タイム・コンサルタントの日誌から


このページは、スケジューリング・生産計画・プロジェクトマネジメント・SCM・MES・電子商取引などに関連するトピックを選んで紹介するとともに、 私自身の個人的視点から簡単なコメントをつけたものです
(佐藤 知一)

→Blog版: タイム・コンサルタントの日誌から

→「革新的生産スケジューリング入門」にもどる


B2B企業にイノベーティブなITは可能か (2016-09-19)

英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと (2016-08-29)

マネジメントの仕事・地位・パワーを混同してはいけない (2016-08-16)

スペシャリストか、ジェネラリストか? (2016-04-19)

企業のミッション・経営理念を日米比較する (2016-03-28)

ユーザ側の『ITイノベーター』こそ、急いで育成するべきだ (2016-03-07)

マネジメントとリーダーシップはどう違うか (2016-01-26)

変わりたいですか? (2016-01-04)

ハラールとは何か、何ではないのか (2015-12-05)

トマト・ケチャップから考える米国のリショア(製造回帰)現象 (2015-11-11)

産業用IoTが生み出す(かもしれない)、新しい『つながる工場』のコア技術とは (2015-11-03)

忙しすぎる人のための手短な処方箋 (2015/10/15)

人を使うということのオーバーヘッド (2015/08/24)

YesとNoのゲーム − コミュニケーションを教えるということ (2015/08/02)

OSを持つ、ということ (2015/06/24)

ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり (2015/06/02)

顧客ロイヤルティの向上 〜 次もまた選びたくなる企業となるために (2015/04/20)

マネジメントのテクニックと技術論について (2015/04/12)

JUAS『ソフトウェアメトリックス調査2014』を読み解く (2015/03/28)

勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて (2015/03/11)

わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか? (2015/02/23)

R先生との対話 ― 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か (2015/02/02)

習慣化の力 (2015/01/05)

風雲忍法帖・舞竹城あじゃいる異聞 (2014/11/25)

ある経営者の命運に見る、石油資源の戦略性 (2014/11/17)

パーソナル時間管理のベーシック (2014/10/13)

存在しているだけで役に立つもの (2014/10/05)

イノベーションのもう一つのジレンマ (2014/09/21)

ロージーの返事を、ときどき思い出す (2014/08/21)

遠くに届くためには、力を入れてはいけない (2014/08/13)

プロジェクトは失敗するものである、という英国人の思想 (2014/06/29)

石油・ガス業界のニュースから見えてくる、奇妙な国際関係のループ図 (2014/06/02)

交渉学から見たロシア・天然ガス大型商談の実相 (2014/05/26)

R先生との対話 − 海外に展開する勇気、国内に居続ける知恵 (2014/05/19)

大企業病の作り方、治し方 (2014/05/12)

超入門:上手な工場見学の見方・歩き方 (2014/04/17)

アメリカン航空に乗るおじさんの日記 − サービス業の本質とリスクについて (2014-03-30)

Pushで標準化し、Pullで差別化する (2014/03/04)

社長で会社は決まる、のか? (2014/02/11)

今年の抱負はこう作ろう (2014/01/03)

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B2B企業にイノベーティブなITは可能か (2016/09/19)

あなたは、ある中堅SIerの開発部長だ。会社は受託システム開発をなりわいとしており、有名ではないが堅実な経営を続けている。そんなあなたはある時、突然社長に呼ばれて、こう言い渡される。

「君には明日から、わが社のCIOになってもらいたい。これまで外の顧客の仕事をずっとしてもらってきたが、明日からは経営者の一員として、わが社の情報システムを見てもらうつもりだ。紺屋の白袴じゃないが、我々の社内IT利用は、十分とは言えない。君には是非とも、これまでの外販の経験を活かして、イノベーティブなITの仕組みを作ってもらいたい。単なる業務の効率化だけではなく、新しいビジネスを生み出せるようなITの仕組みを、だ。」

経営者の一員、すなわち役員に抜擢された訳だ。とても誇らしい気持ちになる。しかし社長室を出て自分の席に戻ると、あなたはだんだんと大変な役回りを引き受けたらしいことに、気づき始める。わが社にとってイノベーティブなITの仕組みとは、いったい何を意味するのか。

あなたの会社は、造船業を中心に、重機や鉄工所などの業界を得意先として、基幹系情報システムを構築してきた。その分野の業務知識は、確かなものだ。船舶特有のさまざまな規制、複雑な業界構造や商慣習。そうした経験を組み込んだシステムでは、他社に負けないと思う。またIT技術の面でも、先進的なトレンドを、(真っ先にとは言えないにせよ)それなりに取り入れてきた自負はある。たしかにいくつかの案件では手ひどい赤字を被ったが、全体としては確実に利益を残してきた。

「しかし、今の分野の市場だけでは、先細りだ」との社長のセリフを、あなたは思い出してみる。「君も知っているように、SIビジネスはだんだんと難しくなってきている。かといってSE派遣だけで食っていくのも無理だ。新しいビジネスを創出しない限り、わが社の未来はない。」社長はそう断言した。あなたも、同感ではある。だが、自社にとっての新しいビジネスとは、何だろう? 流行のビッグデータやIoT、あるいはWeb技術だろうか。受託開発で生きてきた自分たちに、そういった技術の蓄積はない。やってできないかというと、なんとかなりそうな気もする。だが「気もする」だけの技術を売り込んで、買ってくれる顧客はいるだろうか。

あなたは自社の顧客リストを眺め直してみる。20?30社が、主要顧客だ。過去にさかのぼれば数百社になるが、業界再編もあり、今は限られている。その代わり、比較的継続して仕事を受注してきた。その半分ちょっとは、大手コンピュータメーカー、いわゆる「ITゼネコン」からの下請けだ。他に自社が直接営業をかけてとってくる案件が3割程度。営業部門の人数も限られているので、そう手広く回れない。

あなたはビジネスメディアや業界セミナーなどで情報を集めることにした。IT業界の著名人、外資系コンサルタント、調査会社などの言うことには、一つの共通点があった。それは、米国のイノベーションの成功例を引きあいに語り、ふりかえって日本のIT業界の不調を批判する、というものだ。シリコンバレーにはグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルなど錚々たる大企業がひしめき合っていて、しかも小規模なベンチャーが活発に新技術を開発、提案し続ける。その中にはUberやAirBnBなど、飛ぶ鳥を落とす勢いの成長株がいる。ベンチャーキャピタルの出資や買収も活発だ。

すごいなあ、とあなたは思う。たしかにイノベーションの生きた事例だ。だがそれを、どう自社のヒントにしたらいいのか。日本と違って米国では、7割のIT技術者がユーザ企業にいて、それでビジネス開発とシステム構築を同時並行に進められるのだ、という話も聞いた。だが日本の構造は急には変わらない。あなたの会社のSEたちを、顧客側に派遣して、いやたとえ移籍したとしても、すぐにビジネスを開拓できるだろうか。そもそも何のビジネスをか。Uberを真似て、船を手配するスマホアプリ? まさかね。

まあ、あなたの会社は9割がIT技術者だ。だから自社のビジネス開発に自社リソースを活用するのは、ありだ。それにしても自社システムの弱みはどこか。会計システムは2年半前に更新したばかりだ。プロジェクト管理システムは自社製で、UIが使いにくいし、人月コスト集計が翌月10日過ぎになって遅いという不満はある。だがこれを改良したとしても、社長の言う「単なる業務の効率化」に過ぎないではないか。では顧客管理とCRMか? しかしたった30社程度だったら、Excelでも十分だ。

自社内のシステム改革に手がかりがないのなら、せめて顧客のイノベーションをIT面で支援し、ともに手がけるというのはどうだろうか。船自体のUberは無理でも、ドックが空いたら、互いに貸し借りする仕組みはどうか。・・しかし所要時間わずか数十分のタクシーと、数十ヶ月間も占有するドックを、同列には考えられないし。

あなたは次第に焦りを感じ始める。せっかく役員に取り立てられたというのに、どう采配を振るったらいいのか分からないのだ。そんなある日、あなたは、会社を中途退社し経営コンサルタントとして独立した先輩と偶然、出先で会う。久しぶりに酒を酌み交わしながら、あなたは愚痴ともつかぬ最近の課題と悩みを口にする。するとその先輩は、意外なことを言う。「新ビジネスで急成長することをイノベーションと呼ぶのだとしたら、B2B企業に、イノベーティブなITなんてありえないよ。」

−−どういう意味ですか?

「B2Bというのは、Business to Business、つまり企業相手に商売をしている企業だ。これに対して一般消費者を相手にしている会社は、Business to Consumer、略してB2Cと呼ぶ。」

−−それくらいは、知っています。

「じゃあ、君のところの顧客筋である造船業や鉄工業、重機械なんかはどちらだ?」

−−えーと、B2B、ということになりますね。普通の一般人が、ふらっときて船を作ってくれとたのむようなものじゃありませんから。重機・鉄工も同じです。

「そういう顧客企業で、イノベーティブなCIOの人を見たことはあるかい?」

−−うーん。そりゃ、会社にもよりますね。たとえばA社のCIOであるKさんなんか、尊敬できる方ですよ。業務のことも分かっておられるし、ITの理解も確かです。ユーザを上手く説得して動かす力量もあります。あの方がいたから、A社の基幹システムはうまく収まったんです。

「なるほど、立派だ。だけど、その基幹システムはA社にとって『業務の効率化』の道具だろう? 新しいビジネスを生み出すような、イノベーティブな仕組みじゃない。」

??じゃあB社の例はどうですか。Hさんは情シス部長で、CIOというポストじゃないですが、E-BOM管理とWebEDIとをうまく統合して、サプライヤーを束ねるサプライチェーン・マネジメントのシステムを作ったんです。おかげで製造納期が1ヶ月近く短縮できるようになりましたよ。

「けっこう。だがそれも『業務の効率化』だろう。新ビジネス創出とはいえないね。」

−−そうなりますか。そうすると、ほかにいい例を思いつかないですね。そもそも顧客の中でCIOって肩書きのある会社は3割くらいですよ。あとは情シス部長が、IT系の役職では一番上です。それも大方の人はIT部門上がりなので、発想がIT技術よりで、あまりビジネ

「なんでも問題を人材のせいにしちゃいけない。人材のせいにすれば、どんな問題だって説明できてしまう。人の資質が理由じゃないんだ。そもそも、ITシステムの活きるメリットは何だと思う? 人の仕事をITが置き換えるときの、アドバンテージを知っているかい?」

−−今さらわたしに向かって、何ですか(あなたはちょっとむっとして、答える)。まず、高速性です。大量のデータを高速に処理できます。そして繰返し性。機械は同じ単調作業を繰り返させても、飽きません。それから、正確性ですね。計算機はミスをしません。ですが、これと今の話と、どうつながるんです。

「ごめんごめん、怒らせたようなら、あやまる。まさに君が言った三つの点が、ITシステム導入のメリットだ。だから、会計業務だとか、給与計算とか、設計計算だとかが、真っ先にIT化の対象になった。大量・単調、だが正確な処理だ。これが金融だとか保険だとか、多数の消費者と直接やりとりするB2C企業の場合、勘定系や顧客とのトランザクション処理まで広がる。そしてWebの登場とともに、流通販売というもう一つのB2C業界も、お客と直接やりとりする仕組みをつくるようになった。」

−−はあ。

「とにかくB2Cでは、お客の数が多いんだ。一つひとつの取引は単純だが。だから、ITシステムを顧客に直接使ってもらうメリットが生じる。大量・単調、だが正確な処理のね。そして顧客がITを使ってくれるようになると、次は、そのチャネルを活かして、新しい商品を売り込むという、マーケティングの道具になるようになった。わかるね。」

−−ですが、それと今の話とどうつながるんです?

