生産計画 ワンポイント講義

生産計画・スケジューリング、部品表(BOM)、サプライチェーン・マネジメント(SCM)などの分野で理解すべき用語と概念を解説しています。



工場計画論

工場計画論(1) 立地論−−工場はどこに行くのか (2009/10/21)

'90年代以来このかた、郊外にあった工場がポコッと消えて、その跡地に大規模住宅や商業施設が立ち並ぶようになる、そんな光景を何度も見てきた。いつもの見慣れた工場がある。それがいつの間にか操業を停止している。そしてある日、工事中の看板が立つやいなや、あっという間に更地になって造成されていく景色だ。

その逆を見たことのある人はいるだろうか? マンションやスーパーが取り壊され、近代的な工場が立ち上がっていく姿を。おそらくほとんど皆無だろう。なぜ一方向にしか変化は起きないのか。

それは、土地の単位面積あたりの付加価値産出量が違うからだ。土地一坪当たり、1年間に生むお金の量が違う。大都市近郊においては、商業の方が、工業よりもずっと月坪単価が高いのである。住宅販売や賃貸も同様である。

同じようなことは、じつは農地と工場との間にもあった。それは主に昭和の時代のことだから覚えていない人も多いだろうが、いつの間にか農地や林野が造成され、工場用地にかえられていった。なぜなら、農業や林業よりも、工業の方が、単位面積あたりの稼ぎが大きいからだ。農業は、太陽から降ってくるエネルギーを光合成で植物体に変えることで成り立っている。それが、電気と機械力で付加価値を生み出す工業に、面積あたりの稼ぎでかなうわけがない。

さらにいうならば、農業と工業と商業とでは、事業として必要とする最低限の面積もかなり違う。商業施設は、500m2もあれば立派な規模である。しかし、工場は1,000m2程度でも中小規模の感を免れない。ましてや農地は、3,000m2以下では零細である。しかも農地は「二階建て」にすることはできないのだ。方や商業施設はどんどんのっぽにできるのに。都市計画法その他の規制は割り引くとしても、土地の単位面積あたりの比較では、

 第1次産業 < 第2次産業 < 第3次産業
 
という優劣は歴然としてあるのである。

では、現代において都市を追い立てられた工場はどこに行くのか? その答えは、上の不等式の中にある。この不等式が成り立たなくなるのは、地方、とくに大都市が近くにない地域である。地域内に高い人口密度がないところでは、高収益な第3次産業は成り立たない。ここでは、工場がショッピングセンターに遠慮する必要はない。競り合う相手は農業だけだ。

ただし、農地は用水さえあれば成り立つが、近代工場は最低でも水と電気と交通のアクセスは必要だ。そこで、地方自治体によって造成された工場用地の出現と相成ったわけである。このようなわけで、現代の日本では、かつて隆盛を誇った京浜工業地帯や阪神工業地帯が、次第にほぐれるように解体し、かわりに周囲を農地に囲まれた工場団地が出現したのである。「××県○○市の市長は偉いな。新幹線も停まらせた。高速のインターも造らせた」などとというほめ言葉も聞く。これでは地方自治体が中央から独立できるわけがない。

話がそれた。では、すべて工場は地方にいて満足なのだろうか。たとえば、大消費地から遠くて困らないのか。これについていえば、物流網の発達のおかげで、日本国内だけを相手にするならば、ほとんどが1日以内で運べるようになった。無論、時間あたりの鮮度が問題になるような業種とか、重量あたりの単価が非常に低いような商品を扱う業種は別である。つまり、立地というものにはサプライチェーンの個別性からくる要求があるのだ。

働き手はどうか。かつて、高度成長期の中頃あたりまでは、地方は安価で豊富な労働力の供給地だった。今は、もう中小都市しかない地方は高齢化が進むばかりで、肝心の若手が少ない。工場に行っても外国人ばかりが目立つようになってきた。地方の中小都市に多数の外国人。誰にとってもあまり居心地の良くない状況である。外国人労働者を使うのなら(その是非はともあれ)、地方でも大都市圏でも同じではないか。

いっそのこと、安い労働力を求めて海外に移転しようか。−−そういう流行が、一時はあった。「中国生産」ブームである。しかし、今やはっきり反省期に入っている。その理由はさまざまだが、一つあげられるのは、海外に出してしまうと、国内需要の変化に追随する能力が格段に落ちてしまうことである。また、新しい需要への対応、すなわち新製品の開発力にも深刻な影響が出てきた。それはまあ、当然であろう。国内であれば、日本人得意の『すりあわせ型』でやっていけた事が、海外では四角四面な『モジュール型』でしかできなくなるからだ。

こうしたことを考え合わせるなら、私は今後、一部の業種では工場の「都市帰り」というケースも現れるのではないかと考えている。都市といっても、まあさすがに港区のど真ん中というわけではないだろうが、大都市近郊である。都市生活者が通える範囲の立地である。なぜか。それは、これからの日本の製造業には「研究開発型工場」が求められるようになるからだ、というのが私の推論である。

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工場計画論(2) グローバル展開のゆくえ (2009/11/07)

電車にゆられながら吊り広告を見ていると、宣伝というのはつくづく一般消費者の欲望を刺激することで成り立っているものだな、と感じる。あれは素敵だ、これは面白そう、こんな心配はありませんか? こんな夢はどうでしょう−−そういう風に、広告はできている。だから、その気になって広告をよく観察すると、“普通の人々”が何に対して欲望を感じているのかが、逆に分かってくる。

欧米などに比べると、日本の電車は際だって広告の量が多い。最近は電車の外側まで広告で塗りたくっている。まさに『欲望という名前の電車』が街中を走っているわけだ。その車内広告の中でも、くりかえしくりかえし登場するのが、英会話教室のPRだろう。それだけ、「英会話ができるようになったらカッコいい」と望んでいる人が多いわけだ。まあ、パリの郊外電車の中でも英会話教室の広告を見かけたことがあるから、あそこの国の人だって内心は“英語がしゃべれたらカッコいい”と思っているのかもしれない。

日本では、「英語がしゃべれること」と『国際化』という言葉は、車の両輪か同じコインの両面のように考えられてきた。外国=欧米=英語、という風に、思考回路の中でショートしたみたいに連想がつながっている。とくに年配の人の中では、その傾向が強いかもしれぬ。日本企業では、“国際畑”を歩いたキャリア、というと何となくエリート・コースのように聞こえる。

その国際畑とは何か。それは十中八九、海外営業部門を意味する。日本の製造業の海外展開というのはパターンがあって、それはまず製品の輸出からはじまる。大昔なら生糸、昔は繊維製品、そして現代は自動車や家電が輸出の主役だ。どれもみな、大量見込生産品であることに注意してほしい。それらは高品質で、かつフェアな価格だから売れてきた('85年代以前は円も安かったから、フェアどころか低価格だった)。買い手はお金を持っている欧米先進国が中心だった。

輸出の場合、最初は商社経由で、現地の販売代理店が売っていた。セールスというのは、つねに現地密着型でないとできない職種だ。そのうち販売額がかなり大きくなると、相手先企業と提携して、合弁の会社(海外子会社)を設立することになる。主な仕事は販売とサポートである。セールスマンやセールスレップを雇い入れ、それを管理するのが支社に派遣された海外営業部門の人たちの役割だった。

そのうちに、現地のローカルなニーズにあった製品がほしい、という声が高くなってくる。だから、営業企画部門を海外でも持つようになる。本格的製品開発までは無理でも、簡単なローカライズくらいならやれるような体制になっていく。物流倉庫もいる。そして機械製品なら、保守のためのサービスセンターも持つようになる。

さて、ここまでのところ、まったく「工場」という単語が出てこなかった点に注意してほしい。あくまでも、日本企業のグローバル展開というのは、『プロダクト・アウト型』なのである。欧米志向、営業主導、見込生産品−−これが“国際化”の正体だった。

では、この間、工場の人たちは何をしていたのか。技術畑の人間にとって、昔は「技術導入」の形で海外とのつながりが多少あった。しかし日本企業の技術開発力が上がるにつれて、(一部業種を除けば)ライセンス生産は減ってくる。しだいに『純国産型』の生産体系になってきた。

そして、バブル崩壊である。不況で、モノが売れなくなった。すでにバブル経済の時代に、工場は都市近郊から地方に追いやられていた。そこに、「原価低減」の重圧が本社からかかってくる。売れないのは価格が高いせいだ、うちの工場は高コスト体質で困る。これでは価格破壊の時代に生き残れない−−こう考える人が本社では多かったらしい。バブル時代には、「もっと高付加価値な」(つまり豪華で単価の高い)製品を開発しろ! と叫んでいた同じ人たちが、手のひらを返したように、もっと安くて売れるものを作れ! と命じるようになった。

ここでちょっと、考えてみてほしい。高度成長期が終わって、市場も技術も成熟期に入ると、世の中の平衡点は供給過剰側にシフトしている。力を持つのは、最終消費者だ。そして、それに近い、小売業者である。それまでのプロダクト・アウト型の大量生産販売体制は、マーケット・イン型の、小口受注短納期型の生産販売体制に移行しなければならなかった。そうしなければ、販売機会の損失が増大するのだ。だから、販売と開発と生産は、より密な連携が必要になり、すぐ近くにいることが望まれたはずだ。

なのに、日本の製造業の現実は、そういう風には進行しなかった。国内需要減を海外輸出で補うことがテーマになった。だが、すぐ背後からは韓国・台湾など中進国が低価格を武器に追いかけてきた。だったら、人件費も材料費も安いアジアに生産をシフトするのが、頭の良いやり方だ、という通念が生まれた。アジアでものづくりをして、欧米に輸出する。それを日本が企画・管理する。それが「グローバル展開のあるべき姿だ」というイメージが広まり、大企業だろうが中堅・中小だろうが、自社のサプライチェーンの質や量も考えずに(といったら失礼かもしれないが)中国に工場を移転し、かくて「中国を世界の生産工場に」するために貢献したのである。

この間、忘れられていたことが一つある。それは、中進国やアジア諸国を「輸出先の市場として考えること」である。国際化とは欧米進出だ、という固定観念がまだ残っていたのだろうか。国際営業畑は欧米に顔を向け、生産畑はアジア諸国の方を向く、という奇妙な分裂状態がいまだに続いているのである。

2000年代も半ば頃になって、はじめて「製造業の国内回帰」ということが言われるようになった。軽々しく工場を海外移転したが、失敗例が意識されるようになったのである。それはある意味、当然だろう。見込大量生産時代の意識を残したまま、むしろその地理的な距離を広げた上で、マーケット・インの時代に対応しようとしても、簡単にいくとは考えにくい。工場の立地は、サプライチェーンの形と量と性質によって決める−−この原則に、もう一度立ち返るべき時が来たのである。

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工場計画論(3) 製品をどこに置くか (2010/01/12)

製造業とは、『ものづくり』をビジネスとする企業である。たいていの人は、そう信じている。そして、“ものづくりこそ日本の産業の真髄だ”、“製造業よ甦れ”みたいなスローガンがこの10年来、叫ばれてきた。日本経済が再び成長力を取り戻すには、やはりものづくりの生産性を上げることが重要だ、そんな主張を経済通から聞くことも多い。

でも、はたして本当なのだろうか。知人の経営コンサルタントから来た年初の挨拶メールの中に、「商社化しつつある日本の製造業を・・」という興味深い表現があった。たしかに、この10年間で、日本の製造業の姿は(その看板や見かけとは違い)ずいぶん変化してしまったと感じることがある。

その変化は、製品在庫をどこに置くか、という問題に端的に表れている。一般消費財を例に取ろうか。たとえば、あなたが衣料品を通販で注文するとする。その製品は、どこから送られてくると思われるだろうか? 多くの場合、静岡とか、あるいは北陸などから発送されてくるにちがいない。−−そこが繊維製品の産地だから? 違う。そこに、製品在庫を置いてあるからだ。なぜなら、荷揚げに適した港があるからである。

国内で一般消費財を作っている場合、人口の多い大都市圏が、主要な流通販売先となる。したがって、メーカーの製品在庫は、大都市圏に近い工場で作ってせっせと販社に回すか、あるいは工場が遠隔地の場合は、大都市の物流倉庫に積み上げておくことになる。さらに日本製品の輸出が好調だった時代は、工業地帯に付属する港湾、つまり東京港や大阪港などから貨物を出荷する。こうして、大都市圏と、工業地帯と、陸運・海運の拠点は、ほぼ一致することになる。だから日本は都市に人口も何もかもが集中していったのである。

ところが今や日本は、部品材料も最終消費財も、アジア各国から大量に輸入する国になっている。では輸入貨物はどこに陸揚げするのがよいだろうか。まさか全国の大都市に順に寄港して、少しずつ荷揚げする、などという非効率なことはできまい。どこか一ヶ所に陸揚げして、いったん物流センターに保管し、必要に応じて配送する方が合理的である。

そこで浮上してきたのが(たとえば)静岡県西部だ。清水港という24時間対応の国際貨物港がある。東名高速など陸路も充実している。そして土地代も人件費も安い(いまどき誰が土地代の高い大都市に倉庫を借りたがるだろうか?)。本州の中央に位置して、東京・名古屋・大阪など工業地帯・消費地への配送にも便利である。

こうして、新幹線に乗っていると、新富士から静岡・掛川・浜松までの沿線で、のどかで風光明媚な田園地帯に並ぶ近代的な物流センターや流通加工施設を見ることができる。この地域は今や、実は日本の製品在庫のメッカであり、サプライチェーンの一大ハブなのである。そしてそれは、日本の製造業が海外生産に大幅に頼っていることと関係がある。

そもそも、ご存じかもしれないが、「アパレルメーカー」と呼ばれる会社は、製造業と思われているかもしれないが、実質は流通業であって『ものづくり企業』ではない。こうした企業は、製品のデザインと、販売と、(場合に応じて)材料生地等の購入支給を行う。誰に支給するのかって? 「縫製工場」に対してである。実際の縫い物仕事(つまり組立加工と同等の「ものづくり」)は、中小零細の縫製業者に下請けで作らせる、これが衣料品世界の構造である。

そして縫製工程は、極めて労働集約型の産業である。だから早くから、人件費の安い東アジアに外注先をシフトさせていった。台湾、香港、中国、ベトナム・・・といった国々である。まあ日本国内より縫製の仕上がりが多少野暮ったく、雑になるが、仕方がない。それより「安さが大事だ」と流通側は考えたのである。かくして、今やスーパーの衣料品から高級ブランドの製品まで、のきなみタグに「中国製」と書いてある時代が出現した。

だからアパレルメーカーは早い話が、製品企画と仕入れ販売のみを行っている「商社」なのだ。そしてこの構造は、他の業界にも急速に広がっている。あなたが手にして飲んでいる飲料、それも東南アジアで製造充填されたものかもしれない。あなたが読んでいる文庫本、それもアジアで組み版され印刷されたものだろう。かりにそれらが国内で製造されたものだとしても、もう製品在庫は静岡や北陸の物流センターに送られ、集中管理されるのだ。だったら、工場をわざわざ大都市圏の近くに持つ必要はないではないか?

こういう訳で、日本の工場立地はある意味、二極分化を起こしつつあるように思われる。製品が複雑で研究開発のスピードが重要な場合は、「研究開発型工場」として大都市圏に戻りつつあり、一方、製品が単純で製造技術が確立してしまったものは、どんどんと都市圏から離れていく。無論、それは製品の数量や、重量あたりの単価によっても異なる。いずれにせよ、今日の工場計画は、サプライチェーン(物流拠点)の配置論をはずしては、考えられない段階に突入したのである。

(この項つづく)

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工場計画論(4) 4つの生産形態 (2010/02/11)

前回は、「製品(の在庫)をどこに置くか」という話題をかいた。今回は、「原料や部品の在庫はどこに置くべきか」という話を書く。

あれっ? タイトルと話の中身が違うじゃないか−−そう思われた方もあるかもしれない。『生産形態』ってのは、すなわち受注生産か見込生産か、という分類だろ? 

だが、これでいいのである。生産形態とは、「在庫を何の形で、どこに用意しておくのか」という問題に対する、対処方法の種別に一対一で対応しているからだ。

議論に入る前にまず、理解しておいてほしいことがある。生産システムとは「需要情報というインプットを、製品というモノ(ならびに製品に実現された付加価値)に変換してアウトプットする仕組み」を指す、という基本概念である。工場設計論とは、すなわち生産システムの設計論に他ならない。なお、ここでいう生産システムとはITのことではなく、人間系と機械設備とを含む広義の仕組みのことを指して言っている。

その上で、「見込生産」からおさらいをしておこう。見込生産とは何か。それは、製品需要を“見込んで”生産する形態である。JISは、生産者が、市場の需要を見越して企画・設計した製品を生産し、不特定な顧客を対象として市場に出荷する形態、と規定している。ここで重要なポイントは「需要の見込み(demand forecast)」、「自社設計の製品」、そして「不特定顧客」である。

見込生産は、実需が発生する前に、製品を作ってしまう。必然的に、「製品在庫」が生まれる。この在庫は、まだ特定の出荷先に紐づけされていない(未引当在庫)状態にある。不特定顧客向けなのだ。需要に応じて、その製品在庫の中から引き当てて顧客に納入していく。見込生産を英語でMTS=Make to Stockというのは、この理由による。Forecast Productionなどとはいわない点に注意してほしい。

日本語の「見込」というのは、なかなかフレキシブルで含蓄の深い言葉である。英語に直すとForecastだが、forecastには「予測」という語も対応する。予測の方が科学的で客観的な語感がある。しかし「見込」というと、なんとなく人間の判断がこもった匂いもするではないか。計画=予測+意志決定、という式から考えると、見込は予測より計画の側に近い。

これに対して、受注生産とは、顧客が定めた仕様の製品を生産者が生産する形態、とJISは規定する。だが、これを読んで、あれっ?と感じなかっただろうか。見込生産の定義と対称型になっていない。「不特定顧客」や「需要の見込み」はどこへ行ったのか。完全を期すならば、特定な顧客を対象に、確定した需要に応じて、顧客の要求・設計した製品を生産し出荷する形態、としなければおかしいではないか。

そう。実はここに、日本の生産管理思想の混乱した点が見えるのだ。たとえば、考えてみてほしい。年に数台しか売れない、ごく特殊な仕様の超高級スポーツカーがあったとする。これをディーラーに買いに行くと、“注文をいただいてから工場で生産にかかりますので、あと3ヶ月半お待ちいただくことになります”と言われる。これは受注生産なのか見込生産なのか? JISの定義では、どちらにも当たらない。

受注生産を英語では、MTO=Make to Orderと呼ぶ。こちらの方が直接的で分かりやすい。注文に応じて生産する。だから超高級スポーツカーはMTOである。あるいは、あなたは海運王で、豪華客船を一隻造ってくれ、と造船会社に注文する。すると2年後に、それは堂々とドックから進水式を挙げるだろう。こちらは、あなたの要求に応じて、生産者が設計したものだ。これも受注生産のはずである。

実は、受注生産は、その設計行為が注文後の作業に含まれるかどうかで、2種類に分かれるのである。すでに出来上がっている設計にもとづいて、単に確定した需要(=注文)に応じて生産に取りかかるタイプを、「繰返し受注生産」とよぶ。超高級スポーツカーは、これである。

一方、顧客の要求仕様にもとづいて、個別に設計してから作る、豪華客船のようなタイプを、「個別受注生産」と呼ぶ。「個別受注生産」を別名、「受注設計生産」とも呼ぶ。英語ではETO=Engineer to Orderである。プラントなどで用いる圧縮機・冷凍機など産業機械類も、多くはこの種類にあたる。

ちなみに自動車部品や電子材料などは、「繰返し受注生産」である。これらは基本的に顧客指定の仕様品である。日本では、自動車産業や電機産業が製造業の花形だと思われており、そのサプライヤーに位置する部品メーカーが多い。JISが受注生産を「顧客が定めた仕様」と規定したのは、おそらくこの影響ではないだろうか。

そもそも、「生産システム」に関する冒頭の定義を思い出してほしい。インプットとしての需要情報の起点は、必ず顧客なのだ。需要情報には、数量や時期のみならず、「どんな仕様で」も含まれる。これを明確に図面でもらうか、暗黙のうちに自分で企画するか、設計主体の差は、その違いでしかない。

だが、この際だからはっきり言っておくが、日本の場合、自動車部品や電子部品メーカーのほとんどは、需要数量に関しても、確定した受注などもらっていない。あるのは「翌月内示」と「引き取りかんばん」なのである。「かんばん」は一種の分納の仕組みであって、発注書ではない。内示の数字と引取量の合計は、一致する保証など無い。だから、自動車部品メーカーというのは、「顧客の定める仕様の製品」を「需要を見込んで」製造し、うっかり作りすぎてしまった分は在庫として自ら抱えるしかない立場なのだ。作ったものは特定顧客用だから、転売もきかない。これを「受注生産」と呼ぶべきなのかどうか、多少疑問さえ感じる。これこそが生産管理思想の混乱の原因なのだ。

それでも、顧客指定品の「繰返し受注生産」の場合、需要はかなり見込みが立つ。そこで、生産者側も材料手配などの準備が事前にできる。したがって「繰返し受注生産」では、部品原材料の形で引当て在庫を多少持ち、需要に応じて製造する形態になる。見込生産のように、製品在庫を持つ必要が無い分だけ、過剰在庫のリスクは少ない。ただ、受注から納入までのリードタイムの中に加工組立の製造が入るため、少し納期が長くなる。

「個別受注生産」では、設計自体が事前に済んでいないのだから、もはや在庫は持ちようがない。注文を受けてから魚を釣りに行く、気の長い料理屋の状態である。在庫リスクは最小だが、納入リードタイムは最大となる。

そして、工場を計画する時は、どこにどのような量と種類のストックを置くのかが、非常に大きなポイントとなる。だから、これまでくどくどと、サプライチェーンや在庫や生産形態の話をしてきたのである。

ところで、「見込生産」「繰返し受注生産」「個別受注生産」は、在庫リスクと納入リードタイムのトレードオフ関係が成立していることが分かる。では、ちょうどいいバランス点はないのか、という疑問も出てくるだろう。これに対する一つの答えが、まだ説明していない4番目の生産形態=「受注組立生産」なのである。だが、また例によって長くなりすぎた。「受注組立生産」についてはまた別の機会に取り上げることにしたい。


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工場計画論(5) BTOと製品アーキテクチャー (2010/03/14)

前回は生産形態の区分として、「見込生産」(MTS)、「繰返し受注生産」(MTO)、「個別受注生産」(ETO)の3種類について説明した。この3種類を比べると、在庫リスクと納入リードタイムのトレードオフ関係が成立していることが分かる。見込生産は納入リードタイムは最短となるが、在庫リスク(売れ残りや陳腐化のリスク)は最も大きい。その対極にあるのが個別受注生産で、製品在庫は無いし原料在庫も(ほぼ)不要だが、そのかわり受注から出荷までのリードタイムは最長となる。

では、ちょうどいいバランス点はないのか、という疑問に対する一つの答えとなるのが、第4の生産形態=「受注組立生産」である。受注組立生産とは、部品をそろえておいて、客先からの注文が入ると、すぐに組み立てて出荷する生産形態を指す。それって繰返し受注生産とどこが違うんだ、と疑問に思われるかもしれない。違いは、二つある。

第一に、受注組立生産では、サブモジュールないし加工組立を終えたサブアッセンブリの形で、在庫を持っておく。だから注文を受けたら、最終組立工程だけ済ませて、すぐに出荷できる(たいていは1日以内)。一方、繰返し受注生産の場合は、注文を受けてからキーとなる部品の引当手配をかける。サプライヤーからの調達リードタイムが加わるため、どうしても全体リードタイムが長くなる。かりに原材料及びローレベルの部品はすべて常備品として在庫しておいたとしても、加工・組立工程が入るため、やはりリードタイムは受注組立生産よりも長くなってしまう。

この違いはちょうど、昔からの鰻屋と、現代風の食堂のようなものだ。古風な鰻屋は、客の注文をきいてから、鰻をさばきはじめる。それから串をうって、蒸して、焼いて、タレをつけて、丼やお重に盛って、と工程が続く。注文してから出てくるまで3, 40分かかるのが普通だから、客はその間、つきだしと小料理か何かで酒を飲みながら待っている。とおろが現代の客はそんなに悠長ではない。したがって、鰻丼のメニューを出す食堂では、先にさばいて白蒸しにする工程まで済ませ、在庫しておくのである。注文が来たらタレ焼きにして盛付けて、すぐ「お待ちっ」と出せる。この現代風のやり方こそ、『受注組立生産』なのである。

