耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い (2012/02/07)
2年後の日本を予測する (2012/01/09)
クリスマス・メッセージ: 地には平和を (2011/12/26)
問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推 (2011/11/10)
失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」(2011/09/18)
埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか (2011/09/10)
ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵 (2011/09/03)
ヒノモト家の人々 − マクロ経済学的素描 (2011/07/11)
今はまだ鎮魂の歌をうたえ (2011/04/26)
「正解のない問題」を考える能力 (2011/04/10)
試験は誰の責任か − 人材のサプライチェーンマネジメント再考(2011/03/05)
新しい販売マネジメント思想こそ、競争力再生の要点である (2010/11/21)
見えないパワーシフト − 生産から販売へ (2010/11/14)
人材のサプライチェーンを正すには (2010/10/16)
組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾 (2010/09/23)
組織のピラミッドはなぜ崩壊したか (2010/09/16)
あなたの上司はなぜバカなのか? − 矛盾したルールにしばられる (2010/07/27)
マネジメントにはテクノロジーがある (20910/07/13)
豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ (2010/07/06)
桜の園、または道具としての組織論について (201004/14)
専門化と総合 − 組織戦略の二つの方法 (2010/04/07)
超入門・問題解決力 − 問題とは何か、課題とはどう違うか (2010/02/19)
時間の中に生きる(2010/01/04)
超入門・ビジネス英語 (2) 発音と息と意思疎通 (2009/08/02)
超入門・ビジネス英語 (2009/07/26)
目標、計画、ターゲット(3)−共通言語をつくろう (2009/06/17)
計画の二重帳簿はなぜ発生するか − 目標、計画、ターゲット(2) (2009/06/09)
目標、計画、ターゲット (2009/06/02)
情報をデータにおとし込む (2009/03/15)
データを情報に変える (2009/02/15)
考えない方法 (2008/12/15)
メーラーを閉じろ (2008/10/18)
究極の管理学とは何か (2008/06/11)
課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)
課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)
頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)
ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)
睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)
睡眠時間の必要 (2007/08/06)
心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)
赤信号をわたる国 (2007/02/25)
なぜ信号機が必要か (2007/02/04)
Christmasメッセージ −−今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2) (2006/11/10)
合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む (2006/10/29)
ホワイトボードの謎 − 在庫の「見える化」の効用 (2006/09/12)
科学の子 (2006/06/04)
必要な人はいつもたった一人しかいない − その原因と帰結 (2006/04/01)
必要な人はいつもたった一人しかいない (2006/03/06)
Chirstmas メッセージ−−若さと成熟 (2005/12/22)
システムとは何だろうか? (2005/11/26)
頭の良いおバカさんたち (2005/10/23)
スケールアップの法則 (2005/09/29)
モノを買うのか、機能を買うのか (2005/07/21)
決めない人々 (2005/06/21)
英語のLetterとSpirit (2005/03/27)
理系でもなく文系でもない (2005/02/06)
Christmasメッセージ−−障害者とともに暮らす社会を (2004/12/24)
仮説検証のトレーニング (2004/11/06)
静寂の価値 (2004/08/20)
「わかる」ことと「知る」こと (2004/07/06)
SCMにおける意志決定のパラドックス(2)−−「合理的な」決定は可能か (2004/04/18)
SCMにおける意志決定のパラドックス (2004/04/11)
二重貨幣を空想する (2004/03/18)
システムが崩壊するとき (2004/02/06)
一点集中型アプローチの限界 (2003/11/04)
近似値としてのCoreaとJapon (2003/09/24)
ル・コルビュジェのサヴォア邸と自由度の難問 (2003/08/14)
さようなら、留学生相談室。(2003/07/16)
論理的だが、システマティックでない人 (2003/04/18)
リスクにつける薬 (2003/03/19)
資格はユーザーのためにある (2003/01/21)
誰のための資格? (2003/01/13)
海の向こうで戦争がはじまる (2002/12/05)
「英語」の向こう側 (2002/09/22)
ベネズエラの「痛みを伴う」改革 (2002/5/06)
「不況」の根源的問題(2002/3/18)
ぼくらに英語はわからない(2002/1/28)
カウンターベイリング・パワー (2001/10/13)
ANAに乗るおじさんの日記 (2001/7/23)
特別な我が社(2001/2/03)
e爺なる人々(2001/1/10)
耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い
(2012/02/07)![]()
先日、PM学会の報告を読んでいたら、秋季研究発表大会でなんと「論語」に関するキーノート・スピーチがあり、その場で参加者全員による論語の素読を行った、と書いてあった。たしかに「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」とか「徳は孤ならず、必ず隣あり」とか、論語はなかなか良いことが書いてある(と、いまさらわたしが指摘するのもおかしいが)。その報告には、最後に質問として、「論語の意味が分からなくても、素読をすると心に響くのはなぜか」との問いが発せられた、とある。これは、なかなか意味深長なことだと思われる。
私たちは言語の意味が正確にわからないにもかかわらず、なぜか心の内に何かを感じる経験をすることがある。好ましいと思ったり、感心したりする。論語以外でも、般若心経など仏教のお経もそうだろう。日本仏教では不思議なことにお経を直接日本語訳にせず、中国語に翻訳したものを、古い日本風の奇妙な発音で音読することになっている。聞いてるだけでは誰も意味がわからない。それでも皆納得して聞いているのである。さらに別の例を挙げるなら、カトリック教会は20世紀の半ばまで、ミサで唱える通常のお祈りの文句はすべてラテン語で唱えるしきたりだった。それでも信者たちは敬虔な気持ちで頭を垂れていたはずだ。
なあに、それは宗教だから、聞く前からありがたいと思っているのさ、と反論されるかもしれない。それでは、自分がよく聴き取れない外国語の歌を聞いて、好きになったことはないだろうか。意味のわからぬ音を、口真似して歌ったことはないだろうか。言葉の機能は意味を伝えることにある。にもかかわらず、わたしたちは言葉の意味だけに反応する訳ではない。なぜ、わたしたちは意味がぼんやりとしか分からない音の並びに、感情を動かされるのだろうか。
それは、そこに声とリズムがあるからであろう。わたしたちは、声とリズムに身体の内側が反応するように、できている。声とリズムとは、即ち、呼吸する息だ。私たち人類は集団生活をする動物として、他者の息を感じとり同調する本能を持っているのかもしれない。
このことは、逆に自分に対するインパクトを強める方法として使うことができる。つまり、何かを心に刻みたかったらそれを声に出して言ってみるのである。言葉や文章をよく記憶したければ、自分の声に出して言ってみる。
私は大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるとき、プロジェクトの三大制約要因として、スコープ、コスト、スケジュールのいわゆる「鉄の三角形」を説明してみるのだが、当然ながらこんな抽象概念は学生の頭の中をするすると右から左に抜けていってしまう。そこであえて皆に大きな声で「スコープ、コスト、スケジュール」と三回くらい大声で復唱させてみる。彼らは(僕らは中学生じゃないよ)という顔つきをするのだが、ミニテストで調べてみると、明らかに頭に残るのである。いずれ卒業して仕事につき、何年かしたのちに、ふと「そうか。この三つはつながっていやがる!」と体得する日がくるかもしれない。
音が先にあってそれが言葉になり、言葉がやがて体感になる。順序が逆のようだが、私たちは本当はこうして学んでいくのである。何か身につけるためには、それをからだの動きと感情的な体験として、繰り返し繰り返しやらなければならない。よく使うたとえだが、逆上がりの方法を本でよんだからといって、それで逆上がりが出来るようになるだろうか。目で読んで覚えただけでは、ひととき頭の中にとどまるだけだ。
もう一つ別の例を出そう。「指差し確認」というのをご存知だろうか。工場の製造現場や物流現場などで、目の前にあるものを手で指差し、声に出して呼んで確認する。電車の車掌さんが駅で声を出しながら確認しているの見た人もいるだろう。信号よし、ドアよし、と言った具合だ。ある西洋人が製造現場でこれを見て、人間をロボットのように扱っていると批評したことがあった。だがそれは間違っていると思う。本当にロボットならば指差し確認などいらない。人間だからこそ、手を振り声に出す必要があるのだ。
私はこれを日常生活でも使っている。みなさんは家を出た後で、さてドアをちゃんと閉めたか、鍵は閉めたか、ガスの火は消したか、不安になったことはないだろうか。私は家をでる時に、「正面の窓よし、左の窓良し、電気よし、ガスよし」、と指差し確認をして出かけることにしている。これは余計な不安を減らすためにとても有効な方法だと思う。耳は眼よりも聡く、からだは頭よりも賢いのだ。
私たち日本人は、西洋近代文明に準じた教育を受け、西洋近代文明を真似してビジネスを回している。もちろん、西洋文明には優れた特質や美点がたくさんあるからそうしている訳だ。ただ西洋近代文明にはひとつだけ困った点がある。それは、頭でっかち、という事である。言葉を重んじて、からだを軽く見る事である。身体は精神に従い、精神とは言葉であると、彼らはなぜか強く信じている。
確かにある局面ではそうだろう。私は自分の意志でからだを動かし、自分の言葉で考えを述べる。しかし意思によらず行なってる事だって沢山あるのだ。例えば誰か、自分の意思で心臓の鼓動をいったん止めてみたり、あるいは胃腸の動きを早くしたりする事ができるだろうか。あるいは誰か、意識的に眠ろうとすることができるだろうか。そもそも眠っている間は、自分の意識などないわけである。人は自分自身のからだでさえ、自分の意識や合理性だけで動かす事はできない。
身体というのはある意味正直である。眠くなれば眠り、眠りが足りれば目覚める。腹が減れば何か食べるが、満ち足りたらその先は食べたくなくなる。身体的な欲求というものには自ずから限度があるのである。
困った事に精神的な欲求には限度がない。かつて養老孟司は、金銭欲とは欲望に関する欲望であると喝破した。何かを所有したいという物的欲求は、それを手に入れれば一応収まる。しかし金銭はあらゆるものを手に入れるための手段だから、金銭欲には際限がなくなるのである。すべての人が己れの欲望に従って行動すれば、市場の見えざる手を通じて、世界はより効率的になるはずだ、という今日のグローバリズムの思想に比べれば、身体はなんと慎ましく、かしこいことか。
わたしは、「頭が良い」と言われるよりも、「賢い人だ」と言われたいと思う。賢さとは、単に頭脳だけの事ではない。身体と精神がちゃんとバランスをとって、統一されている状態を指している。そうなって初めて、人は欲望の奴隷の状態から脱出できるのだろう。もちろん、わたし自身にとって、賢さへの道はまだまだ遠い(頭はだんだんわるくなりつつあるが)。ただ、そのためには、わたしはからだの声にもっと耳を澄ます必要がある、と感じるのである。
久しぶりに恩師の家に皆で集まった。その時あがった話題の一つが、2年後の日本はどうなっているかということだった。いわば未来予測である。この種のマクロの未来予測はなかなか難しい。考えるべき事柄やパラメータが多岐にわたって、どれに焦点を当てるかが問題だからだ。そもそも、未来は科学的に予測できるものなのだろうか?
誰もが気になるのは景気の動向だろう。電力価格の高騰による製造業の海外移転と空洞化を心配した人もいた。原発の事故を念頭においてのことだったかもしれない。しかしわたしは疑わしいと思った。というのも、一般に製造業の製造原価において、電力料金の占める比率はかなり小さいからだ。化学プラントなどのように電力消費の大きい産業は、すでに自ら発電装置をつくるなどして自衛している。
もしも製造業の空洞化が進行するとしたら、それはむしろ円高のためだろう。過去10年間の工場の海外移転はもっぱらこの理由によるものだった。では、この円高は今後2年間で少しは解消されるだろうか。相場の予測は難しいが、逆にこう問い直してみてもいい。今後2年間で主要な基軸通貨であるドルとユーロは大きく上がるだろうか?
残念ながら今の状況を見る限り、難しいと思われる。現在のユーロの問題は、過去10年間のバブルのつけを払っているわけだ。その後始末はおそらく1年や2年ではきれいに終わるまい。一方、米国はどうか。確かに米国経済はいまだに世界一の規模を誇っているが、すでに国債の格付けはAAAから転落し、その歩みはもはや活力よりも威厳を示すものでしかない。ドルの価値が急上昇する事態は、いささか考えにくいようだ。つまり、今後2年間で、(たとえば中国の人民元が上がることはありうるだろうが)ドルやユーロが急上昇して大きく円安に動くことは、残念ながらないだろうと思われる。
それでは製造業の空洞化はますます進行し、日本経済の活力はもっと損なわれるのだろうか。それはいささか早計に過ぎる。日本のGDPに占める製造業の比率は、今や2割以下に過ぎないからだ。
製造業というのは「モノ」の形で付加価値を得る産業のことである。モノはストックしたり、海を越えて運んだりすることができる。ところがサービス業は違う。このサイトでも繰り返し述べたように、サービス業というのはリソースを提供して付加価値を作る産業だ。リソースというのは人的資源だったり物的資源だったりするが、どちらも現場性の強いものである。サービスの特徴は在庫が利かないことで、つくり出した現場で消費するしかない。いいかえるならば、サービスというのは海外で作って国内に持ち込むことが難しいものなのだ。だから現在の日本経済の主軸である第三次産業が空洞化することはほぼありえないだろう。
念のために言うが、日本経済が低調といっても、それは家計と中小零細企業が苦しいのであって、大企業の内部留保は意外にもかなりの水準を保っている。問題はそうした大企業がため込んだ何10兆円ものお金を、国内に再投資しないことである。国内に工場を作ったり、店舗を作ったりすれば必然的に雇用を生む。それをしないで海外に投資したり(鉱物資源の場合などは仕方がないが)、外国債券を買ったりしているから、国内の景気が上向かないのである。景気が良くないために国内外の投資を手控える。その結果ますます仕事が生まれなくなり、消費が落ち込む。一種のダウンスパイラルだ。
それにしても、製造業が雇用の吸収力を失いつつある現在、若い人はどこに働き口を見つけたらいいだろうか。この1、2年で目立つ傾向は農業への回帰である。大学の農学部への受験者が急増しているし、アグリビジネスの関心も高い。この傾向は今後も当面続くに違いない。広大な耕作放棄地があり、農業法人の組織化も高まっている。日本にはまだ古臭い規制や組織や利権だ残っているため、若い人たちが参入し、成功するまでにはまだ多少の時間がかかるだろうが。
農業と同じように、職人的な手仕事への回帰の流れも続くに違いない。日本の各種専門学校は世界的にみても、実はかなり高い水準の教育をしている。さらに大学を出たって手工業の仕事についてもいいじゃないかと思う人が増えている。私もそう思う。工場で高い品質を支えてきた高卒の人たちがいなくなる代わりに、より高い教育を受けた人たちが旋盤を回すようになるのだ。大量生産から個別生産への変化に、ちょうど付合している。誰もがネクタイを締めてホワイトカラーを目指す時代は終わりになるのだろう。
もちろん、こうしたことはすべて、人々や組織が合理的に振る舞ったら、という前提に立った予測である。問題はその前提が成り立つかどうかだ。
というのは2012年の現在、世界は政治の季節に入っているからだ。アラブの春に始まる中東世界の混乱、欧州ユーロ圏における分裂の危機、そしてアメリカの大統領選挙。東アジアでも朝鮮半島に軋みの音が聞こえる。
政治の季節というのは、人々が党派に分かれて権力争いをする時である。言い換えるならば、人々が目的合理性よりも感情に動かされる時代である。日本もこの調子で失業率が高くなっていけば、政治的な感情の波にのまれていくだろう。おそらく現在の二大政党制の枠組みを破綻して、ポピュリズムが政治の中心を牛耳ることになるかもしれれない。そうなれば、政策は安定よりもドラマティックな変化を志向し、改善よりも破壊的な出直しが好まれるであろう。あまり楽しい予想ではないが、そうなる可能性は十分にある。
それを防ぐにはどうしたら良いか。意外に思われるかもしれないが、そのためには皆が、リスクのある将来を予見することである。長らく私たちの社会は、安定志向で動いていた。安定志向=『安全第一主義』は、リスキーな未来予測を回避する思考方法である。結果として、多くの組織では変化のためのチャンスに見過ごしてきてしまった。現在の沈滞と混沌は安定志向がもたらしたものだ。
あるべき姿を予見してそこから逸脱する可能性をリスクとして考える。リスクの裏側には、チャンスがある。チャンスにかけて決断する。そしてその決断が正しかったことを証明できるように努力するのである。これが未来予測の実践的な効果だ。
あるべき姿を考えるためには価値観が必要になる。だから未来予測は科学ではありえない。未来は予測するのではなく作り出すべきものだ。それは、マネジメント的な技術なのである。
クリスマス・メッセージ: 地には平和を (2011/12/26)
Merry Christmas!
一日の始まりをどこにとるかは、地域や分野によって様々だ。わたしたちは現在、太陽が南中する正午のちょうど裏側、深夜に一日の始まりをおいているが、このような習慣は各戸に時計があるのが当たり前になってきた近世以降のものに違いあるまい。日時計や水時計しかなかった中世以前にとって、深夜に一日の切り替わり点を置くのは不便だったはずだ。だから、日の出や日没のように、誰の目にも明瞭な気象上のタイミングを選ぶのが自然だろう。
古代の中東・パレスチナでは、一日の始まりは日の出ではなく日没だった。夕暮れになると新しい日が始まるというのは、わたし達の習慣からすると奇妙な感じがするが、これは慣れの問題なのだろう。だからクリスマス・イヴというのは、まさにクリスマス(降誕祭)の日の始まりであって、祝うのは当然なのだ。クリスマスに限らず、大晦日の夜をNew Year Eveと呼んだり、そのほか何かにつけ前夜祭を祝う習慣が西洋人にあるが、これは一日の始まりを日没とした中東の伝統を引きずっているわけだ。
一日の始まりもさることながら、新年の始まりのタイミングを今のような、冬の途中に置く理由が何なのか、わたしは時々不思議に思う。太陽暦ならいっそのこと冬至に合わせればよいと思うのだが。ちなみに1月1日もキリスト教では祝日に当たるが(だから西欧諸国ではその日だけは仕事もお休みだが)、わざわざそれを選んで新年にしたのだろうか。南半球では真夏の直前に新年が来るわけだが、これもどういう気分なのか、うまく想像できない。
今年は家族の事情のために、年賀状ではなく欠礼状を用意する状況になった。それはともかく、欠礼状は文面に悩む必要があまりない。しかし知人友人には、賀状をどういう文面にしようかちょっと迷っている、という人が多い。なんだか単純に"謹賀新年"でもないしなあ、というのである。その気持ちはよく分かる。あれほどひどい災害のあった年を過ごし、新しい年はせめてもっと良い事があるように祈るのは当然の気持ちだ。しかし、謹賀新年だけでは、気持ちに切実感が足らないのである。
今年1年のことを思い出そうとすると、たしかに3月のあたりで記憶がぽっきり折れて、時間が続いていないように感じる。むろん、日誌を読み返せばたしかに日々の記録はとってある。だが、あの震災と津波と原発事故の恐ろしい日に、もう日本がすっかり変わってしまったのだと感じた人は多かったはずだ。ちなみに、わたし自身がこの1年間、何をどう考え、感じてきたのかを、このサイトに書いた記事からたどって振り返ってみると、こうなる。
1月の最初は3つのリーダシップ・タイプを論じて始まったのだった。それから、仕事の最小単位であるアクティビティの構造を理解するレクチャー。そしてビジネスにおける「政治的」であることの意味を考える話。これが2月末だった。ついで入学試験の不正に絡んで、人材のサプライチェーンの話題。
ここで震災が起きたのである。「休めない人々」は翌3月12日だった。それからあの馬鹿げた「計画停電」の日々。それを批判するため「計画技術者の目から見た『計画停電』」を書いた。さらに「危機における技術のマネジメントとは」「安全第一とはどういう意味か」あたりまでは、一般論として名指しは避けたが、どこの誰のことを念頭に置いて書いたか、読まれた方にはおわかりだと思う。
「『正解のない問題』を考える能力」は多くの方の目に触れた記事だった。ここら辺からわたしは、現代日本の社会におけるマネジメント能力の貧困に目を向けるテーマを多く選ぶようになった。「アクティビティの問題を解決する二つの方法」「『責任』には三つの意味がある」「ヒノモト家の人々 − マクロ経済学的素描」「サービス、『感情労働』、そしてプロジェクト・マネジメント」などがそれである。しかし、こういう記事だけでは堅苦しくなってしまう。そこであえて若手向きに「仕事のレポートはこう書こう」や「新任リーダー学・超入門」シリーズをはさんだりもしたのである。
首都圏における生活が震災の直接の影響を抜けて、なんとか「日常生活」化してきたのは、暑い夏の頃からではなかったか。わたしも、自身が主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」をスケジューリング学会で立ち上げ、そのほか講演依頼が9月10月にいくつか重なったりした関係上、なんだか多忙な秋だった。その講演テーマがリスクと問題解決に関わるテーマだった関係もあって、撤退に関する「ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵」「埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか」「失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」」のシリーズを書いたりした。
「そんなものを戦略というのですか?」も、多くの読者を集めた記事だった。どうも、ネットの世界では『戦略』というキーワードが人気らしい。わたし自身は、あまり積極的に多用したい言葉ではない。ところがどういう巡り合わせか、11月から経営企画部門に移ることになり、いやでも毎日その言葉に直面することになってしまった。
こうしてみると、わたしのこの1年間のテーマは、マネジメントとリスクとの二つの焦点をめぐって楕円のように周回していたような気がする。
それにしても、ちょうど1年前の12月に、わたしはチュニジアの首都チュニスに日本アラブ経済フォーラム出席のため出張していたのだった。その時は、まさか29年間続いていた長期政権が、その直後わずか29日間で崩壊することになるとは思いもしなかった。わたしの観察眼のなさと言ってもいいが、あのような政治的地滑りを予見できた専門家が、他にどれだけ居ただろうか。小国チュニジアで起きた地殻変動は、津波のようにアラブ世界を襲ったのだった。
そのような潮流は時を同じくして、世界のあちこちで発生している。この1年間、ひどい変動に揉まれなかった国の方が少なかったくらいだろう。世界は今、政治の季節に移ろうとしているように見える。経済の季節が、ここしばらくは続いていた。経済が穏やかに安定している時には、政治は動きを止めていく。しかしその淀みの中でいつの間にか不条理と不満が発酵していく。そして経済が一旦つまずくと、民意が沸騰して政治の時代に表裏反転してしまう。
経済の季節は、ルールの枠の中で競い合う経済合理性の、言いかえれば計算づくの理性の時である。そこでは予測が成り立ちやすい。あいにく、政治の季節はルールを作るための闘争の時であり、感情の季節になる。予見しがたい、リスクの大きな時代と言ってもいい。
そうした時を生き抜くために必要なことは、たぶん二つなのだろう。一つは、変化に機敏に対応できる『勇気』を持つこと、もう一つは、ゆるがぬ道しるべとなる『価値観』を持つこと、なのではないか。それはつまり、今この瞬間を大切に生きろ、ということかもしれない。二千年前にパレスチナで生まれ、激動の時代を走り抜けた賢者も言ったというではないか、明日なにを食べ何を着ようかと思い煩うなかれ、一日の悩みは一日にして足れり、と。
あの恐ろしい災害の後の時代を、わたし達は生きている。生き残ったわたし達に託された荷物は何だったのか、新年に移り変わるひととき静かな今の季節に、もう一度考えなくてはならない。そのためにも、ひととき、この地上が平和でありますように。
問題解決のための二つのキーワード: 抽象化と類推 (2011/11/10)
生産管理であれロジェクト・マネジメントであれ、およそマネジメントと名のつく行為には『問題解決』がつきものである。どんなに精緻な計画を立てたって、実行段階に入れば、予期せぬいろいろな問題が生じてくる。物事が全て計画通りにいくならば、そもそもマネジメントなど不要であろう。だれかがメクラ判を自動的に押していればよい。マネジメントなる職務が必要になるのは、遂行途上で解決しなければならない問題が生じるからだ。
『問題』とは、自分達が(意識的であれ無意識にであれ)期待していた状況と、現実との間に生じるギャップのことを指す。これに対して、『課題』とは、あるべき姿と、現実のあるがままの姿のギャップをいう。問題が受動的に発生してくるのに対し、課題は能動的に作り出すものだ。ここで取り上げたいのは、問題の方である。これは、
問題=(期待)−(現実)
という式に書くことができる。とうぜん自分達が抱いていた期待が高ければ高いほど、問題はより大きくなる。また、最初に抱いた期待が荒唐無稽であったり、あるいは漠然と無意識のまま願望だけをもってスタートしたりすれば、普通の状況でさえ、大きな問題に感じられる。つまり、問題の半分は、自分の側(の期待のあり方)にあるのである。では、問題解決は、どのようなプロセスで進めるべきだろうか。少なくとも、PDCAサイクルでないことだけは確かだろう。問題をPlanする人間など、いないからである。だとすると、第一歩は、問題の発見でなければならない。現実を見て、それが自分達の期待と異なっていることを見いだす。「現実を見て」とかるく書いたが、チームでやる仕事ではけっして簡単ではない。仕事の状況をモニタリングし把握する仕組みがなければ、問題も見えてこない。おまけに、現実の組織の中では、しばしば“問題の抱え込み”も起きる。担当者が自分一人で抱え込んで、チームに報告してこない現象だ(これは根の深い事象なので、いずれ項をあらためて別に論じたい)。いずれにせよ、「問題の発生にすぐ気づく」のは、優秀なマネジメント能力の証左である。
さて、問題に気づいたら、その問題構造を掘り下げて、原因を見極める必要がある。原因分析である。これも単純そうに見えるが、やってみると案外難しい。最近は「なぜなぜ5回」が喧伝されているが、これなど注意して使わないと、とんでもなく筋違いな“原因”を摘発することになる。たとえば品質不良の原因をさぐっていくと、→ローコストな外注先の採用 →調達予算の不足 →元々が安値受注だった →不況が続いているため、といった調子でいつの間にか、誰もすぐには解決できない「不況」が根本原因になってしまったりする。これではマネジメントの役には立たない。問題構造の掘り下げには、案外きちんとしたスキルが必要とされるのである。
つぎに、解決策を考えるステップが来る。つまり「問題を解く」段階だ。ここが一番大事なことは言うまでもない。誰かが過去、同じような問題を解いていたら、それに習うことが出来る。だが多くの場合は、ここで何か新しい方策を考える必要が生じる。つまり、一種の発明である。
