけで、わたしたちのクリエーティビティは大幅に下がるではないか。

わたし自身は頭でっかちな知識労働者で、スポーツ・運動のたぐいは大の苦手で、今もこうやってPCにむかってキーボードをたたいている。ほとんど脳と口先だけで生計を立てているといってもいい。だが、野口三千三の本を読んで以来、頭が体を支配する、というようなイデオロギーに、本能的に反発するようになった。カラダは自分のモノだから、傷つけようが売ろうが何をするのも自由だ、部品が少し傷んだら新しいものに移植し取り替えればいい・・そうした思想の背後に、何か西洋近代の本質的な歪みと転倒を感じるのである。

そこから話は、もう一度飛ぶ(どうもすいません)。近代の心身二元論の元祖であるデカルトの「方法序説」で、彼は身体の血液の流れについて、たしか現代の目から見てずいぶん突飛で無理の多い説明をしていた(この文章は国際線の機上で書いているので、記憶でいうのだが)。当時、西洋ではまだ、血液が循環するという考えは一般的でなかった。血液は心臓で生み出されて体の各所に送り出され、そこで消費されると思われていたのだ。医師ハーベイが動脈から送り出された血は静脈を通って戻ってくる、との血液循環説を証明したのは、たしか方法序説の刊行より少しあとのことだった。

東洋では古代から「気血の廻り」という概念があり、“あいつは血のめぐりの悪いやつだ”といった表現を昔から普通に使ってきたわれわれから見ると、ずいぶんと奇妙に遅い発見である。身体の各部は複雑に、かつ有機的に統合されている『システム』である、というのが東洋的感覚だ。器官と器官は、気脈や経絡を通じて、互いに影響し合う。たとえば肝臓が疲れると、目が悪くなる、といった具合だ。それに比べると、デカルトに代表される近代西洋人の身体観は、なんとも機械的である。手足や器官という部品が並んでいる。それはお互いに、単機能をもつ、ばらばらな存在である。それらを統合するのは、脳であり、それが神経伝達を通じて全体を動かしている、と。システムはシステムだが、とても機械仕掛けのイメージである。

現代の主流のマネジメント論や、経営学を見ていると、同様な機械的組織論が、いまだ西洋には根強いことを感じる。本社がある(最近では司令塔としての持ち株会社である)。そして工場だの支社だの営業所だのといった、単機能の現場がある。本社は指示命令系統をもって、すべての現場を統括する。そこでは決まったルールとプロシージャに従って作業が進められ、ただ結果や異常事態だけが本社に報告される。それを本社が判断し、次の指示を出す。部署と部署が有機的に連携したり、といった発想はこれっぽっちもない。

そして、部署やサブシステムの機能が低下したら、それは捨てるか売却される。新しい組織を外から買収してきて接合する。それで企業全体は進化し成長していく。指示する者と、指示される者との上下関係は絶対である。そして少数のリーダーだけが、絶対君主として君臨している。

これって、西洋人たちの考える脳と身体との関係によく似ていないか。わたしはこのような思想に、直感的に反発を覚える。脳は、からだが発明した道具だ。本社というのも、大きくなった企業が、必要に応じて発明したもので、その本来の仕事は、現場を支援し、現場の仕事をやりやすくするために、あるのではないか。トヨタと米国のGMが合弁でNummiの工場を立ち上げたとき、最大の論争は、ホワイトカラーが現場に指示命令を下すのか、それともホワイトカラーが現場を支援するのか、という違いだったではないか。

その視点からもう一度、指揮者と楽団の関係を見直してみよう。そうすると、あらためてその不思議さが際立つのである。実際の音を発しているのは器楽奏者と合唱団員である。指揮者は一音たりとも発しない。それなのに、演奏が終わると、まず拍手に礼をするのは指揮者であり、批評が功績をたたえるのは何より指揮者であり、主催者に一番高く遇されるのも指揮者である。

インドネシアのガムラン楽団から西アフリカの音楽まで、大勢で演ずる音楽は世界にたくさんある。だが、「指揮者」などという奇妙なシステムを発明したのは西欧音楽だけだった。それも、中世・ルネッサンスの時代までは、指揮者なんていなかった。指揮者が現れ、専門家として職能が確立していくのは、楽曲が大規模化していく後期バロック・古典派以後の時代だ。そしてもちろん、音楽作りにおいて中心的役割を果たすのは指揮者になる。指揮者が最初に礼をするのは、その貢献度と責任の重さからいって当然のことと、皆が認めている。

その理由は、繰り返すが、楽譜の形で計画化され、大規模化したからである。今でも弦楽四重奏や、ジャズ・コンボや、ロックバンドには指揮者なんていないし、いらない。お互いのインタープレイで、楽曲は進められていく。互いが、互いに影響し合う。

もちろん指揮者は、必要である。本社だって、リーダーだって、プロジェクト・マネージャーだって、わたし達には必要である。だがその必要性は、からだが脳をつくり出したように、組織の便利のために創り出されたものなのだ。組織がリーダーに奉仕するために創り出されたのではない。そのことを、もっと多くのリーダーの立場にある人たちが、心にとめれば良いのにと、わたしは思う。・・ただし、もちろんわたしは、このような考え方に賛同したくない人たちが多くいることも、一応は承知している。その理由については長くなるので、稿をあらためて、いずれまた論じよう。

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クリスマス・メッセージ:幸せな人 (2014-12-24)

Merry Christmas !!

ちょっと前、電車の中で広告を見た。まだ年若い、南アジア風の女の子の写真に、

 「13歳で結婚。14歳で出産。恋は、まだ知らない。」

というキャプションがついている。途上国で、女性に生まれたが故に差別的な境遇におかれている、そういう子供たちを支援する活動の広告のようだった。

人種・性別・肌の色など、自分で選んだわけでもないことで、社会的に不利益な状態におかれるのは、不公正だと、わたしは考える。広告主も、それを訴えたかったのだろう。だが、この広告を見たとき、わたしの心の中に浮かんだのは、まったく別のことだった。

 「ああ、マリアさんだ。」

そう、思ったのである。

マリアさんは、当時のパレスチナ風の発音では、ミリヤムとかいう感じになるのだろう。後に『キリスト』という称号で知られるようになるイエスの、お母さんである。当時のユダヤ人社会の慣習では、13, 4歳で結婚するのが普通だった。彼女もそうだったはずだろう。

ところで、この年若いマリアさんに子どもができた。まだ、正式な結婚前である。婚約者だった大工のヨゼフは、そのことに気がついた。気づいて、非常に苦しんだに違いない。当時の法律では、既婚の女性の姦淫は、石打ちの刑、すなわち死罪である。結婚式の前でも、結納金をおさめて婚約したら、もう既婚に準じた扱いをされる。ふつうなら、刑に処されても仕方がない。だがヨゼフは心優しい人だったので、婚約者がそのような目に遭うことを望まず、ひそかにマリアと別れることにした。密かに公証人を買収して、彼らの婚約を無効なものにしてもらおうとしたのかもしれない。

ところが、そう決心した日の夜、『マタイ伝』によると、ヨゼフの夢枕に天の使いが立つ。そして、彼にこう告げるのである:“心配するな、ヨゼフ。マリアを嫁に迎えろ。あれは聖霊によって身ごもった子だ・・”。目覚めたヨゼフは、その忠告通り、マリアさんを嫁に迎える。

一方、別の伝記『ルカ伝』によると、話はもっと華麗で劇的である。天使は、ヨゼフではなくマリアさんのところに現れる。それも、昼日中やってくるのだ。もっとも、今のわたし達は、天使と聞くと背中に羽の生えた人をすぐ想像するが、これは後世の絵の影響で、当時は普通の人間と同じ格好をしていると考えられてきた。

さて、その神の使いは、扉を開けるなり、“おめでとう、マリア。神はあなたとともにおられる。あなたは祝別された女性で、御胎内の子も祝別されている”、と挨拶する。マリアさんはこの言葉を聞いて、“なんじゃこりゃ。何事なんだこの挨拶は?”、と思った−−かどうかは知らないけれど、何かただならぬことは感じたらしい。それでも、彼女はつつしみ深く賢い女性だったので、「わたしは神様のしもべです。お言葉のとおりになりますように。」と答えるのである。

このときマリアさんが、そうだ、この子を産もう、と心に決めなかったら、その後2000年の西半球の歴史は、がらりと変わっていたにちがいない。それくらい大きな決断を、この人は下すのである。

天の使い(その名もガブリエル=『神の人』)は、生まれる男の子に「ヨシュア」という名前をつけるようにいって、去って行った。ヨシュアは『神の救い』という意味で、彼女の住んでいたガリラヤ地方の方言ではイェシューという風な発音になる。のちにギリシャ語→ラテン語を経て、今日の日本語ではイエスと発音されている。英語では似ても似つかぬ、ジーザスみたいな発音になる。

さて、マリアさんはその少し後、親戚のエリザベトという女性におめでたを祝福されて、「わたくしのたましいは主をあがめ」ではじまる、有名な長い賛歌を歌った、とされる。とても立派で美しい詩である。農村の十代の娘が、そんな詩を即興で歌うわけがないじゃないか、第一、伝記作家ルカはその場で見ていたわけでもないし、などと言ってはいけない。それは、古代の宗教的伝承を、まるでジャーナリストか研究者の報告のように読みたがる、今日のわたし達の誤りだろう。昔の人は、そうであったろうと信じた。それだけのことだ。

その賛歌の中で、マリアさんは、「後の世の人は、わたくしを幸せな女と呼ぶでしょう」といっている。きっと、うれしかったのだろう。ほかに、「権力あるものをその座から引きずり下ろし」などと、不穏なことも言っている。今日だとテロリスト扱いされるかもしれない(笑)。

その後は、よく知られている話だ。ローマ皇帝アウグストゥスの命令で人口調査と戸籍登録が行われ、マリアさんは夫の一族の本籍地ベツレヘムに旅しているさなかに、子どもを産む。旅館が満員で泊まれず、生まれた子どもは飼い葉桶の中に寝かされる・・。やがてその子は成長すると、布教をはじめ、宗教活動で大勢の人をひきつけるが、最後には首都エルサレムの権力と、正面から激突する。

現代トルコの地中海沿いに、イズミールという古くから栄えた都市がある。そこからバスで1時間ほどいったところに、エフェスと呼ばれる小さな町がある。’90年代のはじめ、まだ第一次湾岸戦争が終わって間もない頃、わたしはつれあいと一緒に、その地を訪れたことがある。いくつかの古い遺跡のほかに、「マリアの家」といわれる古い石造りの建物があった。最古の部分は1〜2世紀にさかのぼるという。そこは、マリアさんが生涯の最後の日々をすごした場所だと伝えられている。

マリアさんの後半生は不明な点が多い。東方教会の伝承では、エルサレムで亡くなったと言われている。西方教会は、その点はあいまいである。ただ、亡くなる直前のイエスによって、近くにいた一番年若い弟子と養子縁組することになり、その弟子とともにエルサレムから難を逃れたとも考えられる。カトリックの正統教義では、たしか聖母マリアはその身体ごと昇天したとされているはずだから、もちろん墓は存在しない。ただ、地中海のいろいろなところに、マリアさんが逃れてきたという伝説があるだけだ。

エフェスの「マリアの家」では、トルコのイスラム教徒たちも大勢訪れていた。なんでも聖典「クルアーン」(コーラン)に女性で唯一名前の出てくるのが、マリアさんなのだという。だからムスリムからも尊敬されているらしい。

後の世はきっとわたしを幸せな女と呼ぶでしょう、と歌ったマリアさんが、その晩年に自分の生涯を思い起こして、幸せだったと思ったかどうかは、わからない。身重で長旅に出て、旅先の陋屋で出産。その後も、王の迫害を避けるために、小さな赤ん坊を連れて、はるかエジプトまで亡命したといわれる。故郷に戻った後も、夫ヨゼフには早く死に別れ、女手一つで子どもを育てなければならなかった。苦労して育てた息子はしかし、大工職を継がずに宗教活動にこって出奔。仲間を連れて国中を放浪する。そして、最後はローマ帝国への反逆者として、十字架という残酷な刑罰に処せられ、彼女の目の前で息を引き取るのだ。その後も、彼女は迫害を逃れ、さらに祖国の独立戦争と敗北の混乱の中を、年若い弟子とともに逃げ回る・・。ふつうにいう幸せな人生とは、ずいぶんへだたりがある。

<エジプトへの逃避行。ティントレット画(部分)>

では、マリアさんは、自分の人生は無価値だったと思ったろうか? −−そんなことはあるまい。わたしはそう、信じている。彼女の人生は、とても大きな価値があった。そのことだけは、確信があったにちがいない。

だとすれば、幸せであることと、価値があることとは、すこし違うのだ。たいていの人間は、よりよく生きることを望む。より良く、とは、幸せであったり、価値があったりすることだ。

わたし達は、自分が大切に思う人には、それが親兄弟であれ子どもであれ恋人であれ、“幸せであってほしい”と願う。それは自然なことなのだろう。「幸福を追求する権利」は天賦の人権の一部である、という思想もある。

でも不幸せだからと言って、無価値ではない。幸せか不幸せかは、感じ方の問題でもあろう。生涯の最後の時に、自分の人生には価値があった、と感じられることが、本当の意味では一番幸せなのかもしれない。それは、逆の場合を考えてみれば分かる。生きている間、どんなにお金や、才能や、境遇に恵まれたとしても、死ぬ前に「わたしの人生は無価値だった」と感じたとしたら。残された人たちは、“かわいそうな人だった。せめて故人の魂に平安あれ”と、思うのではないか。

価値とは、考え方である。価値の大きな部分は、人と人とのつながりからできている。そしてもう一つ。価値を生み出すためには、勇気のある決意が必要なのだ。だからそれは、信念の問題でもある。

世界が多少は静かになるこの季節に、わたし達ももう一度、自分にとっての価値とは何かについて、落ち着いて思い巡らせてみるのもいいかもしれない。そのためには、平和な時間が必要だ。そして、自分にとってかけがえのないことについて、少しばかりの勇気をもつべきなのだろう。それは今から二千年前、西アジアの片隅で、ある幸せな決意をした若い女性が、生涯をかけて信じていたことではなかったろうか。

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Critical Success Factors - 成功を説明する10の方法 (2014-11-04)

ご承知の通り、本サイトのテーマは、『計画とマネジメントの技術ノート』である。部下や後輩をリードし、仕事をマネージしなければならない立場の人に対し、“マネジメントのテクノロジー”について情報提供することを使命と心得て、書いているつもりだ。本サイトは「ビジネス・経営」といったカテゴリー分けをされることも多いが、わたし自身は、個別企業のビジネス批評や経営者批評をしたことはないし、興味もない。

しかし世の中には、経営批評や経営者の批評がお好きな人もけっこう多い。あの会社がこう成功した、この会社がああ失敗した、という具合に、飲み会の席でもよく話題にあがる。まるで、ひいきのスポーツ・チームの戦績を話題にするが如きだ。実際、似た気持ちなのかもしれない。皆さん、その会社のクルマや家電製品を使っているとか、ないしは(もしかしたら)株もお持ちかもしれぬ。

ついでにいうと、世の中には、プロジェクトのマネジメントを、会社の経営と同様のものと考えている人も多いようだ。プロジェクト・マネジメント関係のイベントでは、よく企業の社長や役員が招待講演をしている。自分はいかに事業にチャレンジし、いかに成功したか。面白いのだが、中身の話を聞いても、WBSもなければクリティカル・パスもない。ただただ経営の話である。わたしのように、プロジェクト・マネジメントと経営は相当に別次元のものだ、と考えるのは少数派らしい。

まあ実際、技術でチームをリードすることに行き詰まりを感じたプロマネが、ドラッカーの本を読んで啓示を得た、なんて話も聞く。むろんドラッカーの経営論も読めば有益であろう。しかし、プロジェクトとは、終わるために努力する仕事である。反対に、経営というのは、会社が終わらないために努力する仕事ではないか。プロジェクトのためにドラッカーを読むのは、なんだかマラソンにでかける前に、宮本武蔵の五輪の書を読むようなもので、少しtoo muchかつ方向違いの気がする。

まあ、ことは企業業績であれ、プロジェクトの成果であれ、いや、たとえスポーツチームの成績であれ、世の人々が批評の際に最も好む説明方法は、「リーダーの良しあし」であろう。リーダーが良いから、成功した。成功しなかったのは、リーダーに問題があったからだ。こういう説明は、単純かつ明快、誰にでもわかりやすい。

成功を左右するキーとなる要因を、経営学ではCritical Success Factor (CSF)と呼ぶ。簡単のため、本稿では以後CSFという略語を使おう。上記のような説明は、リーダーの質がCFSである、と考えている訳だ。もちろん、それ以外の要因をCSFだと考える論者もいる。世の中には数多くの経営論があるのだ。わたしは、それらを数え上げていくと、大別して4つのカテゴリー、もう少し細かく分けるとだいたい10種類くらいになると考えている。なぜ、そんなに種類があるのか。そして、どれが議論として説得力があるのか? 少し考えてみたい。

まずは、上記の「CSF=リーダー個人」論である。プリミティブだが、とてもわかりやすい。小中学生でも理解できる論議だ。このリーダーの良しあしは、器量の大きさとか、資質の高さ、性格の良さといった、人格の特性で表現される。

いうまでもないことだが、人格の大部分は生まれつき決まったものである。それに加えて、育った家庭環境や経済状態にも大きく依存する。ということは、組織が成功するためには、良きリーダーを据えるべきであり、そのリーダーは、氏や育ちを重視して選ぶべきだ、ということになる。となると、この論理に従えば、組織トップは家柄・階級制で決定すべし、という結論になりがちだ。

だが、江戸時代の階級社会ならいざ知らず、近代社会ではこれはいささか不都合な結論であろう。そこで、むしろ「リーダーの知識・能力・経験」こそが肝要だ、という考え方が現れる。これが第2種のCSF論である。家柄より能力。まさに明治維新を推進したのはこの考え方ではないか。

では、知識や能力を持つリーダー候補は、どうやったら見いだせるか? そのためには試験で客観的に測るのが一番いい、と明治政府は考えた。そのために帝国大学を設立し教育制度を整備した。しかも知識経験は、当然ながら経験年数とともに増えていく。だから、組織トップは学歴と年功序列制で決めるべきだ、という結論になる。官庁は今でも、この考え方で運用されているように見受けられる。

だが、これにも批判はある。たかが二十歳あたりの試験の成績で、人の出世コースがすべて決まってしまうのはおかしいではないか。むしろ、意思・熱意・根性、すなわち「リーダーのパッション」こそを重視すべきだ。こう信じる人も多い。これこそ第3種のCSF論である。精神一到、何事か成らざらん。鉄は熱いうちに打て! ぬかに釘!ーーいや、少し違うか。ともあれ、リーダーの意志力を重視する考え方は、明治の市民社会勃興期の事業家たちに共通するし、それは今日の社内ベンチャー制などにも影響を与えている。

第1種〜第3種までのCSF論をまとめて、わたしは『人間主義:リーダー個人』論と呼ぶことにしている。区別のため、この3つを「Aカテゴリー」としておく。

これに対して、Bカテゴリーとして、『集団主義: チーム』論とも呼ぶべき一連の系譜がある。組織のパフォーマンスを論じるのに、リーダー個人だけを見るのは不十分だとの考え方である。仕事の規模が大きくなり、組織としての力が必要になる近代産業社会で、次第に力を増してきた。

Bの第1種のCSF論では、組織の成員である個人個人の力量が大切だと考える。四番打者ばかりが素晴らしくても、あとの打線がだらしなかったら、どうやって得点を重ねるのか。組織の戦果は、成員の力量の合計で決まる。これはこれで、わかりやすい理論である。この論者が願うのは、スタープレイヤーばかりが集まった、「ドリームチーム」である。年に一度、あるいはオリンピックのときに、この夢の布陣はかなう。

でもさあ、ドリームチーム必ずしも最強ならず、じゃない?ーーそんな批判もありうる。いくら良いメンバーが揃っていても、統制がとれていなければ、烏合の衆である。きちんと位階と責任と命令系統が機能しなければ、組織は機動力を発揮できない。統制こそ成功の最大要因である、と考えるのが、Bの第2種のCSF論である。もちろん、こうした組織論の理想型は軍隊であるし、だから近代の富国強兵の時代に大きな影響力を発揮した。

さて。組織力というものを、単純な個人の集合(合計)と考えるのがB1種で、そこにタテ社会的な統制の軸が必要だと信じるのがB2種だとしたら、いや、組織にはもっと体系的ないし有機的な連携の仕組みがいるはずだ、と考えるのが、Cカテゴリーの「システムこそ成功要因」論である。システムとといっても、別にコンピュータ利用のことを言っているのではない。システムとは、複数の機能要素が連携して有機的な作用を生みだす仕組みであり、それは、体系化された役割分担(機能分業)と、標準化された手順と、情報伝達手段によって生みだされる。「トヨタ生産システム」などはその典型例だと思えばいい。

このようなシステムを構築してきちんと運用できれば、属人性が減るから、誰もが一定レベルでパフォーマンスをあげられるようになる。統制の取れた軍隊組織もけっこうだが、将校や下士官が無能だったら役に立たぬ。その点、システムは安定した成果をあげられるから、とても有効である。こうした思想をCの第1種とするならば、これは欧米的近代企業に共通する基盤であろう。

しかし、システムの安定性と継続的改善だけで、現代の荒波を乗り切れるのか。むしろそこで大きく成功するには、イノベーションというパワーが大事なのではないか。そのためには、組織内での知的能力、すなわち「ナレッジ・情報化」が重要だ。これが、Cの第2種のCSF論だと考えられる。この種の論者も、今日には多い。彼らの理想とする組織は、たとえばGoogle風のイノベイター企業であり、あるいはジョブズ時代のAppleなどである。知的能力の最大化による新市場の開発。これこそがイノベーション時代の成功要因である、と。

カテゴリーBとCの議論は、リーダー個人ではなく、組織・集団レベルでの力こそ、成功を左右する鍵だと考える点では共通である。

これに対して、ビジネス環境を、もっと重要な因子ととらえる考え方がある。これを最後のカテゴリーDと呼ぶことにする。Dの第1種は、「適切な市場環境のポジショニング」こそが成功要因だと考える。たとえば、有名なポーターの『競争戦略論』などはその典型であろう。いかに組織が優秀で、すぐれたシステムや製品を持っていたとしても、大勢が競合する市場で戦ったら、安値競争で揉みくちゃにされるしかない。そんな場所は避けて、もっと競争のないブルーオーシャンを目指しなさい。そのために一番必要なのは、マーケティング戦略である・・これが、とくに最近のビジネススクールでメジャーな考え方らしい。

ところで、世の中にはもっとクールで現実主義的ないき方もある。それは、どうせ良いポジショニングを目指すなら、政策や利権と結びついた方が得策だ、とする考えだ。こうした発想からは、当然の如く『政治力』が重要視される。英米とは異なり、最近の新興国では国家資本主義ともいうべき動きが目立つ。その背景にあるのが、Dの第2種ともいうべき「利権・政策こそCSF」論である。

さて、このD2をさらに徹底し、さらに大きな視野でみる立場が、最後のD3:「時代・強運こそ成功の最大の基盤」という論であろう。特定の政策や政党と結びつき、政商的な立ち回りをしても、それが何世代も続いて有効だった例は乏しい。むしろ、そのときどきの時代の流れに乗り、運をうまくつかんで成長し続けることこそ、究極の成功である。そう、思わないだろうか?