受注組立生産を英語では普通、Assemble to Order=ATOと呼ぶ。受注組立生産は、在庫リスクをある程度抑えながら、短い納入リードタイムを実現できる。Dell Computer社は、このやり方を同社のネット直販方式と組合せ、受注当日出荷・翌日配送(地域によるが)を売り物にして大いに市場シェアを取った。Dell社がこのやり方を、あえてBuild to Order=BTOと呼んで違いを強調したこともあって、今日ではBTOという用語の方が広く普及しているようだ。

先日の「工場見学ほど面白いものはない − K歯車工業に学ぶ」で紹介したK社も、標準歯車に若干の追加工を施した『追加工品』を収益の一つの柱としている。標準歯車は、工場で見込生産して、常時ストックを数千種類持っている。そして、客先からのオーダーにしたがってボスだとか穴あけだとかの追加工を行い、当日出荷する。この「受注当日出荷」の能力を競争力の源泉として守るために、あえてトヨタ系のやり方に固執するJITコンサルタントと喧嘩してでも、受注時間帯の制限を設けなかったというエピソードこそ、BTO方式の価値を象徴している。

現代風の食堂のみならず、カウンター式の鮨屋やラーメン屋の屋台なども、みなBTO方式である。つまりBTOは、「一人屋台生産方式」と非常に親和性が高いのだ。

むろん、古風な鰻屋の場合でも、生きた鰻という原材料だけは、ストックしている。注文を聞いてから、おもむろに川に釣りに行く鰻屋はいない。そういう点では、繰返し受注生産と受注組立生産の違いは、どの段階の部品材料をストックするかの違いとも見える。

そもそも原材料から製品までのサプライチェーンを考えた場合、たとえば鉄鉱石からはじまって、それが銑鉄になり鋼板になり、裁断・折り加工を経て板金の部品になり、さらにそれが組み立てられてパソコンのボディとなり・・という長い連鎖を持つ。このサプライチェーンのうち、最上流は必ず見込生産で進められる(それがたとえば鉄鉱石の採掘である)。一方、最下流は、マーケット・インとマス・カスタマイゼーションが主流の今日、ほぼ確実に受注生産となっている。この、見込(プッシュ型)と受注(プル型)の接合点が、すなわちその部品の最大の在庫ポイントとなる。この点を、「カップリング・ポイント」と呼ぶ(日立製作所の光國氏の命名による)。

だから、古風な鰻屋(繰返し受注生産)と現代風の食堂(受注組立生産)との相違点は、単にカップリング・ポイントの違いだけのように思えるかもしれない。ところが、そうではないのである。なぜなら、両者では、蒲焼きのが違うからだ。

いや、これは冗談で言っているのでは無いのである。鰻は白蒸しにして置いておくと、時間が経つうちに、風味も歯ごたえも抜けていってしまう。だから、味で比べたら、古風な鰻屋の方が普通はずっと美味しい。

つまり、在庫という行為は、それ自体にいろいろな制約があるのである。だから、繰返し受注生産の在庫ポイントだけ移動すれば、すぐBTOに移行できるかというと、そうはいかないのである。BTOを実現するためには、組立すべきサブモジュールが、在庫可能で、簡単には劣化せず、ひどく場所ふさぎでもなく、かつ種類が無制限に増えない保証がなければならない。

とくに最後の条件は重要である。たとえば、工業用の熱交換器を考えてみてほしい。圧力も、流量も、使用条件も、流体の温度や腐食性も、非常にバラエティに富んでいる。組合せの数をちょっと考えてみても、かるく百万種くらいはいきそうだ。大きさも伝熱能力によって千差万別、数十cmから数十mまでありえよう。そのための主要部品を全部そろえて在庫しておけるか? とうてい無理である。

熱交換器のような種類の製品では、主要な仕様のバリエーションを、限られたモジュールの組合せだけではうまく表現できない。パソコン製造でできることが、熱交換器の製造ではできない。これは、パソコンという製品の設計思想が、そもそもモジュラー化した機能部品の組合せとして出来上がっているから可能なのである。

製品の設計を、比較的少数の単機能型のモジュールの組合せで表現しようという考え方を、『モジュラー型の製品アーキテクチャー』と呼ぶ。これに対して、個別部品の細かなバリエーションの組合せによって表現する考え方を、『インテグラル型の製品アーキテクチャー』と呼ぶ(インテグラルを日本語では「すり合わせ」ともいう)。BTOは明らかに、モジュラー型アーキテクチャーを要求するのである。もし、ある製品をBTO生産形態で作りたければ、その製品アーキテクチャーから考え直さなければならない。これが、繰返し受注生産とBTO(受注組立生産)の第二の、そして一番重要な相違点なのだ。

BTOの工場と、繰返し受注生産の工場とでは、レイアウトがかなり異なる。それは、部品在庫の量や種類や工程の数が違う以上、当然のことだ。“部品表(BOM)を見れば、工場を見なくても、そのレイアウトがだいたい分かる”と拙著「BOM/部品表入門 」に書いたのは、このような理由による。もちろん、BOMを見れば、リードタイムもだいたい想像がつく。

より良い工場を計画するためには、製品アーキテクチャーすなわち製品の設計思想まで立ち返って、再検討する必要がある。意外かもしれないが、これが生産システムにおける真実なのだ。だからこそ、設計と生産技術と製造の各部門の間に、お互いに十分な対話が成立するような、闊達な社内マネジメントが大事なのである。

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工場計画論(6) ディスクリートとプロセス−−製造業の分類学 (2010/06/22)

何年も前のことになるが、電子調達のサイトの仕事をしていたときに気づいたことがある。それは、「物品が先か、仕様が先か」という問題だ。ちょっと抽象的で、分かりにくい問題設定だとは思う。というのは、まずモノが現実の中に存在していて、それに属性がある、という風に、たいていの生産管理や販売管理のシステムでは考えている。そして、それを表現するために、「品目マスタ」とか「マテリアル・マスタ」という技術データ管理のマスタファイル(データベース)を実装しているのが普通だからだ。

ところが、いざ調達管理の分野に関わってみると、奇妙なことに気づく。いわゆる電子商取引のためのサイト(Amazon.comみたいな)には、電子カタログの機能が必須である。カタログを開けて、消費者がほしい商品を注文する、みたいな仕組みだ。ところが、こうした仕組みは、本だとか家電製品、化粧品だとかいった見込生産の消費財には、まあ適しているが、生産財の世界に踏み込むと、とたんにうまくいかなくなるのだ。

たとえば、コンデンサだとかフランジだとかいった、工業規格で決まっている汎用品は、まだしも製品カタログの仕組みに載せることができる。ただしカタログ数がやたら膨大になるきらいはある(『工場見学ほど面白いものはない − K歯車工業に学ぶ 』参照のこと)。しかし、これがケーブルだとかシートだとかいった「切り売り」する材料の場合、さらに工業用ガスや燃料油といった液状製品になると、次第に始末に負えなくなる。こうした製品は、三つのやっかいな特性を持っている。第一に、規格がブロードで、特性にいろいろな幅があること。第二に、異なる製品を簡単に混合できてしまうこと。そして第三に、購入量によってボトルやボンベといった荷姿が変わることだ。

生産財の調達はB2B(Business to Business=企業対企業)取引で行われる。多くの場合は、ユーザすなわち購入者が、細かな仕様(特性上の要求事項、たとえば純度だの発火点だの粘性など)を指定する。つまり、同じような品目に見えても、顧客の用途によっては適合したりしなかったりして区別が必要になるのである。それでは、性状の異なる製品をタンクの中でまぜちゃったらどうなるのか? おまけに、(ミネラルウォーターを見れば分かるように)1リットルと5リットルでは、まったく別の容器に入っている。これらは、同じ製品なのか、別の製品なのか? もし「同じ」だとしたら、“じゃあ今日は12リットル持ってきてくれ”と注文を受けたとき、どう引当するのか? もし「違う」ならば、“5リットルが在庫にないときは、たとえ1リットルが5本あっても、欠品状態になる”という状況が出現しないか? 

こうした問題を解決するためには、頭の中を切り替える必要がある。売り手の作った「製品のカタログ」があるのではなくて、買い手のほしい「仕様のカタログ」があるのだ、という発想をすべきなのだ。このことに気づいたとき、はじめて私は、ディスクリート系のマテリアル・マネジメントと、プロセス系のそれに、根本的な違いがあるのを理解したのである。

工場を分類する方法はいくつかあるが、その代表的な区分の一つが、「ディスクリート型」と「プロセス型」である。ディスクリート型とは、自動車工場や電子製品工場など、いわゆる組立加工型の工場である。プロセス型とは、化学プラントとか製油所といった、反応と合成を主体とする工場である。だが、その両者の最大の違いは何かというと、非常に単純なこと、すなわち「扱う主要な原材料・製品が固体か流体か」にある。固体ならば、ディスクリート、流体ならばプロセス型になる。

固体と液体なんて相対的なものじゃないか、液も冷やせば固体になるんだし−−そう思う人もいるだろう。だが、固体になったら混ざらないのだ。混ざらないということは、属性が固定されるということである。赤ワインと水を混ぜれば、その比率によって透明から赤まで、連続的に好きな色がすぐに作れる。何かマテリアルの種類を特定したければ、その色によって特定するしかない。つまり、固体は「モノに仕様が付属する」のに対し、流体は「仕様がモノを特定する」のである。

ほかにも、固体と流体とでは、ハンドリング上、異なる点がいろいろある。
(1)ロットサイズ: 固体ではほぼ決まっているが、流体では決め方は無数に可能
(2)中間在庫: 固体はいつでもストック可能だが、流体はタンク等の特殊設備が必要
(3)製造装置の連続運転:固体では稼働・休止は自由(モノを自由に置けるため)だが、流体では連続運転が原則(止めるにはパイプの中の流体も全部どこかにはき出す必要がある)
(4)搬送設備:固体ではAGV等、複雑だが必須ではないのにたいし、流体は配管+ポンプで輸送するため、単純だが必須になる

こうした性質は、工場のプランニング、レイアウト、在庫計画、入出荷計画、生産計画とスケジューリングなど、さまざまの面で根本的な差違を生む。簡単に言うなら、プロセス型の工場は、機械装置間が密結合されているシステムになっている。Aという工程から運び出された流体は、(そこらへんに積んでおく訳にはいかないから)すぐさま下流工程のBに、配管とポンプで輸送する必要がある。両者は、別々に運転するわけにはいかない。だから、制御も集中型になる。

これに対して、ディスクリート型工場は、粗結合のシステムと言えるだろう。加工機械をフロアにぽんぽんと適当に配置しても、それなりに工場としては機能する。なぜなら、A工程で生み出された仕掛品は、すぐB工程に持ち込まずとも、そこらへんに好きに積んでおくことが可能だからだ。

このような特性の違いは、すなわち工場設計論の違いをも生んでいる。プロセス型の工場では、全体が統合されたシステムであるから、システム・エンジニアが基本設計を行う(正確に言うと、プロセス・システム・エンジニアという職種がある)。そして、最初から最適化を念頭において設計していく。これに対して、私がこれまで見聞きした範囲では、ディスクリート型の工場は、システム・エンジニアという職種自体が確立しておらず(IT技術者とは別)、個別の工程が局所最適風につくられてしまう傾向が強いように感じられた。

さて、幸か不幸か、日本の製造業の花形業界(自動車・電機とその周辺)はディスクリート型である。そのためか、日本の工場を見ると、どうも局所最適・粗結合、つまりあちこちにアンバランスと無駄のある設計に気づくことが多い。あそことか、こことかを改善すれば、5%くらいは生産性が上がるだろうになあ、と傍目では思うのだが、ご当人達はベストの努力を尽くしていると信じている(局所最適型のエンジニアはだいたい、そうなりがちである)。

企業では5%生産性が上がったら(あるいは原価が下がったら)、かなり劇的に収益が向上するものだ。せっかくのそのチャンスを、活かせず無駄にするのは惜しいことである。だからといって、ディスクリート型の工場をプロセス型に転換するわけにはいかない(工場の構造は、主要工程の科学技術的制約によって決まるからだ)。でも、せめて、密構造の全体システム設計の視点を持ってほしいものだと、常日頃感じているのである。

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哀しい工場。 (工場計画論・番外編) (2012/03/18)

もう何年か前のことになるが、金融機関系の経営コンサルタントの知人から依頼されて、小さな工場を見に行ったことがある。知人は経営面の数字を見て提案の骨子を作ろうとしていたが、製造現場にもいろいろ問題がありそうだと感じたらしい。ただ化学系の工場は不得意なので、プラントもよく知っているわたしに手伝ってほしい、とのことだった。年商数十億の小規模工場なので、わが勤務先の仕事につながる可能性は少ないかとも思ったが、出かけていった。

住宅地にほど近い県道沿いに、その工場はあった。敷地内に数棟の工場建屋がたっている。その一棟の中にある事務室にわたし達は通された。副工場長や製造課の方々から、まずどんな製品を作っているのか、どんな工程から製造されるかの概要を教えてもらい、それから工場を一巡りする。これはどこの工場を見学する際も同じである。ただ、そのときの「一巡り」の順路が、最初のポイントになる。工場全体の分かりやすい配置図があって、工程の順番どおりに見せられるかどうか。複数の製品ファミリーがある場合(日本の製造業はどこも多品種少量生産を強いられるため、たいていそうなる)、製品別にブロック化されているのか、それとも設備・工程別か。また上下階はどう使い分けるか。こうした点に、生産マネジメントの設計思想が現れるからだ。

残念ながら、この工場の設備配置はばらばらで、製造の動線があちこちで交錯していた。土地代の高い日本の工場はどこも、多層階の建物の中に設備・装置をおしこめなくてはならない。前にも書いたが化学工場は工程間が密結合で、配管がメインの輸送手段だから、装置のレイアウトが経済性に大きく響く。だがここはたぶん、業容拡大期になりゆきで建物を増設し、製品種類の拡大とともに装置を入れやすい場所に据え付けた、という感じだ。しかしもっと驚いたのは、製造作業環境だった。製品性状にきびしいはずのファイン・ケミカル材料を、蓋のない攪拌槽の中で作っている。しかも部屋を気密にし空調をコントロールしている訳でもないので、窓から埃が飛びこんできてもおかしくない。品質問題はありませんか、と聞くと、「それが悩みなんです」との答えがかえってきた。

品質もさることながら、労働安全面も相当なものだった。無機化学で、個体や粉体、強酸などを扱う工場なのに、作業台の高さと搬送台車の高さが合っていない。人がかがんで手で持ち上げている。あれでは腰が辛そうだし、こぼす危険性だってある。中でも一番驚いたのは、強酸性流体の配管が、人の行き来する場所の真上を、ろくな支持もトレーもなしに通っていたことである。配管材の摩耗で中身がリークしたらどうするのか? 今どき、21世紀の日本にこんな工場がまだあるなんて信じられない。見学を終えて事務室に戻ったとき、思わずため息をついてしまった。

まあ、建物の配置自体は変えようがないにしても、物流動線を整理し、空調もきちんとし、適切な装置や治具を考案すれば、多少時間はかかるだろうが、おそらく生産性は10%近く上がるにちがいない。比例して製造コストも下がり、利益もまた出てくるだろう。化学会社出身の、自営コンサルタントの先輩を紹介して、少し地道にやってもらうことにしようか。そう考えて、見学後の質疑応答にのぞんだ。

製品種類や需要の動向、従業員数などの話がすんで、わたしに順番が回ってきたとき、いつもの質問をした。「代表的な製品の製造リードタイムを教えてください。それと、原材料・中間品・製品の在庫量はそれぞれどれくらいありますか?」

いうまでもないことだが、製造リードタイムと在庫量は表裏の関係にある。受注生産の会社では(この企業のように下請の中小はほぼ全て繰返し受注生産型である)、顧客がリーズナブルな納期を与えてくれる限り、基本的に製品在庫はゼロになる。『リーズナブル』とは、製造リードタイムよりも長い納期、との意味だ。仕込みから仕上げまで1週間かかる製品を、電話で「明日持ってこい」という顧客ばかりが相手なら、最低でも1週分の製品在庫を持たなければ、商売はやっていかれない。では、納期を1週間くれる顧客ばかりなら在庫ゼロになるかというと、そうではない。多品種を切り替えて作っている場合は、注文が来ても装置が空いていないことも多いからだ。でも、1週間で製造できる製品の在庫が、2ヶ月分も3ヶ月分もあるとしたら、何かがおかしいことになる(たぶんロットサイズが大きすぎるのだ)。

また原材料在庫について言えば、原材料の手配から納入までのリードタイム分は、常備しておくのが基本である(そうしなければ途中で品切れが生じる)。ただ、たまにしか使わず、納入が早い原材料は常備せずに都度の手配で良い。何を常備し、何を都度手配にするか。原料でおいておくのか途中まで加工して中間品としておくのか。ロットサイズをどうするのか。こうした事項には、需要(販売)の『読み』と生産の『決断』が必要になる。つまり、ちょっと大げさに思われるかもしれないが、リードタイムと在庫量を質問することは、生産マネジメントの基本方針を問う事なのである。

ところで、この会社の回答は、「在庫量と原料価格についてはお答えできません」だった。それは親会社からの指示らしかった。親会社は専門商社で、できた製品の営業・販売もうけもっている。ここは製造子会社で、言われたモノだけを言われたとおり作っているのだ。そればかりではなく、重要な原材料(貴金属の一種)の購買も親会社が取りしきっているらしい。相場商品だから秘密、という訳なのだろう。

しかし、原価構成が大まかにでも分からなくては、コンサルティングはやりようがない。コンサルティングとはつまり、問題解決の手伝いであり、問題の優先順位の整理だからだ。本案件は結局、仕事にはならなかった。

いっぱんに日本の製造業の苦境を批判する人は、まず経営者の資質を問題にすることが多い。つまり、"Who"の問題である。それから、魅力ある製品を開発できないことを指摘する。"What"の問題である。しかし、わたしには、あの実直そうな副工場長の人材の問題だとは思えなかった。あの人は、親会社から派遣されたトップの指示どおり動いているだけだ。同時に、この会社はそれなりにファイン製品を開発している。技術開発部門には、大卒の良い人材を一応つぎ込んでいるのだろう。WhoやWhatの問題ではない。日本の製造業への主な批判は、あとは立地つまり"Where"の問題だろうか。こんなに円高では海外に出るしかないはず、と。でも、この会社の顧客はすべて国内であり、安い輸入品と競争させられているのでもない。

Who(経営者)もWhat(新製品)もWhere(立地)も、かなりマクロな問題である。しかし、たいていの工場の中核問題は、生産マネジメントというミッド・スケールにある(『製造業の問題はミッドスケールのシステムで生じる』参照)。それは、ものをどう作るかという"How"の問題である。どう作るかと言っても、製造手順やレシピのことを指しているのではない。どう需要を予測し、何をどれだけ手配し、いつ、どれくらいのロットサイズで作り、どこにどうやって運び保管するのか、という問題だ。このHowの上手下手だけで、原価は5%くらい変わるだろう。何よりも、Volatileな需要の変動に対する追随性や安定性が向上する。ただなりゆきでモノを作っていても製造業は一応なりたつが、外部環境が変化したらひとたまりもない。

ただ、こうしたミッド・スケールの能力は、直接は見えにくく、測りにくい。それは最終結果として、リードタイムや在庫量、あるいは労働災害統計や離職率といった数値にあらわれてくるのみである。工場を見学するとき、これら数値が大事なのはそのためだ。

昨年の震災の時、この工場は大丈夫だったのだろうか。働いている人たちの頭の上から危険な液体が降り注いだりしなかっただろうか? 操業停止するような大きなダメージは受けなかっただろうか。働いている人たちはみな、真面目そうな方ばかりだった。危険な職場とはいえ、急に仕事がなくなったらもっと困るだろう。わたしが他所でこんな心配をしても、何の役にも立たないことは知っている。しかし、経営する母体が、「新製品」や「相場」や「リーダーの人材」だけが利益の源泉であると信じている企業なら、そこが工場であろうとなかろうと、じつは誰もが同じ問題に直面しているのである。

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生産計画と生産スケジューリング

生産管理とはどういう仕事か

初めて会社に入って、配属の辞令をもらったときのことは、よく憶えている。ぼくらの会社では、新入社員は最初しばらく、本社で集合研修の日々が続く。皆で役員や先輩の話をきいたり、グループで討論したり、富士山の麓まで合宿に行ったり、工場見学に行ったり(エンジニアリング会社というのは工場作りが仕事のくせに、自分では工場を持たない)・・その間、みな自分がどの部署に配属になるのかは聞かされないのだ。それが一月近く続いた連休前のある日、初めて辞令の紙をもらい、所属の部署に挨拶に行く。

さて、自分の席に座って、与えられたのは仕事ではなく、問題だった。紙にきれいにプリントされた英文の問題が、図表もついて数十ページ。内容は、石油精製工場、つまり製油所の生産計画を立案する問題だった。ここで生まれてはじめて、生産計画という仕事に触れたのだ。

なぜ自分では工場を持たない会社のエンジニアが、生産計画を考えるのか。それは、工場の生産性を最大化するための必須の要素だからだ。工場は、原料を流し込んで、ボタンを押せば自動的に製品が出てくる場所とはちがう。製品の種類は何十とある。原料(原油)はじつは産地により性状が一定ではない。おまけに連産品といって、ガソリンもLPGもジェット燃料も、同時に一緒にできてしまう。マグロをバラしたらトロだけでなく赤身もカマもみんなとれてしまうようなものだ。どれか一種類だけ、つくると言うことができない(その比率はある範囲内でかえることができる)。だが、かえるためには装置の容量やランニング・コストも変わる。こうして、生産計画はいつのまにかひどく難しい問題になる。

その問題はうんうん唸りながら、二週間かけてやっと解いた。手計算だが線形計画法(LP)の手法も使う必要があった。制約条件がきつくて、実行可能な解を得るのが至難の業に思えた。しかし、おかげで、生産というものの構造がすっかり頭に入った。目的も、条件も、制約も。つまり、先輩たちが意図したとおりの教育効果があったわけだ。

生産管理とは、工場の生産性を最大化する活動のことだ。ところで、『生産性』とは何だろうか? この問題は、案外正しく答えられる人が少ない。こういう点が企業の不思議なところだ。目的が与えられているのに、その目的の正確な意味をよく知らないまま動いている。しかし、いわゆる経営工学やマネジメント理論では、生産性は単純・明快な定義が与えられている。それは、こういう式だ。

    [産出量]
生産性=--------
    [投入量]

    
実に単純である。ただし、どこにでも当てはまるよう一般化されすぎていて、生産の現場では誤解を生みやすい。

一番ありがちな誤解は、産出量は生産数量で、投入量は原材料数量である、という誤解だ。あるいは、産出量は生産金額、投入量は原価、という誤解もある。前者は、収率ないし歩留とよばれる量だし、後者は売上高原価率(の逆数)にすぎない。

正しい定義は、こうである:

    [付加価値額] [売上高−外部購入費用]
生産性=------------=----------------------
    [投入労働量]   [投入労働量]

これを正確には付加価値生産性と呼ぶ。分母の労働量は、従来は従業員数で示すのが通例だったが、最近はパートタイム・派遣工や工場内外注や偽装請負などがあって、正確な指標ではなくなってしまった。そこで、直接労働時間をとることもしばしば行われる。

付加価値とは、購入してきた材料を変形・加工・組立することによって生まれる。これを製造の直接作業とよぶ。生産管理の仕事とは、すなわち、直接工の人たちが、いかに無駄なく、効率よく仕事できるかをお膳立てし、サポートする仕事である。そのために、何をどの順序で作るかをきめ、それにしたがって材料や部品や機械や治具を供給し、作業の依頼を出し、トラブルがおきたらすばやく解決する。これが生産管理だ。

生産管理を「生産のマネジメント」だととらえると、なんだか偉そうな、立派そうな仕事に聞こえる。製造現場に命令・采配するような印象がある。それは誤解である。生産管理とは、高校の運動部のマネージャーのような存在だと思った方が良い。主役は、モノに加工を行って付加価値を生じせしめている直接工の人たちである。彼らがプレイヤーなのだ。マネージャーはプレイヤーが気持ちよくプレーできるように、雑用を承る役割である。

そうしたサポート的な役割なのに、なぜ、現場に指示や依頼を出せるのだろうか。なぜ、そもそもそんなサポート役が必要なのだろうか?