世間では、問題に気づく段階では『見える化』を、また問題構造の掘り下げ段階では『なぜなぜ5回』を頼りにするケースをよく見かける。どちらもトヨタの造語だ。ところが、解決策を考える段階については、(少なくともわたしは)手頃なトヨタ用語を思いつかない。たぶん世間も、同様であろう。
では、解決策の発明の段階では、どうすべきか。ここでわたしは、別の用語をお教えしたい。それは『抽象化』と『類推』である。問題を抽象化し、その上で類推をつかって、解決策を得る。これがわたしのお薦めの方法である。
この二つのキーワードを知ったのは、学生時代のことだった。小さな本屋で立ち読みした、新書版の本の中で見つけたのである。問題解決と発明がテーマの本だった。その著者名もタイトルも忘れてしまったので、今は探しようもない。しかし、その表紙の写真は決して忘れないだろう。表紙には、水平な板の上に卵を立てた写真が載っていた。ただしコロンブスのように、下側をつぶして立てたのではない。なんと、釘を打って立てていたのだ。五寸釘が、卵の上下を貫通して、下の板に打ち付けられている。おかげで卵はしっかり立っている。そういう写真だった。
序文を読み、目次を読んで、その著者の主張の大筋はわかった。問題に直面したときは、その対象固有の事象に惑わされがちだ。そこで一歩問題から離れて、『抽象化』して考える。卵を立てたい。しかし、卵は丸くて細長く、不安定だ。その時には、「卵を立てる」問題から少し離れて、「モノを立てる」という抽象化した問題を考えてみる。
つぎに必要なのは『類推』の作用だ。たとえば、細長いモノを立てる例は他にはないか。ある。たとえば木材だったら、釘を打つ、接着する、はめ込むなどの方法がある。傘を立てるなら、周囲にサポートを置く、あるいはポケット型の受け口を用意する方法がある、等々。そういう具合に、類推で「モノを立てる」いろいろな方法を思い出すのである。そこから、元の問題に適用可能な方策を見つければよい。事実、表紙の写真以外にも、卵を立てる方法を10個くらい、文中にイラストで紹介してあった。
(むろん、“卵を立てるのに道具を使うのはずるい”という反論もあるだろう。その時には、「道具を使わずにモノを自立させる」問題を考えればいいだけだ。しかし、“卵を立てろ”という元の問題に、本当にそんな制約条件があるかどうかは、不明である。解決する自分の側で勝手に−−無意識に−−制約条件をつけて考えている場合が、じつは多いのだ)
その著者によれば、『抽象化』と『類推』の、たった5文字の言葉から、解決策の発明のための知恵が豊かにわいてくるのだという。あいにくこの本は買い損なってしまったが、この二つのキーワードは、単純かつ鮮烈だったために、記憶に残った。そして、やっかいな問題を考えるたびに、「抽象化して」「類推で」考えるくせが身についた。
ともあれ、解決策さえ思いつけば、あとはそれを実行に移す段階になる。まあ、しばしば実行段階でも、こまかな「サブ問題」が生じてくるのだが、それは同じ手順でつぶしていくことになる。かくして、解決策を実行したら、あとは結果を検証する段階に到達する。
だが、これで問題解決は終わりではない。仕事全体が完了した時点で、今度は発生した問題をふりかえり、再発防止のための「学び」をしなくてはならない。これでようやく、問題解決プロセスの終了である。以上をまとめると、
(1) 問題に気づく
(2) 問題を掘り下げる
(3) 問題を解く
(4) 解決策を実行する
(5) 結果を確かめる
(6) 問題に学ぶ
の6つのステップからなる行為だと言うことが分かるだろう。そして一番重要な「問題を解く」の段階では、『抽象化』と『類推』のキーワードをつかって、いきいきと頭を働かせることが必要なのである。(参考エントリ) 「生産システムの性能を測る」 (この中で、抽象化と類推の一例を挙げています)
失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー「5」 (2011/09/18)
物事はなかなか自分の願うとおりには行かない−−これは、たいていの人に共通の感覚だろう。「よかれ」と思ってやったことであれ、自信に満ちた賭けであれ、結果に裏切られるのはしばしばだ。気張って受けた試験は落ち、やっと得た職場は退屈で、意中の人には見事にふられ、生まれた子どもの性別は期待に反し、買った株や宝くじでも儲けたためしがない。これが普通の人生で、全ての賭に勝ち続けている人にはまだ、お目にかかったことがない。それでもわたし達は「次には良いことがあるかもしれない」という希望をかかえて、おぼつかない道を歩いていくのだ。
もっとも、負けず嫌いの人や夢を強く抱く人の中には、同じ失敗の無限ループにはまりこんでしまう場合がある。そこで『ストップ・ロス・オーダー』という撤退のための知恵が必要になるのだが、にもかかわらず、経済学でいう埋没コストの原理を持ち込むと、かえってループから抜け出すことができなくなってしまうことを、前回書いた。
このことを分かりやすく説明するために、こんな賭けの例を考えてほしい。ここに白と黒の碁石を入れた袋がある。あなたは、100円払うと、袋の中から碁石を1個、取り出すことができる。そしてもし、それが白石だったら、300円をもらうことができる。もし、黒石だったら何ももらえない。この賭けは、黒が出続けている間は何度でもトライできるが、白が出たら賞金が出て、その回でおしまいになる。ちなみに、取りだした石は袋に戻さないが、袋は十分大きいので、何が出ようと次の確率にはまず影響しない。
さて、あなたはトライしてみるが、1回目はあいにく黒だった。2回目は・・残念ながら2回目も黒だった、としよう。すでに200円使ったことになる。あなたは、もう一度この賭けにトライするだろうか? あるいは、こう訊ねてもいい。あなたは、最大で何度までこの賭けを続けるだろうか? この先を読む前に、ちょっと考えてみてほしい。
ふつうは3回目くらいから、逡巡する人が出始める。4回、あるは5回でやめる人が多いが、10回という人もいて、わたしが聞いた中で最大は20回(!)という人がいた。この人は国際的に活躍しているビジネスマンで、さすがリスク・テイカーなんだなあ、と感心した。
この問いが難しいのは、実際に袋の中に入っている碁石の白と黒の比率が分からないからだ。普通だったら半々のはずのに、「当たったら300円」という賞金の出し方が怪しい。そう考える人も多いだろう。でも、それは胴元が必ず勝つ不正な賭けをやっているのでは、と疑うからで、胴元だって本当は知らないのかもしれない。
実際の比率がわからない場合、確率を考えるとしたら、場合の数が二つなのだから、他に根拠がない限り50%ずつと仮定するのが素直なやり方である。必要な費用Cが100、勝った場合の収入Sが300、失敗のリスク確率rが0.5だから、賭けの期待値は、(1-r)S - C = 300 x 0.5 - 100 = 50円のプラスということになる。あなたはすでに200円使ってしまった。でも、次の賭けの期待値は50円だ。だから3回目もトライして、200円のロスを少しでも解消したいと思うだろう。うまく白が出れば、差し引き200円儲かるから、いままでの分がチャラになる。でも、全く同じ論理で、n回続けて黒をひいても、n+1回目に賭けるのが合理的、ということになる。これが、無限ループの泥沼の理由だ。間違ってほしくないのだが、人は頭がわるいからというよりも、むしろ合理的だから同じような失敗を何度も繰り返すのである。
では、どうしたら良いのか。経済学におけるストップ・ロス・オーダーの研究から、何かヒントが見つかるのではないかと考えて、調べてみた。しかし、一応それなりに手を尽くして調べてみたつもりだが、あいにくはっきりした指針になるような論文は何も見つからなかった(むろん、わたしは経済学の専門家ではないから、有名な研究をすっぽり見落としている可能性もある。もし“それにはこの定理を使えば良いんだよ”と教えていただける専門の方がおられたら、ぜひご連絡いただきたい)。
しかたがないので、自分で考えることにした。上に述べたリワークのパラドックスを解消するためには、失敗のリスク確率rを、過去続けて失敗した経験に基づいて見直すしかないはずである。といっても、これを説明するとなると情報量基準だとか最尤モデルだとかの話をしなくてはならない。読者の皆さんはくわしい数式は興味がないだろうから、得られた結果だけ書こう。その答えはマジックナンバー「5」だ。もしあなたが、成功も失敗も半々だと信じる賭けに5回続けて失敗したら、もう、その確率は五分五分ではないと考え直した方がいい。その場合、成功の確率は、最善でも1/6以下と見るべきである。
先の碁石の賭けでいうならば、もし5回続けて黒をひいたら、もう黒と白の比率は半々ではないと考えるべきだ。白は、よくても6個に1個しかない。だとすると、次の回の期待値は、300 x (1/6) - 100 = -50 だから、もう手を出すべきではない。撤退の時期なのだ。
この考え方は、広く使える。何であれ、自分が五分五分と考えている期待が、5回続けて裏切られたら、確率はもう五分五分よりかなり低い(17%以下)と思った方がいい。むろんそれでも、成功時収入Sと費用Cの比が、S/C > 6 だったら、まだ続けてもよい。でも、その場合でも、使った費用の総額がSを超えた段階で、撤退するのをお勧めする。
前々回に書いた電車の例についていえば、わたしはこう考えた。「停止してしまった電車の運行は、15分くらいで半分は再開するようだ。だったら、15分 x 5 = 1時間15分は、このまま電車に座って復旧を待とう。それでも見込がなければ、別の手段を探すことに決める」 そして、その通りに実行した。結果がどうだったかよりも、こう決めたことで気持ちの落ち着きを取り戻せた事が、とても重要だったのだ。
ちなみに「15分で再開が半々」というのは、無論、主観的なものである。それでもいいのだ。そもそもわたし達が人生で直面する賭けのほとんどは、ただ一度のことで、「主観確率」しか立てようがない。それでも、繰り返し試行した結果としての「統計的確率」とどちらが説明力が強いかを比較検証することができる(数式的なことに興味のある方は、佐藤知一:「製品開発プロジェクトにおける継続と撤退の合理的基準」化学工学会第74年会発表(2009)を参照されたい)。
このマジックナンバーが気に入らない方は、ご自分で別の基準を立てることをお勧めする。それがどのような基準であれ、とにかく線引きをすることが大事なのだ。なぜなら、タイムリーな自発的撤退こそ、じつは「現実から学ぶ」ための最良の契機だからである。そして、だからこそ、難しい。でも、撤退をしなければ、どうなるか。その結果をわたし達は、あちこちの閑古鳥の鳴く地方空港を見て知っている。そして、どんな赤字の責任からも逃れ、うまく立ち回って昇進や栄転した人たちを。彼らは、一番大事な「学び」の機会を、社会から奪ってしまったのだ。
先日、ある小さな集まりに呼ばれていろいろお話しをした時、「佐藤さんがこれまでやって一番楽しかったプロジェクトは何ですか?」とたずねられた。そんな質問は考えた事もなかったが、これまで関わった百以上のプロジェクトの中から、その時まっ先に思い出したのは、ある国内向けの仕事と、南米での仕事の二つだった。どちらも10年以上前のものだが、そんなに楽しかったのかというと、じつはやっていた時は苦しくてならなかった。どちらも納期に遅れて客先には迷惑をかけ、片方では盛大な赤字を出して会社にも迷惑をかけた。
しかし、辛かった思い出も年月が経てば忘れる。いつまでも忘れないのは、そのプロジェクトで学んだことだ。度重なる失敗と思いもよらぬ外乱で、自分は優秀だとの思い込みは微塵に砕けたけれど、そのかわり痛い思いをした分、学ぶものも大きかった。それはその後の自分を変える契機にもなった。だから今では良い経験だったと思うのだ。全てに成功する人間はいない。ならばせめて、失敗から上手く学べるようになるためにも、きちんとした「撤退学」をつくるべきだと信じるのである。
埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか (2011/09/10)
前回は、落雷で止まってしまった電車の中で、再開を待ち続けるか別のルートを探しに行くべきか、という状況に絡めて「ストップ・ロス・オーダー」という概念を紹介した(「ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵」参照)。じつは、この言葉を知ったのは古いけれども、別に株式投資やFXをやる訳でもないわたしにとって、しばらくは縁の薄い概念だった。あらためてこの問題を本気で調べ始めるようになったのは、プロジェクトの撤退判断、すなわち『Go or no-go問題』を考えるようになってからである。
エンジニアリングや受託開発のSIerなど、受注型プロジェクトに主に従事している会社にとっては、プロジェクトの中断撤退判断など、通常は問題にならない。赤字を出そうが納期に遅れようが、歯を食いしばって何とか最後の納品までたどりつくのが当然の事だ、とみな信じている。なぜなら、納品できなければ支払も得られないからだ。仮に今、予算を100として実績コストは150使ってしまっていたとしても、なんとか納品して100の収入を得られれば、赤字は50にとどまる。これを、途中でバンザイしてしまって撤退したら、150全部が自分の持ち出しになってしまう勘定だ。いや、それ以前に、継続的なつきあいを大事にする日本の商慣習では、途中で逃げてしまったりしたら以後永久にその顧客から(下手をすればその業界全体から)出入り禁止になるだろう。
『Go or no-go問題』が大事になるのは、自発型のプロジェクト、とくに新製品開発のような、大きなコストがかかり、かつ失敗確率の高いプロジェクトである。医薬品企業においては、その業績自体が製品開発段階での『Go or no-go問題』の上手な判断に依存している、との研究もある(書評「不確実性のマネジメント」参照)。
もっと別の例を挙げれば、公共事業として行われる社会インフラ関連プロジェクトもそうだ。国内に数多く作られた地方空港、あるいは、一昨年来問題となっているダム建設プロジェクトなどである。一般にこの種の公共投資事業は長い年数がかかり、その間に経済環境等が変わってしまって、期待した効果が上がりそうもなくなることが、しばしばある。だが『no-go』の再判断が重要であるにもかかわらず、官僚機構の中では誰も、いったん走り出したプロジェクトを止められない。こうしてただでさえ不況なのに、さらに国や地方の借金が積み上がっていく。
『Go or no-go』の判断がうまくできないのは、“プログラム・マネジメントの不在”に根本的な責任がある。プログラムはプロジェクトの上位概念であり、プロジェクトの発進や、プロマネの任命や権限委譲、そして継続判断などはプログラム・マネージャーの責任だからだ。ただし、そのようなマネジメント・システムを整備する場合、継続と撤退の基準はどう決めるのが適当なのか、という問題が相変わらず残る。仮にあなたが、問題プロジェクトを配下に抱えるプログラム・マネージャーだったとしよう。あなたは、何を基準にプロジェクトの『Go or no-go』を決めるのか? たとえば、予算が倍以上かかったら中止に決める、という案もあろう。でも、長くて暗いプロジェクトという名のトンネルの先に、かなりバラ色の光が見えているとしても、それでもあなたは無慈悲に中止をプロマネに命令できるだろうか。しかも、これまでそれだけの予算追加をあなたが承認(あるいは黙認)してきたことを認めた上で?
不振なプロジェクト/プログラムからの撤退はなぜ難しいか。その理由は主に三つある。まず第一に、これまでそれを進めてきた組織や人のメンツがある。華々しく出航してきてしまったのに、いまさらどの顔しておめおめ港に戻れるか、という感情的な理由。むろん、撤退後の譴責や処分も考えるにちがいない。とはいえ、さらに航海を続けて、もっと被害を広げたら、責任はさらに大きくなってしまうだろう。だから、実際にはメンツは継続と撤退の両面に働きかけると考えていい。
撤退が困難な第二の理由は、未来のバラ色の見込みを変えにくいことだ。何度失敗しても、くじけずに夢に取り組む。そうしたことを、わたし達の社会はずっと賞賛してきた。気合いと根性さえあれば、必ず難問は解決できる。わたしはほとんど未見だが、有名な「プロジェクトX」という番組も、この種の事例をTVで次から次へと紹介し続けたようだ(余談だが、あの番組はプロジェクト・マネジメント理論の専門家の間では『プロジェクト×(バツ)』と呼ばれていたらしい。計画も方法論もリスク対策も抜きのまま、リーダーの根性&成功ストーリーに仕立てる例が多かったからだという)。ともあれ、“失敗にくじけず夢を見続ける”ことが、“見通しを途中で冷静に見直す”ことに優先される習慣がこうして形成されてきた。
そして三番目の理由が、過去のこれまで投入した努力にひきずられる、という事である。すでにこれだけの金と労力をつぎ込んだんだ。撤退したら全てパー、水の泡になるじゃないか。これはもう戦略的投資だ、後へは引けぬ。使ったお金を活かすには、事業に成功するしかない、という訳だ。もし失敗したら、ROIを低下させたといって株主にも責め立てられるだろう・・・
使ってしまったお金に対して、一種の資産価値ないし執着を感じる。このような判断上の矛盾をさけるためには、『埋没コストの原理』という考え方が必要になる。
『埋没コストの原理』とは、すでに使ってしまったコストは、現時点での判断に組み入れるべきではない、という経済学上の原理である。もはや過去という時代に埋没したコストは忘れて、この先の事だけを見て判断する。過去の苦難も(栄光も)忘れて、冷静に現在と将来を考えろ。これが経済学の要請である(たいていの経済学の要請と同様に、ふつうの人間には従うことが難しいが)。ともあれ、この原理に立てば第三の理由は回避できる、はずである。
ところが。この『埋没コストの原理』を認めると、逆に困った矛盾が生じてしまうのだ。今、プロジェクトがある技術的困難に直面したと考えてほしい。そうした時、たいていのプロマネがとる方法は、直前のステップに一歩戻って、代替手段を探すことだ。すなわち、リワークである。もし成熟した技術分野なら、失敗の原因を分析して取り除けば、先に進める。もし、まだ不確実性の高い分野なら、あるいは本質的に試行錯誤的なアクティビティならば、ともあれほぼ等価と考えられる試行を繰り返すだろう。Aという材料でダメなら、Bの材料で試してみる。BもダメならCと、竹フィラメントにたどり着いた発明王エジソンが百回以上も試したように、試行のループを繰り返すだろう。
そして、埋没コストの原理に従うならば、一歩前の原点に戻った際、それまで使ったコストは忘れていい。となると、考えるべきファクターは、成功した時の期待利益Sと、再度の試行に必要なコストC、そして失敗するリスク確率rである。それがもし
(1 - r)S - C > 0
の条件を満たしているなら、プロジェクトは進む価値があるはずだ。いま、上の条件を満たしたとしよう。そして再試行する。ところが、また失敗してしまった。出発点に戻って、もう一度リワークしようか考えてみる。ところが前回の失敗コストは忘れていいことになっている。次回のコストCも、期待利益Sも、そして(等価な代替手段なのだから)リスク確率rも、前回と同じままである。だから、上の条件式はまた成立してしまう。そして、再々試行に進むことになる・・・
これが、プロジェクトが泥沼の無限ループに陥っていく状況なのである。判断者が合理的で、すべてを数字で判断し、かつ経済学の『埋没コストの原理』に従うと、かえって撤退の判断ができなくなっていく。たとえプロジェクトを全て自分の手金でやっていて、財布の底をついたとしても、まだ誰かに金を借りてでも続けようとするだろう。適正なストップ・ロス・オーダーなど、存在しないことになる。これをわたしは、「リワークのパラドックス」と呼んでいる。
「リワークのパラドックス」が生じる根本原因は何だろうか。それは、上記の第二の理由、つまりバラ色の見通しを捨てられないことにある。でも、誰もが一度失敗しただけで諦めていたら、技術に進歩も何もなかったことは明白である。だとしたら、何度繰り返し失敗したら、手を引くべきなのだろうか? じつは、答えがあるのである。次回は、その「マジックナンバー」について述べる。
(この項もう一度続く)
ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵 (2011/09/03)
渋谷から東横線の各駅停車に乗った。たしか都内での研究会か何かの帰りだったと思う。ふだんは急行か特急に乗るのだが、その夜は何だかくたびれていたので、多少すいていた各停で座って帰ろうと思ったのだ。ところで、渋谷では穏やかな夜空だったのに、電車が5つめの都立大学駅に着く頃から、雷とともに急に激しい雨が降り始めてきた。折りたたみの小さな傘しか持っていない。でも、初夏の夕立だろう、いずれすぐやむにちがいない、と高をくくっていた。
しかし、電車は都立大の駅に停車したまま、ちっとも動き出さない。ホームに降り注ぐ雨は、しぶきとなって開け放たれたままのドアから車内にも吹き込んでくるようになった。しばらくしてから車内アナウンスで、「信号系統への落雷のために、全線がストップしております。復旧作業中ですが、まだしばらく時間がかかる見込です」という。外は相変わらずのひどい雨が続いている。ほんの通り雨という感じではなさそうだった。時計は9時半を回っていたように思う。さて、どうするか。
わたしの家は横浜近くの各駅停車の駅が最寄りだ。ちゃんと電車が動き出せば、30分足らずで着く。このまま座って帰れるのが一番良い。しかし、復旧の見込は不明だという。他のルートに乗り換えたいところだが、あいにく乗換駅でもない。せめてもう一つ隣の自由が丘駅までたどり着いていたら大井町線に乗り換えてJRに出られるのに、と思ったが、どうしようもない。あいにく手元不如意でタクシーという手段は考えられなかった(それに、こんな天気の時はタクシーはつかまらない)。
首都圏のロジスティックス事情に詳しい方ばかりではないだろうから、念のために書くと、東京方面から横浜に行くルートは5本ある。東急東横線と、JR(京浜東北線・東海道線・横須賀線)、京浜急行線だ。東横線は渋谷から、他の4ルートはすべて品川から横浜に向けて走っている。渋谷と品川は山手線でつながっている。正確に言うと、この他に日比谷線(中目黒発)と湘南新宿ラインの一部(恵比寿・大崎発)があるが、これらは途中からそれぞれ東横線と横須賀線に乗り入れている。
考えられる唯一の代替案は、今、ここで駅をおりて、バスを探し、渋谷か目黒か品川か、とにかく東京方面の他の線の駅に戻る事だ。ただし、バスがこの時刻に走っているかは定かでなく、戻ったとしても、JRや京急が動いている保証はない。困った事に、こういう時に限ってiPhoneは電池切れである。状況を知る手立てがないのだ。だが、この雨が単なる夕立ではなく、南関東を突如襲った集中豪雨だという感じは強まってきた。
もう一度、整理しよう。このまま乗り続けるか、それとも降りて別の可能性を探索するか。二つに一つだ。あなたなら、どうするだろうか? 続きを読む前に、ちょっと考えてみてほしい。
わたし達が直面する意思決定は、ほとんどの場合、不確実な状況下で行わなければならない。しかも、限られたリソースしかない局面でだ。それでも、明るい見通しのある選択肢からの決断だったら、まだ楽しめる。休暇は海に行こうか山に行こうか。天気や混み具合の不確実性はあるが、どちらを選んでも、多少はプラスだろうと感じられる。
難しいのは、ネガティブな選択肢からの決断である。それも、選択肢の中に「現状のまま」というのが入っている時が最も難しい。今のままではじり貧に思える。でも、代替案の中にも確実性はない。今よりひどくなって、「フライパンから火の中へ」飛びこんでしまう可能性もある。こういう時に、わたし達はどう決断したらよいのだろうか。
『ストップ・ロス・オーダー』という言葉をわたしが知ったのは、デール・カーネギーの著書「道は開ける」の中だった。彼は「悩みに歯止めを設けよう」という章で、あらゆる賭けをする際に、あらかじめ「歯止め」をかけておくことを推奨している。ストップ・ロス・オーダーは元々、相場師の用語で、$50で株を買う時、(たとえば)$45のストップ・ロス点を設定しておく。そして株価が$45を切ったらすぐに売却し損切りするのである。彼はこの考え方を他の悩み事にも応用するよう勧める。
たとえば、時間にルーズな友人と一緒に昼食をとる約束をしたとする。彼は、友人を待つ時のストップ・ロス時間を10分に設定するのである。そして「君が10分以上遅れたら、昼食の約束はなしにして帰るよ」、と相手に告げるのである。
このストップ・ロス・オーダーがなぜ優れた知恵かと言うと、撤退という難問に、即断すべき基準を作ってくれるからである。意思決定の時、一番いけないのは、何も決断せずにずるずると先延ばしにしていく事だ。それは損失を広げていくばかりではない、何よりも自分の心理的エネルギーを消耗させ奪っていくのである。そうなると、ちゃんとした普通の判断さえ、できなくなっていく。ストップ・ロス基準があれば、継続であれ、撤退であれ、"Go or no-go"をタイムリーに決断できる。そして決めたら、それが結果として正解となるよう、努力する。こうすれば、心的エネルギーをプラスの方向に使う事ができる。
その夜、わたしがとった決断は、こうだった。「まず、1時間15分は、この電車に座って、信号系統の復旧を待つ。それでも動く見込がない場合は、外に出て他の手段を探す。」そして、本を読みながら10時45分過ぎまでじっと待った。まだ復旧のアナウンスがないので席を立ち、小さな傘を差して駅から近くの国道まで歩いた。そして幸い、恵比寿行きのバスを見つけて飛び乗った。JRの駅に着いたのは11時20分頃だったろうか。案の定、湘南新宿線は止まっていたが、京浜東北は動いていた。山手線で品川まで回り、なんとか横浜に戻ったのだった。ちなみに東横線が復旧したのは夜の1時近かった事を、後になってニュースで知った。
だが勘違いしないでほしい。結果がオーライだったから、わたしの決断が正しかった、と言っているのではない。ある方針を決めて、それで動けた事が良かったのだ。もし結果が失敗だったら、それが何回も続いたら、ストップ・ロスの基準を見直せばいいのである。それが『学び』というものではないか。どんな決断の場合でもそうだが、一度きりの結果で良否を評価するのは愚かだろう。それは1打席だけ見てバッターの能力を評価するようなものだ。
では、そのストップ・ロス基準はどのように決めるべきか? たとえば、わたしはなぜ、1時間15分という中途半端な数値を設定したのか? それについては、長くなったので、機会を改めてまた書こう。いつもわたしは余談が多くて長くなりすぎる。ここらへんでストップしておくのが、読みやすさの点でもいいと思うのだ(笑)。
(この項つづく)
ヒノモト家の人々 − マクロ経済学的素描 (2011/07/11)
いつだったか、役員向けの説明資料を作っているときに、ふと「経営者にとっての1億円というのは、自分みたいなサラリーマンにとっての1万円みたいな感覚なのだろうか」と感じたことがある。決済権限の基準は会社によっていろいろだが、億を超えたら、まずどこでも役員決裁が必要になる。「1億円の買い物です、と気楽に言うが、1億の利益を稼ぐのがどれだけ大変なのか分かってるのか!」と言われたこともあった。これってちょうど、自分の子どもが1万円の買い物をねだりにきた時と同じ感覚なのかもしれない。
たとえば年商500億円と言ったら立派な中堅企業の業容だが、その企業にとって1億円は、ちょうど年収500万円の個人にとっての1万円に相当する。だとすると、中堅企業に5億円のERPパッケージ一式を売りに行くというのは、Office Suiteソフトウェアを5万円で買ってくださいというのと同じだし、30億円の工場ライン新設の提案は、30万円で部屋のリフォームを提案するのと似ている、のかもしれない。すくなくとも、企業の1億円=個人の1万円、という換算は、少しだけ相手の感覚に近づく手がかりになった。
最近ふと、官公庁の資料を読みながら、この換算式は日本全体を論じるときにも当てはまるのではないか、と思いついた。ただし、国全体の場合は1兆円=個人の1万円である。ちょうど日本の人口も1億人ちょっとであることを考えると、あながち根拠レスな対比ではあるまい。たとえば、経産省の産業構造ビジョン2010などを読んでいると、“戦略五分野で、今後140兆円以上の市場創出。インフラ関連/システム輸出で18.2兆円の増大”などと書いてあるが、単位が大きすぎて何の事やらピンとこない。だが、これを兆→万に換算すると、「そうか、年収140万円の増加が目標で、システム輸出の分は18万円くらい稼ぐつもりなんだ」と、自分の理解範囲にぐっと近づいてくる。
そこで、このアナロジーをもっと強引に使って、日本経済全体像を、身の丈に合わせた形に書いてみよう。すなわち、「日の本」家の人々の暮らし向きである。
ヒノモト家の現在の年収(GDP)は、約480万円弱である。月々約40万円だと思えばいい。'90年代の一番多いときには、520万円近くあったのに、もう10数年間も頭打ちで減り続けている。
ヒノモト家を取り仕切っている、一番えらい人は父親(政府)だ。この人の年収は90万円である。でも、その半分は実は他の家族から入れてもらっているお金を、管理しているにすぎない。そして、残り半分は借金である。この人自身は、何かを作り出して稼いでいる訳ではないのだが、皆に対してあれこれ指示を下し、「皆が安心して暮らしていけるのも俺が居るからだ」と口癖のように言っている。収入90万円のうち70万円は、家の補修や医療費、セキュリティなど皆の生活を支えるために使っているが、残る20万円は、以前借りたお金の返済に使っているのだから、ちょっと馬鹿みたいだ。累積債務は900万円もあるのだが、「なあに、いざとなれば財産は沢山ある」と言っている。