これまでのところをまとめてみよう。以下の10種類の成功要因論がある。それは、プリミティブなものからはじまり、より時代の試練と大きな視野を通じて、この順に、高度なものとなってきた。

さて、そうすると最も高度なCSF論は「強運」という、身も蓋もない見解になる訳だ。が、ちょっと考えてみてほしい。世の中で、一番強運な事は何か。自分でどう努力しても手に入らぬ、運命としか言えぬものは何か? それは、自分の生まれつきではないか。どんな家柄のどんな性格に生まれつくか、だれもコントロールできぬ。そうすると、じつは(D1)の究極は、(A1)に通じる、ということになってしまう・・

どうやらわたし達は、壮大なループ、あるいは昔話で言う「ねずみのお嫁入り」状態に陥ったようである。ねずみよりは猫が強く、猫より犬が強く・・と追いかけていくと、最後には結局ねずみにたどりつく、という、あの昔話である。

では、どう考えたらいいのか。わたしは、上記の10種類のCSF論は、三角形のパースペクティブの中に付置できると思っている。それが下図である。三角形の左辺が、『人間主義:リーダー論』、右辺が、『組織・システム論』、そして下辺が、『ビジネス環境論』だ。

三角形の三つの頂点は、それぞれ、上が「ガンバリズム」の軸、右下が「戦略イズム」の軸。左下が「オポチュニズム」の軸に対応すると解釈すると、分かりやすい。これらが、現在世の中に流通している、さまざまな成功要因論の対立軸を示す。もし「ガンバリズム」が優勢なら、どんな環境も克服できるはずだ。もし「戦略」が万能なら、リーダーの人間性は不要である。そして上手に運に乗る「オポチュニズム」が最強ならば、組織に仕組みなんかいらない。だから、これら10個のCSFは、全部同時には並び立たないのである。

ここから導かれる結論は、二つだろう。まず第1に、われわれが何か事業や会社の成功理由を分析するときには、自分の視点が、個人・システム・環境の三角形の中のどこら辺に位置しているのかを、ちゃんと自覚しなければならない、ということだ。そのときどきに、ぐるぐると場所を変えて、しかもそれを自覚しないのは一番いけない。ちなみに、わたしはこのサイトで「システム論」を繰り返し主張しているが、それは、わたし達の社会ではシステム論的な視点が非常に手薄だから、バランスをとるべく、そうしているのである。システムだけが万能だ、などと主張するつもりは全くない。

もう一つの結論は、「ものごとの成功理由を説明するのは簡単だ」ということである。なにせ説明の方法は、こんなに沢山あるのだ。だから、何かを見て、その成功を説明してみただけでは、たぶん不十分なのだ。むしろ大事なのは、結果を説明することよりも、将来を予測することなのだ。予測した上で、検証する。これが本当に役立つ態度であろう。だから居酒屋でビジネス批評の意見を聞かれたら、「でも、来期はどうなると思います?」と聞き返すのが、わたしの趣味なのである。

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あなたは、どう考えるの? (2014-09-28)

「佐藤さん、すみません、ちょっとご相談があるんですが・・」

若手社員が机の前にやってきて、顔を上げたわたしに、いいにくそうな声でぼそっときり出した。わたしが、ITリッチなプロジェクトをやっていた時代のことだ。

−−なあに? 何か、いい話かな?

「いえ、あの・・。例の中間在庫ロットなんですが、どうしようかと悩んでいまして。」

−−そこは新しいコード体系を使おうって、先週の打合せで決めたじゃないか。

「そうなんですが、注文書のシステムで、ちょっと困ったことが見つかりまして。あのままでは、番号がかち合ってしまう可能性があると分かったんです。」

彼は仕様書の該当箇所をわたしに見せて、問題を詳しく説明する。なるほど、先週の打合せでは、この点を見落としていたらしい。

−−つまり、このまま進めば、ユーザに運用を変えてもらって、少しだけ手間が増えるのを我慢してもらうか、さもなければシステムの設計変更をするか、二つに一つです、という訳かな。大勢のユーザに文句を言われるか、開発会社から追加費用を請求されるか、どっちかしかありません、と。

「・・まあ、そういうことです。どうしたらいいでしょうか?」

そこでわたしは、いつものセリフをぶつけた。

−−あなたは、どう考えるの

その場で部下が、自分の考えを言ってくれれば、もちろん、それでよし。内容について議論できる。部下の考えがまとまっていない場合は、「少し考えてから持ってきてごらん」と、いったん突き放すことにする。

しばらくすると、「佐藤さん、こう思うんですが。」といってくるので、そこからは議論に付き合い、一緒に考えることにする。たとえ、途中こちらがヒントをだし、リードをしても、「一緒に考える」雰囲気が大切だ。そうすれば相手は、打合せ結果を「自分が考えたこと」として、モチベーションをもって働いてくれる。

わたしはこのようなやり方を、自分自身が駆け出しの頃の、上司から学んだ。わたしが同様に、問題を抱えて、こまって上司のところに行くと、彼は決まってためいきを一つついてから、こう言う。

「それで、オタクはどうしたいんだよ?」 (その人は有名私学の出身で、そのころはまだ珍しい『オタク』という二人称を使う人だった)

わたしが、何も自分でアイデアをもっていないと、「考えてからもってこいよ。」といわれて、対話は終わってしまう。なにか解決策や提案を持っていけば、(もちろんたいていは技術的にケチョンケチョンに叩かれるのだが)とにかく前には進める。

だから、問題が生じても、まずは自分で答えを考えてから、相談に行く姿勢がいつの間にか身についた。それは、そのあと、自分が直接、顧客と接して動かなければいけないキーパーソン・レベルになってからも、とても役に立った。だからわたしも、人を使う立場になると、自然とその真似をするようになってきたのだ。

ただし、ときおり、まったくこちらの指示に依存する姿勢の若手も現れる。「少し考えてから持ってきてごらん」と突き放しても、こういうケースではたいてい、すぐにギブアップしてくる。自分で考えて突破しようという思考体力というか、基本的なスタンスが足りないのだ。おまけに、わたしは冷たい上司だと思われてしまう。そうなると、今度は問題が発生しても、わたしに報告せずに自分一人で抱え込むようになる。そして火が噴くまで、こちらが気づかない危険性が増す。

そういうときは、しかたないので、論点を整理しつつ、もう少し踏み込んで、最初から一緒に考えてやることにしている。その若手社員も、そのタイプだった。一緒に問題構造を図解したホワイトボードの前で、彼は言い出す。

「佐藤さん、従来の品番コードの頭に、取引先の略号を3桁つける、という手はどうでしょうか?」

−−そりゃダメだ。そんな抜け道を造ったら、工場内のロットを物流システムで統一的に管理するという、全体の設計思想が歪んでしまう。それに、3桁なんて、どうせすぐパンクするよ。

「それじゃ、どうしたらいいでしょうか?」

 設計思想を大事にしろ、というのも、上で述べた昔の上司から学んだことだった。ただし彼は、設計思想という言葉の代わりに、『設計のスタンス』という呼び方をしていた。その方が、顧客に対してスムーズで、通りやすいからだろう。設計のスタンスを曲げると、あとで追加修正が難しくなり、いきおい全体が温泉旅館の建て増し的な、ゴチャゴチャしたものになっていってしまう。そうなれば結局、運用しづらく保守もコストがかかる。そういう理由をつけて、その上司は顧客の要求を押し戻したりしていた。

 どうしたらいいかたずねてきた若手社員に、わたしは、再びくりかえした。

−−あなたは、どう考えるの?

さっきと同じ文句だが、問うていることは、じつは違う。今度は、どれを選ぶかたずねているのだ。目の前のホワイトボードには、結局とるべき方策は三つしかないことが、明らかになっている。

・今までの設計方針を押し通し、運用側で一手間かけてもらう
・システムを一部、変更する
・彼の言う、一種の変則的な抜け道をつかう

三番目は、コスト追加もユーザの不興を買うこともないが、設計思想が歪むので、わたしが賛成しなかった。選ぶなら、一番か二番目しかない。

『考える』という行為には、一般に二つのフェーズがある。問題の答えを探すことは、その主要な部分である。しかし、答えを見つけたあとにもう一つ、問題が生じる。それは複数の答えの中から、良いものを決めることである。

われわれ技術者が直面する問題は、数学のようにたった一つの正解がでてくる場合は少ない。ふつうは複数の解決案があり、しばしば、どれも帯に短したすきに長しと見える状態になる。その中から、どれかを決めなくてはいけない。よく、迷っている人が、「考え中です」と言ったりするように、考えるという行為の第2フェーズは、じつは決めることなのだ。だから、二番目の「あなたは、どう考えるの?」は、

−−あなたは、どれを選ぶべきだと思うのか?

と言いかえてもいい。

そして、この問いに答えるためには、『価値観』が重要になるのである。どのような価値観を持って、それを選ぶのか。たとえば、コストと顧客満足が両立しない場合、どちらをより重視するのか。どのような状況のときには、コストを犠牲にしても顧客満足を確保すべきなのか。逆に、どのようなときは、顧客の不興を買っても、コストを選ぶべきなのか。そして、そもそも、“顧客の満足”とは、ほんとうは何をさしているのか。

そして、わたし達は、価値観をしっかり立てて、それに従って何かを決める態度が、しばしばとても弱い。とくに受注ビジネスではその傾向が強いように感じられる。多くは、“ご無理ごもっとも”で顧客要望をなんでも聞き入れてしまって、結局自分のコストと時間で帳尻を合わせている。そのような要望を受け入れることが、相対する顧客のミクロな局所最適にはつながっても、顧客組織のマクロな便益には反してしまう場合、ほんとうに顧客満足優先の価値観に立脚するならば、あえて反論し説得しなければならないはずだ。だが、そう振る舞える技術者は少ない。へたをすると、顧客の些末な要望を聞き入れて、曲芸のような設計を実現することに、自分の職人的プライドをかけたりするような逆立ちが、まかり通る。

まあ、もっと敷衍すれば、わたし達自身、それこそ学校を選ぶときも、就職先を選ぶときも、自分の価値観というより、世間的な評価や周囲のすすめなどにしたがって、何となく選んでしまう。まわりと合わせることが最大の美徳であるこの社会に育って、何か独自の価値観を樹立せよ、という方が無理があるのかもしれない。だが、われわれがビジネス社会で成長するためには、その無理をなんとか通す必要があるのだ。

ところで、ここまで読んだ読者の中には、そんなことを部下にたずねるのはおかしい、決めるのは上司の責任だ、と思う方もいらっしゃるかもしれない。たしかにその通りだ。部下が○○がいいと思います、と言ってきても、わたしは××を選ぶかもしれない。かりに○○を選んだとしても、その結果おきる事は、もちろんわたしの責任であり、まちがっても「部下がそうしろと言ったので」などという言い訳は通用しない。

だとすると、なぜ、若手社員に「あなたは、どう考えるの?」などと聞くのか。理由ははっきりしている。彼に、上司の視点でものを考える訓練をしてもらいたいからだ。上司の視点で考えるとは、必然的に、自分の狭い責任範囲をこえて、全体感を(あるいはせめて多少は広い範囲を)考えた上で、『価値評価』する作業を求めている訳だ。そのような思考訓練は、他者の立場・価値観を推測するスキルにつながり、やがては顧客に対する説得力・交渉力につながっていく。少なくとも、かつての上司がわたしに求めたのは、そうした能力だったにちがいない。

ホワイトボードの前で、まだ迷っている若手社員に対して、ともあれ助け船を出すことにした。

−−とりうる選択肢に対してさ、それぞれProsとConsをあげて表にしてみな。

ProsとConsとは、「賛成すべき点」「反対すべき点」の意味で、つまり長所と短所である。彼をうながして、ホワイトボードに簡単な表を作らせた。そして、それぞれの項目に、◎○△×を記入してもらった。

「ええと、こうなりました。」

−−どれがいい?

「記号を足し算してみますと、えー、1が一番良さそうですか・・?」

このようなPros/Consの表は、非常に単純に見えるだろうが、フェーズ2の「考える」=「決断する」行為では、案外有効である。頭の外側に見える化することで、見ている全員が、なんとなく納得感をもつからだ。

−−うん。少し頭が整理できただろ? ただし本当は、こういう表を作った場合はね、どこかに×がある選択肢は、もうその時点で原則的には不採用なんだ。ノックアウト条項というんだけどね。

「・・じゃあ、2も3も失格ですか。」

−−そう言いたいところだけれどね。でも、いまは感覚的に○×をつけているわけで、あまり厳密じゃない。ところで、2の選択肢についてだけれど、納期も遅れる可能性があるのかな?

「はい。追加変更のボリュームによると思いますが。」

−−そうだな。じゃ、いつまでに決めなくてはいけないのな? 開発会社に聞いてみてくれないか?

「それは聞きました。半月以内に決めてくれ、というんです。でも、この議題は、来週のお客さんとの会議で、もうアジェンダにあがっていまして・・」

−−だったら、わたしがお客に電話して、来週のアジェンダを組み替えてもらおう。再来週まで時間を作るから、もう少しだけ考え直して見なよ。今、決めるのはやめることにする。コード重複がどれくらいの頻度で起きそうか、まず調べること。」

「はい。わかりました。」

彼は席に帰っていった。わたしの中のカンでは、(根拠も何もないのだが)この問題は何か、技術的な逃げ道があるような気がしたのだ。でも、それを考えるのには時間がいる。

わたしの職場には、

 「決めないリスクより、決めるリスクをとる

という格言がある。決断を先延ばしにしても、普通あまりいいことはないのだ。だが、担当者の彼に、考える時間を作ってやることが、現時点では優先度が高いと、わたしは考えた。それは、カンであり、賭けである。だが、考えるために一番大事なリソースは、「考える時間」なのだ。わたしが自著『時間管理術 (日経文庫)』でも強調したように、タイム・マネジメントの最大の目標は、集中して考える時間を確保することなのだ。

わたしの賭けの結果が、どうなったかは、あえて書くまい。わたしが、かつての上司ほど、カッコいいマネージャーではないことは正直に認めよう。だが、わたしの中には、かつて教わったいくつもの原則が生きている。それを、もっと後ろの世代にも伝えることが、少なくともわたしの使命であろう。

だから、今もこんな文章を書いているのである(笑)。

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情報とは何か、なぜかくも奇妙な性質を持っているのか (2014/08/05)

「コンプレッサーがいかれちゃってますね。残念ながら修理不能です。」P社のサービスマンは、故障した冷蔵庫を点検して、わたしにそういった。・・うーん、そうですか。しかしまあ1993年製なんだから、寿命と思ってあきらめます。今まで20年間、ずっと文句も言わずに働いてくれたんだし、仕方がないですね・・。サービスマン氏は、わたしの独り言を聞き流しつつ、てきぱきと熟練した手つきで工具をしまうと、さらにこういった。「申し訳ないのですが、規定ですので、出張サービス料をいただきます。」

三千数百円の料金を、わたしは支払った。点検はわずか20分程度だったが、ここまでの移動の往復を考えると1時間以上は拘束している。当然の費用だと、わたしも思った。ただ、考えてみると、これは何の代償として払う費用なのだろうか? わたしの手元に、何か新しい「モノ」(補修部品)がおさめられた訳ではない。「サービス」といっても、彼がきた時とかえった後で、こわれた冷蔵庫に何の違いがある訳でもない。

だとすると、わたしにとってこの金額は、“もう修理はできません”という「情報」の対価なのだ。だから、新しいのを買わなければならない。わたしの次の決断、次の行動の道筋を決める助けになった「情報」のお値段、ということになる。

世の中で売り買いできるのは三種類に分類される。「モノ」と「サービス」、そして「情報」である。モノは、物理的な実体があり、在庫することができ、そして売る時には所有権を引き渡す。一方、サービスという種類の財は、在庫できない。マッサージ師の仕事を考えてみれば分かる。いくら土日が忙しくても、平日の内に働きだめして在庫を積み上げておくわけには行かないのである(これを「サービスの同時性」と呼ぶ学者もいる)。なぜならサービスというのは、『リソース』の占有権を売る商売だからだ。

では、「情報」とはいかなるものか。これが、なかなか一筋縄ではいかないのである。情報という言葉は、もともと「敵情報知」という古い用語から生まれたという(真偽のほどは知らないけれども)。そして、事実、終戦後しばらくは、情報という語には独特の暗い影があったらしい。ちょうど今のわたし達が「諜報」という言葉に感じるような影だ。そうした感覚は、コンピュータ登場とともに大いに薄らいだ。だが出自はともあれ、情報にはいまだに奇妙な特殊性がついてまわっている。

情報なる商品の特殊性その1は、「人に渡しても手元に残る」という性質である。“来週X社の株価が暴落するらしい”という情報は、ある種の人たちには大変な価値があるだろう。ところで、この情報を誰かに高値で売ったとしても、売り手の手元にも、その情報は残るのである。このような性質のために、情報には「所有権」の概念があてはまらない。それどころか、さらにまた別の誰かに売りつけることができる。だから、情報の場合、「占有権」も紳士協定的にしか保証できない訳である。もちろん、「在庫」の概念もあたらない。

情報の特殊性・その2は、内容を受け取らない限り、「消費者」はその価値を正確に判断できない、という性質である(先の株価暴落情報がいい例だ)。しかも、いったん内容を受け取り、知ってしまったら、もう情報を「返品」してもらうことはできなくなる。ここに情報提供ビジネスの本質的な困難がある。「お代は見てのお帰り」方式は、リスクが大きくてなかなかできないのだ。だから何とか、事前に情報の価値の裏書きを得るべく、さまざまな品質保証の工夫がされることになる。しかもここには、受け手によって情報の価値が変わる、という別種の困難も横たわる。

3番目の特殊性とは、非対称性が存在しなければ情報に機能(意味)はない、という性質である。「情報の非対称性」はミクロ経済学の用語だが、ある人が知っていることを別の人は知らない、との状況を指す。知識の濃淡、高低があるから、情報にニーズが生まれるのである。全員が知ってしまった瞬間に、もうその情報には価値がなくなる。

このような奇妙な特殊性があるため、法律も会計学も、まだ本当は情報をうまく扱えていないように見える。情報の「窃盗」に意味はあるのか? 情報の「資産価値」はどう評価するのか? 減価償却できるのか? etc., etc... それなのに、情報はすでに巨大産業化してしまった。わたし達は、これをどう制御するのか。制御するためには、情報というものの奇妙さの根底にあること、いわば本質を、もう少し理解する必要があるはずだ。

ちなみに情報量については、周知の通り、エントロピーをつかった物理学的な定義が存在する。ここでわざわざ数式をとりだして読者に頭痛をよびおこすつもりはない。むしろ、物理学は情報「量」については定義を与えるが、情報の「性質」については大して何も教えてくれない、とわたしは感じている。情報量は、情報源の発する記号(符号)をベースに定義される。だが、そもそも記号(符号)化されていなくても情報は情報である。何気ない仕草や目つき、鼻腔を刺激する馥郁たる香り、こうしたことから、わたし達は案外多くの情報を得るのではないか。

ここで何となく、システム、制御、情報、というキーワードが思いつく(思いつくというか、じつは少し前に論文を書かせていただいた学会の名前そのものなのだが^^;)。この三項には、何か共通する関連性があるかもしれない。

制御工学は、情報に深い関わりのある分野だ。フィードバック制御などでは、対象系の操作のために情報が利用される。ところで、ワットの発明した蒸気機関には、すでにフィードバック制御が組み込まれていた。回転数が上がると、遠心調速機が働いて、蒸気機関の安定稼働を守ってくれる見事な組みだ(→Wikipedia )。

だが、ここでふと、奇妙な気持ちにおそわれる。ワットの蒸気機関は複雑で立派な「システム」だが、回転軸の遠心力でスロットル弁の開閉が調整されるのは、「情報系」なのだろうか。回転数は「情報」なのだろうか?