理由は二つある。第一に、「生産工場は大きなシステム」だからである。大きなシステムは、どこを押したら、どこがどう加速するのか、あるいは引っ込むのか、簡単ではない。工程・資源・要員・材料・スペースなどの要素が複雑にからみあっている。これをよく知った上で運転する人が必要なのだ。単に材料をどばどばと第一工程につぎ込めば生産性が上がるわけではない。

第二の理由は、第一ともからむが、要素が多くて、頭だけでは考えきれず覚えきれないからだ。だからITなどの道具を使って、何がいくつどこにあって、いつ使われる(使われた)かを計算する必要がある。この職種が分業の結果として生まれたのだ。

生産管理とは、そういう仕事である。あくまで、サポーターであり雑用係とも言える。生産管理部の人間は、付加価値を産出する仕事には実際にはタッチしない。つまり、ある意味では余計なスタッフなのである。しかし、彼らの仕事が、製造現場の生産性を向上させるなら、そこには意義が生ずる。200人の工場に、10人の生産管理部員がいたとして、その努力によって直接労働の生産性が5%以上あがれば、それは必要な仕事なのだ。ただ、それは主役ではないということを忘れてはいけない。

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生産システムの性能を測る

製造業における生産活動をささえる仕組み全体を、私は『生産システム』とよんでいる。生産システムの機能とは、何か。それは「需要情報というインプットを、製品というモノ(あるいは製品に実現された付加価値)に変換してアウトプットする」ことである。そのための副次的なインプットとして、原料・部品と用役・副資材などを利用する。また人員・機械設備・作業空間などは、生産システムを構成するリソースの要素である。さらに計画指示および実績情報の伝達ルートがあり、これらをもとに「判断」する機能がある。これが生産システムの成り立ちだ。

生産システムの中心には、人間系がある。ここが、機械的な仕組みとちがって、一筋縄ではいかないところだ。人間系を中心としたシステムをつくり、運転し、維持する仕事を総括してマネジメントと呼ぶ。人間系のない、機械的なシステムの運転は、たとえそれがジャンボジェットや原子力発電所のように複雑なものであっても、「マネジメント」とはいわない。運転、制御、あるいはコントロールと呼ぶのがふさわしい。

マネジメントの目的とは何だろうか? 世の中の外部環境が安定して変化が少なく、システムが一応のアウトプットを出しているときは、マネジメントの目的はシステムの安定維持だけになる。組織の存続だけが自己目的化する−−これは、多くの硬直化した古い組織に見られることだ。こういう組織では、機能的な見方は、あまりいらない。このシステムは良い性能を発揮しているか、といった疑問は、よけいなことだ。前例と慣習にしたがって動いていればよい−−これを別名、官僚主義ともいう。官僚主義においては、過去の経験をたくさん知っているかが能力のすべてだ。だから、年功序列だけが幅をきかせる。そして、ピーターの法則にしたがって、組織全体が次第に機能不全に陥っていく。

機能不全に陥りかけた生産システムに、外部環境(市場)の急な変化が襲いかかったら、ひとたまりもない。需要情報というインプットに、製品というアウトプットがついていけないのだ。これが10年以上にわたる長い不況の間、日本の製造業が直面した問題だった。技術も人材もあり、立派な製品や資産を持ちながら、多くの企業が苦しんだのは、生産システムのマネジメントという基本的な理解が欠けていたからだ。何かの仕組みをマネージしたかったら、その仕組みの性能を測る尺度を持たなければならない。では、生産システムの性能を測るものとは、いったい何なのか? 製造ラインの能力か? あるいは原価率か、はたまた在庫レベルか?

いずれの答えも、直接にはNOである。こうした問に答えるには、一度問題を抽象化してとらえる必要がある。この抽象化というのが、多くの日本の企業人には苦手らしい。だが技術屋にとって、問題解決の一番のヒントは、『抽象化』と『類推』だ。管理技術もその例外ではない。

システムの性能を測る尺度として最低必要なものは、三つある。有効性と、効率性と、安定性の三つである。それは、自動車のような仕組みを考えてみればわかる。思った方向に早く進めるか(有効性)、燃費よく走れるか(効率性)、そしてすぐに揺れたりこわれたりしないか(安定性)、の三つだ。これらのどれか一つでも満たさないものは、自動車として実用の役に立たない(飾っておくだけの趣味なら別だが)。それでは、これらを生産システムに適用すると、どのような尺度になるだろうか。

有効性(Effectivieness)とは、あるべき方向に向かっているか、また向きをすぐに変えられるか、を示す。これは、生産システムにおいては、需要にたいして供給が数量・タイミングともにうまく一致しているかどうか、に相当する。これは、横軸に時間を取り、縦軸に製品数量(累積値)をとって、需要と供給のグラフを書いてみたときに、需要カーブと供給カーブが極力一致することをしめしている。供給カーブが需要を大きく上回れば、それは在庫過剰(作りすぎ)を意味する。供給カーブが需要を下回れば、それは納期遅れ(欠品)を意味する。両者が常に一致していることが、理想だ。二つのカーブの差は、それを数量軸で見れば、在庫量になるし、時間軸で見れば、リードタイムになる。

したがって、リードタイムの短さが第一の指標:有効性の尺度だといっていい。

効率性(Efficiency)とは、燃費の良さを示す。これはすなわち、投入量(リソースの消費量)に対する産出量の比率を表すといってもいい。生産システムの主要な投入リソースは人間であり、主要なアウトプットは、製品の付加価値(販売価格マイナス外部購入費)である。つまり、いわゆる「付加価値生産性」が効率性の指標になることがわかる。もっとも、生産システムに機械設備の占める割合が高い業界(よく「装置産業」などと呼ばれる)の場合は、投入リソース量を補正するために、「労働装備率」を同時に参照すべき場合も多い。

さて、三番目の指標が安定性(Stability)、あるいは別名頑健性(Robustness)だが、これは生産システムの何に相当するのだろうか。工場の機械設備がこわれないことか? −−たしかに、それも必要なことだろう(とくに、この頃のように保全活動が軽視されている時代には)。

しかし、もっとずっと大事なことがある。生産システムの中核をなすのは人間、それも直接作業に従事する、ふつう「労働者」と十把一絡げにされる人間達である。この人達が、安心して快く働き続けられなかったら、生産システムなどすぐにバラバラになる。人間を交換可能な部品としてしか見ない“モダンな管理思想”が幅をきかす今日、人が最低限のよろこびを持って働けるようサポートすることが肝要だ、などと主張したら時代遅れ扱いされかねない。しかし、私はあえてここで書いておきたい。人はパンのみに生きるにあらず(「コンサルタントの日誌から」2002/02/08)、である。生産システムの頑健性とは、その職場の事故率や離職率の逆数で測られねばならない。

そして、この生産システムの頑健性は、有効性や効率性とは相反する、トレードオフの関係にあるのだ。有効性や効率性は、短期的に上げることも一応可能だ。だが、そのような方策は頑健性を長期的には損なってしまう。だから、マネージャーは、これらの同時の実現とバランスに、細心の注意を払わなければならない。三本脚の鼎は、どれか脚の一本でもひびが入ったら、倒れてしまう。私たちは、立体的な視野の中で、生産というものをとらえる必要があるのである。

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製造業の問題はミッドスケールのシステムで生じる (2011/12/18)

わたしは株はやらない。自社の株ももっていない。内部から見ていると、勤務先の株価は内実を正確に反映しているどころか、ずいぶん奇妙なきっかけで大きく振れたり、いいトピックなのに全然上がらなかったり、実に不可思議である。だから他社の株価だって、ずいぶん実質とは関係のないところで動いているのだろうと想像している。価格が実質と関係の薄いところで上下するものを取引して利をねらう行為は、一種の賭博ないしゲームであろう。もちろん、賭博やゲームがいけないとは言わない。ただ、自分はそうした事柄は上手でないのを知っているから、手を出さないだけだ。

それでも、証券業界のアナリストがわたしの勤務先を評価しているのを読むと、さすがプロだと感心する部分はある。プラント・エンジニアリング会社というのは日本に類例が少なく、しかも、ものづくりや販売力ではなく「プロジェクト・マネジメント」で稼ぐ業態である。普通の人には分かりにくいはずの業態を、市場・競合・リソース・技術などの要素からうまく分析して、それなりに長所や弱点などをつかみ出している。

アナリストの分析でもう一つ気持ちがいい点は、経営者の個人的な資質であまり説明しない事だ。というのも、巷間耳にするサラリーマン達の企業批評は、かなりの部分が経営者批評だからである。歳の若さから学歴や気質、そして頭の毛の量の多寡まで、あれこれが批評のネタになる。あたかも企業の業績はもっぱら、社長個人の資質で決まるかのようだ。たしかに経営者の能力が、組織のパフォーマンスに与える影響は大きい、とわたしも思う。しかしそれで事象を100%説明するのは、関ヶ原の合戦の勝敗を徳川家康と石田三成の性格論だけで説明するようなものではないか、と思う。あるいは日露戦争の勝敗を、ステッセルと乃木希典の性格の違いだけで説明するような。

いや、チームの戦績は指揮官によって決まる、たとえば長く不調だったチームが名監督を得てめざましい成績を上げる例は、スポーツの世界に多いではないか−−そう、反論される向きもあろう。たしかにその通りだ。だが、スポーツの世界では、1チームを構成するメンバー人数はせいぜい数十人程度であることを忘れてはならない。中小企業診断士のベテランの先輩達によると、企業は社員数が200〜300人を超えるところで、質的に変化するという。それ以前は、社長個人がすべてを見渡し、取りしきることができる。ところが300人以上になると、組織と仕組みで動かしていかないと、きちんと機能しなくなるのである。企業組織というのは、そのサイズのあたりに、質量転化の臨界点があるらしい。

サラリーマンの企業批評でもう一つ盛んに取り上げられる論点は、『製品』である。これはたとえば、iPhoneのような魅力的な製品を日本企業がなぜ作れないのか、といった論調に現れる。良い新製品を作れば、業績は必ず上がる−−こうした確信は、メディアを含め広く受け入れられているようだ。わたしのように個別受注ビジネスで生きている人間から見れば、これはあまりにも「大量見込生産」時代の思想に感じられる。わたしの勤務先だけではない、日本にはBtoBの受注生産の会社は数え切れないくらいあるはずだが、世間の論調はもっぱら、家電や自動車といった、“製品”が直接消費者に受け渡されるビジネスに焦点がむけられている。良い新製品が生まれれば、そして良い経営者を得られれば、日本企業は復活する。これがわたし達の聞かされる、国民的信条ないし子守歌であろう。

新製品、経営者−−こうした事柄は、企業の本社レベルで決まる、マクロな論点である。多くの人は、このマクロ的視点から、企業を評価したがる。他方、全く逆の視点から企業業績を捉える人たちもいる。その人達のキーワードは、『現場力』である。現場の組立工程で、作業員が部品を手にとるため横に一歩踏み出すところを、レイアウトを工夫して半歩ですむようにすれば、1個あたり0.3秒の作業時間のムダとりができる。年に30万個を扱うなら、合計25時間分の労賃の原価削減になる。こうしたミクロな努力の積み重ねこそ、製造業の業績を左右する。お金は現場に落ちている。現地現物を見て考えろ。これこそ、現場主義の人たちの信条である。

わたしが見たところ、日本の少なからぬ工場の現場は、たしかにまだまだ改善の余地がある。かりに現場改善の努力を積み重ねて、製造原価を3%下げることができれば、(意外に聞こえるかもしれないが)それは画期的である。というのは、企業の業績というのは、たいてい±5%程度の差で勝敗が決まるからだ。同業他社と3割も4割も価格が違うことは、成熟した産業ではあり得ない。わずかなマージンを取るか取らないかで、受注確度が変わる。そして受注量が変われば、採算点も変わるのだ。事業部にとって、赤字か黒字かは天と地ほどの差がある。その差が実際にはわずかでも、利益-2%と+3%では志気は大違いなのである。

しかし、このサイトの論調を見てこられた読者の方はお気づきだろうが、わたしは現場改善だけが業績の鍵だ、という見方には批判的である。トヨタを真似て、いわゆる“JIT生産”を導入すれば問題解決との楽観論に、わたしは警鐘を鳴らし続けてきた。前提条件の違いを無視して他社を真似れば、別の大きな問題を生むことの方が多い。どうしてそうなるかといえば、ミクロな現場主義者達が見落としている点があるからだ。ただしそれは、マクロな経営者の資質や製品開発力でもない。マクロとミクロの中間スケールにある、組織を動かす生産システムの問題である。

生産システムとは、繰り返し述べたように、「需要情報というインプットを、製品というモノに変換してアウトプットする仕組み」のことである。これは営業-企画-開発-設計-購買-製造-物流といった、企業内の機能の連鎖によって実現される。そのシステムが、一貫したプランの元に、整合性のある動きをして、矛盾は即座に自己解決しながら進むなら、それは「まとも」な生産システムである。そのシステムが、互いに分断されたプランと指標のもと、他とかみ合わない動きをして、問題は抱え込まれ伏流していくなら、それは「普通」の生産システムである。企業というのは面白いことに、「普通」なシステムでも市場が右肩上がりの時には成り立っていく(だから「ダメ」と言わずに「普通」と呼んでいる)。違いが見えてくるのは下り坂になったときだ。「まとも」なシステムの方が、ずっと弾力性が高いからである。

そして、このような中間スケールでのシステムの質は、有価証券報告書や企業の組織図だけを見たって分からない。また、現場の整理整頓レベルだけを見たって分からない。情報とものの流れを丹念に追って、決断がどのポイントでどういう基準でなされるかを分析する必要があるのだ。こうした仕事をするのが、中小企業診断士などの生産系コンサルタントである。もっとも診断士にもいろいろな得意分野があるし、逆に資格がなくても立派なコンサルティング能力を持つ人も多い。

わたし達、中小企業診断協会「生産革新フォーラム」の仲間が、あえてこの時期に『“JIT生産”を卒業するための本』を世に問うたのは、こうしたミッドスケールの問題点があまりにも見過ごされているからであった。人は足腰の筋力だけ鍛えても、スポーツの良いプレイヤーにはなれない。頭だけ良くても、やはり良いプレイヤーにはなれない。五体が機敏に無駄なくちゃんと反応してこそ、いい成果が出せるのだ。日本企業の問題は、マクロでもミクロでもなく、ミッドスケールのシステムで生じているのである。

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計画作業の中心とは

計画の本質は何か−−毎日の仕事として計画立案作業にたずさわっている人でも、あらためてこう問われると、なかなか答えにくいものだ。生産計画をはじめ、販売計画・輸送計画・在庫計画・調達計画・外注委託計画・等々、製造業でつくられる計画の種類は非常に多い。製造業とはまさに「計画だらけ」で動いている業種だとも言える。

そんなの製造業でなくても当たり前じゃないか、無計画・なりゆきまかせでいい商売なんてあるわけない、とお思いだろうか。では、免許の代書屋や消防士や漁師が「本日の業務計画」を立てている姿を想像してみるといい。何となくおかしな気がしないだろうか? もう少しふつうの企業の例をあげるならば、たとえば請負の中小土建屋だったらどうだろう。入札の勝敗が分からない時に、どんな計画を立てられるのか。

むろん、こうした職業の人たちだって、仕事の見通しというものは持っているだろうし、その日その時の道具立てや道筋を考えているだろう。漁師だったら、どの程度の水揚げを達成したいか、そのためにはどういう仕掛けを用意してどこの海を回ればいいか、判断しているはずだ。入札だって、どういう業者と組んで、どんな価格で攻めるべきか考えている。ただし、こうした判断はいわば「目標」の設定と「戦略」の選択であって、「計画」という言葉を使うと、なぜかちぐはぐな感じを受ける。

なぜならば、計画とは、ある程度確実に予見される将来にかんする意志決定だからだ。逆にいうと、変動しやすい外部環境に依存するタイプの仕事、その環境の予測に主軸がおかれるような判断は、「計画」という言葉になじみにくい。天気予報のアナウンサーが、『明日の天気の計画は、晴ときどき曇りです』といったら、誰だって変だと思うだろう。消防士は『明日の計画は火事2件です』とは言うまい。

だとすると、製造業はなぜ「計画だらけ」なのかも分かる。製造業には工場がある。製品を持っている。倉庫と、設備と、工員と、資材業者をかかえている。こうしたもの全ては、天気のように毎日くるくると変わるものではない。つまり、とても先が読みやすいのだ。また、意志決定によって変えられる範囲もおのずから定まっている。予見可能性と、意志決定範囲がバランスしているとき、それは「計画」の名にふさわしいものになる。

計画立案作業の中心には、「予測」と「意志決定」の二つの柱がある。私は「革新的生産スケジューリング入門」の中で、これを表すために、

計画立案=予測+意志決定

という等式風の表現をしてみた。そして、意志決定の範囲(=自由度!)が、予測の変動範囲を凌駕するとき、それは「実行可能な計画」となる。(逆の場合、すなわち予見のぶれが大きすぎて、どんな意志決定でも追いつきそうにないとき、その計画は「絵に描いた餅」になる)。

計画を持たず、環境の変動に対して成り行きで追随するような業務形態は、主体性の乏しい、受動的reactiveなやり方だ。こういった無計画な「成り行き管理」を脱して、計画重視の業務形態にかえていくこと。すなわち、受動的な生産管理から能動的proactiveな生産管理へと移行すること。そのために、計画能力を向上させ、必要ならばAPSなどのツールを導入すること。それが今の製造業に必要なことなのだと、私は信じている。

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生産計画の前にすべきこと

“需要は誰も予測できない”とは、よく聞く言葉だ。もちろん、ある意味では真実であろう。市場においては何が起こるか分からない。ライバル企業が思いもよらぬ新製品を出してきたり、円安で輸入品が安くなったり、法規制が変わったり、消費傾向が別の分野に移ったり、暖冬で思惑がはずれたり、何が起こるか分からない。神様ならぬ身で、需要を予測できると考えるのは思い上がりであろう。たしかにその通りだ。

ここから話の矛先はしばしば、生産計画への疑念や攻撃にうつることが多い。需要などしょせん予測できやしないのだから、計画など立ててどうするのか。それよりも、受注生産を基本とするべきではないか。そして、売れた分だけ補充生産すればよい−−こんな風に、三段論法は続いていく。これが名高い『計画はずし』の論理である。ジャスト・イン・タイム系のコンサルタントが、よくこうした指導をしたがる。

この論法を採用すると、困るのは材料手配である。引取りカンバンで材料をサプライヤーから持ってくるとしても、月次総量の内示は誰が決めるのか。内示無しで「使った分だけ精算」が通用するのは、一部の業種だけであろう。もし原材料費を抑えたければ、あらかじめ購買計画を立てて、きちんと仕入先の平準化を考える必要がある。さもなければ工場倉庫は原料在庫の山であふれてしまう。労務費だって、事前手配ができなければ結局高くつく。

そういう訳で、工場はやはり生産計画を必要とする。この計画は誰が立てるのか? 当然、工場側の誰かだろう。なぜなら、本社営業部門は“需要は誰も予測できない”というテーゼで動いているからだ。もっとも、「需要予測不可能論」のときでも、営業部門は販売目標を立てるかもしれない。たいていの会社では、営業マンは販売ノルマで駆り立てているはずだ。

だとしたら、営業の販売目標を参考にして、工場が生産計画を立てれば良いではないか−−そう考える人もいるだろう。しかし、もしこれが経営管理の試験問題ならば、私はあいにく落第点しかつけられない。なぜか。目標は計画ではないからだ。

目標というものの性質は、大学受験を見れば分かる。第一志望校は目標だろう。しかし、それは達成できるとは限らない。達成できればラッキーなのだ。自分の実力よりも少し上を目指す、これが「目標」の意味なのだ。営業目標も同じで、実力よりも上をねらって設定する。これをストレッチ目標と呼ぶ。

したがって、営業目標どおりに生産計画を立てたら、作りすぎで製品在庫過剰になる。これを知っているから、たいていの工場では、営業目標を自分なりに割り引いて、生産計画を立てる。

そして、これこそ、製造業における諸問題の根元なのだ。なぜなら、同じ会社なのに、営業と生産が違う数字で動いているからだ。片や、今月は140個売ろうと考えている。片や、今月は100個作ればいいと考えている。生産計画は販売目標と違って、ふつうそのとおり実現する。そのとき、実際には120個の注文がとれたら、どうなるのか。20個分の不足と納期遅れは、誰が責任をとるのか。むろん、どちらも責任はとれまい。では140個作ればよかったのか。そのとき、無駄にできた20個の在庫は、誰が責任を持つのか?

どうみても、営業側・生産側いずれかのみの責任ではではない。課題と責任を自覚することは改善の出発点である。責任がないということは、改善もできないということだ。こうして混沌は野放し状態になっていく。

生産側が営業側と数字を共有していなかったら、生産計画など絵に描いた餅だ。今月のこの週は、この数字で行こう。両者でそう合意することが、生産計画の前提なのである。その前提をすっ飛ばしている会社は、あまりにも多い。いやいや、我が社は月次生販会議で確認しています。そう答える会社もあるかもしれぬ。だが、1ヶ月間の計画を変更せずに進められる会社には、まだお目にかかったことがない。追加変更はほぼ毎日、確認は月1回。そんなものを合意と呼べるのか。

製造業のサプライチェーン・マネジメントの最大の問題は、生産と販売がかみ合っていないことだ。その問題は、営業情報を生産側が共有できていないことに発している。生産計画の前にすべきことは、営業情報の共有なのである。では、営業情報の共有とは何か。販売結果の共有ではない。刻一刻と変わりつつある、販売途上の状況の共有だ。では、いかにしてそれが可能となるか。長くなってきたので、この問題は項を改めてまた書こう。

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計画とスケジューリングの区別

「計画=予測+意志決定」だ、と「計画作業の中心とは」で書いた。それでは、その『意志決定』の具体的な中身とは何か。

それは、簡単に言うと、計画対象となる系の目標値を定め、それを実現するような政策変数を、制約条件下で決めることである。え? ちっとも簡単でない? 言いかえると、可能な選択肢の中から、自分が望ましい結果を得られそうな組合せを決めることだ。これを計画における意志決定という。

例を挙げよう。旅行の計画を立てるとしようか。たとえば週末にふらっと札幌に遊びに行きたいと考えたとする(あなたが札幌に住んでいないとしての話だが)。移動手段は何にしようか。自動車、鉄道、飛行機・・可能な手段の中で、「札幌に行く」という目的を達成できるものを選ぶわけだ。制約条件は、たとえば所要時間とか費用とかだろう。そして、鉄道と決めたら、こんどは時刻表と相談して適当な列車を選ぶ。

宿にかんしても同様だ。気安い友人宅があればそれも良し、なければ数あるホテルや宿泊施設の中から適当なものを選ばなくてはならない。そのときも財布の中身という制約条件と相談になる。そして適度な価格帯のリストの中から考えることになる。この、可能な選択肢の幅広さを『自由度』とよぶことを覚えておいてほしい。

列車が決まり、宿が決まると、あとは何を見て回ろうか、という話になる。こうして、次第に旅行のイメージは具体的な、「旅行計画」とよぶにふさわしいものになっていく。可能な選択肢の中から、自分が望ましい結果を得られそうな組合せを決める意志決定を行なったからだ。

この旅行計画において、「移動手段を選ぶ」ことは「週末、札幌に行って遊ぶ」という目的を実現するために、必要な課題の一つである。「宿を決める」も同様だ。このように、目的達成に必要な課題をタスクと呼ぶ。つまり、計画立案という行為においては、目的達成のために必要な「タスクを洗いだす」(英語でいえばIdentify tasks)というサブ問題を、まず最初に考える。

次に、「タスクにリソースをわりあてる」というサブ問題が来る。『札幌まで移動する』というタスクに対するリソースとして、自動車/鉄道/飛行機というリソースの中から、予算の制約の中で適当なものを選んだ。

そして、時刻表を見て列車を選び、出発時刻や到着時刻を決めることは、「タイムテーブルを作成する」に相当する。これがいわゆる狭義の『スケジューリング』問題である。

以上をまとめると、計画立案における意志決定とは、以下の三つのサブ問題を解く作業に他ならない。
(1)必要なタスクを洗いだす(Identify tasks)
(2)タスクにリソースをわりあてる(Assign resources to tasks)
(3)時間表を作成する(Create timetable)

いいかえれば、スケジューリングとは計画立案のサブ問題であることが分かる。

この3ステップは、個人の旅行計画のみならず、プロジェクト計画から生産計画、販売計画、在庫計画などにすべて共通である。

もっとも、計画問題の性質によっては、いずれかのサブ問題が不要なこともある。たとえば野球チームの監督が決める配員計画などは、ポジションという名前のタスクにひとつづつ担当者を振り分けて終わり、である。これには時間表作成のサブ問題がない。また、リソースの選択肢がなければ、リソースわりあての問題がない、などだ。スケジューリングとは、本質的には(3)のステップが不可欠な計画問題を相手にする仕事なのである。

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生産スケジューラ(APS)はERPと併用するべきか (2011/05/30)