「いいかい。『新しいビジネスを創出する』というのは、マーケティングの仕事そのものだ。正確に言うと、マーケティングと商品企画の二つの仕事だね。新規顧客の開拓と、新しい商品の開発。B2Cでは、それをWebなどのITシステムを通して、直接できる。そして、B2Cビジネスのもう一つの特徴は、ボラティリティが高いことだ。」

−−ボラ・・何ですって?

ボラティリティ。当たり外れの大きさのことさ。もとは株式の値動きの大きさを指すのに使われた用語だ。ボラティリティの高い市場では、一発あてると大きく成長できる。ヒット商品で急成長する会社の話は、よくニュースに取り上げられる。逆に言うと、ニュースになりやすいのは、ヒット商品の現れる、B2C企業だ。おまけにB2C企業は消費者相手に広告宣伝を打つ。だからメディアとの関係も強い。ますます、メディアに取り上げられやすい。」

−−はあ。

「それでだね。君がさっきあげていた米国のイノベーティブな企業、アップルだとかグーグルだとか、それからUberなんてのは、みんなB2Cの会社なんだ。一部は企業向けサービスもしているが、メインは消費者向けだ。企業向けでも、アマゾンのAWSなんて非常に多数の企業向け、B to many Bだな。だからB2Cに近い。そして、多数の顧客相手だからこそ、ITがビジネス創出のカギとして役に立つ。
 ひるがえって君の得意先の、鉄工・重機・造船みたいな分野は、特定少数の企業相手のB2Bビジネスだ。多くは受注産業。営業プロセスも長くて複雑。だからセールスをWeb経由でやっている会社なんていないはずだ。営業でITをフル活用している例があるかな?」

−−まあ、ありませんね。ITは、社内業務の効率化がメインです。・・あれ? とすると。

「社長さんのおっしゃる新ビジネスの創出というのは、マーケティングと商品企画だ。ただ誤解してほしくないんだが、マーケティングと営業機能は別だよ。営業は、なんなら代理店にアウトソースすることも可能だ。だがマーケティングは、自社で考えなくてはならない。ドラッカーはある本の中で、“企業に真に必要な機能はマーケティングと商品開発だけで、あとは全てアウトソースしてもいい”と書いているくらいだ。だが、B2BではITをマーケティング手段に直接活かすことが難しい。いや、そもそもB2Bの受注産業には普通、マーケティング部門すらない。ITは営業にさえ、活かしにくい。仕事が大量・単純でなく、少数・複雑だからだ。」

−−すると、B2B企業ではイノベーションにITを使うのが難しい、ということですか。

「もしもイノベーションという言葉が『新ビジネスの創出』という意味だとしたら、そうだ。少なくとも、マーケティングにITを活用するのは難しいだろう。新商品開発にITを使うことはありうるかもしれない。たとえばGEのビッグデータみたいに。まあ、あの会社もB to many Bだが。
 さて、では、君の会社のようなSIerは、B2Bかね、B2Cかね?」

−−それは・・B2Bです。

「そうだ。日本のたいていのSIerは、大手コンピュータメーカーを除けば、そうさ。だから社長さんの望むような、イノベーティブなITの仕組みをつくるのは、難しい。」

−−じゃ、わたしはどうしたらいいんですか。SI市場は先細りです。わが社は座して死を待て、とおっしゃるんですか!

「そうは言っていないよ。マーケティングにITを直接活用するのは難しい、と言っているだけだ。マーケティング自体が不要だ、などとは言ってない。むしろ逆だ。今まで受注ビジネスのB2B企業は、営業部門は持っていたが、マーケティング機能を持たないところが多かった。それは顧客の注文を待つ、御用聞きで生きていけたからだ。だがこれからはそうじゃない。マーケティング機能をちゃんと確立しなければならない。」

−−マーケティング。でも、それをウチの営業部長に期待できるかなあ。

「そこが誤解なんだ。マーケティングは営業じゃない。その二つは、設計と製造現場が違うくらい、違う仕事だ。中堅企業や中小企業では、マーケティングは社長がリードすべきなんだ。それこそ経営の中心的仕事なんだから。それを、IT企業だからってCIOに丸投げしちゃいけない。
 君も『イノベーション』という、カッコいい言葉に踊らされてはダメだよ。それは急成長と同義語ではない。ボラティリティの低いB2B分野では、画期的新技術が出たって、会社の急成長に結びつくことは珍しいんだ。新技術が上手なマーケティング戦略と組み合わされると、少しずつゆっくりと、目立たぬうちに、ニュースに報じられないまま、いつのまにか市場を侵食していく。そして着実に、利益を上げていく。そういう実例は、じつは日本には数多い。日本はB2B企業が製造業を支える国だからね。」

−−そうなんですか。

「生き残りたかったら、アメリカの派手な会社の真似ではなく、日本の、目立たないが技術とマーケティングで利益を出している会社の経営に学ぶことだ。技術力だけでも、マーケティング力だけでも、利益は出せない。その両者をつなぐことが、経営なのだから。」

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英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと (2016/08/29)

イザムバード・ブルーネルIsambard Brunel(1806-1859)の名前をご存じだろうか? 19世紀前半の英国を生きたエンジニアだ。生まれは今から210年前。その時代、英国は産業革命の成功を背景に、猛烈な勢いで勢力を伸ばし、北西ヨーロッパの島国から、世界最大の強国に成長しつつある時代だった。

BBC放送は2002年、「歴史上最も偉大な英国人100人」を選出した。1位はウィンストン・チャーチル。そして第2位がイザムバード・キングダム・ブルーネルだった(日本では「ブルネル」と表記されることも多い)。ちなみに、3位はダイアナ妃、4位がチャールズ・ダーウィン、5位シェークスピア、6位アイザック・ニュートン、7位エリザベス一世・・という具合だ。偉大な科学者や文芸家たちをおさえて、第2位の地位を占めた技術者ブルーネルとは、どんな人物だったのか?

1835年、首都ロンドンと、大西洋に面する英国西海岸の港町ブリストルをつなぐ、「グレート・ウェスタン鉄道」の建設事業が始まる。ブルーネルはその主任技師だった。当時まだ29歳。彼は路線候補地を自分で調査した上で、高低差や急カーブの極力ないルートを選び、さらに走行安定性と乗り心地を保証するため7フィートという広軌の鉄道を設計・建設する。建設ルートの中には世界最長のボックス・トンネルも含まれていたが、見事にこれをやり通す。さらに彼は自ら蒸気機関車の仕様を決めて作らせ、当時世界最高速の時速100kmの走行を実現する。

しかしブルーネルの構想はこれにとどまらなかった。彼は、ブリストル港から米国へ汽船航路をつくり、ロンドンからニューヨークまでをつなぐ、文字通り"Great Western"な輸送実現を考えていた。この当時、まだ蒸気船で大西洋航路を渡った実績はなかったし、船のサイズと必要な石炭や水の量から考えて、そんなことは不可能だと信じる人も多かった。しかし彼は周到な計算の上、船体を大きくする方が相対的に抵抗が少なくなることを示し、世界最大となる72m長の蒸気船「グレート・ウェスタン号」を作る。木造船だったが、骨格を鉄で補強した船だった。蒸気機関には最新鋭の復水器を装備し、高効率と水の消費量の削減を実現。そして1839年、見事に大西洋航路横断に成功するのである。

ただしこの船は、まだ船体の横に外輪をつけたパドル型だった(ペリー総督が乗ってきた黒船のタイプである)。ブルーネルはこの構造を刷新し、1843年には「グレート・ブリテン号」を就航させる。これは98m長、3,400トンの鋼鉄船で、推進力は外輪ではなくプロペラだった。今日の近代船舶の祖型となった船である。これによって、英国は北大西洋航路における独占的な地位を築く。

ブルーネルはさらに1852年には、210m長・2万2500トンという途方もなく巨大なGreat Easter号をつくる。構造的には二重底や防水隔壁をそなえた画期的なもので、これらの原理は今日の造船工学の常識となっている。この船は客船としては商業的に成功しなかったかわりに、特殊船として大西洋ケーブルの敷設に使われ、これによって欧州と米国は電気通信がはじめて可能となった

ところで今日の英国では、ブルーネルの名声はむしろ橋の設計と建設で記憶されているようだ。これも当時世界最長となった192m長の「クリフトン吊り橋」。ブリストルの西部を流れるエイボン川に架橋されており、今でも現役で使われており観光名所となっている。彼は設計において自重や応力分布を細かく計算し、鋼材の負荷状態を知ることができるようにしていた。

そして1859年完成の「ロイヤルアルバート橋」。機能と形状が美しく調和した設計の橋である。ただし、まだクレーンのないこの時代、河の中央部に設置する橋桁の工事が最大の難関だった。ブルーネルはここで『ニューマチックケーソン工法』を採用する。大きな鉄管を沈めて圧縮空気を送り、中で作業員がセメント等で補強し固定する工法だ。

彼はまた、英国のクリミア戦争のとき、戦地に赴いたフローレンス・ナイチンゲールの要請に応えて、木造プレハブ工法によりレンキオイ病院をわずか5ヶ月間で建設する。今日の衛生・消毒・換気・室温コントロールの原理をといいれた換気装置付きの画期的建築設計で、感染症を抑えたおかげで、他の野戦病院での死亡率が40%だったのに比べ、この病院はわずか3%にとどまった。

ブルーネルは1959年、わずか53歳で亡くなる。彼は大学を出ておらず、たたき上げだった(父親はフランスに留学させたのだが、国籍の問題で入学を拒否されたのである)。帰国後間もない若い頃、父親と協力してテムズ川の川底を通るテムズ・トンネルの施工に従事する。当時はまだ人力掘削の時代であったが、側壁を支えながら掘削していく一種のシールド工法を用いて建設され、鉱山以外では例をみない新しい方式であった。このトンネルは現在でも地下鉄East London線で使われ続けている。

彼ら親子は自ら先頭に立って工事現場で指揮し、崩落事故で労働者が取り残された時、一人戻って救出にあたったのも、若きブルーネルだった。こうした点も、彼が英国史上10傑も選ばれた理由なのだろう。理論だけでもなく、設計だけでもなく、施工だけでもない。その全てを率先してこなした点に、ブルーネルの偉大さがある。

BBCによる説明からの孫引きになるが、ブルーネルは「エンジニアという、閃きが不可欠であるけれど も、それと同時に投資家や事業家を惹き付け、製造・建設に従事する労働者達の士気を高め、なおかつ安全確保等の観点から細部へのこだわりも持っていなければならないという、困難な職業を完璧なまでにこなした、 バランス感覚に優れたタフな人物だった」。

ここには一つの、完成されたエンジニア像がある。彼は(むろん彼女でもいいけど)、

という4本柱が必要なのだ。どれか一つでも欠けると、大きな仕事はできない。

世の中には技術者が尊敬される国、尊敬されない国がある。たとえば、フランスではエンジニアの地位が高い。これは歴史的な理由により、工学部がグランゼコールとよばれるエリート大学に設置されてきたかららしい。ドイツやイタリアでも、マイスター制度などの職人手仕事への敬意と、長い科学研究の伝統があって、それなりのようである。逆にわたしはずっと、英国ではエンジニアは中流階級の仕事であり、地位はあまり高くないと思い込んでいた。しかしBBCのランキングを見ると、間違いだったようだ。かの国でもちゃんと、優れた仕事をした技術者は評価されるのだ。