どうもわたしには、内部状態のあるシステムでなければ、「情報」という感じがしないのである。ここでいう『内部状態』とは、外部から直接うかがうことはできないが、保持される性質(記憶性)であり、かつ、その状態によって、システムの次のふるまいが変わりうるようなものを指している。内部状態を持つシステムでは、全く同じインプットでも、異なるふるまいをすることがある。

ワットの蒸気機関は内部状態をもたないシステムである。一般に単純な機械には内部状態がない。ふつうの冷蔵庫には内部状態がない(冷蔵庫の“内部”=庫内に何が格納されていようと、それで冷蔵庫の動作が変わったりはしない)。

もちろん、コンピュータは内部状態をもつシステムだ。ただし、それは電子的にデジタル情報を扱えるから、ではないことに注意したい。たとえば、チューリングマシンを見よ。紙テープでも、立派な情報だ。

ちなみに、わたしたち人間が感覚器(眼・耳・肌など)で受けとる情報というのは、光、音、触覚など微弱な物理的なエネルギーの作用である。残る味覚と嗅覚も、微弱な化学的ポテンシャルを検知している。この“微弱”というのも、情報のキーワードらしい。大きな物理化学作用では、「情報」という感じがしないからだ。頭を物理的に思いっきり殴られた。おかげで「痛かった」という内部状態(記憶)が長らく残った、あるいは記憶をすっかり失ってしまった、というのは情報のやりとりとは言えまい。

何となく「感じがする」みたいな、論理性の薄い推論を積み重ねてきたが、以上をまとめると、こうなる:
「情報とは、比較的小さなエネルギーで受け手の内部状態を変化しうる働き、またはその結果の状態である。」

情報をこのように理解すれば、その特殊性をすべて説明できそうだ。たとえば、(1)「人に渡しても手元に残る」のは当然である。なぜなら、小さなエネルギーで相手の内部状態を変える働きが情報なのだから。もし、情報の伝達に巨大なエネルギーを要するとしたら、もちろん二度と他の誰かに渡すことはできなくなるだろう。(2)「内容を受け取らない限り、『消費者』はその価値を正確に判断できない」のも当然である。なぜなら、受けとった結果として内部に生じる変化こそ、受け手にとっての情報の意味なのだから。(3)「非対称性が存在しなければ情報に機能(価値)はない」のも当然。すでに内部状態がAになっている人に向かって、“Aになれ”と伝えても何の変化も生じないのだ。

このような、情報の「内部状態論」的な解釈は、今日世間で広く行われている情報の「発生源論」的な解釈とは、真っ向から対立する。情報とその価値が発生源に依拠する、という議論は、情報の所有権的な考え方を通じて、ライセンスと知財戦略にまっすぐにつながる。つまり、米国などが国家的戦略としてすすめている、「高度な知識をお金にかえて世界を制覇する」という考え方である。わたしは別にライセンスも知財も否定するつもりなど全くないが、「知識に固有の価値がある」という見立ては間違いで、価値は受け手が(=その内部状態が)個別に決める、と考える方が健全だと思うのだ。

ついでにいうと、記号(符号)化と言語化は、情報をひろく流通させるための仕組みでしかない。記号も言語も、発信者と受け手の共通基盤として存在する(でなければ流通は機能しない)。しかし、情報の結果は、相手の内部状態の変化なのだから、言語化されていなくてもいいわけである。

そして情報技術(IT)とは、こうした性質を持つ『情報』と、情報を定型化して並べた『データ』の間に、相互変換のサイクルを作って回すことに他ならない??という話を本当は今日はしたかったのだが、すでにもう十分長くなりすぎた。わたしの話の前振りの長さはあきらめていただくことにして(^^;)、本題の話は項を改めて、いずれまた書こう。その前に、こわれた冷蔵庫をどうすべきか、頭を冷やして考えなくちゃ。

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反応、感想、そして批評−−受け手にとってより良きリアクションを生むために (2014/07/14)

わたし達は、消費社会に生きている。普段は職場で生産にかかわる仕事に従事していても、家に帰れば、消費者としてふるまう。いや、ちょっと昼飯を外に食べに行く時でさえ、消費者に戻るのだ。そうして毎日、お金を出して何かを買う。買うのはモノだったり、劇場での視聴だったり、旅行という体験だったりする。そして買ったモノや体験を、なぜかわたし達は、口に出して人に伝えたがる。考えてみれば、不思議な習性である。消費してそれで終わり、にしてもいいはずなのに、良きにつけ悪しきにつけ、何か一言いいたくなるのだ。

もっともわたし達は、自分でお金を払わない物事に対しても、あれこれと批評を口にする。TVで見る番組は、広告代という形で間接的に費用を払っているとしても、新聞で読む世の中の出来事、親戚の結婚式の体裁から、ゴミ出しの時に合う近所の奥さんの性格まで、すべて品評の俎上にのせられる。

これほどに世に多く行われている行為なのに、あまりその組立てや手筋について、論じたものは無いようだ。そこで本サイトはいつものユニーク性を発揮して、消費者としてのリアクション−−『批評』というものを構造分析してみようと思う。どういう役に立つのか書いている本人もよく分からないが、とにかく気になるものについては考えてみる、という習性の導きにしたがって進めてみよう。とくとご笑覧あれ。

最初に、批評的なるものについて、三つのレベルを区別するところから始めたい。それは反応、感想、そして批評である。(これはわたしの個人的な用語定義なので、これ以降は『カギ括弧』でかこって表示する)

『反応』とは、対象に対して当人が感じる“快・不快”が、ほぼ直接に表出されたものである。「うまい!」「まずいな。」 「まあ、チョウチョよ!」「きゃー、蛇よ!」・・このパターンは、いくらでもある。むろん、世の中には少数派として、蝶が苦手な人や蛇が好きな人もいるわけだが、話者の快・不快は、ほぼ口調からくみ取れる。そういえば、Facebookの「いいね!」(like!)ボタンも『反応』レベルに属するかもしれない。

ところで、聞き手・読み手なしでも『反応』は発せられることがある。そばに誰もいなくても、反射的に口に出てしまうわけだ。そういう観点からいうと、『反応』は必ずしもコミュニケーションを意識しない行為だ、と言えるかもしれない。もともと「蛇だ!」というような叫びは、集団内の信号ないしアラームとして機能したはずである。人間は言葉を持っているから単語や文で説明できるが、動物たちだって、警戒の鳴き声や、歓迎の鳴き声などで、この程度のレベルは表出している。『反応』とはたぶん、わたし達がもっと原始的な動物だったころから、持ち続けている脊髄反射的行為なのだ。

これに対して『感想』とは、自分が対象から受けた感情(エモーション)を言葉に表現したもの、と定義しておこう。「心を打つ話に、涙が止まりませんでした」とか、「笑止千万なゲーム運びに、あきれかえった」といったものが『感想』である。これは一応、コミュニケーションのニーズを持っている点が、『反応』とは異なる。人間には、感情を他者と共有したいという欲求がある。悲しい、とか悔しい、といったネガティブな感情でも、それを誰かと共有できると、心のどこかに満足感を覚える−−そんな性質を人は持っている。それが『感想』を生みだす原点であろう。

では、『批評』とは何か。単なる『反応』や『感想』と違い、『批評』は独立した書き物として、それ自体も価値を持ちうる。だから、“プロの批評家”という存在も可能な訳である。作家とは別に、文芸批評家がいたりする。

『批評』は基本的に、読み手を想定して書かれている。原則として『批評』の読み手は、その芸術なり商品の消費者である。ときには作家宛の手紙、みたいなスタイルによる批評も存在するけれども、それは一種の意匠にすぎない。批評は、その対象作品をまだ知らない人に対する道案内であり、経験した人にとっては、より深い理解への手助けを提供する。だからこそ、『批評』は独自の価値を持ち、それ自体が商品ともなりうるのである。いや、たとえ原稿料がなくても、自分が書いた『批評』が多くの人の目に触れて支持を受けたら、当然誰だってうれしいと思う。

では、少しは読むに足りる『批評』を書くには、どうしたらいいだろうか? 自分はプロの批評家でもないのに、ずいぶん無謀な試みだが、一つ考えてみよう。それにはまず、良い『批評』と思われるものの構造を、理解する必要がある。

わたしの見たところ、すぐれた『批評』は大きく二つの部分、4つの要素から構成されている(図参照)。

全体はまず、(1)事実の記述と、(2)分析・評価、の二つの部分からなる。前者はさらに、(1a)対象に関する事実の要約、(1b)周辺情報、の二要素を含む。後者は、(2a)対象の分析、そして(2b)評価からなっている。

(1a)「対象に関する事実の要約」は、特段の説明は不要だろう。『批評』の対象の多くはなんらかの作品(創作品)だが、しばしば商品・工業製品・サービスなども対象に含まれる。さらに、スポーツなどのパフォーマンスや、出来事・イベントなどの事象も対象になることがある。『批評』はまず、対象について、事実をサマライズするところから普通ははじまる。

(1b)「周辺情報」とは、たとえば作品が対象ならば、その作者に関する情報などである。場合によっては、プロデューサー、出版社なども含むだろう。また、対象のジャンルに関する情報も必要かもしれない。さらに、その作品なり事象なりが生まれるまでの来歴、それが世に出てからのインパクト、他者による評価なども紹介されるかもしれない。

(2a)「分析」では、作者の意図・ねらいを分析(推定)することが中心に来る。むずかしい創作物では、その前にまず解釈が必要だろう。また事象が相手の場合は、その発生の原因や波及を分析(推定)することになる。そして、自分の受けた印象や感情を整理する。もちろん、深い作品などの場合、分析不能(「言葉にできませんでした」)ということも、あるかもしれない。

ちなみに分析を記述する際には、自分との利害関係の有無を明確にすることも行われる。これは、『批評』の信頼性ないし中立性を確保するためだ。

最後に来る、(2b)「評価」とは、すなわち良し悪しの議論のことである。むろん、どんなものを評価する場合であれ、通常は多元的な尺度が用いられる(ストーリーは面白いが、キャラクターは平板だ、など)。評価は時間的にも、短期評価と長期的評価とがある。そして、何ごとであれ、批判するよりも、上手にほめる方がずっと難しい。良い批評だな、と感じるのは、そうした対象へのリスペクトを感じさせる文章である。

ちなみに、いつだったか東海林さだおのエッセイを読んでいたら、彼がTV番組を見て憤慨した話が書いてあった。その番組では、オーストラリアを訪問したうら若い女性タレントが、たしかカンガルー肉の料理を口にするのである。その肉は固いのか柔らかいのか、味は淡泊なのか濃厚なのか、固唾をのんで見ていると、タレント女子はただ一言、「おいし〜い!」とだけ言って終わったというのだ。それじゃあちっとも視聴者が分からないじゃないか! と東海林さだお氏は憤慨する。

そのレポーターさんのお仕事は、事実も分析もなく、評価だけだった、という訳だ。まあ、ここでいう『感想』レベルだ。『感想』では何がこまるかというと、事実の報告も分析もないため、“それを誰が言ったか”、でしか判断する方法がない点だ。しょせんTV番組なんだからその程度で我慢しろ、という言い方もあろう。でも、どうせ費用をかけて放送するんだから、もう一手間かけてレポーターにしゃべらせれば、ずっと情報量が上がったはずである。放送する側に、そういうマインドがないのだろう。

いうまでもないが、事実と意見を区別する、というのがレポートの基本である。事実とは何か。哲学的にはいくらでも深入りできる問いだが、ここでは、事実とは「お互いに検証可能なこと」(客観性)だと定義しておこう。そうすれば、対象がカンガルー料理だろうが何だろうが、少なくとも『批評』の前半は、客観的に議論し検証できるようになる。

同じように、評価のところでも、自分の「好き・嫌い」と対象の「良し・悪し」を意識して分離する態度が大事である。好き嫌いは感情レベルのことがらで、これは個人差がある。他方、作品の良し悪しというのは、大勢の人の間で、時間をかけて定まっていくものだ。だから、自分の好き嫌いが普遍的でないことを認め、両者を区別することが『批評』には望まれる。

そしてもう一つ。創作物の質の良し悪しと、その作者の人格を短絡的に結びつけないことも、大事な態度だろう。社会事象とその当事者のケースも、同じである。よく、子どもの出来が悪いと、すべて親のせいにする人がいるが、これと同じように作者と作品にも“親子関係”を想定し、「こんなもの作るのはロクな奴じゃない」みたいな事を言いたがる。こういう態度がなぜまずいかというと、批評者自身にも同様に、人格攻撃がはね返ってくるからである。その結果、誰もまともな『批評』を口にできない、知的におかしな社会ができあがる。

以上をまとめると、良い『批評』のためには、
 ・事実と意見を、区別する
 ・自分の好き嫌いと、対象の良し悪しを区別する
 ・対象の評価と、作者の人格評価を区別する
という、三つの区別が求められるわけである。

これを言いかえると、作品や事象の評価を、議論可能な形にしていくことが、『批評』の最大の役割なのであろう。事実なら議論できる。良し悪しについても、互いに意見交換は可能だ。推測に関する水掛け論、たんなる個人的感情についての言い合いのムダを防ぐ。そうして、議論の中で、少しずつ共通理解の土台を広げ、次のより良い体験、より良い制作にフィードバックする−−これが『批評』の機能であり、価値なのである。

そして、議論の価値を信じる社会でないと、このような『批評』は成り立たない。話し合いを信ぜず、「問答無用!」だけが通用する社会には、『批評』は無用である。

もちろん、世の中には『批評』に似て非なるものも存在する。一番多いのは、対象にカテゴリーのレッテルを貼ることで「評価」を代用するやり方である。「こんなのは××にすぎない」というやつだ。こうした文言は、『感想』または『批評』の形をしていても、じつは『反応』レベルに近い。たんに、レッテルの共有イメージにもたれかかっているだけで、ハイ・コンテキストな同質集団内のみで成立する言い方である。これでは、集団の外の人間とは対話できないままだ。

いうまでもないが、『反応』や『感想』は短文に向く。140文字に制限されているコミュニケーション・チャンネルでは、『批評』は書きにくい。その結果、そうした世界では、消費者のリアクションはみな短く、類似する。そして内容よりも「どの有名人が言ったか」で支持者(フォロー数)がかわっていく。そんな世界は、とても数値分析(テキストマイニング)しやすい世界である。基本的に、商品の売り手企業や広告企業は、むしろ『批評』をあまり歓迎しないと見るべきだろう。

といっても、誤解しないでほしいが、わたしは『反応』や『感想』より『批評』が高級だとか、どんな事柄に対しても『批評』だけを書くべきだ、などと主張しているのではない。そんなこと、わたし自身するつもりもないし、できる時間もない。だから日常では『反応』を口にするだろうし、Facebookでは「いいね!」を押し続けるだろうし、書評や映画評も『感想』ですませるかもしれない。ただ、その時その時に、自分がどのレベルを言葉にしているのかは、意識しようと思うのだ。

そして考えてみると、「仕事の評価」「人の評価」でも、作品・事象の『批評』と同じ構造をしていることが分かる。わたし達が、他人の仕事の成果や仕事ぶりを評価する機会は、音楽評を書く機会よりもずっと多い。また、その帰結も非常に重要である。だとしたら、『批評』の構造を胸に刻み込むのは、とても大事なことではないか。

分析・評価とは、すなわち、「アナリスト」の仕事である。対象が企業経営の場合は「証券アナリスト」、市場の場合は「市場アナリスト」、業務フローの場合は、「業務(システム)アナリスト」である。ちなみにわたし自身は、「プロジェクト・アナリスト」を自称し、その職域を認知してもらうべく、研究部会活動などもいそしんでいる。だから、(文末になってやっと分かったが)、良き『批評』の構造分析は、わたし達自身の仕事の糧なのである。

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顧客の顧客を知る、上司の上司になって考える (2014/05/03)

顧客の顧客を知れ』−−これは、わたしの敬愛する大先輩である、経営コンサルタント・今北純一氏から、何年も前にうかがった教訓だ。自分の顧客が誰かは、誰でも一応知っている。顧客が何を望むか、そのニーズや要求も、直接・間接に伝わってくる。だが、顧客がなぜ、それを求めるかについては、必ずしも理解できていないことが多い。

しかし、顧客も、彼ら自身にとっての顧客からの要望になんとか対応すべく、いろいろ考え、悩み、そして動いているのだ。だから、『顧客の顧客』をよく知れば、自分の直接の顧客のニーズをつかむのに役立つ。たいていの人は、顧客の顧客までは考えた事がないが、そこまで視野と想像力を広げられるかで、競争力は大きく変わりうる。

たとえば、今北さんは自著「Carpe Diem − ビジネス脳はどうつくるか」(文藝春秋、2006)で、工場の立地問題について、こんな例をあげられている。鉄鉱石を産出する資源会社の、直接の顧客は鉄鋼メーカーだ。そしてこれまで、多くの資源会社は鉄鋼メーカーとは営業的対応を積みかさねてきた。ところで、鉄鋼メーカーは、主製品の一つである自動車用鋼板を、自動車メーカーに売っている。そして周知の通り、大手自動車メーカーはいずれも、生産拠点の世界的な展開を図っている。

「たとえばトヨタでは、日本国内で『ヴィッツ』という名のクルマを、ヨーロッパでは『ヤリス』という名前で戦略車と位置づけ、フランス北部のバレンシエンヌにその製造工業を建設した。(中略)だから、BHPビリトンなどの資源会社は『顧客の顧客』である自動車メーカーの動向を見ていけば、欧州市場に新たな鋼板の需要が生まれ、欧州の鉄鋼メーカーがこれ以上に鉄鉱石を必要とすることを先行予測できる。」(p.118)。このように、自社を含むサプライチェーンの中で、真の需要の決定者が誰かを考えるのが、『顧客の顧客』の視点だ。

工場立地ほど大きな問題ではないが、わたしも『顧客の顧客』を知ることで、問題解決の糸口を見いだした経験がある。

ある顧客の新工場の基本設計をしていたときのことだ。計画の予条件として、利用可能な敷地面積と、概略の投資額上限があった。その中で、比較的多品種な一般消費財を、需要にミートして生産できるよう、機械設備などを構成していかなければならない。むろん、基準となる生産数量は、顧客の過去数年間の実績データとともに、与えられていた。

ただし、主力製品には需要の季節変動がある。季節性のある製品の生産はやっかいだ。ピーク時の需要に合わせて生産ラインを作ると、閑散期には設備が不稼働になって無駄である。かといって、ピーク時の前から作りだめをしていくと、今度は製品在庫が増えてしまう。当然、広い置き場所が必要になる。

とくに悩んだのは、出荷のための物流搬送設備だ。生産はピーク時期に向けた作りだめで、多少は平準化できる。だから生産設備のキャパシティは生産量の平均値を考えれば済む。だが、出荷量は、需要の季節変動に連動する。物流設備のキャパシティは、ピーク値で計画せざるを得ない。物流部門が出してきた性能要求は、まさにそのピーク時の数字だった。そのままでは、どうしても大げさな設備になってしまう。

かといって、一般消費者の需要を制御し「平準化」することなど、むろん不可能である。ピークに合わせるしかないわけだ。機械的な物流搬送設備を使うと、予算が高くなりすぎる。では、フォークリフトや人力などの「ローテク」で搬送・積みつけしてもらうか。しかし、そうすると今度は出荷ヤードの面積が広くなりすぎて、敷地の制限にひっかかりそうだ。

「需要の季節変動の実体はどのようなものか?」−−これを明らかにすることしか、解決の手がかりはなさそうだ。月別の生産量と出荷量のデータは開示されていたが、わたしは顧客のプロマネとIT担当者に頭を下げて、過去2年間の日別実績データを別途もらい受けた。会社に持ち帰り、簡単な処理をしてExcelでグラフに描いてみる。

グラフを見て、わたしは驚いた。本当のデータをここに載せるわけにはいかないので、模式図的に部分を拡大してみると、図のようになっていた。

たしかに、年間の季節変動はある。だが、はっきりいって、月別に見た一年間の中での変動よりも、月内の日次変動の方が大きいのだ。まるで、一年中真夏なのに、昼と夜の気温の落差が大きい砂漠の気温のようである(ただし砂漠は日内変動だが、この顧客の場合は月内変動だった)。それも、月内の変動にははっきりしたパターンがある。出荷量が月初に集中しているのである。月初の数日間は、月末の4〜5倍近い出荷量がある。このピークをなんとかしない限り、出荷設備の問題は解決できない。そう、思った。

次の打合せのときに、顧客のプロマネにこのグラフを見せ、月内変動の理由をたずねてみた。「うーん、月初集中の傾向があるのは知っていましたが、こんなに激しいとは思ってもいませんでした。」と、先方は言われる。この方は製造部の所属で、物流部門(子会社化されている)の仕事は、あまり見ていなかったのだろう。

これは、出荷先の卸問屋との、商習慣の問題だと思う、というのが相手の説明だった。卸からの出荷依頼は、日単位で、毎日入る。納入たものは、卸の所有物になる。ところが、卸との決済は、月末締めなのだ。ということは、相手側から見ると、5月1日に注文して手に入った製品でも、5月29日に注文した製品でも、同じ金額を、31日に支払うのである。ならば、単純に金利だけを考えても、月初に注文した方が得になるではないか。また流通側は欠品を嫌うので、ある程度在庫を抱えたい、という意図もあるのだろう。在庫金利がゼロでいいなら、とうぜん月初に沢山仕入れることになる。

それまで、わたしは、顧客の生産した製品のユーザは一般消費者で、その需要の制御も交渉も不能だと思い込んでいた。しかし、本当は、顧客の顧客は、卸問屋なのだった。だったら、出口はあるかもしれない。わたしは、思い切って提案してみた。

「卸さんへの出荷ですが、これは紙の上だけにしたらどうでしょうか? つまり、注文を受けたら、製品の所有権を渡すけれども、物理的な場所は動かさずに、『預かり在庫』の形にさせてもらうのです。そして、卸さんの出荷指示に応じて、チェーンストアなどの実際の最終出荷先に直接納入するようにしませんか? そうすれば、実需にしたがって出荷できます。現実の需要は月初集中などしていないはずですから、出荷量のピークも減り、工場の出荷設備もずっと小さいもので済むはずです。」

現実には、在庫の保険だとか出荷指示の受け渡しなど、いろいろ解決しなければならない問題点はあるだろう。だが、むだな工場の投資も不要になるし、卸の側だって、在庫の置き場所の心配が減るわけだから、互いにメリットはある。なにも全部を預かり在庫にする必要はなく、一部を預かるだけでも、ピークはかなり減るはずだ。そう、考えた。

残念ながら、この提案は実現しなかった。客先は、生産部門と販売部門を別々の役員が管掌していた。そんなサプライチェーンをまたぐような変革を実現しようとしたら、もう社長レベルでの調整事項になってしまう。それは工場長ですら、とても手に余る大仕事なのだった。結局、「ローテク」+「人海戦術」で、強引に工場レイアウトに押し込め、というのが顧客の要望だった。つまり、サプライチェーンの歪みを、生産・物流側がそのまま引き受けた形の決着だ。

しかし、この件でわたしは、重要な教訓を学んだのだった。それは、問題の構造を真に理解したかったら、やはり「顧客の顧客を知れ」ということだ。顧客の指示や要求が、わたし達の思考の「枠組み」を作る。あるいは、顧客についてのこちらの思い込みが、無意識な「枠」を作ってしまう。ところが、顧客もまた、彼らの顧客からの要求で動かされているのだ。顧客がわれわれに出してくる要望の裏には、『顧客の顧客』に対応するための問題が隠されている。そこを知れば、相手の真意や出方を予測できるようになる。問題構造の背景がうまく分かれば、与えられた枠組みの外にでて、解決法を見いだす可能性もあるのだ。

『顧客の顧客』とならんで、わたし達の思考の枠組みを広げて大局観を持つための、もう一つ有用な方法がある。それは、『上司の上司』の立場に立って考えることだ。

たとえばもし自分が工程係長ならば、上司の生産管理課長ではなく、上司の上司である製造部長になったつもりで考える。あるいは、設計グループリーダーならば、技術部長ではなく、開発本部長になったつもりで、自分のポジションの仕事を考え直してみる。こうすると、わたし達がものを考える時に、無意識に設定している「制約条件」をとりはらうことができる。

たとえば設計グループリーダーとしては、現有のチーム員の制約の中で、個別の案件のアサインを決めるしかない。しかし、開発本部長の立場に立つと、別のことが見えてくる。もし自社の開発プロセス全体の中で、設計部門がボトルネック状態になっているなら、必要な職種の増員や部門間での配転といった手立てを講じることができる。そうした権限(自由度)の中で、さて、設計グループリーダーに求めるべき最善の手立ては、と考えを進めてみるのである。

自分の直接の上司の仕事は、下から見ているので分かりやすい。おまけに、たいていは批判や不満もあるから、その「あるべき姿」についての意見を、誰でも持っている。しかし、二階級上の立場までは、あまり意識しないものだ。そこでかりに、上司の上司になったと想像し、やるべき仕事を考え、その中で今の自分の職務への期待を考えなおしてみるといい。この思考実験は、自分の役割を理解し、自分の思考の枠をとりはずす訓練として、非常に有効だ。そういうわけで、わたしは、「生産革新フォーラム」名義で書いた共著『“JIT生産”を卒業するための本 ― トヨタの真似だけでは儲からない』(日刊工業新聞社 2011) 第5章の冒頭で、ジャスト・イン・タイム生産システムの問題を考えるに能っては、まず「二つ上の視点」にたって、すなわち顧客の顧客や、上司の上司の視点で、ものを捉えなおすことを提案したのである。

問題解決は、ホワイトカラーの仕事の主要な一部だといっていい。その際、わたしを含むエンジニアという人種は、どうしても「与えられた問題」の所与の条件下で、なんとか技術的に解決する方向に、ものを考えがちになる。まるで、試験で出題された問題を解くように。すると、どうしても前例や規範や『正解』に沿った方向になってしまう。しかし、正解のない問題に取り組むときは、その問題の「枠組み」を広げる方が、より良い解決に結びつくことが多い。そのために、顧客の顧客を知り、上司の上司になって考える訓練が、役に立つのである。

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新しい決意と、「今のお気持ち」主義 (2014-03-19)

早春が好きだ。

3月、コブシの白い花が空に向かって問いかけるように咲きはじめる。まだ冷たい空気の中にも、草木の芽吹く気配がする頃。一年で一番美しい季節になったな、と思う。そういう気持ちは、年を追うごとに強くなる。昔は季節などに興味はなかった。いまは歳をとってきたせいか、少しずつ花が咲き、いのちの生まれかわるときが心にしみる。

3月は卒業と進級、別れと新しい決意の季節でもある。なにか未経験のことにチャレンジし、衣を脱ぐように古い自分から脱皮したい。そんな気持ちをいだくことも多いだろう。望み、あこがれ、訣別、スリル、そして少々の怖れ、いろいろな気持ちが混じりあって新しい決意を形づくる。

「決意」から「実現」へと向かって進むために一番大切なのは、もちろん自分の強い気持ちである。気持ちとはすなわち、意思であり、感情であり、好みでもあり、また気合いでもあろう。それらをひっくるめて日本語では「気持ち」と呼ぶ。これは理屈とか技術とか計算とかとは別のものである。今日はこの気持ちの持ち方について、書いてみたい。

去年の何月頃だったか、外で晩飯を食っていたら、テレビでナイター中継をしていた。9回の裏に劇的な逆転になって、ファンは大喜びだ。早速、ヒーローインタビューが始まった。逆転打を放った選手に、インタビュアーが質問を放つ。

「××さん、今の気持ちはいかがですか? 」

選手がそれに答えると、さらに2つ3つと質問を重ねる。
「途中、 4点差まで引き離されましたよね。その時はどう感じましたか?」
「9回表、何とか守りきったときのお気持ちは?」
「最後の打席で、第二球目を打った時の感触は? 」

質問の細部まで正確に記憶しているわけではないが、内容はずっと“どういう気持ちですか”だった。ヒーローインタビューというのは、ファンが選手の受け答えに一緒になってワーッと歓声を上げるのが目的みたいなものだから、これでいいのかもしれない。でも、もう少し気の利いた質問もありそうなものだ。どんなコンディションだったかとか、監督の指示はどうだったかとか、何が一番難しかったかとか。そうでないと、試合の面白みが分からないじゃないか・・ちょっぴり不思議であった。

この時以来、状況や考えではなく、気持ちをもっぱら興味の中心に置くアプローチを、「今のお気持ち」主義と、わたしは勝手に呼ぶことにした。一流のアスリートというのは、頭が良くなくては、なれない職業だと、わたしは思っている。筋力や運動神経だけでは十分ではない。工夫も計画も作戦もあって、はじめて本当のトップ・プロになれるのだ。アスリートに限らず、どんな分野のプロだって同じだろう。だとしたら、なぜ相手に『お考え』を質問しないのか?