ヒノモト家の長女(農業)は、ずっと趣味的な家庭菜園を続けている。昔は家族全員の食べるものを作った時もあったが、最近では4割くらいしか自給できていない。土は肥沃で水にも日光にも恵まれており、おかげで良い作物も少しは作るのだが、菜園のあちこちは草ボウボウだったりする。高齢化のために足腰が弱ってきているせいだろう。後継者がほしいと言っている。家の外には作物はほとんど売らない。年収は7万円ちょっとである。
ヒノモト家の長男(製造業)は、筋骨逞しいが、年を取ってきてこのごろ背中がちょっと淋しい。頑固で、意見を大声で言う。自分が皆を食わせているという自負があるのだろう。でも、この人の年収は100〜110万円くらいで、一家の稼ぎの2割を切ってしまった。20年前には125万円くらいあったのだが。この人は、家の外とのつきあい(輸出入)が一番多かったので、“自分は世間を良く知っている”と信じているが、最近は減ってきたので、皆からその内実をあやしまれている。でも、「ヒノモト家の復興は俺が支えるんだ」と、まだ頑固に言っている。
次男(流通サービス業)は、ひどく太っており、歩くのがのろい。でも実は長男より稼ぎが多く、220万円弱の年収がある。ヒノモト家の約45%を、この次男が稼いでいる勘定だ。だったら、もっと贅肉を落としたらいいのに、と周囲からは言われている。
ヒノモト家の次女(金融業)は、眼鏡をかけた才女である。父親の通帳も預かっていて、実はいろいろなことに自分の意見を通している。父の借金は彼女を通しているからだ。他の家族も、彼女からお金を借りたり稼ぎの中から返したりしている。ただ、この人は慎重なのか大胆なのかよく分からない性格で、家族にお金を融通するときは担保を取り、決して損をしないようにしているのに、一度、外の男にだまされて財産をかなり失った。だが、父親のかけ声で、家族皆に援助金を拠出してもらった。本人も覚えているはずだが、まるで何もなかったかのように振る舞っている。電卓が商売道具なのに技術オンチらしく、電卓が1週間くらい動かないことも最近あった。お金は沢山預かって持っているが、本人の年収は30万円ほどである。
三男(建設・不動産業)は地味だがそつのない服装に、営業用笑顔をいつも見せて歩いている。年収は90万円強。皆の住む家の増改築・営繕と賃貸を仕事にしている。父親や次女とも仲が良く、20年前はかなり羽振りも良かったが、家の外で何やら痛い目にあったらしい。最近は家も建て増しの余地はなくなって、次はどうしようか考えあぐねている風情である。
ヒノモト家の最後の登場人物は、母親(家計)だ。この人には稼ぎはなく、使うだけである(年に約300万円くらい)。皆の衣食住の面倒を見ている。もちろん、この人が居なくなったら他の家族は皆、生きていけなくなるのだから、もっと敬意を持って接しても良さそうなものなのに、「お客さま」としてお金をもらう時くらいしか愛想を言わない。母親も、そんなものだとあきらめているらしい。
(念のために書くが、上記で「稼ぎ」・「収入」と表現したものは、各業種の『付加価値額』であって、売上の絶対値ではない。付加価値とは、その業種が生み出す経済的なバリューであり、売上から外部に支払うお金を差し引いたものである。国内で生み出された付加価値額の合計が、DGP=国民総生産になる。なお、政府系サービスその他の細かい項目は、ここでは無視している)
さて、このヒノモト家で最近、困った事故があった。長女の住んでいるスペースで、北東向きの池に面した一角が、突然の災害で大きくこわれてしまったのだ。長女も怪我をした。そればかりか、そこに父親が置いていた発電機が壊れて、有毒な物質があたりに飛び散ってしまい、危険で近づけなくなったのである。被害総額は、25万〜30万円くらいかもしれないと言われている(誰も正確にはよく分かっていない)。長女や母親は、「大丈夫だから」と言い続けてきた父親になんとかしてもらいたいと思っているが、一家の家計から見ると、すぐおいそれと出せる金額ではない。『一刻も早い復興を』と皆、口では言っているが、具体策となると家族で意見が分かれている始末だ。
これがヒノモト家の人々である。どこにでもいる、ごく普通の人たちだ。“村で二番目に稼ぎがある”と自慢することもあったけれど、「土地があって家族が多けりゃ当然だんべ」と思う村人もあるらしい。なにより、皆の集まる寄合いでも、二言目には『お金』の話をすることが、鼻白むべきことと思われている節がある。けっこう風流なところもあるのに、残念な人たちだ。チキュウ村では、ときに喧嘩もあるが、基本は助け合いである。なのにヒノモト家の人たちの態度は、このごろひどく内向きだ。今でも人並み以上に稼ぎはあるのだから、もっと村をリードし助けることを考えるのが大人だろうに、と周囲は思っているのである。
大阪での所用の帰り、ちょっとだけ時間が余ったので京都で途中下車した。夕方だったがまだ新緑が日に映えて美しい。枝垂れ桜や八重の花も少し残っていて、その色の対比も心地よかった。八坂神社から知恩院にまわり、国宝の三門を拝観。お上りさんをしたわけだ。
その知恩院の前には大きな張り紙があり、「法然上人の八百年大遠忌法要を、震災のためにやむなく九月に延期する」と大書してあった。八百年大遠忌だから、法然という人は1211年に没したことになる。12世紀の終わりから13世紀初頭にかけて活躍した人なのだ、と思った。
12 世紀ルネッサンスという言葉がある。西欧世界は、十字軍をきっかけにイスラム文明に触れ、そこを経由して古典ギリシャ時代の哲学や文化を輸入し学んだ。その刺激から生まれた一種の新しい文化の潮流を指す。明けて13世紀は、アッシジの聖フランシスコらが活躍する宗教の刷新時代になる。西欧史と日本史は面白いことに並行関係が成立していて、12世紀の日本は新しい武家風の文化が台頭し、13世紀になると鎌倉仏教が隆盛する。
それにしても、800年も経ってまだ記憶され法要が営まれるとは、偉大な影響力である。まあ一つの宗派を作った宗教家だから、と言えるかもしれない。では、他の宗教ではどうなのか。たとえば、キリストの命日はいつだか、ご存じだろうか。誕生日は「クリスマス」として世界中で有名だが、キリスト教徒は、教祖の命日は祈念し瞑目したりはしないのか。
いや、ちゃんとするのである。先週(22日)の金曜日が、その日だった。これを聖金曜日(英語でGood Friday)と呼び、斎戒すべき『受難の日』と定められている。祭日になっているキリスト教国も少なくない。それなのに、なぜ有名ではないのか? その理由は、毎年、日にちが変わるからだろうと思われる。この聖金曜日は、実はイースター(復活祭)の二日前の金曜日と決まっている。そう、24日の日曜日はイースターだったのである。そしてイースターは、「春分の日の後、最初の満月の次の日曜日」という、太陽暦と月歴を付き混ぜた複雑な定義のため、毎年変わる移動祝祭日になっているのだ。
復活祭は、キリスト教において最大の祝日だが、春の再来を喜ぶお祭りでもある(少なくとも北半球では)。教祖の命日のすぐ二日後に復活のお祭りとは、ずいぶん斎戒の期間が短いと感じられるかも知れない。でも、それは違う。実は復活祭からさかのぼること6週間半前に「灰の水曜日」という日があって、そこから復活祭までは、キリストの受難を悼む禁欲の期間(「四旬節」)と定められている。西洋の古い習慣では、肉食を絶って魚を食べることになる。だから四旬節に入る直前に、謝肉祭(カーニバル)が行われるのである。
この四旬節は47日間続く。これは日本の仏教で命日から服喪する期間の「四十九日」とほぼ同じで、偶然とはいえ不思議である。あるいは、人間の感情が落ち着くまでの期間が、それくらいかかるのかも知れない。
宗教現象というのはつねに興味深い、不思議なものだ。高等生物の中には仲間の「死」を認識するものもあるが、追悼をするのは人間だけである。遠くネアンデルタール人も、仲間の埋葬にあたって、花を捧げていたらしい。というのも、人骨の遺跡の近くに大量に花粉が見つかったからである。遠く去った仲間に花を捧げる、というのは、アーリントン墓地や無名戦士の墓に詣でた外国元首なども従う儀式であるが、どうやらわたし達人類の文化的遺伝子に刻み込まれた行動パターンらしい。
なぜ人は鎮魂の儀式を必要とするのか。それは簡単には答えられない問いである。著名な精神医学者の土居健朗は、たしか「『甘え』雑稿」の中だったと思うが、なぜ人は誰かの通夜などで「お悔やみ申し上げます」というのか、と問うていた。そして自分がその言葉を受けとる立場になった時、残された者が故人に対し“ああすればよかった”“もっとこうしてあげればよかった”と後悔し、『悔やむ』からなのだ、と気づいたという。つまり、自分達がいかに不完全な仕方でしか、人を大切にし愛することができなかったかを悟る時の言葉なのだ。そして残された者が、互いに助け合いながら生き続けていこう、と確かめるために、ああした儀式が必要なのかも知れない。
あの恐ろしい3.11の震災の日から、もうじき7週間経つ。わたし達の故郷は、大きく傷ついた。いや、実はもう、だいぶん前から傷んでいたのだ。その最も弱い部分を、災害が襲った。日本が変わってしまった日、と感じたのはわたしだけではあるまい。
これだけ深く傷ついたら、癒えて立ち直るまでには相当の時間が必要である。まず、心の中で引き裂かれた感情が静まって、ほつれが戻り、断線が再びつながるための時間がいる。それまでは、まずは静かに、追悼と鎮魂の期間をすごすべきではないのか。
元気を出そう、一日も早い復興を、とメディアは繰り返す。それは真心から出た言葉だろう。だが、わたしには何だか性急なメッセージに聞こえるのである。動物だって、傷ついたら、動き回らず、ものも食べず、じっとうずくまっている。それが動物の本能的知恵だ。動物も人間も、活動の時期と、休息の時期がある。 24時間元気でいたいと思うのは浅知恵な願いだ。
わたしは酒食や娯楽まで何でも自粛しろ、と言っているのではない。追善供養の席では、みな飲食して、故人の遺徳をたたえるではないか。ただ、方や自粛する、方や復興を急ぎ消費の落ち込みを憂う、それを同時に行うのは矛盾はないかと感じるのだ。復興を叫ぶ声の後ろには、「復興需要」をあてこんだ産業界のそろばんの音さえ混じっているように聞こえる。一日も早く以前の日常を復旧させたい、地震と津波と原発と計画停電にゆさぶられた日々を忘れたい、との感情は理解する。だが、それくらいならば、四十九日の間はきちんと喪に服し、それからゆっくりと日常生活に復帰するという、古いしきたりの方がずっとメリハリがあると思う。
わたし達はたぶんまだ十分、追悼ができていないのだ。素人コーラスがわたしの休日のささやかな趣味だが、今期の曲目を決める時、鎮魂の歌を1曲入れるべきだと思った。お金による寄付だけでなく、歌うたいならば声で気持ちを捧げることも、ありではないか。
なんだか古くさい、馬鹿げたことを書いているような気もする。でも、自分たちがあの災害で生き残ったのは、偶然に過ぎない。生き残った者が真っ先にすべきことは、去った仲間を悼むことではないか。そうして、受け渡された生の意味について、もう一度考えるべきなのである。
次の問題は、ある理系の大学入試問題である。回答者は、3問の内いずれかを選び、それについて論文を記述しなければならない。制限時間=4時間。字数制限無し。
・言語は思考を裏切るか?
・不可能事を望むことは非合理か?
・実験のほかに真実を立証する方法はあるか?あなただったら、どう回答するだろうか。ちょっと考えてみていただきたい。
じつはこの問題、日本の大学ではなくフランスの「バカロレア」baccalaureatの過去問題から引用した。バカロレアは高校卒業時の大学進学検定試験のようなもので、毎年6月に行われる。日本のセンター試験に該当する、と言えなくもない(だいぶん違うが)。そして、上の問題は「哲学」科目の出題である。そう。大学進学試験には国語、数学、地理、歴史、第1外国語、体育と並んで哲学が必修科目なのである。
ちなみに2010年度は全国で642,253人が受けて、受験者の86%が最終的にバカロレアに合格し、これは同じ年に生まれた全体数の65.6%に相当する、のだそうだ(「パリの郊外暮らし」 より孫引き)。
バカロレアは基本的にすべて論述問題である。上記の哲学に関して言えば、自分の感覚で好き勝手なことを書いていい訳ではない。まず、論理的で首尾一貫した論述であることが求められる。問題とされているテーマを明確に定義し、できれば哲学の歴史的な議論を踏まえ、対立する論点を正確に論じた上で、最後に自分の結論を書くことが期待される。さらに関連する思想家の主張を引用したりすれば、上出来だそうである。そして、このような試験では「携帯を使ったカンニング」など不可能だし、意味がない。震災前の古き良き時代、世間が一番騒いでいたのは某有名大学のカンニング事件だったが、あれは短くて正解のある問題だからこそ可能だった出来事なのである。
哲学は重要な受験科目のひとつだから、フランスで教育を受ける者は、高校で思考訓練を徹底的に受けている訳だ。このような教育を経て、論説の達者となった連中と、論理的主張の訓練など殆どない普通の日本の大学を出た人間が、国際会議や商談等で議論や交渉をしても、なかなか辛いものがあるのは分かっていただけるだろう。
誤解しないでほしいのだが、わたしはフランスが素晴らしくて日本が劣っているとか、日本の大学入試もバカロレアを見習え、といった主張をしたいのではない。両者がずいぶん違っていることに、まず単純に驚き、感心しているのである。国同士の優劣の比較は皆の興味をひく話題だが、わたしはむしろ個性と差の方に関心がある(たまたまフランスで若干の間、働いた経験はあるが、わたしはフランス崇拝趣味はない)。
日本とフランスの大学入試問題の違いは、二つの国が、若者の知的能力に何を求めているかの差を、端的に反映していると思う。日本のセンター試験はすべてマークシート方式である。これは大量の受験者を、効率よく正確に短時間で評価し点数化する必要性から出ている。と同時に、出題者の用意した選択肢という枠の中で、正解と不正解を明確に切り分ける能力を受験生に求めている訳である。
したがって、日本では記憶力ならびに条件反射的な判断力を持つ若者が有利だし、有名大学に合格して「頭が良い」と世間から太鼓判を押されることになる。物覚えが良く種々の知識や解法パターンを記憶することに抵抗のない子の方が、自分がじっくりと納得できるまでものを覚えられない子よりも、受験勉強に向いている。さらに言うなら、出題者が“何を答えさせたがっているか”を瞬時にかぎ分ける能力も重要である。
いや各大学の独自試験では記述式問題も出されるし、後期試験では小論文と面接のみの大学もあるではないか、と反論されるかもしれない。そのとおりだ。しかし、日本の論述問題とは、具体的にどのような知的能力を問うものだろうか。論文試験と言われてわたしがすぐ思い出す典型は、司法試験と、情報処理技術者試験である。司法試験の論文試験について、以前、法学部出の友人から聞いた話では、「出題意図に添って、必須のキーワードを、期待される順番で盛り込んだ文章を書くこと」が合格回答のポイントであるという。つまり、出題意図のフレームワークの中で、記憶した知識を体系にしたがってつなぎ出すことが求められる。
高度情報処理技術者試験については、「プロジェクトマネージャ」の参考書を10年近く編著で出していたので、よく知っている。いわゆる午後II論文問題は、制限時間2時間で、約4,000字の論文を書くことが要求される。つまり、毎秒1文字のスピードで論文を書かなければならない。当然、その場で考えている時間など殆どない。だから事前対策として、自分が経験したプロジェクトを題材に、「品質管理」の面から聞かれたらこう書こう、「要員管理」で出題されたらああ書こう、「プロジェクト計画」の観点ならば、といった具合に、いくつかの切り口で整理しておく。そして実際にその論文を書いてみるのである。2,3回やると、書くべき事を反射的に「体で覚えて」いる状態になる。そうして試験に臨むのだ。
言いかえるならば、日本の論文問題は、出題のフレームワークの中で、正解(ないしそれに準じた知識)を、効率的に記憶から取り出す能力を測っている場合が多い。そのために時間をかけ根気よく繰り返し学習する。これは無論、立派な知的能力である。ただしそれは、世の中が比較的予見可能な、つまり安定した右肩上がりの時代に有用な能力と言えるだろう。
これに対しバカロレアの論文問題では、出題者は、知識もさることながら、整合性のある論理展開能力を、まず求めている。哲学にみるとおり、出題は「正解のない問題」である。そのかわりバカロレア方式では、採点は手間がかかるし、主観ももぐり込みやすい。だから毎年6千人以上の判定委員と10万人以上の採点者(及び口頭試問試験官)が動員されるという。それだけの国費を使いながら(受験は無料である)も続けている事は、フランス人が無駄な議論好きのおしゃべりだという「国民性」だけで説明すべきではない。漠とした状況下でも論理性と一貫性のある思考が必要だ、という知的能力への社会的期待がそこにあるのだろう。少なくとも、彼らの求める知性の尺度には、カンニングがもぐり込む隙間はあまりないのだ。
もっと単純化して対比すると、フランスが評価する頭の良さとは、真っ白なキャンバスに見事な絵を描く知的能力で、日本の求める頭の良さはジグソーパズルを素早く解く能力だ、と言えなくもない。わたしの好きな用語で言うならば、フランス型知性は『自由度』の大きな抽象的問題に向いており、日本型知性は、自由度は小さいが複雑な問題に向いている、という印象である。正解のある、具体的な問題に。
だが、わたし達の社会は(むろん立派な社会だが)「正解」をあまりにも求めすぎる、と最近つとに感じている。様々な問題にぶつかるたびに、どこかに正解を探し求め、受け入れようとやっきになる。「頭の良い」人たちは、どこからか格好良いキーワードを仕入れて、問題の根を切り分けてみせる。正解のある問題は、考えずとも“右へならえ”が効きやすい、という特徴がある。でも、ある場所で役に立った方法が、別の状況で正解となる条件について、しばしば無頓着である。生産改善だ、じゃあトヨタのカンバン方式を導入するのが正解だ−−そんな単純な話じゃありませんよ、と「あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由」などと書いても、世間は馬耳東風だ。そのあげく巨大な問題にぶち当たって、「想定外でした」という。その想定のフレームワークは、誰が決めたのだろうか?
自分達の知的能力を高めるにはどうしたら良いか−−これは典型的な「正解のない問題」である。だから、日本も“バカロレアの哲学の問題を導入すればいい”という答えは失格だと、すぐ分かる。世の中には正解のない問題はいくらでもあるのだ。そもそも、自分はどういう人間なのか。自分は何がしたいのか。自分はなぜアイツのことが好きなのか。それなのになぜ、アイツは自分を好いてくれないのか。そもそも自分の人生にはどういう意味があるのか・・。こうした問題は、若いうちだけでなく、中年になってからも、繰り返し襲ってくる。むしろ若いうちに、これら正解のない問題を自分で悩む経験を積んだ方が、大人になってから想定外の問題にも耐えられるようになるのではないか。
「ずっと昔に学校を卒業したのに、ときどき試験問題に苦しむ夢を見る人は、自分が考えるべき大事な問題を無意識の内に回避している可能性がある」、と心理学者は言う。無意識が夢を通して、その事に警告を発しているのだという。わたし達の社会が『入学試験』にひどく敏感なのを見るたび、“われわれの繁栄にはどういう意味があるのか”という正解のない問題を、わたし達がずっと回避してきたのではないか、と疑わしく思うのである。
試験は誰の責任か − 人材のサプライチェーンマネジメント再考![]()
もう何年も前のことだが、東京大学教養学部の男子学生が、同じ学年の女子を包丁で何度も刺して重傷を負わせ、殺人未遂で逮捕されるという事件があった。理由は恋愛感情のもつれによる逆恨みだったらしい。若者にありがちと言えば言えるが、まことに幼稚かつ愚かな犯罪である。
「その学生はすぐに退学処分にすべきだ」とわたしは思った。人間には、やっていいこととやってはいけないことの区別がある。お勉強の上手下手より以前に、まずその事を理解しておく必要があるのだ。たぶん東大生の多くは、入試をパスすることに、それまでの青春のほとんどを賭けてきたであろう。だとすれば『退学処分』は最も戦慄すべき事態にちがいない。人を刺したら「自分の人生を失う」という、ショックに近い感情によって、その教訓は全学生の心に残るだろう。「人を刺したら犯罪」くらいのことは、東大生でなくたって誰でも知っている。だが、頭で“知っている”だけでは足りないのだ。感情を込めた体験があって初めて、教訓が“分かる”のである。
ところが当時、ニュースや新聞を見ていても、この事件の後で東京大学は当学生に対する処分を何ら発表しなかった。一罰百戒のせっかくの機会を、この大学は逃してしまった。もしかしたら、「裁判で有罪が確定するまでは処分保留」という判断でもあったのかもしれぬ。しかし学生運動のデモかなんかで逮捕されたのならともかく、この刑事事件では犯意は明らかであった(結局、この学生は有罪判決を受けている)。それでももし万が一、その学生が無罪になったら復学してやれば良いだけである。『復学』というフレキシブルな制度はそのためにあるのだ。
世の中には東大に合格するよりも、もっと大事なことがある。これは落ち着いて考えてみれば当たり前だが、その「当たり前」の条理の灯を、目先の損得や感情のつむじ風で吹き消そうとするのが世間である。東大があの時もっと倫理において毅然と対応していたら、世間のモラルも一瞬はしゃんとしたかもしれぬ。
教育のシステムとは社会における人材のサプライチェーンである。ところが、このサプライチェーンがあちこちで歪みを生じ、きしんでいる。京大の入試でカンニング事件があったと言って世間はむやみに騒いでいるが、「たかが入試じゃないか」という感想はあまり聞かれぬようだ。試験というのは、教育ではない。入荷検査が『製造』ではないように。心配するなら、教育の方を心配すべきだ。日本の教育システムをサプライチェーン・マネジメントの観点から見ると、すべての工程(教育段階)に共通する、おかしな矛盾がある事に気がつく。それは、製造工程と検査工程の逆転である。
ふつうの工場だったら、製造した製品は、自分が検査する。検査のポイント(品質項目)は自分で決める。検査ではねられたら、修正に戻すかおシャカにして、出荷しない。出ていくものの品質については、自分のブランドの名前にかけて保つ。これが製造業における普通の感覚であろう。なお、部品材料を入荷したら、その時点で検査を行う場合もある。その場合も通常は員数と外観チェックか、せいぜい寸法確認程度で、鋳物にスが入っていないかいちいちX線で検査したりはしない。入荷品の品質に問題が多い場合は、自ら仕入れ先に出向いて品質指導をする。
サプライヤーの側で出荷検査をして、それを受け入れる側でまた入荷検査をする、というのは、明らかに二重の手間である(よほど輸送工程にリスクがあれば別だが)。では、どちらか一方を省くとしたら、どちら側を省くべきだろうか? 答えは明らかだろう。入荷側である。検査データというのは製造工程の質を向上するために使われなかったら、意味がないからだ。検査と製造工程は一つの思想の元にマネジメントされなければいけない。製造者は検査と出荷品の品質にオーナーシップを持つ。だから先進的な企業では「検品レス」といって、入荷検品を全く省くケースも出てきている。サプライヤーをそれだけ信頼し、また信頼できるようにマネージしているのである。
こう考えてみると、日本の教育システムのおかしな点がわかるだろう。この人材のサプライチェーンでは、自分が製造したものを自分がきちんと検査していないのである。“そんなことはない、各学期に期末試験をしているじゃないか”と先生方はおっしゃるだろうか? じゃあ、東大でも京大でもいい、目立つ「一流校」に合格した生徒を、自分の権限と責任で落第させる勇気がおありだろうか。父母の猛然たる抗議にもゆるがず対応できる、明確な教育スタンスを持つ高校など、おそらく殆どありはすまい。
だが、これは高校の先生方のせいではない。サプライチェーンの下流に位置する購入側、すなわち大学がいけないのだ。大学が出荷検査に信を置かず、自分でいちいち詳細に検査すると言っている。じゃあ、その大学の製造工程はどうなっているのか。わたしは大学3年生を相手に後期授業を行っているから知っているが、大学3年後期というのは就活のおかげで、学生はたいてい気もそぞろである。授業になんか集中できる訳はない。そして、その理由は、企業が製造も終わっていない人材を、はやくも入荷検査のふるいにかけようとするからである。
おわかりだろうか。このサプライチェーンでは、検査工程と製造工程の間にあるべきポジティブな改善のフィードバックループが失われているのである。製造者が検査の所有権を失っているからだ。そして、この事態をなんとかしたいなら、まずチェーンの最下流から直していかなければいけない。その責任は企業の側にある。企業が、「卒論を書いてちゃんと大学を卒業した者だけを採用の対象にする」と宣言すれば済むだけだ。就活は、卒業式の前後に始める。そうすると就業開始は夏頃になるかもしれないが、それでひどく不都合な会社などないはずである。大学は落ち着いて教育に専念できる。そして入試も、高校に信を置いて推薦入学が中心になる(現に、今ではAO入学が全体の50%を超えている)。そのかわり高校の側も自分の検査と製造に責任を持つようになり・・
むろん、この仕組みが働くようになるためには、一つの条件がある。それは、検査ではねられた学生も、妙な烙印を押されずに再履修したり大学をやめて働いたりする道が確保されるということだ。いわばサプライチェーンのフレキシビリティー(セーフティーネット)があって初めて機能するのだ。そしてこの場合も最終責任は企業の側にある。企業は大学未了の、つまり「高卒」の人間を消耗品としてではなく評価し、使う道を用意しているだろうか? わたし達は有用な人材を海に捨てていないだろうか。
春は希望の季節である。あらゆる生命が再び芽吹く時期だ。わたし達は検査と選別ではなく、「育てる」ことにもう少し熱意を込めるべきだと信じている。
新しい販売マネジメント思想こそ、競争力再生の要点である
(2010/11/21)![]()
わたしの大学時代の先輩が、あるとき外資系の会社に転職しようと思い立った。米国の技術系ソリューション・ベンダーで、世界的に急成長中の企業だ。大学の恩師に相談に行ってその話をしたら、かえってきたのは思いもよらぬ言葉だった。「外資系に行くなら、技術でなく営業をやれ。」恩師は言葉を継いで、次のような意味のことを語った。
技術力が売り物の会社であればあるほど、技術開発の中心部分は目の届く米国内で、米国人によって行う。日本で技術屋がやらされるのは保守サポートのつまらぬ仕事で、そんなことをいくらやっても上には行けぬ。もし外資系の会社で上に行きたいのなら、セールスをやるべきだ。販売の仕事だけは、各国の現地でやるしかないからだ。仕事を一杯とって、十分な売上と利益を上げられれば、本国からも重視されるようになるだろう。
この先輩は悩んだ後に、恩師の言う道を選んだ。営業部門に入って、やがて華々しい成果を上げるようになったのだ。わたしは後日、その先輩に会って、営業で成功する秘訣は何か、たずねてみた。わたし自身、事業部の売上に悩んでいたからだ。すると、先輩の答えは意外にも簡単だった。「アメリカ人の書いた “Solution Selling”という本を勉強して練習し、その本に書いてある通りを実行してみた。そして事実、売上が上がった。それだけだよ。」先輩はわたしにこう言った。「佐藤君も、もし興味があるなら読んでみるといいよ。」
そういういい話を聞きながら、すぐに実行しないのがわたしの至らないところだ。和訳の『ソリューション・セリング』を読んだのは、それから2年近くたってからのことかと思う。読んで、すぐ感心した。内容は、以前書評に書いたとおりだ。わたしは営業の仕事ではないが、セールスの現場に同行することはよくある。本に書かれている「9ボックス・アプローチ」を使って、小さな案件ではあるが、受注につなげたことも数回あった。
その先輩の方は、いつしか日本法人の社長にまで上りつめていた。その地位に何年かおられた後、独立して自分の会社を作られた。独立後に再会したとき、ソリューション・セリングの技法の話をして感謝の意を表したら、先輩は思いもかけぬことを言われた。「セールスはたしかに大事だ。だが、もっと大事なことがある。それは、良い販売マネジメントをすることだ。」
「販売マネジメントって、何ですか? 営業マンの管理のことですか。」
「違うよ。セールスの状況を定量的につかんで、案件のパイプライン・マネジメントをきちんと転がしていくことだ。」
「パイプライン・・案件リストのことですか?」
「そうだけど、市場から会社に価値をもたらす管だから、パイプラインと考えた方がいい。」先輩は続けた。「パイプラインに十分な案件が詰まっているか。それぞれの案件はどれだけの規模と受注確率があるか。営業プロセスのどのステージにあるか。こういうことを常時リアルタイムに把握しておかなければならない。ぼくは毎週、営業のキーパーソンを集めて状況をチェックしていた。営業会議には必ず出席させる。出張の場合も電話会議で参加させる。案件数が不足して、四半期ごとの販売目標に満たない場合は、フォールバック・プランを取ることを考える。外資系は四半期毎に成績を求められるから、これができないと生きていけない。」
私たちの社会が「モノ余り社会」となってから、すでに20年近くたつ。その間、販売はつねに苦戦し続け、生産は供給能力過剰と言われ続けた。これを背景に、生産から販売へのパワーシフトが起きたことは、すでに前回述べたとおりだ。企業内でも、サプライチェーン間でも。それでは、そのパワーシフトに見合うだけの、販売手法やマネジメントの仕組みは、発達したのか? 「○○生産システム」や「△△ウェイ」という言葉は製造業で有名だ。だが、それに対応する販売システムや営業ウェイは各社で開発されたのか?