正直にいうと、わたしがブルーネルの名前を知ったのはつい3年ほど前のことだった。アルジェリアのテロ事件で亡くなった、故・新谷正法氏(前副社長)が社内で行った、安全に関する短い講演資料で知ったのだ。その内容は、「ハイボールと、本質的安全設計の教え」 (2014/01/19)で紹介したとおりだ。じつは、飲料「ハイボール」の語源となったあのボール信号機は、ブルーネルがグレートウェスタン鉄道で採用した工夫の一つだった。シンプルだが、故障すると安全側に動き、本質的に安全な設計である。ああしたところに、傑出した技術者の精神が現れるのだ。

では日本で同じようなランキングを作ったら、上位に入る技術者はいるだろうか? あなたは誰の名前を書くだろうか。島安次郎? 本田宗一郎? 技術者は芸術家と違って、個人で名前を残すつもりで仕事をしているのではない。つくったものが、長く人々に使われることが、技術者には一番の幸せなのだ。石碑や銅像を建ててほしくて働くのではない。そしてもちろん、管理職として大企業で出世するか、さもなくば起業家になってIPOで金持ちになる事が、エンジニアとしての理想像だという今日の通念も、間違っているとわたしは思う。しかし、偉大な仕事をした人は、わたし達の社会にもたくさんいたはずだ。では、わたし達はなぜ、彼らの名前や、業績や、その理想と心意気を知らないのだろうか。

傑出した鉄道技術を表彰するために、1985年に「ブルネル賞」が創立された。だが、ブルーネルは、機械工学の仕事も、土木工学の仕事も、建築の仕事もやった。そして、どれも傑出していた。彼は何か一つの専門分野に立てこもった「専門家」ではない。科学研究の世界は、どんどん専門分化していく傾向にある。だが、技術は総合化していく必要がある。とくに「大きい仕事」「先端的な仕事」をしたければ、隣接する多くの技術を束ねていく力=インテグレーション能力がなくてはならない。

それと同時に、エンジニアは技術の歴史を学ぶべきである。技術は単体では生まれてこない。社会のニーズ、周辺を支える別の技術、最新の科学法則、そして事業を支える経済力など。こうした文脈をすべて見通した上で、はじめて優れた仕事が生まれるのである。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という金言がある。ならば、わたし達も、広く技術の歴史を学ぶべきではないか?

(ブルーネルの設計によるパディントン駅。なお、写真3点はいずれもWikipedia英語版からの引用による)

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マネジメントの仕事・地位・パワーを混同してはいけない (2016/08/16)

ある朝、目が覚めると、あなたはノルウェー国王になっていた。いったいどうしてこんな事になったのか。あなたは自分の名前も、生まれ育った日本の町も経歴も、全部ちゃんと覚えている。なのに、ノルウェー国王になったつい最近のいきさつだけは、すっぽりと記憶から落ちている。

呆然としながらも身支度を終え、質素ながらも立派な朝食を食べて人心地ついたあなたの前に、宰相がやってくる。彼は礼儀正しくあなたに挨拶をすると、いくつかの紙の束を取り出して、あなたの前に置く。「国王陛下。これが本日、発布いただきたい法律と政令です。どうか、ご署名ください。」

念のために言っておくと、北欧の国ノルウェーは、完全な民主主義国家である。法律は国民の選出した議員が国会で決める。だが、すべての法令は、国王の名前で公布するしきたりになっているときく。宰相があなたにサインを求めてきたのは、そのためである。あなたの前には、法令書類一式と、国王用の立派なペンが置かれている。

さて、ここで問題である。あなたは、法案にサインして交付することにした。あなたのしている事は、マネジメントだろうか?

・・これは、わたしが大学の授業でプロジェクト・マネジメントを教える際に、学生に問いかける質問の一つである。プロジェクト・マネジメントの講義であるから、最初はまず、プロジェクトとは何か、そしてマネジメントとは何か、について、簡単にレクチャーするところからはじめる。プロジェクトとは、(1)終わりのある仕事であり、(2)複数の人間が協力する必要があり、(3)失敗のリスクがともなうような種類の仕事である、とまず説明する(これはPMBOK Guideの”A project is an endeavoir …"という抽象的な定義を、わかりやすく言いかえたものだ)。

ついで、マネジメントとは多義語だが、その中核にある原義は、

 「人に働いてもらって、目的を達成する事」

だと教える。人を動かすことがマネジメントであって、自分の手を動かして何かを産出することは、(それ自体は尊い仕事だが)マネジメントとはよばない。

他に二つ、マネジメントとして大事な要件がある。それは、先読みとリスクテークを含む「決断」を必要とすることだ。不確実な状況下で決断しない人、決断できない人、先延ばしにする人は、マネジメントに向かない。また、計画を立て、現実との差異から学ぶことも、マネジメントに必須の仕事だ。 計画立案と現実の統率は「マネジメント」の車の両輪である 。だから、

「人を動かせない・決めない・見通せない・学ばない上司やボスに、皆さん方は将来、出会うかもしれません。だが、その人がたとえ立派な役職についていようとも、そういう人の仕事ぶりは『マネジメント』からはほど遠いというべきです」

という話をしてから、上記の質問をするのである。ある朝気がつくと、あなたはノルウェー国王になっていた。さて、法案にサインし交付するあなたの仕事は、マネジメントか? と。

こういう聞き方をすると、マネジメントではないと思います、と答える学生がほとんどだ。なぜ? とわたしは聞き返してみる。たいがいは、こう答える。
「だって、人を動かしている訳でもないし、自分で決断している訳でもないでしょう。」

でも念のため、わたしは意地悪く質問を重ねる。・・そうかなあ。法律を定めたっていうことは、ノルウェーのすべての人がそれにしたがって動くということじゃない? つまり、人を動かしている訳だ。それにあなたは、自分の意志でペンを取って、サインすると決めたんでしょ?

「でも、法案にサインしない、っていう選択肢はないんだとしたら、それは決断とは言えないと思います」

その通りだ。ノルウェー国王には、こんな法案は気に入らないから、別のものを持ってこい、と議会に命じる権限はない。拒否権はないのだ。それに、法律が人を動かすのは事実としても、それは国王が意図した目的のために作られる訳でもない。だから「人を動かして目的を達する」ことにはならない。

念のためにいうと、ノルウェー国王は、元首である。国内で、彼(彼女)よりも偉い人はいない。人々の上に立つ、トップリーダーだ。だが、人の上に立つということと、マネジメントをする事とは、まったく別である。この単純な事実を理解してもらいたくて、わたしはこんな変な質問を学生にするのだ。

というのは、「管理職の地位に就く」ことと、「マネジメントの仕事をしている」ことを、人はしばしば混同するからだ。何らかの地位にあるのは、英語で言えば to be ?である。しかし、マネジメントをするのは、英語なら to do ?だ。イコールにはならない。

さらにいうなら、マネジメントは、管理職になるよりずっと前から、たいていの人に必要となる仕事なのである。「人に働いてもらって目的を達成すること」である以上、入社後まださほど年数もたたない若手技術者が、仕様書を書いて外注先に発注し、仕事をしてもらったら、明らかにこの人はマネジメントをしている訳である。あるいは、同僚や先輩の協力を得て店を決め、得意先との楽しい飲み会をセットし幹事の仕事を全うできたら、マネジメントの初歩をしているのだ。いや極端に言えば、朝の食卓でお母さんに「そこのお塩とって」と頼んで、お塩をとってもらったら、その瞬間は母親をマネジメントしたのだ。

もっとも、「立っている者は親でも使え」の諺にしたがって、母親にお塩とってと頼んだら、「何いってるの、あんたが自分でとりなさいよ、この不精者!」と逆襲される可能性は多々ある。あなたには、母親を動かす『強制力』がないからである。上長はふつう、部下に命じて動かす強制力を持っている。なぜなら上司には、部下の査定と予算承認の権限があるからだ。部下が著しく不従順ならば、査定で給料を抑えたり他部門に飛ばしたりすることも可能だ。発注書だって管理職の判子がなければ普通は効力を持たない。

こうした強制力のことを、英語ではパワー(Power)とよぶ。いいかえれば、『権力』である。管理職は部下に対する権力を持っている。とくにアメリカ英語は簡潔かつ即物的だから、権力を持つ人のことをパワフル(Powerful)だと表現する。かつて黒人女性としてはじめて国務長官の地位に就いたライス女史のことを、有名誌が「世界で最もパワフルな女性」と表現したが、これは単に彼女がエネルギッシュであることを述べただけではない。実際に世界で(米国大統領を除けば)もっとも権力を持っていて、他国を否が応でも動かせる立場にいることを意味したのである。

さて、世の中のたいていの組織は、地位についてピラミッド型の階層構造を持っている。どうしてこういう形の組織が生まれるのか、本当にこうした位階秩序は合理的なのか。この問題については、ノーベル賞を受賞した経営学者ハーバート・サイモンをはじめ、多くの研究と説明があるが、ここでは省こう。ともかく、上に行けば行くほど椅子の数は少なく、職位が上の方が名誉も大きいとされている。人間には生まれ持った競争心があるから、組織人はつねに、上に行きたいという気持ちを抱いて働くことになる。

昇進への欲望をモチベーションにして、人を働かせるという方策は、たいへん良くできた仕掛けであって、これまで十分な効果をあちこちで示してきた。昇進もなく、将来への希望も全くない職場だと、どれくらい仕事の質や効率が落ちるか、容易に想像できると思う。

しかし、このような仕掛けには、まずい点が一つある。それは、地位・権力(=パワー)と、「人を動かし、見通しを持って計画し決断して、目的を達成していく」仕事(=マネジメント)とが、混同されやすい点である。くどいようだが、地位・権力は、"to be" とか "to have” で表現するもので、マネジメントは “to do”で語るべきものだ。

だが、管理職という地位・権限と、マネジメントという職能を等号で結びつけてしまったがゆえに、
「マネジメントは管理職がするもの」
「管理職だからマネジメントしているはず」
「自分は技術者だから(管理職じゃないから)マネジメントは関係ない」
といった誤解と錯覚が、あちこちで無限に増殖していく。

マネジメントは一種の専門的な技量であり、それをきちんと行うためには専門的技術(「管理技術」)を学ぶ必要がある、というような認識は、出世街道とピラミッドからなる組織図からは生まれにくい。まして、「プロジェクト・マネージャーとは、マネジメントという仕事を専任で引き受ける、一種の『役割』(Role)である」という概念など、非常に縁遠くなる。

プロマネとは一時的な(=有期性の)役割である、というのは、現代PM理論の世界では常識的な概念だ。ちょうど演劇で、今回の芝居ではこの人が国王役、と決めるように、そのたびごとに決める役割である。そして、いったん役割が決まったら、たとえそのプロマネが自分より年下であろうが、技術的には自分の方がずっと知識があろうが、最終的にはプロマネの計画や判断に従って動いていく(むろん、途中で意見のやりとりはあるだろう、当然だが)。なんとなれば、プロジェクトの最終的成果、価値への責任はプロマネが負っているからだ。責任を負うから、権限も委ねる。「権限=責任」の等式の両辺は一致させる。そのかわり、マネジメントのための管理技術の体系を学ばせる。これがまあ、現代流の(あるいは西洋流の)PM理論の考え方である。

