考えるヒント 2005 - 2008

システム・アナリストにとって、世界は練習の課題に満ちている・・

(c) 佐藤 知一


たとえば・・・

考えない方法 (2008/12/15)

メーラーを閉じろ (2008/10/18)

究極の管理学とは何か (2008/06/11)

課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)

課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)

頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)

ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)

睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)

睡眠時間の必要 (2007/08/06)

心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)

赤信号をわたる国 (2007/02/25)

なぜ信号機が必要か (2007/02/04)

Christmasメッセージ −−今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2) (2006/11/10)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む (2006/10/29)

ホワイトボードの謎 − 在庫の「見える化」の効用 (2006/09/12)

科学の子 (2006/06/04)

必要な人はいつもたった一人しかいない − その原因と帰結 (2006/04/01)

必要な人はいつもたった一人しかいない (2006/03/06)

Chirstmas メッセージ−−若さと成熟 (2005/12/22)

システムとは何だろうか? (2005/11/26)

頭の良いおバカさんたち (2005/10/23)

スケールアップの法則 (2005/09/29)

モノを買うのか、機能を買うのか (2005/07/21)

決めない人々 (2005/06/21)

英語のLetterとSpirit (2005/03/27)

理系でもなく文系でもない (2005/02/06)

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考えない方法 (2008/12/15)

昔、unixのパイプライン記法をはじめて学んだときは、ずいぶんとスマートな解決法だ、と感心した覚えがある。その頃、大型コンピュータを使う仕事では、バッチ処理のためのJob Control Languageという大変厄介な言語(というか何というか)を勉強する必要があった。これはどうしたら人間の生産性よりも計算機の都合を優先できるか、という観点からは見事な出来映えの記法であり、とくにデータファイルを定義するDD文なるものは、その厳密さと難解さと情け容赦無さの点で芸術の域に達していた。とにかくちょっとした中間ファイルの受け渡しだけでも、酷く頭を使うのである。unixのパイプライン記法は、これをたった一文字の | だけで済ませるのだ。舌を巻く、というのはこのことだ。

パイプライン記法の美点は、何よりも「名前をつける必要のない使い捨ての領域は、無名のままで済ませられる」という点にあった。プログラムを書いているとき、何かに名前をつけ、それを覚えておき、あとでその名前で呼び出すという作業は、案外、頭の負担になるのだ。それが負担になるということは、名付けの手間が無くなってはじめて気がつく。考えずに済むときには考えないようにしたい。これは、人間の頭脳の経済において非常に重要なことらしい。

さて、同じ頃だったと思うが、法律事務所に勤めていた人から、ある女性弁護士の話を聞いた。この人は結婚していて、毎日働きながらも家で料理をしていたらしい。で、この人は夕食のメニューを決めるのに、不思議な表を使っていた。それは一種のスケールのようになっていて、上段には豚肉・鶏肉・牛肉・魚・・という風にメインの食材が並び、下段には煮る・焼く・蒸す・・といった調理方法が並んでいる。そしてこの人は、毎日その表を一段ずつずらしながら、“今日は魚の揚げ物にしよう”といった具合にメニューを決めるのだそうな。「このシステムを使えば、今夜は何を作ろうかしら、と悩む必要がないから、とっても楽よ」とおっしゃっていたらしい。

この話を聞いて、その弁護士の頭の良さに感心するよりも、あきれて笑う人の方が、まあ普通の感覚だろうと思う。料理なんて、季節や天候や体調や、その日に手に入る食材などでかわりうる、と考えるのが常識というものだ。しかし、“今夜の夕食はどうしようか”というのは主婦の恒なる悩みでもある。女性弁護士の方法は、少なくともその悩みからは縁が切れていた。

彼女の方法は、とてもシステマティックだ。だが、そのメリットは何か? それは、「考えなくても済む」という点にある。つまり、『システム』とは、考えずにすむ方法のことなのだ。体系にしたがって、手短な処理をすれば、考えずとも答えが出てくる。システムとは一時的な、一過性の課題を、頭を使わず考えずにすませるための方法である。

もうひとつ、別の例を挙げよう。「ダブルビン法」という簡易在庫管理の方法である。ご存じの方も多いと思うが、念のため紹介する。これは在庫すべき材料を、二つの容器なり棚なりに入れておく。使用するときは、片方の容器/棚から必ずとる。そして、その容器が空っぽになったら、二番目の容器から取るようにするのだが、その時その容器を満たす分だけ、発注手配をするのである。いうまでもないが、容器の容量は、発注から納品までの日数の間よりも多めにしておく。納入リードタイムが1週間なら、10日分程度の使用量が入るように容器サイズを決める(さもないと2番目の箱が空っぽになった後に補充分が来るので、欠品状態になってしまう)。

これは一種の不定期定数補充方式であり、価格が安く(=在庫費用が安く)、いつも一定の使用量があり、かつ欠品するとこまるような材料に用いる。ボルト・ナットなどのたぐいがその典型である。これを自宅のお米の在庫管理に使っている人も知っている。あるいは、デパートやホテルなどでよく見かける、トイレットペーパーの2段ロールも、その一例だ。あれなど、価格が安く、いつも一定の使用量があり、かつ欠品するとひどく困る点でダブルビン法にうってつけである。

もっとも、ときにホテルなどで、ロールが横に二つ並んでいる形式のものも見かける。あれは困る。どちらからも切って使えるからだ。だから、しばしば、両方のロールが少なくなっていたりする。ダブルビン法の要諦は、片側からのみ使用し、在庫量が半分を切ったところで補充手配をかける点にある。両方から消費していったら、発注点が分からなくなる。

どうしてこういう事になるかというと、むろんそれは管理者が、ダブルビン法の考え方を理解しないまま、やり方だけを表面で真似ているからだ。ダブルビン法は在庫管理を簡易にする、システマティックな、「考えずにすむ方法」である。しかし、その仕組みを入れる人間は、少なくとも頭を使ってその意義を理解する必要がある。なのに、「考えずにすむ方法を、考えずに真似ている」のだ。方式ばかり一人歩きするが、その効果は得られない。

ダブルビン法を少し応用すると、すぐにカンバン方式にたどり着くことは、当サイトの読者ならおわかりいただけると思う。容器をいくつか並べて置いて、手前の容器が空になったら、補充をかける。容器にカンバンをぶら下げておけば、もうカンバン方式だ。さて、カンバン方式がフィットする条件が何か、トイレットペーパーの3つの特性を思い出して、考えてみていただきたい。これらが充足されない種類の品目には、使えない。とくに、「いつも一定の使用量」というのがポイントだ。

システマティックな方法は、なにより人間の頭脳にとって経済的である。「名付け」を考えるコスト、覚えるコスト、思い出すコスト、量やタイミングを間違えずに手配するコスト・・こうしたコストを全て排除してくれる。だから、多くの人間は強力なシステムにしたがって仕事を進めようとする。

私たちの社会は、とてもよく発達していて、「考えない方法」はいくらでもころがっている。しかしシステムの基本的な条件を理解しないまま「考えない方法」にしたがってはいけない。それは結局いつのまにか“システムに使われる”立場に私たちを変えてしまう。考えないまま会社に行き、考えないまま会社から帰り、考えないまま消費生活を続ける。
考え直すなら、これまでのシステムが行き詰まりはじめた今しかない。



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メーラーを閉じろ (2008/10/18)

時間管理術」のような本を書き、タイム・マネジメントに関して時おり講演などをしていると、たまに思いもよらぬ誤解にあうことがある。「佐藤さんはきっと仕事が速いんでしょう」というのは、まだかわいい方で(自慢ではないが人並みのスピードでしか仕事はできぬし、文章を書くのは遅い部類である)、「きっと早起きで夜もあまり眠らないはずだ」などというのは、どこをどう押したらそういう理解が出てくるのか不思議に思う。私にとって日常の主要な関心事は睡眠時間の十分な確保であって、寝る間も惜しむ時間管理術など、私の最も好まぬ解決法だからである(『睡眠時間の必要』「考えるヒント」2007/08/06)。

もともと、時間というのは1日24時間、誰にも平等に与えられている。それをどう、うまく使うかがタイム・マネジメントの要点なのだが、「時間が足りないのは自分が浪費しているせいだ」とはたいてい考えず、“あの人が楽そうに見えるのは、本当に楽な仕事しかしていないか、めちゃめちゃ仕事が速いか、あるいはどこかから時間をよけいに取りだしているからにちがいない”という風な憶測が生まれるらしい。

タイム・マネジメントにおいて一番重要なことは、『着手日を決めて、それを守る』ことで、これは本にも書いたとおりだ。我々は日常、さまざまなタスク=宿題を抱えてすごしている。各タスクには、締切や納期や、(もっとたちのわるい場合)ASAP、つまりAs Soon As Possible「できるだけ早く」という条件がついている。そこで、タスクを完遂するのに必要な期間を見積もって、最遅着手日(LS = Latest Start)を考え、他のタスクとの優先順位を考えながら最早着手日(ES = Earliest Start)との間で実際に着手すべき日を決める、というのが基本だ。

むろん、現実には予期せぬ割り込みや遅れがつきものだから、所要時間の見積には幅ができる。いつも最遅着手日に着手していたのでは、納期を割り込むリスクがあるわけだ。だから最小限のバッファー日数を考えて着手日を決めなくてはならない。これは、工場の生産スケジューリングだろうが、オフィスでのワーク・スケジューリングだろうが共通の原則だ。

ところで、オフィスワークにかぎって言うと、ここに一つ考慮すべき要素が入ってくる。それは『集中度』というパラメータである。知的成果物をつくる仕事には、ある程度の精神的な集中が必要になる。より良い仕事が求められれば求められるほど、「連続して集中して考える時間」が入り用になるのだ。これはどのようにスケジューリングに組み込むべきだろうか?

オフィスワークの仕事量は、ふつう人日や人月で測られる。IT産業はその典型だ(私の属するエンジニアリング産業では、人時で測るのが国際的な慣習になっている)。5人日の仕事とは、すなわち、一人でやったら正味5日かかる分量を示す。これを私は「量としての時間」とよんでいる。この人が、似たような仕事をもう一つ同時に抱えていて、両方を平行に作業していたら、終わるのは10日後になる。5人日の仕事だが、所要期間は10日の長さである。これを私は「長さとしての時間」とよんでいる。コンピュータの世界でいう、ellapsed timeである。

そして、多くの場合、同時並行のタスクを二つ持とうが三つ持とうが、個々に必要な人日は変わらない、と仮定する。ところが、ソフトウェア工学で有名なトム・デマルコは、これはたいへんな間違いだという。

彼は、“ソフトウェアの開発工数とは、集中して考えられる時間の合計で測られるべきだ”と主張している。あるモジュールの開発工数が100時間だとすると、それは、静かに集中して考えられる時間が合計100時間必要だということだし、集中できない細切れの時間が1000時間あったって、そのモジュールは完成しない、と彼はいう。つまり集中して考えることのできる2時間と、10分ずつ細切れになった合計の2時間では、まったく質が異なるというわけだ。

私もこの考え方には、いたく同調する。そもそも、オフィスワークの生産性を下げる第一の要因は、他人からの割り込みなのだ。考え事をしている最中に上司に呼ばれたり、電話が鳴ったり、誰かに話しかけられたりして、集中が途切れると、あとでまたその集中状態に戻るには、かなりよけいな手間と時間がかかる。この間の生産性の低下は、誰がどう補ってくれるというのだ。

しかし、あなたが組織で仕事をしている限り、上司や同僚を切り捨てるわけにはいかない。個室でも与えられていれば別だが、日本ではそんな贅沢はまず望めない。

それでは、どうしたら良いのか? じつは、ここには一つの解決法がある。それは、職場全体で「集中タイム」を設定することである。たとえば、朝9時から11時まで。その間は、会議も招集しない。電話もかけない。部下も呼ばない。ただ皆が、自分の席で仕事に集中するのである。これを実践している会社もある。

そんなこと、ウチの会社では不可能だって? そもそも、外から電話がかかってきたらどうするんだ? −−たしかに、そうだ。しかし、昨今、電話というものはずいぶんと少なくなったのも確かである。今や、たいていの仕事の連絡は、電子メールで行われる。ひどいときには、隣の席にいるのに、メールを打ったりしている。同時発信の効用があるからだ。面と向かっては言いにくいことだからメールにしたりすることもある。おかげで、電話のベルが鳴る回数は以前に比べて、ずいぶん減った。

そこで、一つの解決法がうかぶ。つまり、メーラーを閉じて、自分で「集中タイム」を自発的に作ってしまうのである。なぜ、オフィスにいる間じゅうずっと、メーラーを開けていなければならないのか。電子メールとはそもそも、非同期的な通信手段である。相手を呼び出して、同時性を強制的につくりだす電話とは質の異なる手段だ。だから、到着したからといってすぐに読みに行く必要も義務もない。さっき送っただろ! と送信者に文句を言われたら、「え、まだ読んでなかった」と答えればすむ。だって、会議で2時間席を空けて、読めない可能性だってあるのだ。いつからメールはリアルタイムな通信手段になったのだ。

ある調査によると、55%の人が、どんなに忙しくても届いた途端にメールを読みに行っている、という。これはじつにもったいないことだ。そんな必要性はないのだ。メールは、そもそも自分の都合で読みに行けばよい。集中したいときは、メーラーは閉じておけばいい。まるで、どこに球が飛んできてもすぐにキャッチできるよう、ずっと中腰になっている内野手のように、メーラーを開け続けていることは自分の負担なのだ。

自分が集中したい時間帯は、メーラーを閉じよう。そして、自分が自分の主人になれる時間を作りだそう。

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究極の管理学とは何か (2008/06/11)

最近、知り合いの東大教授から面白いことを聞いた。「東大には、なぜか管理学系の学科がないのです。」と、この先生は言う。「たとえば工学部には管理工学科とか経営工学科といった学科がありません。経済学部には一応、経営学科がありますが、実質的には経済学科とは垣根が低く、一体に近いようです。工学系大学院にMOT(Management of Technology)を意識した『技術経営戦略学』が最近設置されたのが、唯一それに近い存在でしょうか。」

つまり、日本の最高峰と世間で言われている学府は、どうも「管理」を学問や教育の対象とは考えていない、ということらしいのだ。京大についても、Wikipediaで調べてみると「経営管理大学院」はあるが、これもつい最近(2006年)に設置されたばかりである。事情は東西でよく似たようなものらしい。こういう話は、生産管理だとかプロジェクト・マネジメントだとかで飯を食っている(つもりの)私にとって、ずいぶん気になることである。

ちなみに、私は現在たまたま、日本経営工学会誌「経営システム」の編集委員をしている。その関係上、大学で経営工学を教えている先生方と接する機会も多い。そこで耳にするのは、“文部科学省が科学研究費を配分する際に、経営工学が重点研究分野に選ばれることはまず期待できない”という話だった。

では、文科省が研究分野として期待しているのは何か。それは、ナノテクノロジーだとか万能細胞だとか先端機能性材料といった分野である。いいかえると、すべて「固有技術」の研究だ。“ものづくりニッポン”などと言いながら、われらが政府の重点政策にはものづくりの「管理技術」の研究や普及活動は、決して登場しない。MOTが唯一認知されている理由は、それが研究・開発のマネージを目指しているからだ。素晴らしい製品開発さえできれば、あとはいつのまにか工場で大量効率生産できるものと、皆が考えているらしい。