それは、チームの成果を最終的に決めるのは、理性でも技巧でも運でもなく、やる人の「気持ち」だと皆が信じているからだ。気持ちのあり方で、試合の結果を理解したいのだ。

わたし達の脳は『ものごとを説明する』ことをつねに求めている。よく分からないものがあると、不安で、それこそ「気持ちが悪い」のだ。たとえば三回転半ジャンプの技巧と危険などは、素人にはほとんど理解できない。しかし、それをやる人の「気持ち」だったら、誰にも推察できる(ような気がする)から、納得感がある。ものごとの帰結を、『やる人の気持ち』で説明する問いかけが増えていくのだ。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」「なせばなる」−−そういうテーゼを、人は求めているらしい。いかなる苦難と逆境にあえいでも、強い意志さえあれば、最後は成功できる。そうした物語は、落ち込んだ人の心を、再び立ち上がらせる効能がある。「今のお気持ち」主義の背景には、そんな物語へのニーズがあるのだろう。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」で、全面的に成り立っている娯楽が、昔の『講談』だったと、作家の橋本治はいっている。講談は江戸時代から昭和初期まで、ずっと人気のある娯楽だった。今、その伝統は、主に少年マンガが受け継いでいる(少年マガジンの発行元は、その名も「講談社」だ)。

講談的な物語は、なぜ多くの日本人の心をつかむのか。それは、もっと古くて強力な考え方、すなわち「人の能力は、生まれつきで決まる」という思想への、アンチテーゼだからだ。センスや素質のない奴に、いくら教えたってダメだ。上に立つべき人間は、それなりの器であるべきだ。そんな風な言い方は、身の回りにごまんとある。

人が生まれつき持っている資質が、成果を左右する最重要ファクターだ、という意見はとても根強い。だから「素質のある人を早く見出し、リーダーシップを発揮できるポジションに早くつける」ことが大事だ、との主張が生まれる。ビジネススクールの教師など、いかにも言いそうだ。いわゆる「エリート養成機関」を出た人たちも、同種の意見の持ち主が多い。

この「資質主義」を徹底していくと、教育は“育てる”より“選別する”ことが第一義になっていく。日本の入試制度は、まさにこの思想を強く反映している。

そして資質主義の最たるものは、血統主義である。講談が生まれたのは、身分制社会の時代であったことを思い出してほしい。士農工商の差別と桎梏の時代にあって、下層出身者が、強い意思とやる気だけで戦国をのし上がっていく講談は、多くの人々にうけたにちがいない。

いったい仕事の成果は「やる気」で決まるのか「資質」で決まるのか。どちらが主でどちらが従なのか。ここでは、その問いに答える代わりに、「今のお気持ち」主義がもつ問題点を指摘しておこう。

「今のお気持ち」主義の最大の問題点とは、「予測がうまくできない」ことにある。“あの人があんなに熱心に取り組んだのだから”という予測(願望?)だけでは、結果は見通せない。そもそも気持ちというのは、ふらふらと変わりやすく、しかも客観的にはうかがい知れぬものである。そのうち「気持ちメーター」が発明され、「気持ちが4.6点まで上がっているから、あとジャンプ3回は大丈夫よ」と判断できる世の中がくるのかもしれぬが、来ないかもしれぬ。来ないような「気が」する。

「今のお気持ち」主義のもう一つの危険性は、精神主義への傾斜と、客観的な事実把握の軽視である。当然だろう。“気合いさえあれば必ず乗りこえられる”のだから、現実を直視するとか、数字で客観的に測るといった行為は、ムダなばかりでなく、意思の力をそぐから、嫌われるようになる。もちろん、数字にもとづく作戦立案とか、オペレーションズ・リサーチ(OR)なども軽視される。ビジネス社会でも、ときおり見かける傾向である。

しかし、「気持ち」中心主義の一番まずい点は、別にある。それは、成功していない者に対して、激励ではなく、逆に排撃に働くことである。「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」というテーゼは、「成功していないのは、やる気がないからだ」と等価である。社会の『負け組』、底辺にいる奴らは、やる気がないのだから、酷い扱いを受けて当然だ、との考え方がここから出てくる。身分制思想よりも、ある意味もっとひどい、苛烈な差別感情である。

もちろん、新しい決意を成功に向けるため、いちばん大事なことはやはり「気持ち」であり、やる気の持続である。ただ、気持ちだけでは、足りないところがあるのだ。別に素質や生まれや血統のことではない。それらは、あるに越したことはない"nice-to-have"だが、今さら自分ではどうにもできない。そうではなく、「気持ち」や資質とは別に、知っておくべき「考え方」「やり方」があるのだ。たとえば、上記のヒーローインタビューで、「気持ち」を全部「お考え」に置きかえたら、どんなに質問の雰囲気がかわってくるか、ためしに見直してみてほしい。

新しくチャレンジする事柄や分野はいろいろでも、そこに共通する方法論が、じつは存在する。ちょうど、様々な挑戦の分野をアプリケーション・ソフトにたとえると、どれにも共通の土台となるチャレンジのOSのようなものだ。たとえば、「気持ち」はうつろいやすいものだが、どう支えて維持していくか。そのための大事な方法が、同じ志を持つ仲間をつくり、交流のための「場」を作ることだ。−−なあんだ、そんなことか。誰でもやってらあ、とお思いだろうか。だが、方法として自覚して選ぶことと、たまたま結果としてそうなったことでは、大きく違う。

本サイトの大事な目的の一つは、「チャレンジのOS」の仕組みと道具を、ひとつひとつ取り上げて検証することだ。そうした道具立ては、多くがプロジェクト・マネジメントやプログラム・マネジメントの技術と通底する。プロジェクトとは、人々が協力して一度限りのゴールをめざすものなのだから、当然かもしれない。ともあれ、新しい決意のこの季節に、本サイトが読者にフレッシュなヒントを少しでも提供できれば、それは望外の喜びである。

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ハイボールと、本質的安全設計の教え (2014/01/20)

本質的安全設計』という言葉を聞いたことがあるだろうか。世間ではよく安全とか安心とかいったことを話題にするが、安全の意味をつきつめて考えている人は、必ずしも多くない。本質的な安全設計とは、われわれがモノや仕組み(システム)を作る上で、欠くことのできない概念である。今日はこれについて少し述べてみたい。

機械の安全設計については、そのものずばり「機械類の安全性―基本概念,設計のための一般原則」という名前の国際規格 ISO12100 が存在する。このISO規格によれば、機械類の安全は、『設計者対応』と『操作者対応』に分けられる。つまり、作る側による配慮と、使う側(消費者・操作者)による注意の、両方がいるというわけだ。ここまではいいだろう。

では、肝心の作る側(設計者)の対応は、どのように行うべきか。ISO12100は、
(1)本質的安全設計によるリスクの低減
(2)安全防護によるリスクの低減
(3)使用上の情報によるリスクの低減
という順番で行うべきだ、と述べる。

三番目の、「使用上の情報によるリスクの低減」の意味は、分かると思う。マニュアルにきちんと書きなさい、いろいろなチャネルや手段で使用者に注意をうながしなさい、という訳だ。おかげで最近はちょっとした道具を買うと、マニュアルの前半分くらいは「使用上の注意!」ばかりがずっと並ぶことになる。だが、まあこれが必要なのは明らかである。

(2)の安全防護も、まあ分かりやすい。危ないところには柵や手すりをつけ、高温になりやすいところは断熱材で防護する、といったガードをおく。あるいは、自動車ならエアバッグのような保護装置をつける工夫である。これにより、緊急事態発生時に、使用者に無用な危険が及ぶのを防ぐのである。

ところが、最初の(1)本質的安全設計、という言葉が分かりにくい。本質安全とは何だ? 保護装置やガードをつける設計とどこが違うのか?

(財)機械振興協会の技術研究所のホームページでは、本質的安全設計方策には四つの柱が書かれている。「危険除去設計」「フールプルーフ」「フェールセーフ」「冗長設計」の四つである。これを、わたしなりに敷衍して説明すると、次のようになる。

(a) 危険除去設計
根本的に危険をのぞく設計である。
 例:「鋭利な端部、角、突起物をさける」「毒性物質を使わない」

(b) フールプルーフ
人間はミスを犯すものだと考え、使用者がまちがった使い方ができないようにする設計である。工場などではよく“ポカよけ”などとも呼ばれる。
 例:「正しい向きにしか入らない電池 ボックス」「ドアを閉めなければ加熱できない電子レンジ」

(c) フェールセーフ
使用者がまちがった使い方をしたり、故障がおきても危険を避けることができる設計である
 例:「列車の空気ブレーキは圧力が漏れると停止する」「電気ポットのコードに誤って触れても簡単に外れる」

(d) 冗長設計
最低限必要な量より多めに装置を用意しておき、1つの装置が故障しても機能が失われない設計である。
 例:「WEBサーバを2台用意し、片方のサーバが故障しても他方のサーバで対応する」

つまり、安全防護(ガード)や付加的保護装置などが必要ないように設計することを、本質的安全設計と呼ぶのである。元々、安全にしか働かないような仕組み。たしかに、そのように設計できれば一番良いし、余分な付加保護をつける事に比べれば、コストセーブにもつながろう。いや、コストについては状況により一概には言えないかもしれないが、だからこそISOでは最初のステップで本質的安全設計を優先的に行え、と規定しているのだ。結局ちょっとした目先のコストを惜しんで、事故につながったのでは元も子もないからである。

ところで。上のような説明を聞いても、まだ“本質的に安全な設計”とは何か、誤解するケースがある。たとえば、「地震などで転倒したら、自動的に消火する石油ストーブ」という製品は、本質的安全設計に従っていると言えるだろうか?

耐震自動消火装置のある石油ストーブは、このごろは珍しくない。ところで昨年だったと思うが、ある輸入品の廉価な石油ストーブが、転倒しても消火装置がうまく働かないと分かり、回収騒ぎになったことがある。ちなみに製造元は韓国のメーカーだったが、昨今ネットには韓国嫌いの人が多いため、ネットではもっと「炎上」する騒動になった(さすがストーブである・・というのは冗談だが)。

この製品は、自動消火装置はついていた。だが、ちゃんと機能しなかった。倒れたら、ちっとも安全ではない。つまり、これは「付加的防護装置による対策」であって、「本質的安全設計」にはなっていないのだ。防護装置だって、壊れることがある。防護装置が壊れたら危険状態になる、というのは本質安全とは言えないのである。

じつは、わたしがこのような本質的安全設計の考え方を知ったのは、はずかしながら比較的最近のことである。教えてくれたのはわたしの元・上司の上司だった新谷正法氏だった。わたしの勤務先・日揮株式会社では、社内の大きな会議やミーティングでは、最初に5分間だけ使って、健康・安全・環境に関するトピックを紹介し、参加者みなの意識を高めるという習慣がある。これを、健康(Health)・安全(Safety)・環境(Environment)の頭文字をとって、HSEモーメントと呼ぶ。欧米の企業などでも、HSEモーメントを実施して、社内の意識を高める運動をしているところは多い。

そして、数年前のある時、社内の幹部クラスが集まる会議で、新谷氏(当時は副社長)が「ハイボールと本質的安全設計について」という話をされたのである。ハイボールは、ご承知のとおりウィスキーを炭酸水で割った飲み物だ。ところが、英語の辞書を引くと、ソーダわりのお酒という意味以外に、「(列車に対する)全速力で進めの信号」、さらに転じて「急行列車」の意味がある、と書いてあるという。

「ハイボール」という飲み物の語源は、(諸説あるが)鉄道に於けるボール信号機に由来する、と新谷氏は紹介された。現代では鉄道の信号機はすべて電気式だが、かつて英国で初期の鉄道ではボール信号機(BALL SIGNAL)が使われていた。これは駅構内に設置され、駅員がボールを上げた時(ハイボール)構内は安全なので侵入して良いという合図となり、これを見て列車が入線した。

さて、昔ののんびりした時代のこと。乗客は駅の待合室でウイスキーをちびちびやりながら列車を待っている。ところが、ボールが上ってハイボールになると、列車が入ってくるのでホームに急がなければならない。残ったウイスキーを一気にあけるのは身体に良くないので、そばにあったソーダ水で割ってグーッと飲んでホームへ急いだ・・。これが、ウイスキーのソーダ割りがハイボールと呼ばれるようになった由来なのだそうである。

さて、このボール信号機をよく見てほしい。紐を引いてボールを高く上げた状態(ハイボール状態)を安全確認に対応させている。もし何等かの不具合(紐が切れたり、駅員に問題が生じたり)があれば、ボールは落下し安全信号は出ない。つまり、故障は必ず安全側故障となる。

したがって、これは単純であるが本質的安全設計の良い例と言える、というのが新谷氏の説明であった。安全装置には、安全確認型と危険検出型があるが、両者を比べると安全確認型が望ましい。また、安全信号はエネルギーの高い(維持の必要な)状態に対応していること。これがポイントである。われわれがプラントを設計する際にも、必ずフェイルセーフのモードを考えて設計すべし。それがひいては事故の減少につながる−−そういう思想が、この話に表されている。

さて、この話を披露された故・新谷正法氏は、今から1年前、2013年1月に、アルジェリアのイナメナス建設現場出張中に襲撃事件にあい、不幸にも、他の先輩同僚諸兄とともに命を落とされた。新谷氏は仕事に厳しい方で、わたしも何度怒られたか分からないが、しかし最終的には部下には優しく、個人的にもずいぶんとお世話になった。頭脳明晰で数字に明るく、責任感も強く、どんな困難な仕事、危険な現場でも率先して乗り込み、人を采配される優れたプロジェクト・マネージャーだった。

アルジェリア襲撃事件で新谷氏の安否確認だけが遅れたときも、わたしは“新谷さんのことだから、なんとかしぶとく生還されるのではないか”と祈っていた。最後にたった一人だけ、政府特別機で運ばれ沈黙の帰還をされたとき、「主人は責任感で、自分が一番最後に帰ってきたのだと思います。」と、夫人は言われた。

新谷氏をはじめ、亡くなられた他の先輩同僚諸兄もみな、中東北アフリカのイスラム諸国で長らく働き、その地域の発展に尽くして来られたのに、なぜあのように理不尽な暴力を受け命を失わなければならなかったのか。思い出すたびに、胸の中で怒りとやり切れなさが渦巻く。われわれ日揮では先週、一周忌に職場で黙祷を捧げ、社旗を半旗に掲げて追悼の意を表した。

新谷氏は安全についても人一倍意識の高い方で、上のボール信号機の図も説明文も、氏の発表資料から勝手ながら引用させていただいた。この稿で、せめて故人の遺徳をわずかなりとも披露するとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする次第である。

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問題症状を治してはいけない (2013/12/11)

学生の頃、友人の家に泊まった。深夜まで音楽談義にふけった翌朝、寝不足と二日酔い気味のまま起きだして、その家の洗面台の前に立つ。顔を洗おうとしたら、壁に小さな新聞記事の切り抜きが貼られているのに気がついた。なにかコラム記事のようだ。タイトルは「風邪を引かない方法」。筆者の名前は、医学博士 ○○○○とある。

文章の主旨はこうだった。「風邪を引いた患者の容態を調べると、ほぼ共通して、初期は鼻が通常より乾いた状態であることがわかった。本来、健康人の鼻の穴は適度に濡れている。鼻が乾いてしまうことが、風邪をひく原因だ。だから、風邪を予防したければ、朝夕、顔を洗うときに、指先を水道の水にひたし、それで鼻の穴を濡らすようにすると良い。自分はこの方法で、もう10年以上も、風邪ひとつ引いたことがない。」

たぶん、友人の母上はこの記事が気に入って、自分の健康のために洗面台に貼ることにしたのだろう。母上が実際に風邪ひとつ引かぬ体質になったかどうかは、知らない。しかし、この文章があまりにも奇妙だったため、わたしは今でも忘れられずにいる。

風邪はウィルス性の感染症で、主に空気感染によってうつる−−こんな常識は、もちろん医学博士某先生も重々ご承知であったはずである。では、鼻の穴が乾くとなぜ風邪を引くのか? そこの理路はよく分からなかった。鼻腔壁が濡れていれば、外気と一緒に呼吸で吸い込んだウィルスなどもよく吸着でき、体内に入るのを防ぐことができる、ということだったのかもしれない。実際、わたし自身も、鼻が乾きやすいのは風邪の初期症状だと自覚し、気づいた時はなるべく大事をとるようにしている。そう思うようになったのは、この記事を読んで以降のことだったろうか。ただ、朝晩、水道水で鼻の穴を濡らすことはしていない。

というのは、わたしは別の見方をしたからだ。鼻が乾くことが、風邪の原因ではない。風邪を引いて、鼻腔が熱っぽくなるから、鼻が乾きやすくなるのだと考えたのである。なぜ熱っぽくなるのか? ここからは素人の想像だが、文字通り、身体の正常な反応のひとつであり、熱を出して温度を上げることによって、菌の生存率を下げようとしているのだ。発熱というのは基本的に、身体が外部から侵入したバイキンを弱らせる防御反応である(微生物には生存に適した温度範囲があり、感染菌はたいてい人間の通常体温に適応している)。

つまり、鼻が乾くことは、風邪の原因ではなく結果であり、初期症状なのである。それは、身体の正常な反応の一部だ。結果を除去したからといって、原因が治るわけではない。鼻の乾きにかぎらず、痛みや熱といった症状は、体のアラーム信号だ。アラーム信号それ自体を除去して、異変が治るだろうか。もちろん素人のわたしが、医学の専門家の意見を批評するのはおこがましいかもしれぬ。ただ、俗に“風邪を治す薬を発明できたらノーベル賞ものだ”と言われるが、この医学博士の先生が受賞したという話は聞かないし、学会での常識になったという風でもない。

話は、いきなり飛ぶ(いつもながらすみません)。10年ほど前だが、あるERPベンダーを、別の国のコングロマリットが買収した。ERP市場の中では、Second tierというか二番手集団だったが、あいにく赤字に陥って、買収の憂き目にあったわけだ。買い手の企業の方は、次々と買収劇を繰り返して急成長中であった。彼らは買収時のコメントとして、「これからは厳格なコスト管理を行って、経営を再建する」と発表した。Stringent cost controlという語を使っていた。これを読んだわたしは、“あ、これはダメだ”とがっかり感じたのを覚えている。

なぜダメか。ソリューション・ベンダーが赤字に陥る状態は、コスト管理の失敗から来ることは、じつは少ないからだ。豪華すぎる設備を買ったとか、外注先に払う人月単価が高すぎたといった理由で、赤字になるのなら、たしかにコスト屋の領分だろう。だが、多くの場合は、ちがう。新バージョンのリリースが遅れてシェアを競合他社に奪われたとか、追加交渉に失敗して売上が伸びなかったということが原因なのだ。さらに、どうしてそういう事態が生じるかというと、仕様が複雑化して開発工数が増大したとか、出来上がった製品の品質が悪くて顧客交渉に強く臨めない、といった事象が考えられる。そしてもっと原因をたどると、自社要員の人数・能力不足や、開発外注先の選定の失敗が浮かび上がる。それらの根本原因として、コミュニケーション不全や、リスク管理の不在など、マネジメント・スキル自体の問題が横たわっているはずだ。こうした問題を、数字に強いだけの財務屋さん達が解決できるだろうか?