ここでは、マネジメントをする「個人」と「ポジション」と「管理技術」が、それぞれ独立している(DB技術風にいうと、独立したエンティティになっている)。ところが、出世街道ピラミッド型の組織論で、すべてのマネジメントをまわそうとすると、
「優秀な個人」←→「上の立場・権力」←→「マネジメントの仕事」
という風に、ひとつながりになってしまう。

ここからさらに派生して、「部下を動かすのが上司の権限」=部下を不合理にいじめて上司風を吹かせるのも有能なる自分の特権の一部、と合点するパワハラ不心得者さえ、一定数、出現する。

ピラミッド型組織で、このような不都合を防ぐには、どうしたら良いのか。解決策は、二つある。一つは、管理職位ごとに、きちんと細かくルールを設定することだ。どういう人間ならばその職位につけるのかという、能力による品質基準(Qualification)。その職位がなすべき機能と権限の範囲。そして機能が要求する技術・知識・スキル。こうしたことを、個別に設定する。これを、ガバナンスとよぶ。

ただし、この処方箋の困難な点は、社内ルールを制定する権限もまた、上位職者が握っていることだ。だから「マネジメントには独立した管理技術がある」なんて意識がこれっぽっちもない方々が経営層に多い場合、こうしたルール制定は不可能だろう(そんなルールを敷いたら、まず自分たちが真っ先に不適格になってしまう)。本当は株主がガバナンスを要求すべきなのだ。だが、利益が出て株価が高ければ、あとは興味のない株主も多い。

もう一つの方策は? それは、「外を見る」ことである。自社のありようは自社のありようとして、外ではどうなっているのか。目前のライバルだけでなく、広く視野を世界に求めて、世の中ではどうしているのかを、学ぶ。これは日本企業が、これまで以上に海外と接するようになった今日、むしろ日々得られる体験でもある。

その昔、咸臨丸にのって米国を視察してきた勝海舟に、江戸城で幕府の重役がたずねた。かの米国と我が国の違いは何かと。海舟は、人間のすること古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません、と答える。しかしそれでも何かの違いはあるであろう、と繰り返したずねた重役に対し、
「さよう、少し眼につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
と答えた。するとご老中が目を丸くして、「この無礼もの。控えおろう!」と怒鳴ったという(「氷川清話」による)。

わたし達は勝海舟ほど剛胆ではあるまい。だが、米国の実情が彼のいう通りかどうかはともかく、他者を見て改めて我を振り返る、というのはわたし達に共通した特性である。勝自身、さまざまな身分の浮沈をくりかえし経験した人間であった。だからこそ彼には、地位と職務の違いが見えていたのである。

追記:

ネットで検索すると、現在のノルウェー国王ハーラル5世は、この方である。Wikipediaによれば、なんでもノルウェー生まれの国王は、500年ぶりらしい。ときには自国の言葉もしゃべれない他所者を国王に招いたりするヨーロッパの人たちの王室感覚というのは、よく分からないものである。国王というのも、あるいは一種の『役割』なのだろうか・・?

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スペシャリストか、ジェネラリストか? (2016/04/19)

わたしが就活をしたのはもう大昔のことだが(当時は「就活」なんて言葉はなくて、みんな「就職活動」といっていた)、エンジニアリング業界志望だったので、今の勤務先のライバル会社も当然、訪問した。そのときたしか先方の人事部長さんと会ったのだが、自分の会社には「42歳定年制」という仕組みがあると言われていたのを今でも覚えている。

当時はどこの会社も定年は55歳だった。ところが、その会社では42歳になったとき、退職するか、勤務を続けるかを選び直すことができるという。「42歳くらいになると、自分が会社で将来どこまで行けるかが漠然と分かるようになる。そのとき、独立して自分の道を選び直せるように会社も支援する」ことが制度の意図だと、たしか説明されたと記憶している。

現在その会社のホームページにいっても42歳定年制では検索にかからないから、すでにその制度はないのかもしれない。しかし、この説明は長く記憶に残った。

「まだ歳も、四十であれば面白き」という江戸時代の川柳がある。40歳というのは、自分はすでに若くないと自覚するときである。世に出て職に就き、それなりに生きてきた。ただ、自分の能力や境遇、そして行く末もなんとなく想像できるようになる。それはまた、迷いの時だ。今までのルートをまっすぐ歩むか、別の道を行くか、思案のときということだろう。

42歳というと、昔はそろそろ課長になろうという年齢だ。主任や係長は経験し、人を使って仕事をする立場に近づく。そのとき、技術系ならば専門技術の現場から離れて、管理職という名のジェネラリストであることを求められる。それでいいのだろうか。技術への未練もある。自分はまだ本当のプロとはいえないのではないか。スペシャリストの道を続けるのか、ジェネラリストの道を選ぶのか、選択を迫られるというわけだ。

キャリア関係のウェブサイトを見ると、スペシャリストかジェネラリストか、などという問いがけっこう出てくる。若い人、とくに技術系の人には、ジェネラリストという職種はピンとこないし、よく分からない。ジェネラル工学なんて言う学科も大学になかったし。だから憧れる人は少ない。

結果として、若手社員のほとんどは、スペシャリストを目指す。

ところで、どんな職種だって、一人前のプロになるにはだいたい10年かかる。医師も、弁護士もそうだ。業界で一流の相手とそれなりにやりあえるまでには、15年かかるという人もいる。しかし、早く専門技術を身につけたい若者には、その時間がもどかしく感じられる。はやく業界に通じるプロになりたい、いざというときは転職しても拾ってもらえるようになりたい。このままでは技術を深掘りするどころか、会社的な雑用ばかりだ、という不満の声もきこえることがある。

そうやってスペシャリスト志向をもつエンジニアにとって、ジェネラリストという言葉が頭に浮かんでくるのは、専門分野を何年間か走ってきて、「はたしてこのままでいいんだろうか?」という迷いを感じたときだ。42歳というのは一つの曲がり角なのだろうが、もっと前から感じる場合もある。どちらを選ぶかは、本人の適性によって決めるべきだ、みたいなアドバイスをキャリア関係のサイトなどは書いている。

ところで、本当に組織はジェネラリストを求めているのだろうか? 求めているとしたら、組織内にどれくらいの比率で必要としているのだろうか?

これは、組織によっていくつかのタイプに分かれるだろう。ある種の組織では、専門家を(種類も人数も)多数抱え、それをごく少人数のスーパー・ジェネラリストがマネージする。中央集権的な形態だ。オーケストラと指揮者の関係と言ってもいい。ジェネラリストの比率は数%以下だ。こういう組織では、権限が集中しているので、即断即決。いろいろなことが機敏に決まる。ただし部下に権限がないので、組織横断的な中規模問題、たとえば品質問題などへの対応に手間取るという弱点がある。お分かりだろうが、米国企業にはこうしたタイプをよく見かける。

これに対比するような書き方をするなら、日本企業の多くは、もっとジェネラリスト比率が高い。社内にミニ・ジェネラリストを多数抱えて、各人が隣接部門とコーディネートする、分散協調型の組織である。コンセンサス(合意形成)型なので、変化に対する意思決定が遅いという弱点がある。そのかわり、現場改善はまあ、得意だ。全体を見通す大局観のある人材がいないため、大規模なシステム作りはへたと言ってもいい。

まあ、現実には両者の間にいろいろなバリエーションがある。とくに、日本の官庁や、官庁に準ずる組織形態をもつ企業では、幹部候補のエリートを、2?3年単位でいろいろな部署に回す習慣がある。当然ながら、一つの専門知識やスキルを身につけることはできない。最初からジェネラリストとして育てるのである。そして早い段階から管理職ポジションについていく。こういう組織では、そうしたキャリア職種と、ノンキャリア職種がくっきり分かれている。ノンキャリアは局所的には異動があっても、基本は同じ職種を続けていく。キャリアの人数比率は少ない。そういう意味ではまあ、アメリカ型の中央集権に近いと言えなくもない。

ただし、アメリカ型の組織と日本型の官庁組織は、大きく異なる点が一つある。先ほどアメリカ型で采配をふるう人材は「スーパー・ジェネラリスト」だ、という言い方をしたが、じつはそれは正確ではない。正しくは彼らは「マネジメント人材」であり、米国流の考え方では、マネジメントというのはスペシャリティー(専門職)の一種なのである。だからビジネススクールみたいな学校で集中的に学ぶことができるし、学ぶべきだと考えられている。日本流の考え方では、特定の専門分野を持たないジェネラリストであることと、マネジメントができるということが、どこかでごっちゃにされている。

たとえていうならば、オーケストラの指揮者はジェネラリストなのか、専門職なのか、ということだ。最初はビオラを弾き、それからフルートに異動させ、第一バイオリンでコンサートマスターを経験させれば、指揮者になれるだろうという考え方は、たしかにちょっと奇妙である。

だが、ふつうの日本企業の話に戻そう。たとえばある程度、同一分野で経験を積んだエンジニアには、少しずつ隣接する周囲の業務分野も理解させ、ミニ・ジェネラリストにしようと仕向けるようなところも多い。だが、当のエンジニア達はこうしたプレッシャーに、しばしば反発を感じる。それは技術屋の看板を外して、管理職として生きろ、と言っているようなものだ。

たしかに昭和のように、年齢別人口ピラミッドが正三角形で、職位のピラミッドと相似形だった時代なら成り立った策だろう。しかし、今はミドルになっても管理職のポジションがたりないし、仮になっても部下がいなかったりする。おまけに終身雇用だってゆらいできている。だから、専門技術の現場から遠ざかることの代償が「ちょっと出世」では、納得できなくなっているのだ。しかも年齢ピラミッドがゆがんでいるせいで、42歳どころか、もっと若い時分からジェネラリスト圧力がかかるようになってきた。

では、中堅のエンジニアはどうすべきなのか。それを考えるには、エンジニアにとって、「出世」以外に本当に望ましい報償は何か、を問い直す必要がある。それは、「技術屋として面白い仕事をする」ことではないだろうか?  仕事それ自体が、報酬である。なぜなら、技術が好きだから、そして技術が面白いから、エンジニアを選んだ人がほとんどだからだ。

でも、「面白い仕事」とはどんな事だろうか。それは当然ながら、今の仕事のあり方を変えるようなインパクトを持つ何かを、作り上げることだろう。それは魅力的製品かもしれないし、画期的設備やシステムかもしれないし、あるいは業務プロセスそれ自体かもしれない。ただし、それは専門的技術領域を深掘りしていくだけで実現できるのだろうか?