この国では、マネジメントに『技術』はないし、「管理技術」なる概念は認知すらされていない−−こう考えると、いろいろなことが急に明らかになってくる。たとえば、技術なら、人から人へ伝承可能だし、科学的アプローチで向上することもありうる。でも管理は技術でないから、マネジメントの上手下手はまったく属人的なものだ、という信念が生まれる。したがって、生まれつき優秀だとか(これはつまり18歳のときに大学受験が上手だったという意味だが)、人生経験が豊富だとか、あるいは良い家柄の出身だ(=人を使うすべを若いころから見て学んできた)とか、そういうことが管理上手の物差しになる、はずである。だからこの国は学歴偏重と年功序列と同族経営が大好きなのだ。なるほど、なるほど。

あるいは、マネジメントとは社長とか部長とかいった地位に付随する権能である、という信念もありえよう。人に命令することが管理だと思い込んでいるのだ。“プロジェクトが上手くいかないのは、自分に人事権をくれない会社がいけないのだ”と信じ込むプロジェクト・マネージャーと同類だろう(「役割(Role)としてのプロジェクト・マネージャー」参照のこと)。それですむのなら、クリティカル・パスだとかWBSだとかいった技法は何もいらない。なるほど、巨大企業の情報プロジェクトが、軒並み火を噴くわけである。

もっとも、あるいは日本はもっと別の信念で動いている可能性もある。それは、「管理技術とはすなわち法律のことである」という考えだ。最高学府の法学部出身者が、中央官庁や政府や主要産業の枢要な地位を占めていく。そして一般大衆の従うべき方針を決定する。これが最適な管理の姿である、という思想が有力なような気がしてきた。この「一般大衆」の中には、あなたや私のような、理工学に従事するエンジニアも含まれる。法学は諸学の王である以上、どんな専門分野にも指令を出せるのだ。いや、そうだ、そうに違いない。その証拠に、日本の経済政策を決めているのは経済学ではなく、法学部出だ(ためしに過去50年間の日銀総裁の学歴を見るといい)。

工場やプロジェクトは多くの人とモノがかかわりあう巨大なシステムであり、固有の因果律や法則性があるから、それを効率的に運転していくには理論に裏打ちされた技術が必要だ。これを管理技術とよぶ。−−これは経営工学に携わるものの共通な信念だ(むろん、マネジメントの本質には「人を動かす」という面があるから、技術論だけですべてがカバーされるわけではないが)。なのに、クリティカル・パスだとか部品表だとかいった、大学の3年生で教わる技法も知らない人々が、現実の企業を動かして「管理」している。それを不思議とも思わない学術政策が、国を動かしている。

法律こそ、究極の管理手法である、というのはつまり、掟と刑罰で人を動かしていくのがもっとも効率が良い、との思想である。ここには、「管理」と「権力」の混同がある。おそらく、科挙を生み出した中国の古代思想とどこかで通低しているのだろう。そして、この思想は、理工学出身者の頭の中にも無意識に浸透していて、「管理技術」という概念が生まれるのを阻んでいるのだ。私たちがこの古代思想と早く決別しない限り、私たちの社会は混沌と低迷から抜け出すことはできないだろう。

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課題、ペイン、そしてソリューション(2) IT産業の中核問題とは(2008/02/18)

知り合いの大学教員にきいた話だが、この2〜3年、「情報」が名前についている学科の入学志望者数が急減しているという。これが一部の大学だけの話なのか、あるいは全般的な傾向なのかは、定かではない。しかし、いっとき学部学科名に「情報」だとか「システム」だとかつけるのが流行したものの、ここにきて曲がり角にさしかかっているらしい。

『情報』と名のつく学科への志望者が減っている理由は、おそらくIT産業ならびに情報処理技術者にたいするイメージダウンと関係がある、というのがその知人の意見だ。つまり、プログラマとかシステム・エンジニアになって就職しても、低賃金・長時間労働の業界で、すり減るまでこき使われるだけだ、というイメージがしだいに定着してきているらしい。もちろん、よほど結構な大学を出て大企業に就職できれば、システム構築業務といっても、外注先にわたす仕様書だけ書いていればいいのかもしれぬ。しかし、そうでない一般の大学出では、労働集約型産業で員数としてのみカウントされる「知的労働者」になるのは、ちっとも魅力を感じないことなのだろう。

どうして、日本のIT産業に魅力が無くなってきたのか。それは技術の問題というより、マネジメントの問題だというのが、私の意見だ。現代の日本のIT産業は、受託型のシステム開発プロジェクトに主軸がある。最新鋭の計算機を開発するというようなハード型の仕事ではなく、顧客の要望に応じた「ソリューション」を提供するソフト型のSIビジネスが、金額的に一番大きい。

ところが、このSIビジネスが、なかなか大変なのだ。なにしろ、誰がどう調べた数字かは知らないが、“IT開発プロジェクトの70%は失敗だ”と言われる世界なのである。水際に設置された大きなシーソーに乗っているようなもので、良いときは高く舞い上がれるが、ひどいときは水面下に沈められて息もできない。ダメなプロジェクトに配員されてしまったら、土曜も休日もなく連日連夜働かされ、サービス残業を強制されて(強制されるサービスって、いったい何だ?)、しまいには連休をつぶしての移行作業である。10回に7回がこの調子では、たしかに志望者も減るだろう。プロジェクトの失敗率はIT業界の「ペイン」(悩み)なのである。

こういう状態をいかにして解消するか、いろいろな議論がたたかわされている。先日、プロジェクトマネジメント学会のセミナーで講演したときも、IT業界の方の質問に答えて「エンジニアリング業界におけるプロジェクトの失敗率は30%程度だろうか」と発言したら、なぜそんなに少ないのか? いったいIT業界はどこがおかしいのか!? という議論の嵐になってしまった(30%はひどく多いと思っている我々はかえって驚かされた)。

その時の議論の大勢は、これは顧客側に原因がある、とくに曖昧な要求仕様で発注する顧客がよくない、という論調だった。しかし、きいていた私は、全く別の意見をもった。しょうもない顧客が世の中にいることは、事実として同意する。だが、IT業界に問題があるとしたら、それは顧客ではなく、「要求分析」という最も知的に価値のある部分ではなく、「システム実装」という力仕事の部分で儲けようとする、歪んだビジネスモデルにあるはずだ。

ソリューションというものの要求仕様が曖昧なのは、本質的なことであって、これは避け得ないことだというのが、私の考えである。なぜか。それは、ソリューションへの要望が、顧客の「ペイン」から発しているからである。ペインとは、意識化されていない問題、あるいは意識には上っているが解決をあきらめてしまっている問題である。意識化されていないのだから、明確なわけがない。ただ、これでは商売にならないから、ここにシステム・アナリストが登場する。アナリストは、顧客の要望を明言化し、As-isとTo-beモデルというような概念をつかって、顧客のもやもやした「問題」をビジネスの「課題」に格上げするのだ。

しかし、ここには手抜きの手段がある(これは職業上の秘密だけどね)。それは、To-beモデルという、あるべき姿が、じつは“隣の芝生”的な空想的なものになっていても、それを指摘したりはしない、という手抜きである。そこを丁寧に説明していたら、いつまでたっても要件定義は終わらない。要件定義は、顧客を「実装ビジネスという利益の源泉」に食いつかせるための撒き餌なのだ。きれいに要求仕様を紙に書いて、一定期間内に終わりにしなければならない。そして『ソリューション』を構築提供したら、あとの使いこなしはお客様の責任です、といってSI業者は帰ってしまう。こうなると、最初に顧客が抱いていたペインは、「巨大で維持費のかかるITシステムをつかってどう業務をまわすか」という、全く別のペインにすり替わってしまう。そして両者の間には、限りない不信感が残ることになる。

おわかりだろうか。矛盾の根源は、時間とお金をかけて、要求分析・要件定義をきちんと完遂していないことにある。要件定義をきちんとやる、とは、すなわち顧客が自分のペインを自覚して、その解決策について、得失両面から明確に理解することである。こうして初めて、「問題」は「課題」に昇格するのだ。自分が納得した解決策(=ソリューション)ならば、それを実行することもできる。だから、これはきわめて大きな価値のある仕事である。

そして、IT産業は本来、この最も価値のある部分で大きな利潤をかせぐべきなのだ。要件が真に明確になっていれば、実装は、お金はかかるがリスクの小さな(つまり利幅も本来は小さな)業務と位置づけられるはずだ。それなのに、設計は無償でサービスして建設工事を受注しようとするゼネコンみたいなことを、いつまでもSI業界がやっていて良いわけがない。実装で儲けようとするから、基本設計がおろそかになる。おろそかになるから、結局は実装のプロジェクトのリスクが大きくなる。

いいかげん、IT産業はこんな負のスパイラルから脱出すべきだ。そして、知恵がきちんと評価される業界に生まれかわってほしい。そうすれば、きっとまた優秀な学生の集まる有望な分野にもどるはずだと、私は信じている。

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課題、ペイン、そしてソリューション (2008/02/10)

ソリューション」という言葉を最初に流行らせたのは、'90年代の米国IBMだったと言われている。はじめのころは、「単に最新型CPUを載せたPCハードです、といって売れた時代はもう終わる。これからは顧客のソリューションとなるシステムでなければ売れないだろう」といった言い方だった。それがいつの間にか今日では、「最新型アーキテクチャのソリューション!」という具合に、単なるハードやソフトの出来合い商品をさすのに使われてしまっている。IT業界における典型的な“用語インフレ”の一つだろう。いまでは他の業界でも「ソリューション」を名前に冠する会社は少なくない。

しかし、発祥の地のIT業界でも、さすがにもう企業のCIOたちは『ソリューション』という語に不信感を抱くようになってきたらしい(たとえば『CIOが抱く「ソリューション」への不信感』日経ソリューションビジネス・記者の目2006年6月)。ソリューションとは何か、と正面切って問われれば、「課題への解決策だ」と誰しも答えるに違いない。それが英語の原義なのだから。

問題なのは、その『課題』を、誰が定義しているのか、という点である。これを勝手に売り手が想定して、しかもワンサイズ衣料品的に、どの顧客にも売っていることに矛盾があるわけだ。それでは、ソリューションとは一体何だろうか?

じつは、企業のかかえる課題は、大きなレベルの戦略課題から、小さな日常レベルの課題まで、いろいろな形で存在している。会社員という人種は、誰もが自分の職務範囲に応じた課題意識を持っているものなのだ。そうした課題を、ちょうどプロジェクトをWBS(Work Breakdown Structure)に分解するように、階層的に分解することができる。すると、どの企業でも第1レベルには7種類の課題が共通して並ぶ、というのが私の経験から得た結論だ。たとえばその一つが、販売力の拡大である。受注増加や売上増加といってもいい。

ところで、ある先輩コンサルタントの語るところによれば、良い営業マンとダメな営業マンを見分ける簡単な方法があるという。自分の商品説明から話をはじめるのは、じつは愚の骨頂なのだそうだ。商品説明をはじめれば、顧客は売りつけられていると感じる。そうなると、どんな顧客も身構えてしまう。だから、良い営業マンは、ぎりぎりのタイミングまで、自分の商品説明は控える。では、何を話すのか? それは、顧客側の問題なのだ。良い営業マンは、顧客との会話の時間の8割までを、顧客側の問題について話すことに使うのだそうだ。

これは私自身にとっても、耳の痛いアドバイスだった。私は技術屋だ。だから、セールスの場面では、つい自分の技術を売り込みたくなる。しかしそれは、「自分の技術に惚れている。つまり自分に酔っているにすぎない」のだと言われてしまった。私に限らず、技術志向の会社の営業は、どうしても技術的優位性、ということに関心が向いてしまう。だから発想が「プロダクト・アウト型」のセールスになる。

その先輩によると、優秀な営業マンは、同業他社に引き抜かれても、移った先で良い成績を上げるものだという。これは当たり前に見えるけれども、実はよく考えてみると不思議なことだ。なぜなら、元の会社の製品が他よりも技術的に優れているから売れたのなら、移った先では成績がふるわなくなるはずだからだ。にもかかわらず、どこでも良いセールスを上げられるということは、じつは販売力は製品の「技術優位性」にはあまり依存しないのだ、ということを表している。では価格なのか? いや、そうではない。競争環境下では、価格は自ずとある範囲内に落ち着いてしまうし、そもそも良い営業マンは安売りセールスなどには頼らない。

だとすると、ポイントは何か。それが、課題とソリューションを結ぶ顧客の「ペイン」(痛みを伴う問題)の掘り起こしなのだ。ペインとは、顧客が無意識のうちにかかえている問題、あるいは意識には上りつつも解決をあきらめてしまっている問題、のことだ。良い営業マンは、このペインの発見に長けている。顧客のペインに対して、自社の製品を「ソリューション=解決策」として提示できる。そのペイン(痛み)の大きさに比例して、顧客にとって価値が高く感じられる。価格競争から、頭一つ抜け出せる。これが付加価値セールスの源泉なのだ。単にモノを売っているのとは全然別である。

ここまで、私が「課題」と「問題」を慎重に使い分けてきたことにお気づきだろうか。「課題」は意識して(カッコつけて)いうことがたやすい。中期経営計画にも有価証券報告書にも書くことができる。課題は企業間で共通性が高いのだ。しかし「問題」は個別性が強い。問題は人に言いたくない。販売力の強化、とは書けるが、営業統括役員が無能だ、とは口に出せない。価格競争力の向上、とは書けるが、毎回赤字覚悟でたたき合っている、とはいえない。なぜたたき合いになるのか? それは「技術的優位性が足りないからだ」と『課題』はいうだろう。しかし、じつは「顧客のペインにたいして自社の製品をソリューションとして位置づけることができていない」ことが『問題』なのだ。

それでは、具体的に顧客のペインを見つけるにはどうしたらよいか? これはむずかしい。問題はたいてい個別性の泥の中に隠されているからだ。しかし、手がかりはある。少し長くなってきたので、これについてはまた次回書こう。

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頭が良くなる、のを避ける方法 (2008/01/01)

科学者・寺田寅彦の名言に、「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい」ということばがある。つづいて、「すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。」という(元の文章『科学者とあたま』は青空文庫に掲載)。これは今から75年前の発言だが、いまだに全く古びていない。いや、それどころか現代における警鐘として、ますます重要になっているのではないか。

最近ときどき、とても頭の良い、物知りな人に会うことがある。大企業の人に多いが、こちらが何か提起したり、問いかけたりすると、すぐにその先の帰結を述べてくれる。「その線はうまくいきませんよ、市場はむしろ逆の方に動いていますから。」「あの企業が成功したのは、じつは裏に理由があるんです。それは・・・」こういう風につづく。部下が何かをたずねると、たちどころに由来や帰趨を説明してくれる。とにかく、あらゆることが説明可能な人なのである。説明可能だが、その先は現在の路線を続けるという結論にたどりつく。

これとは別種の、頭の良い人たちもいる。見事な戦略的経営プランを、ビューティフルなPowerPointに作り込む。いつも自信満々だ。彼らの説明にはROEだとかSaaSだとか新鮮な用語と数字がならんでいる。それで現実が動くんだろうか、などと端で心配してみても、「あとはExecutionの問題に過ぎませんから」などと答える。英語がたくさん混じっているのもこの種の人たちの特徴である。