赤字というのは、企業というシステムの表面に現れる症状である。その症状を、コストという「症状の次元」の中で解決できると思うのは、あさはかだ。原因は、もっと深いところにあるのに、買収で成長する企業では、往々にして頭脳優秀な財務マンたちが経営企画の中核にいて、自信満々にすべてを数字で割り切れると信じている。彼らが得意とするのは、厳格なコスト管理であり、不採算部門の売却であり、人のレイオフである。新技術が必要なら、自分でゆっくり開発するより外から買収してくるのが、一番てっとり早いと考える。

だが、ソリューション・ビジネスというのは複雑なシステムである。誤解しないでほしいが、ERPが複雑な情報システムだという話をしているのではない。ソリューションはベンダーと顧客とパートナーとハードメーカーと開発外注先の群からなる複雑なエコシステムの上に成り立つ商売であり、どこかの要素にインパクトを与えた場合、リアクションは思いもよらぬ別の場所に、後になってゆっくり現れたりする。それはちょうど、生物のからだ、あるいはヒトの身体のようなものだ。

あの医学博士が誤解した理由ははっきりしている。人間の身体というシステムで、鼻の乾きと風邪の発熱という二つの現象が、相前後してほぼ同時に現れる。だから前者が後者の原因だと考えてしまった。それは、複雑なシステムというものの見方ができない人の、早合点した論理だった。赤字を、コスト問題の次元でとらえるのも、同じように短絡した論理だ。納期遅れをスケジュールの次元だけで考え、在庫問題を物流だけの次元で対策しようというのも同様だ。結局、その企業は、数年後にERPベンダー部門を売却することになった。その間の本当の事情は、わたしには分からない。ただ、しだいに寡占化が進みつつあったERP市場で、その製品がトップ集団に踊り出ることもなかった。いいところもあったのに、残念なことだ。

症状を、症状の次元で治そうとする行為を「対症療法」と呼ぶ。対症療法では、病は根治できない。根治したければ、深い原因を探さなければならない。

そして、そのためには、システムというものに対する深い洞察が必要なのである。

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システムとはいったい何を指すのか (2013/08/02)

まだ駆け出しだった頃、上司との定期面接の席上で、お前は将来どういう職種を目指すのか、とたずねられた。わたしは即座に、『システム・モデラー』になりたいです、と答えた。複雑な対象系を観察・分析して、シンプルな要素に分解し、その間の定量的な関係をつかんで予測や制御や改善を行う。そんな仕事をしたいと考えたのだった。しかし、上司の返答は、「システム・アナリストとかシステム・エンジニアという職種ならあるが、システム・モデラーなどというものはこの会社にはない」というものだった。いや、自分の会社だけではなく、どこを調べてもそんな職種はなさそうだった。

わたしが当時やっていたのは、石油製油所の複雑な装置群の組み合わせを、線形計画法をつかって最適化する仕事だった。化学プラントの設計理論は「プロセス工学」といい、それを設計する職種は「プロセス・エンジニア」と呼ばれる。これは世界共通である。ところでプラントというのは、巨大なシステムであると、わたしは思った。したがってこのような仕事は一種のシステム・エンジニアである、はずだ。だが、世間ではSEという言葉を、もっとずっと狭い意味、つまりコンピュータに直接関わる設計技術者の呼称で使っていた。わたしはそこでシステム・モデラーという用語を思いついたのだった。

もともと会社に入る前、修士論文の研究テーマは、湖沼生態系のシミュレーションだった。わたしの専攻は化学工学だが、当時は環境研究が盛んで、わたしも諏訪湖という、富栄養化現象で非常に問題になったフィールドを選び、その解決法を探ってみた。富栄養化現象とは、過剰に流入する栄養分のおかげで生態系自体のバランスが狂い、植物プランクトンの一種だけが異常繁殖して汚染を起こす現象だ(→「システムが崩壊するとき」参照)。生物学者達は、湖の水質や生物相について几帳面に測定し、膨大なデータを取って蓄積していたが、それをうまく解析できずにいた。わたしは湖自体を、一種の反応装置としてモデル化し、化学工学的手法を応用して、その挙動を予測するシミュレーションを行った。生態系は英語でEcosystemだ。だから、システム・モデラーという発想は、元々わたし自身にとって自然なものだった。

その後、わたしは一時プラント系の分野を離れて、医療だとか都市開発だとか工場の基本計画だとか生産スケジューリングだとかいう仕事に何年間かかかわった。だが、どの分野に行っても、わたしの発想は同じだ。よく分からない、複雑な対象系がある。だれも、全体像をうまく説明できない。それを、いくつかの要素に分解し、それらの間のシンプルな定量的関係式を割り出して、その挙動を予測する。つまりモデリングである。そしてわたしの目からは、いろいろなものが『システム』に見えるのだ。しかし、どうもシステムという用語について、世間とは大きなギャップがあるらしい。では、その違いはどこにあるのか? そもそも世間では、どのようなものをシステムと呼んでいるのか?

わたしが考えるに、「システム」には4つのカテゴリーがある。

最初に、あまりSE職種の人たちには縁のないカテゴリーからはじめよう。たとえば、「明朗会計システム」。どちらかというと、職場よりも歓楽街で見かけそうなシステムだ。これはサービスの対価を計算する方式、手順のことを言っている。それから、在庫管理でよく用いる「ダブルビン・システム」。箱や容器を2個用意しておき、片方を使い切ったら、補充発注する方式だ。安価だが在庫を切らしたくない品目に用いる。デパートなどで見かける、トイレット・ペーパーが上下二段になっているタイプなど、この応用だ。もっと言うと、かんばん方式もこの類縁である。そして、「品質マネジメントシステム」。これらは、とくに物理的実体はない。方式、手順をシステムと呼んでいる。

方式に近い用語として、体系などもシステムと呼ばれる。たとえば、品目コードや装置コードなどの管理番号の付番体系。これは英語でNumbering systemという。さらに、英語にはSystematicsという名の学問もある。何かと思えば、じつは生物の系統分類学だった。

ついでにいうと、実験などの結果を分析する際、なんだか誤差が一方向ばかりに偏っているなあ、と感じるとき、「系統的誤差」Systematic errorがある、という。これら、「方式、手順」「体系、系統分類」「(誤差の)傾向」などは、いずれも物理的な実体を持たない。いわば、人間の認知の中にのみ存在する『システム』である。ここに共通するのは、“ばらばらでない、恣意的でない、ランダムでない組合せ”であって、人間の情報処理の負担を助けてくれることだ。こうしたシステムは、頭の負荷を軽くして、凡人でもそれなりに見通しが立つようにしてくれる。

第2のカテゴリーは、「自然界に生じた、あるいは産まれたもの」である。たとえば、英語でSolar systemとは、太陽系のことである(別に太陽電池のことではない)。さきほどあげた生態系Ecosystemなどもその類で、自然に生じた集合体である。さらに、生物個体も、よく考えてみるとシステムと呼べるだろう。広く用いられるシステムの定義に、「複数の要素が有機的に関係して働きを生みだす」というのがあるが、動物はまさに内臓や筋骨や神経系などが有機的に組み合わさってできている。単細胞生物だって、細胞内小器官という内部要素をもっている。英語では、自分自身の身体のことをMy systemと呼んだりすることがあるから、そうとっぴではあるまい。

第3のカテゴリーは、「人間が意図して作り出したもの」である。もしそれが、複数の要素がうまく組み合わさって機能を生みだしているなら、システムと呼んでもおかしくあるまい。

ただ、たとえば「椅子はシステムだ、なぜなら4本の脚と座面と背もたれという要素が組み合わさって、座る道具としての機能を生んでいるから」といわれても、納得できる人は少ない。どうも、静的な道具はあまりシステムとして認識されにくいようだ。では、動的な機構を持つ道具はどうか。たとえば、100年近く前の旧型自動車。たしかにエンジン・タイヤそのほかの部品を組み合わせて、移動という機能を生みだしている。わたしは「システム」と呼んでもいいように思うのだが、世間ではそう見ないようだ。

それでは、米国の国勢調査の集計のために、100年前にHollerith→Wikipedia)が考案したパンチカード・マシンはどうか。彼の発明がのちにIBMを生み、また計算機の端末の横幅は80文字、という伝統を生みだした。電気と機械工学の粋で、立派な仕組みである。少なくとも彼自身は「システム」と呼んでいる。

わたしの考えでは、人間が生みだした道具の内、自動制御機構か情報処理機構を持つものを、世間では「システム」と呼ぶ傾向が強いようだ。Hollerithのマシンはその境界線上にある。上に述べたように、化学プラントは制御の機構を持っており、システムと呼ばれてもおかしくない(Process systemという用語はある)。あるいは、ジェームズ・ワットの蒸気機関。産業革命のきっかけとなった彼の機械は、それ以前のニューコメンの蒸気機関などと異なり、巧妙な出力安定化の機構が組み込まれていた。システムの先駆けであろう。それから、かつての電話網。機械式交換器による回線接続の制御が確立した時点で、ネットワーク・システムになったと考えていいと思う。

しかし、現在のところ「システム」の名をほぼ独占しているのは、情報処理機構を中心とした道具である。それが計算機 Computer systemであり、情報システムInformation systemというわけだ。

さらに計算機が自動制御用途に応用されるに及んで、「制御と情報処理の機構を持つ道具」がどんどん増えてきた。都市交通(電車等)、上水道、給配電などはいずれもその両方をもつ、巨大なシステムである。いま,わたし達の政府が「成長戦略」と呼んで、やっきになって旗を振っている「インフラ・システム輸出」は、このカテゴリーを主に想定している。もちろん、現代的なプラントや工場などの生産システムも、ここに属する。

では、第4のカテゴリーとは? それは、「人間集団から生じた物事」である。たとえば、企業。あるいは、市場。それから、医療などもそうだ。これらは、複数の要素が複雑に関係し合って、ある目的に奉仕する仕組みである。だから、『システム』として認識してしかるべきだと、わたしは思う。これらが第3カテゴリーの道具類と違うのは、必ずしも誰か特定少数者が「意図して作り出した」ものとは限らない点だ。第4カテゴリーのやっかいな点、と同時に面白い点は、多数の人間がかかわっていて、設計や意思決定が単独で行われないことにある。

このカテゴリーの中には、さらに抽象的なシステム群がある。それは、「ルールはあるが自明な目的が存在しないもの」で、その例は、家族、言語、文化などである。こうしたものをシステムと認知しているのは一部の学者のみで、世間の大多数はそういう目では見ないだろう。ただ、たとえば社会学者パーソンズ(→Wikipedia)のSocial Systems論などのように、システムの視点ではじめて見えてくるものが、たしかにあるのだ。

上述のカテゴリーを図の形に示しておく(作図にはFreeMindというソフトを使用した)。これも体系分類の一種だから、「Systemsのシステム図」ということになるだろうか。世間であまり「システム」と呼ばれないものは、グレーアウトして表示している。

System of systems

最初の話に戻ると、システム・モデラーという職名はやむなく一時断念することにした。世間にちっとも通じないからだ。その後しばらくは、「システム・アナリスト」を名乗ったりもした。だが、あいにく情報処理技術者のSAの資格を持っている訳ではないし、そもそもシステム分析家という呼び方にすこしだけひっかかりがあった。システム・アナリストの分析する対象は何なのだ。情報システムか? すでにできあがった情報システムを分析して何が面白いのか? そうではあるまい。この名称は、たぶん「情報システムにのせる」ために業務を「分析する」人のことだ。だとしたら名前が、少しずれている。わたしがなりたかったのは、あくまでモデラーなのだ。

今は、わたしは「プロジェクト・アナリスト」だと名乗っている。もっとも、この職名も、勤務先には存在しない。だから著書やホームページで勝手にそう名乗るだけで、名刺には書いていない。ただPMO部門にいたから、こう書くのはそれほど矛盾していないとは思う。世間の考える(狭義の)「システム」と、自分の理解する(広義の)「システム」のギャップが埋まるまでは、あこがれであった「システム・モデラー」の職名は、ずっと棚上げのままである。

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デュルケーム『自殺論』に学ぶ、人間集団に必要な二条件 (2013/06/23)

PMOみたいな仕事をしていると、ときどき現場の実務者から頑強な抵抗に遭うことがある。PMOとはProject Management Officeの略で、組織の中にプロジェクト・マネジメントの仕組みや方法論、そして体制などを導入整備する仕事をする部署だ。いってみれば、プロジェクト遂行に関するカイゼンの専門家集団である。

PMOのメンバーは普通、自分自身ではプロジェクト遂行にタッチしない。あくまでプロマネ達に対して、助言や支援を行うだけだ。いわば社内コンサルタントのようなものである。遂行に直接タッチしないのはなぜかというと、いったん実務作業を分担し始めると、結果に対する責任問題が生じるからである。プロジェクトの成果は、プロジェクト・マネージャーが全責任を負うのが原則だ。それなのに、第三者であるPMOが手を出してしまうと、責任の境界が曖昧になってしまうからだ。

ところがこのPMOという仕事、なかなか難しい。カナダのM. Aubryという研究者の調査によれば、「PMO組織の平均寿命は2年程度」だという(くわしくは「PMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)の命運 〜ESC Lille PM Seminarより(2)」参照のこと)。この調査は5年前のものだから、最近は少しは傾向が変化しているかもしれないが、難しい仕事であることにかわりはないと思う。

なぜPMOの仕事が難しいかというと、プロマネさん達が『個別性』の世界に生きているからだ。プロジェクトとは、その定義からいって「個別」uniqueな営為である。どのプロジェクトをとっても、全く同じものは一つとして無い。多少類似したものは、あるだろう。ほとんどコピーみたいなものを作る仕事は、ときにある(とくにプラント業界などでは)。しかし、たとえ設計はコピーでも、市場環境や遂行体制や法規制などは変化しているものであり、完全に同じプロジェクトにはならない。

だから、プロマネが直面する問題は、つねに個別の問題である。ところがPMOの提供するアドバイスなりLessons Learned(教訓事例)なり管理ツールなりは、いずれも先行するプロジェクトの経験から抽出した、一般則であり一般論である。“それが俺の(あたしの)プロジェクトに適用できるなんて、どこに保証があるんだ?(あるってのよ!)”と、彼/彼女らは思う。プロマネ達は一国一城の主であり、プライドを持って自らを律する人種である。PMOが、先にはこれこれのリスクがありそうですよ、と声をかけても、「自分はそんなドジは踏まない」と信じている。つまり現場から見れば、PMOなんて『余計なお世話』のカタマリなのである。これではPMOの価値がスムーズに認められるわけがない。

もちろん、プロジェクト・マネージャーが意志の強い人間であることは重要だ。PMOの一言半句に右往左往するような意志の弱いプロマネでは、顧客や業者の圧力に抗してチームを最後まで引っ張っていくことはできないだろう。ただ、その意志の強さ、自分の感覚への自信の強さは、一般性や理論・法則の軽視と、表裏の関係になっている。それも、プロマネの個性ですべてをリードできる小さなプロジェクトならばまあいい。ある程度の規模のプロジェクトを任され、マネジメント・システムの仕組みで大きな組織を回すべき場面でも、いつまでも自分の「感覚論」だけで動くのは危険だ。

だが、その危険性を、わたし達はどうやったら理解できるのか。

ここでわたしは、大学時代にとった「社会学」の講義の内容を、ふと思い出すのである。一般教養課程の講義だった。テーマはデュルケームの『自殺論』。デュルケームは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランスの学者で、ある意味では社会学の太祖とも言える。19世紀の後半、欧州の自殺率が急増する。彼は個人的な理由もあり、この問題に理論的な分析のメスをあてようと試みる。

自殺という現象で、最も不思議なことは何か。それは自殺がきわめて個人的な、個別的な事情のもとに行われる行為であるにもかかわらず、社会全体で見ると、ある一定の比率で発生することだ。自殺率は普通、人口10万人あたりの発生件数で比較する。そして、ある国や社会の自殺発生率は、短期的にはほぼ一定なのである。たとえば現代日本では、人口10万年あたり年間約24人であり、過去10年間あまり変わっていない。これは不思議ではないか? 自殺者は皆、一人ひとり個別の事情で、しかも自分の意思で自決を選ぶのに、その比率はマクロには変わらないのだ。

「それを大数の法則というのだ」と説明する人もいるが、じつは説明になっていない。大数の法則というのは、個別の事象が確率的な因果律に左右されているときに、統計量が一定値に収束していくとの法則だ。だが、くどいようだが自殺は確率的事象だろうか。毎日、それなりに適当に暮らしているわたしが、明日、ふと世をはかなむ確率なんていうのが推定可能だとは、とても思えない。伝染病や遺伝疾患の発生率ではないのだ。

それだけではない。自殺率の統計を調べていくと、いろいろと奇妙な『傾向』が見えてくる。たとえば、自殺は男性の方が女性よりもずっと多い。日本では2.3倍であり、ほとんどの国では3倍程度、国によっては5倍以上のところもある。居住地の違いもある。デュルケームは当時の統計を調べて、農村よりも都会の方がずっと多いことを見いだした。そして、宗教・宗派による違い。ユダヤ教徒よりもキリスト教徒の方が多く、同じクリスチャンでもカトリックよりプロテスタントの方が多いのだった。

もっと不思議なことがある。人は、人生が過酷で、生きていくのが困難だから自殺を選ぶ、とわたし達は思っている。だとしたら、世の中が厳しい時ほど自殺率は上がりそうだ。しかし、戦争の時には、自殺率はむしろ下がるのである。「社会実情データ図録」 にある主要国の自殺率長期推移のグラフを見れば分かるように、日本の自殺率が過去最低になったのは、1939年〜46年、すなわち太平洋戦争のまっただ中だったのである。この傾向は、19世紀後半の欧州でも同様だった。

では、人を自殺に追い込む要因とは何なのか。デュルケームは、自殺の個別的な事情や原因をいくら取り調べても、答えには到達しないと考えた。彼の答えは意外なものだ。社会と個人の結びつき(凝集力)、ならびに社会的なベクトル(社会規範)の強さが、マクロ的な自殺率を決定する、という。彼の議論を整理すると、次のようになる。

(1) 社会的な凝集力が高く、価値観のベクトルが一方向にそろっているとき、自殺率は下がる。
(2) 社会と個人の結びつきが弱くなったとき(=人間集団の帰属感・連帯感がなくなるとき)、孤独な困窮者による自殺が増える。
(3) 社会の価値観が多様化し、個人の欲望を抑制できなくなるとき、別種の自殺が増える。デュルケームはこれを「アノミー的自殺」と呼ぶ。
 
日本社会で説明すると、不幸ではあったが、戦争中は(1)の時期だ。だから自殺率は低かった。ところが敗戦後、農村共同体が崩れ、都市に労働力が集中していく時期、すなわち昭和20年代後半〜30年前半は(2)の時期だった。このとき自殺率はいったん急増する。ただ、高度成長期は社会のベクトルが一致していたので自殺率は低かった。しかしバブルの狂乱時代を過ぎ、90年代後半に入ると、アノミー(社会規律の緩んだ状態)に陥り、再び自殺率は高くなっていく。

周知の通り、日本は現在、世界でも最も自殺の多い国の一つだ。とくに若年層の死因のトップが自殺である国は、日本だけだと言われている。政府も少しずつではあるが対策を考えている。フィンランドのように、対策を講じて、自殺率を下げた国も一応存在する。しかし、こうした対策は、簡単ではない。自殺率を決定する因子は、社会の凝集性や、社会規範のベクトルのような、非常にマクロなものだからだ。しかも、自殺に直面する人々は、皆がそれを自分個人の、個別な問題だと信じている。ミクロには自由な意思決定に見える問題が、じつはマクロな状況に左右される。そうした見方を、わたし達はもっとよく知る必要がある。

現代社会に生きるわたし達は、ある意味で皆、「個人主義」の信者だ。わたし達自身の行動は、自分の個人的な価値観と自由意思で決めている、と信じている。個別のミクロな局面で見ると、すべての事象や行動は個性的であり、そこには法則性などないように見える。だが、もっとマクロな視点では、わたし達は、見えない社会的な関係性にかなり影響され、あるいはしばられている事が分かる。

デュルケームの「自殺論」の教訓は二つある。まず、個別に見える事象にも、マクロな状況がかなりの程度、影響を与えているということだ。もう一つは、人間集団においては「凝集力」や「ベクトルの一致」が大切だということである。

自分の仕事というミクロな視野の中だけで生きている人は、ともすると『実感』への自信ばかりが強まって、理屈や統計を軽視するようになる。だが、マクロに見ると、個別性のカタマリだったはずのプロジェクトに、一定の統計的な傾向が見いだされるはずである。

そして仕事というのは、結果さえ出ればそれでいい、というものではない。そこにはチーム・スピリット(凝集性)と、価値観のベクトルの一致が必要なのだ。PMOと呼ばれる部門は、微力ながらも、その形成に寄与しなくてはならない。さもないと、組織は全体のベクトルを見失って、アノミー状態に陥っていく可能性があるからである。


(追記)まったくの余談だが、上記のグラフやWikiperiaの「国の自殺率順リスト」などを見ると、近年の韓国における自殺率の急増は異常なほどである。どのような要因が働いているのかは、韓国事情に疎いので分からないが、極東の日韓二ヶ国の社会には、ともに何か重篤な問題が発生しているとしか思えない。

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それは知識ですか、スキルですか、資質ですか? (2013/06/02)

東大で大学院生にプロジェクト・マネジメントを教えていたら、「自分は計画を立てるのが元々あまり上手ではないが、どうしたらいいでしょうか」という質問を受けた。プロジェクト計画の立案、とくにその中心になるWBSの作り方について説明し、二人一組でちょっとした演習をした後のことだ。WBSを作るだけなら誰にでもできるが、良いWBSを作るのは、案外難しい−−そういう話をしたら、出てきた質問だった。

秀才タイプの人は、自分の弱点を人前にさらすのをきらう。だから逆に、この率直な質問には好感がもてた。わたしは学生にこう聞いてみた。
−−失礼だけど、あなたは英語の会話は得意ですか?
相手はちょっと質問の論点から外れたことに戸惑ったようだが、答えた。
「えっと・・、いや、苦手です。」

−−じゃあ、得意になるためにはどうしたらいいと思いますか。
「うーんと。やっぱりたくさん練習するしかない、ですか?」
−−そう。それはたしかに答えの一部だけれど、全部じゃない。自分が何かを得意になるためには、どうしたらいいか? 大事なことは三つあるんです。
「三つですか。」
−−うん。まず、良い先生を見つけること。ね? いい師匠がいないとつらいよね。
「はい。」

−−でも、師匠がすぐには見つからない時もある。その時は、誰か手本になる人を見つけましょう。先輩とか、ライバルでもいいから。とにかく、その人みたいに上手になりたいと感じる人を見つけて、真似たり盗んだりすること。『ベンチマーキング』とも言います。これが第一点。
 二番目は、きちんと原理や方法論について学ぶこと。これは座学でもいいし、本を読んでもいい。これをしないと、とっても効率がわるい。
 そして三番目が、あなたの言ったように、繰り返し練習することだ。能力を身につけて、上手になるためには、この三つがどれも必要なんです。まあ、この中の一つか二つだけで、上手になれる人もたまにはいるけれど、その人は生まれつきセンスが良かったということです。あなたがもし「計画が苦手」と感じているんなら、センスだけでは切り抜けられないんでしょう。

まとめると、こういうことになります:
(1) 良い先生か、手本になる先輩(ベンチマーク)をみつける
(2) 原理と方法について学ぶ
(3) 繰り返し練習する
これはどんな能力を身につける時でも共通だから、覚えておいてください。そしてこの授業は、まずは原理や方法を皆さんに伝えるためにやっているわけなんです・・・。


よく世間で、「あの人は出来る、能力がある」というとき、それが知識のことを言っているのか、スキルを指しているのか、それとも資質なのか、わたしはいつも考えてみる。たいていのことはこの三つのコンビネーションであるが、その比率がどれくらいなのか。たとえば『リーダーシップ』という能力がある。これは知識なのかスキルなのか資質なのか。

ある能力が、知識・スキル・資質の三種類のどこに重心があるかを知りたいときは、その能力をどんな方法で身につけ、またどうやって評価し測るべきかを、考えてみるとわかる。

たとえば先日、書評で紹介した「採用基準」の著者・伊賀康代氏によれば、リーダーシップは訓練によって向上することができる、という。だとすれば伊賀さんはリーダーシップが単なる資質や知識だけでなく、スキルの面が強いと主張しているわけだ。これに同意しない人も、もちろんいるだろう。リーダーとは生まれつくもの、という信念の人や、リーダーシップに関するもろもろの教科書の著者などだ。

米PMIが主催するProject Management Professional (PMP)の資格はどうか。わたしも持っているが、これはパソコンの画面からひたすら四択問題を選んでいく試験であった。受験のためには実務経験を示す経歴書が求められるが、PMIは実際には知識を問うているわけだ。とすると、(まさかとは思うけれど)マネジメント能力の主要な部分は知識である、と米国人は考えている、のだろうか?