販売側にパワーシフトが起こるということは、言い換えるならば製造業が全体として「受注産業」化した事を意味する。見込生産から、Pull型の受注生産へ。今や製造業の9割は受注生産に大なり小なり関わっていると見ていい。したがって、営業部門は、販売だけでなく、物流も、生産手配も、設計依頼も、すべてをコントロールするセンター機能を果たすことが求められる。
同時に、営業にはもう一つ主要な機能がある。顧客を、自社の提供する製品と価値に誘導することである。顧客、とくにB2Bの顧客は、つねに何らかの問題意識を抱えていて、それを解決してくれる手段を求めている。スコップが売れるのは、顧客が(スコップという道具自体ではなく)地面の穴を必要としているからだ、という格言が販売の世界にはある。顧客の悩み(ペイン)を掘り当て、自社製品による解決に誘導すること、それによって高い価値(値段)で製品を売ること。この Push型の作業こそ、パイプラインを引くべき付加価値の「源泉」である。
今日の販売部門は、上記のようなPull型業務とPush型業務の二つを同時に摺り合わせて行う、きわめて高いインテリジェンスを求められる仕事に変わっている。対象市場は、世界史上例を見ないほど高度に教育の行き届いた、かつ高齢者の多い知的大衆と企業社会である。そこから個別ニーズをくみ上げて、自社のサプライチェーンを動かす。もしこれが可能であれば、わたし達の競争力は、他のどの国にも負けない先進的なものになっているはずである。
では、現実の日本はどうだったのか。ここでくだくだと述べることはしない。読者諸賢が、実際に見てこられた状況から推察できるであろう。わたし達は明らかに、新しい市場ニーズという酒を入れるにふさわしい、新しい革袋としての「販売マネジメント思想」を作ることに失敗している。あの先輩の言葉を借りれば、“腕の良いセールスマンは時々いるけど、能力のある営業マネジメントができる人は、日本には滅多にいない”。相変わらず、個々の営業マンを売上で追い立てるだけの管理がやられていないか。
以前、「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ」で戯画化した二種類のマネジメント手法は、じつは典型的な営業部門と生産部門のやり方を元にしたものだ。豹のやり方では、
組織全体の成績=Σ(個人の成績の総和)
になる。一方、狼のやり方では、
組織全体の成績 > Σ(個人の成績の総和)
となる。当然であろう。生産においては、個人ではできないことを組織で実現しているのだから。なのに、なぜ販売はいつまでたっても個人プレーの合計だけで指標をとらえるのか。わたし達の社会は、あらためて、「新しい販売マネジメント思想」とそのシステムを作り直すことが求められているのである。念のため言うが、わたしはあえてパワーシフトを「営業=文系」対「技術=理系」の対立図式で論じないようにしてきた。文系理系のどちらが得か、というような矮小な議論ではないのだ。むしろ必要ならば、これからはどんどん理系マインドを持った人が販売側に入っていく方がいい。ちなみに例の先輩は、工学博士の学位を持っている。
見えないパワーシフト − 生産から販売へ
(2010/11/14)![]()
'90年代のはじめ頃、私たちの社会に目に見えない地殻変動があった。それは、人口階層ならびに学歴階層の変化である。それらはもはや、底辺の層が厚く頂点に近づくほど数の減るピラミッド型の構造から外れてしまっていた。ところで戦後から高度成長期にかけての日本企業を支えた組織体制は、じつは組織階層のピラミッドと人口・学歴のピラミッドの“三角形の相似則”を基本に成り立つ、「終身雇用制・学歴制」だった。しかし、この相似則は'90年頃を境に成立しなくなったことを統計が示している。
にもかかわらず、企業社会は成果主義年俸制や派遣労働依存といった小手先の人件費対策で問題を繕おうとし、環境変化に応じて自らを変革することに失敗した。−−これが、私たちの経済を長く覆う不調と不協和音の根源についての、わたしの推論の一つである。
関連エントリ:「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか」
「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾」さて、'90年代前半に進行した、もう一つの「見えない革命」とでもいうべき事象があった。それは、企業内ならびにサプライチェーン全体における、生産側から販売側へのパワーシフトである。
'90年代前半といえば、ちょうど『サプライチェーン・マネジメント』(SCM)という新しい概念が米国で生まれ育つ時期に当たる。SCMは、「需要と供給を同期化する」ことを中心コンセプトとする経営概念だ。このような思想が生まれたことは、米国は'80年代後半には、生産と営業のパワー・バランスの問題に直面していたのだろう。ちなみに、SCMが日本に本格的に紹介されたのは'90年代の後半になる。手前味噌だが、わたしも著者の一人として参加した「サプライチェーン・マネジメントがわかる本」('98年刊行)あたりが、その嚆矢だったように思う。
ではその、パワーシフトとはどのような現象か。それを説明するために、きわめて単純化したモデルを考えてみたい。これは以前「プロジェクト貢献価値の理論」(2006/11/27)に挙げた例だが、一部重複になる点をお許しいただいて、再び使うことにしよう。
いま、発明家(技術者)と実際家(セールスマン)が二人でガレージ・カンパニーをはじめようとしている。発明家は、わずか20万円ほどの部品を組み合わせて、100万円相当の価値を持つ新装置を作る画期的アイデアを考案した。セールスマンの方は、もしうまく製品ができたら、自分が売り込み先を捜してやろう、ともちかける。つまり、この二人の事業は、「製造」と「販売」の2アクティビティからなる、きわめてシンプルな製品開発プロジェクトである。
ただし発明家は、実際にその装置を組み上げられるかどうかは、初めての試みだけに五分五分の見込みだと思っている。一方、セールスマンは、もしうまく製品ができれば、9割方は買い手を見つける自信がある。製造のコストは20万円。販売のコストは、まあ電話代や交通費が多少かかるだろうが、ほぼゼロとしよう。
さて、ここで問題である。うまく新製品が出来上がり100万円で顧客に売れたとしたとき、この二人の貢献は、どちらがどれだけ多いだろうか? いいかえるならば、両者のフェアな取り分は、いくらずつであるべきか? ちょっと、考えてみていただきたい。
このままでは難しいと感じるなら、ためしに、この問題をもっと単純化してみよう。アクティビティを「製造販売」たった一つにまとめてしまおう。かかる費用は20万円。失敗するリスク確率は、100%−50%×90% =100%−45%=55% となる。もし、このプロジェクトがうまくいけば、収益は100万−20万=80万円の価値を生み出す。
ところで、このプロジェクトがはじまる時点では、まだ100万円の売上は確実ではない。売上の期待値は、100万×45%=45万円にすぎない。一方、失敗しても部品代20万円は確実にかかる。したがって、プロジェクトの期待価値は、45万−20万=25万円だったのである。言いかえると、「製造販売」アクティビティの成功は、25万円のプロジェクト価値を、80万円の価値に増大させたわけだ。差し引き、80万−25万=55万円の価値増大に貢献したことになる。
これを別の言い方で表現すると、「アクティビティの貢献価値」とは、そのアクティビティの開始時点で期待されるプロジェクトの収益(=価値の期待値)と、その完了時点での価値の期待値の差分で表現される。そして、プロジェクト価値の期待値とは、各アクティビティのもつ失敗のリスク確率 rと、アクティビティ遂行に伴うキャッシュフロー(費用Cならびに収入S)で決まるのだ。
では、最初のように「製造」「販売」の2アクティビティからなるプロジェクトではどうなるか、順に計算してみよう。プロジェクトの期待価値は次のようになる。
「販売」完了時点:100万−20万=80万円
「製造」完了時点:100万×90%−20万円=90万−20万=70万円
「製造」着手時点:100万×90%×50%−20万円=45万−20万=25万円
したがって、
「販売」アクティビティの貢献価値=80万−70万=10万円
「製造」アクティビティの貢献価値=70万−25万=45万円
つまり45:10が、発明家とセールスマンの貢献の比率なのである。(注:両方のアクティビティの貢献価値を合計すると、55万円となって、さきほど計算した1アクティビティのプロジェクトの貢献価値と同じになる。つまり貢献価値は、合成しても加法性が成り立つ)
それにしても、よく考えてみてほしい。通常の経営論では、製造は「コストセンター」で、販売が「プロフィットセンター」と考えられている。しかし、上記の例で貢献価値を比較したら、コストセンターであるはずの製造部門の方が、より大きな価値を生み出しているのだ。これはなぜか?
答えは、「製造」の方がリスク確率が大きく、作業の難易度が高いからだ。そう。サプライチェーンにおける貢献価値は、各作業のリスク確率(難易度)に依存する。数式の証明は省くが、他の条件が同じであれば、アクティビティの貢献価値は、そのリスク確率rに比例することが示せる。つまり、難しい仕事ほど、価値が高いのだ。そして当然、その担当部署の発言力も強くなる。
ちなみに、上の例で「販売」のリスク確率を失敗ゼロ、としたらどうなるか。「販売」の貢献価値もゼロになることは、すぐ分かると思う。失敗するリスクの全くないアクティビティは、必要かもしれないが、貢献はゼロなのである。発言力も、まったく無いだろう。企業内における発言力や意思決定への影響力といったパワーは、基本的にその部門が担当する仕事の難易度、リスクの大きさによって支配される。むろん貢献価値の数値どおりに人が感じたり動いたりするわけではないにしても、組織の中の心理的パワーを、この理論はある程度説明してくれる。
(実際のプロジェクトでは、アクティビティ数は2よりもずっと多いし、並行する作業も存在するが、こうした複雑な系でも、貢献価値を計算する手法は構成可能だ。興味のある方は日本経営工学論文集 Vol.60 No.3Eに発表した拙論文をご参照ただきたい)
さて。戦後の高度成長期、日本企業のサプライチェーンでは、どこが一番難易度が高かったか。いうまでもなく、設計・製造である。溶鉱炉や製油所を例に挙げるまでもなく、重化学工業における製品を大量連続に供給するのは、技術者達の努力の賜物だった。製品は、つくる端から売れた。“水道の蛇口をひねるように”物品が消費者の元に供給される−−これが大手電機メーカーの理想だった。
しかし、2度の石油ショックを経て'80年代後半にさしかかる頃、日本国内の市場はすでに変わっていた。『モノ余り現象』という言葉が現れ、プラザ合意で欧米諸国に内需拡大を約束したものの“もう買いたい物がない”と大人たちがささやきはじめた。人々の購買意欲は'88-91年頃のバブル経済でいったんは高まったが、バブル崩壊とともに吹き飛んだ。販売は、消費財であれ生産財であれ、どこも競争が厳しく、手こずるようになった。前回「営業活動という名前のプロジェクト − そのリスクとリターンを考える」にも書いた通り、三社合い見積が常態化すれば、受注のリスク確率は2/3にもなってしまう。一方、生産側は技術の成熟とともに、安定して製品を作れるようになった。生産側のリスクは格段に下がったのである。
これが、設計・製造部門から販売部門への企業内パワーシフトの背後にあった事情である。昔、'80年代頃までは、「販社」というのは製造業の子会社であった。「キヤノン販売」「エプソン販売」といった会社名は、その頃の事情を示していた。ところが今や、工場が製造子会社となる時代である。統計があるかどうかは知らないけれど、'90年代以降、製造業のトップには営業畑出身者が目立つようになった。
サプライチェーン全体では、それはもっと大規模に行われた。その昔、松下電器の製品は近隣のナショナル販売店(電気屋さん)から買うのが当たり前だった。今、Panasonicの製品はみな、大規模小売店とか通販から買うではないか。もはや製造業には、販売チャネルを御するパワーは残されていないのだった。
では、「技術の日本」で起きた生産から営業への見えないパワーシフトは、何をもたらしたのか。それについては、長くなったので、また稿をあらためて書こう。
夏休みのある日のこと。予備校から帰ってきた息子が、ニコニコしている。理由を聞くと、「今日、予備校で『実験屋台』を見てきた」という。予備校の広い部屋に、いくつか実験用の机を屋台のように置いて、それぞれの種類の物理・化学・生物などの実験を講師がやってみせるイベントらしい。むろん生徒も好きな実験屋台で、自分で手を出して触ることができる。「炎色反応が、あんなキレイな青や緑の光を出すなんて、すごい!」と素直に感動したらしい。
さらに聞くと、驚くべき事が分かった。息子は高校の3年間、一度も理科の実験というのをしていない、というのだ。物理も化学も生物も、である。息子の通った高校は、特別な進学校ではない。平均的な生徒の通う、ごく平凡な私立高校だ。それなりの規模があり、一応の施設もそろっている。実験室だって、ちゃんとあったはずだ。でも、一度も実験はさせてもらえなかったという。あるとき、生物の教師に実験のない理由をたずねたらしい。その答えは、「人数も多いし、費用もかかる。教科書で読めば分かるはずだから」だった。
実験をしないで科学の教育が可能だと思っている高校の姿勢に、驚くよりも、あきれた。およそ誰だって、五感にふれる体験無しで、身につくものなど無い。単なる言葉による知識など、時間とともにすぐ忘れられていくからだ。英語も国語も社会もしかりだが、理科では何よりそれが必要である。わたし自身は不器用だから中学から大学院まで、実験には難儀したが、それが不要だと考えたことはなかった。自分で苦心して取ったことのないデータは、分析できない。その数字の意味が、体でピンとこないからだ。生徒が理系に進むか進まないかの問題ではない。いやしくも理科が必修科目である限り、それを「分かる」ためには実験が必須なのである。
3年間まったく実験がないなどと分かったら、父母会に出て学校にクレームをいうべきだったか、と考えている内に、逆のことに気がついた。もし、わたしと同じ意見の人が多かったら、とっくに学校は対応していたはずだ。ということは、むしろ実験を無駄だと考え、もっと教科書での講義を望む父母の声が強かったということではないか。実験で事故や怪我をされるのを高校側が恐れたのかもしれぬ。事実、そうでなければ、なぜ実験室も持たぬ予備校がわざわざ、『実験屋台』などというイベントをひらくことになるだろうか?
わたしの息子は、典型的な「ゆとり教育」の世代である。この、教科内容の30%を削減した「ゆとり教育」なるものは、世の中ではかなり辛らつな批判を浴びている。ただ、知識教育偏重の詰め込みを排するという意図の元に行われた「ゆとり教育」がもたらしたものは、父母としての当事者から見ると、明らかに逆の結果であった。子供たちが学校と塾で過ごす合計時間は増え、進学競争はむしろ激化・低年齢化した。小学生が塾通いのため家族と一緒に夕食をとる事ができない状況は、明らかに異常である。
なぜこうなってしまったのか。幼児教育→小学校→中学→高校→大学→とつづく教育システムは、人材供給のサプライチェーンだと言っていい。サプライチェーンにおいて、このように「意図と逆のことが起こる」場合、その背後にはかならず、『局所最適』の発想がある。
「ゆとり教育」の最も根本的な誤認は、教科内容の量を削減すれば、教育にゆとりができる、と教育者側が考えた事だ。教育というものが教師と生徒だけの閉じたシステムなら、正しいだろう。親たちは、だが、そうは考えなかった。“良い大学”や“良い高校”に自分の子供を入れることが教育の目的であり、そのためには、同年代の競争に勝たなければならない。学校教育の内容が減るなら、その分を塾で補わせなければならない、というのが親たちの発想だった。中学の公的教育が頼りにならないなら、私立中学に入れねばならないと大勢が信じた。
こうして、小学生の「夜の塾通い」が蔓延するようになった。年端のいかない子供に夜間生活を強いて、遊びの時間を奪うのは、正常な発達をさまたげる−−というような私の意見は、たぶん少数派だったろう。息子の小学校の教師は、「塾での勉強に差し支えるから」という父母に配慮して、学校で出す宿題を減らしたほどだ。昼の学校は添え物で、夜の塾の教育がメインの座を占める雰囲気が漂いはじめた。
その結果どうなったのか? 学力が下がったのか上がったのか、論議は実はまだ決着していない。はっきりしているのは、子供の時間に「ゆとり」が無くなったことである。著書『時間管理術』(日経文庫)でもこのサイトでも何回も書いたが、“ゆとり時間”は考えるための時間として必要である。時間管理の目的は、一見、何もしていない無駄に見える時間−−落ち着いて考えるための時間−−を作り出すためにある。日々に追われると、考えることができなくなる。試験問題を睨んで「考える」のは、正解という枠内での思考ゲームに過ぎぬ。本当に大事なのは、正解のない自分の生き方について、考える事ではないか。そして10代というのは、まさにそれが一番重要な時期ではなかったか。
教育というものを「PDCAサイクル」「顧客満足」など、ビジネスの語調で語るのが最近の流行りである。だが、加工時間を3割減らしました、だから工場内にゆとりが生まれました、というのはサプライチェーンを知らぬ経営者だ。あまりに発想がプロダクト・アウトである。工場での作業は、製品に対してマーケットが求める機能や品質によって決まる。つまり、需要側の品質要望によって決まるのである。では学校における品質要望とは何か。それは「上の学校の受験に合格する」ことだ、と多くの父母達は信じている。教育を改善するなら、まずこの要求自体の品質を改善しなければならない。ここをそのままにして、加工作業だけ削減できると思うのは愚かである。
だが、話はこれだけでは終わらない。なぜ、親たちはそんなにまでして一流といわれる高等教育を子供に望むのか? なぜ「一流大学」に入れたがるのか。
それは、日本社会が「学歴」という奇妙な人材品質保証制度(Qualification)で、今だに動いていると信じられているからである。この品質制度は、定期的な更新登録も研修教育もない。18歳のある日、入試問題に対してグッドなパフォーマンスを示せれば、その後一生ついて回るのである。その試験は、知識を主に問うものだ(だから体験など不要だと思って、高校は実験をやめてしまう)。そして現実、多くの企業が、出身大学名によって採用のスクリーニングをしている、といわれる。大学名を伏せて募集しても、秀才型の志望者を採用してしまう例があったほどだ。
(私たちの社会における、試験ならびに採用制度の背後には、中国の科挙を無意識に見習った影響があるのではないか、とわたしは疑っている。試験が知識重視であること、合格者が社会のトップとして登用され生涯優遇されることなど、いかにも似ている。そもそも「秀才」という言葉自体、科挙の用語だった)
結局、私たちの社会の教育をダメにしているのは、学歴というレッテルで人を登用する官庁や企業なのである。産業界の一員として、わたしにもその責任の一端はある。だから、再度言おう。教育を良くしたかったら、まず実社会の側が、入学歴でなく、能力とパフォーマンスで人を採用・評価する仕組みを作らなくてはいけない。18歳の一時点ではなく、その後の継続的な努力と体験を含む学習が、良い処遇の条件にならなくてはいけない。文科省がゆとりのない教育を正したかったら、真っ先にやるべきことは、意味不明な中央官僚の「キャリア」システムを捨てて自己改革することだったはずである。
サプライチェーンというのは、求められるアウトプットから、その機能と構造が決まる。サプライチェーンの側が自分だけの発想で、勝手に「最適化」をしても、それが需要側に受け入れられなかったら、代替サプライチェーンが発達するだけだ。なぜなら、最適性とは、目的関数に対して使う言葉だからだ。目的関数とは何か。それは、使用者とアウトプットとの関係で決まる価値属性なのである。
関連エントリ:
→『「わかる」ことと「知る」こと』
組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾 (2010/09/23)
日本がバブル経済絶頂期だった1990年頃、一つの社会的な地殻変動が静かに進行していた。それは人口ピラミッドの変化で、三角形から釣り鐘型にはっきり移行した。年功序列制による組織ピラミッドの三角形との相似則がこの時点で崩れはじめたにもかかわらず、企業は給与制度の小手先の変更や非正規労働形態へのシフトなどで対応しようとした。本来うまくやれば、実務経験も深く専門知識も持つプロフェッショナルを多数抱えた、きわめて先進的な社会に日本が変貌できるチャンスだった。にもかかわらず、それをふいにして、管理層ばかり肥大した機能不全な企業群が出現してしまった、という事情を前回書いた。
これに関連して、もう一つ思い出すことがある。たしか浜松で行われたスケジューリング学会シンポジウムでのことだったから、もう8,9年も前のことか。宿舎での懇親会で、ある経営コンサルティング会社の方が、日本を代表する映像音響機器メーカーを例に、こんなことを言われたのだった。「S社の人事部門が、就職志望学生の履歴書からあえて大学名を削除したことがあるんですよ。真の実力ベースの採用を目指したんですね。ところが、採用決定後、ふたを開けてみると、上位採用者には東大卒がずらりと並んだそうです。」
このコンサル氏は、結局、優秀な大学を出た人間は大学名を伏せても優秀だ、とおっしゃりたかったらしい。しかし、わたしの印象は違った。“それはつまり人事採用担当部が、そつのない秀才型の人間を好んで選ぶようになっている、ということだ。”−−そして、S社から転職してきた隣の部の後輩の顔を思い出しながら、こう考えた。“人事がそんな状態では、こりゃあS社の将来は危ないぞ・・”
むろん、これは単なる伝聞である。事実とは全く相違しているのかもしれない。いや、そうであってほしい。大学名など見ず、ほんとに実力のある人間を採用し続けているのだと思いたい。
わたし自身は、絵に描いたような『愛社精神』とはおよそ無縁な人間だ。しかし、自分の勤務先について、一つだけ自慢しても良いかな、と思うことがある。それは、わたしの会社は大学を出ていなくても社長になれる、と言うことである。事実、今から二代前の社長は高専卒だった。偶然ながら、わたしが入社したときの社長も高専卒だった。日経平均225社の中でも、大卒以外の社長はかなり少数だろう。でも、エンジニアというのは、学歴ではなく、その腕前が全てなのだ。その証左として、大卒でなくてもトップになれる事実を、わたしはちょっぴり誇りに感じた。
実際、高専卒の人は(わたしが出会った限り)ほとんどみな努力家でまともだった。あるとき、「高専卒の人ってたしかに優秀ですよね」と、飲み会の席で部長に言ったら、あとでその部長も高専卒だったと聞いて赤面したこともある。そういうわけで、わたしは他人の学歴について興味がないし、事実、部下の出身大学名も知らない。ただ専攻した学科はむろん聞く。機械屋なのか、化工屋なのか、はたまた土木屋なのかは大いに重要だからだ。
話を戻すが、1990年に起きた、もう一つの地殻変動的現象があった。それは、高卒者・大卒者の数の逆転である。'80年代までは、高卒者の方が多かった。しかし今日では、高校卒からの大学進学者は53%を超えている(出典:総務省統計局ホームページ)。大学進学者は戦後ほぼ一貫して増え続け、他方、高卒での就職は'80年以降、どんどん減ってきている。
なぜか。答えは誰でも知っている。大卒の方が得だからだ。高卒で就職して、工員や店員になっても、たいした賃金はもらえない。いや、それ以上に、高卒では上にあがれないのだ。高卒で部長になれるトヨタのような会社は例外で、重厚長大産業など多くの伝統ある企業では、今日でも「高卒は課長どまり」の不文律がある。高卒はブルーカラーであり、それを統括し管理するのが大卒のホワイトカラーである。なぜ大卒は管理できるのか? それは、高等教育により専門知識を身につけているから、という訳だ。
それどころか、わたしの勤務先では今日、技術系はほとんど修士卒をとっていて、高専卒はおろか大卒さえろくに採用していない(ですよね、人事部長様?)。わたし自身も修士卒だ。これは技術系の内容が高度化しすぎて、教育年数が長くなってしまった影響だろう。学部卒はいわば「仮免」で、修士を出てやっと「一種免許」、という感覚が、採用側にあるのだ。
官庁系や、官庁に準じる企業などでは、さらに「キャリア」と「ノンキャリア」の区別があることもご存じだろう。「キャリア組」というのは、優秀なる大学を卒業し、栄えある試験にパスして任命された少数の人たちで、彼らは最初から幹部候補生である。20代の終わりには、若くして所長だの署長だのといった地位に就く。ノンキャリアは、どんなに現場の実務でながくcarrierを積もうとも、幹部には昇格できない。
そう。組織における管理階層は、じつは学歴のピラミッドでもあった。最上層には、一部の学歴エリートがおり、その下には大卒のホワイトカラー、さらにその下には高卒のブルーカラー、という構造である。それぞれの階層の中は、さらに「年功序列」制によって支配される。これが高度成長期以来の組織構造の基本原理なのだった。
この構造は、大学進学者が高卒就業者を上回った'90年初頭以来、崩れてしまった。学歴の三角形と管理階層の三角形の間の「相似則」が、成立しなくなった。高い技能を持つ工場の熟練工が、どんなにメディアで持ち上げられても、生涯賃金の点で不利な職工になり手が無くなってしまったのである。おかげで、最近では、日本の現場力は危機的な状況に陥りつつある。たとえば産業で使う大型・高速の回転機は、いまだ韓国の追随を許さず、日本と欧州の独壇場である。にもかかわらず、優秀な溶接工が払底しているおかげで、注文を受けても国内で製造できぬ事態にいたりつつあるのだ。
それでは、どうしたらいいのか? 国が進める「ものつくり大学」のように、一部の優秀な技能工に高等教育を授けることが解決策なのか?