著名なシステム・コンサルタントであるジェラルド・ワインバーグは、かつて成功したシステムと不成功に終わったシステムを比べて、「成功のほとんどすべてが、少数の傑出した技術者の働きに依存していることに気づいた」と書いている。そうした技術者たちは、理工学部出の純粋エンジニアでもなければ、経営学科出のよくあるMBAでもなかった。『問題解決型リーダー』というべき存在であり、彼らに共通する特徴は、他人を動機づける能力、組織化する能力、そして独創的アイデアへのこだわりであった、と書いている(「スーパーエンジニアへの道―技術リーダーシップの人間学」)

このことは、いいかえると、本当に面白い仕事をしたければ、アイデアだけでなく、他人を動かす能力をもて、ということになる。それは、「隣接業務を知るミニ・ジェネラリストになれ」とは、ちょっと違うことなのだ。

してみると、中堅技術者にとって、選ぶべきキャリアの道は、専門分野に職人的にこだわり続けるのか、あるいは、他人を巻き込んで新しい仕事を作る道を選ぶのか、二つに一つということになる。後者の場合、面白いことにワインバーグは、上に述べた能力は、あまり技術分野にかかわらず適用可能だという。そして、適切な気づきとトレーニングがれば、自分で伸ばせるとも書いている。

もしかするとわたしは、こういう事ではないかという仮説を持っている。どんな専門分野でも、かなり深掘りして突き詰めると、汎用的な方法論の地下水脈に行き当たるのではないか。そして、いったんそれを手にすると、井戸の壁を抜けて、水脈沿いに、いろいろな場所に行けるのではないか。絵にすると、前々回(「見えない壁に突きあたった中堅エンジニアが学ぶべき、三つのこと」)の「T字型人材像」に通じるのだが、ただし上下が逆で、垂直に底までいくと急に水平に広がる姿である。これこそ、いわゆる「一専多能」といわれる人材像ではないか。



ただ、このような水脈を掘り当てるには、専門をそうとう掘り下げる時間と努力が必要ではないのか? いや、実はもう一つ別の道があるのだ。それは、一カ所をある程度掘り下げ、何となく達成感ないし行き詰まりを感じたら、別の場所(専門分野)にうつって、あらためて縦堀りしてみる道である。そうしてみることで、「三角測量」的に、元いた技術的専門の距離感や制約が見えるとともに、共通に使える道具立てがあることを気づけるのだ。それはわたし自身の経験でもある。

世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」にも書いたように、わたしは39歳のとき、思い立ってそれまでの設計専門部を離れ、海外プロジェクトの分野に転出した。それはわたしにとって大きな転機だったが、同時に、自分がそれまで何を学んできたかを再認識する機会でもあった。ずいぶん遅い転身ではある。だが、(この点だけは日本の終身雇用制の長所だと思うのだが)専門能力が低いからといって、会社はすぐにはクビにせずに使い続けてくれるのだ。こうした転身は、たぶん米国では難しいチャレンジだったろうと思う。

ちょうどここまで書いたところで、畏友・渡辺幸三氏がBlog「設計者の発言」に、『適用分野と実装手段の組み合わせ戦略』http://watanabek.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-01b8.html という面白い記事を書かれているのを読んだ。ITの世界で、適用対象の業務分野と、実装技術の縦横の軸で、技術者がどのような戦略をとるべきかを論じている。これはちょうど、音楽で言えば「レパートリーの幅」と「楽器の幅」に対応しているともいえる。最初は楽器になじむまで、ずっと一つのジャンルで修練を続ける。それから、別のレパートリーにトライしてみる。そうするとある時点から急に、楽器の使い道が、そして他人とのハーモニーの仕方が見えてくる。そうすると急に、技術的な自由度が増すのだ。

それは決して、何でも屋の「ジェネラリスト」になることではない。一専多能の「問題解決のスペシャリスト」になる道なのである。

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企業のミッション・経営理念を日米比較する (2016/03/28)

まずは、ちょっとクイズからはじめよう。下の文言は、ある会社の経営理念である。

「私たちは世界のひとびとになくてはならない存在でありたい 」

これはどこの会社のものだろうか? 答えは下の方でかくが、見る前に少しだけ考えてみていただきたい。
・・思いつきましたか? では、第二問。次のスローガンと企業理念は、どこの会社のものか。

世界人類との共生のために、真のグローバル企業をめざす○○○○」
 企業理念 :
  世界の繁栄と人類の幸福のために貢献することそのために企業の成長と発展を果たすこと

これをじっと見て、いや三度繰り返し熟読してみても、どこの企業のものか推測するのは難しいだろう。どこの会社でも、当てはまりそうな気がするからだ。世界人類とかグローバルとか、言葉は大上段だから、中小零細企業ではあるまい。だが、表だって社会との「共生」を目指さない、つまり社会と敵対的であろうと公言する企業がいるだろうか? グローバルをめざす日本企業は、今や過半数だろう。成長と発展だって、どの会社だって望むはずである。この標語と理念なら、ほとんどすべての大企業に当てはまりそうだ。わたしの勤務先だって、あてはまるとおもう。

最初の問題の答えは、「三洋電機(株)」である。2008年に経営が立ちゆかなくなり、2009年にはパナソニックに買収された同社は、法人格としてはまだ存続しているが、実質的には従業員ゼロだときいている。残念ながら、“なくてはならない存在”でありつづけることはできなかったのだ。同社で一所懸命に働いていた人々にとって、今はさぞ無念な言葉だろうと想像する。

第二の問題の答えは、あえて書かない。誰もが知っている、とても立派な企業である。だが、この標語と理念で、この会社がどういう会社か、分かる方は少ないと思う。気になる方は、まあ、ネットで調べればたぶんわかるのではないか。誤解しないでいただきたいが、わたしはこちらの会社を批判するつもりなど、全くない。たぶん、あれほどまでに優秀で差別化された製品を作り続ける同社にとっては、もはや理念の上で差別化する必要などなかったんだろうな、と想像するだけだ。

少し前のことだが、わたしは企業理念やミッション・ステートメントについて少し興味を持って、調べてみたことがある。上の二つは、そのときに見つけた例である。調べるにあたっては、

「ミッション・経営理念 社是社訓―有力企業983社の企業理念・行動指針」社会経済生産性本部・編集   (Amazon.com)
「世界最強の社訓―ミッション・ステートメントが会社を救う」パトリシア・ジョーンズ、ラリー・カハナー著 (Amazon.com)
の2冊の本を参考にした。前者はタイトルにもあるごとく、983社(ほぼ日本企業)を、後者は米国企業約40社を調査しカバーしている。ただし出版年次は、日本の方が2004年、米国は原書の出版が1995年で、いささか古い。したがって、すでに現状とかわっている会社もあるし、最初の会社のケースのように、会社自体がすでに消滅している例も含まれている。

ただ、そのように歴史の荒波にもまれた(?)結果を見ることで、気づくこともあった。最大の発見は、日本と米国では企業理念やミッション・ステートメントのあり方が、随分違うということだ。内容が違うのはもちろん当然だが、「あり方」が違うのだ。

日本企業の社訓・経営理念 は、大きく三つのパターンに分かれるように思えた。すなわち、(1) 古き創業者の語録、(2) カタカナの並ぶ広告代理店作成風、(3) 主に社員に語りかける訓示的な言葉、の三種類である。 古き創業者の語録は、しばしば毛筆や旧仮名遣いでなされていて、内容もじつに品格高く、高邁である。たとえば、会社設立の目的が

「一つ、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」

にはじまり、経営方針には

「一つ、経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する」

と書いた、東京通信工業(株)の設立趣意書などはその典型の一つだろう。これを敗戦の翌年である昭和21年に書いた創立者・井深大氏の理想主義にはまことに敬服する。ましてその後の同社の道のり(社名をソニーと変更した)を考えると、感銘深いものがある。しかし、ここまで高踏派ではない創業者ももちろん多数いたようで、もっと町の商人的な、分かりやすい、つまり平凡なレベルの言葉遣いも多い。

(2)については、はっきりいってわたしの趣味ではないので、ここではあえて紹介しない。バブル時代、CI=コーポレート・アイデンティティづくりが流行ったが、結局は広告代理店にロゴマークとスローガンづくりを依頼しました、みたいな印象が強かった。おまけにカッコいいつもりの外来語の多用。(いや、お前のサイトだってカタカナ言葉だらけだろ、というご批判はもちろん承知の上だが^^;)。

(3)のカテゴリーでは、とくに「お客さま」「信用」「品質」「社会への貢献」が、比較的多く使われる言葉である。ここらへん、いかにも日本企業らしいなあ、と感じる。とにかく、比較的短く、情緒に訴えかけるものが多い のも特徴だ。

これに比較して、米国企業のミッション・ステートメント は長く、構造的で、理屈っぽい。主たる文章に、補足説明のパラグラフが並ぶ 例が多い。たとえば、こんな感じだ:

Mission :
 われわれは、クライアントにはすぐれた価値を、スタッフには輝かしい成功を、オーナーには卓越した業績をもたらすべくつとめる

クライアントへの責任
・われわれは、クライアントの成功こそわれわれの成功であると考え、彼らのために献身する。
・われわれは、彼らのニーズを理解し、現実的な助言、効果的な施策、革新的な製品開発など、すぐれた価値を提供することで、つねに彼らの期待を上回るべくつとめる。
・またわれわれは、つねに最先端のメソッドとノウハウを提供すべく継続的な研究を進める。

これは老舗の技術コンサルタントArthur D. Little社のステートメント(の一部)だ。たいへん立派なものである。「米国では会社は株主の所有物で、経営はただ株主利益だけを目的として進められる」と解説されることが多いが、これを読む限り、同社はそう単純には規定していない。会社はクライアント(顧客)と、従業員と、オーナー(株主)の三者に、それぞれもたらすべきものがある、と考えている。

米国の文章は、その多くに、主力の商品・サービスが分かる言葉が入っていることも特徴だ。「自分たちは何者であるか」を、明確に定義する点に主眼があるのだろう。用語で言うと、
- 「顧客の満足」
- 「価値」
- 「社員(スタッフ)」
- 「適切な価格」
などが多く使われる言葉である。 日本と比較すると、信用・品質のかわりに価値や満足がきている点がまあ、面白い。

ジョーンズとカハナーの著書は、単に各社のステートメントを集めただけではなく、実際に各社のキーパーソンに対してインタビューを行い、そうした文章が設定されるまでの過程を取材しているので、非常に興味深い。起草や決定プロセスも様々だ。ただ、これを読むと米国企業では、’80年代にはじめてミッションを文章化したところが多いことに気づく(同書は1995年刊行)。日本でCIとスローガンづくりが流行りはじめたのは前述の通り’80年の終わり頃だが、米国はその約10年先を走っていたわけだ。しかし逆に言うと、’70年代までは米国企業でも、ほとんどはミッション・ステートメントを持っていなかったことになる。

なぜ、米国企業は経営理念だとかミッションだとかの文章を、’80年代に必要とするようになったのか?

ここから先はわたしの推論だが、その理由は、不況と多角化戦略の進行が背景にあると思われる 。米国はいうまでもなく、1945年の第二次大戦終結以後、ずっと経済成長のレールをばく進していた。「GMの利益はアメリカの利益」といわれたのは’50年代のことだ。それが、’60年代終わり頃から少しずつ変調を来し、はっきりと曲がり角にさしかかったのは’70年代半ばのことだった。

それを象徴する出来事は、オイルショックと、ベトナム戦争の終結(敗北)だった。ニクソン大統領が金ドル交換停止を宣言し、ドルの威信がゆらぎはじめたすぐ後のことだ。これによって、安価な石油をガブ飲みする大量消費型の生活(アメ車がその象徴)に、ブレーキがかかることになった。

いわゆる「経営コンサルティング会社」が米国で急速に発展するのも、この時期である。成長が鈍化し、不況に突入したとき、企業は何よりも人員整理と経営の立て直しを迫られた。

その結果とられた方策はなんだったのか? それは、企業買収による多角化であった。M&Aはごく普通の企業戦略ということになった。だが、その結果として、複合的な企業グループが誕生した。いいかえると、「何の会社なのか分かりにくくなった。」

その典型は、長距離バスの代名詞だったグレイハウンド社の歴史に見ることができる。サイモンとガーファンクルの名曲「アメリカ」にも登場する同社のバス事業が、停滞期に入って以降、同社は買収による多角化に打って出ることになる。WikiPediaから引用しよう。

「グレイハウンド社は・・1970年代には巨大な多角化経営企業となり、アーマー精肉会社からダイアル石鹸会社、トラベラーズ・エクスプレスの為替事業、MCIバス製造会社、さらには航空機の貸し出しまで手がけるようになっていた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/グレイハウンド_(バス)) 他に、わたしの記憶に間違いが無ければ、電池のデュラセルも買収していたはずだ。

このような会社が、いったい何をしたい企業なのか、誰も説明できないに違いない。もちろん株主にだって分かるまい。だから、’80年代に入ると、あらためて企業自身によるポジショニングの宣言が必要になったのだ。ちょうど米国の経営学も、ポーターらのポジショニング戦略論の全盛時代に突入していた。

では、日本の企業は?