ところで、話は急に飛ぶが(いつものことで)、昨年、新しいガスレンジを自宅に買った。ガスレンジなどきわめて成熟した商品だと思っていたら、新型は驚くべき機能を満載している。まず、タイマーがついている。セットしたら自動的にガスの火が消えるのだ。安全設計らしい。それどころか揚げ物の場合は鍋の温度を自動的に一定に保ってくれる。温度センサー付きなのだ。またグリルも、受け皿に水を張る必要がない(耐高温性のテフロン加工かな)。操作パネルがついていて、デジタル表示になっている。

しばらくは便利機能に感心しながらつかっていたが、正月のお餅を網で焼く段になって、困ったことに気がついた。焼き網が高温になると、勝手に火がしぼられてしまうのだ。私が文句を言うと、同居人も「そうなの。魚焼きのグリルも、焦げ目が付く前に勝手に消えちゃうのよ。私がしたいように動いてくれないし、まったくどっかの頭の良い人みたい。」という。そしてエンジニアの私に向かって、こう付け加えた。「自分では料理したことのない技術屋さんが設計したに決まっているわ。」−−ここで私は冒頭の寺田寅彦の文句を連想する。なるほど、頭の良い設計者は、料理という行為には向いていないのか。

頭の良さ”と世間ではひとくくりにいうが、私は4,5種類の頭の良さがあるのではないかとかねてから疑っている。頭の良さに関連するキーワードをならべてみると、いろいろある。記憶力。判断力。分析力。洞察力。創発力。言語能力。推論能力。理解力。これらをすべてまんべんなく兼ねそろえている人は希で、どれか一つ二つに秀でている例がほとんどではないか。

そして、世間では頭が良いというのを誉め言葉で使うことが多いが、「頭の良さ」とは、「目の良さ」「力の強さ」などと同格の特性ではないかといつも思う。“あの人は頭が良いね”ということは、“あの人は走るのが速いね”というのと同列で、その人が優れた人格を持っているとか、徳があって賢いとか、そうしたこととは独立な事象なのだ。

その上で私は、寺田寅彦があえて言ったように、単に「頭が良い」ことに対して、批判的な意見を持っている。いや、むしろこう言い直そう。「自分は『頭が良い』と思っている」人になるのは、きわめて危険だと感じている、と。

自分の経験からみて、45歳をすぎた人は(とくに中間管理職の人や技術職の人は)みな「頭がいいと思っている人」になりがちだ。頭が良いと思っている人の特徴はいくつかある:
 人の意見(異見)をきかなくなる
 最後まで見通せる(リスクも含めて)と思っている
 他人の批判がうまくなる
 つねに断定形で語る(自分に疑問を差し挟まない)
などなど。あなたのまわりでも、こうした人を見かけないだろうか。こうした人々にならないためには、どうしたらいいのだろうか? なまじ高度な教育を受けた人は、頭が良くなるのを避ける方法を、知るべきだと思うのだ。

一つの解は、誰か自分より頭のいい人を見つけて、その人を目指すことだ。ただし、これは自分の身の回りに、そういうすごい人がいないとうまくいかない。それよりももっと実効性のある方法は、自分で手を出してやってみることだろう。つまり、泥臭い世界に手を出してみることだ。そして、簡単に「わかった」とは思わないこと。「知った」とも思わないこと。「自分は知らなかった」と思う。それが、自分をまともに保つ秘訣である。

自分には知らないことがある−−すなわち『無知の知』を身につけることこそ、頭の良い人になるのを避ける最良の方法なのではないだろうか?

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ナレッジ・マネジメントはなぜ困難か (2007/10/31)

好川哲人氏の分類によると、PMO(Project Management Office)は3種類に分かれるのだそうだ。コンサルティング型、ナレッジマネジメント型、標準化型の3つである。私も最近、ライン部門からPMO的な部門に配属がかわったので、これらの類型についてときどき考えをめぐらす。たいていの会社のPMOは、この3種類のタスクが多少なりとも入りまじった形をしているはずだ。だが、その中でも難しいのが、ナレッジマネジメントではないか。

団塊の世代が大量に引退時期をむかえる、いわゆる「2007年問題」もまた、ナレッジマネジメント導入の一つの引き金になっている。技術や知識の継承をどうするのか、といった問題を企業に突きつけているわけだ。また、企業の合併や海外展開も、社内の知識の棚卸しと再整理を要求する。

ナレッジマネジメント(KM)の根幹は、「暗黙知を形式知にかえて共有する」というプロセスにある。これはさらに、ISO9000/QMSと結びつき、仕事をふりかえって問題点を改善するためにL/Lを共有する、という風に仕組み作られている。ちなみにL/LとはLessons LearnedあるいはLessons & Learnsの略だ。10年前は欧米系の大企業でなければお目にかからなかったL/Lという語も、最近はあちこちで接する機会がふえてきた。

しかし、私の知る範囲では、どこの会社でも、KMはなかなかうまくいっていないようだ。これは何故なのか?

ツールの問題では、おそらくあるまい。10年前ならいざ知らず、現在ではどのオフィスでもグループウェアやLotus Notesや企業ポータルといった道具立てが普及している。ユーザがナレッジを登録してくれない、という段階も、多くの企業では乗り超えつつある。QMSに組み入れて義務化したり、表彰をしたり、業績評価に組み込んだり、あの手この手の策によって、ナレッジはかなりの量が蓄積されるようになってきた。むしろ、データベースが社内のあちこちに散らばって、どこに何があるのか探しにくい、という状況さえ出現してきている(Notesはその混沌状況を増すのに絶好のツールらしい)。

ツールもある、コンテンツも多い、ということになれば、受け手の側に問題があるのだろうか? だが、情報の受け手に学習意欲が足りない、と考えるのは即断にすぎると思う。おそらく、受け手の言い分としては、「忙しすぎて、とても情報を読む時間がありません」だろう。これを私流に敷衍すると、こうだ。「ナレッジを読むことは成果に結びつかぬ間接作業なので、そのプライオリティは実務の直接作業よりも低くなります。」 つまり、パソコンの画面を読んでいるくらいなら、(営業職なら)お客を訪問しろ、あるいは(技術職なら)図面をかけ、といわれる(と感じる)のだ。

それでは、受け手にも読む時間を確保してやれば、ナレッジマネジメントは成功するだろうか? いや。読んでも、記憶に残らなければ何の意味もない。そして、単なる知的情報は人間の記憶にとどまりにくい(大学受験の時に暗記した年号を覚えている人はどれだけいるだろうか)。記憶に強くとどまるものは、感情をともなう情報である。書き手、話し手の感情が分かり、顔や声の調子が伝わってはじめて、受け手・読み手の記憶にくっきりと残るのである。単なる報告文よりも、報告会の方がずっと有効なのはこのためだ。

さて、ナレッジに感情を込めることに成功したら、それでKMはゴール達成だろうか? いやいや。人間というのは、文字に書かれた知識を知ったからといって、それが分かって使える状態になりはしない。だって、逆上がりのやり方を書いた文書を読んだら、明日から鉄棒で逆上がりができるようになるのか?

逆上がりというのは、体で覚えるものだ。では、仕事上の技術やスキルは、体でなく頭で覚えるものだろうか? かつて『「わかる」ことと「知る」こと』(考えるヒント、2004/07/06)に書いたとおり、知ることと分かることとの間には、大きなギャップがある。エンジニアの端くれとして断固として書くが、それを埋められるのは、何度も練習すること(“体で覚える”こと)しかない。

「わかる」状態になっても、まだ終わりではない。わかっても、今度は実務に使わなければ「使える」にはならないからだ。そして、実務にくり返し使って、ようやく「本当によく分かる」という状態にまでたどり着く。こうなってはじめて、それはスキルと呼べるのだ。

こうしてみると、「形式知に書いて伝える」という行為から、「本当によく分かる」までは、随分と長く困難な道のりがつづいていることが分かるだろう(下図参照)。収率がきわめて低いプロセスのように。

結局、ナレッジマネジメントの問題の根本には、『ナレッジ』という概念自体の限界がある。Knowledge(知識)はknow(知る)から来ている。知識経験をナレッジとして文章化すれば、すぐに共有できるだろうとは、なんと西洋的な考えであることか! 西洋人でなくても、お受験やお勉強が上手な人は、ナレッジに価値があるはずだと思いがちである。しかし、「ナレッジ」が「知ること」にとどまっている限り、それは使えないのだ。我々はまだ、「本当によく分かる」までの長い道のりを歩いていかなければならないのだ。

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睡眠時間の必要(2) 生物とシステムのサイクル (2007/08/11)

人間の脳が最もエネルギーを消費しているのは、じつは眠っているときらしい。それも、夢を見ているときではなく、いわゆる夢を見ないノンレム睡眠の時である。レム睡眠とノンレム睡眠は1時間半程度の周期でくり返すが、われわれが多少とも覚えているのは夢を見ているレム睡眠の間にすぎない。これはまことに不思議なことだ。脳が一番活発に活動しているのは、自我も意識も無い時らしいのだ。

眠っている間に脳が何をしているのか、まだほとんど分かっていない。一説によると、覚醒時に習得した情報の中からパターン抽出をして(つまり情報圧縮)、海馬経由で長期記憶に保存するのだという。休憩中の脳はガーベジ・コレクションをしているのさ、というのがシステム・エンジニアうけする説明だが、脳のなかのメモリ空間がリニアアドレスであるはずもなし、たとえ話以上のものではあるまい。

ところで、ここから連想ゲームみたいに話が飛ぶのだが、休んでいる間が一番忙しい、ときいて、私は自分の顧客である石油ガス業界やガラス業界の工場を思い出す。製油所勤務の人たちが一番忙しいのは、生産していないときなのである。工場を止め、製造装置をストップして、こうした業界では定修を行なう。「定修」とは定期修理の略だ。工場にもよるが、たとえば1ヶ月弱、生産をストップして、プラントのあらゆる装置・計器・配管をメンテナンスするのである。機械はばらして消耗部品を交換し、内部を洗浄して汚れを取り、配管系統の溶接箇所を点検し、計器を更正し、必要ならば小規模改造や新装置の導入をして・・

石油プラントの場合、機器・配管の総数は数万点あるから、やることはたくさんある。工具も場所も限られているから、適当に目についたところから手をつけていたのではいつまでたっても終わらない。かなり詳細な手順計画を立てて遂行していくのである。人手もたくさんかかる。プラントでは大量の可燃物や高圧ガスを扱う。法規制の関係で、日本ではタンク類の開放点検が年1回義務づけられていた。つまり、年間の1/12は生産ストップというわけである。これが日本企業の競争力を大幅に阻害しているという指摘があがり、規制緩和で隔年になり、最近は4年に1回になった。しかし、これが思わぬ問題を呼び起こしているのである。

その問題とは何かというと、定期修理・大規模メンテナンスのスキル継承の困難である。なにせ4年に1回しかない。大卒で会社に入っても、へたをすると現場を1回か2回経験しただけで係長や課長クラスになってしまう。現場をよく知らないまま、中間管理職として計画立案や監督をすることになる。なまじ大卒で頭のいい人は、見ていただけでわかった気になってしまう。しかし、技術的スキルというものは、現場でくり返し学習しなければ、身につかないものだ。そして・・

米国ミネアポリス州で、高速道路の橋が落ちた事件は、その少し前ニューヨーク市でおこった地下埋設蒸気管の爆発事故(かなりのアスベストが飛散した)とあわせて、あらためて保守を軽視した社会のもろさを皆に知らせることになった。日本だって、対岸の火事ではない。ここ数年、どれだけ工場や鉄道で大小の事故が起きていることか。これらは保守をぎりぎりまで切りつめた「現場の不眠症」の産物といえないだろうか?

工場とは秩序をもったシステムであり、企業の生産システムの中核をなす。ところで、生物というものも、複雑な秩序をもった有機的システムだと言える。この生物という名前のシステムは、補食活動や同化作用といった活発な時期に体内にエネルギーをたくわえるが、その後かならず休息の時期が来る。このとき、実は活動期に体内に増えたエントロピーを下げて、体内組織を修復し直す。生命がサイクルをもつということは、かなり本質的な事象だと考えられる。カルノーサイクルや内燃機関の原理を見てもわかるように、最大の効率をあげたければ、サイクル的な構成が必要になるらしい。

だとしたら、企業という有機的(?)システムにも、エネルギーとエントロピーのサイクルが必要なのではないか。休みなく絶え間なく成長し続けるというモデルは、むしろどこかでエントロピーを噴出することにならないだろうか。季節性や景気循環はどの業界でもおこる(たとえば半導体サイクルや液晶サイクルなど)。大事なのは、下降期に向かったときの過ごし方なのだ。そのときこそ、生産ラインを止め、不要物を捨て、保全改良をほどこして工場のエントロピーを下げてやる必要がある。人間を休養させ、再教育を行ない、「人的資源」の再生をはからなければならない。つまり積極的に下降期をすごし、それをチャンスととらえるべきなのだ。

前回、私は、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想」に反対だと書いた。それはなにも、休養すれば生産性が上がるから、という理由ではない(そういう功利的な説明の仕方は、俗耳には受入れやすいだろうが)。私はむしろ、意識中心の考え方、すなわち“自分とは意識・自我である”というデカルト的西洋的考え方がきらいなのだ。この論理は、“だから意識がない時間は無価値である”とか、“自分の体は自分(=自我)のものである”とか、“身体を短時間睡眠に馴致させるべく改造しよう”という風につながっていく。

だが、よく考えてほしい。生物進化の歴史を見ればわかるように、意識と脳は、身体が必要に応じて創り出してきたものである。それなのに、あたかも身体を脳の道具のごとく考えるのは、まったくの転倒であろう。

この構図は、会社にも全くアナロジーとしてあてはまる。MBAか何かをとって、本社で戦略的ビジネス計画をたてる頭のいい連中は、会社組織は自分たちのものであり、好きなように動かしたり切捨てたりしてかまわないと考えているかのようだ。ちょうど、ゲーム理論の『計算する独房の理性』のように。だが、以前「誰のための生産管理?」(「タイム・コンサルタントの日誌から」2007/05/06)でも書いたように、本当はマネジメントとか本社とかいうものは、生産や販売の現場がスムーズに動くように、サポートする立場にある。つまり、マネジメントとは現場の必要から生まれたものなのだ。

眠っている間、意識や自我が消え去っても、生物としての人間の一貫性は継続するし、むしろ身体の統合性は再生される。意識は身体の下僕である。もうそろそろ、我々の頭の中にある転倒を正すべき時期なのかもしれない。

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睡眠時間の必要 (2007/08/06)

なぜそんな話題になったのかは覚えていない。相手は知人の、イタリア人の精神科医だった。ローマ市街のはずれからホテルまで、彼の車で送ってもらいながら、何となく毎朝何時に起きる習慣か、きいてみたのだ。彼は6時には起きている、と答えた。勤務先の病院には8時前にはついているという(欧州は比較的早起き社会だ)。じゃ、寝るのは? ときいたら、彼はふりむいて、「12時頃なんだ。」と残念そうにいう。「10時には寝たいといつも思う。でも、それは不可能だし。」

私はシエスタ(昼寝)のことはあえてたずねなかった。自分でシャッターをおろせる開業医ならともかく、勤務医はとれないに決まっている。そうでなければ彼がうらめしそうに10時に寝たいというわけがない。中堅の勤務医は、洋の東西を問わずどこの国でも、公私ともにめっぽう忙しいのだ。私は、自分も平日は6時間程度しか眠る時間がとれない、と説明した。それが体に良いとはとても思えないとも。