わたしは、まったく逆の解決策があると考えている。それは、「大卒者が高度な職人を目指すこと」である。大卒や院卒の人間は、なぜ紙とパソコンだけを道具とする抽象的な仕事ばかりに限られるのか? 具体的なモノや自分の手先・五感に関わる仕事をしてもいいではないか。
事実、ある機械メーカーでは、数年前から、大卒・院卒を製造現場に入れ、NC旋盤だのマシニングセンターのオペレーションを任せているという。その結果、面白いことに、大卒者は短期間のうちに技量を現すばかりでなく、前後工程の調整・とりまとめなど、従来は工程管理者が立ち入って手配しなければならなかった仕事を、現場側が作業区内で解決できるようになったという。それはやはり、高等教育によって得た広い視野が助けになっているのだろう。
むろん、このような施策が受け入れられるためには、等級・給与制度の改革、労働組合の説得など、多数の障害が待ち受けている。つねに成功するとは限らぬ。しかし、今後も増えるばかりの大卒者に、ホワイトカラーの「管理の仕事」だけを期待するのは、不自然である。1人のブルーカラーを、2人のホワイトカラーが「管理」するのは明らかにおかしい。現在は不況のため、大卒者の就職率は危機的状況だが、かりに景気が少し戻ったとしても、すでに学歴ピラミッドの構造的不均衡はとりかえしがつかないのだ。
ちなみに、産業機械の業界で、欧州(具体的に言うとドイツとイタリアだが)にまだ競争力がある理由は、明瞭だ。この二つの国は、『職人芸』が生きていて、社会的に尊敬されているのである。ドイツのマイスター制度はよく知られているが、イタリアにもディプロマ制がある。逆にフランスの職人制度は'70年代には危機に瀕していると、人類学者レヴィ=ストロースが嘆いていた。
近年、私たちの国では農業や漁業、あるいは手工業の職人の仕事に興味を持つ若い人が増えてきている。すでに農業志望者の数は急増中だ(農業人口自体は激減しているのに!)。ここにはブルーカラーからの転職も多く含まれているが、従来ならばホワイトカラー候補者だった人もたくさんいる。「高度な教育を受けた若い職人」という、歴史上例を見ないリソースを多数有する社会となれば、国際的にもまったく別の将来像が見えてくるのではないだろうか。
手にならす夏の扇と思へども ただ秋風のすみかなりけり 藤原良経
夏の盛りに、ふと秋の予兆を感じとれる詩人の「気づき」は、まことに素晴らしい。ふつう私たちは、過ぎてしまってから「そういえばあの時が・・」という形で気づくのだ。真っ盛りにいるときは、なんだかその季節が永遠に続くように錯覚する。とくに、ことが経済やお金、つまり私たちの『願望』に関わるときは、そうである。
1990年といえば、日本はバブル経済の絶頂期であった。「どちらを向いても景気の良い話ばかりである」と経済評論家は書いた。日本の地価も株価もスカイロケットのように上昇し、“世界中の人々が最先端都市・東京を一目見ようと集まって来ている”と青山あたりのカフェバーでビジネスマン達が得意気に叫んでいた。その年に、変化の予兆を気づいた人はとても少なかったにちがいない。
どんな変化か? それは、人口ピラミッドの構造変化である。次のグラフを見ていただきたい(出典:総務省統計局ホームページ )。まず、1950年(昭和25年)のグラフだ。非常に単純な、三角形のプラミッド型をしていることがわかると思う。終戦直後、まだ日本が敗戦の傷から癒えようとしている時代だ。
一方、現在はどうか。2番目のグラフが、2010年のデータだ。全くピラミッド型をしていないのが分かると思う。ちょっと遠目で見ると、まるで男女が背中合わせに顔をそむけあっているかのように見える。若年人口は、年を追うごとにどんどん減っている。高齢者比率が、とても高い。
では、いつからこのような形に変わってしまったのか。それが1990年なのである。グラフを10年ごとに追いかけてみると、'80年頃までは、からくも「ピラミッド」的だったことが分かる。日本が高度成長をしていた時代は、すなわち、年齢の順に人口が減っていく社会であった。
そして、この人口のピラミッドはちょうど、企業や官公庁などにおける組織の「管理のピラミッド」と相似形だったのだ。組織は三角形で、頂点にトップマネジメントがおり、上層部に役員、中間層にミドルの管理職、そして一般労働者層の順に、人数が増えていく。役員は複数の部長を統括し、部長は複数課長を統括し、課長の下には課員が大勢いる−−そうしたスタイルが普通だった。
この人口ピラミッドと組織階層ピラミッドの相似則を保証するものが、『年功序列制』であった。組織における年功序列制と前例主義とが、伝統的マネジメント思想、すなわち安全第一主義に同じ根を持つことは、「リスクに対する新しいアプローチ」にも書いたとおりだ。高度成長期というのは、多少の景気の波はあれど、ずっと“成長し続けた”時代だから、二つのピラミッドの相似則は、同じアプローチで拡大路線を進み続けるには最適だったわけだ。
この相似則は、1990年頃を境にして、崩れていく。'90年代は、「部下を持たない管理職」が増えていった時代だ。私自身も'90年代に中間管理職の職位になったが、何年間も部下はゼロだった。“いったい誰を管理するんだ?”−−それが私たちの共通の疑問だった。全社員の中の平社員と管理職社員の比率も、じりじりと1対1に近づいていった。そもそも、社員の平均年齢自体が上がっていったのだ。
このようなことを背景として、仕事の上での変化が生じた。組織間の「斜めのコミュニケーション」が増えたのだ。上司や先輩を飛ばして、別の部門の管理職と直接、仕事のやりとりをする。古き良き時代には、部門間のやりとりは必ず部門長を通すのが、ルールだった。でも、だんだんと守られなくなったのだ。なぜなら、管理職ばかりが増えて、実務をやる若手の人間が相対的に減ってきたからだ。おまけに、'90年代に入って、新規分野だ新技術だと、複数部門をまたぐ仕事がどんどん増えていった。かくして、管理職は大勢いるのに、ノーチェックの文書は逆に増加した。これで、仕事の品質が保てたら、奇跡である。
誰のせいでこうなったのか? −−誰のせいでもない、私たち自身が望んだことなのだ。長生きしたいと、皆が望んだ。衛生的な社会にしたいと、皆が努力した。高度な教育を受けて知的な職業に就きたいと、大勢が考えた。その結果、長寿社会が到来し、結婚年齢が上がり、出産率は低下した。人口ピラミッドの構造変化は、皆の夢が結実した結果ではないか。それは、予見されるべきことだったのである。
年功序列制の崩壊に直面して、企業のとった行動は、人事制度の改革だった。人事部門は競って、「成果主義」と「年棒制」の導入に走った。その陰で、じつは人件費抑制も隠れたねらいの一つだった
だが、その効果が上がらなかったことは、皆が知っている。会社の人事制度は変えたが、目標管理に用いるモノサシは変えなかったからだ。相変わらず、大量見込生産時代の「売上高」「市場シェア」「製造原価低減」「稼働率」重視で、それを目標管理と成果主義に組み込んだだけだった。時代が求める、個別受注生産・短納期化へのシフトや、付加価値生産性の向上は二の次だった。
その結果として、売上も利益も低下した。この問題を新製品の多数投入で乗り切ろうとしたから、オーバーヘッド(販売管理費)は上がるばかりだ。そして、組織内に自社の「高コスト体質」をなじる声が蔓延した。その先には、早期退職制度があり(でも大事な人がまっ先に辞めた)、非正規労働者への傾斜、アウトソーシング、そしてオフショア分業の進行が続いていった。企業はいわば頭を残しして、手足や胴体を切っていった訳である。
私たちはどこで間違えたのだろうか。一つには、人事制度という狭い枠の中で、局所最適を考えたことにあるだろう。だが問題は、マネジメントの思想と位置づけにある。マネジメント(職務)と地位(職位)を混同してしまったのだ。そして経験値(年功)とも。それこそが年功序列制の最大の弊害だった。
では、経験値のある人は、管理職になるかわりに、何になるべきだったのか? 答えは「プロフェッショナル」Professional、である。この言葉を私は、知的で専門的な独立型職業という英語本来の意味で使っている。自分の専門の経験知に基づき、税務や会計や保険労務のプロフェッショナルになる、あるいは技術屋なら、米国でいうProfessional EngineerやAnalystになる−−それこそまさに、シニアなベテラン達にふさわしい位置づけではないか。
そして企業は、社内外の相談に乗り問題解決に力を貸す自立した「プロフェッショナル」の職種を確立し、自社内で、あるいは社会において、積極的に利用するべきであった。Professional Serviceの質と量で、その人の処遇や評価を決めるべきであった。
だが現実はそうではなかった。私たちの社会は大勢の自立したプロフェッショナルを得るかわりに、組織体制にしがみつくことで保身をはかる、ピラミッドの中上層を大量に抱えることになった。かくて、存続だけが自己目的化した組織が出来上がった。いいかえれば、「決めない人々」の組織となったのだ。世の中はどんどん変化していく。なのに、誰も何も決められず、何もかえられない組織に。
こうして、組織は機能不全に陥っていったのだった。だが、加えてにもう一つ、要因があったように思われる。このことについては、稿をあらためて、また書こう。
(この項つづく)
あなたの上司はなぜバカなのか? − 矛盾したルールにしばられる (2010/07/27)
その日、私は駐在先企業のキャンティーンで、一人で昼食をたべていた。何年か前のことだ。回りにはボソボソと、聞き取りにくいフランス語の響きが満ちている。その中にふと英語の音が聞こえたので、つい耳を傾けてしまった。鋭角な英語の音は、仏語の靄の中を通り抜けてくる。ちょうど穏やかな満ち潮の入江に磯が屹立するように。話の雰囲気からすると、一人は英国人、もう一人は米国人らしい。お互いは知りあいではなく、たまたま出張先のこのフランス企業で顔を合わせたにすぎないようだった。
「近頃は、出張の待遇がきつくなったよな。忙しい日程で、疲れるよ。」
そう一方が言えば、他方も同調する。
「ああ。まったくこの頃のボスときたら、二言目には、Bottom line, bottom line, だ。金のことばかりで、技術のことは二の次だ。」
「うちもだよ。昔はこんなじゃなかったのにな・・。」エンジニア同士の話は、どこの国でもよく似た愚痴になるな、と思いながら聞いた。Bottom lineというのは、おそらく'90年代頃からビジネスの世界で流行りだした熟語で、ようは利益のことだ。案件の収支を計算するとき、こんな表をつくる。
売上高
− 材料購入費
− 外注費
− 人件費
− 出張旅費等の経費
---------------------
(利益)利益は表の一番下の行に来るから、bottom lineというらしい。ここから転じて、結果とか結論のようにも使われる。
そのすこし前、私はプロジェクトの同僚たちと、電子商取引サイトの技術的な問題について議論していた。参加していたのは、開発マネージャーのR、プロジェクト・マネージャーのJ-P、技術系バイヤーのPhとJ、オペレーション・マネージャーの私だ。日本人の同僚のH君もいたかもしれない。問題を吟味して、考えられる解決策のオプションを3つに絞り込んだ。その上でプロマネのJ-Pは(彼は辣腕だが他人の意見も一応聞くタイプなので)、技術的可能性、信頼性、ユーザの使いやすさ、変更の影響範囲、そして費用の5項目から、それぞれ評価し投票して、一番良い案を決めよう、と言い出した。出張中のディレクターB氏が戻ってきたら、それを提案して裁可を得るのだ。
黒板に3×5で15項目の評価を書き出した後で、ふと気づいて私が言った。「これって、3番目が一番安いな。だとしたら、B氏は3番目を選ぶに決まってるよ。だって、彼はお金しか見ないもの。」−−この一言で全員が白けたような眼を私に向けた。事実かも知れないが、だとしたらこの議論の始末はどうしてくれるんだ。皆がそう感じたにちがいない・・。私は一人で黙々と昼食のお肉を噛みながら、それを思い出していた。
私は別段、ディレクターのB氏を嫌っているわけでもないし、馬鹿だと思っているわけでもない。むしろ率直にいうと、彼とはウマが合う。文系出身で、50歳過ぎで、典型的な保守系フランス人だが、頭は良いし、世の中をよく見ている。ただ、経営者から彼に課せられた採算収支への期待値が厳しすぎるので、物事にあてがうモノサシは一つしかあり得ないのだった。
マネジメントとは何だろうか。この問いを、すでに何度かここに書いている。マネジメントとは、ゴールを達成するために、人に働いてもらうことだ。自分で手を動かすことは、マネジメントの範疇には入れない。では、良いマネジメントとは何なのか。
それを考えるには、ダメなマネジメントというものを想起してみればいい。決めない、気づかない、学ばない、見通さない、人を(命令や強制以外では)動かせない−−これらが、ダメな上司の典型だろう。サラリーマンの酒場の話題とくれば半分以上が上司やライバルの品定めだが、まあ上司が良い採点をされることは滅多にない。でも、あらゆる職場が、そんなにも無能な上司であふれかえっているとしたら、世の中はどうして成り立っているのか?
それはもちろん、仕事の需要と仕組みがあるからだ。とくに需要が右肩上がりの時は、どんなマネジメント上のチョンボでも、色の白いは七難隠す、みたいに隠してくれる。決めなくてもリスクは小さいので大丈夫、気づかなくても変化はないので大丈夫、学ばなくても見通さなくても、明日は昨日の拡大延長だから大丈夫。仕事は縦割り組織の中で完結するから、部下だけ動かしていれば大丈夫。そして、部下は勝手に動いてくれる。なぜなら、目の前の需要が仕事をどんどんつくり出してくれるからだ。在庫が増えようが原価が上がろうが、bottom lineの利益が出続ける限り、だれも叱責されない。
こうしたことは、市場がピークを迎え右肩下がりになってくると成立しない。前にも書いたが、ある製造部長は、生産担当役員からは「工場原価を下げるためにもっと在庫を削減しろ」と命令され、営業部門からは「夏の商戦を迎える前にどんどん製品を作りだめしておいてくれ」と要求されて、頭を抱えていた。市場環境の変化はこのように、モノサシの間の軋みとして現れがちなのだ。矛盾する二つのモノサシを当てられたら、誰だって身動きできなくなる。
あなたの上司がもしバカに見えたら、どう考えるべきか。もしかしたらその上司は本当に、個人的に無能なのかもしれない。そして、私の部下だって無論、私のことをそう思っているに決まっている(笑)。でも、もしかしたらその上司は、相矛盾する複数のモノサシをあてがわれて困っているのではないか、あるいは会社の与えるモノサシの間の優先順位が狂っているのではないかと、疑ってみてもいい。たとえば、どんな時もコストが最優先の尺度だ、といった“Bottom Line症候群”のように。そうだとすると、その無能な上司のかわりに、自分がボスの地位に立った時も、同じように部下から無能に見える可能性が高いだろう。
マネジメントに問題があるとき、それを上司個人の属人的な特性だけで説明するのは簡単だ。しかし、それは私たちの眼を問題の本質からそらせてしまう。Aをやっても非難され、Aをやらなくても非難される状況では、誰もが無能に見えるしかない。
組織のヒエラルキーの中で上に位置する者ほど、異なる複数業務の情報を得る立場にある。製造部長は加工と組立と品管の状況を知り得る。事業部長は販売と製造と技術の状況を知り得る。なんらかの問題が起きたとき、現場の担当者はその解決案を考えるだろう。しかし、加工工程での解決案が、品管工程に影響する可能性がある場合は、どうするか。その場合は、製造部長に案を持ち上げて、製造全体の視点から比較評価してもらう必要がある。製造部長は、自部門の目標と制約から見て最適な案を選定するはずだ。このようにマネジメントの階層とは、情報収集と問題解決の階層でもある。
ところが、自部門を評価する基準が複数あって、優先順位が決まっていなかったら、あるいはトレードオフ関係にあったらどうするか。どの答えを出しても、必ず誰かに非難されることになる。アクセルとブレーキを同時に踏んだら自動車だってトラブるように。
あるいは、技術的長期的なファクターを無視して、目先の費用だけで判断することを強いられるのかも知れない。すなわち現実の複雑な事象に対する評価尺度の優先順位が、あまりに単調化しているのだ。いずれの場合も、組織が抱えるルールが、現実と矛盾していることを示している。
中間管理職がバカに見える時は、気をつけた方がいい。会社の『仕組み』、組織を動かす目標尺度のシステムがバグっている可能性が高いからである。そういう時に、自分もバカにならない方法は、たった一つしかない。それは、与えられた尺度の中だけでベストな「正解」を他所に探すのではなく、今よりも広い視野で、あるべきルールの体系を自分の頭で考えてみることなのである。
マネジメントにはテクノロジーがある (20910/07/11)
拙著『時間管理術』にも書いたことだが、私は毎朝、会社の席に着くと、会議等の予定とTo Doリストを確認し、一日の時間の使い方を決めることにしている。ほんの5分程度の作業である。そして、一日の仕事の終わりには、朝決めたその日の予定作業表に実績時間を記入し、日誌に転記して(必要ならば)ごく手短なメモをつける。ほんの10分足らずのことであるが、これを日課にしている。
計画や、記録分析は、Plan-Do-Seeの一環である。これらがあってはじめて仕事のマネジメント・サイクルが完結する。すなわち、朝の段取りも夕方の日誌も、小さくても自分自身の仕事のマネジメント業務だと言える。
ところで、あるとき仕事上の大先輩と、議論になったことがある。その大先輩も一日の作業予定表を朝作る習慣なのだが、それは会社に来る前に(家で)作成しているし、皆もそうすべきだという。私のように会社に来てから定時の中でやるのは、間違っている。なぜならそうした作業は、仕事を始める前に済ませておくべき事だから、という訳だ。
私はその先輩の主張にはいささか不満だった。その日の段取りは定時の前にするべきか、また片付け・記帳・道具研ぎは定時の後でするべきか、職場によってまちまちなことは知っている。定時の間は直接、プロダクトを生産する仕事に当てるべきだという主張も、理解できないわけではない。たしかに私のように計画や記録を定時の中でやると、稼働率は、わずかであるが低下する。
しかし、その論法を延長していくと、どうなるだろうか。以前、好川哲人氏の文章の中で、「プロジェクトの工程表を作る仕事は時間外でやれ」とプロマネに命じているIT企業のことを読んだ記憶がある。プロジェクト・スケジューリングの作業は、システムを開発する業務には直接貢献しない、間接業務である。だから定時外に残業してやれ、というのがその会社の論理らしい(残業代を払うのかどうかは不明)。大先輩の主張は、これと同じ論理にたどり着かないだろうか。そうすると、私の会社のプロマネさんたちは皆、定時外にすべての仕事をやらなければならなくなってしまう。
考えてみると、マネジメントとは本来、「余計な仕事」であって、組織全体の稼働率を下げるものであると言ってもいい。ではなぜ、それでもマネジメントは必要なのか。そこに意義があるとすればいったい何なのか?
それは、複数の人間が働く際の、「全体の生産性を上げる」「全体の有用性を確保する(正しい方向に機敏に進む)」「全体の安定性を維持する」からだ。そのために計画があり、監視とコントロールがあり、分析評価と改善がある。かりにマネジメントに全体の1割の時間を割いたとしても、そのおかげで組織の生産性が2割以上アップすれば、十分元が取れることになる。生産性が2割向上、というとちょっと信じがたいかもしれない。だが、無駄な作業や、やり直しによるリワークや、手待ち・セットアップ変更等による時間のロスは、うっかりすればすぐ2割以上発生するものだ。だから別段、おかしな数字ではない。
それでは、マネジメント自体の質、その上手下手は、どこで決まるのだろうか。「マネジメント自体の生産性、有用性、安定性」はどうしたら確保できるのか。「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ」で戯画的に描いた違いは、どうしたら克服できるのか。
能力のある人間をマネジメントの職におけばいい、と普通は考える。技術力のある人間をおくべきか、それとも経験のある年長者が良いか。いや、リーダーシップのある者こそ重要だ−−判断基準ははさまざまだが、「誰にやらせるかが大事」という点では意見が一致するようだ。だが、私の意見は異なる。
マネジメントの質を確保するためには、マネジメントの「技術」をまず学ぶべきではないか、というのが私の主張である。技術とは、個人差に依存せず、誰がやっても70点から80点の結果を出せるようなプロセスと道具を言う。それはたとえば、To Doリストであり、ガントチャートであり、クリティカル・パス、WBS、活動基準原価、優先順位法、リスク登録簿、等々の技法・ツールに結実している。つまり、マネジメントにはテクノロジーがあるのである。
残念ながら、今日の日本において、こうした技術は学校では(たぶん)習わない。理工系の教育において重視されている技術とは、電気工学・機械工学・材料工学などなど、対象分野固有の科学法則を応用するテクノロジーである。これらを総称して「固有技術」という。これに対して、上記マネジメントのテクノロジーを、「管理技術」と呼ぶ。管理技術は固有技術と異なり、特定の分野や業種にかかわらず汎用的に適用できるのだ。マネジメント・テクノロジー(とくに計画系の技術)こそ、このサイトの主要なテーマである。だが、多くの大学では、「固有技術」と「管理技術」という概念の違いさえ、ろくに教えぬままである。
マネジメントは、いうまでもなく「人を動かす」「人に働いてもらう」ことである。それは会社の管理職だけの仕事ではない。あなたが家族に何かを買ってきてもらうよう頼んだら、それも「マネジメント」である。あなたが顧客に何かデータをまとめて提示するよう依頼したら、あなたはマネジメントをしているのだ。そして、人が人を動かす行為である以上、そこには必ず、属人的な、ヒューマン・ファクターが入り込むだろう。だが、だからといって、マネジメントにテクノロジーがあり得ない、という事にはならない。知的な技術スキル(ハードスキル)と、人的なスキル(ソフトスキル)は、車の両輪なのだ。
そして、マネジメント専業の人間が必要かどうかは、仕事のスケールに依存する。小さな、ほんの数人が数週間かけてやる程度の仕事なら、マネジメント業務は片手間で済む。大きな仕事になればなるほど、その量は増えて、フルタイムでマネジメント専業の人間を必要としてくる。だが、その場合でも、マネジメントはあくまで「役割」である。上下関係ではないのだ。
マネジメント論をややこしくする原因は、それが役割と機能であることを忘れて、「人の上に立つ」「人を導く」といった概念に多くの人が心を奪われるからである。人間は社会的動物で、その集団の中の位階に対して、強い競争心を持って生まれてきている。だれがお山の大将になるか、ボスザルの地位を得るかで争い合う。だが、地位と、マネジメントの職能を混同するべきではない。地位は、マネジメントの技術レベルを保証するものではないからだ。
私が、プロジェクト・マネジメントにリーダーシップ論はいらない、とくりかえし述べているのも、この理由による。別に、プロマネにリーダーシップが一切要らない、と言っているのでは無いので誤解しないでいただきたい。あれば、あるに超したことはない。ただし、その前に、マネージャーには、マネジメント・テクノロジーを身につけておいてほしいのである。リーダーシップは、かなり属人的な、もって生まれた資質の部分がある。もしリーダーシップがマネージャーの唯一最大の要件だということになると、テクノロジーなどどこかに吹き飛んでしまう。だが、どんなに気合いと根性をこめても、クリティカル・パスよりもずっと短い納期でプロジェクトを終わらせることは、原理的に不可能である。
今日の閉塞した世の中では、一種の『リーダー待望論』のような空気が漂っている。それがリーダーシップ論の根底にあるのかも知れない。だれかすばらしい人格のリーダーが出てくれば、魔法のようにすべての悩みを解決してくれる−−そんな無意識の期待が、世に渦巻いているかのようだ。だが、そんな魔法のようなリーダーがそういるはずもない。一人に期待しては、すぐに失望し、またもう一人に希望を託しては、すぐに裏切られた気持ちになる。こうして、驚くべきスピードで、「キャラクター」たちが消費されていく。そうでなければ、なぜこの国は1年も経たずに次から次へと首相を取り替えていくのか?