司法試験はどうか。あれはペーパーテストである。実技試験はない(と思う)。無論そのあとで司法研修所に通う仕組みだが、ここの実技テストで落とされて法律家になれなかった、という例を聞いた覚えがない。上級国家公務員は? あれもペーパーテストだ。とするとこの国では、少なくとも法学部を出て要職に就くような人の能力は、知識で代表されると信じているわけだ。いや、そもそも大学入学自体が、かなりの程度ペーパーテストで決まる。

それで思い出したが、イタリアから来た留学生の話だと、ヨーロッパの国々では、大学における学科試験(卒業試験を含む)は教官たちによる口頭試問が主体なのだそうだ。いわば面接形式による実技テストである。つまり、彼らは(どこまで普遍的に言えるのかは知らないが)大学教育で身につける能力はスキルである、と伝統的に考えているらしい。そう言われてみると、たしかに博士の学位取得審査は、日本でも米国でも口頭試問である。研究者として一人前の能力とは、さすがに身についたスキルであるべし、と思われているのだろう。学位審査は英語ではDefense(防御)といい、審査員がいろいろな角度から攻め込んでくる質問をはっしと受け止めて、切り結ばなければならない。

ただし、口頭試問や実技テストには、手間がかかって非効率だという制約がある。このためマスプロ(大量生産)方式には向かない。大勢の能力を一斉に測るには、ペーパーテストが一番経済的なのである。だから大企業の採用などでも、最初にペーパーでふるいにかけてから、面接を行うところが多い。それも、コンサルティング会社の「ケース面接」のような実技テスト的な面接ではなく、単純なQ&Aが主体である。

わたし自身は、多くの能力は先天的な資質よりも、後天的に身につくスキルのウェイトが大きい、と信じる傾向が強い。そしてスキルは、最初に述べたように (1)良い手本と (2)座学と (3) 繰り返し練習によって身につくものだと考えている。ちなみに、同じスキルの中でも知識のウェイトが大きいものを「ハードスキル」、修練と反射神経化が大事なものを「ソフトスキル」と呼ぶ(→「プロマネのハードスキルとソフトスキル」参照)。しかし、世の中には、能力の主要な部分は資質である、と考える人も非常に多い。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という風に。

たしかに、たとえば芸術家だとかトップ・アスリートとかいった人たちの能力については、資質が何よりも必須な要件だろう。これら職種のコーチやスカウトに携わる人がそう主張するのは、よく分かる。しかし、それは同時代に数人しかいない、高き山の頂点に輝く人の話だろう。わたしが考えるのはむしろ、何万人もいるような職種、山の中腹に位置するクラスの能力だ。同時代の社会の働きを実際に支えているのは、このクラスの仕事ぶりなのである。99点か100点かを争う天才たちではなく、70点台前半のレベルをなんとか後半に近づけないかと努力しているのが、わたし(たち)自身の実像ではないか。

もちろん、人間には生まれついた資質の方向性、ないし適性というものがある。ただ、幸いなことに、能力の種類も、社会のニーズにしたがって非常に豊富に存在するのだ。そしてこの適性というやつは、“試しにちょっと体験してみないと、自分ではなかなか気がつかない”ものなのだ。試さないと、気がつきにくい。だが気がつけば、伸ばすことも可能になる。この、ちょこっとした『お試し』は、若くて自由なときでないと、社会が与えにくいものだ。だからわたしは、全員がプロマネになる訳でもないことを知りつつ、プロジェクト・マネジメントの講義を大学生相手にしているのである。

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品質工学から見た日本の教育の問題点 (2013/02/16)

「うちの工場はきちんと品質を確保している。だから出荷しているのはすべて良品ばかりだ。」と製造業の人が胸を張って話す姿を見て、不思議に思う人は少ない。当然のことだからだ。もし、「うちの工場はきちんと品質を管理している。だから、出荷品の品質はまちまちで、グラフを描くと不良も含めて正規分布になる」と答えたら、逆にそんなおかしな工場の製品は買いたくないと、誰しも思うだろう。

良品のみを出荷する。製造するからには、すべて良品となるように目指す。これが製造業のふつうの考え方だ。製造工程にやむをえない変動要因があり、そのために出来上がりにばらつきができるとしても、それをいかに小さくするかを工夫するのが技術である。

テストには費用がかかる。どんな些細な検査であっても、そのために測定器や電力や、人件費が必要になる。「テストはコスト」なのである。だから、全品検査よりも抜き取り検査の方が、(結果の品質を同じように確保できるなら)安価ですむ。さらに、検査項目も、むやみに全項目やるよりも、重要でクリティカルな項目をうまく選んで集中する方がいい。

もちろん、どの項目がクリティカルであるかは、製造に携わる者が一番よく知っているはずである。この部分の厚みがたりなければ、全体の強度が保てない。しかもこの面からの切削が結構微妙で難しい。だから、この角度の厚みを計測し確認しておけば、強度テストは省ける−−これが、製造を自分でやる立場の強みである。そういうプロセスを知らない第三者は、あらゆる検査項目を実施しないと安心できないだろう。

テストの結果、不良品がみつかったらどうするか? そんな製品は捨てて、新たな材料から作り直せばいい、と考える工場長はまれであろう。できるなら修正/修理を施して、良品に治したいと皆、思う。すでに買った材料に、手間をかけて製造を加えてきたのだから、不良品といえども、すでに投入されたコストのかたまりなのだ。これをただ捨ててしまうのはもったいなさすぎる。

一体この話のどこが教育に関係するかって? まあ、我慢してもう少しおつきあい願いたい。

さて、最終出荷段階で製品を検査し不良が見つかると、修正するにはバラしたり組立なおしたりして大仕事になる。修正できない可能性だって高い。だから出荷直前に大がかりな検査をするより、各工程ごとに、重要項目だけを検査して、その場で修正する方がずっと効率がいいし、安くすむ。まあ工場の中には、ガラス工業や製鉄所のように、不良品を直接原料にリサイクルできる種類の工場もあるにはあるが、わざわざ加工したものを原料に戻したいとはだれも思うまい。皆、いかに不良率を下げるか、あるいは直行率(=補修せずに後工程に送れる比率)をあげるか、に苦心するのである。

つまり、テストというのは、製造行為と一体であり、ワンセットに統合されるべきものなのだ。テストをする理由は、良品のみを出荷するためであり、不良品をはやく見つけて修正するためである。さらにいえば、製造工程自身を改良するための、最良のフィードバックでもある。そして、良品の基準というものは当然ながら、毎回ブレてはいけない。「これはちょっと問題だけれど、まあ同じロットのほかの製品に比べればましだから」といって出荷したら、おかしいのはおわかりだろう。良品かどうかは、他の製品とは関係なく、その製品自体のできばえだけで決められるべきである。

以上、品質とテストについて、製造業の知恵をまとめよう。
(1) テストは、製造者自らが、行うべきである。それは不良品を良品に修正し、また製造工程自身を改善するためである
(2) 良品のみを出荷する。良品の基準は、絶対値できちんと決めて動かさない
(3) テストは、最後に大規模なものを一回実施するより、工程ごとに小刻みに行う方が効率的である

さて。ここからが教育の話である。現在わたしは、大学で週一回、プロジェクト・マネジメントの講義を教えている。半期が終わったら、学生の成績をつけなければいけない。ところで、大学からは、「S(優秀)からA(優)、B(良)、C(可)、D(不可)まで、一定の割合で成績をつけて欲しい」という要請が来る。非常勤講師は派遣社員かパートみたいなものなので、雇用主の要請には逆らえない。

ついでにいうと、大学3年生の後期に授業を教えるというのは、じつに切ない作業である。授業の出席者は、12月、1月となると目立って減ってくる。出席しても、気もそぞろだ。就活があるからである。スーツにネクタイ姿で授業に出る学生もかなりいる。彼らの気持ちを考えると、レポートの宿題やグループ課題を出すのも、ちょっと気が引ける(とはいっても出すけれど)。テーマがプロジェクト・マネジメントだから、ペーパー・テストで成績をつけるのはそぐわないと思い、出席点と最終課題(グループワーク)で採点します、と最初に宣言している。毎回の授業では、ちょっとしたクイズや演習を取り入れて、なるべく考える時間をとるようにしている。考える力がなければ、マネジメントなんてできないからだ(もっといえば、教科書に書いてあることをそのまま鵜呑みにする秀才型の人は、プロマネにはあまり向かない)。

半年間の授業は、わたし自身にとって、一つのプロジェクトだ。ゴールがあり、共同作業(授業を受けている学生との)であり、かつ失敗のリスクがある。プロジェクトが満たすべき条件を全部満たしている。であるから、はじめるとき、必ず自分の目標を決める。その目標とは? もちろん決まっている。出席した学生全員に、プロジェクト・マネジメントの基礎の基礎を理解してもらうこと。そして、「プロジェクト・マネジメントって面白い」と感じる学生を、できるだけ多くつくることだ。具体的な数値目標まではここでは触れないが、当然自分なりにレベルを設定する。

伝えるべき基礎を、出席者全員に、きちんと全部理解してほしい。つまり、できれば全員に「A」をとってほしい。そういう気持ちで、仕事に取り組む。それは、作るなら全部良品を製造したい、という製造マンの気持ちと同じだ。実際には、学生の出来はバラバラで、とうていAはあげられない人も出てくる。しかし、それは教える側の力量が足りないからだ。学生が集中して聴かないのは、こちらが興味を持てるような話し方ができないからである。やってみてつくづく分かるが、授業とは真剣勝負のようなもので、話し手がちょっとでもダレると、すぐ学生達は注意が散漫になる。寝てしまうのはいい方で、大きな声であちこちおしゃべりをはじめる。これは最近の学生の特徴らしい(「ゆとり教育世代だから集中力がないのだ」と説明する人もいるが、ちゃんとかみ合えば、じつは彼らはかなりの集中を示す)。

学期のちょうど折り返し点あたりで、ミニテストを実施することもある。これも、教える自分のためである。これまで教えてきたことが、どれだけ学生の意識の中に定着しているかを測る。結果がわるいと、ガックリくる。自分の教え方に問題があったのかな、と反省することになり、後半は少しペースややり方を変えようか、と考えたりする。

ところが、テストをすると、学生の側の態度がかなり変わる。ナーバスになるのである。自分が何点取れたかを気にする。そんなこと、君たちが心配すべきことじゃない。悩むべきなのは講師のわたしの方なんだ−−そう説明しても、納得してくれない。彼らは生まれてから20年かそこら、ともかく他者から測られ続けて来た。それで選別されてきたのだ。その感覚が染みついている。

通常のテストの目的が選別であることは、それが「同学年の中での相対評価」でずっとなされるのを見れば分かる。教育制度からの要請は、「授業の評価は、A〜Eの人数比率が正規分布に従うべき」という形で教師に降りてくる。したがって、テストは相対的基準で評価することになる。だが、なぜ相対評価なのか? それに、教育上、どんな意味があるのか? 「全員にAをつける講師は、真面目に仕事をしていない」と信じる根拠はどこにあるのか?

先の品質工学の原則を思い出してほしい。製造業での品質テストは、絶対的基準で評価する。なぜならテストの目的は、「良品以外を出荷しない(すなわち出荷品はすべて優良品である)ことを保証する」ためにあるからだ。現在の教育とは、まったく思想が異なっていることがおわかりだろう。

もちろん、テストも上手に使えば、教育的な効果が多少あることは認めよう。人間は機械部品ではない。機械部品は、いったん旋盤で加工すれば、その形状はいつまでも変わらない。しかし人間の脳は、いったんインプットした記憶も使わなければすぐに取り出せなくなってしまう。その記憶を確認・強化するための道具という意味なら、認めてもいい。しかし、だとしたら、テストの目的は採点や選別ではないはずである。

もう一つ指摘しておこう。現在の日本の教育制度では、高校の教育成果(=学力)は大学が入試で評価することになっている。同様に、中学の成果は高校が、小学校の成果は中学が、入試で評価する。つまり、日本の教育の特徴は、教育者が自分で評価しない(できない)ことにある。「そんなバカな。高校だって、ちゃんと期末試験をして成績をつけている」と反論されるだろうか? では、一流大学に入試に合格した生徒を、授業の出席や態度がわるいからと、落第させる勇気のある高校教師がどこにいるのか? 「この程度の知識もない奴は、高卒を自称する資格はない」と、怒れる父母を前に断言できる教師は何人いるのか。

テストや入試というのは、教育ではない。それは品質検査が、製造作業ではないのと同じだ。むろん、大学や高校には定員があるから、何らかの篩いが必要だというのは分かる。入学させてから、大量の宿題を課して篩いにかける欧米方式の代わりに、入学時点で厳しく査定するのが東アジア方式らしい。この発想はきっと、中国発の『科挙』の伝統までさかのぼるのだろう。科挙に通れば上流階級が保証された。「秀才」とは元々、科挙に通った人のことを指した。そういう「能力主義」のおかげで、歴代の封建中国がどれだけ素晴らしい社会だったか、たまには歴史に学んだらどうか。

もう一度繰り返そう。テストというのは、教師のためにあるのである。教える側が、自分の方法を向上させるために行う。結果は、全員が合格となるのが理想である。卒業した者には、自信を持ってその品質(資質)を保証する。上位の学校が、勝手に途中で入試と称して引ったくってはいけない。学校教師たちは、教育を自分の手に取り戻すべきである。そして今、寒い中を毎日入学試験に明け暮れている受験生達には、勉強の目標はテストに合格するためではなく、少しでも賢い自分に近づくためであることを、心に留めておいてほしいのである。

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Tomorrow will be a better day -- 未来志向のマネジメントのために (2013/01/05)

居間に入ったらTVがついていた。新春の経済番組がちょうど終わるところだったらしい。アナウンサーがおごそかな声で、コメンテイター達を前に「今年は厳しい選択を迫られる年になるでしょう」と言ってしめくくった。いやはや。そんなこたあ、言われんでも知っているつもりだよ。でもTVスタジオから、上から目線で言われたくない。

世の中には、厳(おごそ)かなるメッセージを好む人たちが一定数いる。それはまあ趣味の問題だから、口ははさむまい。世の中にはライトなメッセージを好む軽薄な人たちも大勢いて、それぞれの世界を形作っている。重厚と軽薄と、別にどちらが上でどちらが下というものではない。両者がうまく感情のバランスをとってくれればいいのだが、水と油のようにお互い不干渉になっている。そして世の動きにつれて、それぞれ一喜一憂する。わたし達の時代には、共通の感情や言語が乏しいのだろう。

今の中高年はみんな忘れたふりをしているが、わたしが子ども時代だった頃、日本の舗装道路は穴ぼこだらけで(アスファルト舗装なのに深い穴があく訳をいまだに理解できずにいる)、道は狭く、世の中は単純だった。品物は安くてすぐこわれ、やっぱりメード・イン・ジャパンだねと皆で自嘲した。製品のデザインも、それを作る技術も、海外からの輸入か物真似だった。その海外という場所はハワイでさえ夢のように遠く、白黒だったTV番組「奥様は魔女」が、米国の中産階級サラリーマンの、ゴージャスなウェイ・オブ・ライフを垣間見せてくれた。

そういう時代、人々の感情も共通して単純だった。頑張って働けば、明日は今日よりも生活が良くなる。これを「希望」と呼びたければそう呼んでもいいが、当時は誰もそんな呼び名では考えなかった。常識以前の、あたりまえだったからだ。だから学校でも、頑張って勉強して上の学校に行くのが望ましいことだった。「進歩」が皆の共通言語だった。確かに公害もイジメ問題も存在したが、そうした社会の影は、世の中が進めば解決すると、多くの人が信じた。景気循環の谷間も、台風か自然現象のように首をすくめつつ、在庫を取り崩して過ごせばすんだ。

単純だった時代の卒業生が、長らく世の中の舵取りを続けてきた。それはそれで結構なことだが、一つだけ問題がある。「未来を考える能力」の問題だ。逆説的なことだが、経済成長期には、あまり長期的に考える必要がない。目の前の問題だけを次々に考えて片付けていれば、豊かさという報酬を得られたからだ。短期的なアップダウンはあっても、長期的には右肩上がりが保証されるから、競うのは目前の波乗りの腕前だけ、ということになる。

長期的な視野を持って「未来を考える能力」を持つ人が生まれるのは、むしろ先の読めない、波乱の時期だ。たとえば戦乱の時代を生きた孔子を思えばよい(時節柄、中国人がおいやならギリシャのソクラテスでもいい)。彼らは実務家としての手腕にも長けていたが、より遠い視点から、人間社会におけるあるべき姿という、正解のない問題を考え続けた。いや、そうした知性をもつ人は、どの時代にも同じように生まれるが、世が注目するかどうかが違うのかもしれない。

禍福は糾(あざな)える縄の如し、という言葉がある。これは長いスパンで世を見られる人の述懐だろう。短期的な起伏に、一喜一憂してはいけない。それはちょうど、波の上下を見て、海面の高さを決めてはいけないのに似ている。ある精神科医が患者を諭したように、個別の波は見ず、大きな岩がすっかり沈んだのを見とどけて、はじめて潮が満ちたのを悟ることができるのだ。

そう言いながら、短慮な自分はなかなか日々の焦りを乗りこえられない。たとえば、今でも思い出すのは南米のプラント建設現場での一日だ。その日、ようやく仮設電源で空調が動いたコンピュータ・ルームに、届いたばかりのサーバ類やネットワーク機器を設置すべく悪戦苦闘していた。現地の電気工事業者には任せられない微妙な調整作業のために、アメリカのSIerからエンジニアを呼んで作業にあたらせたのだが、例によって次から次へと思わぬ落とし穴にはまり込み、お終いにはドアのキーを室内に置き忘れたまま、オートロックを閉めてしまうというオマケまでついていた。

事務所に戻ったわたしが、よほど堪えた顔をしていたのだろう。先に上がっていたアメリカ人エンジニアが、わたしの顔を見て、笑いながら、"Sato-san, tomorrow will be a better day!"と声をかけて帰って行った。わたしも思わず、力なくではあったが笑い返して、手を振った。と同時に、明日、打開のために試すべき案を一つ思いついた。

このとき、わたしは大事なことを学んだのだった。失敗したら、笑えばいい。自分自身を、自分で笑えばいい。笑えば、脳がリラックスする。リラックスできれば、ほかの視点を見つけることができる。怒ったり恐れたりしているときは、注意は対象に固定されて他の面が見えなくなる。怒りは人を多少高揚させるという良い面もあるが、怒りばかりを謳っているとあまりろくな事になりそうもない。

それにしても、"Tomorrow will be a better day."(明日は良い日になるだろう)とは、なんと良い言葉だろうか。どん底に思える時でも、それより次は良くなるのだ。こういうセリフを冗談めかして言えるところが、アメリカ人の美点かもしれない。彼らの組織の感情的な弾性を、なんとなくこういう一言に感じた。

似たような英語の諺に、"Every cloud has a silver lining."がある。太陽を隠すどんな暗雲も、その向こう側には陽光に照らされて銀色の内張りがある。良くないことでも、その向こう側には美しい、良い面があるのだと、この諺は伝えている。これもあるアメリカ人から、自分の好きな諺として教わったものだ。

そういえば昨年、中東で会ったベテランのプロジェクト・マネージャーは、様々な苦労話を語った末に、「しかしまあ、この歳になると、良いことの裏には悪いことがあり、悪いことの裏には良いことがある、という風に思えるようになってきたよ。」と述懐していた。まさに、あざなえる縄ではないか。その縄目のずっと先をどう読むかに、マネジメントの手腕はかかっているのだろう。

目先の読みにくいときだからこそ、遠い先を考える必要がある。未来志向というと、外交用語か何かのように薄っぺらに聞こえるかもしれない。しかし、わたし達が何ほどかを成し遂げるためには、長期的な視点に裏打ちされた「未来を考える能力」と、あまり揺るがずに安定した「感情」が必要なのだ。そして、それを仲間の『共通言語』にまで昇華できたとき、おそらく本当に意味のあるチーム・スピリットが生まれるはずなのである。

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決める力、決めない力 (2012/11/20)

混迷の度を深めるシリア情勢。国軍が自国民を爆撃し、反乱側の自由軍が守旧派の殲滅を叫ぶ中、度重なる和解調停の試みも失敗し、内戦は長期化の様相を見せている。この状況に関して、貴方はどのような意見をお持ちだろうか。政権側を支援すべきか、反乱側に肩入れするか、あるいは和平交渉のために第三の道をとるべきか。また、もし貴方のビジネスがシリアに何らかの関わりがある場合、それを続けるべきか、手を引くべきか。どう考えるだろうか?