人間が快適に暮らせる必要睡眠時間はかなり個人差がある。いわゆる「8時間睡眠」には学問的根拠がないと、なだ・いなだの不眠症にかんする本に書いてあった。しかし個人的経験から、私自身は7時間から7時間半ほどの睡眠をとるとすっきり目覚められる。それ以下だと、日中の知的活動が微妙に、しかし確実に効率ダウンする。

睡眠障害の専門医が組織する『快眠推進委員会』による情報サイト:「眠りの総合サイト☆快眠推進倶楽部☆」というのがある。これをみると、日本人の平均睡眠時間は減少傾向にあることがわかる。NHKの2000年の国民生活時間調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間23分で、年代別では30代が6時間57分、40代が6時間59分だ。働き盛りの年代で特に睡眠時間が短い、という。1960年には8時間08分だったのに、年々減少しているのだ。

むろん、長く眠れば良いとは一律に決められないとも書いてある。脳の睡眠であるノンレム睡眠は時間睡眠によらずあまり変わらないとの報告もあり、『睡眠は時間よりも「質」の方が重要。質のよい睡眠とは、目覚めがスッキリとしていて、ぐっすり眠ったという満足感が得られる眠りのことです。』という。ここは睡眠障害や不眠症に悩む人向けのサイトだから、短くても気にしないで、とのトーンで書かれている。

しかし、睡眠時間が短いのは果して身体的な(つまり個人的な)問題のせいだけなのか? 私は疑問に思う。そのためには、他の国民と比べてみると良い。「何が問題?世界一睡眠時間が短い日本人」(村角 千亜希)には、こうある:『ACニールセンの2004年インターネット調査によると、世界で最も睡眠時間が短いのは日本人で、約41%が6時間以内の睡眠時間』。私はその41%に入っているようだ(なお、最もよく眠っているのはオーストラリアとニュージーランドだそうな。うらやましい)。

日本人の睡眠時間が他国に比べて短いとしたら、やはり長時間通勤・長時間勤務がすぐ頭に浮かぶ。その真偽は、わからない。しかし、それとは別に、先進国のホワイトカラーでは睡眠不足が蔓延しているように、私には感じる。限られた、ごく狭い範囲での体験から推測するだけだが、よく働く人間はどの国にもいる。イタリアやフランスといえば怠け者の代表的イメージだろうが、最初のイタリア人医師に限らず、フランスでも南米でも、朝から晩までほんとにすごいな、と驚いたことは一度や二度ではない。英米人も、佳境に入ったときの徹夜をもいとわぬ馬力はたいへんなものだ。

そうした努力を、われわれの社会は尊敬し、評価する。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか? 米○○○で頭角を現わすには、週100時間は働かなくてはならない、とまことしやかに噂される状態は、はたして正常なのか。その歪みは、離婚率が50%以上というあたりに、あらわれてやしないか? ずっと働きづめで、少しでも息を抜くと競争相手に追い抜かれてしまうという強迫的状態が、米国の心臓病の多さに出てはいまいか?

ちなみに、人間の成長ホルモンはおもに夜間分泌される。“寝る子は育つ”という昔の人のことわざは、とても正確だったのだ。成長ホルモンは子供だけでなく成人でも分泌されており、その不足症状に対して投与補給する治療が、最近日本でもはじめられている。では、夜間に分泌される成長ホルモンは何の役にたっているのか。それは、体のメンテナンス修復である(リモデリングともいう)。これが足りないと、心筋梗塞・高脂血症・脳梗塞などのリスクが高まることが確認されている。なお、成長ホルモンの分泌は、夜の10時から夜中の2時頃までがピークである(だからこの時間に寝ていないと、本当に眠ったことにならないのだ)。また、寝ている間は白血球も製造している。横になれば心臓の負担も軽くなり、心筋の休息にもなっている。

睡眠不足を常態化させ、それを奨励するような社会は、異常だ。それは確実に人間の生産性に影響を与えていく。さすがのハーバード・ビジネス・レビューでさえ、これを問題視して、専門家のレビューにもとづく記事を載せたほどだ。米国ではさらに、向精神薬剤の常用が以前から都市のエリート層の間で問題になってきている。

誤解しないでほしいのだが、私は短時間睡眠自体を攻撃しているのではない。3時間眠るだけで元気に活動できる人は、それを続ければいい。私が反対するのは、「眠っている時間、非活動的な時間は、人生にとって価値ゼロだ」という思想である。休息に積極的な価値を認めない考え方である。休みたいのは怠け者の考えだ、という決めつけである。

地球上のどんな生物にも、サイクルがある。人間にも起きて活動するときと、寝て休息するときがある。この両方が必要なのだ。24時間起きて闘い続けることが理想だ、という考え方はどこか間違っていると私は思う。

そして、この問題は、企業組織にもサイクルが必要という話につながっていくのだ。だが、長くなりすぎた。つづきは、また書こう。

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心理的バリアーをのりこえる (2007/06/05)

自分のやるべき仕事を、To Doリストやタスク・リストなどの形に書いておくのは、良い習慣だ−−近著『時間管理術』の最初の方でこう書いたら、「近頃の若いビジネスマンはそんな当たり前のことまで、本で勉強しないと分からないのか」とベテランのプロジェクト・マネージャーに、あきれられてしまった。昔はそんなことは自分で編み出すか、先輩から盗んで覚えるのが当たり前だった、ということらしい。

しかし、大学出がまだエリート候補だった高度成長期ならともかく、今やホワイトカラーなど、誰もがありつける、ありきたりの職業となった。徒弟制度的な技術継承もくずれつつある。だから今日では、時間管理術はキャリアアップに必須の、学ぶべき技法だと思う。

自分がいつまでに何をやらなければならないのか、それがどれほどの負荷量の仕事なのか、ホワイトカラー業務の場合はなかなか見えにくい。生産現場だと、製造オーダーや出荷指示といった紙の差立てがきちんとしているし、それが現物と(まともな工場では)対応しているはずだから、仕事量は明確だ。仕事量が可視化できれば、おのずから進捗も計りやすいし、コントロールも可能になる。見えない仕事はいつまでたっても、制御不能のままなのである。

かくいう私も、To Doリストはずいぶん以前からずっとつけている。ところで、こうしてリストをつけて、毎朝・毎夕に更新していくと、ときどき気になることが出てくる。それは、いつまでたってもリストから消えずに居座り続けるタスクの存在である。

タスクは内容の他に、かならず期日(due date)を書くのが原則だ。しかし期日が厳密に決まっていない仕事、「近いうちにやらなきゃならない事」というのも現実には存在する。そうしたタスクは期日をブランクにしたり、あるいは1週間後などの適当な目安を設定することが多い。期日が来たら、私が使っているツールでは自動的に翌日に持ち越しになる(持ち越し不可の設定も可能だが)。こうして、いつまでもTo Doリストに残って消えないタスクがときどき生じる。正直に告白すると、最長で半年以上も生き残っていたタスクがあったと思う。毎日それを見ていると、しだいにTo Doリスト自体をメンテするのがいやになる。

それくらいだったら、さっさとそのタスクを完遂すればいいじゃないか、と思われるだろう。そう。それが正論である。しかし、私自身の中には正論にしたがえぬ部分が若干、あるのかもしれぬ。そして、類似の体験をじつは皆もっているようだ。では、どんな種類のタスクがTo Doリスト残りやすいのだろうか。工数のかかる仕事か、あるいは難易度の高い仕事か。それとも専門領域外の仕事か?

そうではない。私が手をつけずにずるずると先延ばしにする仕事、それは心理的に「面倒くさい」タスクなのだ。工数にも難易度にも専門性の有無にも、直接は関係がない。工数がかかって難しい、しかも経験の少ない分野でも、よろこんで取りかかれる仕事はいくらでもある。困るのは、心理的な負荷の高い仕事の方だ。

経営学は労働を、肉体労働と知的労働に分類している。それはさらに、習熟の要否によって単純労働と熟練労働に分かれる。高度な指先の研磨加工もあるし、単純な伝票処理もあろう。そうしたタスクの工数(負荷)は、肉体か頭脳のどちらかの使用時間で計られるのが決まりだ。ところが、仕事の中には、さほど時間がかかるわけではないが、心理的な負荷の大きなものがあるのだ。

友人の社会学者・石川准氏の本の中で、私は「感情労働」という概念を知った。感情労働とは肉体労働でも知的労働でもなく、感情の消費を要求される仕事をさす。その代表例として、ナースによる看護があげられていた。看護には知的な面も肉体労働的な面もある。しかし、その負荷の大きな部分は、患者に対する感情のプロセスによって生じるという。

同じ事が、どうやらビジネスの世界にもときどき生じるらしい。難しくはないけれど面倒くさい仕事。たとえば顧客への追加交渉だとか、人事考課だとか、あるいは些末な規則のために、細心の注意を払わないと官庁や管理部門からこっぴどく怒られる仕事だとか。こうしたものは心理的なブロックとなって、着手をしにくくするのだ。

それでは、どうすべきか。自分の心理的傾向、すなわち性格をかえるのが一番だが、これはお手軽にはできそうもない。そこで別の方法を考えよう。まず、心理的なブロックの存在に気づくことが第一だ。問題の存在を認識すれば、もう3割は解決に近づいたも同然だろう。

そのために、まずTo Doリストでの繰り越し回数をチェックするといい。もし同一のタスクを、未着手のまま5回以上くりこしていたら(つまりカレンダー日でいえば1週間たっていたら)、それは「心理的バリヤーつきタスク」だと認識する。

つぎに、心理的な障害のあるタスクは、それを小さなサブ・タスクに分解してみる。「顧客に値上げ交渉をする」という仕事が、気が重くて延ばしのばしになっている場合、「交渉材料のネタを準備する」「競合製品の価格リストを作る」「顧客に面談のアポを入れる」などにブレークして、着手してしまうのだ。本にも書いたとおり、少しでも自分自身の背中を押してやるような形にするのがコツだ。

同時に、自分自身で簡単なモットーをかかげるのもおすすめだ。たとえば私は、「迷ったときは積極的な方を選ぶ」というモットーを、先輩から教わった。これは自分自身の背中をちょっと押すのに効果がある。「迷ったときには、念を押せ」というのもある。これは優秀なプロマネからきいたことばだ。コミュニケーションには念を入れろ、との教訓がこもっている。

こうした面倒くさいタスクは、かなりの場合、上司からふってくる。以前、『To Doリストなんか書いている時間がない』(「コンサルタントの日誌から」2007/03/11)にも書いたように、本当はTo Doリストは、作業を指示した人が書き込むべきものである。だがそれは、現実にはなかなか、かなわない。タスクは自分で管理せざるを得ないのだ。それでも、自分の背中を少しずつ押す術を身につければ、少しずつは前に進むことが出来るのである。

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赤信号をわたる国 (2007/02/25)

知人が長い休暇を利用して、シベリア鉄道経由でヨーロッパに旅行した。シベリアを鉄道で横断して欧州に行くには、片道だけで7日間くらいかかるという。たぶんシベリア鉄道とは、それに乗ること自体が半分目的みたいなものなのだろう。列車の上でひたすら時間を無為に(有為に?)すごす点が贅沢なのだ。

帰国後の彼に感想をたずねたら、「ドイツ・フランスまで足をのばして、レンタカーで回ってきましたが、佐藤さん、フランスってのは危険な国ですね。」という。どうして?とききかえすと、「だって、あそこの国じゃみんな、赤信号でも道を渡るじゃないですか。危なくってしょうがないですよ。まったく、基本的な交通マナーも守らない。マナーが最低の国です。」というのが彼の答えだった。

そうなのだろうか。私もあそこの国に1年近く暮らしたが、幸いあまり危ない目にあった記憶がない。むしろ最近の日本の方が怖いくらいだ。しかし、彼のいいたいことはわかる。フランスでは、横断歩道の信号が赤でも、歩行者は平気でわたっていく。むろん、わたる前に、いちおう自分の目で左右は確認する。だが車が少ない、あるいは自分の足で渡りきれる、と判断したら、皆どんどん横断してしまう。自己責任でリスクテークしている、というわけだ。彼らにいわせれば、“車が一台も来ないのに赤信号で止まって待っているドイツ人はアホだ”ということになる(この両国は、お互いを馬鹿にする表現には事かかない)。

ところで、念のために統計データを調べてみると、交通事故の年間犠牲者数は日本の方がフランスより多い。ただし人口も2倍ちがうわけだから、確率でいうとフランスの方が高いのは事実だ。それでも、歩行中の事故被害にかぎって比べると、日本の方が明らかに分がわるい。赤信号をわたる国の歩行者は、轢かれる確率が日本より少ないのだった。いったい、なぜだろうか?

理由は、簡単である。あの国では、自動車の方がとまるのだ。運転する側から見ると、道路では青信号であっても、いつ人が渡ろうとしてとびだしてくるか、わからない。いきおい、歩行者のいる道では慎重になる。高速道路では気がちがったみたいに飛ばす彼らも、街なかでは安全運転せざるを得ない。だから歩行中の事故が少ないのだった。そして(ここが大事なところなのだが)、“車は止まるべきもの”と信じているから、歩行者は赤信号でも渡るのである。

逆に、日本の車は青信号では減速しない。なぜなら、歩行者は赤信号を渡らないものだという社会的な合意事項(暗黙の前提)があるからだ。日本で、赤信号を『自己責任』で毎回渡っていた日には、命がいくつあっても足りるまい。

もうおわかりだろうが、フランスと日本では、交通システムの中で、ゆずり合いのバランス点がちがうのだ。日本では歩行者が我慢し、フランスでは自動車が我慢する。これを、歩行者という一断面だけで切って、「マナーの良しあし」で比較するのはまちがっている。

ちなみに、以前紹介したイギリス風の『ラウンドアバウト』(ロータリー交差点)も、フランスには時々存在する。そしてこいつは、十分危険である。嘘だと思ったら、ためしに凱旋門の周囲をめぐるエトワールのロータリーを、あるいて渡ってみればいい。ただしその前に十分な生命保険をかけておくことをおすすめする。フランスのロータリーでは、運転者は自分の行き先の道にでることに忙しく、歩行者には注意を払っていないからだ。

交通システムは、人間と機械(自動車)と設備(道路・信号機)がつくる、典型的な多目的システムである。その中では、互いの目的を達するための相互調整(交通整理)が必要になる。調整ためには、多少のゆとり=自由度(バッファー)の存在が、システムにおいて必須となる。それが道のゆずり合いであり、あるいは車間距離である。

では、交通システムにおけるマナーとは何だろうか? それは、システムの中で自由度やバッファーを置く場所についての、無言のルールである。あるいは、暗黙の合意事項だといってもいい。そして、マナー違反とは、システムの中にリザーブされている自由度を、勝手に消費してしまうことなのだ。安定した、すぐれたシステムは、大多数の長期的な利益のために自由度を確保しておくという暗黙知を、その内部に持っている。それを個人が短期的な利益のために蕩尽しないこと、すなわち長期的利益のために短期的利益を抑制することが、「マナー」と呼ばれるものの中身である。

最近の日本の交差点では、自動車が黄信号でも赤信号でも渡りきろうとして突入してくるのをしばしば見かける。それも案外、年輩のドライバーが多い。彼らは、長年親しんだ暗黙知をどこに置き忘れたのだろうか? 社会がリザーブしている自由度を、自分の短期的利益(それもほんの数十秒の利益)のために使おうと、いつ心がわりしたのか? 

