「生きること」と「苦しみ」   2004年11月14日 寺岡克哉


 「生きること」と「苦しみ」は表裏一体です。
 生きていれば、必ず苦しみが存在します。
 これは、一つの「生命の真理」であるような気さえします。

 「苦しみ」を消滅させようと思ったら、たとえば「世捨て人」のような生活をして他人
とのコミニュケーションを断ち切り、自分一人の世界で無念無想に励まなければな
りません。
 そして、あらゆるもの(自分が生きることさえにも)興味や欲を持たず、何も考え
ず、感情を持たず、何も見ず、何も聞かず、じっとしていなければなりません。
 つまり、「完全な無関心」や「完全なニヒリズム」を徹底し、自分が生きているのか
死んでいるのか分からないような、虚無的な状態にならなければなりません。
 しかしそれでも、意識が少しでも存在すれば「苦しみ」を感じることがあるでしょう。
それをも完全に消滅させるためには、意識不明の昏睡状態になるか、死ぬしか
ありません。
 このように、「人間らしくいきいきと生きること」と「苦しみ」は、切っても切れない関
係があるように思えます。人間らしく活動的に生きようとすれば、どうしても「苦しみ」
が存在してしまうのです。

                 * * * * *

 生きていれば、ある程度の苦しみは避けられません。
 しかしだからと言って、「生きることは苦しみなのだから、これ以上生きていても
仕方がない!」という考えには、私は賛成できないのです。このような「生きることの
否定」と戦うために、私はエッセイを書き続けているぐらいです。

 私は、苦しみは「生きることを否定するため」にあるのではなく、「生きるため」に
あると考えています。
 人間が健康的に生命を維持するため。
 人類という種族を絶やさないため。
 人間がより良く生きるため。
 このようなことのために、「苦しみ」は存在していると思うのです。

 たとえば、飢えや渇き、暑さ、寒さ、疲労の苦しみは、自分の生命を健康的に維持
するためにあります。怪我や病気の苦しみも同様です。もし、怪我や病気をしても
少しも苦しくなかったら、それらを直そうとせずに死んでしまうからです。

 恋人ができなかったり、失恋したり、結婚しても子供ができなかったり、愛する子供
を死なせてしまったときの苦しみは、「種族を絶やさないため」にあります。
 恋人ができなくても苦しみを感じなければ、異性を求めて子孫を残そうとしないで
しょう。また、愛する子供が死んでも少しも苦しくなければ、わざわざ手をかけて子供
を守り育てようとはしないでしょう。
 愛する家族や親しい仲間が傷ついたり、病気になったり、死んだりすれば苦しみ
ますが、その苦しみも「種族を絶やさないため」にあります。このような苦しみが存在
するからこそ、人間どうしが協力し合い、助け合うことができるのです。
 (このような意味では、「愛」と「苦しみ」も表裏一体の関係にあります。愛するから
こそ、愛する者が苦しんだり死んだりすれば自分も苦しむのです。しかし私は、「愛」
の存在を否定しません。愛こそが、人間に「真の生きる喜び」を与えるからです。)

 そして、暴力、虐待、差別、殺人、テロ、戦争・・・ 。
 これらに苦しみを感じなかったら、愛や慈悲の心を育てて広めたり、平和や平等を
求めたりはしないでしょう。そしてすべての人間がお互いに殺し合い、人類はとっくの
昔に絶滅していたことでしょう。

 また、「生きる目的」や「生きる意味」が見い出せなかったり、「自分は社会の役立
たず者だ!」などと感じてしまうと苦しみますが、それは「自分の生命をより良く生か
すため」にあります。自分の生命の可能性を最大限に発揮させるために、そのよう
な苦しみが存在するのです。

 以上から私は、苦しみは「生きるのを否定するため」にあるのではなく、「生きるた
め」にあると考えます。
 自分の生命を維持し、種族を絶やすことなく、人間の可能性を最大限に引き出す
ために、苦しみが存在するのです。
 もしも苦しみがまったく存在しなかったら・・・ たとえば「死への恐怖」という苦しみ
も存在しなかったら、人間は生きようとさえしないのではないでしょうか。

                 * * * * *

 ところで私は、「苦しみは進化する」と考えています。

 たとえば、紛争や戦争が終結して平和になり、「殺される恐怖の苦しみ」が取り除か
れたとします。しかし生活物資が不足していれば、「困窮の苦しみ」が生じてきます。
 そこで産業や経済を復興させ、生活物資を充足させて「困窮の苦しみ」が取り除か
れたとします。しかし今度は、「怪我や病気の苦しみ」をつよく感じはじめます。
 さらに科学や医療技術を進歩させて、怪我や病気の苦しみの大部分が取り除かれ
たとしましょう。(それが今の日本の姿だと思います。)
 すると今度は、
 「生きる目的や、生きる意味がまったく見い出せない!」
 「なんのために生きなければならない!」
 「なぜ、死んではいけない!」
というような苦しみが生じてくるのです。
 平和になって殺される心配がなく、飢えや寒さや困窮の心配もなく、怪我や病気の
心配もないのに、「苦しみ」が生じてしまうのです。このように「苦しみ」は、取り除い
ても取り除いても新しく生じてしまいます。

 しかし私は、「古い苦しみ」に比べたら「新しい苦しみ」は、「高度に進化した苦しみ」
だと考えたいのです。
 たとえば戦時中を生き抜いてきた人たちは、平和な戦後の人間の苦しみなど「甘え
に過ぎない!」としか感じられないのではないでしょうか?
 また、戦後の高度経済成長を支えてきた「企業戦士」や「仕事人間」たちには、現代
の引きこもりやニートの苦しみなど、「甘えに過ぎない!」としか感じられないのでは
ないでしょうか?
 しかしながら、戦時中の「殺される恐怖の苦しみ」や、戦後復興期の「困窮の苦しみ」
に比べたら、現代の「生きる目的や生きる意味が見い出せない」という苦しみは、
「高度に進化した苦しみ」のように私には思えます。
 生命の安全や、衣食住の充足を求めるというような「動物的な苦しみ」から、生きる
意味や精神的な充足を求めるというような「人間的な苦しみ」へ、苦しみの質が高度
になって来たのではないでしょうか。

 しかし、昔の貧しかった時代には人々が助け合って生きていたのに、豊かになった
現代において「人を殺してみたかったから殺した」とか「幼児や児童への虐待」などの
ような、「進化に逆行した苦しみ」も新しく生じています。
 また、産業や経済の発展で、公害や自然環境破壊などの苦しみも生じています。
 そして残念ながら、世界に目を向ければテロや戦争などの、「時代に逆行した苦し
み」も依然として生じています。
 だから、新しく生じた苦しみのすべてが「高度に進化した苦しみ」ではないのも事実
です。
                * * * * *

 しかしとにかく、人間は生きている限り、苦しみからは逃れられません。
 苦しみを取り除いても取り除いても、「新しい苦しみ」が次々と生じてきます。
 しかしそれは、人間がより良く正しく生きるために与えられた、「人間の能力」だと
私は考えたいと思います。



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