金と神             2004年5月30日 寺岡克哉


 「お金」と「神」は、じつに良く似ていると私は思います。

 こんなことを言うと、神を信仰する人たちからは、「お金と神を同列に並べて比べ
るとは何ごとだ!」と、お叱りを受けるかもしれません。

 また、神の存在をまったく信じない人たちからは、
 「なぜ、お金が神と似ているのか?」
 「お金は確かに存在するけど、神など信仰の産物ではないか!」
と、言われてしまいそうです。

 しかしながら、「お金の価値」に何も疑問を感じないのも、一種の「信仰」に近いと
私は思うのです。
 なぜなら「お金」とは、本当は「単なる紙切れ」にすぎないものであり、「実際の価
値」など存在しないからです。
 しかしそれでも、便宜的に決めた「架空の価値」をみんなが信用するので、色々な
品物が買えるのです。それで、お金のことを「信用貨幣」というのです。
 私は正確なことを知りませんが、たとえば造幣所で1万円札を1枚つくるのに、
たぶん10円以下の費用しか、かかっていないのではないでしょうか。1万円札の、
架空ではない「実際の価値」は、きっと10円以下だと思います。

 また、「お金」に実際の価値が存在しないことは、例えば、もしも遭難や大災害など
で食料が欠乏し、自分も周りの人々も餓死寸前の状態に陥ったときは、お金などと
いう「単なる紙切れ」と、「本物の食料」とを交換する訳がないことからも分かります。
 そして、これは食料品だけに限らず、衣料品や医薬品についても同様です。生活
物資が本当に不足してくれば、物資と物資の交換はありえますが、お金と物資を交
換するはずがないのです。
 それは、物資には実際の価値が存在しますが、お金には実際の価値が存在しな
いからです。

 またあるいは、もしも造幣所が無制限に紙幣を作ったら、お金の信用を失って本当
に「紙切れ同然」になってしまいます。
 これは単なる想像上の話ではなく、第一次世界大戦後のドイツで実際に起こりまし
た。このときのドイツでは、1兆倍のインフレ、つまり1兆円が1円の価値しかなくなっ
てしまったのです。

 このように「お金の価値」というのは、「神」と同じように「信仰の産物」なの
です。

 「お金」も「神」も、絶対的とも言えるようなその価値を人々が信じるからこそ、力を
発揮するのです。もしも人々がその価値をまったく信用しなくなれば、「お金」も「神」
も、その力をまったく失ってしまうのです。

 ところで・・・ 現代社会に生きる多くの人々が、お金を「生きる拠り所」にしてはい
ないでしょうか?
 これも、「お金」と「神」の良く似ているところです。
 たとえば、生命を維持するのに十分な衣食住が確保されているにもかかわらず、
 「常にお金を稼いでいないと生きていけない!」とか、
 「お金のために、人生や命を捧げても悔いはない!」
と、思い込んでしまう人々はいないでしょうか?
 このような思いに取りつかれる人たちは、お金を「単なる生活の手段」とは考え
ず、自分の「生きる拠り所」にしているのだと思います。つまり、常にお金を稼いで
いないと「自分の生きる意味」を失ってしまい、それが不安でしょうがないのです。
 これは、
 「つねに神とともに在らねば生きていけない!」とか、
 「神のために、人生や命を捧げても悔いはない!」
というのと、まったく同じような精神構造になっていると思います。

 ところでまた、「神の存在」は科学的に証明できませんが、じつは「お金の価値」
というのも、科学的にはまったく証明できません。
 たとえば1万円札をいくら科学的に分析しても、
 「重さは何グラムだ」とか、
 「面積は何平方センチだ」
 「紙の主成分はセルロースだ」
 「インクの成分はこれこれだ」
という結果が得られるだけで、1万円札がなぜ1万円の価値があるのかは、絶対に
証明することが出来ないのです。
 このように、「科学的な証明ができない!」というところも、「お金」と「神」は良く似
ています。

 しかしながら「神」の場合は、「論理的に存在しなければならない根拠」というのが
あります。
 たとえば宇宙万物を作ったもの。宇宙全体を貫く自然法則。在るもの全てを在ら
しめるもの。「神」はそのような存在として、論理的にその必要性が要請されるの
です。
 なぜなら、この宇宙全体を今在るような状態にするためには、「この宇宙全体を
今在る状態にしている何ものか(宇宙全体を貫く自然原理としての神)」の存在が、
論理的にどうしても必要だからです。

 ところが「お金」にはそれがありません。お金は、人間がまったく便宜的に決めた
「単なる約束ごと」にすぎないからです。
 「お金」には実用的な利便性があるだけで、自然界から要請される論理的な必要
性がないのです。
 このような意味では、「神」の方が「お金」よりもまだ、「実在しなければなら
ない根拠」があると言えます。


 ところでまた、「異教徒の神」と「外国の紙幣」の関係も、よく似ているところがあり
ます。
 たとえば、ある宗教の神を信仰する人々は、自分たちと違う宗教の神を信じよう
としません。自分たちの信仰しない神は、自分たちに影響力を及ぼすことがなく、
そのような神は「存在しないのも同じ」なのです。

 「お金」も、実はこれと同じような関係になっています。
 自分たちが信用しているのとは違う紙幣、つまり外国の紙幣は、日本ではまった
く使うことが出来ません。
 特に、日本で円と交換することが出来ないような、たとえば発展途上国などの紙幣
は、日本では本当に「紙切れ同然」です。

 以上お話してきましたように、「お金」と「神」は、たいへん良く似たところが多々
あります。それは両方とも、その価値を信じること、つまり「信仰の力」によってその
存在が支えられているからです。

 「お金が存在するのは当たり前だが、神など存在する訳がない!」とか、
 「お金に価値があるのは当たり前だが、神に存在価値などない!」
 「私の人生には、お金さえあれば神などいらない!」
などと、何の疑問もなく絶対の自信を持って豪語する人たちは、一種の宗教(あえ
て名づけるなら拝金教)に取りつかれているような気がしてなりません。



                 目次にもどる