マネジメントには魔法使いも銀の弾丸もないのである。もうディズニーランドのような夢からは覚めるべきだ。そして、もう一度、自分の足で「テクノロジー」を探しに出かけるべき時なのである。
豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ
(2010/07/06)![]()
暑い日の昼下がり。豹たちがサバンナの樹の下で会議を開いている。
「おい。全員そろったか。」
「大体、そろいました。ただ、ジミーの奴が、遅れています。来る途中、灰色ウサギを見かけたとか言って、横道それて追いかけてきました。」
「またかよ、あいつは。つまんねぇ小物狙いするんじゃねえって、あれほど言ったのに。」
「あとは全員来ています。」
「よし。スタッフ・ミーティングを始めよう。乾期ももうそろそろ終わりだ。この頃だいぶん獲物も減ってきている。暑さで体力も消耗してる。だが、もう少しの辛抱だ。雨期になればガゼルの群れが川を渡って戻ってくるだろう。いいか! ここが勝負どこだ。」
「へい!」
「あいつら、大群になって川を渡る。そうすりゃワニも近寄りにくいからだ。だが、中には必ずガキを連れた奴らがいる。足手まといで、川を渡るのも遅くなる。狙い目はそこだ。渡りきって岸に上がる頃にはヘトヘトになってるはずだ。そこを樹上から一気に襲うんだ。」
「わかりました。」
「−−ハァ、ハァ、遅れてすいません。」
「ジミーか。どうだったよ、戦果は?」
「いやあ、ウサギの奴、すばしっこくて。20分も追いかけましたが、最後は見失っちゃいました。」
「ざまぁねぇな。いいか。俺たちゃ、誇り高い豹だ! サバンナの勇者だぞ。大物を狙え。風下から、音を立てずに、一気にやるんだ。おいジミー、爪を見せてみろ。」
「・・へい。」
「何だこのヘボ爪は。木の幹で爪を磨くんだ! いいか、スピードと爪の鋭さが、仕事のカギだ。俺は一度しか言わねえぞ。お前たちも良く覚えておけ。じゃ、今日はこれで終わりにする」
「あの、リーダー。」
「何だ。」
「本社から、地区の今期の実績と、来期の目標を数値で挙げろって、指示が来てますが。」
「ちっ、本社の奴らと来たら! 自分じゃ何一つしねぇくせに、いちいち偉そうに言いやがる。今期の戦果ぁ? そんなもんいちいち覚えてられるか、しゃらくせえ。」
「でも何か答えませんと。」
「じゃあお前が適当に答えておけ。来期の目標も『ガゼルをたんまり』とでもな。あいつら、現場で走り回ったこともないくせに、数値目標だと? そんなもんお天道様だって知りゃあしねえさ。狩猟の仕事ってものには波があるんだ。」
「まったくです。」
「過去のことなんかいくらほじくり返したって、獲物が増える訳じゃない。俺たち豹はな、未来志向の生き物なんだ。誰かに“昨晩はどちらにいらしたの?”と聞かれても、“さあ。昔のことは忘れたぜ”−−こう答えるんだ。」
「リーダー、それって『カサブランカ』のハンフリー・ボガードの台詞じゃ」
「馬鹿。古典からの引用、ってのを知らねえのか。教養のねえ奴らだ。この仕事、運がよけりゃ、大物にありつける。うまく仕留めたら、たらふく食って、あとはぐっすり眠るのよ。眠って、夢の中で、次の狩りの獲物のことを想う。これが俺たち豹の、未来計画ってもんなんだ。」・・・同じ日の午後。狼たちが、岩の上で車座に這いつくばって、会議をしている。
「おい。全員そろったか。」
「ジョンがケガで休んでる以外は、皆そろいました。」
「よし。スタッフ・ミーティングを始める。議題は、今日と明日の狩りの配員だ。」
「はいっ。」
「乾期ももうそろそろ終わりだ。今年の乾期は長かったから、草を食い尽くした草食動物たちが、水を求めて上流の台地に移動してきているはずだ。お前たちも何か兆候を見なかったか?」
「そういえば、水牛と共生しているホロン鳥を、最近見かけました。」
「どこで何羽? もっと正確に言え。」
「一昨日、西側の台地で2羽。それから、昨日、南の森の入口でも3羽。」「こっちでも、二つ岩の上を4,5羽飛ぶのを今朝見ました。」
「よし。明らかに増えているな。良い知らせだ。他の者も、見たら正確に報告するんだ。やつらは数頭から数十頭で、まとまって行動する。だが、こういう移動時はしばしば、はぐれ野牛が出るもんだ。これを狙おう。」
「ラジャー。」
「西の台地の谷筋を狙う。皆で散開して、はぐれ野牛を探す。見つけたら、すぐに遠吠えで仲間を集める。1分以内に集まれるような距離を保て。野牛は警戒心が強い。すぐに近づかずに、遠巻きに包囲するんだ。いつもの隊形でいく。わかったな!」
「はっ。」
「7〜8匹で相手を囲う。お前とお前、斜め後ろから威嚇して、野牛を谷の奥に追い詰めろ。両サイドは若手にやらせよう。ロン。フロントはお前に任せる。うまく相手を誘導しろよ。獲物が疲れて行き詰まったところを、俺がタイミングを決めて背後から飛びかかる。そしたら皆で一斉に攻撃だ。だが野牛は力が強いから気をつけろよ。とくに問題は角だ。去年、ビルが命を落としたのを覚えているだろ。」
「ハイ。」
「あのときのLessons Learnedは、うかつに野牛の顔の前に飛び出るなと言うことだ。低い位置から、後ろ足と首筋を攻撃する。今日はこれから、その練習に当てる。」
「あの、リーダー。」
「何だ。」
「本社から、地区の今期の実績と、来期の目標を数値で挙げろって、指示が来てますが。」
「乾期の成績は、大型動物 17頭、中型動物24頭、小型85頭、だったと思う。木の幹に牙で数を記録してあるから、一応確認してくれ。来期は、中型を30頭以上に増やして、大物への依存率を下げたい。そのためにも、もっと走るトレーニングが必要だ。だが気候変動で獲物が減るリスクはあるな。その場合のフォールバック・プランとしては、川向こうの地区と協力して、ガゼルの群れを狙うことも考えよう。」
「わかりました。そう報告しておきます。」
「いいか。俺たちの仕事はチームワークが命だ。抜け駆けは禁物だ。いつも言ってるから、耳にタコだろうが、あえて繰り返す。連絡を良くしろ。そして、経験したことは必ず覚えて、次に活かすんだ。」・・・−−あなたの組織は、豹のタイプだろうか、それとも狼だろうか? 組織のマネジメントには、いろいろなスタイルがある。おなじ会社の中でも、部門によって違うこともあるだろう。だが、この違いは、必ずしもリーダーの個人的資質だけで決まるものではないことに注意してほしい。
両者の一番の差は、「時間」の概念の差に現れる。あるいは、「記憶」と「予測」への固執と言ってもいい。
『猫の額』という言葉があるように、ネコ科の動物は前頭葉が小さい。これはどうやら、時間的な展望を持たずに暮らしていることを示すらしい。ネコは常に“今を生きる”タイプの動物なのだ。彼らは過去にとらわれず、未来のことを事細かく見通したりしない。獲物が目の前にあれば、一気に襲う。彼らは半夜行性の狩人で、とくに夜は視界が狭いので逃げられると追えない。その場で勝負をつけるしかないのだ。必然的に個人プレーで行動することになる(ネコは個人主義者だ)。そして成果は、個人的スキルと、獲物への遭遇機会とに大きく依存する。だから先など見通しても意味がないと言うことになる。
これに対してイヌ科の動物は集団で狩りをする(だから「一匹狼」は生存率が低い)。役割に応じた分業と、総合的判断に長けており、吠えによるコミュニケーションも発達している。社会的順位をつねに意識しており、獲物を食べる順序も厳格に決まっているという。相互扶助的だが、ある意味で軍隊的な息苦しい社会とも言える。ただ、組織的な仕事の成果は、個人のスキルにはあまり依存しないので、安定する。狩りが下手なものがいても、そこそこの結果が得られるのだ(豹の組織における成果は、個人の成果の合計にしかならない)。その分、予測も立てやすい。
どちらのやり方がベターなかは、仕事の特性によって決まると言っていい。ただし、一つだけ確実なことがある。もし、大勢で大きな仕事をしたかったら、狼型のやり方になるのは必然なのだ。猫は会社に向かないのである。
桜の園、または道具としての組織論について (2010/04/14)
またや見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙 (藤原俊成)
古典歌人達が、「しづ心なく花の散るらん」とか「花にもの思う春は経にけり」と歌うとき、その「花」は桜のことを指すというのが約束だった。ただしそれは、薄緑の若葉とともに花を咲かせる山桜である。平安時代や鎌倉初期には、今で言うソメイヨシノはまだ無かったからだ。
サクランボは桜の樹になる果実のはずだが、桜の名所をどれだけ歩いても、初夏にサクランボを見つけることはない。それはソメイヨシノが交配でつくられた不稔性の桜だからだ。花は咲いても実は結ばないのである。この木は、基本的に接ぎ木で増やすので、遺伝的に言うならば、すべて同一である。そのため性質も均一で、一斉に花が咲いて一斉に散る。桜の木が一本だけ生えている姿は儚なげな情緒が漂うのに、たくさん並んでいるときは、かすかに不穏さのようなものを感じるのは、もしかしたらクローンの集団だからなのかもしれない。
接ぎ木とか挿し木といった繁殖法を見ると、植物というのは本当に不思議な生き物だと、ときどき思う。ジャガイモにトマトを接ぎ木して、地下と地上に別々の実りをもたらすことさえ、やろうと思えばできる。接ぎ木は、明らかに別の個体同士の接合なのに、一つの生き物にインテグレートされるのである。ゆっくり時間はかかるが、まさに「すり合わせ型」だ。
これに比べると、動物というのは構造がはっきりしている。蝶であれクジラであれ、羽が何枚とかヒレが一対とか構成が明確で、ブレがない。勝手に個体同士が接合することもない。人間ならば眼が2個、口は一つで、心臓が一個で腎臓は2個、足は2本といった具合に、「部品表」を書くことができる。各部品の機能は明確に決まっている。むろん血液や体液のやりとり、神経系や内分泌系の情報交換、温度や圧力の環境管理など、さまざまに複雑なインタフェースで他とつながっているが、部品と見なすことは可能だろう。
西洋人は対象を分析してこまかく分解していき、それで物事を理解し把握するアプローチが得意である。西洋医学の行き着く先が、部品としての臓器の移植や再生交換に至るのは当然かもしれない。彼らは身体というものを、モジュール構造のモノとして見たがる。だから故障したり古くなったりしたら、新品と取り替えるべきだとの発想にいくのだろう。つまり、体の器官というのは、道具なのである。だが、誰にとっての道具なのか。
彼らの身体観は、その延長としての「組織」観に無意識につながっているのではないかと感じるときがある。いつだったか、外資系の、若くて優秀な経営コンサルタントが、企業の組織に関する混線しがちな議論に割って入って、「でも組織形態は、経営目的を達するための道具じゃないですか!」と発言し、それを聞いた周りの人達が一瞬、しんと静まるという光景があった。会社員は皆、組織論が大好きである。誰もが自分の組織や立場を守ろうとする。次第次第に組織自体が自己目的化する。それを、「道具にすぎない」と断定する冷静さに、目を覚まされた思いをするのだろう。
M・ポーター流の『専門化』による競争戦略の行き着く先が、“個別機能に特化した組織がモジュールのように組み合わさって、新しい全体性を持ちうる組織アーキテクチャー”だと、前回書いた(「専門化と総合 − 組織戦略の二つの方法」 2010/04/06)。企業というのは、その業態に合わせて、だいたい似たような機能組織を持つようになる。人事部とか財務部とか資材部、物流部、技術部、製造部、情報システム部といった風に。これらの機能部門が、会社組織を成り立たせる「部品」である訳だ。そうなると、陳腐化した部品、機能の低下した非効率な部品ははずして、新しく高機能な、かつランニング・コストの小さな部品に取り替えよう、との発想に至るのも必然である。
この流れにしたがって起きた現象が、アウトソーシングであった。物流機能の3PLへの移管、情報システム部門の独立化や売却、福利厚生の外部利用化などは、その典型である。それに続いて起こっているのが、工場の製造子会社化、ならびにEMS(製造受託会社)への移管であろう。“うちの工場は高コスト体質でかなわん。海外の安い会社に作らせたらいいやないか”という訳である。こうして「グローバル化推進」のかけ声とともに、中国生産がブームになり、インドネシアやベトナム生産がその後を追うことになった。設計(とくに詳細設計)を外部に出すことも広まりつつある。
しかし、本当にこれら機能部門はアウトソース可能なのだろうか。私が提起しているのは、「アウトソースすべきかどうか」の是非論ではなく、「可能かどうか」の技術論である。欧米流のモジュール型組織アーキテクチャーが可能であるための条件は、はっきりしている。それは『個別機能のインタフェースが明確に規定され標準化されている』ことだ。そうでなければ、それはモジュールにはならない。標準インタフェースが存在しなければ、それは「すり合わせ型」部品だと考えられる。
そこで、読者諸賢に一つ質問したい。皆さんは、現在たずさわっておられる職務について、職務記述書(Job description)をお持ちだろうか? また、現在の業務について、ワーク・パッケージのインプット・アウトプット・使用ツール等を規定した定義書は、お持ちだろうか。
私自身の経験でいえば、フランスの企業との合弁事業で働いていたとき、人を新たに雇う場合は職務記述書の作成が、まず第一に要求された。だが、日本の本社では職務記述書など見たことがない。私の勤務先はエンジニアリング会社なので、さすがにWBSとワーク・パッケージの標準は一応規定している。が、プロジェクトごとに例外も多い。中間管理職としての日々の業務は、その例外との戦いみたいなものだ。
ISO9000の品質マネジメントシステムを持っている企業は、業務フローの記述をまとめているはずだが、その規定は運用上の裁量範囲(いいかえれば曖昧さ)を残している場合が多い。つまり、日本企業の実態としては、「すり合わせ型」の組織アーキテクチャーが主流なのではないか。
こうしたすり合わせ型の組織で、ある機能部門だけをモジュール部品として交換しようとしたら、どうなるか。機能不全の、木に竹を接ぐ結果になるのは火を見るより明らかである。にもかかわらず、こうした『組織戦略』が流行しているのは、欧米流のマネジメント思想を、自分の立脚する環境を見ずに、直輸入して実行しようとするからであろう。
それは、働く個々人についても同様である。製造部門の直庸を派遣工に取り替える。設計者も外注に切り替える。満足な職務記述書も用意せずに。その結果、従来は現場の工夫で押さえ込んでいた問題が、つぎつぎに表面化してくる。管理スタッフの負荷がどんどん増えていく。
だったら職務記述書や業務標準定義書を充実していけばいい−−これは一つの解決方向であろう。ただし、組織のアーキテクチャーは、製品アーキテクチャーや、サプライチェーンの方向性と、微妙に、しかし密接に関連していることを思い出してほしい。すり合わせ型の製品アーキテクチャーは、プル型のリーンな供給指示に結びついており、モジュラー型製品は在庫をもつプッシュ型供給指示が便利である。では、個別仕様部品の多い、すり合わせ型製品で、設計や購買の業務標準定義書を簡単にかけるだろうか。書くためには、バリエーション・リダクションやGT化といった、相当高度な工夫が必要なはずである。
組織は経営の道具にすぎない、というテーゼは明瞭で、分かりやすい。専門化にもとづく組織アーキテクチャーは、何となくカッコいい。だが、分かりやすさや格好良さだけで、複雑な物事を決めることはできない。周りがみんなそうするから、といって行動するのでは、実を結ぶことのない桜の園のクローン集団と同じになってしまう。まして何も捨てない「総合」型組織アーキテクチャーで道具論を振り回したら、滑稽なだけではないか。
私は「すり合わせ型」が良いか「モジュラー型」が良いか、二者択一の議論をするつもりはない。あるいは、組織論には第三の道を探るべきなのかもしれない。そもそも、会社を構成する人々は、会社の道具だろうか。そして私の身体は私の道具だろうか? それを考える基準とは「何か」を、もう一度問いたいのである。
専門化と総合 − 組織戦略の二つの方法 (2010/04/07)
もう10年以上前のことだが、SAP社の開催するユーザ・コンファレンス「SAPPHIREジャパン」が、横浜のみなとみらいで開催された時、マイケル・ポーター教授の講演を聴きにいったことがある。ご存じと思うが、ポーターは「競争優位戦略」とか「バリューチェーン」の概念提唱で有名な経営学者である。
その講演でポーター教授は、日本企業と韓国企業を、よく似た欠点を持つ、と言って叱った。わが国では昨今、官民を挙げて日本企業と韓国企業との優劣比較がお盛んだが、彼の目には、両者は共通に見えたのだ。
その共通の欠点とは何か。それは「総合」という名前の、切り捨て戦略の無さである−−そう、ポーター教授は断じた。これが、両国企業の安定した成長を阻害しているのだ、と。
彼の主張を理解するためには、その前に少し知っておくべき事項がある。彼の学説の依って立つ根拠である。そもそもポーターは、経済学の若き俊英として出発した。彼の若き頃、経済学は完全自由市場における理論的性質について、さかんに研究していた。それによると、市場が完全競争の状態に近いほど市場成果が良くなる、と考えられている。つまり、売り手と買い手が多数存在し、参入が自由に行われ、取引される商品が均質で、取引主体が情報を完全に有している状態では、資源配分が「効率的」に行われることが証明される。経済学で「効率的」というのは、いいかえれば売り手(企業)が過剰な利益を占有できず、消費者に還元されている状態をいう。
経営学の研究分野に進出したポーターは、この証明を逆手にとって、考えた。企業が収益性を安定的に高めるためには、完全競争の市場を避ける必要がある。「効率的な」市場ではなく、あまり競争のない市場や、あるいは競争程度の低い状況を創出するべきである−−彼はそう議論を進めた。逆転の発想である。
ポーターによると、市場の競争状態は、(1)新規参入、(2)代替品の脅威、(3)買い手の交渉力、(4)売り手の交渉力、(5)既存企業間の競争程度、によって規定される。そして、競争状態が分かると、その産業に属する企業の平均的な収益率が予測できる。さらに彼は、企業が競争優位な立場に立つための一般的戦略として、
・コストリーダーシップ戦略
・差別化戦略
・集中戦略
の3つをあげるのである。しかし、この話は「企業戦略論」の教科書や入門書にいくらでも書いてあるので、ここでは深入りしない。こうした理論を説明するかわりに、ポーター教授は、見事な戦略を実行している企業の例を講演であげた。忘れもしない。そのとき彼があげたのは、IKEAとNeutrogenaとSouthwest Airlinesであった。
IKEAについては、どんなビジネスモデルの企業か、すでに知っている人が多いだろう。ニュートロジーナは、無香料・無添加の石鹸で女性に知られた企業である。ニュートロジーナは肌に対する刺激がとても少ない。その特徴を、同社は、皮膚科の専門医にサンプル試供品を無料で配布する事によって、消費者に知らせた。肌荒れに悩む女性に、皮膚科の医師が“試しにしばらく使ってみたら”といって渡す。その効果を知った患者は、それをずっと使い続ける。こうして、ニュートロジーナ社は、ドラッグストアの店頭に山積みされる石鹸の安売り競争に巻き込まれることなく、自社の価格を維持し続けたのである(現在はohnson & Johnsonに買収された)。
Southwest航空を知っている日本人は少ないかもしれない。だが、巨大航空会社がひしめく米国航空産業において、同社は特別の地位を占めている。Southwestは、中小規模の都市を結んで飛んでいる。大都市では、わざわざサブの小さな空港に就航する。日本でたとえていえば、千歳空港ではなく札幌丘珠空港に飛んでいるようなものだ。
Southwestは、原則として手荷物だけで、スーツケースなどの荷物預かり(check-in)サービスをしない。そのおかげで、旅客はすっと空港に行って、すっと乗り降りできる。また飛行機も定時に離発着できる。機が遅れたり、時間変更したりするときの最大の問題が、あずけた荷物だからである。
Southwestはまた、どこの路線でも、極力同じ種類・同じサイズの機体を運行する。路線によってジャンボを飛ばしたり747にしたりといった使い分けをしない。これは、機体のメンテナンスや、いざというときの機体繰りを簡単にするためである。
こうしてSouthwestは、顧客満足を確保しながら、できるかぎり他の航空会社との競争に巻き込まれないようにしてきた。だから同社だけは、長い間安定して利益を稼ぎ続ける事ができたのだ。収益を上げたければ、価格競争は避けろ。誰もが参入する、利幅の薄いムダな事業は捨てて、集中しろ。競争を避けるところに、競争戦略はある。これが、ポーター教授の説明であった。
ひるがえって、日韓の企業はどうか。この二つの国では、企業が大きくなればなるほど、「総合」と称していろいろな市場に手を広げる。その結果、どこに特色がありどんな哲学があるのか不明な大企業ばかりになっていく。何も捨てない。「何かを選ぶとは、それ以外のすべてを捨てる事だ」とポーターはいう。したがって、何も捨てない企業には、何の戦略もないのだ、と彼は断定する。
彼の講演を聴いた帰り道、歩きながら考えた。たしかに指摘は当たってる。○○建設とか、○○重工とか、○○電子、○○製作所といった企業名(空欄は好きな漢字やハングルで埋めてください)を想起させる。そして、くやしいことに、自分の勤務先も『総合エンジニアリング』を標榜しているのだった。
捨てる事には、勇気がいる。撤退には、事実とてもエネルギーがかかる。だから、難しい。とはいえ、何にでも手を出したがる「総合」志向は、また同時に、捨てられない、賭をできない、リスクをテークできない「三ない」思考でもある。戦略や仮説をもてない。したがって、「決めない人々」で社内はあふれかえる事になる。総合企業が沢山ある社会では、皆が同じ事業に参入したがる。だから必然的に過当競争に向かっていく。
もちろんアメリカにだって総合巨大企業は沢山あり、大儲けしたり大損したりしている。そんなことはポーターも百も承知だ。だが、彼はたぶんSouthwestのような、ビジネスモデルの設計思想が明確で、はっきりした戦略に賭けるタイプの企業が好きなのだろう。設計思想とは見切りだ、と以前このサイトにも書いた(「私はまだDOSアプリを使っている」)。何もかも製品に詰め込む事はできない。だから、何を取って何を捨てるかが、設計の思想なのだ。
ポーターの論理に従うと、必然的に組織は専門化の方向に向かう。何でもできる、何でもやりたがる総合化の組織ではなく、これだけしかしない、これだけは誰にも負けない、そういう組織に。そして、そういう個別機能に特化した組織がモジュールのように組み合わさって、新しい全体性を持ちうるというのが、この論理の先に待ち構えている組織アーキテクチャーだということになる。
こうして、専門化と総合という二つの方法は、「プッシュとプル − サプライチェーンの二つの方法」や、「モジュラーとインテグラル − 製品アーキテクチャーの二つの方法」につながっていく。だが、いつものくせで、長くなりすぎたようだ。この話の続きは、稿をあらためて、また書こう。
超入門・問題解決力 − 問題とは何か、課題とはどう違うか (2010/02/19)
Kさん、おたより楽しく読ませていただきました。この混沌とした時世に、それでも何か光るブレイクスルーが(あるいは、お言葉を借りれば「ブレイクスルーの予感が」)感じられるのは、何より心強いことです。
確かに、私たちの生きている時代は、課題だらけです。日本は『経済一流、政治三流』などと威張っていられたのは過去のこと。お偉方の頭の中では、いまでも産業技術では世界トップと思われているのかもしれませんが、実務家の日々の仕事で見えてくる姿は、だいぶん擦り切れてくたびれかけた「超一流」、品質も技術も物流も販売も、困難をかかえて制度疲労しているように思えます。
それでも、日本の製造業を訪問するたびに感じるのは、そこに働く人たちの優秀さと誠実さでしょう。この底力をうまく活かせれば、まだいろいろな可能性があるのだなと、御社のチャレンジを見て思います。ただ、そこでいつも障害となるのは、組織のマネジメント力の弱さ、意志決定の遅さ、そしてKさんのおっしゃる「問題解決力」の不足でしょう。
これは、縦割りの機能型組織だけで業務を回してきた製造業が、新しいことに挑戦する時に、典型的に現れるようです。各人、持ち場で最善を尽くす−−それは得意です。しかし複数部門にまたがる課題が発生した時は、それを解決できないまま、「様子見」と「判断の先送り」だけで時間を浪費してしまう。Kさんが、新サービスの上市期間(Time to Market)について、アジアのライバル企業に先を越されないかと心配されている理由は、この点にあると思います。
それを乗り越えるために、「課題管理表」をつくり、関係者間で共有されるというアイデアには、私も賛成です。解決しなければならない項目をはっきりさせて、皆で共通認識すること。そして解決のオーナーシップ(つまり担当者)を決めて、期待すべき解決の期日を設定し、対策と最新状況を表に書くこと。これはまさにプロジェクト・マネジメントの第一歩であり、機能型組織の壁を越えたクロス・ファンクショナルな取り組みの開始だとも言えるでしょう。
ただ−−Kさんには「またか」と言われそうですが−−私には一点、気になることがあります。Kさんは「問題」と表現されたり「課題」とおっしゃったりしておられますが、課題と問題はどこが違うか、ご存じですか? この二つは、違うのです。なので、課題解決と問題解決には、別の方法が必要なのです。
「問題とは何か」−−まあ、こんな変な問題を言い出すのは、私ぐらいかもしれません(笑)。課題とは問題を、ちょっとかっこつけて言い直しただけだ。現場で「問題」と泥くさく呼ぶことを、役員会議室の中では「課題」と称する。そんな風に思っている人も、多いと想像します。ですが、試しに英語でどういうか、考えてみてください。問題は"issue"とか、"problem"ですよね。では、課題は? "assignment"とか"challenge"、ないし"task"になるでしょう。「解決する」はsolveとかresolveですが、課題解決を"assignment solutions"とは、まず言いません(これではまるで数学の宿題の解答みたいです)。
課題とは、能動的なものです。“あるべき姿”を思い描いて、現実をそこに向かって変えていくためのポイント−−これが課題です。コンサルタント風の言い方をすると、"To-be"と"As-is"の間のギャップを詰めていく作業が「課題」なのですね。これを解決するためには、まず“あるべき理想像”を明らかにしなければなりません。つまり非常に意識的で自覚した活動だ、ということがお分かりいただけると思います。
ところが、「問題」は違います。問題とは、(意識的にであれ無意識であれ)“期待していた状況”と、現実の状況のギャップを指します。「今期の売上げが問題だ」という時、それは「今期の売上げは期待していたほどは上がりそうもない」という悩みを指すわけです。客先が品質にクレームしてきた−−これは、“客先はクレームしない”という無意識の期待、当然こうだろうという「思い込み」がつくり出した問題なのです。
ということは、どうなるでしょうか。問題は、外から割り込んでくる障害で、受動的なものだと皆が考えている。しかし、本当は、無意識に持っていた「期待の質」がつくり出したものなのです。だから、一つつぶしても、きっとまた別の問題が浮かび上がってきます。なぜなら、「期待の質」が変わっていないからです。そして、最も困る期待とは、「何も変化しないはずだ」という期待なのです。
日本が一人あたりGDPで中国に抜かれるのが問題だ、と言う人は、無意識に、日本は当然2位であり続けるはずだ、と信じている。どうしてそう信じられるのか、私には分かりません。それよりは、日本で雇用が十分生まれるには、どの程度のDGPで「あるべき」なのかを考えた方が、生産的なように思えます。失業問題は、たしかに「問題」です。まともな人は、まともに暮らせるべきだ、というのは当然の期待ですから。