長い不況のトンネルを抜けて、日本は景気が上向きになったと言われる。しかし、その好況の中で、目前の短気利益志向がどんどん進行しているのかもしれない。私たちの社会システムは、すでに自由度を失って、きしむ音をたてはじめていないだろうか。この国の社会全体が、赤信号を渡りはじめていないだろうか? これが自分一人の杞憂であることを、私は切に願っている。

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なぜ信号機が必要か (2007/02/04)

イギリスの都市近郊を車で走ったことがある人ならご存じだろうが、あの国には「ラウンドアバウト」なる交差点形式がある。「ロータリー」ともいうが、日本のロータリーはふつう駅前くらいにしかなく、そこは車が周回する場所というより、タクシーやバスが停車して乗客の乗り降りをさせる所というイメージだ。ところが英国のラウンドアバウトは通常の交差点に近い機能を持っている。四方からの道路が一点で交差して十字路をつくるかわりに、5-10m半径の円環路に接続している。そして車の流れは一方向(あの国は左側通行だから時計回り)にのみ進むことが許されている。

ラウンドアバウトに入った車は、必ずその流れにのって進み、自分がいきたい方向の道から円環の外にでるルールになっている。この交通システム(?)の特徴は二つあり、(1)車は止まらずに円環の流れにそって自分のいきたい方向にいける、(2)したがって信号機は必要ない、というしくみである。自由かつ闊達なるこの仕組みがイギリス人はたいそう自慢らしく、彼らの支配地域だった中東などでも、よく見かける。

たしかに、いったんなれてしまえば、これはなかなか良い仕組みだとわかる。円環路の流れに合流したり分岐したりするところは若干の運転スキルが必要だが、これにも優先の決まりがあり、危険なことはない。いかにも、紳士の国らしい大人のしきたりであるな、と感じたりする。なにより、誰にも命令指示されることなく、かつ自分が希望する方向を選べる点が、いかにも自律分散・民主的ではないか。

ところで数年前、中東で新聞を広げていたら、「トヨタ・ロータリーをつぶして、信号機を設置します」というニュースをみつけた。このロータリーは別にトヨタがつくったわけではなく、同社の大きな宣伝ポストが近くに立っていたからつけられた市民の愛称だったらしい。その親しまれたロータリーをつぶして、信号のある交差点に改造する工事をするという。数日間は交通が遮断されるから、記事になったのだろう。

では、なぜこのように素晴らしいシステムであるロータリーをつぶして、渋滞と喧噪の象徴である信号機を導入するのか。中東がイギリス支配に反抗する政治的象徴なのか? それとも民主主義など眼中にない首長国の陰謀なのか? −−むろん、そんなことではない(と思う)。記事によれば、彼らの理由説明は、きわめて単純なものだった。それは、「交通量の増大」である。

英国郊外の美しい(場所によっては多少醜い)街並みを走っているときには気づかなかったが、ラウンドアバウトは、車の交通量があまり多くないときのみ、快適に機能するものなのだった。入ってくる交通量がある一点を超えて増大すると、円環の流れに合流することができずに左折待ちの車の列がだんだん増えてくる。待ち行列の理論をご存じの方ならわかるはずだが、到着する車の頻度がロータリーの円環路の最大流量に近づくにつれて、この列は加速度的に長くなっていく。つまり、ひどい渋滞現象をひきおこすのだ。こうなると、とても非能率な民主主義社会が出現する。

信号機つきの十字路は、これを指示命令方式で遮断する。そして、縦横の流れを交互にせき止めて、減速せずに通過できる直線的な流れをつくりだす。道の通行を半分の時間は止めてしまうのだから、信号はたしかに(ミクロな視点では)運転者の敵であり、道路の輸送能力をかなり減らすことになる。しかし、交差は地理的にどうしても生じるものだ。そして、信号機つき十字路は、自由闊達なラウンドアバウトよりも、さばける交通量の上限が大きいのだ。

それでも、交通量の増大とともに、信号機つき十字路もいつか限界に達することがあるだろう。そのときはどうするか? ご存じの方もあろうが、複数の信号を系統的に制御して、流れの遮断を同期化してやるのである。大きな国道沿いに(不幸にも)住んでいる人はこの事実を経験的に知っているはずだ。

さて、私は何を言おうとしているのだろうか? これまで読んでこられた方は、もううすうす気がついておられると思う。生産管理やサプライチェーン・マネジメントにおいて、集中管理と協調分散のいずれが良いかという議論が時々ある。しかし、こうした論点を単なる「あれかこれか」のドグマとして論じても、仕方がないということだ。私は、『質量転化の法則』、あるいは(自分の好きな用語で言えば)『スケールアップの法則』の信奉者である。量にしたがって、システムは質を変えるべきだと信じている。

設計の指示系統は混乱し、工場は材料や仕掛品であふれ、誰もが毎日の仕事に追われて改善どころの騒ぎではないような職場があったら、それはたぶん、車が増えすぎたロータリーなのだ。量の増大に質の変化が追いついていない、いや変化の必要性に気づいていない、ということを示している。そこには、信号機が必要である。信号機があるのに混乱しているのだとしたら、そこには信号管制システムが必要なのだ。

信号機は、マネジメントでなく、コントロール(管制)をするだけだ。プロジェクトとか生産とかを論じると、すぐマネジメントだの人材だのの話になるのが最近の傾向のようだが、私はその前に考えるべき事があると思う。それはコントロールなのだ。

プロジェクト・マネジメントではなく、まずプロジェクト・コントロールを。生産管理ではなく、生産コントロールを! 

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Chirstmas メッセージ−−今はまだ異文化を語らず (2006/12/21)

Merry Christmas!!

先月、とうとう年齢が大台に乗ってしまった。もう押しも押されもせぬオッサンである。ここまで生き延びられたことは、まさに『神に感謝』というしかない。

短い期間ながらいくつかの国に住み、若干の経験を重ねてきて思うのは、“人間てのは、なんと似ているんだろう”という感想である。アラビアの半島でも、南米の海岸でも、北国の大都会でも、そう感じた。言葉はかすかにしか通じないが、だいたいお互いに思うことは知れている。それはとくに、ビジネスの世界で顕著である。お金に動かされる経済合理性の領域だからかもしれない。寝る前にお祈りする方角は異なっても、利益を前にしてとる行動はよく似ている。

最近、会社の友人と共著でプロジェクト・マネジメントに関する論文を書いた。海外企業との共同プロジェクト遂行におけるリスク要因について考察したもので、学会誌に投稿したから運がよければ掲載されるかもしれない。論考のポイントは、プロジェクトにおける最適な「フォーメーション・デザイン」=スコープの分担計画であり、ジョイント・ベンチャーやコンソーシアムなどにおいて遭遇しがちな典型的問題点を列挙した。

この論文を書き始めたとき二人で決めたのは、「リスク問題を“異文化のせい”で説明するのは絶対やめよう」ということだった。複数企業の共同プロジェクト運営がうまく行かなくなると、相手側企業の『文化が違うから』という言い訳がすぐ出てくる。しかし、自体を冷静に分析してみると、じつは互いに持つ経済的動機の差異が原因となっているケースが殆どなのだ。各社はおのおの自分の動機で行動を決める。それは経済合理性にしたがって生じる問題であり、言語や生活習慣や宗教といった文化の違いで説明するのはかえって本質を隠してしまう−−そう、われわれは考えたのだ。

海外との取引が増えるにつれ、我々は気軽に「文化の違い」を口にするようになってきた。だが、文化の違いとはどこから生まれるのか。異文化を理解し安全に共存するにはどうしたらよいのか。そうしたことはエンジニアの領域ではないし、大学で習った覚えもない。そもそも、文化とは何だろうか。

文明とは人間に利便性を与え、文化とは人間にアイデンティティを与えるものである」という説明が一番納得がいくので、私はいつもこの文脈で、文化という言葉を使うようにしている。言語・家族制度・宗教・生活習慣といった文化の要素は、いずれも人間のアイデンティティを支えるものだ。これに対して、産業・通貨・都市基盤・科学技術といったものは、人間に利便性を与えてくれる文明に属している。

いいかえれば、文明とは“抽象化・普遍化・交換可能性”を指向するものである。あらゆるものを通貨と交換可能と考える経済合理性は、文明の論理だ。他方、文化とは“個性化・多様性”を求める。愛はお金じゃ買えないわ、というのが文化の論理だ。

おかしなことに我々企業人は、そのはざまに立っている。企業は経済合理性を追求する存在であり、仕事は誰がやっても同じ成果を得られるようにすべきだ、との方向性がある。従業員は交換可能な存在たるべし、というわけだ。その一方で、仕事は自分の存在証明でもあり、自己のスキルを他者から求められ評価されることが会社員の生きがいでもある。そうした個性を持つ人間たちが、気ままな需要を形づくって市場を動かしていく。

こうした事情を、2千年前にパレスチナを行脚し遊説した賢者は、“人はパンのみに生きるにあらず”と呼んだ。この人はさらに、財貨に囲まれて経済の論理だけに生きる人間について、「彼らが天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がたやすい」と喝破した。われわれは文明の半面だけで生きることはできないのだ。自分の個性を認めたければ、まず他者を理解することからはじめなければならない。そのためには、「異文化だから」という思考停止の色眼鏡を自分から外していく必要がある。

冬至の前のこの季節、地上の少なからぬ人々が、2千年前の賢者の生誕を記念して、平和の祭を祝おうとしている。私もまたその一人でありたい。薄氷のように危うい世界に生きながら、明日への希望を持ち続けるためにも、文化と文明の和解を祈ろうではないか。

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合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2) (2006/11/10)

前回書いた「囚人のジレンマ」の問題をセミナーなどで説明し、自分ならどの行動をとるかを聴衆にたずねてみると、過半数はやはり『自白』を選択すると答える。つまり、相棒がどちらの行動に出ても、自分のこうむるリスクを最小化する方を選ぶというのだ。すなわち、自分の損得というミクロな観点から言えば、きわめて合理的な判断である。

その同じ判断が、分業化した会社の中でもしばしば行なわれる。たとえば、こうだ:購買部門は安い資材部品を納期通りに調達することを、部門の目標として与えられている。だから、他の部門から手配部品の納期を聞かれたら、長めに答えることになる。短い納期見積を答えて、サプライヤーがそれに応じられなかったら、購買部門の失点になるからだ。リスク最小化の原理である。同じ理由で、発注ロットサイズをたずねられたら、多めに言いたくなる。その方が安く買える可能性が高いからだ。つまり、納期は長めに、発注量は多めになりがちだ。

一方、設計部門はどうか。業績評価の尺度は、設計の品質と稼働率だ。品質自体は直接測りにくいから、同じ性能や顧客仕様を満たすために、どれだけ経済設計できるかでおきかえられる。部品数が少なく、重量や肉厚がぎりぎりまでしぼってあるほど良い。こうなると設計の期間は長くなりがちだし、手配部品も個別仕様品が増えていく。でも、標準部品を使って設計マージンが大きくなりすぎたら、失点になる。多少手間はかかっても、稼働率も上がったほうが文句を言われない。客のわがままな仕様のせいにすればいい。

資材倉庫部門はどうか。材料出庫指示が来たとき欠品だと、製造部から文句を言われる。いきおい安全在庫レベルは高めにとることになる。手配も早め早めにかけることになる・・。

おわかりだろうか。どの部門もリードタイムは長め長めに、在庫量は多め多めに動くことになる。各部門がそれぞれリスク最小化のために、余分なサバ読みを行なっている。それが部門レベルで合理的に行動した結果だ。だが、その結果、会社レベルではどうなるか。あきらかに高コストで長納期、競争力のまるで無い状態に陥るのだ。分業の発達した企業では、こうしてあちこちで囚人のジレンマが発生する。全員が合理的に行動して生まれる事象だから、“馬鹿者”と一喝しても、“もっと頑張れ”と尻を叩いても、いよいよ事態は増長するばかりだ。

それでは、どうしたら良いのか? ある意味、答えは簡単だ。『囚人のジレンマ』はゲーム理論で言う「非協力ゲーム」であり、相棒と意志疎通できないことが障害になっている。一言でも話ができて、“一緒に罪状を否認しよう”と協力を合意すればジレンマを脱出できる。だから、会社だって部門間の壁を超えて話し合えば、良さそうな気がする。

しかし、月次の生販会議も毎週の設計工程会議もやっているのに、解決しないのはなぜなんだ。そう自問自答する人も多かろう。それは、皆が「非協力の結果」を理解していないからなのだ。前回の説明で、“二人のくらいこむ年数の合計”の表を見てほしい。これが、組織全体の収支の表だ。

ところが製造業の場合、誰がどういう行動をとると全体がどうなるかが、じつは直感的には分かりにくい。安全在庫水準を5割増やしたら、あるいは調達リードタイムが3週間延びたら、コスト競争力にはどう響くのか? こうしたことは、生産という巨大なシステムのふるまいを対象とした、正しい生産管理の理論を知らないと、正確には答えられない。

分業病は各部門にたいして、異なる評価尺度を与える組織に起こる病気だ。真に解決するには三つの方法しかない。一つは、全員に正しく生産管理を理解してもらうこと。これは理想だが、かなり遼遠な道である。第二は、全体を見通すコントロールセンターの部署を作って、手配指示はそこから出すようにすること。これは計画系機能の強化策である。第三は、各部門の評価尺度を、全体最適を実現できるような矛盾のないものに変えてしまうこと。組織の中の人間は、しょせんモノサシで動かされる存在である。そして、なにより、部分的な合理性をつみ上げても、全体のマクロな合理性は生まれないことを知るべきなのだ。

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合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む (2006/10/29)

企業が変わることは難しい。緩やかな景気拡大が続く中、新規設備投資やIT投資が行なわれるようになり、それに並行して業務を合理化しよう、生産を革新しよう、という運動も活発になってきた。しかし、目に見える工場ラインやコンピュータ導入に比べ、目に見えにくい業務運用のソフト部分は、なかなかうまく変えられない。業務改革プロジェクトを立ち上げて何度か会合を開いても、“総論賛成・各論反対”でなかなか前に進まない−−こんな話を、旗振り役の部署の人から聞くことも多い。

会社が変わらないのは、従業員の頭が固くて保守的なせいなのか。はたまた企業文化や風土のせいなのか。どちらも違う、と私は考える。会社がマクロな不合理に陥っているのは、各人が合理的な意志決定をつみあげたせいなのだ。製品納期が遅れたのも、部品在庫や仕掛品が山のようにあるのも、そのくせ肝心な部品が欠品するのも、皆が残業また残業で疲弊しているのも、じつは各人が合理的にふるまったせいなのだ。

なぜそのようなことが起きるのか? その理由は、経済合理性の背後にある『リスク最小化の原理』にあるのだ。だが、理由をを紐解く前に、ちょっとこういう問題を考えていただきたい。

いま、ここにギャングXとYがいる。彼ら二人は共謀して、銀行強盗を働いたばかりだ。しかし逃走して潜伏中に、別々に警察に捕まってしまう。警察は二人が銀行強盗だとにらんでいるが、直接の物証がない。そこで微罪で別件逮捕したのだ。警察は彼らを(共謀できないように)別々の留置場に収監して、銀行強盗の自白を迫る。相手が罪状を否認しているとき、自分だけが自白すれば、司法取引により自分は無罪放免になる。逆に自分が自白を拒否して、相手がしゃべってしまえば、自分は懲役7年は覚悟せねばなるまい。

自分も相手も互いにしらを切り通せば、二人とも微罪で1年収監程度で済む。逆に二人とも自供してしまえば、改悛の情を一応見せたことで懲役5年程度ですむだろう。このような情況の時、あなたがギャングXだったら、どのような行動をとるべきか。自白か、否認か?