最近、二人の方からよく似た質問を、別々の機会にいただいた。内容は、生産管理システムと生産スケジューラの連携についてである。10年前に「革新的生産スケジューリング入門」を上梓し解説した自分としては、なぜ今さらこの質問、と思わないでもない。だが近年、生産管理関係の書籍や情報は、トヨタ生産方式やジャスト・イン・タイム(JIT)流の現場カイゼンの解説が全盛だった。経済ジャーナリズムも、基本的だが地味な生産システム関係の話題はあまり扱わず、マクロな経済不況への嘆きか、ミクロな現場の職人技の賛美を報じたがる。生産システムはマクロとミクロの中間に位置するメゾスケールの問題のため、実務経験のない文系記者達には扱いにくい題材なのだろう。だから、こうした、ある意味でいろいろな製造業に共通する問題が見えなくなっているらしい。

その質問の内容だが、知人のコンサルタントからいただいたのは、「APSはMRPとともに用いられることが一般的だと考えていいか」という問いだった。一方、リードタイム短縮に関するセミナーで受講者の方からいただいたのは、「生産管理でつかえるスケジューラ・ソフトウェアにはどんなものがあるのか」だった。APSAdvanced Planning & Schedulingの略称で、最新型の生産スケジューリング用ソフトウェアを指す。一方、MRPMaterial Requirement Planningの略で(後にはManufacturing Resource Planningという『進化形』に言いかえられる)、従来型の生産管理ソフトウェアの計画系機能を表す。だから、二つの質問はある意味でよく似ていて、「従来型生産管理システムと、最新型生産スケジューラは、どう使い分けるのか、あるいは併用させるのか」という問いである。

最初に答えを言ってしまうと、「両者を上手に連携させるのが賢い使い方です。生産管理システムのMRPの機能を、外付けのAPSで置きかえる形がいいでしょう」となる。いわば、ハイブリッド型の構成で運用するのである。もっとも、片方だけでは運用できないのか、と言われると、むろん可能である(ソフト・ベンダーは皆そう言って売っているはずだ)。でも、多くの業種においては、十分ではない。

この話を理解するためには、まず製造業における情報の流れがどうなっているかを知る必要がある。図1は、わたしが「MES入門」で描いた図を少し修正したものだ。製造業においては基本的に、計画・指示系の情報の流れ(図では上から下へ)と、進捗・実績系の情報(下から上へ)がある。また、計画立案では実績情報を参照するし、現場作業は指示を実績に変える仕事である。したがって製造業では、反時計回りの情報のサイクルによって全体を動かしていることが分かると思う。

さて、図2を見てほしい。大手・中堅企業ではこの10年ほどの間に、ERPパッケージの導入がブームだった。それ以前は汎用機やオフコンでの業務ソフトが主流だったが、今やERPがそれをかなり置きかえている。ERPは“機能のデパート”みたいなソフトで、生産管理モジュールを持っている。そして、その生産管理モジュールの計画系機能の中心はMRPである(そもそも、「ERP」という用語はMRPをヒントにSAP AG社が発明した)。

だからERPさえあれば、生産業務も全部OKです、とベンダーは宣伝してきたが、現実はそう簡単ではない。MRPのロジックは、A型BOM(組立型の部品表)、固定リードタイム、タイムバケット単位の時間刻み、そして無限負荷能力などを基本としている。いいかえると、ディスクリートの組立型業種で、製造リードタイムは比較的長く、かつ工場の生産能力にかなり余裕がある工場をイメージしてできている。MRPの生まれた'60年代の米国ならこれで良かっただろうが、2000年代の日本には到底合わない。そのため、これをもとに現場を動かそうとすると、かなりの手作業ないしアドオンの追加が必要になっている。これが図2である。

この問題は、ERPを使わずに、専用の生産管理パッケージソフトを利用している場合でも、ある程度生じる。その根本原因は、MRPの計算ロジックとデータモデルが不器用で窮屈な点にある。そこで、より柔軟なロジックとデータモデルを備えたAPSを使おう、ということになる。APSは、それこそ今から10年前は米国製の非常に高価なものが主流だったが、今日では日本製のPCで動く軽いパッケージがいろいろ普及している。

MRPの機能は、需要情報から在庫引当てを行い、部品表展開して各工程の期限を計算する機能である。これは通常のAPSはみな持っている。だから、MRP抜きでAPSだけでも動かすことができる。では、「APSを単独で(MRPを使わないで)使用している企業も多い」かというと、答えは「微妙」である。

というのは、APSは通常、部品の調達系機能を持っていない。このため、部品納期がクリティカルとなりやすい場合には、単体では使いにくい。サプライヤーからの納期回答や入荷予定などの情報を別途取り込んでやらなければならないからだ。そういうケースでは、調達系機能をもつ生産管理システムあるいはERPと一緒に使う必要が出てくる。もう一つ、Allocated ATP(生産座席予約)を販売系と共有する場合も、ERPとともに用いることが便利だろう。

したがって、現場への指図(製造オーダー)はAPSから直接出すが、サプライヤーへの購買オーダー(発注書)発行は工場レベルの生産管理システム(あるいはMES=製造実行システム)などを利用する、というハイブリッド型の形態が現実解となってくる。これが図3に描いた仕組みである。なお、製造現場の特性によっては(とくに組立工程が中心の工場では)、別にMESではなくERPの生産管理モジュールをそのまま利用してもいい。図2や図3は、例を挙げただけであって、その企業のニーズと特性にしたがって、最も適した構成にすればいいのである。

そうは言いながらも、ちょっと気になるのは、最近の日本企業には、このようなメゾスケールの観点からシステムのアーキテクチャーを構想できる人が次第に減ってきている点である。組織の分業病が進行して、工場管理者は皆、ミクロな視野の中を生き延びるのに汲々としており、一方、本社の企画部門は分社化や買収など、マクロすぎる話に熱中している。肝心の生産システムに、システム設計者が居なくなる、というような状況でなければいいが、と老婆心ながら心配している今日この頃である。

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コミュニケーション・ツールとしての生産スケジューラ (2008/01/08)

10年以上前に開発して納品した生産計画・スケジューリングシステムを、昨年、再度作り直して顧客におさめた。さすがにサーバ等のインフラが古くなってサポート切れになったことと、業務内容も昔とは変わったことが作り直しの理由だ。同じ生産スケジューラを(部分的には改善したとはいえ)10年もの長きにわたり使い続けていただいた顧客には感謝の言葉もない。

ところで、新しいスケジューラでは、旧い機能を大幅に削ったところと、新規に機能を追加したところがある。削ったのは、主に「最適化」したスケジュールを自動生成する部分だった。つけ加わったのは、計画部門/生産部門と営業部門が生産スケジュールを共有し、相互にその内容を編集し段階的詳細化していく機能だった。昔のバージョンでは、生産計画・スケジューリングシステムは、計画部門の担当者のほんの数人が使うシステムだった。今や大勢のユーザが複数部門からログインして、見たり触ったりしている。

大勢の人間が計画にアクセスできるようになって、スケジュールはより『最適な』ものに近づいたか? それはわからない。より現実的なものに近づいた、とは言えるかもしれない。しかし、そもそも「最適」なスケジュールとは何だろうか。与えられた生産オーダーと製造資源の組合せの中で、リードタイムが短く(=期間あたりの生産額が大きく)、製造原価・物流原価の小さなスケジュール、すなわち一言でいうと、「よりお金の儲かる」計画のことだろうか。それが「最適」といえるのだろうか。

最適とは、可能な解空間の範囲内で、目的関数が極大となる点のことだ。いいかえれば、ある生産スケジュールが最適といえるのは、計画対象範囲の生産オーダーの組が与条件として決められており、かつ目的(評価)関数もゆるぎないときだけである。しかし、この二つの前提は、現実にはどちらもあやしい。生産数量も品種も、急な追加変更でころころ変わる。今日、向こう1月分の完全な計画をつくっても、明日になればあちこちに修正が必要になる。おまけに、生産額ははたして本当に売上に確実になるといえるのか。工場から出荷しても、流通在庫を積み増しているだけなのではないか。さらに納期遅れが生じたら、売りそこないの機会損失はどう金額評価するのか。釣りのがした魚の重量測定法を発明した人は、いまだにいない。

こう考えると、最適スケジュールというのは、ある理想状態にのみ存在しうるものだとわかる。それは需要(ないし受注)が確定していて、追加も変更もない仮想的世界である。だから私は以前からずっと、生産スケジューラは最適スケジュール作成の道具ではないと主張してきた。そんなものを営業部門は許さないからだ。

それでは、スケジューラは何のためにあるのか? それは、今述べたことの逆を考えるとわかる。需要が確実にわかっていないとしたら、それを推測するために仮説が必要である。そして、多くの企業では、この仮説が部門ごとにバラバラで、だれも明確に口にも出さず、誰も調整しない。おまけに、納期最優先か、生産効率優先かで、目的関数(戦略)までくいちがう。その結果は? むろん、在庫過剰と欠品の山である。なぜなら営業の販売予測と工場の生産予定と物流の手配見込がずれているからだ。

だとしたら、関係部門がみなで、仮説共有できると素晴らしいだろうと考えられる。生産スケジュールと、その結果としての品目別需給表を見て、互いの見方を調整できる。最新のスケジュールが見えれば、納期回答も素早く正確になる。納期が正確になれば、顧客からの内示や注文もブレが減るし、販売額自体も増えるだろう。良循環が期待できよう。

生産スケジューラは、情報共有の道具なのである。どういう情報かというと、品目別生産量や着手完了日時だけではない、そのもとにある需要に関する仮説、実行のための評価尺度(戦略)を互いに確認し了解するための、道具である。つまり、コミュニケーション・ツールなのだ。ネットワークがこれだけ発達した現在、10年前や20年前のスタンドアローン型の視点で生産スケジューリング問題をみてはいけない。これが昨年私の学びなおした教訓である。

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ディスパッチング、シーケンシング、スケジューリング

「ディスパッチング」と「シーケンシング」は、『スケジューリング』の類義語であり、いわば兄弟の概念である。そして、しばしば混同して使用されている。スケジューリングという用語自体、計算機のOS制御からスポーツ大会の競技組合せ問題まで、かなり広い分野で使われている言葉であるが、ここでは生産スケジューリングの領域に限って解説しよう。

ディスパッチ(Dispatch)という語は、もともと誰かを派遣する、何かを送り出す、という意味である。技術者を現場にディスパッチする、という風につかう。生産管理の世界では、これを転じて、具体的な作業の指示を現場に送り出す、という行為をディスパッチと呼ぶようになった。その日にやらなければいけない作業をリストアップし、それを各作業員に対して、順番を定めつつ、指示していく。これがディスパッチングである。

日本の工場では、「差立」(さしたて)を使っているところが多い。差立とは、手紙を入れる状差しや棚のようなもので、それを縦横に複数並べて工場の壁にとりつけたものである。機械や作業区ごとに、それぞれの箱が定められている。たとえば「旋盤1」「旋盤2」、「プレス工程」「表面加工工程」・・といった風に。ときには、機械別ではなく作業員の名前が付けられている場合もある。

工程管理をしているチーフや班長は、その日の作業指示書を、その差立に手で入れていく(箱に差して立てるので「差立」という名が付いた)。これがディスパッチングに相当する。入れる順番は、作業の順番である。各機械や作業区の作業員は、自分の担当する差立から、作業指示書を1枚ずつとりだして作業にかかる。つまり、ディスパッチングとは、非常に短い期間の、製造作業のスケジューリングなのである。

スケジューリングとディスパッチングは、本質的には同種のものである。では何が違うかというと、対象とする問題のスコープの大きさが違うのだ。あるいは、計画担当者のうけもつ「自由度」が違うと言い直してもいい。工場の生産スケジューリングでは、ふつう生産オーダーを受け取って、それを部品表(BOM)にしたがって工程別の製造作業指示(製造オーダー)に展開し、時間軸にそって割り付け、スケジュールを作る。対象期間は2−4週程度が多い。そのスケジュールは、一応コミットされているが、先々変わりうる可能性が高い。

これに対して、ディスパッチングは、1日か、せいぜい数日の範囲で考える。そして、生産スケジュールの結果を受けて、現場のリソース状況や細かな制約条件を考慮しながら、製造作業指示を出していく。その指示は完全にコミットされ、現場に送り出され、実行される(むろん、例外的な中断やキャンセルはあり得るが)。

ところで、これと少し違った意味でディスパッチングという語を使うことがある。それは、一つの機械や作業区だけを対象として、やらなければならない作業指示をどの順番で着手するのがもっともいいか、を考えるケースである。これは上記の差立問題に似ているが、対象とする期間を1日よりもずっと長くとらえる場合が多い。

このような、1リソースに限った順序づけの問題は、正しくは「シーケンシング」と呼ぶべきである。したがって、正確にいうと、ディスパッチングは生産スケジューリング問題の計画期間を限定した部分問題であり、シーケンシングは対象機械を限定した部分問題だと理解してもいい。

ただし、1機械の最適着手順を考える研究者たちが、これを「ディスパッチング・ルール」と呼び慣わしてきたことが、用語の問題をややこしくしている。生産管理関係の用語はまだまだ混沌としており、それがどこの工場でも共通に整理されるまでには、百年河清を待つ、の覚悟がいるかもしれない。


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ローリング・スケジュール

スケジューラやAPSはシミュレーション・ツールだ、という誤解がときどきある。このいい方は、しょせんAPSはオフ・ラインの検討ツールであって、ERPや生産管理パッケージのように常時使いつづける『基幹業務系』システムではない、という風な理解にもとづいている。

APSで月次の、あるいは週次のスケジュールを立てたら、結果を生産現場や購買に渡して、それで計画担当の仕事はおしまい。計画を流した後の急な飛び込みや修正は、現場に近い部門が日々の調整をしながらフォローすればいい。そして、1サイクル経ったら、またAPSを回して基準となる計画を作る・・そんなイメージでAPS運用を考える人がけっこういるようだ。

こうした誤解が生まれる背景には、計画と実行は別モノだ、という感覚がある。現場作業の遂行は、必ずしもスケジューラが決めた通りには行かないはず、と。たしかに、そのとおりだ。受注の変動についてはいうまでもないが、工場側についても、機械設備のトラブル、材料部品の入荷の遅れ、歩留まりの思わぬ低下・・さまざまな事情でスケジュールはくるっていく。だからAPSは「机上の計画」を立てるシミュレーションの道具に過ぎぬ、というわけだ。

だが、このような使い方では、APSのパワーは半分しか活きない。そこに、「ローリング・スケジュール」という考え方が欠けているからだ。

ローリング・スケジュールとは何か。それは、簡単にいうとスケジュールの連続性である。APSはスケジューリングの結果を、スケジュール・ファイルとして保存する。このスケジュールは巻物が続くように、過去から未来に向かって、ずっと途切れることなく記録されつづけていかなくてはならない。

工場を4月1日からスケジューリングする際には、3月31日に仕掛りとなっている製造作業を、次の日もつづけているはずである。やりかけの作業を全部、「ご破算で願いまして」で、まっさらの状態にもどして計画を立てたら、現場は困ってしまう。

スケジュールを立案するときには、ある日付を決めて、その日から先についてのタイムテーブルを考える。これを計画開始日というが、新しい計画を立てるときに、計画開始日の時点で行なわれているはずの作業を把握していなければならない。そのためには、前回立てて実施に移しているはずのスケジュール・ファイルを読み込んで、その先に追記するような形で処理する必要がある。これを、連続性のあるスケジュール、「ローリング・スケジュール」と呼ぶ。

ローリング・スケジュールは、計画を現実から遊離しないよう、引き留めつづけるための手法である。これを忘れて、「作りっぱなし」の計画をいくら量産しても、それではAPSの価値を十分に引きだしているとは言えないのである。

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納期は「目的関数」か

ORの世界では、最適化問題とは目的関数を決め、それを制約条件の中で最大化する手法の研究だと考える。私自身は、スケジューリング問題を最適化の文脈でとらえることに、一貫して反対してきた(「スケジューリングは最適化の問題ではない」参照)が、世の中の主流がその方向で認識していることは確かだ。

ところで、スケジューリング問題における納期は目的関数たりうるか、などというと疑問に思われる方もいるだろう。生産計画の目的が利益最大化であることは自明ではないか? 納期は順守が原則だから、制約条件であるはずではない、と。

答えはYESでもありNOでもある。疑問に思う人は、つぎの問題を考えてみてほしい:今、営業部に客先から急な引合いが入って、ある製品Xについて納期を答えなければならない。工場はすでに計画にそって動いているから、この注文は飛びこみ扱いになる。スケジューラーは工場設備の能力余裕を調べ、いつだったらその製品Xが製造可能かを計算する。しかし、あいにく今の計画のままでは、営業の希望する納期は満たせそうもない・・

このとき、計画担当者のとりうる行動は二つある。営業部に「納期は守れません」と答えるか、さもなければ現在の実行計画の内で、納期余裕のありそうな製造オーダーを後ろに動かして、飛び込みの注文が希望に間に合うようにするかだ。あなただったら、どちらにするだろうか。

後者が正解、のように思えるかもしれない。しかし、そこには一つの仮定がある。それは、希望納期に遅れたらその引合いは失注するだろう、という仮定だ。これが本当かどうかは、営業部が客先に本音を確認してみないと、じつは分からない。もしかしたら、分納によって一部は後からでもいい、と言ってくれるかもしれない。金額による、かもしれない。ようするに、計画者には判断しようがないのである。納期予想の確度は需要側の性質できまるからだ。

このように、納期を制約条件と決めつけるのは危険であるため、たいていのAPSには納期からのずれを目的関数に組み入れる機能を持っている。そして、納期遅れの最小化問題として解いたり、あるいは納期遅れにペナルティを設定して金額に換算し、利益からこれを引いて目的関数としたりする。

納期のように、一種の制約条件ではあるが、ペナルティ項目として目的関数に組み入れ可能な(いいかえれば、ある程度は破ってもいい)ものを、「ソフトな制約条件」と呼ぶ。OR的なアプローチでスケジューリング問題を解くときには、ソフトな制約条件の目的関数化を活用して、いかに制約を緩和し、解空間の大きさ(自由度)を広げるかが、テクニックの一つなのである。

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変動費原価管理のすすめ (2007/07/17)

現代の企業経営は、目標管理と分業主義を軸として動いている。企業に経営目標や経営計画があるのは当たり前だと、皆が考えている(少なくとも株主はそれを要求する)。そして経営目標は、分業化された縦割り組織に、個別に与えられ下ろされていく。ま、「下ろされて」とかいたが、現実の日本の企業は、完全にトップダウンで動くケースは少ない。経営者といえども、下の人間の意見をきかないで勝手に数字を設定したりはしない(できない)のが普通だ。

それはともかく、多くの企業組織は、機能的分業化ないしは分野別分業化で区画されている。機能的分業とは、販売・マーケティング・設計・生産・物流・購買・サービス・人事・経理・財務・・といった分類による区別だ。分野的分業とは、製品カテゴリーだとか、顧客業種だとか地域だとかによる区別で、その内部は事業部として自己完結する。現実には、両者がある程度入り混じった形が多い。とはいえ、事業部の中もたいていは販売・製造・サービス・・といった機能別にさらに細分化されるのが普通だから、結局企業は機能中心の組織が一般的だといっていい。

さて、このような分業組織を動かすにあたっては、ふつう、機能別の目標尺度を与えることが多い。たとえば製造業では、販売は売上高、生産は製造原価で管理することが当然だと思われている。つまり、

 販売高−製造原価=営業利益(粗利)

という理解だ。営業部門は売上高の最大化をねらい、生産部門は原価の最小化を心がける、という寸法だ。これでたいがいの会社はうまく回っているし、不都合もないと考えられている。今回は、それに疑問をさしはさもう、という趣向だ。

(ちなみに、この式には販売機会損失による逸失利益が入っていない。つまり、在庫過剰による保管費は原価に計上されるのに、欠品や納期遅れによる損失は計上されないのだ。この一点を見ても、この式には問題があるのは分かるだろう。が、その話は別の機会にして、今回は原価管理のことをとりあげたい)

さて、たいていの企業では、上記を次のように個別に展開した式で目標設定をしている:

 営業利益=販売高−製造原価=販売数量×(販売単価−1個あたり製造原価)
 
 1個あたり製造原価=材料費原単位+(労務費+減価償却費+間接原価)÷生産数量

そして、じつはこの式ために、要らぬ誤解や無用な判断ミスがしばしば入り込む。たとえば原価を下げるために労賃の安い海外に移転すべきだとか、工場は設備稼働率を上げて原価を下げるべきだとか、自社で部品加工すると高くなるから外注先から購入するとか。こうした方策は、中期的には企業の付加価値生産性をそこない、競争力を低下させる。たとえば中国生産で懲りて国内回帰してきた会社などでは、この問題にうすうす気づきはじめている。しかし、その原因は相手側の品質不全や文化の差異などのせいにされて、上の式に問題があるからだとはなかなか理解されない。

ご存じの通り、こうした原価計算をじっさいに行うのは財務部門である。ライン部門は、その結果を後から知らされて、自分の目標値との差違を知り、業績評定を受けるだけで、原価計算の中身までは理解していない。しかし、原価計算(とくに個別原価計算)の方法には、恣意性があるのだ。それは固定費配賦において典型的に現れる。「恣意性」という表現をしたのは、妥当な範囲の中で、自由度があるからだ。それは科学や規則ではなく、ポリシーの問題なのである。そして、たいていの企業では、この原価管理に関するポリシーが明確でない(だから日本のSAP R/3導入企業の中で、COモジュール活用例がひどく少ないのである)。

固定費配賦計算の罠とは何か? その良い例が稼働率計算である。ある生産資源(機械でも人員でもいいが)の年間コストが固定費で2千万円だったとしよう。工場の年間稼働時間を2,000時間とする。すると、1時間あたり1万円の単価になる。ところが、製造日報を調べてみると、この資源は実際には年間1,500時間しか稼働しなかった。稼働率=75%だ。すると、稼働時間あたりのコストは2千万÷1,500時間=1.33万円/時になる。同じ仕事を外注したら1.1万円でできたと仮定しようか。すると、外注した方が原価が安くなる。

ところが、よく考えてみてほしい。外注したら、その生産資源はどうなるのか? 保有機械ならば、減価償却費は使おうと使うまいと変わらない。人員も、おいそれと首は切れまい。他の仕事にすぐ転用できればいいのだが、これもそう簡単ではない。その結果、固定費は残ったまま、外注費が増えることになる。したがって、企業の付加価値総額は減少してしまうのである。

あるいは外注のかわりに、「稼働率を上げる」という対策はどうだろうか。でも、もう少し考えてほしい。機械や人員の効率を下げて、同じ量の仕事を年間1,900時間かかるようにかえれば、稼働率は95%にあがる(稼働時間あたりの原価は1.05万円に下がる)。外注より安くなる。これで企業は儲かるようになるか? NO! 年間固定費は同じままだ。

なぜこのような勘違いが生まれるのか。それは、原価配賦計算が、固定費を変動費のように「見せかける」からなのだ。変動費は、生産数量に比例するように見える。しかし、配賦された原価はそうではない。

では、正しくはどうすべきか。答えは簡単である。上の式のかわりに、「付加価値総額」という指標をとるようにすればよい。付加価値は以下の式で定義される。

 付加価値総額=販売高−材料費−副資材用役費等
 
この式自体には、どこにも労賃や減価償却費が入らないことに注意してほしい。というのは、これらは固定費だから、生産管理ではほとんどコントロールできないのである。コントロールできないものをモノサシの指標に持ち込むから、おかしな誤解があまた生じるのだ。

このように、変動費のみに注目する管理方式を、変動費原価管理ということもある。また、すべての企業の付加価値総額を合計したものが、その国のGDPであることも忘れずにいてほしい。

企業組織は、モノサシで動く。かつて「モノサシを疑え」(『タイム・コンサルタントの日誌から』2004/04/03 )でも書いたように、本当にあるべきモノサシはどんな尺度なのか、いつも注意が必要なのである。

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もう一度、付加価値とは何か? (2010/06/06)

経済産業省が先頃、「韓国室」という部署をつくったらしい(関連記事)。昨年、UAEの原子力発電所の商談で負けて以来、日本の産業界は急にお隣の国の存在感を意識しはじめた様子だ(まさかオリンピックのフィギュアスケートに勝てなかったからじゃないとは思うが)。私たちはとにかく何であれ海の向こうの流行りものには弱いらしく、いまやサムソンに学べだの、ガラパゴス化で世界の孤児になるだの、メディアはかまびすしい。中には韓国に負けないために日本も財閥を再結成せよだとか、徴兵制をしいて若者を鍛え直せとか、真顔でいう方もおられるらしい(自分で実際に兵役を経験した人など、今や経済評論家にもほとんどいないと思うのだが)。

伝統的に日本の産業界は欧米に顔を向けてきた。基礎技術は欧米から輸入し、お得意の改良をほどこして、製品をまた欧米市場に輸出する。アジア・中東・中南米等はどちらかというと、原油原材料の輸入や部品加工のための足場という扱いだった。このような世界地図の歪みに早く気がついた企業だけは、肌色が白くない人達も、顧客として(またライバルとして)応対してきた。だが、多くの企業は『新興国』という単語が新聞を賑わすまで、世界の変化に鈍感だったと言っていい。

東アジアが競争力を増してきた現在、多くのビジネスマンの頭の中にあるキーワードは、「高付加価値化」であるらしい。価格競争力では、相手に勝てない。なんとなれば日本は人件費も土地代も材料費も物流費も高いからだ。おまけに(なぜだか)円レートまで高い。そこで、お得意の技術力を活かし、高機能・高付加価値の製品を開発して勝負すべし、という結論になるらしい。

でも、ちょっと待ってほしい。高付加価値って、何のことだかみな理解しておられるのだろうか。

いま、かりに私が文房具業界に勤務しているとしよう。私の部署は万年筆やボールペンなど筆記用具を製造し販売している。安いものでは、1本100円のボールペン、高いものでは1本1万円の高級万年筆だ。ちなみに、ボールペンの材料購入費は1本あたり30円、万年筆は材料購入費が6,000円になっている。さて、どちらがより高付加価値だろうか?