そんな難しいこと分からないよ、ビジネスでだって中東とは付き合いがないし、仮定の質問には答えられないーーこれが大方の回答だろう。政治に詳しい人だったら、親米、あるいは親イランという軸でどちらかを選ぶかもしれない。でもビジネスの質問には苦慮するだろう。同じ質問を大学生にマイクを向けて聞いたら? おそらく、ちょっと困ったようにヘラヘラ笑って、「わかんないっす」と(正直に)答えるだろう。

では同じ質問を米国のビジネススクールの学生にたずねたら、どうなるか。想像するに、きっぱりした意見を、短い時間のうちに答えるはずだ。自分は十分な知識を持つ訳ではないが、手に入る情報から考察するに、かくかく判断される。したがって、しかじかの策をとるべきである。こういう筋で語るだろう。大学生、いや高校生に聞いたって、同様に自分の意見は言うだろう。意見の適否はおくとしても、決めろ、と言われたら短時間のうちに決める者が多いだろう。あちらはそういう教育システムなのだと言ってもいい。

ひるがえって、わたしのこのささやかなサイトで、特に多くの読者を集めた記事が「決めない人々」であった。それは、わたし達の社会において、『決める人』の少なさを皆が感じているからかもしれない。

ビジネスでは、タイムリーに決める能力がつねに求められる。「良い上司とは、決めてくれる上司である」という言葉もある。「良い顧客とは、タイムリーに決めてくれる顧客だ」という事実は、受注ビジネスを経験したことのある人なら、たいてい同意してくれるだろう。ではなぜ、人は決められないのか? どうすれば、決める人になれるのか。決められないのは組織の問題だ、と以前書いたが、ここでは個人の資質まで踏み込んで考えてみよう。

「決める」とは、複数の選択肢から、何かを選ぶことである。AかBか、右か左か正面か、やるか止めるか。そして選んだら、その事と結果に責任をもつ。これが決める事の意味だ。

選ぶ基準は、いろいろだ。好き嫌い、は一番プリミティブな基準である。今日の昼飯は何にするか、とか、AKB48の総選挙で誰に投票するか、などは好き嫌いで決めるだろう。もう少し高度な判断基準としては、文化的な美感がある。デザインなどで重要なのはその判断だ。

道徳的な善悪も、勿論あろう。舌切り雀の話で、お爺さんとお婆さんの選ぶ「大きいつづらと小さなつづら」は、強欲か謙虚かの決断基準だ。さらに知的な信憑性も、大事である。論理が通って一貫性のある主張と、そうでない主張を比較したら、普通は前者が勝る。この、美醜、善悪、真偽の三つの基準は「真善美」として、ギリシャ文明以来、西洋の思考法の柱となってきた。これを学ぶのが、教育の基本である。

しかし基準は、これだけに留まらない。政治的な敵味方、がある。好き嫌いや真善美を超えて、味方側を選ぶやり方だ。そして最後に、かつしばしば最も重要な基準として、金銭的な価値が挙げられる。

これら6種の判断基準は、すべて互いにからみあっている。相反することも時には(しばしば)ある。デザインとしてはAの方が美しい、でもBの方が安い。これが、わたし達の直面しがちな決断のジレンマだ。

ビジネスでは、他の条件が全く同等なら、金銭的な価値の大きい選択肢(販売なら高額、調達なら安価)を選ぶ。調達でRFPをきちんと用意する目的は、技術的要件そのほかをすべて均等にして、価格だけで比較できるようにするためだ。ただ、この手法がきくのは、ある程度汎用的な物を決めるときに限られる。例えばERPなどの個性の強い商品を、純粋に価格だけで決めたという例はほとんど聞かない(最後の決め手が価格だったという例ならあるが、それはつまり他の基準もあった事を意味する)。

したがって、わたし達が個人として決断力を高めたいのなら、まずこうした諸判断基準を区別し、優先順位を意識するのが第一歩である。表にして基準ごとにoやxを書いてみるのも、単純だがパワフルな手法である。

ところで、決断を難しくする要因は他にもある。それは、複雑性不確定性である。リスクといってもいい。冒頭のシリア情勢を思い出してほしい。この問題が難しいのは、情勢が込み入っていて、事実として何が起きているのか判然としない点にある。現在の姿がよく分からないのだ。さらに、ある方策をとったとしても、それがどのような結果を及ぼすか、予測しにくい。(現状)→<決断>→(将来) というモデルの不確定性が高いのだ。

現実の事象には、つねに複雑性と不確実性があるから、決断が難しい。現状の把握と、因果関係の分析、そして今後の予測が、いつも議論が分かれるところになる。社内でたたかわされる論議は、ほぼこれだ。

したがって、決断力を持つためには、どんな複雑な状況でも、短時間のうちに理解・分析し、自らの意見を主張・説得しうる能力という事になる。だから、米国生まれのビジネススクールでは、もっぱらこれを教育する訳だ。有名なケースメソッドなどは、まさにこの能力開発のために作られたと言っていい。

どんな社会問題でも、自らの意見を主張できることが、欧米では知性のあかしである。意見を問われて、ヘラヘラ笑っているだけの大学生は、知性ゼロと判断される。たとえ真剣な表情でも、何も発言しない人間は、何の意見もないのだと見なされる。互いに見解を出し合い、問題に多角的にアプローチし、理非曲直を短期間に論じて、最後にリーダーが(あるいは投票で)決断する。それをきちんとできる人間に、知性を認める。これがあちらの社会で、上に立つべき人の評価基準だ。

というのが、普通に語られる話だ。これだけなら、世によくあるMBA礼賛風の記事になる。でも、それだけで終わりにしないのが、本サイトの複眼的な(へそ曲がりな)ところである。

何かを理知的に、短時間で決めるためには、必要となる資質が、もう一つある。それは、「割り切り」である。物事をドライに割り切れる資質がないとダメなのだ。目の前にあるのは複雑で多面的な事象である。情緒や感覚面でのインプットがどうあろうと、合理性で判断していく。それはちょうど、地面に生えている草花を、シャベルで掘り出すようなものだ。細かな根は引きちぎられるだろう。でも、大体のモノが取り出せればいい。これが割り切りの感覚だ。

「決めない人」は、この割り切りに抵抗する。それはほとんど感覚的な抵抗だ。理は情にまさる、という西洋文化的な価値観にも反感を持つ。だがそれを論理的には主張できない(当たり前だ)。言えないで、ぐずぐずする。感覚で分かってよ、という訳だ。

このような態度・資質にも、一定の意味はあるのではないか。

あるとき、人材関係のコンサルタントから、こんな話を聞いたことがある。「よく、客先に行くと、『貴方は人材のプロだから、人を瞬時に見分ける目があるはずだ。どうか面接に同席して、これから引き合わせる部下の良し悪しを意見してほしい』といわれる事があります。そうした方にはこう答えます。『人の評価をする立場の者に大切な事が一つあります。それは、結果を待つ能力、忍耐力です。短時間に簡単に人を分類評価したいのをぐっとこらえて、長い目で部下を見る。これが大事なのじゃないでしょうか』」

スパッと対象を見切って判断する。これはdetachmentの資質である。自分と、対象とを引き離す。そして離れた、客観的な視点から理知的に決断する。他方、決めずに待つ態度は、commitmentの資質である。愛着といっても良い。自分に関わりの強い、愛着のある問題は簡単には決められない。決めるにも、感覚論が強くなる。

だが、それもまた「決める」事の一面なのである。あなたは、結婚相手を決めるとき、論理とoxだけで決めるだろうか。就職や、大学選びでもいい。自分自身を大きくコミットする決断は、実は言葉だけではうまく表現できない。それは誰だって(西洋人でも)同じだ。ただ彼らは、情緒的な決断を合理的な言葉で正当化するのが上手いだけだ。そうしないとバカだと思われる文化と教育で育ったからである。わたし達の文化には、そうした要求が薄い。「いやあ、何となく」の説明で通ってしまう。

人の評価をすぐに決めない力は、大切である。それは他者にコミットすることの証しだからだ。決める事の重要性は、強調されるべきだと思う。しかし、「割り切り」だけですべての人間を動かせると思ったら、それは愚かなのである。

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休むのも仕事のうち (2012/08/08)

仕事柄、ときどき時差のあるところに出張にでかける。そんなに頻繁なわけではないが、ともかく行って帰ってくると、何日かはしんどい。時差ボケのせいで熟睡できていないからだ。歳をとると、体の生理的なリズムが少し弱まるため、若い頃よりは適応が楽になるといわれているが、そのかわり疲れの回復に時間がかかるようになる。トータルには、ちっとも楽にならない。

一般に時差ボケは、西よりも東に旅行したときに強く出る。日本からだと、中東や欧州に行くより、北米や南米に行くときの方がしんどい。ハワイまでの時差は7時間程度で、ロンドンより少し短いはずだが、体感ではむしろ逆だ。西に行くときは、遅く起きて遅く寝ることを強いられるわけだが、これはちょっと頑張ればなんとかなる。そもそも人間の体内時計は1日26時間だから、遅くなるのは適応しやすい。問題は、早寝早起きが必要な東に行くときだ。意図したって、無理に早く眠れるものではない。よく、“時差がある国に行ったら、着いた日の夜は頑張って遅くまで起きていろ、ぐっすり寝れば翌日から楽になる”という人がいるが、あれは東にはあまり当てはまらないと思う。無理して夜中まで起きているつもりでも、体内時計はまだ夕方でしかないからだ。

もちろん、行きと帰りは逆方向だから、欧州から日本への帰りは東向きで大変だし、米国の帰りは西向きで楽になる。だから足し引きゼロになるはず−−と思いたいが、そうはいかないもので、もとの自分の住み処に戻ってリラックスする方が、やはり早く適応できるのだ。結局、全体としては西に行く方がどうしても楽になる。

こうした順逆の理屈を理解した上で、時差ボケを軽くするためにわたし自身がとる三つの方策を、ご紹介しよう。まず、現地では、夜遅くまで無理に起きようとはせず、宵の口でも眠くなったら、差し障りがない限りさっさと寝てしまう。その方が、結局は続けて眠れる時間が長くなる。次に、昼間は機会があればなるべく、日光に当たるようにする。そうすると脳内で睡眠誘導物質のメラトニンが夜、生成されやすくなるらしい。

そして第三に、これはある意味で裏技だが、そのメラトニンの錠剤を買って服用するのである。メラトニン自体は医薬品としては認可されていないが、アメリカその他の国では、サプリメントとして売っているし、たいして高くない。睡眠薬ではないけれども、それに近い効果を感じる。もちろん、人により作用に差があるし、副作用も未知である(元々脳内物質だから副作用はないとの主張もあるが、わたしの場合、あきらかに夢が強くなる)。だから、At your own riskで、という言い方にはなるのだが。

それにしても、眠りというのは不思議な行為(Activity)である。万人にとって必須の重要な行為であるにもかかわらず、誰も意図して行うことはできない。あなたは強い意志を持って眠りに入ることができるだろうか? 意思を強く持てば持つほど、眠気は遠ざかる。そして眠っている間は、人は一切の主体的な行為を放棄する。自分自身に指示を下す「本社機能」としての自我は、機能停止するわけだ。さらに、夢という奇妙なヴィジョンを見る。これがまた、とりとめもない代物で、行ったこともない場所に平然といたり、居るはずのない親子兄弟が出てきても納得したりする。独自の論理とエモーションが支配している世界だ。

でも、一番不思議なのは、起きたときに、寝る前と同一の自分の自我が戻っていることだろう。この自我の連続性は、当たり前のように見えるが、奇跡のように巧妙な仕掛けだ。もし、目覚めるたびに新しい自分になっていたら、どんな奇妙なものか想像してみると良い。記憶は連続しているが、自分の連続性がないとしたら、毎月社長が交代している会社のように訳が分からないにちがいない。まあ、たまに、よほど疲れて寝惚けているときなど、一瞬めざめてから、“あれ、ここはどこだっけ? 今はいつ?”と感じたりはするが。“わたしは誰?”という感覚にかなり近寄っている。

若い頃、先輩に「休むのも仕事のうち」という言葉を習った。文字通り、ときどきはちゃんと休むことが必要だ、との意味である。ある時、徹夜に近い状態が何日も何日も続いたあげく、頭に血が上って霞がかかったようになり、ごく単純なトラブルの原因を見つけられず時間を浪費して、納期に遅れてしまった。当然ひどく叱られたが、その時にいわれたのがこの言葉だ。休みは通常、働くことの反対概念である。だが、人間はときどききちんと休まないと、かえって生産性が下がる。これは今からちょうど100年前に、アメリカのテイラーが工場の肉体労働者の生産性をストップウォッチで計測して見いだした法則にも共通している。

その後、自分が小さなプロジェクトのプロマネになり、チームごと泥沼状態に陥ったときがあった。その時、この金言を思い出したのである。そこで「ノー残業」を宣言をして、協力会社の社員を含めて全員を早く帰すことにした。自分も無論、早く帰ってちゃんと寝るようにした。ところが二日後、協力会社のあるキーパーソンが、自分の会社に戻って、相変わらず夜中の2時まで残業を続けていたことを知り、つい呼びつけて怒鳴ってしまった。彼が帰らなかったら、部下たちだってやはり遠慮して残業を続けてしまう。だから、上の人間が、まず率先して「休むのも仕事のうち」を見せなければいけないのだ。とにかく、それが功を奏したとはいわないが、その後プロジェクトは多少、元の軌道にもどることができた。

念のためにいうが、「仕事のために休め」というのは、次善というか、逆立ちしたセリフなのである。人は本来、「休むために休む」べきなのであって、「もっと仕事ができるように休め」は本末転倒である。ただ、こういわないと、普通の休みさえ取らない「真面目な」技術者が多いから言うのだ。

以前、「睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル」でも書いたことだが、物理的実体を持つシステムは、エネルギーを使って働き続けていると、内部のエントロピーが次第に高くなっていく。エントロピーとは、乱雑さの指標である。ときどき下げないと、システムはちゃんと機能しなくなっていく(熱中症というのは、実はその典型なのだ)。

エントロピーを下げるためには、活動レベルを低下させ、整理整頓をするための時間が必要だ。だから高等な生物は皆、眠りの時間を持っているのである。人間の場合、夜になると脳内にメラトニンが分泌され、さらに下垂体から成長ホルモンが分泌される。メラトニンは睡眠をうながすとともに、免疫系を高める。また成長ホルモンは、成人でも身体の修復や肌の再生のために役に立つ。だから美容や健康が欲しい人は、成長ホルモンの分泌がピークになる夜10時から2時までの間は眠っている必要があるのだ。

かつてバブル時代には、「24時間、戦えますよ」みたいなスタミナドリンクの宣伝がはやり、“24時間情報発信基地”なるものがもてはやされた。だが、『眠らない人間』は、自我の病(やまい)にさらされるのではないか。眠らない都市は、乱雑さと熱汚染の中におぼれる危険があるのではないか。そして、眠らない会社、休まない職場は、じりじりと生産性の低減し、クリアな決断ができなくなる、組織的な熱中症にかかる可能性があるのではないか。

ときどき、手を休めることが必要だ。ここでは何度も書いたことだが、でも、もう一度書こう。時間管理術の目的とは、「何もしない時間」「一見、非生産的な時間」を生みだすことにある。毎日の雑務で時間に追われていると、何もゆっくりと考える時間がとれないままになっていく。頭の中の乱雑が、整理されぬままですぎていく。これを打破するためには、ときに、主体的な行為を放棄し、「本社=自我の指示」から離れて、夢という名のヴィジョンを見ることが必要だ。そうすれば、エントロピーの低い、クリアな秩序を再び手に入れられる。まともに考え、まともに決断するためには、ちゃんと休むのも仕事のうちなのである。

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Structured Approachができる人、できない人 (2012/07/08)

あなたは、同期30人の集まるパーティの幹事になりました。
 あなたが最初にすべきことは何ですか?

−−これは、わたしがプロジェクト・マネジメントを学生や社会人に教えるときに、最初に出すクイズの一つである。出てくる答えはたいていの場合、まちまちだ。「店を探して予約する」「日取りを決める」「参加者を確定する」、等々。いや、パーティといってもいろいろだから、どれを先にするべきかはシチュエーションによる、との答えもありうるだろう。

だが、この問題には、どんな状況にも当てはまる、唯一の普遍的な正解がある、とわたしは続けて説明する。ためしに、ちょっと読者の方も考えてみていただきたい。少なくとも、わたしの勤務先のプロジェクト・エンジニア(=プロマネ候補生)たちにたずねたら、若い人でもきっと正解を答えてくれるだろう(と思う)。

その答えとは、『計画を立てる』である。どんなイベントでも、(1)計画を立てる、(2)事前の準備をする、(3)本番を実行する、(4)終結作業をする、の4種類の作業が必要だ。だから、最初にすべきことは「計画立案」だと分かる。そして、言うまでもなく、ちゃんとしたパーティをやるためには、必ずまともな計画が必要なのだ。

なーんだ、当たり前じゃないか。そう思われたかもしれない。そのとおりである。この「当たり前」が、頭の中にきちんと構造化されて、いつでも取り出せるように入っているかを、わたしはたずねているのだ。答えを聞いてから、そんなこと知ってるよ、と感じるのと、自分で言語化して他者に伝えられるのとは、じつはかなりの距離がある。それは、「知る」ことと「わかる」ことの距離である。憂鬱という漢字を読めるのと、その書き方を電話で他人に指示できるのとの違いを考えれば、すこしは想像がつくだろうか。

そして、何らかの仕事を始めるときに、まず作業の全体像を考え、計画に着手するという作業が習慣として身についているかどうかが、ここではポイントである。いきなり店を探したり、参加者を確認してみたりからはじめても、もちろん30人程度のパーティなら、なんとかなるだろう。しかし300人規模のパーティとなったら、もう、そうはいかない。その規模の仕事では、きちんとした計画を立て、やるべき作業をリストアップし、サブの幹事も頼んで共同で進めていかなければならないだろう。つまり、仕事の組立てを考えた、系統的・構造的な進め方(Structured Approach)が必要なのである。

ちなみにStructured approachの反対概念は、トライ&エラー、別名『出たとこ勝負』である。まず、何かをやってみる。その結果や反応を見て、次のアクションを考える。それを、求める結果に行き着くまで繰り返す。「計画」など信じず、自分たちの勘や実行力や「現場力」に頼る。これはこれで、一つの行き方ではある。地図のない森の中での獲物探し、に類した仕事には適しているといえよう。

以前も書いたと思うが、両者の違いは、イヌと猫の行動のちがいにも似ている。ネコジャラシを猫の目の前でふってみせると、猫はそれが欲しくて、じっとその穂先に集中してとびつき、いつまでも追っかけ続ける。一点集中型である。ところが(ムツゴロウ先生こと畑正憲氏のビデオで見たのだが)、同じネコジャラシをイヌに見せるとどうなるか。イヌは最初、穂先に飛びつくのだが、少しすると身を引いてちょっと考え、今度は穂先ではなく手に持っている茎の方を口にくわえて、さっと抜き取っていく。もしそれでもダメな場合は、飼い主に甘えて、“ちょうだい”と態度で示して得ようとする、という。「犬は総合的な判断にたけているのです」とムツゴロウ先生は解説する。穂先−草全体−草を持つ主人、という『全体構造』を見て、それぞれの部位にどうアプローチすべきかを考える能力があるのである。

もう少し別の例を引こう。企業経営について、Structured Approachをとる人々だったら、どう考えるだろうか。まず、その会社のミッション(使命)を定義するだろう。ついで、そのミッションを実現するための戦略を、列挙する。それぞれの戦略については、その達成度を測るKPI(Key Performance Index)を明らかにする。そして機能別組織を動かして、オペレーションを進めつつ、KPIを見ながら軌道や速度を調整していくだろう。これは、とにかく何か新製品を出し、あるいは新地域に出店してみて、後はその結果をにらみつつ、「各人がその持ち場で最善を尽くせば何とかなる」と考える行き方とは、随分違うのがわかるだろう。

Structured Approachとは、課題解決の方法論である。とくに、対象・ゴールの全体像をつかむことに力点をおく。具体的に言うと、以下のような手順をとる:

(1) とりくむべき対象・ゴールの全体を、構成する部分部分に分解する
(2) 各部分と部分の関係(依存関係やレイヤー的関係)を理解する
(3) それぞれの部分の特性にあった道具・道筋を用意する
(4) (必要ならば)組織内で分担・分業して仕事を進める
(5) 作業全体の管制塔(コントロールセンター)をおく

たとえば、取り組む対象がはじめてのプロジェクトだったとしよう。その全体像は、なんだか大きくてつかみにくく、どこから攻めたらいいかわかりにくい。そこで、達成すべき仕事の全体範囲を、もっとハンドリングしやすい小さな部分に、構造的に分割していくのである。これをWBS(Work Breakdown Structure)という。WBSが、その後のプロジェクト・マネジメント計画の基礎となる。WBSという概念が、いかにStructured Approachの考え方を象徴しているか分かるだろう。

対象・ゴールの全体構造を分解し、要素を列挙するときに注意すべきキーワードは、『MECE』である。MECEとはMutually Exclusive and Completely Exhaustiveの略で、ロジカル・シンキングの分野で有名になった略語だ。日本語で言えば、「互いに重複が無く、かつ全体を網羅する」である。日本全国は、地図で都道府県に分割されるが、その間には重複する地域も、空白の地域もない。対象の構造を分解するときは、そういう風にすべく、注意して行う。

対象が単純で内部構造を考える必要がないときには、攻め方の方角について、列挙してみる。山に登るとき、南から斜面を上るか、北側の尾根伝いに行くか、考えられるアプローチを洩れなくすべて挙げていく。そして、その中で優先順位をつけ、あるいはそれぞれに適した方策や道具を用意して進めるのである。

昔、誰かが言ったセリフだと思うが、ゴルフというスポーツは、あんな小さなボールを芝生の穴に沈めるために、用途別に特化した十数本もの棒を背負って歩く、ひどく西洋的な遊技である。日本で生まれていたらきっと、たった一種類のクラブを最初から最後まで使うルールになっていただろう、と。だが、あれこそは英米の典型的なStructured Approachを表している。日本風なやり方も面白いと思うが、たぶん、際だった名人芸を持つほんの一握りの人しか、18ホール目には到達できないであろう。

ゴルフや、あるいは野球やアメフットなどの専門分化したチームスポーツからも分かるとおり、Structured Approachは、英語的思考や文化の中心にあって、彼らはとくに意識もせずに、つねにこのやり方に従う。教育自体が、そう出来ているのだろう。

Structured Approachは、「頭が良く」見えるのが、一つの特徴である。だから、これを縦横に駆使できると、とくに我々の文化の中ではうまく目立つことになるだろう。また、落ちや漏れや重複が少ないため、誰がやっても一通りの結果が得られる(個人の天分・資質にあまり依存しない)点も、長所である。こうしたやり方は、トップダウン的だとも言えよう。だから、トップダウン型の組織で運用するのに適している。

ただし、Structured Approachは、あまりにも自分達と世界観がかけ離れていて、構造がうまく理解できない物事には、使えない。あなたが惑星ソラリスに行って、その星の不可解な海と七転八倒しているときに、「なんでStructured Approachをとらないんだ」とは、小説の中の西洋人でさえ誰も言わない。人間にとって、構造的な理解のためには、自分の頭の中にテンプレートが必要だからである。SF的世界とまで行かないにせよ、たとえば日本の弓術を極めるのに、このアプローチが出来るかといえば、まあ、まず無理である。