このような状況下での合理的な決断について、考えてみよう。相手はどう出るか分からないし、連絡もとりようがない。そこで自分の選択と、相手の選択で合計4種類のシチュエーションが想定される。それを、下記のような行列で表現する(これを利得行列と呼ぶ)。単位は年数で、懲役だからマイナス値で表示してある。

自 分 

否認

自白
相手 否認

−1

自白

−7

−5
 
もし、相手が否認した場合を想定してみよう。すると、自分も否認すると−1、自分が自白すれば0だ。したがって、刑罰のリスクが最小となるのは、自分が自白をするケースだ。また、もし相手が自白したらどうだろう? 自分が否認するとー7、自白するとー5だ。この場合も、自白の方が懲役のリスクが小さい。

したがって、相手がどう出るか分からない不確実環境下で、自分がこうむるリスクを最小化するためには(「リスク最小化の原理」)、自白することが『合理的』だと判断できる。

ところが、よく考えてほしい。相手も、同じ情況なのだ。だから、相手も自白するのが『合理的』だと判断する。その結果、どうなるか。二人とも自白して、ともに懲役5年である。二人が一緒に否認すれば、1年で済んだのに! いや、それどころか、二人の懲役年数を合計すると、次の表のようになる。

自 分 

否認

自白
相手 否認
−2

−7
自白

−7

−10

これから分かることは、共に自白すると、二人組という組織にとっては最低の結果に陥ることである。リスク最小化原理に沿った“合理的”行為をつみ上げた結果が、組織にとってはもっとも不合理な結果を生む。これが、ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の物語である。

それでは、企業内にとって、いかに囚人のジレンマに似た状況が生まれてくるのか。また、そこから脱出するためにはどうしたらよいのか。少し長くなってきたので、この続きはまた書こう

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ホワイトボードの謎 − 在庫の「見える化」の効用

私は世界中のオフィス事情を知っているわけではないが、「電子黒板」は他国に比べて日本が圧倒的に普及率が高いように感じる。米国のオフィスはあいかわらずフリップ・チャート(flip chart)が主流だ。フリップ・チャートとは、油絵のイーゼルみたいな台木の上に、白い紙を何枚も重ねたもので、1枚書き終わるとめくって次の紙を出すようになっている。なぜか彼らはこのローテクで安価な道具がお好きだ。フランスとか、ヨーロッパではホワイトボードをよく見かけたが、複写機能がないので、結局それをまたノートに写さなくてはいけない。せっかくきれいな図を書き終えて、さて、と思ったら複写できないのに気づき、がっかりしたことは一度や二度ではない。

それにひきかえ、わが国では電子黒板(正確には電子白板か)がよく普及している。何年か前、米国の自動化システムベンダーが私の勤務先に来て、あちこちで電子黒板を活用しているのに感心して帰った。しばらくしてから彼らのオフィスを訪問したら、真新しい電子黒板をうれしそうに見せて、“これでやっと俺達の会社も21世紀に仲間入りだ”とジョークを言っていた。

ところで、これほど便利なホワイトボードだが、私はその米国のオフィスで実際に打合に使おうとして、日本と全く同じ問題点を発見して、びっくりした。フェルトペンが、書けないのだ。書こうとすると、すぐにインクがかすれてしまう。別のペンを手に取ってみるが、そちらも同じだ。5,6本おいてあった中で、まともに書けたペンは1本もなかった。

このホワイトボード用ペンのインク切れ現象は、わが日本でもいたる所で遭遇する。どこかの秘密結社の陰謀か嫌がらせではないかと思うくらいだ。電子黒板を用いた打合の生産性は、おそらくインク切れ問題のために、どこでも2割くらい低下しているのではないか。日本でもアメリカでも、なぜ、この問題を放置しておくのだろうか? 不思議である。というのも、この問題を解決する、ごく簡単な方法を私は知っているからだ。

その方法だが、まず、透明なビニール袋を用意する。それを、電子黒板の枠にぶら下げる。そして、インクが減って書けなくなってきたペンは、そのビニール袋の中に、即座に捨てるのだ。そして、事務用品の担当者は、毎日、各部屋の電子黒板を見て回り、袋にペンが捨てられていたらそれを回収し、同じ色の新品のペンを置いておくのだ。ペンは、各色2本ずつ電子黒板に置いておく。こうすれば1本が書けなくなっても、まだ残りの1本は使える状態にある。

いつも不思議に思うのは、使えなくなったペンを捨てずにトレイに残しておくことだ。だから毎回、使おうとしても使えない問題に皆が遭遇する。たぶん、インクがある時点からすっぱり無くならないで、少しずつかすれていくから、捨てにくい心理が働くのだろう。だから捨て場と、補充の流れを作ってやれば、問題は解決する。

しかし、この問題の根本は、ペンに残っているインクの「在庫量」が見えないことにある。もしもインクの残量を外から見えるように何か工夫したら(フェルト式だから難しいとは思うが)、たぶんインク切れのペンがトレイに残っていることはなくなるはずだ。

「見える化」という言葉はトヨタ自動車が使っているおかげで、ずいぶんと普及した。しかし、ホワイトボードの謎を見ると、まだまだ本当の意義は浸透していないのかな、とも感じる。たとえば、見えない在庫量を見えるようにしてやれば、それだけでいくらでも工夫の余地が生まれてくるのだ。見えないと、誰も改善しない。

いや、もう少し正確に言おう。「見える化」の効用は、在庫削減や生産効率の向上もさることながら、イライラ感の減少にたいへん役立つのだ。ちょうど書けないペンを持ってイライラすることが減るように。それはカッコよく言えば、リスクの減少である。事実を見せれば、人間は馬鹿ではないから、落とし穴は避けて通れるのだ。

リスクのある環境では、われわれは余計な思考の労力と心配を必要とする。それを無くすることは、単なる能率の向上以上に、価値があるのだ。それは、以前ここに書いた「静寂の価値」にも通じることだ。在庫の「見える化」は何よりもまず、この点に意義を見いだすべきなのである。

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Chirstmas メッセージ−−若さと成熟 (2005/12/22)

Merry Christmas!!

久しぶりに大学の同期で集まった。化学工学科出身だが案外いろいろな職種に就いている。半導体・化学・石油・エンジニアリング・商社・特許事務所・大学教員・研究機関・・。そして、お互いに「変わった」とか「変わってないな」とか言いながら、酒を飲んだ。

変わった部分と変わっていない部分は、誰しも同じだ。肉体的には誰もが平等に、一年ずつ変わっていく。髪が白くなったり腹が出たりして。でも、変わらないのは心の方だ。不思議なことに、自分の心というものは、ちっとも歳をとらない。ような気がする。15歳の時から比べて、知識がふえ経験が増し、ガマンやら諦めやらも身につけては来たが、本質はちっとも変わっていない。

変わらないということは、成熟もしていないということだ。じっさい、不惑をとうに超えたのに、あれこれといつも惑っている。『まだ歳も四十でいれば面白き』という川柳があるが、じじつ不惑というのは、いかにも生煮えな自分がまだ残っているものだ、と感じざるを得ない。

そもそも「不惑」という言葉は、晩年の孔子が自分の生涯をふりかえって語った言葉からきている。“我十有五にして学を志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従い、七十にして己の欲するところに従って、矩(のり)を超えず”−−この一節はその後の人間観に、大きな影響を与えた。

たとえば、昔の武家の子息は15歳で元服する習慣だった。これは数え年だから、今で言えばせいぜい中学2年生である。それでも一応大人扱いされるようになったのは、なぜか。それは、我十有五にして、の一語があったからだろう。また、わが国では今でも参議院の被選挙権は30歳以上と決まっている。これは一人前の良識ある大人になるのが三十歳だ、との伝統から来た(40歳の「不惑」に対して30歳を「而立」と呼ぶ)。

ところで、心が歳をとらないというのは、実はウソだ。心だって、成長はする。少なくとも、変化する。それなのに変わらないような気がするのは、われわれが情報化社会に生きているからかもしれない。情報の特徴は、それをCDのようなメディアに焼き付けてしまえば、全く経年変化しないことだ。われわれの脳だって、記憶のメディアである。少しは取り出しに時間がかかるようになるが、コンテンツ自体はまず変わらない。

おそらく、そのおかげで、今日の人間は心の変化が肉体の変化に付いていけずにいるのだ。私は、この際、みなが自分の精神年齢を、肉体年齢の2割引にして考えた方がいいのではないかと、よく思う。そして、そう思えば、「近頃の若いもん」のやることにも怒らずに済むのだ。24歳にしては書く文章がお粗末、と感じても、まあ二十になったばかりじゃ仕方がないか、とあきらめがつく。自分だって、若くなったような気がして、楽しい。ウソだと思ったら、やってごらんなさい。なんだ、自分もまだ惑っていいのか、立ってなくていいのか、なんて思える。

しかし。よく考えると、それで良いのだろうか。なぜなら、上記の孔子の言葉を2割り増しで換算し直すと、こうなる−−“われ18にして学を志し、36にして立つ。48にして惑わず、60にして天命を知る。72にして耳従い、84にして己の欲するところに従って法を超えず”−−言いかえるならば、現代人とは、次のような人たちだ:

いい加減にしてもらいたい、とも思う。しかしこれが現実への冷静な認識なのだろう。だって、新聞の社会面をこの目で見ると、じつに合点がいくもの。

思うに、われわれは余計な知識や情報を、未消化なまま背負いすぎているのだ。自分から、学歴もキャリアも消してみること。そうすれば、もう少し、素直な自分の姿が見えてくるのかもしれない。それによってはじめて、自分の若さを脱ぎ捨てて成熟に一歩近づけるのだろう。

そして、そんな作業は、心静かな、平和な時間でしか行えない。世界中が、とりあえず静かに、平和を願うこの季節こそ、私たちがみな平等に一つ歳をとり、また一つ成長するべき時なのだ。

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システムとは何だろうか? (2005/11/26)

京都賞」をご存じの方は多いと思う。基礎科学・先端技術・思想芸術の3部門で、毎年世界の傑出した研究者に賞が与えられている。ある意味ではノーベル賞のむこうをはっており、数学・哲学・言語学・生物学・建築・音楽など『ノーベル賞のもらえそうもない分野の人を選んで賞をあげている』という印象もある。たとえば、K・ポパー、N・チョムスキー、アラン・ケイ、J・グドールなどの人が授賞している。

今年の京都賞基礎科学部門は、生態学者のサイモン・レヴィン博士が授賞した。彼は数理生態学・空間生態学の分野で若い頃から研究分野をリードしてきた人だ。そのニュースを聞き、私はとてもうれしく思った。というのも、たまたま昔、私はレヴィン博士の知遇をえる機会があり、彼の研究室を訪ねたり、あるいは来日した時は横浜の自宅に招いたりしたこともあったのだ。だから11月12日に京都で行われた記念シンポジウムには、私もはせ参じて、授賞を祝し、再会を喜びあった。

レヴィン博士の業績の一つに、"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"という論文がある。これは90年代を通じて最も広く引用された生態学の論文と言われる。彼の主要な研究テーマは、生態系(=エコシステムecosystem)のさまざまなスケールにおいて観察されるパターンと多様性が、いかにミクロな生物個体レベルのルールから生成するかを調べることである。生態学とは、エコシステムの機能と構造を研究する学問だが、彼はエコシステムが特定の目的と機能をもって存在するかのような目的論的見方とは異なる、パターン認識的見地から取り組んでいる。

初めて知り合ったとき、レヴィン博士はコーネル大学のCenter of Ecology and Systematicsの所長だった。私はSystematicsとは「システム科学」のことかとたずねたが、「いや、系統分類学の意味だ」との答えが返ってきた。系統分類! それをシステムと呼ぶのか。その時の驚きは、その後、英語におけるsystemの語の意味を深く知るようになるにつれ、次第に納得にかわっていった。たとえば、太陽系のことはSolar Systemと呼ぶのだ。

システム」というとコンピュータのことだと思う人は少なくない。いや、世の中の大多数だろう。技術の世界では、ガスタービン発電システムとか自動倉庫システムとか、ある種の機械的な仕組みのこともシステムと呼ぶことがある。しかし、私のように工場やら製品までをシステムと考える人間は少数派だ(「システムとしての工場、システムとしての製品」参照)。

製品がシステム? じゃあ、パン屋が焼くあんパンも、家具職人が作るテーブルもシステムだというのか? そう問いつめられると、私も、ちと違うな、と答えざるを得ない。「所定の目的を達成するために要素または系を結合した全体」「特定の機能を果たすように配置した、相互に関係するアイテムの組合せ」という定義(JIS工業用語大辞典)から見ると、4本の脚と天板からなるテーブルだってシステムに合致して良さそうなものだ。だが、どうも要素が静的に結びつけられた構造は、今ひとつ「システム」というイメージに合わないのだ。

「システム」という語がフィットするものは、どうやら動的な機能や特性をもつものに限られるようだ。ジェームズ・ワットの発明した蒸気機関は、回転数を安定化させるための巧妙な調節弁の仕組みをそなえていたが、ここらへんがシステムの始まりらしい。彼のフィードバック制御は機械要素の組合せで実現していたが、目的は力を伝達することではなく、制御にあった。

つまり、「制御」の有無こそ、システムを単なる部品の集まりから区別する鍵なのだ。そして、制御のために、一種の神経系統をもつこと。現代ではこの神経系の役割をたいていコンピュータが果しているので、「システム=コンピュータ」という思いこみが固定化したのだろう。たしかに、テーブルのように部品材料の寄せ集めだけでは、動的特性は発揮できない。

「システム」が制御機構を持つ動的な仕組みである以上、システムの『価値』も、その動的特性にある。だからこそ私は、「工場という名のシステム」は“計画・指図・報告”という制御機能のよしあしで性能が変わりうることを、くり返して主張したいのだ。

しかし、こうして見てみると、日本語の(=JISの)システム概念は、かなり「目的」「機能」にしばられていることが分かる。太陽系やら生物系統分類やらも含む英語のsystemからは、かなりずれている。英語の世界のsystemとは、せいぜい「一つ一つの要素を数え上げずとも、系統的に、頭を使わずに展開できるようなまとまり」という程度の意味しかない。

無論、生態系ecosystemの中には、全体を安定させるフィードバック的な仕組みも確かに存在する。しかし、生態系には「目的」はない。自然界に存在するものには、特定の目的はなく、しいて言えば、「存続自体を目的と見なせる」程度なのである(レヴィン博士が目的論的見方を退けるのは、この危険性があるからだろう)。企業もこれに似ていて、本来は何らかの目的があって結成されたはずなのだが、多くはもはや目的を失って、存続自体が自己目的化してしまっている。こんなところにシステムの機能論を持ち込むのは、場違いなのだ。

私は、あまりにも多義語化している「システム」の概念を、もう一度、再整理すべき時が来ているように思う。たぶん、システム・場・メカニズムなどの使い分けを、もう少しきちんとするべきなのだ。そして、それこそ「システム・アナリスト」の最重要な仕事だと思う。なぜなら、これを怠ると、システム分析の仕事自体が、ひどく混乱したものになってしまうに違いないからだ。

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頭の良いおバカさんたち (2005/10/23)