こういう質問の出し方をすると、賢明なる読者の方は一瞬警戒して、「ふつう万年筆の方が高付加価値と思うが、コイツはいつものごとく裏のある問題を出してきているんじゃないか?」などと疑われるかもしれない。そして、「じつはボールペンが正解だろう」と考えられるかもしれない。

答えは、万年筆でも、ボールペンでもない。「正解は、わからない」である。なぜなら、それぞれの製品が、何本売れているのかが不明だからだ。

付加価値(粗付加価値)とは、「売上高−外部購入費」で定義される。いま、私の会社は、製造工程はすべて自社内でやっているとしよう(外注費はゼロだ)。そして、万年筆は年産1万本、ボールペンの方は年産100万本だと仮定する。すると、簡単な計算で、

万年筆の生む付加価値=(10,000−6,000)× 1万本=4千万円/年
ボールペンの生む付加価値=(100−30)× 100万本=7千万円/年

という結果になる。ボールペンの方が、万年筆よりも大きな付加価値を生むのだ。むろん、この比較は、製品それぞれの生産本数の大小に依存する。いや、正しくは「販売本数」の大小に依存するわけだ。

とにかく私の会社は、ここで生み出された付加価値の中から、人件費、生産設備の減価償却費、販売経費、その他間接費等を払っていかなければならない。人件費は付加価値の中から捻出するしかないことを忘れないでほしい。高級万年筆製造に必要な高度な職人作業の賃金であれ、ボールペン製造機のパネルの操作オペレータであれ、給料の元はそこにしかないのだ。

では、この二つから、どのような結論を引き出したらいいのだろうか。アジアとの競争に打ち勝つために高付加価値製品にシフトすべきだとしたら、万年筆は捨ててボールペンに「経営資源を集中」すべきなのだろうか? いや、それは早計である。問題は、それぞれの製品の市場の大きさはどの程度で、自社の競争力の源泉はどこにあるのか、にある。それを忘れて、単に付加価値だけで判断してはいけない。

もし私の会社が、価格の安さしか取り柄のない製品ばかりを作っていて、かつアジアの競争相手の製品が、“安かろう悪かろう”で攻めてくるのだとしたら、品質で差別化するのも一つの手段である(もっとも、品質では直に追いついてくると思うが)。でも、納期や品揃えの的確さ、アフターサービスの柔軟性などで競争すべきかもしれない。あるいは、もしかしたら、万年筆の市場で得た付加価値を原資にして、ボールペンでの価格競争にそなえるという戦略もあるかもしれない。とにかく、競争力の源泉を間違えずに理解して対応すれば、販売数量は減らないだろうし、結果として付加価値も落ちないだろう。

世間の誤解は、「高付加価値製品」=「高価な商品」という点にある。単価で比較すれば、そう思えるだろう。しかしビジネスは、いくつ売ってナンボの世界である。1個1000円もする高価な日本産リンゴが、上海の高級スーパーマーケットで売れている、というニュースを見て、“やっぱり農業もこれからは高付加価値化が”などとコメントするのは、早計に過ぎる。たしかに、そういう行き方もあるだろう。だが、リンゴのクラス別販売数量を見れば、それはニッチな戦略であることがわかる。そうでない平凡なリンゴも、世の中では大きな需要があるからだ。

日本企業は、国内市場の赤字を、海外への輸出利益で補っているのに対し、韓国企業は国内で設けた分を海外で安く輸出するのに使っている。だから海外市場で日本製品は高価なのに韓国製品は安価なのだ、という説明がある。私自身は、どこまでこの説明が正しいのかは分からない。しかし、企業においては、複数の製品がつくり出す付加価値を、どこに再配分するかがマネジメント上の重要な戦略である。なぜなら、付加価値こそが経営資源の源泉だからだ。そして、前回の書評『コストダウンが会社をダメにする』(本間峰一著)でも引用したように、国レベルでも付加価値こそ経済の源泉なのである。できるならば、より多くの人が、このことを理解されることを望むばかりだ。

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MRPを使いこなす

MRPは1960年代に米国で生まれた。もともとの目的は、資材の手配数量をきちんと決めることであった。それ以前の米国では、資材手配は発注点管理が主流だったらしい。発注点方式は平均的に消費されるビスやナットのような汎用資材はよくても、特定製品のための部品や中間製品では、変動が大きくて欠品が発生しがちだった。

 この問題を解決したのがMRPというツールである。何よりも画期的だったのは、一口に『所要量』Demandといわれていたものを、独立需要と従属需要に区別した点にある。独立需要とは外部顧客から与えられる製品需要で、これは作り手の都合では決められない。しかし部品や材料の所要は、製品の需要量が定まれば決まる(従属需要)。これによって資材手配の先読みと精度向上を図るのがMRPの最大のメリットだ。

 ちなみに私の知人には先進的生産スケジューリング(APS)の関係者が多いが、このコミュニティではじつはMRPの評判はすこぶるわるい。たしかにMRPの基本思想は古いし、いろいろな限界がある。しかし、ここではあえてMRPの使い方とメリットについて述べたいと思う。というのも、先人の知恵に学ぶというのは生産管理の第一歩だと考えるからだし、それにどんな道具だって使いよう次第だからだ。

 MRPでは、まず計画対象期間内の製品需要を想定し(受注生産の場合もある程度は想定が入るものだ)、基準生産計画(MPS=Master Production Schedule)を作成する。MPSとは製品別・期間別の生産予定数量で、すなわち生産オーダーの集合といってもいい。

このMPSを策定する部分が、じつはMRP活用にとって一番大事なプロセスだ。MPSは販売部門と生産部門の合意で決める。会社レベルで、同じ一つの計画数値にもとづいて動くことを互いに確約するわけである。これはあたりまえの事のように見えるかもしれないが、どっこいこの「当たり前」が成立せずに、営業側と生産側が互いに勝手な想定で動いている会社は日本で少なくないのである。

つぎに、MRPはBOM(部品表)を参照しながら、部品表展開により、各部品の所要量を計算する。部品や中間製品の段階で引当可能な在庫があれば、それを差し引いて正味所要量を求めるのである。これは、言いかえれば各工程における未来の欠品表をシミュレーションしていると考えてもいい。したがって、MRPを導入すれば、生産を阻害する問題の根源である「欠品表」を工場から放逐できる(はずである)。

最後にMRPは標準リードタイムとタイムバケットという道具立てによって、生産スケジューリングの計算を行う。上記のMPS(製品単位の生産オーダーの集合)を、部品単位の製造オーダーの集合に展開するのである。

さて、MRPをローリング・スケジュールで運用する際に重要となるのが、受入れ確定量(Scheduled Receipt)という概念と、アクション・メッセージと呼ばれる道具である。ローリング・スケジュールにおいては、計画立案の時点で、すでに過去の計画にしたがって進行中の仕事がある。発行済みの製造オーダーによって供給される予定の量のことを、受入れ確定量という。これは発注済みの購入予定量も含む。受入れ確定量は、計画時点での引当可能在庫量と合わせて、各バケットにおける使用可能在庫量の計算に用いられる。

さて、受入確定量の入荷時期が予定よりも遅れたら、MRPではどうするべきか? そのタイム・バケットにおいて、使用可能在庫量がマイナスになってしまうから、正味所要量が発生し、製造オーダーがたつことになる。しかし、その次のバケットにおいて受入れ確定量による供給があり、使用可能在庫量がプラスに転じる計算が成り立つ場合は、受け入れ確定量による供給を、一期分だけ前にずらせば、その期におけるマイナス在庫が解消し、余計な生産オーダーは必要なくなると判断できる。

このような場合に、MRPは「アクション・メッセージ」をユーザに発する。「これこれのタイミングにおける受け入れ確定量を一期分だけ前倒しにするよう督促しなさい」、というメッセージである。こうして、MRPは発行済みオーダーに対してもアクションメッセージを出して、計画者に対して『現実との調整』を依頼するわけである。

つまり、MRPは細かな需要や供給予定の変化に対して、自動的にすべて変更してしまうのではなく、人間系をうまく組み込んでいく。これこそ、計算機という限界をわきまえた、MRPの設計者たちの優れた知恵なのである。

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MRPは受注生産形態に適用できるか

日本の製造業の9割は、受注生産形態である。たしかに自動車や家電・情報機器といった花形産業の製品は見込生産品で、メーカーはいずれも世界的に有名な大企業だ。また、われわれが日常生活で触れる食品や衣料なども見込生産品だから、日本では見込生産形態が主流のように思えるかもしれない。

だが、こうした産業を支えている膨大な数の部品・材料製造業は、ほとんど受注生産の形態で運用されている。それらはしょせん中小の系列あるいは下請け企業だと勘違いしている人もいるが、巨大な製鉄所だって受注生産形態で運用されている。企業規模の大小の話ではない。“メーカー”というと、最終消費者の手に届く品物を作るスター企業で、あとは部品製造の中小下請けだ、だから受注生産は特殊な例外だ、という奇妙な錯覚は、生産管理の世界では、まず捨てた方が良い。

さて、生産管理の世界では、もう一つ奇妙な神話ないし誤解がある。それは、MRPは生産管理をコンピュータの仕組み上にのせるための、ベスト・プラクティスである、というものだ。これは、主にERPパッケージを販売するIT企業のSEたちに信奉されている。もうちょっと気の利いたSEだと、この上にAPS(革新的生産スケジューラ)という上級コースもあるが、通常の顧客にはMRPで十分だ、と割り切って考えている。

現在のERPパッケージのほとんどは、MRP(もう少し正確にいうとMRPU)をベースに生産管理機能をつくっている。そして米国生まれのMRPは計画生産の思想、つまり見込生産形態の考え方が濃厚にある。むろん、MRP自体は、きちんと慎重に運用すれば受注生産でも立派に使えるし、それは米国でも実証済みである(米国だって受注生産企業はいくらでもある)。

しかし、受注生産の企業、とくに製番管理で工場を動かしている企業にMRPを導入するにあたっては、必ず注意しなければならない点が二つある。それは、購入部品の在庫ポリシー、ならびに個別設計と先行手配の関係だ。いずれも購買に関係していることに気づいてほしい。

MRPは、各部品に標準リードタイムを設定する。購入部品の場合は、外部に発注してから納入されるまでのリードタイムを設定する。この納入リードタイムがくせもので、我が国の取引慣行では月締めが原則だから、じつは発注タイミングによって納入までの期間は案外変動する。そこでいきおい安全サイドにとって、最大値を設定することになる。いきおい製造全体の標準期間が長くなる。

するとどうなるか。MRPでは出荷日から逆算してすべての手配スケジュールを決めるから、部品手配のリードタイムを長く取ると、とうぜん、設計に使える期間が短くなる。しかし顧客の個別仕様は昨今、ぶれてなかなか決まらない。購買手配しようにも、設計が決まらなくては手配できない。もう一つ困ったことに、MRPは最初にBOM(部品表)ありき、の発想でできている。設計が完了して、部品表がすべてそろわないと、MRPは購買手配(購買オーダー)を発行してくれない。一部の長納期品だけ先行手配、という運用がきかない。

その結果、一部の部品がどうしても当初の予定通りに工場に納入されなくなる。工場は、材料のモノがそろわなくては製造できない。にもかかわらず、MRPは元の予定通りに、製造オーダーを現場に対して発行する。こうして、不可能なミッションを与えられて現場の班長は円形脱毛症になってしまう。

もともと日本の製番管理は、あまり常備品在庫を持たず、毎回、個別手配をかける方式である。一方、MRPは常備品在庫とロットまとめの思想を前提としている。だから、購買品が届かないために製造スケジュールをフォワードでずらす、という仕組みがない。BOMの完成を待たずに、部分的に先行発注する発想もない。

最近私が見聞きした経験では、こうした生産形態の違いに無自覚なまま、生産管理分野にMRPを導入しようとするケースが目立つように思える。ようやく不況を脱しつつある我が国の製造業では、10年以上にわたった投資の空白期間を埋めるために、ERPパッケージの適用分野を生産部門にも広げようとする動きが多い。しかし、繰り返すが、MRPを受注生産に適用するには、かなりの注意と、業務の変更が必要なのだ。それは、“パッケージのベスト・プラクティスに業務を合わせ、BPRを推進する”といったカッコいい主張とは、まったく別の次元の話である。

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緊急だが重要でないもの−−ダブルビン法による在庫管理 (2006/09/19)

決して電子黒板のマーカーペンのインク切れを起こさない方法を、「ホワイトボードの謎 − 在庫の「見える化」の効用」(『考えるヒント』2006/09/12)で紹介した。同じ色のペンはつねに2本ずつ用意する。1本が書けなくなったら備え付けのビニール袋の中に、その場ですぐ捨てる。補充係が定期的に電子黒板を見回って、ビニール袋から不用になったペンを回収し、同色のペンを補充しておくのである。

お気づきの方も多いだろうが、このやり方は「ダブルビン法」と呼ばれる在庫管理方法の応用である(「ツービン法」と呼ばれる場合もある)。ダブルビン法とは、資材を保管するときに、半分ずつ別の容器に入れ(あるいは二つ棚を用意し)、その片方が無くなったら、補充手配をかける方法である。上記の例では、使用済みペンをビニール袋に捨てる動作が、すなわち補充手配に相当する。似たようなやり方は、乾電池であるとか、感熱ロール紙であるとか、切れるとちょっと不便なものにも応用できる。私の知っている人は、お米をこのやり方で買っていた。小型の米びつを二つ用意して、片方が切れたら買いに走るのだ。

ダブルビン法は“簡易在庫管理”手法だと言われることが多い。ダブルビン法が適している在庫対象は、次の3つの特徴に合致するものだ:(1)欠品すると困る、(2)比較的安価である、(3)消費量は多くないが比較的安定している−−電子黒板のマーカーペンは、この条件にたしかに合致している。つまり、切れると困る(緊急性がある)が、重要と言うほどでもない品目だ。ついでにもう一つ例を挙げるなら、よくデパートのトイレットペーパーで、予備のロールがついているホルダーを見かける。あれもダブルビン法だ。たしかに安価だし、在庫が無くなるととても困るし。

いわゆる在庫のABC分析をやったとき、BC分類に入るもので上記3条件を満たす場合は、ダブルビン法が楽である。しかし、なぜ楽なのだろうか? この点を突き詰めた考察はあまり見たことがない。じつは、ダブルビン法は、在庫数量をカウントする手間がいらないから楽なのである。在庫量を把握するには、手間とコストがかかる。そして必ずしも簡単ではないのだ(マーカーペンの中のインクの残量を測れるかどうか考えてみてほしい)。在庫管理理論は、この点をあまり強調していないようだが、モノの数を把握するには、コストがかかるのだ。

ダブルビン法は、在庫チェックと補充手配を同時に“見せる”ことができる点がすぐれている。この技法は、発注点を切るまでは、いちいち在庫量を測定する必要はない、との考え方が根底にあるのだ。

そのかわり、最大在庫量の半分を発注点としているため、平均在庫量は多めになる(だから単価の安いものにしか向かない)。また需要変動が激しく、あるとき一瞬にして全在庫が無くなってしまうようなタイプの品目にも向かない。

ペンやロールのように、物理的に2個セットにできるものは簡単だが、お米のように1kgでも2kgでも5kgでも、好きな分量に分けられるものは、どう水準を設定すべきだろうか。これは、先々の説明にも関係するので、今は答えを書かないでおく。ちょっと考えてみてほしい。

ところで、最初に書いたマーカーペンの補充だが、一点だけ問題があることにお気づきだろうか? じつは、マーカーが2本トレイに置いてあると、使用者は両方のペンをランダムに使うことになる。すると、2本が同時にインク切れになる可能性もあるのだ。同じ問題は、トイレットペーパーでも起こる。たまに、単純なホルダーを二つ並べているトイレを見かける。両方のロールが使われていく。すると、どちらも残量が僅少になっていくケースがあるわけだ。これではダブルビン法の意味になっていない。

ダブルビン法を成り立たせるためには、すなわち、二つある在庫の内、使うのはつねに一方だけで、残りは必ず全量残っている状態にするべきなのだ。だから、同じペーパーホルダーを二つ並べてはいけない。マーカーペンでは、どうすべきか。答えは簡単だ。補充した新品のペンには、テープかシールを貼っておく。そして、新品と使用中のペンが並んでいたら、必ず使用中のペンを使い続けるようにすれば良いのである。

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「マイナス在庫」の意味 (2007/01/18)

サプライチェーンにおける在庫問題を考えるとき、だれしも一番違和感を感じるのは『マイナス在庫』という用語に突き当たったときではないか。「マイナス在庫を許すべきか、どうか」というような問題で、大のおとなが議論をたたかわすのは、奇妙な光景といえなくもない。だって許すも許さないも、在庫の量なんてマイナスになりようがないはずではないか。

たしかに、在庫量を「倉庫にある現物の量」と理解すれば、ゼロになることはあっても、マイナスになるはずなど無い。しかし、在庫の話は、そう単純ではないのだ。なぜなら、そこには二つの要素、帳簿在庫と引当の概念がかかわっているからだ。

まず帳簿在庫の話からしよう。これは理論在庫とも言う。“帳簿在庫”とは“実棚在庫”と対比される概念である。実棚在庫(現物在庫)は文字通り、倉庫の棚の上に実際にある数量だ。これに対し、理論在庫の方は、帳簿上の入庫と出庫の差し引きから、「現在これだけの数量があるはず」と計算された結果である。先月のおわりに、部品Xは2個あった。今月、さらに3個、サプライヤーから仕入れた。しかしすでにこれまで4個、製造に使用した。だから、

 理論在庫=前期末の在庫量+供給量−使用量
 
で、つごう2+3−4=1個残っているはずだ、と考える。ところが、たまにおかしな事が起こる。たとえば、「じつは今週さらに製造ミスで2個よけいに使用しました」という報告が追加で上がってきたりするのだ。なぜ!? そうしたら在庫量は2+3−4−2=マイナス1個になってしまうではないか。あなたはあわてて倉庫に確認に行く。すると棚にはまだ現物が2個残っていて、あなたは狐につままれたような気分になる。

こうなるケースのほとんどは、「前期末の在庫量」が正しくなかったためだ。ほんとうは、前期末には4個残っていたのだろう。上の式の表記はじつは不十分で、「前期末の理論在庫量」とすべきだ。そして、理論在庫(帳簿在庫)は実棚在庫とは必ずしも一致しない。これがいかに一致するかは、在庫精度という尺度で測る。そして両者を一致させるために、定期的に棚卸を行なうわけである。

むろん、これ以外に、供給量や使用量の数字に誤差があって、帳簿上のマイナス在庫が生じるケースもある。たとえば材料の使用量は製造ラインで機械がリアルタイムにカウントして行くが、補充による供給量は手書き伝票の転記入力で1日遅れる、などというのはよくある話だ。こうなると、その1日間は理論在庫がマイナスになってしまう。

マイナス在庫が発生する第二の要因は、『引当』である。引当とは、“今後消費する予定です”という、一種の予約行為だと思えばよい。予約であるから、現物としてはあいかわらず棚の上にある。しかし、見かけ上は12個あっても、そのうち8個は、すでに来週の生産に使う予定かもしれない。したがって、「未引当在庫」は4個という事になる。ところが、何か緊急の事態が起こって、棚の上から部品を10個出庫して、使用にまわしてしまった。このとき、現物は2個、棚の上に残っているが、未引当在庫はマイナス2個、ということになってしまう。このままでは、来週の生産に支障がでることになる。

在庫品のコントロールをコンピュータ・システムでやっているとき、もしマイナス在庫を許さなかったら、どうなるだろうか(コンピュータは帳簿の一種であり、その中の在庫数値は理論在庫量であることに注意してほしい)。そうすると、目の前に現物があっても、製造に使用できないという事態が生じる。と同時に、未引当在庫にマイナスを許したら、どうなるか。すると、製造予定を無視して出庫できることになるから、製造現場が欠品で混乱することになる。どちらもうまくないようだ。

このような矛盾が起こる根本の理由は、在庫という量を1点で、すなわち現時点で考えているためだ。じつは「引当」という行為は、その中に『未来の在庫使用』を考えている。すなわち、時間軸を伴う未来在庫の概念を内包しているのである。

在庫は時間で計るべきだ、と「時間を在庫する」(タイム・コンサルタントの日誌から、2006/12/12)で書いた。かりに在庫を数量で計る場合でも、それは時間軸に沿った数量として考える必要がある。先ほどの例でも、もしかしたら来週頭にはさらに3個、補充される予定かもしれない。だとしたら、べつに10個出庫しても、来週の生産には困らないのだ。このように、マイナス在庫の問題は、時間の視点から考えてみて、はじめて正しい方針が決められるのである。

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発注点方式の在庫コントロール (2007/02/18)

生産に用いる部品・材料の在庫管理(在庫レベルコントロール)では、最初にABC分析をおこなうのが定石だ。ABC分析は、在庫数量の大小を見るものと、消費量実績値の多寡をみるものと2種類ある。前者は在庫量圧縮目的のスタディに用いるもので、後者は消費量の傾向に応じたコントロール方式の決定に用いる。

A品目(消費量の大きな品目)は定期発注方式、B品目は不定期定量発注、C品目はダブルビン法など簡易手法をもちいる、というのが通常の決め方である。むろん、平均所要量が同じでも、需要傾向が安定しているのか不安定で間歇的なのか、で答えはかわる。また、その品目が高価か安価か、小さいのか場所ふさぎか、手配から納入までのリードタイムが長いか短いか、賞味期限があるかないか、などによっても解はことなる。

一般に、需要が不安定で高価で場所ふさぎで消費期限があって納入リードタイムが長いものほど、在庫をきめ細かく見てやらなければならない。したがってA品目と同様に、定期発注方式がふさわしいことになる。定期発注方式では、一定期間ごとに在庫数量をきちんとカウントして、消費数をおぎなうべく発注手配を行なう。だから手間とコストがかかるわけだ。

これにたいして不定期定量発注では、在庫数量を毎回カウントする手間をはぶき、そのかわりに在庫レベルがある線を切って下回っていないかどうかだけをチェックする。その線を「発注点」とよぶ。発注点を下回ったことに気づいたら、一定数量の発注手配をかけるのである。図1は、在庫理論のテキストなどでよくみかける発注点方式の説明チャートである。

ところで、このチャートは現実には少しそぐわない点があるのにお気づきだろうか? それは、在庫推移がきれいな勾配をもつ線でえがかれていることだ。これは、毎日リアルタイムで在庫数量を把握していてはじめて可能になる。ところが、何度もかいてきたように、在庫数量のカウントは手間とコストのかかる作業である。かりに部品倉庫からの入出庫はコンピュータのバーコード端末でチェックしているとしても、現場在庫まではそうはいかない。したがって、実際の在庫レベルの把握情況は、図2のようになる。

もう少しつけくわえると、上の図はどちらかというと在庫中心の図である。在庫管理者中心の図といってもいい。流通業のように、販売による消費と仕入による供給のみで在庫が決まる世界では、これでもいいだろう。販売(需要)は自分では計画できないため、在庫量だけを見て、発注点で補充手配を行なうしかない。

しかし、今日のほとんどの工場では、なんらかの計画にしたがって生産が行なわれ、部品が消費されていく。消費も手配も計画的である。だから、在庫レベルコントロールも、生産中心の視点で行なう必要がある。私は、図3のような累積需給線図による、需要(生産)と供給(発注納入)の両側をおさえたチャートの方が便利ではないかと考えている(累積需給線図は流動線図と呼ばれることもある)。

だが、ここでは従来の在庫線図で説明をつづけよう。生産計画にはふつう、「タイムフェンス」という概念がある。これは計画を確定させる直近の期間であり、通常は1週間からせいぜい1ヶ月程度である。え? うちは毎日、変更や割込みがはいります? たとえそうであっても、部品手配は今日注文して明日納入されるものばかりではないだろう。だとしたら、ある程度、計画の大筋は変えない期間があるはずだ(そうでなかったら顧客に納期も確約できず、サプライヤー側も準備できないから、生産計画の名に値しない)。