逆に、森の中の宝探しにおいては、いきあたりばったり、出たとこ勝負的アプローチの方が、運が良ければコストも時間もかからないかもしれない。Structured Approachは、どうしても最初のセットアップに手間がかかる。「自分探し」中の若者が、既存の社会の枠組みを嫌って、ふらふらしているように見えるのも、自分の運が強いと信じているからなのかもしれない。あるいは単に、(もっと上の世代の人たちと同じく)Structured Approachを知らないだけなのかもしれない。

Structured Approachは、ちょっと訓練すれば、誰でも使える方法である。とくに頭が良い必要などない。むしろ、個人の天分に依存せず、かつあまり運に依存したくない課題向けの方法である。そして、限界もある。全ての課題に適用可能な万能な方法、銀の弾丸は存在しないのだ。大事なのは、それを「いつ使うべきか」知ることなのである。

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心の中でヘリコプターに乗れ (2012/04/02)

社会に出てからそれなりの時間が経つが、若い頃に思っていたことで、実は幻想だったなと感じることが一つある。それは、“能力が上がれば、あるいは出世すれば、悩みは減るはずだ”、という考え方である。これは言いかえれば、自分は若いから(あるいは地位が下だから)悩みが多いんだ、との理屈になる。仕事が難しいのは、まだ駆け出しで能力が足らないからだ、だからベテランになれば楽に仕事ができる。やりたいことができぬストレスに悩むのは、自分に許された権限範囲が小さすぎるからだ−−そんな風に、以前は考えていた。

しかし、押しも押されもせぬ立派なチューネンになってみて分かったのは、むしろ年を経るほど悩み事は多く、責任に比例して肩の荷も増え、毎日つく溜息の回数も多くなるという事情だった。就職は人生の一大事だったが、仕事を学ぶのはもっと大変で、中間管理職になると軋轢はより面倒で、仕事はちっとも減らないのに体力だけは確実に落ちていく。もちろん、単にわたしが愚かで心配性なだけだ、という可能性もある。他の人は、毎日もっと陽気に生き、充実感をもって仕事をし、問題などどこ吹く風、と過ごしているのかもしれない。でも、だとしたら、酒の場では誰も仕事の愚痴などこぼさず、書店には問題解決の本など並ばず、新聞の身の上相談はあがったりで、GDPはロケットのように成長していかなければヘンだ。

「『問題』とは、自分達が(意識的であれ無意識にであれ)期待していた状況と、現実との間に生じるギャップのことを指す」−−前にもこう書いた。期待と現実にギャップがあるときは、なんとかして埋めたいと誰もが思う。机の横の立ち話や会議室や酒場で議論になるのは、そういった問題解決の方法についてである。解決法が明白なら、誰も悩みはしない。実行すればいいだけだ。でも、明白でないから、議論になる。そして、なかなか決まらない。あるいは決まっても、納得して従いづらい。これが『悩みのある』状況である。

仕事上の問題解決について、議論が別れてなかなか決まらない理由は、いくつかある。まず、そもそも、何が問題か分からないときだ。なんだかどこかおかしいと感じるのだが、何がどうおかしいのか、問題自体が同定できていない場合。あるいは、問題が複雑すぎて(大きすぎて)手に負えない、と感じられるときも同じだろう。以前、問題解決プロセスを5段階に分けて説明したことがあったが(「問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推」)、その用語で言うなら、これらは原因分析段階での論争だ。アーリー・ステージでの議論だと言ってもいい。

しかし実際には、問題は同定されたものの、解決策を決める段階で論争になる方が、はるかに多い。たとえば、情報が不足して現状が正確につかめない。ないし、現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい場合。また、制約条件がきつすぎて実行可能解がない場合。さらにやっかいなのは、解決の結果について評価軸が複数あって、トレードオフのために優先がつけられない場合だろうか。

仕事上でこうした困難に直面したとき、かつて先輩から教えてもらった教訓がある。それは「心の中で、ヘリコプターに乗れ」というものだった。プロマネに必要なのは、ヘリに乗る能力=Helicopter Capabilityだ、との言葉も聞いた。どうやら元は、ある米国企業のトップ・マネジメントが教えてくれた言葉らしい。

ヘリコプターに乗るとは、どういう意味か。それは、問題を起こしている戦場(Battle field)と同じ地平、同じ目線で考えないで、もっとはるか上空から考えろ、という意味だった。ヘリに乗って、ずっと上から問題を眺める。そのとき、問題の局地戦だけではなく、仕事の全体像、当面の目的地、地形や敵味方の戦力の配置、そして遙か向こうにかすんでいるビジネスの成功地点(=ゴール)、などが見えてくるはずだ。その大きなパースペクティブの中で、あらためて目の前の問題の位置づけを考え直す。そうすると、局地戦で打破するのか、いったん引き下がって精力を増員してから正面突破するのか、それとも迂回するのか、そもそも目の前にいるのは本当の敵なのか、といったことが見えてくる。

心の中でヘリコプターに乗ると、先に挙げたような論争の状況はどう見えてくるだろうか? たとえば、何が問題か分からない、問題が大きすぎて(複雑すぎて)手に負えない、というとき。それは、問題に対する視点が近すぎる(近視眼的すぎる)ときに生じる。だから、後ろに大きく引いて見ると、問題の構図が見えてくるかもしれない。

情報が不足して現状がつかめない、あるいは現状は分かるが未来が不確実で予測しがたい、というときはどうだろうか? 問題を遠くから見るというのは、細部を忘れて『抽象化』して考える事である。抽象化できれば、地表で似たような図柄を別に見つけることも可能なはずである。つまり、抽象化と類推の手法を効かせることができるようになる。そもそも、技術者という人種は、“細部に近寄って見る”ことが好きだ。事象を細かく観測し分析したがる。そして技術論の局面でものごとを解決しようとする。そのためにデータを取りたがる。それも、より正確なデータを、より大量に取る。そのうち、事象は数字の藪の中に隠れてしまって訳が分からなくなる。技術論で解決するより、味方の人数を倍に増やしたり、思い切って高価な道具を使ったりする方が効果的だったりする事もあるのに。

制約条件がきつすぎて実行可能解がない、というのはどうだろう? これなどまさに、大局観をもち、制約条件を取り払って考えることが有効だ。というのも、『制約条件』は自分が心の中で暗黙のうちに設定しているものが殆どだからだ。期限どおりに終わらない、と悩んでプロマネに相談したら、なあに隣のタスクも遅れているから、お前の仕事は後1週間は遅れても大差はないんだ、と言われたりする。企業組織は縦割りの壁があるから、その壁を「ハードな制約条件」だと感じがちだ。しかし、もっと上の立場から見ると、分担はとりあえずのもので、最終的に仕事がまとまればよい、だから部署間のインタフェースは「ソフトな制約条件」だという事が、実際よくある。

そして、解決策に対する評価尺度が複数あってトレードオフが生じるときは、どうだろう。安全性を優先すべきかコストを優先すべきか。納期を優先すべきかリスクを重く見るべきか。デザインはクールでハードなものか、それとも暖かく柔らかなものか。こうした論争はえてして一番やっかいだ。というのは、“信念”あるいは“好み”のために、妥協ができない人が案外多いからだ。

まあ、事柄が政治や宗教などの領域ならば、簡単に価値観を譲れないのもわかる。しかしビジネス上の判断で、あまり自分の価値観に固執するのは、ちょっと大人げないと言えるだろう。しかし、「あんたは子どもだ」などと言ったら文字通り喧嘩になる。そういうときに、視点をずっと上にあげて、遠くの目標を(再)確認することは役に立つ。というのは、価値観の相違を、共通の大目的のために吸収する効能があるからである。それにビジネスでは、「当座の手段」だったはずのものが、いつのまにか「目的」にすり替わっていることがよくある。これは遠くの目標を再確認することで、解消できるからだ。

この『ヘリコプター技法』を使うときは、できれば目をつむって、本当に心の中でヘリコプターに乗って上空に舞い上がるイメージを持った方がいいように感じる。人間の心は微妙なもので、イメージすることで、それなりに感じ方が変わってくるからだ。

先日上梓した「“JIT生産”を卒業するための本 〜 トヨタの真似だけでは儲からない」で、わたしは『上司の上司の立場になって考えてみよう』と書いた。それもまた一種のヘリコプター体験である。自分の上司の立場になってみる、では、二階に上がった程度で、あまり視野は広がらない。でも、自分の「上司の上司」の立場になったと想像すると、ずいぶん視野が広がるはずなのである。

このようにヘリコプター能力はとても役立つものなのだが、一つだけ必要な条件がある。それは、目をつぶって心の中で瞑想できるだけの、時間と場所である。あなたは、自分の机の前に座って、目を閉じてじっと考える勇気はおありだろうか? 勇気があっても、それをする時間はお持ちだろうか。問題解決に一番必要なもの−−それは「考え事ができる時間」なのだから。

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設計思想(Design Philosophy)とは何か (2012/03/26)

Kさん、久しぶりにメールありがとうございました。お元気とのこと、何よりです。ご活躍中の様子が、行間からあふれていました。生産管理の現業をかかえた上に、新規システム導入プロジェクトのメンバーの一員としてアサインされたとは、たしかに大変だろうとお察ししますが、それだけKさんが周囲から期待され一目置かれていることの証左だと思います。

ところで、Kさんからメールをいただくたびに、難しい宿題を投げられたように感じるのですが、今回は格別です。『設計思想に関して』のご質問とは! なるほど、たしかに新しい基幹業務システムを考える出発点として、“その設計思想はどうあるべきか”を問うのは、とてもオーソドックスかつ当然の発想と思います。自分達が製品を設計開発するときも、成功した製品には明確な設計思想があった。だから、プロジェクトを成功させたければ、当然システムにも設計思想がなくてはならないはずではないか。−−設計部門出身のKさんはそう考えられた。ですが、その「当然」がちっとも当然たりえないところに、わたし達の社会の根本問題がある訳です。

メールの文章を拝読したところ、ご質問は二点あるようです。わたしの業界の場合には、設計思想を話題にすることがあるのかどうか。そして、そもそも設計思想とは何を規定すべきものなのか、と。

まず最初の質問からお答えしますと、はい、たしかにわたしの本業=プラント・エンジニアリングの世界でも「設計思想」はあります。設計思想のことを英語でDesign Philosophyといいますが、プラントの世界では文字通り"Design Philosophy"というタイトルの文書を、基本設計の最初の段階で作ります。そして、(基本設計が固まった後に)入札が行われる場合も、それは仕様書の一部として位置づけられ、以後の詳細設計や調達など全ての作業に適用されます。ただこれは、ほぼ海外の顧客向けのプロジェクトの場合のみです。少なくとも自分の経験では、純粋に国内のお客さま相手の仕事で、設計思想が議論になったケースはありません。

では、その"Design Philosophy"とは何を規定したものなのか。じつはプラントの場合、Design Philosophyは何種類も作ります。Start-up Philosophyだとか、Maintenance Philosophyだとか、Shut-down Philosophyだとか。なんだか“思想だらけ”に見えるしょうが、事実です。こうしたPhilosophy文書は、別段格調高い文章ばかりという訳ではないのですが、プラントのライフサイクルを通して生き続けます。そしてプロジェクトの途上で設計上の論争が発生したとき、必要ならばDesign Philosophyに立ち返って、「ここにこう規定してあるじゃないですか。貴方の要求は、これに沿っていません。だから、どうしても変更せよと言うのなら、追加を払ってください」といった決着の基準になるのです。

では、どのような時に論争が起きるのか。たとえば、多重化の要求です。運転上の安全性のために、ここの機器やケーブルを多重化して冗長構成にしろ、との要望はよくあります。ですが当然、投資額は余計にかかります。運用保守の手間も増える。一括請負契約だったら利益に直接関わる問題です。このようなとき、その程度までクリティカルな部分を冗長化すべきか、Design Philosophyが規定していれば、無駄な論争で時間を失う事が避けられます。『クリティカルの度合い』を誰がどう決めるかも書いてあれば万全です。

あるいは、運転に対する反応の俊敏性と、運転の長期安定性のどちらをとるか、といった問題もよく起こります。車の設計で言えば軽量性と高速安定性みたいなものです。あるいは保守のしやすさと、コンパクト性の相反。さらに緊急シャットダウンの時に、何からどう優先して落としていくのか。危険物質や高温高圧を扱うプラントでは、この優先順位によって設計がずいぶん変わってしまいます。

つまり、設計思想(Design Philosophy)の文書とは、第一義的には、設計を決めるときに相反条件があって、あちらを立てればこちらが立たず、というトレードオフが生じる際の、判断の優先順位を決めたものである、とわたしは考えています。

もともと設計とは、目的とする『機能』をはたすべき『構造』を決める行為です。ところが、どんな製品・システム・サービスにおいても、求められる機能要件ならびに評価項目は、複数あるのが普通です。しかもそれらは、しばしば互いにトレードオフの関係にあるのです。また、空間的な形状・構造を考える際には、いろいろな選択の余地(自由度)があります。こうした、多数の自由度を持つ設計において、その方向付けをするガイドラインとなる方針、あるいはコンフリクトが発生したときに、優先順位を強く明確に決めたポリシーが、設計思想です。

いいかえるなら、設計思想とは価値観の表明に他なりません。とくに、トレードオフが生じる前に、「何を捨てるか」を決めるものなのです。価値観は自然科学や法則からは生まれません。だから思想の形で提起される必要があるのでしょう。これがKさんの第二の質問へのお答えだと思います。

トレードオフ問題は、特定の状況に付随して生じがちです。そのため、設計思想はしばしば「シナリオ」の形になります。プラントの場合だったら、Start-upとかShut-downとか、状況別に作成される訳です。では、情報システムの場合はどうか。もちろん、Start-up/Shut-down/Back-up/Archiving/Maintenanceなど運用的状況の他に、拡張やリリースアップなどもシナリオの対象でしょう。アクセス性とセキュリティの相反なども考えておく必要がありそうです。

この設計思想にまつわる誤解で、よくあるのが『設計条件』との違いです。設計条件とは、設計の境界条件あるいは環境条件を与えるものです。設置場所はどこで広さはどれくらいか、気温・湿度はどれくらいか、建物の床加重は、外部電源容量は、利用者数は、等々。これらは測定ないし想定の結果として、数字の列挙で示されるもので、「思想」ではありません。想定はある意味、思想の表現結果ですから、「想定外でした」という言葉は、“それは無いという設計思想でした”(あるいは“設計思想が無い状態でした”)を示している訳です。

ところで設計思想は、言葉で文書にしなければならないのでしょうか? わたしは必ずしもそうとは思いません。ただし、西洋人の感覚では、明確に文章に表現されて他者に伝わるものでなければ、思想とは認めないでしょうね。言葉にはならないが、リーダーやキーパーソンの間でなんとなく無言のうちに共有され、以心伝心で皆に広まっていく・・などというものを、彼らは「思想」とはよびますまい(強いて言えば、「文化」とか「習慣」と呼ぶでしょうが、これが製品毎に変わるとしたらちょっとヘンです)。まして、詳細設計段階で数十人から数百人が関わるプロジェクトの場合、以心伝心は、はなはだ頼りない伝達手段ではあります。

ある製品や仕組みやサービスに設計思想があるかどうか、外から分かるでしょうか? たぶん、ある程度は感じ取られると思います。それは、設計の「いさぎよさ」であり、あるいは「首尾一貫性」に表れるはずです。むろん、視覚的には直接見えない場合もあるでしょう(情報システムなどはその良い例です)。しかし、一貫した設計思想の元でつくられたシステムは、ユーザーから見て、構造や機能やインタフェースにGuess(推測)がききやすいはずです。

何年か前にKさんにお会いしたとき、わたしがまだHP-200LXという旧型のPDAを使い続けていたことを覚えておられるでしょうか? あの製品は、明確な設計思想で作られた代表的製品だったと思います。携帯可能で、キーボードをそなえ、市販の単三乾電池で1ヶ月動く。そのかわり液晶はモノクロでバックライト無し、無線通信機能も無し。GUIも無し。それでも、わたしはあれを2台購入し、両方が壊れるまで10年以上も使い続けました。ですが、GUIをのせた後継機種は買いませんでした。設計思想に不透明さを感じたからです。

思想を持った製品は、ユーザの「好き嫌い」が強く出ることが、たぶんもう一つの特徴なのでしょう。逆に言えば、あらゆることに優等生的で八方美人な製品には、思想を感じられないのです。だから、設計思想とは、ある意味で『戦略』にも似ています。戦略とは賭けである、無駄な戦いを略すことである、と前にも書きましたが、それはつまり「何を捨てるか決める」ことだからです。

思想がなくても人は生きていけます。でも、混迷を打破して人をリードする力強さは、生まれ得ません。どうかKさんには、皆が納得のいくシステムの設計思想を作り上げていただきたいと願う次第です。

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耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い (2012/02/07)

先日、PM学会の報告を読んでいたら、秋季研究発表大会でなんと「論語」に関するキーノート・スピーチがあり、その場で参加者全員による論語の素読を行った、と書いてあった。たしかに「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」とか「徳は孤ならず、必ず隣あり」とか、論語はなかなか良いことが書いてある(と、いまさらわたしが指摘するのもおかしいが)。その報告には、最後に質問として、「論語の意味が分からなくても、素読をすると心に響くのはなぜか」との問いが発せられた、とある。これは、なかなか意味深長なことだと思われる。

私たちは言語の意味が正確にわからないにもかかわらず、なぜか心の内に何かを感じる経験をすることがある。好ましいと思ったり、感心したりする。論語以外でも、般若心経など仏教のお経もそうだろう。日本仏教では不思議なことにお経を直接日本語訳にせず、中国語に翻訳したものを、古い日本風の奇妙な発音で音読することになっている。聞いてるだけでは誰も意味がわからない。それでも皆納得して聞いているのである。さらに別の例を挙げるなら、カトリック教会は20世紀の半ばまで、ミサで唱える通常のお祈りの文句はすべてラテン語で唱えるしきたりだった。それでも信者たちは敬虔な気持ちで頭を垂れていたはずだ。

なあに、それは宗教だから、聞く前からありがたいと思っているのさ、と反論されるかもしれない。それでは、自分がよく聴き取れない外国語の歌を聞いて、好きになったことはないだろうか。意味のわからぬ音を、口真似して歌ったことはないだろうか。言葉の機能は意味を伝えることにある。にもかかわらず、わたしたちは言葉の意味だけに反応する訳ではない。なぜ、わたしたちは意味がぼんやりとしか分からない音の並びに、感情を動かされるのだろうか。

それは、そこに声とリズムがあるからであろう。わたしたちは、声とリズムに身体の内側が反応するように、できている。声とリズムとは、即ち、呼吸する息だ。私たち人類は集団生活をする動物として、他者の息を感じとり同調する本能を持っているのかもしれない。

このことは、逆に自分に対するインパクトを強める方法として使うことができる。つまり、何かを心に刻みたかったらそれを声に出して言ってみるのである。言葉や文章をよく記憶したければ、自分の声に出して言ってみる。

私は大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるとき、プロジェクトの三大制約要因として、スコープ、コスト、スケジュールのいわゆる「鉄の三角形」を説明してみるのだが、当然ながらこんな抽象概念は学生の頭の中をするすると右から左に抜けていってしまう。そこであえて皆に大きな声で「スコープ、コスト、スケジュール」と三回くらい大声で復唱させてみる。彼らは(僕らは中学生じゃないよ)という顔つきをするのだが、ミニテストで調べてみると、明らかに頭に残るのである。いずれ卒業して仕事につき、何年かしたのちに、ふと「そうか。この三つはつながっていやがる!」と体得する日がくるかもしれない。

音が先にあってそれが言葉になり、言葉がやがて体感になる。順序が逆のようだが、私たちは本当はこうして学んでいくのである。何か身につけるためには、それをからだの動きと感情的な体験として、繰り返し繰り返しやらなければならない。よく使うたとえだが、逆上がりの方法を本でよんだからといって、それで逆上がりが出来るようになるだろうか。目で読んで覚えただけでは、ひととき頭の中にとどまるだけだ。

もう一つ別の例を出そう。「指差し確認」というのをご存知だろうか。工場の製造現場や物流現場などで、目の前にあるものを手で指差し、声に出して呼んで確認する。電車の車掌さんが駅で声を出しながら確認しているの見た人もいるだろう。信号よし、ドアよし、と言った具合だ。ある西洋人が製造現場でこれを見て、人間をロボットのように扱っていると批評したことがあった。だがそれは間違っていると思う。本当にロボットならば指差し確認などいらない。人間だからこそ、手を振り声に出す必要があるのだ。

私はこれを日常生活でも使っている。みなさんは家を出た後で、さてドアをちゃんと閉めたか、鍵は閉めたか、ガスの火は消したか、不安になったことはないだろうか。私は家をでる時に、「正面の窓よし、左の窓良し、電気よし、ガスよし」、と指差し確認をして出かけることにしている。これは余計な不安を減らすためにとても有効な方法だと思う。耳は眼よりも聡く、からだは頭よりも賢いのだ。

私たち日本人は、西洋近代文明に準じた教育を受け、西洋近代文明を真似してビジネスを回している。もちろん、西洋文明には優れた特質や美点がたくさんあるからそうしている訳だ。ただ西洋近代文明にはひとつだけ困った点がある。それは、頭でっかち、という事である。言葉を重んじて、からだを軽く見る事である。身体は精神に従い、精神とは言葉であると、彼らはなぜか強く信じている。

確かにある局面ではそうだろう。私は自分の意志でからだを動かし、自分の言葉で考えを述べる。しかし意思によらず行なってる事だって沢山あるのだ。例えば誰か、自分の意思で心臓の鼓動をいったん止めてみたり、あるいは胃腸の動きを早くしたりする事ができるだろうか。あるいは誰か、意識的に眠ろうとすることができるだろうか。そもそも眠っている間は、自分の意識などないわけである。人は自分自身のからだでさえ、自分の意識や合理性だけで動かす事はできない。

身体というのはある意味正直である。眠くなれば眠り、眠りが足りれば目覚める。腹が減れば何か食べるが、満ち足りたらその先は食べたくなくなる。身体的な欲求というものには自ずから限度があるのである。

困った事に精神的な欲求には限度がない。かつて養老孟司は、金銭欲とは欲望に関する欲望であると喝破した。何かを所有したいという物的欲求は、それを手に入れれば一応収まる。しかし金銭はあらゆるものを手に入れるための手段だから、金銭欲には際限がなくなるのである。すべての人が己れの欲望に従って行動すれば、市場の見えざる手を通じて、世界はより効率的になるはずだ、という今日のグローバリズムの思想に比べれば、身体はなんと慎ましく、かしこいことか。

わたしは、「頭が良い」と言われるよりも、「賢い人だ」と言われたいと思う。賢さとは、単に頭脳だけの事ではない。身体と精神がちゃんとバランスをとって、統一されている状態を指している。そうなって初めて、人は欲望の奴隷の状態から脱出できるのだろう。もちろん、わたし自身にとって、賢さへの道はまだまだ遠い(頭はだんだんわるくなりつつあるが)。ただ、そのためには、わたしはからだの声にもっと耳を澄ます必要がある、と感じるのである。

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