Kさん。『問題解決力』に類する本は、書店に行って企画広告やビジネス書のコーナーにいけば、いくらでも見つかります。私は、そこに書いてあるような手法論を、いまさらご説明しようとは思いません。問題解決に本当に必要なのは、どのような視点・視野から問題を設定したのか、というスタンスです。たいていの場合、問題設定のスタンス自体を間違えている。
典型的な例が、トレードオフに関連する問題です。在庫は減らしたい。でもリードタイムは短縮したい。二つの漠然とした期待があるが、その間にトレードオフが生じているのです。こういう時、部門の都合でどちらかの問題だけを「解決」するのは簡単です。でも、もしかしたら、部品消費量を見直すサイクルを半期から月単位に短縮する、ということが「あるべき姿」なのかもしれません。だとしたら、目の前の問題解決は、ちっとも課題解決に近づいていないのです。
優秀な人ほど、自分の得意とする技術領域に持ち込んで「問題」を解決しようとする傾向があります。製造コストが問題だというと、機械屋は設計で、システム屋はソフトウェアで、物流マンはマテハンで解決したがる。しかし、本当に製造コストが問題なのか? 製造コストが低ければ販売競争に勝てるはずという、無意識の期待の方がまちがっていないのか? あるべき姿は、本当は何なのか−−そのための課題を、最初にきちんと設定していたのか・・・
問題は生まれてくるもの。課題は生み出すものです。Kさんの課題管理表が、真の意味の「課題管理表」になって、取り組まれている新サービスが一日も早く市場に出てこられることを心から「期待」しております。
久しぶりに、自著『時間管理術』を読み直してみた。古い友人から、「偶然手に取ってみたら案外面白かった」とメールをもらったからだ。そして、おかしなことだが、自分でも案外面白かった(笑)。この本を書いてから3年経つが、中心となるアイデアや技法は無論すべて覚えているものの、ストーリーづくりや話法はけっこう忘れていたからだ。まあ、本の著者なんて案外こんなものである。
自分が読んだら面白いだろうなと感じるような本を書きたい、といつも思っている。共著・編著を含めたら1ダース以上の本を出してきたが、うまく書けたかどうかは、時間をおいて読み直してみるとよく分かる。時間をはさむと、自分はいつも少しだけ他人になるからだ。
私たちは忘れる能力を持っている。嫌なことも、良いことも忘れていく。もちろん、私たちは記憶し続ける能力だって持ち合わせている。それがあるから、一人の人格として継続性を持ちうるのだ。もし一晩寝て起きるたびに、直近の過去のことを一切忘れていたら、私たちはアイデンティティ=自分が誰であるか、を持ち得ないだろう。そんなSFじみた世界では誰も、魂の不滅、なんて宗教的な問題は考えるまい。自分が誰なのか、考える手がかりもないのだから。記憶の連続性こそ私たちの自我の骨格を形作っている。まれに脳の損傷などで長期記憶をもてない人が医学的記録に出てくるが、こうした人も、若い頃の記憶だけは保っていて、だから人格として成立しているのである。
しかし、すべての出来事をずっと記憶し続ける能力があったら、どうなるか。便利だと思う反面、つらい体験や恥ずかしい失敗もすべてリアルに覚え続けているのは、かなり苦痛だろう。なにより、すべての過去が強弱なく同等にならんでいる心的世界では、個性や特徴も生まれてこないにちがいない。記憶の濃淡やめりはりがあって、はじめて意見や好みも出来上がるのである。記憶の濃淡とはつまり、大事なことを覚え、大事でないことは適度に忘れることを意味する。適度な記憶の連続性と、適度に忘れる能力。こうして私たちは自分をとりまく世界に構造や意味を与え、適応していく柔軟性を獲得するのだ。
『時間管理術』のエピローグでは、自分のキャリア・パスのスケジューリングについて悩む若い質問者を登場させた。仕事を続けてキャリアを磨きたい。しかし留学してもっと勉強もしてみたい。留学がキャリアの断絶を意味するなら、早いうちが良いのかもっと後が良いのか、という問いかけである。女性ならばさらに、出産や介護といった事象もキャリアの蓄積に対するリスクとなりうる(この部分の記述は、日経文庫の編集者が慎重を期して、周囲の女性に問題ないかどうかレビューをしてもらった)。
これに対して、タイム・マネジメントの解説役であるY氏(主人公S君の叔父で、引退したコンサルタント)は、こう答える。「それを決めるためには、仕事の面から見た人生の目標と、自分に与えられた時間や境遇の制約を考えなくてはなりません」−−これは無論、タイム・マネジメントの一般的な方程式である。その“与えられた時間”をイメージするために、彼は『人生時計』を紹介する。
『人生時計』というのは、0歳の誕生が朝6時に相当し、10歳が朝の8時、20歳が午前10時という風に、10年を2時間刻みで換算した時計である。45歳が、人生の午後3時を示し、90歳で、深夜零時にいたる。1年が12分、1月が1分、12時間でほぼ1秒に相当する。今、自分の年齢が何時何分にあたるかを考え、引退までの時間の長さと、キャリア・パスを考えてみるのである。何十年もの時間を想像するのはむずかしいが、時計の文字盤ならばイメージがわく。そして1、2年のキャリア中断は、10分か20分ほど席を外す程度にしか相当しないのだから、あせらずに大局から計画を立てなさい、とY氏は説明するのである。
この人生時計は一応私の創案だが、似たようなことを考えた人は他にもいると思う。『時間管理術』を読んだ人から、「ギクリとしました」と感想をもらうこともあった。たいてい私たちは、こうした大局観を忘れているからである。なぜ忘れるのか。それは「忘れる能力」のためではない。実は忙しすぎて、考える時間がないからである。仕事も確かに大事だろうが、自分のキャリア・パスを考えることはもっとずっと重要なはずである。それなのに私たちは毎日、“緊急だが重要でないこと”に追われて、“緊急でないが重要なこと”を考えるゆとりをとれなくなっている。
時間管理術の最終的な目的は、考える時間を確保することにある。考えている時間とは、傍から見ると、「何もしていないように見える時間」である。現代社会にビルトインされている様々な“時間どろぼう”(ミヒャエル・エンデの小説「モモ」の登場人物)が、私たちの考える時間を、片端から奪っていってしまうのだ。
私たちは時々立ち止まって、手を休めて、考える必要がある。大事なことを記憶し、大事でないことは忘れて、頭を整理するための時間である。そういう意味のことを、「静寂の価値」でも、「睡眠時間の必要」でも、「エントロピーを下げる」でも、「パンのみに生きるにあらず」でも、私は本サイトで折にふれて繰り返してきたように思う。でも、もう一度書こう。私たちには、考える時間が必要なのだ。
超入門・ビジネス英語 (2) 発音と息と意思疎通
(2009/08/02)![]()
さて、三番目の原則は簡単です。それは音声言語としての英語に関するもので、英語には腹式呼吸による息の強さが必要だ、ということです。
地下鉄に乗っていると、車両の騒音のために、すぐ隣の人の話し声もよく聞こえないのに、向かい側に乗っている英米人の会話の声だけは耳に入ってきた、という経験はありませんか? これは日本だけの現象ではなく、たとえばパリの地下鉄などに乗っていても、同じような経験があります。なぜでしょうか。格別、英米人は声の大きな人ばかりなのでしょうか。
それは、息の量に支えられた声の強さ、とりわけ子音の強さがもたらす結果です。ここは、音声言語としての日本語との大きな違いです。英語の発音では、なによりも子音(とくに破裂音や摩擦音)の明瞭さが求められます。英語では、子音は母音と母音の間に割り込んで分断し、音のブロックを作ります。そのブロックのつながりが語と文を作るのです。いわば、連結器でつながれた車両の列からなる列車かバスのようなものです。
ところが、日本語はそういう風に発音しません。ちょっと注意すればわかると思いますが、普通の会話をするにあたって、まず腹の底まで息を吸い込んでからはじめる人は希で、通常は肺活量の3分の1くらいの息でしゃべります。息のスピードは穏やかでゆるく、したがって摩擦音や破裂音も、母音の流れを完全にせき止めるのではなく、せいぜいその方向を変える程度の役割しかしません。日本語の音声は、いわば悠々と流れる母音の川のようなものであって、子音は両岸の岩のようにその向きを変えるきっかけなのです。口や舌の形はあまり大げさに動かさない。その結果として、やわらかく、ないし、ぼそぼそと聞こえる。これは地声の大きさの違いではなく、子音に込められる息の量の違いである、というのが私の考えです。
インド人の英語を聞いたことがありますか。母音はアイウエオ風で、かつ独特のイントネーションがあり、我々にはあまり上手には聞こえませんね。でも、ネイティブにとっては、日本人よりインド人の方が聞き取りやすいようです。その理由は、子音の勢いと強さにあると考えられます。
息というのは身体の動きで、無意識の習慣の世界に属します。日本語の息の体勢になれた私たちが英語の子音を明確に発声するためには、腹式呼吸に頼るしかない。そして、それを無意識の習慣に持ち込むまで、繰り返し練習が必要だ、というのが私の経験です。
第三の原則です:
「英語を話すときは腹式呼吸で子音に強さを与えろ」さて、第四の原則ですが、これが微妙で、伝達するのが難しい。それは、言語の目的と自他の区別に関することで、日米両文化の最深層にかかわる問題だからです。
まず、英語は、「言語は意思伝達の主要な手段である」という明確なテーゼの上に立っています。そんなの当たり前じゃないか、とおっしゃるかもしれません。では、日本語の世界は、「言語は意思伝達の主要な手段である」という前提の上に運用されていますか。以心伝心、問わず語り、阿吽の呼吸が最上とされていませんか?
私の若い頃、世界的スターだったデビッド・ボウイという英国人ロック歌手が来日して、雑誌のインタビューで、こう発言しました。「言葉とは、コミュニケーションのための最も不確実な手段である。」−−これは、おおかたの日本人読者なら、まあ同意するでしょう。しかし、これは英語の世界では、あり得ないほど非常識な挑発的・逆説的発言なのです。それをあえて言うのがボウイという人の立ち位置だったのでしょう。彼は視覚とかリズムとか身体的メッセージが、言語に勝るとも劣らぬ重要なメディアである、と考えていたわけです。
英語の発想の根底には、自己と他者を区別する感覚があります。自己と非・自己の区別、ではありません。そんなことなら、幼児期を卒業すれば誰もが身につけます。また、ウチとヨソの区別、でもありません。これは日本語世界の発想であって、自分の所属する集団(ウチの会社)と、それ以外の人々(ヨソの連中)の区別です。英語ではまず、主語としての大文字の"I"がある。そして、意志を持つ相手としての"you"がある。この両者は別の人間、優劣はあれども対等な別の個人であって、互いに意志も了解事項も異なっている。その間を橋渡しする、ほぼ唯一無二の手段として、言語がある。
だから、英語では、相手が理解できるように、発信者側が努力する責任を負います。無言の共通の了解事項(これをcontextというのですが)は最小限であるため、あらゆることは明確に、specificに表現する必要がある。同じ家族だろうが、同じ排他的クラブ員同志だろうが、この原則は徹底します。
日本語は、あまり輪郭のきつい、生々しい表現は歓迎されません。そこで形容詞を使って「先日は大勢の方が集まって」「大したものはございませんが」「それなりの評価をいただきました」といいます。ところが英語では、具体的で客観的を良しとします。「先週の水曜日には270人が参加して」「トップクラスの料理を用意しました」「85%の顧客がAランクと評価しました」・・こういうのが、英語に求められる表現です。
そして、何よりも互いの意志ははっきりと表現しなければなりません。「・・は難しいと思います」(I think it is difficult to ...)というのは断りの意思表示にはなりません(よほど相手が日本人相手の経験を持っていれば別ですが)。断りたければ、「我々は・・したくない」と言わなければなりません。日本人は"Yes, but"というセリフが得意だと、よく言われます。これは、意見対立を回避すべきであるという日本語の運用原則が生む現象です。一方、英語は事実本位なので、YesはYes、NoはNo。意志の対立という事実があったら、まずそれをテーブルにのせます。そして、さて、じゃあそのGapをどうやって詰めていこうか、という話になるのです。
会話の雰囲気を保ちたいが為に、内心は納得していなくても、にっこり笑顔で"Yes, yes"などと言うと、後で「お前はあのとき"yes"と言ったではないか。あれは嘘だったのか」と反撃されてしまいます。英語は事実本位なので、逆に「嘘つき」"Liar"は最大の罵倒になります。英米人に面と向かって冗談のつもりでliarなどと言おうものなら、泥棒呼ばわり以上に、喧嘩になるでしょう。「嘘も方便」という日本人の価値観とは大違いです。社交辞令とか誇大広告とかは日英どちらの世界にも蔓延していますが、その位置づけが違うのです。
少し話がずれてしまいましたが、第四の、そして最大の原則です。
「英語とは、自他を明快に区別した上で、言葉こそ事実本位に意思疎通を行うための最上の手段である、との発想の上に立って運用される」これは運用原則です。やろうと思えば英語でだって、いくらでも曖昧模糊とした会話はできます。しかし、それは英語らしくない。英語らしくない英語を、いくら明瞭な息と発音で話そうとも、ニセモノでしかありません。
Kさん。多くの白人社会では、本物とニセモノは峻別されます。ニセモノは、かりに憐れまれ、笑って許されているようでも、裏では軽蔑され拒絶されるのです。このご返事を書きながら、私自身、なんだか本物からどんどん遠ざかってきているのではないかと、反省の気持ちが増してきました。もう少し基本に戻って、ぜひ学びなおしたいと思います。Kさんも、どうか上の四原則をしっかりと理解いただいた上で、ぜひ有益なる意思疎通を行われることを願ってやみません。
(追伸:私は若い頃、中津燎子という人の「なんで英語やるの
」を読んで大きな影響を受けました。上に掲げた4原則も、本書の冒頭に書かれている原則を、私なりの経験を通じて咀嚼し言いかえたものです。賛否の大論争を巻き起こした本ですが、興味があれば読まれることをおすすめします)
Kさん。お久しぶりです。それにしても、今度のご質問には驚きました。EMS・受託生産の交渉について、というメールの表題から、てっきりまた生産管理に関する問題かと思いきや、何と英語についてのお悩みとは。
しかも、えー、率直に申し上げて、「ビジネス英語の上達法」なんて私の方が知りたいくらいですよ。仕事柄、私は毎日英語をしゃべり、英語の仕様書やレターを書いたりしていますが、自分ではけっして英語がうまいと思ったことはありませんし、仕事に十分なレベルに達したと考えたこともありません。
しかし、ご質問の主旨は痛いほどよく分かります。じつは、貴メールは、出張先のサウジアラビアのホテルで受け取りました(通信事情のため、ご返事は帰国後になりましたが)。それも、英語によるプレゼンテーションや交渉の能力の低さに、自分ながらイライラしながら宿に戻ったところだったからです。むろん、私のシチュエーションと、Kさんの状況は全くちがうとは思います。が、ここでは自省を込めて、私が知っている範囲のことをお話ししましょう。
ただ、具体的な語法のあれこれをお話ししても、きりがありませんので、ここでは英語を勉強するにあたって了解しておくべき原則、「メタ勉強法」とでもいうべき4つの原則をご紹介したいと思います。
まず、私自身の体験から申しますが、英語が一番うまくなったのは、会話学校でもなく、旅行や研修でもなく、直接ネイティブの相手とビジネスをするようになったときです。このとき、すでに30代の後半になっていました(ですから、別に外国語は20代でなければダメ、とあきらめる必要はないと思います)。とにかく言語において、必要は上達の母です。
ことに大事な条件として、「相手がネイティブであること」かつ「ビジネスの交渉が伴うこと」があげられます。英米人のNative speakerは、一般に容赦がありません。英語で場に参加した以上、英語ができるはずだ、という前提に立っています(当然ですが)。おまけにネイティブの人は、外国語として英語を話す人々に比べ、圧倒的に表現力の豊穣さがあります。ついて行くのも大変ですが、学ぶ点も多い。極言すれば、Non-native同志で英語をいくら話していても、ほとんど上達は望めない、とさえ思います。
くわえて大事な点が、「ビジネスの交渉」であること。つまり、一言でも聞き漏らしたり言い間違えたりすれば、すぐにしっぺ返しがきて、その結果が自分の立場や評定にまで影響すること。こうなると真剣さが違います。外国語の習得においては、どれだけ集中してその言語情報を身に浴びるか、いわばその集中被曝量累積値がものをいうのです。ところが、たとえば旅行とか研修とか留学とかでは、相手も理解を手助けしてくれるし、自分の給料に響く真剣さも足りません。まして、ガールフレンドとつきあうなんて何の語学の足しにもならないでしょう。言葉なんか分からなくたって通じ合う世界ですから。
そうはいっても、素振りも満足にできない初心者に、いきなり日本刀を持たせて真剣勝負の場に出すわけにはいきません。本人は困るでしょうし、会社としてはもっと困るでしょう。「素振り道場」としての会話学校の意義はそれなりに大きいと思います。ただ、その時、誰にならうかが重要になります。
一番いいのは、言語教育のスキルを持ったネイティブに習うことです。何しろ本物ですし、言語の深さが違います。それがかなわないのであれば、自分の方法論を持った、非ネイティブの英語教育家に習うべきです。外国人が英語を学ぶ際に、どこが間違えやすいのか、ハードルはどこか、一家言を持つ人々です。
おすすめできないのは、中途半端に上手な人に習うことです。失礼ですが、メールの文面を拝見する限り、号令をかけた副工場長さんという方はこのタイプに入りそうですね。米国のビジネススクールに留学し、TOEIC 900点、だそうですが、正直、中途半端です。ビジネス交渉の経験はお持ちとしても、教育は素人でしょう。また私の経験では、TOEIC 900点など、囲碁でいえばせいぜいアマチュア初段といった程度です。TOEICは便利な尺度ですが、しょせんペーパーテストで対策も可能ですし、事実、対策本も出回っています。ネイティブ(こちらはプロの棋士だと思ってください)との差はあまりにも大きい。レベルとしてはすぐ近くに見えても、両者の間には深い谷間があって、やすやすとは超えられないのです。
というわけで、英語習得の第一の原則です:
「ネイティブに学べ。それができなければ、方法論を持つ語学教師に学べ。」次なる原則−−それは、英語という言語の位置づけについてです。まず、英語というのは、やや複雑な背景を持つ印欧語族の一つであって、たまたま現在は世界中で幅をきかせているけれども、他のさまざま言語とは優劣はあれども対等である、ということを理解してください。
複雑な背景というのは、ケルト的古層の上にゲルマン(ゴート)語の体系がのり、その上にラテン(ノルマン)語の語彙が入る、といった歴史が生んだ結果です。おかげで、同じ「海」を指す名詞がSeaで、形容詞がMarineという、素人には判じ物のような統語体系が出来上がりました(前者はゲルマン、後者はラテン語源です)。文法は接続法や格語尾が退化して、それを助動詞や前置詞・冠詞で補うという状況。しかも綴りと発音の関係もきわめて複雑、というわけで、けっして初学者にとって学びやすい言葉ではありません。
にもかかわらず英語がここまで世界に影響力を持ったのは、英語それ自身が持つ優れた性能というよりも、19世紀には英国が、20世紀には米国が圧倒的経済力と軍事力で世界を支配したからです(同じ理由で、今世紀後半には世界中の人が中国語を話すようになっているかもしれませんが)。
そして、それだけの優越性を持っていますが、英語は他の言語(例えば日本語)とは『対等』です。ちょうど、同じレースに出場する選手は、力に差はあれども対等なように。この、“優劣はあれども対等”という感覚は、英語の根底にある重要なキーでして、ビジネスの交渉の場をはじめとして、至る所に顔を出します。
対等である以上、誰もが意志を主張はできる。そこで最初から卑屈になる必要はない。だが、勝負の結果は優劣で決まる。これが英語の論理です。あらゆるものに和と序列を求めたがる日本語の感覚とは、いかに違うか、注意してください。下手な英語で主張するくらいなら、日本語で堂々と主張すればいい−−そういう意見だって、ある意味成り立ちます。逆に、英語の土俵に乗る以上は、対等な相手として、容赦なく扱われる。その中間はないことに、注意してください。
第二の原則は、したがって、こうなります:
「英語は複雑な背景をもつ、込み入った体系の言語だが、他の言語と優劣はあれども対等である。」(この項つづく)
目標、計画、ターゲット(3)−共通言語をつくろう (2009/06/17)
日本が目指す、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標が先週、政府から公表された。西暦2020年には、2005年比15%減(1990年比8%減)」とすると決まったらしい。例によって、賛否両論さまざまな意見が出されている。達成可能なのかどうか、経済への影響はどうか、そもそも本当に二酸化炭素が問題なのか、等々。しかし、ニュースをみたところ、この『目標』というがどういう性格のものなのか、コミットされたものなのか(言いかえれば達成できなかったときはどう決着をつけるのか)、それとも交渉の場での最初の「出し値」にすぎないのか、といった分析は手薄に感じられた。
『目標』を与えられれば、あとは“頑張る”だけ。その目標値が達成可能なのか、また値を測るそのモノサシが本当に適切なのか、ということはすぐに置き忘れられてしまう。これが、受験勉強社会を育ってきた私たちの、共通した習性のようだ。日本人を動かすのは、ある意味で簡単なのかもしれない。モノサシをとりだして、他人や他者や他国と比べればいい。あとは自動的に走り出す。
これまで、予測、目標、計画など、いくつかの言葉をとりあげてきた。ここで、説明を少し整理しよう。
赤字の地方空港や有料道の建設は、客観的な需要予測にもとづいて決められた、とお役人たちは説明する。しかし、こうした「予測」は科学的・客観的なこじつけであって、先に政治的結論ありきではないか、とたいていの人は疑っている。
純粋に客観的な予測なんてない。
予測は、現状の観測データと、過去の実績データと、仮説(複数)から導き出される。つまり、
「予測=データ+仮説」
である。もし仮説を明確に列挙し、複数ケースを平等に並記するのなら、それは「予測」といってもいい。しかし、何かの数字を一点見積しているのなら、それはもう意志決定の入った「計画」である。ところで、社会での活動には、一般に次の公式が成り立つといっていい。
結果(成果)=外部環境+内部努力
これは大学受験から生産・販売、そしてプロジェクトの切り盛りまで、たいていは成立する。そして、
外部環境の変動>>内部努力範囲 なら「予測」といい、
外部環境の変動<<内部努力範囲 なら「計画」という
のが普通の言葉使いだろう。しかし、両者の差は相対的なものにすぎない。もし企業が「需要予測」という言葉を好んで使うのだとしたら、需要(販売数量)とは天から与えられるもので、営業部門の努力ではいかんともしがたい、との世界観を表現している訳である。つまり極端に言えば、営業は無能力です、と意思表明していることになる(笑)。逆に工場が今月の「生産予測は」と言ったら・・たしかに工場は無能力だ、と思われるだろう。
さて、ここで、内部努力=目標の高さに比例する、という法則(迷信?)を持ち込むから、話がややこしくなる。実現可能性はおかまいなしに目標値が設定され、その一人歩きがはじまる。仮説のない目標や計画のことを、別名、「絵に描いた餅」とよぶ。ここから生まれるのが精神主義的「号令」というやつである。
そこで、目的・ゴール・目標、という最初の回に書いた定義を思い出してほしい。およそ人間の組織は、かならず共通目的をもつ。ただしそれは、遠いところにある。おそらく抽象的で、数字では測りにくい(測れない)ものだ。一方、
「ゴール=当面、実現をめざす行為(ないし状態)」
である。じゃあ、目標とは何だったか。
「目標=そのゴール達成の成功・不成功を検証するモノサシ」
なのだ。達成のための内部努力、そして「仮説検証」のモノサシでもある。だから、客観的に測れる(検証できる)ようにする必要がある。こう考えてみると、『今期販売目標=50億円』というような標語が、それだけではいかに無内容か、わかるだろう。「今期は製品ファミリーの充実により、既存顧客のリピート確保をめざす(ゴール)。既存の顧客ベースによる更新需要は100億円程度と推定されるから(仮説)、その50%獲得で50億円をめざす(目標)」−−こう展開してみると、目標は金額自体よりも、リピート率の方が本質だとわかる。また、需要の瞬間蒸発といった、外部環境の変動による影響を除外して、自分の内部努力のレベルを検証できるのである。
また、目標と計画の区別も自明だろう。計画値は金額ではなく「品目・数量」をベースにする。それが、営業と生産と物流の「共通言語」だからだ(個別受注生産の場合などは、品目・数量の代わりに作業・期間が適当かもしれない)。ここに、努力目標やらサバ読みやらを紛れ込ませてはいけない。
この点を明確に区別するため、別の用語を用いたほうがいい。そこで『ターゲット値(ストレッチ目標値)』という言葉を提案したい。これは通常努力に加えて、さらなる改善努力を促すために設定される目標値を示すものだ。
ターゲット値は、数量や金額ベースで立ててもいいが、スループット(付加価値額)や生産性を尺度にする方がいい。こうすれば、計画と目標の二重帳簿に悩まされずにすむ。計画は100台。そのときの付加価値額の計画値は1台120万円、でも目標は150万円とする(つまり計1億5千万を売上−材料費で生み出す)、という風に。営業は計画数量を「より高く」売り、生産は計画数量を「より安く」作る。あるいは「より早く」作る。これにより付加価値生産性を上げ、生産余力を生み出すのである。
ターゲット値(付加価値額)=平均的付加価値額+改善努力のための仮説分
ターゲット値(生産性)=平均的生産性−ムダ・サバ(言うまでもないが、欠品率だとか納期など小さい方が良い尺度の場合は、ターゲット=計画の目標値−改善努力マージン、になる)
では、営業と生産の間での計画の共有・対話はどうするのか。そのために、双方が確約可能な「基準計画」(Committed Plan)を作るのである。
基準計画=ターゲット生産性ベースの計画+必要最小限のゆとり(自由度)
自由度は、リスクや外乱に対応するためのマネジメントの余地(Contingency Reserve)である。これを持たないツンツルテンの計画は、予期しない出来事がちょっとでも起きると達成不能になる。だから基準計画にはつかえない。むろん、ゆとりがダブダブになっても逆に困る。だから「必要最小限のゆとり」なのである。
このことは、通信理論や情報理論を知っている人には喩えで説明した方がかえって分かりやすいかもしれない。通信符号化の手法では、まず対象の情報源から、冗長性をすべて抜き取って圧縮する。その上で、必要最小限の冗長性をあえてつけ加えることで、通信路の雑音から情報を守るのである。あるいは、在庫理論で言えば、不要な「できちゃった在庫」はすべて圧縮して、必要最小限の「バッファー在庫」だけ必要箇所に準備する、と言おうか。
こうして出来上がった基準計画は、共通言語として社内でつかえるし、かつ各部門での努力のターゲットも設定できる。計画期間が完了したら、目標と実績を比べて仮説検証もできる。こうして、意味不明な二重帳簿や混乱がなくなるはずなのである。それで、二酸化炭素15%削減というのは、どの目標なのですか、総理殿?