日本企業がバブル時代にアメリカの流行を追いかけたことは、すでに述べた。ただし日本の場合は、むしろ「多角化のために」CIを導入したケースが多い。このころ企業はこぞって、名前から「建設」「観光」など業種を表す語尾をとって、「○○コーポレーション」などのモダンな(?)社名に変更した。昭和の泥臭い創業者社訓から、無味無臭な平成流「経営理念」への転身が行われたのである。

だがバブル景気は長く続かなかった。その後20年以上にわたり、企業は景気低迷時代を過ごすことになる。その間、企業の経営理念の文章はどう変化したか? モダンだがどこの会社にも共通するような優等生的な文章、という点で、あまり大きな変化はなかったように、わたしには思える。それはつまり、差別化も個性化も、十分には希求されなかったことを示している。

わたし達が「理念」やら「哲学」やら「ミッション(使命)」やらの明文化を求めるのは、わたし達が未熟なまま中途半端に豊かになってしまったからである。お爺さんが山に芝刈りに、おばあさんが川で洗濯をする農家に、ミッション・ステートメントは必要なかった。戦後の闇市から東京オリンピック頃までの、誰もが生きるのに必死な時代には、理念なしでも商品を作れば片端から売れた。その後、成長した経済が曲がり角にきて立ち尽くしたとき、自分で進む方向を決めるために、はじめて哲学や使命が切実になったのである。それはファッションでお隣の先進国がやっているから自分も、といったものではなかったはずだ。

わたし達の社会はもう一度、誰にでも当てはまる優等生的な文章は忘れて、自分の頭で理念を練り直すときにきていると思う。自分が誰か、他とはどこが違うか、何をめざしているのかを、あらためて訴えかけるべきだ。そしてその説明の中心には、必ず「価値」論がくるはずだと、わたしは強く信じている。

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ユーザ側の『ITイノベーター』こそ、急いで育成するべきだ (2016/03/07)

昨年のことだが、あるIT系コンサル兼調査会社の主催するカンファレンスに出席した。参加者は大手企業や官庁などのITリーダーばかり40?50人ほど。「ITリーダー」というのはやや微妙な表現だ。主催者側は本当は「CIO」の参加を期待したのだろうが、実際の参加者の大多数は、情報システム部長さん達だったので、こういう言葉を使ったらしい。わたしはCIOでも情報システム部長でもないが、まあ現在は社内の中期的な情報戦略をつかさどる立場なので、この場に混ぜていただいた。

わたしが参加したセッションは二つ。「グローバル企業のITガバナンス」と、「IT人材の育成」をテーマにしたものだった。円卓を10数名で囲んでディスカッションする形式で、コンサルタントが議論をファシリテートする。なかなか興味深い試みだったと思う。同席したのは、自動車会社が3社、大手通信業者、大手製造業、外資系メーカー、エネルギー企業、航空会社などなど。わたしの勤務先など、この中ではかなり小ぶりな方である。なお、呼ばれたのはユーザ側企業ばかりで、いわゆるIT専門のベンダー企業はいない。

グローバル化した日本企業が、海外子会社を含めたITガバナンスと統制をどう行うか、というテーマも意外な苦労話が多くて面白かったが割愛する。今回は、ユーザ企業のIT部門長さん達が、部門内の人材育成にどう取り組んでいるか、という話の方を紹介したい。

ま、紹介したいと書いたが、じつは「IT人材の育成に、これといった決め手はないですね」というのが参加者の共通した感想なので、紹介すべき妙法はとくにないのである(^^;)。みな似たような苦心を重ねているんだな、と互いに確認し合えただけだ。どういう苦心かというと、『人材のミスマッチ』である。

なにせユーザ企業なので、IT部門に所属するITエンジニアといっても、元からそれを志望して会社に入る例は少ない。ただ配属された以上は、それなりに能力とキャリアアップが求められるし、また自らも志向するのがサラリーマンというものだ。そこで、エンジニアとしては専門技術を求めて、ITのスペシャリティを深めよう、それで評価されよう、としていく。それはITインフラ系であったり通信系だったり、データベースやWeb技術、パッケージの知識だったりする。

しかし、ユーザ系企業が情報システム部門に本当に求めているのは、もっと別の能力なのだ。それはエンドユーザー業務を理解し、IT技術をテコにして、それを改革していく提案能力である。開発フレームワークだのクラウド並列処理だのは、専門のITベンダーや情報子会社のプロに任せておけばよい。それよりも、最新の技術を応用すれば、ライン業務をどう変えることができるかの知恵を、会社の側は期待しているのである。ITスペシャリストとして生きたい部員の側と、業務改革のリーダーを期待する経営側の期待がミスマッチを起こしている。それが今の問題なのだった。

(もっとも、上記の話はシステムの開発や修正改善を主に外部委託する企業の話で、内製志向の強い会社には必ずしも当てはまらない。ただその会合にきていた20社弱の内、ネット専業の企業を除くと、極力内製する方針の会社は1社のみだった)

また、多くの企業の悩みは、そうした情報システム部員が、「ユーザから要求されたものを作ります」という受け身の姿勢に留まっていて、業務側への提案や踏み込み姿勢が足りない、という点であった。ここは個人の資質にもよるとは思うのだが、とにかく消極的である、提案能力が足りない、というのが不満点らしかった。

では、かくいう部門長さん達ご自身はどうなのだろうか。みな、一応の業績を上げてきたからこそ、大企業の部長までなられた訳だろう。それなりに業務側への踏み込みも、提案能力もおありに違いない。そう思って話を聞いているうちに、分かったことが一つあった。部長さん達の中には、ずっとIT畑一筋の人もいれば、途中からIT部門に配属になった人もいた。ただ多く共通している点は、何か大規模なシステムの改革や、あるいは企業自体の合併などもっと大きな改革に立ち会って、そこで頑張って力を発揮したことだった。

かりに情報システム部長職というのが、ユーザ企業におけるITエンジニアの到達点だとしよう。この点にたどりつける人は、たまたま大規模システムの作り直しや、業務改革の波にぶつかった人だ。その中で業務の知識も得たし、開発プロジェクト・マネジメントの全体像も実感をもって身につけることができた。ユーザと交渉し押し切ったこともあろう。だが、そうした大きな変革は、毎年ある訳じゃない。ふつうは、よくて5?7年に一度という程度ではないだろうか。 10年に一度かもしれない。では、そういう「大波」に立ち会えなかった技術者達はどうしたらいいのか?

これが米国のように、IT技術者の流動性の高い社会ならば話は別だ。米国は日本よりもずっと内製志向が高いが、そのかわりIT分野はエンジニアの転職も多い。昨年わたしはボストンでPMとアナリストのカンファレンスに出席したが、そこで話した感じでは、3,4回の転職歴の持ち主はザラだ。大きなプロジェクトがあると会社は人を集める。それが終わると、また機会を求めて別の職場に移っていく。こうして、しょっちゅう業務システムをつくる技術と経験を得る、という感じだ。だが、日本でITエンジニアだけ急に転職市場が増えるとは、考えにくい。

議論を聞いているうちに、わたしは、ユーザ企業の側がなんだか無い物ねだりをしているような気がしてきた。ユーザ企業はIT技術を活用して、社内業務を改善したり、あたらしい市場へのリーチを広げたりしたい。それはいいのだが、じゃあ業務を改善する主役となるのは、情報システム部門のITエンジニアであるのか、それとも業務部門側のユーザであるべきなのか? ユーザ側で業務に詳しい人のことを、SME (Subject Matter Expert)とIT分野では呼んだりする。つまり業務エキスパートである。業務をイノベーションし、新しい業務を設計するのは、ユーザ側の業務エキスパートなのか、ITエンジニアなのか? 本当はユーザ側がイノベーションをリードし、IT側がサポートする、というのが正しい姿ではないだろうか?

これは、逆の面から考えてみると分かりやすい。つまり、改革後の新しい業務システムができあがったとき、そのシステムのオーナーシップは誰が持つべきか、という視点である。それはユーザ側であるべきだと、わたしは思う。情シス側がオーナーシップを持つのはおかしい。新しい家を建てたら、所有者は住民である。まさか建築家がオーナーにはならない。その新しい家が、住む上でまだ不都合だったら、補修や改良工事もする必要がある。その判断は、オーナーである住人がするべきだ。工事にかかるお金と、その改良で得られる便益を比べて、判断するのだ。これを工務店の側がやったらおかしい。

である以上、わたしは情報システム部門のエンジニアが、IT技術のプロとして控えめであることは、けっしておかしな姿だとは思わない。建築家だって弁護士だって医師だって、優秀な人はむしろ謙虚で控えめではないか。ただしプロとして主張すべきことは、断固として主張する。筋がおかしいことは指摘する。でも、「あんたは住み方をこう変えるべきだ」なんて押しつけがましいことは言わない。

業務を変える視点を持つべきなのは、むしろ業務ユーザ側の人間なのである。彼らが、このご時世、最新のIT技術を使えばもっと効率の良い、あるいはイノベーティブな業務の仕方に変えられるはずだ、と発想し、リードしていくのが、本来の正常な姿ではないか。違うだろうか?