今回は、「論理的だがシステマティックでない人」の続きだ。

歌を歌いながら、頭の中で数を数えられますか? −−誰かにそう聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。

ノーベル賞物理学者のファインマンは、これができたという。なかなか面白い資質だ。そう思いながら、ためしに自分もトライしてみたら、一応不器用ながらもできることに気がついた。だからといって、私がファインマンなみに頭が良いわけではない。第一、私は高等数学が苦手だ。

その理由はなぜかというと、頭の中での代入操作が下手だからだ。頭の中にひとつの記号を保持しておいて、それを別の記号で連続して置き換えていくような『演繹』的操作ができない。数式の展開や、複雑なプロットのミステリーはとまどうばかり。囲碁将棋などでは「3手先を読む」こともできないので、人に勝てたためしがない。私が好きなのは、『帰納』的に情報を集約することで、「それは要するにこうでしょ?」と乱暴な断定をして、人をあきれさせるのが得意技である。

ついでにいうと、私は年々歳々、記憶力の減衰を実感している。とくに、短期記憶が弱い。意味のない記号列や、単語だけの記憶力が弱いので、ひどいときには同僚宛の電話の伝言を受けて、受話器を置いた瞬間に相手の名前を忘れていたりする。“なんて頭がわるいんだ”と自分でもあきれる。聞いている最中に紙にメモしないと、頭に残らないのだ。

世界史の年号暗記なども学生時代からひどく不得意である。そもそも、理解しないものごとを暗記することができないのだ。ただし、長期の記憶、それもエピソードや五感や情動に裏打ちされた記憶は、それなりに頭の中に残る。

だが、そもそも「頭が良い」とは、どのようなことを意味しているのだろうか? 心理学者のC・G・ユングは人間の心理的な類型を、『思考型』『感情型』『直感型』『感覚型』の4種類に大別した。どうやらここに大きなヒントがあるようだ。元のドイツ語と日本語の訳語(漢語)の対応が良くないので、わかりにくいが、思考型の人間は言語的な論理性を中心に演繹的にものを考える傾向があり、直感型非言語的なパターン認識能力によって帰納的にものを判断するのが得意であるらしい。私は明らかに直感型に属するようだ。つまり、思いつき型、である。これは私の家族も同僚も苦笑しながら同意してくれると思う。

私のような直感型の人間にとって、筆記試験のための勉強とは、暗記でも論理性のトレーニングでもない。「出題者はこの種の問題でどいういう答えを求めているのか?」を推測するための、パターンの検出こそが試験勉強なのだった。出題者は受験者の論理能力とか、記憶力とかを、たぶん測るつもりでいるのだろう。しかし、私は、他人のモノサシを検出する能力を磨くことで、試験をくぐり抜けてきた。

日本では、記憶力の良い人、勉強がよくできる人を指して、「頭が良い」と評することが多い。しかし、こうしてみると、頭のよしあしの方向というものは、いろいろあるのだ。それはちょうど、身体能力といっても、いろいろあるようなものだ。目が良い、足が速い、動作が俊敏である、力が強い・・頭が良いという性質は、こうしたことと同列のことでしかない。

かつて狩猟と採集の時代には、目が良いことや足が速いことは、とても生存に有利だったにちがいない。農耕の時代には、力が強いことが大事だったはずだ。手工業の職人の時代なら、手先が器用である、とか。どの能力が幅を利かせるかは、その時代の生活様式によって決まる。

ポスト工業時代の現代は、「頭の良い」人たちがいろいろと幅を利かせる時代である。試験勉強がお上手で、良い大学を出て高学歴を誇る人たちは、自分たちが赤の他人に命令する天賦の権利を持つ、ひとかどの人間であると考えるらしい。若くしてキャリア職やマネージャー職について、采配を振るうことになる。お勉強上手の人たちは、「わかる」ことと「知る」ことの違いを気にかけない。そんなことに煩わされていたら、よくわかりもしない事象について、本社から末端現場に指示を出せなくなってしまう、というわけだ。

“日本を代表する自動車の2大メーカーのうち、片方の企業は一時、まったく東大出の人間を採用しなかった。もう一方の企業は、東大出をどんどん採用し続けた。その結果はどうだ。会社としての実力は完全に差がついてしまったではないか”−−そんな話を昔、父親から聞いた記憶がある。真偽のほどは定かではない。しかし、後者の企業はプレゼン上手な人が出世する、というような噂を聞くと、さもありなん、と思ってしまう。

お勉強上手なだけの「頭の良い」人達の話を、あまり鵜呑みにしない方がいい。彼らは自分の頭のよさを証明するために生きているような人が多い。だから自分のロジックに酔うのだ。狭いスコープの中で自分の論理性をひけらかすのに忙しくて、マクロな視点から問題を捉えることを怠る。モノサシを疑えないのだ。

大事なことは、賢くなることだ。私はこの言葉を、頭が良い、とは別の、人格を含めた意味で使っている。両者は、無関係の属性だ。大した教育は受けていなくても賢い人は賢い。頭が良くておバカな人も多い。頭のいい人は与えられた問題を解く。しかし、賢い人はより適切な問題を提示する

そして、こいつが難しいのだ。頭の良さは、大学で学べば少しは磨かれる。しかし賢さは大学では学べない。そもそも、教えたり教えられたりできることではないのだから。

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スケールアップの法則 (2005/09/29)

高校の物理の教科書に、口絵としてのっていた写真を、今でも良く覚えている。水らしき流れの中に円柱が立っていて、その回りの流れと渦の模様が、美しく写し出されている。キャプションには「この写真を見て、円柱の大きさをあてられるだろうか?」と書いてある。そして、ページの下の方に、追加の説明がこうあった。

「じつは、円筒のまわりの流れの模様は、その円筒の大きさや流れの速さにはよらず、

 円筒の径×流れの速さ
 −−−−−−−−−−
    流体の粘度

で計算される値(レイノルズ数とよばれる)が同じならば、同じパターンになる。」

と書かれていた。10cmの大きさの円柱が10cm/sの水流にあるときと、1cmの円柱が100cm/sの中にあるときの流れのパターンは、同じになる。これを『流れの相似則』と呼ぶ、逆にいうと、流体の中で流れの模様だけを見ていても、その現象の固有の大きさを推定することはできないのだ。

残念ながら、教科書の本文のどこを読んでも、それ以上の説明はなかった。流体力学は、なぜか高校の物理では一切教えないのだ。その先を知るには、大学の専門課程まで待つしかなかった。

大学では化学工学を専攻した。化学工学(Chemical Engineering)というのは、化学工場の設計論を中心とした工学だ。アメリカでは機械工学とならぶ人気科目だが、日本ではひどく知名度が低い。これは石油・ガス資源のある国と、無い国の差かもしれない。「化学」全般の人気の薄さも手伝っているかもしれないが、じつは化学工学が扱うのは伝熱や拡散や流動といった物理現象がほとんどだ。化学それ自体はあまり知らなくても間に合う。化学が「何を」つくるかに関する学問だとすれば、化学工学とは「いかにつくるか」に関する技術論なのである。

化学者がフラスコとビーカーで化学反応の方法を確立したら、化学工学のエンジニアは、それを工場規模で連続大量生産するにはどういう装置の組合せが必要かを考えるのが仕事だ。これを「スケール・アップ」と呼ぶ。化学工学とはスケール・アップの技術論なのだった。

ところで、面白いことに、理科の教科書にのっていた「レイノルズ数」がここで役にたつのだ。実験室のフラスコだろうと、プラントの巨大なタンクだろうと、レイノルズ数が同じならば、その中の流れは同じになる。したがって、小規模な実験装置のデータから、大規模の工業装置へのスケールアップが可能になるのだ。流体力学の基礎方程式はナヴィエ=ストークスの式という微分方程式だが、この式は非線形性が強くて、そのままでは簡単に解けない。しかし、レイノルズ数を用いれば、直接解かなくても流れのパターンを予測できるのだ。

ちなみに、レイノルズ数が小さい内は、流れは「層流」と呼ばれる、落ち着いた、秩序だった流れでいる。しかし10,000を超えると、流れは「乱流」の状態になる。もはやランダムな動きのかたまりとなり、それは厳密な予測の不可能な、カオス状態になってしまう。だが、乱流には別の意味で、マクロな統計的規則性があるのだ。水の粘度はほぼ0.01[cm2/s]程度だから、水の中でちょっと手を動かすと、すぐ乱流をつくれる。

レイノルズ数は、上の式を計算するとわかるように、cmだとかsecだとかの単位系がない。そこで無次元数と呼ばれる。化学工学では、レイノルズ数に類する無次元数の概念を多用する。シャーウッド数、ヌッセルト数、シュミット数・・。伝熱や拡散などをともなう、複雑な物理現象を工学的に取り扱うにには、無次元数による相似則がきわめて有用だ。

化学エンジニアとして仕事をし始めてから、ずいぶんたつ。その間に、私は次第にシステム・アナリストやプロジェクト・マネジメントの職域に移っていった。しかし、無次元数と相似則の概念は、私にはいつでも有用なアナロジーを提供してくれる。極めて多数の要素からなりたつ系の、複雑な現象をモデル化しなければならないとき、私は『相似則』を無意識に探し求めている。それは、一見ランダムな現象の後ろ側にも、マクロな法則性が隠れているはずだという私の信念を、支えてくれているのである。

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モノを買うのか、機能を買うのか (2005/07/21)

フランスの北東部にエペルネという街がある。特急の乗換駅で、葡萄畑に囲まれた田園地帯の小さな都市だ。ところで、あまり知られていないことだが、このエペルネは首都パリを追い抜いて、住民の平均所得が全仏で一番高い、豊かな街なのである。

なぜこんな田舎の町が豊かなのか。それは、このエペルネが、シャンパーニュ地方の中心の一つであり、モエ・エ・シャンドンをはじめとするシャンパンの有力ブランドのメーカーを多数抱えているからだ。

シャンパン工場は見学するとなかなか面白い。瓶内発酵をさせるため、貯蔵庫は岩盤をくりぬいた半地下にあって、温度・湿度の変化を避けている。しかも、BOMの観点から見ると興味深いことに、シャンパンは製品の一部を、次の年度の製品仕込みのための原料に使っている。BOMにリサイクルがある、「Q型」の構造をしているのだ。これは毎年の品質を一定に保つための知恵である。

法律で決めた産地呼称制限によって、シャンパーニュ地方の限られた葡萄畑から作られる発泡性ワインだけがシャンパンと名乗ることを許されている。発泡性のワインはフランスに限らずイタリアにもスペインにもあって珍しくないが、シャンパンだけが特別に珍重され、値段が高い。買い手がそこに「価値」を見いだすからだろう。だが、それはどのような価値なのか。味? 香り? 品質への信頼感、それとも希少性?

話は急に飛ぶが、かつてIntel社が新型のCPUを発売したとき、数値演算コプロセッサを内蔵したタイプと、内蔵しないものと、二種類を同時に売り出したことがある。昔の話だ。しかし、非内蔵型というのは、実はコプロの回路パターンは焼き付けてありながら、単にその機能を呼び出す部分を殺して売っていたことを、後になって知った。それを聞いて、なんだかひどくアンフェアな、買い手をばかにした商売の仕方だと感じた。むろん、そうした方が、二種類のパターンを別々に開発するより、安上がりなことは理屈では分かるのだが。

いったい、モノの値段というのは、どうやって決まるのか。買い手から見た価値のあり場所はどこにあるのか。私はそのことを、ずっと考えている。

シャンパーニュ地方では、葡萄が大豊作になり、収穫量が出来すぎると、あえて収穫せずに捨てておくという。そうやって、シャンパンが供給過剰になり、価格が低落するのを防いでいるのだ。彼らの高収入は、必要とあらば高品質な原料さえ捨ててしまうことで成り立っているらしい。大人の知恵、というべきなのだろう。しかし、その話を聞いて感じる居心地の悪さは、IntelのCPU生産方法を知ったときの奇妙な憤りに、どこかで通じている。

BOM/部品表入門」を書いたとき、私はあえて、『マテリアルとは何か?』という問いを最初の部分に置いた。それは、自分に対する問いかけでもあった。マテリアルとは、物質的な実在があり、在庫可能で、所有権を売買し移転できる性質のものだ。そこがサービスや情報とちがう。しかし、それではマテリアルの値段とは、何で決まるのか? 百グラム何円という単価は、誰が定めるのか。

マテリアルの価値を定めるのは消費者であり、単価はその需要量と販売者の供給量のバランスから決まる。そして消費者にとっての価値とは、そのマテリアルの品質に依存する。−−これが経済学の教科書的な回答にちがいない。(ここには製造原価という項目がないことに注意してほしい。製造原価は供給曲線の形に影響を与えるだけで、販売価格には間接的な効果しかないのだ)

では、品質とは何か。それは、顧客満足で測られる、というのが現代品質管理の考え方らしい。製品というマテリアルの品質は、
 製品品質=g(構造属性群,材質属性群,機能属性群・・)
という式で表現されると、以前書いた。しかし、よく考えてみると、3種類の属性群は平等ではない。明らかに機能が優先するのだ。

なぜなら、車を買うときのことを考えてほしい。かりに、ブレーキオイルの配管系統にごく小さなピンホールがあったとする。構造や材質は、ほぼ完全に他の車と同等だ。でも、ブレーキは機能しない。そんな車を、あなたはお金を払って買うだろうか?

機能とはマテリアル固有の属性ではなく、マテリアルと使用目的との関係である。このことは明記しておいた方がよい。「移動する」という自動車の主要目的を果たせない製品には価値がない。むろん、コレクターで、所有陳列しておくだけが目的の買い手にとっては、構造(外見)だけでも価値はあろう。目的は、必ずしも一つではない。そして、複数の目的があり、複数の機能尺度があるときに、いくつかの製品を比較評価する総合尺度は、合理的(無矛盾)には構成し得ないことも、以前ここに書いた。これは、消費者の好みが、本質的に多様であることを意味している。

こう考えてみると、実はわれわれはモノに仮託した諸機能への期待を買っていることがわかる。機能自身は買えない。所有権を移転できないし、占有権も許諾できない。だからモノを買うのだ。ところが、われわれの社会の法律や商慣習や経営論理は、ほとんどがモノの売買を機軸にしてできあがっている。経済学は、購買行為が「合理的」であることを前提にできあがっている。だから、あちこちでねじれが生じるのだ。

シャンパンの主要な目的は、味わって酔うこと、では多分ないのだ。高価な製品の封を切る特別な瞬間を味わう、雰囲気が目的なのだ。エペルネのシャンパンメーカーたちは、そう信じているにちがいない。そうでなければ、価格を維持するために、太陽の恵みを犠牲にしたりするはずがない。それは経済原則には合致するだろう。だが、それははたして商品文化の名に値するのだろうか。消費者の求めるものは、本質的に多様だ。売り手のお仕着せによる価値づけは、どこかに矛盾を内蔵していると私には思えるのである。

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決めない人々 (2005/06/21)

請負契約の仕事を長年やっていると、プロジェクトの成功・不成功はかなりの程度まで、顧客の性格に左右されるなあ、という感想を持つようになる。性格と呼ぶのは不正確かもしれない。個人個人の人柄の問題というよりも、顧客が組織文化として持っている性質である。それは端的には、「タイムリーに決断できる」か、「なかなか決断できない」か、という違いだ。

なかなか決断してくれない顧客に当たると、大変である。プロジェクトでは判断に迷うケースがいくらでも出てくるからだ。どんな設計も完全ではないし、市場の環境条件は変化するし、ユーザニーズも変わるし、法規制だって変わりうる。「ライバルが革新的な技術を出してきた」「現状を調べてみたら昔の設計図とかなり違っていた」「製品の販売予測が計画当初よりも弱気になってきた」「エンドユーザが操作法の変更に強く抵抗している」・・・『では、どうするべきか?』というのが、プロジェクト遂行途上で突き当たる問題だ。

ところが、“決めない顧客”に当たると、NOとは言うがYESとは言わない。問題は決断されないまま、時間だけが過ぎて行く。どんどん納期のタイムリミットが近づいてくるのだ。しかたなく、「これで行きましょうよ」と提案を作り、良かれと思って仕事を進める。そうすると、後になって「やっぱりやめて、あっちにしてくれ。」と言われる。コストもスケジュールも大きなインパクトを受ける。

決めない人々には、共通する3つの性質がある。(1)まず、現状から変化するようなリスクに異様に敏感である。だから、リスクのある決断での自分の責任を極力回避したがる。(2)つぎに、部門間で言うことが違う。各部署が、きわめて部分最適化されていて、自分に都合のいいことだけしかOKしない。(3)しかも、この種の客先にかぎって、決して追加を認めたがらない。

不思議なことに、決める人か決めない人かは、ほとんど会社の体質によって定まっており、個人の性格には依らない。企業の中で、「決めない人」が一人いたら、他の人もだいたい「決めない人々」だと思ってよい。まあ、たまに例外がいて、その決断力のある人だけが有能だったりするケースもあることはあるが、同じ会社の社員というのは、ほとんど同じだと思った方がよい。なぜ、そうなるのだろうか? 