そして、本日からタイムフェンス期間内の生産による部品消費予定は、計画で見えている。これを「引当」と呼ぶ。引当とは、いわば部品在庫に予約がかかった状態だ。

また、その一方で、すでに発注手配をかけてタイムフェンス期間内に納入される予定の数量もあるはずだ。したがって、計画末時点での有効在庫量は、次のようになる:

有効在庫量=現在庫量+既発注分−引当数 (個数単位)

さて、この式から発注点をどのように決めるかという問題がでてくる。ここで、在庫問題をリードタイム日数の切り口からアプローチすると、明快な解がでてくるのだが、長くなってきたので、それについては項を改めてまた書こう。

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日数基準による発注点と安全在庫の計算法 (2007/04/02)

従来の在庫理論は物量、すなわちモノの数量をベースに構築されてきた。部品資材は大量に発注して安く買いたい、発注の手間も省きたい、でも欠品も避けたい−−そこでどうすべきかが、問われてきた。これは、生産管理学発祥の地である米国が、抜きがたい大量生産志向をもっていたことと、多少関係があるように思える。

ところで、すでに何度も書いてきたように、在庫とは時間の缶詰めでもある。ストック在庫を持つ理由は、あらかじめ在庫の形で時間を先取りしておいて、受注から納品までの製造リードタイムを短縮したいからだ。これを考えると、在庫理論は物量基準ではなく時間(日数)基準でアプローチしたほうが有用なこともありそうだ。事実、発注点の決め方は日数基準の方が簡単になる。今回はそれを説明しよう。

発注点方式による在庫コントロールが適するのは、ABC分析でBCランクに分類されるような、使用量が比較的小さいものだ。毎日何十個も何百個も使用される部品はむかない。どちらかというと、ぽつりぽつりと消費されていくタイプの品目が適当だ。たとえば、受注生産、それも個別受注生産の企業なら、間歇的に受注があって、そのたびに部品が必要になるから、ストック在庫の部品はこうしたパターンで消費されていくだろう。

個々の受注(=消費)が間歇的で、一定期間でならせば平均的には安定しているが、受注が互いに独立している(周期性もなく団子状態でも来ない)としよう。このとき、受注の間隔をしらべてみると面白いことがわかる。受注間隔を横軸にとり、その頻度を縦軸に(ただし対数で)とって片対数グラフを描くと、右下がりの直線になるのだ。これをポアソン到着という。単発的で比較的頻度の低い出来事はみな、ポアソン到着になることが知られている。たとえば(楽しい例ではないが)地震の生起はこの形になる。だから、大地震の直後には余震が起きやすい。間があくほど、確率は低くなる。しかし間隔の平均値は存在して、実績から計算できる。

さて、いまある部品の消費実績を調べたら、平均τ日の間隔でぽつりぽつりと使用されることがわかったとしよう。一方、この部品を購買手配してから納入されるまでの購買リードタイムは日だとする。たとえば、鋳物部品で、使用間隔は7.5日間、購買リードタイムは1ヶ月(30日)としようか。

発注点の基準は、購買リードタイム期間中に消費される数量だ。それはL/τで与えられる。この例では4個になる。逆に言うと、4個は30日分に相当する。発注点のレベルを日数で測るなら、それはL日(すなわち30日)になるのである。

ところで、これは安全在庫を無視したときの数字だ。実際には、受注間隔に変動があり、しかも短い期間に続けてくる確率の方が高いわけである。だから安全在庫は必要だ。こちらはどう決めるべきか? そもそも安全在庫とは理屈と現実をすりあわせる潤滑油のようなもので、安全在庫のない在庫管理なんて、オイルを入れずにギアボックスをまわすも同然である。

ところで、平均間隔τ日でポアソン到着する出来事(部品使用)が、一定期間L日内に何回発生するかは、じつはL/τだけで決まる。その確率パターンはやや右に尾を引いた山形になる。上記の例では、次のようなグラフになる。つまり、1ヶ月間に3個消費される確率が約2割、4個消費される確率も2割ある。ぜんぜん出ない確率も、2%ほどある。5個以上出ていく可能性、つまり欠品の危険性も、かなり(37%)ある。

面白いことに、このグラフの形はLとτの比だけで決まるから、L=20日、τ=5日でも同じ結果になる。購買リードタイムの絶対値にはよらないのだ。このグラフの形をポアソン分布と呼ぶ。また、ポアソン分布の標準偏差は平均値の平方根になる、といった性質があるのだが、ここではちょっと忘れておこう。

さて、この例で、欠品の危険率を5%以下におさえたかったら、どうすべきだろうか。答えを先に言うと、発注点を7個におけばよい。すなわち、安全在庫=3個である。ちなみに、発注点(日数基準)をP、購買リードタイムをL、平均使用間隔をτであらわすと、

P = 1.4 L+1.1τ (日)

で近似的に求めることができる。上の例で言うと、約50日分強だ。実に簡単である。このように、日数基準の生産管理理論の可能性は、もっと研究されていい分野だと、私は考えている。

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経済的ロットサイズを考える (2007/08/21)

以前書いたように、購買手配には、見込み購買と確定購買の二種類がある(『確定購買』「生産計画とスケジューリングの用語集」参照)。確定購買の場合、生産に必要な(需要に紐づけられた)所要数量分をちょうど手配する。しかし見込み購買では、近いうちに必要になりそうな分を見込んで買うわけだから、いくつ手配すべきかの悩みが、つねについてまわる。

見込み購買の対象品は、繰り返し消費される「見込み」がたつ部品材料であって、その需要量の平均値は最近の消費実績からおよそ分かる。たとえば手配してから納入されるまでの調達リードタイムが20日だとしたら、20日分の需要量より多くを手配するのが普通だろう。あるいは、生産計画の対象期間が2ヶ月で、そのうち1ヶ月がほぼ確定期間だとすれば、1ヶ月分以上の需要量を手配するのが常識だろう(もっとも、確定期間など無視して営業から注文が飛び込んでくるのがこの国の「常識」かもしれないが、そのことはさておく)。

発注数量の最低線はそれで決まるとして、では、実際にそれよりどれだけ余裕を見て発注すべきだろうか。ここで登場するのが、「経済的ロットサイズ」(EOQ=Economic Order Quantity)の公式である。これを最初に定式化した人の名をとって、『Wilsonの公式』とも呼ばれる。在庫理論の基本中の基本ともいえる考え方だ。

この経済的ロットサイズ理論では、こう考える:まず、あまりたくさん注文すると、在庫量を多く抱えることになってしまう。一方、あまり小刻みに少量多頻度注文すると、平均在庫は減るかもしれないが、今度は毎回の発注のたびに発生する手間が増えてしまう。そこで、在庫量と発注の手間を、それぞれ金額で評価する。つまり、在庫費用と発注費用に換算する。その上で、「在庫費用+発注費用」を発注数量の関数と見なして、それを最小化する発注数量を求めるのである。

いま、単位期間あたりの平均需要量をu、1回あたりの発注費用をc、部品1個あたりの在庫費用をk としよう。発注数量をx とおくと、単位期間あたりの発注回数はu/x だから、発注費用はcu/x だ。また平均在庫量はx/2 だ(在庫量はxと0との間を定期的に往復する)から、在庫費用はkx/2 となる。つまり、cu/x+kx/2 を最小化するxを求めればよい。その答えは次のようになる(式の導出は高校レベルだから省略する):

では、この経済的ロットサイズにしたがって、製造業では発注購買しているだろうか? あいにく、たいていの場合、答えはノーだ。

その理由は、ふたつ考えられる。まず、生産管理部門がこの公式を知らないケース。Wilsonの公式は在庫理論の基本中の基本だと書いたが、そもそも大学の工学部や経済学部の中で、在庫理論を教えているケースが少ない。知らないものは、使えまい。

しかし、仮に経済的ロットサイズ理論を知っていても、使えてない企業も多い。なぜなら、上記の式の中に出てくる定数が分からないからだ。たとえば、在庫費用。買ってきた材料は、工場の資材倉庫の中においておく。自社の建物だから、別に倉庫代は要らない。在庫金利も、この低金利のご時世ではほとんど無視できる・・そう考える人が多いのだ。

発注費用となると、もっと曖昧模糊としている。1回発注をかけたって、せいぜい注文書のプリントアウトの紙代と、FAXの電話代くらいしかかからないような気がする。そりゃ、購買部門の手間もかかるかもしれないが、所詮、人件費は固定費なのだ・・。

むろん、そんなことはない。まず、社有地の自社建物だって、タダではない。無駄に資材を置けば、その分のスペースを有効活用できる可能性が減るのだ。つまり機会損失である。さらに、在庫品が陳腐化して価値ゼロとなるリスクもつねにつきまとう。これが在庫金利の本当の意味である。私の経験からこれら項目を評価すると、おおざっぱにいって、在庫品1kgあたり、毎月1-3円程度はかかるものだ。

発注費用も、自社の発注事務の手数だけを考えるから、ゼロみたいに思えるのだ。1回の注文にたいして、サプライヤー側の受注事務もかかる。製造記録の手間もかかる。さらに、物流搬送の費用がかかる。そして、自社の在庫管理部門の受け入れ・検品・伝票発行・仕分け・入庫の手間がさらにかかるのだ。こうしたことを考えると、1回あたりの発注コストは、(たとえそれが小さなボルト数本でも)数千円程度かかっていると想像される。

そこで、ためしに試算をしてみよう。いま、ある部品が月に平均50Kgずつ使用されるとする(u=50 Kg/月)。k=3(円/月・Kg)、c=3000(円/回)と想定しようか。すると、EOQ=316 Kg、となる。つまり、ほぼ半年分である。需要がもう少し大きくて、u=100 Kg/月だったら、EOQ=447 Kg(約4.5ヶ月分)になる。u=1 ton/月だったら、どうなるか? 自分で計算してみていただきたい。

これを「意外と多い」と思うか、「意外に少ない」と感じるかは、ケース・バイ・ケースだろう。ただ、毎月生産計画をたて、毎週のようにそれを修正し、毎日割込みや欠品で現場とやりとりしている多くの生産計画担当者にとっては、随分と多いと感じられるかもしれない。発注量が多いということは、発注回数が少ないということ、すなわち「もっと手間をかけないでもすむ」ことを示している。

と同時に、uckといった係数は、すべて定期的に見直して評価すべき項目であることも、忘れてはなるまい。そして、こうしたチェックをすることこそが、真の生産管理の仕事なのである。

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計画生産における安全在庫量の設定

安全在庫は広く用いられている考え方だ。需要の急な変動に対応するために、意図して置く在庫をそう呼ぶ。とくに製品の需要がある程度一定していて、平均値のまわりを変動するような場合には、安全在庫量は数式で計算できる。そのためには統計学で言う『分散』の値が必要だ。

分散とは平均値からはずれる度合いを示した値であり、(個別実績値−平均値)の2乗の総和を、(データの件数−1)で割ったものである。分散の平方根を標準偏差というが、この標準偏差が小さければ小さいほど、需要変動のばらつきも小さい。そうしたケースでは、安全在庫量も少なくすることができる。

需要自体は、メーカー側でコントロールすることは不可能だ。多少の広告やキャンペーンで一時的に刺激することはできる。そうすれば需要の平均値は上がるだろう。しかし、需要の変動パターンまではとうてい支配できない。安全在庫量は、平均値ではなく標準偏差の値で決まるので、結局、安全在庫量自体を減らす方策は無いことになる。

ここまでの議論は在庫管理の参考書などにも解説されていることだ。ところで、この議論には前提がある。それは、商品の注文があったら在庫から引き当てて出荷し、その在庫レベルが減ったら生産指示を出す、という「ひっぱり型」の生産方式をとっていることだ。ここには需要の予測という観点が、全くない。

実際には、季節性の強い商品を生産しているメーカーでは、このような単純なひっぱり型(在庫補充型)方式はとっていない。年間ベースの需要変動を用いたら、安全在庫量が大きくなりすぎて、やっていられないからだ。そのかわりに、こうした企業では計画生産を行なう。閑散期に需要を先読みしながら前倒し生産をして在庫を積み増し、農繁期になると必死に売りさばく。では、こうしたケースでは、安全在庫量はどう設定すべきだろうか?

いや、季節製品ばかりではない。今日では、多くの製造業が、多かれ少なかれ計画生産を行なっている。そしてMRPをまわして資材手配をかけたりしている。こうしたMRPのシステムにも、製品別・月別に安全在庫を設定する機能がたいてい付いている。だが、MRPの安全在庫量とは、どのように設定したらいいのだろうか。

じつは答えは、簡単だ。需要の予測をしなかったときの安全在庫量は、需要の標準偏差から定めることができた。それなら、需要を予測したときの安全在庫量は、
予測誤差=(需要予測値−需要実績値)
の標準偏差をもとにして計算すればよいのだ。予測精度が悪ければ、ばらつきを示す標準偏差も大きくなり、たくさんの安全在庫がいる。もしも需要予測が完璧で、ぴったり実績値どおりだったら、安全在庫量はゼロでいい。なぜなら、安全在庫とは予期せぬ変動に対応するためのもので、完璧な予測のもとでは予期せぬことは起きないからだ。

これを言い直すと、計画生産のもとでは、需要予測の精度を上げれば、安全在庫量はどんどん減らしていけるのである。「ひっぱり型」生産よりも、先読みによる計画生産の方が、少なくとも在庫減らしの点では、明らかにアドバンテージがある。

それでは、どうしたら予測の精度を上げることができるのか? 『コンサルタントの日誌から』に以前書いた「需要予測を可能にするもの」(2002/06/01)でも触れたとおり、基本的には計画サイクルを短くすることにつきる。これこそが、計画機能の確立と強化が在庫削減にむすびつく理由なのである。

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半製品の適正在庫量を計算する

およそどのような種類の製造業でも、ある共通した法則がある。それは、サプライチェーンの上流側(原料に近い方)では、見込み生産で作らざるをえないのに対して、サプライチェーンの下流側(最終消費製品に近い方)は受注生産による供給を求められることである。半導体用のシリコンは、特定の需要家が決まっていなくても量産できる。しかし、コンピュータのサーバは、顧客の注文の仕様に合わせて、工場で組み立てて供給する。

寿司屋のカウンターに座って、お好みで食べるのは、寿司屋(これは立派な食品製造業だ)に、受注生産を依頼していることになる。ところが、寿司屋の方は、注文を受けてからマグロを買いに行ったりご飯を炊いたりはしない。酢飯はあらかじめ作っておき、食材もあらかじめ仕入れておく。あるところまでは見込みで生産しておくのだ。そして注文を受けたら、ストックして置いた半製品を組み立てて(むろんそこに技巧があるのだが)握りやチラシを作るのである。だから寿司屋はデル・コンピュータと同じ、BTO方式の生産をしていることになる。ただし、売れ残ったら、寿司屋がリスクをとる。デルの場合、在庫は部品メーカーの資産としているので、何のリスクもとらない点が違う。

寿司屋の酢飯のような『半製品在庫』を、仕掛りと混同してはならない。『仕掛り』(英語でWork in Process, 略してWIPと呼ぶ)とは、生産の前工程と後工程の間に、一時的にたまってしまうモノを指す。これは本来、前工程と後工程を完全に同期化できていれば、発生せずに済んだ存在、つまり「できちゃった在庫」である。産出されるはしから、消費されていくべきものだ。これに対して、半製品在庫は意図して持っている在庫である。

それでは、このような半製品や中間品の適正な在庫量(ならびにその保管スペース)は、どのように決めるべきだろうか。不思議なことに、在庫理論の本を見ても、あまりすっきりした説明がない。製品や原材料の安全在庫量については、あれこれと説明や数式があるのに、である。また、ERPパッケージやAPSパッケージの多くは、MRPの所要量展開の計算ロジックを実装しており、そこでは中間品・半製品に対しても基準在庫量を設定できるようになっている。しかし、その値をどのように設定すべきかについては、指針らしい指針がないのである。これは、半製品の需要が、いわゆる『従属需要』に属していること、そして計画生産における変動の取り扱い方法が考慮されていないためである。

私の考えでは、半製品の最大在庫量は、次の4種類の要素の合計で計算できる。

半製品の最大在庫量 = 計画ピーク在庫量 + 需給ギャップ在庫量
          + エージング在庫量 + 需要誤差安全在庫量

(1)計画ピーク在庫量:
これは中期計画的な『つくりだめ』のための在庫量である。強い季節性そのほかの要因によって、年間を通して生産量を平準化できない業種は多い。工場の製造設備も、ピーク・シーズンに堪えきれるほどの能力は持たないのが普通である。そこで、こうした業種では、需要の閑散期に意図的につくりだめをしておいて、繁忙期にそなえる。年度ごとのマクロな需要の読みにもとづいて、これを設定する。一品受注生産の業種では、最終製品に近い段階でのつくりだめはしないが、部品の共通化を推し進めている会社では、部品レベルでの計画ピーク対応が必要になる。

(2)需給ギャップ在庫量:
需給ギャップとは、需要側と供給側のハンドリング量の差異に起因する項である。もし仮に半製品Aの需要と供給が、平均的には1日100個のペースで完全にバランスしているとしても、供給側(上流工程)の製造ロットが200個(つまり2日に1ロットの生産)で、消費側(下流工程)の製造ロットが10個だったら、あきらかに瞬間的には最大200個=2日分の在庫を持たざるをえない計算になる。平均値は1日分である。一般的に、供給側ロットの方が消費側ロットよりも大きい。この差が、需給ギャップ在庫量となる。

また、BOMをさかのぼって、半製品Aが部品x・y・zの3品目から組み立てられるとき、xの供給ロットが100個、yの供給ロットが40個、zの供給ロットが150個だったらどうか。かりにx・y・zは、それぞれ1日に1ロット、2.5ロット、そして1.5日に1ロット供給されることになる。消費側は、100個ずつ、毎日1ロット製造に消えていく。この場合、部品xの在庫量は(うまく同期されている限り)最大で100個である。しかし部品yは、どううまく同期化しても、最大で120個を積み上げている瞬間が必ずある。部品zは、最大200個を持つことになる。これが需給ギャップによる在庫である。

(3)エージング在庫量:
これは、製造上の理由から、ある程度の日数「寝かせて」置かなければならない品目の在庫である。一番端的な例はウィスキーやワインの原酒であろう。寝かせているといっても、その間に内部では反応が進行しているわけで、見かけ上はストックに近いが、一種の製造工程にあたる。また検査に時間がかかり、合格判定まで保管が必要なものも、これに相当する。

(4)計画誤差安全在庫量:
これは、計画生産をしている場合の、「計画精度」(需要予測精度)の悪さに起因する項である。月末までに100個つくるという計画で手配をしていたのに、直前になって「やっぱり120個くれないか」と営業からFAXがくる、そうしたシチュエーションに対応するために置くべき在庫量である。あるいは、製造現場から、「品質が安定しなくて、どうしても90個しかできませんでした」という状況の場合もあるかもしれない。

これが最終製品で、しかも計画生産ではなく、製品在庫による顧客需要(独立需要)への対応のみのケースでは、いわゆる「安全在庫量の理論」と同じ計算式になる。計画生産のときに、計画の精度を数値的にどう計算するかは、「計画生産における安全在庫量の設定」に書いたとおりである。また半製品は従属需要になるため、最終需要の計画誤差を員数で展開した上で、親品目の安全在庫量のカバーレンジを考慮して決める。しかし、通常はそんな計算は複雑すぎてやっていられないだろう。そこで、平均需要(下流工程の消費速度)に基準日数をかけて、決めることが多い。

ついでにいうと、いわゆるカンバン方式における仕掛カンバンの枚数を決める問題も、同じである。ただし、御本家トヨタ自動車の場合、徹底した平準化とライン同期化と計画需要の保証によって、最後の第4項だけで済んでいると思われる。

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オーダーとはいったい何か

「オーダー」という用語は案外わかりにくい。

「たんなる『注文』じゃないか」と営業畑の人は思うかもしれない。受注管理ソフトのことをオーダー・エントリー・システムと呼ぶことも多い。たしかに英語の辞書を引いても、注文書・注文の品、と出てくる。

しかし、製造業をもう少し広く見渡してみると、もっと様々な種類のオーダーがあることがわかる。出荷オーダー、ワーク・オーダー、生産オーダー、購買オーダー、チェンジ・オーダー、などなど。これらはいったい何だろうか。

この中で、スケジューリングにたずさわる技術者にとって大事なのは(そしてしばしば誤解されがちなのは)、生産オーダーである。生産オーダーとロット、タスク、オペレーション、タスク等々とはどこが違い、どういう関係にあるのか。

これを理解するためには、まず「依頼」と「指示」の違いを認識しなければならない。英語では全者がRequestで、後者が(問題の)Orderにあたる。依頼Request(日本だとしばしば「××願」の形の帳票になっている)は承認プロセスを通って、はじめて正式な指示Orderとなる。この場合の指示とは、別に同一部署内での上司から部下への命令に限らない。むしろ、部門間、あるいは広く会社間での公式要求になる。

たとえば、何かの機械に故障が発生する。すると運転員は「修理願い」(Maintenance Request)を書く。これは運転課長と保守課長の承認の判子があって、はじめて正式な「修理指示書」(Maintenance Work Order)になる、という具合だ。依頼は承認されてはじめてオーダーになる。いや、ウチの会社はそうじゃない、と反論されても困る。ここではOrderという言葉を生んだ英米の会社の一般的な概念を説明しているのだから。

購買という行為についても同様。購入依頼(Purchase Request)は購買部門長に承認されて、はじめて発注書(英語では購買オーダー=Porchase Order, 略してP/O)になる。P/Oは会社間の正式書類で、金銭のやり取りがともなう。一般に、オーダーとは正式な確定指示情報を意味し、そこには正確なScope(内容・数量・期日・担当名)が記述され、また通常は、金銭なり予算なりの価値の交換が伴っているものなのである。

さて、生産オーダーだ。もうおわかりの通り、これは生産を担当する工場に対して、品目・数量・納期等の条件を明示して、工場外の部門(生産計画部門ないし営業部門など)が発行する指示情報を意味する。くりかえすが、生産オーダーは指示情報である。けっしてなすべき作業そのもの(=タスク)や、作業の結果である物品(=ロット)を意味するのではないことが分かるだろう。

では、なぜしばしば生産情報技術者に誤解や混乱がみられるのか。その理由の一つに、スケジューラーがガント・チャート上に並べて表示する四角い作業枠を、「オーダー」と呼ぶことがあるからだろう。あるいはもう少しさかのぼって、日本特有の製番を「オーダー番号」と呼んで、これをロットの標識に使ったりするからだ。これらは、実際にはタスクやロットのひも付け先を示しているにすぎない。オーダーとタスクと作業とロットは、かならずしも一対一に対応しないのだが、一種の目安として元ネタを表示しているのだ。

オーダーが発行されたら、かならずこれを履行して一件落着となる。これをFulfillmentという。こまったことに、この英語には定着した訳語がない。たぶん「フルフィルメント」と、カタカナで呼ぶことになるのだろう。
しかし、それもしかたがないかもしれない。オーダーだって、結局カタカナでよばないと、何となく落ち着かないらしいのだから。

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タスク・オペレーション・ロット

オーダーとタスクと作業とロットは、かならずしも一対一に対応しない、と前回のワンポイント講義「オーダーとはいったい何か」で書いた。ときおり混同される理由の一つに、APSでの言葉の用法の不統一がある、とも。むろん、これは逆にも解釈できるだろう。日本での概念理解に統一性がないため、種々のAPS製品で用語にばらつきがあるのだ、と考えてもいいのだ。

用語定義が必要ならばAPICS Dictionaryがあるじゃないか、と議論される向きもあるだろうが、私は賛成しない。製造業における生産の方式には幅広いバラエティがあり、さらにそれは企業風土の影響を受けやすい。APICSはアメリカの組織であり、そこでの用語にはアメリカ流の企業のあり方、概念が色濃く流れている。英語での定義を参考にしながらも、日本人は日本人のための用語を考えるべきだと思う。

そうは言っても、そもそも計画系の業務は日本で根付きが浅い。このため、外来語をかりてくる必要がある。その良い例が「タスク」だ。これには「課業」という立派な(?)翻訳があるにもかかわらず、知る限りではこの日本語を使っている企業はほとんどない。

タスクとは、「やらなければいけない作業」を意味する。仕事を計画するときには、まず必要な作業項目をリストアップし、それに必要なリソースを割り当て、そしてタイムテーブルを作成する。この最初の段階でリストアップされるものがタスクである。プロジェクト計画に従事している人ならば、タスク・リストの作成が第一段階であることを肌身で知っている。タスクは工場や設備・リソースの側から見ると負荷(load)の領域に属する。