計画の二重帳簿はなぜ発生するか − 目標、計画、ターゲット(2)
(2009/06/09)![]()
休みをとって、愛媛から本四架橋を通って広島まで抜ける旅行をした。のんびり鉄道とバスを乗り継いでいったのだが、幸い天候に恵まれ、とくに瀬戸内の風光の美しさには感激した。青く穏やかな海の上に、大小の島が浮かび、新緑が陽光を浴びて静かに佇んでいる。さすが「しまなみ海道」と名付けられるだけあって、良い景色だった。高速バスだとあっという間に通り抜けるだけだが、それだけではもったいない場所だと思う。
この本四架橋ルートは複数の異なる構造の橋からなっていて、シビル・エンジニアリングの観点からも興味が尽きない。また、このルートを決める際のプロジェクト・マネジメントの苦労も十分想像できた。ただ、それにしても最後に広島空港に乗り継ぐまでが遠くて閉口した。あんな山の上にわざわざ空港を作るのは、まあ科学技術の勝利かもしれぬが、科学の無駄な勝利というのもあるのだな、というはなはだ失礼な感想をもった。
本四架橋や東京湾横断アクアラインが巨額の赤字を抱えているのは、よく知られた事実だ。広島空港の場合は知らぬが、最近また増え続けている地方空港(先週も静岡に開港したが)も赤字が多い。用地買収の長期化、材料費の高騰、政治の横やり等、いろいろなリスク要因はあるのだろう。だが、一番の問題として指摘され続けているのは、「事業計画の見通しがそもそも甘い」ということだ。
「地方有料道、6割が赤字 76%が需要予測下回る」という記事を、『ファイナンシャルプランナーのニュースチェック』というブログが掲載していた。「06年度の交通量が計画に達しなかったのは125路線中95路線。50%に満たなかったのは28路線に及んだ」という。中でもワースト3位の長良川右岸有料道路、常陸那珂有料道路、福島空港道路は、実際の交通量が計画の20%にも満たない。こうなると、そもそも「計画」って何なの? という当然の疑問がわいてくる。
「明日の天気は晴れを計画します」と気象庁が言ったら、可笑しいと誰もが思うだろう。「今日の交通事故数は、計画では2件です」と警視庁は言うまい。カツオ漁師は明日の水揚げ量を計画するだろうか。でも漁師だって、交通警官だって、何らかの見通しの上で毎日の仕事の「計画」を立てているのだ。
「計画=予測+意志決定」である、という式を、前にもこのサイトで書いた。今回は、この式をもう少し因数分解してみたい。まず、「予測」の方であるが、そもそも人間であるかぎり完全な予測というものは不可能である。そこで、さまざまな前提条件と近似を積み上げて、数値予測を行うことになる。それは、単に一つの部品を旋盤で加工するための所要時間、といった単純な予測でさえ、そうなのだ。自社内の行為でさえ、いくつかの条件(平均的な習熟度の作業員がやって、材料鋳物には不良が無く、かつ標準加工手順にしたがえば、etc.)を積み上げて、やっと「40分かかるでしょう」という答えが出てくる。
よく、「MRPは実現不可能な生産計画を作ってしまうが、APSは実行可能な正確なスケジュールを生成してくれる」というようなことを主張する人もいるが、これは正しくない。APSの出す答えもまた、スケジュールの一種の近似にすぎないからだ。単に、予測精度の違いということなのである。
ましてこれが、自分でコントロールしがたい、外部環境に大きく左右される現象ならばなおさらである。需要予測がその代表例だ。「需要計画」などと言う人間が少ないのは、自分の努力によって制御しがたい事象だと、皆が認識している(かつての共産主義国家での計画経済は別だが)からだろう。
そして、こうした外部事象の予測においては、必ず前提条件を明らかにした上で、複数の前提での予測結果を並列に記述すべきなのである。これを「感度解析」とか「ケーススタディ」と呼ぶのはご存じだろう。前提条件はいろいろな仮定の仕方がある。そこで、こういう前提なら100だが、ああいう仮定をおけば120、という風に数字を並記するのが、由緒正しい『予測』の仕事のやり方なのである。
では、上の式における「意志決定」とはどういう行為か? それは、この複数の仮定を比較し、評価した上で、その中で一番適切なものを選択し、これを「今回の計画における仮説」と宣言する行為なのである。繰り返すが、計画における意志決定とは、仮説を選び取ることに他ならない。先のことは分からない。だから『仮説』なのである(「仮説検証のトレーニング」 2004/11/06参照)。前期はA製品が低調だった、しかし東アジアの需要動向を見ていると、今年前半には需要は底を打つ、だからAラインは生産余力を残しておいた方がいい・・こうした決定が、「仮説を選び取る」意志決定なのである。
仮説である以上、あたらない可能性もある。“はずれるかもしれない仮説に賭けるのか! それなら確実な戦略を選ぶべきだ”という主張は、一見もっともだが、実は愚かだ。「確実な」将来というのは、あり得ない。確実な戦略といわれるものの多くは、じつは「過去しばらくあたっていただけの戦略」にすぎない。もしかするとそれは、“変化を拒絶する”という最低の戦略なのかもしれない。
さて、現実の企業組織において困ることは、この「仮説」の好みが、部署により立場によって異なることだ。営業部は「もっと低価格なB製品なら多少売れるかもしれない」、企画部は「新しい技術をいれた新製品Cならヒットの可能性がある」、製造部は「製品Aが一番原価低減の余地があるから良いのではないか」・・とバラバラになるのだ。そしてお互いに、自分の好みの仮説に基づいて予測を立てて行動する。“営業は10万個売れると言っている。でもあれは予測ではなく努力目標にすぎない。それを信じて10万個分の部品を手配したら、在庫増で上から怒られる。だったら5万個を仕入れて後は様子を見よう・・”こうして計画の二重帳簿がはじまるのだ。
私の見聞きしてきた経験の範囲から言うと、競争力の高い(したたかな)企業は、皆が同じ一つの仮説を共有して動いている。しかし、そうではない大多数の「普通の企業」は、その規模の大小にかかわらず、皆がバラバラの仮説で動いているのである。いや、そういった企業では、仮説が仮説と意識されないまま、各人の「経験知」として、真実であるかのように流通している。かくて、営業部が立てた販売計画とは別の数字を元に、工場が生産計画を立てる、という(しばしば見かける)事態が出現する。あるいは、プロジェクト的なビジネスにおいても、営業とプロマネと設計技術と品質管理が、互いに別々の思惑で動く状態を生じさせるのである。
このようなバラバラな状態をただす方法は何か。それは、一見逆説的に聞こえるかもしれないが、意図的に計画の中に「幅」と「目標」を持ち込むことなのである。
(この項もう一度続く)
先日、機会があって東大工学部の学生たちにプロジェクト・マネジメントの講義をした。わずか2コマ・計3時間の講義でどれだけのことを伝えられたかは定かではないが、アンケートを見る限り、少なくとも「マネジメントには技術(テクノロジー)があり、理工学的なアプローチが可能である」という事実は、興味を持って理解してくれたようだ。WBSだとかクリティカル・パスだとか、ごく初歩的なことがらを演習してみて、それを強く感じたらしい。
このことは、あの大学に経営工学や管理工学といった理系のマネジメント学科が存在しないことを思い合わせると、とくに貴重なことのように思われる。東大の理工系を卒業する人は、マネジメントについて何も教わらぬまま社会に出て、人に指示を出す職業に就いてしまう可能性が高いからだ。日本のいろいろな組織が、確とした指針も方法論もないまま、リーダー層のセンスや勘や経験だけで動かされることになる一因かもしれぬ。
それにしても、学生さんたちの回答を見ていて気がついたことが一つある。それは、「目標」というものに関する誤解、ないし理解不足である。この講義で私は、“自分が現在かかわっているプロジェクト(ないし近い将来かかわるであろうプロジェクト)を例にとり、その『使命(ゴール)』と『目的』と『目標』を言葉で書きなさい”という演習を出してみた。ミッション・プロファイリングの初歩である。
ゴールと目的と目標は、混同して使われることが多い。そこで、あらかじめ講義の中で、次のように説明した。(1)ゴールはそれを達成すればプロジェクトを終えることのできる完了条件である。(2)目的はそのプロジェクトを発案し進めるに至った背景ないし意図であり、ふつうゴールより広い視野でとらえる。(3)目標はそのプロジェクトが成功したかどうかを判定するためのモノサシである。目的と目標はまぎらわしい言葉だが、「今年の販売目標は100億円」とは言っても、「今年の販売目的は100億円」などとは言わないことを思えば、違いを理解できるだろう。
ここまで説明してあるのだから、この演習問題はじつに簡単なはずである。たとえば「卒論研究」というプロジェクトをとったとしよう。その使命(ゴール)は「○○をテーマとした卒業論文を書いて提出する」であり、目的には「○○を研究して明らかにすること、ならびに無事に卒業すること」があげられるはずだ。そのための目標値としては、「少なくとも卒論発表で及第点をとる(ような内容にしあげる)」ことをあげなくてはならない。
ところが不思議なことに、『目標』のところに「実験器具の使い方を習得すること」とか「○○理論の文献調査で理解を深めること」などと書いてくる人がいる。これらは、すべて目的を達成するための手段・道具でしかない。どうも、手段と目標を混同しているらしいのだ。いかに実験器具を操るのが上達しようが、発表審査で落第したら、その卒論プロジェクトは失敗である。
しかし、おかしなことに、企業人を相手に同じ演習をやっても、同様に目標と手段を混同した答えが、しばしば返ってくる。人も知る立派な企業のエリート社員たちが、「目標」を正しく立てられないのだ。これはいったい、どうした現象なのだろうか?
もう一度書くが、目標とは、そのプロジェクトが成功したかどうかを判定するための、客観的に検証可能な基準である。なぜ検証するのか? それは、失敗であれ成功であれ、そこから、次のプロジェクトの成功のために「学び」を汲み上げるためだ。これは自分で経験から学び取り、自分で改善するための契機なのである。だから、目標は自分で設定しなければダメなのだ。それも、努力すれば実現できる程度に「実行可能な」ターゲットの目標値を。また主観的・定性的な目標では不十分で、はっきり誰でも測れて合意できるものでなければ役に立たない。
プロジェクトとかプログラムといった営為では、最初の目的・目標設定が非常に大事である。こんなことはマネジメントのはじめの一歩で、今更言うまでもないはずだ。しかし、どうやら「先進国に追いつけ・追い越せ」で長らくやってきた我々の社会は、この目標の自己設定がへたらしい。目標は誰かから与えられるもので、自分で考えるものではないのだ。大学に入るのは学んで賢くなるため(=目的)だったはずなのに、いつのまにか入学が自己目的化し、入試の点数で何点以上という目標がふって降りてくる。本当にこの試験勉強で自分が賢くなれるのかは、もう問わない。
「ERP導入プロジェクトをスタートさせます。目的は基幹システムの近代化で、ゴールは会計・販売・物流機能の全社展開です。」−−ここまではたいていの会社できちんと宣言する。しかし、目標は? 売上増加、あるいは在庫削減、あるいはシステム運営費の削減? それが達成できたかどうか、いつ誰が判定するのか。ほんとうにERPを入れたら売上は伸びるのか? 売上増を達成できなかったら、それをどう教訓として活かすのか。こうした点は曖昧なまま、いつのまにかプロジェクトは終わってしまい、疲労困憊したチームメンバーと、現場のぶつぶついう不満やつぶやきが残るだけ、というケースを見かけないだろうか。
・・と、本当はここまでが話の導入部分で、これから『計画』と目標の二重帳簿について議論するつもりだった。だが、いつものくせで、少し長くなりすぎた。この問題については、また稿をあらためて書くことにしよう。
以前、丸谷才一のエッセイを読んでいたら、「順調だった議論がこんぐらがるのは、たいてい比喩のところからだ」と書いてあるのをみて、なるほど、と思った。他人に論点をわからせようとするとき、われわれはよく比喩を使う。たとえば、“在庫とは時間のかんづめのようなものだ”とか、“(海外からの)技術導入は麻薬のようなものだ”といった言い方である。前者は、在庫物品があらかじめ進められた調達/製造工程の結果であることを言い表しているし、後者は、技術導入の成果は翌日からでもすぐ商品になるが、自分の能力的成長が得にくくずっと依存し続けることになる事情を示している。しかし、こうした喩えはインパクトが強いが、もとの事象をおおざっぱに表しているだけなので、どうしても異論が出やすいのである。議論のさなかに比喩を使うときは、かなり注意して用いる必要がある。
もうひとつ議論を混乱させやすい因子としてあげられるのは、形容詞である。「大きい」「小さい」「高い」「低い」といった形容詞をわれわれはしばしば使うが、これが結構、異論の元となりやすい。というのは、こうした形容詞はその裏側に評価というものがはり付いているからだ。「在庫が小さい」といえばポジティブで、「製造のコストが高い」といえばネガティブに聞こえる。そこで、異論を持つ人からすぐ、“いや、一概に小さいとは言えない”とか“営業経費だって小さくない”と反論が来る、という次第である。
ところで、形容詞による議論の混乱は、簡単な解決方法がある。それは、「大きい」「小さい」といった言葉の代わりに、具体的な数字でいってみることである。「在庫は1.2億円分ある」とか、「製造のコストは5年前に比べて40%上がっている」と言えばいい。そうすると、議論は1.2億円という数字がどの程度正確か、またその数字をどう評価するか、という方向に進んでいく。事実認識の問題と価値評価の問題を分けて考えることができ、議論のクラリティ(明晰度)が上がるのである。
そういえば、私は若い頃、先輩から「エンジニアは数字で話せ」と教えられた経験がある。技術屋だったら、多い・少ないの『言葉』ではなく、10%なのか90%なのか数字で示せ、という訳である。逆に、数字に落とし込めない議論は、どこかにゴマカシがあるかもしれない、とさえ感じるようになった。議論する前に、まず事実を見ろ。事態の評価に飛びつく前に、まず事態を客観的に把握しろ−−先輩の教えは、そういうことだった。
前回、『データを情報に変える』(「考えるヒント」2009/02/14)で、「情報とは、人間にとって意味をもたらすもので、ふつうは言語のかたちをとっている」と書いた。「データとは中立なもので、それ自体は価値を持たない」とも。つまり、先輩の教えとは、情報レベルでのやりとりで混線したくなければ、まず情報をデータに落とし込め、といいかえられるのかもしれない。この方が、伝達や再利用での可能性が広がるからである。
ここでいう「データ」とは、別に「電子データ」の意味ではないことに注意してほしい。客観的で定型化されている数字や文字の並び−−それがデータである。だから、パソコンの中に、ワープロのファイルが山ほどちらばっているけれど、いちいち中身を開けてみないと何がなんだか分からない、といった状態はデータの用をなさない。効率よく探し出せなければデータとはいえないからだ。
われわれはオフィスでメールや電話のかたちで、日々かなり大量の情報のやりとりをしている。そして、そうした情報は基本的に非定型である。一方、オフィスワークは誰がやっても合格点のレベルで仕事が動くよう、(判断を含めて)プロセスの標準化が求められる。「需要が大きそうだと課長さんが判断したから在庫を増やしました」というレベルでは、組織としての一貫性は保てない。「この先3ヶ月間で必要な在庫費用は60万円だが、欠品の機会損失は100万円以上になりそうなので在庫しました」というレベルの判断が望ましい。
この「判断の標準化」、あるいは「判断の見える化」に必要なことが、数字とデータにもとづく判断基準なのである。そのためには、人間が発する非定型的な意味情報を、いったん定型化してデータに落とし込み、蓄積したり集計したりする作業が必要になる。そして、そもそもITとは、そのためのツールであるはずだった。情報をデータの形にして機械に処理させ、機械のもつデータから情報を取り出す。このサイクルをうまくつくることこそ、IT利用の最大の勘どころなのだ。
たとえば請求書を手書きの伝票で送るのと、ワープロの手紙で「二百万円おしはらいください」と書いて送るのと、どっちがIT化に近いだろうか? ワープロの方だと思う素人は、少なくあるまい。ところがIT屋の目から見ると、手書き伝票の方がずっとデータに落とし込みやすい。形式が完全に決まっているからだ。宛先があり、日にちがあり、品目と数量と金額が一行ごとにあって、最後に合計と振込先がある。どこをみればどの項目か迷うことがない。他方、ワープロのファイルを開いて、文章の中から金額をつかまえるのは容易ではない。
ごく単純で機械的な作業で処理できるようなものを定型的という。非定型的な情報は、高度な知的判断を必要とする。ワープロのファイルは非定型だからデータではないが、手書き伝票は定型化されているからデータである。データに落とし込むためには誰かがはじめにその形式をうまく考えて定義してやる必要がある。その形式化をおろそかにすると、データとしての取扱いの難しい、非定型な情報ばかりが行き交うことになる。
データから情報をくみ上げ、また情報をデータに落とし込むサイクルを構築することこそITの能力であり、こうしたことを教えることこそ、真の情報教育だと思う。にもかかわらず、情報とデータに関する基本的理解が足りないまま、情報技術をほんの表層だけつかっている状態がいかに多いことか。お金を計算機にかけながら、実際にはその半分の価値も引き出していない「IT未満」型利用者が多すぎる。
IT未満な人たちは、ワープロや表計算なんかのITツールを、もっぱら『清書用の道具』としてとらえる傾向が強い。だから帳票類を電子化するときも、罫線や図形を神業的に駆使して、紙と見た目そっくりにすることに命をかける。その結果、たいていは入力も面倒、データとしての再利用にもひどく不便、なものになってしまう。それどころか、管理職経由で電子メールで送ればすむものを、わざわざプリントアウトして判子をつくことを強制したりする。こういう病はあちこちではびこっている。
各人のスキルないし職人芸的判断に任せる部分が大きく、仕事の流れが定型化していないところでは、みなが高度な知的判断をしなければならなくなる。日本企業がこうした部分を放置したまま、目先の「合理化」のために人減らしをしているうちに、後ろから中進国に追いつかれ追い抜かれたりする状態にならないことを、私は切に願うのである。
ここに一つの数表がある。最近の企業業績に関するデータをもとに作成したものの一部だ。類似した業種の会社7社を選んで、並べてある。
売上高 従業員数 粗付加価値額 付加価値生産性 労働装備率 企業1 36,499
2,039
25,859
12.68
12.6
企業2 709,554
5,661
184,161
32.53
29.5
企業3 87,752
2,031
26,411
13.00
12.2
企業4 282,091
3,358
64,769
19.29
23.0
企業5 257,471
2,509
29,808
11.88
17.1
企業6 80,080
2,170
46,328
21.35
16.4
企業7 194,356
3,343
76,324
22.83
28.2
これをみて、どのようなことを感じられるだろうか。たぶん、なんだか数字が並んでいるだけで、何も感じようがない、と思われるだろう。
それでは、この中の二つの項目を選んで、グラフにしたら、どうだろうか。
これをみると、どうやら企業の生産性(付加価値生産性)と、その企業の労働装備率との間には、一種の相関関係があるらしい、ということに気づくだろう。労働装備率は従業員一人あたりの固定資産額で、製造業の場合は主に工場設備に左右される。ここから、人を増やさずに生産性を上げたければ、工場の近代化投資が必要らしい、という仮説が浮かんでくる。
とはいえ、今回のテーマは工場の話ではない。上に上げた表は、定型化された数値や文字の並び、すなわち「データ」である。では、グラフの方はどうか? こちらもデータである。ただ、そこから、“生産性と労働装備率とは関係がありそうだ”という「情報」が浮かび上がってくる。データから情報を組み上げるプロセス、これは人間の心が持つ「気づき」という知的な働きによるものだ。コンピュータは、人間に情報をもたらしてくれたりはしない。
以前、出版社の人に、ITの本質を理解している人を見分ける方法はあるかときかれたとき、とっさに私はこう答えていた。『データと情報はどこがちがうか?』と訊ねてみてください、と。なぜなら、ITをよく分かっていると人とは、データと情報のサイクルを意識して活用できる人に他ならないからだ。
たいていの人は「データ」と「情報」という二つの言葉を、あまり区別せずにつかってる。専門書も、あいまいな場合がある。しかし、ITを理解する上では、この両者ははっきりと区別する必要がある。
「情報」とは、人間にとって意味をもたらすもので、ふつうは言語のかたちをとっている。逆にいえば、すぐに意味をくみ取れないものは、たとえ言葉で書かれていても、情報の役割をはたさない。
一方、「データ」とは何か。データとは、数字や文字の形式化・定型化された並びのことだ。「表のようにきちんと並んだ」と理解してもいい。たとえば、新聞の株式欄はデータである。会社名と、株価の数字が整然と表になって並んでいる。駅の時刻表や電話帳もデータだ。データはべつに数字が並んでいる必要はない。文字だけでもデータだから、住所録や学校の卒業名簿だってデータである。
データというものは、必ずしもコンピュータの中に格納されていなくてもいい。「あの野球監督はデータにもとづいて作戦を立てる」といったとき、そのデータは過去のスコアブックの集積を指しているので、それがパソコンに入っているかどうかは本質ではない。その監督が単なる人情や勘だけで指示を出しているわけではない、ということをいっているのだから。
いや、新聞の株式欄は『情報』じゃないか、という反論もあるかもしれない。ある株が上がったか下がったか、どの会社が今、注目株か。これはみな『意味』そのものだから、さっきの定義にしたがえばデータではなくて情報ではないのか? −−とはいえ、株式欄の数字の羅列から意味をくみ出すのは、人間の側の頭脳や精神の働きである。
最初にあげた数表とグラフを思い出してほしい。図を見ると、労働装備率が高い企業ほど付加価値生産性も大きいことが理解される。データの中にある関係性(これを共分散構造と言ってもいい)を見いだし、人はそこに意味を発見する。しかし、コンピュータは、表の形になっていようが、グラフの形で表現されていようが、そこから自動的に意味をくみ取るようなまねはできない。
つまり、「データ」とは中立な(いいかえれば無味乾燥な)もので、そこから意味を引きだして「情報」にするのは人間の認識力なのである。だから、データそれ自体は価値を持たないが、それを利用できる人にとっては潜在的価値がある。データとは、見かけは荒れ地だが地下に石油の鉱脈が眠っているかもしれない土地のようなものだ。
もう一つ、データと情報には重要な違いがある。コンピュータの中に格納して処理できるのはデータだけなのである。機械にできるのは、形式化され定型化された数字や文字の並びを、あれこれと加工することに限られる。「IT=情報技術」という名称とは裏腹に、コンピュータは情報は扱えない。なぜなら、情報には決まった形がないからである。
物流の世界にたとえれば、コンピュータというのはデータという荷物の運送業者だ。データを受け取って、車に積んで、集積所にはこんだり車につみかえたりしたりして、相手先に届ける。だれかにものを送りたいときには、それが本であれ服であれ花束であれ、とにかく何かの箱に入れて宅配業者に渡すだろう。ばらばらで形の定まらないものを渡されても業者は困ってしまう。機械的にハンドリングできないからだ。また逆に、運送業者にとって、箱の中に何が入っているかは興味がない。箱の中身に人がどういう意味を託そうが、それは彼らにはあずかり知らぬこと、知りようのないことだ。
ではなぜ、「IT=情報技術」などという概念が生まれるのか? それは、情報という上層のレイヤーとデータという下層のレイヤーをとりもつための技術だからだ。情報という大事な品物を、データという形の決まった箱に入れて処理しやすくし、また逆にデータの箱の中から、うまく情報の品物を引きだすことで、
→→情報→→
↑ ↓
←←データ←という円環をつくってまわしていく。この、“データと情報のサイクルを回す”ということが、IT利用スキルの本質なのだと、私は考えている。
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(c) 佐藤知一
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