その理由は簡単だ。「決めない人々」の働く会社には、決断の基準となる『仮説』が共有されていないからだ。以前、「仮説検証のトレーニング」にも書いたとおり、戦略とは組織レベルで仮説を共有することだ。「市場はこうしたニーズを持っているはずだ。この製品にはこうした利点がある。だからこんな作り方や売り方をすべきだ・・。」 仮説とはすなわち、賭けである。賭けである以上、当たりはずれがあり、リスクがある。だが、それは会社レベルで選び取られたリスクなのだ。

そもそも会社とは、なんらかの目的を共有した組織であるはずだ。目的があれば、そのための戦略がある。そこには必ず、仮説と賭けがある。逆にいうならば、「決める力」とは、その組織がなんらかの仮説を背後に共有していることを示している。つまり、その会社は、ものの見方に一貫性があるのだ。

そして、悲しい事ながら、一貫性ほど日本の企業に乏しいものはない。あるのは思いつきと行き当たりばったり・・と言えば厳しすぎるかもしれない。しかし工場が営業の販売予測を信用せず、設計部門が購買部門の経験から学ばない会社は、枚挙にいとまがない。

こうした会社は、存続だけが自己目的となっている。現状維持が目的だから、変化するリスクは排除されねばならない。仮説がないから、決断もない。何か前例のないことをやろうとする者は、減点主義によって罰せられる。こうした企業に跋扈するのは、前例重視とと部分最適のルールである。部門ごとの独善と言いかえるべきかもしれない。

決めない人々を顧客に持つことは不幸だ。だが、決めない人々自身も、ある意味では不幸だ。なぜなら、変化に頑強に抵抗することは、急激な絶滅に至る最良の近道となっているからだ。

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英語のLetterとSpirit (2005/03/27)

復活祭の季節だ。先週はHoly Week=『聖週間』と呼ばれ、キリスト教徒にとってはクリスマスとならんで最も重要な祝祭のための7日間だった。この時期、ヨーロッパやアメリカの企業に電子メールやFAXで何かを依頼しても、返事などろくにかえってきやしない。飛行機はとれず宿も満員になる。敬虔なクリスチャンにとっては神聖な黙想のための週であり、敬虔でないクリスチャン(つまりほとんどの欧米人)にとっては、家族で休暇旅行に出かけるための週である。

日本人はクリスマスを輸入したが、なぜか復活祭は持ち込まなかった。十字架上で受難したイエス・キリストが3日目に復活して甦えったことを記念する−−これが本来の意義だが、北半球の人間にとっては、冬が過ぎ去って、春の生命の復活を祝うシーズンでもある。これが日本に入らなかったのは、すでに花見や春休みや花祭りがあったからかもしれぬ。

復活祭は移動祝祭日と呼ばれ、毎年その日付が変わる。これは、「春分の日のあとの最初の満月の次の日曜日」という定義によって決められるからだ。太陽暦と太陰暦が入り混じったような不思議な設定になっているので、D. Knuth教授の『算法基礎』には、復活祭の日付の計算は中世を通じて最大の算法問題であった、とある。さもありなん。どうみてもプログラマを困らせるために発明されたとしか思えぬ祝日である。

復活祭の日付がTOEICの英語テスト問題に出たことがあるかどうか、私は知らない。たぶん、特定の宗教の習慣について問うのは"politically correct"ではないから、出ないだろうと想像する。しかし、復活祭という習慣は現に存在して、英語のネイティブ・スピーカーだったら誰でもそれを知っている。宗教は文化の一部であり、言語も文化の主要素である以上、切っても切れない関係がある。TOEICだけで英語の理解能力が計れないと私が思うのは、こういう点だ。

グローバル・ビジネスの道具としての英語に、宗教の知識など無縁だろうって? はたしてそうだろうか。何年も前のことだが、私はある米国企業とのプロジェクトのために、チーム・ビルディングの会場に向かっていた。ちょうど復活祭の直前の季節で、朝はまだ寒かった記憶がある。参加者の7割以上は日本人だったが、使用言語は英語だった。米国流のチーム・ビルディングがどんなものなのか、詳細はまた別の機会に書くことにしよう。とにかくその会場で、我々は「共同決意宣言」を英語で作ることになった。

その宣言文の討議の中で問題になったのは、契約書の扱いである。顧客の米国企業側は契約書の厳密な履行を求めた。われわれ請負側の日本企業は、「柔軟な運用」を欲した。議論はかなり並行線をたどったが、最後に我々の側にいたある米国人が、「契約の文言ではなく精神で」(Not by the letter but by the spirit)と提案したら、すんなり合意された。気のきいた言い回しだとは思ったが、なぜそれでぴたりと議論が収束したのか、私には分からなかった。

ところで、しばらくしてから、私は突然この文句は新約聖書にあるパウロの手紙の中の引用であることに気がついた。パウロは、人間を救うのは(旧いユダヤ教の)律法の字句letterではなく、聖霊spiritの恩寵である、と主張していたのだ。そして、このテーゼは、「契約社会」と呼ばれる彼らの考え方の底流を規定しているのである。だからあの宣言文は見事な助け船になりえたのだ。

もう一つ、例をあげようか。プロジェクト・マネジメント論の中で、マトリクス型組織の功罪という問題がある。マトリクス型のプロジェクト組織は、現代の経営学においては最も先進的な形態だと考えられている。そこにおいては、機能部署の指示系統とプロジェクト別の指示系統が二重に存在する。しかし、古典的名著「人月の神話」を書いたBrooks Jr.はこれを批判して、『人は誰も二人の主人に仕えることはできない』と主張する。とはいえ、これで反論になるのだろうか?

この文句も実は、新約聖書からの引用になっている。人は誰も、「神とお金という二つの主人に」同時に仕えることはできない−−これが本来の意味である。確かに、この2種類の主人は相反する価値を体現している。Brooksの主張は、ここまで読み込めば、強いインパクトを持つ反論であることが理解できる。そして、ごくふつうのアメリカ人ならば、「二人の主人に仕える」と言われれば、すぐにこの文句の意味にピンとくるのだ。

一説によれば、英会話の学習というのは、約700時間を費やせば一人前になれるという。1日1時間として、ほぼ2年間である。まあ、そんなものかもしれないな、と私も思う。しかし、それでトレーニングできるのは、せいぜい読み書き聞き話す、枝葉の技術である。一番大事な「文化を理解する」という能力については、実はほとんど、これでよいという際限がない。

復活祭の7日前の日曜日を、英語でPalm Sunday=『枝の主日』と呼ぶ。この日、(宗派によって習慣は異なるが、たとえばカトリックなら)信者たちは棕櫚の小枝を持って聖堂の外に集まり、キリストのエルサレム入城を祝った史実を模して、十字架を先導とする行列をつくって聖堂に入る。そして、福音書の受難劇の部分を朗読する。この時につかった棕櫚の小枝は、翌年の復活祭の40日前の水曜日、いわゆるAsh Wednesday=『灰の水曜日』に燃やして灰にする。そして、信者はその灰を額に十文字型に塗りつける。その日は街中で額に灰を塗った人々と行き交うことになる。灰の水曜日から復活祭の日曜日までの期間を『四旬節』といい、原則として禁欲の期間となる・・

こういう知識は、TOEICの試験問題では問われない。だからTOEICの参考書にも出てこないだろう。しかし、キリスト教を信じようと信じまいと、英語のネイティブ・スピーカーたちは、みなこういう習慣を「肌で知って」いるのだ。多くの日本人にとって、宗教だの聖書だのはひどく縁遠い代物である。しかし、それは確実に欧米文化圏の世界観を規定している。その世界観は、思わぬ瞬間に、ひょっこりと顔を出す。なぜなら人間は「パンのみに生きるにあらず」、つねに意味を求めて生きている存在だからだ。そして、だから私はいつも、“ぼくらに英語はわからない”と言い続けているのだ。

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理系でもなく文系でもない (2005/02/06)

落語に、「紺屋高尾」という人情噺がある。吉原の高尾太夫の絵姿に一目惚れした紺屋の職人・久蔵は、太夫を一目見たい逢いたいと、死にものぐるいに3年間働いて給金を貯める。太夫といえば大名豪商しか相手にしない超エリートだから、大金を積まねば会うことなどかなわない。ようやく3年後、給金全額を懐に、知り合いで通人の医師に手引きされ、念願かなうべし、と吉原三浦屋にいく。労働階級など相手にされぬ格式ゆえ、野田の醤油問屋の若旦那といつわるのだ。しかし、手の指を見せればすぐに紺屋の職人だと知れてしまう。そこで久蔵はずっと懐手にしていなければならないのだが・・

士農工商の江戸時代では、「工」に従事する職人の社会的地位は低い。しかし、商品経済にはこの逆順で近いわけで、実際には職人の収入はそこそこのものだった。私が聴いた噺では、久蔵は3年間必死に働いたあとで、親方に自分の給金がいくらたまったかをたずねる。すると親方が25両近くなっている、感心にもよく働いたものだ、と答えるのだ。つまり、働いた分に応じて給金が出る仕組みになっていたらしい。

もともと職人の給金は、出来高払いが基本であった。今風に洒落た言い方をすれば、「アーンドバリュー」にもとづいた、「成果主義」の賃金体系だったのである。そして、その賃率はそれなりに高いものだったらしい。昭和40年頃まで大勢の職人を雇って店をやっていた親戚の話を聞くと、腕一本でかなりの金を稼ぎ、またそれを大抵は飲んでしまうのがふつうであった。職人といえば親方の徒弟制度で技能を学ぶが、しかし雇い主との関係はむしろドライで、気に入らぬ事があるとプイッと辞めて他に移ってしまう。手に職があればこそ、独立独歩のメンタリティだったのだろう。

職人は専門職であったが、理系でも文系でもない。大学教育とは無縁だからだ。日本で職人仕事がそれなりに存続していけたのは昭和40年代いっぱいで、50年代になるとかなり低落しはじめ、バブル経済の平成に入ると完全に崩壊してしまう。かわりに高度成長期に増えたのは、固定給の会社員である(彼らは「月給取り」と揶揄された)。そして大卒の人間が、会社のホワイトカラー・管理職候補生として、採用される。

高賃金を得たければ、大学を卒業して知識を身につけ、企業に就職する−−このルートをみなが目指したから、大学生の数は年々増え続けるばかりだった。学歴社会の誕生である。「何をどれだけ作れるか」ではなく、「どういう学歴で何年働いたか」が人間の地位や収入を決めるようになった。そして、ここで初めて、人間を「文系」と「理系」に分ける奇妙な思考が社会に定着しはじめたのである。

文部省は長らく、大学の学部名称と内容を規制していた。学部名称は「学士号」に直結しており、法学士や工学士はあれど、“コミュニケーション学士”や“コンピュータ学士”などは許されなかった。だからコンピュータ学部などというものも存在できなかったのだ。文部省は学生一人あたま年間10万円という補助金を与えることで、学校法人の経営を縛っている。名称とカリキュラムが自由化されたのはつい近年のことだ。役人の縦割り思考の中では、自由な学際などという発想は入り込む余地がなかったのだ。

この縦割り思考は、心理学が文学部に属し、人類学が理学部に、統計学が経済学部に属するような、不可思議な分類を許していた。マウスを使った実験による計量行動心理学がなぜ文学の範疇になるのか、それこそ心理学的には謎である。しかし入学試験の門戸は文系と理系に分けられていて、そこから先へはなぜか行き先が規制されるのだ。

大学入試の18歳の時点で文系理系を選ぶのは、たまたま数学の計算問題が苦手だとか、高校の世界史の先生と相性がよかったとか、その程度の理由でしかない。むろん、人間の人生は運とか縁とかで動かされていくものだと、言えなくはあるまい。しかし、ここにあるのはそういう高尚な諦念ではなく、ミカンを選別するためのコンベヤに似た、マスプロダクション教育の仕組みなのである。

私が文系・理系のどっちが得かといった論争を聞くたびに思うのは、人間を18歳の時点に二種類に分けて平然としている神経の不思議さである。「自分は文系だから・・」「俺はしょせん理系だから・・」などと言って自分を規定し、“だからITは知らなくても良い”とか“だから政治は興味がない”とか自己に許してしまう、怠惰さだ。なぜ自分にそんな分類や尺度を許せるのか。この地平線の端から別の端まで、地上に生起することで自分に無縁なものなど一つもない、というのがまともな大人の認識ではなかったか。

営業職や会計職の方が技術職に比べて生涯賃金が大きい、などと不平等を言い立てるのはおかしい。誰でも同じものが生産できるようにするため技術を使った。そして市場に大量の商品が供給できるようになった。そうしたら、ボトルネックは工場での生産技術から市場における販売に移るのは当然ではないか。成熟した工業化社会では技術屋は代替可能(リプレーサブル)で、その地位が低くなるのは、当たり前の推移なのだ。

それでも、人はパンのみに生きるにあらず、仕事が好きだと思えば技術屋を続ければよい。やっぱりパンが好きだと思えば、技術屋は辞めて経営管理職に専念するべきだ。経営職には本来、文系も理系もない。力関係があるだけだ。

面白いことに、近代的な経営工学の創始者だったテイラーの時代、労働者は出来高払い制度で働いていた。紺屋高尾の職人・久蔵と同じだ。テイラーの「科学的管理法」は、労働生産性を上げて、労働者に多くの賃金を払う結果をもたらした。経営工学は理系だろうか、文系だろうか? どちらでもない。それは合理的思考の産物なのだ。

では、私自身は理系だろうか、文系だろうか? 大学教育は「理工系」だった。しかし、私の自己認識は理系でも文系でもない。どだい、システム・アナリストやプロジェクト・マネージャーの仕事は理系といえるだろうか。

私の仕事は、「複雑系」なのだ。

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