ではタスクとオーダーとはどこが違うか。オーダーとは指示情報であり、誰かから誰かに対して発行され受け渡されるべきものだ。タスクはなすべき作業自体をあらわしており、誰かが実行しなければならない。

オペレーションという言葉は、上記の「作業」に対応する。オペレーションには、インプットとなるべき資材・副資材等と必要なリソース、定義・標準化された手順、期待される所要時間や効率などが付随する。タスクはオーダーという指示に従って、具体的な資材やリソースに結びつけられることで、「オペレーション=作業そのもの」に具現化するのだ。

では、ロットとは何か。ロットとは、連続的な製造作業によって生みだされた結果(製品・半製品・部品等)のかたまりを指す。ここでいう連続的な作業とは、一つのセットアップ(段取り)から、次のセットアップまでの間に行なわれるオペレーションである。その産物は、基本的には均一な品質を持つことが期待される。したがって品質管理でロット履歴が重視されるのだ。つまりロットは作業の「アウトプット」である。
(ついでにいうと、焼鈍や造粒などの回分処理装置を使った作業の結果生み出される製品のまとまりを「バッチ」とよぶ)

ロットやバッチは、またも外来語である。すとんと腑に落ちる訳語があまりない。我が国では、「製番」で何でも串刺しにしてコントロールしてきたためだろうか。

オーダー(指示)によって、タスクが具体的なオペレーションに転化し、オペレーションの結果としてロットやバッチが生み出されていく。この“因果転生”の関係が理解されれば、これら用語の混乱も少なくなるだろうと期待したい。

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カムアップ・システムを使う

まず、カードとカードボックスを用意しよう。カードの大きさはとくに決まりはない。B6サイズでも3 x 5インチでも、いわゆる「京大型カード」でもいいが、現場で使うのだから少し堅めで丈夫な紙質のものが良い。それから、カードボックスには、見出しのついた仕切り紙を15枚ほど入れておく。

仕切り紙の見出しには、「月曜日」「火曜日」「水曜日」・・という具合に1週間分の曜日を2セット、書き込んでおく。残る1枚は、「3週以降」としておく。あるいは、もし几帳面な人なら、曜日で2週間分ではなく、「1日」「2日」・・・「31日」「翌々月以降」という風に、1ヶ月分+1枚=32枚用意するのでもいい。

さて、生産計画にしたがって先日付の製造指図が発行されたら(あるいは、MRP用語風にいうと、製造オーダーが計画状態Planned からリリース状態 Releasedにディスパッチされたら)、その製造指図番号と内容をカードに転記する。もちろん、製造指図書自体がカード形式で出力されるならもっと良いが、これは加工図面や製造仕様書やピッキングリストなどを一緒にするケースも多いので、必ずしもカード型が便利とは限らない。だからカードに必要な最小限の情報だけを転記するわけだ。

カードに転記した製造指図には、着手日が指定してあるはずである。そこで、そのカードを、着手日にしたがって、カードボックスの該当日の仕切り紙の後ろに差し立てる。こうしておくと、週次あるいは随時発行される製造タスクが、着手日付ごとにカードボックスにソートされて並ぶことになる。

さて、毎朝、当日分の仕切り紙の後ろに入っているカードを出して並んべてやれば、その日のやるべき製造作業が全部一目で分かる。その日の作業順序を考えて、班員に渡してやる。そして、一日の仕事をおえて就業時間になったら、作業日報にしたがい、完了した製造タスクのカードは廃棄する。その日のうちに完了できなかった仕事は、カードボックスの翌日の仕切り紙のところに差し立て直す。こうして、一日単位で仕事を回していくのである。

この仕組みは単純だが、やるべき仕事の「見える化」手法としては便利で分かりやすい。先日付の作業指示を受け取ったとき、机の上に積んで記憶しておくだけだと忘れがちだ。しかし、カードボックスに整理しておくと、当日の朝になると、自動的にカードが出現(カムアップ)してくる。そこで、これを「カムアップ・システム」と呼ぶようになったらしい。

ところで、ここまで読んだ方は、“なーんだ。工場の現場の話かあ。じゃホワイトカラーの自分には関係無いな”と思われたかもしれない。ところが大ありなのだ。今日ではむしろ、オフィスワークにこそ、カムアップ・システムが必要だからである。

昨今の情報化の進んだ製造現場では、むしろ端末をたたけば先日付の製造オーダーをすぐ見ることができる。ところが、オフィスにいるホワイトカラーは、明日、あるいは来週の今日、どの仕事がどれくらいの量あるのか、誰にも見えない。つまり、作業負荷が誰も分からない(上司でさえ)という状態なのである。なぜか? 理由は単純だ。オフィスワークでは、だれも「製造オーダー」に対応する「ワークオーダー」を発行してくれないからだ。上司も、隣の部署も、客先も、あなたに口頭で頼むか、せいぜい電子メールで送ってくるだけだ。

そのような「見えない」状態で仕事を進めていくと、困ることは何か。それは納期が守れないことである。だって、仕事がどれくらい忙しいのか客観的にわからない(自分でさえ分からない)のだから、当たり前ではないか。

そこで、私はオフィスでこそカムアップ・システムを使うことをおすすめしたい。カードボックスのかわりに、ファイルフォルダーをつかう(厚紙のものでも透明のものでもいい)。そのフォルダを、32冊、用意するのである。そして、「1日」から「31日」まで見出しをふっておく。

あなたが、誰かから会議のお知らせメールを受け取ったとする。会議用の配付資料が添付されている。そこで、それをプリントアウトして、会議の日付のフォルダに差し込んでおく。あるいは、あなたは来週、顧客のところに打合せに行かなくてはならない。そのための資料を用意したら、来週の該当日のフォルダに入れる。上司にレポートを宿題として渡された。そうしたら、A4の紙にやるべき内容を要点だけ書いて、フォルダにはさむ。こうすれば、自分がやらなくてはいけない仕事(To Do)は、すべてフォルダのなかに、物理的な実態として見えてくる。To Doリストの見える化である。

フォルダは、かならず日数分用意しなくてはいけない。2〜3日分ずつまとめて、などとやると見づらくて混乱するばかりである。また、自分は紙は嫌いだ、なるべく電子ファイルで画面上で処理したい、という方は、かわりにメーラーに31日分、フォルダを作ってもいい。口頭で受け取った依頼は、メモして自分あてにメールとして発信(受信)しておけばいい。

このようなやり方をはじめると、気がつくことがある。それは、タスクというのは着手日を決めることがとても大事だ、という単純な原則である。着手がそれより遅くなるると、納期に間に合わなくなるような、適正な着手日を見積もること。それが、オフィスワークにおけるスケジューリングの最大のポイントなのである。

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リソースの考え方

工場で製造作業に着手するために、必要なものは何か。まず、資材がなければならない。資材とは、原材料や部品など、その作業工程で製造されるアウトプット(製品ないし中間製品)に直接使われるものだ。

また、正しく製造作業を行なうには、情報がいる。これには2種類あって、“何を・いつまでに・いくつ作れ”という指示情報と、“それはこういう資材を使って、こういう風に作れ”という仕様情報がある。

しかし、製造作業には、これらの他に必要なものがある。まず、作業者だ。それから、加工のための機械設備。そして、副資材(たとえば切削油など)。それに、電力やスチームなどの用役。金型や治工具。そして(時には)作業スペースなどなど。

こうしたものを総称して、「リソース」と呼ぶ。リソースは製造に必要なもののうち、直接資材と情報をのぞく、すべてのものを指す。カタカナ言葉で呼ぶくらいなら、日本語で『製造資源』と呼んでも良さそうなものだが、あまり聞かないようだ。労働者のことを“資源”と呼ぶのは、抵抗感があるからかもしれない(もっとも英語では人事のことをHuman Resourceともいうが)。

むろん、リソースの考え方は、製造作業に限らず、検査、搬送、保管などの、生産と供給にかかわる作業すべてに共通に使える。直接の資材と情報以外に必要な、機器・作業者・道具・用役などをリソースととらえることができる。

ところで、生産計画やスケジューリングにおいて、リソースの取り扱いは難関の一つである。つねに細心の注意を払っておかないと、しばしば足元をすくわれる要素になる。ERPやAPSを導入した。必要な資材も情報もそろっているはずだ。それなのに、現場が動かない。なぜだ!? という問題が出るときは、たいていどれかのリソースが足りなくなっているせいなのである。

SAP R/3などのERPパッケージが備える生産管理モジュールは、ほとんどがMRPの手法を計画系機能のベースにおいている。MRPでは原則として資材と指示情報の枠の中でしか考えないから、リソースで問題が出るのはある意味で当然だ。

リソースには現場のいろいろな制約が集中する。その中でも、ふつう一番きつい制約になるリソースは機器設備の処理能力上限である。APSは、この能力の上限を考慮しながらスケジュールを立ててくれる。だから、MRPと違い、APSは実行可能なスケジュールを与えるはずだ、と信じている人は多い。APSベンダーもそんなふうなことを宣伝する。

だが、残念ながら、リソースは設備や作業者だけではない。たいてい、スケジューリングは他のリソースでつまずくのだ。

リソースの制約は、多種多様だ。設備や作業者ならば、供給能力の上限値であらわすことができる。しかし、金型や治工具はそうはいかない。作業中は占有されていて、作業が終わると開放される、1か0かのデジタルな制約だ(より正確にいうと、前段取りや後段取り時間も考慮しなければいけない)。また、用水や副資材などのように、使用後にリサイクルされてタンクに戻ってくるリソースもある。設備にしても、同種の機械のあいだで能力をプールできるもの、一時的に代替できるもの、など、非常にバラエティに富んでいる。

そして、APSのモデル化の能力を計る、一番いい指標は、リソースについていかに多様な種類が用意されており、どの程度モデル化がフレキシブルかを見ることである。逆にいうならば、生産スケジューリングがリソースでつまづくことが多いのは、APSにおける問題のモデル表現において、フレキシビリティを補うため恣意的に使われるケースが多いからだ。

スケジューリングにとりくむ場合は、リソースをゆめゆめ侮ってはいけない。

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計量・秤量・裁断作業のスケジューリング

最近、ある大手ソフト・ベンダーからMESパッケージに関するプレゼンを聞く機会があった。ご存知のとおり、MES(Manufacturing Execution System=製造実行システム)は業種別の固有な特性が強い。われわれシステム・インテグレーターの立場からは、どのパッケージをどの顧客に当てはめるべきか、見極めることがとても重要になる。

ところで、プレゼンを聞いていたら、「このパッケージでは、原材料を中間品や製品に加工していく段階のみを『工程』とよび、秤量は単なる『作業』として扱う」という説明が出てきた。マテリアルに加工を加えて、別のマテリアルにするような仕事のみを工程と呼ぶというわけである。つまり、言いかえると、BOMの親子関係で結ばれないような仕事は、製造工程としては付随的なものだ、という発想なのだ。

「秤量」とは何かというと、粉体や液体の原料を、精確に計量する仕事だ。化学天秤などの秤をつかって、必要量だけ小分けする作業である。主に医薬品や飲料・食品・香料・化粧品などの工場での呼び方だ。最近の秤量機械はインテリジェントで、上位系システムと接続してデータのやり取りもできる。広い意味では、「計量」の一種である。

そして、じつは多くの生産スケジューラや生産管理システムは、この秤量・計量といった仕事をうまく取り扱えない。「容器」をうまく扱えないこととならんで、現代のAPSシステムの困った欠点だと、私はかねがね感じている。

ご存知の方も多いだろうが、医薬品製造の世界には、GMP=Good Manufacturing Practiceという考え方があり、厚生省令で事実上法律と同じ力を持っている。このGMPの中では、秤量は製造行為の一部であると規定されており、正しく作業が行われていることを製造管理責任者が確認しなければならない。「薬のさじ加減」がずれたら薬効が変わってしまう以上、当然である。上述のベンダーだって、そのことはよく知っている。

にもかかわらず、生産計画やスケジューリングの中で、しばしば、計量・秤量などの行為は、脇役的な仕事と位置づけられる。なぜか。おそらく、MRPの所要量展開計算をしても、計量・秤量の指図が導出できないからなのだ。「BOMの親子関係に工程や工順(ルーティング)が対応する」というデータモデルの前提に、うまくあてはまらないのだ。秤量の前後でマテリアル・マスタの品目に変化が無いのだから、どう位置づけたらいいか分からない、のだろう。

同じような問題は、「裁断」という行為にもあらわれる。製鉄・金属材料・電線・フィルム・繊維などの世界では、原材料や製品をロールやシートで取り扱うことが多い。これを裁断して形を与え、小分けする作業が必要である。これも、物自体に変化を加える加工ではない。だからデータモデル上での位置づけに困ることが多い。食品工業によくあわられる「不定貫」の材料を計量する行為も似ている。

こうした幅広い業種で必要とされる作業をシステム化できないことの弊害は大きい。パッケージを持ってきても、業務にうまくフィットしないのだ。「業務をパッケージに合わせろ」となどいうことを言うベンダーもいるが、切らずに縫える布があったらお目にかかりたいものだ。MRPの考え方の根底には、機械部品などのディスクリート型の発想があって、ものを数えたり切ったりする必要性が抜け落ちている。この点に気がつけば、問題解決の糸口は見えてくるはずなのだ。

ところで、もしかすると、計量・秤量・裁断などの仕事が生産管理システムでうまく扱えない理由は、じつは別のところにあるのかもしれない。これらの仕事が『付加価値を生まない』と考えられているから、軽んじられてる可能性もあるのではないか。対象となる物品に何の変化ももたらさない、つまり価値創造に貢献していない、というわけだ。

そうだとすると、これはもっと深刻な哲学的問題(?)である。よく、「物流には付加価値がない」などという人がいるが、私は賛成しない。モノを利用可能な形で移動・保管・供給するのは立派な仕事だ。同じように、精確に秤量された原料は、秤量されていない缶の中の原料よりも高い利用価値がある。物の形を変えない限り付加価値とは認めない、という考え方の人は、「物を右から左に動かすだけで利を得る商人は、物を作る職人よりも身分が下である」という、江戸時代の士農工商の思想から抜け出ていないと、私は思うのだ。

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バッチ・プロセスにおけるスケジューリングの特徴

現在のたいていのAPSは、組立加工のジョブショップ(ディスクリート)型生産向けにできている。製品や部品の数量は、1個・2個・・と個数で数えられ、必要に応じてシリアル番号を打つことができる。部品表(BOM)は最終製品から下向きに広がっているツリーの形をしており、これをアルファベットの「A」の文字になぞらえて、A型BOMと呼ぶ。

ところで、世の中にはディスクリート型に当てはまらない生産形態の工場がある。化学工業はその典型だ。化学工場の製品はたいてい、液体かガスであり、シリアル番号化はおろか1個・2個と数えることさえ、できない。材料や製品はタンクに保管され、輸送はふつうパイプをつかって行なわれる。こうしたタイプの業態をプロセス生産と呼ぶ。

プロセス生産は、さらに連続プロセスとバッチ・プロセスに分類できる。連続プロセスの典型は石油精製やエチレン・プラントで、24時間365日、同じ製品群をずっと作りつづける(原料や製品の性状が少し変わることはあるが、同じ品目と見なされる範囲である)。反応器や蒸留塔などの装置には常時、原料の供給と製品の流出を行なっている。

他方、バッチ・プロセスは、その中核工程にバッチ方式の反応・処理がある。バッチ処理とは、原料を装置に仕込んで、一定時間かけて、ある変化を起こさせるものである。電気釜でご飯を炊くようなものだと思えばよい。バッチ処理の特徴は、原料の供給と製品の払出しが連続的ではなく間歇的であること、処理時間の長さが処理量に比例しないこと(1合のご飯を炊く時間は2合の半分では済まない)、同じ処理装置を使ってさまざまな製品を作れること(白いご飯でも炊き込みご飯でも)、などである。

原則として、完全な連続プロセスの工場には、スケジューリングの問題は存在しない。なぜなら、つくるものが常時同じだからだ。あるのは原料性状の変化などに対応するための、最適制御の問題だけである。ところが、バッチ・プロセスの工場は、多品種を切り替えて生産するケースがほとんどであり、明瞭にスケジューリングが必要である。にもかかわらず、現在のたいていのAPSでは、このバッチ・プロセスのスケジューリング問題を解くために致命的な、ある機能が欠けていることに、多くの人は気づいていないようだ。それは、「タンク」というリソースの取り扱いである。

プロセス生産の工場では、原材料や製品・中間品を保管するためにタンクをもっている。しかし、APSの観点から見ると、このタンクという装置はずいぶんと奇妙なリソースである。まず、このタンクという装置は、何もしない。入ってくる品目と出ていく品目が同一なのだ。そんなの、一時保管が目的なのだから、当たり前じゃないか、と思われるだろうか? しかし、だったらこのリソースは工順マスタの中で、どこにどのように位置づけるべきだろうか。APSでは、BOMにおける各階層の親子の間には、一つ以上の工順(工程)と、そのためのリソースが定義されていなければならない。いいかえると、リソースの入りと出が同じなどということは、考えられていないのだ。

もうひとつタンクに特徴的なことは、それが配管で他の装置とつながれていることである。つまり、他のリソースとの関係が固定的なのだ。ジョブショップ型の工場では、リソースの選択は原則として自由であり、前の処理がどの機械で行なわれたかには依存しない。ところが、プロセス型の工場ではそうはいかないのだ。

さらに、タンクには処理時間が規定できない(当たり前だが)。好きなときに入れて、好きなときに出すことができる。ただし払出しに要する時間は、ポンプの処理能力が一定のため、ふつうはその内容量に比例する。払出しながら、同時に注ぎ足したりすることもできる。

タンクは、どの品目でも保管することができる(温度圧力の制限に合致する限り)。ただし、一時に一つの品種しか保管できない。複数の品目を入れたら、中で混ざってしまう。これが、ディスクリート型工場で用いられる保管装置と異なる点だ。

そして、もっとも困る点は、容量に上限があることだ。バッチ・プロセスのスケジューリング問題で、いつも最大の悩みの種は、限られたタンクの使い回し、「タンク繰り」の問題なのである。タンクは高価で場所ふさぎなため、どこの工場でも有り余るほどタンクを持てないからだ。

ディスクリート型APSでは、製品・中間品の一時保管量を計算できるものは多い。が、そこに上限をつけられるものは少ないし、ましてや複数の品目の間で切替の制限を付けられるものは、非常に少ない。したがって、タンクは保管場所としてはモデル化しにくい。でも、加工処理のリソースとしては、もっとモデル化しづらい。バッチ・プロセス型の工場が抱えるスケジューリング問題は、案外やっかいなのである。

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コストのものさし 〜その表面と本質 (2012/02/12)

先日、TKK セミナーというところで依頼されて在庫管理の話をする機会があった。少人数だが熱心な受講者の人達と一緒に懇親会で話す事ができ、楽しい時間を持てた。その中で出た話の一つに、ある方が若い頃勤めていた会社でボールペンのまで管理しているというエピソードがあった。その会社ではボールペンを使いきると、資材のセクションはまで歩いて行って、ボールペンの芯だけ補充してもらったという。ペンの外側は、まだ使い続けられる。全部捨てるより芯だけ取り替えた方が安いのだ。

随分と節約した話だ、と皆が感心した。だが、私はこれを聞いて少し疑問に思った。たとえ今から20年以上前の話としても、当時の大卒社員の給料から考えて、人件費は平均で時間単価1,800円くらいにはなっただろう。つまり1分30円である。3分も歩けば、その人件費はボールペンの芯よりも高くついてしまうだろう。これでほんとに会社全体として節約になっているのか。

こうしたことは、落ちついて考えれば、誰でも分かるはずのことである。それなのに、なぜかくも奇妙なコスト管理が会社に横行するのか。

「それは資材部門が部分最適で動いているからさ」といった理由づけは、一応可能だろう。だが、結論を急ぐ前に、もう一つのエピソードを紹介しよう。わたしが以前所属していた部署の上司は、月末の金曜日5時になると、部員全員に号令をかけて仕事の手を止めさせた。止めて何をさせるかというと、「書類整理の時間だ」と宣言するのである。部員は全員、(その場にいないものを除き)自分の机の周りにある書類を整理しなければならない。

整理といっても、その中心作業は「捨てる」ことだった。ただし机の上にあちこち散乱している書類は、ほとんど全てが遂行中の仕事に関するものばかり。だから手元に「仮置き」しているのだ。捨てられるものではない。でも仮置きが増えてくると、次第にどの書類をどこに置いたか分からなくなってくる。使うときに探したり、へたをすればもう一度印刷したりしなければならない。それでも机上に「仮置き」してしまうのはなぜか。それは、ファイリングの手間が面倒くさいから、というよりも、ファイリングしたいけれど、ファイルにそのスペースがもう無いため、机に置くことが多いから、なのだ。駐車場が一杯のため、“ちょっと路上駐車”という訳である。そして路上駐車の車の列があふれてくると、こんどは肝心の仕事の「中心道路」で交通渋滞が起きてくる。仕事と都市の交通事情は、よく似ているのだった。

この問題は、だから「駐車場が満杯」という状況をなんとかしない限り、解決しない。そのために、ファイルを開けて、古い・もう不要になった書類を、捨てるべきなのだ。これが上司の指示の要点だった。そして駐車場(つまりファイルのスペース)に余裕ができると、机上に仮置きしていた書類をきちんとしまおう、という気持ちの余裕が生まれる。目的別に整理できれば、余計な探し物の時間を浪費せずにすむ。

それにしても、なぜ、月1回、強制的作業なのか。各人の自主性にまかせればいいではないか。そう思うかもしれない(わたしも当時はそう思った)。しかし、わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。受注ビジネスの仕事をしている。つまり客先の要求に追われる日々なのだ。しかも自分の勤務時間はプロジェクト別・WBS別にタイムシートで記録し、その「稼働率」で管理される。顧客向けのライン業務が優先し、そうでない仕事(書類整理なんかその典型だ)は後回しにされる。稼働率100%、すべて顧客向けの仕事をしていれば誇らしい、そういうマインドセットになりがちだ。

上司はそこを、あえて止めさせたのだ。稼働率を下げてもいいから、身の回りを整理しろ。それを命じないと、半年でも、1年でも、整理しないまま書類の山が増えていく。それが見た目に見苦しい、というよりも、それで実は目に見えぬ能率低下がおきてくる。それを止めたのである。月に1,2時間ならせいぜい稼働率1%の低下に過ぎない。それよりも探すべき書類がすぐ出てくる方がいい。

稼働率というのは恐ろしい指標である。稼働率とは、プロジェクトに従事している時間(顧客に対してChargeableなMan-Hour)の全体に対する比率で定義される。ところで、顧客要求に関連した書類を探し回っている時間は、稼働時間だと認識されている。書類が10秒で出てきても、15分探し回っても、どちらも稼働時間だ。前者の方が能率がいいことは誰にもわかるだろう。ところが、おかしなことに、後者の方が自分の全体の稼働時間が長くなるから、稼働率は上がるのだ。稼働率100%といったって、その内容を吟味しない限り、本当に誉めるべきかどうかは分からない。低能率で稼働100%の人と、高能率で稼働率50%で残業もせずにさっさと帰ってしまう人の、どちらが賢いか。

稼働率管理は、製造業では機械に対して適用される。これを人に対して適用するやり方は、建設業会計からはじまったらしい。そしてエンジニアリング業界や、IT(ソフトウェア)業界まで拡がった。原価を決める際に、年初に社員・常勤協力会社員の人件費(コスト)総額と稼働率を想定し、標準の時間単価を計算する。実際の仕事では、各プロジェクトごとに稼働した時間をタイムシートで記録して、その時間に標準単価をかけた金額が、個別人件費原価として計上される。そして年度末に、実際の稼働率を調べて、当初の想定と違う場合は原価差額を調整する。この方式に従うと、会社全体の稼働率が高いほど、人件費の原価(稼働時間あたり)は安くなる。だから稼働率向上を管理目標にしたくなるのである。

でも、よく考えてみよう。残業の多少の増減を無視して考えるなら、雇っている社員・常勤協力会社員の数は年間を通じて、ほぼ一定である。つまり人件費の総額は固定費なのだ。稼働率が50%でも、75%でも、会社から出ていく全体のお金は変わらない。稼働率を使った標準原価方式は、この固定費を、各プロジェクトあたりの変動費として擬似的に割り当てるための便法に過ぎない。変動費として賦課できなかった分は、間接費(不稼働損)として落ちるだけである。会社の利益(スループット)=収入−支出で、人件費支出の総額は変わらないのだから、利益を上げたければより収入を上げることが先決である。むしろ高能率化で稼働率は下げて、同じ期間内にできる仕事の量を増やした方が良い。だから月末の書類整理は、とても理にかなっているのだ。