今のIT技術者への期待論を見ていると、まるで建築士に、「何でも良いからカッコいい家を作ってよ」とそっくりかえって言い放つ住人の姿のようだ。自分がどんな暮らしをしたいのかも言えないくせに、提案だけを求める。そして、出てきた図面を見ると、「こんな値段じゃ高すぎるよ!」と、必ず文句をつける。そんな施主ばかりだから、日本には良い建築が増えないのだ。いや、話題がそれた。

こうした視点から見ると、わたし達の社会では、むしろユーザ側におけるITの教育が不足しているように思われる。まあ、ユーザ全員がITに詳しくなる必要はない。ただ、10人に一人で良いから、IT的なセンスのあるユーザがいた方が絶対、組織にとって有用なはずである。

ここでいう「IT的なセンス」とは、別段パソコンに詳しいとか、Excelのマクロが器用にかける、といったことは意味していない。むしろ、システムで得られるデータの分析と問題抽出、解決の仕組みのデザイン、要件の確定、といった能力が肝要なはずである。

こう考えてみた結果、ユーザ側の(仮称)『ITイノベーター』に必要なスキルと能力は、大きく分けて6つのエリアからなるのではないかと、今のわたしは思っている。それは以下のようなものだ。

1. 要件定義(業務デザイン)の能力

業務フローを理解・作成し、ありたい姿を構想できる設計能力。これが第一だ。さらにいえば、データ処理機能の理解や、コード(ナンバリング)設計のセンスまでカバーできれば、もっといい。ユーザ側はいろいろな業務要求をもっているものだが、その「要求の品質」を確保する能力が大事である。そのためには、短期・中長期な要求をバランスさせ、部門・全体の両方の視点から、考えなくてはならない。

2. システムのもたらす価値評価の能力

情報システムがもたらす価値を評価できる能力が、ユーザには絶対に必要だ。これは、結局オーナーシップをもつのがユーザ側だからである。その価値が、ウン千万円の開発投資や運用コストに見合うかどうかを判断し、経営層にアピールするのもユーザ側である。ITコストを見積もる作業は、ITエンジニア側の仕事だ。ただITコストの概算感覚とか、開発スケジュールの推定感覚とかがあると、もっと素晴らしい。

3. 開発プロセスにおけるユーザ側リーディング能力

開発プロジェクトは山あり谷ありである。その間、ユーザ側の代表として、他のユーザを引っ張ってもらわなければならない。そのためには、開発プロセスへの基本的な理解や、ユーザ・インタフェースの構想・デザイン案の評価能力が、どうしても必要である。

4. 業務へのシステム展開とチェンジ・マネジメントの能力

まさにこの部分こそ、情シス部門のITエンジニアにはできない仕事である。「チェンジ・マネジメント」自体はかなり広い概念だが、新業務運用のための組織化や、新業務手順のマニュアル作成などは、その仕事の一部になる。むろん、ユーザへの教育トレーニング実施もリードしてもらわなくてはならない。

5. データ分析・活用能力

情報システムには、すぐに膨大なデータが蓄積されていく。このデータは(今時のバズワードであるビッグなんとかを持ち出さないまでも)「宝の山」であるはずだ。そのデータを集計し、傾向分析する能力は、ユーザ側においてとても大切である。手法としてはExcelの散布図だって、十分なケースが多い。だが、「データを読む目」はもってほしい。そして、その中から、さらなる改善課題を抽出したいのである。

6. 共通能力

これはユーザ側だけに限ったことではないが、自社の経営戦略・事業戦略の理解、デザイン思考、問題解決力、そして説得力・交渉力などは、誰にも必要なスキルである。

こうしたことを、従来ITエンジニアばかりに要求し、ユーザ側には「日々の業務多忙に埋没」を許してきたことこそ、多くの組織が今日直面している問題の根底にあるのだ・・といったら大げさに過ぎるだろうか。だが、「ITをテコにした業務の改良・改革」は、ユーザ側のITセンスを持ったイノベーターと、IT部門側でプロの経験と力量をもったパートナーとの、二人三脚の仕事であるべきだと、わたしは信ずるようになった。

だから問題なのは「情シス部門の人材の育成」だけではない。むしろ、「ユーザ部門におけるITイノベーターの育成」こそ急務なのではないか。はやく適性のある者を選んで、スキルや技術を身につけさせていかないと、組織が環境変化についていけなくなってしまう。もっとも育成と言っても、世を見渡した限り、あいにくIT分野では情報技術者向けの育成カリキュラムしか、研修セミナーでも書店でも見当たらない。どこか先進的な大学かどこかが、ユーザ部門のIT能力向上のコースを開発してくれないものかと、切に願っている次第である。なければ、いっそ世に浄財を求めて自分で私塾でもつくろうか(^^)

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マネジメントとリーダーシップはどう違うか(2016/01/26)

大学でプロジェクト・マネジメントを週1回教えていることは前にも書いたが、授業は毎回必ず、前回の復習と、学生から出た質問への答えからはじめることにしている。出席シートに質問欄を設けて、そこに気になったことへの質問をかいてもらうのだ。むろん授業でも最後に「質問は?」ときくのだが、だいたいの学生はなぜかその場では質問せずに、紙に書いてくる。

いろいろ出た質問の中から、いつも「本日のBest Question」を選出し、その質問者の名前を明示してほめることにしている。良い質問を考えることは、単に回答を考えるよりも、ずっと価値があるからだ。一般に、マネジメントの問題には正解がない。正解がない中で、自分で考えて決めていかなくてはならない。これは、たくさんの正解を覚えてどれだけ早く答えるかを競ってきた東大みたいなところでは、とくに大切だ。

さて、「マネジメントとは何か」という授業をやった後で、面白い質問があった。印象に残っているので、ここに引用させてもらおう。(以下引用)

Managementの再現性の取れなさ、うさんくささがずっと気になっています。『君にもできるプログラミング』と『君にもできるプロジェクト・マネジメント』という2冊のタイトルを並べてみると、後者の本に頼りなさを感じます。どうして理論が組み立てられているのに、現実の組織はこんなにもうまく機能せず、有能なリーダーはこんなにも稀なのでしょうか? (引用終わり)

とても立派な質問である。本日のBest Question賞にふさわしい内容だ。皆さんなら、どう答えられるだろうか? わたしの答えを読む前に、ちょっとだけ考えてみていただきたい。

わたしが話したのは、こんな内容だった:

「能力には一般に、確定的な能力と確率的な能力があります。成果が確実なものと、成果が環境その他の条件に左右されやすいもの、といってもいいでしょう。プログラミングというのは、前者に属します。知識を得て、一度できるようになったことは、次も必ずできる。ところが、マネジメントというのはそうではない。

それはたとえば、『航海術』というタイトルの本を考えてみれば分かりやすいと思います。教科書を読んで知識を得たからといって、つねに無事に航海できるとは限らない。天候、海象、航路、同乗する乗組員のスキル、船の状態など、さまざまな要因によって左右されます。たとえ同じ路線だろうと、まったく同じ行路をたどることはないでしょう。

では航海術などという本は役に立たないか? そんなことはない。船を操るためには、船の構造、操舵、エンジンの仕組み、海洋の物理、気象、地理と海図の読み方などなど、知るべき航海術の基本がいろいろあります。小さなボートなら、見よう見まねでもなんとかなる。だがちゃんとした大きさの船になったら、センスと勘だけでは正しく動きません。プロジェクト・マネジメントも同じです。」

さて。後半の「有能なリーダーはこんなにも稀なのでしょうか」という質問には、ちょっと注意が必要だ。この質問は、「有能なマネージャーはこんなにも稀なのでしょうか」ではないからだ。マネジメントをする人をマネージャーと呼ぶ。マネージャーが無能なのは、無能な船長が航海術の基本を知らないのと同じで、たぶんマネジメントの基本を知らないのだ。マネジメントは、学ぶことのできる能力だからだ。

だが、リーダーシップは能力だろうか?

『リーダーシップ』は多義語で、経営学でも定義はまちまち、確定した共通定義はない。ただ、リーダーはふつう、同種の人間集団の中から現れ、リーダーシップとは同格の仲間を導くことをいう。

たとえば、少年野球チームのキャプテンは、リーダーである。そして監督がマネージャーだ。リーダー(キャプテン)はいろいろなことを提案したり決めたりするだろう。そして仲間を引っ張るだろう。ところで最終的な指令権も責任も、監督の方にあるのだ。あるいは、オーケストラでいえば、コンサート・マスター(しばしば第一ヴァイオリンの主席奏者)がリーダーで、指揮者がマネージャーである。自主運営面では、コン・マスが皆を引っ張るだろう。しかし演奏では指揮棒に従うのだ。

マネジメントでは、会社の上司部下の関係を思えば分かるとおり、命令が出たら下は従わざるを得ない。もし命令に従わなかったら、懲戒とか減俸とか、あるいはクビを覚悟しなければならない。つまり、マネージャーは部下に対して強制力があるのだ。

ところがリーダーシップの特徴は、フォローする側が主体的に従う点である。チーム員がキャプテンに従うのは、従わないと後が怖いからというより、そうした方が良いと自分で思うからだ。つまり、リーダーが発揮するのは影響力なのである。だが、影響力というのは、能力なのか? 他人が、自主的に判断する結果を、左右できる「能力」というのは、なんだか自己撞着ではないか。

マネジメントとリーダーシップには、もう一つ重要な相違点がある。マネジメントは「システム化」できることだ。ISO-QMSの「品質マネジメントシステム」を見ればよく分かる。ISO9000を好きか嫌いかはさておき、あれが一つの体系(システム)であることに異論を持つ人はいないだろう。そして、このような「システム」は、それに関わる大勢の人たちを組み入れ、いわば束縛する。品質マネジメントシステムは、決して品質管理責任者だけの仕事ではない。

同じように、プロジェクト・マネジメントのパフォーマンスも、決してプロマネ一個人だけで決まるものではない。プロジェクト・マネジメントは組織の能力なのである。組織の中に、どれだけ標準的手順が整備され、ツールが構築され、過去のデータベースが蓄積されているかで、プロジェクトの成否は大きく変わる。

ところが、リーダーシップは基本的に個人に属するもので、「システム化」はそぐわない。

このように見てくると、マネジメントとリーダーシップは、似たような概念のように見えても、じつは随分と違う種類のものだと分かるだろう。異なるレイヤーに属するといってもいい。

ただ、そこには共通するものがある(そうでなければ、両者がしばしば一緒にされる訳がない)。それは、「人を動かす」という部分である。マネジメントも多義語だが、その中核ないし原義は「人に働いてもらって目的を達すること」だ。そしてリーダーシップも、行き先を仲間に示して導くことであり、人を動かす点が共通している。その力の源泉が、強制力なのか影響力なのかが違うのである。むろん、アメと鞭の強制力だけは誰にとっても鬱陶しいから、マネージャーもリーダーシップ的な影響力の行使を期待されるのだろう。図にすると、こんな感じだ。

ところで、マネジメントとリーダーシップを調べたり論じたりする際に、注意すべき事がある。それは、米国ではマネジメントよりもリーダーシップの方が、ずっと高尚でポジティブに受け取られる傾向が強い点だ。だから米国では、「マネージャーであるより、リーダーであれ」といったたぐいの警句や格言が、とても多い。「リーダーは方向性を示す。マネージャーは示された方向性を実現するだけ。」とか、とにかくこの種の言い方はきりがないほど氾濫している。

米国以外の、英国を含む欧州ではあまりこうした傾向が強くないところを見ると、どうやら、これは米国特有の、文化的なバイアスらしい。これがなぜ生まれたのかは、わたしには定かではない。ただ、米国の経営学は世界で指導的地位にあるから(つまり「リーダー」だから)、その「影響力」は他の国の経営学にも時々見られる。とくに、米国からの学問成果の直輸入を尊ぶ国で、それは著しい。

もう一つ。マネジメントは、基本的にマネージャーが第一に持つべき職能である。ところが、リーダーシップは、必ずしもリーダーだけが体現すべきものではない。リーダーシップ概念が多義語ながらも包含しているもののなかには、
・自発的な強い意思を持つ
・他者を動かし、世界を変えられると信じる
・ゴール地点を決めて人を導く
といった思考と行動の習慣がある。

こうした部分は確かに有益だし、それはリーダーの地位にいなくても、いや、集団を構成する全員が、身につけるべきことだとも言えるだろう。自主性を持つこと、変化への意思を持つこと、人を動かす能力を持つことは、生きていく上で誰にも必須のスキルだからだ。とくに、市場経済も企業組織も巨大化し二極分化が進む今日、「その他大勢」として生きる我々にとって、とても重要だ。マネジメント能力がいわば航海術だとすれば、人々のリーダーシップはエンジンなのだ。風雨の激しいときは、しっかりしたエンジンが必要である。

