大生命の確信          2004年5月2日 寺岡克哉


 自分個人の生命が不幸で無意味だとすれば、あらゆる他の人間個人の生命も同
じように無意味なわけだから、そんな無意味で不合理な個人を数限りなく寄せ集め
てみたところで、一つの幸福な理性的な生命をも作ることになるまい。
                         (人生論 第6章  トルストイ 新潮文庫)


 私はもう15年ぐらい前から、トルストイのこの言葉と戦ってきました。私はどうして
も、「生命の存在を意味のあるもの」にしたかったからです。
 私が「大生命」の考え方にたどり着いたのも、実はその戦いの過程においてでし
た。(大生命についての話を知らない方は、エッセイ1、19、20、21、22などに、
さっと目を通して頂ければ幸いです。
 そして今ようやく、「大生命」が頭の中の概念としてだけではなく、その存在を心の
底から確信できるようになってきたのです。やっと、このトルストイの呪縛の言葉か
ら解放されそうです。

 ところで、上のトルストイの言葉について私なりの補足をしますと、次のようになり
ます。
 人間個人の生命は、結局、最後には必ず死んでしまいます。
 そして死ねば、すべてが無に帰してしまいます。
 お金、土地、家、車、貴金属、装飾品。
 名誉、業績、地位、権力。
 あるいは、子供、家族、恋人、仲間、友人・・・。
 これら、自分の生きている間に得たものの全てが、自分が死ねばすべて無に帰し
てしまいます。だから結局、「生きることは全て無意味だ!」という結論になってしま
うのです。
 そしてさらに、「生きること」は苦しみの連続です。
 病気、怪我、貧困、暴力、殺人、戦争、ありとあらゆる競争や闘争、別れ、死別、
・・・。これら、「生きることの苦しみ」を数え上げたらきりがありません。
 つまり人間個人の生命は、生きるために苦しめられるだけ苦しめられ、そのあ
げくの果てに最後に死んでしまい、ただの「無意味」となってしまうだけなのです。
 そんな不幸で無意味な生命を、いくらたくさん集めてみたところで、「意味のある
一つの生命」などできる訳がない! というのが、上のトルストイの言葉なのです。

 「大生命」の考え方は、これに真っ向から対抗するものです。
 なぜなら「大生命」は、地球の生命全体で、永遠で不滅の「一つの生命」を作って
いるという考え方だからです。
 つまり、個々の生命は不幸で無意味かもしれないけれど、しかしそれら全体が集
まることによって、「意味のある一つの生命」が作られているという考え方なのです。

 しかしながら、個々の生命が「無意味」であるのに、それらをただ集めるだけで、
本当に「意味のある一つの生命」が作られるのか? という疑問が、ずっと頭のすみ
にこびりついて離れなかったのです。

 しかし私は、次のことに思い至ったとき、その疑問が氷解したのです。
 それは、人間は「原子」から出来ている! ということでした。
 人間の体は、水素原子、酸素原子、炭素原子、窒素原子などの「原子」から作られ
ています。つまり「人間」とは、「原子の集合体」にすぎないのです。
 そして原子とは、「生命」というものを全く持たない、「完全に死んだ物質」です。

 しかしながら、それらの「完全に死んだ物質」がたくさん集まることにより、人間とい
う「一つの生命」が作られているのです。
 生命のまったく存在しない「ただの物質」から、「生命」という全く新しいものが作ら
れているのです。
 「生命」とか、あるいは「意識」や「意志」といったものは、もともとそれらの特質を
まったく持たない原子が「たくさん集まること」によって新しく生まれた、まったく新し
い特質なのです。
 このように、個々のものにはその特質がまったく存在していなくても、それら
がたくさん集まることによって、「まったく新しい特質」が生まれるのです。

 そしてそれは、素粒子と原子の関係や、原子と分子の関係、分子と高分子、高分
子と細胞、細胞と人間、そして、脳細胞と意識や思考の関係など、いろいろな場所
で見られる現象です。だからこれは、ふつう一般に存在する自然現象なのです。

 このことに思いが至ったとき、私は「大生命の存在」を、本当に心の底から確信す
ることが出来ました。
 たしかにトルストイも言っているように、私たち個々の生命は、いづれ必ず死んで
消滅してしまう、不幸で無意味な存在かもしれません。
 しかしそれらがたくさん集まることによって、無限に進化し、無限に発展することの
できる、永遠で不滅の「意味のある一つの生命」が、たしかに作られているのです。

 そしてまた、そのことによって逆に、私たち個々の生命も不幸で無意味な存在では
なくなるのです。
 なぜなら、「原子」が存在しなければ「人間」も「生命」も存在できないように、私た
ち個々の生命が存在しなければ、「大生命」も存在することが出来ないからです。

 「大生命の存在」を心の底から確信すれば、私たち個々の生命は「無意味」
から救われます。
 つまり、私たち個々の生命の存在に「意味」が生じるのです!

 そして、たとえ私たち個々の生命に「生きるための苦しみ」が存在しても、
それが不幸でなくなるのです。
 なぜなら、「無意味な苦しみ」ならば不幸ですが、「意味のある苦しみ」は不幸
ではないからです。



 (最後に誤解のないようにお断わりしますが、トルストイも、生命を意味のあるもの
にしようとして論じているのです。最初に挙げたトルストイの言葉は、その問題提起
に相当する所なのです。それは、トルストイの人生論の全体を読んで頂ければ分か
ります。)



                  目次にもどる