わたし達は見かけ上のコスト管理に踊らされている。お金の世界は数字で分かりやすい(ように思える)。だが、その数字の奥にあるロジックは見落としがちである。とくに、人件費は注意が必要である。エンジニアの人件費を上記のように個別原価で管理している会社では、時間数だけでなく、その内容(能率)に注意しなければ意味がない。書類探しに終わる1日は、稼働時間かもしれないが何の付加価値も生まない1日である。他方、エンジニアはすべて販管費扱いの会社も多いが、そうした企業では、人の時間(の浪費)はそもそもコストとして意識されない。

では、最初のボールペンの例では、本来どうすべきだっただろうか。いちいちエンジニアに芯を取りに行かせるくらいだったら、ボールペンの芯を各部署に少しずつストックしておき、使い切ったらその場ですぐ取り替えられるようにする方がいい。そして資材部門は、定期的に各部を回って、消費された分の芯だけを補充して行くのだ。いわば、富山の薬売り方式である。在庫管理の用語でいえば、定数補充だ。もちろん、ボールペンの芯だけを対象とするのではなく、オフィスの事務消耗品全部を対象にする。補充の作業は、単純労働だからパートにやらせてもいい。わざわざ給料の高い大卒社員が往復の時間を無駄にするよりも、ずっと安くつく。使用者と補充者を分業することも、在庫管理の定石の一つだ。

コストを見たら、その表面だけでなく中身も見る力を育てるべきだ。一番大事なのは、人の時間を含む全体像を理解することだ。これ自体は、その気になれば格別難しいことでも何でもない。高度な理論も数式も不要だ。難しいのは、わたし達の頭の中にある慣習的な「思考の枠組み」をとりはらう努力なのである。

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品質とは(本当は)何だろうか − (1) 問い (2012/04/19)

わたしのつれあいは長い間、あるフランス製の化粧品を愛用していた。日本でも売っている店はあるのだが、少ないし、値段も高い。だから海外出張に出たときは、かえりに免税店でその会社の製品を買うのが習慣になっていた。化粧品は用途と色と型式で複雑なラインナップになっているから、出がけに手渡されたメモを頼りに、読みにくいフランス語表記の製品を店頭から探し出すのが、わたしの任務だった。

ところがあるときから、その依頼がぱたりと来なくなった。つれあいに理由をたずねると、“なんだか最近、あそこの製品って品質が落ちたのよ。ブラシとか安物でペナペナになってきたし、パフのケースもすぐガタが来ちゃう。きっと中国生産とかでコストを下げて来てるんじゃないかしら”−−という答えだった。でも、仮にそうだとしても、化粧品自体の性能に変わりはあったのかい、と聞き返したが、“そんなとこで手を抜く会社の製品が信用できると思う?”と、あきれた顔をされるだけだった。

化粧品に『性能』という概念が当てはまるものなのか、わたしはよく知らない。当てはまらないのかもしれない。あれほど多くの女性達が(一部は男性も)、あれほどの情熱と金銭をかけて選ぶ商品に、客観的な性能指標がないというのも不思議な気がする。まあ、きっと、そう思うわたしの方がおかしいにちがいない。ただし、化粧品の性能は論じられなくても、『品質』なら語ることができそうだ。このフランスの化粧品メーカーは、品質が問題で、長年の顧客を一人、失った訳だ。では彼らは、社内の品質管理部門や品質保証体制をきちっとすれば、この問題を解決できただろうか? なんだか疑問に思える。でも、だとすれば、そもそも品質管理とか品質保証とかは、何の役に立つのだろうか。

ちょっと別の話をしよう。設計の品質はどうやって確保あるいは改善したらよいのか? −−この難しいテーマをめぐって、ある会社のエンジニアリング部門に招かれて、講演をしたことがある。もう10年前のことだ。精一杯準備してのぞんだつもりだが、残念ながら上出来な講演だったとは言い難い。引き受けてからずっと考え続けても、「十分レビューする」くらいの事しか思いつけなかったのだ。相手の担当の方には、申し訳ない気持ちが今も残っている。でも、設計の品質とは何なのか? 製造の品質とは何が本質的に違うのか?

それから何年か経った後、別のある顧客の工場を見学させてもらった。偶然にもそこは、かつてわたしが講演をした会社が設計・建設したものだった。ディスクリート系の工場である。加工機械や測定器や自動搬送機械がずらりと並んで、整然とした連続処理を行う立派なシステムだ。しかし、その工場の立ち上げ時にはトラブル続出で、相当苦労した、と顧客の担当の方は言われた。機械も設計し直し・作り直しが多く、納期は遅れ、結局かなり赤字プロジェクトだったろう、と。わたしは機械エンジニアではないから、個別のマシンの設計の良しあしはわからないが、たしかに全体のレイアウトや、搬送のバッファーの置き方など、システム全体で観ると疑問な点がいくつかある。あの講演の題が「設計の品質」だったのは分かる気がした。

品質とは何かについて、もちろんJISやISOに定義はいろいろある。現在のJIS Q 9000:2006『品質マネジメントシステム』では、こうだ:「品質(quality)とは、本来備わっている特性の集まりが、要求事項(requirement)を満たす程度」。これは元々ISO 9000規格の翻訳だから、ここではあえて原語をカッコに入れて並記した。また、日本オリジナルの規格であるJIS Q 9005:2005『質マネジメントシステム』では、「質とは、ニーズまたは期待を満たす能力に関する特性の全体」となっている。

ちなみに後者では、「品質」から“品”の文字が抜けて「」になっている点に注意してほしい。理由は、「品質」ではモノの質のみを表す感じが強い点を嫌ったためだ、と聞いた。たしかに「物品」や「製品」などの言葉を見ると“品=Goods” と感じるかもしれない。だが、品という漢字は元々、「品格」「上品」などのように、クラスが上だという意味も持っていたはずだ。まあここらあたりは言葉の好みかもしれないが。

さて、上記のJISの定義によると、品質とは特性が顧客の要求またはニーズを満たす程度だ、となる。ところで、顧客が商品やサービスに求める最も重要な要求・期待とは、いうまでもなく『価格』である。できる限り低価格であること、あるいはせめてリーズナブルな価格であること、を第一に望まない顧客はいないだろう。それでは、“価格とは品質の一要素だ”と言うべきだろうか? 価格決定は品質管理部が決めるべきなのか? もちろん、価格は品質特性の一部などと考える専門家は誰もいないだろう。

では、顧客が価格に次いで要求・期待する『納期』はどうだろう。短納期であることは高品質を意味するだろうか? −−これも、なんだか違う気がする。納期遅れ問題の解決に、品質保証部が取り組むという話もついぞ聞いたことがない。短納期が品質の重要な一部だという事になったら、さぞやスケジューラ・ベンダーも商売が伸びてうれしいだろうが、そうなりそうな気づかいは今のところ無い。納期は品質に含まれないのである。

もちろん、JISやISOの規格屋さんは、こう指摘するかもしれない。「価格や納期は、対象に“本来備わっている特性”ではない。製造や販売の都合で、後付けで決まる特性だ」と。たしかに、ISOの文章はそう慎重にもそう記述している。

だったら、『性能』はどうだろうか? これこそ、顧客が望み、かつ要求する主要な特性ではないか。しかも販売部門や製造部門が恣意的に付与する特性でもない。すなわち、品質の中核である、と。

すると、こうなる:わたし達は例えば、同じ車種でも、1300ccのエンジンを搭載した車より、1600ccのものを搭載した車の方が、「品質が高い」と認識する、と。これは本当だろうか? あるいは、100Wの電球は、60Wの電球より「品質が良い」。そんな言い方を、わたし達はするだろうか? 品質管理の仕事は、より高性能な製品を出すことにあるのだろうか? はっきり言って、こうした差は「性能が良い」状態であって、「品質が良い」のとは違うことがわかる。そういう言葉づかいを、わたし達はしない。性能は品質の一部ではないのだ。

それじゃあ、『素材』はどうだ? いくらなんでも、素材こそ品質の重要な要素であるはずだ。−−では、あなたが「綿100%」の表示のついた外国製衣服を買ってきて、実はポリエステル混紡だったと知ったら、低品質をなげくだろうか。“詐欺だ!不良品だ!”と怒るのではないか? もしステンレス鋼を指定したポンプに炭素鋼が使われていたら、エンジ会社はメーカに突き返し再製作を要求するだろう。「重大な不適合だ」と言って。決して「もっと高品質な製品を」とは言うまい。

では、硬度や透過性や摩擦係数などの『性状』はどうだ? あるいは耐久性や賞味期限や保証年数などは? ・・もう賢い読者の皆さんは帰結を想像できただろう。もう一度、100Wと60Wの電球を思い出してほしい。両者の違いを品質の差と誰が思うだろうか。どんな特性項目であれ、それがユーザの主要な要求事項であり、価格に密接に関係し、かつメーカが表示・保証するものである限り、それはもう「品質が高い・低い」を評価する対象ではなくなるのだ。100Wの電球は、100W仕様であるだけだ。そこにあるのは、「合格」あるいは「不合格(欠陥)」の判断でしかない。なるほど、生産者の側からすると、不合格品の比率を下げること、あるいは不合格品を間違って出荷させないことは、品質管理部門の課題だろう。しかし、購入者の立場からは、買った電球が使えればそれでいい。100Wだから高品質、などと評価したりはしないのだ。

かくして、品質という言葉をめぐってさまざまな特性を吟味してきたが、引き算の結果、おどろいたことに何も残らないことになった。わたし達は『品質』を議論したがるが、これは実体のない中空の概念だ、と。したがって、「設計の品質」を論じるなども無意味なこと−−なのだろうか? わたし達の議論は、一体どこで道に迷ってしまったのだろうか? 

次回は、この問題にまったく別の角度から答えを与えてみたい。

(この項つづく

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品質とは(本当は)何だろうか − (2) 応答 (2012/04/25)

先日、あるプロジェクト・マネジメント関係の研究に目を通していたら、要件定義段階における「顧客要求の品質」という表現に出会って、ちょっと驚いた。周知の通り、IT系プロジェクトにおける要件定義とは、顧客のもつ『要求』を引き出し明確化するプロセスのことを言う。ここで作成される要件定義書が、その後のシステム設計の基礎となっていく訳だ。ところが、この顧客の提示してくる要求内容が、しばしば曖昧模糊としており、また部門や担当者の間で相矛盾していたりする。受託側としては非常に悩ましい問題で、たしかに、これ自体がプロジェクトの成否を左右すると言っても過言ではない。

そこでこの発表者は、要求工学やIEEE standard 830: "Recommended Practice for Software Requirements Specifications" などを引用しつつ、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性などを、要求仕様が満たすべき『品質特性』と呼び、それを満たす程度を『要求の品質』と考えたらしい。もちろん、この人の言いたいことはわたしも分かる。とくに一部の顧客が、それこそ「不当・不明瞭・部分的かつ矛盾した要求」を後出しジャンケンのように次々と繰り出してくるときには、「なんて品質の低い要求だ!」と言いたくなるし、あるいはISO 9000の品質保証コンサルが、“こんな品質の要求を出したらダメですよ、お客さん”と諭してくれたら、さぞや気が晴れるだろう、とも想像する。

しかし、このような物言いはJISやISOの思想には合致しないのだ。なにしろ品質とは「本来備わっている特性の集まりが、要求事項を満たす程度」なのだから、要求そのものの品質を議論すること自体が、ISOの枠組みを超えてしまう。現行のISO 9000では顧客重視が第一原則であり、要求とは顧客から来るもの(自社組織が勝手に想定し押しつけるものではない)と読み取れる。そもそもISOの定義によれば、要求事項(Requirement)とは、「明示されている、通常暗黙のうちに了解されている、または義務として要求されているニーズもしくは期待。」ということになっているのである(3.1.2節)。だから『顧客要求の品質』の議論は、いわば“メタ品質”ということになってしまう。

(ところで、上記の要求事項の定義文章は、なんだか日本語としてちょっと分かりにくい。正確には、「明示されているか、あるいは通常暗黙のうちに了解されているか、または義務として要求されている、ニーズもしくは期待)と補って読むべきであろう。JIS制定委員の人たちは、日本語の品質について少しは考えなかったのだろうか?)

ともあれ、わたし達が顧客要求の「質」を論じたくなるのは事実である。また、上記のような顧客にあたったら、それこそ「質のわるい客だぜ!」と嘆くだろう(質という漢字は「たち」と訓読みする)。それはいったい何故だろうか。

前回、コンビニで売っている60Wの電球と100Wの電球を例に、「100Wの方が60Wより品質が高い」という物言いを普通はしない、と述べた。また同じ型の自動車で、1600ccの車種の方が1300ccより「品質が高い」とは言わないとも書いた。たしかに両者は重要な特性が違い、だから価格も違う。なのにわたし達は、品質の差違ではなく、「仕様が違う」と認識するのである。

そのポイントは実は、「明示」にある。電球のワット数も自動車の排気量も、主要な性能特性(仕様)としてメーカー側から「明示」されている。これは、顧客の側から義務として要求される事柄についても、同様に当てはまる。ステンレスを使え、と指定された機械部品に、もし腐食しやすい通常の炭素鋼を使ったら、それは「品質が低い」のではなく、もはや「不適合(non-conformance)」なのである。QualityのLow-Highではなく、ゼロの問題になってしまう。契約で明示された義務を怠ったからである。

つまり、逆に言うならば、わたし達が品質の高低・よしあしを問題にするときは、「明示されない暗黙の期待」を満たす程度、について論じるのである。「1300ccクラスの車なのに、この足回りの加速性はどうだ!」と感心するとき、わたし達は期待したよりも高品質だな、と感じる。ところが100W用と明示された電球を、100Wのソケットにつけてちゃんと点灯しても、それは当たり前だ。明示された特性は、合致するのが当たり前である。たまに合致しなければ欠陥で、そこにはYesかNoしかない。品質の高低が大事になるのは、「明示されない期待」の時だけなのである。

あるいは、「一応は言葉で明示されているけれども、数値的に検証不可能な特性」も、品質の高低で語られる。その良い例は、前回挙げた化粧品である。“お肌が若返る”といった効能書きは、個々の消費者にとっては事実上、検証が不可能である。こうした商品に対しては、品質の高低という、ある意味ひどく感覚的な言葉でしか語れない。

そこでもう一度、設計の品質という問題に戻ってみよう。品質管理論では、「前向き品質」(forward quality)と「後ろ向き品質」(backward quality)という言葉が使われることがある。そして設計行為などの品質は「前向き品質」とよび、製造段階での品質を「後ろ向き品質」と呼ぶ。あるいは、このかわりに、「魅力的品質」と「当たり前品質」と呼ぶこともある。設計で作り込むのは主に魅力的品質で、製造で実現するのは当たり前品質という訳だ。

「製造部門は設計図どおりに作ること!」などという標語を、大きな文字で掲示している工場はない。設計図に明示された事項を、製造が実現するのは“当たり前だ”と、皆が考えている(少なくとも日本では)。じじつ、製造の当たり前とは、つまり、製造に対する明示されない暗黙の期待である。そして当たり前品質の特徴は、「それが欠落しているときにのみ論じられ、合致しているときは意識されない」ことにある。だから不良や欠陥の発生(当たり前品質の欠落)が、工場の品質管理の主な仕事なのだ。

だが設計の成果物のレビューは、そうはいかない。設計とは、要求事項や仕様を、部品やソフトの「機能と構造」に変換し、製造可能な仕組みに落とし込む作業だからである。明示された要件定義書がある場合は、もちろん組み込まれていなくてはならない(設計における「当たり前品質」)。しかし明示されていない期待についても、それを想定し、考慮に入れる必要がある。ここが設計の「魅力的品質」の部分である。

顧客がすでに明示したもの、それは魅力ではない。顧客が自分でうまく表現できないもの、でも実際に現前したら価値あると感じるもの、それが魅力なのである。たとえば「魅力ある異性」とは、まさにそんな存在ではないか。

日本の品質管理は、戦後の復興期における、統計的品質管理手法のアメリカからの輸入ではじまった。それは高度成長期に普及し、日本的な現場の小集団活動と結びついて、TQC活動となった。'80年代はまさに品質管理全盛の時代だったと言っていい。品質はすなわち利益に結びついた。ところが'90年前後のバブル景気時代から、しだいにTQCは色あせてくる。かわりに入ってきたのは、英国発のISO 9000の品質保証思想であった。ここで、品質とはペーパーワークである、という誤解が広く受けいれられた。

つづく「失われた20年」の不況の時代は、工場切り捨てと海外移転の時代だ。この時代、日本企業が本当に必要としたのは『前向き品質』『魅力的品質』を創出する仕組みだったはずだ。だが、そのためには品質の遂行主体を、工場の品質管理課から、営業も企画も技術も巻き込んだクロス・ファンクショナルな体制に移す必要があった。わたしの知る限り、このような思想を持って進んだ企業はきわめて少ない。

それでも、前向き品質をなんとか確保したいと願う技術者は多いだろう。そのためには、どうしたらよいか。一番良いのは、創造性のある人間を揃えて自由度を与えることだが、それは決して簡単ではない。そこで、次善の策として、「前向き品質を後ろ向き品質に変換する」ことを考える。つまり、意識されざる・表現されざる特性を、まずは言葉で表現するのである。具体的には、上にあげたような、正当性・明瞭性・完全性・一貫性・追跡可能性など“メタ品質特性”を「設計思想」の形でドキュメント化し、意識化するのである。もちろん、設計の途上では、完全性や一貫性を阻害するコストとのトレードオフ要素が沢山出てくる。それに対しても、優先順位の考え方を明確化する。

設計の品質を上げたければ、「設計思想(Design Philosophy)」を固めることが、結局は必須の条件なのである。おかしなことに、わたしたちは「思想」という言葉に対して身構える習性をもっている。だが、この苦境を乗り越えたかったら、もう一度、原点にかえって思想と格闘するしかなさそうである。

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安全第一とはどういう意味か (2011/04/02)

ある時、友人がやってきて「車を2,3日貸してくれないか」という。小規模な引越をしたいので車が入り用なのだという。レンタカー代ほどではないが借り賃も払うから、といって謝礼を菓子折と一緒に置いていった。

さて、数日たって友人が返しに来た車を見て驚いた。フェンダーから左のボディにかけてへこみが入り、サイドミラーも折れている。どうして、と聞いたら「左折時に不注意で障害物に引っかけてしまって」という。そして、「すまんすまん。でも、車両保険には入っているんだろ? たいしたことはないから、すぐ直るよ。事故は一定の確率で起きるもんなんだ。」・・そんな風に友人が言ったら、あなたなら、何と答えるだろう?

「いや、車なんか大丈夫。それより君に怪我がなければ、何よりですよ。」こう答えられるほど、寛大な度量はわたしには、無い。たぶん頭に来て、「馬鹿野郎! 人の車を事故っておいて、その言いぐさは何だ。確かに保険にゃ入ってるが、修理の間は使えなくなるじゃないか。お前の顔なんて二度と見たくもない!」と叫ぶだろう。そんな気がする。かりにわたしがビジネスでレンタカー屋を営んでいても、修理期間中の機会損失は保険では埋め切れない。面と向かって怒鳴りはしないだろうが、態度のわるい客には二度と貸したくないと思うだろう。

逆に、友人が使い終わって返しにきた時、きれいに洗車して見違えるようになった上、ガソリンは満タン、さらにオイルまで交換していてくれていたらどうだろう。無論、実際には走行距離の分だけは使って減耗している理屈だが、それでも、貸した時より立派になって返されたら、わるい気はしない。気持ちの良い友人だから、また何かあったら手伝ってやろうと思うはずだ。借りたものは、傷つけずにきれいに返す−−これは社会の常識である。できれば前よりもよくなった状態で返す、というなら信用すべき立派な態度であろう。

ところで、話はやや飛ぶが、皆さんは「度数率」という言葉をご存じだろうか? 労働災害統計の基本的な尺度で、労働時間100万時間あたりの事故災害発生率である。一人の年間労働時間はだいたい2,000時間程度だから、いいかえると500人規模の事業所で年間何人ケガをするか、を示す(作業が原因でなる病気も含む)。2009年度は製造業で3.8、運輸業で5.4くらいだ(「労働災害動向調査」による)。赤チンつければ済む不休災害が3割程度入っているから、職場を離れざるを得ない事故はもう少し減る。なお、海外ではOSHA方式の度数率を使い、こちらは20万時間あたりの傷病発生数で測る。

労働安全・衛生・環境の保全をあわせて、英語でHSE (Health, Safety & Environment) Managementと呼ぶ。会社のマネジメントの程度は、このHSEのレベルを見ると、ある程度わかる。わたしが生まれて初めて海外のプラント建設現場に赴任した時、最初に教えられたのが、このHSEであった。安全教育を受けないと、建設サイトには一歩も踏み入れられない(現場用の靴も支給されない)。毎朝の定例ミーティングは、Safetyの報告からはじまる。"Safety first"とはそういう意味だと、初めて学んだ。わたしが現場の道路を、暑くて防護眼鏡を外したまま歩いてると、客先(米国系石油メジャー)の年配のエンジニアから、「メガネをかけて下さい! オネガイシマス!」と呼び止められ注意された。ステップや階段に一歩でも足をかけて上がる時は、安全帯(フック付きのベルト)を体に掛けていなければいけない。そうした厳しいルールが、うるさいほど徹底されていた。

それはなぜか。わたしが建設部の先輩から聞いた説明は、こうだ。「実際の力仕事をしている職人やワーカーは、貧しい地方の村々からろくな教育も受けずに出てきて、家族を養うためにここで働いている。働けなくなったら、その日から家族皆が困る。だから一人でも怪我をせずに、現場から無事帰してやることが俺達のつとめだ。できれば、少しでもスキルを上げて帰してやれれば、もっといい。」そしてこうも言った。「度数率は目標じゃない、結果だ。誰も怪我させないことが、目標なんだ。」

ちなみに、下請け会社が事故を起こしたら、その記録は発注元の度数率に入るか、入らないか? 答えは「入る」である。なぜなら現場全体の安全管理責任は、発注元に残るからである。「権限や作業は委譲できるが、責任は委譲できない」が原則だからだ。わたしの勤務先はホワイトカラーのエンジニアばかりで労働者は一人もいないが、度数率統計があるのはそのためである。

そこで、冒頭のたとえ話を思い出してほしい。友人にとって、借りた車は「リソース」であった。リソースの定義は、すでに何回か書いたが、もう一度繰り返す。『作業に必要で、作業中は占有され、終わったら解放される』のがリソースであり、人や道具や設備機械や作業スペースなどを指す。使い終わったりソースは、返さなければならない。つまり、リソースとは借り物なのである。他部署から借りるか、他社から有償で借りるか、社会から無償で借りるか、いろいろな形態はありうるが、とにかく返さなければならない。

そして、返す時には無傷で返す、のが原則である。だから、Human Resourceとして動員した労働者は、全員を無傷でかえさなければならない。これが『安全第一』の本来の意味なのだ。労働者だけでなく、建設機械であれ、工具であれ、勝手に傷つけてはいけない。作業にスペースを使ったら、返す時には“立つ鳥跡を濁さず”で、環境を汚さずに戻す。借り賃や保険料を払っているから良い、というものではない。駐車場だって、借りたら代金を払うではないか。限りある資源を借りたら有償なのは当たり前だ。また保険は、損害のお金は払ってくれるが、失われた時間や能力は補填してくれない。

では自社の社員だったら怪我しても良いのか? とんでもない。自分の部下は自分の持ち物ではない。その証拠に、会社はわたしの同意を得ずに勝手に部下をつけ加えたり奪ったりするではないか。部下は会社から借りているのである。だから、自分の仕事のために部下の安全や健康を損なうことは、許されない。

そういう許されない事をし続けたら、どうなるか。答えは簡単だ。わたしは「信用を失う」のである(冒頭の友人の例のように)。信用はいったん失ったら、まず戻ってこない。そして信用できない人間には、たとえ金を払うと本人が言っても、だれも何も貸さなくなるだろう。リソースが無ければ、仕事ができなくなる。これが『安全第一』の原則を理解しなかった帰結である。

安全第一とは、借りたリソースは可能な限り無傷で返せ、という意味である。それなのに、“我が身の安全が第一”といった逆立ちの理解が、今の世間では通用しすぎているように思う。わたしはこうした態度を「安全第一主義」と呼んで、区別するようにしている。安全第一のまともな理解は、大学では教えられない。だから今の状況は、企業内教育(の不在)が招いた結果なのだろう。

この話を、どこかTVで報道される遠い所の工事現場の話だと思わないでほしい。度数率統計の対象にはなっていないかもしれないが、オフィスだろうがどこだろうが、原則は同じである。わたし達はいつの間にか、“お金で何でも解決できる”という考え方に染まりかけている。しかし、お金が活きて使えるのは、自分に社会的な信用がある限りにおいてである。そしてその信用とは、「自分は何を借りているか」に自覚的な人だけが保てるものなのである。

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