では、そのようなリーダーシップを、教え育てることはできるのか? わたしはできると思うし、本当は初等教育の時から必要だと思う。それも、すべての人に対して必要だろう。世間では、リーダーシップ教育は、傑出したリーダー候補だけに授ける「帝王学」みたいな意味づけをしがちだが、それは違うと思う。(まあ、「世の中には生まれつき少数の優秀な人間と、命じられて動くだけの多数の馬鹿がいる」、という信念の人は同意するまいが)

ただし、リーダーシップのトレーニングは、知識伝授的な教育ではむずかしい。知的能力だけの問題ではないからだ。また、点数付けによるランキングにもなじまないだろう。つまり、今の学校教育(≒受験教育)の枠組みにははまりきれない、ということだ。

では、どこで、誰がやるのか。それは公的な教育システムの外側、共同体とか、私塾とか、そして社会の組織の中でやるしかない。リーダーシップはソフトスキルの典型であり、その育成には手間と時間がかかる。

でも、通常は組織の中のフォロワーの立場にいても、全員がきちんとリーダーシップを持ち、いざというときはリーダーにかわってチームを引っ張れるようなチームこそ、本当に高いパフォーマンスを出せる組織だろう。そういう場所では成員は、決して無責任な決断も発言もしないだろう。つねに「自分がリーダーだったら」という視点で考えることができるからだ。スーパーリーダーがその他大勢を動かす組織よりも、各人が自律的に動ける組織こそ、わたし達の組織文化にフィットするのではないかと、わたしは思うのである。

<関連エントリ>
 →新任リーダー学・超入門(2) マネジメントとリーダーシップというコトバに気をつけよう! (2011/06/12)

 →リーダーシップを浪費する組織 (2012/12/15)

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変わりたいですか?(2016/01/04)

変わりたい、と思ったことはおありだろうか? 今の自分から脱皮したい、殻を割って変わりたい、“あの人は変わったね”と他者からいわれたい、と切実に思ったことは?--わたし自身は、もちろん何度もある。年の初めにあたって、今年こそは、と決心したことも一度や二度ではない。もしかしたら、新年にあたり、同じような抱負や希望を考えた人も多いのではないかと思う。

では、「あの人は変わったな」と感じた経験はあるだろうか? 他人を見て、ああ、あの人は以前と比べて随分変わった、そんな風に思ったことは? その場合、ふつうは外見とか職位とかの変化ではなく、内面やふるまい方のちがいを指すはずだ。髪型を変え新しい衣服を着たって、あるいは新しい名刺を振り回したって、それで他人から変わったと思われることは少ない。むしろ、話す内容が変わったとか、ふるまい方が随分ちがうとか、そうしたときに人は変化を感じる。

もちろん、「あの人は変わったな」にも裏表の両面がある。良い変わり方と、まずい方への変化だ。「アイツも変わっちまったなあ」には、あまり感心しない響きがある。でも、「アイツは変わったなあ、見ちがえたよ」なら、良い変化に違いない。だれだって、良い方に変化したい。

それはつまり、成長したい、ということだ。

昨年の秋に久しぶりに上梓した新著は、『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』という、まあそれなりに気宇広大な、というかちょっと大げさな(笑)タイトルがついている。このタイトルは出版社からいただいたもので、執筆の段階では、副題にある『チャレンジのOS』という仮のタイトルで呼んでいた。プロジェクト・マネジメントでは、知識(コンテンツ)や技法(アプリケーション)なども大切だが、その底にある思考体系や行動習慣(OS)のレイヤーが一番重要だ、という考えを多くの方に伝えたかったからだ。

人が成長するには、新しいことにチャレンジしなければならない。チャレンジだから、成功することもあるが失敗の可能性もある。しかし失敗を怖れ、守りに入るだけでは、人は成長できない。ちょうど、スキーやスケートは、転ばずには上達できないように。

絶対転ばないためには、滑らないことだ。滑らなければ、うまくなるわけはない。だから、転ぶことを覚悟で滑ってみるしかない。ただ、へたに転ぶと怪我をする危険がある。だから、スキーやスケートでは、最初に安全な転び方を徹底的に教える。そして転んだら、なぜ転んだのか、どんなときに転びやすいかを考える。これがスキーやスケートを学ぶための「OS」の大事な一部である。

成長とは、能力を得ることである。できなかったことが、できるようになる(できる確率が上がる)ときに、人は成長を実感する。では、成長するためのカギとは何か。小さな子どもは、放っておいても無我夢中で成長する力がある。なのに大人になると、その勢いが薄れる。ならば、大人にとっての『成長ホルモン』とは何なのか。

ついでにいうと、わたし自身はもう、けっこういい歳にもなったので、部下や後輩の成長にも同じくらいの関心を持たねばならない立場だ。そこで必須なものは何なのか?

これに関して、新著を出す半年ほど前になるが、ある方からメールで質問をいただいたことがある。その方は職場における育成について研究をしておられ、たまたまこのサイトに2年前に書いた「プロジェクト・マネジメントの教育について」(2014-01-27)をよんでメールを寄せられた。質問は、「『入職後、人が成長する』ということの定義をどうすればよいのか、『自分でふり返ってみて《成長した》と思えること』とは、いったい何を見ているのでしょうか?」というものだった。そこで、ふりかえりをかねて、その時に書いた返事を、少し長くなるが引用してみたい。

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メールどうもありがとうございます。拙サイト、楽しんでよんでいただければ何よりです。

さて、ご質問の件ですが、成長という言葉は、「成長ホルモン」に代表されるように、非常に幅広い分野で様々に使われています。したがっておっしゃるように、研究を進められる際には『成長』なる語で何を意味しているか、明確にする必要があります。

わたしの場合、サイトにも書きましたように、成長とは能力を増大することだと考えています。今ある能力を伸ばすこと、あるいは新しい能力を獲得すること、です。

では『能力』とは何か。能力とは、「意識・無意識に期待された成果を、繰り返し達成できる度合い(または成功の確率)で測られる」、と定義しています。能力の中には数学的能力のように確定的で、つねに再現可能なものもありますが、確率的なものもあります。

たとえば昨日はヒットを打てた。今日の試合では打てなかったけれど、今シーズンを通せば2割5分の打率になっている。これが今の能力です。昨シーズンは1割9分だった。だから自分は能力が高まり、成長したと言えるわけです。あるいは、これまでホームランを一度も打てなかった人が、はじめてホームランを飛ばした。これも成長かもしれません(まぐれ当たり、という可能性もありますが)。

もう少し堅苦しくいうと、能力とは、ある資源の状態(比較的長期的・永続的な状態)を表します。その資源を構成する諸要素資源の組織化の度合いと、それを動かす制御系統の働きが、目的に合致して整合的かつ緊密である状態を示します。また、その状態がつねに維持保守され新陳代謝・再生されていることも補足的条件です。こう定義すると、チームや組織としての能力も考えることができます。ちなみにHuman resourceという言葉があるように、人間は典型的な資源の一種です(経営工学的には)。

個人の能力を構成する要素としては、知識・感覚(センス)・身体的スキル・創造性などがあります。一人前のプロフェッショナルには、このいずれもが必要なことはおわかりでしょう。またこれ以外に、個人の能力を向上する手立てとして、「技術」があります(ツールやシステムは技術に属します)。通常、これらの要素は組み合わさっており、たとえば医師ならば「内視鏡という技術と、それを使いこなすスキル、そして検査に関する知識」がバランスして、はじめて能力が発揮されます。そうなることで『成長』が実感できるのです。

そして、他者の能力を高める方法として、知識の伝達と、技術の移転があります。ちなみに知識は、さらに辞書的知識と経験知に分けることもできます。この中で、他者が言語的に伝達可能なのは辞書的知識だけです。これ以外の要素であるセンスやスキルや創造性は、自分で主体的に獲得するしかありません。ですから、あとは環境と練習台を提供して、自発的に『学ぶ』ことを助けるしかありません。そのためにプログラムや場や報酬系が必要なことは、サイトに書いたとおりです。

というわけで教育では、教える側の努力と、育つ側の「学ぶ力」のかけ算によって、成立します。ただ、一点注意すべき事は、職場では先輩の側が、たとえ職務面では高い能力を持っていたとしても、「教える能力」がないと、ちゃんと伝わらない点です。わたしはエンジニアですが、技術訓練は受けたものの、「教える能力」の訓練は受けた記憶がありません。ここがボトルネックになって、育成がうまく進まないケースは、案外多いのではないかと思っています。

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相手が研究をされている方だったので、つい理屈っぽくカッコつけて書いてしまったきらいはあるが、いいたいことは二つである。
「成長とは自分の能力、すなわち成果の達成度合いが高くなること」
「他者を育成するには、知識の伝達と技術の移転が必要だが、とくに後者は学ぶ側の主体性が大切」

である以上、自分が変わりたい・成長したいと願うなら、誰かによって「変えてくれる・育成してくれる」と受動的に白馬の王子の助けを待っているだけでは、決して実現しないわけだ。同様に、何か知識を「知る」だけでは変われないことが分かる。知ったらそれを、練習し試してみる場が必要なのだ。この『』というのは、空間的な場所の意味もあるが、むしろ励まし合う仲間とか環境という面が大きい。転んでも助け起こしてくれる、そういう場である。

以前書いた記事を補足しまとめると、自分が成長するためには、以下の7つのことが必須であるとわかる。

1 優れた先生につく、あるいは良い手本やロールモデル(なりたい姿)を見つける
2 学ぶための姿勢や習慣を身につける(=チャレンジのOS)
3 対象とする専門能力について、基本的な原理原則の知識を得る
4 繰り返し練習し、あるいは真剣勝負にチャレンジする
5 自分の経験(失敗を含む)から学ぶ
6 互いに応援しあう仲間と良い環境を得る
7 学びの途中で、まだ成果の出ない自分を支える、報奨系を持つ

まあ、世にある道場とか運動部とかは、こうしたことを無意識に知っていて、サポートする仕組みなのだろう。ただ、そうした場も、競争意識が強すぎたり精神主義になりすぎたりすると、十分には機能しなくなる。

ひるがえって、企業の場はどうか?

一番むずかしいのは、4の練習の場を提供することだろう。練習には、失敗がつきものである。だがOJTと称して、実地の場しか与えないと、仕事で失敗させることができなくなる。失敗する前に先輩や上司が手を出してしまうか、ないしは失敗しそうな仕事はそもそも任せなくなるか、二つに一つだ。そうでなくとも、OJTではちょうど良い機会に、ちょうど育成に向いた仕事が来るとは限らない。

わたしが、自分の主宰する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」で、新しくPMの自己育成のためのツールを共同で作ろう、と発案したのはこのためである。プロジェクトの状況を把握・分析し、その評価・シミュレーションを行い、自分の決断を複数人との協業の中で検証できるツール。まだ漠然とした構想の段階でしかないが、こうした道具立てと場を、研究部会で持てたらいいと思うのだ。

これまで、研究部会では外部講師を招いて、ためになる知識を勉強してきた。それはそれで大事だから続けていくが、もっと参加者にとって実質的な、実になること、成長のきっかけになれること??そんな機会を少しでも提供できる場にしたいと思う。

・・これが今年の、わたしの抱負の一つなのでした。

<関連エントリ>
 →「プロジェクト・マネジメントの教育について」(2014-01-27)

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