すべてを神に任せるとき  2004年10月31日 寺岡克哉


 私は、何でも自分の思い通りに行かないと満足できません。何でも自分の予定し
た通りに行かないと、とてもイライラしてしまいます。それはエッセイ134でお話した
「100点主義」が、まだ払拭しきれていないからです。

 しかしながら私は、人生において「もはや自分の力ではどうにもならない!」
思い知らされたことも、今まで何度かあるのです。
 そのようなとき私は、体のよけいな力が抜け、焦りや不安が消えさり、なにか暖か
な空気に全身が包まれて、心も体もたいへんリラックスした状態になりました。
 そして、
 「もはや私にはどうすることも出来ません。」
 「すべて神にお任せします。」

という気持ちになったのです。

 今まで何回かそのような体験をしたのですが、今回はその一つについてお話して
みたいと思います。

                 * * * * *

 それは今から21年前、私が大学2年生のときでした。そのころ私は、大学の山岳
部に入って2年目になっていました。
 夏山での岩登りや、冬山登山をひととおり経験し、山登りに対して自信を持ちはじ
めるころでした。まだ大きな失敗を経験したことがなく、恐いもの知らずで功名心が
とても旺盛になる時期です。

 その年の夏山合宿の岩登りで、「むずかしい岩壁に挑戦しよう!」という話になり
ました。たしか北アルプスの黒部にある、「丸山東壁」という岩壁だったと思います。
600メートルの垂直な壁がそびえ立つ、岩登りではとても有名な場所です。

 その岩壁には、先輩と私と私の同輩の、3人のパーティで挑戦しました。
 しかし登り始めてから15時間たっても、150メートル(岩壁全体の4分の1)しか登
ることが出来ませんでした。それで仕方がなく、途中で撤退するはめになってしまっ
たのです。

 撤退の直接の原因を作ってしまったのは、じつは私でした。
 私が、オーバーハング(岩がせり出し、天井のように覆い被さっている場所)を登っ
ている途中で、ロープ(厳密にはロープで作った「あぶみ」という3段はしご)に足が
からまり、逆さ吊りになって身動きが出来なくなったのです。
 私はその状態で、40分ぐらい悪戦苦闘をしていました。しかし体力と精神力が消
耗し、精も根も尽き果ててしまいました。
 しかもそのとき、岩壁を登り始めてからすでに15時間もたっていたのです! それ
だけでも体力はずいぶん消耗していました。
 だんだんと日も暮れてきました。しかし私たちは、岩場で宿泊する装備を持ってい
なかったのです。

 先輩の判断でそれ以上登るのをあきらめ、ロープを使って下降(懸垂下降)をする
ことに決まりました。
 下降の途中で完全に日が暮れ、真っ暗になりました。ヘッドライトを点灯していると
はいえ、ロープで下降した先にテラス(足場)があるのかないのか全く見えません。
その中をロープで下降して行くと、真っ暗な暗黒の中に吸いこまれて行くような感じ
がしました。

 そのとき私は、
 「ああ、私の立ち入ってはならない所に来てしまいました。」
 「願わくば、どうか生きて帰らせて下さい。」
と、心の中で神に祈っていました。

 しかし不思議なことに、そのとき私は「死への恐怖」をまったく感じませんでした。
「生きたい!」という気持ちも、「死にたくない!」という気持ちも、全くありませんでし
た。心がパニックになっていた訳でもありません。
 妙に心が落ちつき、焦りや不安がまったくなく、よけいな体の力が抜けていました。
そして全身が、なにか暖かい空気や、優しい雰囲気に包まれているような感じがし
ました。とても安らかで充実した気分です。
 それは、体力や精神力が尽き果てていたからかも知れません。体力や精神力を
あまりにも消耗すると、緊張や恐怖さえも感じることが出来なくなるのです。
 またあるいは、現実逃避によって心がどこか別の世界をさまよっていたのかも
知れません。

 「神が私の命を持っていかれるのならば、それはそれで仕方がありません」という
気持ちでした。しかしながら、「願わくば、生きて無事に帰らせて下さい」という気持ち
もありました。
 やはり、「私が生きるも死ぬも、すべて神にお任せします!」というのが、その
ときの心境にぴったりだったと思います。

 幸運にも私たちのパーティは、だれも怪我をすることなく無事に下山できました。
もちろん、先輩の冷静な判断と行動、そして細心の注意をはらって下山したことが
幸いしたのです。
 しかし私としては、「なにか大いなるもの(神)に守られていたので助かった!」と、
とても強く実感したのも事実です。



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